大判例

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長野地方裁判所 平成5年(行ウ)9号 判決 1997年9月26日

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

和田清二

佐藤豊

被告

地方公務員災害補償基金長野県支部長吉村午良

右訴訟代理人弁護士

橋本勇

宮澤建治

右宮澤建治訴訟復代理人弁護士

田下佳代

中嶌知文

主文

一  被告が原告に対して平成二年九月六日付けでした公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文同旨

第二事案の概要

更埴市消防職員であった甲野太郎(以下「太郎」という。)は、非番日である平成元年七月二四日午前九時三〇分過ぎころ、更埴市中央公園(以下「中央公園」という。)内において、訓練として行っていたランニング中に倒れ、同日午前一一時ころ、搬送先の更埴市中央病院において、急性心停止により死亡したこと(以下「本件災害」という。)が確認された。

太郎の妻である原告は、本件災害が消防職員としての公務に起因するものであるとして、地方公務員災害補償法に基づく公務災害認定請求をしたが、被告は、本件災害が公務により生じたものでないとして、平成二年九月六日付けで公務外の認定処分(以下「本件処分」という。)をした。

原告は、同年一〇月三一日地方公務員災害補償基金長野県支部審査会に対して審査請求をしたが、平成四年三月二五日付けで棄却の裁決がされ、更に、同年五月二六日地方公務員災害補償基金審査会に再審査請求をしたものの、平成五年五月一二日付けで棄却の裁決がされ、その裁決書が同年七月一〇日原告に送達されたことから、本件災害の公務起因性を主張して本件処分の取消しを求めるのが本件事案である。

一  原告の主張の要旨

1  地方公務員災害補償法にいう「公務上」の災害、すなわち公務起因性を認めるためには、公務と被災事実との間に相当因果関係があることが必要である。この相当因果関係は、医学的判断そのものではなく法的評価としてのものであるから、厳密な医学的解明ができなくても、現在の医学的知見の枠組みの中で、基礎疾患・業務内容・就労状況・被災者の健康状態等を総合して検討し、当該業務が疾病を発症させた蓋然性が高いと認められるときは、相当因果関係があるというべきである。右相当因果関係があるといえるためには、公務が災害発生の現実的危険性を持っていたことが必要であり、被災者に基礎疾患がある場合には公務による過重負荷がその基礎疾患と共働原因となって疾病を発症させたことで足りる。そして、公務の過重性の判断については、被災した当該個人の被災前の健康状態を基準とするべきである。

2  太郎は、いわゆる隔日勤務職員として当直日には二四時間勤務を常としていたが、右のような勤務形態自体が反生理的なものであるばかりでなく、仮眠や休憩が与えられるとはいっても、いつあるともしれない出動に備えておかなければならないうえ、署内で拘束されており、その環境も疲労が取れるようなものではなく、身体に対する負担の重いものであった。

3  太郎ら救助隊員は、勤務時間の内外を問わず体力、気力の増強維持のために自主錬成を行うこととされていたが、太郎は、常に他の職員よりも厳しい自主錬成に努めていた。

4  以上のような日常勤務に加え、平成元年六月一日から本件災害直前まで太郎が参加していた救助技術大会に向けての訓練(以下「大会訓練」という。)は、通常勤務と異なる激しい特殊勤務であり、身体的、精神的に過重な負荷となった。

5  太郎が同年四月一日から七月二三日までに従事した通常勤務及び訓練は、別紙(一)勤務状況一覧表(原告主張分)記載のとおりであり、このような過重な公務から、太郎は、もともと基礎疾患を有していなかったにもかかわらず、過労状態に陥り、心筋の異常興奮や異常伝導を起こしやすいなど、致死性不整脈を誘発する要因を有するようになり、又は、仮に同人の心臓に何らかの機能的弱点があったとしても、右のような過重な公務がそれを著しく増悪させて、致死性不整脈の発症による死亡という本件災害を生じさせたものである。

