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神戸地方裁判所 昭和62年(ワ)147号 判決 1991年11月29日

主文

一  被告は、原告らに対し、各金二〇八五万六二九〇円及びこれに対する昭和六二年二月一五日から支払ずみまで年五分の割合による各金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を原告らの、その余を被告の、各負担とする。

四  この判決の主文第一項は、原告らが各金二五〇万円の担保を供したときは、仮に執行することができる。

理由

【事 実】

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告らに対し、各金三九〇五万二七五〇円及びこれに対する昭和六二年二月一五日から右各支払ずみまで年五分の割合による各金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告山本正治は、亡山本淳子(昭和三六年一一月二九日生)(以下「淳子」という。)の父であり、原告山本和子(以下「原告和子」という。)は、淳子の母である。

(二) 被告は、普通地方公共団体で法人であり、宝塚市民病院(以下「被告病院」という。)を、医療法七条に基づいて開設し、管理、経営している。

市民病院は、医療法三一条にいう公的医療機関である。

2  本件医療事故の発生

(一) 淳子は、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから、被告病院において、気管支喘息発作の治療のため、夜間の救急診療を受け、当直医師から、ボスミン皮下注射と内服薬の投与を受けて、翌二九日午前一時ころ、同病院を退去して帰宅した。

しかし、淳子は、帰宅後も喘息発作が継続したため、朝まで一睡もできなかつた。

(二) 淳子は、右二九日午前八時二〇分ころ、原告和子に伴われて再び被告病院を訪れ、診療の申込みをしたところ、約二時間待たされ、ようやく午前一〇時三〇分を過ぎたころに、内科で行政隆康医師(以下「行政医師」という。)の診療を受けることができた。

(三) 行政医師は、淳子に対する問診により、淳子が、昨夜喘息発作症状により被告病院の救急診療を受診したが、喘息発作継続のため、昨夜は一睡もできなかつた旨を聴取した後、看護婦の野村恵子(以下「野村看護婦」という。)に対し、淳子を右診察室から廊下を隔てて斜め向かい側にある別室(以下「処置室」という。)に移動させたうえ、淳子に交感神経刺激剤である二パーセントアロテック吸入液〇・三ミリリットル及びネブライザーD液五ミリリットル(以下「本件吸入液」ともいう。)の吸入処置を実施するよう指示し、行政医師は処置室に同行しなかつた。

(四) そこで淳子は、野村看護婦とともに処置室に赴き、同室において、同看護婦の準備と指示にしたがい、吸入装置を用いて本件吸入液の吸入を開始したところ、たちまち、呼吸困難となり、野村看護婦に対して、「これ以上吸えません、苦しくて。」と訴え、吸入を止めたい旨を申し出た。しかし、野村看護婦は、右淳子の訴えと申出にもかかわらず、右薬剤の吸入を、腹式呼吸によつて続けるように指示したうえ、その場を離れた。

(五) 淳子は、やむを得ず、野村看護婦の指示にしたがつて本件吸入薬の吸入を続けたが、その呼吸は一層困難になり、急速に瀕死の様相を浮かべ始めた。原告和子は、そのため、二、三分後にやつと戻つてきた野村看護婦に対し、医師の臨場を強く求めた。

(六) 行政医師は、野村看護婦の報告を受けて処置室に赴いたが、呼吸困難に陥つて苦しんでいる淳子に対する処置として、本件吸入液の吸入処置を中止したうえ、自ら点滴の装置を装着し、さらに、右点滴中に、淳子に対し、気管支拡張剤であるネオフィリンを急速に注射した。ところが、淳子は、間もなく手足から力が抜け、手指の先が青紫色を帯びて、意識を消失した。行政医師は、そのため、さらに、淳子に対し、副腎皮質ステロイド剤であるソルコーテフ及び気管支拡張剤であるボスミンを投与し、他の医師の応援を求めて淳子の蘇生に努めた。しかし、淳子の気管支喘息発作の重篤化は進行し、同女は同日正午ころ、気道収縮と粘液栓が原因で窒息死するに至つた。なお、右喘息発作により同女に気胸が併発した可能性もある。

3  被告の本件責任原因

淳子は、昭和六一年五月二八日、被告との間で診療契約を締結し、被告は、右医療契約に基づき、淳子に対して病的症状の原因解明及び病状に適した的確な治療行為をなすべき債務を負つていたにもかかわらず、被告病院に内科医として勤務する被告の履行補助者である行政医師は、後記4のとおり、淳子に対し右債務の本旨にしたがつた履行をなさなかつたため同人を同日午後零時一〇分、死に至らしめた。さらに、行政医師と同様に、被告の履行補助者である被告病院の他の勤務医師(病院長を含む。)についても、後記5のとおり、右債務の本旨にしたがつた履行をなさなかつた。

よつて、被告は、民法四一五条による債務不履行責任がある。

4  行政医師の過失

(一) 症名診断等とその方法上の過失

(1) 淳子の、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから翌二九日午前一〇時三〇分過ぎころまでの間の被告病院における治療経過は、前記のとおりであるところ、同女は、右二九日午前一〇時三〇分過ぎころ、行政医師の診察を受けた。淳子は、当時、副腎皮質ホルモン剤であるステロイドを常用していたうえ、すでに気管支喘息の中発作以上の状態が一二時間以上持続していたから、気管支喘息の重積発作状態またはそれに近い状態にあり、体力も相当に衰弱していた。行政医師は、淳子に対する簡単な問診によつて、淳子が、前夜喘息発作症状により被告病院の救急診療を受診したが、喘息発作継続のため一睡もできなかつた旨を聴取しただけで、直ちに淳子の病名を気管支喘息の中発作状態と診断した。

(2) ところで、気管支喘息の場合、患者の発作の程度は、小発作、中発作、大発作、重積発作状態に分けられ、その程度に応じた治療を施さなければならないから、行政医師は、淳子の気管支喘息の発作の程度を正確に把握するとともに、同女の呼吸筋の累積疲労等体力の衰弱度を正しく認識する必要があり、そのため、淳子に対し、次の事項を必ず問診すべき義務があつた。

(a) 今回の発作は、前日のいつから始まつたのか。また、被告病院における前記救急診療を受診して五月二九日午前一時ころ帰宅して後、軽快が見られたか否か。

(b) これまで、発作時にどのような治療を受けて軽快したか。とりわけ、ステロイド使用の有無。

(c) 被告病院の救急診療を受けた際に当直医が処方した座薬、内服薬を使用したか否か。

(d) 発作を悪化させる要因として、喀痰の粘稠度上昇があるが、喀痰排出の容易度、夜間の水分摂取量、尿量はどうであつたか。

(e) これまで使用した薬剤の副作用について。

(3) しかるに、行政医師は、淳子に対し、右必須事項を問診することを怠つたため、淳子が、当時気管支喘息の重積発作状態にあつたことの徴憑となるステロイド常用の事実や喘息発作の継続時間を認識・把握することができず、さらにまた、被告病院における前記救急診療を受診した際の当直医の診療経過及び投与した薬剤(これらは、いずれもカルテに記載されていた。)の効果の検討を怠り、直ちにかつ安易に気管支喘息の中発作状態と断定し、その結果、淳子の症状の重篤度及び体力の衰弱度を誤つて認識した。そのため、行政医師は、淳子の病状等を適切に診断すべき病名鑑別という第一歩から誤りを犯した。

(二) アロテック投与選択の過失

(1) 淳子の喘息発作は、前日の前記夜間救急診療を受診した時点から継続しており、行政医師の診療を受ける時点においては、重積発作状態またはそれに近い状態にあつた。したがつて、淳子の喀痰の粘稠度は低下し、喀出されにくい状況にあつたと考えられるから、これを放置すれば、窒息死する可能性があり、かかる場合、気管支粘液をかえつて粘稠にさせかねない交感神経刺激剤を投与しても、淳子の病状を改善する効果は乏しい。それ故、行政医師としては、ためらうことなく、気管支拡張剤であるネオフィリンにステロイド(ソルコーテフ、ハイドロコートンまたはソルメドロール)を加えた五〇〇ミリリットル程度の点滴を淳子に実施することを選択し、これを一時間程度時間をかけて行う義務があつた。

