大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

行橋簡易裁判所 昭和33年(ろ)7号 判決 1958年6月21日

被告人 竹尾英明

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は被告人は大型第二種免許を受け西日本鉄道株式会社(以下西テツと略称する)のバスの運転に従事中のものであるが昭和三十二年十月九日西鉄バス(大二―一一九八号)を運転して中津市から小倉市に向う途中午前八時四十五分頃行橋市羽根木西鉄バス羽根木停留所の北方四百米の地点に時速四十粁位の速度でさしかかつた際前方を自動車と自動三輪車とが被告人と同方向に進行中であるのを認めた後間もなく自転車との距離十五米乃至二十米位、自動三輪車との距離二十米乃至二十五米位まで接近し之等を追い越そうとしたのであるが斯様な場合自動車の運転者は自動車及び自動三輪車の行動に注意して速度を緩めて徐行し前方の車に追い越しの合図をした後追い越す等の業務上の注意義務を負うものであるに拘らず被告人は之を怠り警笛を一回鳴らしただけで漫然追い越そうとした為め自動三輪車の後方五米位に接近した際自動三輪車を追い越そうとして同車の右側に出て来た縫谷毎信が乗つた自転車を認めハンドルを右に切ると共に急停車の措置を講じたけれども間に合わず同人の自転車に左側バンバー附近を突き当てて転倒させ同人を自動車の前部左側車輪で約十米ひきずり因つて同人に脳底骨折等の傷害を与え其の場において同人を即死させたものである。

と謂うのであつて判示日時場所に於て被告人の運転する自動車にて判示の如き轢傷により死亡したことは被告人の供述竝びに医師安部谷人作成の死体検案書に徴し認められるが被告人の供述竝びに当裁判所の証人蔵田順治に対する尋問調書及び検証調書を綜合すれば被告人は時速三十粁にて進行中前方五十八米の地点に自動三輪車の運行するのを認め且つ同車に追尾する自転車を現認したので之を追い越さんとして警笛を長く一回吹鳴したるところ間もなく先行する三輪車が道路の左端に避譲し之に追従する縫谷毎信(当時六十七年)の乗れる自転車も又右三輪車に追尾して左方に避譲したので安全を確認し先行車の右側を同一速度にて追い越さんとしたが三輪車が速度を急に落したるため縫谷毎信はその右側に進出しようとして右三輪車に僅かに触れ道路中央寄りに倒れ込みたる為め被告人は急遽把手を右に切り次の瞬間急停車の措置を講じたが及ばず該自転車に衝突し同人を自動車の前部左側車輪で約十米ひきずり因つて同人に脳底骨折等の傷害を与えその場に於て同人を即死させたことを認むることができる他に右認定を左右するに足る証拠はない。

よつて事故発生原因が被告人の業務上の注意義務懈怠による過失に基くものか否かの点を検討するに道路交通取締法施行令第二十四条第一項によれば「前車を追い越そうとする場合においてはやむを得ない場合の外後車は前車の右側を通行しなければならない」と規定し同条第二項に「前項の場合においては警音器、掛声その他の合図をして前者に警戒させ交通の安全を確認して追い越さなければならない」と規定し更に同条第三項に「前項の合図があつたことを知つた場合において前車は後車に進路を譲るために道路の左側によらなければならない」と規定している。よつて被告人の本件追い越し行為が妥当であつたかどうかについて考えてみるに事故発生現場の道路は巾員七・四〇米にして畑地を貫通する舗装せらるる直線道路で何等視界を遮ぎるものなく且つ当時他に車馬、歩行者を現認しなかつたのであるが被告人は前方五十八米の地点に先行する三輪車竝びに之に追従する自転車を認めたので警音器を一回長く約三秒位吹鳴し前車に警告しその搭乗者に危険を生ずべき行為をなさざるよう注意したる結果前車は法令に従い追越承認の合図として道路の左端に避譲の上徐行し之に追尾する自転車も又先行の三輪車にならい道路の左端に避譲したので被告人としては右側に裕に通行できる余地があり追い越しに危険なきを確認したる結果進行したことは被告人の供述竝びに証人蔵田順治の尋問調書及び検証の結果明かなるところであつて運転者として当然の措置を執つたものと謂うことができる。

よつて被告人の右の確認が正しかつたか否かにつき検討するに、安全確認とは運転者の主観と客観的事実とが相俟つて絶対に交通事故発生の虞がない場合を指すものであると解せらるるが被告人としては追い越しの合図をし前車がその合図を確認したるが為めに追い越し承諾の意思表示として避譲し追従する自転車も又之にならつたので両車とも後方より追い越さんとする車馬のあることを気付いていたものと推認したことは当然である。よつて客観的に之をみるに証人蔵田順治の証言によれば三輪車は被告人運転の車に追い越させるため道路の左端に避譲すると共に急に速度を減したものであり同車の右側には五・二〇米の間隙があつてその道路上には本件の三車の外附近に車馬歩行者の往来等交通の妨げとなるものなく巾員二・四〇米の被告人の車であれば裕に三輪車の右側を追い越し得たことは容易であるのみならず附近には右左の部落に通ずる小路もなく自転車が進路を転換する虞もなかつたことを認めることができる。而して本件現場は道路交通取締法施行令第二十三条所定の追い越し禁止の場所ではない、以上の点を綜合すれば被告人が追い越し安全の確認を為したことは被告人の主観と客観的事実と相俟つて事故発生の虞なかつたことを認むることができる。

次に進行速度上の問題について考えるに本件の如き場合事故発生防止の見地より警笛を反覆吹鳴し且つ徐行するに越したことはないこと勿論であるが他面定時運転を履践する乗合自動車の交通機関としての使命に徴すると警音器の吹鳴、速度の減少についてもおのずから限度があると思はれる。そうでなければ場所の如何を問わず先行するものを追越す場合は常に速度の低減を要求せらるることとなる。よつて被告人に対し今少し徐行すべき旨期待することは運転者に対し過重に責務を負わせると共に交通機関の使命を無視するものと謂わなければならない。要するに本件事故は先行する自動三輪車が急に速度を落した為めその右側に進出しようとして三輪車に僅かに触れ道路中央寄りに倒れかかつた為めにしてそは縫谷毎信が追従に際し必要なる距離を保つて進行しなかつたことに基因するもので被告人の過失とは認められない。仮りにそうでないとしても本件現場が交さ点、曲り角、或いは交通頻繁なる街路の如き場合ならとも角、田園地帯の直線道路にして進路を変え他に移行する小路もなき場所に於て今迄追尾していた自転車が右折の合図もなさず急に方向を転ずることは予測することができない事態であつて本件事故は予見し得ざる突発的事故であつて被告人の注意義務懈怠に基くものとは認められない。

以上孰れの点よりするも本件は被告人が自動車運転者として業務上必要の注意義務を怠つたことに基くものと認むるに足る証拠がなく結局犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法第三百三十六条に則り主文の通り判決する。

(裁判官 工藤勝史)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例