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東京高等裁判所 昭和27年(う)1167号 判決 1952年12月10日

控訴人 原審検察官

被告人 小山久二郎 伊藤整 弁護人 正木ひろし 外四名

検察官 渡辺要関与

主文

被告人両名につき、それぞれ、原判決を破棄する。

被告人小山久二郎を罰金二十五万円に、被告人伊藤整を罰金十万円に、それぞれ処する。

右罰金を完納することができないときは、金千円を一日に換算した期間、当該被告人を労役場に留置する。

原審における訴訟費用は、全部被告人両名の連帯負担とする。

理由

検察官の控訴の趣意は、別紙東京地方検察庁検事正検事馬場義続名義の控訴趣意書と題する書面(昭和二十七年七月九日第一回公判期日において別紙正誤表のとおり訂正)記載のとおりであり、被告人小山久二郎の弁護人正木ひろし、同環昌一、同環直弥の各控訴の趣意は、それぞれ別紙同人ら名義の控訴趣意書と題する書面及び弁護人正木ひろし名義の主任弁護人の控訴趣意書の補充と題する書面記載のとおりであり、被告人小山久二郎、同伊藤整の弁護人正木ひろし、同環昌一、同環直弥の検察官の控訴の趣意に対する答弁は、別紙同人ら連名名義の答弁書と題する書面記載のとおりである。これに対し当裁判所は左のとおり判断する。

