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静岡地方裁判所 昭和44年(タ)7号 判決 1971年2月12日

原告 桜木雪子こと朴京華

被告 朴伯以こと朴伯達 〔いずれも仮名〕

主文

原告と被告とを離婚する。

被告は原告に対し金二〇〇万円を支払え。

原告その余の請求を棄却する。

訴訟費用は四分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

一、当事者の求める裁判

(一)  原告

「原告と被告とを離婚する。原被告間の二女朴昭子、三女朴花子、四女朴君子、五女朴弘子、六女朴良子の各親権者を原告と定める。被告は原告に対し金三〇〇万円を支払え。被告はその財産を原告に分与せよ。訴訟費用は被告の負担とする」との判決。

(二)  被告

本案前の申立として、「本件訴を却下する」との判決。

本案について「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決。

二、原告の主張

(一)  原告と被告は昭和一九年三月一九日佐賀県唐津市において結婚式をあげ、同年一〇月四日婚姻届出をした。その後二人の間に長女和子、二女昭子、三女花子、四女君子、五女弘子、六女良子をもうけた。

被告は原告と結婚後唐津市内で古物商を営み、夫婦協力して商売に励んだので、生活も次第に楽になつた。

(二)  ところが被告は昭和三五年末ごろから当時唐津市内に居住していた山川妙子こと慶妙子と親しくなり、原告にかくれて情交関係を結ぶに至り、ついに昭和三六年三月ごろ、原告や子供たちを捨てて、右慶妙子と共に大阪に逃亡した。

(三)  その後原告は廃品回収業をしながら独力で六人の子を養つていたが、昭和三七年三月に至り、被告が大阪府高槻市内に住んでいることがわかつたので、子供を連れて高槻市に行き、被告を探しあて、一時被告と共に同市川西町に居を構えた。

しかし被告は原告を嫌い、同年五月ごろ再び慶妙子を伴い、原告らを置去りにして静岡市に来り、同市二番町に居宅を定め同棲するに至つた。

そのため原告は生活に窮し、長女和子と共に高槻市の加藤セロフアン株式会社に女工として雇われ、幼い子供たちを育てながら苦しい生活を続けてきた。

(四)  昭和四三年三月ごろ被告らの住所がわかつたので、原告は同年三月二三日に六人の子を伴い静岡市に転入し、被告と面会したが、被告は慶妙子と別れて原告らと暮すことを肯んじないので、やむなく同市秋山新田に借家し、長女和子、二女昭子らと共に小さな飲食店を開業し、未成年の子供を養育しながら、貧しい生活を送つて現在に至つている。

(五)  このような次第で、被告は不貞な行為を重ね、かつ原告を悪意をもつて遺棄したものであるから、原告と被告とを離婚する旨の裁判を求める。かつ長女和子を除く未成年の子五名の親権者としては、右に述べたような事情から、原告を指定するのが相当である。

(六)  原告は前記の如く、生活苦とたたかいながら独力で六人の子を育ててきた。これに反して被告は相当な資産を貯え、愛人と裕福な生活を送つている。

さらに原告が被告の不貞と悪意の遺棄に泣いて八年間も耐え忍んできた精神的苦痛は測り知れないものがある。

よつて原告は被告に対し右精神的苦痛に対する慰藉料として金三〇〇万円の支払を求めるほか、離婚に伴う財産分与を求める。右財産分与の方法としては、金二〇〇万円の支払を命ずるのが相当である。

(七)  (被告の主張に対し)

1  原告は結婚以来朴京華と称してきたもので、呉という姓を用いたことはない。

2  被告が大阪へおもむくに至つた事情についての被告主張事実は否認する。

3  被告が原告に昭和四〇年一月から四三年四月までの間、毎月三万円を仕送りしたことは認めるが、昭和四〇年以前および右期間中、以上のほかに原告が被告から金をもらつたことはない。

4  被告が昭和四三年三月原告のために焼肉屋開業の準備をととのえ、権利金五二万円を支出したことは認めるが、被告が負担したのは右権利金を含めて総額七〇万円位である。

5  被告が原告に対し慶妙子と別れ、原告にくず屋営業の協力をしてもらいたいと申し入れたこと、原告がその申し出を断つたこと、被告が子供の学資を負担したり、父親として子供の世話をしていることは、いずれも否認する。

三、被告の答弁および主張

(一)  本案前の申立

朝鮮では男女共に婚姻によつて姓を変えないのが原則であり被告の妻は呉京華であつて朴京華ではない。また朴京華なる人物は存在しない。したがつて原告がその表示を変更しない限り本訴は不適法なものとして却下を免れない。

