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東京高等裁判所 昭和52年(く)61号 決定 1983年5月23日

請求人 赤堀政夫

昭四・五・一八生

主文

原決定を取り消す。

本件を静岡地方裁判所に差し戻す。

理由

本件抗告の趣意は、弁護人作成名義の即時抗告申立書、昭和五二年一二月二六日付即時抗告申立補充書、同月二八日付抗告理由の補充書、昭和五三年八月二日付即時抗告申立補充書(続)、昭和五四年九月五日付即時抗告申立補充書(第三)、昭和五五年八月六日付即時抗告申立補充書(第四)、同年九月二六日付即時抗告申立補充書(第五)及び昭和五七年一一月一五日付即時抗告申立補充書(第六)記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官作成名義の意見書、昭和五五年七月一〇日付意見書(補充)及び昭和五七年七月二八日付意見補充書記載のとおりであるから、これらを引用する。

第一確定判決

関係記録を調査検討すると、以下の事実が認められる。

一  請求人は、昭和二九年六月一七日、強姦致傷、殺人被告事件について、静岡地方裁判所に公訴を提起された。右起訴状記載の公訴事実の要旨は、「被告人(以下「請求人」という。)は、昭和二九年三月一〇日、静岡県榛原郡初倉村坂本沼伏原四九二五番地の山林内(以下「犯行現場」という。)において、佐野久子(昭和二二年一一月二二日生)を押し倒して馬乗りとなり姦淫し、よつて同女に対し外陰部裂創等を被らせたうえ、更に、犯行の発覚を防ぐため同女を殺害せんことを企て、即時同所において、同女の頸部を両手をもつて締めつけ窒息死させて殺害の目的を遂げた。」というものである。

二  請求人は、原第一審の公判において、捜査段階での自白を全面的に翻して犯行を否認し、アリバイを主張したが、静岡地方裁判所は、昭和三三年五月二三日宣告の判決において、右アリバイの主張を退け、罪となるべき事実として左記の事実を認定したうえ、刑法一八一条、一九九条、四五条前段を適用して、請求人を死刑に処した。

原第一審裁判所が認定した罪となるべき事実の要旨は、次のとおりである。すなわち、

請求人は、昭和二九年三月一〇日午前一〇時ころ、島田市幸町にある快林寺の墓地に赴き、同所で供物を捜したが見当らないので、墓地から本堂前の広場に赴いたところ、同所にある島田幼稚園講堂で遊戯会が催されていたので、その入口付近に行つて女児の遊戯を見ているうち、にわかに情欲にかられ、幼女を連れ出して姦淫しようと考えるに至つた。そこで、請求人は、付近を見回したところ、たまたま本堂石段付近で他の女児と遊んでいる佐野久子(昭和二二年一一月二二日生・当時六歳三か月)を見つけ、右講堂前に出されていた売店で菓子を買い与えたうえ、「いいところへ連れて行つてやる。」と誘い、同日正午ころ同女を伴つて島田駅前道路から、同駅線路下のトンネルを経て、大井川旧堤防を越え、横井グラウンドを横切つて大井川新堤防に出で、同女を姦淫するに適当な場所を捜したが見当らないので、河原を下流に向つて旧堤防に登り、同女を背負つたまま、蓬莱橋を渡つて右折し、更にその道の途中から山林に立ち入つて、静岡県榛原郡初倉村坂本沼伏原四九二五番地の人目につかぬ山林に至つた。請求人は、ぼんやりしている佐野久子をその場に降ろすや、情欲を抑えることができず、やにわに同女をその場に押し倒し、泣き叫ぶ同女の下半身を裸体にし、その上に乗りかかつて姦淫し、その結果、同女に外陰部裂創等の傷害を負わせたが、同女がなおも泣き叫んで抵抗し、意のままにならぬので、ひどく腹をたて、同女を殺害し併せて犯行の発覚を免れようと決意し、付近にあつた拳大の変形三角形の石(証第一〇号)(以下「本件石」という。)を右手に持つて、同女の胸部を数回強打したうえ、両手で同女の頸部を強く絞めつけ、同日午後二時ころ同所において、同女を窒息死させた、というものである。

右認定に供された証拠としては、請求人の検察官に対する第一ないし第三回、第五、六回供述調書及び司法警察員に対する昭和二九年五月三〇日付、同月三一日付(原第一審記録五六五丁以下の分)、同年六月一日付、同月二日付、同月五日付、同月六日付、同月七日付、同月八日付(原第一審記録六三八丁以下の分)各供述調書(以下「自白調書」という。)、裁判官の請求人に対する勾留質問調書のほか、検証調書、実況見分調書、鑑定人古畑種基の原第一審公判廷(第二一回)における供述、医師鈴木完夫作成の昭和二九年三月二五日付鑑定書があり、その他、右認定の犯行当日被害者を伴つて犯行現場のほうに行く男を目撃した者らの証言、本件石を含む計一三点の証拠物等多数が判決に挙示されている。

三  右の判決に対して請求人から控訴の申立がされたが、原第二審判決(東京高等裁判所昭和三五年二月一七日宣告)は原第一審判決の事実認定を是認し、請求人の控訴を棄却した。その理由の骨子は、請求人の自白調書の任意性、信用性に疑いがなく、請求人の主張するアリバイの成立は認められないというのである。

四  更に、請求人から上告の申立がされたが、最高裁判所は、昭和三五年一二月一五日、判決で右上告を棄却し、これに対する請求人の判決訂正の申立を同月二六日決定で棄却し、ここに原第一審判決が確定するに至つた。

第二再審請求

右の確定判決に対しては、次のとおり、これまで四回にわたり、請求人から再審請求がされている。

一  第一次再審請求

昭和三六年八月一七日静岡地方裁判所に出された再審請求の理由の要旨は、請求人のアリバイを立証する新証拠として、昭和二九年三月一二日ころ請求人と行を共にした岡本佐太郎を証人として取り調べられたい、というものであつたが、同裁判所は、昭和三七年二月二八日、岡本佐太郎の所在がまつたく不明で容易にその取調べをなしえないのであるから、右再審請求は不適式なものであるとして、決定で棄却した。この決定は、即時抗告の申立がなく確定した。

二  第二次再審請求

1  昭和三九年六月六日、請求人から静岡地方裁判所に再審請求が出された。その理由は、

(一) 本件犯行現場付近の大井川の河原に遺留された犯人の足跡と考えられるものは、請求人のものでない事実

(二) 本件石は、請求人の任意の自供によつて初めて発見されたものではなく、本件にまつたく無関係で、本件当時犯行現場にも存在していなかつた事実

を証明できる明らかな証拠をあらたに発見したことを趣旨とするものであつた。

2  静岡地方裁判所は、昭和三九年一〇月三日、請求人の申出にかかる各証拠は刑事訴訟法四三五条六号所定の事由に当らないとして、再審請求を決定で棄却した。

3  右決定について、弁護人から即時抗告の申立があつたが、東京高等裁判所は、昭和四〇年一一月二五日、右決定を維持し、右抗告を決定で棄却した。

4  最高裁判所は、昭和四一年二月八日、弁護人の特別抗告を決定で棄却した。

三  第三次再審請求

請求人は、昭和四一年四月一五日静岡地方裁判所に再審を請求したが、右請求書に刑事訴訟規則二八三条に定める資料の添付がなく、また、再審理由の記載を欠如する不適式なものとして、同裁判所は、昭和四一年六月八日右請求を決定で棄却した。この棄却決定は、即時抗告の申立がなく確定した。

四  第四次再審請求(本件)

1  本件再審請求は、昭和四四年五月九日請求人から出された。その主たる理由は、

(一) 弁護人の提出した北条春光作成の鑑定書、太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付、昭和四七年四月六日付各鑑定書、上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付鑑定書(これらの鑑定書を総称して、以下「新鑑定」という。)によつて、請求人が自白調書において述べているような、(1)被害者の陰部に陰茎を半分くらい入れただけでは、被害者の陰部の損傷は起きないこと、(2)本件石による殴打では、被害者の胸部の損傷ができないこと、(3)被害者に加えられた犯行の順序、すなわち、まず強姦し、次いで、胸部を殴打した後、扼殺した、というものでないことが明らかとなり、従つて、請求人の自白調書の任意性、信用性が否定されること

(二) 本件犯行当日に請求人のアリバイがあること

などを骨子とするものである。

2  原審の判断

原審は、昭和五二年三月一一日、本件再審請求は刑事訴訟法四三五条六号所定の再審事由に当らないとして、これを決定で棄却した。その理由の要旨は、次のとおりである。すなわち、原決定は、新鑑定の新規性を肯定したうえで、(1)被害者の陰部損傷の成傷用器、(2)胸部損傷の成傷用器、(3)被害者の受けた犯行の順序の三点を検討し、

