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神戸地方裁判所 平成7年(行ウ)11号 判決 1999年9月30日

主文

1  被告が、別紙1記載の原告らに対してした各処分を、いずれも取り消す。

2  原告X8及び同X9のその余の訴えを、いずれも却下する。

3  原告X2のその余の請求及び原告X1の請求を、いずれも棄却する。

4  訴訟費用は、原告X1に生じた費用及び被告に生じた費用の10分の1を原告X1の負担とし、原告X2に生じた費用の2分の1及び被告に生じた費用の10分の1を原告X2の負担とし、その余を被告の負担とする。

事実及び理由

第四 争点に対する判断

一  別紙2記載の各処分について

〔証拠略〕によれば、原告X8及び同X9に対する別紙2記載の各処分は、いずれも芦屋市長が行ったものであることが認められるから、処分者ではない被告を相手方としてその取消しを求める本訴請求が不適法であることは明らかである。

二  甲請求争点1(本件転任処分の不利益性)について

1  被告は、転任処分は任命権者の裁量によって自由に行い得るものであるから、不服申立の対象となる行政処分とはいえず、また、甲請求原告らに対して何らの不利益も伴わないから、甲請求原告らには本件転任処分の取消しを求める法律上の利益がないと主張する。

この点、不服申立ての対象となる不利益な処分とは、当該処分によって、公務員の身分、俸給に具体的な不利益を生ぜしめ、勤務場所、勤務内容において何らかの不利益を伴うものでなければならないと解される(最高裁判所昭和61年10月23日第一小法廷判決参照)。

(一)  これを本件についてみるに、〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(1) 原告X3の職名は、本件転任処分(X3)により、教諭から地教行法19条の指導主事に変更された。

(2) 原告X3を除く甲請求原告らの職名は、いずれも本件転任処分により教諭から指導員に変更しているところ、指導員は、職名規則4条で規定された職名の一つであり、公職名は事務吏員である(同規則別表)。

昭和55年4月1日、職名規則の改正によって、指導員が新設されたが、右規則の改正にあたっては、昭和55年3月28日の臨時教育委員会で議論され、その中で、当時の芝田教育長は、指導主事職で基準に満たないので指導員とした旨述べている。

職務権限規則2条には、「教育長、部長、課長(主幹を含む。以下「課長」という。)及び係長(主査を含む。以下「係長」という。)の各組織単位別の権限事項については別表のとおりである。」と規定されており、係長以上の職にある者が、教育委員会の職務について権限を有するものとされており、また、事務分掌規則3条第6項において、「部長、参事、次長、課長、主幹、課長補佐、係長及び主査の職には、主事、技師、管理主事、指導主事、社会教育主事及び学芸員を充てる。」と規定されており、これに指導員は含まれていない。

芦屋市において、教員として採用され、教諭として学校教育に従事した者に対する指導員への転任処分は、昭和62年度転任処分、本件転任処分(X2)及び分会組合員であるB教諭に対する昭和63年度の芦屋市谷崎潤一郎記念館への転任処分のみである。

(3) 給与に関する条例19条の2には、芦屋市立学校に勤務する教諭のうち職務の級が教育職給料表(一)または教育職給料表(二)の1級または2級である者には、その給料月額の100分の4に相当する額の教職調整額が支給されると定められており、同条例19条の3には、芦屋市立学校(幼稚園を除く)に勤務する教職員には、義務教育等教員特別手当が支給されると定められている。

本件転任処分以前は甲請求原告らに対しこれらの手当等が支給されていたが、本件転任処分以後、原告X7、同X3及び同X9については市芦高に復帰するまでの間、その他の甲請求原告らは現在に至るまで、右の手当等は支給されていない。

(二)  右認定のとおり、本件転任処分により甲請求原告らの給与が右手当等の不支給のため減少していること、高等学校の教諭が、免許資格を要し、学校教育に関する専門的な知識、経験を必要とする教育職員であるのに対して、本件転任処分は、これと業務内容を異にする事務職員への転任であること、原告X3を除く甲請求原告らは指導員として転任処分を受けているところ、芦屋市において、前記(一)(2)の場合以外に教諭として学校教育に従事してきた教員が指導員へ転任した例はなく、指導員は、指導主事と異なり係長以上の職に就くことができない職であることを総合すると、本件転任処分は、甲請求原告らの身分ないし俸給に具体的な不利益を生ぜしめるものであり、不服申立の対象となる不利益な処分であるというべきである。

三  甲請求争点2(市芦高への復帰後の本件訴えの利益)について

前記第二の一3(三)のとおり、原告X7は平成8年4月1日付けの、原告X3及び同X9は平成11年4月1日付けの転任処分により市芦高に復帰したのであるが、本件転任処分が取り消されない限り、甲請求原告らが本件転任処分後市芦高への復帰までの間に有するはずであった教職調整額等の給料請求権その他の権利、利益につき裁判所に救済を求めることができなくなるのであるから、本件転任処分の効力を排除する判決を求めることは右の権利、利益を回復するために必要な手段と認められるのであって、市芦高への復帰によってもなお右原告らの本件転任処分の取消しを求める訴えの利益は失われないものと解するのが相当である。

四  争点3(本件転任処分にあたっての甲請求原告らの同意の要否)について

甲請求原告らは、教員に対する特別の身分保障の観点から、教員から事務職員への転任に当たっては当該教員の同意を要し、また本件転任処分は実質的に降任処分であるから、甲請求原告らの同意を得ていない本件転任処分は違法である旨主張するので、この点について判断する。

1  教員の事務職員への転任について

(一)  前記のとおり、指導主事は地教行法19条に規定された職名の一つで、教育委員会の事務局において、学校教育に関する専門的事項の指導に関する事務に従事する者である。指導員は、職名規則4条において規定された職名の一つであり、公職名は事務吏員で、地教行法31条第2項の事務職員に該当する。

(二)  地教行法35条、31条によれば、学校及びその他の教育機関の職員の身分取扱いに関する事項については、地公法の定めるところによるとされ、同法17条第1項において、その職員の任命方法として、採用、昇任、降任及び転任のいずれか一つの方法によることが規定されている。

本件転任処分は同条の転任として行われたものであると認められるところ、転任は人事権の行使の一態様として任命権者がその裁量権に基づいて行うものであり、職員の転任について当該職員の同意を必要とする旨の規定は存しないのであるから、転任について当該職員の同意を要すると解することはできない。

甲請求原告らは、教員には憲法23条に基づき教育基本法等の法律上特別の身分保障がされており、本件転任処分は教育職から行政職への身分の変動を伴うのであるから、当該公務員の同意を得ることが必要である旨主張するが、甲請求原告らのような高等学校の教員については、教育基本法6条第2項、10条第2項のように抽象的に身分の尊重を謳った規定はあるものの、教特法5条第1項にみられるような具体的な身分保障規定が存在しないことに照らすと、これらの法律(教育基本法6条第2項、10条第2項等)をもって、転任に際して当該教員の同意を必要とする法的根拠であると解することはできない。

2  指導員への転任処分が実質的に降任処分であるとの主張について

地公法27条第2項にいう「降任」とは、職員を法令、条例、規則その他の規程により、公の名称が与えられている職員の職で、その現に有するものより下位のものに任命する処分をいい、その判断は、職階制が完全に実施されていない現状においては、給料表上の職務の等級を基本としつつ、職制上の上下について、法令その他の規定における組織上の位置付け等を考慮して行うのが相当である。

前記のとおり、甲請求原告らには本件転任処分後も教育職の給料表が適用されており、教諭と指導員、又は指導主事と指導員の間に法令上の上命下服の関係があるとは認められないことからすると、指導員が指導主事と異なり係長以上の職に就くことができず、教員における免許資格のような特別な資格を要しないことを勘案してもなお、教諭と指導員との間に職制上の上下関係があるものと断ずることはできず、本件転任処分が実質的に降任処分に該当すると速断することはできない。

3  人事異動の際の労使慣行について

〔証拠略〕によれば、被告は、昭和60年度までは毎年10月ころ書面による異動希望調査を行っていたが、昭和61年度以降はこれを行っていないことが認められる。

しかし、前記のとおり、教員の転任処分についで被処分者の同意を得ることは必ずしも必要ではないのであるから、被告が書面による異動希望調査を行っていないからといって違法であるとはいえず、また、被告が例年異動希望調査を行っていたとしても、それが労使双方の、「転任処分に当たって異動希望調査を実施しなければならない」旨の規範意識に支えられるに至っていると認められるほどの労使慣行が成立していたとまで認めることはできず、他に原告の主張する労使慣行の存在を窺わせる事情はない。

4  よって、甲請求原告らの同意がないことをもって本件転任処分が違法である旨の原告の主張は採用することができない。

五  本件転任処分(X3)について

1  前記のとおり、転任は、任命権者の人事権の行使の一態様であり、地公法上、転任については具体的な要件は規定されていないから、任命権者である被告市教委は、教育効果の向上という教育行政上の目的を達成するために、職員をその管理下にある教育機関に適切に配置すべく、職員の転任について広範な裁量権を有するというべきである。

しかしながら、右の裁量権は無制限なものではなく、当該転任処分に合理的な必要性がなく、他の不当な目的から出たものであることが明らかであるなど、社会通念上著しく妥当性を欠くもので、その裁量権を逸脱ないし濫用したと認められる場合には違法、無効となると解するのが相当である。とりわけ教員については、教育基本法6条においてその身分の尊重が定められていることに照らし、他の職種への転任の必要性・合理性についてはこれを慎重に判断する必要があると解すべきである。