(2) しかるに、行政医師は、前記のとおり、淳子に対する問診を怠つたため、同人が気管支喘息の重積発作状態にあること及び淳子がステロイドを常用していることを把握できず、野村看護婦に対し、淳子の前記病状の改善にとつて効果の期待できない交感神経刺激剤である二パーセントアロテック吸入液〇・三ミリリットル及びネブライザーD液五ミリリットル(「本件吸入液」)の吸入処置の実施を指示し、これを実施させたため、淳子の喘息の急速な悪化を招き、同人を窒息死させた。

(三) アロテック投与方法上の過失

(1) 仮に、アロテックを投与したこと自体に過失がなかつたとしても、これを吸入により投与するならば、気管支に喀痰が詰まつて薬剤が入らず、頻回吸入によつて逆に心血管系のみにしか作用しないほか、本薬代謝産物が逆に気管支を攣縮せしめることがあるので、投与経路として吸入は禁忌とされており、また、内服もほとんど効果がないとされている。それ故、行政医師は、淳子に対し皮下注射によりこれを投与すべき義務があつた。

(2) しかるに、行政医師は、前記のとおり、野村看護婦に対し、アロテックの吸入による投与を指示し、これを実施させたため、淳子の喘息の悪化を招来させ、死に至らせた。

(四) アロテック吸入方法上の過失

(1) 仮に、アロテック吸入により投与したことに過失がなかつたとしても、その効果的な吸入方法としては、アロテック〇・三ミリリットルないし〇・五ミリリットルにビソルボン、アルベールまたは生理食塩水などを加えて合計二ミリリットルないし四ミリリットルとして使用するのが通常である。それ故、行政医師も、淳子に対しかかる通常の方法による吸入方法を用いるべき義務があつた。

(2) しかるに、行政医師は、前記のとおり、二パーセントアロテック液〇・三ミリリットルにネブライザーD液五ミリリットルを加えて使用したため、薬剤の効果が上がらず、淳子の喘息を悪化させて、死に至らせた。

(五) アロテック吸入継続の過失

(1) 本件吸入液の吸入は、吸入開始当初、吸入装置が具合よく作動しなかつたため、スムーズにスタートしないことが判明した。それ故、行政医師は、かかる時点で、淳子に対する本件吸入液の吸入措置を中止して、より効果的な治療方法に切り替えるべき義務があつた。

(2) しかるに、行政医師は、吸入措置を良好な状態で作動させる目的で、本件吸入液にネブライザーD液五ミリリットルを補充したため、アロテック濃度が低下して、吸入終了までに時間が余計にかかり、その薬効の低下をきたす状態を作出した。加えて、同医師は、自ら淳子の傍にいて同人の容態を観察することなく、野村看護婦にまかせきりにして、本件吸入措置を継続させていたため、その間同看護婦が淳子に対して腹式呼吸を指導するという誤つた処置を見逃がし、その結果、かえつて淳子の喘息の悪化を招来させ、同人を死に至らせた。

(六) アロテック吸入中止後の投薬上の過失

行政医師は、本件吸入液の吸入処置を中止した後、既に瀕死の瀬戸際にあつた淳子に対し、ネオフィリンを急速に注射するという過失を犯したうえ、さらに軽率にも漫然とソルコーテフ、ボスミンを投与したため、淳子を死亡するに至らせた。

5  その他の医師の過失

(一) 本件夜間救急診療における当直医の過失

(1) 被告病院の当直医は、昭和六一年五月二八日の夜間救急診療で淳子を診察した際、淳子に対し、問診によつて、(イ)喘息発作の始まつた時刻、(ロ)ステロイドの常用の有無、(ハ)ボスミン皮下注射及び内服薬投与の効果を確認し、気管支拡張剤の投与によつて淳子の症状が軽快しないのであれば、同人に対し、点滴または内服によりステロイドを投与すべき義務があつた。

(2) しかるに、右当直医は、問診によつてかかる事項を確認せず、漫然と淳子を帰宅させたため、淳子の喘息を悪化させた。

(二) 被告病院長の過失

(1) 被告病院長は、平素から、被告病院を受診する気管支喘息の重積発作状態にある患者に対しては、他の患者に優先してすみやかに診療を開始するよう担当者に指示し、これに対応できる医療体制を整えておくべき義務があつた。しかるに同病院長は、かかる義務を懈怠していたため、昭和六一年五月二九日午前八時三〇分ころ、気管支喘息の重積発作状態で来院した淳子をなんら正当な理由なく約二時間も待たせてしまう結果となり、淳子の喘息の悪化を招来させた。

(2) さらに、被告病院長は、淳子のように気管支喘息の重積発作状態にある患者に対して適切な医療を施すためには、一定程度の水準以上の力量を有する医師をしてこれに当らせるよう配慮すべき義務があつた。しかるに、同病院長は、かかる配慮をまつたくすることなく、臨床経験と力量の乏しい行政医師をして単独で淳子の診療に当らせた結果、淳子の病状を正確に把握して、適切な治療を施すことができなかつた。

6  損害

(一) 淳子の死亡による逸失利益

金四四三〇万五五〇一円

淳子は、昭和三六年一一月二九日生まれの女性で、高校卒業後二年制のビジネス・スクール(短大に相当する。)を終了し、本件死亡当時、日放株式会社大阪支店に勤務して、死亡の前年の昭和六〇年中には年額金二三九万五三八四円の収入を得ていたから、本件医療事故で死亡しなければ、四三年間稼働可能であり、その間昭和六三年賃金センサス第一巻第一表・産業計・企業規模計・女子労働者・高専・短大卒・全年齢平均の年収額金二七九万九三〇〇円と同額の収入を得られたはずであるから、右収入額を基礎に、生活費として三割を控除し、新ホフマン式計算法により年五分の割合の中間利息を控除して、淳子の逸失利益の現価額を算定すると、次の計算式のとおり、その合計額は金四四三〇万五五〇一円(円未満切捨、以下同じ)となる。

279万9300円×(1-0.3)×22.6105=約4430万5501円

(二) 相続

淳子は、原告ら夫婦の長女であるところ、原告らは、淳子の死亡により、同人の右損害賠償請求権を法定相続分にしたがい、各二分の一の割合でそれぞれ相続取得した(それぞれ金二二一五万二七五〇円)。

(三) 原告らの損害

(1) 葬儀費用 各金四〇万円

原告らは、淳子の葬儀を行い、その費用としてそれぞれ金四〇万円を支出した。

(2) 慰謝料 各金一三〇〇万円

淳子は、被告に対し、適切な治療を求めていたにもかかわらず、被告から不完全で不適切な診療を受けたため、死亡するに至つた。

原告らは、右淳子の両親として、淳子の前記のような無残な死亡により多大の精神的苦痛を被り、原告らのかかる精神的苦痛を慰謝するに足りる金額は、それぞれ金一三〇〇万円を下らない。

(3) 弁護士費用 各金三五〇万円

原告らは、被告から損害額の任意の弁済を受けられないため、本件訴訟の提起と追行及びこれに先立つ証拠保全手続を原告訴訟代理人弁護士に委任し、その費用及び報酬としてそれぞれ金三五〇万円を支払う旨を約した。

(四) 以上原告らの損害の合計 各金三九〇五万二七五〇円

7  よつて、原告らは、被告に対し、それぞれ金三九〇五万二七五〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和六二年二月一五日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  同2(一)のうち、淳子が、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから、被告病院において、気管支喘息発作の治療のため、夜間の救急診療を受け、当直医師からボスミン皮下注射を受けたことは認めるが、その余の事実は争う。

淳子の右救急診療を受診した時間は、午後一一時五分から五五分までの間であつた。

(二)  同2(二)のうち、淳子が、翌二九日午前に、原告和子に伴われて再び被告病院を訪れ、診療の申込みをしたこと、淳子が、同日午前一〇時三〇分ころから、同病院内科で行政医師の診察を受けたことは認めるが、その余の事実は争う。

(三)  同2(三)のうち、行政医師が、淳子に対する問診を実施した後、野村看護婦に対し、診察室の向かい側の処置室において、淳子に交感神経刺激剤である二パーセントアロテック吸入液〇・三ミリリットル及びネブライザーD液五ミリリットルの吸入処置を実施するよう指示したことは認めるが、その余の事実は争う。

(四)  同2(四)の事実のうち、淳子が、右処置室において、野村看護婦の準備と指示にしたがい、吸入装置を用いて本件吸入液の吸入を開始したことは認めるが、その余の事実は争う。