(一) 新鑑定によつても、(1)被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入したという請求人の供述が真実に反するということはできず、また、新鑑定は、(2)本件石で被害者の胸部を殴りつけたという請求人の供述に合理的な疑いをいれる程度のものではないが、(3)被害者の陰部及び胸部の各損傷は頸部絞扼の後に生じたものであるとする合理的疑いがあることを明らかにした、しかし、右の疑いは、他の旧証拠と総合すれば、いまだ請求人の自白調書の任意性、信用性を否定するに至つていない、

(二) 弁護人が提出した新証拠によつても、本件犯行当日の請求人のアリバイは認められない、

(三) 前記(一)(3)の犯行順序は、確定判決が認定した強姦致傷罪と殺人罪との併合罪の関係ではなく、殺人罪と強姦致死罪との観念的競合の関係になるが、このような罪数関係の変更は、刑事訴訟法四三五条六号所定の、無罪を言い渡したり、確定判決において認めた罪より軽い罪を認める場合に当るものではない、

などの認定・判断を示している。

第三当裁判所の判断

一  本件抗告の理由は多岐にわたるが、その骨子は要するに、新証拠によつて、被害者の陰部損傷及び胸部損傷の各成傷用器並びに被害者の受けた犯行の順序についての確定判決の各事実認定に合理的疑いを生じ、それとともに請求人の自白調書の任意性、信用性が否定され、また、請求人のアリバイも成立することになるのに、これら新証拠の新規性あるいは明白性を排斥して、再審請求を棄却した原決定には、事実誤認、法令解釈の誤り、判例違反、審理不尽の違法がある、更に、当審において、本件犯行現場付近の大井川の河原に遺留された犯人の足跡と考えられる靴跡が皮短靴であり、請求人の自白するゴム半長靴の足跡と一致しないこと、被害者の死後経過時間が相違し、従つて犯行日が請求人の自白と異なること、かつ、本件石は自白により発見されたものでないことについての新証拠(平沢弥一郎、助川義寛、船尾忠孝各作成の鑑定書、石沢岩吉の検察官に対する供述調書謄本など)が発見され、請求人に無罪を言い渡すべきことが明らかになつた、というのである。

そこで、関係記録及び証拠物を調査し、原決定の当否を審査する。

二  まず、当裁判所は、弁護人が原審において提出した北条春光作成の鑑定書(以下「北条新鑑定」という。)、太田伸一郎作成の昭和四六年五月一二日付、昭和四七年四月六日付各鑑定書(以下「太田新鑑定」という。)、上田政雄作成の昭和四九年一一月一日付鑑定書(以下「上田新鑑定」という。)及び原審が証人兼鑑定人として尋問した太田伸一郎、上田政雄、鈴木完夫の各供述等を旧証拠と総合して考察し、原決定が、確定判決及び請求人の自白調書にみられるような犯行の順序(姦淫→胸部殴打→扼殺)ではなく、頸部絞扼が最初に行なわれ、その後に陰部に傷害を残したような暴行及び胸部に対する暴行が加えられた合理的疑いがあるとしながら、いまだ請求人の自白調書の信用性が失われるものでないとした点、から検討する。

1  弁護人が原審に提出した新鑑定は、いずれも原第一審判決確定以後に作成されたものであり、かつ、その内容等に照らしあらたに発見されたものといえるから、いずれも証拠の新規性を認めるべきであり、これと同旨の原決定の判断は、是認できる。

2  そこで、本件犯行の態様に関する確定判決の認定とその対応証拠との関係についてみることにする。

(一) 確定判決は、前示のように、犯行に至る経緯、すなわち、請求人が、昭和二九年三月一〇日、島田市幸町にある快林寺境内で遊んでいた被害者を姦淫しようと考え、甘言をもつて誘い出し、同女を伴つて、島田駅前道路、同駅線路下のトンネル、大井川旧堤防、横井グラウンド、大井川新堤防、同旧堤防、蓬莱橋を経て、犯行現場の山林に至つた経路を認定した後、犯行現場における請求人の行為として、本件石による胸部殴打を付加したほかは、ほぼ公訴事実にそう認定をしている。

そして、確定判決挙示の証拠関係をみると、犯行自体の目撃者はなく、請求人を犯行と直接結び付ける証拠としては、請求人の捜査段階における自白調書と、犯行を自認した前記勾留質問調書があるだけである。右自白調書によると、確定判決の認定に照応する本件犯行及びその前後の模様が一応具体的かつ詳細に述べられており、犯行自体を主として裏付けるものとしては、被害者の死体発見時の現場を見分した司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書、右死体を解剖した医師鈴木完夫作成の同月二五日付鑑定書(以下「鈴木鑑定」という。)、被害者の受傷の経過等に関する鑑定人古畑種基の原第一審公判廷(第二一回)における供述及び本件石の存在があり、これらの証拠が、確定判決において罪となるべき事実の中枢をなす実行行為認定の重要な基礎となつているものと思われる。

(二) 司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書

右検証調書に記載されている、死体発見時の被害現場及び被害者の模様は、おおむね次のとおりである。

(1) 被害現場は、島田市西南を貫流する大井川に架設された木橋通称蓬莱橋の西岸から直線距離で西南方約二五〇メートルの地点である。同所は、地上一丈二尺くらい、植林後一五、六年くらい経過した松の木林で、付近には丈余の雑木並びに大人の丈を没する笹の密生があつて、歩行は極めて困難である。

(2) 被害者は、やぶ内に頭部をやや南々東にしてあお向けとなり、殺害されている。外部所見は、両手を左右にやや開き、いずれも両手親指を中に軽く握るように見られる。右足はひざで挙げたように曲り、足元は小松の根元に踏み止めている。左足はやや垂直に伸ばし、足先は雑木の根元に踏み止めている。胸腹部位及び両肢大腿部は露出してさらされている。

頭部には格子じまのフランネル製ズロースを載せてあつて、鼻口及び口唇部が覗かれ、右肩の位置に赤色毛糸カーデイガンをまくり上げたように巻きつけてあり、腰部には、化繊緑色ワンピースが両袖を脱がしてまくり上げられ、巻きついている。左大腿部上に、脱がせた木綿白ズロースが載せてある。両足は茶色靴下を履き、更にその上にソツクスを履いているが、左足のソツクスは足首部に下垂している。

(三) 鈴木鑑定

鈴木鑑定は、被害者の死因、解剖時における陰部、胸部の各傷の状態等について、次のように所見を記している。

(1) 死因は扼頸による窒息死と推定される。前頸部の革皮様化の皮下には、極めて軽度な出血を認める。

(2) 死体は、右下肢を外転し、一見していわゆる強姦姿勢を示す。外陰部は[口多]開し、会陰部より肛門周囲に乾血とともに出血を認める。陰部は高度な裂創を認め、膣前庭、小陰唇は形がなく、大陰唇の大部分も表皮がなく、皮下組織が露出している。膣粘膜は、後壁において膣穹隆部まで完全に裂創を認める。膣穹隆部の裂創内には凝血を含んでいる。外陰部の裂創は出血があるが、周囲の生活反応がほとんどなく、付近に外傷がないことから、本創が生じた際に被害者の抵抗はほとんどなかつたと推定される。損傷の程度は高度で、膣穹隆部にまで達し、膣壁は穹隆部まで裂創を生じていることから、細長い鈍器を無理に挿入して生じたものであり、右大陰唇の部分には比較的鋭利な創があることから、先端の比較的硬い鈍器などで生じたものとみられる。本裂創よりの出血は、放置すれば相当量あるものと考えられるが、致命的な大出血をきたすことはまれであると思われる。成傷用器は、指先あるいは陰茎様のものと推定される。

(3) 胸部において、左乳嘴の下方に〇・七及び一・〇センチメートルの類四角形の褐色の革皮様化が二個上下に並んでいるのが認められる。表皮剥脱を伴い、方向は左方に向う。下方のものの内側にほとんど接続して横に二・〇×〇・七センチメートル大の同様な革皮様化及び表皮剥脱があるが、腫脹及び出血はなく、骨折は触知されない。前傷の周囲には半ごま粒大の表皮剥脱がある。胸壁の皮膚筋肉を剥離すると、左乳嘴下方の革皮様化の内部は、表皮と脂肪層を残すのみで、筋肉は挫滅し、第四肋間で胸骨左縁より三・五センチメートルの部分から第四肋間に沿い左上方に約四センチメートルの範囲で肋間筋が消失し、肋膜腔に穿孔しているが、筋肉内には凝血が認められない。創縁は凹凸不整で、創底には肺を認める。左右両肺は淡い桃色で後壁に近いほど紫色となり、濃色となる。左肋膜腔には淡赤色のほぼ透明な液体少量がある。左右肺肋膜下に針頭大の溢血点が多数ある。左肺上葉の前下縁より約三センチメートルの部分が小指頭大に濃赤紫色を呈し、下葉の後下縁の部分は、母指頭大濃赤紫色を呈し、膨大している。膨大する部分を切開すると、内部に出血があるが、凝血は認められない。胸部の肋骨内面に異常がなく、肋骨に骨折はない。左胸部の損傷には、出血等の生活反応が全く認められないことから、死後のものと考えられ、成傷用器は鈍器とのみ判定されるが、それ以上の判別は困難である。

