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横浜地方裁判所 昭和48年(行ウ)25号 判決 1980年3月31日

横浜市神奈川区高島台六番地三

原告

高島保男

原告

高島正子

右原告ら訴訟代理人弁護士

馬場正夫

横浜市神奈川区栄町一丁目七番地

被告

神奈川税務署長

渡辺五郎

右指定代理人

藤村啓

奥原満雄

水庫信雄

今関節子

田中加寿子

蔵坪達男

中村誠司

主文

一、被告が原告高島保男の昭和四三年分所得税について昭和四六年三月五日付でなした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分のうち、所得税額二四九万七二〇〇円、過少申告加算税額一万八六〇〇円を超える部分をいずれも取消す。

二、原告高島保男のその余の請求及び原告高島正子の請求をいずれも棄却する。

三、訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1、被告が原告高島保男(以下「原告保男」という。)に対して、いずれも昭和四六年三月五日付でなした次の処分を取消す。

(一) 昭和四二年分所得税についてした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分のうち、所得税額二三三万五九〇〇円、過少申告加算税額五〇〇円を超える部分

(二) 昭和四三年分所得税についてした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分のうち、所得税額二一三万五六〇〇円、過少申告加算税額五〇〇円を超える部分

2、被告が原告高島正子(以下「原告正子」という。)に対して、いずれも昭和四六年三月五日付でなした次の処分を取消す。

(一) 昭和四二年分所得税についてした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分のうち、所得税額一五五万五七〇〇円、過少申告加算税額六〇〇円を超える部分

(二) 昭和四三年分所得税についてした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分のうち、所得税額一一二万八六〇〇円、過少申告加算税額五〇〇円を超える部分

3、訴訟費用は被告の負担とする。

二、請求の趣旨に対する答弁

1、原告らの各請求をいずれも棄却する。

2、訴訟費用は原告らの負担とする。

第二、当事者の主張

一、請求原因

1(一)  原告保男は、被告に対し昭和四三年三月一五日、昭和四二年分所得税について、総所得金額を八三五万四三〇九円、所得税額を二三二万四〇〇〇円とする確定申告をしたところ、被告は、昭和四六年三月五日付で総所得金額を九三六万〇八一二円、所得税額を二八二万五八〇〇円とする更正処分及び過少申告加算税額を二万五〇〇〇円とする賦課決定処分をなした。

(二)  原告正子は、被告に対し昭和四三年三月一五日、昭和四二年分所得税について、総所得金額を五一四万九九四一円、所得税額を一五四万二九〇〇円とする確定申告をしたところ、被告は、昭和四六年三月五日付で総所得金額を六一五万六四四四円、所得税額を一九九万七七〇〇円とする更正処分及び過少申告加算税額を二万二七〇〇円とする賦課決定処分をなした。

(三)  原告保男は、被告に対し昭和四四年三月一五日、昭和四三年分所得税について、総所得金額を九三四万九二一四円、所得税額を二一一万一六〇〇円とする確定申告をし、さらに、同年七月二一日総所得金額を九三七万五八一八円、所得税額を二一二万四五〇〇円とする修正申告をしたところ、被告は、昭和四六年三月五日付で総所得金額を一〇〇五万八一七六円、所得税額を二五八万九七〇〇円とする更正処分及び過少申告加算税額を二万三二〇〇円とする賦課決定処分をなした。

(四)  原告正子は、被告に対し昭和四四年三月一五日、昭和四三年分所得税について、総所得金額を四〇八万八七六二円、所得税額を一一一万六七〇〇円とする確定申告をし、さらに、同年七月二一日総所得金額を四〇八万八七六二円、所得税額を一一一万八六〇〇円とする修正申告をしたところ、被告は、昭和四六年三月五日付で総所得金額を四七七万一一二〇円、所得税額を一二七万二六〇〇円とする更正処分及び過少申告加算税額を七七〇〇円とする賦課決定処分をなした。

2、原告保男は、被告の右1(一)及び(三)の各処分について、原告正子は、被告の右1(二)及び(四)の各処分について、それぞれ昭和四六年四月三〇日被告に対し異議申立をなしたところ、被告は、同年七月一五日原告らの右各申立をいずれも棄却する旨の決定をした。

さらに、原告らは、同年八月一四日国税不服審判所長に対し審査請求をしたところ、同所長は、昭和四八年六月一五日原告らの右各審査請求をいずれも棄却する旨の裁決をなし、右各裁決書謄本は、そのころ原告らに送達された。

3、しかしながら、被告が原告らに対してなした前記各処分は、いずれも原告らの各所得を過大に認定した違法がある。

よって、原告らは、請求の趣旨記載の判決を求める。

二、請求原因に対する認否

1、請求原因1及び2の事実は認める。

2、同3の主張は争う。

三、被告の主張

1、原告保男は、川崎市浜町一丁目三七番地新和塗装興業株式会社の代表取締役であり、原告正子は、その妻である。原告らは、生計を一にしており、所得税法(昭和四四年法律第一四号による改正前のもの)第四章第一節(世帯員が資産所得を有する場合の税額の計算の特例)の規定により資産所得が合算対象となる者であり、いわゆる白色申告者である。

2、原告らの各昭和四二年分及び昭和四三年分所得税の確定申告又は修正申告と本件更正処分による所得金額は、別表1のとおりであり、本件更正処分は、原告らの昭和四二年分及び昭和四三年分の譲渡所得についてなしたものであるが、原告らの右譲渡所得の基因となった資産(土地)は、原告らの共有で、持分はそれぞれ二分の一であり、各年分の原告らの譲渡所得の計算内容は、原告保男、原告正子とも同一である。そして、その計算内容は、別表2、3のとおりである。

3、本件更正処分による増減差額の根拠は、次のとおりである。

(一) 昭和四二年分

(1) 収入金額もれ 五万五五〇〇円

原告らは、昭和四二年四月一〇日、原告らの共有に係る(持分はそれぞれ二分の一である。)北海道中川郡池田町高島五五の四宅地一一一坪を一一万一〇〇〇円で訴外楠春夫に譲渡した。

しかるに、昭和四二年分所得税の確定申告の際、右譲渡については申告がなかったので、右譲渡による収入金額の二分の一に当たる五万五五〇〇円を加算した。

(2) 取得費もれ 二七七五円

右(1)の宅地の取得費五五五〇円を持分二分の一の共有につき二分したものである。

(3) 改良費等否認 一九六万一二七九円

後記(三)のとおり。

(4) 譲渡費用もれ 一〇〇〇円

右(1)の宅地の譲渡に要する費用二〇〇〇円を持分二分の一の共有につき二分したものである。

(二) 昭和四三年分

(1) 収入金額もれ 五万五五四六円

原告らは、昭和四三年六月一日、原告らの共有(持分は各二分の一)に係る北海道中川郡池田町高島信取二七六の二一山林三万〇〇七二平方メートルを三万九〇九三円で訴外西本五雄に、また、同日、原告らの共有(持分は各二分の一)に係る同所二五八の二五山林七八三〇平方メートル、同所二七六の四〇山林四万七〇八二平方メートル及び同所二七六の四一山林三九八平方メートルを七万二〇〇〇円で訴外岩谷敏茂にそれぞれ譲渡した。

