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釧路地方裁判所 昭和37年(ヨ)13号 判決 1963年9月03日

判   決

北海道白糠郡音別町字尺別炭礦緑町二丁目番外地

申請人

泉信夫

(ほか八名)

右九名訴訟代理人弁護士

佐伯静治

彦坂敏尚

藤本正

村井正義

林信一

南山富吉

東京都千代田区丸ノ内一丁目二番地

被申請人

雄別炭礦株式会社

右代表者代表取締役

片岡良太郎

右訴訟代理人弁護士

岩沢誠

泉功

泉敬

神垣秀六

松崎正躬

渡辺修

右当事者間の昭和三七年(ヨ)第一三号雇傭契約上の地位保全の仮処分申請事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

申請人らが被申請人に対し雇傭契約上の権利を有する地位を仮に定める。

申請費用は被申請人の負担とする。

事実

第一  申立

一  申請人らの申立

主文第一項と同旨。

二  被申請人の申立

申請人らの申請をいずれも却下する。

第二  主張

一  申請の理由

1  当事者間の雇傭関係と解雇の意思表示

被申請人は、石炭の採掘、販売などを目的とする株式会社であつて、北海道白糠郡音別町に尺別礦業所を置いているほか、道内に雄別、茂尻の各礦業所を置いている。

申請人らは、いずれも被申請人に雇傭され、尺別礦業所に勤務していたが、昭和三七年一月二〇日付で被申請人から、「昭和三六年五月二九日付中央協定書第二項ならびに同議事録抜萃により、昭和三七年一月二二日付をもつて解雇する。」旨の意思表示を受けた。

2  本件解雇の無効理由

本件解雇の理由の要旨は、「申請人らは、かねてから被申請人の生産を阻害する行為をしていたが、昭和三六年一〇月五日項、申請人らの間で『今後の行動について』と題する文書(以下「本件文書」という。)を作成回覧して具体的な生産阻害行為を共謀企図するに至つた。」というにある。

(一) 解雇権の濫用

申請人らは、解雇理由とされている本件文書を作成回覧して具体的な生産阻害行為を共謀企図した事実はなく、また現実に生産を阻害する行為をしたこともない。

したがつて、本件解雇は、なんらその理由がないのにされたもので、権利の濫用として無効である。

(二) 解雇権の不存在

(1) 被申請人の職場には、尺別礦業所の従業員で組織され、本件解雇の当時申請人らが所属していた尺別労働組合(以下「組合」という。)のほかに、雄別、茂尻の各礦業所の従業員で組織されている労働組合があり、これらの組合が雄別炭礦株式会社労働組合連合会(以下「連合会」という。)を構成している。

本件解雇にいわゆる昭和三六年五月二九日付中央協定書(以下「第二次中央協定」という。)とは、同日被申請人と連合会との間に成立した書面による協定であり、同議事録抜萃(以下「議事録抜萃」という。)とは同日の団体交渉の経過を抜萃して記録した書面であつて、第二次中央協定の第二項およびこれに関連する議事録抜萃(以下両者を「第二次中央協定等」と総称する。)の内容は、別紙二に記載のとおりである。

(2) 第二次中央協定等は、被申請人がいわゆる生産阻害行為を理由としてその従業員を解雇するについての基準を設定し、その基準に該当しない者は、生産阻害行為を理由としては解雇しないことを明らかにしたもので、その性質は労働協約である。ところで、申請人らが生産阻害行為等をしたものでないことは前記のとおりである。したがつて、本件解雇は解雇権が存在しない場合になされたものというべきであるから、無効である。

(三) 公序違反

申請人泉信夫、同高橋与市、同追泉平次郎、同峰田民男、同高橋敬二および同中田義雄の六名は日本共産党の党員であり、申請人早坂清次、同横沢武および同平間信一の三名は同党々員ではなかつたが、申請人らはいずれも組合の上部団体である日本炭礦労働組合(以下「炭労」という。)の方針に基づく職場闘争、すなわち職場における労働条件の維持向上や組織の確立のために組合員の先頭に立つて活躍して来た。その内容は後記三2においてのべるとおりである。被申請人は、申請人らが日本共産党員ないしはその同調者であることおよび右のように積極的に正当な組合活動をしたことを嫌悪し、これを決定的な理由に本件解雇に及んだのである。したがつて、本件解雇は申請人らの政治的信条ならびに正当な組合活動を理由とする差別的な不利益取り扱いであり、憲法第一四条第一項、労働基準法第三条および労働組合法第七条第一号に牴触するものであつて、労使間の公序に違反し、無効である。

3  保全の必要

以上のとおり、申請人らはいずれも、なお、被申請人に対し雇傭契約上の権利を有する地位にある。しかし、本案判決の確定を待つていては、賃金を唯一の生活資源とする申請人らは、被申請人から被解雇者として取り扱われることによつて回復することのできない損害を被るおそれがある。

二  被申請人の答弁及び主張

1  答弁

申請の理由のうち1、2の冒頭の事実、2(二)(1)の事実を認め、2(一)、2(二)(2)の各事実を否認し、2(三)の主張を争う。

2  本件解雇の効力に関する被申請人の主張

(一) 本件解雇の理由

(1) 本件文書の作成、回覧などによる生産阻害行為の共謀

申請人らは、かねてから個々に、あるいは互いに意を通じて被申請人の生産を阻害する行為をしていたが(後記(2)従前の生産阻害行為参照)、昭和三六年九月頃本件文書を秘密に回覧して積極的な生産阻害行為を現実に共謀企図するに至つた。すなわち、被申請人は、同年一〇月五日本件文書を入手したが、その中の一項には、生産の妨害と題して、「生産の妨害について指示を与える。ベルト・コンベア・チエン・コンベア、軌道等に障害を加えて生産を妨害する。」と記載されており、その末尾には、回覧すべき者として、「早坂、新居、高橋、中田、峰田、追泉、平間、横沢」(他に抹消されているため判読不能の者一名)と記載されている。被申請人が調査したところ、右指令を発出した者は申請人高橋与市であり、本件文書を作成した者は申請人泉であること、本件文書はその末尾に記載された者に順次回覧されたことが判明した。したがつて、申請人らは、申請人高橋与市の指令に基づき申請人泉が作成した本件文書をその余の申請人らに順次回覧することによつて、具体的な生産阻害行為を共謀企図したものである。

(2) 従前の生産阻害行為

申請人泉および同追泉は尺別礦業所坑務課整備係(通気関係、なお昭和三六年六月までは保安係という名称であつた。また、申請人泉は昭和三五年三月から本件解雇の当時まで組合業務の専従者であつた。)に、申請人峰田および同高橋与市は同課東卸係に、申請人高橋敬二、同横沢および同平間は同課北卸係に、申請人中田は同課運搬係(ただし、昭和三五年五月より同三六年一月までの間は懲戒処分により坑外作業に従事していた。)に、申請人早坂は工作課電気係(坑内電車運転)に、それぞれ所属していたが、昭和三四年中頃以降新居昭七を加えて特殊のグループを形成し、統一的な意思に基づいて行動してきた。特に、昭和三四年六月、炭労の指令に基づくいわゆる大衆行動が激発した際には、連日のように会合を開き、大衆行動の誘発、実行を謀議し、互に緊密な連絡を保ちつつ現場において一般の組合員を煽動し、事態を激化させたばかりでなく、日常の作業についても作業の懈怠、拒否などの生産阻害活動を展開することを申し合わせてこれを実行し、大衆行動が一段落した昭和三四年七月下旬以降においても毎月二回程度会合して、グループ内の意思統一や情報の交換にあたり、その統一された意思に従つて申請人らの所属する各職場において生産阻害行為を行なつてきた。その主な事例をあげれば、次のとおりである。

(イ) 大衆行動

申請人らは、組合が昭和三四年六月炭労の指令により大衆行動を実施した際、組合執行部の統制に服さず、独自の立場から同年六月上旬以降七月中旬までの間二〇回以上にわたつて一般組合員を煽動して被申請人側の職員を吊し上げ、被申請人の業務の遂行に著しい障害を与えた。

(ロ) 一斉休憩

坑内作業における休憩は係員の指示により適宜に交替して与えられる建前になつていた。ただ、昭和三三年頃までは争議手段の一として一斉に休憩をとることがあり、また、昭和三四年に企業整備反対闘争の一環として行なわれた職場闘争や大衆行動の期間中はこの手段が、連日のようにとられたことがある。しかし、同年七月下旬大衆行動が一段落するとともに、係員の指示による交替休憩の建前に戻りつつあつたのに、坑内作業に従事していた申請人ら(但し、申請人泉および同中田については前記坑内作業に従事していない期間を除く。)は、昭和三六年一一月まで常時係員あるいは礦員の指導監督の地位にある大先山の指示をまたずに勝手に休憩し、機会あるごとに係員に対し一斉休憩を要求し、また一般の従業員に対しても一斉に休憩をとるよう呼びかけ、係員の指示に従つて作業をしている同僚を難詰するような状態であつた。

また、申請人らのうち、特に平間、横沢および高橋敬二は昭和三四年秋頃から昭和三五年秋頃までの間しばしば係員や助手に対し休憩時間中にカッターあるいはパンツァー・コンベアの運転をすると標準作業量が引き上げられ、労働強化になるとして、その運転の停止を脅迫的言辞をもつて要求し、昭和三五年秋頃以降においては事実上係員が休憩時間中に作業をすることが不可能となつた。この状態は申請人峰田および同高橋与市の所属する職場でも同様であつた。申請人中田は坑口連絡員として勤務中、勝手に休憩時間であると称して係員から指示されても作業せず、係員が自ら作業をしようとすると文句をいつて止めさせたことがしばしばあつた。

(ハ) 休憩時間の引きのばし

尺別礦業所の採炭現場(東卸及び北卸)における休憩時間は作業を停止した時から作業に復帰した時までで計算される建前になつていた。右現場に所属していた申請人横沢、同平間、同高橋敬二、同峰田および同高橋与市は、昭和三三年中から係員に対し休憩時間の起算点は最後の者が休憩所に入つた時であると主張していたが、昭和三四年六月頃から強くこれを主張し、同年秋以降は係員が作業再開を指示しても従わないようになつた。また、この頃から、特に申請人平間、同横沢および同高橋敬二は休憩中に係員に対し無意味な質問をし、休憩時間の引きのばしを図つた。