検察官の控訴の趣意に対する判断

第一、被告人小山久二郎に関する部分

一、(理由のくいちがい、法令適用の誤、採証法則違反による事実誤認)(同控訴趣意書二頁乃至三九頁)について。

原判決が事実の摘示の項において、『被告人小山久二郎は東京都千代田区富士見町二丁目十二番地出版業株式会社小山書店の社長として出版販売等一切の業務を統轄して居るものであるが、D・Hロレンスの著作なる「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳出版を企図し、伊藤整に之れが飜訳を依頼しその日本訳を得たる上、その内容に別紙(一)の如き性的描写記述のあることを知悉し乍ら之れを上、下二巻に分冊して出版し、昭和二十五年四月中旬頃より同年六月下旬頃までの間前記会社本店等に於いて日本出版販売株式会社等に対し上巻八万二十九冊、下巻六万九千五百四十五冊を売渡し以つて猥褻文書の販売を為したものである。』との事実を認定し、法律適用の項において、右事実に対し、刑法第百七十五条前段罰金等臨時措置法第三条第一項を適用し、罰金刑を選択の上、被告人小山久二郎を罰金二十五万円に処し、証拠説明の項において、同被告人の右「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻(以下本件訳書と略称する)が猥褻文書でないとの主張に対し、一、猥褻文書の意義 二、出版自由と刑法第百七十五条 三、本件訳書と猥褻性 (イ)本件訳書と春本等との関係 (ロ)本件訳書の存在意義 (ハ)本件訳書と一般読者等の項目を設け、一、猥褻文書の意義の項の結論として、猥褻文書とは、「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すべきであると説明し(原判決一一頁、一二頁)、二、出版自由と刑法第百七十五条の項の結論として、「刑法第百七十五条の猥褻文書を前記の如く定義するときは、かゝる文書は公共の福祉に反するものといふべきであるから、之が出版は基本的人権の行使と解し得ないのであつて、これを刑法によつて処罰することは基本的人権の侵害とはならないのである。所謂春本が刑法第百七十五条に該当する猥褻文書とせられることは異論のないところであるが、かゝる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである。従つてかゝる結果を招来する危険のある文書は所謂春本であると否とを問わず刑法第百七十五条の猥褻文書として排除することが、社会的共同生活の幸福を確保する所以であるといふべきである。」と説明し(原判決一五頁、一六頁)、三、本件訳書と猥褻性 (イ)本件訳書と春本等との関係の項の結論として、証人波多野完治の供述を引用し、「本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである。」と説明し(原判決一七頁)、同(ロ)本件訳書の存在意義の項において、「弁護人は本書は性の意識を解放せんとするところの純文学作品であるから、これを戦後の我が国の読者に与えることは公共の福祉に合するものであると主張するを以てその点について考察する。」と前提して、「大英百科辞典」(証五五)、リチヤード・オールデイントン著「D・H・ロレンス」(証六〇)、中橋一夫著「二十世紀の英文学」(証一三)、「世界文学辞典」(証一四)、「西洋文学辞典」(証一五)、志賀勝著「ロレンス」(証九)、土居光知著「D・H・ロレンス」(証五三)、ステイヴン・スペンダー著「破壊的要素」(証五六)、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(証五八)等の証拠物及び証人土居光知、同斎藤勇、同吉田健一、同福原麟太郎の各供述を引用して、本書の文学的価値に関する研究の結果を紹介した上、「この小説をロレンスの傑作であるとすることは一般的に言ひ得ないと思われるが、英文学殊にロレンスを研究する人々にとつては価値あるものとして遇せられるべきものであることは認め得るのであるから、本書は英文学殊にロレンスを研究する人々より奪ふことは出来ないと云ふべきである。」と結論し(原判決二五頁乃至三三頁)、更に進んで、「然るところ、本件訳書はかゝる研究家にのみ与ふるものとして出版せられたものではなく、一般読者に対して無制限に購読せしめんとして出版せられたものであるから、英文学やロレンス研究家以外の者に対する関係について更に考察しなければならないのである。」とし(原判決三三頁)、英文学を専攻し、ロレンスを研究したもの以外の者が本件訳書を如何に理解したかについて、証人曽根千代子、同吉田精一、同野尻与顕、同峯岸東三郎、同岩淵辰雄(以上弁護人申請で、被告人に有利な証言をしているもの)及び同金森徳次郎、同東まさ、同森山豊、同阿部真之助、同沢登哲一、同森淳男、同宮川まき、同宮地直邦、同駒田錦一、同児玉省(以上検察官申請で、検察官に有利な証言をしているもの)等の各供述を比較対照し、右各証人がそれぞれ理解を異にする理由を説明するについて、桑原武夫著「文学入門」(証六四)中の、「作品を書くことは主観的なインタレストを客観世界との連関の内におくことであり、読者はこの作品を読むことによつてインタレストを感ずるのである。この様なインタレストは読者が作者と共通な基盤の上にあり、作品が伝達可能即ち作品の精神が読者に働きかけて影響を与えるものでなければならぬのであつて、『共通なもの』を読者が持たぬときは、それによつてインタレストを覚えないのである。」との部分等を引用し、本件訳書を読んで共感を覚えないのは、ロレンスとその基盤を異にし、共通なものがないからであるとし、次いで、ロレンスが、「誰が何と言つても、この小説が今日の人間に心要な、真摯な健全な作品であることを私は断言する」と強く宣言しているのに対し、エドウイン、ミユア著「一九一四年以後の現代」(証五七)、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(証五八)(チヤタレイ夫人の恋人を一般に販売するのは疲労し切つた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮なことである。)及び中橋一夫著「二十世紀の英文学」(証一三)の酷評並びに証人福原麟太郎(この書を戦後の日本の社会に与えたいと考えて敢然と飜訳した伊藤整の勇気に敬服した。フランスでは完本が自由に出ているときいていたので、日本もフランスの様な国になつたかとも思つた。広く世界の文学史上においてロレンスに似通つた作家は知らないし、「チヤタレイ夫人の恋人」に似たような小説も知らない。)、同野尻与顕(性に関する内外の著書を沢山読んだが、本訳書より詳しく性行為を書いたものを見たことがないし、文芸書でも本訳書ほど性行為を赤裸々に詳しく書いたものはなかつた。)、同斎藤勇(ロレンスは性慾について行き過ぎの考を持つて居るから、本書の性描写はない方がよいと思う。)及び同土居光知(ロレンスと同じ問題を悩んで居る人々のみが共鳴するものである。)等の否定的な批判に関する供述を引用して、「『チヤタレイ夫人の恋人』は検事指摘のような性描写がある為外国に於けるが如く我が国に於いても容易に一般の共感を得られるものでないと謂わざるを得ないのである。」とし、「D・H・ロレンス書簡集」(証五四)の一部、本件訳書のあとがきに記載されたロレンスの妻フリーダの言として、「僕はこれを出版したものだろうか、それともこれはまた、罵詈と憎悪しか齎らさないものか知ら?」とロレンスが語つたとの部分を引用し、「ロレンスもこの小説は一般的には容れられないものであり、本訳書の序文にある如く、『わづかな場所にこの作品の範囲は限られている』という特殊なものであることを知つていたことによつても裏付けられる。」と説明している(原判決三三頁乃至四六頁)。次に、証人波多野完治の供述によつて、心理学上の「素地」と「図柄」という学術語を説明し、本件訳書特に検事指摘の性描写の部分が読者から、どのように受取られるかについて、同証人、証人吉田健一、同土居光知、同森淳男、同宮川まき、同福原麟太郎、同沢登哲一、同斎藤勇、同駒田錦一、被告人伊藤整等の各供述を引用した上、「読者の多数は本訳書を読んでその性的描写を『図柄』として受取るのであり、更にその『図柄』よりロレンスの思想を汲みとるまでには至らないのが普通の状態と思はれるのである。然るところ沢登証人は少数の生徒に教育的な立場から読書指導をして、共に勉強するのであれば意味があると思ふが、それには生徒や教師その他いろいろの条件がうまく行かなければ出来ないことであると供述したのである。このことからすれば、条件にして本訳書を理解するに適するものであれば、その性的描写により刺戟を受くるも、理性によりその性的興奮を制御し得ないような結果を招来せしめない場合もあり得るものと解すべく、本訳書はかゝる条件下の読者に与うることは有意義であるとしなければならぬ。従つて本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるものであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重といふべきもの)したものといふべきものである。」と説明し(原判決四六頁乃至五九頁)、同(ハ)本件訳書と一般読者の項においては、先ず証人波多野完治の供述及びこれに引用せられている相良守次著「行動の理解」によつて、読者が書物を読んで猥褻感を受ける場合を分析して、その猥褻感(B)は読者(P)と書物並びに環境(E)の函数(f)である〔B=f(P・E)〕とし、「本訳書の如く僅かに猥褻文書たることを免れておる文書は読者並に環境の変化により、猥褻文書となることも考えられるのでその点について考察する。」とし(原判決五九頁)、前記桑原武夫著「文学入門」、毎日新聞の行つた「読書世論調査」(証一六)によつて、「従つて、本書が如何様に読みとられるべきかについては、青少年を主なる対象として、考察しなければならないのである。その学歴について見るに、前記調査によれば中学卒業者(新・旧中学・新高校)は半数以上の多数で、小学卒業者と高専卒業者以上は夫々同数位であるから、そのほとんどは中学卒業者以下であると言ふべく、従つて難解なる本訳書は波多野証言によつて明らかである如く文学形象の第二層を掴む程度に読まれるのが通常であると認むべきある。」とし、その裏付けとし、証人曽根千代子、同峯岸東三郎の供述を引用し(原判決五九頁乃至六二頁)、次に、戦後の社会情勢について、証人石井満、同岩淵辰雄、同金森徳次郎、同阿部真之助、同宮地直邦、同駒田錦一、同福原麟太郎、同波多野完治の各供述、押収にかかる戦後的出版物によつて、戦後的出版物は、「その装幀、挿絵は極めて煽情的で、その記述も露骨或は擽り的な物で、いづれも煽情的である。従つてこれを購読する者は勿論、店頭に於いて披見し或は瞥見した者は、公然と街頭に貼出されてあるところのこの種出版物の露骨煽情的なる広告、新聞紙上に掲載されたる内容目次の広告を瞥見することと相俟つて性的刺戟を累加されているものと認められるのである。」とし、証人宮地直邦、同渡辺銕蔵の供述によつて、青少年の性的虞犯化の原因の一として、映画も重視すべきであるが、映画も時には社会的批判を甘受しなければならぬ作品を世に送つた実情であるとし、次いで、証人宮地直邦、同宮川まき、同福原麟太郎、同東まさ、同駒田錦一、同児玉省、同森山豊の各供述を引用して、「戦後は性的不良出版物が多く現われ、街娼の出現も加つて、性に関する考え方は乱れて居り、思慮の不十分な青少年に於ては、性的衝動について理性による制御力を著しく鈍化せしめられて居るものと解すべきである。」とし(原判決六二頁乃至六八頁)、戦後における性意識の解放について、証人吉田精一、同神近市子、同曽根千代子の各供述を引用し、「このような点からすれば、戦後の性の混乱は単なる混乱であり、ロレンスの所謂『乱痴気騒ぎ』に過ぎないのであつて、性の意識はまだ『羞かしいもの』として、その脳裡に刻まれて居り、暴露的快楽を追ふている状況であると解すべきである。従つて我が国に於ける性についての社会的意識は、しかく解放されていないと認めなければならない。」とし、性教育の観点から、本件訳書について、証人波多野完治、同ガントレツト恒、同沢登哲一、同宮川まき、同駒田錦一、同神近市子、同峯岸東三郎、同岩淵辰雄、同吉田精一及び被告人伊藤整の各供述を引用し、「性教育との関係において、本書が如何に厳しい取扱ひをせられねばならぬかを示唆しているものである。」とし、次に性科学書と本件訳書との関係について、「証人波多野完治、森山豊が指摘した如く通常猥褻文学は性を禁止されたものであるとし、快楽的に下等な態度でこれを扱ひ、作中の人物に個性を持たせ、実在するが如く書かれているに反し性科学書は性を純粋に客観的に扱ひ作中の人物は人間という抽象的なもの(即ち人格のない物とも謂い得るもので親近感がない)としそれにより情緒的なものを受取らないような記述が為されて居るのである。従つて性科学書に於いても抽象的でなく人物に個性を持たせて記述することにより情緒的なものを読者に与えるにいたれば猥褻文書となる可能性は強いのである。従つて読者にインタレストを与えることを本質とする文学作品に於いて性の探求を為さんとするときはその記述により読者が情緒的なるものを、どの程度に受くべきかに充分なる考慮が払わるべきものである。)とし(原判決六八頁乃至七八頁)、更に、本件訳書の出版発売に当つての取扱について、第一に、本件訳書が上、下巻二冊に分冊されたこと、第二に、本件訳書の発売についての広告が適当でなかつたことを取り上げ、「本書は性についてのロレンスの考え方が小説として書かれて居るのであるが、これは他の小説と異なり上巻より下巻へと真面目なる態度で読むのでなければ、その意図を汲むことが困難であることは叙上の説明によつて明らかである。従つて本訳書が読者に与えられる際には如何にしたら真面目に読まれるかという点に重点をおいて考えられ、措置せらるべきであつて、手軽に、気安く買はれるというが如きは却つて本書を誤読することへの拍車となるのである。」、「読者はこれを低俗なる性慾小説と速断する疑は多分にあるのである。(中略)本訳書が広告により低俗化せられたとの感を深くするものであり、伊藤被告が『煽情的な、刺戟的な広告をすると夫婦雑誌のような種類のものと誤解し、起訴状のように、春本的にとられる危険性がある』と懸念したことが、事実となつて現われたものと言ふべきである。」とし(原判決七八頁乃至八五頁)、ロレンスのような思想が生活そのものであり、その間に幾変転かして居るものにとつては、全集で出版するのが適当であり、被告人小山久二郎が選集とし、しかも第一回に本件訳書を売出したことも適当でなかつたとし、「前叙認定の如き環境下にこの書を出版するについて、小山被告は何等の措置を為さなかつたことはエー・シー・ウオードの指摘する如く『疲労し切つた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮な』企図であり、かくして出版された本訳書は読者の多数には低俗なる性慾小説として、春本的に受取られるであらうことが認められるのである。証人城戸浩太郎が『チヤタレイ夫人の恋人』を出版するに際し小山被告はこの書は性描写のところが世間で誤解されるおそれがあるといい、上巻発売の日に社員を一堂に集めて、この書は昔から問題になつて居るから、若しかしたら或反響を起すかも知れないが、一つの警世的意味で出版するから、社員は、誤解に対してはつきりした態度がとれるように本訳書を読んでおけと言つたと供述し、小山被告がアンケートを挿入するに際してその五項に『あなたがもし検閲官だつたら、本書を発禁にするか』との問があることについて、若し『発禁にせよ』という回答が五〇%以上あれば、私の独善的な考え方を訂正して出版を見合せなければならないと思つたから、アンケートの発案者に対してその問の訂正を申入れたが、研究上是非必要であるといふので、私は重大なる決意を以つてそのアンケートを挿入したのであると供述したことからすれば、そのことは小山被告も予め知つていたものと認むべきである。」とし、更にこれを裏付けるため、証人阿部真之助、同森淳男、同駒田錦一、同城戸浩太郎、同高村昭の各供述、工藤房太郎提出の販売一覧表、大川英郎作成の出版発行一覧表を引用すると共に、証人城戸浩太郎作成のアンケート集計表(証一〇七)について毎日新聞社の調査と対比して説明し(原判決八五頁乃至九三頁)、本件起訴と本件訳書の春本的な取扱いとの関係については、証人吉田精一、同波多野完治、同曽根千代子、被告人小山久二郎の各供述及び前出毎日新聞社の調査を引用し、「起訴以前に於いて既に猥本的に取扱われ、それによつて爆発的売行を呈していたものと認むべきである。」とし(原判決九四頁)、前出「文学入門」中から、「読者はそこに表現された人生に強いインタレストを感じ作中人物に共感し、その行動をわがこととしてそこに強いインタレストを感ずる。しかしその人物は現実世界に実在する人間でないからインタレストは人生そのものえのものとなり、この作品から受けたインタレストを直に現実的行動に出ることはないが、然も行動直前ともいふべき状態におかれるのである。即ちあらゆる条件が揃つたならばそのように振舞つて見たいという気持、行動をはらんだ心的態度が心の中に生じ、それは心に痕跡をのこしたまゝ蓄積され、何らかの程度で読者の将来の行動に影響を及ぼし、これを規制する。例えば恋愛小説を読んで異性一般えの愛情の目ざめから特定の異性に改めて愛情を覚えることなどである。」との引用を為し、「本訳書を読んで、その性的描写記述を『図柄』として受取るところの多くの読者は、行動直前的とも謂ふべき性的興奮を覚え理性により制御するを得ざるか、著しく因難を感ずるに至るであろうと思われるのである。」とし、証人曽根千代子、同沢登哲一、同宮川まき、同駒田錦一の各供述によつて、これを例証し、「叙上の如き環境下に販売せられたる本訳書は、読者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第百七十五条に該当する所謂猥褻文書と認めらるるに至るのである。」と結論している(原判決九四頁乃至九七頁)ことは所論のとおりである。

