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浦和地方裁判所 昭和53年(タ)21号 判決 1981年5月27日

原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 森勇

被告 甲野三郎

右訴訟代理人弁護士 舘孫蔵

同 加毛修

同 川嶋義彦

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「蓮田市長昭和五三年一月三〇日受付の養子縁組届による亡甲野ナツと被告との間の養子縁組が無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告訴訟代理人は、主文と同旨の判決を求めた。

原告訴訟代理人は、請求の原因として次のとおり述べた。

一  原告は、亡甲野ナツの弟であり、戸籍の記載によると、ナツと被告との間には蓮田市長昭和五三年一月三〇日受付の養子縁組届による養子縁組がなされている(以下単に「養子縁組届」又は「縁組」という。)。

二  しかし、ナツには被告との間に養子縁組をする意思がなかったから、ナツと被告との間の縁組は無効である。すなわち、その理由は次のとおりである。

(一)  ナツは、看護婦を職業としていたが、生涯独身を通し、昭和五〇年国立療養所B病院(以下「B病院」という。)を退職した後、昭和五三年一月三一日同病院で死亡した。

ナツは、死亡時に遺産として三〇〇〇万円を超える預金類、宅地約一〇〇坪及びその地上の居宅等を遺した。

(二)  原告らは四男五女の兄弟姉妹(ただし、長男及び二男は若年で死亡した。)であったが、被告の母訴外乙山フユは、長姉で強気の性格をもっていたので、弟妹を威圧し、事毎に自分の意思を押し通していた。

フユは、妹のナツが生涯独身を通し、晩年相当の資産を貯えたことを知って、自分の三人の男の子のうちの一人をナツと縁組をさせ、ナツの遺産を養子一人に相続させようとして、日ごろ画策していた。

(三)  ナツは、昭和四八年九月自宅を新築したが、間もなく次姉訴外丙川ハルの子訴外丙川夏夫を自宅に入居させて、夏夫と同居した。

フユは、ナツが夏夫と同居していることを不快に思い、昭和四九年二月ナツに対し、夏夫を退去させて、フユの三男被告を入居させるよう迫った上、同年九月夏夫が富山県下新川郡C町の生家に帰省した際、被告を強引にナツの家に入居させた。しかし被告は、病弱なナツの面倒を見ようとせず、毎晩のように酒を飲んで深夜帰宅した上、給料をほとんど飲酒代に費消したので、几張面であったナツは、被告と顔を合わせるのも嫌だと言うようになり、ナツと被告は、同じ家で生活を全く別にするようになった(ナツの家は一棟二戸建アパートのような構造になっていた。)。それなのにナツは、フユに対する気兼ねから被告に対して直接退去するよう言い出すこともできず、弟妹らに対し何とかして被告を家から出て行くように仕向けてくれと頼んだりした。

(四)  ナツは、フユの二男訴外乙山二郎を入居させることにすれば、被告を円満に退去させることができるものと考え、昭和五二年一月そのことを原告に相談した。原告ら兄弟姉妹五人(フユとナツを除く全員)は、協議の結果、二郎の性格・言動から見て被告の場合より更に悪い結果が生ずることを心配し、二郎を入居させるよりは、ナツがかねて希望していた原告の長女訴外甲野花子にナツの面倒を見させるのが最適であるから、花子が高校を卒業したら花子を同居させることとし、それまでの期間は原告の弟夫婦にナツの面倒を見させるのが良いと決め、原告は、同年二月ナツに対し右の旨を申し入れた。

ナツは、原告の申入れをそのまま実行したのではフユからどのような仕返しを受けるか分からないと言って、右の申入れを承諾しなかったので、原告ら兄弟姉妹五人は、二郎を入居させる場合にはナツと二郎との間において、二郎の行為を制限して自分勝手な行動をさせないこと、二郎が誠意をもってナツに尽くすかどうかを見届けた上でナツと二郎の養子縁組をさせるためこれにつき弟らの同意を要すること等と定めた契約を結ぶべきであると協議をし、右の旨を記載した契約書の案文を作成して、同年三月その案文をナツに提示した。ナツは、これほどまでして自分のことを心配してくれるのかと喜び、原告らに対し右のように取り決めたいと話した。ところが、ナツは、フユの反対を受け、二郎との間に原告らの提示した条項と異なる内容の同居契約を結んだので、原告ら五人は、ナツが原告ら五人に一言の相談もなく契約の内容を変更した上、身内の者でない者を立会人として契約を結んだことに立腹し、原告は、同年四月右の旨をナツに通告した。

結局二郎は、ナツと同居するに至らず、被告は、依然としてナツと同居を続けたが、ナツと被告は、従前と同じように別居同然の生活を続けていた。

(五)  ナツは、第三者と養子縁組をしてまで一家を興す意思を持たず、自分が死亡したときには父母と同じ墓に葬ってほしいと口癖のように言っていた。原告は、昭和四三年六月C町に父母らの墓を建立したが、その際ナツは、自分も同じ墓に入るのだと言って、その費用の一部を負担した。ナツは、自分の家から被告を追い出すために二郎との間に同居契約を結んだのであり、被告を極度に嫌っていたのであって、被告との間に縁組を結ぼうとする意思は全く持っていなかった。

被告は、昭和五三年一月、後日被告の妻となった訴外甲野春子と見合いをしたが、当時無一文であったので、春子と婚姻するには強引な手段を用いてまでもナツとの縁組の届出をなし、ナツの養子となって将来ナツの遺産を承継することができるような形式を整えようと企てた。

(六)  被告は、昭和五三年一月中に養子縁組届をするのに必要な書類を取り寄せて準備をしていたが、ナツとの間の縁組を実現しないうちに、ナツが同月二七日B病院に入院した。ナツは、入院時には食事も用便も独りでできるような状態であったが、同月二九日深夜に容態が急変し、危篤状態に陥った。被告は、直ちに右の旨を電話でフユに知らせたところ、フユは、同じ町内に住む弟妹らにこれを知らせず、直ちに夜汽車に乗ってC町を発ち、同月三〇日早朝蓮田市の被告方に着いた。

被告とフユは、協議の上、かねて準備していた養子縁組届用紙等を用いて被告とナツとの間の縁組の届出をしようと企て、被告は、養子縁組届の「養親になる人」の届出人欄にナツの氏名等をナツに無断で記載した上、有り合わせの「甲野」と刻した印章を押捺して、ナツ名義の作成部分を偽造し、同月三〇日午前九時ころ右偽造に係る養子縁組届を蓮田市役所の戸籍担当者に提出した。

(七)  ナツは、かねて被告と縁組をする意思を持ったことがなく、しかも縁組の届出がなされた同月三〇日午前九時ころには危篤状態に陥っていたのであって、被告との縁組の届出をする意思も持っていなかった。