そこで、本件転任処分(X3)の必要性、合理性について検討する。

2  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  昭和61年度の市芦高の教員数について

昭和60年10月、行革大綱が作成された。右大綱にはいくつかの改革事項が掲げられており、定員管理の適正化という項目について、「今後職員数は、事務事業の内容に照らして、見直すべき部門については見直し、減員または充実を図り、全体として類似都市の職員数と本市独自の施策に必要な人員を考慮し、適正化を図る。」との記載があった。

また、被告の昭和61年度の異動方針には、配置換えの基準として「現任校の勤続年数が3年以上の者については、原則として異動の対象とする。なお、新採用以来ひきつづき現任校勤務が10年以上の者については、特に配慮する。」と記載され、市外人事交流として、「本人の希望及び他市町の実情等を勘案し、市外との人事交流に努める。交流は1対1を原則とする。」と記載されている。

小林管理部長は、昭和61年2月及び3月の2回、前田校長から人事についてのヒアリングを行い、この時、教員の定員配置の適正化について話し合いがなされた。

市芦高では、昭和60年度は14クラスであったのが、昭和61年度には13クラスと1クラス減少した。これに伴い、定数標準法の定員を基準とすると、教員数に2名の過員が生ずることとなった。

昭和61年4月、社会科教員のC教諭が県立高校へ転出して、兵庫県の採用試験に合格した社会科教員のD教諭が新規採用されたほか、E教諭、F教諭及びG助教諭が県立高校へ転出し、H、Iの各教諭が転入した。

(二)  六三総体について

芦屋市は、昭和60年秋ころ、六三総体においてヨット競技を受け持つこととなり、その運営については被告指導部が所管することとなった。

被告は、昭和61年4月に原田指導部学校教育課主査を社会教育部主幹兼務指導部主幹として、同年6月には同年3月に小学校校長を退職した竹村某を嘱託職員として六三総体の準備業務に配置した。

同年8月に芦屋市準備委員会が発足し、準備委員会業務推進計画及び準備委員会事務局規程(以下「事務局規程」という。)がまとめられ、被告指導部の吉谷指導部長が事務局長に就任した。

(三)同年9月上旬ころ、小林管理部長は、前田校長からのヒアリングを行った。この時は、学校運営全般及び教員の授業の持ち時間数といった一般的な事項についての意見聴取があっただけで、六三総体へ市芦高の教員を移動させるといった本件転任処分(X3)に関する具体的な話題には至っていない。

被告は、本件転任処分(X3)の1週間ほど前、原告X3を芦屋市準備委員会に異動させる方針を決定した。

溝田課長は、昭和61年9月30日の夕刻、前田校長の自宅に電話して、人事異動に関する件で翌日の午前8時30分に芦屋市教育委員会に来るよう連絡した。

前田校長は、同年10月1日午前8時30分頃、芦屋市教育委員会において被告から本件転任処分(X3)について通知を受けた。

原告X3は、同日午前10時前頃、市芦高校長室で前田校長から本件転任処分(X3)について通知を受け、同日16時、芦屋市教育委員会に赴き、小林管理部長らから右処分についての説明を受けた。

原告X3は、同月8日から芦屋市準備委員会に赴任した。

(四)  転任先での原告X3の業務について

芦屋市準備委員会での原告X3の職務は連絡調整係で、宿泊衛生及び輸送警備部門を分掌していた。

芦屋市準備委員会では、昭和61年12月3日に第1回常任委員会を行っており、このとき議案として提出された年次別業務推進計画によれば、昭和61年度の連絡調整係の業務としては、宿泊に関する業務が予定されており、そのうち同年度中に原告X3が行ったのは、宿泊施設の実態調査及び関係機関・団体との連絡調整で、具体的には30か所の宿泊施設への兵庫県から送られてきた調査表の郵送、右調査表の回答の集約及び検討、旅行社の係員への宿泊施設探しの依頼及び宿泊施設への依頼訪問等であった。

3  市芦高の昭和61年度における過員解消の必要性について

右の事実によれば、市芦高では、昭和61年4月の時点で、定数標準法上学級数の減少及び教員の異動に伴い1名の過員が生じており、昭和61年2月及び同年3月のヒアリングにおいて被告が過員解消の必要性をある程度認識していたことが認められる。

しかし、年度途中の教員の転任処分は、教員の急病等やむを得ない場合を除いて異例であるところ(〔証拠略〕)、右過員解消の必要性がなかったとはいえないにしても、同年度に社会科教員としてD教諭を新規採用していることからすると、D教諭と同じ社会科教員である原告X3を転出させなければならないほどの必要性があったとは認め難い。この点、被告は、D教諭を採用したのは県立高校との県市交流のためであったと主張するが、県立高校の採用試験合格者を市芦高において新規採用をすることの必要性が過員解消のそれを上回る程度のものであったとは認め難く、結局のところ、昭和61年度において、年度途中で教員を転任させなければならないほどの必要性があったと認めることはできない。

4  芦屋市準備委員会の昭和61年度における増員の必要性について

被告は、六三総体の業務量の増大と事務局体制の充実、主に宿泊施設の確保のため、昭和62年4月の移動を待っていたのでは間に合わないほど増員の必要性があった旨主張する。

この点、前記のとおり、昭和61年度の芦屋市準備委員会における原告X3の主な業務は六三総体関係者の宿泊施設の確保であり、原告X3は、右業務に格別の困難はなかった旨供述する(〔証拠略〕)。

〔証拠略〕によれば、芦屋市の宿泊予定者数は555名で、西宮市の1875名、伊丹市の703名、尼崎市の856名等と比べて県下で最少の人数であったのに対し、昭和61年度の六三総体の準備委員会の職員数は、芦屋市が3名、西宮市が2名、伊丹市及び尼崎市が3名であったことが認められ、加えて、本件転任処分(X3)当時は、六三総体の開催される昭和63年8月までには未だ1年半以上の期間があった上、芦屋市準備委員会全体としても、昭和61年度において特に多くの業務を行っていたとは認めがたいことなどからすれば、右業務に格別の困難はなかった旨の原告X3の供述は信用できるというべきである。

もっとも、被告は、参加選手数から芦屋市準備委員会に必要な人員を算出するのは合理性を欠く旨主張するが、少なくとも宿泊施設の確保において、参加者の人数の多寡が業務の繁閑の大きな要素となることは見易い道理である。なお、夏の全国高校野球選手権大会と六三総体の時期が重なることについては、むしろ甲子園球場の所在地である西宮市の方が影響が大きいと考えられるから、芦屋市が西宮市との対比においてさらに芦屋市準備委員会の人員を強化しなければならない合理的理由を見出すことはできない。

以上によれば、事業の準備についてどの程度の人員を要するかの判断は、原則として当該事業の責任者の裁量によるものであるにしても、少なくとも昭和61年10月の時点で、芦屋市準備委員会に、従前の2名の職員に加えて、高等学校の教員をしかも年度途中に転任してまで専任の事務職員として配置するほどの差し迫った必要性があったとは認め難い。

5  人員選択の合理性について

被告は、教職経験が豊富で、阪神間高等学校等の事情に通じており、宿泊施設確保のための折衝に必要な企画・折衝能力を有しているという観点から原告X3を選択したと主張する。しかしながら被告が選択理由として挙げる右事由は、いずれも一般的、抽象的な知識、能力や経験をいうのみで、具体的内容を明らかにするものではなく、説得力に乏しいのみならず、六三総体という体育事業の事務において、なにゆえ行政経験のある一般職員又は体育科の教職員でなく、社会科の教諭である原告X3が適任であるのかという点について、これを合理的に説明することができない。

6  以上によれば、社会科教員である原告X3を、年度途中という異例の時期に芦屋市準備委員会に転任する本件転任処分(X3)は、その必要性・合理性を欠くもので、相当でないといわざるを得ない。

六  昭和62年度転任処分について

1  〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

昭和61年3月当時の市芦高の教員数は、休職者1名を除き、助教諭3名を含めて41名であったところ、被告は、昭和61年夏ころから定数条例の改正を検討し、同年12月、市芦高の適正教員数を32名と算出して、昭和62年1月下旬ころ、芦屋市の市長部局と右事項について協議した。

芦屋市の市長部局は、同年2月ころ、市芦高の教員数を32名とする内容の定数条例の改正について議案を作成し、同月下旬に芦屋市議会本会議に上程した。右議案は、同年3月20日、芦屋市議会本会議において可決成立した。

2  右認定の経緯によれば、市芦高においては、定数条例の改正に伴い定数外の過員を生じ、これを解消する必要があったことが認められる。

なお、甲請求原告らは、定数条例の改正は、被告が右原告ら分会組合員を市芦高から排除する目的で押し進めた旨主張するが、本件全証拠によってもこれを認めるに足りる証拠はなく、右主張は採用できない。

3  しかし、前記のとおり、教員の他の職種への転任の必要性・合理性の有無については慎重に判断する必要があることから、以下、右の過員解消の必要性を前提として、さらに本件転任処分の必要性・合理性について、各原告ごとに検討する。

七  本件転任処分(X4)について

1  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告X4は、昭和50年に市芦高に英語科教諭として赴任し、昭和55年4月から1年間被告事務局に指導主事として転出し、昭和56年から本件転任処分(X4)まで再び市芦高で勤務し、昭和61年度には第3学年の学級担任をしていた。

