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神戸地方裁判所 昭和38年(行)13号 判決 1966年11月18日

原告 西村サタ子

被告 厚生大臣

訴訟代理人 上杉晴一郎 外七名

主文

被告が原告に対し昭和三〇年四月一五日付でなした戦傷病者戦没者遺族等援護法による遺族年金請求の却下処分を取消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、その請求原因として

一、原告は訴外亡西村富士馬と大正一五年頃婚姻し、本籍地(神戸市生田区加納町四丁目)に居住していたが、右訴外人は大阪外語、神戸高商を卒業後、神戸市の外人商業会議所に勤務し、専ら貿易通信文の翻訳に従事していたところ、昭和一三年六月一六日召集令状を受け、陸軍上等兵として同月二三日歩兵第七〇連隊に入隊し、同年七月五日大阪港を出発、同月一〇日大連上陸以来大陸各地を転戦中、昭和一四年五月三日発病して、広州の第一〇四師団第一野戦病院に入院、その後重患のため内地送還となり、同月二三日台湾高雄の台南陸軍病院高雄分院に入院、同年七月七日ついに戦病死したもので、戦没と同時に陸軍歩兵曹長に任ぜられた。

二、そこで原告は、戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和二七年法律第一二七号、以下単に援護法と略称する)二三条に基き、被告に対し、遺族年金の受給申請をしたところ、被告は右訴外人の死亡原因が肝臓硬変症兼両側湿性胸膜炎であるとし、罹病の状況からみて公務上の罹病と認められないとして、昭和三〇年四月一五日右申請を却下した。

原告は直ちに被告に対し、同法四〇条に基いて不服の申立をしたところ、被告は昭和三八年一月九日、右と同様の理由により、棄却する旨の裁決をし、原告は同年四月一〇日右裁決書を受領した。

然し前記却下処分は、次のとおり、事実の認定並びに同法の解釈を誤つており違法である。

即ち

(1)、右訴外人の罹病名並びに死亡原因は、胸膜炎兼腹膜炎である。腹膜炎は胸膜炎から誘発されるものであるから、右訴外人の疾病は、明らかに結核性疾患である。右訴外人は、生前健康体であり、飲酒癖なく、右発病時まで、結核性疾患に罹つたことはなかつた。これは明らかに戦地における激務による過労のため、発病したものである。

ところで昭和三一年厚生省令第五七号「旧軍人等の遺族に対する恩給等の特例に関する法律に基く疾病の指定等に関する省令」によれば、同省令一条において、結核性疾病および精神病は特に被告の指定疾病とし、その疾病により死亡した者の遺族を、援護法二三条の遺族とみなすこととしている。すると原告は、援護法二三条に定める遣族として、同法の遣族年金受給権がある。

(2)、仮に右訴外人の罹病名並びに死亡原因が、被告主張どおり、肝臓硬変症兼両側湿性胸膜炎であるとしても、右胸膜炎が、罹病名および死亡原因の一部になつていることは間違いない。

そうすると原告は右訴外人が結核性疾病により死亡したものとして、前同様遺族年金の受給権がある。

又右両疾病は通常過労から発病するものであり、右訴外人は前記のとおり当時軍務に服し、広州北郊において、警備に従事していたため罹病したものであり、それは公務上の疾病といわねばならない。この点につき、被告は前記裁決の理由として、援護法二三条に定める「公務上の疾病」を、罹病が「公務遂行」と相当因果関係にあることを要すると解釈しているがそうではなく、「公務就任」と罹病とが、相当因果関係にあればよいのである。そしてその相当因果関係も当該公務就任があれば、通常当該罹病があるであろうという意味の演繹的相当因果関係ではなく、当該罹病をみれば、それは通常当該「公務就任」が原因であろうという意味の帰納的相当因果関係にあればよいのである。

(3)、右訴外人の発病の時期は、昭和一四年三月下旬である。然るに右訴外人は、その後も軍務に従事しており、同年五月三日野戦病院に入院するまで治療をうけた証拠はなく、逆に少くとも同年四月一五日頃までは、軍務に忠実に従事していたのである。右訴外人は、入院後わずか二ケ月で死亡しているから、発病当初の時期に適切な治療をうけられなかつたことは、病勢の進行に大きな影響がある。このような場合も、公務死に該当する。