被告は、早稲田大学法学部を卒業した者であり、縁組の届出には届出人が自ら自分の氏名を記載してこれに押印すべきものであることを知っていた。また、フユの長男訴外乙山一郎はC町役場に係長として勤務し、その妻訴外乙山夏子は同役場の戸籍係を担当していたから、被告は、戸籍事務に精通し、届出人の署名が代署されたものであっても、戸籍担当者に受理されてしまえば、届出の効力が生ずることを知っていて、あえてナツの作成部分を偽造した。

ナツは、印鑑登録をした実印及び実印の代用として銀行取引等に使用していた海南島印(海南島在勤時に買い求めた印章)を所有していたが、被告は、養子縁組届を作成するに当たってナツの実印及び海南島印を見付けることができず、有り合わせの三文判を用いざるを得なかった。厳格すぎるくらい几張面であったナツが、今後の法的身分関係を設定する唯一の重要な文書である養子縁組届を作成するに当たって、届出人欄に自ら署名をしないでこれを他人に代署させ、しかも実印等を押捺しないで三文判を使用させたというようなことは、到底考えられないことである。

被告は、ナツが危篤状態に陥ったことを見て、ナツの死亡後ナツの遺産を独り占めしようと考え、ナツ名義の作成部分を偽造して縁組の届出をしたのである。

三  そこで、原告は、被告に対し、ナツと被告との間の養子縁組が無効であることの確認を求める。

被告訴訟代理人は、請求の原因について次のとおり述べた。

一  第一項の事実は認める。第二項の事実は否認する。

二  ナツは、被告との間に縁組をする意思を持っていたのであり、ナツと被告との間の養子縁組届は、ナツの縁組の意思とこれに則した届出の意思に基づいてなされたから、ナツと被告との間の縁組は有効である。すなわち、その理由は次のとおりである。

(一)  訴外甲野松太郎と訴外甲野マツとの間には、長女乙山フユ、二女丙川ハル、三女甲野ナツ、四女訴外戊田アキ、五女訴外甲花ウメ、三男原告及び四男訴外甲野杉夫があった。

フユの夫訴外乙山冬夫は、C町において農業兼公務員を、ハルの夫は同町において農業を、アキの夫は同町において農業兼会社員を、ウメの夫は同町において農業兼会社員を、原告は同町において電気工事業を、杉夫は魚津市D町において給食センター勤務をそれぞれ稼業としていた。

冬夫とフユとの間には、長男一郎(昭和一二年四月一一日生)、二男二郎(昭和一五年九月二一日生)及び三男被告(昭和二二年六月一〇日生)がある。

(二)  ナツは、昭和四、五年ころ生家を出て看護婦として自活し、戦時中は外地を転戦し、復員後も看護婦を続けて、昭和五〇年九月退職したが、終生独身を通した。

ナツは、昭和四八年一〇月ころ自宅を建築し、昭和四九年二月から同年一〇月中旬まで交通事故のため入院した(以下「第一回入院」という。)。ナツは、肺性心の治療のため、昭和五二年一月から同年五月一六日まで入院した(以下「第二回入院」という。)上、昭和五三年一月二七日から同月月三一日まで入院し(以下「第三回入院」という。)、同月三一日死亡した。

(三)  ナツは、フユに対して終始深い信頼と敬愛の念を寄せていたが、かねてからフユに対し、老後のために男の養子を得たいと述べていた。ナツは、自宅を建築すると、性急に養子を望むようになり、昭和四九年一〇月初旬被告を病室に呼んで被告に対し、「間もなく退院になるが、心細い。やがて養子になって、老後の面倒を見てほしい。その前提で退院後は同居してもらいたい。」と申し入れた。

被告は、昭和四八年三月早稲田大学法学部を卒業して訴外E商会株式会社に入社し、東京都中野区所在のアパートを賃借してこれに居住していたが、ナツから右のような申入れを受けたので、これを承諾し、昭和四九年一〇月一七日右アパートからナツ方に転居して、ナツの養子になる前提の下にナツと同居するようになった(ちなみに被告は昭和五〇年一月一四日ナツ方に住民登録を移した。)。そしてナツは、「嫁も老後の面倒を見てくれる人であってほしい。」と言いながら、被告の結婚相手を探し始めた。

(四)  ナツは、被告の結婚相手が容易に見付からないので、焦躁にかられた上、病を得たので、第二回入院の直前ころ被告を養子にすることを断念して、兄の二郎を養子に迎えることを考えた。

ナツは、昭和五二年一月二郎を呼び寄せて、二郎に対し養子になってくれるよう懇請した。二郎は、妻の同意を得た上、ナツに対しその要請に応ずると回答した。ナツは、二郎夫婦から養子になることの承諾を得た旨を、C町のフユ及び原告に知らせた。ところが原告は、同年二月ナツに対し、「二郎を養子にすることには反対する。原告の中学三年生の娘を養子にしてはどうか。この娘が高校を卒業してナツと同居するに至るまでの間は、自分の妻の弟夫婦をナツと同居させておきたい。」と申し入れた。ナツは、原告の妻に根強い不信感を持っていた上、原告の妻の弟夫婦とは面識がなかったので、原告の申入れを拒絶した。

すると原告は、同年三月ナツに対し、二郎を養子にする場合の条件として、ナツと二郎の縁組の届出は五年間の同居を経た後に原告及び弟の同意を得てなされるべきであり、その同意を欠いてなされた届出は無効とすべきであること、縁組届出後ナツが死亡した場合でも遺産の土地建物については二〇年間売買・担保設定・賃貸等をしないこと、などと申し入れた。ナツは、原告の右のような理不尽な干渉に激しく怒り、原告の申入れを一蹴した。原告は、その後見舞と称してナツを病院に訪ね、ナツを大声で罵倒した。そこでナツは、同年四月兄弟姉妹全員に対し、ナツが二郎と養子縁組をするつもりでいる旨を通知した。原告を除くその余の者はナツの心情に理解を示した。

しかし二郎は、同年五月一四日ナツに対し、二郎の妻が原告の言動を知って、縁組後において予想される原告からの干渉を恐れ、拭い難い不安を抱くに至ったことを理由として、縁組の承諾を撤回したいと申し入れた。ナツは、やむなく二郎との縁組を断念した。

(五)  ナツは、当初から意中の相手であった被告を養子にすることを決意し、第二回入院から退院した後は一層意を尽くして被告の結婚相手を探した。被告は、昭和五三年一月七日甲野春子(昭和二七年一一月五日生)と見合いをしてその成果を得、同月一六日春子と婚約をした。

