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熊本地方裁判所 昭和58年(ワ)926号 判決 1991年11月28日

熊本市大江本町八番二二号

原告

伊井久雄

右訴訟代理人弁護士

元村和安

衛藤善人

千場茂勝

東京都千代田区霞が関三丁目一番一号

被告

右代表者法務大臣

田原隆

右指定代理人

福田孝昭

坂井正生

鳥山克

城登

池田春幸

福元譲

杉山雍治

溝口透

岩先光憲

上野宏

大山裕史

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する昭和五九年一月二二日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は熊本市大江本町八番一五号において、産婦人科病院(以下、原告病院という。)を経営する医師である。

2  被告の公権力の行使にあたる公務員である大蔵事務官訴外出田英幸(以下、出田という。)外数名の者は昭和五五年九月八日、同月四日付熊本地方裁判所裁判官松本芳希作成の捜索差押許可状(以下、本件捜索差押許可状という。)により、により、原告病院において、原告保管にかかる診療録数万枚(以下、本件カルテという。)を差押え(以下、本件差押という。)、ついで、昭和五六年三月六日までの間、出田ら及び熊本地方検察庁検察官訴外山田宰らにおいて、本件カルテを利用してこれに記載された患者数百名について、原告病院において、何時、如何なる治療を受けたか、人工妊娠中絶手術を受けたか否か等の調査(以下、本件調査という。)を実施した。

3  しかしながら、本件差押及び本件調査は次の理由により違法である。

(一) 収税官吏が犯則嫌疑として把握した事実は、嫌疑とするに足りる根拠に欠けるものであった。

(二) 原告が医師であり、医師法二四条によって診療録の保存義務を五ヵ年間にわたって負い、それだけに証拠湮滅や散逸の危険が医師としての職業倫理上認められる余地のないことを考慮すれば、本件差押の必要性はなかったというべきである。

(三) 本件捜索差押許可状には、差押えるべき物件として、「本件所得税法違反の事実を証明するにたりると認められる一切の帳簿書類、往復文書、メモ、預貯金通帳、同証書、有価証券及び印章等の文書並びに物件」と記載してあるのみで、カルテの記載はないから、本件差押は令状なしになされたものというべきである。

(四) 本件カルテの中には、昭和五五年分のカルテも含まれていたが、本件差押の日である昭和五五年九月八日当時、昭和五五年分の所得税は申告期が到来しておらず、したがって、確定申告書提出の事実もあり得ないので、犯則行為自体が存在しないことは明白であって、昭和五五年分のカルテについてはこれを差押える根拠は全く存しない。

(五) 本件カルテは、治療を受け者の「(1)住所、氏名、性別及び年令、(2)病名及び主要症状、(3)治療方法(処方及び処置)、(4)診療の年月日」等、人の秘密に関する事項を記載したものであり、産婦人科医師である原告が業務上保管するものであるから、刑事訴訟法一〇五条の規定により押収を拒絶できるものであるが、右出田らは、原告の承諾もなく、押収拒絶の機会を与えないまま、本件カルテを差押えた。

(六) 本件調査は、違法に差押えたカルテを利用してなされた違法なものであり、そのために「人工妊娠中絶」という事柄の性質上、患者らにとって最も重大な秘密に属する事柄を白日のもとにさらけ出す結果を招来したばかりか、原告の職業上、社会上の信用を一挙に崩壊させてしまった。

4  前記の違法な本件差押と本件調査により、原告は原告を信頼して自己の秘密を原告に託した数万名の患者の秘密の侵害と、原告自身の職業上、社会上の信用失墜を考え、患者に対する申し訳なさと自己並びに家族、従業員の将来について不安絶望のあまり、死にも勝る甚大な精神的苦痛を受けた。

右苦痛を慰藉するには、少なくとも一〇〇〇万円の金員の支払をもってするのが相当である。

よって、原告は被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき金一〇〇〇万円及びこれに対する本件不法行為発生後である昭和五九年一月二二日から支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  1、2の各事実はいずれも認める。

