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福岡地方裁判所 昭和52年(ワ)1025号 判決 1986年12月09日

原告

吉村慶一郎

右訴訟代理人弁護士

林健一郎

辻本育子

被告

右代表者法務大臣

遠藤要

右訴訟代理人弁護士

福田玄祥

右指定代理人

松永楠男

木村重男

福島浩

藤原巌

藤岡義男

右当事者間の公務災害に伴う権利の確認等請求事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

原告訴訟代理人らは、「原告が昭和四五年一〇月一〇日に発症した公務に起因する脳卒中に伴う権利を有する者であることを確認する。被告は原告に対し、金一億一、五六三万五、〇一五円及びこれに対する昭和五〇年六月一日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、

被告訴訟代理人らは、本案前の申立として、「本件訴えのうち、請求の趣旨第一項の部分を却下する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、本案につき主文同旨の判決、及び敗訴の場合の仮執行免脱宣言を求めた。

《以下事実略》

理由

(本案前の申立について)

被告は、本件請求の趣旨第一項について、その確認の対象となる権利が具体的に明確でなく、それが第二項の給付請求権の存在確認を求めているものとすれば、訴えの利益を欠くものであって、いずれにしても不適法である旨主張する。

しかし、記録によると、原告は、もと福岡海上保安部所属の巡視船「よしの」の首席航海士として勤務していた国家公務員であったものであり、在職中の昭和四五年一〇月一〇日発症した脳卒中が公務に起因する疾病であると主張しているところ、右原告の主張については、後記のとおり、職員の災害補償に関する人事院規則一六―〇に基づき、昭和四九年四月頃補償事務主任者としての福岡海上保安部長から、補償の実施機関である第七管区海上保安本部長に報告されたのち、同年一二月二七日右第七管区海上保安本部長から公務外の認定がなされており、その後、原告にその旨の通知がなされ、原告が昭和五〇年二月一日頃右認定につき人事院に審査の申立をし、昭和五一年三月二六日付けで申立を棄却されていることは、当事者間に争いがない。(なお、原告は、更に右人事院の判定の取り消しを求めて東京地裁に提訴したが、右判定が行政事件訴訟法にいう処分、裁判等に該当しない、との理由で訴え却下の判決をうけた。)

しかして、原告は、本件請求の趣旨第一項で、右原告の疾病が公務上の災害であるとして、被告との間でその公務災害に伴う権利を有することの確認を求め、請求の趣旨第二項で、原告が昭和四五年一〇月四日、巡視船「よしの」で勤務中船内で頭部を打撲したことと、その頭部打撲が前記疾病の原因の一つであることを主張し、被告に右原告の負傷及び疾病に関する安全配慮義務違反があったとして、債務不履行責任に基づく得べかりし給与、航海日当の損害賠償金一億一、五六三万円余の支払を求めているものである。

してみると、本件請求の趣旨第一項と第二項は、訴訟物を異にし、第一項が第二項の給付請求権の存在確認を求めるものでないことは明らかといわなければならず、また、右第一項は、原告主張の疾病が公務上の災害であることによって、国家公務員災害補償法その他の法律関係上、原告の享受し得る諸種の権利ないし地位についての一般的な確認を求めているもの、と解することができる。

そして、右請求の趣旨第一項のような一般的な権利ないし地位の確認を求める訴えについては、原告の場合、既に国家公務員を退職しているとはいえ、現に国家公務員共済組合法上の廃疾年金が公務によるものでないとされ、不利益をうけているほか、退職時までの定期昇給延伸、恩給、退職手当等における不利益、国家公務員災害補償法に基づく各種補償の面での不利益等をうけているのであるから、個々的に給付の訴えの途があるのはいうまでもないが、これらの不利益を除去する抜本的な手段として、右のような権利ないし地位の確認を求める利益があると認めるべく、右確認の訴えをなし得ると解するのが相当である。

よって、本件請求の趣旨第一項の部分の訴えも不適法とはいえず、被告の本案前の申立は採用することができない。

(本案について)

一  原告が昭和四五年四月一日以降福岡海上保安部所属の巡視船「よしの」の首席航海士として、巡視船の操船運航及び海上保安業務に従事していたものであり、昭和四五年一〇月一〇日自宅で脳卒中を発症し、左片麻痺の重大な後遺症を負ったこと、

右脳卒中発症前、原告の定期健康診断の結果に特記すべきものがなかったこと、

巡視船「よしの」の乗組員の勤務内容が、略々、請求原因2、(4)、イのとおり、同じく昭和四五年当時の巡視船「よしの」の業務の実態と、原告の巡視船「よしの」における職務の実態が、それぞれ概ね同ロ及びハのとおりであり、別紙(略)一、「原告の勤務の行動実例と脳卒中発症に至るまでの経緯」(一)ないし(四)記載の各期日における巡視船「よしの」の出入港地、その時刻、業務内容、及び右(四)のうち、昭和四五年一〇月四日以降九日までの間に、原告が当直勤務に服した時間が原告主張のとおりであること、

原告が前記脳卒中を発症後、昭和四五年一〇月一六日士官予備員の辞令をうけて下船し、同年一二月二〇日まで年次休暇と病気休暇、同月二一日以降昭和四六年八月二一日まで病気休暇と軽業勤務、同月二二日以降昭和四七年三月九日まで休職、同月一〇日復職後昭和四九年八月一四日までの間の病気休暇、軽業勤務等を経て、同年八月一五日以降休職、昭和五〇年八月一五日以降無給休職となったのち、昭和五一年四月一日退職したこと、

原告が前記脳卒中の疾病につき、第七管区海上保安本部長から昭和四九年一二月二七日付け公務外の認定通知書を受け取り、その後、人事院に審査の申立をし、昭和五一年三月二六日付けで申立棄却の判定をうけたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

二  原告は、原告の脳卒中が過重勤務による過労、または、巡視船「よしの」の船内で頭部を打撲したこと、或いはその両方が原因となって発症したものであって、右頭部打撲による発症の関係で人事院規則一六―〇第二条、別表第一、一の「公務上の負傷に起因する疾病」、過重勤務の過労による発症の関係で、右別表第一、八の「前各号に掲げるもののほか、公務に起因することの明らかな疾病」にそれぞれ該当し、国家公務員災害補償法一条に所謂公務上の災害であるとして、前記のとおり、右公務災害に伴う権利を有することの確認を求めると共に、右脳卒中の発症につき、被告に安全配慮義務違反があったとして、債務不履行責任に基づく損害賠償を求める旨主張し、