よつて案ずるに、刑法第百七十五条の猥褻の文書(以下「猥褻文書」と略称する)の意義については、従来の大審院の判例は、「刑法第百七十五条に所謂猥褻の文書図画其他の物とは性慾を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画其他一切の物品を指称し、従て猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものなることを要することは、其前条の猥褻行為に関する規定と対照して、之を解するに余あり。」(例えば、大正七年六月十日刑事第二部判決、法律新聞一四三三号二二頁)としていたが、昭和二十六年五月十日の最高裁判所の判決は、「刑法第百七十五条にいわゆる『猥褻』とは、徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」と定義している(第三小法廷判決、最高裁判所刑事判例集第五巻第六号一〇二六頁以下)。検察官はこれを引用して、「我が国現代の一般読者に対し、欲情を連想せしめ、性慾を刺戟し、興奮し、且つ人間の羞恥と嫌悪の情を催さしめるもの」としたのに対し、弁護人は、「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し、性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ、肉体を消耗的享楽の具たらしめ、未成年者をして恢復し難い心身の損失を招かしめるような悪意ある性関係の文書」即ち『(個人差の無限に多い主観的の感覚によつて判断すべきものでなく)客観的に観察し、性器又は性行為を人間の理性又は情操等の高等なる精神機能(主として判断力)を前提とし、これに訴えて描写又は記述した文書図画(医学書類、哲学、文芸、宗教書、ロダンの作品等)を除外し、専ら感覚的官能的な描写又は記述(子供でも感覚的描写は分る、スースー、ハーハーの類は高等な判断力を要しない)によつて興味的又は享楽的の効果を期待したと判断される「非学術的又は人道的の図書」』と定義すべきであると主張し、原判決は、前記引用のように、「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し、理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら、羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すべきであるとしている。

当裁判所は、「猥褻」又は「猥褻文書」の意義については、右大審院及び最高裁判所の判例に従うをもつて正当と解するものであるが、右二つの判例は互に多少その表現の方法を異にし且ついずれも極めて抽象的であるから、これを補足的に説明すると共に、検察官、弁護人び原判決の各定義の当否を検討することとする。

第一に、「猥褻文書」たるには、従らに、性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る描写又は記述の記載があることを要することはいうまでもないところであつて、如何なる記載がこれに該当するかは、当該文書の具体的な記載を客観的に一般社会人の良識に照らし判断すべきものと考える。そして、一般的にいえば、個人又は小説等の作中の人物の性器又は性交等の性的行為の露骨詳細な描写又は記述の記載がこれに該当すると解すべきである。例えば、個人又は小説等の作中の人物の性交、性交の前後に接着する接吻、抱擁その他性交の前技若しくは後技、これらの行為に関連して発せられる言語若しくは音声の表現、行為者の受ける感情若しくは感覚の表現又は性交に関連する性器の状態の露骨詳細な描写又は記述の記載の如きものが、従らに性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る記載に該当することは疑のないところであろう。

元来性慾は、生物たる人間の本能であつて、性慾の発現である人間の性生活は、種族保存の作用を営み、人類存続の基礎を為しているのである。そして、性慾は、その本能たるの性質上不覊奔放に陥る虞があるのであるが、人間の性生活は、集団的共同生活たる社会生活において行われるがために、人間の社会生活における他のあらゆる行動が、程度の差こそあれ、ある程度の制約を受けると同様に、性慾の発現及び満足の形式において、ある一定の制約を受けることは避くべからざることというべく、この社会的制約は、性的秩序ともいうべき一定の社会生活上の秩序を形成しているのである。この性的秩序の態様は、時と処を異にするに従い、幾多の相違変遷があつたにもせよ、近代文明社会においては、性行為が男女両性の間に無秩序に行わるべからざること、性的行為を公然行うべからざること、性的行為についてこれを公然行つたと同一の効果を生ずる虞ある程度に描写又は記述した文書図画を公表すべからざること等をその内容と為すものであることは、否定し得ないところである。尤も、右の性的行為の秘密性保持の制約も、性慾延いては性生活について正しい理解を与えて人間の幸福な生活に資することを目的とする性教育等のために、漸次撤廃解放されて行く傾向にあり、かような正しい目的を有する限り、右の撤廃解放は望ましいことではあるが、これにも一定の限度があるものといわなければならない。わが国においても、右のような性生活に関する社会的制約が、善良の風俗の一つである性的秩序として侵すべからざるものとして保護されていることは、刑法第百七十四条乃至第百八十二条及び第百八十四条の規定の存することによつて明らかである。されば、一般社会人が、前記の社会的制約を超えた前記のような性器又は性交等の露骨詳細な描写又は記述ある文書図画に接するときは、人間の本能としての性慾は、右描写又は記述が社会的制約を無視したという異常性に影響されて過度に興奮又は刺戟せしめられるものと解すべきであり、最高裁判所の判決にいう「徒らに」とは、その他の説明と相俟つて、右社会的制約従つて性的秩序に違反し、過度に性慾を興奮又は刺戟せしめることを意味するものと解すべきである。

第二、「猥褻文書」たるには、右第一の徒らに性慾を刺戟又は興奮せしめるに足る記載がある結果、普通人即ち一般社会人の正常な性的羞恥心を害し且つ善良な性的道義観念に反するものたることを要する。

人間の性生活は、性慾の発現及び満足の形式において、ある一定の社会的制約を受け、この社会的制約は、性的秩序ともいうべき一定の社会生活上の秩序を形成しており、その性的秩序は、性交の秩序保持、性的行為の秘密性保持等の制約をその内容としており、わが国においても、右の性的秩序は、刑法の規定によつて保護されていることは、前記説明のとおりである。又この性的秩序は、法規によつて保護される以前において、この秩序を善良の風俗として破るべからざるものとする一般社会人の性的道義観念ともいうべき道義観念によつて支持されていることはいうまでもなく、このことは、刑法の他の諸規定が保護しようとする諸法益の根柢にいずれも道義観念の存在することによつても疑うの余地はないものといわなければならない。従つて、ある行為が社会的秩序を破り延いてこれを保護する法規に違反するときは、社会的秩序を支持している道義観念にも亦反するものなることは、当然の論結というべきであり、この道義観念に反する行為があつた場合には、一般社会人は、恐怖、憤怒、羞恥、嫌悪等各種の感情を抱くに至るものであることも多く説明を要しないところである。これを性的秩序の場合について考えてみると、前記の性生活に関する社会的制約に反し、文書によつて徒らに性慾を刺戟又は興奮せしむるに足る事項を表現し、一般社会人の閲読に供するときは、このことは一般社会人の性的道義観念に反すると共に、右の表現が右社会的制約を無視したという異常性に影響されてその性慾は過度に興奮又は刺戟せしめられ、延いては羞恥感と嫌悪感との複合した特異の感情を抱くに至るものと認められるのである。(後記弁護人正木ひろしの控訴の趣意〔32〕に対する判断参照)