2  3について

(一) (一)及び(二)の事実は否認する。

(二) (三)の事実のうち、本件捜索差押許可状の「差押えるべき物件」欄の記載事項については認め、その余は争う。

(三) (四)は争う。

(四) (五)の事実のうち、本件カルテの記載事項及び原告が本件カルテを業務上保管していたことは認め、その余は否認ないし争う。

(五) (六)は争う。

3  4は争う。

三  被告の主張

1  本件差押の経緯

(一) 出田は、昭和五五年九月八日午前八時ころ、原告病院の事務長訴外東邦良(以下、東事務長という。)に対し、熊本地方裁判所裁判官松本芳希作成の昭和五五年九月五日付臨検許可状(以下、原告病院に対する臨検許可状という。)及び本件捜索差押許可状を示した上、同時刻ころから午後一時ころまで、原告病院及びその付属建物において、東事務長を立会人として臨検及び捜索を行った。

(二) 出田は、その後、同日午後一時ころから同四時ころまで、原告病院事務室において、東事務長を立会人として本件カルテ等の差押を行った。その際、出田は、差押に際して、差押場所において、東事務長に対し、差押物件を確認させたうえで、差押目録を作成し、同目録の謄本一部を東事務長に交付した。

(三) 原告は、同日午前八時ころ、自宅において、大蔵事務官訴外内田繁(以下、内田という。)から、熊本地方裁判所裁判官松本芳希作成にかかる昭和五五年九月五日付の自宅に対する臨検許可状及び捜索差押許可状(以下、それぞれ自宅に対する臨検許可状、自宅に対する捜索差押許可状という。)を示されたが、その際、原告病院の捜索を含めて臨検、捜索及び差押等の説明を受けた

(四) 原告は、前記(一)の臨検及び捜索が始まった後、自宅から原告病院に出勤したが、原告病院における臨検、捜索及び差押に対する立会は専ら東事務長に委ねた。

2  本件差押の適法性

(一) 本件嫌疑事実の存在

本件差押当時における原告の所得税法違反(所得税法二三八条)の犯則嫌疑(以下、本件嫌疑という。)は別紙のとおりであったが、行政手続である犯則事件の調査手続について、たとえ刑事手続の規定が準用ないし類推適用されるにしても、捜索差押許可状請求時に要求される犯則嫌疑の程度は、犯則嫌疑者が犯則行為をしたと思料される一応の嫌疑で足りるものと解すべきところ、収税官吏が本件捜索差押許可状の交付請求当時までに入手していた資料により、右嫌疑を抱くに至った主要な点は次のとおりであり、これらによれば、原告が本件嫌疑にかかる犯則行為をしたと疑うに足りる一応の嫌疑があった。

(1) 原告病院は、熊本市内やその近郊の広範囲にわたって、立看板やバス停のベンチに広告を掲げ大々的に宣伝していること、病院の規模が大きいこと、診察が適切で診療代も適度であるとの評判が高く、したがって、患者数も多いものと推測され、かなりの高収入が予想されるところであるが、原告の昭和五二年分の所得税の申告状況をみると、その所得金額は、熊本国税局管内の他の同業者のそれに比しかなり低額であった。

(2) 原告は、昭和四九年ないし五一年分の所得税の申告に際し、一般収入金額の計上漏れ等により、合計約三八八四万九〇〇〇円にのぼる所得の過少申告をしていた。右の点については、熊本東税務署の担当職員が昭和五二年一二月に実施し原告に対する所得税の実地調査により明らかにされたため、原告において、同月二六日修正申告を行っている。

(3) 原告の所得税の仮装隠蔽について、昭和五四年六月二五日、熊本国税局に対し、部外者から次のことを内容とする情報提供があった。すなわち、原告の病院では毎日一六ないし二〇名について人工妊娠中絶手術を実施していること、手術料は一名当たり三万五〇〇〇円ないし四万円程度であること、その手術料については院長の妻か、または看護婦でない従業員一名が普通の受付とは別に領収していること、原告個人のゴルフ費用を医薬品の仕入先である富田薬品から仕入金額に含めてごまかしていることを内容とするものであった。