しかるに、右譲渡については、いずれも昭和四三年分所得税の確定申告あるいは修正申告において申告がなかったので、右譲渡代金合計額一一万一〇九三円の二分の一に当たる五万五五四六円を加算した。

(2) 取得費もれ 九〇三〇円

右(1)の訴外西本に譲渡した山林の取得費一三〇〇円及び訴外岩谷に譲渡した山林の取得費一万六七六〇円の合計額を持分二分の一の共有につき二分したものである。

(3) 改良費等否認 一三一万八二〇〇円

後記(三)のとおり。

(三) 改良費等否認について

(1) 原告らは、原告らの共有(持分は各二分の一)に係る横浜市保土ケ谷区峰岡町二丁目二一七番、二一八番、二二二番一ないし三の各土地(合計二二七五坪)について宅地造成工事を行ない、道路等公共用地を除いた宅地一九二七・五〇坪を造成し(以下「高島団地」という。)、そのうち、昭和四二年中に同所二一七番地所在の宅地五五九・二四坪を譲渡し、また、昭和四三年中には同番地所在の宅地三七五・五坪を譲渡した。

(2) 原告らは、被告に対し、高島団地を造成するため離作料として一四三二万円を支出したとし、昭和四二年分の右譲渡に係る譲渡所得の計算上、右離作料は次のとおり取得費(改良費)に算入されるべきものとして申告した。すなわち、昭和四二年中に譲渡した部分(五五九・二四坪)に対応する離作料は、一四三二万円に右譲渡部分の比率(<省略>)〇・二九〇一三(小数点六位以下切捨て。)を乗じて得た四一五万四六六一円で、原告らは各自その二分の一に当たる二〇七万七三三〇円を改良費として算入した。また、原告らは、昭和四三年分については、同年中に譲渡した部分(三七五・五坪)に対応する離作料を含む改良費として、一坪当たり三万九三二〇円を要したとして、右金額に三七五・五坪を乗じて得た一四七六万四六六〇円の二分の一に当たる七三八万二三三〇円を改良費として算入した。

(3) 被告において調査したところ、右離作料といわれる一四三二万円のうち、五〇万円は、昭和四〇年一二月二日訴外中村好治外に交換差金(所得税法施行令一六八条二号)として、また、三〇万円は、昭和四〇年一二月一七日訴外青木豊吉に同所二一八番畑を取得するためにそれぞれ支払われている事実が認められたが、その余の一三五二万円について離作料として支払ったものとは認められなかった。

そこで、被告は、支払の事実が認められる八〇万円に対応する部分のみ是認し、支払事実が認められない一三五二万円に対応するものとして、昭和四二年分については、一九六万一二七九円(一三五二万円×〇・二九〇一三×〇・五)を否認し、昭和四三年分については、一三五二万円に譲渡部分の比率(<省略>)〇・一九五(小数点四位を四捨五入。)を乗じて得た二六三万六四〇〇円の二分の一の金額一三一万八二〇〇円をそれぞれ否認して、本件更正処分をなした。

なお、右計算には、誤まりがあり、離作料の否認額の正当額は、昭和四二年分は各自一九六万一二七八円であり、また、昭和四三年分については、比率を〇・一九四八一と小数点六位以下切捨てとすべきであるから、一三一万六九一五円が正当である。

4、しかして、原告らの昭和四二年分及び昭和四三年分の各所得税額を計算すると、別表4、5の各(一)ないし(三)のとおり、昭和四二年分については、本件更正処分のとおりであり、昭和四三年分については、原告保男は、本件更正処分より九万二五〇〇円少ない二四九万七二〇〇円であり、逆に、原告正子は、本件更正処分より九万二二〇〇円多い一三六万四八〇〇円となる。

5、過少申告加算税の賦課決定について

過少申告加算税は、国税通則法(昭和四六年法律第九九号による改正前のもの)六五条一項の規定に基づいて賦課決定したものである。

四、被告の主張に対する認否

1、被告の主張1及び2の事実は認める。

2(一)  同3(一)の(1)、(2)及び(4)の事実は認め、(3)は否認する。

(二)  同3(二)の(1)及び(2)の事実は認め、(3)は否認する。

(三)  同3(三)の(1)及び(2)の事実は認める。

同3(三)(3)の事実のうち、原告らが離作料として一三五二万円の支払をしていないとの事実を否認し、その余の事実は認める。

3、同4の計算関係は認める。

4、同5の事実は認め、適法性を争う。

五、原告らの反論

1、原告らの先代高島長政(原告保男の養父であり、原告正子の実父であって、昭和三三年一一月二四日死亡した。)は、横浜市保土ケ谷区峰岡町二丁目所在の別紙目録記載(1)ないし(17)の土地(以下その番号により「(1)の土地」ないし「(17)の土地」という。なお、位置関係は別紙図面のとおりである。)を所有していたところ、神奈川県知事は、昭和二三年一二月二日右(11)ないし(17)の土地について、また、同日及び昭和二五年七月二日の二回にわたり右(2)ないし(9)の土地について、いずれも自作農創設特別措置法に基づき、農地買収処分を行なうとともに、併せて農地売渡処分をなした。

右長政は、右各処分の無効確認を求めて、神奈川県知事を相手方として農地買収無効確認請求事件(第一審は横浜地方裁判所昭和三三年(行)第一号、第二審は東京高等裁判所昭和三八年(ネ)第一一六一号、第一一六二号で、以下「別件」という。)を提起したところ、昭和三八年四月一五日、長政の承継人たる妻婦知及びその子の原告らに対して一部勝訴の第一審判決があった。右判決では、(2)ないし(9)の土地についての農地買収売渡処分の無効が確認されて原告らが右土地については勝訴したが、(11)ないし(17)の土地については原告らの敗訴になった。そこで、双方から控訴していたところ(なお、婦知は昭和三九年二月一日に死亡し、原告らがその権利義務を承継した。)、昭和四〇年一二月二日、裁判外の和解が成立し、原告らは訴の取下を、また、神奈川県知事は控訴の取下をそれぞれ行なって、別件は終了した。

そして、原告らは、右和解により、高島団地のうち九五一坪((11)、(15)ないし(17)の土地。以下「取得地」という。)を取得した。

2、別件和解での話合いの基調は、第一審判決の内容にそって、原告らが敗訴した(11)ないし(17)の土地(以下「敗訴地」という。)は、原告らの非所有地、原告らが勝訴した(2)ないし(9)の土地(以下「勝訴地」という。)は、原告らの所有地とするものであった。

そして、和解交渉の過程において、原告らは、敗訴地のうちの(11)、(15)ないし(17)の土地(合計九五一坪)を取得する代償として、勝訴地(合計八二四坪)とこれに隣接する訴外地((1)の土地。八〇三坪)を合わせた土地一六二七坪(以下「東側土地」という。)のうち、南側約七〇〇坪を原告らに留保し、残り約九三〇坪弱を神奈川県側へ譲渡することを提案した。なお、当時現金決済は金融情勢上無理であったし、関係者も土地入手を希望していた。

