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神戸地方裁判所 昭和61年(わ)694号 判決 1986年12月15日

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実のうち、Kに対する殺人の点について、被告人は無罪。

理由

(はじめに)

本件公訴事実の要旨は、

「被告人は、

第一  昭和六一年七月二三日午後七時一〇分ごろ、兵庫県明石市相生町二丁目六番六号長谷川マンション三〇三号室のK(当時三七歳)方において、同人所携の脇差を取り上げ、殺意をもつて、右脇差で同人の胸部を一回突き刺し、頸部を二回切りつけ、よつて、そのころ同所において、同人を心臓切損等による失血及び頸髄切損による呼吸不全により死亡させて殺害した

第二  引き続き、同所において、殺意をもつて、N(当時二〇歳)の胸部を前同脇差で突き刺したが、同人に加療約二か月間を要する傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかつたものである。」

というにある(以下、第一の事実を「甲事実」、第二の事実を「乙事実」ともいう)ところ、甲事実における被告人の所為に関し、弁護人は正当防衛に当たると主張するのに対し検察官は過剰防衛にとどまると主張しており、また、乙事実については、弁護人において正当防衛ないし過剰防衛に当たる旨主張している。

当裁判所は、審理の結果、甲事実における被告人の所為については弁護人の所論を採用して無罪を言い渡すのが相当であるが、乙事実の関係では、弁護人の主張を容れることができないとの結論に達した。そこで、先ず、被告人を有罪と認めた乙事実に対応する「罪となるべき事実」及びその認定に用いた「証拠の標目」を明らかにしたうえ、「争点に関する判断」の部分で、無罪の理由及び有罪部分についての弁護人の主張を是認しがたい理由を説示し、最後に「法令の適用」及び「量刑の事情」を判示することとする。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六一年七月二三日午後七時一〇分ごろ、兵庫県明石市相生町二丁目六番六号長谷川マンション三〇三号室のK方において、先に同人の配下であるN(当時二〇歳)から包丁で顔を切りつけられたこと等に立腹し、その報復のため同人を殺害しようと決意し、右K方台所の流し台付近において、Kから奪い取つていた脇差(刃渡り三九・六センチメートル、昭和六一年押第一七七号の1)で、右Nの左胸背部を一回突き刺したが、同人に加療約二か月間を要する左胸部刺創等の傷害を負わせたにとどまり、殺害の目的を遂げなかつたものである。

(証拠の標目)<省略>

(争点に関する判断)

第一  本件の事実経過

関係各証拠によると、本件の事実経過の概要は、次のとおりである。

一  被告人は、漁師である父・Hの長男として出生し、中学を卒業したのち漁業にたずさわるとともに、一〇年ほど前からは養漁業にも力を入れ、昭和六一年七月初旬以降は、殆どの間住居地を留守にして和歌山県下津町塩津に赴き、稚魚の世話をするという生活を送つていた。なお、昭和五〇年に結婚し、三男一女をもうけて現在に至つている。

二  K(本件当時三七歳)及びN(本件当時二〇歳)の両名は、いずれも暴力団・O組の組員であるが、被告人に因縁をつけて金銭を脅し取ろうと企て、Kの指示を受けたNにおいて、昭和六一年七月二三日の午後三時ごろ(以下、年月日を省略する)、電話で、被告人を明石市日富美町一一番一二号先路上に呼び出した。

一方、被告人は、K、Nのいずれとも面識がなく、呼び出しの用件についても何ら心当たりがなかつたものの、相手が被告人方の電話番号を知つているうえ、被告人を名指しして呼び出しをかけてきたこと、同人らが暴力団関係者ではないかとの疑いを抱いたこと等から、当時家族を自宅に残し、自らは仕事の関係で住居地を殆ど留守にするという生活を送つていた被告人としては、この際相手方と会つたうえ話をつけておく必要があると考え、右呼び出しに応じて前記待ち合わせ場所に出向き、待機していたK運転・N同乗の自動車に乗車した。

三  Kは、被告人を脅すための道具を取りに、いつたん、前記K方に立ち寄り、脇差一振(刃渡り三九・六センチメートル)を持ちだし、その後、被告人及びNとともに前記自動車で神戸市西区内の山中に向かい、さらに、同区伊川谷町別府字鎌谷付近の人気のない山中に赴いた。その途中、Kは被告人に対し、「だれに物言うとんどい。わしがだれか分かつとんかい」など被告人の口のきき方が悪いとなじつたり、「わしの入れ墨を見た」と被告人には全く心当たりのない因縁をつけ、あるいは、「三年前の事件を知つとんのかえ」などと暴力団員としての威勢を誇示した。なお、「三年前の事件」というのは被告人同様漁師をしている者がO組の組員に暴行を加えたことで約一〇〇〇万円の落とし前を喝取された事件のことで、この件については被告人も知悉していた。