(4) 熊本国税局調査査察部門において、同局管内の熊本市、鹿児島市、大分市及び宮崎市の産婦人科医計一八名を抽出し、その営業規模、一般収入金額、保険収入金額、特前所得(青色申告の特典の金額または事業専従者控除額を控除する前の所得金額という。)、あるいは特後所得(青色申告の特典の金額まては事業専従者控除額を控除した後の所得金額をいう。)等を調査し、原告病院と対比したところ、原告病院は、一般収入割合(一般収入金額の総収入金額に対する割合)が低く、差益率(総収入金額から原価を控除した額を総収入金額で除し、これに一〇〇を乗じたもの)が極めて低く、また、看護婦一人当たり及びベッド一台当たりの各年間収入金額も低い数値となっていることが判明した。

また、熊本国税局調査査察部において昭和五三、五四年中に行った三名の産婦人科医に対する査察調査で判明した事項について、原告病院と対比したところ、原告病院は、査察調査が行われた産婦人科医よりも一般収入割合や差益率が低いことが判明した。

(5) 原告の不動産取得状況を調査したところ、原告は、昭和五三年六月三〇日に熊本市竜田町弓削字茶屋本一三七七-三の土地三三一平方メートルを代金八〇〇万円で取得しているのに、原告の所得税確定申告書に添付された青色申告決算書にはその記載がないことが判明した。

また、同市保田窪本町五八三-一所在の五九五平方メートルの宅地を、原告の実兄訴外井智が昭和五二年一〇月一七日代金二〇〇〇万円で購入している事実が判明した。

(二) 本件差押の必要性

本件嫌疑については、前記(一)のよううに外側から知り得た資料に支えられていたにすぎなかったのであるから、本件嫌疑をより正確に把握し、これを裏付ける証拠資料を入手するためには、原告病院を臨検し、原告の正確な所得金額を算出するに足る書類等の捜索差押をする必要性が存したが、本件カルテは診療報酬や診療費用等の算出の基礎となるものであり、本件嫌疑の究明には不可欠なもっであった。

(三) 本件捜索差押許可状の記載について

(1) 本件カルテは、本件捜索差押許可状の「差押えるべき物件」欄に記載のある帳簿書類に該当する。すなわち、帳簿書類とは、一応、事務上の必要事項を記載した帳面や書類と解することができるところ、診療録は医師が記載し、医師ないし病院等において五ヶ年間の保管を義務づけられているものである。そして、医療法五条二項は帳簿書類の例示として診療録を挙げていることからすると、本件カルテが医師の事務上の必要事項を記載した帳簿書類に該当することは明らかである。

(2) 仮に、本件カルテが帳簿書類に該当しないとしても、本件カルテは「所得税法違反の事実を証明するにたりると認められる一切の文書」に含まれる。すなわち、診療録は診療報酬や診療費用等の算出の基礎となるものであり、特に、医師が会計帳簿に記載せずに簿外収入を形成している場合においては、診療録を精査検討することこそ、その究明の重要な方法といえるからである。

(四) 昭和五五年分のカルテの差押について

原告の本件嫌疑の内容及び犯則事件調査の困難性等に鑑みれば、調査対象年分に連続して進行中の昭和五五年分のカルテが本件嫌疑に関連性を有し、かつ、調査の必要性が存したことは明らかであり、その差押は何ら違法ではない。