これに対し、神奈川県側は、敗訴地である(11)の土地に隣接する訴外地((10)の土地。一二〇〇坪)上には多数の耕作者がおり、そのまま放置しては原告らが面倒であろう。もし直ちに立退かせたいならば東側土地からもっと多くの坪数を出してもらいたい。取得地は、西側南側が公道に面し利用価値の高い所であるから、東側土地のうち相当坪数のほか現金五〇万円を添えてもらいたい旨申し出た。右申出は、原告らが右(10)の訴外地及びこれと地続きの取得地の入手を熱望していることを見越しての県側の提言であった。

そこで、原告らは、やむなく、取得地の取得の代償としては、東側土地のうち前記約九三〇坪の提供を承諾し、それ以外に提供する土地は、もっぱら耕作権放棄の代償すなわち離作料の代物弁済という見解のもとに、東側土地の全部と現金五〇万円とを県側に提供することで和解に応じたもので、この点は県側も同様に了解していた。

3、原告らは、右県側の了解事実を明らかにするため、別件及び本件訴訟代理人であった故岡井弁護士を通じて、昭和四三年二月二一日付「御証明願」なる文書をもって神奈川県側に対し、東側土地のうち六七六坪は離作を得るための代償として提供したことの証明を求め、県側の別件訴訟代理人柳川弁護士を通じて、県側から右事実の証明を得ている。

4、以上要するに、原告らの取得した取得地九五一坪に比較し、その代償に提供した東側土地一六二七坪が単価が同一にもかかわらず六七六坪も多いのは、いずれも高島団地の敷地の一部をなしている取得地及びこれに隣接する(10)の訴外地一二〇〇坪上の耕作者に対する離作料の意味をもっていたからである。

5、従って、右六七六坪の時価相当額一三五二万円(坪二万円)は、高島団地造成のための離作料であるから、取得費に算入すべきである。

六、原告らの反論に対する被告の認否及び主張

(認否)

1、原告らの反論1の事実は認める。

2、同2の事実は不知ないし争う。

3、同3の事実は不知。

4、同4及び5の事実は争う。

(主張)

1、別件和解の内容は、和解に関する記録文書によると、

(一) 原告らは係争地のうち二一七番((11)の土地)及び元地番二二二番((15)ないし(17)の土地産を取得し、被売渡人全員に対し五〇万円を提供すること。

(二) 被売渡人は元地番二一九番((13)、(14)の土地)及び二一二番((1)ないし(9)の土地)を取得すること(被売渡人間においては、既に第三者に譲渡した部分はそのままにして、残りを共有にし、第三者に譲渡した分だけ持分が減少することに了解済である。)。

(三) 二一八番((12)の土地、被売渡人青木豊吉)については、和解の内容から外し、高島と青木の直接交渉に委ねること。 というものであった。

2、右和解案に基づいて神奈川県知事は、昭和四〇年一一月一五日、(11)、(15)ないし(17)の土地について昭和二三年一二月二日付でなした農地買収処分を二一二番の一の土地((1)の土地)に訂正した。

そして、右(15)ないし(17)の土地について横浜地方法務局神奈川出張所昭和四〇年一一月二九日受付で錯誤を原因として農林省の所有権取得登記(昭和三一年八月二一日受付第三九一四一号)を抹消して高島長政名義の登記簿上の所有権を回復し、さらに、同庁昭和四一年四月九日受付で昭和三三年一一月二四日相続を原因として原告らの所有権移転登記が経由され、(10)及び(11)の土地については、高島長政から相続により原告らに所有権移転登記が行なわれている。

また、青木武雄(青木豊吉の相続人)以外の耕作人は、(6)ないし(9)の土地はすでに転売されているため、(2)ないし(5)の土地について、横浜地方法務局神奈川出張所昭和四〇年一二月二二日受付で錯誤を原因としてこれらの者の所有権取得登記を抹消して、農林省の登記簿上の所有権を回復し、これらの物件を二一二番の一へ合筆し、さらに同庁昭和四一年二月一六日受付で昭和二三年一二月二日自作農創設特別措置法一六条による売渡しを原因として耕作人中村好治外のため所有権(共有)の取得登記が行なわれている。(13)の土地についても同様の所有権(共有)の取得登記が行なわれている。

3、ところで、右の和解は、別件の第一審判決後に成立したものであるが、原告らと自作農創設特別措置法に基づき神奈川県知事から買受けた耕作者中村好治外九名との間の土地の取得の関係は、同判決によって確認された所有権の帰属を前提にしてなされたものであり、原告らが取得する土地と被売渡人らが取得する土地との全体の評価のうえにその等価交換を意図してなされたものであって、坪単位が等価であるとの誤った前提のもとに単に面積の広狭のみを比較し、その差六七六坪(当時の一坪当たり評価額二万円)の評価額一三五二万円が離作料として特段この交換の対価から除外されたものとみなければならない事情は全くないのである。

すなわち、和解により原告らが提供した土地と取得した土地との差六七六坪は、単に総数量の対比にすぎず土地の価値の差ではない。土地の価値は、(イ)位置、地積、地勢、地質、地盤等、(ロ)間口、奥行、形状等、(ハ)日照、通風乾湿等、(ニ)高位、角地その他接面街路との関係、(ホ)接面街路の系統、構造等、(ヘ)公共施設、商業施設等との接近の程度、(ト)上下水道等の供給・処理施設の有無及びその利用の難易、(シ)危険施設又は嫌悪施設との接近の程度、(リ)公法上及び私法上の規制、制約等その他諸々の要因を総合的に判断して決まるものであるところ、利害相反する原告らと被売渡人が面積の相違を認めて和解を成立させているのは、双方の土地の価値を等価とみて原告らと被売渡人との間で土地と土地を交換しているのである。

そして、原告らは、和解成立に伴い、当該交換により土地を提供した時点で譲渡所得は課税されておらず(もし原告らの主張するように土地を提供したというのであれば、当該土地の提供も所得税法上資産の譲渡にあたるから和解によって当該土地を提供した時点で譲渡所得の申告を行なうべきところ、原告ら自身そのような申告を行なっていない。)、昭和四〇年分で所得税法五八条(固定資産の交換の場合の譲渡所得の特例)の規定が適用されたものであり、当該交換により取得した物件については、交換提供物件の取得の時期及び取得価額が引継がれる。