したがって、太郎の就いていた公務と本件災害との間には相当因果関係があり、本件災害は公務に起因するものである。

二  被告の主張の要旨

1  公務上の災害と認められるためには当該災害と公務との間に相当因果関係があることが必要であり、右の相当因果関係が肯定されるためには、当該公務に当該傷病を発生させる具体的危険性があり、それが現実化して職員を死亡せしめたことが必要であって、当該公務が当該傷病の発症や増悪の単なる引き金になっただけでは足りない。すなわち、当該公務が当該傷病の発症や増悪につき相対的に有力な原因となっているときに初めて公務の具体的危険性が現実化したということができる。平成八年労働省労働基準局長通達において、労災における認定基準中に不整脈による突然死等が掲記され、地方公務員災害補償基金においても、それ以前の平成七年理事長通知により、心・血管疾患に心臓性突然死を明示し、不整脈による突然死が公務災害補償の対象となることを明らかにしているが、これらはいずれも公務(業務)と相当因果関係をもって発症したことが明らかな疾病であることを前提としており、従来の取扱いを変えるものではない。そして、当該公務が当該傷病の発症や増悪につき相対的に有力な原因となったといえるためには、公務による過重な負荷が基礎疾患をいわゆる自然的経過を超えて急激に著しく増悪させて発症させたと医学的に認められることが必要であり、そのためには、疾病の発症前おおむね一週間程度の期間内に、通常の所定労働時間内の所定業務に比較して特に過重な精神的、身体的負荷を生じさせたと客観的に認められる公務に従事したことを要する。また、右過重性の判断については、当該職員のみならず、同僚ないし同種職員にとっても、特に過重な精神的、身体的負荷と認められるかどうかによるべきである。

2  太郎の勤務形態、当直日の仮眠の環境については、身体に対する負担の重いものであったということはできない。

3  救助隊員らが行っていた自主錬成は、職務上何ら強制されたものではなく、自己の判断で行うべきものとされていたのであるから、これが過重な公務であったということはできない。

4  大会訓練は、隊員の体調を無視して強制されるようなものではなく、基本的に各人の自主性に委ねられており、特に非番日の訓練は自由に休むことができたから、右訓練が公務として過重であったとはいえない。

また、後記のとおり、太郎は、平成元年七月一日以降はおおむね通常どおりの公務に従事するようになり、本件災害の発生は同月二四日なのであるから、その間の日数の経過からみて、大会の訓練と本件災害との間に相当因果関係の存しないことが裏付けられる。

5  平成元年七月以降の大会訓練は、同僚の荒井隊員の関東大会出場に向けてのものであり、太郎ら他の隊員は安全管理者として荒井隊員の訓練に協力していたものであって、太郎が模範演技を示すなど自ら訓練することがあったとしても、それは職務上義務付けられたものではなかったのであるから、過重な公務であったとはいえず、また、別紙(二)勤務状況一覧表(被告主張分)記載のとおり、太郎は、本件災害前一か月は、ほぼ従前通りの通常の勤務をしていたのであって、公務の過重性は認められない。

6  本件災害の直前のランニングも、太郎らが普段行っていた程度のものであり、過重なものとはいえない。

7  本件災害は、致死性不整脈を原因とするが、一般に、その発症は、何らかの基礎疾患が原因となるものであり、生前の太郎の言動からすると、太郎は平成元年二月ころ心筋炎に罹患し、その結果、心筋障害の後遺症を生じ、これが自然的経過により増悪して致死性不整脈を発症させたと考えられる。

8  以上のように、太郎は、本件災害直前、その前約一か月間、六月の大会訓練、消防職員としての勤務一般のいずれにおいても、本件致死性不整脈の原因となるような公務の過重性は認められないのであり、太郎が同僚職員と同様な公務を行っていたにもかかわらず、一人だけ発症したことからすると、太郎が同僚職員とは異なる特別な条件たる疾病を有し、その疾病が発症の原因となったと考えるのが合理的である。すなわち、太郎が数か月前から出現していた私病たる心筋炎を何ら治療せずに放置していたことから、その自然的経過により本件致死性不整脈の発症をもたらしたものであるといわざるを得ない。

9  したがって、太郎の担当していた公務と本件災害との間には相当因果関係はなく、本件災害には公務起因性はないというべきである。

第三当裁判所の判断

一  当事者間に争いのない事実並びに証拠(各項末尾に掲記のもの)及び弁論の全趣旨により認められる事実は次のとおりである。

1  太郎の経歴等

太郎は、昭和三二年一月二一日生(本件災害当時三二歳)で、昭和五二年四月に更埴市消防職員(消防士)に採用され、更埴市消防署(以下「更埴署」という。)において勤務し、昭和五三年以降救助隊員を兼務し、昭和六一年四月、消防副士長となり、かつ、警防係勤務を命ぜられ、本件災害当時、救助計画の立案、救助訓練や救助機材の維持管理等の救助業務に関する事項を担当していたほか、火災、救急、救助の出動や訓練及びそれらに付随する業務を行う警防係一般の職務を担当していた。

その間、太郎は、昭和五八年五月に原告と結婚し、同六〇年一〇月、原告との間に長女月子をもうけた。

(以上のうち、太郎が予防係、消防副士長を命ぜられたことにつき<証拠略>、警防係の職務内容につき<証拠略>。その余の事実は争いがない。)

2  太郎の勤務形態

太郎が平成元年当時就いていた勤務形態は、一当直(午前八時三〇分から翌日同時刻までの二四時間勤務)及び一非番(一当直後の二四時間)の交互勤務を三回繰り返した後に二公休(三回目の非番に引き続く四八時間)が与えられるという八日で一サイクルの変則隔日勤務であった。