これらKの言動にもかかわらず、被告人は動ずる様子を見せなかつたところから、業を煮やしたKは助手席から後部座席の被告人に対し、被告人の着衣に触れるほどの近くまで脇差を突きつけ、「わしらの稼業もひとつ違うと命の取り合いせんならん」「お前もこないしてドスを突きつけられて、俎の上に乗せられるという怖い目にあつたことはないやろ」などと、しつこく脅迫をつづけた。

四  Kは自動車が前記鎌谷付近の山中に着くと、Nに命じて停車させ、同人のみ車外におりた。その後、Kは同所車内において、被告人に対し約二時間にわたり脅迫をつづけたのであるが、ほとんどの間、Kは、脇差を構えなおして被告人の左胸部に突きつけ、時には実際に突き刺しかねない気勢を示すとともに(当時のKの気勢の強さは、Nが驚いて「それだけは止めてくれ」と叫んでKの手から脇差を取り上げる場面もあつたほどである)、「入れ墨を見たことを、どないしよと思とんどえ」「わしに偉そうな口吐いたん、どないしよと思とんどえ」など前同様の言いがかりをつけつづけ、さらに、「わえらは、何時でも人をいてまう(殺すこと)根性がある」「われ、銭と命とどつちが大事どえ」などと繰り返し、暗に金銭を要求する意向をちらつかせた。また、現実に突き刺される危険を感じた被告人が、脇差を握つているKの手をつかむなどした際には、Nが車内に乗りこみ、「われ何しよんどい」と怒鳴つて被告人の手を振り払つたりした。

以上のように、約二時間余りの長時間にわたつて、Kらの脅迫を受けつづけた被告人は、当初、全く根拠のないKの言いがかりに対し反論していたものの、次第に事態が険悪の度を増し、Kの表情・言動が凄みを帯びてきたこと、現場が全く人気のない山中であること、このまま推移すると真実Kが被告人を脇差で刺殺するかも知れないというおそれが現実化してきたこと等から、不本意ながらも、危難を避けるため口のきき方の件や入れ墨の件について謝罪したところ、Kも態度をやわらげて脇差を引つ込めた。

五  そこで、Kらは再び自動車で被告人を連れて、午後六時ごろ前記長谷川マンション三〇三号室のK方(なお、K方の室内の状況は別紙図面のとおりである)にひきかえした。

Kは、被告人をK方奥の六畳の間に招き入れ、自らは同室テーブル北側に座つて前記脇差を傍らに置き、被告人がテーブルの西側に着席するや、「お前の命、銭に換算したら何ぼ位と思とんどい」などと言い出し、前記O組組員による恐喝事件にからめて、暗に一〇〇〇万円の支払を要求した。これに対し、被告人は一旦理不尽な要求に応じると、Kらが後々際限なく恐喝しつづけてくるに違いないと判断し、同人の申し出には服する意向がないとの態度をとつていたところ、午後七時ごろ被告人の応対ぶりに立腹したNにおいて、「われ、まだそんな事ぬかしとんのかえ」と言いざま、被告人の背後から左横にまわり、(台所から持つてきていた)包丁で、いきなり被告人の左頬を切りつけ、被告人の左頬部に切創の傷害を負わせた(右傷害は加療約一〇日間を要するものであつた)。

それまで、Nの存在については全く無警戒であつた被告人は、突然のことに驚き、左頬に手をやると被告人の着衣に血がポタポタと落ち、Nの方を見たところ、同人が包丁を両手に持つて腹部に構え、今にも被告人を刺そうとする格好で立つているのを認め、一瞬、このままNに刺殺されるのではないかと強い恐怖心に襲われた。

六  幸い、KがNを制止したため、被告人は、それ以上Nから危害を加えられることを免れたものの、右六畳の間北側の棚(別紙)には、けん銃様の物(実際には、けん銃を模した爪切り及びライターであつた)が置かれているのを認めていたうえ、Kが被告人との対話中傍らの脇差を鞘から抜き出したりしていたこと、NがKに「兄貴、今度まだ(被告人が金銭の要求に応じるのを)渋るようやつたら、すぐやりまつさかい」などと言つたりしたこと等から、もはや恐喝に屈伏して金銭を出すか否かということも念頭から離れ、一刻も早くこの場から逃げ出さなければ殺されてしまうとの畏怖心にとらわれ、Kの金銭の要求を受けいれる態度を明らかにした。

