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福岡高等裁判所 昭和50年(ネ)311号 判決 1979年3月27日

控訴人(附帯被控訴人)

松尾典臣

右訴訟代理人

倉増三雄

饗庭忠男

被控訴人(附帯控訴人)

国越ヨシ子

被控訴人(附帯控訴人)

国越展

右法定代理人親権者母

国越ヨシ子

右被控訴人(附帯控訴人)ら訴訟代理人

市江昭

主文

一  原判決中控訴人(附帯被控訴人)敗訴の部分を取り消す。

二  被控訴人ら(附帯控訴人ら)の請求(被控訴人ヨシ子につき請求拡張部分を含む)及び附帯控訴を棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審共、被控訴人ら(附帯控訴人ら)の負担とする。

事実《省略》

理由

一当事者間に争いがない事実及び本件看護診療契約の成立についての当裁判所の認定、判断は、原判決理由第一、二項説示(原判決一〇枚目表三行目から一一枚目表末行目まで)と同一であるから、こゝにこれを引用する。

控訴人は、うつ病の入院患者に対する自殺防止義務が法的義務といえるためには、具体的に自殺減少についての実証的論拠が必要である旨主張するが、かゝる実証的論拠は、その性質上、正確には期待しうべくもないのであつて、かゝる論証の存否如何に拘らず、うつ病の入院患者を受け入れた精神病院の経営者が当該患者或は看護診療契約の相手方に対し、一般的に、準委任契約たる看護診療契約に基づき、受任者として善良な管理者の注意義務をもつて、患者の自殺防止のため必要にして十分な看護を与える義務を負担することには変りはない、といわなければならないから、この点の控訴人の主張は採用の限りではない。

二佐太行の症状と控訴人の看護診療の経過

<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  佐太行は昭和四五年一一月二一日、松尾病院に入院したが、同人は、控訴人が労災病院で診察した時よりも初老期うつ病の病状が悪化して、食欲不振、意欲障害、不眠、不安愁訴等の抑うつ感情が強く昏迷状態の症状を呈し、控訴人の診断によれば、佐太行に自殺念慮があるとはいえ、昏迷状態にあるため、それを実行に移すことすら不可能な状態とみられたが、同時に、このようなうつ病患者は、右昏迷状態を脱し、回復期に向つたときに自殺の実行を企図する危険が少くないことが、精神医学的に常識とされていた。控訴人はこのような佐太行の初老期うつ病の治療として、まず抑うつ気分と不眠を除去することが先決であると判断し、抗うつ剤であるヒルナミンと睡眠剤であるイソミタール等の注射をして、その症状を緩和すべくつとめると共に、一方、同人に自殺の危険性のあることを考えて、佐太行を看護上の「要注意者」として指定し、他の医師、看護婦らに対し、佐太行の行動につき特段の注意を払うよう指示していた(なお、控訴人は、佐太行の入院の前後を通じて同人が九州労災病院においてタオルをつなぎ合せる等自殺企図を現した事実について、被控訴人ヨシ子らから申出もなく、また問い質したこともなかつたところから、これを知らなかつた)。

2  松尾病院における一般的な治療・看護の体制としては、医師、看護婦らによる終日勤務制をとり、夜間は各病室を一時間ごとに巡回するよう定めて実施し、また、控訴人自身、院長として週二回の定例回診をするほか、毎日一回は各病棟を巡回して患者との接触をはかつていた。

3  入院翌日の二二日には、佐太行は抑うつ感情が強いうえ発熱を示し、翌二三日に至つて解熱してきたものの、二四日には、病室内の他の患者のベツドにもぐり込むなどいわゆる譫妄状態を呈したので、控訴人は、右は前記薬剤の副作用によるものと判断し、右同日からはヒルナミンを二〇〇ミリグラムから一五〇ミリグラムに減量したところ、当面の右症状は緩和したが、抑うつ気分、不安愁訴等の症状は持続したままで推移した。