鈴木鑑定は、右のように、被害者の死体を解剖した所見を説明している。この鈴木鑑定では、陰部損傷の成傷用器は指先もしくは陰茎様のものと推察しているが、胸部損傷の成傷用器は単に鈍器とするだけで、石とは明言しておらず、しかも、胸部損傷の生じた時期を死後すなわち扼殺以後とみている。もつとも、同鑑定人は、原第一審公判廷(第三回)においては、瀕死の状態の時には生活反応があつても非常に弱く断定が難しいとして疑問を残しつつも、胸部の損傷は死後にできたものと考えた旨供述しているのである。それゆえ、鈴木鑑定は、少なくとも、被害者の胸部を殴打した後に扼頸したとする請求人の自白とは、右の点で大いに齟齬するわけである。

(四) 原第一審裁判所はいつたん弁論を終結したが、その後職権で弁論を再開し、鑑定人古畑種基に対し、「(1)被害者の受傷の経過、(2)胸部の傷は本件石で殴打してできるか、もしできるとすれば、その際の被害者の状態、打撃の強さ」を鑑定事項とする鑑定を命じ、第二一回公判廷において同鑑定人を尋問している。右の再開は、原第一審裁判所が、鈴木鑑定人と請求人の自白との間にある前記食い違いを無視することができず、この点の解明を迫られたことを意味するものであろう。

このことは、現に、終結前の第一五回公判廷において、裁判官が、証人相田兵市(警察官)に対し、「昭和二九年三月二五日付鑑定書(当審注・鈴木鑑定のこと)によれば、被害者の胸部の傷は死後のものであると鑑定されているが、証人は被告人を取り調べた五月三一日当時この鑑定書を読んでいたか。」、「被告人の当時の供述によれば、生きているうちに石で被害者の胸部をたたいているというが、この点について疑問に思わなかつたか。」と尋問している事実(同証人は、前者については記憶がない旨答え、後者については黙つていて答えない。)からも、容易に推測することができる。

(五) 古畑鑑定

古畑鑑定人は、昭和三三年二月一八日付鑑定書を作成、提出し、これに基づいて原第一審で供述しているが、同供述の一部をなす右鑑定書には、次のような趣旨の記載がある。

大体において鈴木鑑定は正しいと思うが、胸部の損傷を死後のものと判定していることは正しくないと思う。私の考えでは、胸部の損傷は鈍体の作用によるもので、おそらく生前の受傷であると思う。一般に創傷の生前・死後の判定を下すにあたつて、生活反応の有無によることは常識であるが、本件の被害者のような幼少のものは、まだ血管の発達が十分でなく、毛細血管における血圧が成人のように大きくないために、生前に受けた損傷であるにかかわらず、皮下出血がほとんど見られないことがある。本件において、皮下出血が欠けていたので死後のものと判定したことは、一般成人の場合には妥当するのであるが、幼児においては皮下出血を伴わない生前の損傷のあることは忘れてはならぬ。胸部の褐色の革皮様化した表皮剥脱は、おそらく皮内にかすかな出血を伴つていることと思われる。死後の損傷の場合は、まつたく蒼白であつて、褐色を呈していないのが普通である。それゆえ、胸部の損傷には、かすかな皮膚組織内の出血があつたものと考える。

また、肺臓の所見において、左肺上葉に小指頭大に濃赤紫色を呈し、下葉に母指頭大濃赤紫色を呈し膨大している部分があるのは、明らかに生前の外力の影響を思わせるものである。膨大している部分を切開すると、内部に出血が認められると記載されていることは、よくこれを証明している。本件石は、これをつかんで殴打するには手ごろの大きさである。殊に、その先端が鈍円をなして突出していることは、被害者の胸部の傷を生ずるのに適合するように思われる(当審注・本件石の形状は、同鑑定書添付の写真及び図によつて示されており、図は本決定添付別紙図のとおりである。)。

従つて、前記鑑定事項(1)について、被害者の受傷の経過を正確にいうことは難しいが、おそらく、まず押し倒されて姦淫され、その際、手指または陰茎によつて外陰部に裂傷等を生じ、胸部を鈍体をもつて殴打され、次に、頸部を手をもつて絞扼されて死亡するに至つたものと推定する。同(2)について、胸部の損傷は本件石によつてできる。右の損傷は、被害者がまだ生存中に生じたものであり、その打撃は相当に強かつたものと判定する。

古畑鑑定人は、以上のように鑑定し、原第一審公判廷でこれを補足説明している。古畑鑑定によると、被害者の胸部損傷は頸部絞扼以前に本件石によつて加えられたというのであるから、この点に関する請求人の自白と鈴木鑑定との不整合が払拭されたことになるのである。立会検察官も、再開後の論告で、請求人の犯行の手段方法に関する自供は古畑鑑定の結果と合致し、その自供の真実性は十分に裏付けられたものと思料する、鈴木鑑定の誤りであつたことは、古畑鑑定に徴し明白である、と陳述しているくらいである。

原第一審裁判所が、犯行の手段、順序に関する請求人の自白と鈴木鑑定との不一致による迷いを古畑鑑定により払い去つて有罪の認定を行なつたであろうことは、右の経緯に照らして容易に推認することができよう。従つて、犯行の順序を姦淫→胸部殴打→頸部扼殺とする確定判決の認定が、請求人の自白とともに古畑鑑定をその支柱としていることは、原決定の指摘するとおり明白である。

3  次に、犯行の順序に関する新鑑定を考察する。

(一) 北条新鑑定

同新鑑定の要旨は、次のとおりである。

生前強姦されたものとは思われない。屍姦に類する犯行らしい。左胸部の褐色の革皮様化したという部分の傷は、その皮下筋肉並びに更にその内部を調べた解剖医の記録(当審注・鈴木鑑定のこと)を基礎にして判断すると、どうも普通いう生前の外傷と判断しにくいと考えられる。すなわち、呼吸も停止し心臓も止まり仮死の時期と見られるころから後の時期に生じたと考えるのが一般的であると思う。

以上のように鑑定している。

(二) 太田新鑑定

太田新鑑定の概要は、以下のとおりである。

(1) 外陰部に相当大きな裂創が存在しているのに、生活反応らしい出血部分が創の大きさに比して非常に少ないということは、その創が生じた時期は生活力が極度に低下したようなとき以降であると考えられる。生活反応(組織間出血)の程度から、外陰部の損傷は、少なくとも、絞扼より前に生じたものとは考えがたく、絞扼とほとんど同じころか、むしろそれより後に生じたものと思考される。

(2) 古畑鑑定は、左前胸部の革皮様化の表皮剥脱は生前のものと解釈しているが、私はそうは思わない。また、六歳くらいのこどもは血管の発育が不十分で、血圧も成人より低いので、生前の創であつても、成人より皮下出血が認められがたい、という点も、私の考えとは相違している。六歳ともなると、皮膚毛細血管は成人と同程度に完成されている。血圧も、成人とあまり大差がない(当審・昭和四六年五月一二日付太田鑑定書に六・七歳児の最低血圧が一〇・六とあるのは、誤記の疑いがある。)。以上のことで明らかなように、六歳くらいのこどもゆえに生活反応が出現しがたいというのは、科学的根拠が乏しいと思考する。また、左上葉の前下縁に小指頭大の濃赤紫色を呈している部分が、外傷性のものか非外傷性のものかの判断は困難であるが、外傷性の生活反応であると仮定しても、左前胸部の皮膚、筋肉の生活反応が全く欠如しているのに、それらの創底であるこの肺上葉の変色部分にのみ生活反応が現れるという現象は、法医学的に理解できかねる。左胸部の傷は、絞扼よりは後に行なわれたものと推量する。

太田鑑定人は、右のように鑑定し、原審において、更に右の趣旨を敷衍したうえ、犯行の順序について、首が最初であり、外陰部と胸部の各損傷の順序はつけにくいが強いていえば外陰部の方が先ではないかと思う旨証言している(以下、同鑑定人の原審における供述を「太田新鑑定証言」という。)。

(三) 上田新鑑定

上田新鑑定の要旨は、次のとおりである。

(1) 外陰部の裂創には出血を認めるが、組織内出血がない以上、たとえ乾血や流動血があつたところで、これは死後の血液の就下現象と考えられて当然である。また、膣内粘膜面においても裂創があるが、生前の損傷であるとすれば、もつと組織内出血が認められてもよいのに、組織内出血があつたという記載はない。陰部の傷は死戦期またはそれ以後の傷である。