(ニ) 身仕度時間の引きのばし

尺別礦業所における就業時間は、就業規則により繰込みの時から退勤の際繰込場を離れる時までで計算されることになつているが、実際には就業の前後に着替えや工具類の整理のため、いわゆる身仕度時間として若干の猶予時間が認められていた。ところが、申請人らのうち特に北卸係に属する平間、横沢および高橋敬二は昭和三四年六月頃からこの時間中に同僚に対し大衆行動に関する煽動的な情報宣伝活動を行ない、それが次第に長びいて通常認められた身仕度時間(二〇分前後)を超過して作業時間に喰い込むようになつた。この状態はその後も継続し、昭和三四年秋以降においては係員らの就業の指示に対し、他の番方ではもつと長い身仕度時間をとつていると反論してこれに服しないようになつた。ことに申請人横沢は昭和三五年五月から八月までの間従前のとおり大先山が係員と共に身仕度時間中に現場を点検するのを、他の従業員が落ち付かないと称して差し止めたり、終業時刻の一〇分以上前に同僚に呼びかけて休憩所へ引き上げてしまつたことがあつた。このようにして、身仕度時間は北卸係においては最低四〇分から最高六〇分、東卸係においては最低三四分から最高七四分という状態になつた。

(ホ) 終業時刻前の早出坑

申請人泉および同追泉は、昭和三四年四月から昭和三五年三月頃までの間において、通気夫として終業時刻までは職場を離れてはならないにもかかわらず、いつも一時間以上も前に勝手に出坑して坑外の保安小屋で将棋や花札などにふけつていた。また、申請人追泉は昭和三六年三月頃係員から坑道の密閉作業を命じられたところ、就業時間中に充分完了できるのに、いつものように早出坑したことがあつた。

(ヘ) カッペ延長中のパンツァー・コンベアの運転停止

申請人高橋敬二、同横沢および同平間は、昭和三四年六月頃から北卸における採炭作業の過程でカッペ(鉄梁)を延長する作業をしている間パンツァー・コンベアの運転を停止するよう係員に強く要求し、拒否されると自らあるいは他の従業員に指示して運転を停止するのが常であつた。特に申請人横沢は昭和三五年夏には係員がコンベアの運転を継続しながらカッペを延長するよう指示したのに対して、自ら運転を停止した上、係員が注意すると、万一の事故が発生したら責任を持つかとつめよつたことがあつたし、常々同僚に対して運転停止を煽動していた。

(ト) 送炭ベルトあるいはパンツァー・コンベアの運転停止

昭和三四年秋以降、申請人峰田および同高橋与市は東卸において、申請人平間、同横沢および同高橋敬二は北卸において、いずれも積込作業を採炭作業と同時に終了させるべきであると主張し、積込夫に作業をやめさせたため、係員が自ら積込作業をしなければならない状況にあつた。また、申請人峰田は昭和三五年三月にパンツァー番に配置された際、作業終了時刻の三〇分以上前に積込む石炭があるのに勝手にパンツァー・コンベアを停止して休憩所へ引き上げたことがあり、申請人高橋敬二は同年七月頃積込作業をすべき時間であるのに勝手に送炭ベルトの運転を停止したばかりか、係員の詰問に喰つてかかつたことがあつた。申請人平間および同横沢はしばしば入坑の際積込夫に対し、積込作業を切り上げる時刻を指示して作業の中止を煽動していた。

(チ) 下請労働者による出炭の運搬拒否

尺別礦業所において昭和三二年中頃から昭和三六年を初め頃までの間下請業者に旧坑の接収作業を請負わせたことがあり、その作業伴なつて出炭があつたところ、当時坑内電車の運転手であつた申請人早坂は下請業者の出した石炭は運搬しないと主張して作業を拒否し、係員らに注意されても改めなかつた。

(リ) 時間外労働の拒否

申請人らは昭和三三年頃から時間外労働をすれば標準作業量が引き上げられる結果になるとして時間外労働を拒否すると主張していたが、昭和三四年になつて申請人平間、同横沢および同高橋敬二は北卸において同僚に時間外労働を拒否させる運動を行ない、申請人平間および同高橋敬二は昭和三四年四月保安上緊急の必要がある山固め作業のため休日出勤を命ぜられた採炭夫などに出勤を拒否するよう極力煽動し、申請人横沢も同月中に同様出勤を命ぜられた掘進夫を煽動して出勤を思い止まらせたことがあり、また昭和三五年五月頃北卸において係員に時間外労働によつて積込作業をすると後で困ることが起るなどと脅迫的言辞を吐き、そのため昭和三六年一一月まで時間外労働による残炭積込は事実上不可能となつた。申請人中田は、被申請人と組合との間で了解のついているストライキ当日の三番方の残業による配函作業を同僚に呼びかけて拒否させた。さらに、申請人平間および同横沢は、昭和三四年秋頃から時間外労働を輸番制によつて行なうよう要求し始め、昭和三五年六月頃には採炭現場の休憩所内に勝手に輸番制による残業番割表をはり出した。そのため被申請人もやむなく輸番制にふみ切つたが、当番者で勝手に帰宅する者が続出して作業に支障を生じたので、約三ケ月で旧に復した。この間北卸における時間外労働は著しく円滑を欠き、作業に大きな悪影響を及ぼした。

(ヌ) 一般従業員に対する作業懈怠の煽動

申請人らは昭和三四年初め頃より同三六年一〇月頃までの間常に一般の従業員に対して作業の懈怠を煽動していた。主な事例をあげると、申請人泉および同追泉は昭和三五年一一月頃職場において同僚に対し、係員の指示があつても自分でできると思うだけやればよく、全部仕上げることはない、資本主義国では能率が上がると経営者が得をするだけで我々には何の恩恵もないのだから、などといつて、指示された作業を懈怠するよう煽動した。申請人追泉は昭和三四年五月通勤列車の中で同僚に対し、一生懸命働いて能率が上がれば標準作業量が引き上げられて労働強化になるから損だ、我々は時間だけ勤めればよいので能率を上げるよう骨を折ることはない、そのため会社がつぶれたつて構わないなどと煽動したり、昭和三六年夏には先山に対し、係員が作業を割り当ててもなるべく仕上げて来ないようにせよとそそのかしたり、昭和三六年七月頃同僚に対し、係員に命じられても一生懸命働くのはおかしい、相場こわしになるとつめより、作業懈怠を強要したことがあつた。申請人横沢および同平間は昭和三五年春頃職場で真面目な同僚に対し、仕事をやりすぎる、相場こわしだなどといつたり、申請人が中田は昭和三四年秋頃三番方方勤務の際同僚の棹取りをそそのかして終業時刻前に早出坑させ、申請人峰田は昭和三六年夏頃東卸において先山に対し、本来は三〇米にわたつてするのが建前である抜柱作業を二〇米以上はやる心要がないといつて、作業懈怠を煽動した。

(ル) 係員に対する不服従、不当要求

申請人らは、従業員の作業を指揮監督する係員の指示に難癖をつけたり、不当な要求を持ち出して困惑させたりして、職場規律を紊乱させ、生産能率を低下させようとした。すなわち、申請人泉および同追泉は昭和三四年五月、それまで実施されていなかつた岩粉密閉手当を要求し、これに応じなければ作業を拒否すると称してついにこれを獲得した。また、昭和三四年六月から七月にかけて、従来状況により三名から五名を係員の判断で配置していた風管延長作業に最低四名を必ず配置することや、保安係において主任が配置の指示にあたることを要求したり、同年九月坑内要員を本人の希望により坑外作業につかせたのに対し、坑内作業の取り扱いをすることを要求したり、更に同年七月組合が同意しているのに組夫と共同して行なう扇状風道の撤去作業を拒否し、同年一〇月頃採炭現場移設に伴なう便所の移転作業に配置された際作業を拒否したことがあつた。申請人峰田は昭和三四年六月係員がストライキ中の保安要員に採炭現場の管理上必要な立柱抜柱の作業を命じたのに対し、保安作業の範囲外であると主張して作業をさせず、被申請人がこの点について組合の了解を得た後においてもその態度を改めなかつたし、昭和三六年一一月東卸係の現場撤去作業の際先山の指示に対し、そんなに沢山作業をしなくてもよいと文句をいつて作業を抑制しようとしたことがあつた。申請人横沢および同平間は昭和三四年秋から昭和三五年春頃まで北卸の降水の多い採炭現場で作業をした際、係員や大先山を無視し、水にぬれたから出坑せよといつて勝手に同僚を早出坑させたり、自らも勝手に就業時間中に早出坑することが度々あつたし、昭和三五年二月頃配属されて来た新任の係員に対し、この職場では勝手な真似はさせないぞなどと威嚇したことがあつたほか、同年春頃には降水手当を、同年秋頃には空残業手当を要求して獲得したことがあつた。

(ヲ) 勤務成績の不良

前述したところからも明らかなように、申請人らの勤務成績は極めて不良であつた。これは単なる怠惰というよりは、申請人らの反企業的意思の発現とみるべきものであるが、前述の事例の外に、次のようなことがあつた。

(a) 申請人泉は比較的優秀な技倆を有するにかかわらず、日常作業は極めて怠慢であり、昭和三四年五月頃扇状風道の風管撤去作業に配置されたときには、多少自然状態が悪いときでも一二・三本は搬出できるのに、七・八本を搬出しただけでやめてしまうという状態であつた。

(b) 申請人早坂は昭和三五年春頃から昭和三六年一〇月頃までにかけて就業時間中休眠したり、電車に乗務中居眠り運転をしたりすることがしばしばあり、昭和三五年春頃には酩酊して出勤したため乗務できないことがあつた。また、勤務状態が極めて不良なため、同僚から共同作業をすることを忌避され、やむなく単独作業の電車運転に配置されたのであるが、そこでも同僚から交迭を求める声が強くなつたけれども、電気係において復帰を望まないため、交替できなかつたほどである。

(c) 申請人追泉は昭和三五年二月頃就業時間中に申請人泉と話し込んでいたり、昭和三六年三月坑道密閉作業に配置された際作業の途中で勝手に早出坑したり、就業時間の半ばを過ぎるまで現場に現われなかつたり、しつくい練りや風管のボルト切り作業などにあたつては通常の作業量の三分の一から四分の一しか仕上げないような状態であつた。