なお、右の当直勤務のうち、午後一〇時から翌朝八時三〇分までの時間帯については、公休明けの者が起きて通信室で執務し、その他の者は仮眠室で仮眠を取ることとされていたが、仮眠室は、出動に備えて薄明るくされており、当時冷房設備はなく、通風も十分とはいえず、職員も出動に備えて厚手の救助服等を着たまま寝ており、一一九番通報が入ると、通話内容が仮眠室等にスピーカーから流れて職員はそれを聞きながら出動準備に入るという状態であった。そして、当直員は、交通事故、火災等による出動のほか、間違い電話で仮眠を破られることもあり、個人差にもよるが、一般的には熟睡できるような環境にはなかった。

(仮眠室の環境につき、<証拠・人証略>。その余の事実は争いがない。)

また、隔日勤務職員である救助隊員は、毎週水曜日の午前中に実施される定期訓練に参加していたが、それが当直明けの非番日に重なるときは、所定勤務の後に引き続き時間外勤務としての訓練に従事することとなった。このような勤務状況を平成元年四月を例にとってみると、別紙(三)記載のとおりである。

(<証拠・人証略>)

3  太郎の自主錬成

救助隊員は、「救助活動に関する基準」(昭和六二年九月二一日消防庁告示)等により、平素から救助活動を行うのに必要な知識及び技術並びに体力の向上を図るものとされ、更埴署の救助隊員は、勤務時間の内外を問わず、時間を探しては自主錬成を実施していた。具体的には、当直日のおおむね夕方以降、ベンチプレス五〇キログラム二〇回、腹筋三〇回、ロープ登はん一回、スクワット二〇回及び一五〇メートルのランニングの五種目を五回繰り返すというのが標準の内容であり、土曜日の午後や日曜日の午前に救助隊員の多くが集まってこれを行うこともあった。太郎は、このほかにも、自宅での自主錬成を欠かさず、在宅日の朝は二〇ないし三〇分のランニングや筋力トレーニングを行い、雨天の際には家の中でスクワット、腕立て伏せ、腹筋運動等を、入浴前には懸垂や腕立て伏せをしていた。太郎は、体力の限界まで自己を追い込むような訓練をし、当直日の自主錬成に際しては、若い隊員に厳しいメニューを与え、自分にはそれよりも更に厳しいメニューを課しており、訓練量は隊員の中でも多いものとみられていた。

(<証拠・人証略>)

4  救助技術大会及びその訓練等

毎年、救助隊員の参加により、長野県消防救助技術大会(以下「県大会」という。)、消防救助技術関東地区指導会(以下「関東大会」という。)、全国消防救助技術大会(以下「全国大会」という。)が開催されており、県大会は関東大会の、関東大会は全国大会の、それぞれ予選としての性格を有していたが、平成元年度の県大会は六月三〇日に、関東大会は七月二八日に、全国大会は八月二五日に行われた。

(争いがない)

更埴署は、県大会において、過去優秀な成績を収めており、太郎の参加した種目だけでも、昭和五七年から同六〇年の間、ロープブリッジ渡過では二度二位に、ロープブリッジ救出では三度優勝し、また、昭和六一年には引揚救助で入賞、同六二年、六三年には引揚救助で連続優勝していた。このため、太郎ら更埴署の救助隊員は、平成元年度の引揚救助については県大会での三年連続優勝、関東大会での入賞、全国大会出場が目標とされるなど、強い意気込みがあり、県大会前には更埴市長、市議会副議長等が訓練場まで激励に訪問し、上位の成績を収めることが署内外から期待されていた。

(<証拠・人証略>)

そこで、更埴署では、大会訓練の期間として平成元年五月八日から同年八月三一日までを指定し、訓練塔の設置されている中央公園内の訓練場において、他の事務に支障のない限り毎日実施することとした。救助隊員の大会訓練への参加は、非番、公休の場合には時間外勤務として扱われていた。

(非番、公休について時間外勤務と扱われたことにつき<証拠略>。その余の事実は争いがない。)

太郎は、平成元年度の大会においても、前年同様引揚救助の種目に出場することとなった。この引揚救助とは、五人(要救助者の役を含む)一組で、二名が空気呼吸器を着装して高さ七メートルの塔上からロープで降り、塔下から一四メートル離れた所にいる要救助者を抱きかかえて塔直下まで搬送し、塔上にいる二名と協力して塔上に引き揚げて救助するというもので、救助及び脱出するまでの安全性、確実性及び所要時間を競うものであり、その操法が厳格に指示され、減点項目が詳細に定められていた。太郎は、同種目において、一番目に塔上から降り、二番目に降りた者と一緒に要救助者を塔直下まで運搬し、二番目に降りた者が脱出した後に、要救助者を結索し、これが救助されるのを見届けてから最後に塔上に上がるという役割(この役割を二番員という。)を担っており、チーム内で肉体的負担の重い役割であった。また、太郎は、年齢及び経歴などから引揚救助のチームリーダーとみなされており、訓練の方法、成果に関して気を配る必要があったため、精神的負担も他の同僚より重かった。