(4)、右訴外人の死亡が右のとおり公務上の疾病によるものであることは、次の事情によつても認められる。

(イ)  右訴外人の死亡診断書には「戦病死」と記載され、死亡と同時に陸軍曹長に進級している。

(ロ)  右訴外人は、昭和一七年四月二一日、靖国神社に合祀された。同神社に合祀されるには、一定の基準があり、戦死者又は戦傷病死者に限られるのである。この戦傷病死者とは、単に戦地で傷病死した者という意味ではなく、戦地における軍務により戦傷病死した者という意味である。

そして昭和二七年二月一日引揚援護庁復員局庶務課長から全国都道府県知事宛の「戦没者資料の審査整理等について」と題する通達によれば、合祀済の者は、身分死因ともに、扶助料を認可裁定された者と同様の扱いとしている。

(ハ)  原告は特別賜金および一時賜金をうけている。これは軍務に従事した為に死亡した場合に下附されるのである。

尤も公務扶助料については未裁定である。しかし原告は、昭和一五年七月二五日、右訴外人の死亡を「公務上の疾病」によるものとして、公務扶助料の申請を、当時の神戸市生田区長に対してなしたのであるが、右申請は、その後昭和一七年九月一〇日付で「公務上の疾病」に該当するかどうかの事実調査を中部六八部隊宛照会中、生田区役所の係員が一件書類を紛失してしまつたのである。係員は、当時原告に対して、その手落を謝罪するとともに、再請求の手続をとつてくれるように懇請し、併せて謝意の一端として、昭和一九年五月一三日、軍事扶助料を支給する手配をしてくれたのである。この軍事扶助料は、出征軍人の留守宅に対し、出征者が生存中に限り支給されるもので、右訴外人は、すでに昭和一四年七月七日死亡したから、原告はその頃、軍事扶助料の支給を打ち切られていたのであるが、前記のとおり、区役所係員の手落により、公務扶助料の裁定が遅延したので、それが来るまで、特別の配慮で、軍事扶助料を復活して貰うことになつたのである。

当時右訴外人は、戦病死により、階級も陸軍軍曹から陸軍曹長に昇進し、勲功により、勲七等青色桐葉章を授与され、且つ昭和一七年四月には、靖国神社に合祀されていたから、原告は、当時、公務扶助料が裁定されることに何ら疑問をもたず、区役所の係員もまた同様の考えから、遡つて公務扶助料が支給されれば、軍事扶助料は返済するとの約束で、前記特別の配慮となつた次第である。斯くて原告は、昭和二〇年五月三日、公務扶助料の再請求をしたが、その審査途中で終戦となり、未裁定のまま現在に至つている。従つて被告の主張するように、公務扶助料の裁定が確認されないからといつて、当時「公務上の疾病」と認められなかつたのではなく、前記のように、逆に関係者は、「公務上の疾病」と認めていたのであるが、係員の手違いで未済となり、その直後扶助料は停止となつたまま、援護法の施行を迎えたのである。

以上のとおり、原告の前記遺族年金受給申請を却下した被告の処分は違法であるので、その取消を求めるため本訴に及んだと述べた。

被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め

答弁として

請求原因第一項のうち、原告が訴外人と大正一五年頃婚姻したこと、右訴外人が昭和一三年六月一六日召集令状を受け、陸軍上等兵として、同月二三日歩兵第七〇連隊に入隊し、大陸方面において勤務していたところ、昭和一四年五月三日発病したので、第一〇四師団第一野戦病院に入院し、その後内地送還され、台南陸軍病院高雄分院、次いで台南陸軍病院で治療を受け、同年七月七日死亡し、陸軍歩兵曹長に任ぜられたことは認めるが、その他は不知。

第二項のうち原告が被告に対し、原告主張のように、遺族年金の受給申請をしたこと、被告が昭和三〇年四月一五日、右訴外人の死亡は、公務上の罹病によるものとは認められないという理由で、右申請を却下したこと、被告が右却下処分に対する原告の不服申立について、昭和三八年一月九日右却下処分と同様の理由で、右不服の申立を棄却する旨の裁決を行なつたことは認めるが、右処分を違法とする事実は否認する。

(援護法の解釈について)