(二)  昭和62年4月の英語科教員(時間講師を除く)は、同年5月1日に休職中であったJ教諭が復職するまで、K教諭、L教諭、臨時的任用職員であるM助教諭及びN助教諭の4名で、N助教諭は、昭和61年度途中から、休職中のJ教諭同教諭に代わって授業を行ういわゆる裏付け教員として勤務していたが、同教諭の復職後も勤務を続けた。

なお、分会は、昭和62年度転任処分以前、助教諭等の臨時的任用職員について、任用期限の到来によっても雇止めとしないことを要請していた。

(三)  被告は、昭和61年まで芦屋市打出小槌町に図書館を有していたが、これに代わって、昭和62年3月末ころ芦屋市伊勢町に市立図書館を新築し、昭和62年7月8日に開館する予定で準備を進めていた。

市立図書館での原告X4の職務内容は、昭和62年7月の市立図書館開館までは引越作業及び蔵書の整理で、開館後は利用者登録及び成人奉仕(成人用図書の担当)である。具体的には、カウンターでの新規利用者の登録及び司書が開架室から持ち出した成人用図書を週に1度書庫に入れる業務で、このほかに原告X4は、図書の貸出、返却、在庫本の問い合わせ等のカウンター業務を行った。なお、購入図書については、主に司書資格を有する職員が選定し、発注していた。

2  被告は、原告X4を選任したのは、教職経験を活かして購入図書の選定、読書相談及び読書指導等の業務の充実を図るためであった旨主張し、小林管理部長も同様の供述をする(〔証拠略〕)。

しかし、このうち購入図書の選定については、前記認定のとおり司書有資格者が主に行っており、また、読書相談及び読書指導については、市立図書館の事務分掌に項目が設けられておらず、原告X4みならず、他の職員においてもこれを行っていたことを窺わせる証拠はない。

そして、前記認定のとおり、原告X4の従事していた業務は、同人の教職員としての経験を活かすものとはいい難く、同人を市立図書館に転任させる必要性があるとはいえない。

また、本件転任処分(X4)当時、原告X4市芦高での在職期間が通算11年間であったことを考慮しても、臨時的任用職員であるN助教諭でなく原告X4を処分の対象に選択したことにつき合理的理由を見出すことができない。

したがって、本件転任処分(X4)は、その必要性・合理性に乏しいものということができる。

八  本件転任処分(X5)について

1  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告X5は、大学在学中に博物館学芸員資格を取得し、昭和45年に大学を卒業した後、昭和48年4月に被告に採用されて市芦高に社会科教員として赴任し、昭和55年4月に文化財係に指導主事として1年間赴任し、昭和56年4月から本件転任処分(X5)まで再び市芦高で勤務していた。

(二)  市芦高の昭和62年4月の社会科の教員数は6名であったのに対し、本件転任処分(X5)及び昭和62年度転任処分により、教諭3名、時間講師2ないし3名及び井上教頭の構成となった。

市芦高の昭和61年度当初の社会科の1週間当たりの総時間数は77時間であったのに対し、昭和62年度には選択科目制の導入による選択科目の増加等に伴い、83時間に増加した。

右の83時間の割振りは、昭和62年4月以降数回の変更があり、2ないし3名の時間講師並びに井上教頭の持ち時間数の合計が30時間で、そのうち、井上教頭が4時間ないし7時間の授業を担当して運営されていた。

なお、市芦高の社会科教員により構成される社会科教科会議は、昭和62年3月6日ころ、選択科目制の導入による選択科目の増加に伴い、社会科教員の負担が増加する旨の予想を前田校長に通知していた。

(三)  兵庫県においては、遺跡等の発掘調査の際は、兵庫県の文化財課により発掘担当者の資格が審査され調査担当者を登録している。

芦屋市職員労働組合は、昭和60年ころ、被告に対し文化財係の職員の増員を要求した。

芦屋市では、本件転任処分(X5)当時発掘調査の件数が増加しており、昭和61年10月には、埋蔵文化財を発掘する専門職員でない職員が、国及び兵庫県に届け出ることなく遺跡の発掘調査を担当したことが相当でないとして、被告が県教委及び文化庁から指導を受けたことが新聞に報道された。

(四)  文化財係の昭和62年度の事務分担表によれば、原告X5の事務分担のうち、主務者とされているのは緊急開発に関する国庫補助の予算に関する書類の作成、遺跡について年に数回業者への草刈りの委託等を行う環境整備、市史等書籍販売事務、文化財資料等の寄贈があった場合の書類作成、予算執行等の庶務等で、補助的な業務としては、発掘調査、出土遺物整理等、文化財係の事務分担として規定されている業務の大半が含まれていたが、発掘調査及び出土遺物の整理については、主に発掘調査担当者であるAが行っていた。

2  右事実によれば、本件転任処分(X5)当時、文化財係において、発掘調査業務の増大により人員の増員の必要があったことが認められるところ、文化財係の業務は発掘調査に限られるわけではなく、原告X4が発掘調査の補助的業務を行うことも可能だったのであり、また、本件転任処分(X5)当時は発掘調査の担当者の資格についての基準が明確に定められておらず(〔証拠略〕)、文化財係においては、発掘調査担当の専門職員の育成を予定していたのであって(〔証拠略〕)、博物館学芸員資格を有する原告X5には文化財の発掘、調査に関する一定の素養があることが窺われることからすると、原告X5を選択したことはそれなりに理由があるかの如くである。

しかしながら、増員の対象としては、発掘調査の専門的技能を有する職員が望ましく、博物館学芸員有資格者が直ちに発掘調査担当職員となれるわけではない上、原告X5が従事していた業務は教育職員としての経験が活かされるものとはいえない。

他方、市芦高において昭和62年度に社会科の教員を減員する合理的理由を見出すことはできないし、同校教員らは本件転任処分(X5)に先立って前田校長に対し右の点を指摘していたのである。

以上によれば、本件転任処分(X5)についても合理性があるとはいえない。

九  本件転任処分(X6)について

1  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告X6は、昭和51年1月5日に被告に採用され、助教諭として市芦高に赴任し、同年4月1日付けで同校教諭となって、本件転任処分(X6)まで社会科教員として勤務し、昭和61年度は第3学年の学級担任をしていた。また、同人は、障害児の生徒が1名いるクラスの学級担任を3年間担当した経験があった。

(二)  昭和63年3月28日、原告X6宛に、同日付けの前田校長名義の本件転任処分(X6)の内示が郵送され、昭和63年4月1日、本件転任処分(X6)が行われた。

(三)  みどり学級は、乳幼児部(3歳以下)、幼稚部、小学部、中学部及び成人部(15歳以上)から構成される肢体不自由者の教育訓練施設で、このうち乳幼児部及び成人部は被告事務局学校教育課に所属している。

みどり学級の運営は、芦屋市立みどり学級運営要綱に基づき、みどり学級運営委員会が行っている。

みどり学級運営委員会は、昭和60年7月26日付けで、「障害乳幼児担当職員の配置について」と題する書面を被告に提出した。右書面には、障害乳幼児の訓練の充実のため、みどり学級に乳幼児担当者を正職員として配置するなどの施策の提言が記載されている。

(四)  原告X6は、みどり学級において当初2年間乳幼児を担当し、機能訓練、食事介護、学級生の送迎等をするほか、父兄への連絡、配膳整理等を行った。昭和62年当時、みどり学級の乳幼児部に在籍していた乳幼児は、いずれも先天性小頭症等に罹患して重度脳障害を有しており、機能回復訓練としては、腹這いをするときの動きを繰り返すなどのパターニングを中心とするドーマン法が実施された。

(五)  被告は、平成4年4月1日付けで、原告X6に対し芦屋市民センターへの配置換えを行った。なお、みどり学級では、同日付けで理学療法士を1名採用している。

2  右認定のみどり学級運営委員会の提言によれば、みどり学級に正規職員を配置することの必要性は、これを認めることができる。

しかしながら、〔証拠略〕によれば、右提言は、主に乳幼児担当の機能回復訓練の充実のためのものであるから、その要求する正規職員は理学療法士等の専門職員であったと認められ、原告の担当が、重症心身障害児という高度の障害を有する乳幼児であるのに対し、原告X6は社会科教員であり、このような障害児の機能回復訓練の知識・経験はなく、他方、前記八1(二)のとおり、市芦高では、社会科の教員が減少したことにより、新たに時間講師3名の採用を余儀なくされていることからすると、原告X6をみどり学級へ転任させる合理性に乏しいものといわざるを得ない。

なお、原告X6は、みどり学級について、設置条例がない、あるいは原告X6に対して肢体不自由児の訓練等を命じる根拠がないなどとして本件転任処分(X6)の違法性を主張するが右主張は、〔証拠略〕に照らして採用できない。

一〇  本件転任処分(X7)について

1  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告X7は、昭和49年に大学を卒業し、1年間私立高校に勤務した後、昭和50年5月26日付けで被告に採用され、市芦高に赴任した。市芦高では保健体育科を担当し、昭和61年度は第3学年の学級担任をしていた。

(二)  本件出張命令の目的は、六三総体の関係事務を中心とした兵庫県体育保健行政事務の実務を学び、今後の芦屋市における能率的な行政運営の参考にするというものであった。