そして、二番員である太郎は、長袖の救助服、革製の編み上げ靴、ヘルメット、革手袋を着用し、塔上の床面に置かれた空気呼吸器一式を一連の訓練の開始から終了まで装着した。この空気呼吸器一式の重さは、呼吸用ボンベが約八・四キログラム、面体と空気調整器が約四・四キログラム、空気が約一キログラム、合計約一四キログラムであった。この面体は「デマンド型」といい、顔面に密着させて装着するため、吸気の際には面体の内側は負圧となり、負圧にならなければ空気の吸入ができないことから、空気呼吸器を装着した状態での呼吸は、自然界におけるそれよりも負荷がかかっており、また、炎天下では呼吸用ボンベが熱せられ、暖かい空気を吸うことを余儀なくされた。また、一連の訓練と訓練との間には、特に休憩時間を設けることがなく、その間に器材整理を行うことが束の間の体を休める時間であった。また、訓練塔には当時屋根がなく、訓練中は終始炎天下にあり、重装備で激しい運動をするために発汗も大量であった。

以上のように引揚救助は、重い装備を着けながら、炎天下で、不自然な呼吸を強いられる中、塔への昇降を含めて正確さと速さを競うものであり、これを繰り返す訓練は、身体に対する負荷の非常に大きなものであった。

太郎は、大会訓練の始まった五月八日から一三日までの毎日午前中、これに参加していたが、同月一五日から三一日まで長野県消防学校に入校して救助科の教育訓練を受けたため、その間、大会訓練に参加することができなかった。六月一日から本格的に大会訓練を開始したが、その訓練日及び訓練時間は別紙(四)記載のとおりであり、六月中に太郎が大会訓練に参加した日数は大会当日の朝を含む二四日に及んでいる。太郎が大会訓練に参加しなかった六日のうち、四日は大会訓練自体がなく、残る二日は玉掛講習会へ出張したために参加することができなかったものであって、太郎は、可能な限り大会訓練に参加していたという積極的な姿勢が窺われる。しかし、太郎は、六月一九日の日誌に「量的にもう少し練習したい。」と記載するなど、訓練時間の不足に焦りを感じていた様子で、普段の自主錬成に加え、午前中の訓練に納得の行かないところがあるなどと言って、午後訓練場で自主的に引揚救助の部分的な訓練をしたことが六月一八日、二四日、二六日の三日あった。このように大会訓練に熱心であったため、六月中に太郎が終日休暇を取れたのは別紙(四)記載のとおりわずか三日であり、必ずしも休養が十分に取れるような状況ではなかった。また、太郎が当直明けの非番日に大会訓練に参加した日は同月中に九日あり、休養が十分でなく、当直による疲労も抜けない状態で行う前記のような激しい大会訓練は、身体への負担を一層増大させるものであった。

(以上につき、太郎が五月一五日から三一日まで長野県消防学校救助科において教育訓練を受けたこと、太郎が五人一組による引揚救助の種目に参加することとなったことについて争いがなく、その余の事実につき、<証拠・人証略>)

なお、太郎の属する引揚救助のチームは、六月三〇日の県大会において入賞することができなかったが、同僚である荒井隊員は、ロープブリッジ渡過の種目で優勝し、関東大会に出場することとなった。

(争いがない)

5  県大会以降、本件災害直前までの生活

前記関東大会に向けての訓練は、七月六日から始められ、本件災害の発生した二四日までに九日間行われたが、その間における太郎の所定勤務及び訓練への従事の状況は、別紙(五)記載のとおりであり、六月に比べれば訓練の日数自体はさほど多くない。右訓練において、太郎は、自己の非番日及び公休日である六日間、安全管理者として参加しており、器材の準備のほか、ランニングなどのウォーミングアップも荒井隊員と同じように行い、また、同隊員に対する指導やタイム計測をしながら、ロープブリッジ渡過で関東大会入賞二回の経験を生かして同隊員に模範を示すこともあった。

太郎は、七月二三日(本件災害前日)の朝、家族とのキャンプから戻って八時二〇分ころ出勤し、午前九時ころから一〇時三〇分ころまで、先に消防学校で訓練を受けてきた三連はしごのクレーン救出訓練について他の救助隊員らに模範を示すなどして指導し、これを何回も反復して行った後、正午ころまで自主錬成をした。その内容は、ベンチプレス五〇キログラムを二〇回、腹筋三〇回、ロープ登はん一回、スクワット三〇回くらい、懸垂一〇回及び一五〇メートルのランニングの以上六種目を五回繰り返すものであった。その後、通信勤務、資料の作成、事務室の清掃等をし、午後八時四三分ころと同九時四三分ころに救急出動があった際、それぞれ事務室での待機、通信事務の補助をして、午後一〇時三六分ころ救急車が帰署した後、仮眠に入った。