(二)  原告の主張に対する答弁

原告の主張(一)の事実は認める。

同(二)の事実中被告が原告主張のころ慶妙子と情交関係を結んだこと原告主張のころ家族と別れて大阪に赴いたことは認めるが、それは事業上のつまずきから唐津市にいられなくなり、原告と相談の上でしたことであつて、遺棄したとか逃亡したとかいうことではない。なお慶妙子は後にこれを知り、大阪に出てきて、被告と同棲するようになつたものである。

同(三)については、被告が昭和三七年ごろ大阪府高槻市に住んでいたこと、原告がその主張のころ同市に来て被告と同居し、長女和子と共に同市の加藤セロフアン株式会社に就職したこと、同年六月ごろ被告が静岡市二番町に居住したことは認め、その余は否認する。

同(四)については、原告が昭和四三年三月二三日子供を連れて静岡市に転入し、同市秋山新田に借家し、飲食店を開業して子供を養育していることは認め、その余は否認する。

同(五)、(六)は争う。

(三)  被告の主張

被告は昭和三六年ごろから高槻市内で慶妙子と同棲し、二人とも前記加藤セロフアン株式会社に工員として勤めていたが、原告らが同市に出て来た後は、原被告一家八人と慶妙子とが同居して、原告、被告、長女和子、慶妙子の四名が一緒に加藤セロフアンに勤めて暮した。

しかし生活が苦しく借金がかさんだため、被告はより高い収入を求めて、昭和三七年六月五日、慶妙子を伴い、二人で北海道へ出かせぎに行つたが、適当な職が見つからず、あきらめて大阪へ帰ろうとしたが、帰りの旅費にも事欠き、やつと静岡までたどりついたものの無一文となり、大阪へ帰ることができなかつた。

そこで静岡在住の同国人をたより、くず屋をはじめ、原告に対しては、同年七、八月は二万円づつ、それ以後は毎月三万円ずつを送金し、また時折原告方に帰つて生活の面倒をみていた。

昭和四三年ごろ、被告の生活もどうやら落ちついたので、原告らを静岡へ呼び寄せようと考え、原告と相談した。

その際被告は、慶妙子とは別れるが、これまで数年間一緒にくず買いのリヤカーを引き、必死に働いて原告らに仕送りをしてきたのだから、ただちに手を切ることはできないので、店の一軒位持たせて自活できるようにするまで待つてもらいたい、また慶と別れた後は、原告が被告と共に古物商をやつてほしいと申し入れた。

これに対し原告は、慶妙子との関係については承知したが、被告と一緒に古物商をすることは拒否した。

被告は古物商(くず買い)が本業なので、慶と別れる以上原告の協力なしには商売を続けることができないが、原告に協力を断られ、やむなく原告らのために静岡市秋山町に店舗一軒を借り受け、焼肉屋開業の準備一切をととのえたうえ、昭和四三年三月二四、五日ごろ、原告ら一家を呼び寄せ、同所に住まわせた。

右焼肉屋開業に当つては、権利金五二万円の外、諸設備、雑費等約一〇六万円を要したが、これはすべて被告と慶妙子がかせいだ金で支払つた。

その後被告はその身辺を整理し、生活環境を正すため、昭和四四年四月慶妙子のため田町四丁目にある焼肉屋の権利を譲り受けて同女に与え、その自活の道を講ずると共に、原告に対し被告と同居して一緒に生活するように求めたが、原告が今さら汚い仕事はできないと拒否したため、結局従来どおりの状態を維持することとなつた。

原告らが静岡に来てから今日に至るまで、被告は慶と二人でかせいで得た金のうちから、月平均四、五万円を原告に送金してきた。そのほか名古屋の朝鮮人学校高等部に在学する三女の学資一切を負担し、それ以外の子供についても、しばしば学校や病院への送り迎えをしたり、遊びに連れて行つたりしている。以上のとおり、本件の争いについては原告にも被告の協力要請を断つた点で一端の責任があるのであつて、本訴離婚請求は棄却されるべきであるが、仮にこれが容れられるとしても、財産分与の請求については、被告には何らみるべき資産がなく、住居および営業にあてている土地建物はいずれも借物であり、わずかばかりの資産もすべて被告と慶との協同によつて作られたもので、原告は何ら寄与するところがなかつたから、右請求は失当である。

また慰藉料の請求についても、被告は慶妙子との関係を除く外、夫としての義務にそむいたことはなく、かつ慶との関係を清算して原告と同居すべく、しばしば原告に申し入れていたのに原告の方で拒否していたのであるから、原告の請求は理由がなく、仮に理由ありとしてもその請求額は大きすぎるものである。