4  被控訴人ヨシ子は、佐太行の入院時、ネルの着物に幅約八センチメートルの帯(当事者の主張中寝巻の腰ひもというのはこの帯を指すものと認められる)を締めさせ、その上にウールの丹前を着用させていたが、そのほかにパジヤマとその上に羽織る茶羽織(これらには帯やひも類は付いていない)をも用意して入院させた。そして、普段はパジヤマと茶羽織で過すのが適当と考え、看護婦に対し、佐太行に平素パジマを着用させてほしい旨依頼しておいたが、その後、自殺防止のためには入院の際締めていた前記の帯を佐太行の身辺に置かない方がよいと考え、実際にも、佐太行は入院後常時パジヤマを着用していたので、入院の際着ていたネルの着物を着用する必要はなく、前記帯も必要でなかつたので、同月二五日頃、担当医である緒方医師に面会した際、佐太行の右帯を取り上げておいてほしいとの申し出をした。

5  ところで、松尾病院では従前から、入院患者の携行物は、看護治療上極度の自殺、他傷等の危険ありと判定され、保護室に収容される患者のそれを除いて、原則として患者の自由にまかせられており、患者側の依頼があれば、日常生活上当面不要な携行物は看護婦詰所に預り保管することもあり、求めに応じてその都度交付して使用させることもあつた。しかして、佐太行の場合、入院直後は専らパジヤマを着用し、これで事足りたゝめ、着物の帯は入院以来看護詰所で保管し、佐太行の手許にはなかつたが、同月二七日、控訴人は佐太行からネルの着物の着用のため帯の使用を求められ、それまでの病状の変化を検討した結果、入院当初と比較して病状はかなり好転し、表情も明るくなり、問診に対する返答もスムーズになり、例えば、控訴人の「まだ死にたいと思うか」との質問に対し、「もう死にたいとは思わない」と答える等、うつ病症状が相当に回復した反応を示したゝめ、帯の使用を許しても自殺の危険はない旨判定して佐太行に帯を交付した。しかしながら、控訴人としても、患者の自殺念慮の消失度をより正確に確認するための一層の努力――例えば、「死にたいと思わない」との患者の答えが真意に基くか否かを確めるため、更に「何故死にたいと思わないか」等の質問を発する等の努力はしなかつた。

6  同月二九日、被控訴人ヨシ子は佐太行に面会し、同人が入院後それまで着ていたパジヤマを新しいパジヤマに着替えさせたのであるが、このとき着物の帯のことが気になつたが、佐太行がパジヤマを着ていて帯を締めていなかつたのをみて、控訴人において十分帯につき監視してくれているものと考え、佐太行の前記帯を取り出して持帰ることをしなかつた。一方佐太行は、同日夕刻頃別病棟の娯楽室まで行つてテレビを見るなど、症状の緩和を思わせる行動を示した。

7  同月三〇日早朝、松尾病院勤務の看護婦である訴外中島百合子が、各病室を巡回して、午前五時頃佐太行の病室に行つたところ、日頃起床の遅い佐太行が既に目覚めてベツドの上に座つているのを見たが、右中島は、寒いだろうと思いながらも、佐太行の行動に特別の疑問をいだくこともなくその場を立ち去り巡回を終えた。もつとも同病院では就寝時間が午后九時であることもあつて、同時刻頃便所のために起床する患者の数は決して少なくはなかつた。

8  佐太行は、その直後同日午前五時二五分ごろ、病室に隣接する便所(第一病棟二階便所)に、前記の帯を携えて行き、窓の鉄格子上端付近に帯の両端を結びつけて輪をつくり、これに頸部をさし入れて縊死を遂げた。

以上1ないし8の事実が認められる。<証拠判断略>

三控訴人の債務不履行(不完全履行)

そこで、以上認定した佐太行の症状と控訴人の看護診療の経過に基づき、控訴人の債務不履行責任の有無について検討する。

1  控訴人は、前示のとおり、本件看護診療契約に基づき、佐太行に対し、有効な診療行為の外、自殺防止を含む適切な看護を与える注意義務を負担するところ、<証拠>によれば、うつ病の入院患者に対しては、一般に、うつ病患者は自殺の危険性があるが、時期的には、症状の回復期において多いが、一日のうちでは早朝に多いとは一概に言えなく、その方法は縊死が多いことが認められ、右認定に反する証拠はない。