被告は、右原告の主張を全部否認し、原告に巡視船「よしの」の船内で頭部を打撲した事実が認められず、仮に右打撲の事実があったとしても、脳卒中の発症がその六日後であることや、その間原告が通常の勤務をし、日常生活を送っていること等から、右打撲が脳卒中の原因であるとは考え難く、また、当時、巡視船「よしの」の乗組員の勤務が過重であった事実がなく、もともと、巡視船乗組員の勤務が団体行動であって、原告一人に業務が集中することはあり得ず、具体的に原告が過労であったこともなく、その過労が脳卒中の直接原因ないし最大の原因になることもない旨、詳細な反論をしている。

三  そこで、以下、原告の脳卒中の発症が原告主張の巡視船「よしの」の船内における頭部打撲、或いはその勤務の関係等から、勤務に起因する公務上の災害といえるかどうかの点につき判断するところ、各関係証拠によると、1、原告の経歴、身上等、2、脳卒中発症の経緯、3、同発症後の経緯、4、巡視船「よしの」と乗組員、業務内容、及び脳卒中発症前の原告の勤務状況等について、次のような事実が認められる。

1  (原告の経歴、身上等)(証拠略)、及び弁論の全趣旨を総合すると、

原告は、昭和三年一月一九日甲府市の生まれで、昭和二〇年八月の終戦当時、民間船会社の甲板員、海軍々属の船員等をしており、終戦後昭和二一年三月一二日舞鶴地方復員局艦船運航部雇員に採用され、敦賀、下関、大分等で掃海員としての船上勤務などを経て、海上保安庁発足と同時に昭和二三年五月一日門司海上保安本部勤務になったこと、

そして、その後、略々別紙七、「吉村慶一郎の経歴」記載のとおり、長崎、大分、門司、宮崎(油津)、高松(坂手)、鹿児島(山川)等の各地で操舵員、操舵長、甲板次長、次席航海士、士官予備員等として、主に各地の巡視船、巡視艇への乗組員勤務を経て、昭和四五年四月一日福岡海上保安部所属巡視船「よしの」の首席航海士に配置換えされ、その間、昭和二六年四月一日海上保安官(三等海上保安士)に任官し、昭和四〇年九月一六日三等海上保安正に昇任していたこと、

なお、原告は、昭和三一年八月頃妻智江と結婚し、昭和三三年二月長男を儲け、また、結婚の頃、妻の連れ子を養子にしているところ、右養子は、その後、海上保安大学校を卒業して、現在、海上保安庁本庁勤務、巡視船の船長等をしており、右長男も大島高等商船専門学校を卒業後、貨物船その他の船舶の航海士として勤務していること、

2  (脳卒中発症の経緯)(証拠略)を総合すると、

原告は、昭和四五年一〇月一〇日の脳卒中発症当時、四二歳であって、過去、三二歳の頃流感後異型肺炎、三八、九歳の頃痔手術をした既往症がある程度の健康体であり、酒量晩酌一日一合程度、煙草一日一〇本位、定期健康診断での血圧測定結果も、常に最高一二〇ミリHg以下最低六〇ミリHg台であったこと、

原告は、脳卒中発症三日前の同月七日巡視船「よしの」が午前九時に基地の福岡港を出発し、同夜芦辺港(壱岐)、翌八日夜郷の浦港(同)に仮泊後、同月九日午前零時に郷の浦港で抜錨して、午前八時基地福岡港に帰港し、その間周辺海域の哨戒、各港湾での違反事件の捜査、湾内調査等の業務に就いたのに伴い、首席航海士としての航海勤務をしたこと、

そして、右九日午前中、基地福岡港に係留中の巡視船「よしの」の船内で、整備作業、船内各部点検、計器調整等に従事し、午後かねて作成を続けていた沿岸海難救助訓練の報告書を完成させ、福岡海上保安部の警救課へ提出したあと、午後五時から同保安部近くの「海交クラブ」で開かれた臨時乗船者の送別会に出席して、自らもビール三、四本を飲み、午後九時頃迎えに来た妻運転の自家用車で福岡市西区(当時)茶山の国設宿舎(自宅)に向かい、午後九時半頃帰宅したこと、

原告は、同夜自宅で就寝し、翌一〇日(体育の日)と一一日(日曜)が珍しく原告にとっても休日であったところ、一〇日朝九時頃起床して、朝食後読書等をしているうち、頭重感があったため、午前一一時頃、使い残しの風邪薬を服用したあと、台所横の部屋のソファーに座り、煙草に火をつけようとして、左手の力が抜け、ライターが持てなくなり、妻を呼びたてた時、ろれつがまわらず、立ち上がろうとして、ぐったりとソファーにもたれ込んだこと、

直ぐ、原告の妻が原告の異常に気付き、休日当番医の酒井医師に往診を求めた結果、脳卒中発作と診断され、同日以降同月一六日まで自宅で安静を保ちつつ、同医師の診断をうけ、同月一七日一般状態が移送に耐えるようになった段階で、福岡市内の長尾病院に救急入院したこと、

長尾病院に入院するまでの原告の症状としては、右発症後しばらく吐き気、嘔吐、発熱等があり、やや意識もうろうとし、強い頭痛を訴えていたが、次第に改善され、血圧は、発症直後一五二~八四ミリHg、翌一一日一二〇~六二ミリHgに下がり、その後同様な原告の平常値に戻っていること、

原告は、長尾病院に入院後も、しばらくかなり重い病状が続き、頭痛、嗜眠、半盲症(視力、視野)、言語障害(軽度)、失見当識(意識せん妄状態)、左片麻痺等があったが、同年一一月中旬頃から頭痛がとれ、気分がよくなるなど一般状態が快方に向かい、引き続きリハビリに努めた結果、左片麻痺のうち左下肢の麻痺については、一応杖なく独歩可能なまで治療されたこと、

なお、同病院では、ルンバール検査で原告の髄液に血液(黄色)の混入を認め、原告の脳卒中を脳出血と診断していたこと、

3  (脳卒中発症後の経緯)(証拠略)を総合すると、

(1) 原告は、長尾病院に入院中の昭和四五年一一月初旬頃、脳卒中の原因について、担当医から、基礎疾病がないが、何か思いあたるところはないか、と訊ねられ、その頃何も思い出せずにいたけれども、同月一七日頃、巡視船「よしの」に乗務中の同年一〇月四日、午後六時からの航海当直に就くため自室より船橋に上がるべく、船内の階段をかけ昇った際、頭上の通風用鉄パイプで頭部を打撲し、その当直勤務の時間帯に嘔吐したことを思い出し、直ちに付添いの妻を通じ、担当医にその旨申し述べたこと、

原告の妻は、右申出の以前、担当医に対し、原告の血族に脳卒中発症者がいないことや、原告の仕事の内容、或いは、原告が発症前仕事の忙しさを口にし、特に夏頃から疲れ気味であったこと、原告が一〇月一〇日の発症の前日とか、前示同月七日の乗務の前頃特に元気がなかったこと、右発症の数日前に入港したときに、航海中に嘔吐したといって制服に汚れがついたのを持ち帰ったこと、その汚した制服を持ち帰った日、原告が福岡港から前示国設宿舎(自宅)まで自家用自動車を運転しての帰途、道路の左側から出ていた歩行者を見落し、同乗の妻に不審がられたこと等も話していたこと、