(d) 申請人峰田は休眠の常習者で昭和三四年一一月中の休眠行為により出勤停止五日の懲戒処分に処せられたのに、その後もこれを改めず、昭和三五年春には立柱作業中に休眠し、昭和三六年七月頃には三回位パンツァー・コンベア番として勤務中に休眠し、そのため、チエンに石炭がまき込まれてコンベアが停止するという事故を起したことがあつた。また同じ頃他の従業員と同様に作業すれば完了できたのに、ことさらごく少数の抜柱をせずにやめてしまつたり、同年一〇月頃大流しに石炭が滞流しているのを承知の上で放置したことがあつた。

(e) 申請人中田も昭和三四年一二年中の休眠行為で懲戒処分を受けたが、昭和三四年秋から同三五年春にかけて同僚を煽動して交替休眠をした。また、坑口連絡員として勤務中交替者が交替時刻前に出勤して来たのを奇貨として、勝手に職場を離れて入浴したことがあつたし、昭和三六年六月頃尺浦墜道仕繰現場に配置された際、休憩時間中に坑外へ出て作業開始時刻に二〇分以上も遅れたことがあつた。

(3) 被申請人は、申請人らが本件文書の作成回覧などにより具体的な生産阻害行為を共謀して企図していたことのほか、(2)に詳述した従前の行動によつて徴表される申請人らの企業破壊の危険性をも考慮し、第二次中央協定等の趣旨により、申請人らを解雇することとし、労働協約第一五条に基づき組合および連合会と協議の上、本件解雇をしたのである。なお、組合は昭和三七年一月二四日被申請人に対し本件解雇を容認する旨通告し、連合会も同年二月二日の団体交渉において同様の意思を表明した。

(二) 第二次中央協定等の成立の経緯とその性質

被申請人は、石炭産業全般にわたる深刻な危機に際し、昭和三四年四月以降企業の合理化による経営の改善を企図してきたが、合理化の前提となる職場規律の確立、生産阻害者の排除について、連合会との間に長期にわたる団体交渉を行つた結果、昭和三四年一一月三〇日付の中央協定およびこれに附随して取り交わされた了解事項ならびに同日付議事録抜萃(以下これらを「第一次中央協定等」という。)によつて、別紙一の1に記載のとおりの一連の合意が成立した。その後合理化の実績の上らない茂尻礦業所の再建対策などに関する団体交渉が行われた上、昭和三五年八月一一日付で被申請人と連合会との間に取り交わされた覚書第七項および同日付議事録抜萃により、別紙一の2記載のとおり、第一次中央協定等の趣旨が再確認されると共に、職場規律を紊乱する者に対する措置についても具体的な合意が成立した。ところが石炭産業の不況はますます深刻化するに至り、被申請人は更に徹底した合理化計画の実施をせまられ、昭和三五年一一月からその実施にのり出したのであるが、ここにおいて、生産阻害者の存在する限り操業の技術的改善は無為にひとしく、このような反企業的従業員を排除することこそ企業再建の必須の前提であるという点について労使の意見が一致し、その結果、第二次中央協定等が成立するに至つたのである。

ところで、被申請人の就業規則や、被申請人と連合会との間の労働協約に解雇事由に定めがなく、第二次中央協定等の成立の経緯とその内容が前記のとおりであるところからみて、右協定等が申請人らの主張するように、生産阻害者に対する解雇の基準を設定し、それに該当しない場合の解雇を制限したものであると解することはできない。

(三) 上述したところから明らかなように、本件解雇は、解雇権の濫用によるものではなく、また解雇権が存在しない場合になされたものでもなく、いわんや申請人らの政治的信条や正当な組合活動を理由にして行われたものでもない。

三  被申請人の主張に対する申請人らの答弁および反論

1  答弁

(一) 前記二2(一)(1)記載の事実中、被申請人が本件文書を入手したことは知らない、申請人らがかねてから個々にあるいは意を通じて生産阻害行為をしていたこと、申請人高橋与市が本件文書に記載された指令を出したこと、および申請人泉が本件文書を作成し、その余の申請人らがこれを回覧したことは否認する。

(二) 同二2(一)(1)冒頭記載の事実のうち、申請人らの所属が被申請人主張のとおりであること(ただし、申請人中田は昭和三五年六月から坑外鉄道保線、昭和三六年一月から仕繰の職場に所属していた。)、(イ)のうち、炭労から昭和三四年六月組合に指令があつたこと、(ロ)のうち、組合が争議手段の一として一斉休憩を実施したこと、(ニ)のうち、申請人平間、同横沢および同高橋敬二が身仕度時間内に情報宣伝活動を行い、時には時間が若干のびたことがあること、(ホ)のうち、申請人泉および同追泉が早出坑し、将棋や花札をしたことがあること、(ヘ)のうち、カッペの延長作業中パンツアー・コンベアの運転を停止していたことがあること、(チ)のうち、下請業者による旧坑撤去作業中出炭があり、その運搬を申請人早坂が拒否したこと、(リ)のうち、時間外労働について輪番制がとられたこと、(ル)のうち、申請人泉および同追泉が岩紛密閉手当を要求してこれを獲得し、風管延長作業に最低四名の配置を要求したこと、坑外作業者に坑内作業の取り扱いをするよう要求したこと、申請人平間および同横沢が降水手当を要求して獲得したこと、(ヲ)のうち、申請人中田が坑口連絡員として勤務した際終業時刻前に入浴したこと、および尺浦墜道仕繰現場に配置された際休憩時間中に坑外へ出たこと、申請人峰田および同中田が懲戒処分を受けたことは認めるが、その余の事実は全部否認する。

(三) 同二2(一)(3)記載の事実中、被申請人が労働協約第一五条に基づき組合および連合会と協議したこと、組合および連合会が被申請人に対し本件解雇を容認する旨の意思を表明したことは認める。

(四) 同二2(二)記載の事実を認め、主張を争う。

2  反論

被申請人が申請人らの生産阻害行為として主張する各事実は、以下に詳述するとおり、いずれも事実無根であるか、あるいは申請人らが行つた正当な組合活動にほかならない。

(一) 大衆行動について

申請人らは昭和三四年六月被申請人外二社の企業整備に対する反対闘争にあたり、炭労の指令に基づいて組合の行つた大衆行動に常に積極的に参加したが、これはあくまで組合の統制の下に行われたものである。

(二) 一斉休憩について

(1) 申請人らは、他の礦員と同様、すべて大先山の指示によつて休憩をとつていたのであつて、その指示を無視して休憩をとつたことはない。大先山は保安上、あるいは作業の必要上交替して休憩をとることを指示したこともあるし、その必要のないときは同時に休憩をとることを指示していた。なお、係員が休憩について直接申請人ら礦員に指示をしたことはない。

(2) 係員や助手が礦員の休憩中に発破をかけたり、パンツアー・コンベアを運転したり、礦員の作業とされていることをやつたりすることがしばしばあり、その結果パンツアー・コンベアのチェンが切れたり、積込夫が全然休憩をとれなくなつたり、休憩後の作業が円滑に運ばれなかつたりするため、職場で不満が強かつたので、申請人らがこれに抗議したことが数回ある。

(3) また、坑口連絡員は一名しか配置されていなかつたため、適宜休憩をとることになつていたので、申請人中田も通例に従つていた。ところが、このような休憩時間中に係員が坑口連絡員心得に反し、作業を行うことがあつたので、申請人中田が職責上注意したことがあつた。

(三) 休憩時間の引きのばしについて

(1) 礦員の間では休憩時間は休憩所に入つてから出るまでといわれていたが、実際には作業停止から復帰までとされていたので、申請人峰田が昭和三四年の闘争中にその旨を係員に申し出たことがある。しかしその時も大先山から作業復帰を指示されたので、すぐこれに従つた。また申請人峰田は、遅れて休憩所に入つたため時間一杯の休憩をとれないことがあつた礦員から不満をもらされたので、正しく休憩を与えるよう係員に注意したことが何度かあつた。

(2) その余の申請人らが休憩時間について係員に主張したことはない。ただ、休憩時間中に礦員の間で職場の労働条件について種々の不満が出されることがあり、申請人らがそのうちの正当なものについて居合わせた係員に実施を要求し、交渉することがあつたが、休憩時間の引のばしのため無意味な質問をしたり、交渉のため休憩時間が延長されたこともない。

(四) 身仕度時間の引きのばしについて

(1) 身仕度時間は入出礦時を合わせて三、四〇分であるのが従前からの例であり、昭和三四年頃からそれが長くなつたり、申請人らがそれを引きのばしたりしたことはない。

(2) 組合の幹事などをしていた申請人平間、同横沢、同高橋敬二および同峰田が身仕度時間内に情報宣伝をすることや、質問などのため若干時間がのびたりすることは係員や大先山も認めており、注意を受けたことはない。ただ、申請人峰田が一度注意されたことがあるけれどもすぐ注意に従つている。

(五) 終業時刻前の早出坑について

申請人泉および同追泉の属する電気関係の職場では古くから早出坑が慣行となつていた。この点は係員からの注意もあつて、除々に改めて来ていた。

(六) カッペ延長作業中のパンツアー・コンベアの運転停止について

カッペ延長中にパンツアー・コンベアを運転することは保安上危険があるので、北卸では停止するようにしていた。ところが採炭優先を考える係員が危険を無視して運転することがしばしばあるので、その都度大先山を始め礦員のうちスイッチに近い者がすぐ電源を切断して事故の発生を未然に防いでいた。これは申請人らの属する番方だけでなく、北卸で一般に行われていたことである。

(七) 送炭ベルトあるいはパンツアー・コンベアの運転停止について

人車の発車時刻が迫つているのに係員が積込作業をやめないので、積込夫が作業を終えることができないという苦情があつたので、申請人らがこれを係員に申し入れたことはあるが、採炭作業と同時に積込作業を終了すべきであると主張したり、運転を停止したりしたことはない。

(八) 下請労働者による出炭の運搬拒否について

これは闘争中に組合の指令に基づいて行われたものである。

(九) 時間外労働の拒否について

残業を輪番制で実施するよう要求し、実現させたのは、時間外労働が公平に割り当てられるようにするため、職場の総意に基づいて申請人らが積極的に活動した結果である。ただ北卸係で一時当番者が帰宅してしまつたことがあつたが、それは当時の現場が降水のある所であつたため、残業を嫌う者があつたという事情によるものである。