ナツは、被告と春子の婚約を喜び、被告との縁組の届出を一刻も早くしたいと考えた。ナツは、同月二四日フユに電話をして、被告との縁組の届出をするために被告の戸籍謄本を送ってほしいと依頼した。フユは、同日C町役場から被告の戸籍謄本の下付を受け、これをナツに郵送した。

ところがナツは、被告との縁組の届出をする直前に病気のため入院を要することとなり、同月二七日午前一〇時過ぎころB病院に入院した。

(六)  ナツは、昭和五三年一月二七日自宅からB病院に向かう自動車の中で被告に対し、「早く市役所に行って、養子縁組の入籍をして来い。私の印鑑はここに持っているから、これを持って行け。」と言ったが、被告は、ナツの入院のこと以外に余念がなかった。ナツは、同日午前一一時ころ病室に落着くや被告に対し、「早く市役所に届をして来てくれ。」と繰り返した。被告は、入院手続が一段落した後、ナツから印鑑を受け取って、同日午後三時ころ蓮田市役所に行った。

被告は、市役所において養子縁組届の届出人欄に被告とナツの住所氏名等を記載し、これに被告とナツの各印鑑を押捺して、これを戸籍担当者に提出したが、証人欄に証人二人の署名押印が欠けていたので、受理されなかった。被告は、同日午後四時ころナツの病室に戻って、被告とナツの署名押印のある養子縁組届の書面をナツに見せ、ナツに対して証人二人の署名押印が必要であったと報告した。ナツは、右書面を見て、「早くこれを出してくれ。」と言い。被告が、証人の一人を会社で世話になっている人にしたいと言うと、「もう一人は乙海看護婦にしたい。」と言った(訴外乙海杉子はナツの教え子であった上、被告と春子の縁を取りまとめた者である。)。

被告は、同日午後五時ころ勤務先の会社において養子縁組届の証人欄に訴外丙田杉太郎の署名押印をしてもらった。被告は、同月二九日中に証人乙海の署名押印をもらう約束をしていたが、乙海がこれを失念したので、被告は、同日午後七時ころナツに対し、「乙海が印鑑を持って来るはずであるから、証人欄に署名押印してもらっておくように。」と言って、養子縁組届の書面をナツの枕元に置いて退室した。乙海は、勤務に忙殺されて二九日の約束を忘れ、同月三〇日午前七時ころナツの病室において右書面の証人欄に署名押印をした。

被告は、同月三〇日午前九時ころ蓮田市役所に対して養子縁組届を提出し、これを受理された。

(七)  ナツは、同月二九日深夜から漸次意識不明となり、同月三一日午後零時ころ意識を回復した。被告と乙海がナツに対し養子縁組届をすませたと告げたところ、ナツは、安心したと言って謝辞を述べた。

ナツは、同月三一日午後七時一〇分に死亡したが、病状はその一〇分ないし二〇分前に急変したのであり、それまでは意識も回復後の状態を維持していた。

ナツの死亡はその直前まで予測されなかった。第三回入院のときでも第二回入院に比べて病状が重いとは思われなかった。そのため被告は、ナツとの縁組の届出を急がなかった。仮に被告が原告主張のような意図を持ってナツとの縁組をしたのであれば、被告は、もっと早い時期に縁組の届出をすることができたはずであるし、ナツの入院後においても急拠その届出をなし得たはずである。被告は、ナツの第三回入院に際しても、ナツが健康を回復して退院することを信じ、その回復に至るまで看病に専念した上、退院後はナツに孝養を尽くすことを念じていた。

しかしナツは死亡し、被告は、施主としてナツの葬儀法要の一切を執り行った。生前ナツと親交のあった者は、被告がナツの養子になったことを心から喜んでいる。

《証拠関係省略》

理由

一  《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  訴外甲野松太郎と妻訴外甲野マツとの間には、長女訴外乙山フユ(明治四一年一二月二三日生)、二女訴外丙川ハル(明治四四年九月二八日生)、三女訴外甲野ナツ(大正三年一月二三日生)、四女訴外戊田アキ(大正一四年五月二九日生)、五女訴外甲花ウメ(昭和二年一月二八日生)、三男原告(昭和四年二月一五日生)及び四男訴外甲野杉夫(昭和六年九月二五日生)があった。

フユは、昭和一〇年八月一七日訴外乙山冬夫と婚姻し、その間に昭和二二年六月一〇日三男として被告をもうけた。

(二)  被告は、昭和五三年一月二七日午後三時ころ蓮田市役所において、戸籍担当者から養子縁組届用紙一通の交付を受け、その場で縁組届の「養子になる人」の欄に、被告の氏名・生年月日・住所(世帯主の氏名)・本籍(筆頭者の氏名)・父母の氏名・父母との続き柄・入籍する戸籍(筆頭者の氏名)を記載し、届出人署名押印欄に被告の氏名を書いて被告の印章を押捺した上、縁組届の「養親になる人」の欄に、甲野ナツの氏名・住所(世帯主の氏名)・本籍(筆頭者の氏名)を記載し、届出人署名押印欄にナツの氏名を書いて「甲野」と刻したナツの認印(以下「認印」という。)を押捺した。

被告は、同日午後四時ころ蓮田市《番地省略》在のB病院において、入院中のナツからナツの生年月日を聞き、縁組届用紙にナツの生年月日を記載した上、既にナツと被告の各署名押印(ただし、ナツの氏名は被告が代署したものである。)が記入された縁組届用紙をナツに示して見せ、ナツに認印を返還した。

(三)  被告は、ナツと相談して、縁組届をするのに必要な証人を訴外丙田杉太郎及び訴外乙海杉子の両名に依頼することを決めた。その後被告は、丙田及び乙海に依頼して、縁組届用紙の証人欄に丙田及び乙海の各住所・本籍・氏名を記載してもらい、押印をしてもらった。証人欄には丙田及び乙海の各生年月日の記載が欠けていたので、被告は、電話でこれを聞き、証人欄に丙田及び乙海の各生年月日を記載した。

(四)  被告は、昭和五三年一月三〇日午前九時ころ蓮田市役所において、蓮田市長あての被告とナツとの養子縁組届を提出し、その縁組届は直ちに受理された。

(五)  ナツは、当時前記認印のほか、蓮田市長に登録していた実印(以下「実印」という。)及び印顆に「海南島記念」と刻してある海南島印(以下「海南島印」という。)を所持していたが、養子縁組届の届出書には認印が使用された。