従って、当該六七六坪を基礎にして計上されていた取得費(離作料)を否認した本件更正処分には何ら違法はない。

4、なお、(10)の土地の一部については、松野福太郎が耕作していたことがうかがわれるが、昭和四〇年一一月一五日付で神奈川県知事から松野に対し「昭和二四年一二月二日の売渡を、保土ケ谷区峰岡町二丁目二一二番の一畑一四四三坪及び二一九番の一畑九六坪並びに同区星川町四〇三番の二畑一五四坪の持分一〇〇〇分の一八七に訂正する。」旨の通知がなされていること、右に基づき、当該持分については、昭和四一年二月一六日付で、昭和二三年一二月二日の自作農創設特別措置法一六条の規定による売渡を原因として農林省から松野ほか九名への所有権移転の登記が行なわれていること等に照らすと、松野は別件の裁判外の和解の際、右占有部分につき所有者として取り扱われ併せて解決されたものと推認され、同人についても、離作料の支払はなかったというべきである。

従って、松野についても他の土地の所有者と同様、(10)の土地の一部の所有者として、右土地部分と峰岡町の土地の一部(持分一〇〇〇分の一八七)との等価交換がなされたものとみるのが相当である。なお、星川町の土地については、右峰岡町の土地のみでは到底実質的につり合いがとれないため、神奈川県知事が農林省名義の星川町の土地を与えることによって、ようやく実質的にも等価交換と評価し得るものとなり、松野も納得したものである。

第三、証拠

一、原告ら

1、甲第一及び第二号証の各一、二、第三ないし第七号証、第八号証の一ないし五。

2、証人白井恒夫、同柳川澄、原告高島正子、同高島保男。

3、乙第三号証の一ないし三、第九号証、第一〇号証の一ないし三、第一一号証の一の成立及び同号証の二ないし四が被告主張のとおりの写真であることは、いずれも認める。その余の乙号各証の成立はいずれも不知。

二、被告

1、乙第一、第二号証、第三号証の一ないし三、第四ないし第九号証、第一〇号証の一ないし三、第一一号証の一、同号証の二ないし四(昭和五一年一一月二二日及び昭和五二年五月一六日に撮影した高島団地付近の写真)、第一二、第一三号証、第一四号証の一、二、第一五号証。

2、証人藤本政雄、同榊原万佐夫、同佐藤幸吉、検証。

3、甲第五ないし第七号証の成立はいずれも不知。その余の甲号各証の成立は認める。

理由

一、請求原因1及び2の事実、被告の主張1及び2の事実、同3(一)、(2)及び(4)の事実、同3(二)の(1)及び(2)の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二、そこで、被告が原告らの各昭和四二年分及び昭和四三年分所得税についてなした本件更正処分において争いのある改良費等否認の適否について判断する。

1、被告の主張3(三)の(1)及び(2)の事実、同3(三)(3)のうち、原告らが離作料として一三五二万円の支払をしていないとの点を除くその余の事実は、いずれも当事者間に争いがない。

2、別件の提起、裁判外の和解に至るまでの経過について

原告らの反論1の事実は、当事者間に争いがなく、右事実に、いずれも成立に争いのない甲第一及び第二号証の各一、二、第三号証、第八号証の一ないし五、乙第三号証の一ないし三、第九号証、第一〇号証の一ないし三、第一二、第一三号証、第一四号証の二、第一五号証、原告高島正子本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第五号証、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第一及び第二号証、本人榊原万佐夫の証言により真正に成立したものと認められる乙第八号証、原告高島正子本人尋問の結果及び検証の結果を総合すれば、次の事実を認めることができ、これを左右するに足りる証拠はない。

(一)  原告らの先代長政は、昭和二年一二月三一日(1)ないし(17)の土地を訴外岡欣之助から買い受けたが、当時、(13)ないし(17)の土地が畑であるほかは、いずれも山林であった。

(15)ないし(17)の土地は、前所有者岡野の時代から訴外久保田定扶先々代に貸し付けられていたため、引き継き同人に小作させていたが、その後、(17)の土地については、当時長政の依頼により土地の管理をしていた訴外餅田勘次郎が長政に無断で耕作するようになり、また、(15)の土地は、訴外中村新太郎が右管理人餅田の了解のもとに久保田定扶先代からその耕作権を引き継ぎ結局、昭和二三年一二月当時、(15)の土地は訴外中村新太郎が、(16)の土地は同久保田定扶が、(17)の土地は同餅田勘次郎がそれぞれ耕作していた。

(13)及び(14)の土地は、もと訴中村兵吉が耕作していたところ、昭和一〇年ころから、訴外星野藤太郎が右土地を管理していたが餅田勘次郎から借り受け、耕作し、その後、(14)の土地部分を右餅田に返還したため、昭和二三年一二月当時、(13)の土地を右星野が、また、(14)の土地を右餅田がそれぞれ耕作していた。

また、(10)及び(11)の土地は、昭和一八年六月当時、その北西側に若干の松樹を残していたものの、大半はまばらな雑木林であったため、当時の食糧難から神奈川県に開墾用の休閑地として目をつけられ、同年一一月四日、神奈川県と長政との間で、二一七番の土地のうち北西側一反六畝二八歩((11)の土地)を残して、その余の四反歩((10)の土地)について、県に期限を定めず無償貸与する旨の使用貸借契約が締結され、県はこれをさらに峰岡町内連合会に無償貸与したところ、県と右町内連合会との連絡の不徹底から、開墾にあたった右町内連合会は、(10)の土地のほか(11)及び(12)の土地をも全部を開墾して畑地とし、約三畝歩前後に区切って適宜農家、非農家らに配分貸与してしまい、これを耕作させていた。戦後、長政は県に対し、右貸与地の返還を求めたが、当時の食糧難から(10)ないし(12)の土地は依然として各耕作者によって耕作が続けられ、昭和二三年一二月当時、(12)の土地は、訴外加瀬三郎が、(11)の土地は、大体において訴外田代菊蔵、同中村利兵衛、同辻弥三郎、同中村好治及び同中村嘉兵衛らが耕作していた。なお、(10)の土地のうち約一反歩については松野福太郎が耕作しており、その余の土地は農地売渡適格を有しない者において耕作していたが、現在これを明らかにし得ない。

さらに、(1)ないし(9)の土地は、元松林であったが、戦時中から戦後にかけての無断間作、盗伐、日照りあるいは虫害等により松樹がかなり枯れてきたため、長政は松樹全部を伐採売却したが、伐採後荒地となった右土地のうち、北東側一反三畝一〇歩及び西南側一反一畝四歩を訴外餅田勘次郎、同中村繁蔵らにおいて開墾耕作することを承認し、昭和二三年一二月ないし昭和二五年七月当時、(2)、(8)及び(9)の土地は訴外田代菊蔵が、(3)の土地は右餅田が、(4)ないし(7)の土地は右中村がそれぞれ耕作していた。

(二)  神奈川県知事は、自作農創設特別措置法三条に基づいて、昭和二三年一二月二日、(10)のうち一反歩及び(11)ないし(17)の土地について、また、同日及び昭和二五年七月二日の二回にわけて(2)ないし(9)の土地について、いずれも農地買収処分を行なうとともに、同法一六条の規定に基づいて、昭和二三年一二月二日、(11)の土地のうち三畝一五歩を訴外中村利兵衛に、四畝一〇歩を同辻弥三郎に、三畝歩を同中村好治に、(12)の土地を同青木豊吉に、(13)の土地を同久保田定扶に(14)の土地を同餅田勘次郎にそれぞれ売渡処分を行ない、また、昭和二四年一二月二日、(10)の土地のうち一反歩を松野福太郎に売渡処分を行ない、さらに、昭和二五年七月二日、(11)の土地のうち三畝歩を訴外中村嘉兵衛に、四畝歩を同田代菊蔵に、(2)、(8)及び(9)の土地を右田代に、(8)の土地を右餅田に、(4)ないし(7)の土地を訴外中村繁蔵にそれぞれ売渡処分を行なった。