(2) 左胸部の傷については、六歳児では既に毛細血管も十分大人と同様発達しており、血圧も成人とあまり大差がないため、筋肉内出血がないのは死後の傷と考えるべきだとしている太田新鑑定の意見に同意する。古畑鑑定によれば、肺の損傷は左胸部の革皮様化している部分と同時にできたものと想像しているが、この肺出血が外力性に生じたものとのみ断定すべき理由はない。胸部の損傷は生前に受けたものであるという証拠はまつたく認められない。おそらく死戦期かそれ以後のものと考える。なお、肺実質内出血は、胸壁上の損傷等ができたのとは別の時期であろうと思われる。

上田鑑定人は、右のように鑑定し、原審において、犯行の順序につき、一番最初に頸部を締めたことは明らかである旨供述している(以下、同鑑定人の原審における供述を「上田新鑑定証言」という。)。

4  よつて、これらの新鑑定(新鑑定証言を含む。)と旧鑑定とを比較対照して、犯行の順序を考察することとする。

(一) 被害者の死因が頸部を絞扼したことによる窒息死であることは、死体を解剖した鈴木医師の所見であり、その後の鑑定に従事した鑑定人も右の所見を認めているところであつて、間違いのないものと考えられる。

(二) ところで、死体に損傷があるときは、これが生存中にできたものであるか、それとも死後に生じたものであるか、あるいは、死に瀕しているいわゆる死戦期(上田新鑑定証言によると、窒息死の場合は、窒息後五分ないし三〇分くらいという。)に生じたものであるかを判定しなければならない。そして、損傷の生前死後の区別は、皮下出血等のいわゆる生活反応の有無によつて鑑別される。生活反応は生前につけられた損傷が示す反応であつて、死後の損傷には生活反応を欠いているからである。

そこで、右の観点から、本件陰部損傷、胸部損傷の生じた時期について考察する。

(1) 陰部損傷の時期について

古畑鑑定が受傷の経過として、陰部の損傷は頸部絞扼以前であると推断していることは、さきに摘記したとおりであるが、同鑑定は特にその根拠を示しているわけではない。

鈴木鑑定は、前記のように、外陰部の裂創には出血があるが、周囲の生活反応がほとんどなく付近に外傷がないことから、本創が生じた際に被害者の抵抗はほとんどなかつたと推定されるとし、更に、鈴木鑑定人は、原審における証人兼鑑定人尋問において、膣穹隆部に凝血が存するものの、他に組織内の出血が認められないことから、生活反応が非常に弱く生活能力の低下している時期に受傷したものではないかと述べながらも、窒息症状を起せば血液凝固能力がなくなるとして、頸部圧迫よりも陰部に損傷を与えたほうが先であろう、と判断している(以下、鈴木鑑定人の原審における供述を「鈴木鑑定証言」という。)。

しかしながら、原決定も説示するように、(ア)上田新鑑定、上田新鑑定証言、太田新鑑定によると、窒息死体の血液は死後しばらくの間もろい線維素を析出して、局所や組織内部で凝血を作りうることも考えられるので、膣穹隆部の凝血はこのようにしてできたと解釈することも可能であること、(イ)死戦期における損傷は、血液の循環力低下のため組織内出血等の生活反応が極めて乏しいとされているところ、鈴木鑑定及び鈴木鑑定証言によれば、膣穹隆部に凝血を含んでいるだけで、その他の陰部に生活反応がほとんど存在しないのに反し、前頸部には皮下出血を伴つている表皮剥脱があり、しかも、その付近に爪跡と見られる短い線状の表皮剥脱があつて、明らかに生前のものと認められること、(ウ)本件犯行現場は、前記のとおり、雑木や笹の密生している山地である(司法警察員作成の昭和二九年三月一三日付検証調書)が、同所に下半身裸体のまま遺棄された被害者の腰部、大腿部等に擦過傷その他の外傷が認められないこと(鈴木鑑定には、腰部の所見について記載がなく、「四肢に特記すべき異常所見を認めない。」との記載がある。)等から推考すると、陰部の損傷時期は、被害者が無抵抗状態になつた死戦期以後ではないか、換言すれば、頸部絞扼よりも後ではないかとの合理的疑いが生ずるものといわなければならない。

(2) 胸部損傷の時期について

古畑鑑定が、胸部の損傷は頸部絞扼以前につけられたものと推定していることは、さきに示したところであるが、その論拠について検討する。

(ア) 古畑鑑定は、論拠として、まず、本件被害者のような幼児においては、毛細血管の発達が十分でなく、その血圧が成人のように大きくないために、皮下出血を伴わない生前の損傷がありうることを挙げている。しかし、太田新鑑定及び太田新鑑定証言は、そもそも皮膚毛細血管は、皮膚乳頭層ができたときには当然できているもので、六歳ともなると成人と同程度に完成されているといつても過言ではなく、血圧も成人とあまり大差がないと反論しており、上田新鑑定も同旨の見解である。両新鑑定が具体的に六歳児の血圧の統計上の数値を引用して論証しているところから判断すると、六歳児が生前に受傷した場合に成人より皮下出血が出現しがたいとは即断できないと思われる。

(イ) 次に、古畑鑑定が、胸部の表皮剥脱の革皮様化が褐色であるのは、皮膚組織内にかすかな出血があつたためと推定している点であるが、太田新鑑定及び太田新鑑定証言によると、革皮様化という現象は、皮膚に鈍体が作用して表皮の剥脱が起こり、真皮が露出すると、物理的に水分が蒸発するが、生体では水分の補給があるので硬くならないが、死体ではその補給がないので、その部分が乾燥して硬くなり、羊皮紙状に変化することをいうのであり、そして、時間がたつにつれて、たとえ死後生じた表皮剥脱でも褐色調を増してくるもので、その表皮剥脱が生前に生じたかどうかは皮内出血を認めうるかどうかによつて判定されるのであるから、褐色調であるからというだけで直ちに皮内出血があつたということにはならない。上田新鑑定証言も同様の意見である。ところが、死体を解剖した鈴木鑑定には、革皮様化部分に皮内出血を認めた旨の記載がない。

(ウ) 更に、古畑鑑定は、前述のように、左肺の上葉、下葉に濃赤紫色を呈する部分があり、下葉の膨大している部分の内部に出血が認められるのは明らかに生前の外力の影響を思わせる、というのであるが、鈴木鑑定証言、太田新鑑定、太田新鑑定証言が指摘するように、左前胸部の皮膚、筋肉の生活反応がまつたく欠如していて、左肺の部分にのみ生活反応が現れるということは法医学的に理解できないことであり、この肺の変化は、血液就下あるいは大理石模様として(太田新鑑定証言)、または、血液吸引として(上田新鑑定)の説明もできるので、この点をもつて外力の影響によるものとする根拠にはなしがたい。

そうだとすると、原決定が説示するとおり、古畑鑑定が掲げる理由のみによつては、胸部損傷が生前(頸部絞扼以前)に鈍体の作用によつて生じたものとは断定しがたいことになつてくる。そして、左胸部の損傷には出血等の生活反応がまつたく認められないことに加え、上田新鑑定及び上田新鑑定証言によると、左胸部外表の類四角形の傷(昭和四九年一一月一日付上田鑑定書九頁に記載の(9)(イ)の傷)があまりにも平行的であるために、生前につけられた傷としてはまず不可能な位置でないかと思われ、このような平行関係を正しく保つていることは、死戦期以後身体が動かない状態で損傷がつけられたものと考えるべきであるとされていること等を併せ考慮すると、被害者の胸部の傷は絞扼以後のものではないかという疑念がより強固になるものといえる。

(三) 右のように、新鑑定と旧鑑定を総合して検討すると、被害者の陰部に損傷を生じた時期と左胸部に損傷を生じた時期は被害者の頸部が絞扼されたよりも後であるとする合理的な疑いがあるとした原決定の判断は、是認することができる。もつとも、陰部に傷害を与えた行為と左胸部に傷害を加えた行為との先後関係は、新鑑定によつても明確ではなく、これらの行為が頸部絞扼後のどの段階でなされたのかを確定しうる資料は十分でない。しかし、いずれにしても、頸部絞扼が最後であるとした確定判決の事実認定は誤認の疑いが濃厚であるから、確定判決と同旨の犯行順序を供述している請求人の自供調書は、再吟味を余儀なくされているものといわなければならない。

(四) ところが、原決定は、右犯行の順序に関する誤りは、犯人は請求人であるという自白調書自体の信用性を失わせるものでないとしているので、次にこの点について検討する。

(1) 請求人の自白調書中、犯行の状況を具体的に述べているものは、司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付供述調書と検察官に対する第二回(同年六月一三日付)供述調書である。