二  そこで、ナツと被告との養子縁組届が提出されるに至った経緯について順次検討する。

まず、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  甲野ナツは、富山県下新川郡C町《番地省略》で出生し、小学校を卒業して、昭和四年ころ上京し、慶応義塾大学医学部附属病院の看護婦養成所に入所して看護婦になった。ナツは、昭和一三年ころから神奈川県所在の国立療養所に勤務し、昭和一七年ころ海南島に従軍看護婦として派遣され、海軍病院で勤務した。ナツは、昭和二一年三月復員したが、肋膜炎を患っていたので、直ちに神奈川県の国立療養所に入院し治療を受けた。ナツは、二、三年間入院した後、看護婦養成所で教務主任などとして勤務したが、その後B病院に勤務するようになり、ナツは、昭和二七年ころ既に同病院で婦長として勤務していた。ナツは、昭和五〇年一〇月ころ同病院を退職したが、ナツは、生涯婚姻せず、独身を通した。

(二)  乙山フユは、冬夫と婚姻して、その間に昭和一二年四月一一日長男訴外乙山一郎、昭和一五年九月二一日二男訴外乙山二郎及び昭和二二年六月一〇日三男被告をもうけた。

丙川ハルは、昭和五年一〇月一四日訴外丙川春夫と婚姻し、その間に昭和一七年一二月一八日三男訴外丙川夏夫をもうけた。

戊田アキは、昭和二二年四月一一日訴外戊田秋夫と婚姻した。

甲花ウメは、昭和二四年三月一六日訴外甲花十郎と婚姻した。

原告は、昭和三四年四月二八日訴外甲野花枝と婚姻し、その間に長女訴外甲野花子をもうけた。

(三)  甲野マツは、昭和四三年二月一六日死亡し、甲野松太郎は、同年四月二三日死亡した。原告は、祖先の祭祀を承継し、同年六月亡父母の墓を建立したが、ナツは、将来その墓に埋葬してもらいたいと希望して、墓の建立費用約三〇万円のうち一〇万円を負担し、同月二二日ころこれを原告に支払った。

原告は、昭和四七年八月一二日C町に自宅を新築してこれに入居したが、ナツは、そのころ原告に対し新築祝として五万円を贈った。

(四)  ナツは、蓮田市《番地省略》に宅地約一〇〇坪を買い受けていたが、昭和四七年一一月ころからその地上に居宅の建築を開始し、昭和四八年八月その建築工事が完成した。右居宅の構造・間取りは一棟二戸建のようになっていて、玄関・台所・勝手口・風呂場が左右の建物部分にそれぞれ別個に取り付けられ、その中央部分に共用の便所が設けられていた。

(五)  丙川夏夫は、昭和四一年三月早稲田大学法学部を卒業して訴外株式会社F銀行に就職したが、司法試験の受験勉強をするために昭和四六年同銀行を退職し、同年一二月上京して、東京都豊島区池袋所在の貸間に下宿をしながら勉強していた。

ナツは、新築の居宅に身内の者を住まわせて、夜間の警護をしてもらったり、自分の身の回りの世話をしてもらったりしようと考え、昭和四七年一〇月下旬ころ夏夫に対し、主として夜間の警護のために新築予定の居宅に入居してほしいと依頼した。夏夫は、受験勉強をするのに閉静な場所の方が良いと考えてこれを承諾し、居宅の建築工事が完成すると、昭和四八年八月下旬ころナツの居宅に移り住み、一人で留守番をしていた。

ナツは、B病院の宿舎G寮に住んでいたが、同年一〇月下旬ころ新築の居宅に移り住み、夏夫と二人で暮らすようになった。ナツと夏夫は、時には一緒に食事をしたり歓談したりしたこともあったが、日ごろは食事を別々にして暮らしていた。

(六)  ナツは、昭和四九年二月ころ交通事故に遇って大腿骨々折等の傷害を負い、B病院に入院(第一回入院)して治療を受けたが、勤務関係はそのころから休職扱いとなった。ナツは、同年一〇月中旬ころ同病院を退院して自宅で療養していたが、同じように休職扱いとなり、ナツは、昭和五〇年一〇月ころ同病院を退職するに至った。

三  次に、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  丙川夏夫は、ナツが交通事故で入院した後もナツの居宅に一人で住んで司法試験の受験勉強をしていたが、経済的に余裕がなくなったので、入院中のナツに対し小学校の夜警の仕事をしたいと申し出た。ナツは、『夏夫が夜間家を明けるのでは困る上、夏夫が定職に就かないので、夏夫を同居させて置く意義がなくなった』と考え、夏夫の代りに被告を入居させようと考えた。

被告は、昭和四八年三月早稲田大学法学部を卒業し、訴外株式会社E商会に就職して、東京都中野区大和町所在のアパートH荘に住んでいた。

ナツは、昭和四九年九月被告を入院中のB病院に呼び寄せて被告に対し、「退院しても、夜間誰も居ないのでは不安であるから、ナツ方に転居してナツと同居してほしい。」と申し出た。被告は、これを承諾し、同年一〇月中旬ころナツ方に入居して、退院したナツと一緒に住むようになった。夏夫は、そのころナツ方から他に転出した。

被告は、昭和五〇年一月一四日蓮田市長に対しナツ方に転入したことを届け出た。

(二)  ナツは、昭和四九年一〇月中旬ころB病院を退院して被告と同居するようになったが、ナツは、かねてから慢性気管支炎を患い、病弱の身であったこともあって、炊事・掃除・洗濯・買物等の日常の家事につき、教え子の看護婦や近所の者の助けを借りることが多かった。そこでナツは、『被告を早く結婚させて、被告夫婦に同居してもらい、被告の妻に身の回りの世話をしてもらうようにしたい』と考え、多数の知人に対し被告の配偶者を見付けてくれるように依頼した。

被告は、主として通勤上の理由から昭和五〇年三月株式会社E商会を退職し、直ちに岩槻市表慈恩寺所在の訴外I工業株式会社岩槻工場に就職した。

被告は、同年六月ころから昭和五一年一二月までの間に紹介を受けた女性数名と数回見合いをしたが、いずれも婚約するまでに至らなかった。

(三)  ナツは、昭和五二年一月二四日ころB病院の主治医訴外戊月松夫にナツの症状を説明して、肺性心の治療のため同病院に入院することを決めた。

乙山二郎は、訴外J株式会社に勤務し、昭和四三年四月訴外乙山一枝と婚姻して、その間に昭和四九年五月九日長男訴外乙山一夫をもうけ、親子三人で神奈川県川崎市《番地省略》に住んでいた。

ナツは、昭和五二年一月二三日ころ二郎を自宅に呼んで二郎に対し、「被告に嫁をもらい、被告を養子にして面倒を見てほしいと思っていたが、被告の嫁がなかなか決まらないので困っている。もう待てないから二郎に頼むことにするが、養子になって私の面倒を見てほしい。」と申し入れた。二郎は、一枝と相談し、一枝がナツの養子になってナツの面倒を見ることを承知したので、二郎は、同月二六日ころナツに対し、ナツの養子になってナツと同居し、ナツの面倒を見ることを承諾すると回答した。