七  そこで、被告人がKに対し、左頬に受けた傷害の治療をするため、医師のもとに赴きたいと訴えたところ、Kは、恐喝の目的を遂げ得たと満足して態度を軟化し、明石市相生町の整形外科医院に電話して患者(被告人)を連れてゆく旨を伝え、午後七時一〇分ごろ、Nとともに被告人を医院に同行することとなり、K及びNの二人が被告人を前後から挾むようにして、玄関口付近(別紙)に至つた際、当日のKらの行動が被告人の口から洩れるのを懸念したKにおいて、被告人に対し、Nから傷つけられた事実を医師に口外しないよう強く要求した。

これに対して、被告人としては、負傷の理由・原因を説明しなければ医師が診察してくれないと考えていたので、「黙つていては医者が診てくれん」との趣旨を答えたところ、逆上したKは、「おんどれ」と怒鳴るや、血相を変えて、玄関口から前記脇差を置いてあつた六畳の間に走り込んでいつた。

八  これを見た被告人は、Kが前記脇差かけん銃を持ち出すため、これを取りにいつたのに違いないと判断し、Kが凶器を手にする前にそれを奪い取らなければ、今度こそ間違いなく殺害されてしまうと考え、Kの後を追つて六畳の間に走り込んだ。被告人が辛うじてKに追いついたとき、Kは六畳の間の別紙付近においてまさに前記脇差を両手で取り上げたところであつたので、被告人もとつさに右脇差を両手でにぎり、両者の奪い合いとなつた。そして、最後には、被告人において、脇差を奪い取ることができたものの、台所にいるNが包丁を持つて被告人に襲いかかつてくるのは必定であること、脇差を奪い取つてもKはなおけん銃を持つていると信じこんでいたこと等から、自らの生命を護るためには、ひと思いにKを殺害するしかないと判断し、奪い取つた脇差を両手で構え、Kの胸付近を目掛けて突き刺し、同人に対し、心臓、左肺動脈、左肺上葉を貫通して左胸背部に刺出する前胸部刺創の傷害を負わせ、さらに、台所付近にいるNを警戒し、同人が包丁を武器として被告人に向かつてくるのに備え、逸早くKの身体から脇差を抜き取り、その反動で被告人の方に倒れかかつてきたKの後頸部を脇差で切りつけ同人に頸髄切損の傷害を負わせた。

こうした経過で、Kがその場に倒れ込み、動かなくなつたので、次に被告人は台所の方を振りかえつて見たところ、Nが包丁を腰に構えて立つているのを認めたため、先に同人から包丁で切りつけられ傷害を蒙つていた被告人は、Nに対する憤激から、この際同人にその報復をしようと決意し、おりから台所の別紙付近に立つていた同人のもとに走り寄るや、同人が突き出していた包丁を避けながら、右手に持つた脇差をNの左胸部に突き刺し、つづいて、包丁を投げ捨ててその場から逃げ出した同人を追いかけようとした。ところが、その際、六畳の間から物音を聞いた被告人は、Kがまだ絶命していないものと考え、同人がけん銃等を持つて反撃してくるのを慮り、同室に戻り、とどめをさすべく、前記脇差で倒れている同人の頸部付近に切りつけた。

九  その後、被告人はNの後を追つて屋外に出たが、同人が長谷川マンションと道路を隔てた松風ビルに逃げ込んだため、それ以上の追跡を断念し、同ビル一階の松下工務店事務所にはいり、同店従業員に依頼して一一〇番通報をさせ、最寄りの派出所に出向く途中本件現場に駆けつけてきた警察官と出会い、自己の行為を申し出て緊急逮捕された。