本件出張命令においては、出張先の所属長の指示、命令に従い、勤務時間及び休暇等は出張先の諸規定に従うこととされており、昭和62年当時の芦屋市の勤務時間は1週間当たり42時間であったのに対し、兵庫県の勤務時間は1週間当たり44時間で、出張中、原告X7は兵庫県の勤務時間に従い1週間当たり44時間の勤務をしたが、これに対する時間外手当は受領していない。また、芦屋市の取得可能な年次有給休暇の日数は年間21日であったのに対し、兵庫県においては年間20日であった。

(三)  原告X7は、昭和62年4月1日、小林管理部長から本件転任処分(X7)の辞令を交付され、県教委でのあいさつを終えた後、被告の指示により、転任先である被告事務局指導部学校課に立ち寄ることなく、同月2日から県教委に出勤した。

県教委事務局体育保健課の担当者は、原告X7に対し、兵庫県高体連の仕事をしてもらう旨告げ、その内容として兵庫県高体連役員の旅費計算、兵庫県高体連の金銭の出し入れ、会議室の予約について説明し、詳細は臨時職員のOから引き継ぐよう指示した。原告X7が本件出張中に行った業務は、右の他に学校施設の開放事業を行っている学校から利用人数の連絡を受け、これを集計するというものであった。

兵庫県高体連は、兵庫県下の高等学校の体育を振興して、生徒の体力向上を図り、スポーツ精神をかん養することを目的とする団体で、その事務局は県教委事務局体育保健課内に設置されていた。

兵庫県高体連は、兵庫県第二庁舎10階内の県教委体育保健課の部屋の4平方メートルを年間3万3177円で借用し、ここに原告X7の使用する机が配置された。

他方、実行委員会事務局は、兵庫県警察本部別館3階にあり、県教委体育保健課とは別の場所であった。また、原告X7は、実行委員会事務局のいずれの委員会にも属さず、その会議等にも出席したことはない。

兵庫県高体連では、本件出張命令以前は臨時職員を雇用してその給与を支給していたが、本件出張期間中は臨時職員を雇用しておらず、原告X7の本件出張命令の期間満了後、再びこれを雇用している。

本件出張について、被告が原告X7に対し途中報告又は終了後の復命を求めたことはない。

(四)  原告X7は、昭和63年4月1日、被告事務局社会教育部体育係へ配置換えの上、体育館青少年センターに勤務し、他の職員とともに芦屋市民体育祭等の行事の運営等に従事した。同センターの職員のうち、指導員は原告X7のみで、他の職員はいずれも指導主事であった。

(五)  原告X7は、本件転任処分(X7)当時、5歳と1歳10か月の2人の子を西宮市の保育所に送迎しており、同保育所の閉所時間は18時であった。本件出張命令後は、知人に右の子らを保育所に迎えに行って預かってもらい、勤務終了後、右知人宅に子らを迎えに行っていた。

2  右事実によれば、原告X7は、兵庫県高体連の事務を主に行っており、実行委員会事務局での業務は行っていないと認められる。

もっとも、被告は、原告X7は六三総体に関する業務を行っていた旨主張し、昭和62年度の兵庫県高体連の予算には、「六三全国高校総体準備費」との費目があるものの(〔証拠略〕)、原告X7は右業務を行っていない旨供述しており、(〔証拠略〕)、他に原告X7が右業務を行っていたことを窺わせる証拠はない。

また、被告は本件出張命令期間中の研修内容について、途中報告又は終了後の復命を求めておらず、〔証拠略〕によれば、原告X7が出張中どのような業務を行っていたかについて被告がこれを掘握していたとも認められないことからすると、研修を目的とする本件出張命令について、被告がその必要性をさほど重視していたとは認め難い。

また、本件出張命令終了後の体育館青少年センターでの業務については、原告X7が体育行事の企画、運営に他の職員とともに従事していることは認められるものの、同センターに原告X7を配置する必要性・合理性の存在については本件証拠上必ずしも明らかでない。

これに、右認定の本件出張命令期間中の原告X7の不利益をも考慮すれば、本件転任処分(X7)は、その必要性・合理性に乏しいものということができる。

なお、原告X7は、本件出張命令は、前例のない長期間にわたるものであること等から違法である旨主張するが、かかる長期間の出張命令が異例であるとしても、これをもって直ちに本件出張命令を違法であると解することはできない。

一一  本件転任処分(X8)及び本件転任処分(X9)について

1  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告X8は、昭和50年に被告に採用されて市芦高に理科教員として赴任し、本件転任処分(X8)まで同校に勤務し、昭和61年度には第3学年の担任をしていた。

原告X9は、高等学校教諭及び小・中学校教諭の免許を有しており、昭和39年に大阪府高槻市立第6中学校の美術科教員に採用され、10年間同中学校に勤務した後、昭和49年に被告に採用され、本件転任処分(X9)まで市芦高の美術科教員として勤務しており、昭和61年度は第3学年の教務担当をしていた。

(二)  上宮川文化センターは、住民生活の向上、同和問題の解決及び児童の健全な育成を目的として、社会福祉法に基づく隣保事業及び児童福祉法に基づく児童館事業等を行う施設で、同和地区の小・中・高校生の学力補充のため、学促学級が設けられていた。

学促学級は、昭和62年4月当時、芦屋市内の小・中・高等学校の教員が、学校勤務のかたわら同学級で授業を行ういわゆる自由参加方式により運営されており、国語、数学及び英語の授業を実施していた。また、上宮川文化センターでは、学促学級の円滑な運営及び生徒の基礎学力の向上を目的として学促学級のカリキュラム編成等を協議する運営委員会が、1学期間に1回程度行われていた。

なお、原告X8は、市芦高に赴任してから昭和55年までの間、度々学促学級を訪れ、国語、数学及び英語について生徒の質問に答えるなどの指導をしていた。

芦屋市長は、昭和61年9月4日、上宮川文化センター運営審議会に対して学促学級の運営方法を諮問し、同審議会は昭和63年12月28日、芦屋市長に対して中間答申を行い、これによれば、学促学級の今後の在り方として、指導者は専任指導者とすべきである旨答申されており、これを受けて平成元年4月から、学促学級の運営方法が、専任指導者を雇用する専任指導者制に変更された。

(三)  原告X8の上宮川文化センターでの昭和62年度の1年間の勤務時間の割振りは、公立学校の学期期間中は平日12時30分から21時、土曜日16時30分から19時30分、夏休み、冬休み及び春休み期間中は平日8時45分から17時15分で、原告X9については、昭和63年2月8日までは原告X8と同様で、同月9日からは平日11時から19時まで、土曜日13時から16時まで(いずれも休憩時間を含む。)であった。

昭和62年度の同人らの事務分担は、原告X8については教育事業のうち高校生を対象とした学促学級及び夏期学習会、運営委員会への参加等、原告X9については教育事業のうち奨学生を対象とした学促学級及び夏期学習会、運営委員会への参加等であったが、学促学級に関して同人らの行った業務は、教室の開錠・施錠、教室内の整理整頓、生徒の夕食用パンの準備及び教員及び生徒の出席簿の管理等であった。

なお、原告X9は、本件転任処分(X9)前の昭和62年2月ころから度々、甲状腺機能低下症等により療養休暇を取得し、上宮川文化センター赴任後、昭和62年9月13日まで療養休暇を取得し、同月14日から昭和63年1月15日まで病気休職となっている。

(四)  上宮川文化センターでは、平成元年に学促学級の専任指導者方式への移行に伴い、専任指導者として5名の教員が雇用されたが、原告X8及び同X9は選任されなかった。

原告X8及び同X9は、同年度の業務として、教育事業として従前行っていた業務を行うとともに、啓発事業として講演会記録のテープの文書化、その記録集の発行及び地区内の取り壊される家屋をビデオ撮影する地区記録等の業務に従事し、平成2年度からは啓発事業のみを担当した。

(五)  原告X8及び同X9が平成4年4月に転出した後、上宮川文化センターにおいて同人らの後任者の補充はなかった。

2  原告X8及び同X9は、本件転任処分(X8)及び本件転任処分(X9)は、これに際して芦屋市長の発令した併任辞令(〔証拠略〕)が「同和対策部上宮川文化センターに併任する」というもので、職名が記載されていないから違法であると主張するが、右各辞令は被告の発したものではないから、右主張の理由で本件転任処分(X8)及び本件転任処分(X9)を無効とすると解することはできず、右の主張は失当である。

また、原告は、本件転任処分が女性教員を排除する目的で行われたものである旨主張するが、本件転任処分において被告が特に女性教員を排除する意図を有していたと窺わせる事情はなく、結果的に同校の女性教員数が減少したからといって、本件転任処分が違法であると解することはできない。

3  被告は、原告X8及び同X9の転任の目的として、理数系科目の充実のほか、専任指導者制への移行をもふまえた学促学級の充実を図ったと主張する。しかし、原告X8は理科教員で、原告X9は美術科教員であるが、学促学級ではこれらの科目の授業は実施されておらず、その予定があったとも認められない。また、同人らの行っていた業務内容は、原告X8及び同X9の教職経験を活かす業務であるとは言い難く、専任指導者制への移行後も学促学級の専任指導者に選任されていないこと、平成2年度からは事務分担が啓発事業のみに限定されていること、同人らの転出後、上宮川文化センターでは職員の補充が行われていないこと等の事情に鑑みれば、原告X8に学促学級で指導経験があること及び原告X9が小・中学校教諭の免許を有していることを考慮しても、同人らを上宮川文化センターに転任させる必要性・合理性は乏しいということができる。