(五)  同2(五)の事実は争う。

(六)  同2(六)のうち、行政医師が、野村看護婦の報告を受けて右処置室に赴いたこと、同医師が、呼吸困難に陥つて苦しんでいる淳子に対する処置として、自ら点滴の装置を装着したこと、同医師が、淳子に対し、気管支拡張剤であるネオフィリン、副腎皮質ホルモン剤であるソルコーテフ、気管支拡張剤であるボスミンを投与し、さらに他の医師の応援を求めて同女の蘇生に努めたこと、しかし、淳子が同日正午ころ気管支喘息により窒息死亡したことは認めるが、その余の事実は争う。

3  同3のうち、淳子が、昭和六一年五月二八日、被告との間で医療契約を締結し、被告は、右医療契約に基づき、淳子に対して病的症状の原因解明及び病状に適した的確な治療行為をなすべき債務を負つていたこと、行政医師が、被告病院に内科医として勤務する被告の履行補助者であること、淳子が同日午後零時一〇分死亡したことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。

4(一)(1) 同4(一)(1)のうち、淳子が、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから、被告病院において、気管支喘息の発作の治療のため夜間の救急診療を受け、当直の医師から、ボスミン皮下注射を受けたこと、淳子が、翌二九日午前中再び被告病院に赴き、同日午前一〇時三〇分ころ行政医師の診察を受けたこと、行政医師が淳子に対し問診を実施した後同女の病名を気管支喘息の中発作状態と診断したことは認めるが、その余の事実は争う。

(2) 同4(一)(2)のうち、気管支喘息の場合、患者の発作の程度は、小発作、中発作、大発作及び重積発作状態に分けられ、その程度に応じた治療を施さなければならないことは認めるが、その余の主張は争う。

(3) 同4(一)(3)のうち、行政医師が、淳子に対し、ステロイド常用の有無について問診をしなかつたこと、同医師が、淳子の病名を気管支喘息の中発作状態と断定したことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。

(二)(1) 同4(二)(1)の事実及び主張は争う。

(2) 同4(二)(2)のうち、行政医師が、野村看護婦に対し、交感神経刺激剤である二パーセントアロテック吸入液〇・三ミリリットル及びネブライザーD液五ミリリットル(「本件吸入液」)の吸入処置の実施を指示したことは認めるが、その余の事実は争う。

(三)(1) 同4(三)(1)の主張は争う。

(2) 同4(三)(2)のうち、行政医師が、野村看護婦に対し、アロテックの吸入による投与を指示したことは認めるが、その余の事実は争う。

(四)(1) 同4(四)(1)の主張は争う。

(2) 同4(四)(2)のうち、行政医師が、二パーセントアロテック液〇・三ミリリットルにネブライザーD液五ミリリットルを加えて使用したことは認めるが、その余の事実は争う。

(五)(1) 同4(五)(1)の主張は争う。

(2) 同4(五)(2)のうち、行政医師が、本件吸入液にネブライザーD液五ミリリットルを補充したこと、野村看護婦が淳子に対して腹式呼吸を指導したことは認めるが、その余の事実は争う。

(六) 同4(六)のうち、行政医師が、本件吸入液の吸入中止後ネオフィリン、ソルコーテフ、ボスミンを投与したことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。

5  同5の事実及び主張はすべて争う。

6(一)  同6(一)のうち、淳子が、昭和三六年一一月二九日生まれの女性であることは認めるが、その余の事実及び主張は争う。

(二)  同6(二)のうち、淳子が、原告ら夫婦の長女であることは認めるが、その余の事実は争う。

(三)  同6(三)、(四)の主張はいずれも争う。

三  被告の主張

1  昭和六一年五月二八日の診療経過

(一) 被告病院の看護婦杉山千代(以下「杉山」という。)は、昭和六一年五月二九日、内科外来受付を担当していたところ、原告和子から、「昨夜救急で来たのですけど、喘息で苦しそうなので早くしてもらえませんか。」との救急診療の申出を受け、すぐに病歴室に対し淳子のカルテを催促し、カルテが外来受付に到着すると直ちに淳子を中待合室に案内して、第三診察室担当の野村看護婦に救急取扱を依頼した。

野村看護婦は、第三診察室で診察中の男性患者の診察が終わると、すぐに淳子を第三診察室に呼び入れ、同診察室担当の行政医師が診察を当たつた。

(二) 行政医師が診察した結果、淳子の肺野に喘息を聴取したが、入室時の歩行や問診時の会話に特段の支障はなく、その症状を気管支喘息の中発作と診断した。

(三) 行政医師は、そこで、まず、発作を鎮静するために、交感神経刺激剤のアロテック吸入液〇・三ミリリットル、ネブライザーD液〇・五ミリリットルによる吸入を処方し、野村看護婦に対して、その実施を指示した。

(四) 野村看護婦は、第三診察室の向かい側にある処置室(点滴や吸入等の処置を行う部屋)で、吸入装置の準備を整えたうえ、同処置室に淳子を呼び入れ、吸入を指導した。

当初、噴霧状態が不十分だつたので、野村看護婦は、行政医師の指導を受け、ネブライザーD液を五ミリリットル追加して噴霧状態を改善し、淳子の吸入が順調であることを確認して、一旦、第三診察室に戻つた。

(五) 吸入には、通常五ないし七分の時間を要するが、野村看護婦は、吸入の開始から二、三分後に、淳子の様子を確認するために処置室に行つた。

このとき、淳子は、吸入行為を中止しており、「苦しくてこれ以上吸えません。」と訴えたので、野村看護婦は、行政医師に淳子の状態を報告して来診を求めた。

(六) 行政医師は、直ちに処置室に赴き、午前一〇時四五分ころ淳子を診察したところ、呼吸困難が増強し、会話も困難な様子であつた。

そこで、行政医師は、吸入処置を中止し、気管支拡張剤ネオフィリン二五〇ミリグラム(一アンプル)と五パーセントブドウ糖液一〇〇ミリリットルとの混合液による点滴、及び、副腎皮質ホルモン剤であるソルコーテフ二〇〇ミリグラムの静脈注射を処方し、自ら点滴装置の設置作業を行つた。

(七) その間にも、淳子の呼吸困難はみるみる増悪し、口唇にチアノーゼが出現し、点滴をするための臥位を取れない状態になつた。

行政医師は、座位でネオフィリンの点滴を開始するとともに、側管からソルコーテフの静脈注射を実施した。

(八) しかし、その後も、淳子の換気不全は軽減せず、意識低下、全身チアノーゼ、呼吸音消失等の症状が出現したため、午前一〇時五〇分ころから、他の医師や看護婦の応援を得て、経鼻挿管及び酸素接続のアンビューバッグによる換気を行い、ソルコーテフ、ボスミン等の薬剤を使用して、心肺蘇生術を実施したが、医師らの右努力にもかかわらず、淳子の様態は回復せず、同女は、同日午後零時一〇分、死亡した。

2  行政医師の診察を受けた時点における淳子の気管支喘息の発作強度

(一) 喘息の発作強度を判断する基準として、日本アレルギー学会気管支喘息重症度委員会作成の「気管支喘息重症度判定基準」(以下「学会判定基準」という。)があり、これによると、発作強度は、呼吸困難及びそれに伴う諸症状に基づき、小発作、中発作、大発作、重積発作に分類され、急性発作に対する治療方針を決定する指針となつている。

(二) そして、学会基準によると、重積発作とは、(1)中発作以上の強い呼吸困難が続くこと、(2)強い継続時間は二四時間以上であること、(3)ネオフィリン(テオフィリン)、ボスミン(エピネフリン)等の気管支拡張薬に反応しないこと、以上の三条件に整理され、具体的に、「重積発作またはこれに近い状態」とは、中発作以上の発作が長時間継続して、全身的に衰弱した状態、すなわち、動作はまつたくできず、会話も著しく制限され、非常に苦しい息使いで、ゼイゼイ言つている等の喘息特有の呼吸困難が継続し、次第に全身状態が悪化し、衰弱する状態で、誰でも一見して重症と判断できる、とされている。

したがつて、重積発作またはそれに近い重症の者で、普通に歩いたり、会話をしたり、食事をしたり、読書したりするほど安定した症状の者はいない。

(三) ところで、淳子の喘息発作は、昭和六一年五月二八日夜に発症し、同日午後一一時過ぎに被告病院の救急治療を受けたが、その時点における発作強度は、小発作であつた。