太郎は、翌二四日(本件災害当日)午前六時四二分、救急出動の要請があった際、平生と異なり他の者が起床した後五分くらい経ってから起き、右救急出動の通信補助、気象観測、事務室の清掃等を担当し、午前七時二五分ころ朝食を摂り、午前八時一五分ころ車庫前で勤務交替のために待機したが、その際、車庫のシャッターの柱に寄りかかるということがあった。そして、同人は、午前八時二五分ころ勤務交替をして車両点検の補助をし、八時三〇分ころ、救助隊員全員で消防体操とこれに続く四八六メートルほどのジョギングをした。その後、午前八時四〇分ころ、更埴署の会議室で他一名と一緒に机や椅子の整理をし、午前八時五五分ころ、荒井隊員の大会訓練へ参加するため、同隊員と小出隊員と一緒に中央公園内の訓練場に到着した。

(以上につき、<証拠・人証略>)

6  本件災害の発生

中央公園内の訓練場に到着した太郎ら三人は、まず安全ネットの設置と渡過ロープの展張というそれ自体がかなりの重労働である作業を行い、午前九時一〇分ころから準備体操を行い、九時一三分ころから、中央公園の周囲(一周約九五〇メートル)においてランニングを始めた。その模様は、スタートから約四〇〇メートルの地点で荒井隊員が独走し、同地点から約五〇〇メートルの所で太郎が小出隊員を追い越し、荒井隊員が二周目を走り終えた午前九時二五分ころから約一分後に太郎が二周目を走り終えるというものであり、太郎は、特に二周目については、概算で毎時一五キロメートル近い速度で走ったことになる。

その後、太郎は、荒井隊員が既に終えていた柔軟体操もせずに、日蔭の縁石に腰を下ろして休息し、北島隊員からの「ご苦労さん。」の挨拶にも返答せず、脈を測りながら、小出隊員に「俺、不整脈だなあ。不整脈のときは胸が痛いなあ。」、「今、トッ・トッ・トッ・トッ・・・・と不規則だ。」と言った。そこで、小出隊員は、それぞれ三〇秒ずつ両名の脈拍数を測って比較してみたところ、先にランニングを終えた小出隊員が三八回であるのに対し、太郎が四二回であったため、何ら問題はないと判断した。

小出隊員と北島隊員とが訓練塔のロープの固定を始めた午前九時三〇分ころ、太郎は、一人で三周目のランラングを開始したが、その後、午前九時四一分ころ、公園内の市民プール駐車場脇のランニングコースから内側にそれたトイレ近くの歩道上で倒れているところを来園者に発見され、通報を受けた同僚隊員が九時四三分ころ到着したときには、うつ伏せで口から粘液を出しており、瞳孔は散大し、呼吸は停止していた。そして、太郎は、同僚隊員から心肺蘇生術を施されながら午前九時五二分ころ救急車で更埴中央病院に搬送されたが、病院到着時既に呼吸、心音とも停止の状態であり、医師による蘇生術によりいったん自己心拍があったものの、すぐに消失し、血圧測定は終始不能の状態で、同日午前一一時ころ、急性心停止により死亡したことが確認された。

(太郎が中央公園内における訓練中にランニングをした後に倒れているのを発見され、更埴市中央病院に搬送されたものの同日午前一一時ころ急性心停止による死亡が確認されたことは争いがなく、その余の事実につき、<証拠・人証略>)

7  身体の変調に関連する諸事実

太郎は、昭和五九年、六〇年、六二年の一般健康診断において特に身体の異常を指摘されておらず、毎年行われていた激しい大会訓練にも積極的に参加しており、時々腰椎分離症により更埴中央病院に通院することはあったものの、休暇を要する程の疾病に罹患したことはなかった。

ところが、太郎は、平成二(ママ)年二月ころ、当直日に髙野隊員と一緒にランニングをしていた際、同人に対し、「このごろ、朝ランニングをやっていると、どうも胸の辺りが苦しくなって走れなくなってしまう。俺少し前に風邪ひいて治ってないからだと思うんだけど、走っていると苦しくて歩いてしまうから自転車に乗って走っている。髙野は朝走っているとき胸の辺りが苦しくならないかい。」「やっぱり風邪だな。今年の風邪はよくない。」と話したということがあった。