援護法は、ポツダム政令である「恩給法の特例に関する件」(昭和二〇年勅令第六八号)によつて、旧軍人およびその遺族に対する恩給が停止又は制限されたのを改め、その対象者に、旧軍属およびその遺族を加えて、これらの人々に、国家補償の精神に基づいて、援護することを目的とするものである。それで遺族に対する遺族年金も、旧軍人らの在職期間中のすべての傷病死に対して支給することにしているものでなく、「公務上の傷病およびこの傷病による死亡(以下、公務上の傷病死という)」にかぎつて支給することにしているものであり、このことは、援護法一条および二三条一項一号の法文自体に照して明らかなところである。そして、右「公務上の傷病死」とは、援護法が国家補償の精神に基づいている立法であることから演繹して、論理上当然に、軍人軍属としての公務の遂行とその傷病死との間に相当因果関係の認められることを要する。原告が主張するような、公務就任(在職)との相当因果関係をいうものでないことは、援護法四条において、特定の場合について、具体的に遂行した公務の内容を問わないで、特に「公務上の傷病死」とみなす取扱いを規定していること、又、援護法は実質的に恩給法を継受しているものであるが、その恩給法において、公務上の傷病死とは、原則として、公務員の公務の遂行と傷病死との間に、相当因果関係の認められるものをいうと解釈され運用されてきていること等からも明らかといえる。

(本件却下処分について)

(一) 現存している資料のうち、「死亡診断書」(乙第九号証)、「軍隊手帳」(甲第一一号証の六)の記載および当時の衛生環境等を総合すると、右訴外人の死亡原因は、肝贓硬変症兼両側湿性胸膜炎であること、即ち、主病が肝臓硬変症であり兼病が両性湿性胸膜炎であることが明らかである。

死亡原因となつた病名については、現存している資料のうちでは、何よりも「死亡診断書」(乙第九号証)の記載に信憑力があるというべきであり、又、「軍隊手帳」(甲第一一号証の六)の記載も、事務担当官が、医師の指示に従い記載したものとうかがえるので、信用しうるものといえる。しかし留守家族宛の電文(甲第二号証)は、病気の重篤であることを速報しようとしたものであり、又、肝臓硬変症という病名は、梅毒による疾病と解されたりすることもあり、当時その病名を電報等に使用することは避けられたりしていたから、電文記載の病名が正しい死亡原因であるとは到底いえない。仮に一時的に胸膜炎兼腹膜炎と病名がつけられていたとしても、最終的に死亡原因となつた病名は、右死亡診断書等に記載されているものと考えるべきである。

そして死亡診断書の記載のなかでも、病名(死因)の欄は、特に重要であるから、作成者としては、最も慎重な判断の下に、それをしたためるのが常である。さらに死亡原因たる病名が二個以上存する場合には、恩給受給の関係からも、軍医は、公務死に該当明白な病名を先に記載するのが慣例であつたが、本件の場合は、公務死に該当可能の胸膜炎という疾病も存したにも拘らず、あえて従来より公務上の傷病とされていなかつた肝臓硬変症を先に記載し、これを主たる死亡原因としたのは、右のような慣例を破つてまで、真実の主たる死亡原因を記載せざるをえない程、肝臓硬変症の症状が明らかであり、それによる死亡が明白であつたためと思われる。

右訴外人の入院後死亡までの間には、二ケ月の余裕が存するから、その間に十分診察および経過の観察は可能であり、又、台湾は当時内地と呼ばれ、事変地、戦地ではないから、陸軍病院施設も十分なものであり、更に肝臓硬変症の適中率が一〇〇パーセントでないとしても、それは初期末期の症状を通じていわれることであり、肝臓硬変症の末期には静脈の怒張、下血など肝臓硬変症特有の症状が明確に現われるのが常であるから、末期における適中率は極めて高いことなどからいつても、担当軍医の誤診ということは考えられない。

(二) 死亡原因と認められる主病の肝臓硬変症は、肝実質の硬化する病気であつて、その原因は種々あり、一般には慢性中毒(例えばアルコール飲料の長期間摂取等)又は慢性疾患(粗食による栄養失調、結核、梅毒等)と考えられるが、この病気は当時内地の通常の家庭生活を営んでいた者にも、しばしば見られたものであつて、特定の地域の風土病、流行病ではなく、又、軍人としての環境あるいはその公務の遂行によつて発生する疾病ではない。

原告は右訴外人は、出征前、健康であつたと主張するが、肝臓硬変症の初期の症状は、軽度の胃腸障害に類するものであるから、医師の診断を受けることも少なく、又、受けたとしても、その診断は困難であるから、かりに右訴外人が出征前、健康そうにみえたからといつて、当時肝臓障害を起していなかつたとはいえない。