(十) 一般従業員に対する作業懈怠の煽動について

申請人泉および同追泉の言辞は社会主義の立場からみた当然の事理を説くものであつて、作業懈怠を煽動したものではない。また、棹取りの係が一般の礦員より早く出坑するのは古くからの慣行であつて、申請人中田が早出坑をそそのかしたわけではなく、慣行どおりに出坑したにすぎない。

(十一) 係員に対する不服従、不当要求について

(1) 岩粉散布作業については協定により特別手当が支給されることになつていた。ところが当時新たに岩粉密閉作業が行われるようになつたが、これは散布作業と同様の労苦を伴う作業であるため、当然同様の手当が支給されるべきであり、それが支給されない限り作業はできないというのが職場の総意であつた。そこで申請人泉および同追泉が代表として坑務課長代理に交渉し、被申請人も右要求の正当性を認めて支給を了承したのである。

(2) 風管には鉄製および布製でそれぞれ円周と長さの異つた四種のものがあり、そのうち鉄製の円周六尺で長さ八尺のものと六尺のものを使用する場合は重量があつて危険なため、申請人泉および同追泉は昭和三三年春頃から職場の総意に基づいて、必ず四名を配置するよう要求していた。また、他の係では係員が礦員の配置の指示にあたつていたのに保安係だけ組合員である助手がこれにあたつていたため、配置にもめごとが多かつたので、他の係と同様係員に配置の指示をさせたらどうかと職場で話し合い、これを助手に申し出たことがある。

(3) 扇状風道の風管撤去作業を組夫と共同して行うようにという話があつたことはあるが、これはもともと直轄の従業員が行うべきものであつたので、組合を通じて被申請人と交渉した結果、組合の主張が認められて直轄の従業員が作業にあたることになつたもので、配置されたものが勝手に拒否したことはない。

(4) 従来坑内作業員が健康上理由などで坑外作業についた場合、坑内作業の賃金が支給される慣例があつた。ところが昭和三四年九月に被申請人がこの慣例に従わなかつたことがあつたので、職場の要求に基づき申請人泉および同追泉が坑内賃金を支給するよう要求したのである。

(5) ストライキ中の保安要員は作業現場を維持するため、労使間で人数と場所を協議の上、出していた。しかし、被申請人が昭和三〇年頃から保安要員に保安作業を行わせずにストライキの翌日の出炭準備作業を行わせることがしばしばあつたため、申請人峰田がこれに抗議したことはあるが、立柱、抜柱の作業を拒否させたことはない。

(6) 昭和三四年秋から昭和三五年春頃までの北卸係の採炭現場は降水が多かつたため、作業員の中で特に水にぬれた者は休憩をとらずに続けて作業を行い、休憩時間分だけ早出坑するのが慣行となつていた。被申請人主張の場合も係員や大先山が了承した上でのことであつて、申請人平間や同横沢が勝手に出坑させたわけではなく、また自らも係員の指示で出坑したのである。また、降水手当は労使間の協定の趣旨によれば当然支給されるべきものであるのに支給されなかつたので、職場の要求として交渉した結果、被申請人もその正当性を認めて支給するようになつたのである。

(十二) 勤務成績の不良について

(1) 申請人泉の風管撤去作業については、通常七・八本以上は搬出きでないものであるから、申請人泉の勤務成績の不良を示すものではない。

(2) 申請人早坂が飲酒して出勤したことは一回ある。それは昭和三六年三月上旬被申請人の招宴に出席した際のことであり、飲酒はしていたが酩酊しておらず、電車運転の作業に差支えを生じたことはなかつた。

(3) 申請人峰田が少数の柱を残して抜柱作業を終了したことはあるが、誠意をもつてやつても完了できなかつたのである。

(4) 終業時刻前の入浴は悪習ではあるが、坑口連絡員の間では交替者が来合わせたときに、後を依頼して入浴することが行われており、申請人中田もこれに習つたのである。また、尺浦墜道は坑内ではなく、休憩時間中に現場を離れることは自由であつた。そこで申請人中田は休憩時間中に外へ出たのであるが、作業開始までには現場へ戻つており、遅刻したことはない。

第三  疎明(省略)。

理由

第一  当事者間の雇傭関係と本件解雇

申請人らがいずれも被申請人に雇傭されていたところ、昭和三七年一月二〇日付で本件解雇を受けたことは、当事者間に争いがない。

第二  本件解雇の効力

一  本件解雇の理由となつた事実

1  本件解雇の理由として、申請人らが本件文書を作成、回覧などして、具体的な生産阻害行為を共謀企図したという事実がとり上げられたことは、当事者間に争いがないところであるけれども、被申請人は、さらに右事実のほか、申請人らの従前の生産阻害行為(この判決の事実摘示欄第二の二2(一)(2)にかかげた事実)をも本件解雇の理由として考慮したものである旨主張する。そこで、まず、被申請人の主張する申請人らの従前の生産阻害行為が本件解雇の独立の理由の一とされたかどうかについて検討してみる。

(一) (疎明―省略) によると、次の事実が認められる。すなわち、被申請人は昭和三六年一一月四日組合に対し、申請人ら(および新居昭七、この節においては以下同じ。)の解雇に関して団体交渉を申し込み、同月六日から一一日までに尺別礦業所において組合との間に三回(以下「山許団交」という。)、同月一六日から二四日までに札幌市において連合会との間に六回(以下「札幌団交」という。)、同月二九日から昭和三七年一月一九日までに被申請人の本社において五回(以下「東京団交」という。なお、札幌団交および東京団交には、連合会の上部団体である炭労の役員も出席した。)、にわたる団体交渉を行つた。被申請人は、第一回の山許団交において、申請人らを昭和三六年一一月一五日付で解雇したい旨および同月六日付で出勤停止処分に付した旨を明らかにし、その理由として、被申請人が本件文書を入手し、右文書によると、申請人らが明白な生産妨害行為を企図していることが判明したこと、すなわち、後記認定のような内容の本件文書が申請人高橋与市の指令に基づき、申請人泉によつて作成され、その余の申請人らに回覧されたものであり、申請人らは平素から被申請人に非協力的なグループとして被申請人が警戒しつつあつた一群の中心的人物ばかりで、本件文書による指令が実行された場合には恐るべき結果が生じる旨説明した。そして三回にわたる山許団交においては、本件文書の入手経路、申請人らが右のようなグループを形成していたとする根拠や、組合側から要求した出勤停止処分の撤回、解雇の期日の延期などが主として協議された。その後被申請人は、組合側からの強い要求に基づき、昭和三六年一一月一一日付で連合会にあて、申請人らの解雇の期日を若干延期する旨通知した。札幌団交においては、もつぱら本件文書の入手経路、被申請人がこれを信用すべきものと認めた根拠、被申請人側の行つた筆蹟鑑定の結果(後に触れる遠藤鑑定書および一鷹鑑定書である。)について集中して論議が行われたが、最終の昭和三六年一一月二四日の札幌団交の席上、被申請人は申請人らを同月三〇日付で解雇する旨の意思を表明した。しかし、連合会側は、この間に炭労に設置された特別対策委員会の方針に基づき、炭労でも筆蹟鑑定を行うことになつたので、その結果を待つため、第一回東京団交において更に解雇の期日の延期を要求した結果、被申請人は再び右期日を延期した。そして、被申請人は、同年一二月一九日の第三回東京団交において、はじめて、申請人らが「平素被申請人に非協力的なグループとして被申請人の警戒しつつあつた一群の中心的人物である」ことを肯認するに足りる具体的事実についても調査の結果一部判明しているとし、申請人らは被申請人の生産に非協力的であるばかりでなく、係員の作業指示に故意に違反したり、業務を妨害したり、他人を煽動して作業妨害を行わせたりして、積極的に生産活動にブレーキをかける行為を行つてきたもので、本件文書による生産阻害行為の共謀だけでなく、右のような平素の生産阻害行為も解雇の理由になつている旨説明した。表申請人は、さらに、連合会側の要請により、申請人峰田については昭和三六年一〇月東卸において大流に滞留した石炭を係員の指示に従わず放置したことおよび同年六月パンツアー・コンベア番として勤務中の怠業による事故などの事実(この判決の事実摘示欄第二の二2(一)(2)(ラ)(d)の事実の一部)、申請人高橋敬二については昭和三五年七月北卸において送炭ベルトの電源スイッチを勝手に切断した事実(同(ト)の事実の一部)、申請人追泉については昭和三六年三月頃の遅刻および無断早出坑の事実(同(ヲ)(c)および(ホ)の事実の一部)、申請人横沢については昭和三四年四月公休日に出勤しようとした掘進夫に対し出勤拒否を煽動し、昭和三六年五月以降一斉休憩を煽動した事実(同(リ)および(ロ)の事実の一部)、申請人平間については昭和三四年以降の一斉休憩、休憩時間中のパンツアー・コンベアなどの停止を同僚に煽動し、係員に要求した事実(同(ロ)の事実の一部)、申請人早坂については電車の低速運転および居眠り運転の事実(同(ラ)(b)の事実の一部)、申請人中田については昭和三四年一一月作業指示を拒否したこと、棹取り人員の増員を要求し、増員後交替で休眠させたこと、および就業時間中に入浴あるいは休眠した事実(同(ヌ)および(ヲ)(e)の事実の一部)、をそれぞれ平素の生産阻害行為の事例として明らかにした。しかし、被申請人と連合会側の間で右のような事実について特段の討議はされなかつた。ところで連合会側では、昭和三六年一二月二三日、前記のように炭労で依頼した筆蹟鑑定の結果(後に触れる伊木鑑定書および高村鑑定書(1)がそれである。)に基づいて、申請人らの解雇を容認することができないとの態度を決定したため、その後開かれた同年一二月二四日および昭和三七年一月一九日の各団体交渉においては、両者の意見が対立したまま、昭和三七年一月二〇日に至つて本件解雇が行われた。以上の事実が認められ、右認定に反する疎明はない。

(二) 右認定の経緯によると、被申請人は昭和三六年一一月四日組合に団体交渉を申し入れた当時から申請人らに対する解雇の決意を固めており、団体交渉の過程において再度にわたり解雇の期日を延期しているけれども、一貫した当初の決意に基づいて本件解雇に及んだものであり、「右決意は申請人らが本件文書の作成回覧などにより、具体的な生産阻害行為を共謀した」ことに基づくものであつて、申請人らの従前の生産阻害行為なるものは、申請人らが平素から被申請人に非協力的なグループに属しており、したがつて本件文書による生産阻害行為の共謀が架空なものではなく、また、現実に実行されるおそれが充分にあるという被申請人の判断の素材として考慮されたものにすぎないこと、したがつて、前記認定のとおり、被申請人が、昭和三六年一二月一九日の東京団交において申請人らの平素の生産阻害行為も解雇の一理由である旨説明し、申請人らの一部についてその具体的事実を挙示したのは、従前の団交における被申請人の主張(申請人らが本件文書の作成回覧等によつて生産阻害行為を共謀したこと)の正当性を連合会側に承認させるためであつたことを推認することができるのである。