四、証拠<省略>

理由

一、(被告の本案前の申立について)

その方式および趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるので真正に成立したと推定される甲第一号証(欄外書きこみ部分をのぞく)、第二号証、原告本人尋問の結果、弁論の全趣旨を総合すると、次のことが認められる。すなわち、原告は姓を「呉」というのであるが、昭和一九年被告「朴」伯達と婚姻してその戸籍に入り当時の被告家の氏「桜木」を称することとなつた。戦後において、原告は引続き日本に住んでいて、現在に至るまで夫の姓である朴を名乗り、呉を称したことはなく、その外国人登録も朴京華(桜木雪子)となつている。上記の事実が認められ、これに反する証拠はない。そして、被告の本籍が属する北朝鮮において、従前の氏、姓が戦後どのようになつたかは明らかでない。

そうすると、本訴において原告を表示するのに、「桜木雪子こと朴京華」とすることが、被告のいうように誤りであるとはいえない。したがつて、被告の本案前の申立は失当であつて採用できない。

二、そこで本案について判断する。

(一)  前出甲第一、二号証、その方式および趣旨により公務員が職務上作成した公文書であると推定すべき第三ないし八号証および原告本人尋問の結果によれば原告と被告とは昭和一九年三月一九日、佐賀県唐津市において結婚式をあげ、同年一〇月四日婚姻の届出をした夫婦であつて、その間二一年二月一日に長女和子、二五年一〇月二四日に二女昭子、二八年五月二八日に三女花子、三〇年四月八日に四女君子、三二年八月一一日に五女弘子、三五年一二月二日に六女良子の六人の子が生まれたことが認められる。

(二)  証人朴和子、同徐光顕の各証言、原告本人尋問の結果および被告本人尋問の結果の各一部ならびに弁論の全趣旨をあわせると次のように認められる。

(1)  被告は原告と結婚して後、唐津市で廃品回収業を営んで暮していた。ところが昭和三五年、原告が六女良子を身ごもつていたころ、被告は同市内に住んでいた山川妙子こと慶少喜と知合い、同女には内縁の夫や子があつたのに、肉体関係を結ぶようになつた。原告は同年秋ごろ、そのことを知つた。

被告と慶との関係については親戚知人が再三にわたつて被告らに忠告して二人を別れさせようとしたが、被告は昭和三六年春ごろ突然無断で大阪へ出奔し、慶も間もなく被告のあとを追い、二人で高槻市内に同棲し、同市で被告の知人加藤年男が経営していた加藤セロフアン株式会社に、二人共に工員として勤めていた。

(2)  原告は昭和三七年一月ごろ被告の住所を知り、右加藤を仲にまじえて交渉した結果、同年三月ごろ六人の子を伴つて高槻市におもむき、被告の寄寓先である加藤セロフアンの社宅に同居し、慶もまた同じ家で、原告ら一家と一緒に暮すこととなつた。長子和子は被告ら同様加藤セロフアンに工員として就職した。

(3)  しかし被告は同年五月半ばごろ、再び慶と共に出奔し、原告らは置去りにされた。

被告らは一時就職先を求めて北海道に行つたが、期待したような職を得られず、結局大阪へも戻らず、静岡に落ちついて、同市二番町に居を定め、被告と慶の二人で廃品回収業をして暮すこととなつた。

被告は年に二、三回位は高槻へ原告を訪ねに行き、その都度五千円か一万円位の金を原告に渡し、昭和四〇年一月からは毎月三万円を原告に送金していたが、加藤セロフアンに就職した長子和子を除く他の五人の子はいずれも幼く、原告は内職をして得た金を生計の補いとして、和子の給料と合わせて辛うじて暮しを立て、昭和三九年からは原告自身も加藤セロフアンに就職して働いていた。

(4)  その後二女昭子も中学卒業後一時加藤セロフアンにやとわれたが、昭和四三年ごろ給料が安いなどの事情で和子、昭子共に同社を退職したところ、原告らがそれまで住んでいた同社の社宅を明渡すように要求されたので、原告は被告に対し新たに住居職業などを求めるための資金を要求したところ、被告は原告らが静岡へ来ることを勧めたので、結局同年三月原告は六人の子を伴つて静岡市へ転入し、被告が五二万円の権利金を払つて借りておいてくれた同市秋山町所在の飲食店用店舗兼住居に落ちついて、同年四月ごろから焼肉屋の商売をはじめた。被告はその開業資金として、前記権利金を含めて約一〇〇万円を支出した外、同年五月から毎月約二万円を原告に仕送りし、別に名古屋の高等学校へ入学した三女花子の学費を負担することとなつた。