(五) 原告の押収拒絶権について

(1) 刑事訴訟法一〇五条の押収拒絶権の規定は、その立法の趣旨及び目的からして、同条に掲げられている業務者が被疑者または被告人である場合には適用されないと解すべきであり、原告には本件差押について押収拒絶権はなかった。すなわち、同条は、個人の秘密自体を直接保護しようとするものではなく、業務そのもの及びそれに対する信頼関係を保護し、秘密を扱う機会の多いこれらの業務の社会生活における円滑な運営に寄与しようとするものであるから、業務者自身が被疑者となっている場合に、押収拒絶権を付与することは、これを逆手にとって自己の罪罰を隠蔽し、刑事責任の追求を免れようとするものであって、健全な法感情に反し妥当でなく、このような場合まで本条が予定しているとは到底いえない。

(2) かりに、原告が本件カルテについて押収拒絶権を有するとしても、本件において、原告が押収拒絶権を行使した事実がない以上、本件押収が違法とされるいわれはなく、しかも、原告には、押収拒絶権を行使する機会は十分にあった。

(六) 本件調査の適法性について

(1) 本件押収が適法であったことは前記(一)ないし(五)のとおり明らかであるから、原告の主張はその前提において失当である。

(2) 収税官吏が、犯則事件を調査するため、必要があるときは参考人に対して質問することができるのであるから、査察官が右権限に基づいて、本件カルテに記載された患者に対し、当該記載にかかる事実の有無等について質問する等必要な調査をしたからといって、何ら違法とされるいわれはないし、また、検察官は犯罪の操作をするについて必要があるときは、被疑者以外の者に出頭を求めて取り調べることができる権限を有するのであるから、本件カルテに記載された患者に対して前同様の事項について取調べをしたからといって、これまた何ら違法とされるいわれはない。

四  原告の反論等

1  本件差押の経緯に関する被告の主張については、(一)の事実は認め、(二)の事実のうち、「出田が差押に際して、差押場所において東事務長に対して差押物件を確認させたうえで」とある部分は否認し、その余は認め、(三)及び(四)の各事実は否認する。

(一) 原告は、昭和五五年九月八日午前八時ころ、自宅において大蔵事務官訴外久徳勉(いか、久徳という。)らから令状を極めて瞬時の間呈示せられ、「今から所得税法違反の疑いで調査するから邪魔しないでくれ。」と言われただけであり、以後原告病院で診療に従事していた。

(二) 本件差押の事実については、原告は同日午後一〇時三五分ころになって、妻訴外伊井佐葉子(以下、佐葉子という。)から初めて聞いて知った。

(三) 佐葉子は執行に当たった内田らに対して「カルテも持っていくんですか。」と質問したところ、同人らは「令状があるから承諾も何も要りません。」と言った。

2  嫌疑の不存在

(一) 原告の所得金額が熊本国税局管内の他の同業者のそれに比し、かなり低額であったとの点については、いわゆる同業者比率を考える場合に考慮すべき立地条件、同業者との競合関係、医師数、看護婦数、ベッド数、病院の設備、使用医薬品等を別会社で賄っているか否か等の個別特殊事情を適切に考慮した形跡が全く見られない。

(二) 原告が修正申告をなしているとの点については、修正申告の内容を検討すれば、これが犯則嫌疑を強める性質のものでなかったことが明白である。すなわち、修正増所得額の六割以上を占めるのは棚卸もれであり、これが生じたのは、原告病院で使用する医薬品は、佐葉子が代表取締役をしている訴外有限会社永伸商事から仕入れることとしていたところ、各年度の医薬品の在庫が原告病院に属するものであるか、それとも右訴外会社に帰属するものであるのか区別が明確でなかったから、原告の方が税務当局の見解に従って医薬品の帰属を修正したことに基づくものである。また、修正増所得額の三割を占める収入もれは、患者に対し、理論的に請求すべき金額と実際の入金との差額、職員・知人等の関係者にかかる値引き及び未徴収金、患者への施療行為が昭和五一年末に行われ、支払機関への請求が昭和五二年になされた分を昭和五二年の収入に計上していたところ、昭和五一年分の収入として修正したものであり、その大部分は昭和五一年分の収入として修正した金額である。