従つて、精神病者特にうつ病患者の看護治療に当る医師や看護婦は、問診や日常の行動観察を通じて、患者の自殺念慮ないし自殺企図の有無を確認する努力を怠らず、自殺念慮の存在が察知された患者に対しては、特に厳重な監視と周到な看護を続けるべきであり、当該患者の症状に応じて、適宜催眠作用のある抗神経薬等を投与して夜間の睡眠を確保させ、或は、場合により保護室へ収容する等することはもとより、帯、ひも、バンド等自殺の用具となりうる物品を身辺から払拭し、看護婦等詰所に近接した部屋への収容替え、巡回数の増加等により看護体制を強化し、継続的に細心の注意をもつて患者の挙措動作を注視し、具体的な自殺企図を観察したときは、速やかに保護室へ収容して特別な看護措置を講じ、もつて、患者の自殺を防止すべき義務があり、これらが看護診療契約の本旨に従つた債務の具体的な履行である、というべきである。

しかしながら、精神病患者の治療の最終目的は社会復帰にあるのであるから、重症患者以外の者或は回復に向いつつある患者に対しては、自殺念慮ないし自殺企図が認められない限り、開放病棟への収容、外泊許可等により徐々に社会生活への適応を準備させることが重要であり、従つて、これらの患者についても一律に、自殺防止のため、個室への隔離や間断ない看視等、自殺念慮等の存在が現に察知された患者に対すると同程度に厳重な看護措置を講ずることは、不必要であるばかりでなく、医師と患者との信頼関係を損なう意味合からも、治療上有害でさえあるのであつて、随時、昼間は行動観察を行ない夜間は就寝状況の確認を行なうことによつて、自殺を遂行しがたい環境と条件とを確保すると共に、その前兆の発見に努めるをもつて足りる、と解するのが相当である。

しかして、右厳緩二つの看護体制のうち、当該患者がそのいずれの看護体制の対象者であるかを判定するに当つては、精神病の看護診療契約における二本の主要な柱ともいうべき治療と自殺防止とが、その各本質において二律背反性を有する一方、同契約上の債務としては、本来、治療が自殺防止に優先すべき性質のものであること、及び、精神病の入院患者に対する看護診療体制は、いわゆる閉鎖診療から開放診療への転換が歴史的要請として志向されていることに鑑み、直接その治療に当る精神科医の判断を尊重して判定さるべきが相当であり、当該看護診療契約の本旨に照らし、その裁量を逸脱した、著しく不適切な措置と認められる特段の事情が見当らない場合においては、原則として看護体制に関する精神科医の判断に落度はなかつたもの、と認めるのが相当である。

これを本件についてみるに、前認定のとおり、佐太行は昭和四五年一一月二一日かなり重篤な初老期うつ病患者として控訴人松尾病院に入院し、入院当時は自殺の危険性ある看護上の要注意患者として指定され、看護婦詰所に近い病室に収容されると共に抗うつ剤、睡眠剤の注射を受け、事実上、帯や紐の類いは所持せず且つ昼間、夜間を通じて厳格な巡回看護に服したが、入院日数の経過に伴ない、症状は次第に好転し、同月二七日には表情、応答も明朗となり、医師に対し、「もう死にたいとは思わない」等答え、自殺念慮の消失を窺わせる言動を示したこともあつて、控訴人は従前の治療、入院の経過等諸般の事情を総合して既に自殺の危険はない旨判断し、睡眠薬等薬剤の投与を軽減し且つ帯の着用を許したものであり、その間、本件全証拠によるも、薬剤、睡眠薬の投与及び帯着用の許可の二点について、控訴人の看護診療の措置に、著しく適切を欠くと認められる特段の事情を発見することはできないのであつて、佐太行が自殺した同月三〇日現在において、客観的、具体的、自殺念慮がなお残存し、自殺の危険性があることを事前に予測することは困難であつた、と認めるが相当である。