淳子は、帰宅後も会話・行動ともに正常で、外見上呼吸困難はなかつたものの、喘息発作は完治しなかつたため、翌二九日朝、再度被告病院を受診したが、その際も歩行・会話ともに正常で、単に「すつきりしない。」との愁訴のみであつて、発作強度は小発作程度であつた。

ところが、被告病院で待合中に淳子の喘息発作が増強して、行政医師が淳子の診察を行つた時点では、中発作の状態となつていた。

したがつて、淳子が行政医師の診察を受けた時点では、中発作になつたばかりの状態であつて、重積発作状態またはこれに近い状態にはなかつたから、行政医師が、淳子の病状を気管支喘息の中発作状態と診断したことに誤りはない。

3  問診により、ステロイド常用の有無等を確かめることの必要性と有効性

(一) 学会基準によると、ステロイド常用の有無は、喘息発作強度の判定とは無関係とされている。

(二) 喘息発作中の患者に対して十分に時間をかけて問診を実施することは、困難であり、現に、原告和子も、「淳子が喘息で苦しそうなので、早く治療して貰いたい。」旨を要望していたのであるから、行政医師としては、患者の要望に応じ、むしろ、できるだけ早く治療に着手するために、淳子に対する問診を簡略にするなど臨機応変に対応すべきことが要請されていた。

(三) また、行政医師は、ステロイドの使用等を含む既往歴については、特に問診をしなかつたが、淳子が喘息の中発作状態にあり、前夜のボスミン注射及びネオフィリン服用で完治していないので、薬効を期待し得る抗喘息薬は限られており、それを使用しても効果がなければ、最後の手段としてステロイドを使用するしかなく、他の抗喘息薬の効果を確認するのにそれほど時間はかからないから、ステロイド使用に関する問診の有無は、淳子に対する治療方針の選択に際して影響を与えるものではなかつた。

(四) さらに、淳子は、かつて大阪中央病院を受診して、ステロイドを投与されていたが、同病院の医師は、淳子に対し、使用薬名を伝えていない可能性が十分にあり、また、他の医療機関での救急時にステロイド常用を告知するよう指導もしていなかつたから、かかる状況下のもとでは、仮に、行政医師が、淳子に対してステロイド使用につき問診を実施していたとしても、これによりステロイド使用の情報が得られたかどうか疑わしく、少くとも、これを信頼して治療方針を決定し得るほど正確な情報(使用時の発作強度、使用薬、使用量及び使用頻度等)を得ることはできなかつた。

(五) 以上のとおり、喘息中発作状態にあつて淳子に対し、ステロイド常用等についての問診を実施することは、もともと困難であつたうえ、かかる問診は、淳子の病状診断及び治療方針の選択にとつて必要かつ有効であつたとはいえないから、行政医師がかかる問診をしなかつたことにつき過失はない。

4  第一選択薬としてのステロイド投与

(一) ステロイドは、原則として他の抗喘息治療薬がすべて無効である場合にのみ用いられるべきであり、特に喘息の中発作に対してこれを使用する場合は、大発作や重積発作に移行する危険がある時に限られ、大発作または重積発作でない限り、ステロイドを投与する前に、他の抗喘息治療薬の薬効がないことを確認する必要がある。

(二) ところで、淳子が行政医師の診察を受けた時点における同女の発作状態は、重積発作またはこれに近い状態というには程遠く、小発作が半日位継続した後、中発作になつて間もなくのころであつたから、かかる状態にある患者に対し、ステロイドを第一選択薬として使用する処方例はなく、それ故、行政医師は、後述のとおり、速効性のあるアロテック吸入を試みたうえで、その効果がなければ、ネオフィリンとステロイドの点滴を行う予定にしていたのである。

(三) また、ステロイドを点滴静注した後、その薬効が現れるには早くとも一時間以上の時間を要し、一方、ネオフィリンも、一般処方にしたがつて一A(二五〇ミリグラム)を点滴するだけでは、一時間経つても薬効を期待し得る有効血中濃度には達しないから、ネオフィリンにステロイドを加えた点滴を施行しても、早くとも一時間経たないとその効果が現れない。

しかして、淳子が心肺停止に陥つたのは午前一〇時五〇分ころであつたところ、仮に、行政医師が、第一選択薬としてアロテック吸入処置を選択せず、当初からステロイドとネオフィリンの点滴を選択していたとしても、その効果は、約五分程度点滴の開始を早めることができたにすぎない。すなわち、ステロイドの薬効出現には、前記のとおりその投与後少くとも一時間程度必要である故、淳子が心肺停止に至つたとき、ステロイド(ソルコーテフ)の薬効は未だ現れていなかつたというべく、したがつて、同医師が、仮に右選択をしていたとしても、右薬効出現時間の関係から淳子の救命は、不可能であつた。

(四) 以上のとおり、行政医師が、第一選択薬として、ステロイドとネオフィリンの点滴を選択しなかつたことにつき過失はない。

5  アロテック投与の選択と投与方法の正当性

(一) 行政医師は、淳子の喘息発作の強度を、正しく中発作状態と診断し、先ず、速効性のある交感神経刺激剤アロテック(β刺激剤)の吸入処置を処方した。アロテック吸入は、一〇分間以内に効果の有無が判明するので、薬効があれば他の薬剤よりも格段に早く発作を軽減でき、また、副作用も少ないことから、喘息の中発作に対しても第一選択薬とされている。そして、行政医師は、アロテック吸入によつて淳子の喘息発作の状態が改善されなければ、引き続きネオフィリンとステロイドを点滴する予定にしていたのであるから、同医師の処方になんら問題はなかつた。

(二) 吸入法としてのネブライザー方式には、ジェット方式(加圧方式)と超音波方式とがあり、そのエアゾル発生量は、前者が一分間に〇・一ミリリットルないし〇・三ミリリットル、後者が一分間に三ミリリットルないし六ミリリットルであるから、ジェット方式の場合は薬液総量が二ミリリットルないし五ミリリットルであるのに対し、超音波方式の場合は薬液総量を一〇ミリリットルないし二〇ミリリットルとして使用し、いずれの場合も五分ないし一〇分位かけて使用するのが適当であるとされている。

そして、被告病院において使用されていたネブライザーは、超音波方式の吸入器であつて、毎分〇ミリリットルないし三ミリリットルの範囲で霧化量を調節することが可能であり、補液を五ミリリットルから一〇ミリリットルに増量した場合には、それに合わせて霧化量を調節することができるから、かかる超音波方式ネブライザーでは、補液を五ミリリットルから一〇ミリリットルに増量しても、薬効が低下することはないし、吸入時間が長くなることもない。

(三) また、喘息発作そのものが努力呼吸であるから、アロテック吸入に際しては、腹式呼吸で深く息を吸うことが勧められており、呼吸困難を緩和するひとつの方法として、喘息発作中には腹式呼吸を試みさせることが認められているから、腹式呼吸が喘息発作を誘発ないし悪化させることは有り得ない。

(四) さらに、単なる不眠は呼吸筋の障害にはならず、淳子は、二九日の朝家を出るまではさしたる呼吸困難の症状を呈していなかつたから、アロテック吸入を続けていた当時、同人の呼吸筋が疲労していたとは考えられない。

(五) 以上のとおり、行政医師が、第一選択薬として、アロテックの吸入処置を選択したこと、その吸入方法及びこれを継続したことには何ら問題がなく、この点に過失はない。

6  淳子の本件死亡の予見可能性

(一) 淳子の死亡原因は、喘息による窒息死であり、これに至る原因として、急激な大発作によつて死亡する場合と、重積発作状態によつて死亡する場合とがある。

そして、重積発作状態により死亡する場合は、長時間発作に苦しんで意識混濁し、強度のチアノーゼ、呼吸量の消失状態が続き、疲労困ぱいの状態となり、昏睡に陥つて死亡するものであつて、体力の消耗の結果として予測された死亡であるのに対し、急激な大発作により死亡する場合は、急に大発作におそわれて激しい苦痛を訴え、短時間の間に気道完全閉塞状態に陥り、気道閉塞になると二分で意識喪失、五分ないし一〇分の間に無呼吸心停止となつて死亡するもので、いわば予想外の急激な死亡である。

(二) しかして、行政医師は、同日午前一〇時三〇分ころに淳子の診察を開始したのであるが、そのころの同人の状態は、「行動可能、会話やや制限、喘鳴強度等」の症状で、中発作状態にあつたところ、治療中の午前一〇時四五分より前には急激な大発作となり、午前一〇時五〇分ころには心肺停止となつているから、淳子の死亡は、重積発作状態による予測された窒息死ではなく、典型的な大発作による予想外の急死という経過をたどつている。