右司法警察員に対する供述調書において、請求人は次のとおり述べている。

「私は、もうどうにも我慢が出来なくなり、其の子の正面から肩を押し山の高い方へ頭を向けて仰向けに倒しました。すると、女の子はびつくりして泣きべそをかきましたので、まづいなあと思いましたが、どうにもたまらなくなり、子供のズロースを下から手を入れて下に引下げました。子供は、おうちへ行きたい、かあちやん、と言つて泣き出しました。私は、自分のズボンを下げ、右足はズボンから抜いて、その子の上になり、女の子のズロースを片足抜いて股を開かせ、余り騒ぐので、左手で子供の口を押へ乍ら、自分の大きくなつた陰部を女の子のおまんこにあて右手で持つて押しあて腰を使つてグツと差入れました。半分位入つたと思います。女の子はもがき乍ら、痛い、おかあちやん、と力一杯泣くので、左手では押へ切れなくなり、私は構はず腰をつかいましたが、余り暴れるので思ふ様に出来ず、私は、やつきりして、おまんこをやめて、足の処にあつた握り拳一つ半位の岩石の先のとがつたのを拾い、腹立まぎれに、女の子の左胸辺を二、三回力一杯尖つた方で殴つて仕舞いました。」「子供は私が腹立ちの余り石で二、三回殴ると、相当ひどかつたと見へ、泣くが止り、フーフーと息をし乍ら目をつむり唸つていました。私は、気持が悪くなり、一そ殺して仕舞へと思ひ、両手を女の子の首にあて力一杯押へつけました。そして、四、五分して手を離すと、もうぐつたりしていました。」

そして、検察官に対する前記供述調書では、石を拾つて殴つた状況が、「女の子は両手を振つてもがき乍ら泣くので片手では押へきれなくなり、旨く目的が達せられそうもなく、癪に障り、女の子の上に乗りかゝつた儘、自分の陰茎をぬき、右手で其の辺の地面を石でもないかと思つて探して見ましたが、見当らず、足元の方を見ると、石の様な物が見えたので、のりかゝつた儘の姿勢で右足を伸し、足のこうや指先を使つて其の石を手元にひき寄せ、握り拳より少し大きい位の其の石を右手に握り、尖つたところで女の子の胸を数回力一杯殴り付けたのであります。」とやや詳細になつているほか、前記司法警察員に対する供述調書の記載と同趣旨である(以上、引用部分はいずれも、句読点以外は原文のまま。)。

(2) 右の各供述は、まず姦淫し、次いで付近にあつた石で胸部を殴打した後、頸部を絞扼した情景、すなわち、姦淫→胸部殴打→頸部絞扼の順に、その模様をなまなましく伝え、真に迫るものがある。

しかしながら、前述したように、最初に頸部を絞扼したことになると、著しく犯行の様相を変え、右の各供述は一転して客観的事実に反する虚偽の色彩を帯びてくる。たしかに、人の記憶は時の経過とともに次第に薄らぐものであり、また、犯行当時の周章狼狽や興奮等の異常な精神状態のため、認識の混乱や不正確さが介在すること、更には、犯人の心理に多少の誇張や隠蔽が内在することは、否定できないけれども、もつぱら姦淫する目的のために町中から山中までわざわざ被害者を連れ出した真犯人であるならば、その核心に触れる最も鮮明であるはずの犯行場面について、単なる記憶違いによつて、重要な点で事実と異なる供述をするとは思われない。

ましてや、鑑定人林[日章]、同鈴木喬共同作成の鑑定書及び原第一審第九回公判調書中証人鈴木喬の供述記載部分(以下、公判調書中の供述記載部分も、「供述」という。)で説明されているように、請求人が、軽度の精神薄弱者であり、感情的に不安定、過敏で心因反応を起こしやすく、従つて、捜査官の誘導によつて暗示にかかりやすい傾向があることをも併せ考えれば、誘導等もないのに捜査官に対し意図的に事実を曲げて供述している節もうかがわれない。前記の犯行順序の変更は、枝葉末節の問題ではなく、犯罪の実行行為の中枢に関する事柄であるだけに、請求人の自白調書の真実性に多大の疑問を投げかけるものといわなければならない。

(五) 原決定は、犯行の順序に関する請求人の自白に信用できない面のあることを肯定したものの、いまだ自白調書自体の信用性を欠くものでないとしているのであるが、請求人の自白に前記のような虚偽の疑いがあり、古畑鑑定が請求人の自白を補強する価値を減少したことは、いきおい、陰部損傷の成傷用器及び胸部損傷の成傷用器に関する各自白についても、目を向ける必要を生じさせる。

(1) 陰部損傷の成傷用器について

請求人の自白によると、請求人は被害者の陰部に陰茎を半分くらい挿入した、というのであり、原決定は、右の供述が真実に反するということはできないと説示している。

しかしながら、新鑑定は、被害者の陰部にあつた傷が、陰茎を半分くらい挿入したというだけにしてはあまりにも損傷度がひどく、手指または棒のようなものによる損傷(太田)、かなり硬い鈍器による損傷ないし野鼠のような動物による蚕食(上田)の可能性のあることを指摘しており、鈴木鑑定、古畑鑑定は、成傷用器として手指あるいは陰茎様のものを推定している。なお、検察官が提出した鑑定人井上剛作成の鑑定書は、手指と陰茎を挙げている。

原決定は、原審において、鈴木鑑定人兼証人が膣壁損傷の成傷用器は「比較的やわらかいものだ、という考えを持つております。」と供述しているところを参照して、陰茎によつて損傷した可能性のほうが大きいと考える旨説示しているが、同鑑定人兼証人がこの「比較的やわらかいもの」として何を具体的に考えているかを同人に確かめておらず、右の供述だけではたして原決定のいう結論が導き出せるのかどうか疑義がある。陰茎以外の比較的やわらかいものによつても損傷の生ずる可能性が想定されるからである。

また、新鑑定の示すように、六歳くらいの女児の場合、陰部に医師が小指を挿入することさえ困難であり、まして成人男性が陰茎を挿入することは非常に困難であつて、たとえ半分程度にせよ、これを無理に差し入れると、女児の陰部を損傷するだけでなく、陰茎のほうにもかなりの痛みと傷が生ずるものと思われる。ところが、請求人の自白調書には、性交に伴う陰茎の痛みや傷についても、まつたく触れられていない。

もつとも、原決定は、手指等陰茎以外の物によつても、被害者の陰部を損傷した疑いは非常に濃いとしながら、膣壁を損傷した物が陰茎でない他の鈍器であつたとしても、その後に陰茎が挿入されてはいない、とはいいえない、と説示している。たしかに、本件陰部の場合であつても、事前に陰茎以外の物を挿入し、相当程度損傷を与えた後であるならば、成人の陰茎を挿入することも、物理的に可能であろう。しかし、そうだとするならば、そのような物を用いたことについても、請求人の自白調書になんらの記載もないのは、なぜであろうか。原決定は、その点の供述がないからといつて、請求人の自白を真実に反するとする理はないとしているが、是認しがたい。

更に、鈴木鑑定及び原第一審における鈴木完夫の供述によると、被害者の膣内、膣孔周辺に精虫が発見されず、情交関係は不詳であるという。請求人の自白調書によるも、射精の有無等欲望充足に関する具体的説明がない。しかし、若年の成人男性が性交したい一心からわざわざ被害者を遠く人里離れた山地にまで連れ出し、しかも、扼頸して無抵抗の状態にさせたとするならば、何らかの方法で欲望を満たすものとみられ、もし欲望の処理ができなかつた場合には、その事情なり理由があつたはずである。しかるに、原決定にはこのことについての説明が欠けている。

これらの点を考慮すると、陰茎挿入の自白が真実に反しないとする原判断を、そのまま是認することはできない。

(2) 胸部損傷の成傷用器について

請求人は、本件石で被害者の左胸部を二、三回あるいは数回力一杯殴りつけたと自白しており、これが古畑鑑定によつて支持されていることは、前述した。ところが、鈴木鑑定は、胸部の傷の成傷用器を、鈍器とのみ判定されるがそれ以上は判定困難であるとし、原審における鈴木鑑定証言でも、実際に本件石でできるかどうかについては考えたことがないという。そして、新鑑定は本件石による可能性を否定しているのである。

しかるに、原決定は、(ア)左胸部の体表の傷と、(イ)その内部の傷とに分けて判断を加え、本件石で胸部を殴打したという請求人の自白に新鑑定が合理的疑いをいれるには至らなかつたとして、結局右自白の信用性を認めているので、右(ア)(イ)の区別に従つて考察する。