なお、Kは、心臓等切損による失血、頸髄切損による呼吸不全によつて死亡し、Nは、加療約二か月間を要する左胸部刺創等の傷害を蒙つた。

以上のような事実経過が認められるところ、(1) Nは、当公判廷における証言において、同人は被告人の左頬を包丁で切りつけたのち、被告人がKを殺害するまでの間に長谷川マンションを出て、同マンション前の路上に停めていた自動車に乗り待機していた際、同マンションから出てきた被告人に傷害を負わされたもので、同人自身は当時包丁等の凶器を持つていなかつた旨供述し、Kが殺害される現場には居合わせていないと証言しており、(2) 一方、被告人は、Kに対して同人の胸部を突き刺し、後頸部を切りつけたのち、Nの方を見ると、同人が被告人の方に向かつてきたので、台所と六畳の間の境あたりでNを刺した旨供述しているが、現場に残された血痕の状況等証拠上明らかな客観的状況に徴すると、被告人は前認定のように台所の流し台付近でNを刺した事実が明らかであつて、前記N及び被告人の供述は、いずれも信用できない。

第二  Kに対する殺人の事実についての無罪理由

一  検察官の主張の概要

検察官は、正当防衛が認められないとして、次のように主張している。

すなわち、「本件においては、それまでの経緯より見てKが六畳の間の脇差を取るべくそれに手をかけたことは、それが急迫不正の侵害行為そのものとは言えないにしても、急迫不正の侵害行為をまさに開始しようとする行為であり、これに対して反撃行為が許されることも当然である。従つて、被告人がKの手から脇差を奪い取つた行為は適切な防衛行為と言い得る。しかし、脇差を取り上げたことでKは素手となり、これによつて同人の攻撃力は極めて減退し、被告人の生命に対する危険は著しく薄らいだと認められるのにかかわらず、被告人はKに対し、脇差で胸部を一突きし、頸部付近を切りつけており、被告人の所為は客観的に見て、『己ムコトヲ得サルニ出テタル』行為とは到底言いがたい。従つて、被告人の行為は適正妥当な防衛の程度を超えたもの、すなわち、過剰防衛に当たると言うべきである。なお、本件当時、K方にはNもいたわけであるが、同人は六畳の間には在室しておらず、被告人もこれを確認したうえKに対する犯行に出ているのであつて、当時Nが被告人に急迫不正の侵害をなそうとしていた状況はなく、Kに対する殺人について、正当防衛の成否を判断するにあたり、Nの行動状況を考慮する必要のないことは言うまでもない。」というのである。

二  当裁判所の判断

そこで、前記「本件の事実経過」の部分で判示した認定事実に基づき、検察官の主張の当否を検討する。

1 被告人が判示のような経過で、Kの手から脇差を奪い取つたことにより、同人は何ら武器を持たない素手の状態になつたのであるから、この点のみを見る限り、被告人とKとの間の力関係には、一見大きな変化があつたかのように思われる。

しかしながら、本件においては、被告人がKから脇差を奪い取つた時点において、K方の玄関口ないしは台所にNがいたのであり、同人はKの子分格の者であつたことから、Kが被告人との闘争関係で窮地に陥る状況となつた場合には、Kに加勢するとか同人の意趣を晴らす行動に出る蓋然性はきわめて高かつたと言うべく、さらに、Nは本件当時二〇歳と若く体力的にも被告人にひけをとらず、本件の直前にはいきなり被告人の顔に包丁で切りつけるなど衝動的に凶暴な行動に走る性向を有していると認められ、台所には現に包丁が置いてあつたこと等の事情に徴すると、被告人とKから脇差を奪い取つた時点での被告人とK側との力関係や被告人の置かれていた立場を考えるにあたつて、Nの存在を無視することは、その場面の緊迫した実状に関する洞察に欠けるとの誹りを免れないと言うべきである。

しかも、Kらが本件当日約四時間にわたり、被告人に対し、金銭を脅し取るべく執拗に暴行脅迫を加えていた経緯に照らせば、被告人が脇差を奪い取つたからといつて、K及びNがみすみすと被告人を解放するとは考えられないこと、K・Nはいずれも、めいていしているとか負傷しているなど闘争行為に障害となる状況にはなかつたこと、被告人が脇差を奪い取つた結果、却つて双方が武器を手にしての過激な闘争に発展する事態も予想されること等の諸事情を併せ考察すると、被告人が脇差を奪い取つたからといつて直ちに被告人とKらの力関係が逆転ないし大きく変化したとは即断できないと解するのが相当である。

2 次いで、被告人の行なつた反撃の態様について検討するのに、被告人は、脇差を奪い取るや、一撃のもとにKを殺害すべく、右脇差で同人の胸を目掛けて突き刺すとともに、倒れかかつてくるKの後頸部に切りつけており、客観的・外形的には、積極的・意図的な反撃行為と言うほかなく、さらに、Nを刺したあと、六畳の間で物音を感じたことから、Kがいまだ絶命していないものと考え、倒れて動かなくなつている同人の頸部付近を切りつけており、執拗なものであつたと認められる。