しかし被告は依然同市二番町で慶少喜との同居生活を続け昭和四四年ごろから同市田町に同女名義で焼肉屋を開業し、廃品回収業も引続き営んでいる。

(5)  原告の生活は今なお学校に通つている花子以下の四人の子をかかえて苦しく、焼肉屋の利益はわずかで家賃をまかなえる程度であり、原告は内職をして生計の足しにしている。

原告は被告がただちに慶と手を切つて原告と同居するように要求してきたが、被告は将来は慶と別れるというのみで、あいまいな態度をとり続け、原告が静岡家庭裁判所に申し立てた調停も不調に終つたので、原告としてはもはや離婚する外はないと決意するに至つている。

被告には所有不動産はなく、収入は月二、三十万円程度である。

以上のとおり認められ、原被告各本人尋問の結果中、右認定にそわない部分は、にわかに信用できない。

なお、原告にも被告の協力要請を断る等一端の責任があるという被告の主張についてはこれに添う被告本人尋問の結果は信用しがたく、その他にこれを認めるに足りる証拠がない。

(三)  そこで本件離婚請求訴訟における準拠法について考えてみると、渉外的離婚の準拠法は法例第一六条により離婚原因発生当時の夫の本国法によるべきところ、朝鮮では本件離婚原因の発生以前から朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮という)と大韓民国とが対立していて、互いに自らを朝鮮全域を支配すべき正統政府であると主張しているが、現実にはそれぞれの支配領域を有し、各々その領域において独自の法秩序を形成していることは公知の事実である。

そして被告の肩書本籍地は北朝鮮政府の統治下にあり、同国の法秩序が行われている地域に属し、かつ証人除光顕の証言、被告本人尋問の結果によれば、被告は北朝鮮を支持する在日朝鮮人総連合会静岡県中部支部に加入していることが認められるから、被告の本国法は北朝鮮の法律であると解すべきである。もつともわが国が北朝鮮を承認していないことは公知の事実であるが、そのことによつて同国の法律を渉外事件における準拠法として適用することが妨げられるものではない。しかしながら現在離婚に関する同国法の内容は当裁判所において明らかにすることができないので、かかる場合には条理によつて判断するほかはない。そうすると、原告と被告との夫婦関係は被告の不貞行為および再三にわたり勝手に原告ら妻子を置去りにして出奔し、原告の同居要求に応じない行為によつて根本的に破壊されているものであり、このような事情の下では有責者たる被告に対する原告の離婚請求を許すことが個人の自由と男女の平等を尊重する現代法の理念にかなうものと考えられる。かつわが民法の下でも前記のような事情は不貞および悪意の遺棄として離婚原因に該当することが明らかであるから、結局原告の右請求は理由があり、認容すべきである。

しかし離婚に伴う財産分与の請求については、条理上当然に認められるものとはなしがたく、この点に関する北朝鮮の法制が明らかでない本件においては、原告の財産分与の申立を容れることはできない。

また原被告間の未成年の子の親権者の指定については、法例第二〇条により父の本国法が準拠法となるので、離婚の準拠法と同様に北朝鮮の法律によるべきこととなるが、この点についてもよるべき法令の存否もしくは内容が明らかでないし、条理上当然に裁判所が指定すべきものともいえないから、離婚に伴う親権者の指定はしない。

(四)  原告の慰藉料請求について

前記認定の諸事実によれば、原告には取立てていうべき落度がないのに、被告の一方的な背信行為によつて、六人の子までなした夫婦関係を破壊され、生活費もきわめてわずかしか与えられず、大部分独力で一家の生計を立て、子供たちの養育に当ることを余儀なくされ、被告の最初の出奔以来今日に至るまで、ほとんど一〇年にわたつて辛酸をなめてきたものであり、そのために受けた精神的苦痛が甚大であることは明らかで、被告は法例第一一条、民法第七〇九条によつてその苦痛を慰藉すべき義務がある。ただ被告としても原告に焼肉屋を開業させるために約一〇〇万円を支出し、その他定期的にある程度の仕送りをしていることを考慮し、かつ当事者双方の社会的境遇、資力など諸般の事情を斟酌すると、右精神的苦痛のつぐないとして被告に支払を命ずべき慰藉料の額は、金二〇〇万円とするのが相当である。

(五)  よつて原告の本訴請求中、離婚の請求および被告に対し金二〇〇万円の支払を求める限度における慰藉料の請求をいずれも認容し、慰藉料請求中、右限度をこえる部分の請求および財産の分与の請求は棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第九二条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 水上東作 山田真也 三上英昭)

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