(三) 部外者からの情報提供は全く信憑性を欠くものであり、特に原告病院の規模(医師二名)からして、毎日一六ないし二〇名について人工妊娠中絶手術を実施することが不可能であることは容易に判明しうることである。

(四) 被告主張の土地は、原告病院の事業用資産として購入したものではないから、青色申告決算書に記載がないのは当然である。

3  本件差押の違法性

(一) 押収拒絶権者たる業務者自身が自らの事件の被疑者・被告人となる場合にも刑事訴訟法一〇五条の押収拒絶権は認められるというべきである。すなわち、この場合に押収拒絶権が否定されるとすると、秘密を委託した者とかかわりなく、受託者一方の事情により委託者の秘密が社会的に暴露されるばかりか、それによって業務者の業務に対する一般社会の人々の信頼を根底から覆すことにもなりかねず、このことは本件のような秘密主体であり委託者である患者が原告の秘儀事実ないし公訴事実と共犯関係にもないような場合においては、より強く意識されなければならない。

(二) 診療録が帳簿書類に含まれるとみることは困難であり、本件捜索差押許可状の「差押えるべき物件」欄にはカルテの記載がないのに対し、原告病院に対する臨検許可状の「臨検すべき(場所又は)物件」欄にはカルテの文字が明記されており、右両許可状が同一の日時に同一の裁判所が発付したものであること、更には、両許可状の交付請求書においても同様の記載であることからすると、右「差押えるべき物件」の中にはカルテが含まれないというべきである。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用する。

理由

一  請求原因1、2の各事実はいずれも当事者間に争いがない。

二  本件差押及び本件調査の経緯について

原本の存在及び成立についていずれも争いのない乙第一号証ないし第九号証、成立に争いのない乙第一九号証ないし第二一号証、証人内田繁、同出田英幸、同東邦良及び同伊井佐葉子の各証言並びに当事者間に争いのない事実を総合すると、以下の事実が認められる。

1  昭和五五年九月五日、熊本国税局収税官吏大蔵事務官訴外西山俊三は、熊本地方裁判所裁判官に対し、原告に対する所得税法違反(第二三八条)事件(本件嫌疑は別紙のとおり)について、原告病院及び自宅に対する各臨検許可状及び各捜索差押許可状の交付請求をなし、同日、熊本地方裁判所裁判官は、原告病院及び自宅に対する各臨検許可状及び各捜索差押許可状を発付した。

2  右各臨検許可状の「臨検すべき物件」欄は、「現金・有価証券・カルテ・在庫品などの物件」と記載されているのに対し、右各捜索差押許可状の「差押えるべき物件」欄は本件所得税法違反の事実を証明するにたりると認められる一切の帳簿書類・往復文書・メモ・預貯金通帳・同証書・有価証券及び印章等の文書ならびに物件」と記載されていた。

3  同月八日午前八時ころ、久徳、内田ら五名の査察官及び熊本東税務署の職員三名が原告の自宅に赴き、内田が玄関先で応対に出た佐葉子に対し、所得税法違反嫌疑事件の調査である旨を告げ、自宅に対する臨検許可状及び捜索差押許可状を示した。

その後、久徳、内田ら五名の査察官は、居宅二階に上がって行き、原告が洗面所から出てくるのを待っていたが、その際、佐葉子は、身分証明書の提示を求めるとともに、査察官の氏名を確認した上で名前をメモした。そして、洗面所から出てきた原告に対し、内田が右各許可状を示すとともに、久徳が協力を求めたところ、原告もこれに同意した。

そこで、原告病院についての立会を誰にするかということが久徳と原告との間で話し合われ、東事務長を立会人とすることに決まった。

4  他方、同じころ、出田ら一二名が原告病院に赴き、出田が二階事務長室において、東事務長に対し、原告病院に対する臨検許可状及び本件捜索差押許可状を示し、所得税法違反嫌疑事件の調査である旨を告げて協力を求めて、臨検・捜索を開始した。開始後間もなく、自宅の臨検・捜索にあたっていた査察官の一人から、出田は、久徳と原告との間で東事務長を立会人とすることになった旨の連絡を受けた。