(三)  右買収及び売渡処分に伴う登記手続として、(2)ないし(9)の土地については、横浜地方法務局神奈川出張所昭和三一年九月三日受付第四一四四四号をもって、(12)の土地については、同年七月一一日受付をもって、また、(14)の土地については、同年八月二一日受付をもって、それぞれ右自作農創設特別措置法一六条の規定による売渡を原因とする所有権取得登記が右買受人らのためになされ、(13)、(15)ないし(17)の土地については、同日受付第三九一四一号をもって、同法三条の規定による買収を原因とする農林省の所有権取得登記がなされたが、(10)の土地のうち一反歩反び(11)の土地については右買収を原因とする所有権取得登記がなされず、登記簿上、亡高島長政の名義のままになっていた。

(四)  なお、その後、被売渡人によって買受地の一部が処分され、(7)の土地は昭和三二年五月四日(同日その旨登記)、(6)の土地は昭和四三年四月二六日(同年五月二九日その旨登記)、いずれも訴外田井満が買い受け、同所に家屋を建てて居住している。(8)の土地は昭和三二年一〇月三日訴外藤巻政雄が買い受け(同月四日その旨登記)、昭和三九年に家屋を建てて居住している。さらに、(9)の土地は昭和三三年三月一二日訴外荒井米吉が買い受け(同日その旨登記)、昭和三七年二月二四日相続により訴外荒井トクが所有しており、昭和三五年には居住用家屋が建築されている。

また、別件継続中に、(14)の土地には家屋が建ち、宅地化された。

(五)  長政及び原告らは、別件において(1)及び(10)の土地を除くその余の土地について神奈川県知事のなした農地買収売渡処分は、小作地でないのに買収した違法、買収範囲の不特定による違法等の違法事由があり、無効である旨主張したのに対し、別件の第一審判決の判断は、第一点について、(2)ないし(9)、(13)ないし(17)の土地は、いずれも小作地と認められるから買収は違法ではなく、また、(11)及び(12)の土地は、不法開墾地であって小作地には当たらないから、右土地の買収処分は違法であるけれども、処分に至る経緯に照らせば神奈川県知事が小作地と誤認したことは、明白なる瑕疵とはいえないし、第二点については、(2)ないし(9)の土地については、買収地の特定を欠く重大かつ明白な瑕疵があるから、その買収売渡処分は無効であるが、(11)ないし(17)の土地については、買収地は特定されているとし、結局、右判決の内容は、原告らにとって(2)ないし(9)の土地については買収を無効とする勝訴、(11)ないし(17)の土地については敗訴というものであった。

3、別件裁判外の和解成立の経緯、和解内容等について

前掲甲第一及び第二号証の各一、第四、第五号証、第八号証の一、乙第一、第二号証、第八、第九号証、第一〇号証の一ないし三、第一一号証の一、第一二、第一三号証、第一四号証の二、第一五号証、いずれも被告主張のとおりの写真であることに争いのない乙第一一号証の二ないし四、いずれも証人榊原万佐夫の証言により真正に成立したものと認められる乙第四ないし第七号証、証人藤本政雄、同榊原万佐夫、同柳川澄、同佐藤幸吉の各証言、原告高島正子、同高島保男の各本人尋問の結果(但し、いずれも後記措信しない部分を除く。)、検証の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。

(一)  別件第一審の判決は前段認定のとおりであったが、その控訴審である東京高等裁判所において、裁判所から、係争土地について売渡処分を受けて現に耕作している耕作者たちを利害関係人として和解の当事者に加え、原告らと話し合ってはどうかとの和解勧告があり、原告らが訴外(10)の土地のうち一反歩と(11)、(15)ないし(17)の土地の獲得を熱望していることに鑑み当初、裁判所から原告らに対し、原告らが敗訴した(11)、(15)ないし(17)の土地を被売渡人らから買い戻してはどうかとの提案がなされたが、原告らに買収資金の見込みが立たないことや被売渡人らも耕作地を所有したいと望んでいたことから、買い戻し案は具体化しなかった。

その後、東京高等裁判所において、原告ら側、神奈川県知事側の各訴訟当事者のほか、地元保土ケ谷区の農業委員会農地調整係長である佐藤幸吉や被売渡人らを交えて数回の和解交渉がもたれたが、裁判所は右和解に積極的に関与することなく、当事者による話し合いに委ねていた。右和解交渉に当たり、神奈川県知事の訴訟代理人や指定代理人は、話し合いの実質的当事者である原告らと被売渡人らとの仲に立って、双方に話し合いによる紛争の実質的解決を勧めた。そして、右話し合いにおいては、被売渡人らの意見は地元農業委員会の佐藤らがこれを取りまとめて県知事の指定代理人に伝え、県知事の訴訟代理人をとおして原告らとの交渉がもたれた。

(二)  ところで、昭和四〇年当時の西側土地の状況は、(10)、(11)、(15)ないし(17)の土地は、西下がりに緩く傾斜し、西端の(15)の土地が一番低く、(16)、(17)の土地の順にやや高くなっているが、右各土地は一段一段の平担な畑地であって、農地としての地味もよく、また、(15)ないし(17)の土地の南側及び(15)の土地の西側には六メートルの公道が接し、宅地化するのも容易な地形、位置にあった。

これに対し、東側二一二番の土地((1)ないし(9)の土地)は、全体として南東下がりに傾斜し、その斜度も西側の土地に比して急で、平担地は少なく、傾斜面の多い土地であり、特に、その東側半分(ほぼ(1)の土地に当たる。)の地形は、東側の谷間に落ち込む形の崖状になっており、この点は現在も変わっていない。そして、昭和四〇年当時(6)ないし(9)の土地は宅地化されていたものの、残りの大部分の土地は、畑ないし笹の生い茂った山林であって、西側の土地に比べ農地としての地味も悪く、使用困難な部分も少なからずあった。また、二一二番の土地の東側及び西側は、それぞれ南北に通じる幅員二メートルの里道に接してはいるものの、西側の里道は、北に向って急な登り坂となり、しかも、公道から分岐する付近((13)、(14)の土地の東側付近)は、石段となっているため車両での通行は不可能な状態にあった。