原告は、右訴外人が出征後も健康であつたと主張するが、その旨を証する軍事郵便の記載は、当時厳重な検閲制度がとられ、悲観的な事情を軍事郵便に記載することは、事実上不可能であつたこと、又、応召者の心理としても、留守宅に心配をかけるような事実の記載は、差し控えるのが普通であつたことなどからみて、そのまますべてを真実とみるわけにはいかない。更に右訴外人には飲酒癖がなかつたともいうが、全く酒を飲まなかつた者ではないし、出征後も余り酒を飲まなかつたということについては、何の証拠もなく、かえつて、経験則上、戦地においては、飲酒者が増加することを思えば、右訴外人も、出征後は、飲酒癖を有するに至つたかも知れぬと推測してもあながち非常識ではない。

(三) 原告は、発病後の治療不十分を主張し、それを前提として、右訴外人の死亡は、公務死に当るという。

しかし肝臓硬変症の治癒は、全く望めないものであり、右訴外人の療養地は、昭和一四年頃、治療上特に不利な条件にはなかつたものである。

右訴外人の発病が、昭和一四年三月下旬であるというのは、右訴外人が入院後、医師の問診に対し、入院前の健康状態を述べたことから判断されたことであろう。その後右訴外人が入院する五月三日までの間、適切な治療を受けたか否かの事実は明らかでない。しかし五月三日、野戦病院に入院後、間もなく内地送還の措置がとられていることからすれば、発病入院、死亡までの間、当時として、軍医療機関がとりうべき治療方法は、とられていたと推察できる。

しかも病死が公務死に当るか否かは、公務の遂行から通常起りうべき疾病により死亡したか否かにより決定されるべき事柄であるから、仮に、治療の不適切、或は診療の過誤が原因で死亡したとしても、そのことにより、死亡の公務性が左右されることのないのが原則である。

(公務上の死亡であるかについての間接事情)

(一) 死亡に関与した軍医は、その死亡原因が公務死に当る場合には、その旨を記載した事実証明書を作成し、一通は遺族に交付し、他は兵籍簿に編綴されることになつていた。しかし右訴外人の兵籍簿には、右事実証明書の編綴がなく、又、死亡に立会つた原告本人も、その交付を受けていない。これは担当軍医が、死亡原因を公務死に当らない肝臓硬変症とみていたことの間接事実である。

(二) 原告は、公務扶助料の裁定を受けていない。昭和一四年死亡の事案につき、遂に裁定を受けられなかつたという事実は、審査機関が原告の請求に対し、消極的な結論あるいは態度を示していたことを物語るともいえる。

(三) 死亡診断書には、戦病死の記載があるが、右診断書の死因の区別権は、死因を病死と自殺その他の変死に大別するために存するのであるから、軍医は、事変地、戦地での発病による病死の場合には、それが自殺その他の変死ではない旨明らかにするため、戦病死と記載するのが普通であつた。

従つて、戦病死との記載があることから、軍医が公務死と判断したと推定することはできない。

(四) 右訴外人は、死亡と同時に、曹長に昇進しているが、昇進は、在職期間およびその期間の功績、勤務成績に応じてなされるものであり、公務死は、昇進原因とはされていないから、これも公務死認定の間接事実とはなりえない。

(五) 靖国神社には、戦死、戦病死の者が合祀されるのは勿論であるが、戦病死に当らない病死又は不慮死でも合祀されるのが原則であり、場合によつては、自殺者でも合祀されていたのであるから、合祀の事実も、公務死の間接事実とはなりえない。

又原告主張の戦没者資料の審査整理の基準は、援護法の成立前に、引揚援護庁が作成した審査整理区分表であり、同表の整理区分に該当すれば、一応資料を整理しておくよう指示しているにすぎないものであるから、右区分表の記載を挙げて、「公務上の傷病死」の判定基準を示しているものということはできない。

(六) 軍事扶助料は、事変地において発病した傷病により死亡した下士官の遺族であれば、生活に困窮しているかぎり、その傷病が公務上のものであるかどうかを問わないで支給されるものであり、又特別賜金は、事変地において、疾病にかかり、このため死亡したものであれば、その傷病が公務上のものであるかどうかを問わないで賜与されたものであるから、軍事扶助料や特別賜金が交付されていることから、直ちに右訴外人の死亡が、「公務上の傷病死」と断ずることはできない。

(七) 右訴外人は勲七等青色桐葉章を受けているが、勲章は、在職中の功績に対し与えられるものであり、又、右訴外人のように、出征後一年有余も軍務に従事していた者に対しては、その死亡の有無を問わず、下附されるのが当然であるから、これも公務死の間接事実とはなりえない。