(三) したがつて、淳子が行政医師の診察を受けた時の喘息の発作強度は中発作状態であつたが、その時点で淳子が間もなく突然の大発作におそわれて急死するであろうことは誰にも予測し難いところである。それ故、行政医師が、淳子の診察時に中発作に対する治療方法を選択し、かつ、淳子の突然の大発作を予測してこれに対応しなかつたとしても、同医師に過失はない。

7  淳子に対する診療の遅れ

なお、昭和六一年五月二九日朝の淳子の受診手続に関し、淳子のカルテのとりよせが遅れたことはあつたが、そのために淳子の受診の順番が遅くなつたことはない。実際には、原告和子の救急依頼により、順番を早めて診察したのであり、しかも、その時の淳子の症状は、一刻を争うほど重症の状態ではなかつたのであるから、診療の遅れにより淳子が死亡したということはない。

また、市民病院のような大きな総合病院では、外来受診の待ち時間が長くなるのは、止むを得ないことである。

四  被告の主張に対する認否

被告の前記三の主張はいずれも争う。

第三  証拠《略》

【理 由】

第一  当事者間に争いのない事実

請求原因1の各事実(当事者の地位)、請求原因2の各事実のうち、淳子が、昭和六一年五月二八日午後一一時一五分ころから、被告病院において、気管支喘息発作の治療のため、夜間の救急診療を受け、当直医師からボスミン皮下注射を受けたこと、同女が、翌二九日午前に、原告和子に伴われて、被告病院を訪れ、診療の申込みをしたこと、同女が、同日午前一〇時三〇分ころから、同病院内科で、行政医師の診察を受けたこと、行政医師が同女に対する問診を実施した後、野村看護婦に対し、診察室の向い側の処置室において、淳子に交感神経刺激剤である二パーセントアロテック吸入液〇・三ミリリットル及びネブライザーD液五ミリリットルの吸入処置を実施するよう指示したこと、同女が、右処置室において、野村看護婦の準備と指示にしたがい、吸入装置を用いて本件吸入液の吸入を開始したこと、行政医師が、野村看護婦の報告を受けて右処置室に赴いたこと、同医師が、呼吸困難に陥つて苦しんでいる淳子に対する処置として、自ら点滴の装置を装着したこと、同医師が、淳子に対し、気管支拡張剤であるネオフィリン、副腎皮質ホルモン剤であるソルコーテフ、気管支拡張剤であるボスミンを投与し、さらに他の医師の応援を求めて同女の蘇生に努めたこと、しかし、同女が、同日、正午ころ、気管支喘息により窒息死したことは、当事者間に争いがない。

第二  本件医療事故の経過

一  右争いのない各事実に、《証拠略》を総合すれば、次の各事実が認められる。

1  淳子の本件医療事故に至るまでの関係病歴等

淳子は、昭和五九年五月二五日から昭和六一年五月二二日までの間(なお、本件医療事故直近の昭和六一年一月一日から同年五月二二日までの実治療日数は、二四日。)、大阪中央病院の主として耳鼻科において、医師大川内一郎らの担当により慢性の気管支喘息、慢性咽頭炎、慢性副鼻腔炎等の治療を受けたが、昭和六〇年一一月七日、大川内医師の診療を受けた際、エキセドリンによる発作を起こした旨訴え治療を受けたことがあり、同年一二月二六日、同日までの継続的治療方法であつた主にステロイド剤と軽い抗生剤が入つたネブライザーの鼻吸入処置を受けた際、その最中に、喘息発作の悪化で苦しみ出し、直ちに点滴等の処置に変えられたことがあつた。

大川内医師は、当時、淳子の症状について、副鼻腔と上気道の過敏症状のある気管支喘息を合併した慢性副鼻腔炎という所見を持ち、過敏症状(アレルギー)の原因となる抗原を探索したが、明らかにならなかつた。

しかし、同医師は、右のとおり淳子がネブライザーの鼻吸入処置を受けている際、苦しみだしたことがあつたこと等から、右原因が薬物にある、すなわち、ステロイド剤に含まれる防腐剤によつて同女にアスピリン誘発喘息が誘発された可能性があるという疑いを持つたので、同女に対し、風邪薬は飲まないように注意を与えていた。また、同医師は、右吸入処置の際の右事態から、右吸入処置を施した右同日以降、同女に対し、右吸入処置を施さず、点滴のみを施した。

一方、大川内医師は、淳子の気管支喘息による気道狭窄症状を緩和するために、ベロテック・スプレー等を処方したほか、昭和六〇年八月一九日以降、ステロイド剤の含まれた内服薬であるベロテックやメドロール錠剤、ステロイド点滴であるハイドロコートン、ソルメドロール等を処方したが、その頻度は、次第に増加する傾向にあり、同女は、本件医療事故発生の時点で、ほとんどステロイド依存症に近い段階に至つていた。したがつて、淳子が喘息発作を起した場合、ステロイド剤は右症状を除去するのにかなり必要な薬剤になつていた。すなわち、淳子は、昭和六〇年一一月二一日以降、右医師の処方にかかる右ベロテック・スプレー(臭化水素酸フェノテロール含有量五ミリリットル中二〇ミリグラム、一回噴霧中〇・二ミリグラム。)を約一週間に一本の割合で、右錠剤も右同割合で受給し、これらを服用していた(ただし、右ペロテック・スプレー一本は、通常約二週間使用可能であるが、重症の場合は約一週間で費消されるし、使用患者が少量になつた不安感から容量約半分の使用で新しいスプレーを求める場合が多い。)

なお、同医師は、同女に対し、他の医師の診察を受ける場合には、副作用のある「喘息に対する薬」を使つていると言いなさいと教示していたものの、同女の右喘息治療に際してステロイド剤を使用していることを、必ずしも明確に説明していなかつた。

2  本件医療事故発生前夜の状況

(一) 淳子の被告病院における救急治療の受診

淳子は、昭和六一年五月二八日午後一一時ころ、原告和子に対し、喘息が「すつきりしないし、医者に行きたい。」と訴えた。そこで、原告和子が被告病院に電話したところ、診療の承諾を得られたので、淳子は、原告和子とともに同病院に赴き、同日午後一一時一五分ころから、同病院整形外科医師美崎晋による救急治療を受けた。

なお、淳子は、右受診以前の昭和六一年三月三〇日、朝方から発作が持続し、日曜診療所で受診、糖液にネオフィリンを加えた薬剤の静脈注射を受けたがその後右発作が軽快せず、被告病院で救急治療を受診したことがあつた。同女は、その際、喘息発作と診断され、二〇パーセント糖液にネオフィリンを加えた薬剤の静脈注射とボスミンの皮下注射を受けた。

美崎医師は、淳子の右症状を喘息発作と診断し、同女に対し、ボスミンの皮下注射を施し、アストモリジン(座薬)ダーゼン、ネオフィリン各錠剤(各二錠)を処方し、同女は、これら薬剤を受領した。

淳子の被告病院におけるカルテには、右救急治療分として、同女の右症状に対する右診断内容及びこれに対する右処置のみが記載され、それ以外の事項については何ら記載されていない。

なお、淳子が昭和六一年三月三〇日受診した被告病院における救急治療の前記診断及び治療内容等(簡単な病歴も含む。)は、右カルテの、美崎医師によつて記載された右部分の直前に記載されている。

(二) 淳子の右救急治療受診後の状況

淳子は、原告和子とともに、昭和六一年五月二九日午前一時過ぎころ、原告ら肩書住所地の自宅に帰り着いた後、原告和子の作つたお粥を少量食べたが、その後、ベッドに戻らず炬燵に座つたままテレビや本を見たりしていた。原告和子は、淳子の右様子を見て、同女に対し横になるよう勧めたが、同女は、これに応じなかつた。原告和子は、淳子の以前からの喘息発作時における動作から、淳子が喘息発作で呼吸が苦しい場合横たわるよりも起きて呼吸している方が楽であることを知つていたので、その時も淳子は横になるのが辛いのではないかと考え、そのままにしておいた。

原告和子は、同日午前三時ころ、眠くなり就寝したが、同人の右就寝時、淳子は、依然として横になろうとはしていなかつた。原告和子は、淳子の喘息発作時における右知識経験から、淳子はまた苦しいのだろうかと案じつつ眠つてしまつた。