第三に、以上第一及び第二の要件に該当するか否かは、一般社会人の良識に照らして客観的に判断しなければならない。一般社会人の良識は、これを社会通念といい換えても差支なく、又この判断は、法律判断であり、価値判断である。

一般社会人中には、未成年者、未婚の青少年も含まれるけれども、弁護人主張のように、「専ら自発的判断力の未熟なる未成年者のみの好奇心に触れることを予想し云々」として、未成年者のみを対象としてこの判断を為すべきものでなく、国民各層を広く包括した一般社会人を対象として考察判断すべきである。そして、右の客観的判断とは、裁判所が、国民各層を広く包括した一般社会人の抱くであろうと考えられるところの通念を基礎とし、当該文書自体の記載に即して判断することを意味するから、当該文書の作成者の意図目的で当該文書に表現されていないものは、判断の対象となり得ないものというべきである。このことは、著者の序文その他当該文書に共に記載された意図目的そのものが、本文と共に一体を為し、本文の性質に作用することを何ら妨げる意味ではないこと勿論である。又一般社会人の良識又は社会通念とは、個々人の認識の集合又はその平均値を指すものでなく、これを超えた集団意識を指すものであるから、個々人がこれに反する意識を持つことを否定するものでなく、かかる個々人が存在することによつて、一般社会人の良識又は社会通念たることを否定されることのないこともいうまでもないところである。

そして、集団意識たる性的秩序又は性的道義観念に関する一般社会人の良識又は社会通念も、不動のものでなく、時代による変遷、社会による相違はあり得べく、性的行為の秘密性を極めて厳格に維持しようとする社会と、正しい性の理解のためにする性教育の必要性を認め、その必要に応じて、性的行為の秘密性の緩和を図ろうとする社会とでは、自らその内容に変化があるのである。近代社会においては、政治、経済、文化の進歩に伴い、性に関する一般社会人の良識又は社会通念は、盲目的無批判的な性的行為の秘密性の厳守から漸次意識的批判的な正しい性の解放に向つて進んで行くような傾向にあるものと解し得られ、その限度において、次第に「猥褻文書」を認める範囲を減縮して行く結果を招来することは窺われるが、前記説明のように、これにも一定の超ゆべからざる限界があり、社会生活において、個人の性器若しくは性的行為を公然表示し、又は公然表示したと同一効果を生ずべき、個人又は小説等の作中の人物の性器若しくは性的行為の露骨詳細な描写又は記述を公然表示することは許されないものと解すべきである。

以上説明のとおりであるから、大審院及び最高裁判所の判決の各定義は、その表現に多少の相違はあるが、同一趣旨のものと解すべく、又右と検察官及び原判決の各定義もそれぞれ趣旨において右両判決の定義と異るところはないものというべきである。即ち、先ず大審院及び最高裁判所の判決の各定義を比較すると、前者中の「人」は後者中の「普通人」と同一意義で、一般社会人を意味することが明らかであるし、後者中には「嫌悪の感念を生ぜしむる」という文言がないが、嫌悪の感情は性的羞恥心を害せられた場合当然同時に随伴して生ずるものであることは前記説明のとおりであるから、後者のように「正常な性的羞恥心を害し」とのみ表現しても決して不充分なものということはできないし、前者中には「善良な性的道義観念に反する」という文言がないが、性的秩序を無視して性慾を刺戟し興奮せしめるような事項の表現に接することは当然性的道義観念に反することも前記説明によつて理解し得るところと考えられるし、又前者中には、「徒らに」という文言がないが、この「徒らに」とは、「過度に」という意味であることは、前記説明のとおりであつて、前者も正常な性慾の刺戟興奮は問題外としていることは明らかであるから、右両判決の各定義は、同一趣旨のものと解し得るのである。次に検察官の定義は、その中の「我が国現代の一般読者」は、大審院判決の定義中の「人」及び最高裁判所判決の定義中の「普通人」と同一意義であり、前記説明によつて理解し得るように、最高裁判所の判決の定義中にある「善良な性的道義観念に反する」という要件を不必要としている趣旨とも解し得られないし、その他の表現の相違も亦本質的なものでないと解せられるから、結局右両判決中の定義と同一趣旨と認むべきである。更に、原判決の定義も、その中にある「人」は右両判決の定義中の「人」又は「普通人」と同一意義であり、その中にある「理性による制御を否定又は動揺するに至るもので」とは、最高裁判所の判決の定義中の「徒らに」の部分を具体的に説明したものと解せられ、その他の表現の相違も亦本質的なものでないと解せられるから、結局右両判決の定義と同一趣旨と認められる。

しかるに、弁護人の「猥褻文書」の定義は、前記のように、最高裁判所の判決に「普通人」とあるのを「未成年者」に限定しようとするもので、この点において狭きに失し、「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ肉体を消耗的享楽の具たらしめ恢復し難い心身の損失を招かしめるような」高度の弊害を生ずるものだけが「猥褻文書」となるものとも解し難く、「客観的に観察し、性器又は性行為を人間の理性又は情操等の高等なる精神機能を前提とし、これに訴えて描写又は記述した文書図画」がすべて「猥褻文書」から除外されるのも行き過ぎであり、『専ら感覚的官能的な描写又は記述によつて興味的又は享楽的の効果を期待したと判断される「非学術的又は非人道的の図書」』のみが「猥褻文書」に該当するというのも亦狭きに失するのであつて、前記大審院及び最高裁判所の判決の各定義に反する限度において失当たるを免かれ難いのである。

右に関連して文学書及び科学書と「猥褻文書」との関係を考察する。

文学は、一般的について、人生におけるあらゆる問題を探究し、人間生活の重要部分を占める恋愛及び性の問題は、好んで採り上げられる傾向にあることは否定できないところである。しかしながら、文学も亦社会生活を基盤とし、社会生活上の問題を捉え、社会の中にあるのであるから、社会的秩序がよつてもつて形成される諸制約に従わなければならないのであつて、文学書にだけこの制約を無視するが如き絶対的自由が許されるものと解することはできない。即ち、文学書にも亦その表現に右の諸制約より来る一定の限界があるのであつて、その限界を超え、その表現が、前記「猥褻文書」の定義に該当する部分があれば、社会的秩序を維持するための刑罰法規の適用を受けることもやむを得ないところである。又その文学書の表現中極めて僅少な部分が「猥褻」に該当するものと認められる場合でも、当該部分を削除する等の手段を講じない以上、その文学書は右当該部分と不可分的に文学書の全部について「猥褻文書」の取扱を受けることも避け難いところである。尤も、文学書の芸術性がその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめて、猥褻性を解消せしめ、或いは、その哲学又は思想の説得力が性的刺戟を減少又は昇華せしめて猥褻性を解消せしめる場合があり得ることは考えられるのであつて、かかる場合には、多少の性的描写があつても、「猥褻文書」に該当しないこととなるのである。しかし、文学書の芸術性やその哲学又は思想の説得力が未だその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめるに足りない場合もあり得べく、かかる文学書は、未だもつて「猥褻文書」の域を脱しないものというべきである。それ故、性的刺戟以外に一層高度な思惟的刺戟を与えることから、過度の性的刺戟を与える点を度外視することは許されないものといわなければならない。これを要するに、文学書としての芸術的価値があることと、当該文学書が猥褻性を持つこととは、全く別個の問題であつて、前者は人生の探究の観点から、後者は社会的秩序維持の観点からそれぞれ判断される結果の避け難い結論であるといわなければならず、当該文学書の芸術性又は説得力が猥褻性を解消する程高いものか否かも、後者の立場から決定されなければならないことは、いうまでもないところであろう。