長尾病院の担当医は、前示原告の申出につき、同年一一月下旬ないし一二月初旬頃、原告の頭部のレントゲン写真を撮ったのち、ナースセンターに原告の妻を呼び、右レントゲン写真を手に、骨折像がとれないから頭部打撲が原因であるとは証明できない、旨述べ、それでは何が原因かとの妻の質問に対し、過労ということが考えられる趣旨の応答をしたこと、

原告は、妻から右報告をうけると共に、その頃見舞いに来た巡視船「よしの」の松本嘉春船長にも、妻をして右頭部打撲の件や担当医師の見解等を伝えさせたこと、

(2) 原告は、同年一二月一〇日右長尾病院を退院し、一〇月一六日付けで福岡海上保安部の士官予備員に発令されていたので、退院後、リハビリのため同病院と田中整形外科病院に通院すると共に、同保安部警救課救難係りに所属して、午前中半日の軽業勤務をしたり、病気休暇をとったりし、その間、脳卒中の原因と後遺症の治療方法探究等のため、昭和四六年三月五日九州中央病院で脳血管造影撮影術をうけたが、正確な原因等は判然としなかったこと、

(3) 原告は、その後、昭和四六年七月二八日午前一時頃、温泉療養の途上、妻の運転する自家用自動車に同乗中、大分県大分郡湯布院町大字川上狭霧台で進路左側約七〇メートル下の草原に転落する交通事故に遭遇し、左頭頂部裂傷(三ケ所)、左側頭骨線状骨折、左膝関節打撲症、左拇指関節捻挫、その他の傷害を負い、右傷害治療と本件脳卒中後遺症の療養を兼ねて、同日以降昭和四七年三月二日まで同町所在の岩男病院に入院し、その入院中の昭和四六年八月二日以降休職を発令されたこと、

そして、右岩男病院を退院後、昭和四七年三月一〇日復職し、再度前示職場に復したが、前と同じく軽業勤務が多かったところ、同年五月頃から心因性吃音のため発言障害の症状を示し、更に同年七月頃にはうつ病を発症して、心療内科での治療もうけるようになり、また、昭和四八年一月頃から同年三月頃にかけ、浜の町病院に入院して左足関節部機能改善のため左アキレス腱延長術をうけたりしたこと、

(4) 原告は、原告の脳卒中の原因が巡視船「よしの」の船内での頭部打撲と、勤務上の過労からきたものではないかと考え、現在そのように信ずるに至っているが、かねて右脳卒中を公務災害として取扱って貰う希望を抱き、妻の協力のもとに、前示長尾病院の医師や松木嘉春船長、福岡海上保安部管理課の係員、岩男病院の院長、その他のものに訊ねたり、相談をする等していたこと、

そして、昭和四八年六月一四日読売新聞の夕刊に、脳出血を公務災害とした人事院の判定例が報道されたのをみて、自らも公務災害の申出をする決意をし、その申立書の草稿をまとめたうえ、同年六月下旬頃から福岡海上保安部管理課の係員に右申出をし、当時既に名瀬方面に転出していた松本嘉春船長にも右新聞記事のコピーを送付するなどして、連絡をとったこと、

(5) 福岡海上保安部では、当初、原告の申出に難色を示していたが、原告が人事院九州事務局に相談に赴くなどしたのち、同年八月一七日頃、次長兼相談室長と管理課長らが原告夫妻と面談して、災害補償の実施機関である第七管区海上保安本部長に報告し、手続を進める旨方針を伝え、その頃から前示長尾病院等の各医療機関や、巡視船「よしの」の当時の乗組員に照会する等の作業にとりかかり、漸く翌昭和四九年四月一八日付けで右管区本部長宛に、原告から右申出があった旨の災害発生報告をしたこと、

右災害発生報告書に添付された原告の申立書は、福岡海上保安部の指導により、前記頭部打撲の点だけを理由に絞ったものであったところ、この点に関する原告の主張は、「頭を打った瞬間、鼻が白くなったように感じ、手すりを握ったまま、しゃがんだ。」「直ぐ立ち上がり、帽子をとって、打撲した部分に掌をあてて調べてみたが、切創や出血がなく、瘤も感じなかったので、そのまま船橋に行って航海当直に就いた。」「船橋で頭部打撲のことは話していない。」「航海当直に就いた直後、船務や救難業務の電報の送受が多くなり、頭部打撲のことは念頭から去ってしまった。」「その航海当直中、吐き気がし、一人で便所に行って吐き、その時制服を少し汚した。」「制服を汚したため、後日、妻に吐いたことを話したが、妻以外の誰にも話していない。」「翌日福岡港に入港後、頭部打撲に関して、医師の診療をうける必要があるとは思わず、受診していない。」「右入港の日、自宅まで自家用自動車を運転しての帰途、福岡市中央区内の赤坂交差点から警固交差点までの途中、信号機のない横断歩道上で道路左側からの歩行者を見落して、妻から不審がられた。」「頭部打撲後、脳卒中発症までの間、頭痛や頭重感があり、風邪をひいたような症状が続いた。」等というものであること、

福岡海上保安部は、前示災害報告をするのに先立ち、未だ福岡在勤中の巡視船「よしの」の旧次席通信士加藤政三郎らに口頭で問い合せをしたほか、既に他に転出していた旧船長松本嘉春、同航海長肥後兼信、同通信長渡辺啓一、及び、当日原告と同じ航海当直をしていた旧砲員長渡辺稔、同操舵員福重健次の五名に対し、当時の原告の勤務や健康状況、右原告主張の頭部打撲、吐き気、嘔吐の事実、その他について文書による照会をし、それぞれ前三者から、原告の勤務振りは真面目、健康状態は普通ないし普通以上、右頭部打撲、吐き気、嘔吐等については聞いていない、全然記憶がないなど、後二者からも、頭部打撲や嘔吐等の事実を聞いていない旨の各回答を得、それらの資料も右報告書に添えたこと、

(6) 第七管区海上保安部では、前示災害発生報告に基づき、原告の脳卒中について公務上外の認定をするべく、九州労災病院に原告の脳卒中の原因認定、及び右頭部打撲との因果関係等についての診断を依頼し、同年七月九日同病院での原告の検査、受診を経て、同年八月二八日付け同病院松岡成明医師の診断意見書を徴し、別に、海上保安庁本庁と協議をしつつ(本庁は人事院と協議)、その過程で福岡海上保安部と原告とに、発症前の原告の勤務及び健康状況等に関しても、追加資料の提出を求め、照会や問い合せをしたうえ、同年一二月二七日付けで公務外の認定をしたこと、

