大判例

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東京高等裁判所 昭和54年(う)648号 判決 1979年7月09日

被告人 井尻伸一

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役六月に処する。

原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は弁護人寺崎昭義、同伊東正勝共同作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は検察官加藤泰也作成名義の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

一  控訴趣意第一(事実誤認を主張する論旨)について

所論は、要するに、被告人は、原判示のように、大堂信警部補が車外から左手を被告人運転車両のエンジンキーの方に差し入れてきた時にも、同車のハンドルをつかんだ時にも、同警部補の左手や左腕を殴打したことはなく、また、自車を発進走行させた時にも、徐々に発進し、時速五、六キロメートルからせいぜい時速一〇キロメートル程度の速度で進行しており、車外から左手で被告人運転車両のハンドルをつかんでいた同警部補に対する暴行となるような自動車の走らせ方はしていないにもかかわらず、被告人が同警部補に対して右のような暴行を加えたと認定した原判決は、事実を誤認したものであり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、検討してみるのに、右被害者である原審証人大堂信は、原審第二回及び第三回公判廷において、右暴行を受けた点について、「開いたドアと車体の間からエンジンキーの方に差し入れた左手の手首のあたりを手拳で二回ほど殴打され、次に左手でハンドルをつかんだところ、その前腕部を手拳で一回殴打されたうえ、車の速度を上げられて一〇数メートルくらい引きずられ、車の速度も時速一五キロメートルくらいにまで上がつてきたので、危険を感じて手を放した。」旨供述し、同人と共に被告人らに対する職務質問にあたつた原審証人砂原定男も、原審第三回公判廷において右大堂証人と同旨の供述をしているところ、これらの供述は、いずれも、その内容が具体的かつ自然で、右暴行を受けるに至るまでの事態の推移やその場の緊迫した雰囲気をありのままに述べているものと認められ、特にこれらの供述を疑うべき事由も見出されないから、十分信用するに足りるものと考える。

これに対し、被告人運転車両の同乗者である原審証人斉藤幸一及び同内山千士は原審第四回公判廷において、被告人は原審第五回及び第六回公判廷において、いずれも所論にそう供述をしているが、これらの供述は、いずれも前記原審証人大堂及び同砂原の各供述に対比してにわかに信用することができない。

してみると、原判決が原審証人大堂信、同砂原定男の原審公判廷における各供述と原判決挙示の実況見分調書を総合して原判示のような被告人による大堂警部補に対する暴行の事実を認定したことは正当であり、論旨は理由がない。

二  控訴趣意第二(事実誤認ないし法令適用の誤りを主張する論旨)について

所論は要するに次のように主張するのである。原判決は、大堂警部補は、被告人又は被告人運転車両の同乗者が消火器投棄の道路交通法違反罪(同法七六条四項五号違反・同法一二〇条一項九号該当)を犯した疑いをもつて職務質問を開始したと認定した。しかし、同警部補は、被告人ないし被告人運転車両の同乗者らが兇器準備集合罪或いは劇薬類発射の道路交通法違反罪(同法七六条四項四号違反・同法一二〇条一項九号該当)を犯した疑いをもつて職務質問を開始したというのが真相である。ところが、当時被告人らが兇器準備集合罪を犯し、若くは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由は何ら存在せず、また、同警部補は、職務質問を開始した段階では既に被告人運転車両から噴射された白い粉が劇薬類ではなく、単に消火薬に過ぎないことを知つていたのであるから、同警部補の職務質問は、その要件を欠く違法なものであつたのである。また、仮に被告人らに消火器投棄の道路交通法違反罪を犯した疑いが存したとしても、それは全く軽微な事犯であり、かつ被告人らは終始職務質問及び車両の停止を拒否する態度を示していたのであるから、このような被告人らの態度を無視し、被告人運転車両のエンジンキーを取ろうとしたり、同車のハンドルをつかんで同車を道路端に向かわせようとした大堂警部補の行為は、職務質問に付随して許容される実力行使の限界を逸脱した違法なものであつた。したがつて、仮に被告人が大堂警部補に対して暴行を加えたという事実が存したとしても、それが公務執行妨害罪を構成することはありえない。しかるに、原判決が大堂警部補の職務執行を適法なものと誤認し、被告人の行為に刑法九五条一項を適用したのは、事実を誤認し、ひいて法令の適用を誤つたもので、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、検討してみるのに、原判決挙示の証拠によれば、次のような各事実が認められる。すなわち、横浜国立大学では従来からいわゆる革マル派と中核派による勢力争いが行われてきており、本件当日に行われる寮祭の前夜祭、翌日から翌々日にかけて行われる寮祭をめぐつても、両派が互いに、他の介入を許さないといがみ合つており、本件当日朝には両派の活動家達が学内にはいつたという情勢のもとで、両派による暴力抗争事件が発生する恐れがあるとの警備情報に基づき、総勢約四〇名の警察官が同大学周辺で警戒勤務についていたこと、大堂警部補が同大学の正門付近にパトロールカーを止めて待機していたところ、当日午後三時五〇分ころ、革マル派の使用車両と目される被告人運転の普通貨物自動車が正門から出てきてすぐ右折し、同警部補らの車両の横を通過した直後に、突然車内から白い粉末を噴射し、次いで二度、三度と、被告人運転車両が見えなくなつてしまうほどに白い粉末を噴射しながら走つていつたので、同警部補はとつさに、被告人運転車両にはいわゆる内ゲバ用の兇器か火炎びんのような物でも積んであつて、被告人ないし被告人運転車両の同乗者が検問回避のために劇薬類の入つた右粉末を噴射したのではないかと疑い、直ちにパトロールカーで追いかけたこと、約一二〇数メートル進行した地点で道路端に消火器が投棄されているのが見つかつたので、先ほどの白い粉末が消火薬であつたらしいことがわかつたが、依然、白い粉末の噴射、消火器の投棄のいずれについても道路交通法違反の疑いは残るし、更に被告人らが前記のような異常な行為を行つたことから、被告人らはいわゆる内ゲバに関連して何らかの犯罪を犯し、若くは犯そうとしているのではないかと疑い、引き続き被告人運転車両を追跡したこと、同警部補は被告人運転車両が原判示暴行地点から三〇メートル余り手前の地点で前車に続いて停止したのを認め、パトロールカーを降り、駆けて被告人運転車両の運転席横に至り、「警察の者だ。車を止めろ。」と言つて呼び止め、職務質問を開始しようとしたが、被告人はこれを無視してその運転車両を発進させてしまつたこと、被告人運転車両はそれから約三〇メートル余り進行し、原判示場所に至つたところで信号待ちのため再度停止したので、同警部補は再び駆けて被告人運転車両の運転席横に至り、「止まらんか。エンジンを止めて降りてこい。」と言つて職務質問のため停止を求めたが、被告人及び同乗者らは、「法的根拠は何だ。そんなものに従う必要はない。」と言つてこれに応ずる風がなかつたところ、応援に駆けつけた砂原巡査が運転席側のドアを開いたので、同警部補は開いたドアと車体の間に体を入れ、「何で消火薬を噴射したり、消火器の本体を投げたりしたのか。」と言つて職務質問を開始したが、被告人及び同乗者らは質問には答えず、被告人において車を発進させそうな気配が感じられたので、同警部補がとりあえず被告人運転車両のエンジンを切ろうとしてエンジンキーの方に左手を延ばしたところ、被告人に右手拳で手首の辺りを二回くらい殴打されたり、払われたりし、被告人及び助手席に同乗していた内山千士にエンジンキーを押えられ、車を発進させられてしまつたので、やむなく同車を道路左端に寄せようとして左手でハンドルをつかんだところ、被告人に前腕部を手拳で殴打されたうえ、約一〇数メートル引きずられ、車の速度も時速一五キロメートルくらいにまで上がつてきて危険な状態になつたので、手を放したこと、以上の事実を認めることができる。右認定に反する原審第四回公判調書中証人斉藤孝一、同内山千士の各供述部分、原審第五回、第六回公判調書中被告人の各供述部分はいずれも信用できない。