右の理は科学書についても異るところはないというべきである。ただ、一般的にいつて、科学書は、対象たる事物を客観的に観察し、普遍的な法則を研究することを目的とし、記述も亦客観的に為され、人間の肉体及び精神を探究するに際しても、人間一般に通ずる普遍的な法則を客観的に記述するを通例とする。従つて、人間の性慾、生殖作用、性器、性交、性感覚等を研究する医学、心理学等の分野における記述においても、通例、普遍的にこれを探究し、又は解説し、個別性、具体性を持たないのである。尤も、科学書において、具体的事例を取り扱うことがあることは否定できないけれども、この場合にも、対象たる右事例を客観的に観察又は研究した結果を普遍的な法則との関連において記述し、性的な具体的事例を取り扱う場合にもこれと異なるところなく、且つ、性的刺戟を与える虞ある露骨詳細な記述を避くるをもつて通例とする。もとより、少数の個々の読者がその年齢、生活環境等に原因して、科学書によつて過度に性慾を興奮又は刺戟せしめられることのあることは否定できないけれども、一般社会人は、かかる記述によつては、右のような影響を与えられないものと解せられる。これに反し、一般的にいつて、文学は、人生のあらゆる分野を探究しながらも、これを生きた人間の個別的な具体的事件として表現し、これを一般社会人に与えるのである。即ち文学においては、その根本において哲学、思想を探究し、これを一般社会人に説得しようとする意図がある場合でも、これを生きた人間の行為として表現するのである。一般社会人は、これらの表現から、生きた人間の行為を見るが如く、聞くが如き印象を受けるのである。それ故、科学書の客観的な記述と比較すると、性器、性交、性感覚に関する表現から受ける性慾の興奮度又は刺戟度が強いこととなるのである。これを要するに科学書が「猥褻文書」に該当するか否かも亦、前記基準に照らして決定すべきものと考えられるのである。

よつて進んで、本件訳書が「猥褻文書」に該当するか否かの判断について、原判決に所論の理由のくいちがい、刑法第百七十五条の解釈を誤つた違法又は事実誤認があるか否かについて案ずるに、記録を精査し、証拠物を通覧し、特に本件訳書(東京高等裁判所昭和二七年押第八七六号の一)を通読し、証人渡辺銕蔵、同ガントレツト恒、同金森徳次郎、同東まさ、同森山豊、同阿部真之助、同宮川まき、同宮地直邦、同駒田錦一、同児玉省、同福原麟太郎、同野尻与顕、同斎藤勇、同土居光知の各供述記載、エドウイン・ミユア著「一九一四年以後の現代」(同押号の五七)、エー・シー・ウオード著「一九二〇年代」(同押号の五八)、中橋一夫著「二十世紀の英文学」(同押号の一三)の各記載、「D・H・ロレンス書簡集」(同押号の五四)、本件訳書のあとがきに記載されたロレンスの妻フリーダの言葉の部分、本件訳書の序文の各記載を参酌し、本件訳書を、前記「猥褻文書」を判定すべき基準に照らして判断すると、本件訳書には、検事指摘の十二個所に及ぶ原判決別紙(一)記載のような性的描写の記載があり、右記載は、それぞれ小説の作中の人物の性交、その前後に接着する性的行為、これらに関連して発せられる言語若しくは音声の表現、行為者の受ける感情若しくは感覚の表現又は性交に関連する性器の状態の露骨詳細な描写であつて、前記説明の一般社会人をして過度に性慾を刺戟興奮せしめるに足る記載に該当するものと認められ、従つて、公表すべからざる事項を公表したことによつて、一般社会人の正常な性的羞恥心を害し、性的道義観念に反するものと認定することができる。もとより、本件訳書は、その原作者ロレンスの序文や飜訳者たる被告人伊藤整のあとがき等によつて明らかなとおり、その内容全体から見れば、ロレンスの真摯なる探究心の下に性に関する哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し、正しく理解せしめる意図をもつて書かれていることを知り得るのであり、この点に関する思惟的刺戟を与えられると共に、性的描写の部分もいわゆる春本と違つた文学的美しさがあり、その分量もいわゆる春本と異り全体の十分の一程度に過ぎず、いわゆる春本程の極度の猥褻性がないことは認められるけれども、本件訳書中の性的描写は余りにも露骨詳細であるためこれによる過度の性的刺戟が解消又は昇華されるに至つておらず、その芸術的価値又は原作者の意図の如何にかかわらず、文学において許される前記説明の一定の限界をも超えているものと解することができる。

原判決引用の証人曽根千代子、同吉田精一、同峯岸東三郎、同岩淵辰雄らの供述記載中に、右認定と反する趣旨の記載があることは、前記認定を左右するに足る程有力なものということはできない。蓋し、「猥褻文書」であるか否かを判断する基準たる一般社会人の良識又は社会通念は、個々人の意識とは別の集団意識であつて、個々人がそれに相反する意識を持つことは何ら妨げとならぬことは既に説明したとおりであるからである。

しかるに、原判決は、前記引用のように、「本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものである。」「本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるのであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重といふべきもの)したものといふべきである。」「敍上の如き環境下(読者層の構成、戦後の社会情勢、本件訳書の販売方法及び広告方法の不当等)に販売せられたる本訳書は、読者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第百七十五条に該当する所謂猥褻文書と認められるに至るのである。」と説明しているのであるから、本件訳書を「猥褻文書」と認むるか否かの判断に誤があるものといわれなければならない。即ち、「猥褻文書」なりや否やの判断は、前記説明の基準によつてこれを為すべきであり、「猥褻文書」の代表的なものとされる春本とその描写の方法を異にする一事をもつて「猥褻文書」にあらずと断定することの許されないことはいうまでもなく、原判決の説明も決して春本と異なることから、直ちに「猥褻文書」にあらずとの結論を出している趣旨に読むべきでないが、本件訳書が、読者層の構成、戦後の社会情勢、被告人小山久二郎の本件訳書の販売方法及び広告方法の不当等に関する特殊の環境下に販売されたことによつて、はじめて刑法第百七十五条に該当するに至つたとの結論は、当裁判所の本件訳書を「猥褻文書」と認める前記判断に照らして、明らかに誤といわなければならない。もとより、読者層の構成、戦後の社会情勢等の環境は、「猥褻文書」を判定すべき基準たる一般社会人の良識又は社会通念を定めるにあたつては参酌さるべきものであるけれども、被告人小山久二郎の本件訳書の販売方法及び広告方法の不適当であつたことは、「猥褻文書」を判定するにあたつて考慮さるべき環境には該当しないものと解すべきである。そして、右の誤は、刑法第百七十五条の解釈の誤が延いて事実誤認を来した場合に該当するものというべきである。即ち、刑法第百七十五条の解釈としては、「猥褻文書」であるか否かは当該文書自体の記載を前記基準に照らして決すべきものと為すべきにかかわらず、特殊の環境下に販売されたことによつて「猥褻文書」に該当する場合もありと為した点において同条の解釈を誤り、延いて事実誤認を来したものというべきである。尤も原判決は、前記引用のように、事実摘示の項において本件訳書を販売した事実のみを掲げてこれを犯罪事実としているようにも解せられ、かく解するときは、原判決の犯罪事実の摘示には誤がないようにも考えられるが、原判決は、前記引用のように、証拠説明の項において被告人小山久二郎の主張に対する判断を併せて為す形式を採用し、本件に顕われた証拠の価値判断及び証拠によつて認められる事実を基礎として本件訳書を「猥褻文書」と認定しているのであるから、この被告人小山久二郎の主張に対する判断は、事実摘示との関係においては、証拠説明の範囲を超えて事実摘示の一部たる関係を有し、事実摘示との間に密接不可分の関係あるものと認むべく、従つて、原判決は、前記認定のとおり、本件訳書を前記の特殊の環境下に販売した事実をもつて犯罪事実の摘示と為すものと認むべきである。そして、本件訳書を「猥褻文書」と認めるか否かの問題は、本件の中心点であり、若し前記の誤認がなかつたならば、原判決の事実摘示及び証拠説明の項に包含せられている認定事実は、原判決の説示するところとは根本的に相違があつたであろうと考えられるから、前記の事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、原判決中被告人小山久二郎に関する部分を破棄する事由となり得べく、この点に関する論旨は理由があるのである。