4  (巡視船「よしの」と乗組員、業務内容、及び脳卒中発症前の原告の勤務状況)(証拠略)、弁論の全趣旨を総合すると、

(1) 巡視船「よしの」は、昭和二六年一〇月頃建造された二七〇トン型巡視船(長さ三八メートル、幅七メートル、最高速度一一・八ノット、船型番号PS一二)であつて、昭和三三年頃から福岡海上保安部に配属され、その後、同保安部所属のもう一隻の巡視船「くさがき」(四五〇トン型)と共に、主として福岡、佐賀、長崎、山口等北部九州沿岸海域での海上保安業務に就き、昭和五二年一月頃耐用年限を超えて解役となったものであり、同型の巡視船は既に現在国内に存在しないこと、

(2) 巡視船乗組員の職制は、船長と航海科職員、機関科職員、通信科職員等に分かれ、船長と航海科の航海長、航海士、機関科の機関長、機関士、通信科の通信長、通信士等が士官、航海科の甲板長、機関科の操機長、通信科の電信長が準士官、航海科の甲板次長、操舵員、機関科の操機次長、機械員、通信科の電信員が科員などとなっているところ、巡視船「よしの」の乗組員は、別紙三、(巡視船「よしの」の乗組員の定員)記載のとおり約三〇名であつたこと(但し、本件当時は、主計科員の職名が違い、また、別に甲板次長、機械次長という職名もあった。)、

巡視船の業務は、いうまでもなく、救難、公安等の海上保安業務に携わることであり、巡視船「よしの」の乗組員の勤務内容、巡視船「よしの」の業務及び原告の勤務の各実態が概ね請求原因2、(4)、イないしハのとおりであることは、前記のように当事者間に争いがないところ、更に、適宜摘記するに、巡視船乗組員の勤務は、自船の運航に関する船務と、救難、公安等の業務に関する所謂業務に大別することができ、そのうち、船舶乗組員の特色として、右船務についての航海時における航海当直と停泊時における停泊当直とがあること、

巡視船「よしの」の場合、右航海当直は、船長を除く乗組員が別紙四、「航海当直表」(但し、甲板次長と操機次長の職名がなく、一部正確を欠いている。)記載のように、第一ないし第四の当直者グループに分けられ、一日二四時間を午前零時以降三時、三時以降六時という具合に、三時間単位の八時間帯に区分して、各当直者グループが交替輪番制で一日二回各三時間宛(担当時間帯も順次変動する。)合計六時間の当直による船務をするものであり、停泊当直は、船長、航海長、機関長、通信長及び主計科員を除く乗組員二三名が別紙五、「停泊当直表」(前同)記載のとおり、第一ないし第四の当直者グループに分けられ、各当直者グループが交替輪番制で停泊当直勤務をするものであったこと、

巡視船乗組員の勤務については、右航海当直、停泊当直のほか、船務及び業務の双方に、所謂部署規定に基づく勤務があり、巡視船「よしの」の場合も、出入港部署(航海保安部署、荒天部署も同じ)、救難部署(一班、二班)、曳航部署(被曳航部署も同じ)、臨検部署(一班ないし三班)、追跡部署、溺者救助部署(一班、二班)、その他の部署配置が定められており、このうち出入港部署は、巡視船が港に出入りするときに、総員配置による勤務として発令されるものであること、

巡視船乗組員の勤務時間は、一週間につき巡視船の行動時における勤務が五六時間、停泊中の勤務が四八時間と定められ、巡視船「よしの」の場合も、行動時に、一日当たり前示航海当直による二回分六時間と別途二時間の船務、業務等に就く勤務時間が指定され、合計八時間勤務、但し右二時間の就業時間は、必ずしもその余の勤務を要しない時間帯と峻別されていたわけでなく、また、停泊中は、午前八時半から午後五時まで一日八時間勤務、停泊当直の場合翌日午前八時までが通常勤務、その後非番、公休日の当直者には、後日適当な代休を与える定めになっていたこと、

(3) 原告は、当時航海科の首席航海士として、上司である船長、航海長の命をうけて、部下乗組員の作業を指揮、監督する立場にあり、具体的に、船務の関係では、航海時には、前示出入港部署につき、航海科の場合、船橋、前部、後部の三つの作業部門に分かれているうちの、その前部の責任者として、科員を指揮して投錨、揚錨、係留等の作業にあたり、前示航海当直の第三当直者グループ航海科士官として当直勤務をするほか、「行動復命書」の作成、その他を担当したこと、

また、停泊時には、造修、計器整備、文書整備、報告文書の作成、その他を担当していたほか、前示停泊当直の第一当直者グループA班の士官として当直勤務をし、更に、救難、公安の業務の関係では、前記部署配置による救難部署の一班々長、臨検部署の一班々長などをしており、偶々、巡視船「よしの」では、昭和四五年七月以降後記四班制の業務班制度が発足したが、引き続きその業務班制の一班々長をしていたこと、

(4) 巡視船「よしの」は、通常、一、二日間、基地福岡港に停泊(整備)したのち、二、三昼夜程度の行程で主として、壱岐、対馬周辺の玄海灘、及び福岡、佐賀の北部沿岸海域を行動しており、右行動の際、対馬の比田勝、厳原、豆酸、壱岐の勝本、芦辺、印通寺、郷の浦、福岡沿岸の津屋崎、神湊その他の各港湾、或いは周辺の海域で仮泊したり、漂泊したりすることもあるが、哨戒、捜索等業務のため昼夜航行を続けるような場合もあるところ、昭和四五年六月以降一〇月九日(原告の脳卒中発症の前日)までのその行動回数が、六月五回、七月七回(一日未満の訓練や行事のためのものを含む、以下同じ)七~八月一回、八月三回(八月には長期整備があった。)九月六回、一〇月二回(但し九日まで)であったこと、

巡視船「よしの」は、基地福岡港に停泊中も、福岡港での救難、公安等の業務を担当しており、基地周辺で行動することもないではないが、前示行動時には、AW哨戒、T哨戒(侵犯漁船に退去警告を要する場合が多い。)、S配備、密漁船取締、密航警戒、各港湾での停泊船舶への立入臨検、行方不明船、不明者の捜索、筑前大島から沖の島への灯台職員と宮司の渡海交代業務、座礁漁船の救助、進路指導、漂泊船舶の曳航、その他、多種多様な業務に従事し、特にAW哨戒は常時、T哨戒及び悪天候に備えてのS整備も比較的多く、沖の島への渡海交代業務は月平均二、三回、立入臨検も多いときは一回の行動で二〇件を超えることがあるものの、平均して月二、三〇件程度であったこと、