(三)  昭和五一年一一月に右各土地の昭和四〇年当時の価格を評価したところ、峰岡町二丁目に居住し、同町を中心に昭和三五年から不動産仲介業を営む訴外井上政一の評価によれば、(10)、(11)、(15)ないし(17)の土地は坪四万円位(付近に同程度の実例もあった。)であったのに対し、(1)ないし(9)の土地は坪二万円位であり(なお、右井上は、当時二一二番の土地を仲介するため評価したことがあり、宅地造成するには四メートル道路の取付、排水管の埋設など相当経費がかかることから仲介を断念したことがあった。)、また、保土ケ谷区、旭区を中心に昭和三九年から不動産仲介業を営み、昭和四五年からは保土ケ谷税務署から管内の土地につき精通者として土地評価を委嘱されている訴外加藤吉三郎の評価によれば、昭和四〇年当時(10)、(11)、(15)ないし(17)の土地は坪五万円位であったのに対し、(1)ないし(9)の土地は坪二万円位であったとされ(なお、右加藤は、峰岡町二丁目二一二番、二一七番付近の地価事情について、その付近に自己所有地があり、また、同人の子供が住んでいることもあって精通している。)、昭和四〇年当時、(10)、(11)、(15)ないし(17)の土地の評価額は、(1)ないし(9)の土地のおよそ二倍位とされていた。

(四)  当事者間の和解交渉においては、話し合いを進めるに当たり、その前提として、第一審判決において原告らが勝訴した土地は原告らの所有地、原告らが敗訴した土地及びその隣接の訴外地の(10)の土地のうち一反歩は被売渡人らの所有地として話しが進められたが、県知事の訴訟代理人は、別件一審における審理経過、判決内容、それがもたらす影響、さらには控訴審における見通しなどを勘案して、被売渡人らに対し、極力話し合いによる解決を勧めた。そして、原告らの勝訴地には被売渡人らからさらに転々譲渡を受けた第三者が建物を建て住みついているという厄介な問題があり、勝訴地を使用するにしても虫喰い状態となるのに対し、西側の敗訴地の方は訴外地(10)のうち一反歩を除くその余の土地とともに宅地造成をするのに適しているところから、原告らにおいて西側の敗訴地の取得を強く望んでいたため、県知事指定代理人らは被売渡人らに対し、東側の原告ら勝訴地に移るよう説得した。被売渡人らは、右県側の説得に対し、前記(二)のとおり西側と東側とでは土地の状況に格段の差があることから、当初、売渡を受けた土地を耕作していたいという意見が強く、なかなか意見がまとまらなかったものの、最終的には、是非原告らと折合ってもらいたいとの神奈川県側の強い要請を受けて、不満足ながら原告らとの話し合いによる紛争解決に応じ、(12)の土地の被売渡人(青木豊吉)を除く被売渡人らと原告らとの間で次項記載の裁判外の和解が成立するに至った。

(五)  右当事者間での話し合いによる合意の大筋は、昭和四〇年一一月中旬ころまとまり、最終的には、同年一二月二日の別件控訴審における和解期日において、原告らと利害関係人である被売渡人ら(但し、(12)の土地の青木を除く。)との間で、概ね、原告らは係争地のうち二一七番(訴外(10)の土地のうち一反歩及び(11)の土地)及び元地番二二二番((15)ないし(17)の土地)を取得し、右被売渡人全員に対して五〇万円を提供すること、被売渡人は元地番二一九番((13)、(14)の土地)及び二一二番((1)ないし(9)の土地)を取得することを内容とする裁判外の和解が成立し、当日、原告らから被売渡人らの代表中村好治が右五〇万円を受領した。

そして、原告らと被売渡人らとの裁判外の和解の成立により、神奈川県知事は控訴を、原告らは訴をそれぞれ取下げ、別件は終了したが、右裁判外の和解に関し、和解契約書等の書面は作成されなかった。

なお、裁判外の和解の一方の当事者である被売渡人らの間においては、既に第三者に譲渡されている部分はそのままにして、残りを共有にすること、従って、右第三者に譲渡した部分だけ取得する土地が減少することの了解がなされていた。

(六)  そして、右裁判外の和解の合意にそうべく、神奈川県知事は、昭和四〇年一一月一五日、(10)の土地のうち一反歩及び(11)の土地並びに(15)ないし(17)の土地について昭和二三年一二月二日付でなした農地買収処分を二一二番の一の土地((1)の土地)に訂正するとともに、右(15)ないし(17)の土地について横浜地方法務局神奈川出張所昭和三一年八月二一日受付第三九一四一号をもってなされた農林省の所有権取得登記の抹消登記嘱託を同法務局同出張所になし、昭和四〇年一一月二九日受付をもって右抹消登記を経て高島長政名義に所有権が回復された。

その後、(15)ないし(17)の土地については、昭和四一年四月九日、原告らに対し、相続を原因とする所有権移転登記が経由され、また、(10)及び(11)の土地については、分筆もなされず高島長政の所有名義のままであったところから、同人より原告らに対し相続による所有権移転登記が経由された。

また、青木武雄(青木豊吉の相続人)以外の被売渡人らが取得した(1)ないし(9)、(13)及び(14)の土地のうち、(6)ないし(9)及び(14)の土地は前記のようにすでに第三者に転売されていたため、まず、(2)ないし(5)の土地について、昭和四〇年一二月二二日、錯誤を原因として、前記昭和三一年九月三日受付第四一四四四号をもって田代菊蔵、餅田勘次郎、中村繁蔵に対してなされていた各所有権取得登記の抹消登記を経て、登記薄上農林省名義の所有権に回復するとともに、右土地を(1)の土地に合筆した。そして、右合筆された土地について、昭和四一年二月一六日、昭和二三年一二月二日自作農創設特別措置法一六条による売渡を原因として被売渡人である中村好治、中村繁蔵、餅田勘次郎、田代菊蔵、中村利兵衛、辻弥三郎、中村嘉兵衛、久保田定扶、中村新太郎、松野福太郎の一〇名のため所有権(共有)の取得登記が経由され、さらに、(13)の土地及び農林省名義であった横浜市保土ケ谷区星川三丁目四〇三番二畑五〇九平方メートルについても、昭和四一年二月一六日、右被売渡人一〇名に対し同様の所有権(共有)の取得登記が経由された。

以上の事実を認めることができ、原告高島正子、同高島保男の各供述中、右認定に反する部分は、右認定に供した前掲各証拠に照らしてたやすく措信しがたく、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

4(一)  ところで、原告高島正子、同高島保男の供述中には、当事者間における話し合いの中で、当初原告らから、敗訴地のうち(11)、(15)ないし(17)の土地(合計九五一坪)と原告らの勝訴地及び訴外地からなる東側土地((1)ないし(9)の土地)の同坪数とを交換することを提案したところ、県側は右同坪数の交換に同意し、第一段階として坪単価等価同面積による交換の和解が成立し、さらに、県側から耕作者に耕作を放棄させるのだから離作料としてさらに東側土地から三〇〇坪と八〇万円を出してほしい旨の提案があり、原告らはやむなくこれを了承したが、さらに第三段階として、県側から訴外地である(10)の土地を耕作しているものも連れていってもらいたいのであれば、東側土地の残り全部を離作料として出してほしい、そうすれば原告らは二一七番の土地全部を完全にきれいにして手に入れることができるから宅地造成するにもしよくなると提案があり、原告らとしても早期解決をはかった方が得策と判断し、右提案に応じ、結局、原告らが提供した東側土地のうち、原告らの取得する土地九五一坪にみあう九五一坪は、同面積による交換の対価として提供し、残り六七六坪は、取得地及び(10)の土地上の耕作者に対する離作料として提供されたものである旨の原告らの主張に副う供述部分があり、また、証人白井恒の証言中にも、右と同趣旨の供述部分がある。