なお、原判決が証人波多野完治の供述を全面的に肯定し、「証人波多野完治は、世に猥褻図書として定評のある『ガミアニ』『バルカン戦争』を取上げてその一部と本件訳書の性描写の部分とを、文章心理学的立場より検討したところ、本訳書は所謂猥褻文書の要件を具備していないとの結論(別紙(四))を得たと供述した。依つて該二図書(証六八、六九)を閲読するにその行文は所謂春本と異ならざるものであり、同証人の供述を詳細に検討したところ首肯し得べきものであるから、本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである。」と説明していることは、所論のとおりであるけれども、右説明の結論は「本訳書の性描写は所謂春本と異なる」というだけのことであり、「猥褻文書」でないと認定したものでないことは、原判決の後の説明によつて、明らかである。従つて、原判決の説明に多少不明確な点はあるにしても(本件訳書が「猥褻文書」でないとの結論を肯定したものの如く誤解せられる虞ある点である。但し、右の「所謂猥褻文書」は「春本」の同意語として用いられたもので、刑法第百七十五条にいわゆる「猥褻ノ文書」の意味でないと解せられるので、このように解する限りにおいては、所論の矛盾はない)、所論の理由のくいちがいや採証法則の違反あるものとは解し難い。即ち、いわゆる春本と「ガミアニ」「バルカン戦争」の二図書が同一類似したものであることは、原判決説明のように、これを閲読することによつて、明らかになし得るところであり、該二図書と本件訳書の性描写の方法とが文章心理学的に多少異なることについては、原判決の別紙(四)並びにこれに関する証人波多野完治の供述記載を調査することによつて明らかになし得るところであるし、又、原判決は春本以外の「猥褻文書」の存在を肯定していることは、所論引用のとおりであり、原判決の前記判断は後の説明と相俟つて、本件訳書が春本の性描写と異なる点に関するものであり、所論のように、本件訳書が「猥褻文書」でないと認定した趣旨ではないと解すべきことは、明らかであるからである。以上説明のとおり、原判決には同証人の供述を採用して右事実認定をした点においては、何等所論の理由のくいちがいや、採証法則違反による事実誤認はないものというべきである。

第二、被告人伊藤整に関する部分(事実誤認、法令適用の誤)(同控訴趣意書四七頁乃至六七頁)について。

原判決が四、伊藤被告の刑事責任の項において、「敍上の如く、本訳書は、小山被告の手により、猥褻文書として販売されたものであるが、伊藤被告はこれに共犯として加功したかどうかについて考察する。作者或は飜訳者は作品をつくることによつてそのことを終り、その作品を販売することは出版業者の為すところであるが、作品は読者に読まれること即ち販売されることを予定してつくられるものであるから、作者と出版者は、作品を介し、販売なることを共にするものと解し得られるのが通常の事態であり、その共にすることの態様により、これを刑法上の正犯又は幇助犯と認め得るのである。然るところ『チヤタレイ夫人の恋人』は所謂春本とは異なり本質的には刑法第百七十五条の猥褻文書と認め得ないものであるが、敍上のような環境下に本訳書が販売されたことによつて、猥褻文書とせられたものと認むるを以つて、訳者たる伊藤被告はかかる環境下のものとして本書を販売することに積極的なる加功を為したかどうかを審らかにしなければならないのである。証人高村昭は本訳書上巻の原稿を伊藤被告より受取つたとき同人は、完訳したが、出すかどうかは小山書店に一任すると言つた。それは性的描写のところが誤解されるのではないかとの考慮からであると思つた。上巻発売後の昭和二十五年四月末頃伊藤被告より、本訳書の短い広告文を取上げて、長い文章だと間違はないが、性を厳粛に、知的に扱つたことを書かずに、大胆な描写であるとだけ書くと誤解され易いからと注意されたことがあつたと供述し、小山被告は、伊藤被告に『チヤタレイ夫人の恋人』の飜訳を依頼したところ、同人はこの書にはこういうことが書いてある、過去に外国で問題が起つて、色々と論争され、非難もあつたから、慎重に考慮して、完訳のまゝ出版するなり、多少の手加減を加えるなり、よく考えてくれと言つた。伊藤被告は読者がこの書の性描写のところをロレンスの考えて居るように正しく受入れるかどうかを懸念しての申出と思つたと供述し、伊藤被告は、小山被告より『チヤタレイ夫人の恋人』の飜訳を依頼されたときに、私はロレンスの性格、この書の性格、殊に先に誤解されたことがあること、現在では、英文学では第三番目に論ぜられる位で、これをぬきにしては、現代英文学は考えられないほどの重要な作品であることを説明し、全部訳してお目にかけるから、それを読んで慎重に考えた上で小山書店側の決意に於いて完訳を出版するなり、多少の手加減をするなりしてくれと話した。この手加減というのは性的描写の部分で同じ意味の日本語のどれを使ふか、原文とかラテン語とか、学術語にするか、或は削除するかという意味であつた。その後に小山書店の者に『広告はカストリ雑誌のように煽情的な感じを絶体に出さないようにしてくれ。誤解されるから』と注意したが、それは、この書は性を取扱つたものであるから、そのことを書くのはよいが、下手な文章で書くと煽情的となり夫婦雑誌のような種類のものでないかとの誤解の下に読み起訴状のように春本的にとられる危険性があると思つたからである。この原著が世に出たときは世間の反抗を受けたので、現在では一流の批評家は猥褻であるとは言わないのであるが、これを飜訳するのには気をつけなければならぬと考え、思想的な固苦しさと文体とを合致するように直訳体をとつたのであると供述した。これらのことから考察すれば、伊藤被告は本訳書を正しく読みとるものを読者と想定し、これらの人々にのみ買われることを希望し、その具体策を小山被告に申出でたことが認められる。証人石井満、堤常、小林茂の供述並に小山書店出版図書目録によれば、小山被告は日本出版協会の有力会員であり、高級出版物を多数に出版して居るのであるから、伊藤被告が、小山被告を信じ右の申出を以て足れりとしたことは諒し得るところである。従つて伊藤被告は本件販売行為が、前敍の如き環境を利用、醸成して為されたことについては、法律上加功しなかつたものと解すべく、刑法上共犯と目することは出来ないのである。尤も本訳書がその後爆発的売行を呈するにいたつたのであるから、さきに懸念したことの現れであることに考えを致し、その対策を講ずべきに、ことここに出でなかつたのは、文学を愛する者として怠慢であるとのそしりを免れないのであるが、これは文人としての徳義上のことに属し法律上の責任を問うべきではないのである。」とし、被告人伊藤整に対しては、無罪の言渡を為すべきであるとの説明を為し(原判決九七頁乃至一〇一頁)、主文において、同被告人に対し、無罪の言渡をしたことは、原判決の記載によつて明らかである。

よつて案ずるに、被告人伊藤整の飜訳にかかり、被告人小山久二郎が出版した本件「チヤタレイ夫人の恋人」上、下二巻が、その文学的価値の問題とは別に、刑法第百七十五条の「猥褻文書」に該当し、原判決認定のように、読者層の構成、戦後の社会情勢、被告人小山久二郎の販売方法及び広告方法が不適当であつたこと等に関する特殊の環境下に販売されたことによつて、はじめて同条の「猥褻文書」に該当するに至つたものとは認め得ないので、右のような原判決の認定は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認に該当するものであることは、既に、前記第一、被告人小山久二郎に関する部分、一、について説明したとおりである。従つて、右特殊の環境下に販売せられたことによつて、はじめて、本件訳書が「猥褻文書」となつたということを前提とする原判決の前記説明には、この点において既に、事実誤認があることが明らかである。

又刑法第百七十五条の猥褻文書販売罪における犯意の成立については、当該文書の内容たる記載のあることを認識し、且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右文書の内容たる記載の猥褻性に関する価値判断についての認識、即ち、右文書の内容たる記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当することの認識はこれを必要としないものと解すべきである。即ち、性交等性的行為に関する記載あるが故に猥褻文書販売罪が成立する場合においては、当該性的行為に関する記載のあることを認識し且つこれを販売することの認識あるをもつて足り、右性的行為に関する記載の猥褻性に関する価値判断についての認識即ち、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当することの認識はこれを必要としないものというべきである。尤も、客観的には、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当するも、主観的には「猥褻文書」に該当しないものと信じて、当該文書を販売する場合もあり得べく、かような場合には、「猥褻文書」に該当することを知りながら販売した場合に比し、情状軽きものと考えられることは否定できないけれども、右の場合は、法律的評価の錯誤即ち法律の錯誤あるものとして刑法第三十八条第三項但書によつてその刑を減軽し得るに止まり、犯意を阻却しないものというべきである。又同様に、客観的には、右性的行為に関する記載あるが故に当該文書が「猥褻文書」に該当するも、主観的には、「猥褻文書」に該当しないようにも考えられるが、或いは「猥褻文書」に該当するかも知れないと考えながら、当該文書を販売する場合もあり得べく、かような場合は、未必的に猥褻性の認識を有していた場合として、犯意を阻却せず、全く「猥褻文書」に該当しないものと信じて販売した場合に比し、その情状重きものありというべきであることも亦多言を要しないであろう。