また、太郎は、右髙野隊員に対し、同年春ころの当直時、「髙野疲れねえかい。俺ももう体力的にお前らにはついていけなくなったなあ。」とこぼし、同年六月上旬ころには、五月中訓練のために赴いていた長野県消防学校での様子について「体がきつかった。」と話すということがあり、これらのことは常々太郎のことを異例に強靱な体力の持ち主であると思っていた髙野隊員にとって奇異に感じられた。

さらに、太郎は、同年六月初旬ころ、大会訓練前のランニングの後、胸の辺りを押さえて立っているということがあり、同月二〇日ころには、県消防学校において引揚救助の通しの訓練(一種目の訓練を分解せずに一連のものとして訓練すること)をしていた際、その七回目くらいに訓練塔上に登ったところで、「うっ」と言って胸を押さえて苦しそうにしゃがみ込み、その後訓練を二、三回続けたものの、またうずくまって苦しそうにしたため、その日は訓練を止めたことがあり、同年六月下旬から七月初旬ころ、中央公園で出会った北島隊員に対し、「このごろランニングがきついので自転車に乗っている。」などと言うことがあった。

そして、太郎は、同年七月初旬ころ、夜間に自主錬成をしていた際、自分で脈を取ったりしていることがしばしばあり、看護婦である原告に「不整脈かなあ。脈をみてくれ。」と言って脈を測らせたことが二回くらいあった。

(以上につき、<証拠・人証略>)

二  本件致死性不整脈とその発生原因

1  太郎が前記のように死亡した原因が急性心停止であり、その原因が致死性不整脈であることは当事者間に争いがない。

2  証拠(<証拠・人証略>)及び弁論の全趣旨によれば、致死性不整脈には、頻脈性不整脈と徐脈性不整脈とがあるが、いずれも心臓内(心筋細胞)における電気的刺激の発生又は伝導の異常を原因とするものであり、その異常が刺激伝導系にあるときには徐脈性不整脈が、それが自動能を有する部位にあるときは頻脈性不整脈がそれぞれ発症しやすいとされていること、そのうち、徐脈性不整脈は、幾重にも刺激発生の保護作用があることから突然死を起こしにくいため、突然死の原因となる不整脈は、頻脈性不整脈がほとんどであり、また、その多くが心室細動(心臓全体の収縮、拡張のリズムが統一性を失い、個々の心筋細胞がばらばらに収縮、蠕動を繰り返すことにより、心臓がポンプとしての機能を失った状態)によるとされていること、この致死性不整脈は、虚血性心疾患、心筋症、弁膜症、先天性心臓病などの器質的基礎疾患を有する場合に発症しやすいこと(正常な心臓においても肉体的、精神的ストレスなどの条件次第でこれを生じ得るとする説もあるが、他方、これに対しては、基礎疾患の存在が具体的に証明されない場合であっても、心筋組織の器質的障害があったと考えるべきであり、器質的基礎疾患のない場合には、不整脈が生じることはあっても、生体の持つ防御反応により容易に死に至ることはないとする見解も唱えられている。)、原因不明の致死性不整脈に関しては、風邪に類した症状により発症するウイルス性心筋炎による心筋障害が疑われることがあること、心筋炎は、直ちに死亡に結び付かない場合であっても、程度の差はあれ心筋障害を遺すことがあり、これが心不全症状を経由するなどして不整脈ひいては致死性不整脈発症の原因となりうること、以上の医学的知見に関する各事実が認められる。

3  ところで、本件において、太郎に生じた急性心停止の原因である致死性不整脈に関しては、同人の生前にその発症原因とされる基礎疾患の存否に関する医師の診断ないし検査結果はなく、また、死亡後の解剖がなされていないため、心臓の器質的変化の有無に関する直接的な証拠もないことから、その基礎疾患の存否や発症に至った経過について科学的に完全に解明することは困難である。

しかしながら、前判示の各事実によれば、毎年激しい大会訓練に積極的に参加しながら何ら心臓に異変を訴えたことがなく、健康診断においても格別の指摘を受けたことのない太郎が、平成元年二月ころ風邪の疑いとともに胸苦しさを訴え、その後、同僚隊員に向かって体力の衰えや、疲労感を口にし、さらに、同年六月初旬以降は胸の辺りを押さえるような動作をし、自ら脈を取ってみるなどの行動をするようになっているところ、この身体の変調に関する諸事実は、そのころ同人に生じた心不全ないし不整脈の徴表をみることができるのであり、また、太郎が心筋梗塞等の虚血性疾患に罹患していた形跡はなく、前掲各証拠により心筋炎が原因となって心不全や不整脈を起こすことがしばしばあるとの医学的知見が存すると認められることに照らせば、太郎の心臓には、同年二月ころまでに、心筋炎などの器質的障害をもたらす基礎疾患が生じたことが十分考えられるところである。