5  原告は、自宅の書斎の臨検・捜索に立ち会っていたが、同日午前九時前、内田らに診療のため原告病院に行かせて欲しい旨申し入れ、その後は自宅及び原告病院の臨検・捜索・差押に立ち会うことなく、原告病院で診療に従事した。そのため、その後の臨検・捜索・差押については概ね佐葉子が立会して同日午後八時三〇分ないし九時ころまで行われた。その結果、現金・有価証券・日記帳・カルテ等が発見され、そのうちの日記帳・カルテ等については差押がなされて差押目録が作成され、佐葉子が同目録に署名押印し、同目録の謄本一通を受け取った。

6  他方、原告病院については、出田らによって、同日午後四時ころまで臨検捜索が行われ、更に、同日午後四時ころから、本件カルテ等の差押手続が、東事務長立会の下で行われ、差押目録が作成され、東事務長が同目録に署名押印し、同目録の謄本一通を受け取った。

7  内田、出田らの査察官は、同日午後一〇時から一〇時三〇分ころ、原告自宅及び原告病院から差押えた本件カルテ等を搬出して、用意していた車に運び込み、全ての手続を終えた。

8  同日以降、昭和五六年三月六日までの間、内田ら及び熊本地方検察庁検察官訴外山田宰らにおいて、本件カルテを利用してこれに記載された患者数百名について、原告病院において、何時、如何なる治療を受けたか、人工妊娠中絶手術を受けたか否か等の調査を実施した。

右各認定事実に反する証人東邦良及び同伊井佐葉子の各証言並びに原告本人尋問の結果は採用しない。

三  本件差押及び本件調査の違法性の有無について

1  本件嫌疑事実の有無

(一)  租税犯則調査である強制調査としての臨検・捜索・差押は、爾後の犯則調査を進め、犯則事実の存否を判断する資料を得ることを目的とするものであるから、それを行う収税官吏が犯則につき抱くべき心証は、当該強制調査の時点において、犯則が一応存在するとの嫌疑で足りるものというべきである。

(二)  そこで、本件について本件嫌疑の有無について判断するに、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる乙第一〇、第一一号証、第一二ないし一五号証の各一、二、第一六号証の一ないし五、第一七号証、証人内田繁の証言及び当事者間に争いのない事実を総合すると、昭和五四年六月二五日午前一一時一〇分、住所氏名不詳の男性から熊本国税局に、原告病院について、「毎日中絶手術が大体一六ないし二〇名位であり、手術料は一名当たり三万五〇〇〇円ないし四万円である。そして、その手術料の領収は普通の受付薬局の場所とは別の場所で院長の妻かまたは従業員が領収しているものである。また、私の知人で富田薬品にいるものが言うには、薬品の仕入れは処理する場合に点数制を採用しているが、その仕入れについて伊井病院の医師のゴルフ代を加える等ごまかしを薬品会社と結託して行っている。」旨の電話による通報があったこと、原告は、昭和四九年ないし五一年分の所得税の申告に際し、多額にのぼる所得の過少申告をしていたこと、原告の昭和五一年分から五四年分の所得税の申告状況をみると、いずれの年においても、差益率・看護婦一人当たりの収入・ベッド一床当たりの収入のいずれも他の同業者のそれに比してかなり低いことが認められ、これらの事実によれば、本件差押当時において、収税官吏が原告について本件嫌疑が一応存在するとの疑いを抱くに足りる証拠資料を有していたことは明らかである。

したがって、収税官吏が犯則嫌疑として把握した事実は、嫌疑とするに足る根拠を欠くものであったとする原告の主張は採用しない。

2  本件差押の必要性の有無

1で認定した本件嫌疑の内容に照らすと、本件調査の目的を達成するためには、病名や治療方法等を記載するとともに、診療費用や保険診療報酬算出の基礎資料ともなる本件カルテの検討が不可欠であることは否定できず、原告が本件カルテについて保存義務を法律上負うことから直ちに本件カルテの差押の必要性がなかったということはできない。