(ア) 鈴木鑑定によると、左乳嘴の下方に〇・七及び一・〇センチメートルの類四角形の褐色の革皮様化が二個上下に並んでおり(これを上田新鑑定は「(9)(イ)の傷」という。)、下方のものの内側にほとんど接続して横に二・〇×〇・七センチメートル大の同様な革皮様化及び表皮剥脱(これを上田新鑑定は「(9)(ロ)の傷」という。)が認められ、これらの周囲にごま粒大の表皮剥脱(これを上田新鑑定は「(9)(ハ)の」傷という。)が認められる。

太田新鑑定は、本件石と同じ形状(本決定添付別紙図参照)の石膏模型石を作り、粘土を叩打して、粘土に形成された形と、被害者の左乳房下部の表皮剥脱の形等を比較したところ、その形状並びに大きさは合致しなかつたと説明している。たしかに、太田新鑑定も自認するように、人体と粘土とは物理的性状が異なつているので、前記の不合致を絶対視することは危険であるが、おむすび型をしている本件石と被害者の左胸部体表の傷の性状との関係を考える点で、右の実験結果は重要な要素をなすもので、一概に無視することはできない。

また、上田新鑑定は、胸部に一撃を加えそれによつてすべての胸部の傷が生じたと仮定した場合、本件石ではこのような傷のできる可能性はほとんど皆無であろう、胸部に二・三撃を加えそれによつて胸部の傷ができたとした場合、本件石に類似のかなり重量のある角のある凶器で、しかも、ある面に溝のあるような凶器であろう、と推定している。

原決定は、上田新鑑定が(9)(イ)の上下二つの傷を同時に受傷したものとして鑑定しているのであつて、この上下二つを別々にできたものとしたうえで、なお、本件石の殴打ではできないという鑑定をしているわけではないとして、上田新鑑定の立論に疑問を提起している。たしかに、上田新鑑定は、胸部に二・三撃を加えた場合でも(9)(イ)の二つの傷は傷の性状からみて同一時にできたものと考えているようであるが、原審としては、この二つの傷が別々にできたものと考える余地はないかどうか、その余地があるとすれば、なお、本件石の殴打による可能性があるかどうかについての上田鑑定人の見解を、原審における同鑑定人の尋問の際に質したうえで結論を下すべきであり、このような手順を経ないで右のように即断することは相当でないと思われる。

(イ) 問題は、請求人の自白によると、被害者の着衣の一部を頭のほうにまくりあげ、そのほかは真つ裸にしていたというのであり(請求人の司法警察員に対する前記昭和二九年五月三一日付供述調書、警察官に対する第二回供述調書)、約四二〇グラムもの重量のある本件石を手に持つて被害者の裸の左胸部を力一杯殴打した場合に、はたして左胸部体表の傷のみにとどまるか、ということである。

鈴木鑑定によると、左乳嘴下方の革皮様化の内部は、表皮と脂肪層を残すのみで、筋肉は挫滅し、第四肋間で胸骨左縁より三・五センチメートルの部分から第四肋間に沿い左上方に約四センチメートルの範囲で肋間筋が消失し、肋膜腔に穿孔している、と説明されている。

太田新鑑定は、日本人七歳女児の平均値より大きめに、胸廓の一部模型を作り、その第四肋間に本件石と同じ形状の石膏模型石の先端部分を当ててみると、肋間の表層(浅層)は石によつて挫滅されうる可能性があるが、下層(深層)は挫滅等の影響を受けないことが判然とする、もし下層が挫滅される場合は、当然第四、五肋々骨も挫傷を受けるはずで、本件のように、肋骨に損傷がないのに肋間筋が挫滅されて肺に達するということは、この石では形成されないと思考すると鑑定しており、上田新鑑定も、右の意見に賛成である。

古畑鑑定人は、原第一審において、子供の肋骨は弾力性が強いから骨折がなくても不思議ではないと供述しているのであるが、弾力性の程度はどのくらいであるか数値を挙げて実証しているわけではないし、こどもの第四肋間の間隔(太田新鑑定証言によれば、七歳女児の場合平均一センチメートルくらい)と本件石の形状、大きさとを実際に対照したうえで導き出された結論とは思われない。こどもの肋骨の弾力性の程度を明らかにする資料が記録上存在しないので断定はできないが、太田新鑑定の所見が、胸廓の模型と模型石との比較対照によるものであることを考慮すると、本件石では肋間の表層の挫滅はありえても、肋骨の損傷を伴わないで肋間の下層に損傷を与えることはありえない疑いは非常に濃いものといえる。

もつとも、請求人の自白も、確定判決も、本件石で胸部を殴打したというだけで、格別、傷害の有無、程度に触れていないのであるから、前記肋間穿孔が本件石によつてできたか、他の原因によつて生じたのかは、原決定のいうように、再審請求の段階では認定の必要がないかもしれない。しかし、本件石で六歳の女児の裸の胸部を殴打した場合、その作用は、たとえ肋間の下層に達しえないとしても、肋間の表層には当然及ぶとみられるから、太田新鑑定証言にあるように、少なくとも肋骨を取り巻く骨膜になんらかの損傷を与えることは否定できないと思われる。ところが、鈴木鑑定証言によると、骨膜の表面にも異状が認められなかつたというのであるから、外力の程度は極めて弱かつたというべきであり、本件石で二、三回あるいは数回も力一杯殴りつけたとする請求人の自白は、この点からも多分に疑念がある。

また、犯行の順序として、胸部損傷が頸部を絞扼した死戦期以後の蓋然性が高いとすると、既に死の寸前もしくは死の状態にあると見られる被害者に対して、何故に重ねて本件石で殴打する必要があるのか理解に苦しむところであるが、原決定にはその理由について言及されていない。

更に、本件石に血液、リンパ液その他の体液が付着していたかどうかも明確でないし、本件石の発見の経過についても、後述するような疑義があるとすると、本件石を成傷用器とする原決定をそのまま維持することは困難である。

(六) 確定判決が請求人の自白を信用しうるものとした有力な論拠の一つは、請求人が被害者の死亡前にその胸部を石で殴つたとする供述が古畑鑑定と一致するという点にあつたことが、その判文上明らかである。原決定は、この点に合理的な疑いが出てきたこと、そして、新鑑定によつて犯行順序に関する請求人の供述に疑いが生じてきたことも、認めながら、なお請求人の自白調書自体の信用性は認めうるとし、その根拠に、次の諸点を掲げている(以下、引用部分はいずれも、句読点以外は原文のまま。)。

(1) 請求人が、昭和二九年五月三〇日夜島田警察署留置場保護室内で、当直副主任の警察官松本義雄に対し、「大罪を犯してしまいました。」と述べたこと及びその時の態度(原第一審証人松本義雄の供述、請求人の原第一審第二、四回公判廷における各供述)

(2) 請求人が、司法警察員相田兵市から証拠物である被害者の着衣等を示されて、「チラツと見た丈であの時の様子が目に浮んで怖くて怖くて見る気になれませんでした。私はあの品物を見ず早く留置場の中へ入れて貰いたいと思いました。あれを見て子供の顔を思い出し可愛想なことをしたとつくづく思いました。」と供述していること(請求人の司法警察員に対する昭和二九年六月五日付供述調書)

(3) 請求人が、司法警察員相田兵市に対し、「私は今留置場の中にいても、小さい女の子の声が聞へると、私が殺した子供が生き返つて話しをしている様な気がして恐ろしく夜等はねられません。そんな時は早くどこかへ行つてくれないかなあと思います。」と供述していること(請求人の司法警察員に対する昭和二九年六月八日付供述調書)

(4) 請求人は、勾留係裁判官に対し、かなり詳細な供述をして、犯行を認めていること(裁判官の請求人に対する勾留質問調書)

(5) 捜査官が請求人を逮捕し、その自供を得て初めて被害者の左胸部に傷害を与えた凶器が石であることが判明し、犯行現場を捜索した結果本件石を発見したこと(証人相田兵市の原第一審第四回公判廷における供述等)

(6) 請求人に似ている男(請求人であるとすら供述している者がある。)が、被害者を犯行当日快林寺境内から連れ出し、犯行現場のほうへ歩いて行くのを目撃したという各証人の供述があること

(七) 原判決が指摘する右の諸点は、たしかに、請求人が本件に関与しているのではないかとの強い疑いを抱かせるものである。

しかし、右の諸点のうち、(1)は、大罪を犯したというだけで、いかなる罪を犯したのか明らかにしておらず、(2)及び(3)は、抽象的に心境を述べるにとどまるものであり、また、(4)も、裁判官から逮捕状記載の被疑事実を読み聞かされてそのとおり間違いない旨陳述し、それ以上に犯行自体の態様をつまびらかにしているわけではない(かなり詳細な供述はあるが、犯行自体に関するものではない)。