ナツは、そのころ被告に対して二郎夫婦の回答を告げ、被告は、ナツに対し、二郎夫婦がナツ方に入居するときにはナツ方から退去すると約束した。

またナツは、同月三〇日C町の原告に対し電話で、ナツと二郎夫婦との間に右のような養子縁組等の合意ができたことを知らせた。そしてナツは、同月三一日肺性心の治療のためB病院に入院(第二回入院)した。

(四)  原告は、ナツが二郎夫婦と縁組を結ぶことに反対であった。そこで原告は、同年二月三日入院中のナツに対し次のような内容の手紙を書き送った。すなわち、『ナツの跡取りの件でハル、アキ、ウメ、杉夫の四人と相談し検討した。二郎のことは姉三人と原告が大反対である。そこで原告の長女花子はどうか。姉三人も花子なら反対しないし、花子の意向も打診した。花子は今年高校入学で、高校を卒業したらナツ方に同居させる。それまでの間、原告の妻花枝の弟夫婦が上尾市に借家して住んでいるので、その弟夫婦を被告の代りにナツと同居させ、ナツの面倒を見させることにしたい。』

ナツは、原告の申入れを承諾しなかった。原告は、同年二月二四日入院中のナツを訪ねてナツに対し、「二郎を養子にするのは反対である。花子を養子にしてほしい。そうでなければ姉弟の縁を切る。」などと言い、ナツが、二郎との間に縁組を結ぶ意思を固めていると説明すると、原告は、大声を出して怒った。

(五)  原告は、同年三月二日原告方にハル、アキ、ウメ、杉夫を集めて、二郎がナツ方に入居してナツと縁組を結ぶ場合にはこれに注文を付けようと相談し、その場合にはナツと二郎が次のような内容の覚書を交換すべきであると合意して、原告がこれを「建物の入居請託に関する契約」と題する文書にまとめ上げ、原告は、同月五日ウメとともに入院中のナツを訪ねてナツに対し、右契約書の案文を手交した。その内容は、『ナツが病弱の身であるため、二郎は入居後誠心誠意ナツの面倒を見て世話をすること。ナツは、二郎の入居時から五年を経過した後、原告及び杉夫の同意を得て、二郎との縁組の届出をすること、縁組後ナツが死亡した場合、ナツの遺産の土地建物については二〇年間売却をしないこと。以上の事項を忠実に履行し、若し不履行の場合には契約を解消する。』などというものであった。

ナツは、原告から提示された契約書案を検討したが、その案文どおりの契約書又は覚書を作成することを拒絶した。

(六)  訴外甲田五郎は、昭和一八年一〇月ころ海軍経理学校を卒業して、直ちに海南島の海軍病院に勤務したが、同年一二月ころ同病院において、婦長として勤務していたナツと知り合った。甲田は、復員して昭和二三年二月大分県から上京し、そのころ警視庁警察官に採用されて、昭和四九年七月ころまで警視庁に勤務した。その後甲田は、東京都葛飾区《番地省略》の自宅で書道の教授をしていた。また甲田は、ナツがB病院に勤務していたことを知り、昭和二七年ころからしばしば妻とともにナツを訪ねて、ナツと交際を続けていた。

ナツは、昭和五二年三月八日甲田をB病院の病室に呼んで甲田に対し、原告から受け取った前記手紙と契約書の案文を示した上、「原告からこのようなものが来て困っている。何とかしてほしい。」と依頼して、対抗策を講じようとした。

(七)  甲田は、ナツ及び二郎と協議をして、ナツと二郎との合意の内容を文書に認めて明確にしておくのが良策であると進言し、甲田は、同年四月一二日次のような内容の「同居契約書」と題する文書を作成し、これにナツ及び二郎とともに立会人として署名押印した(ただし、ナツ及び二郎の氏名は甲田が代署した。)。その内容は、『二郎及び一枝は、ナツが病弱のため誠意をもって生活面その他の援助を行う。入居後六箇月経過し両者合意のもとに養子縁組を行う。』などというものであった。

甲田は、そのころナツから依頼されて、同居契約書の作成経緯を書き綴ったナツの手紙と同居契約書の各写しを作製し、これらをフユ、ハル、アキ、ウメ、原告、杉夫らに対して郵送した。

(八)  原告は、同年四月一五日ナツの手紙と同居契約書の写しを受け取ったが、ナツが右のような対抗策を講じたことに激怒して、直ちに次のような内容の手紙を書き、翌一六日その手紙を添えて同居契約書の写しをナツに対し返送した。手紙の内容は、『原告に全然関係のない契約書が着いたが、これはどんなことか。お前ほど親不幸で兄弟に肩身の狭い思いをさせた女はいない。この意味が分かるか。とにかく早く本籍を引き上げて、関係なくしてくれ。こりごりだ。子供の対人関係にも影響する。これで乙山親子の何十年来の悲願が叶えられ。乙山家の喜びは察するに余りがある。』などというものであった。

(九)  ナツは、原告から同居契約書写しを返戻されるなどしたことに憤慨した。しかし二郎は、ナツが退院するまでにナツ方に入居するための準備に取り掛かり、被告は、岩槻市東岩槻にアパートを借りて転出先の準備を整えた。

ところが二郎の妻一枝は、同年三月六日原告と初対面した時に受けた原告の印象、原告からナツに送られた手紙の内容、ナツの病室で示した原告の言動の伝え聞きなどからいろいろな事態の発生を予測して、二郎とともにナツ方に同居し将来ナツの養子になることに不安を感じていたが、同居の日時が迫るにつれ恐怖さえ覚えて睡眠不足となり、神経衰弱に陥った。

そこで二郎は、同年五月一〇日ころナツに対し、一枝の心理状態などを説明して、ナツとの同居及び縁組を予定どおりに実行するとすれば相互に不幸に陥るばかりであるから、ナツとの同居及び縁組の約定を解消したいと申し出た。

ナツは、二郎の右解消の申入れを承諾し、同年五月一六日B病院を退院して、被告の住む自宅に戻った。

四  そして、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

(一)  ナツは、昭和五二年五月一六日B病院を退院すると、そのころ被告に対し、「大変申し訳ないことをしたが、引き続いてナツと一緒に生活し、養子になってもらいたい。」と申し入れた。

ナツは、知人に頼んで一層真剣に被告の配偶者を探すようになった。被告は、同年一〇月小学校の教師と、同年一一月中学校の英語教師とそれぞれ見合いをしたが、いずれも婚約するまでに至らなかった。