原告和子は、同日午前七時ころ、淳子から起された。

3  淳子が同日行政医師の受診を受けるまでの経緯

淳子は、原告和子が起床した後、すつきりしないので、もう一度、被告病院へ行きたいといつた。そこで、原告和子は、淳子を伴なつてタクシーを使い、同日午前八時一〇分ころ、同病院に到着した。

ところが、被告病院では既に沢山の患者が順番待ちのための番号札を取つて、それぞれの順番を待つている状態であつた。そこで、原告和子は、受付のカウンターにいた男性職員に対し、喘息で来ているので早く診てもらいたい。昨夜も診察に来たという旨の話をして診察券を渡したが、特別な配慮はしてもらえず、「そこの順番の番号札を取つて、二階で待つてくれ。」といわれただけであつた。

同病院の診察は、同日午前九時から開始されたが、淳子の診察は一向になされる様子がなかつた。そのため、原告和子は、早く診てくれるように催促をした。しかし、淳子の受診の順番がくる気配は全くなく、そのままさらに二、三〇分が経過した。

そこで、原告和子は、さらに重ねて、被告病院看護婦杉山ちよ(外来担当主任看護婦で、当時内科外来において受付業務に従事していた。)に対し「昨夜救急で来たのですけど、喘息で苦しそうなので早くしてもらえませんか。」と申し出た。

杉山看護婦は、原告和子の右申し出に応じて被告病院病歴室に対して淳子のカルテを催促し、カルテが右外来受付に到着すると、淳子を中待合室に案内して、同病院内科第三診察室担当の野村看護婦に前夜救急治療を受けた患者である、喘息で苦しそうなので早く診て欲しい旨の救急取扱を依頼した。

野村看護婦は、同日午前一〇時三〇分過ぎころ、右第三診察室で診療中の男性患者の診察が終わるとすぐに、淳子を右第三診察室に呼び入れた。

4  行政医師の淳子に対する診断及び治療

(一) 行政医師は、当時、被告病院内科第三診察室で外来患者の診察を担当していた。

淳子が右第三診察室へ入室した当時、同女は、顔面やや蒼白気味、肩呼吸をし、やや苦しそうであつたが、独歩で入室した。野村看護婦は、行政医師に対し、杉山看護婦からの前記依頼の趣旨を伝えた。

行政医師は、野村看護婦から右伝達を聞いた後、淳子への問診を始め、同女に対し、「しんどいですか。」とか「昨夜眠れましたか。」等の質問をし、右問診の結果、同女のカルテに、「喘息発作とれず昨夜は一睡もできず」と記入し、それ以上の問診を行わなかつた。なお、右カルテには、行政医師が右記入した直前に、美崎医師が前夜同女に対し行つた前記診断及びその治療内容が記載されている。

そして、同医師が淳子の胸部を聴診したところ、同女の肺野にかなり強度の喘息を聴取した。しかし、同医師は、同女の右入室時の歩行状態や右問診時の会話が少し困難であつたがさ程の支障はなく、チアノーゼもなかつたので、同女の右症状を気管支喘息の中発作と診断し、野村看護婦に対し、交感神経刺激剤のアロテック吸入液〇・三ミリリットル、ネブライザーD液〇・五ミリリットルによる吸入を処方し、別室でこれによる吸入処置を実施するように指示した。

(二) 野村看護婦は、直ちに淳子を伴なつて処置室(右第三診察室から廊下を隔てて斜め向い側に所在)に赴き、同室で吸入装置の準備を始めた。なお、行政医師は、処置室に同行せず、右第三診察室で他患者の診察を続けていた。

ところが、右準備中、右吸入装置に装着するマウスピース(吸入を容易とするため患者の口に当てる用具)が所在不明で野村看護婦は、しばらく右マウスピースを探したが発見できず、結局、同看護婦は、右吸入装置に右マウスピースを装着せず、右吸入装置の逆流防止弁を淳子の口に当て右吸入を開始した。

右吸入開始当初、右吸入装置の噴霧状態が不十分だつたので、野村看護婦は、右吸入装置の上蓋部分を動かしたり叩いたりして見、さらに右吸入装置と電源の接続状態を検査したりしたが、右噴霧状態は改善されなかつた。

そこで、野村看護婦は、同僚看護婦とも相談のうえ右吸入装置内の薬液量が不足しているのではないかとの疑いを持ち、その旨を行政医師に報告した。行政医師は、野村看護婦の右報告に基づき、改めて同看護婦に対し、アロテックD液五ミリリットルの指示をした。

野村看護婦が、行政医師の右指示にしたがい右薬液量を追加したところ、右噴霧状態が改善された。

(三) 淳子は、野村看護婦の指示にしたがい、吸入装置の着口部を用いて吸入を開始したものの、前記のとおり右吸入装置の噴霧状態が不良のためその改善に右吸入が一時中断された。しかし、その再開後、淳子は、右噴霧を二、三回吸入すると、たちまち、野村看護婦に対して、「これ以上吸えません、苦しくて。」と訴え、吸入を止めたいと申し出た。

ところが、野村看護婦は、淳子に対し、右吸入を腹式呼吸によつて続けるように指示したうえ、処置室から出て前記第三診察室へ赴いた。

淳子は、その後二、三分間、野村看護婦の右指示にしたがつて右吸入を続けたが、その呼吸は、一層困難な状態になつた。

野村看護婦は、そのころ、淳子の様子を確認するために再び処置室に戻つて来た。原告和子は、淳子の右様相に強い不安を抱き、野村看護婦の姿を認めると同時に、同看護婦に対し、医師の臨場を強く求めた。

野村看護婦は、淳子の様子を確認し、直ちに行政医師に淳子の右様子を報告するため右第三診察室へ向つた。

(四) 行政医師は、淳子の吸入状態を観察するため右第三診察室から処置室へ向う途中、野村看護婦に出会い、同看護婦から淳子の右状態の報告を受けて処置室に赴いた。淳子は、行政医師が処置室へ入室した当時、既に自ら吸入装置(右装置の噴霧状態は、継続していた。)の着口部を外し、処置台に肘を付く形で前かがみになつてかなり努力性の呼吸をし、外部からも喘鳴が強く聞える状態であつた。しかし、同女の意識は正常で、「苦しい、何とかして。」と訴えていた。

5  行政医師の事後措置等

(一) 行政医師は、淳子の右様子を観察し、同女の喘息発作が増悪しており直ちに次の治療に移る必要があると判断した。

そこで、同医師は、吸入処置を中止し、気管支拡張作用を持つネオフィリン二五〇ミリグラムと五パーセントブドウ糖液一〇〇ミリリットルの混合液による点滴及び抗炎症作用と交感神経刺激剤の効果増強作用を持つソルコーテフ二〇〇ミリグラムの静脈注射を処方し、自ら点滴装置の設置作業を行つた。

その間にも、淳子の呼吸困難は次第に増悪し、強い喘鳴が聞かれた。

行政医師が、淳子に対し、横になれるかと尋ねたところ、同女は、苦しくて横になれないと首を横に振つた。そのため、同医師は、同女を座位にして同女にネオフィリンの点滴を開始するとともに、ソルコーテフの側管注入を実施した。同医師が右側管注入を開始しようとした時、淳子の口唇にチアノーゼが出現し、喘息発作もかなり悪化していた。

そして、同医師が右側管注入を実施中も、淳子の換気状態の悪化は進行し、右側管注入が終了した時点ころ、同女は、換気不能の状態に陥り、口唇のみならず顔面にチアノーゼが著明に出現し、呼吸停止、眼球上転、意識消失、全身痙攣を起こし、後方へのけぞるように倒れた。

(二) 行政医師は、同日午前一〇時五〇分ころ、山崎要医師(当時被告病院内科主任医長であつた。)の応援を求めたが、同医師が処置室にかけつけた時、淳子は、チアノーゼが著明、痙攣を起こして後方にのけぞつていた。

そして、同医師が淳子の脈をとつたところ、同女に触脈はなく、心肺停止もしくはそれに近い状態であつた。同医師は、淳子に対し、直ちにボスミン一アンプルを心腔内に注射し、引き続き心臓マッサージを実施し、他の医師や看護婦の応援を求めた。

処置室に集まつた医師や看護婦らは、淳子に対し、経鼻挿管及び酸素接続のアンビューバッグによる換気を行い、ソルコーテフ、ボスミン等の薬剤を使用して、心肺蘇生術を実施した。