2  かくして、本件解雇の理由となつた事実は、申請人らが本件文書を作成、回覧などして、具体的な生産阻害行為を共謀企図したということに尽きるものというべきである。

二   本件解雇の理由となつた事実の存否

そこで、以下前記のような本件解雇の理由となつた事実が存在するかどうかについて判断する。

1  本件文書の存在とその内容

証人苫米地春郎の証言によれば、乙第一号証の一が複写機(トーコープ)によつて複写されたものであり、複写の対象となつた文書、すなわち本件文書が存在したことを認定することができるのであつて右認定に反する疎明はない。そして、乙第一号一証のによると、本件文書には、

「今後の行動について

一、組夫の組織作り

一、赤旗の拡大

一、生産の防害

生産の防害について指示を与へる

ベルトコンベア、チエンコンベア、軌道等に障害を加へて生産を防害する

一、執行部の正体を暴露する

以上

九月三十日 組合にて

本紙回覧の上は直ちに焼却の事

早坂、新居、高橋、中田、峰田

(判読不能) 追泉、平間、横沢」

という記載のあることが認められる(ただし、原文のまま、末尾二行に記載された姓のうち、追泉、早坂、中田、峰田、高橋、新居の各記載はいずれも抹消されており、右順序に矢印が付されている、また、末行冒頭の二字は判読不能である。)。

2 本件文書の作成者

(一)  そこで、本件文書が、被申請人の主張するように、申請人泉によつて作成されたものであるかどうかを、筆蹟その他の諸事情によつて検討することにする。

(1) まず、本件文書の筆蹟が申請人泉のものと認められるかどうかについて考えてみる。

疎明資料の中には、成立に争いのない甲第三号証の一(以下「伊木鑑定書」という。)、甲第五号証の一(以下「高村鑑定書(2)」という。)、弁論の全趣旨から真正に成立したものと認める甲第四号証の一(以下「藤田鑑定書」という。)、乙第二号証の一(以下「遠藤鑑定書」という。)、乙第三号証の一(以下「一鷹鑑定書」という。)、原本の存在および成立に争いのない乙第二一号証(以下「高村鑑定書(1)」という。)の六通の筆蹟鑑定書がある。そこで、以下に右各鑑定書の疎明価値を検討することとする。

(イ) 鑑定書の内容

前記各鑑定書によれば、それぞれの内容は次のとおりであることが認められる。

(a) 高村鑑定書(1)及び同鑑定書(2)

右鑑定書は、いずれも、本件文書の筆蹟と対照資料(甲第五号証の三ないし五で同号証の三、四の原本が申請人泉の自筆になるものであること、同号証の五が申請人泉の自筆になるものであることは当事者間に争がない。)の筆蹟とは同一人のものと認められる公算が極めて大であるという一応の結論を出している。右結論を下した根拠について、同鑑定書(1)は何もふれるところがなく、同鑑定書(2)は二個の類似点を挙示している。

(b) 遠藤鑑定書

右鑑定書は、鑑定資料として本件文書の複写版(乙第二号証の二)と、その対照資料に「尺別労働組合福祉共済規程」と題する書面の複写版(乙第三号証の三であつて、その原本が申請人泉の自筆になるものであることは、当事者間に争いがない。)を用い、両者の筆蹟が同一人のものであると推定するという結論を下すものである。同鑑定書は、その根拠として、両資料の筆蹟を拡大撮影したものを使用して、二七日項目にわたる両者の筆蹟の類似点を指摘する。一方、両者の相違点と認められるものとして一三項目を指摘するが、いずれも字体あるいは省略条件の相違ないしは運筆条件の相違に由来するもので、個別性の相違によるものではないとし、その他両者における仮名づかいの相違については、前者は速書されたものであり、後者は楷書で注意しつつ運筆されたものであつて、注意力の相違によると考える余地があるとして、両者を別異の筆蹟であると考えるべきではないと論定している。

(c) 一鷹鑑定書

右鑑定書は、鑑定資料として本件文書の複写版と、その対照資料に「誓約書」と題する書面の複写版乙第三号証の二で、その原本が申請人泉の自筆になるものであることは、当事者間に争いがない。)を用い、両者の筆蹟が同一人のものであるという結論を下している。同鑑定書は、その根拠として、両資料の筆者の書道能力がまつたく同一であること、文字の性質が同じであること、文字の癖が共通していること、文章の行がやや左曲りのところが多い点が共通していることを挙げ、文字の癖が共通であることの主要な例として、六項目を指摘している。

(d) 伊木鑑定書

右鑑定書は、鑑定資料として本件文書の複写版(甲第三号の二)と、対照資料に、尺別動員団一同から組合あての葉書、「第九回幹事会記録」と書いた書面(甲第三号証の三および四であつて、申請人泉の自筆になる文書であることは、当事者間に争いがない。)、「誓約書」と題する書面の複写版、「尺別労働組合福祉共済規程」と題する書面の複写版(甲第三号証の五および六で、その原本が申請人泉の自筆になるものであることは、当事者間に争いがない。)、「出張報告書」、「交渉経過」、「一般経過報告」、「第九回幹事会議事録」と題する各書面(甲第三号証の七ないし一〇で申請人泉の自筆になるものであることは当事者間に争いがない。)の複写版を用い、本件文書の筆蹟と対照資料の筆蹟とが同一であるか否か断定しがたいとするものである。同鑑定書は、両者の筆蹟の共通点として六項目を、相違点として二〇項目を指摘するほか、両者も文字が全体に右上がりであり、文字の下に引く画を長く引く書風が共通すること、前者には少数の字数中三個の誤字があるのに、後者には一字を除き誤字がないこと、前者で略字を使つていない文字につき後者ではすべて略字を使つていること、前者が旧仮名づかいであるのに、後者が一個所を除いて新仮名づかいであることなど筆法以外の点における類似と相違を指摘し、これらを総合して検討したうえ、前記相違点共通点には、ともに筆蹟異同の判断に有力な根拠を提供するものがあるが、いずれかといえば別異とする根拠の方に多少のウエイトがあるとも思われる、しかし、極め手となるものがない以上、同一の筆蹟であるとは断定しがたいと結論している。

(e) 藤田鑑定書

右鑑定書は、鑑定資料として本件文書の複写版と、その対照資料に、申請人泉の自筆になるという「尺別労組職場闘争の発展阻害について」と題する書面、「今後の行動について」と題する申請人泉の署名のある書面を用い、両者の筆蹟が同一人のものであると認定することは困難であるとの結論を下している。同鑑定書は、その根拠として、同一人のものとはとうてい考えられない字形の相違点として八項目を挙示するほか、前者における誤字が後者では正しく書かれていること、前者で略字を用いていない文字につき後者では略字を使つていること、書道能力の点で前者の筆者の方がかなり上であることを挙げている。

(ロ) 鑑定書の疎明価値

(a) 高村鑑定書(1)、同鑑定書(2)および藤田鑑定書

高村鑑定書(1)は前記のとおり結論部分を示すのみで、右結論を導き出すに至つた過程と根拠について何らの説明も加えず、また、同鑑定書(2)はその結論の根拠としてわずかに二個の類似点を指摘するのみであつて、いずれも疎明としての価値が極めて少く、事実認定の資料に用いることはできない。

また、藤田鑑定書は、その鑑定に用いられた対照資料である文書の提出がないため、その疎明価値を検討することができず筆蹟異同の認定の資料とすることはできない。

(b) 一鷹鑑定書、遠藤鑑定書および伊木鑑定書

一鷹鑑定書は、鑑定の対照資料が最も少いばかりでなく(対照資料とされた乙第三号証の二の「誓約書」は全文わずか八七字のものにすぎない。)、同鑑定書が、同一の筆蹟と断定するに至つた根拠のうち、両者の書道能力がまつたく同じであるという点および文字の性質が同じであるという点は、他の鑑定書においてその評価が区々に分かれているのである(伊木鑑定書では、本件文書の筆蹟は達筆といえないのに反し、対照資料のそれは名筆ではないが事務的達筆であるとされ、藤田鑑定書では、前記のとおり、本件文書の筆者と対照資料の筆者との間には書の手腕にかなりの懸隔があり、前者の方が達筆であるとされている。)から、直ちに採用することはできない。さらに、同鑑定書は、同一の筆蹟と断定した根拠として文字の癖の共通点六項目を指摘しているが、両者の相違点の有無さらには相違の理由についてなんら説明するところがない。相違点が絶無であるならばともかく、現に、伊木鑑定書においては、筆蹟の相違点としてとり上げた二〇項目のうち、一六項目は一鷹鑑定書におけると同一の対照資料である「誓約書」の中の文字についても認められるとされているのである。

遠藤鑑定書は、文字の筆鋒を重視し、個々の文字における筆鋒の類似点を詳細に説明している。しかし、対照する文字の採取の仕方にはかなり問題があるように思われる(例えば、本件文書中の文字「却」のふしづくりの部分を対照資料中の文字「険」のこざと偏の部分と比較したり、同一の文字「害」「上」が対照資料の中にあるのに他の文字と比較したり、あるいは比較しなかつたりする場合がみられる。)。また、筆鋒を重視して、ごく単純な文字を細分化するため、かえつて微視的となつて文字全体としての特徴が軽視されていると思われる傾きもあり(「を」など)、共通点の説明の中にはたやすく理解しがたいところもある。さらに、共通点について、対照資料中には同一あるいは同種の文字がほかにもあるのに一部についてしかその検討をしていない。そして、一方において筆鋒の相違点としてとり上げた部分については、前記のとおり、字体あるいは、省略条件の相違ないしは運筆条件の相違による変則であると断定するほか、特段の説明をしていない。また、伊木鑑定書においては、筆蹟の相違点としてとり上げた二〇項目のうち、一七項目は遠藤鑑定書におけると同じ対照資料である「尺別労働組合福祉共済規程」の中の文字についても認められるとされているのであるが、遠藤鑑定書はそのうちの一〇項目についてなんら触れるところがないのである(一鷹および遠藤両鑑定書について特にこの点をとり上げる理由は、右両鑑定書が同一の筆蹟と断定あるいは推定するという結論を下すものである以上、両者の筆蹟の相違点については特に慎重な検討と合理的な説明が要求されるものと考えられるからである。)。