(二)  乙海杉子は、昭和二六年看護婦養成所においてナツ(当時教務主任)から教えを受け、昭和四八年六月からB病院において看護婦として勤務していたが、同病院ではナツの唯一の教え子であったので、ナツと親しく交際していた。

被告の妻訴外甲野春子(旧姓甲山)は、昭和四七年三月に准看護婦、昭和五〇年三月に看護婦となり、昭和五一年一一月から同病院に看護婦として勤務していた。

乙海は、被告に春子を紹介し、被告は、昭和五三年一月七日ころ春子と見合いをして、同月一六日ころ春子と結婚する約束をした。被告が、そのころナツに対し春子と婚約したことを知らせると、ナツは、これを喜び、被告に対し、「結婚式はなるべく早い方がよい。早ければ二月ころにやりたいが、出来るなら私が出席した上でやってもらいたい。春子の姓が乙山、甲野と二度変わるのは面倒であるから、被告との縁組の届出を先にしておいた方がよい。」などと言った。

春子は、同病院の宿舎に寄宿していたが、同月二二日から二六日まで毎日勤務時間の合間を見てナツ方を訪れ、ナツの世話をした。

ナツは、被告との縁組の届出に使用する目的をもって、同月二四日フユに対し電話で、被告の戸籍謄本(筆頭者の乙山冬夫)二通を送ってくれるように依頼した。冬夫は、同日C町役場において右戸籍謄本二通の交付を受け、翌二五日これをナツにあて速達便で発送した。ナツは、同月二七日午前九時ころ右戸籍謄本二通を受け取った。

なおナツは、既に昭和五二年三月二三日蓮田市長に対し分籍の届出をなし、蓮田市《番地省略》に本籍を設けていた。

(三)  ナツの肺性心の病状は冬季になると悪化する傾向にあったので、B病院の医師戊月松夫は、昭和五二年一一月下旬ころ乙海に対し、「親密な間柄にある乙海からナツに対し、ナツが一二月中に入院するよう説得してくれないか。」と依頼した。乙海は、そのころナツに対し、同病院に入院して治療することを勧めたが、ナツは、正月を自宅で過ごし、また被告の身上関係も片付けておきたいと言って、入院の時期を自ら遅らせていた。

しかし、ナツは、昭和五三年一月二六日戊月医師の診察を受けて、同病院への入院申込手続をなし、同月二七日午前一〇時三〇分ころ肺性心の治療のため同病院に入院(第三回入院)した。

(四)  ナツは、同病院に入院する際重要書類・印鑑等を携帯し、昭和五三年一月二七日午前一〇時ころ乙海の運転する自動車に被告とともに同乗して自宅を出発したが、ナツは、その車中で被告に対し、「戸籍謄本も届いたから、入院手続が終わったら直ぐ市役所へ行って縁組の届出をしてくるように。」と言った。被告は、自宅を出発する前にナツから戸籍謄本を預かっていた。

被告は、同日午後一時ころナツの病室において、ナツから認印の入った印鑑入れを受け取ると、自転車に乗って蓮田市役所に行き、ナツから頼まれた国家公務員共済組合連合会年金部あての身上報告書提出のために必要なナツの住民票記載事項証明書に蓮田市長の証明文を記載してもらって、右身上報告書等を投凾した。その後被告は、同日午後三時ころ同市役所において、前記一の(二)において認定したとおり養子縁組届用紙に必要事項を記載した上、被告の署名押印をなし、かつ、ナツの氏名を代署しナツの認印を押捺して、養子縁組届を戸籍担当者に提出したが、その届出書には証人二名の記載が欠けていたので、届出は受理されなかった。

(五)  被告は、同月二七日午後五時ころI工業株式会社岩槻工場において、上司の丙田杉太郎に対し縁組届の証人になってもらいたいと依頼し、丙田は、即座にこれを承諾して、養子縁組届用紙の証人欄に丙田の住所・本籍・氏名を記載し、丙田の認印を押捺した。その際丙田は、本籍を住所と同一のように記載したが、本籍の記載は丙田自身の誤記によるものであった。

被告は、同月二八日午後七時ころ自宅において乙海に対し、既に記入済みの養子縁組届用紙を示した上、縁組届の証人になってもらいたいと依頼した。乙海は、これを承諾したが、その時印鑑を持ち合わせなかったので、後日これを記載すると約束した。被告は、同月二九日午後一〇時三〇分ころナツの病室に行き、そのまま病室に泊り込んだ。乙海は、同月三〇日午前七時ころ看護婦の記録室において、養子縁組届用紙の証人欄に乙海の住所・本籍・氏名を記載し、乙海の印鑑を押捺した上、その場でこれを被告に手交した。

(六)  被告は、同月三〇日午前七時三〇分ころナツの病室の前の廊下において丙川夏夫に対し、出来上がった養子縁組届を示した上、「これで大丈夫かな。」と質問した。夏夫は、ナツの氏名を書いたのは誰であるかなどと確かめた上、所定の記載事項が形式的に整っていると見て、「まあ大丈夫だろう。」と答えた。

被告は、間もなく養子縁組届を持参して蓮田市役所に行ったが、戸籍担当者から証人欄の証人両名の生年月日の記載が欠けていることを指摘されたので、被告は、その場からI工業株式会社岩槻工場の従業員及びB病院の乙海に電話を掛け、丙田及び乙海の各生年月日を聞き出した上、その場で証人欄に丙田及び乙海の各生年月日を記載した。その際被告は、丙田の生年月日を第三者を通じて聞いたので、誤って聞き取り、誤った生年月日を記載してしまった。

被告は、同日午前九時ころ同市役所において戸籍担当者に養子縁組届を提出し、その届出は直ちに受理された。

被告は、同日午前九時三〇分ころ同病院に戻って、ナツの貴重品(重要書類・印鑑等)を看護婦の記録室に預け、間もなく夏夫に対し養子縁組届が受理されたことを知らせた。

被告は、同月三一日午後零時ころナツの貴重品を看護婦の甲野春子に預けた。

五  そこで、第三回入院時におけるナツの病状について検討するに、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができ、その認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  肺性心は肺循環に障害を来たしている病状をいうものであり、外見的には呼吸困難が生じ、浮腫等が現われる。

ナツは、昭和五三年一月二七日午前一〇時三〇分ころ肺性心の治療のためB病院に入院(第三回入院)したが、入院時には特に呼吸苦も見られなかった。ナツは、余所行きの服装をして入院し、病室において更衣をしたが、身体を動かしたことにより呼吸苦が生じた。またナツは、そのころ顔面、手指にチアノーゼが現われ、酸素吸入が開始されたが、ゆっくりした調子で会話をすることができた。ナツは、同日午後一時ころ被告が蓮田市役所に向かい出発する際に被告と会話し、同日午後四時ころ被告が同市役所から戻って来た際に被告と会話したが、その会話はいずれも支障なく行われた。