右に認定したような大堂警部補が被告人らに対する職務質問を開始するに至るまでの事実経過に徴すると、同警部補が被告人らに対する職務質問を行おうとした主眼が那辺にあつたかはともかく、同警部補が被告人又は被告人運転車両の同乗者が走行中の車内から消火器を投棄するという道路交通法違反を犯した疑いを持つて職務質問に着手したことは否定できないところであつて、原判決に所論のような事実誤認はなく、右職務質問に着手するまでの事実経過に照らし、職務質問開始の要件に欠けるところはなかつたものといわなければならない。そして、前記認定のような事実関係、殊に職務質問に際し被告人らが示した前記のような態度のもとでは、大堂警部補が、被告人らを停止させるため、左手を車内に差入れてエンジンのスイツチを切ろうとしたり、発進した自動車のハンドルを左手でつかんで自動車を路端に寄せようと試みた行為は、警察官職務執行法二条一項の規定に基づく職務質問を行うため相手を停止させる方法として必要かつ相当な行為にあたるから、刑法九五条一項にいう職務の執行として適法なものというべきである。従つて、この点の違法を前提とする論旨は理由がない。

三  控訴趣意第三(量刑不当を主張する論旨)について

所論は要するに、仮に被告人が公務執行妨害罪の刑責を免れないとしても、被告人を懲役六月の実刑に処した原判決の量刑は重過ぎて不当である、というのである。

そこで、検討してみるのに、本件は、前記のような事実経過のもとに行われた犯行であるところ、特に、原判示暴行のうち、大堂警部補が被告人運転車両のハンドルを握つたままでいるのに同車を加速進行させた行為は、単に同警部補の公務の執行を妨害するだけにとどまらず、同警部補の生命・身体に対する危険をも伴うものであつたこと、被告人はかねてから現行の法秩序をべつ視し、暴力主義的傾向の強いいわゆる過激派集団の活動に参加し、その活動に関連して既にこれまでにも、公務執行妨害罪、住居侵入・鉄道営業法違反罪を犯した容疑で各一回検挙されたことがあるのに、今回また本件を働いたこと、原審における審理の過程においても、事実を否認し、警察官の非をとなえることにのみ急で、反省の態度が見受けられなかつたことなどに照らすと、被告人を懲役六月の実刑に処した原判決の量刑もうなずけないわけではない。

しかしながら、本件は結果的には重大な事件とはいえないこと、本件による被告人の未決勾留日数は合計二四〇日にも及んでいること、被告人は当審公判廷において「これまでは東京ないしその周辺で親からの仕送りとアルバイトで生活してきたが、この裁判を機に九州に帰つて正式に就職し、働きながら自己の生き方を見つめ直してみたい。」旨反省の弁ともとれる供述をしていることに照らすと、現段階においては、原審の言い渡した実刑を維持するよりは、被告人に対する刑の執行を猶予して、被告人の今後の自省に期待するのが相当である。論旨は結局理由がある。

よつて刑訴法三九七条、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に判決する。

原判決の認定した罪となるべき事実に原判決と同一の法令を適用し処断した刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処し、刑法二一条を適用して原審における未決勾留日数中一〇〇日を右刑に算入し、同法二五条一項によりこの裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 堀江一夫 森真樹 浜井一夫)

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