このように、一鷹および遠藤両鑑定書が前記の結論に到達した根拠には、疑問をさしはさむ余地がないわけではない。藤田鑑定書でも触れているように、別人の筆蹟であつても往々酷似する場合があることは、経験則上明らかなのであるから、前示のように相当個所の相違点が存在する以上、類似点においてその筆者でなければあらわれる可能性が極めて少ないという決定的な書風あるいは筆法がない限り、個々の筆蹟に相当の類似点があるとしても、それのみで同一の筆蹟と断定あるいは推定することは困難であろう。右両鑑定書において挙示されている類似点にはそのような決定的なものがあるとは認められない。

伊木鑑定書は、対照資料が最も豊富であるばかりでなく、全資料をもれなく渉りようして筆蹟の類似点、相違点をほぼ完全にとり上げ、その頻度や類似点、相違点が例外的なものか原則的なものかの区別などに意を用いて慎重に検討し、総合的に判断した結果、前記の結論に到達しているのであつて、右結論およびそれに至る過程は充分首肯することができるのである。

以上検討したところによつて明らかなように前記三鑑定書のうちでは、伊木鑑定書が最も疎明としての価値が高いものというべきである。

(ハ) かくして、伊木鑑定書によれば、本件文書の筆蹟が申請人泉のものと同一であるかどうかは、断定し難いものと認められる。

(2) 前記のとおり、本件文書の作成者が申請人泉であることを筆蹟の点から認定することはできない。しかし、その他の点、すなわち、申請人らが平素から本件のような文書を回覧するほどの緊密な連けいを保ちつつ行動するグループを形成していたかどうか、本件文書による指令およびその内容が文書作成の日とされる昭和三六年九月三〇日頃の客観状勢に符合するかどうか、さらに新居を含めた申請人らの間で従来本件文書と同種の文書が本件文書と同様な方法で回覧された事実があるかどうか、の諸点は、本件文書の作成者が申請人泉であるかどうかの認定上重要なものと考えられる。そこで、以下、順次これらの点について判断する。

(イ) まず、右のようなグループが存在したかどうかについて検討する。

(a) (疎明―省略) によると、申請人中田は昭和三四年五月に日本共産党に入党したが、当時尺別地区には他に党員がいなかつたため、白糖細胞に所属していたこと、同年七月に申請人高橋敬二が、同年一一月に申請人峰田が同党に入党したため、同年一二月尺別細胞が作られ、申請人中田がその細胞長になつたこと、次いで同年末頃に申請人高橋与市が、昭和三五年五月に申請人泉および同追泉が入党し、尺別細胞に所属したこと、その後同年五月頃に細胞長が申請人高橋与市に代つたこと、昭和三六年九月三〇日現在における細胞員は右の六名だけであつたこと、尺別細胞では、毎月定期に三回そのほか不定期に数回細胞会議を開催し、政治上の諸問題を討議したり、種々の選挙対策を講じたりなどしていたことが認められる。

右認定の事実によれば、申請人らのうち泉、高橋与市、追泉、峰田、高橋敬二、中田の六名は尺別細胞の細胞員として、昭和三六年九月頃統一的な意思に基づき常に緊密な連けいを保ちつつ行動していたものと推認することができる。

(b) 証人新居昭七の証言の中には「新居は太平洋炭礦株式会社の別保礦に勤務中昭和二三年五、六月頃、鈴木信一郎および田山辰蔵の推せんにより日本共産党に入党し別保細胞に所属していた。昭和二五年五月頃からは同細胞を離れていたが被申請人の職場に移つた後である昭和三四年八月頃申請人中田の勧誘を受け尺別細胞に加入した。」旨の供述があるけれども、右証言部分は証人佐藤信一郎、同山崎荘一郎の各証言および申請人中田、同高橋与市の各本人尋問の結果にてらし措信することができない。証人佐藤信一郎の証言によれば、佐藤信一郎が新居の入党を推せんした事実のないことが認められ、また、証人山崎荘一郎の証言および申請人中田、同高橋与市の各本人尋問の結果によれば、日本共産党に入党または再入党するには一定の権式による入党申込書の作成提出、一定の資格を有する党員二名の推せん、細胞における審議、地区委員会あるいは都道府県委員会の承認という手続を経る必要があること、入党が承認された場合一定の様式による承認機関の入党承認通知書が交付されること、右入党の手続は書類の様式に若干の変更があつたほかは昭和二一年頃から変つていないことが認められるところ、すべての疎明によるも新居が右のような入党手続に従つて入党したことを認めることはできないからである。

したがつて、新居が日本共産党員として尺別細胞に所属していたものと認めることはできない。申請人中田、同泉、同高橋与市、同高橋敬二らの各本人尋問の結果によると、昭和三五年のいわゆる安保闘争の際、新居は申請人泉、同中田らと共同して居住区の常会に出席し、啓宣活動につとめたこと、同年秋頃、新居宅において、同人、申請人泉、同高橋与市が組夫三名をまじえて組夫の組織化について話合つたこと、新居は、日本共産党の機関紙「アカハタ」を購読していたほか同党の刊行する書籍を購入し、申請人高橋与市がこれらの代金を毎月新居宅に赴いて集金していたことなどの事実を認定することができるのであり、これらの事実と、後記認定のとおり新居が学習サークルの熱心な構成員であつた事実とを総合すれば、新居は、日本共産党員ではないとしても、同党尺別細胞に属する前記申請人中田ら六名とある程度行動を共にしていたものと推認するにかたくはない(新居が尺別細胞の内部事情にある程度通じていたとしても、あえてこれを異とするに足りず、したがつて右事実を以てしても新居が尺別細胞に所属していたと認めることができないとの前記認定を左右するには足りない。)。

(c) 申請人早坂、同平間、同横沢の三名が昭和三六年九月三〇日当時日本共産党員として尺別細胞に所属していなかつたことは前記認定のとおりである。ところで、申請人早坂の本人尋問の結果によれば、申請人早坂は昭和三四年四月の地方選挙の際音別町会議員に立候補したのであるが、申請人中田はその責任者として早坂の後援をしたこと、申請人早坂は昭和三四年春頃から前記「アカハタ」の日曜版及び日本共産党刊行の「議会と自治体」なるパンフレットを購読していたこと、さらに、本件解雇前、すでに、住宅が隣り合わせであり尺別細胞の細胞長であつた申請人高橋与市から日本共産党に入党するよう勧誘を受けたこと、その後、昭和三七年六月一五日正式に入党し尺別細胞に所属するにいたつたことを認定することができるのであり、これらの事実と後記認定のとおり申請人早坂が学習サークルのいわゆる常連であつたことを総合すれば、申請人早坂も、また新居と同様、昭和三六年九月当時、前記申請人中田ら六名とある程度行動を共にする関係を有していたものと推認することができる。また、(疎明―省略)によれば、次の事実が認められる。すなわち、尺別礦業所の組合は昭和三三年四月頃より「学習会」を主催し、労働問題時事問題等について組合員の知識の向上をはかるため炭労などから講師を招いて継続的に学習活動を行つてきた。前記申請人中田ら六名、申請人早坂、および新居はほとんど常時右会合に出席し熱心に学習につとめていた。申請人平間、同横沢らも昭和三五年頃から学習会に常時出席するようになり、当時、学習会の常連ともいうべき者は新居および右申請人ら九名を含めて一三、四名であつた。これら一三、四名の者は右学習会とは別個に時折会合し、自主的な学習をしていた。この集りが「学習サークル」と呼ばれ、申請人平間は昭和三五年秋頃からその代表者となつた。このサークル活動には、自主学習のほか、組合の上部機関が催す学習活動者の連絡会議にサークル員を派遣したり、構成員の慶弔の際にいわゆるカンパを行つたりすることがあつた。以上の事実が認められ、この認定に反する疎明はない。右認定のとおり、申請人平間、同横沢らも「学習会」ないし「学習サークル」活動の範囲内ではその余の申請人および新居らと行動を共にしていたものというべきである。しかし、右認定の範囲を超えて、申請人平間、同横沢がその余の申請人および新居らと緊密な連けいを保ちつつ行動を共にしていたことを認めるに足りる疎明はない。

(d) 以上によつて、申請人らおよび新居の全員を含むグループとしては、その他の者をも含む前示「学習会」ないし「学習サークル」の存在を認めうるにすぎない。このようなグループが本件文書による指令を発出、回覧するに足りる程度の密接な連けいを保つものであるとはいいがたい。

(ロ) 次に、本件文書による指令およびその内容が当時の客観状勢に符合するかどうかについて検討する。

(a) (疎明―省略) によると、昭和三六年九月における最後の細胞会議が開かれたのは同月二七、八日頃であつたこと、右会議の目的は、申請人高橋与市が同月二二、三日頃繰込所で日本共産党北海道委員会のビラを配布したことについて苫米地労務課長の注意を受け、その際同課長から党員の氏名などを届出るように要請された旨の報告があつたので、細胞として同月二五日頃小川課長補佐を通じて同課長に会談を申し込んだ結果、同月二九日頃にその会談が予定されていたため、右会談に出席する者と細胞としての態度を決定するにあつたこと、右細胞会議には当時の細胞員が出席したことが認められ、右認定に反する疎明はない。

本件文書の日付が前記のとおり右細胞会議のわずか二、三日後の九月三〇日である以上、時期的にみて、細胞長である申請人高橋与市が細胞員に対し本件文書により指令を発する必要性は、その間に情勢の急激な変化があり、指令の内容がこれに対応するものでない限り(この点は、後に検討するとおりである。)、極めて少なかつたものといわなければならない。