(5) 巡視船乗組員の勤務は、一般の船務のほか、救護、公安等の業務を負担している点に特色があるが、もともと、行動中昼夜の区別がない交替勤務であって、こまぎれ且つ不定の休息時間しかなく、その勤務を要しない時間帯も船内に拘束され、常時部署配置等による勤務を発令されることがあるうえ、巡視船「よしの」の場合、昭和二六年に建造された老朽船であり、当時空調設備等なく、船内の設備全般が劣等、巡視船そのものも復元力を主にした構造のため、動揺が多く、職場環境として良好とはいえず、その勤務条件が相当厳しいものであったこと、

原告は、当時、巡視船「よしの」の首席航海士として、いわば中間管理者的な立場にあり、責任感その他のストレスがあったが、巡視船「よしの」では、昭和四五年七月以降、行動中の業務処理につき、航海当直の編成と直結した独自の業務班制度を取り入れ、前示第一ないし第四の航海当直グループのうち、各科長を除いた構成の業務班四班を設け、航海当直を終えた直後の業務班が引き続き業務の方も担当する、ということになり、原告もその一つの班の班長になったこと、

右巡視船「よしの」の業務班制度は、業務成績の向上を兼ねて、乗組員の勤務を要しない時間帯の実質的な確保にその狙いがあり、もと立入臨検、のちに救難業務その他にまで適用されることになったところ、航海当直の時間帯の割り振りとの関係で、長期的に乗組員相互の負担が公平化される見通しであったが、原告としては、偶々、原告が航海当直を終えた時間帯に業務班による処理を要する事例が多く重なり、その事後処理等を含め、事実上の責任者である原告に負担がかかったと感じており、時間的或いは部分的にそのような現象もあったこと、

(6) 原告主張の別紙一、「原告の勤務の行動実例と脳卒中発症に至るまでの経緯」のうち、昭和四五年一〇月四日巡視船「よしの」の船内での頭部打撲の点等はともかくとして、同年六月頃から脳卒中発症前日の同年一〇月九日までの原告の巡視船「よしの」における具体的な勤務の状況は、略々右原告主張のとおりであり、右頭部打撲の事故日を含む同年一〇月三日からの行動以降の巡視船「よしの」の業務と原告の勤務の詳細も、細部の点はともかく、略々被告主張の別紙六、「原告の脳卒中発症前の勤務状況」に記載のとおりであること、

原告主張の右頭部打撲の点については、打撲後間もなく原告の念頭を離れ、原告もそのことを誰にも話しておらず、福岡基地に入港後、診療を求めるとかいうこともないまま、打撲後六日目の同年一〇月一〇日の脳卒中発症とその後の入院治療を経て、病状のおさまった同年一一月中旬頃初めて思い出し、口にしたものであって、その後、原告の申出による福岡海上保安部の災害発生報告の際の調査でも、前示のとおり、当時の船長、航海長、通信長及び航海当直をしていた砲員長、操舵員らが、いずれもそのような事実を知らない旨答えており、現在、原告自身の述べるところ以外に直接裏付けをするべき資料がないこと、

(7) なお、原告の過去の勤務内容のうち、勤務が過重であったこととの関係で主張されているもののうちから、適宜摘記すると、

イ 前示業務班制度導入前の昭和四五年六月二四日、原告が班長をしていた立ち入り検査班が福岡港内を巡視中、海難事故の被害船である漁船「土安丸」の入港を認め、立ち入り検査を行った結果、東支那海で発生していた船舶衝突事故が判明し、以後捜査が続けられることになったところ、原告は、班員である部下職員を指揮して、同日から翌々日二六日にかけて、右「土安丸」と相手船の一つである「第三七大福丸」、同年七月一八日もう一隻の相手船である「第一三大福丸」(業務班二班が合同で実施)の立ち入り検査と実況見分等を行い、且つ同年九月中旬頃までかけて、各実況見分調書を作成したこと、

ロ 巡視船「よしの」は、同年六月二六日からの行動でT哨戒、前示渡海交代業務、その他に従事していた際、同月二九日午前二時頃、沖の島東方の漂流船調査を指令され、同日午前三時三五分現場海域に到着し、廃油を流出していた対象のアルマカ号(約六、〇〇〇トン)の周辺で調査、警戒に当たったうえ、午前六時調査打ち切りの指令により、現場を離れているところ、当時原告は、午前零時から三時までの時間帯に航海当直をし、三時以降も右調査警戒業務に従事したこと、

ハ 巡視船「よしの」は、同年九月一日からの行動で、同月二日T哨戒に従事中、午後二時二四分頃関釜フェリー船上の重要事件被疑者(窃盗)逮捕の指令をうけて、比田勝港に向かい、同港で既に逮捕されていた被疑者及び護送保安官二名を乗船させて、午後五時一〇分下関港に向けて出港し、翌三日午前二時下関港に入港後、被疑者及び護送保安官を下船させているところ、当時原告は、右二日の午後より夜間九時から午前零時までの航海当直を挾み、被疑者監視の業務班勤務に従事していること、

ニ 巡視船「よしの」は、同年一〇月三日からの行動の際、同日午前九時二〇分基地福岡港を出港時に、遭難船救助の指令をうけ、午後一時一五分頃壱岐の北方海域で機関故障漂流中の「高星丸」(九八二トン)を発見し、事情聴取等を経て、午後二時四〇分頃総員配置による曳航開始後、午後七時三〇分頃までに芦辺港外への曳航を終え、以後監視を続け、翌四日午前三時頃他の曳船に引き渡しているところ、原告は、三日の出港後から正午頃までと、午後も夕方六時から九時までの航海当直を挾んで前後ずっと右救難業務に従事し、翌四日も早朝から未明の頃同じ救難業務に従事していること、

ホ 巡視船「よしの」は、同年九月二五日の午前中基地福岡港の周辺で行われた沿岸海難救助訓練に参加しているが、原告は、右訓練の結果報告書の起案を命ぜられ、同年一〇月三日頃一旦作成し終えたのち、航海長から書き直しを指示されていたところ、巡視船「よしの」の同月七日からの行動の際、巡視船「よしの」が九日午前零時郷の浦港で抜錨し、午前八時基地福岡港に入港するまでの間、寝つかれないまま午前三時から六時までの航海当直の前後に右報告書の作成をし、更に、前示のとおり、入港後、午後船内で右報告書を完成させており、結局、同夜徹夜の作業になったこと、

以上の各事実を認めることができる。

四  ところで、まず、原告の脳卒中が「公務上の負傷に起因する疾病」であるかどうかの点についてみるに、前記当事者間に争いがない事実、及び右認定した各事実によると、原告主張の昭和四五年一〇月四日巡視船「よしの」の船内での頭部打撲の事実は、原告が当時その打撲のことを勤務中の事故として届出ていないのは勿論のこと、上司や同僚、部下等にも一切話しておらず、脳卒中発症後一一月中旬頃になって、入院先で発症の原因を訊ねられた機会に思い出し、担当医師へ申出たものであって、発症の前、勤務先の福岡海上保安部にも全く知られていなかった事柄である。