しかし、淳子の容態は回復せず、同女は、同日午後零時一〇分、死亡した。

(三) 山崎要医師は、その後、淳子のカルテの傷病名欄に、同女の昭和六一年五月二八日の症状を気管支喘息重積発作と記入した。

二1  右認定に反する証人山崎要、同杉山ちよ、同野村恵子、同行政隆康の各証言部分は、前掲各証拠と対比してにわかに信用することができず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

2  右認定各事実中の前記一1ないし3で認定した事実に基づくと、次のとおり推認するのが相当であるから、右認定各事実に次の各認定(推認)事実を付加する。

(一) 淳子の喘息発作との闘病歴、特に同女の大阪中央病院における治療状況等から見て、同女は、昭和六一年五月二八日被告病院夜間診療を受信した際交付されたアストモリジン(座薬)、ネオフィリン錠剤を、帰宅後いずれも服用した。

(二) 淳子が喘息に罹患した時期、右時点から本件医療事故発生までの期間、その間に同女が喘息発作に襲われ呼吸困難になつた時、原告和子が現認して来た淳子の所作、行政医師の本件カルテへの記入内容等から見て、淳子は、右夜間診療を受診して帰宅して後、翌二九日午前七時ころ原告和子を起こすまでの間、喘息による呼吸困難を少しでも緩和するため、炬燵に座りこれに寄りかかつたままの姿勢を持続し、自ら横にならず一睡もできなかつた。

第三  本件医療事故に関する医学上の見解

一  《証拠略》を総合すると、次の各事実が認められる。

1  淳子が行政医師の本件診察を受けた時点における同女の気管支喘息発作の客観的程度は、前記認定の各事実を総合すると、少くとも喘息重積発作に近い状態であつた。

2  医師は、対象患者に治療を施す場合、当該患者の症状を自己が獲得した診断内容よりもより重症として把握し、これを基準として万全の治療を実施すべきところ、前記認定の各事実を総合すると、行政医師は、淳子を問診した際、同女の喘息発作が右1で認定した状態にあることを疑い、淳子に対し、前記認定の問診の外に、次の問診をなすべきであつた。

(一) 発作の程度を知るため、今回の発作は、前日の何時から始まつたか。

(二) これまで発作時どのような治療を受けて軽快したか。

(三) 本件医療事故前日から当日までの抗喘息薬の使用状況を知るため、被告病院における前夜の救急治療の際に受領した座薬、内服薬を服用したか否か。

(四) 発作を悪化させる要因である喀痰の粘稠度上昇の程度を知るため、喀痰排出の容易度、夜間の水分摂取量、尿量はどうであつたか。

3  前記認定にかかる淳子が行政医師の診察を受けた時点における同女の言動からすると、同医師の同女に対する右2の問診は、時間的に可能であつた。

4  前記認定各事実に基づけば、行政医師が選択した本件吸入液の吸入は、不当とはいえないにしても、喘息発作の前記程度にある淳子に対しては最適の方法とはいえない。

特に淳子が前記認定の座薬、錠剤を服用している以上、なおさら右吸入療法の効果は期待できなかつた。

なお、淳子には、当時ステロイドの投与を必要としたところ、その最善の投与方法は、ネオフィリンにステロイド(ソルコーテフ、ハイドロコートン、あるいはソルメドロール。)を加えた五〇〇ミリリットル程度の点滴を一時間程度の時間をかけて行う方法である。

5  淳子の死因は、前記認定の各事実より喘息による窒息死と推認されるが、喘息発作に併発する気胸であることも否定できない。

なお、同女の右死亡の経過は、同女の本件医療事故前日から継続した喘息発作(行政医師の診察を受けた時点での右発作の程度は右1のとおり。)が、本件治療中も増悪に向け進行し、その結果、気道収縮と粘液栓のため窒息死(ただし、喘息発作による気胸の併発も否定できないことは、右のとおり。)したと推認される。

6  右4認定の内容は、本件医療事故当時におけるいわゆる医療水準に相当するものである。

二1  右認定に反する証人行政隆康の証言(第一、二回)は、前掲各証拠と対比してにわかに信用することができず、他に右認定を覆えすに足りる証拠はない。

2  ここで、右認定に反する被告の主張中その主要分について付加判断する。

(一) 淳子の本件喘息発作の強度(ただし、同女が行政医師の診察を受けた時点における強度。)

被告は、右強度を中発作と主張し、右主張にそう証拠として、《証拠略》がある。

しかしながら、右各文書の記載は、喘息発作の典型的症例に基づき、一般的な形象としての基準を定めたものと解されるところ、人間の症病はその複雑な生理的機能に基因する故に、必ずしも典型的一般的形象をとつて出現するとは限らないことは当裁判所に顕著な事実である。したがつて、本件においても、淳子の右受診時における呼吸状態、会話、動作等が右各文書記載の重積発作の基準に該当しないからといつて、これに関連する周辺の重要事項を抜きにしてこれらのことから直ちに同女の右強度が重積発作でないと断定することは相当とはいえない。

さらに、被告の右主張、前記のとおり淳子を直接診察した証人行政隆康の証言(なお、同証人は、右各文書の記載内容を淳子の本件発作強度の判断基準にした旨供述している。)をその裏付けとしているところ、右証人の右証言の証拠力は、当裁判所が前記認定の証拠原因とした前掲各証拠、特に証人伊藤幸治の証言、本件鑑定結果の証拠力に比して劣弱であり、したがつて、右証人行政隆康の右証言は、未だ右証拠原因による前記認定を動揺させるまでに至らない。

そして、他に右認定を左右するに足りる的確な証拠はない。

よつて、被告の右主張は、理由がなく採用できない。

(二) 行政医師の本件問診以外の問診の必要性と有効性

被告の右主張は、要するに、学会基準によるとステロイド常用の有無は喘息発作強度判定とは無関係である、喘息発作中の患者に十分に時間をかけて問診することは困難であり、本件においても原告和子から淳子を早く治療してもらいたい旨の要望があり、行政医師としても右要望に応じてできるだけ早く治療に着手するため右問診を簡略にした、行政医師は淳子の発作を中発作程度と判断しており前夜の投与薬剤の効果から見ても薬効を期待し得る抗喘息薬は限定されていた、行政医師が淳子に対しステロイド使用の問診をしてもこれにより治療方針を決定し得る正確な情報を得ることはできなかつた、以上の各点から、同医師の淳子に対する問診は、同医師が同女にした問診以外の問診につきその必要性や有効性はなかつた旨にあり、右主張にそう証拠として、《証拠略》がある。

しかしながら、学会基準によればステロイド常用の有無が喘息発作強度判定とは無関係であるとしても、前記認定の事実関係の下では、行政医師が淳子に対して施した前記問診で足りたといい難いし、その余の主張事実については、右(一)での説示がそのまま妥当する。

特に、行政医師が淳子を診察した当初の同女の言動は前記認定のとおりであり、右認定事実に照らしても、右証人の右証言の証拠力は、未だ本件問診の必要事項及び右問診実施の時間的余裕の有無に関する前記認定を動揺せしめるものではない。

加えるに、行政医師が淳子を診察した当時原告和子が淳子の早期診察を強く要望していたことは前記認定のとおりであるが、医師は、かかる場合であつても、常に冷静沈着に患者やその周辺者の要望に拘束されることなく患者の病因を把握し的確な治療方法を決定すべき職務を有するというべきである故、本件において原告和子の右言動をもつて右必要問診否定の根拠とすることはできない。

また、右認定からすれば、行政医師が右必要問診を施していれば、例え淳子から同女のステロイド常用についての正確かつ詳細な情報を得られなくても、喘息患者の治療につき専門的知識経験を有する医師ならば、この点に関する有力な手掛かりを獲得できたと推認できる故、行政医師が同女から右正確な情報を得ることができなかつたことを、右必要問診の必要性や有効性否定の根拠とすることはできない。

さらに、行政医師において淳子の本件発作を中発作程度と診断したことが採用できないことは、前記認定説示のとおりであるから、被告の右主張中同医師の右診断を前提とする主張は、その前提において既に理由がない。

よつて、いずれにしても、被告の右主張は、理由がなく採用できない。

(三) 第一選択薬としてのステロイド投与の不必要及びアロテック投与の選択の正当性

(1) 被告の右主張は、要するに、行政医師が淳子の本件喘息発作を中発作と診断したことの正当性を前提とするところ、右前提とするところを採用し得ないことは、前記認定説示のとおりである。