(b) 本件文書は、前記のとおり第一項において「組夫の組織作り」を行動方針として掲げている。

申請人泉、同高橋与市および同中田の各本人尋問の結果によると、組夫(下請労働者)や臨時夫などの未組織労働者の組織化という炭労の定期大会における行動方針に基づき、組合は昭和三五年にその準備を進めてきたけれども、労働組合の結成の段階までには至らず、組夫の自治会を結成させるという程度にとどまつたこと、尺別細胞においても組夫の組織化に関心をもち、時々会議の話題に上つていたが、具体的な行動方針などを決定する段階には至らなかつたことが認められる。新居証言の中には、尺別細胞では右認定のような組合の方針を不満として昭和三五年秋頃の細胞会議において、細胞独自で組夫の組織化を進める方針を決定した旨の供述があるけれども、右供述自体後に触れるように明確ではなく、右各本人尋問の結果に照らして措信することができず、他の右認定を左右するに足りる疎明はない。

そして、昭和三六年九月三〇日当時において、組夫の組織作りを行動方針として急遽指令すべき客観的な状勢が存在したことを認めるに足りる疎明はまつたくない。この点は、新居証言も、「昭和三六年二、三月頃新居が池組という下請業者の組夫三名を自宅に呼び、申請人泉および、申請人泉および同高橋与市を加えて組織作りについて話し合つたけれども、はかばかしく進展しないまま中絶してしまい、その後の細胞会議でも今後の方針を検討しようという段階にとどまつていた。」というにすぎないのである。

(c) 本件文書は第二項において「アカハタの拡大」を指令している。

申請人中田および同高橋与市の各本人尋問の結果によると、日本共産党の機関紙アカハタの拡大に努力することは党員の中心的任務の一つであるため、尺別細胞の細胞員は常時これに努めていたこと、昭和三六年九月頃の細胞会議においてアカハタの拡大の問題をとり上げ、論議した事実はないこと、また、当時同党の上級機関がアカハタの拡大を特に指令した事実のないことが認められる。もつとも、新居証言の中には、昭和三六年八月中頃の細胞会議において尺別地区で一〇〇部ないし一五〇部を二年計画で増やすという方針を決定した旨の供述があるけれども、右各本人尋問の結果に照らしてたやすく措信することができないのみならず、右供述のような事実があつたとしても、前示認定事実に照らせば、これを本件文書のような時期と方法で、しかも細胞員以外の者にもあてて、ことさら指令する必要のある客観状勢にはなかつたものといわざるをえない。

(d) 本件文書の指令第三項は、前記のとおり、生産施設に積極的な侵害を加えて生産を妨害すべき旨の指示であるけれども、このような方法による生産の妨害についてあらかじめ尺別細胞内で論議されたことがあることを認めるに足りる疎明はまつたくない。新居証言ですら、新居がいうところの細胞会議で論議されていたのは減産運動であつて、人車をゆつくり運転するとか、サボタージュをするとか、要するに本旨に従つた労務の提供をしないという消極的な態容のものにとどまつており、本件指令のような積極的な方法による生産の妨害が論議されたことは全然なかつたというのである。しかも、申請人高橋与市がこのような重要な行動方針を事前に細胞内で討議することなく、急遽、専決指令しなければならなかつた事態の発生を認めるに足りる疎明はないのである。

(e) 本件文書は第四項において「執行部の正体暴露」を指令している。

「執行部の正体暴露」については、新居証言の中に、第二次中央協定が締結された際(昭和三六年五月)、被申請人から連合会に対し金一二〇万円交付されたことを察知した尺別細胞では、右協定締結後その承認を求める組合の臨時大会において右事実を暴露し、組合員の間に執行部に対する不信感をもり上げ、右協定締結の不承認、ひいては執行部の退陣をはかつたが、結局承認されてしまつたので、その頃開かれた細胞会議において、執行部の正体を暴露するという方針が決定された旨の供述があるだけで、時期的にみて、昭和三六年九月三〇日当時においてとくにこのような指令を発する必要性を裏付ける客観的状勢があつたことを認めるに足りる疎明はないのである。

(f) 以上を要するに、本件文書による指令は、その時期ならびにその内容において、これを発出、回覧するような客観的な状勢に合致しているものとは認められない。

(ハ) 最後に、従来尺別細胞において細胞長が独自の判断に基づき細胞員に文書回覧の方法で指令を出した事例があることについては、これを認めるに足りる疎明がない。かえつて、申請人中田および同高橋与市の各本人尋問の結果によると、従来尺別細胞において細胞員の討議を経ることなく、細胞長が独自の判断に基づいて細胞員に指令を出し、あるいは文書の回覧によつて細胞員に指示を与えた例はないことが認められる。新居証言の中には、細胞長の作成した文書を細胞員に回覧した例が四、五回あつた旨の供述があるけれども、同証言部分も、つきつめれば、その文書の内容はいわゆるカンパを求めるものであつたというに尽きるのであるから、右認定に触するものではなく、他に右認定を左右するに足りる疎明はない。

(ニ) 以上の認定によつて明らかなように、尺別細胞を中心に考えても、申請人泉が本件文書を作成したものと推認するに足りる事実は存在しない。

(3) 新居作言の中には、本件文書が昭和三六年一〇月五日午後五時頃申請人高橋敬二から新居に回布され、それを同人が同日一一時頃申請人平間に交付した旨、および新居が出勤停止処分を受けた日である同年一一月六日に申請人早坂に出会つた際、申請人早坂から本件文書のことを被申請人に洩らしたのではないかといわれた旨の供述がある。しかし、新居証言の右部分については、一方本件文書が申請人泉において作成したものと認めるに足りないとする前示認定の各事実に徴し、かつ他方次にのべる理由によつて、いまだこれを措信することができない。

(イ) まず、新居証言の内容自体に、次のような、他の疎明から認められる客観的事実に相違する部分、あるいは供述自体の矛盾、あいまいさあるいは不自然さがみられる。

(a) 新居は、昭和二三年五月頃日本共産党へ入党し、別保細胞に所属していたが、昭和三四年八月頃に尺別細胞に加入した旨、くり返し証言しているけども、かつて同人が同党へ入党していた事実を認めることができないことは、前記(一)(2)(イ)(b)に認定したとおりである。さらに、新居証言の中には、昭和三四年八月頃すでに尺別細胞が存在し、その細胞員が申請人中田、同泉、同追泉同峰田および同高橋与市であり、その後昭和三五年八月に申請人早坂が、昭和三六年八月に申請人高橋敬二が加入した旨の供述(ただし、後に触れるように、申請人平間および同横沢も入党したという供述もある。)があるけれども、右証言部分は尺別細胞結成の時期、入党した申請人らの氏名およびその入党の時期において前記(一)(2)(イ)(a)における認定と大きな喰違いを生じている。また、新居証言の中には、別保細胞へ入る際に何も書いたことがないとのべながら、後には入党申込書を書いたことがあると思うとのべ、申請人平間および同横沢は昭和三六年二、三月頃に尺別細胞で入党の推薦をしたが、入党が承諾されたかどうか知らないとのべながら、他方には右両申請人が入党したとのべている部分があり、組夫の組織作りという方針を昭和三五年秋の細胞会議で決定したとのべながら、他方では細胞会議で右のような方針を決定したかどうかは分らないとのべ、昭和三六年九月に入つてからは細胞会議に出席したことはないとのべながら、細胞が公然化した同月三日の後に一回出席したとのべるなど、供述自体が矛盾があるほか、新居の入党後に加入したという申請人らの入党手続など、尺別細胞の細胞会議の具体的な内容について供述するところは、極めてあいまいである。

(b) 次に、新居証言によると、本件文書を申請人高橋敬二から受けとり、内容をみたところ、その第三項には前記のように、積極的な生産妨害の指示が含まれていたので、これを実行すれば人命上の問題が生じることになり、折角採炭現場に移つて収入も増え、安定しかかつた生活が破壊されてしまうことになると考え、一時間ばかり思い悩んだあげく、個人的に親しく世話になつていた小川日出男に被申請人には知らせないということで相談にのつてもらおうと決心し、本件文書を持参したというのである。しかし、このような指令が出される程に密接な連けいを保つたグループが存在していたとすれば、その内部において右のような方針を批判し、是正するという手段がまず考えられるはずである。また、このような手段をとることができないため、右グループ以外の者に相談する必要があるとしても、被申請人に知られることなく善後策を講じたいというのであれば、小川に相談するということ自体納得しがたい。本件文書が前記のような重大な内容を含むものである以上、当時労務課長補佐であつた小川に対して、被申請人に知らせないことを期待することがそもそも無理であると考えられるからである(現に小川の証言によれば、結果においてそうなつているのである。)。もし、被申請人に知られたくないというのが真意であれば、新居自身組合の幹事などをして組合活動に熱心に従事してきたというのであるから、組合の幹部など、小川以外に適当な相談相手がなかつたわけではないと考えられる。このような点からみると、前示の新居証言は、きわめて不自然というべきである。

(c) 新居証言によると、新居は本件文書を持参して小川宅へ行き、絶対に被申請人にはいわないで欲しいと前もつて再三頼んだ、小川は見ないうちはわからないから見せろといつて確言をさけているうちに、座を立つて戻る途中作業服の左胸ポケットに入れておいた本件文書を抜きとつてしまつた、そこで、新居は小川にすがりついてとり返そうとしたが、果さなかつたというのであり、これは証人小川日出男の証言と一致している。

ところで、前掲乙第二四号証および証人中川正男の証言によると、昭和三六年一一月六日の第一回山許団交の直後から同月八日までの間に連合会が申請人らおよび新居から事情を聴取したこと、さらに札幌団交が始まつてから前記認定の炭労の特別対策委員会の決定に基づき、炭労が同月二〇日から二六日までの間に再度事情聴取を行つたことが認められるところ、新居証言によると、同人は右二回の事情聴取を受けた際には右のような本件文書を小川にとり上げられたという事情を全然のべることなく、かえつて、自ら本件文書を小川に渡したとのべていることが認められ、一方前掲甲第一一号証および証人小川日出男の証言によれば、小川もまた同年一一月二一日の札幌団交の席上で本件文書の入手経路を説明した際、新居が左ポケットから本件文書を出して見せてくれたと説明したことが認められる。小川の団体交渉での右説明と前示証言との差異はともかくとし、仮に本件文書を小川にとり上げられたといういきさつが真実であつたとすれば、それは、本件文書が当初の意図に反して被申請人の手に渡つたという、新居にとつて有利な、すなわち弁解の余地がある事情であるから、新居とすれば進んでそのいきさつを説明するのが通常の心理であると考えられる。新居が二回にわたる事情聴取の際このいきさつをのべなかつたのは不合理であると思われる。