なお、原告X9は、本件転任処分(X9)のストレスにより健康状態が悪化した旨主張するが、右認定の同人の勤務状況からすると、同人の健康状態の悪化と転任後の業務との間に直接の関連性を認めることはできない。

一二  本件転任処分(X2)について

1  前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  市芦高の教員数及び教科別の教員数

定数条例によると昭和63年度の市芦高の定数は32名で、昭和62年3月当時の市芦高の教諭の人数は29名、臨時的任用職員である助教諭は3名、実習助手は1名であった。

本件転任処分(X2)当時、市芦高の理科教員は、原告X2(41歳)、P教諭(40歳)、Q教諭(39歳)、R教諭(50歳)及びI教諭(31歳)で、このうち市芦高での在職年数が10年を超える者は、原告X2、P教諭及びQ教諭であった。Q教諭は、昭和62年度、英語科のK教諭及び数学科のS教諭とともに、兵庫県立教育研修所の情報処理に関する研修講座に、前田校長の推薦を受け被告を通じて参加しており、県教委から中級教育工学指導員の資格を授与された。

(二)  被告は、昭和63年2月上旬及び同年3月22日、前田校長に対して人事ヒアリングを行った。

その結果、まずR教諭の潮見中学校への転出が決定し、同月22日又は23日ころ、同人に内示された。次に、原告X2及びB教諭の転出並びにT指導主事の転入が決定し、同月28日に他の芦屋市行政職の人事異動とともに発表された。

その後、被告は県教委に対し理科及び数学の教員の採用対象の提示を請求し、U教諭及びV教諭の採用が決定した。

(三)  昭和63年3月29日、原告X2宛に、同年3月28日付けの前田校長名義の本件転任処分(X2)の内示が郵送され、昭和63年4月1日、本件転任処分(X2)が行われた。

(四)  市芦高では、昭和63年4月、原告X2の外、前田校長が被告事務局指導部長に、R教諭(理科)が潮見中学校に、B教諭(国語科)が芦屋市谷崎潤一郎記念館にそれぞれ転出し、T指導主事(社会科)が被告事務局から、V教諭(数学)及びU教諭(理科)が新規採用により、それぞれ転入した。

(五)  教育研究所での業務について

教育研究所は、教育内容に関する各種の研究、調査、資料の収集及び提供並びに各種研修講座等を行う研究所で、平成2年10月からは打出教育文化センターに組織変更した。昭和63年度の教育研究所の職員は3名で、同年度以降の教育研究所の職員で、教諭から転任した者は、原告X2を除きいずれも指導主事であった。

教育研究所は、昭和61年度に教育工学研究部会を研究部門に加え、パソコン2台及びビデオ編集機を導入し、学校教育での有効利用の研究を開始した。

教育研究所の昭和63年度の事務分掌上、原告X2は、教育工学研究部会を担当しており、部会の出欠を確認し、部会開催の案内を郵送した。同部会の運営は、主に被告が報償費を支払って委託した12名の研究員によって行われていた。

(六)  40周年記念誌について

30周年記念誌については被告事務局管理部総務課が刊行を担当しており、40周年記念誌については、同課に加え、教育研究所も刊行に携わった。

原告X2は、昭和63年度、40周年記念誌に関して、同誌の末尾に添付する予定の年表の素案を作成した。

被告事務局管理部総務課及び教育研究所は、40周年記念誌について、平成元年5月1日に記念誌編集小委員会の設置を内定し、その後数回の連絡会議を経て、平成2年9月ころ原稿を集約し、同年12月1日に40周年記念誌を完成した。

40周年記念誌の刊行準備は、被告事務局管理部の昭和63年度の主要施策とされており、昭和63年度及び平成元年度の予定業務とされていたのは、執筆業務委託である。

(七)  右の業務の外に、原告X2は、郵便物の取扱、事務費用の支出等の庶務を行っていた。

2  業務上の必要性について

(一)  右認定のとおり、市芦高では、昭和63年4月当時、定数条例上の定員は32名で、市芦高の教諭が29名、助教諭が3名であるところ、同条例上、教員の定数に臨時的任用職員の助教諭は含まれないのであるから(〔証拠略〕)、市芦高において同条例上の過員は生じておらず、また、R教諭及び原告X2の2名の理科教員が転出し、U教諭が理科教員として転入しており、理科の教員の減員の必要性は、仮にあったとしても1名に限られていたと認められる。

(二)  他方、教育研究所では、昭和61年度から教育工学研究部会を通じて教育工学の研究を進めていたところ、同部会の運営が主に研究員により行われていたとはいえ、教育研究所職員についても教育工学の研究を行うことができる者が望ましく、かかる職員を養成する必要があることは認められる。

また、40周年記念誌は、昭和63年度から刊行作業を開始しており、被告事務局管理部総務課に加え教育研究所も右作業に携わっている以上、右業務を行う職員が必要であったことはいうまでもない。

よって、市芦高において、昭和63年度に理科教員を2名減員する必要性は乏しかったものの、教育研究所職員を増員する必要性はこれを肯認することができる。

3  原告X2の選択理由について

右のとおり、本件転任処分(X2)当時、教育研究所においては教育工学の研究を進めており、教育工学の研究者を養成するため、理科教員である原告X2を選択することには、一応の合理性が認められる。

しかし、転任の際の人員選択については、もとより余人をもって代え難いほどの厳格な合理性までは要求されず、原則として任命権者の相当な裁量によるものであれば足りると解するのが相当であるけれども、原告X2と同様に理科教員で、勤務年数及び年齢についても差異を見出し難いQ教諭は、情報処理に関する県教委の研修を受け、県教委から中級教育工学指導者の資格を授与されており、被告もこれを認識していたはずであるのに対し、原告X2はそのような資格及び経験を有していなかったのであるから、教育工学の研究の必要性の点からは、原告X2よりむしろQ教諭を選択するのが合理的であることは明らかといえる。

4  よって、本件転任処分(X2)は、異動先である教育研究所の増員の必要性は認められるものの、市芦高における異動の必要性及び人員選択の合理性に乏しいものといわざるを得ない。

一三  不当労働行為について

1  〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  原告らの組合活動について

(1) 原告X1について

原告X1は、市芦高赴任後分会に加入し、昭和56年度から昭和61年度まで組合委員長であった。

(2) 原告X2について

原告X2は、市芦高赴任後分会に加入し、昭和48年度から昭和62年度までの15年間に組合役員を歴任し、昭和62年度は組合委員長で、本件転任処分(X2)当時、組合委員長として昭和62年度転任処分の撤回闘争及び被告の教育改革に対する反対運動を行っていた。

(3) 原告X3について

昭和41年度、まだ職員組合のなかった市芦高において、他の教員とともに芦屋市立高等学校教職員組合を結成し、組合書記長に就任し、分会の書記長及び執行委員等を歴任した。

(4) 原告X4について

原告X4は、市芦高赴任後分会に加入し、組合青年部長、執行委員等を歴任し、昭和62年3月には昭和62年度の分会副委員長に選出されたが、本件転任処分(X4)により撤回された。また、昭和60年度には、分会の助教諭問題拡大闘争委員会の一員として、臨時的任用職員の助教諭を正規教員に任用替えすること等を要求していた。

(5) 原告X5について

原告X5は、市芦高赴任後分会に加入し、組合青年部長、組合執行委員、支部執行委員を歴任し、昭和62年3月には、昭和62年度の分会執行委員に選出されたが、本件転任処分(X5)により撤回された。

(6) 原告X6について

原告X6は、市芦高赴任後分会に加入し、昭和54年度及び昭和55年度には組合青年部長を歴任し、昭和62年3月には、分会の会計担当の執行委員に選出されたが、本件転任処分(X6)により撤回された。昭和60年度には校内の予算委員会の一員として、前田校長に対し、同校の予算に使途不明金支出があったなどとして追求した。

(7) 原告X7について

原告X7は、市芦高赴任後分会に加入し、昭和58年度には組合婦人部長を歴任した。

(8) 原告X8について

原告X8は、市芦高赴任後分会に加入し、昭和61年12月からは芦屋地方労働組合協議会事務局次長に就任していた。

(9) 原告X9について

原告X9は、市芦高赴任後分会に加入し、昭和49年に他の女性組合員とともに分会婦人部を結成し、分会の執行委員を歴任し、昭和61年度からは組合婦人部長に就任していた。

(二)  被告は、昭和55年3月、原告X5、同X4及びWの3人の教諭を、被告事務局に指導主事として転任させた。

分会は右転任処分について、進学保障措置を後退させるものであるなどと抗議してその撤回を要求した。

右要求に対し、前田校長は、昭和55年9月6日付けの「昭和55年度強制人事異動に関する確認書」と題する、右異動勧誘の依頼の事実を認めると同時に、今後、W、X5、X4の3教諭については、その希望に沿って市芦高への復帰を実現するため管理職として全力を尽くすこと、本人の意向を尊重することを人事異動の第一義とし、加配教員の削減には手を貸さないこと等を確認する旨の内容が記載された書面に署名押印した。

右の3名の教諭は、昭和56年4月、市芦高の教諭として復帰した。

(三)  昭和61年7月、松本教育長が就任した。松本教育長は、就任当初から校長権限の回復を軸とする教育改革の必要性を訴え、前田校長に対して市芦高における校長権限の回復を図るよう指示した。