よつて、被告の右主張は、その前提とするところで理由がなく採用できない。

(2) ただ、被告は、本件において第一選択薬としてステロイドを選択しその点滴静注をしてもステロイドの薬効出現時間が早くとも一時間以上の時間を要する故、同女の本件救命に役立たなかつた旨主張する。

確かに、前掲証人伊藤幸治も、ステロイドの場合その薬効が現れるのに比較的時間がかかる旨証言している。

しかしながら、右証人の右証言によれば、ステロイドの右遅効性のためステロイド単独ではなしに即効性のあるネオフィリンにステロイド(ソルコーテフ、ハイドロコートン)を加えた薬液を点滴によつて投与すること、ネオフィリンは点滴の場合において服用の場合に比して確実に血中濃度を上昇させ得るので点滴開始後約三〇分で著しい効果を上ることができること、右方法は重症の喘息患者に対し普通に用いられる方法であることが認められるのであり、右認定各事実に照らし、被告の右主張は、理由がなく採用できない。蓋し、被告の右主張は、その内容から、ネオフィリンとステロイドの右混合薬液の相乗効果を重視せず、ただステロイドを単独投与した場合のその薬効出現時間を独立して取り出し、これに力点を置いて、本件において第一選択剤としてステロイドを選択してもその遅効性から淳子の救命に効果がなかつた旨主張していると解される故、右主張は、その立論の根拠内容において、ネオフィリンとステロイドの右混合薬液の点滴静注を最善の投与方法とする前記認定を何等動揺せしめ得ないし、加えて、仮に被告の右主張が正当として肯認できるとすれば、重症の喘息発作患者に対するステロイド投与の方法が存在し得ないこととなるからである。

(四) 淳子の本件死亡の予見可能性

(1) 被告は、要するに、淳子の本件死亡は喘息発作状態による予測された窒息死ではなく典型的な大発作による予測外の急死であつた、それ故、行政医師に右死亡に対する予見可能性はなかつた旨主張する。

(2) しかして、被告の右主張を詳細に検討すると、右主張は、行政医師の淳子の本件喘息発作を中発作と診断したことの正当性を前提としていると解される。

しかしながら、右前提とするところを採用し得ないことは前記認定説示のとおりである。

よつて、被告の右主張は、その前提とするところで既に理由がなく、淳子の本件死亡の経過に関する前記認定を何ら左右するものではない。

ところで、本件においては、前記認定の各事実を総合すると、行政医師が淳子に対し前記認定の必要問診を施していたならば、同医師が内科の医師として喘息発作に対する医療水準上の専門的知識経験を有する以上本件結果の発生を予見し、ひいては右結果の発生を回避し得たと認めるのが相当である。

第四  被告の本件責任原因

一  淳子が昭和六一年五月二八日被告との間で医療契約を締結し、被告が右医療契約に基づき淳子に対して病的症状の原因解明及び病状に適した的確な治療行為をなすべき債務(以下、「本件診療債務」という。)を負つていたこと、行政医師が被告病院の内科医として勤務する被告の履行補助者であること、淳子が昭和六一年五月二九日死亡したことは、当事者間に争いがない。

二1  医師の診断は、多様な診断資料に基づく総合判断であり、問診は、右診断資料を収集する一方法であるばかりでなく、右診断資料収集の出発点をなすものであり、しかも、問診から得られた右診断資料は、他の方法から得られた診断資料よりもその価値において劣るものでないと解するのが相当である。

診断における問診の右意義からして、本件においても、行政医師には、患者である淳子に対し同女の喘息発作の強度・重症度を的確に把握するためそれに関連する前記認定の必要問診の内容を具体的に、かつ、同女に的確な応答を可能ならしめるような適切な質問をなすべき義務があつたと認めるのが相当である。

2  しかして、前記第二、第三における認定説示を総合すると、行政医師には、同医師が淳子を診察した際、同女に対し、必要かつ十分な問診を行わなかつた問診義務違反があり、しかも、同医師が右問診義務を尽くせば同医師において本件結果の発生を予見し得たと認められるから、同医師には、この点に過失があり、しかも、右過失に連鎖して、淳子に対し緊急の治療方法として最善の治療方法を選択せず、次善の治療方法を選択したという治療方法選択上の過失をも惹起したと認めるのが相当である。

そして、被告は、行政医師の右過失により、被告が淳子に対し負つていた本件診療債務をその債務の本旨にしたがつて完全に履行することができなかつたというべきである。

よつて、被告には、民法四一五条に基づき、淳子が被つた本件損害を賠償する責任がある。

なお、原告らが被告の本件責任原因として主張する、右認定以外の事由(過失)は、被告の本件不完全履行の帰責事由の内容として右認定の事由と選択的に主張されていると解される故、右認定事由が右認定説示のとおり肯認される以上、さらに進んで右認定以外の事由の存否につき判断を加える必要はない。

第五  原告らの本件損害

一  淳子の本件損害

1  死亡による逸失利益 金三七九一万二五八〇円

(一) 淳子が昭和三六年一一月二九日生の女性であつたこと、同女が昭和六一年五月二九日死亡したことは、当事者間に争いがなく、被告の本件責任原因については、前記認定のとおりである。

(二)(1) 《証拠略》を総合すると、淳子は、本件死亡時満二四才であつたこと、同女は、当時、大阪市内所在の広告代理店日放株式会社(本店東京都中央区銀座六丁目所在)に勤務して昭和六〇年度における収入が金二三九万五三八四円であつたこと、淳子は、前記認定のとおり喘息発作に悩まされながらも、右勤務先への就労を続けていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定各事実を総合すると、淳子の本件死亡による逸失利益算定のための基礎収入は、年収金二三九万五三八四円と認めるのが相当である。

右認定に反する原告らの主張は、当裁判所の採るところでない。

(2) 右逸失利益算定のための淳子の就労可能年数は、四三年と、生活費の控除は、その収入の三〇パーセントと、各認めるのが相当である。

(3) 右認定各資料を基礎とし、淳子の本件死亡による逸失利益の現価額をホフマン式計算方法にしたがつて算定すると、三七九一万二五八〇円となる。(新ホフマン係数は、二二・六一〇五。円未満切捨て。)

〔239万5384円×(1-0.3)〕×22.6105=約3791万2580円

2  原告らの相続

(一) 原告らが淳子の父母であることは、当事者間に争いがない。

(二) 右事実に基づけば、原告らは、淳子の相続人として、その法定相続分にしたがい、同女の本件損害金三七九一万二五八〇円の賠償請求権の各二分の一を相続したというべきである。

よつて、原告らの相続した右損害賠償請求権の金額は、各金一八九五万六二九〇円となる。

二  原告らの本件損害

原告らは、本訴において、同人ら固有の損害として葬儀費各金四〇万円、慰謝料各金一三〇〇万円を主張請求している。

しかしながら、被告の本件責任原因が本件診療債務の不完全履行であることは前記認定説示のとおりであつて、右債権債務関係の当事者は淳子と被告であり、原告らは右権利関係の当事者ではない。

右説示から、右権利関係の当事者でない原告らは、被告に対し、右責任原因に基づき原告ら主張の右金員を本件損害として請求することはできないというべきである。

よつて、原告らの右主張は、全て理由がない。

三  弁護士費用 各金一九〇万円

弁論の全趣旨によれば、原告らは、被告が本件損害賠償を任意に履行しないため、本件訴訟の提起と追行及びこれに先立つ証拠保全手続を弁護士である原告ら訴訟代理人に委任し、その際、相当額の弁護士費用を支払う旨約したことが認められるところ、本件訴訟追行の難易度、前記請求認容額等に照らし、本件医療事故と相当因果関係に立つ損害としての弁護士費用は、各金一九〇万円と認めるのが相当である。

第六  結論

一  以上の全認定説示に基づくと、原告らは、被告に対し、本件損害合計各金二〇八五万六二九〇円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日であることが本件記録から明らかな昭和六二年二月一五日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による各遅延損害金の各支払いを求める権利を有するというべきである。

二  よつて、原告らの本訴各請求は、右認定の限度で理由があるから、それぞれその範囲内でこれらを認容し、その余はいずれも理由がないから、これらを棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を、各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 鳥飼英助 裁判官 三浦 潤 裁判官 亀井宏寿)

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