そして、前記認定した経緯により、その後二年半以上の昭和四八年六月頃からの原告の申出に基づき、福岡海上保安部が第七管区保安本部に災害発生報告をするため、巡視船「よしの」の該当乗組員らについて調査した範囲では、右原告主張の事実を目撃したり、聞き知ったりしている者がなく、結局、右原告の頭部打撲の事実は、原告自身、また、その後の吐き気、嘔吐、頭痛、頭重感その他の件も原告と原告の妻が述べるところ以外に、直接的な裏付け資料がないこととなり、福岡海上保安部でも、右打撲事故の存在を前提とする取扱いの用意がなかったものと考えられる。

もっとも、右原告の頭部打撲の事実自体に限っていえば、前記各証拠のうち原告の申立を中心とするものによって認定することができるというべきであるが、右頭部打撲と原告の脳卒中との因果関係については、一方において、原告の高血圧症その他脳卒中の基礎疾病がない健康体であった事情があると共に、他方において、右打撲事故が脳卒中発症後に主張され始めたものであって、状況が必ずしも客観的でないことや、右発症が打撲事故後六日目の休日に自宅で起き、その間、原告がソフトボール競技とか送別会とかへの出席を含め、概ね従前どおり、通常の勤務をしている事情があるため、その認定たるや極めて困難である。

1  しかるところ、右因果関係についての専門医師の見解に触れるのに先立ち、(証拠略)を総合すると、

脳卒中は、一般に、脳血管の病的過程で急激に脳の局所症状が発現することを指称し、その脳血管疾患は、(ⅰ)脳梗塞、(ⅱ)頭蓋内出血、(ⅲ)一過性脳虚血、(ⅳ)高血圧性脳症のように分類することができ、そのうち頭蓋内出血は、脳実質の中に出血し、そこに血腫を形成する脳内出血と、クモ膜下腔に出血を起こすクモ膜下出血に分けることができ、これらのうち、原告の脳卒中は、右(ⅱ)の頭蓋内出血のうちの脳内出血に基づくものであること、

原告には、脳卒中発症後長尾病院に入院中、同名半盲(脳出血の部位と反対側に視野欠損がみられるもの)があるようである旨の診断と、心電図による「心筋障害」「心筋虚血」(いずれも冠状動脈の硬化所見につながるもの)の検査結果があり、また、原告の脳内出血の出血部位に関しては、昭和五三年六月健和総合病院でのCT検査の結果、右側脳外囲部を中心に、側頭葉、前頭葉部分に開大する古い出血痕のあることが記録されていること、が認められる。

2  また、(証拠略)によると、松山春郎外一名著の「脳の臨床と病理」(一〇頁と三三頁)には、「……頭蓋内出血の原因となる疾患は、高血圧性脳内出血、小襄状動脈瘤の破綻、血管腫の破綻、外傷、出血性素因、原因不明のもの、原発性、転移性腫瘍内の出血、敗血症性塞栓および真菌性動脈瘤、出血性硬塞に伴う動脈性または静脈性出血、続発性脳幹出血、高血圧性脳症、特発性脳紫班病、脳動・静脈の炎症性疾患に伴うもの、その他まれなるものがあげられている。……」「……脳外傷には頭蓋骨に大きな損傷をみないが、脳に損傷をきたす閉鎖性脳外傷と、頭蓋骨が損傷され、傷口が開放されている脳損傷、すなわち開放性脳外傷に大別できる。さらにこれらは次のごとく分類することができる。脳外傷、1、閉鎖性脳外傷、<1>脳震蕩、<2>硬膜外血腫、<3>硬膜下血腫、<4>硬膜下水腫、<5>くも膜下出血、※脳血管奇型の破裂、※脳実質内出血、※脳硬塞、※は随伴する疾患、2、開放性脳外傷、……」、

「……閉鎖性脳外傷の臨床所見、頭部に外力が加わって一時的に意識障害が生じ、局所に頭皮の損傷ないし皮下出血がみられる程度で、脳神経症状を残さないで治癒する脳振蕩の場合から、意識障害が長く続くか、一時に回復をみてもふたたび意識障害があらわれて脳神経症状を示し、脳組織に破壊が生じている場合まである。……」との記述があり、

(証拠略)によると、太田富雄外一名著の「脳神経外科学」(四三〇頁以下)には、「……脳内血腫の病理、脳内血腫が頭部外傷に見られる頻度は一、二パーセントである。外傷性頭蓋内血腫における頻度は一〇パーセント余りと考えられている。……ただしCTスキャンの出現により、外傷例における脳内血腫の頻度は高くなっている(一三パーセント……)。……ここで注意しておきたい“風変わりな脳内血腫”がある。軽微な頭部外傷(倒れるとか、自転車と衝突する程度で、意識障害も五分以内、少なくとも一時間以内のものがほとんど)後、数時間から二週間前後(ふつう一二時間から一週間)の清明期をもって発症する脳内出血で、これはポリンガーにより、外傷性晩発性卒中と呼ばれたものである。ただし、最近では遷延性外傷性脳内血腫と呼ぶ方が適切であるといわれている。発症機転ははっきりしないが、外傷により血管が損傷され、壁の壊死が起こり、のちにその部より出血すると説明されている。好発年令は六、七〇才台(慢性硬膜下血腫のそれに類似)で、頭蓋単純レ線撮影で、骨折が約半数にみられる。……血腫好発部位は、前頭葉、側頭葉、後頭葉内である。……」との記述がある。

3  そして、(証拠略)によると、

イ 原告が当初入院した長尾病院では、原告の入院中、頭部打撲が原因ではないかとの原告の申出につき、医師間で協議して、因果関係がないものとしているところ、そのうち、同病院長服部一郎医師は、「頭部外傷と脳卒中の間の因果関係を認めるには、外傷後二、三日以内に発症していることと、発症までに架橋症状があることが必要であり、原告の場合、そのいずれの条件も充足されない。」、「原告の場合、頭部打撲後、船酔いとか頭痛とかがあったといわれているが、それだけでは右架橋症状とはいえず、頭痛、悪心、嘔吐、意識レベルの低下、複視(ものが二つに見える。)、めまい、歩行不自由、精神作業能力の低下、異常行動等、脳の中に何かが起こったことを思わせる症状がなければならない。」、「原告には、発症前高血圧症等の基礎疾病はなかった。」、「しかし、脳出血には、高血圧症等の基礎疾病がなくて発症するものが約二〇パーセント程度ある。」、「原告の脳血管破裂の原因に、原告の勤務が非常にきつかった、ということが入る可能性はまあないでしょう。」旨証言し、