更に、飜訳書の出版販売が右猥褻文書販売罪に該当する場合における飜訳者と飜訳書の出版販売者との間の刑法上の共犯関係の成立について考えてみると、飜訳者は飜訳を完成し、出版販売者は右飜訳を出版販売するのであつて、飜訳行為と出版販売行為との両者が協力してそれぞれ分担するところを完了しなければ当該飜訳書の出版販売は実現し得ないのであるし、飜訳者は特別の事情の存しない限り、自己の飜訳がそのまま出版販売されることを知悉しているものというべきである。そして、この協力の態様は種々これあるべく、飜訳者の協力の程度如何によつては、飜訳者が幇助犯の責任を負うに止る場合のあることも否定できないが、少くとも飜訳者が出版販売者の依頼にもとずいて飜訳全部を独力をもつて完成してこれを引き渡し、出版販売者がそのままこれを出版販売し、その飜訳書が「猥褻文書」と認められる場合においては、飜訳者と出版販売者との間には、猥褻文書販売罪成立についてのいわゆる共同加功の意思と行為の分担が当然存在し、刑法第六十条の共同正犯の成立があるものというべきである。

これを本件について考えてみると、本件訳書は検事指摘のような十二個所に及ぶ性的描写の記載があり、右記載のあることによつて、客観的に刑法第百七十五条の「猥褻文書」に該当することは、前記説明のとおりであるから、本件における猥褻文書販売罪の成立に必要な犯意即ち事実の認識としては、本件訳書中に右十二個所の性的描写の記載が存在すること及びこれを出版販売することの認識あるをもつて足り、右十二個所の性的描写の記載あるが故に本件訳書が「猥褻文書」に該当するとの認識はこれを必要としないものというべきである。前記のように、原判決が被告人伊藤整の刑事責任を説明するについて引用した被告人小山久二郎、同伊藤整その他の各供述記載その他本件記録中にある証拠によれば、被告人伊藤整は、被告人小山久二郎の依頼によつて本件訳書の飜訳を独力をもつて完成したのであり、右性的描写のあること及び右の飜訳が被告人小山久二郎によつて出版販売されることについて認識があつたことは明らかであると認むべく、殊に、被告人伊藤整は、本件訳書の飜訳原稿中に前記性的描写の部分があるため誤解される虞のあることを考え、小山書店側の決意において完訳を出版するなり多少の手加減をするなりしてくれと話したのであつて、被告人小山久二郎が、その決意において、完訳を出版することのあり得る場合も予想していたのであるし、出版販売までの間に、被告人小山久二郎から、訂正又は削除について何等相談がなかつたのであるから(原審第十六回公判調書中被告人小山久二郎の供述記載によれば、被告人小山久二郎が、被告人伊藤整の申出によつて、訂正又は削除するを可としたならば、飜訳者たる被告人伊藤整にこれを伝え又はその方法を相談するのが通例であると認められる)、被告人伊藤整は、右飜訳が完訳のまま出版販売されることを認識していたものと認むべきである。従つて、被告人伊藤整について本件猥褻文書販売罪が成立するに必要な犯意には何ら欠けるところなく、又同被告人と被告人小山久二郎について本件猥褻文書販売罪が成立するに必要な共同加功の意思及び行為の分担のあつたことも、前記原判決の説明中に引用された各証拠その他本件記録中にある証拠によつて明らかであるから、右被告人両名に共同正犯の責任を負わしむべきものと認定するに何らの妨げもないものといわなければならない。

更に進んで、被告人伊藤整が、所論のように、本件訳書が「猥褻文書」に該当することについての認識を持つていたか否かについて案ずるに、被告人伊藤整の供述記載によつて明らかなとおり、同被告人が各大学において英文学を講じ、ロレンスの研究に従つていたこと、昭和十一年イギリス、セツカー版を底本とする削除版「チヤタレイ夫人の恋人」全一冊を三笠書房から飜訳出版したこと、右三笠書房から出版された「チヤタレイ夫人の恋人」に同被告人が書いた序文中に『一九二五年に彼はイタリイのフロオレンスの郊外で別荘を借りて住み、そこで「チヤタレイ夫人の恋人」を書きはじめた。この作品の原稿を書き改めること三度に及んだといわれてゐる。余り直截な表現を含んでいたため、ロレンス自身もそれを発表する決意がつかずフリイダに相談した。フリイダは、この内容が世に容れられないのではないかと心配したが、あなたが芸術家として信ずる処があつて書いたのなら発表したらいいではないかと言つた。それでロレンスも発表の決心をし、フロオレンスの小さな本屋オリオリから最初の限定版を出した。英国では発売禁止になつたが、後剪除版を出した。』と書いてあり、同書末尾に訳者の言葉としてロレンスの死後その妻フリイダがフロオレンスにおいて「チヤタレイ夫人の恋人」を書いていた頃のことを次のように述べているとし『彼は画を描くことを楽しんでいた……どんなに彼はそれに熱中したことだつたろう……それから彼は「チヤタレイ夫人」を書いた。朝食-大抵七時かそこらにした――が済むと彼は本とペンとクツシヨンを持つて、犬のジヨンをお伴に、ミレンダ荘の背後の森へ入つて行く。そして昼食には書き上げた原稿をもつて帰つてくるのだつた。私は毎日それを読んで、どんな風に章が組み上げられて行くのか、またどんな風にしたらそれらすべてが彼の頭に浮んでくるのか、不思議に思つた。私はまた、誰一人書いたり言つたりしようとはしないああした秘密事を直視したり書いたりする彼の勇気と大胆さに驚歎した。「チヤタレイ夫人」は二年間というもの、ロレンスが緑黄色の地に薔薇の花を描いた古い箱の中に仕舞つておかれた。私はその箱の前を通つた時、度々こう考へたものであつた。「この本がいつかここから出る時があるだろうか?」ロレンスは私に訊いた。「僕はこれを出版したものだろうか、それともこれはまた、罵詈と憎悪しか齋らさないものかしら?」私は答えた「貴方はそれをお書きになり、それを信じていらつしやる。それでいいのだわ。是非出版なさいよ。」で、ある日私達はそれについて詳しくオリオリと話し合つた。私達は小さか古い印刷機を持つてゐる、小さな旧式の印刷屋を訪ねた。そこには本を半分印刷するだけの活字があるきりだつた、――かうして「チヤタレイ夫人」は印刷された。印刷が出来上ると、「チヤタレイ夫人」――もしくは私達の言葉を使つていへば「私達の夫人」の夥しい堆積が、オリオリの店の床に積み上げられた。余り沢山の数に見えたので、私は恐れをなしてかう言つた位だ。「これをみんな売ることは、とても出来ないに相違ないわ」騒動が起る前に、大部分が売れて行つた。最初亜米利加へ送つたものが送り先へ届かず、その次に英国から悪罵が送られた……然しそれは、彼の最後の大努力が成し遂げられたのである。(足立重氏訳)ロレンスがこの小説を書きはじめたのは、一九二六年、彼が四十才の時である。フロオレンスのオリオリ書店から出版されたのは一九二八年である。この小説については原稿が三つ作られた。彼は一九三〇年に死んでゐるから、死に先立つこと幾ばくでもなかつた。フリイダが書いてゐるやうに、彼はこの小説を初めから世に行はれる目あてがあつて書いたのではないらしい。だが彼がこれだけのことをそれにもかかはらず書かねばならぬ内的必要を感じていたといふことは特筆すべきだと思ふ。この小説は版行されるあてを作者が持てなかつたほどの神聖な露骨さで有名なものである。その原版はいまパリのオデイツセイ・プレスから発行されてゐる。しかし英国ではこの版はゆるされてゐない。ここに私が使用した原書は、危険な個所だけをとり去つて特に英国のセツカア・プレスから流布されている「公認英国版」である。それだけ原著者の意志は満されてゐないものであるが、この作品の小説としての力量形態を知るには、これで足れりと言つていいであろう。とにかくロレンスがこの小説で語らんとしてゐた思想はこの「公認英国版」で尽されてゐるのである。』との記載があること、証人三宅一朗の供述記載中に、所論引用のように、ロレンスの原著書の外国における取扱例の記載があること、証人福原麟太郎の供述記載中に、所論のように、被告人伊藤整が本件訳書の完訳をしたことは大胆に過ぎるとの趣旨(「勇気に敬服」といつている)があること、その他所論引用の被告人両名の供述記載(その内容は既に、前記原判決の説明を引用した際にその内容として掲記してある)を総合すると、被告人伊藤整(被告人小山久二郎についても同様であると解せられる)において、本件訳書が「猥褻文書」に該当することについて、前記説明の未必的な認識程度の認識があつたことも充分これを認定することができるのである。