そして、これに前判示の諸点を併せ考慮すれば、この心臓の器質的基礎疾患が不可逆的に進行し、刺激伝導系の異常による頻脈性の不整脈をもたらし、ひいては致死性不整脈(心室細動)を発症させて、急性心停止による死亡を惹起したものと認めることができる。

これに対し、原告は、太郎に基礎疾患はなく、過労及びストレスが本件致死性不整脈の原因となった旨を主張し、(人証略)もこれに沿う証言をするが(ただし、基礎疾患の存在した可能性を否定しない部分もある。)、過労及びストレスが健康な心臓に不整脈を発症させるようになり、それが致死性不整脈の発症に結び付く可能性を否定することはできないとしても、前判示の医学的知見からすれば、過労とストレスのみで致死性不整脈まで至るとすることには無理があるといわざるを得ない。

三  太郎の公務による負荷について

1  原告は、太郎の勤務形態(変則的隔日勤務)及び当直日の仮眠・休憩の環境が身体に対する負担の重いものであったと主張するが、前判示のとおり、太郎は同じような勤務を長年続けて来ていたのであって、右の勤務形態及び職場環境に慣れていたと考えられるし、当直による疲労は、通常であれば非番日の休養により回復され得たものと推測されるのであって、現に平成元年二月ころまで約一二年間にわたって勤務していても格別身体的変調はみられなかったのであるから、右の勤務形態及び職場環境それだけで太郎の心身に悪影響を及ぼしたと認めることはできない。ただし、当直明けに訓練等を行う場合にあっては、睡眠不足と疲労の蓄積により、それが身体的負担の重いものとなったであろうことはいうまでもなく、後記のとおり、この点は、公務による負荷の軽重を検討する際に軽視できない。

2  また、原告は自主錬成についても公務の過重性を主張する。被告も指摘するように、この錬成は、職務上何ら強制されたものではなく、自己の判断で行うべきものではあったけれども、前判示のとおり、救助活動を行うのに必要な体力の増強を目的とするものであり、この点では公務との関連性を否定できないのであるが、太郎が過去一二年にわたってこれを行ってきたのに身体の変調が表われなかったことに鑑みれば、これをもって直ちに公務の過重性を基礎付けることはできない。

3  これに対し、平成元年六月中に太郎の参加していた大会訓練は、前記認定のとおり、公務の一環である(非番日や公休日であっても時間外勤務となる。)上、その内容としても、不自然な呼吸の中で激しい運動を繰り返すというそれ自体で身体に対する負荷の極めて大きい過激な運動を含んでいたばかりでなく、大会にかける強い意気込みによって運動量が倍加され、当直明けの訓練も多かったことなどから、休養が取れず心身の疲労が蓄積した状態の中で連日繰り返されたのであり、特に太郎は事実上のリーダーとして精神的負担も重かったのであるから、公務として過重であったと認めることができる。

被告は、大会訓練は、隊員の体調を無視して強制されるようなものではなく、基本的に各人の自主性に委ねられていた旨主張するが、前判示のとおり、訓練期間は更埴署が指定していたこと、引揚救助の訓練は、一名でも欠けると一連の訓練に支障を生じるため、非番日や公休日の者も訓練を休むことは事実上困難であったこと、救助隊員は、署の名誉を背負って救助大会で優秀な成績を収めようとし、全国大会へ向けての意気込みが盛んであったこと、大会訓練には救助隊員全員が参加するのが実態であることなどからすると、大会訓練が各人の自主性に委ねられていたというのは実態に適合しない見方であって、公務の一環として、その職務の遂行として行うことが予定され、かつ、隊員にもそのように認識されていたものというべきである。

4  なお、六月三〇日開催の県大会が終了してから後の太郎の勤務状況は、被告の指摘するように、六月中におけるそれよりも比較的軽度であったと認めることができるが、前記認定のとおり、太郎は、関東大会に出場することとなった荒井隊員のために安全管理者として協力していたのであり、ウォーミングアップなどを荒井隊員と同様に行い、また、同隊員に模範を示したりしており、六月中ほどではないにしても相変わらず公務として相当に激しい運動を続けていたと認めることができ、身体に対する負荷も決して軽くなかったということができる。

また、本件災害発生の直前にしていたランニングも、荒井隊員の大会訓練に協力する公務の一環としてしていたものであり、致死性不整脈を発症した三周目については明らかではないものの、二周目までは相当に速い速度で走っていたことが認められ、身体に対する負荷は軽くなかったと考えられる。