ロ 九州労災病院の松岡成明医師は、昭和四九年七月九日第七管区海上保安本部の依頼に基づき、原告を診察して、「(イ)、原告の頭部打撲と脳卒中の関係は、受傷後四年も経過しているため、その打撲部に何ら治癒瘢痕創がみられない。創がなかったとしても、脳内血腫の可能性がないわけではないが、受傷当時、意識障害とか骨折とかがあれば、有力な参考になる。しかし、原告の場合は、吐き気、嘔吐の事実はあるが、頭重、頭痛の症状がなく、受傷後平常の勤務に服しているので、受傷の軽かったことが窺われる。(ロ)、原告の脳卒中の原因については、頭部外傷を原因とする脳血管障害は、頭蓋内血腫を除き、内頸動脈海綿洞瘻以外非常にまれである。原告の場合、若し該当するとすると、そのうちの外傷性晩発性脳卒中(一八九一年ボリンガーの報告によって知られている。)であるけれども、他の原因によるものとの区別上、その証明が必要と考えられる脳挫傷の瘢痕組織からの出血、または、外傷性脳動脈瘤の破裂等を証拠だてるものがなく、外傷性とするのにかなりの矛盾を感じる。」旨の診断意見書を作成し、

本件の証人として、「原告の頭部打撲後の嘔吐は、脳のはれがあったことを表わしていると思う。」、「しかし、この脳の障害が強ければ、普通こういう勤務にはつけない。」、「原告の脳卒中症状が頭部打撲の外傷に基づくとすれば、遅発性のものではなく、急性期のものであり、そのような症例は、脳卒中とはいわず、頭蓋内出血という分類をする。」、「頭蓋内出血の場合、出血部からの圧迫症状のため、進行性の意識障害があり、原告のように一週間目に突如片麻痺になる例は少ない。」、「外傷に起因しない所謂脳出血には、非常に過労が多い。」、「過労は直接の原因ではなく、或いは誘因ではないかなあと思う。」、「原告の場合、頭部打撲受傷後の勤務の状態が過労かどうかは分からない。」旨述べ、

ハ 健和総合病院の小山駿一医師は、原告の依頼により昭和五三年五月下旬頃原告を診察し、「病歴からは、突然発症のようであるが、出血性素因等もなく、血圧上昇もないようで、硬塞の可能性が強い感じをうける。又、数日前の頭部打撲も直接関係ないと思われる。……因果関係については、疲労は、脳血管障害発症の一要素になると思われますが、最大の要因とまで言及するのは不可能と思われます。」との意見(但し、続いて行った前示CT検査の結果に基づき、右診断名の部分を脳内出血に訂正)であり、

本件の証人として、「脳内出血の危険因子としては高血圧症が最も大きい。」、「その危険因子には、そのほか多量の飲酒、喫煙など二〇項目位もあげられていて、疲労もその一つであると思う。」、「原告の場合、発症の原因は類推の域を出ず、疲労が考えられるけれども、疲労だけが原因であるということもないので、疲労を最大の原因である、とするのは難しい。」、「原告の脳内出血は、頭部打撲の場合のほとんどである脳挫傷、クモ膜下出血、硬膜下出血、硬膜外出血などと出血部位が異なり、また、少しずつ手足の利きが悪くなるなど、外傷性の場合にみられる一定の症状経過がないので、頭部打撲を原因とするものではないだろう。」旨述べ、

ニ 杏林大学医学部衛生学教室助教授上畑鉄之丞医師は、昭和五八年一〇月頃本件の訴訟記録等の資料に基づき、「吉村慶一郎氏の脳出血についての考察」をまとめ、「原告の脳内出血は、前示太田富雄外一名の“脳神経外科学”に引用されている遷延性外傷性脳内血腫に該当し、外傷性であることが否定できず、仮に、内因性のものであるとしても、当時原告には、冠状動脈の硬化所見を示す前示“心筋障害”“心筋虚血”の検査結果があることから、脳内血管の硬化もあった可能性があり、頭部打撲後の体調不調と発症前日の徹夜などの疲労が蓄積し、血圧上昇を招き、出血に至ったことが考えられ、いずれにしても、業務との関連を否定できない。」との見解を示し、

本件の証人として、「その後、原告夫妻と面談して、原告が一〇月四日頭部打撲の当日、単なる吐き気だけでなく、現実に嘔吐していること等発症までの具体的な経緯を聞き、右吐き気、嘔吐、或いは発症まで続いた頭重感、風邪様の症状等が外傷から発症までの架橋症状に該当し、一〇月五日自家用自動車を運転中左側歩行者を失認したのも、前示同名半盲の症状とみられ、架橋症状の一つであると思うので、前示考察に追加したい。」、「原告の脳内出血については、外傷を直接的に原因とする場合、外傷を間接的に原因とする場合、外傷と関係なく発症した場合の三とおり考えられるが、最初の外傷を直接原因として発症した可能性が一番大きく、その次が外傷を間接的に原因とするもので、三番目の可能性は少ない。」旨述べていることが認められる。

4  してみると、原告の脳卒中は、頭部外傷に通常みられない脳内出血に基づくものであって、発症直後治療を担当した長尾病院の医師、その後昭和四九年七月頃原告を診察した九州労災病院の松岡正明医師、更にその後の昭和五三年五、六月頃、CT検査を含めて原告を診察した健和総合病院の小山医師の三者が、それぞれ原告主張の頭部打撲との関係を否定的に判断しており、これらの医師は、原告が主張している打撲直後の吐き気、嘔吐、或いは、その後発症時までの頭重感、その他の症状、及び前示左側歩行者の失認等の出来事も、頭部外傷後の所謂架橋症状に該当しない、としているものである。

ただ、右杏林大学の上畑鉄之丞医師の意見は、原告の脳卒中が前示「遷延性外傷性脳内出血」に該当し、外傷性であることを否定できない、というのであるが、しかし、その証言のなかには、「私もあまりこういうケースを経験したことがございませんので、文献を少し調べてみますと、この頭部外傷、脳内血腫という紹介がございまして、そういうのにあたるのではないか、というような考察をしたわけです。」、

「それで、この場合(遷延性外傷性脳内血腫)には、……好発年令六〇才台、骨折が約半数みられると、好発部位は前頭葉、側頭葉、後頭葉内であると、こういうことがございまして、この方(原告)の場合には、年令が四〇才台、それから、骨折は当時のレントゲン所見では確かなかったというふうに思います。それから、血腫の発生した部位は、側頭葉より大脳にかけてでございますから、少しちょっとずれるかもしれない、と思いますが、この方の場合、もし外傷との関連を考えるとするならば、こういう脳内血腫があるということしか説明がつかない、というふうに考えました。」という部分があって、右意見も断定的な結論としての鑑別診断とはいえず、