確かに、結果的にいえば、控訴人において、同月三〇日朝五時頃まで佐太行に熟睡をもたらすべき睡眠薬を投与したり、入院に際して九州労災病院における自殺企図の事実の存否を問診したり、又は同月二七日、自殺念慮の消失の有無をより的確に確認するために更に詳細な問診を続行したり等していれば、或は佐太行の自殺念慮が未だ強く残存している事実に気付いたかもしれず、その結果、看護診療上、自殺防止のため有効な手段をとりえたかもしれないし、現に右の内容の問診が望ましいことも疑いのないところである。

然しながら、前認定のような、佐太行入院前後の経緯及び治療と病状の経過、特に佐太行に対し控訴人ら医療関係者がとつた一連の看護診療行為に照らせば、控訴人の右のような不作為を捉えて、看護診療上不適切と認められる特段の事情ということも相当でないし、このことは、一般的に、うつ病患者の自殺がその回復期において寧ろ多発するという事実を考慮しても変りはない、というべきである。

2  また、佐太行が自殺に使用した帯について、被控訴人ヨシ子がその取り上げ方等を医師等に依頼した事実或は入院に際し、同被控訴人が佐太行にパジヤマを携行させ、帯の着用は当面必要がなかつた事実等は、精神病の入院患者に対する生活上の規制が、帯の着用許可を含め、全て、看護診療契約に基づき、医師の裁量に委ねられた専ら看護上、治療上の問題であることに鑑みれば、控訴人の佐太行に対する帯着用の許可は、控訴人の精神科医師としての裁量の範囲に属する事柄であつて、過失とみるべきは相当でないし、その間、控訴人において、帯着用の許可につき医師の裁量を逸脱した著しく不適切な措置と認められる特段の事情は見当らない。

3  次に、中島看護婦の巡回についていえば、初冬の午前五時頃、平素起床の遅いうつ病患者がベツドの上に座つているのを発見した巡回看護婦としては、一般的には、その不自然な挙動に注目し、患者の自殺企図を想起し、適切な問答を交したり、監視を続けたり或は医師に患者の挙動を通報して指示を求める等臨機応変の措置を講ずるのが看護上誠に望ましいことは疑いを挿む余地がないのであるが、本件の場合、前示のとおり、客観的には、佐太行は自殺念慮が既に消失し、自殺の危険性を予測しえない程度に回復したと認められる患者であつたこと、佐太行は平素起床が遅いとはいえ、一一月三〇日の午前五時頃には便所のために起床する患者の数は決して少なくないこと、佐太行はベツドの上に座つてはいたが、それ以上に自殺念慮ないし自殺企図を窺わせるべき異常な行動、例えば帯や紐の類いを探したり、俳徊すべからざるところを俳徊したり、言うべからざることを言つたり等の言動はなかつたこと、一日におけるうつ病患者の自殺の危険性は早朝が多いとは必ずしもいえないこと、<証拠>によつて認められるように、巡回の実施は限られた人数の看護婦、看護人で多数の患者の看護に当らなければならないという標準的精神病院における看護の現実と控訴人松尾病院においても、看護条件の現実は右の標準的精神病院の場合と同一であるが、夜間の巡回が一時間おきに実施されていた事実等、諸般の事情を彼比総合して検討すれば、中島看護婦に対し右のような適切な臨機応変の措置を期待することは、理想論又は結果論としてはともかく、現実の看護義務の問題としては過大な期待を寄せるものであつて不当であると、いう外はないのである。

4  以上は、これを要するに、控訴人の佐太行に対する睡眠薬の不投与、帯着用許可及び履行補助者である中島看護婦による巡回行為は、いずれも、本件看護診療契約に基づく自殺防止義務の履行において、帰責事由に該当せず、控訴人の本件看護診療契約の履行に欠けるところはなかつたということができるのであつて、佐太行の自殺は誠に止むをえざる結果であつた、という外はないのである。

してみれば、控訴人の債務不履行に基づいて損害賠償を求める被控訴人らの本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく失当として排斥を免れない。

四よつて、右と結論を一部異にする原判決は、控訴人敗訴の部分において不当であるから、これを取り消し、被控訴人らの本訴各請求(被控訴人ヨシ子につき当審において拡張された部分を含む)及び附帯控訴を棄却することゝし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(高石博良 鍋山健 原田和徳)

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