しかしながら、前判示のとおり、被告人は約四時間にわたつて、Kらから執拗極まる暴行脅迫を受けながら、基本的には無抵抗の姿勢を貫いていたこと、Kに対する本件殺人行為は、Kらとともに医院へ出向く機会をとらえて何とか現場から離れ出ようとする被告人の消極的な抵抗の過程において、まさに突発的な経過から発生したものであり、被告人の側に挑発的な行為が介在したと疑うべき事実がまつたく存しないこと、被告人はKが脇差のほかにけん銃をも所持していると確信していたもので、自己の生命を護るためには、Kを殺害するほかないと判断していたこと等の諸事情に鑑みると、被告人の行為は防衛の意思に基づくものであつたと認めるのが相当である。

3 ところで、被告人は、Kが被告人に危害を加えようと血相を変えて六畳の間に走り込むのを認めた後、辛うじて、Kがまさに脇差を取りあげたところに追いつき、はげしい奪い合いのすえ、脇差を手にすることができたものであるが、当時の被告人は、今度こそ「殺すか、さもなくば殺されるか」という極限的な場面に立たされていると確信していたもので、かかる被告人の認識・判断も、当時の客観的状況に徴し、単なる思い過ごしとは到底言えないこと、しかも、K・Nの二人を相手にいずれも刃物等の凶器を使用しての武闘になりかねない極めて緊迫した局面での出来事であること、被告人の行為は、文字どおり、とつさの間において、自己保全の本能に基づく行動選択の結果としてなされたものであり、かかる立場に置かれた者に対し、冷静な状況判断を求めるのは、あまりにも酷に過ぎると考えられること等の諸点に鑑みると、被告人のとつた反撃態様を理由として、直ちに防衛行為としての相当性を失なわせるものと即断するのは当を失すると言わなければならない。

4 さらに、防衛行為の相当性について判断する場合には、被告人として、本件の具体的な状況のもとにおいて、急迫不正の侵害を避けるために、現実に行なつた防衛行為のほかにとるべき適切な手段・方法があつたか否かの検討を落とすことができないのは言をまたない。いやしくも、防衛行為の相当性を否定するからには、他に相当な防衛の措置を講じ得たことをある程度積極的に論証し得るのでなければ、結局のところ、被告人に不能を強いる結果となるからである。

これを本件について見ると、① 被告人がKとの間で激しく脇差の奪い合いをなし、これを取り上げたすえ、同人を刺したりした現場は、六畳の居間という狭い室内であること、② 唯一の出口である玄関口辺りにはNがおり、退路をふさがれた格好になつていたこと、③ 被告人が脇差を奪い取つた時点においては、被告人にとつて、自らの死角にNを置くという不利な状況となつていたこと、④ 被告人は、Kがけん銃を所持しているものと信じこんでいたこと、⑤ 現場はマンションの三階の部屋であつたため、急いで逃げ出すにしても、階段を駆け下りるなどの必要があり、追跡をかわすのに困難な条件のあつたこと等諸般の事情に照らせば、Kの死亡というまことに不幸な結果を生じてしまつたとはいえ、被告人においてKから奪い取つた脇差を用い、同人に対し刺突行為に及ぶ以外に、被告人の身体・生命に危険をもたらすおそれのない適切な防衛手段の存在を積極的に指摘・論証するのは困難と言うほかない。

5 以上の考察は、主に、被告人がKから脇差を奪い取つた時点での状況を基礎としてなしたものであるが、本件においては、午後三時ごろからのKらによる一連の暴行脅迫行為の延長線上の出来事であることにも配慮を要すると考えられる。