以上のとおり、右訴外人の死亡原因は、肝臓硬変症であり、結核によるものではなく、肝臓硬変症による死亡は、軍人としての公務の遂行と相当因果関係のあるものではなく、従つて「公務上の傷病死」であると解することはできないから、被告の本件却下処分は適法であり何らの瑕疵もないと述べた。

(証拠省略)

理由

一、原告が訴外亡西村富士馬と大正一五年頃婚姻したこと、右訴外人が昭和一三年六月一六日召集令状を受け、陸軍上等兵として同月二三日歩兵第七〇連隊に入隊し、中国大陸方面において勤務していたところ、翌一四年五月三日発病し、第一〇四師団第一野戦病院に入院し、その後、内地送還され台南陸軍病院高雄分院に入院したこと、同年七月七日死亡し、陸軍歩兵曹長に任ぜられたこと、原告が被告に対し、原告主張のように、遺族年金の受給申請をしたことおよび被告が昭和三〇年四月一五日、右訴外人の死亡は公務上の罹病によるものとは認められないという理由で右申請を却下したこと、右却下処分に対し原告は不服の申立をしたが、被告は昭和三八年一月九日申立棄却の裁決をしたことについては、当事者間に争いはない(死亡の場所については原告本人尋問の結果によると台南陸軍病院であることが認められる)。

二、ところで原告は右訴外人の死亡原因は、胸膜炎兼腹膜炎であり結核性疾患によるものであり、これは戦地における激務による過労のため発病したものであるから、援護法二三条一項に規定する公務上の傷病およびこの傷病による死亡に該当すると主張し、被告は右訴外人の死亡の主原因が肝臓硬変症であり、従つて右死亡は、同条項の公務上の傷病による死亡に当らないと主張するので、この点につき検討する。

(1)  援護法二三条一項に規定する「公務上」の解釈

国家補償制度の一環として立法された同法の目的に照らすと、同法二三条一項の「公務上」とは、国家補償責任の発生原因として規定されているものと解すべきである。そうすると、国家が同条項に規定された傷病とそれによる死亡に対し補償責任を負うためには、右傷病とそれによる死亡は公務との関連性を有することを要する。換言すれば、右傷病とそれによる死亡は、公務遂行に起因するものであることを要し、たまたま公務就任(在職)中にかかつた傷病とそれによる死亡のように公務と無関係なものは、これに含まれないものというべきである。しかし右傷病とそれによる死亡が、公務遂行のみを唯一の原因とする必要はなく、他の原因と競合するものであつても、公務遂行がその実質的原因をなしている以上、その傷病とそれによる死亡を、同条項に規定する「公務上」の傷病とそれによる死亡に該当するものと解してさまたげないものというべきである。

(2)  訴外亡西村富士馬の死亡原因等について

成立に争いのない甲第三九号証、証人山中重義の証言および原告本人尋問の結果を総合すると、右訴外人は、本件出征時まで、神戸市の外人商業会議所に勤務し、専ら貿易通信文の飜釈に従事していた健康で真面目な男子であつたこと、飲酒癖はなく、むしろ所謂甘党といわれる者であつたことが認められ、右認定を覆えすに足りる証拠はない。

ところで原告本人尋問の結果により成立の認められる甲第三二ないし第三五号証の各一、二、同第三六号証の一ないし三(但し、右各号証のうち検閲済、航空、航空郵便のゴム印及び消印の部分は成立に争いがない)、成立に争いのない同第一一号証の五、六、証人西村恒士の証言および原告本人尋問の結果を総合すると、右訴外人は、前記召集を受けて後、昭和一三年七月五日大阪港を出発、同月一〇日大連上陸、同日大連出発、翌一一日関東州界通過、翌一二日錦県着、同地駐屯、同年八月一五日張鼓峯事件の為錦県発、同月二四日間島省龍井着、同地駐屯、同年九月二三日第二一軍戦斗席列に入る為龍井出発、同月二五日関東州界通過同日大連着、同年一〇月一日大連港出発、同月一二日白耶士湾上陸、同地附近の戦斗に参加同月一二日から同月二八日まで追撃戦斗に参加、同月二九日から同年一一月三日に亘り、師団の広州市附近への集結掩護の為、鶴辺附近に於て警備勤務、同月三日広州市着、同日から広州市附近警備勤務、同年一二月二七日から広州市内警備隊勤務、昭和一四年一月二〇日から広州市北郊警備勤務に従事したこと、昭和一三年一一月広州市附近警備中、西山部隊本部経理室の経理事務を担当していたこと、同年一二月八日同部隊の炊事係兼務となり多忙であつたこと、その後経理検査のため多忙の時期があつたこと、(徹夜の続いたことも推認される)昭和一四年三月一四日西山部隊本部付となつたこと、昭和一四年五月三日発病しその後二ケ月余で死亡したことが認められ、右認容を覆えすに足りる証拠はない。

