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東京高等裁判所 昭和30年(う)474号 判決 1955年7月20日

控訴人 被告人 鈴木博

弁護人 岡崎源一

検察官 小出文彦

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人及びその弁護人岡崎源一提出の各控訴趣意書に記載されたとおりであるから、ここにこれを引用する。

被告人の控訴趣意一及び弁護人の控訴趣意第一点について。

商人その他の営業者がその業務に関し誇大の形容、表現を用いてその商品又は業務を吹聴するは、日常これを観るところであつて、かくの如きは必ずしも違法な行為であるとするには足りないが、斯かる取引上においても商品又は業務に関する具体的事実を虚構し、人をして物品の価値判断を誤まらしめ買受の決意を為さしめるが如きは、もとより違法な欺罔手段であるというべきであつて、これを違法性のない商略的言辞と同一視することはできない。記録によれば、被告人は衣料品行商を業とするものであるところ、単独で又は他人と共謀して、白鳥利之ほか多数の者に対し、合成繊維製生地の製造販売を業とする会社の宣伝部員で会社からナイロン生地の宣伝に来たもののように申し詐り且つ携行の生地は化学繊維製品てナイロンは含まれておらないのに拘らずナイロン生地であるように装い又、注文を受けても後日洋服を仕立てて送付する意思がないのにも拘らずこれあるもののように装い右生地はナイロン四割、毛三割、綿三割を含む会社の新製品で未だ市販されていないものであるが特に安価に販売する旨並びに、洋服仕立を注文すれば後日右生地で仕立てて送付する旨虚構の事実を申し向け、よつて右白鳥等をしてその旨誤信させて右生地を買い受けさせ又は右生地による洋服等の仕立方を注文させ、即時同所で同人等から生地買受代金又は、仕立洋服代金前金名義の下に金員を交付させて受領した事実が認められるからその行為は叙上説明の趣旨に照し違法な欺罔行為により金員を騙取したものであつて詐欺罪を構成することはいうまでもなく、これをもつて違法性なき商取引上のかけ引き又は商人としての業務上正当の行為であるとすることはできない。また、民事上いわゆる過失相殺の観念はこれを刑事上の責任につき適用すべき限りではないから仮りに所論の如く、本件事案の経過において、白鳥利之等被害者側に本件商品の価値判断を誤り又は被告人の真意を誤信するにつき過失の認むべきものがあつたとしても、右の錯誤が叙上の如く被告人等の欺罔行為によつて誘発されたものである以上、被告人等の詐欺の罪責には、何等の消長をも来さない。

次に、原判決は被告人等の各騙取金全額をもつて、原判示各詐欺罪(共同正犯による分をも含めて)による損害額なりと認定していることは所論のとおりであるが、詐欺罪の保護法益は、被害者が錯誤に基ずいて交付した金員その他の財産自体であつてたとえ犯人がこれに対し相当の対価を交付したため被害者の全体財産には減少を来さなかつたとしても詐欺罪の成立を妨げないと解すべきであるし、また数人共同して犯罪を実行したときは各自が正犯としてその犯行の結果全体につき責を負うものと解すべきであるから仮りに所論の如く被告人が右白鳥等から叙上金員を騙取するに当り、その対価又は、約旨履行の担保名義の下に同人等に対しその価額において騙取金額の半額乃至三分の一に相当する生地を交付したとするも、右犯行による被害者の損害額は各騙取金の全額であつてこれと右生地の価額との差額をもつて損害額とみるべきではなく、また各犯行中他人との共同実行にかかるものについてもその騙取金全額につき詐欺の罪責を負わなければならないものであることは多言を要しない。而して原判決挙示の証拠によれば原判示第一の詐欺の事実中被告人の関係部分は優にこれを認めるに足り事実誤認の廉はないばかりでなく、これに対する法令の適用もまた正当であつて何等の過誤もない。論旨はいずれも事実認定及び法令の解釈、適用に関する独自の見解に立脚するものであつて採用し難い。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 三宅富士郎 判事 河原徳治 判事 遠藤吉彦)

被告人の控訴趣意

一、控訴人は問屋から品物を渡されるとき其の口吻で化繊の外純毛、綿等が混紡されているものとの考えを持たされたが、其の混紡の割合を信じた訳ではなかつた、然し、販売するに当つては、其の混紡の割合についてナイロン四、毛三、綿三の各割合であろうとの推定を下し、これを口に出して、各売捌いたものである事