これらは、しよせん、自白と同様の請求人の供述であり、結局、証拠によつて認められる客観的事実と符合するか否か、換言すれば、真実と認められるか否かによつて、証明力を評価すべきものである。前記(1)ないし(4)の供述は、既に請求人が捜査官に自供した後のもので、しかも、その自供が客観的事実と異なり虚偽ではないかとの合理的疑いを包蔵するものであることを念頭において再考するならば、この点に関する請求人の弁解を排斥して真犯人ならではの改悛、感動であるとする原決定の所見には、にわかに同意しがたい。

以上は、請求人の供述面に対する検討であるが、原決定は、更に、(5)の点を指摘し、本件石の存在があらかじめ捜査官の知りえなかつた事柄で、本件の凶器が請求人の自供によつて初めて石であると判明した、いわゆる「秘密の暴露」であり、捜査の結果自供どおり死体のあつた付近で本件石が発見され、新鑑定をもつてしても、本件石が左胸部の傷を生ぜしめうる凶器ではないとすることができないことは、事実認定上特筆すべきことであると考える旨説示している。本件石が左胸部の傷を生ぜしめうる凶器であるかについて多大の疑念があることは前述のとおりであるが、この点をしばらく除外して、本件石の発見の経過が原決定の指摘するとおりであるとするならば、たしかに、請求人の自白調書の信用性の評価に重大な意義を与えるものといえよう。

証人相田兵市の原第一審第四回公判廷における供述、請求人の司法警察員に対する昭和二九年五月三一日付、六月一日付各供述調書、司法警察員作成の同年六月一日付実況見分調書等によると、原決定が説明するように、捜査当局としては石で被害者の胸部を殴つたということは全然考えていなかつたが、同年五月三一日、請求人が、石で殴つた、使つた石は投げはしないから近所にあるだろう、と供述するので、同年六月一日実況見分したところ、犯行現場付近は粘土質で、死体のあつたところを中心として半径三メートル以内には本件石のほか、下端約三分の一くらい土中に埋まつた石一個があつたのみであり、本件石を押収後島田市警察署で取調べの際請求人に示したところ、この石で被害者の左胸部を殴打したことを認めた、というのである。

被害者の死体が発見された当日(同年三月一三日)、同死体を解剖した鈴木医師は、左胸部の成傷用器を単に鈍器とのみ判定していることは、前述したとおりである。鈍器といつても必ずしも石塊に限られるものではなく、棍棒、手拳等その範囲が広いのであるから、これまでに現れた証拠からみれば、捜査官も左胸部に損傷を与えた具体的な凶器を想定できなかつたとする原決定も一応是認することができる。本件石の発見の経過が不自然であるという主張は、第二次再審請求においても裁判所の容れるところとはなつていない。

ところが、当審において、検察官は、被害者の死体発見直後死体付近に石塊が落ちていた事実を立証事項として、石沢岩吉の検察官に対する昭和五四年七月一三日付供述調書(謄本)二通を提出し、その取調べを請求した。右調書には、本件当時静岡民報島田通信部の記者であつた石沢岩吉が死体発見の当日現場に行くと、死体の傍ら(頭の左横五〇センチないし六〇センチメートル)に石一個が落ちていた、翌日か翌々日島田市警察署の刑事部屋を訪れ、それと似ている石が机の上に置かれていたので、警察官に確かめると、凶器だと教えてくれた旨の、新たな供述が記載されている。検察官は、その後右請求を撤回したが、弁護人から改めて前記石沢岩吉の検察官に対する供述調書(謄本)二通の取調べを求め、また、額と左胸部の打撲傷は石で打たれたものであることが判明した旨報道した静岡民報の記事(昭和二九年三月一四日付)の取調べ請求をしている。これらの証拠は、本件石が請求人の自供以前に発見されており、原決定が強調する「秘密の暴露」にあたらないのではないかとの疑惑を再度提供するものである。

そもそも、本件のような事案において、被告人の自供により初めて石の存在が浮び上つたのであるならば、捜査官としては直ちに請求人を犯行現場に連れて行き請求人に指示させて押収するのが相当であり、かりに困難な事情があれば、押収後なるべくすみやかにそのような指示をさせるのが、正確を期するゆえんであり、捜査の常道でもあると思われるのに、本件においては、特段の理由もないのにそのような措置がまつたくとられていない。それどころか、証人相田兵市の原第一審第四回公判廷における供述、原第二審の同証人に対する尋問調書の記載によれば、請求人には犯行現場を見せないほうがよいと思い、捜査段階では一度も現場に連れて行かなかつた、というのである。

してみれば、弁護人請求の各証拠は、本件石発見の事情について再検討の必要を生じさせているものといえよう。

前掲(6)の点についてみると、原決定が引用する確定判決挙示の目撃証人中、太田原ます子は、面通しのため同人の孫松雄を連れて島田市警察署に行つたとき、松雄が「アツ、あの人だ」と言つて、請求人を指示した旨供述し、鈴木鉄蔵及び中野ナツは、犯行当日同人らの見た男が原第一審公判廷の請求人の横顔と似ている旨証言しているが、その他の松野みつ、橋本秀雄、同すえの各証言では、いずれも請求人との異同が明らかでない。

右太田原松雄は、昭和二九年三月一〇日快林寺境内で遊んでいた幼稚園児で、被害者を連れ去つた犯人を目撃している者であるが、前記指摘は同人自身の証言によるものでない。同人が原第一審公判廷(第九回)に証人として出廷した当時は、既に小学校二年生で、本件当時祖母に連れられ警察で面通しをした記憶はあるものの、面通しのときの詳細な状況や犯人が被害者を連れ出したときの状況の記憶がほとんど薄れてしまつていて、同人から明確な指摘は得られない。

鈴木鉄蔵は、当時大井川に架かつていた蓬莱橋(有料)の北端にある番小屋で橋番をしていた者で、同人の原第一審における供述によると、同年三月一〇日子供を背負つた若い男が橋銭を払わないで渡ろうとするので、後ろから呼び止めたところ、その男は振り向かずにうつむいており、後ろから横顔を見ただけであるが、面通しの際の請求人とよく似ていた。請求人とは前から面識があるが、目撃した当時はその男がだれか思いつかなかつた、近くの土地の者だと思つていた、というのである。

ところが、被害者の死体が発見された日の前日である同年三月一二日付司法警察員に対する同人の供述調書(原第二審で取り調べられたもの)には、右の男は初めて見た人でどこの人か知らない、口のききかた、態度からして土方でないかと思つた、橋銭を払うことを知らない人ではないかと思う、従つて土地の人ではないと考えられる旨の記載があり、原第一審における証言と微妙に相違している。

中野ナツの家は、快林寺の山門に通ずる道路に面しており、同人の原第一審における供述によれば、同年三月一〇日自宅の前を女の子を連れて歩いて行く若い男を近くで見た、その後、畑仕事をするため大井川の河原に向かう途中、二度も右の二人連れと会つたが、その者たちとは面識がなく、特に男はうつむいており、私は子供のほうにばかり気をとられていたので、男の顔はよくわからない、背広でなかつたが、色が白く身ぎれいで勤め人と思つた、請求人の横顔と似ている、というのである。そして、中野ナツの司法警察員に対する同年三月一二日付供述調書(原第二審で取り調べられたもの)には、ねずみ色の背広服で勤め人か何かのように見えた旨記載されている。

中野ナツは右のように三回も見ているので、その供述の信用性は、他の目撃証人にくらべ高いものと思われるが、同人は右の男性の顔を正面から直視していないため、請求人と同一人物であるとは確言していない。また、服装容姿の点においても、他の目撃証人と著しい食い違いがある。請求人の自白調書によると、請求人は当時物もらいをしながら各地を転々としていた浮浪者で、中野ナツが目撃した日の前日である三月九日は興津方面から島田に来て、その夜、火葬場の西北方にあるお宮(確定判決によれば、静岡県志太郡大長村伊太字東川根所在の薬師庵とされる。)で寝たというのである(請求人の検察官に対する第一、三回供述調書等)から、中野ナツの記憶に残る身ぎれいな勤め人風の人物にはおよそそぐわない。

松野みつ、橋本秀雄、同すえは、いずれも同年三月一〇日大井川で砂利採取をしていた者たちで、河原を渡つて旧堤防に上つた子供連れの男性を望見しているのであるが、同人らの原第一審及び原第二審における全証言によつても、その男性が請求人であるかどうか明確ではない。

この点に関し、当審において、弁護人が提出し取調べを請求した平沢弥一郎作成の鑑定書によると、大井川の河原に遺留された犯人のものと思われる靴跡が皮短靴によるものであること、右靴跡から推定される人物像と請求人との不一致などが指摘されている。従来、請求人の自白調書や第二次再審請求等では、右の靴跡は請求人の窃取したゴム半長靴によるものとされていただけに、右の鑑定がゆるぎがたいものとすれば、これまた新たな問題を提起するものといえよう。