すなわち、被告人は、前判示のとおり、何ら責めるべき事情がないのに、一方的にKらから、執拗この上ない暴行脅迫を加えられ理不尽極まる金銭の要求を受け、ついには何時刃物で刺切されるやも知れないという危険な状況の中、筋の通らぬ妥協をすることによつて、後々Kらにつきまとわれる事態にならぬよう、被告人自身はもとより、家族の安全を護るため、必死の思いで耐え忍んだものの、最終的には、金銭の要求に応じる態度をとることを余儀なくされ、顔面に切り傷を負わされるなど屈辱的な被害を蒙りながらも、何とか医師の治療を受ける見通しが立ちやつと自由・安全な場面に戻れると安堵したばかりのところで、突然脇差等の凶器で殺害されかねない危険に直面し、ともかくも、タッチの差で凶器を奪い取るのに間に合つたものであり、被告人の防衛行為が防衛の程度を超えたものか否かの判断に際し、被告人が体験した右のような特殊・異例な経緯をも十分考慮にいれなければ、本件の実態にふさわしい具体的妥当性のある結論を見失うおそれがあると言えよう。そして右に指摘した一連の異例な経緯が、本件において、被告人の防衛行為の相当性を肯定するうえで積極的なプラスの事由の一つと解すべきであることには、大方の同意を得ることが出来よう。

6  以上の諸点を総合すると、被告人がKから取り上げた脇差で同人を殺害した行為は「積極的・意図的で執拗な反撃行為」との評価を免れないにしても、当該の時点において、急迫不正の侵害がなお現存していた事実を否定できないこと、被告人が防衛の意思をもつて本件所為に出たと窺うに足る理由のあること、防衛行為の相当性に関しても、被告人が現にとつた行為のほかに、被告人の身体・生命の安全を保証し、防衛の目的を遂げ得る適切な対処の方法を積極的に提示しがたいこと等の諸事情に照らすならば、被告人の本件殺人行為は正当防衛にあたるものと認定・判断するのが相当である。

7  なお、被告人が脇差でNの胸部を突き刺した後、六畳の間に物音を感じ、「とどめをさす」意味でKに対して行なつた所為に関しては、それのみを、全体的な事態の流れと切り離し独立した行為として見る限り、正当防衛の要件を欠くものと言わざるを得ないが、本件の場合には、Kに致命傷を与えた当初の行為が正当防衛にあたる以上、被告人の所為を総合的・一体的に観察し、全体として正当防衛の要件を具備するものと認めるのが妥当である。

第三  有罪部分に関する弁護人の主張についての判断

弁護人は、被告人のNに対する行為につき、被告人の殺意を争うとともに、右所為もまた正当防衛ないし過剰防衛に当たる旨主張する。

しかしながら、被告人がNに対し攻撃を加えた動機、被告人の用いた凶器である脇差の性状、被告人が刺突したのは被害者の胸部であること、創傷の部位・程度等に徴すると被告人が殺意をもつてNに対する犯行に出た事実は明らかに肯認でき、犯意についての弁護人の所論は採用しがたい。

また、「本件の事実経過」と題する部分で判示したように、被告人はNが台所で包丁を腰に構えて立つているのを認めるや、先に同人から包丁で切りつけられたのに立腹し、同人に対する憤激から、この際その報復をしようと決意したすえ、同人のもとに走り寄つて脇差を同人の左胸部に突き刺し、さらに、包丁を投げ捨てて逃げ出した同人を追いかけるなどの行動に出た事実が認められ、これら一連の状況に照らせば、被告人のNに対する所為に関しては、急迫不正の侵害、防衛意思の存在等防衛行為としての要件を充たす事情のないことが明白であり、この点についての弁護人の主張も理由がないと言うべきである。

(法令の適用)

被告人の判示Nに対する殺人未遂の所為は、刑法二〇三条、一九九条に該当するので所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、情状に鑑み、同法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予することとする。

一方、本件公訴事実のうち判示Kに対する殺人の点については、前判示のごとく、被告人の所為は正当防衛に当たるものと認めるのが相当であるから、刑訴法三三六条前段により無罪を言い渡すこととする。

(量刑の事情)

被告人のNに対する所為は、刃渡り約四〇センチメートルの脇差で同人の左胸部を突き刺すという死の危険の高い行為であること、Nは幸い一命を取り止めたものの、加療約二か月に及ぶ重傷を負つていること等の諸事情に照らせば、被告人の刑責は看過しがたいと言うべきである。

しかしながら、本件は前判示のとおり、K・Nの被告人に対する監禁恐喝という不法な行為に端を発しており、約四時間にわたる暴行脅迫を受けた被告人がNから包丁で顔面を切りつけられたすえの犯行であつて、被告人の側にも同情し得る事情が少なくないこと、被告人は犯行直後自首していること、被告人にはとくに問題とすべき前科がなく、就労状況も良好であることなど各般の情状に徴すると、刑の執行を猶予するのが相当である。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官角谷三千夫 裁判官池田美代子 裁判官山之内紀行)

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