さらに、甲第七号証には、原告らは東側土地一六二七坪を放棄し、取得地九五一坪を取得したが、「前者は傾斜聊か急なれども南に向って傾斜し、後者は聊か緩なれども北に向って傾き、単価略相等しきが故に前者一六二七坪中後者九五一坪相当地積を提供すべきであったが、宅地に造成する工事実施のため後者を取得する必要があったので宅地造成必要経費として差額六二七坪を余分に提供することにした。」ものであることを神奈川県知事訴訟代理人において証明する旨の記載があり、また、甲第六号証には、原告らが放棄した一六二七坪の内の六七六坪は離作を得るために提供することになったものであることを右代理人において証明する旨の記載がある。

(二)  しかしながら、原告高島正子、同高島保男の各本人尋問の結果によっても、原告らのいう坪単価等価同面積による交換の合意は、県側との間でできたというのであって、相手方となる被売渡人らとの間で成立していたというのではなく、また、原告らにおいて東側土地一六二七坪の中から提供すべき九五一坪(正確には訴外地(10)のうち一反歩三〇〇坪を含めると一二五一坪坪であろう。)についても具体的にどの範囲の土地と決めたというのでもなく、単に東側土地の北側から九五一坪を提供するつもりであったというに過ぎないものであることが認められる。しかも、前記認定のとおり、東側土地と取得地とは地形、地味などが相当異なり、地価において格段の差異があり、そのため被売渡人らは東側土地に移転することに強い難色を示し、右各土地の坪当たりの単価が等価といえないことがまさに話し合いの進行上の難点となっていたものであり、さらに、証人柳川澄の証言によれば、神奈川県知事の訴訟代理人をしていた同人の認識においても、東側土地と取得地とは地価に大変な相違があり、被売渡人らが交換に不満で東側土地が取得地よりも六七六坪(ないし三七六坪)多くても、まだ不足という感じを持っていたことが認められ、右の情況からすれば、原告らと被売渡人さらには神奈川県知事側との間において、第一段階として九五一坪につき坪単価等価同面積による交換の合意がなされたとは到底考えられない。そうすると、右合意が成立したことを前提としてさらに第二段階以降の話し合いがなされたとする供述部分はたやすく措信し難いものといわねばならない。

なお、証人柳川澄の証言によれば、甲第六及び第七号証の各証明書を作成するに至った経緯は、昭和四三年二月二一日ころ、別件において原告らの訴訟代理人であった岡井弁護士から、所得税の確定申告をするのに裁判外の和解の事実を証する書面がなく、ほかに証明する人がいないので、裁判外の和解成立の事実についての証明書を書いてほしい旨の申出があり、柳川弁護士において他に右和解に関し証明する人がいないのであればやむを得まいと考えて弁護士同士の好意からこれに応じ、右和解内容を記載した書面もなく、その記憶も明確ではなかったが、岡井弁護士を信頼して、同弁護士が記載した前掲甲第七号証の証明事項について内容がよくわからないまま(その記載内容は極めて難解不明であることが認められる。)これに署名押印したものであり、また、甲第六号証についても、同年三月二〇日ころ、岡井弁護士から前のでは足りないからもう一度証明してもらいたい旨の申出があったことから、安易に、確めることもせず甲第七号証と同様に署名押印したことが認められ、右作成の経過に照らせば、甲第六号及び第七号証の記載も、原告らの主張事実を証するに足りる証拠とはなし難い。

(三)  なお、原告らは、裁判外の和解における話し合いの中で、県知事訴訟代理人の柳川弁護士が耕作者らの移転について「離作料」として東側土地からもっと出してほしいとか、「これは離作するために必要なんだから」とか言って、「離作料」という言葉を使用していた旨供述する。しかしながら、前掲乙第四号証、証人柳川澄の証言によれば、柳川弁護士が、和解交渉の際、原告らに対して「離作料」なる言葉を使用したか否かは必ずしも明瞭ではないが、離作料という言葉を使用したとしても、それは純然たる耕作権の代償としてのいわゆる離作料という趣旨ではなく、被売渡人らが耕作地から東側土地に移転すること、その限りにおいて従前の耕作地を離れるという意味において「離作」という言葉を用いたものであることが認められる。そうすると、県知事の訴訟代理人柳川弁護士から交換の対価としてではなく、耕作権放棄の代償としての離作料(立退料)として東側土地の提供を求められた旨の原告らの前記各供述は措信できない。

(四)  原告らは、「右六七六坪(正確には三七六坪であろうことは前説示のとおり。)の提供が取得地及び訴外地((10)の土地)上の不法耕作者らに対する離作料の代物弁済であった。」旨主張するところ、前記認定のとおり、本件裁判外の和解の趣旨とするところは、被売渡人が、その耕作中の取得地及び訴外地のうち一反歩(三〇〇坪)を原告らに譲渡し、その対価として原告ら所有の(1)の土地及び第一審判決により原告らの所有とされた(2)ないし(9)の土地並びに西側の(13)、(14)の土地(さらに五〇万円)を原告らから譲受けて農地としてこれを耕作するというものであって、交換契約の当事者として被売渡人らは、取得地及び(10)の土地のうち一反歩についての耕作は離れるものの、(1)ないし(9)の土地及び(13)、(14)の土地(但し、すでに転売されて宅地となっていたものは除く。)において耕作することを前提としたものであるから、被売渡人らが原告らに対して耕作を離れることによる補償ないし対価を請求できる理由がなく、原告らにおいて交換の相手方が耕作し得る農地である(1)ないし(9)及び(13)、(14)の土地を取得するほかに、重ねて被売渡人に対し取得地及び(10)の土地のうち一反歩についての耕作を離れる対価を出捐しなければならない根拠は見出し難いのであって、この点に関する限り、右の主張はそれ自体失当であるといわねばならない。

つぎに、原告らの主張には「右六七六坪の提供が訴外地((10)の土地)上の不法耕作者らに対する離作料の代物弁済であった。」旨の主張も含まれているので、この点について検討する。

所得についての証明責任が被告課税庁側にあり、従って、所得算出の前提となる必要経費の証明責任も被告に帰せられることはいうまでもないが、そもそも所得は現実の収入金額などと異なり課税のための評価であるから、所得を算定評価する前提となる必要経費については、被告課税庁において、その通常必要とされる経費につき一応の証明をなして、これを認定すれば足り、被告の右認定を超えて特別の経費の支出を必要としたことについては、課税上利益を受けることとなる原告納税者において証明すべき責任を負うと解するのが相当である。