ところで召集を受け軍隊に編入され気候風土の異なつた外国地において戦斗ないし警備に従事する場合、原則として応召者の全生活が軍事的行動のために拘束され、応召者の心身に非常な緊張と労働が伴ない、従つて応召者は特殊な環境に置かれているものというべく、そのような環境状態において疾病にかかつた場合には、その疾病が明らかに公務との関連性を有しないものでない限り、その疾病は、公務遂行に起因し、従つて公務上疾病にかかつたものと推認されるべきである。

前示甲第一一号証の六(軍隊手帳の一部)および成立に争いのない乙第九号証(死亡診断書)には、右訴外人の病名として、肝臓硬変症兼両側湿性胸膜炎と記載されていることが認められ、証人井上義弘の証言によつて成立の認められる乙第六号証(但し後記採用しない部分を除く)および証人井上義弘の証言によれば、旧軍隊において、病名が二以上あるときは、一般に公務による病名を先にし、非公務による病名を後に称する慣例であつたこと、当時、肝臓硬変症は公務上の疾病とする取扱いがされていなかつたことが認められる。

しかし右乙第六号証、証人井上義弘、同山中重義の各証言によれば一般に肝臓硬変症の発病原因は明らかでなく、アルコール飲料の長期間の常習的摂取による場合が最も多く、その他ビールスによる肝炎の漫性化した場合、蛋白質、ビタミンの不足が長期間継続した場合もその原因となることもあつて、原因は一元的ではないこと、肝臓硬変症の発病から死亡までの期間は三年ないし五、六年であることが多いことが認められること、前示のとおり右訴外人に飲酒癖がなく右訴外人が本件応召後仮に飲酒したとしても、前示のとおり期間はわずか一年程であること、右訴外人の前示のとおりの真面目な生活態度、健康状態に照らすと、前示死亡診断書に記載の肝臓硬変症という病名に奇異を感ずること、成立に争いのない甲第二号証によれば右訴外人の留守家族宛の病気通知の昭和一四年六月(日は明確でない)付電報には「胸膜炎兼腹膜炎にて病重し」と記載されていることが認められること、証人井上義弘、同中山重義の各証言によれば右腹膜炎が結核性の場合のあること、従つて訴外人が結核性疾患にかかつたとの推測も不可能ではないことに鑑みると右肝臓硬変症との病名に誤りがなかつたとは断定しえず、前示乙第六号証の鑑定内容のうち右訴外人の死亡原因推定の部分は容易に採用することはできない。

被告は公務上の死亡の場合、事実証明書が作成されるのに本件にあつてはそれが存在しないことおよび原告が公務扶助料受給の裁決を得ていない点からも右訴外人の死亡が公務上の死亡ではないことを意味すると主張する。しかし成立に争いのない甲第一三号証および原告本人尋問の結果によれば、原告は昭和一五年七月二五日公務扶助料受給の申請をなしたこと、昭和一七年九月一〇日付で中部六八部隊に照会されたこと、その後右申請書類の所在が不明となつたので昭和二〇年五月三日再申請のなされたことおよび右申請に対する裁決のなされないうちに終戦となつたことが認められる。すると右裁決のなかつたことから直ちに右訴外人の死亡が公務死でなかつたと推定することは相当ではない。

事実証明書のないことについては、その事情は必ずしも明らかではないし、又当時の担当官が肝臓硬変症という病名に基き、形式的に公務上の死亡ではないと判断しやすいことが推測される。しかし、そのような判断そのものが前示のとおり問題なのであるから、右事実証明書の不存在をもつて、右訴外人の死亡を公務上の死亡ではないと断定することは困難である。

三、以上の点を考え併せると、右訴外人が真実如何なる病名の疾病により死亡したか明らかでないとしても、右訴外人が公務外の疾病により死亡したことは明らかではなく、従つて前記説示のとおり、右訴外人は公務遂行に起因する疾病によつて死亡したものと認めるを相当とする。

すると右認定に反する被告の事実認定は誤まつているものというべく、従つて被告の昭和三〇年四月一五日なした原告の遺族年金受給申請を却下した処分は違法であり取消されるべきである。

よつて原告の本訴請求は正当であるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 村上喜夫 宮地英雄 小林茂雄)

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