ナツは、几帳面な性格で、長年にわたりノートに日記風の備忘録を認めていたが、ナツは、同日の出来事についても、新しいノートに従前と変わらない調子で記述した。

(二)  ナツは、同月二八日午前八時ころ便所まで歩行し、そのため顔面にチアノーゼが現われ、呼吸困難となった。そして酸素吸入をする時間が長くなった。しかしナツは、同日も従前と変わらない調子で、ノートに自分の体調や服用した薬剤の内容等を記述した。

(三)  ナツは、同月二九日午前一〇時四五分ころ体重の測定を受け、同日午後七時ころ服用している薬剤につき不安感を訴えたりしたが、ナツは、同日午後八時三〇分ころから関連性のない独語を発するようになった。同病院から被告に対し連絡があり、被告は、同日午後一〇時三〇分ころナツの病室にやって来た。ナツは、同日午後一〇時四〇分ころ覚醒し、被告と安定した状態で会話した。そのときナツは、被告に対し、「万一自分に何かあったら、きょうだい達に一〇〇万円ずつやってくれ。アキには少し余計にやってくれ。世話になった甲田さん、甲原さん、甲川さんにお礼をしてくれ。」などと話した。ナツは、被告に対し、「帰ってもよい。」などと言ったが、直ぐ浅眠状態となり、被告は、病室に留まって、自宅へ帰らなかった。

(四)  ナツは、同月三〇日午前一時三〇分ころ全身浮腫があり、浅眠状態が続いた。婦長は、同日午前二時ころ担当看護婦に対し、急変の時には連絡せよ、と指示した。ナツの浅眠状態はその後も続き、ナツは、同日午前八時ころ状態が変化して、午前八時三〇分ころから意識不明に陥り、反応がなくなった。ナツは、同日午後零時三〇分ころには全身にチアノーゼが認められ、依然として意識不明の状態が続いた。

(五)  ナツは、同月三一日午前零時三〇分ころ顔面・四肢のチアノーゼが著明となり、状態不良となった。ナツは、同日午前一〇時ころ、「甲野さん」と声を掛けられて、はっきりと声を出して返答した。ナツは、そのころから話し掛けられる声が聞えるような様子を示し、笑顔を見せるようになった。ナツは、同日午後一時ころから午後三時三〇分ころまでの間、声を掛けられると返事をし、会話をすることができるように見受けられたが、辻つまの合わないことや取り留めのないことも言っていた。ナツは、同日午後六時三〇分ころ意識不明の状態に陥り、午後六時五〇分ころ状態が悪化した。そしてナツは、同日午後七時一〇分死亡した。

六  なお、ナツの死亡後における事情を見てみるに、《証拠省略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一)  被告は、昭和五三年二月一日蓮田市長に対しナツの死亡の届出をした。そして被告は、同日ナツの養子として蓮田市長からナツの死体埋(火)葬許可証の交付を受けた。

(二)  被告は、喪主として同月一日ナツの通夜を済ませ、同月二日蓮田市黒浜所在の真浄寺でナツの告別式を執行した。

乙山フユ、丙川ハル、戊田アキ、甲花ウメ、甲野杉夫は、同年一月三〇日に、原告は、同月三一日にそれぞれC町又は魚津市(杉夫のみ)から蓮田市にやって来て、ナツを見舞っていたが、被告は、同年二月二日夜自宅において、フユ、アキ、ウメ、原告、杉夫、丙川夏夫、乙山二郎らに対し、「故人のナツから言われたことがある。亡くなったときには、きょうだい達に一〇〇万円ずつやってくれ、アキには少し余計にやってくれ、などと言われた。そしてナツから貴重品を預かっている。」と報告した。原告らは、ナツの心遣いに感激し、涙を流して感謝した。

(三)  被告は、同月三日午前九時ころ自宅において、甲野春子からナツの貴重品を受け取り、これを原告らの面前で開けて見せた。その中には現金、預貯金通帳(銀行・郵便局、定期・普通など)、登記済権利証書、印鑑等が入っていた。一個の印鑑入れに実印と海南島印が入っていたが、被告は、ナツの実印と海南島印をその時初めて見た。

原告は、その場で現金と預貯金等の総額を確かめたところ、その合計額は三〇四〇万五一八八円に達した。それは皆が驚くほどの多額であったので、原告は、とっさに「きょうだい達にあと一〇〇万円ずつ上乗せしよう。」などと発言し、みずから試算するなどして次のような分配案を提示した。その分配案は、『葬儀費用三〇〇万円、アキ二五〇万円、ウメ二四〇万円、フユ・ハル・原告・杉夫各二〇〇万円、夏夫一〇〇万円、二郎五〇万円、甲川・甲原・甲田各一〇万円、病院寄付一〇〇万円、合計一八七〇万円』というものであった。その場に居合わせた被告、フユ、アキ、杉夫、夏夫、二郎らは、いずれもその分配案に賛同した。

また原告は、ナツの三五日忌の法要が済み次第、ナツの遺骨をC町の亡父母の墓に埋葬すると約束したので、被告は、原告に対しナツの死体埋(火)葬許可証を交付した。

(四)  原告は、同年二月四日C町の自宅に帰った。そして原告は、同月一〇日ころ被告に対し電話で、「二月三日に皆で話し合ったことは白紙である。養子縁組の届出に少し問題があるので、調停にかけるつもりはないか。ナツの遺骨は持って来ても受け取らない。」などと申し入れた。

(五)  被告は、同年三月九日春子と婚姻の届出をして、夫婦となった。

また被告は、税理士訴外小澤清に委任して、ナツの遺産三七八〇万五五二五円を養子として相続したことを事由とする相続税の申告書を作成した上、同年七月三一日春日部税務署長に対して右申告書を提出し、同日同税務署長に対し相続税二四一万五七〇〇円を納付した。

(六)  原告は、同年三月二九日本件訴訟を提起し(この事実は記録上明らかである。)、ハル、アキ、ウメ、及び杉夫は、昭和五四年四月一六日付け内容証明郵便をもって被告に対し、「ナツと被告との縁組は認めない。これは被告がナツの意識不明後独断で行ったものであるから、無効である。」と通告した。

七  以上のとおりであり、右認定の事実に基づいて判断すると、次のとおりである。

(一)  甲野ナツは、昭和四八年八月蓮田市《番地省略》に居宅を新築したが、かねてから病弱の身であった上、夜間一人で新築の居宅に住むことに不安を覚えたので、誰か身内の者に同居してもらおうと考えた(前記認定の二の(四)、(五))。ナツは、まず東京で下宿をしながら司法試験の受験勉強をしていた丙川夏夫に同居を依頼し、夏夫は、居宅が完成すると直ちにこれに入居した(同二の(五))。