ところで、右六七六坪が訴外地((10)の土地)上の不法耕作者らに対する離作料として代物弁済されたことを認めるに足りる証明はない。

かえって、代物弁済契約は要物契約であり、不動産については所有権移転登記が経由されてはじめて契約が成立するものであるところ、前記認定のとおり、取得地及び(10)の土地のうち一反歩の耕作者であった田代菊蔵、中村利兵衛、辻弥三郎、中村好治、中村嘉兵衛、中村新太郎、久保田定扶、餅田勘次郎、松野福太郎が(1)ないし(9)、(13)、(14)の土地の所有権(共有権)を取得し、その登記を経由した(なお、中村繁蔵も共有者の一人とされているが、同人は(6)、(7)の土地の耕作者で農地の売渡を受けていたものであること前示認定のとおりである。)ことは認められるが、そのほかの者が所有権(共有権)を取得し、その登記を経由した事実は窺えない(もし原告らの主張のとおりとすれば、不法耕作者の名が登記簿に表示されていなければならない筋合である。)。

そうすると、原告らは右六七六坪を訴外地((10)の土地)の不法耕作者らに対し離作料として代物弁済したものではないことが認められる。

(五)  前掲乙第四号証、第七及び第八号証、証人柳川澄の証言及び弁論の全趣旨を総合すれば、原告らの取得地(一二五一坪)の価額は、原告らが離作料であると主張する六七六坪(正確には三七六坪であろう。)を含めた東側土地一六二七坪に五〇万円を加えたものよりも、さらに高価であって、被売渡人らは、これが交換には難色を示したものの、県側の第一審敗訴地の事後処理のための強い要請に協力する趣旨で、不満ながら交換に応じたものであることが認められる。

以上認定の事実によれば、原告らが離作料であるとする六七六坪(前説示のとおり正確には三七六坪であろう。)の提供は、耕作権放棄の代償ないし立退料ではなく、原告らが取得地(九五一坪)を取得するための対価そのものであったと認めるのが相当である。

5、以上によれば、原告らが離作料の代物弁済として提供したとする六七六坪は、裁判外の和解において交換により原告らが取得した土地の対価とみるべきもので、離作料とは認められないから、被告が右六七六坪の時価相当額一、三五二万円の改良費算入を否認したことは正当である。

しかして、原告らの各年分の譲渡所得の計算上、改良費等として算入すべき額は、各自、昭和四二年分については、別表3の(1)、(2)、(4)及び(5)の各争いのない費用に、離作料として計上した二〇七万七、三三〇円から否認すべき一九六万一、二七八円を控除した金額を加算して得られる六九八万五五七円となり、また、昭和四三年分については、申告額七三八万二、三三〇円から否認すべき離作料一三一万六、九一五円(譲渡部分の比率を〇・一九四八一とするのが相当である。)を控除した六〇六万五、四一五円となる。

三、右一、二のとおり、原告らの昭和四二年分及び昭和四三年分の各所得税について被告がなした各更正処分のうち、いずれも別表1のとおり譲渡所得を除く各所得については当事者間に争いがなく、争いのある譲渡所得については、右認定事実によれば、原告らの昭和四二年分の譲渡所得の金額は、いずれも、収入金額一、八〇八万九〇〇円から取得費二六万八、四一四円、改良費等六九八万五五七円、譲渡費用二五万六、〇〇〇円、雑所得申告分五五万九、二四〇円、特別控除三〇万円の合計八三六万四、二一一円を控除した金額の二分の一に当たる四八五万八、三四四円となり、また、原告らの昭和四三年分の譲渡所得の金額は、いずれも、収入金額一、三五〇万九、五九〇円から取得費四〇万三四七円、改良費等六〇六万五、四一五円、譲渡費用四三万二、四八八円、雑所得申告分二八万一、六二五円、特別控除三〇万円の合計七四七万九、八七五円を控除した金額の二分の一に当たる三〇一万四、八五七円となる。

しかして、原告らの昭和四二年分及び昭和四三年分の各所得税額は、別表4、5の各(一)のとおり資産合算をなし、同表各(二)、(三)の各正当額欄記載のとおり計算される。(計算関係については当事者間に争いがない。)。そうすると、被告が原告らの昭和四二年分所得税について、原告保男の所得税額を二八二万五、八〇〇円、原告正子の所得税額を一九九万七、七〇〇円とした各更正処分は適法である。しかしながら、被告が原告保男の昭和四三年分所得税について税額を二五八万九、七〇〇円とした更正処分は、税額を過大に認定した違法であり、税額二四九万七、二〇〇円を超える部分の取消を免れない。また、被告が原告正子の昭和四三年分所得税について税額を一二七万二、六〇〇円とした更正処分は、正当な税額一三六万四、八〇〇円の範囲内であるから適法である。

四、被告が国税通則法六五条一項の規定に基づいて本件各更正処分により納付すべき所得税額に一〇〇分の五の割合を乗じて得た金額に相当する過少申告加算税を賦課したことは当事者間に争いがない。そうすると、前記説示のとおり、原告保男の昭和四三年分所得税額は二四九万七、二〇〇円が正当であるから、右所得税の更正に基づき過少申告加算税額を二万三、二〇〇円とした被告の賦課決定処分のうち、一万八、六〇〇円を超える部分は違法として取消を免れないが、被告のなしたその余の各過少申告加算税賦課決定処分はいずれも違法である。

五、よって、被告が原告らの各昭和四二年分及び昭和四三年分所得税についてなした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分の一部取消を求める原告らの本訴請求中、原告保男の昭和四三年分所得税についてなした更正及び過少申告加算税賦課決定の各処分のうち所得税額二四九万七、二〇〇円、過少申告加算税額一万八、六〇〇円を超える部分の取消を求める部分は、理由があるのでこれを正当として認容し、原告保男のその余の請求及び原告正子の請求は、いずれも理由がないのでこれを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小川正澄 裁判官 三宅純一 裁判官 桐ケ谷敬三)

目録

横浜市保土ケ谷区峰岡町二丁目

<省略>

備考

1、(2)の土地は、昭和三三年に二一二番二(一反歩)と同番一〇(一畝二〇歩)に分筆された。

2、(3)の土地は、昭和三三年に二一二番三(二畝二〇歩)と同番一一(一〇歩)に分筆された。

3、(4)の土地は、昭和三三年に二一二番四(二畝一〇歩)と同番一二(一畝歩)に分筆された。

以上

表一

(一) 原告保男

<省略>

(二) 原告正子

<省略>

表二

<省略>

表三

昭和四二年分改良費等の内訳

<省略>

表四(一)

昭和四二年分資産合算総括表

<省略>

(二)

昭和四二年分高島保男

<省略>

※雑所得は九一七、七八四円の内訳は土地造成利益五五九、二四〇円を受取利息三五八、五四四円である。

(三)

昭和四二年分高島正子

<省略>

表五(一)

昭和四三年分資産合算総括表

<省略>

(二)

昭和四三年分高島保男

<省略>

(三)

昭和四三年分高島正子

<省略>

図面

<省略>

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