四  公務起因性についての判断

1  前判示の諸事実に照らし、太郎が発症した致死性不整脈ないしその基礎疾患と公務の身体に対する負荷との関係について検討するに、太郎が最初に胸苦しさを訴えた平成元年二月ころ以降、六月初めに大会訓練を開始するまで、太郎の心臓の変調を窺わせるエピソードとしては、太郎が春ころに体力的な衰えや疲労感を述べたことがあるという程度であるのに対し、大会訓練の開始以降、あたかもこれと軌を一にするようにして、特に訓練を行っているときに、胸の痛み、脈の乱れないし体調不良をしばしば訴えるようになったこと、大会訓練の内容は、前記のとおりそれ自体で身体に対する負荷の極めて大きいものであり、大会にかける意気込みの強さによりそれは増幅され、当直勤務明けという厳しい状態とも相まって疲労を回復できないような日程の中で右のような大会訓練が繰り返されたことに照らし、かつ、この大会訓練に匹敵するほど心臓に負荷を与えるものが太郎の生活上他にあったとする証拠は見当たらず、大会訓練開始以後二か月足らずのうちに本件致死性不整脈を発症したことをも併せ考慮すれば、太郎が遅くとも同年二月ころ発症した器質的基礎疾患は発症当初においては直ちに死亡を招くほどのものであったとは考えにくく、むしろ、通常の勤務及び私生活を続けている限りにおいては、生命に対する危険の切迫しないものであった蓋然性が高いと認めることができるのであり、大会訓練を含む公務による負荷が自然的経過を超えて太郎の基礎疾患を増悪させ、七月の暑さと、直前のランニングによる負荷を契機として、本件致死性不整脈を惹起させたものであると認めることができる。

2  もっとも、太郎は、前記認定のとおり、自ら脈の乱れについての自覚(疑い)を持ち、体調不良を訴えながら、医師の診療を受けることなく、また、激しい大会訓練や自主錬成を自制することもなく、本件致死性不整脈を発症するに至ったのであり、そこには太郎の自己の身体に対する健康管理の懈怠を指摘し得ないではない。しかしながら、右不整脈はさほど頻繁に生じていたものではなく、それがために日常生活に支障があったとまでは認められないこと、太郎自身も、心不全ないし不整脈が生命にかかわるものとは認識していなかったことが窺われること(症状がほさど重くなかったため、このように考えること自体はやむを得ないものと考えられる。)からすると、太郎が医師の診療を受けず大会訓練に没頭していたことを一概に非難することはできず、これを公務起因性を判断するに当たって重視するのは相当でない。

3  被告は、六月末に太郎自身の大会訓練は終了したのであるから、その後、本件災害に至るまでの三週間余りの間は、過度に太郎の心臓に負担がかかるような、また、同人の身体に疲労を蓄積させるような訓練ないし公務はしていなかったと指摘して、大会訓練と本件致死性不整脈発症との関連性を否定すべきであると主張する。しかし、太郎は、六月ほどではないにしても、七月に入ってからも相当激しい運動を続けていたのであるし、また、本件致死性不整脈発症は、単純な疲労の蓄積やストレスの持続によるものではなく、器質的障害を伴う基礎疾患の増悪によるものと推認されるのであって、一般にその種の基礎疾患に増悪が生じた場合には、通常の生活を続けていながらこれが回復、改善するものとも考え難いのであるから、自己の大会出場のための訓練が終了してから三週間余の後に本件致死性不整脈を発症したからといって、そのことが右訓練と本件致死性不整脈との間の関連性を否定する根拠となるということはできない。

4  さらに、被告は、同じような公務を行っていた同僚隊員が発症せず、太郎のみ致死性不整脈を発症したことを理由として太郎の死亡は同人に内在する疾病によって引き起こされたものである旨主張するが、確かに同人の致死性不整脈は、器質的な基礎疾患が増悪して発症したものであるとはいえ、前判示のとおり通常の勤務に就いていれば死に至るまでの転帰をたどることはなかったと考えられるのに、大会訓練を含む過重公務により増悪したのであるから、右の点は公務起因性を否定する理由にはならない。

5  右に判示したところによれば、本件災害は、大会訓練を含む太郎の従事していた公務に内在する危険が現実化したものであり、公務と本件災害との間には、相当因果関係の存在を肯認し得るというべきである。

五  結論

以上の次第で、本件災害は公務に起因するものと認められるから、これと異なる判断に基づく本件処分は違法であり、その取消しを求める原告の本訴請求は理由がある。

よって、原告の請求を認容することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 齋藤隆 裁判官 針塚遵 裁判官 島田尚登)

別紙(一) 勤務状況一覧表(原告主張分 編集部注=抜粋)

4/1~4/30

<省略>

6/1~6/30

<省略>

別紙(二) 勤務状況一覧表(被告主張分)

<省略>

別紙(三) 太郎の勤務状況(平成元年4月)

別表1

平成元年4月 太郎の勤務状況について

<省略>

別紙(四) 太郎の勤務状況(平成元年6月)

別表2

平成元年6月 太郎の勤務状況について

<省略>

別紙(五) 太郎の勤務状況(平成元年7月)

別表3

平成元年7月 太郎の勤務状況について

<省略>

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