ナツは、同年一〇月新築の居宅に入居して、夏夫と同居するようになったが、ナツは、昭和四九年二月交通事故で受傷し、B病院に入院(第一回入院)した(同二の(五)、(六))。ナツの入院中夏夫が夜警の仕事をしたいと申し出たので、ナツは、これを承諾し、夏夫の代りとして、株式会社E商会に就職し東京で間借をしながら働いていた被告に対し、同居を依頼した(同三の(一))。被告は、これを承諾して、同年一〇月ナツ方に入居し、退院したナツと同居した上、昭和五〇年三月から岩槻市所在のI工業株式会社岩槻工場に勤めるようになった(同三の(一)、(二))。

ナツは、被告に結婚することを勧め、被告が結婚したら被告の妻に身の回りの世話をしてもらおうとしたが、被告は、なかなか結婚しなかった(同三の(二))。

(二)  ナツは、昭和五二年一月三一日肺性心の治療のため前記病院に入院(第二回入院)したが、入院するに先立って、被告に見切りをつけ、既に結婚して長男をもうけJ株式会社に勤務していた乙山二郎に対し、妻一枝とともにナツと養子縁組を結んだ上、ナツと同居してナツの面倒を見てほしいと依頼した(同三の(三))。ナツは、このころからナツと同居する者との間に正式に縁組を結んだ上、身の回りの世話をしてもらおうと考え、『養子縁組をする』という言葉を明確に述べるようになった。

二郎は、一枝とともにナツに対し、ナツの養子になってナツと同居しナツの面倒を見ると約束した後、その準備に取り掛かったのであるが、原告をはじめ丙川ハル、戊田アキ、甲花ウメ及び甲野杉夫がこぞってこれに反対し、殊に原告が、激越な口調でナツを論難した上、原告の長女花子(中学校三年在学中)をナツの養女にしなければナツと姉妹の縁を切るなどと強硬に迫ったので、二郎と一枝は、ナツとの縁組後に予測される生活上の不安に怖じ気付き、同年五月ナツに対し、ナツとの同居及び縁組の約定を解消したいと申し入れ、ナツは、やむなくこれを承諾した(同三の(三)ないし(九))。

なおナツは、同年三月二三日蓮田市長に分籍の届出をして、住所地に本籍を移し(同四の(二))、同年五月一六日前記病院を退院して、被告との同居を続けることになった(同三の(九))。

(三)  ナツは、とにかく被告に結婚させることを急いでいたが、被告は、昭和五三年一月七日ころ甲野春子(当時甲山姓)と見合いをして、同月一六日ころ春子と結婚する約束をし、直ちにこれをナツに報告した(同四の(一)、(二))。ナツは、これを喜んで被告に対し、婚姻の届出をする前に縁組の届出をした方がよいと述べ、同月二四日乙山フユに対し電話で、被告の戸籍謄本二通を郵送してほしいと依頼した(同四の(二))。ナツは、そのころ被告に対して縁組を結びたいとの意思を明示し、被告がこれを承諾する旨の言動を示したので、ナツは、縁組の届出手続を履行するため被告の戸籍謄本を取り寄せようとしたと見るのが相当である。ナツは、几帳面な性格の持主であり、他人に知られないようにして分籍の届出をしていたこと(乙第一五号証の一の入院申込書に旧本籍地を記載している。なお甲第三号証には新本籍を記載させている。)から見ても、決断したことは即座に実行するという性格・能力を持ち合わせていたことが窺われる。

(四)  ナツは、同年一月二七日午前一〇時三〇分ころ肺性心の治療のため前記病院に入院(第三回入院)したが、その際ナツは、被告に対し、被告の戸籍謄本を手交した上、「入院手続が終わったら直ぐ市役所へ行って縁組の届出をしてくるように。」と申し向け、同日午後一時ころ病室において、縁組の届出に使用するための認印を被告に手交した(同四の(三)、(四))。そして被告は、同日午後三時ころ蓮田市役所において、戸籍担当者から養子縁組届用紙の交付を受け、その場で「養子になる人」の欄に被告の氏名・生年月日・住所・本籍・父母の氏名・続き柄・入籍する戸籍を記載して被告の署名押印をなし、かつ、「養親になる人」の欄にナツの氏名・住所・本籍を記載して、ナツの氏名を代署しその認印を押捺した上、その縁組届用紙を同病院に持ち帰り、被告は、同日午後四時ころナツの病室において、一部記入済みの縁組届用紙をナツに見せ、ナツの生年月日をこれに記載して、ナツに認印を返還した後、ナツと相談して届出に必要な証人を丙田杉太郎と乙海杉子に依頼することを決め、ナツは、その折衝及び縁組届の提出を被告に任せた(同一の(二)、(三)、四の(四)、(五))。

したがって、被告が、養子縁組届用紙の「養子になる人」欄及び「養親になる人」欄に所定事項を記載して、各届出人署名押印欄に被告の署名押印及びナツの代署押印をなし、ナツが、右のように記入された縁組届用紙を見て、その記載事項を承認した時点において、ナツと被告との間においては確定的に養子縁組の合意が成立したと認めるのが相当であり、また、ナツは、病床にあって外出することができないことから、被告に対し、市役所に縁組の届出をするように依頼し、証人となるべき者との折衝を任せたのであって、ナツは、被告との縁組の届出を被告に委託したと認めることができる。

(五)  被告は、同年一月三〇日午前九時ころ蓮田市役所において、戸籍担当者に対し養子縁組届を提出し、その届出は直ちに受理された(同一の(四)、四の(六))。他方、ナツは、同月二九日午後一一時ころから浅眠状態が継続し、同月三〇日午前八時三〇分ころから意識不明の状態に陥って、ナツの意識不明の状態は同月三一日午前一〇時ころまで続いた(同五の(三)ないし(五))。

してみれば、養子縁組届が同市役所に提出されて、届出が受理された当時、ナツは意識不明の状態に陥っていたのであるが、ナツが、同月二七日午後四時ころから同月三〇日午前九時ころまでの間に、被告との縁組の合意及び被告に対する縁組届出の委託を解消するかのような言動を示した事実は一切認められないのであるから、被告のした養子縁組届の提出は、ナツと被告との間の縁組の合意及びナツから被告に対する縁組届出の委託に基づいて正当になされたものというべきであり、したがって、養子縁組届の受理によりナツと被告との間の養子縁組は有効に成立したものということができる。

八  そうすると、亡甲野ナツと被告との間の養子縁組が無効であることの確認を求める原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(判事 加藤一隆)

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