同年9月1日、前田校長、井上教頭及び被告の職員数名が、市芦高において従前校長室に置かれていた教頭の机を職員室に搬入した。右の搬入の際は、分会組合員が、教頭の机を運ぶことが予想される場所にロッカーを置き、被告職員らに対し激しく抗議をするといった抵抗があったほか、分会の組合誌である市芦分會字報に、前田校長による職務命令の乱発があったなどの内容の批判記事が掲載された。

同月2日、前田校長は、職員会議で承認されたカリキュラムについて、被告が授業の選択科目制が取り入れられていないことを理由に承認しないと通告し、同年10月中旬ころ、選択科目制を採用したカリキュラムを決定し、教員らに発表した。

同年9月9日、原告X8が支部執行委員会に出席し、翌10日に年休届を提出しようとしたのに対し、井上教頭は事後の届出であるとの理由で受理を拒否し、無断欠勤として同日分の賃金を減額した。

同月下旬、前田校長は、原告X1に対し、学校の掲示板を職員室から他の場所に移すよう通告し、電話、放送設備、印刷関係機器類、用紙及び文房具類等の諸施設、備品等を組合活動に使用することを禁止する旨記載された文書を送付し、分会は、右文書を市芦分曾字報に掲載して批判した。

同年10月1日、分会は、本件原処分及び本件転任処分(X3)に対し、部落解放同盟芦屋支部、市芦高卒業生等と共同して反弾圧闘争決起集会を開くとともに、市芦分會字報において「組合つぶしの、なりふりかまわぬ弾圧の嵐」、「ファシズム」などと批判した。

同年11月中旬ころ、前田校長は、市芦高教員を対象に希望退職者を募集した。なお、前年度まで例年10月ころに行われてきた書面による異動希望調査は行われなかった。

同月20日、前田校長は、校務分掌委員である原告X5が職員間で集約した異動希望調査書の受取りを拒否し、その後同人を校務分掌委員から解任した。

(四)  昭和62年1月9日、原告X9が遅刻し、その翌日、井上教頭が、欠勤扱いにならない30分を超える32分の遅刻であるとして、年休届を出すよう指示した。原告X9が、同僚に職員室で30分以内の遅刻であることを確認してもらったとして年休届の提出を拒否したところ、同人の当月分の給与から2069円が差し引かれた。分会は、市芦分會字報において、右の欠勤扱いはでっち上げであるとして批判した。

昭和62年2月20日、前田校長は、従来、入試の合否判定会議は市芦高の全職員により行われたところ、同年度についてはこれによらずに、独自に合否判定員を任命した。

同年3月16日、市芦高の入学試験が行われ、同月19日、前田校長は、右合否判定員による合否判定会議を開催した。

同月20日、市芦高の入学試験の合格発表があり、同校への入学希望者が定員を下回っていたにもかかわらず、33名が不合格となった。右の事態について、分会は、進学保障制度の趣旨を無視するものであるとして、松本教育長及び前田校長に対して抗議した。

(五)  昭和62年4月1日、前田校長は、職員会議の際、職員会議規程を改定する旨述べ、新しい職員会議規程を採用した。

改定後の職員会議規程においては、職員会議の性質について、昭和40年に制定された従前の職員会議規程には「校務運営全般についての最高の諮問及び協議機関」と規定されていたのが、「校長の職務を助け、校務の円滑かつ適正な運営を図る」校長の補助機関として位置付けられた。

また、前田校長は、右職員会議において、昭和51年3月19日施行の校務分掌内規に代えて、「昭和62年度 校務分掌表」と題する文書を配布し、自ら同年度の校務分掌を決定した。

右分掌を決定するに当たり、原告X2は、奨学金係を希望していたが、図書係に任命された。一方、当時、非組合員で、教員免許を持たない実習助手であったaは生徒指導部長に選任され、同じく非組合員で、6か月ごとに期間を定めて雇用される助教諭であったMは進路指導部長に選任された。なお、学校教育法施行規則64条の3、52条の2、3には、生徒指導主事及び進路指導主事には教諭をもって充てる旨規定されている。

同日、昭和62年度転任処分が行われた。このときは、従前行われていた異動する職員に対する離任式は実施されなかった。異動する職員の離任式は、昭和63年4月の本件転任処分(X2)の際も実施されず、平成元年度以降は再び実施されている。

分会は、市芦分會字報において数回にわたり、選択科目制等の市芦高の「教育改革」が授業に混乱を起こし、生徒から反対の声が挙がっているなどとして、被告側を批判した。また、昭和62年12月ころ、原告X2は、分会委員長として、被告に対し年末・年度末手当等の交渉に対する要求書を提出した。

(六)  本件転任処分後の市芦高における教員の異動状況について

本件転任処分後、市芦高において、以下の教員の異動があった。

(1) 社会科

昭和63年4月に被告事務局からT指導主事が赴任し、平成2年4月にT、Dの各教論が転出し、b、cの各教諭が赴任した。

(2) 英語科

平成元年4月にK教諭が県立高校に転出してd教諭が赴任し、平成2年4月にはM助教諭及びN助教諭が退職してe教諭及びf助教諭が赴任し、平成3年4月にはf助教諭が退職してg教諭が赴任し、平成5年12月にはe教諭が退職してh教諭が赴任した。

(3) 理科

平成3年3月、U教諭が転出し、同年4月からi教諭が赴任した。

(4) 美術科

昭和62年4月、j及びkの各時間講師を2名採用し、昭和63年4月以降、1名又は2名の時間講師が美術科を担当した。

2  右事実によれば、原告らは分会の委員長ほか組合役員として組合活動に従事しており、昭和61年7月の松本教育長の就任以後、市芦高における教育方針及び学校運営等をめぐって被告と分会は対立状況にあり、本件転任処分は、いずれも右対立時期に、組合活動に積極的な甲請求原告らを対象に行われたものであることが認められる。

被告は、原告らの分会における役員歴及び組合活動について知らない旨主張するが、被告は、分会との間で度々団体交渉を行っており、また分会は被告及び前田校長に対して抗議行動をしているのであるから、原告らの役員歴及び組合活動についてある程度は認識していたと推認できる。

3  松本教育長及び前田校長の言動について

(一)  〔証拠略〕によれば、前田校長は、昭和62年9月ころ、兵庫県教育新聞に同人が執筆した「雲のはれまに」と題する文章において、前記の教頭の机を職員室に運び込んだことに対する分会の抗議行動について、市芦高生徒の保護者の団体である育英会会員の言葉であるとして「腐っても鯛、腐っても先生と信じてきましたのに。」と記載した上で「「親の喧嘩を子に負わせる」高校紛争もどきの手管」と否定的な記載をしているほか、校門指導の強化等が職務命令の乱発と評されたことについて「建設を忘れ、破壊か現状維持に没頭するどこかの輩とは違う。」と暗に分会を批判した文章に続けて「この間9名の非組合員が誕生した」と記載した事実が認められる。

右の文章からは、同人が本件転任処分当時、分会を嫌悪し、非組合員の誕生を歓迎していたことが窺われる。

(二)(1)  また、〔証拠略〕によれば、教育雑誌である週刊教育PRO平成3年6月25日号には、退任後の松本教育長の発言として、「私が教育長に就任した時は組合加入率は96%くらいでしたが、私の在任中に75%まで減りました。心ある先生は皆、私についてきましたから。」「私はどうしようもない教師を芦屋市から放り出しました。」等、教職員の組合を敵視し、市芦高から分会組合員を排除する目的で転任処分を行ったことを示す文章が記載されている。

(2)  被告は、右発言の有無は明らかでなく、右の記事は誇張されたものである旨主張するが、前記認定にかかる雑誌が教育に関する専門的な雑誌であることを考慮すれば、右雑誌の編集者が、松本教育長が何ら発言していない内容について不正確な理解の下に記事を執筆したとは考え難いことから、右の記事が松本教育長の発言を忠実に再現したものではなく、多少の誇張が含まれているとしても、同人が教育長退任後に分会を敵視する趣旨の発言をしたことは充分窺えるのであり、同人が、教育長在任中も分会を敵視していたことが推認される。

(三)  なお、原告が、井上教頭らによる分会組合員弾圧の根拠と主張する井上メモ〔証拠略〕については、その作成者、作成経緯が明らかでなく、原告の主張する内容の文章であると認めるに足りる証拠はない。

4  本件転任処分の手続について

前記のとおり、地方公務員である教員の転任について、当該職員の同意を必要とすると解することはできない。しかし、本件のように、教員を学校教育以外の職場に転任する処分でかつ被処分者の意思に反することが容易に予想される場合、転任に際しては事前に本人の意向を打診し、転任先について説明を行うのが望ましいといえる。

この点、前記のとおり、被告は、本件転任処分に際して被処分者たる甲請求原告らの意向を聴取することなく、また、異動の内示についても、行わないか、又は転任処分の直前に行っているが、このことから直ちに本件処分が違法であるとはいえないにしても、教員を被処分者の意思に反して学校教育以外の職場に転任する手続として性急であったことは否めない。

5  これらの事情を前提に、本件転任処分の不当労働行為性について判断する。

(一)  本件転任処分のうち、昭和62年度転任処分は、前記のとおり定数条例の改正による市芦高教員の過員解消の必要性を一つの理由として行われたものである。しかし、昭和61年度の本件転任処分(X3)及び昭和63年度の本件転任処分(X2)については、そのような過員解消の必要性を認め難い。