弁護人岡崎源一の控訴趣意

第一点原審判決は被告人に対し偽名を用い又日本合成繊維株式会社又は新興合成繊維株式会社の宣伝部員なる如く装いナイロンを含まざる洋服生地をナイロンを多量に含む生地なりと詐り之を販売し或は其洋服等の仕立の注文を受け販売代金及洋服仕立前金名下に金員騙取を企て被告人鈴木単独又は相被告人望月、同原、上田孝等と共謀して白鳥利之外四十四名より生地代及仕立代前金として合計金十万九千七百五十円也を騙取せるものなりと認定し居るも原判決の援用する証拠中被害者武田、同井上、同遠藤、同浅原の各二通宛の答申書を見るに被害者四名は何れも将来の日本を背負ふべき数多青年を教育すべき地位にある中等学校の先生等である。これ等の人々の答申書(記録四四〇丁より四四八丁参照)によるも被害者は各々生地の実物を手にし又数名にて之を詳さに検討して買入れたるものである。換言すれば幼稚園児又は小学生の如く幼少の生徒ならばいざ知らず最早物心もつき近くは社会に出ずるべき青年に対しては中学校の先生は須らく将来波風荒き活社会に出でたならば斯々のこともあらんと親切丁寧に教導すべき地位にある人々である。殊に戦後社会科の教育に重きを置く現代に於ては尚更である。

一面商売人は所謂正直一本にては到底なり立たない職業である。商売に必要なる商才、商略とは仕事上の掛引きの上手下手を云い露骨に表現せば「だましつこ」である。反面商略とは将来の品物に対する見込の差異、他人の不注意、無思慮、気付かぬところにつけこみ相手の虚をつき巨利を博するにある。現在官立大学にて商売人を養成する最高権威なる一ツ橋大学の秀才学生等の頭に載く帽子のマークはマーキユリーの神をシンボルとしてゐる。マーキユリの神は西洋の商売の神であるが其本地(仏家のとく本地垂迹の説による本地)は泥棒である。我国にても古来子弟をさとすことわざに「人を見たら泥棒と思え」との教へもあり、世の人々を容易に信用すべからざることを警告している。ことに商才を弄す商人に対してはいろいろのさとしがあり其最も極端なる例として古より今日に至るまで数限りなく商売人の天才を輩出せる某地方の人々を指すに「○○泥棒」なる下世話のあることは天下公知の事実である。洋の東西を問はず商売人の商魂の底には如何なる本質が流れ居るか説明するに余りあるものがある。商人中にありても被告人等の如き行商人に在りては昨日は西今日は東と定住なくさすらいあるき従つて仕事に責任を負い難き類の商人の行為の如何なるものなるや推察するに難からざるものである。然るをかかる行商人の甘言を不用意に信じ之を以て直ちに詐欺にかかりたりと騒ぐに至りては無智なる通常人ならば或は恕すべき点なきにしもあらざるも苟も数多子弟を教育する重責にある中学校の先生の為すべき態度にあらず、かかる不用心、社会に対する無智に至りては中等学校の先生たる第一要件、資格に欠け、これこそ徒らに中学校教員の地位を詐りて称するものなりと云ふも過言でない。故に本件にては被害者にも大なる過失あり若し中等学校教員等にして又他の一般人の被害者も同様なるも所謂安物に飛び付く慾だになくばかかる馬鹿げた被害は一つも起る筈なし。慾あるも対世間の一般常識さえあらば又斯る犯罪も起るためしなし。法律も民事上にありては過失相殺の法律(民法第七二二条参照)さへ明規されている。刑事上にもこの条理の除外される理由はない。

飜つて本件を見るに被害者等にも重大なる過失あり又品物は納得の上にて被害者に手渡され居り其品物即生地の価額全部をも含め被害額なりとなすは不合理も甚だしく前記代表的被害者なる中等学校の先生等の答申書にも明記され居る如く被告人等の交付せる生地は交付金額の三分の一乃至半額程度の価値あること明らかである。従つて万一本件に詐欺罪成立するものとせば其被害額は交付金より生地の真実の価額を差引きたる部分にのみ責を問はるべきものである。金額にせば生地価値代と交付金の差額五万五千円乃至七万円余となり共犯者もあること故被告人の負担と見るべき金額は其の又二分の一乃至三分の一に相当し、若し夫れ前記の過失相殺の理念を考慮せば被告人鈴木の負ふべき責任は益々減少さるることとなる。故に原判決は前記の如く被告人鈴木の行為は商売人としていささか行き過ぎの感あるも未だ詐欺罪として問擬すべき程度にあらざるものを詐欺罪と認定し被告人の負ふべからざる多額の金員をも被害額と認定したる事実の認定に誤りあるのみならず不当認定の損害額の算定の上に不当に重き刑を言渡したる違法あり。

(その他の控訴趣意は直略する。)

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