以上の目撃者らの各証言は、本件当日被害者を連れ歩いた犯人と思われる若い男の足どりを示すものとして重要な意義をもつが、請求人との同一性について疑義をいれる余地のないほど確実性があるものとは思われないのみならず、同目撃者らは本件の犯行それ自体を現認してはいないのであつて、いずれも右証言だけでは請求人の犯行を確定することはできない。

もつとも、請求人の自白中には、快林寺から犯行現場に向かう道筋について、右目撃者らの供述にそう部分があるが、右目撃者らは請求人の逮捕以前に捜査官によつて取り調べられており、死体発見時の現場検証とあいまつて、犯人と思われる若い男の歩いた経路は既に捜査官の知つていた事実であるし、また、請求人は島田市で生れ育ち、市内の地理に通じていたことを考え合わせると、右の供述部分は、既得知識を利用した捜査官の誘導、追及に合わせて述べられた疑いもないとはいえず、必ずしも真実性が高いとはいいがたい。

してみれば、原決定の指摘する前記(1)ないし(6)の諸点をもつてしても、直ちに請求人の自白調書の信用性を根拠づけるには十分でないといわなければならない。

(八) その他、犯行後の足どりに関する請求人の自白調書の中には明らかに客観的事実に反する供述がある。

たとえば、神奈川県大磯地区警察署の警察官であつた原第一審証人千田啓及び同山本典太の各供述等によれば、昭和二九年三月一二日夜右警察官らが当直勤務中、管内の大磯町高麗の祠でぼやが発生した旨の通報を受け、現場に駆けつけたところ、一見して浮浪者風である請求人と岡本佐太郎なる者が提灯などを燃やして暖をとつたというので、両名を右地区署に連行して取り調べ、いずれも本籍照会等により本人と確認したが、翌朝微罪として釈放した事実が認められる。しかるに、請求人の自白調書には、右の事実に触れた記載が見当らず、かえつて、同日は日坂から島田方面に戻り、その夜静岡大学島田分校寄宿舎裏の農小屋に泊まつた、という虚偽の供述をしている(請求人の検察官に対する第四回供述調書等)ことは、請求人の自白調書の真実性に疑問を投ずる一つの徴憑ともなつている。確定判決も、被告人の捜査官に対する供述は、本件犯行の日の行動については終始ほぼ一貫しているのに対し、犯行日前後の行動に関する供述は再三変化しており、とりわけ、本件犯行後の行動についての供述は、三月一二日被告人が大磯警察署(当審注・正確には大磯地区警察署)で取調べを受けたという事実とまつたく相いれないものであることはこれを認めなければならない、としている。

そしてまた、請求人は、右大磯地区署の取調べに素直に応じ、最初から本名を名乗つており、およそ二日前に重大犯罪をして逃亡中の者のようなそぶりなど見受けられなかつたのである。このことは、請求人の自白調書(請求人の検察官に対する第二回供述調書等)にあるように、本件犯行後草むらに隠れていたとき頭が混乱してえらいことをやつてしまつた、胸がどきどきしてたまらなかつた、女の子の顔などが思い出されて一晩中眠れなかつた、という心境にあつた者の態度とは相応せず、別人の感を与える。

(九) 右のように見てくると、確定判決の有罪認定及びその証拠関係特に請求人の自白調書の内容について、不審を抱かせる幾つかの諸点が摘出されるのである。

請求人は、原第一審以来、前記自白が捜査官の誘導、強制等の取調べによるものであり、任意性、信用性がない旨主張しているところ、請求人の取調べにあたつた捜査官らの原第一審または原第二審における証言等の関係証拠によるかぎり、明らかに違法と目すべき取調べが行なわれたものとは認めがたいとはいえ、さきに説示した重要な諸点につき自白の内容と客観的事実とが食い違うことの合理的な疑いがあることは、請求人の性格、智能程度等を併せ考慮すると、捜査官による長時間の追及を受け、想像や推測をも交えて、その場その場で捜査官の想定した状況に迎合する供述をしていつたのではないかと考えられないでもない。前記のように客観的な順序、態様に反すると見られる犯行場面の供述が迫真力を備えるだけに、いつそうその感を深くする。これが直ちに自白の任意性を失わせるか否かはともかくとして、自白全体の真実性に重大な影響をもつことは認めざるをえない。

そうだとすると、確定判決が、請求人の本件犯行に関する供述の内容や態度に、誇張されたところはあるにせよ、真に迫つたものが見受けられるから請求人の供述が捜査官の暗示により虚構されたものと認めるのは困難であつて、特に印象の強い、また、日常生活の連鎖から離れた本件犯行についての供述は、明確な記憶に基づく信用性の高いものである旨判示したのは、たやすく支持しがたいところといわなければならない。

原決定は、請求人の捜査段階における犯行に関する供述が、日常生活の連鎖から離れたものであるからといつて、全面的にこれに信を措くことが誤りであることを新鑑定が明らかにした、としながらも、前掲(1)ないし(6)の諸点よりみて本件犯行をした者が請求人であるという請求人の捜査官に対する供述自体は十分信用性を有するものと断定している。しかし、右後段の所見についても、これを是認しがたいことは、既に詳細説示したとおりである。

三  結論

以上の見地に立つて、原決定の当否を検討した結果は、次のとおりである。

まず、確定判決の有罪認定の根拠としては、原決定も指摘しているとおり、請求人の自白調書が重要な地位を占め、犯行の態様については、特に古畑鑑定と本件石の発見の経過が右自白調書の真実性を担保する意義を持つものである。ところが、犯行の順序、状況が自白の内容と一致しないのではないか等の数々の疑点があることは、さきに指摘したとおりである。もつとも、被害者の死因が頸部絞扼による窒息死である点は、新鑑定によつてもゆるがない。その意味で、請求人が両手を被害者の首にあて力一杯押さえつけて殺したという供述部分に限つてみれば、なお客観的証拠の裏付けがあるといえないこともない。

しかし、本件において、その部分のみを切り離して別個に考察するわけにはいかない。自白の内容をなす個々の供述は、特段の事情がない限り、相互に有機的な関連を有するものとして統一的に評価すべきものである。そして、前記のように、新鑑定により古畑鑑定の証拠としての価値が著しく減殺されるとすれば、これまで確定判決を支えていた重要な支柱の一角が崩れ、ひいては請求人の自白全体の真実性に少なからぬ影響を与えることになる。

更に、請求人の自白中に、たとえば、犯行現場に至る経路や扼殺の事実など既に捜査官の知つている重要な事項があり、犯行後の足どりに関する供述に明らかな虚偽の部分が含まれていることが指摘され、また、請求人の自白以外の多数の証拠は、いずれもそれだけでは請求人と本件犯行を結び付けるには十分でないとすると、原決定が、一方で、古畑鑑定は新鑑定によつてみごとに崩壊したとし、請求人の自供する犯行の順序に合理的な疑いが生じたとしながら、他方で、信用性の欠如をこの点にのみ限定し、なお請求人を犯人とする自白調書の信用性を全面的に失わせるものでないと判断したのは、いささか早計に過ぎるといわざるをえない。

もつとも、本件記録を通観すれば、これまで述べた事項以外にも、たとえば、請求人は起訴後まもなく刑務所に面会に来た兄に謝罪するなど、請求人が犯人ではないかとの疑惑を生じさせる資料がないわけではなく、また、犯行当夜のアリバイに関する請求人の弁解が変転していて、その真偽につき問題がないでもない。しかし、これら請求人にとつて不利と見られる周辺の状況をいくら積み重ねてみても、しよせん、請求人の自白調書に内在する根本的な疑問が解消されるものではないのである。

以上の次第で、新証拠によつて請求人の自白の内容にいくつかの重要な、しかも、強姦致傷、殺人の事実を認定するにつき根本的な妨げとなるような疑問が生ずるとすれば、もしこれらの新証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出され、これらと既存の全証拠とが総合的に評価されていたとするならば、確定判決の証拠判断の当否に影響を及ぼしていたであろうことは明らかであり、原審において、さきに指摘した新鑑定及び新鑑定証言等に関する諸点につき検討、洞察を深め、更に、弁護人の求める本件石の発見の経過、本件石に血液、リンパ液その他の体液付着の有無、足跡等に関する証拠を取り調べ、審理を尽くすならば、疑わしきは被告人の利益にとの原則に従い確定判決の有罪の認定を覆す蓋然性もありうるのではないかと思われる。

そうだとすると、原決定が、原審における事実取調べのみで新鑑定の明白性を否定し請求人の再審請求を棄却したのは、審理不尽の違法があるものと認められ、これが原決定に影響を及ぼすことは明らかである。以上の点で、論旨は理由がある。

よつて、その他の論旨について判断を加えるまでもなく、刑事訴訟法四二六条二項により原決定を取り消し、本件を静岡地方裁判所に差し戻すこととして、主文のとおり決定する。

(裁判官 鬼塚賢太郎 林修 杉山忠雄)

(別紙)<省略>

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