本件転任処分(X3)については、学期途中という異例の時期の、教員の意に反する学校教育以外の職場への転任処分であるにもかかわらず、事前の通知が行われておらず、異動の必要性・合理性にも乏しい。昭和62年度転任処分及び本件転任処分(X2)についても、教員の意に反する学校教育以外の職場への転任処分で、しかも芦屋市において前例のない学校教育経験者の指導員への転任処分であって、異動期間も特に定められていないにもかかわらず、適時に事前の通知が行われたとはいえず、必要性・合理性についてもこれを充足していたとはいえない。

また、被告は、本件転任処分の理由として、市芦高と県立高校又は他の教育機関との人事交流の必要性を主張する。しかし、本件転任処分後、市芦高では度々教員の異動が行われ、甲請求原告らを復帰させる機会があったにもかかわらず、原告X3については昭和61年10月から平成11年4月の市芦高復帰までの12年6か月間、原告X9については昭和62年4月から平成11年4月までの12年間、原告X7については昭和62年4月から平成8年4月の市芦高復帰までの9年間、その他の甲請求原告については本件転任処分後11年間ないし12年間以上経過した現在に至るまで未だに学校教育の現場から離れているのであり、右状況は、芦屋市において市立高校が市芦高のみで、人事が停滞しがちであるなどの被告の主張を前提としてもなお、教員免許を有し、学校教育に携わってきた甲請求原告らに対する人事措置として異常なものといわざるを得ず、被告の主張する人事交流の目的に沿った措置が採られているとは到底認められない。

これに加え、前記のとおり、被告に対して市芦高の状況を報告する立場にあった前田校長及び退任後の松本教育長は分会を敵視する言動をしており、また、芦屋市において学校教育に従事する教諭から指導員へ転任した例は、原告X3を除く本件転任処分及び昭和63年度のB教諭に対する転任処分しかない。

(二)  これらの事情からすると、本件転任処分は、被告が、甲請求原告らを分会における組合活動を理由に市芦高から排除し、当時対立状況にあった分会の勢力を弱める目的で行ったものと推認せざるを得ず、このうち昭和62年度転任処分については、同校の過員解消の必要性という動機も存したことは認められるものの、転任処分の対象として甲請求原告らを選んだ主要な動機は、同人らの組合活動を嫌悪したことによるものであったと認めるのが相当である。

一四  右のような不当な目的による本件転任処分は、教育行政目的に資するものではなく、社会通念上著しく妥当性を欠くもので、任命権者に与えられた裁量権を逸脱する違法な処分というべきであり、取消しを免れない。

一五  乙請求について

1  認定事実

前記「争いのない事実等」及び〔証拠略〕によれば、以下の事実が認められる。

(一)  芦屋市職員の勤務時間については、勤務時間等に関する条例に定められており、同条例2条第1項には、教員の勤務時間及びその割振りは任命権者が定める旨規定されており、市芦高教員については、委任規則2条により被告から委任を受けた教育長が、所属長である校長の案を了承する方法で行っている。

市芦高における昭和61年当時の勤務時間は週当たり42時間で、始業時刻、終業時刻及び休憩時間は左記のとおりであった。

<1> 昭和61年3月31日まで

平日 勤務時間 8時30分から16時49分まで

休憩時間 15時49分から16時34分まで

土曜日 勤務時間 8時30分から12時40分まで

<2> 昭和61年4月1日から同年8月31日まで

平日 勤務時間 8時30分から16時57分まで

休憩時間 15時57分から16時42分まで

土曜日 勤務時間 8時30分から12時まで

<3> 昭和61年9月1日以降

平日 勤務時間 8時30分から16時57分まで

休憩時間 12時40分から13時15分まで

16時32分から16時42分まで

土曜日 勤務時間 8時30分から12時まで

被告の職員の撮務については、市教委服務規則に規定されており、同規則は市芦高教員にも適用されるところ(同規則19条)、同規則には、職員は始業時刻前に出勤し、終業時刻後でなければ退庁することはできず(同規則3条)、勤務時間中私事のためその職務を離れ又は退庁しようとする場合には、その旨学校長に届出をし(同規則8条)、出張を命ぜられたときは、出発前及び帰庁後に出張命令簿にそれぞれ所要事項を記入して捺印し、帰庁後直ちに復命しなければならない(同規則10条)と規定されている。

(二)  前田校長は、右の勤務時間の割振りについて、分会のストライキの予告があった際には分会役員に対し、教育実習生が来校した際には当該実習生とともに指導教員に対し、勤務時間について確認していたほか、昭和60年4月及び昭和61年4月に分会の役員が挨拶に来た際、組合の団体交渉以外で職場を離れる場合は年休届を出すよう通告し、昭和61年9月1日からは、勤務時間を記載した文書を職員室に掲示した。

また、溝田課長は、昭和60年1月下旬の分会との団体交渉の際、被告側担当者として、年休届を出すことなく支部執行委員会に出席することは認められない旨通告し、同年5月8日にも同様の通告をして、今後届出のない場合は厳正な処置をとる旨付言した。

(三)  昭和55年、県教委から県立各学校長宛に勤務の正常化に関する通達が出されたのを契機として、校長会や教頭会において、勤務時間の遵守等、教員の勤務の正常化を図って行くべきだとの意見が出るようになった。

前田校長は、昭和59年秋ころ、小林管理部長との間で市芦高の教員の勤務状況について協議し、同人は前田校長に対し勤務時間の割振りの遵守、勤務時間内の組合活動については事前に年次有給休暇の届出をさせること、出張については事前に口頭又は旅行命令兼旅費請求カードによる届出をさせなければならないこと、無断職場離脱をする者に対しては懲戒処分も検討しなければならないので、その離脱状況を記録に取る必要があること等を指導した。

これを受けて前田校長は、教員の勤務時間の管理として、始業時刻については、午前8時ころ出勤簿を職員室に備え置き、午前9時ころそれを引き上げて、同帳簿の押印の有無により出勤状況を確認し、終業時刻については、16時ころに、教員が職員室にいるかどうか、自動車通勤の教員の自動車が駐車場にあるかどうか、また徒歩通勤等の教員が校門を出ていく状況を校長室や事務室の窓から観察して在校を確認し、さらに17時ころには、前田校長又は井上教頭が、校内を見回るなどして、教員が在校しているかどうかを確認し、無断職場離脱と判断した場合、その旨学校日誌に記載した。

(四)  原告X1の処分事由について

原告X1は、別紙3(1)記載の日の午後、概ね1時間40分から3時間20分程度、前田校長の了承を得ることなく学校外に外出した。

このうち、昭和60年4月16日、同月23日及び同月30日には、前田校長に対し事前に告げた上で支部執行委員会に出席しており、前田校長は、同月23日及び同月30日には年休届の提出を求めたが、原告X1はこれに応じなかった。

同年5月14日には、前日から同日午前中にかけての年休届を提出していたが、同日午後の年休届を提出していないにもかかわらず登校しなかった。右の不在確認は同日12時30分ころ井上教頭が行った。

また、原告X1は、同年5月28日及び10月1日にも支部執行委員会に出席し、昭和61年7月8日及び同年9月2日には、原告X2の代理として書類を受け取るために西阪神支部に立ち寄り、その後帰校していない。

(五)  原告X2の処分事由について

原告X2は別紙3(2)記載の日の午後、概ね2時間から3時間40分程度、前田校長の了承を得ることなく学校外に外出した。

このうち、昭和61年4月22日から同年6月3日にかけては支部軸行委員会に出席していた。

前田校長は、原告X2の右外出行為が無断職場離脱に当たるとして、注意文書を、昭和61年5月15日から6回にわたり、原告X2のレターケースに入れ又は同人に手交して交付した。これに対し、原告X2外の分会員は、昭和61年5月22日、6月2日、同月27日及び同年7月16日、右注意文書に対し口頭又は文書で前田校長に抗議し前田校長は、注意文書の交付は処分ではなく注意である旨回答した。

(六)  前田校長は、被告に対して昭和60年9月ころ及び昭和61年4月初めころに原告X1の無断職場離脱状況を、昭和61年6月半ばころに原告X2の無断職場離脱状況をそれぞれ報告し、同年9月には右各報告をまとめて報告書を提出した。

(七)  被告が懲戒処分を行う際は、芦屋市長を通じて芦屋市職員分限懲戒審査委員会に審査を諮問し、その審査結果を参考にして処分を行うものの、その審査結果には覊束されない。

芦屋市職員分限懲戒審査委員会においては、欠勤した職員に対する措置の目安として、左記の内容が定められている。

欠勤日数5日まで 所属長の口頭訓告

6日から10日 文書訓告

11日から15日 戒告

16日以上 減給、停職、懲戒免職もしくは分限免職

過去の勤務成績等を勘案し、措置の程度を軽減又は加重することができる。

(八)  被告は、右(六)の報告書に基づき本件懲戒処分を行った。

2  当事者の供述等について

(一)  右認定に対し原告X1は、昭和60年1月31日の交渉の際は、溝田課長から支部執行委員会への出席について年休届を出してもらえないかとの意向が出され、後日の交渉事項となった旨の供述をするが(〔証拠略〕)、勤務時間中の支部執行委員会への出席が地方公務員の職務専念義務(地公法35条)及び市教委服務規則3条、19条に反し違法であることは明らかであり(これを適法とする原告の主張は採用できない)、被告がこれを交渉事項として提示するとはにわかには考え難く、他に右供述を裏付けるに足りる証拠はないから、右の供述を採用することはできない。