したがって、原告のこの点に関する主張は採用できない。

3  本件差押の違法性の有無

(一)  本件捜索差押許可状の記載について

本件差押及び本件調査の経緯について認定した事実によれば、本件捜索差押許可状の「差押えるべき物件」欄の記載が原告主張のとおりであることは認められるが、本件捜索差押許可状の「差押えるべき物件」欄に記載されている帳簿書類とは、事務上の必要事項を記入した書類であって、一定の秩序の下に管理されたもの又はこのような形で保管されることを予定した書類をいうと解されるところ、カルテは医師が患者を診察した結果を記載したもので、法律上のその保管が義務付けられているものであるから、カルテが本件許可状に記載された帳簿書類に該当することは明らかであって、本件嫌疑の内容からみて、各臨検許可状の「臨検すべき(場所又は)物件」欄にはカルテの文字が明記されていること、カルテの重要性からいってこれを個別に明記することが妥当であることなどの各事実を考慮しても、本件捜索差押許可状発付裁判官及び同交付請求者において、カルテを差押えるべき物件から意識的に除外したということは到底認められない。

したがって、原告のこの点に関する主張は採用できない。

(二)  昭和五五年分のカルテの差押について

前掲の乙第五号証によれば、本件カルテの中には昭和五五年分のカルテも含まれていることが認められるが、右差押が違法か否かは、右五五年分のカルテが本件嫌疑と関連性を有するかどうかに関わるところ、本件嫌疑は確かに昭和五二年分ないし五四年分の所得に関わるものではあるが、その調査のためには、昭和五二年分ないし五四年分の資料に止まらず、その前後にわたって調査する必要性を否定することはできないのであって、右五五年分のカルテが本件嫌疑と関連性を有しないということはできない。

したがって、原告のこの点に関する主張も採用できない。

(三)  原告の押収拒絶権について

刑事訴訟法一〇五条の規定が国税犯則法二条に基づく差押の場合にも適用されるが、更には、本件のように業務者自身が嫌疑者である場合に刑事訴訟法一〇五条の規定が準用されるかどうかという点は、さておき、前認定の本件差押及び本件調査の経緯によれば、原告は本件カルテの臨検・捜索・差押のいずれの手続にも立ち会っていないことは認められるものの、原告自身が、もしくは原告の指示をうけて佐葉子または東事務長が本件差押において押収拒絶権を行使したと認めるに足りる証拠はなく、しかも原告において原告病院において臨検・捜索・差押がなされることは十分確認していたというべきであって、押収拒絶権行使の機会を与えられていたことは明白である。(なお、押収拒絶権の告知義務については、これを認める明文の規定もなく、内田らには、原告に対して、押収拒絶権を有することを告知するまでの義務はないと解するのが相当である。)

したがって、原告のこの点に関する主張も採用できない。

(四)  以上によれば、原告の本件差押が違法である旨の主張はいずれも理由がない。

4  本件調査の違法性の有無

原告は、本件カルテに基づく調査は違法である旨主張するが、この主張は、本件差押の違法を前提とするものであるが、3で認定したとおり、本件差押が違法であると認めるに足りる証拠はないから、原告の主張はその前提を欠くものであって、採用できない。

四  そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 足立昭二 裁判官 大原英雄 裁判官 横溝邦彦)

別紙

犯則嫌疑者伊井久雄は、熊本市大江町八番一五号に居住し、同所において伊井産婦人科病院を営む医師であるが、昭和五二年ないし同五四年分において、その取引を仮装隠ぺいし、実際には申告額を上廻る所得があるにもかかわらず、所轄熊本東税務署長に対し過少な所得金額を記載した確定申告書を提出し、もって不正な行為により、次のとおり多額の所得税を免れた疑いがある。

<省略>

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