なお、同証人は、原告の勤務上の疲労との関連で述べているのであるが、長尾病院に入院当時、原告にみられた前示「心筋障害」「心筋虚血」の検査結果について、それが冠状動脈の硬化所見を示すものであり、脳卒中の少なくともリスクにはなるだろう、と証言しており、これによれば、原告に脳卒中の危険素因が全くなかったわけでもないことが窺われるのである。

従って、以上の事実経過と各証拠を総合すると、原告の脳卒中が原告主張の頭部打撲を原因として発症したとするには、合理的な疑問があるといわなければならず、原告の脳卒中は人事院規則一六―〇第二条、別表第一、一の「公務上の負傷に起因する疾病」に該当しないというほかはなく、他に、この点に関する原告の主張を認めるに足る証拠は存しない。

五  次に、原告の脳卒中が「公務に起因する疾病」であるかどうかの点についてみるに、この「公務に起因する疾病」に関しては、右人事院規則では別表第一、八に「前各号に掲げるもののほか公務に起因することが明らかな疾病」と定められているところであるが、この点の原告の主張は、原告の脳卒中が過重勤務による過労、或いは、前記頭部打撲と右過労とが共通の原因となって発症したものであり、原告の場合、「業務に関連する突然的、または、その発生状態を時間的、場所的に明確にしうる出来事、若しくは、特定の労働時間内に特に過激(質的又は量的に)な業務に就労したことによる精神的、または肉体的負担(以下単に災害という。)が当該労働者の発病に認められること」等、請求原因4、(1)、ロ記載の民間労災事故の場合の同種疾病の各認定基準を充足している、というのである。

1  右原告の主張のうち、頭部打撲の点が脳卒中の原因であると認定できないことは、既に詳述したとおりであるが、原告の脳卒中発症前の勤務状況については、原告の主張に従い、前記のとおり詳しく事実認定をしたところであり、原告は、本件脳卒中の発症前、或いは昭和四五年一〇月四日の頭部打撲の以前、巡視船「よしの」の首席航海士として、右認定の勤務をしていたものであって、その勤務内容についての不規則な船上勤務の特殊性、船舶運航のための船務以外に海上保安業務を担当する巡視船乗組員としての特徴、首席航海士の立場からくる職務上のストレス、業務班制度による仕事の偏り、それに巡視船「よしの」の設備、構造、その他の職場環境等も、右認定のとおりである。

そして、当時、巡視船「よしの」が船舶衝突事故である「土安丸」海難事件の捜査、廃油流出船アルマカ号の調査、関釜フェリー船上から逮捕された重要被疑者の護送、大型漂流船高星丸の曳航、その他、いくつかの特記すべき業務を行っていたことも、右認定のとおりであり、これら特に拾い上げるものに限らず、むしろその通常業務の過程において、数多くの相当厳しい作業に従事しており、原告個人の勤務もかなり重かったことは原告主張のとおりと認めることができ、原告に勤務からくる疲労の蓄積があったことも容易に推認できるところである。

それに加え、原告は、脳卒中発症前日の昭和四五年一〇月一〇日、行動中の巡視船「よしの」の船内で、寝つかれないまま、沿岸海難救助訓練報告書の作成にあたり、午前八時基地福岡港に入港後、午前中整備作業、午後再び右報告書作成に従事し、結局、前夜から徹夜をしたうえ、午後五時頃からの送別会にも出席しているものである。

2  しかし、原告の巡視船「よしの」における勤務は、その内容の厳しかったことが原告主張のとおりであるとしても、特に通常と異なった勤務状態であったわけではなく、部分的に原告にだけ余分に負担のかかる事項があったにせよ、巡視船乗組員の勤務が船務、業務を問わず、団体行動であって、原告一人に過重な負担が集中する筈がないという点、被告主張のように考え得ないでもなく、いずれにしても、原告の勤務状況につき、従来の業務に比し特に過激(質的又は量的に)な精神的、肉体的負担を要するような特殊な状態なり、特別な事情があった、というところまでは認められない。

しかも、勤務上の疲労の蓄積と脳卒中との因果関係についても、その認定判断は著しく困難であり、一般に、疲労の蓄積が脳卒中発症の誘因となることは承認されていると考えられるものの、通常の疲労の蓄積だけで脳卒中発症の原因となり得るかは、疑義のあるところであって、原告の場合、この点でも、前記杏林大学の上畑鉄之丞医師だけが、原告に脳内血管の硬化があった可能性があり、頭部打撲後の体調不調と前日の徹夜などの疲労の蓄積が血圧上昇を招き、出血に至ったことが考えられる旨積極的な見解を示しているが、前記長尾病院の服部一郎医師、九州労災病院の松岡成明医師、健和総合病院の小山駿一医師がいずれも否定的な意見を述べているところである。

そして、右上畑鉄之丞医師の見解部分は、原告の脳卒中が外傷を間接的な原因として発症した可能性に言及して、勤務との関連性を肯定しようとするものであるが、公務災害制度における公務上の疾病かどうかの判定は、見解の分かれる事項について、一方の可能性があるという程度では足りず、当該疾病の原因と考えられる業務の状態等が医学上その疾病の原因とするに足るものである等、積極的な根拠を必要とすると解するのが相当であり、右証言だけによって、原告の脳卒中発症の原因を勤務上蓄積された疲労、或いは、それと前記頭部打撲との競合であるとまでは認定することができない。

また、この点に関する原告の主張のうち、過労によるストレスで血液中のコレステロールの増加と動脈硬化が生じたところで、頭部を打撲したため、損傷をうけ易い状態になっていた脳血管が障害され、打撲後も続いていた疲労蓄積が重なって、急激な血圧上昇を招き、脳出血の発症に至った可能性が高く、頭部打撲と過労が相まって脳出血の原因になった旨の部分も、右上畑鉄之丞医師の見解を更に進め、一つの推測として主張されているのにとどまる、といわざるを得ず、採用することができない。

3  右のとおり、原告の場合、原告主張の前記請求原因4、(1)、ロ記載の認定基準については、むしろ各要件を充足しているとはいえない、と考えなければならず、このことは、原告が、偶々、脳卒中発症の前日徹夜の作業をしたうえ、夕方から送別会に出席したという事実を考慮にいれても、その程度では未だ右結論を動かすに足りないものであり、結局、原告の脳卒中は、「公務に起因する疾病」には該当しないことになり、他にこの点に関する原告の主張を採用するに足る証拠も存しない。

六  以上により、原告の本訴請求は、公務に起因する脳卒中に伴う権利を有する者であることの確認請求、被告の安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求共に、右脳卒中が公務に起因して発症したとの点でその証明がないことに帰し、いずれも失当として、排斥を免れない。

よって、爾余の争点に対する判断を省略して、原告の本訴請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田中貞和 裁判官 宮良允通 裁判官衣笠和彦は転任のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 田中貞和)

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