また、原告X2は、昭和61年6月9日に勤務時間中の支部執行委員会への出席について団体交渉が持たれた旨主張し、原告X2本人も同趣旨の供述をするが(〔証拠略〕)、右供述は、これを否定する旨の小林管理部長の供述(〔証拠略〕)に照らして採用できず、他に原告X2の右主張を認めるに足りる証拠はない。

(二)  原告X1処分事由について

原告X1は、昭和60年4月16日、同月23日及び同月30日には前田校長の了承を得て支部執行委員会に出席していたと供述するが(〔証拠略〕)、右供述は、前田校長の供述及び学校日誌の記載に照らして採用できない。

(三)  学校日誌の記載内容について

乙請求原告らは、本件懲戒処分の処分事由の根拠となった学校日誌の記載について、正確な事実確認に基づくものでない上に、学校日誌中事後に差し替えられた部分があること、記載の途中にインクの色が異なる部分があること及び筆跡の違う部分があること等から改ざんした疑いがあり、信用することができない旨主張する。

しかし、学校日誌に記載されている不在確認等の方法は、前記認定のとおり、前田校長らが支部執行委員会会場に行くなど、確認方法として特に不十分なものということはできず、また、報告書添付の学校日誌13が差し替えられているものの、これは、当時の教員の終業時刻が16時57分であったことから、誤解を避けるために被告の指示により正確な時刻に訂正したものと認められ(〔証拠略〕)、差し替えられているのは右部分だけであることから、右差替えの事実をもって直ちに学校日誌全体が偽造されていると認めることはできず、他に学校日誌について原告の主張する改ざんの事実を窺わせる証拠はない。

3  争点1(処分事由の有無)について

(一)  原告X1の処分事由について

原告X1は、昭和60年5月14日及び同月21日には1助教諭とともに企業訪問を行っており、昭和61年7月8日及び同年9月2日には原告X2の代理として書類を受け取るために支部執行委員会に立ち寄っただけで、その後は午前中に宿題考査が終了し、授業がなかったので自宅研修をしたのであって、支部執行委員会へ出席したわけではなく無断職場離脱に当たらないと主張し、原告X1本人もこれと同趣旨の供述をする(〔証拠略〕)。

しかし、原告X1が右主張のとおり企業訪問をしていたとしても、前記のとおり、校外へ外出する場合には事前に出張届を提出しなければならず、前田校長はその旨を職員に通知していたにもかかわらず、原告X1は右手続を怠っていたのであり(〔証拠略〕)、しかも昭和60年5月14日には、前日から当日午前中までの年休届を提出していたにもかかわらず、その後何の連絡もなく当日午後にも登校しなかったのであるから、他の職場離脱の事実と合わせて職場離脱として懲戒処分の対象とされてもやむを得ないものというべきである。

また、宿題考査後の自宅研修についても、勤務時間である以上、授業担当時間が終了したからといって校長の許可を得ずに帰宅してよいというものではなく、この点も他の職場離脱の事実と合わせて職場離脱として懲戒処分の対象とされてもやむを得ないものといえる。

(二)  原告X2の処分事由について

原告X2は、昭和61年6月10日は原告X1とともに奨学生の奨学金の支給申請のために尼崎市教育委員会へ、同月24日は障害生の校外指導の下見として王子動物園へ、同年7月8日は原告X3及びm教諭とともに障害生の校外授業へそれぞれ行っており、同年9月2日は午前中の宿題考査の後、自宅研修をしていたのであって、無断職場離脱には当たらない旨主張し、原告X2本人もこれと同趣旨の供述をする(〔証拠略〕)。

しかし、原告X2は、前田校長への事前の届出をせず、勤務時間中に右の各外出行為を行っているところ、前記のとおり、教員が勤務時間中に外出するときは事前の届出を要するのであり、また、尼崎市教育委員会への奨学金支給申請は、本来当該奨学生の親権者が行うもので、市芦高の奨学金に関する職務とは言い難く、教員が勤務時間中に右申請行為を親権者に代わって行うのであれば、事前に校長の許可を得るべきで、障害生の校外授業については、生徒の安全確保の見地から事前に校長への届出をすべきことは明らかであり、宿題考査後の自宅研修は認められていないことは前記認定のとおりである。しかも、前記認定のとおり、前田校長は、勤務時間中の外出の際には事前に届出をするよう教員に通知しており、特に原告X2については、昭和61年5月15日からは注意文書を交付して注意を喚起していた。

これらの諸事情からすれば、原告X2の外出中の行為が原告の主張するとおりの内容であったとしても、職場離脱として懲戒処分の対象とされてもやむを得ないというべきである。

(三)  以上により、本件懲戒処分についての乙請求原告らの主張は理由がなく、右原告らは、別紙3記載の日時に無断職場離脱を行っていたことが認められ、本件懲戒処分については、その対象となる処分事由が存在するということができる。

4  争点2(勤務時間の弾力化等の労使慣行)について

乙請求原告らは、市芦高においては、本件懲戒処分以前から、勤務時間の割振りを授業に支障のない範囲で当該教員に委ねる、いわゆる勤務時間の弾力的運用の労使慣行並びに出張及び年休届を事後に提出する労使慣行が成立していた旨主張する。

しかし、前記のとおり、勤務時間中に校長の承認を得ることなく外出し、あるいは組合活動を行うことが公務員の職務専念義務(地公法35条)及び市教委服務規則3条、19条に反し違法であることは明らかであるところ、勤務時間の決定権者である被告は、勤務時間中の支部執行委員会への出席は違法であるとの見解を明確に示しており、勤務時間中の外出行為について事前の年休届等の提出を要求していたのであるから、原告の主張するような労使慣行を承認していたと認めることはできず、市芦高内において教員が事実上、校長の承認を得ることなく、勤務時間中に支部執行委員会へ出席し、考査終了後に自宅研修し、あるいは事前の届出なく出張をするといった行為を繰り返していたとしても、これをもって勤務時間を弾力的に運用する労使慣行が成立していたと解することはできない。このことは、支部執行委員会への出席について、従前懲戒処分ないし賃金カットの対象となっていなかったことによって左右されるものではない。

5  争点3について

(一)  本件懲戒処分の手続について

乙請求原告らは、本件懲戒処分に際して乙請求原告らに対する事情聴取が行われていないので、本件懲戒処分は取り消されるべきである旨主張する。

しかし、前記のとおり、被告が懲戒処分を行う際は、芦屋市職員分限懲戒審査委員会の審査結果を参考にするところ、芦屋市職員分限懲戒審査委員会規則6条には、処分対象者の意見の聴取について、「委員会は、事件の審議のため必要があると認めるときは、事件の本人及び関係者に対して委員会に出席を求め・・・ることができる。」と規定されており(〔証拠略〕)、事前に必ず処分対象者の意見を聴取しなければならないとされているわけではない。その他に本件懲戒処分に至る手続が違法であったことを窺わせる事情は認められず、乙請求原告らの右主張は採用できない。

(二)  不当労働行為について

乙請求原告らは、本件懲戒処分は、分会役員であった乙請求原告らの組合活動を弾圧する目的で行われたもので、不当労働行為に当たり無効である旨主張する。

しかし、勤務時間中の支部執行委員会への出席等の無断職場離脱行為は、前記のとおり違法な行為であって正当な組合活動ということはできず、被告が本件懲戒処分に際し、教員の勤務時間の遵守を図る目的とともに分会の弱体化を図るといった不当労働行為意思を有していたか否かにかかわらず、乙請求原告らの再三の無断職場離脱行為が懲戒処分の対象となることは明らかである。そして、被告がかねてから教員の勤務時間の遵守の徹底を図ろうとしていたことは前記認定のとおりであるから、被告の不当労働行為意思の存否にかかわらず本件懲戒処分は行われていたと認められ、また、被告に不当労働行為意思の併存があったとしてもこれをもって本件懲戒処分が無効であるということはできない。

(三)  本件懲戒処分の過重性について

乙請求原告らは、本件懲戒処分が、芦屋市懲戒審査委員会の懲戒基準に照らして著しく過重である旨主張する。

前記のとおり、右の基準は被告を覊束するものではないが、右の基準及びその他の懲戒処分例(〔証拠略〕)によれば乙請求原告らが、本件処分当時、前田校長らの再三の注意にもかかわらずこれを無視して無断職場離脱を継続したことは処分の加重事由に該当し、同人らが過去に懲戒処分を受けた経歴が認められず、職場離脱の一部に、企業訪問等職務に関する行為を行ったことが窺われる等諸般の事情を考慮しても、3か月間減給10分の1という処分が、処分権者の裁量権を逸脱する過重な処分であるということはできず、乙請求原告らの右主張には理由がない。

6  結論

以上のとおり、本件懲戒処分について乙請求原告らの主張する違法はなく、その取消しを求める右原告らの請求は理由がない。

第五 結論

以上によれば、原告らの請求は、甲請求原告らが被告に対して本件転任処分の取消しを求める範囲において理由があるから、右の範囲でこれを認容し、原告X8及び同X9が別紙2記載の各処分の取消しを求める請求は不適法であるからこれを却下し、乙請求原告らが本件懲戒処分の取消しを求める請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担については行政事件訴訟法7条、民事訴訟法65条第1項、61条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松村雅司 裁判官 徳田園恵 坂本好司)

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