(d) さらに新居証言によると、小川日出男は前記のように本件文書をとり上げ、内容を見て、こんなことをしてはいけないぞと二、三度どなりつけてから、座をはずし、姿を消したが、その後のことは興奮していたため記憶がない、二、三〇分して小川が戻つてから午後八時頃まで小川にいろいろ説教されたが、殆ど頭に残つておらず、ただ今後どうなるのかと聞いたところ、落ちついておれといわれただけである、というのである。一方、証人小川日出男の証言によると、小川が本件文書を見てすぐ苫米地労務課長に電話で報告すると、すぐ持つて来いということであつたので、新居には一寸待つてくれと声をかけて出たが、その際新居は返事もせず、また小川の行く先も確めなかつた、二、三〇分して帰つてから午後八時頃までいろいろ尋ねたり、話しかけたりしたが、新居はろくろく返事をせず、ただ今後どうなるのかといつていた、というのである。

しかし、新居としては、前記のとおり、本件文書を被申請人に見せないでくれと再三こん願し、とり上げられた時には小川にすがりついてまでとり返そうとしたというのであるから、小川がそれを持つて席をはずすのであれば、行く先や目的を確めようとするのが当然であり、また小川が戻つて来たら何をおいてもまず本件文書をどうしたのか確かめようとするのが当然であろう。のみならず、仮に新居が小川に本件文書をとり上げられたことにより、すつかり観念してしまつた(新居証言中にはその趣旨の供述がある。)というのであれば、当初小川に相談する決心をした際には予定していなかつた事態に立ち至つたのであるから、今後のいろいろな問題について相談する必要がますます大きくなつたはずであるのに、相談らしい相談を全然していない。この点は、新居証言あるいは証人小川日出男および同苫米地春郎の各証言によつても、その後昭和三六年一一月四日から六日にかけて、釧路市において、本社の労務課長から事情聴取を受けた際、同課長に解雇になつたらあとのことはよろしく頼む旨依頼するまでの間、小川宅あるいは苫米地宅に呼ばれて事情を聞かれたことがあるというだけで、改めて新居の方から積極的に小川らに相談をしたという事実は認められないのである。要するに、前示の証言にあらわれた新居の態度は不可解というほかはない。

(e) 本件文書の末尾に記載された「新居」という文字を抹消した時期について、新居は申請人平間の家へ持つて行くときであると証言し、「会社へ持つて行く前ではないのですね」という申請人ら代理人の確認に対して、すぐこれは被申請人へ持つて行く前という意味であると説明している(もし、平間の家へ持つて行くときに抹消したとすれば、乙第一号証の一に、前記認定のように、「新居」の姓が抹消されているということはありえない。)。これは単なる説明の仕方の差異にとどまらず、重要な点での供述の変更という疑いをぬぐい去ることができない。

(f) 新居証言によると、昭和三六年一一月六日に出勤停止処分を受けてから数日後、家族の身に不安があつたので、小川日出男に頼んで家族を疎開させ、昭和三七年一月末頃になつて引きとつたが、一切を被申請人側に任せていたので、その間家族がどこに行つていたか知らなかつたというのであるが、いかに被申請人側に任せ切つていたとはいえ、同人が二ケ月以上もの間家族の居所を知らなかつたというのも、たやすく肯けないところである。

(ロ) 次に、一般的に新居証言の疎明価値に影響を及ぼすと考えられる次のような事情を認めることができる。

(a) 証人小川日出男の証言によると、当時外勤係長をしていた小川は昭和三四年七月に新居の居住区である一区の区長を兼務するようになつてから、私生活上の相談にあずかるばかりでなく、同人の義弟の就職のあつせんをしたり、借金の整理をしたことが認められ、両者は区長と居住者という通常の間柄以上の関係にあつたことを推認することができる。

(b) 証人小川日出男の証言(但し、後記措信することができない部分を除く。)および新居証言によると、新居は昭和三六年一一月六日出勤停止処分を受けた直後、小川に相談の上家族を疎開させ、昭和三七年一月末頃引きとつたが、その間の家族の生活費等一切は被申請人側で支弁していたことが認められ、証人小川日出男の証言中右認定に牴触する部分は措信することができない。

(c) 新居証言によると、昭和三七年一月二〇日付で同月二二日限り解雇する旨の意思表示を受けてから、被申請人に住宅および就職先のあつせんを依頼し、その結果申請人の従業員江波某の持家を借りるようになつたこと、また被申請人の関係会社である雄別興産株式会社で暫時ボイラー係の見習をした後、昭和三七年一一月六日から同会社に正式に採用されたこと、が認められる。

(ハ) 以上のように、新居証言には、一方において、その重要な部分にも矛盾、不自然さあるいはあいまいさがあり、他方においてその価値を減殺するような事情も存在するのであつて、これらを総合すれば、その疎明価値は一般的にいつて乏しいものといわざるをえない。そして、前記(1)(2)に検討した諸事情を合わせて考えれば、本件文書が申請人高橋敬二から新居へ、同人から申請人平間へ回覧された旨および申請人早坂も本件文書に関係していた旨前示の新居証言は、措信することができないものといわざるをえない。

なお、申請人高橋敬二の本人尋問の結果中には、申請人高橋敬二は、昭和三六年一〇月五日には、一番方勤務終了後、午後四時二〇分新尺別駅発の汽車で岐線へ出て、午後九時過に山許へ帰つたのであるから、新居が自宅で本件文書の交付を受けたという同日午後五時過頃には山許にいなかつた旨の供述がある。しかし、これは、(疎明―省略)によつて認められる、申請人高橋敬二が同日午後七時一二分新尺別駅発の汽車で岐線へ出た事実に照らし、措信することができない。また、申請人平間の本人尋問の結果中には、新居が申請人平間宅へ来たのは同年一〇月五日午前八時頃から九時頃までの間と、翌六日の同じ頃であつて、新居が申請人平間に本件文書を交付したという同月五日午後一一時頃には来たことがない旨の供述があるけれども、これも弁論の全趣旨から真正に成立したものと認める乙第二三号証と新居証言により認められる、新居が同年一〇月四日釧路の兄の所へ行き、翌五日午後に帰宅して事実に照らして、措信できないところである。しかしながら、申請人高橋敬二、同平間が故意に虚偽の供述をしたと認めるべき疎明がない以上、事実に反する供述をしたこと自体が前記の結論に影響を及ぼすものとはいえない。

(ニ) 以上を要するに、本件文書が申請人泉によつて作成されたものとは認められず、その他すべての疎明によつても右事実を認めるに足りない。

3 本件文書に記載された指令の発出および本件文書の回覧

本件文書が申請人泉によつて作成されたものと認められない理由が前記二2のとおりである以上、本件文書が申請人高橋与市および同泉を除くその余の申請人らに回覧された事実を認めることはできず、また、申請人高橋与市が本件文書に記載された指令を発出したという事実もまたこれを認めることはできない。

三  本件解雇の効力

以上詳細に検討したとおり、結局、申請人高橋与市の指令に基づき、申請人泉が作成した本件文書をその余の申請人らが回覧することによつて、申請人らが具体的な生産阻害行為を共謀企図したという、本件解雇の理由となつた事実が存在したことを認めることはできない。そして、一方、すべての疎明によつても、被申請人が害意その他不当の目的を達成するために本件解雇に及んだものであることを認めることはできないのである。しかしながら、本件解雇がその理由とされた事実が存在するかどうか不明であるのに行われたものである以上、雇傭契約に基づく法律関係を支配する信義則にもとるものといわざるをえず、したがつて本件解雇は権利の濫用として無効であるというべきである。

第三  本案請求権の存在

上述したところによつて、申請人らと被申請人との間の雇傭契約に基づく法律関係は、本件解雇によつて何らの影響を受けることなく、現に存続しているものというべきである。

第四  仮処分の必要性

申請人らが賃金を唯一の生活資源とする労働者であることは、弁論の全趣旨から明らかであるから、特に反対の事情がない限り、被申請人から被解雇者として取り扱われることによつて回復し難い損害を被るおそれがあるものというべきところ、右のような事情があることを認めるに足りる疎明はない。してみると、申請人らの被るべき損害をさけるため、被申請人に対し主文第一項の仮処分を命じる必要があるものというべきである。

第五  結論

以上のとおりであるから、本件仮処分申請を全部正当として認容することとし、申請費用の負担につき、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

釧路地方裁判所民事部

裁判長裁判官 内 藤 正 久

裁判官 川 崎 義 徳

裁判官 北 川 弘 治

【別紙一】

1 第一次中央協定等

(一) 中央協定第二項

生産回復については労使努力する。

(二) 了解事項第二項

職場秩序の確立については労使改善に努力する。ここにいう職場秩序の確立について云々は、欠勤常習者、無断早出坑者、就業時間中に休眠する者、濫りに職場を離れる常習者等については、実態に基づいて具体的には山許で協議することである。

(三) 議事録抜萃

連合会  職場秩序確立についての山許協議は、該当者の懲戒解雇を目的とするものではなく、あくまで善導処置を主体とした意味に理解してもよいか。

会 社  そのとおりであるが、具体的方法については山許で協議のこととしたい。

2 昭和三五年八月一一日付の合意

(一) 覚書第七項

(1) 「生産協力」および「職場規律の確立については、昨年一一月協定に基づき、推進強化するとともに、拘束時間中は誠実に労働を提供するものとの理念に立つて稼働する。

(2) 誠実に労働を提供せず、職場規律維持を著しく乱した行為のあつた場合は、就業規則に定める懲戒委員会で審査し、職場規律の確立をはかる。

(二) 議事録抜萃

覚書第七項関係(職場規律)

誠実に労働を提供しない者に対しては懲戒委員会を活用するが、従来の苦情処理手続を経て行うものとする(係長――支部長)。   以上

【別紙二】

1 第二次中央協定第二項

組合は、今後の企業の存立には各礦業所毎の自立操業体制の確立こそ必須であることに想を致し、能率阻害事象の排除、作業方式の改善、労働力の再編成等、組合の立場で可能な限り協力を惜しまない。

2 議事録抜萃(第二項 生産阻害者対策について)

会 社  生産を阻害または妨害もしくは企業を破壊しようとする者、非協力的な者は、会社として絶対容認し得るものではないから、排除したい。

連合会  生産を阻害したり、妨害または企業を破壊しようとする行為は、組合としても容認するものではない。したがつて、その事象のあつた場合は、労使協議の上措置することとしたい。    以上

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