しかるに、原判決は、前記のように、その前提において事実誤認をした結果、その結論においても、被告人伊藤整に文人としての徳義上の責任はあるにしても、法律上の責任がないものとして無罪の言渡をしたのであるから、明らかに判決に影響を及ぼすべき事実の誤認があるのである。従つて、論旨は理由がある。

被告人小山久二郎の弁護人正木ひろしの控訴の趣意に対する判断

〔32〕について。人間の羞恥心又は羞恥感と嫌悪感は人間の精神機能中感情的又は感覚的機能によつて、外界から受ける刺戟又はこれと結合した身体的変化等の誘因に対して発生するもので、社会生活上人間に自然に存するに至るものであり、性的羞恥心又は性的嫌悪感は性的な事柄に対する部面を抽出して考察したものであると解し得るのである。即ち、既に説明したように、集団的共同生活たる社会生活においては、性的な礼儀、慣習、道徳及び性的秩序が形成せられ、その秩序の中に生活する一般社会人の性的な羞恥嫌悪感情や性的道義観念の基礎となつているのである。そして、人間が青春期になり、心身の発達によつて、性感覚が起ると共に、自ら、性的な羞恥嫌悪感情や性的道義観念が生ずるものと考えられるのである。「猥褻行為」又は「猥褻文書」は、前記説明のように、露骨詳細(「猥褻行為」は露骨をもつて足ることはいうまでもない)で過度に性感覚を刺戟し、性慾を興奮させるものであり、且つ社会的慣習と衝突し、社会的制約を無視し、性的秩序及び性的道義観念に反したものであるから、一般社会人は正常な性的羞恥心を害せられ、同時にこれに嫌悪感を随伴するものと解せられるのである。換言すれば、一般社会人は過度の性的刺戟興奮から来る心身的変化に原因して、異常に恥かしさと嫌らしさの複合した感情を抱くものと認められるのであつて、この状態を前記最高裁判所の判決が「普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と表現し、原判決が、「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し、理性にある性慾の制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く」と説明したものと解せられるのである。原判決の「吾人は嫌悪感を抱き、自らは羞恥を感ずる」、「自ら羞恥を感じ、かゝる文書に対しては嫌悪感を覚える」との説明も、以上説明したところと同一の趣旨に帰するのであつて、羞恥嫌悪の感情を抱く者は一般社会人であり、その対象は「猥褻行為」又は「猥褻文書」であることが明らかであるから、所論のように羞恥嫌悪の感情の主体に不分明な点や羞恥嫌悪の感情の実体に不明確な点はないものと認められる。又弁護人が、原審において、「嫌悪」とは、ヒユーマニテイの自覚からこれに反する物件に対する排除を意味し、「羞恥」とはかかる物件を同胞が提供することに対する人類的自責の感以外にはあり得ないと主張したことは、本件記録によつてこれを認められるが、右の主張は、「羞恥」「嫌悪」の字義からかなり離れたものであり且つ前記説明の趣旨と反するものであるから採用し難く、前記説明の一般社会人の抱く羞恥嫌悪の感情とは既に屡々説明したとおり、個々人の感覚乃至感情に基礎をおくにしても、これを超えた集団意識を意味するものであるから、単なる個々人の感覚的な現象それ自体ではなく、一の客観的な基準であると考えられる。それ故前記説明の羞恥嫌悪の感情を単なる感覚的な現象として非難する所論は失当である。

尤も、右の羞恥嫌悪の感情は、性的好奇心とは別異のものと解し得るのであつて、人が性的好奇心を持つていることは否定できないし、それが「猥褻行為」又は「猥褻文書」に接する機縁を作ることが考えられるのであるが、性的好奇心によつて、「猥褻行為」又は「猥褻文書」に接して生ずべき一般社会人の羞恥嫌悪の感情が、すべて消失してしまうものとは到底認められないところである。

なお、「猥褻行為」又は「猥褻文書」に関する処罰規定の存在理由は、善良な風俗としての性的秩序及び性的道義観念を保護するにあるけれども、刑法第百七十四条又は第百七十五条の犯罪成立の要件としては、「猥褻行為」又は「猥褻文書」が前記説明の意味で、性的秩序及び性的道義観念に反するをもつて足り、その結果として発生を予想される性慾の濫用及びこれにもとずく風紀の頽廃等の具体的な弊害又はその発生の具体的危険性を必要としないものと考えられるから、弁護人主張の定義のように、「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ」との具体的危険性乃至現実の弊害の発生を要しないものというべきである。

従つて、原判決には、理由を附せざる違法又は理由のくいちがいありとは認められない。

同四、〔33〕乃至〔45〕(理由不備、理由のくいちがい、法令適用の誤)(『出版自由と刑法第百七十五条』の部に記された部分について。二〇丁乃至二九丁)について。

日本国憲法(以下憲法と略称する)第二十一条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と規定し、大日本帝国憲法(以下旧憲法と略称する)第二十九条が、「日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と規定していたのに比し、他の表現の自由と共に、出版の自由についても、法律の範囲内においてという制限を撤廃した。その結果として、旧憲法下の出版法、新聞紙法等、いわゆる事前検閲及び発売禁止処分に関する制度や出版物又は新聞紙等によつて、「猥褻文書」を出版又は発行する行為に関する処罰規定(出版法第二十七条、新聞紙法第四十一条)を定めていた諸法律が廃止されたのである。そして、旧憲法下においては、出版物又は新聞紙によつて、「猥褻文書」を出版又は発行した場合においては、出版法第二十七条又は新聞紙法第四十一条によつて処罰され、右処罰規定は、刑法第百七十五条の特別法であると解されていたので、右刑法の規定の適用がなかつたのである。右のように、憲法第二十一条が、規定上、何等の制限をつけないで、出版その他の表現の自由を保障すると共に検閲制度を禁止し、旧憲法下の出版法、新聞紙法等の諸法律が廃止されたので、出版物又は新聞紙の内容に猥褻に該当する部分が存在する場合に、当該出版物又は新聞紙の出版又は発行を刑法第百七十五条をもつて処罰し得るかとの問題を生ずる余地があるに至つたのである。

出版その他の表現の自由は、他の基本的人権と共に憲法が強力に保障するものであり、本質的には、天賦の自然的人権であると考えられて来たのであるが、憲法の保障する基本的人権は、憲法が日本国民に保障したことにその存立の基礎があるものと考えなければならない。即ち、本質的には人類普遍のものであると考えられるにしても、現実的には、憲法の各条章の範囲内においてのみ保障されるものである。憲法第十一条には、「この憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とあり、又同法第九十七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と規定していることからもその趣旨を窺うことができる(旧憲法が多数の規定において法律の範囲内においてという制限を附していたことと対比すれば、この「与えられる」という意味を一層明らかにすることができる)。そして、国民各自が享有する基本的人権も絶対無制限であり得ないことは、一人の基本的人権の絶対無制限の行使が、他人の基本的人権を侵害することのあり得ることによつて明らかである。従つて、国民相互の基本的人権行使の調節の問題を生ずることは看易き道理である。それ故、憲法は個別的な規定例えば、第二十二条、第二十九条等において、公共の福祉の範囲内においてのみ、その行使を保障し、或いは、第二十六条第一項において、法律の定めるところにより教育を受ける権利を保障しているのであるが、「公共の福祉の範囲内」又は「法律の定めるところにより」との制限がない憲法の各規定といえども、絶対無制限の行使を保障しているものとは解し得られないのであつて、このことは憲法が一般的にその第十二条において、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」、その第十三条において、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定していることによつてこれを知り得るのである。即ち、憲法第二十一条の表現の自由も、右第十二条及び第十三条による制限に服するものと解すべく、従つて、国民個人の基本的人権の行使が、公共の福祉のために利用すべき責任に違反し、権利の濫用となる場合においては、権利の行使たることが否定され、憲法の保障を受けないものといわなければならない。そして、権利濫用に該当する行為が、憲法の条章に照らし、有効と認められる刑罰規定に触れる場合は、その規定によつて処罰を受けるものと解すべきである。この意味において、出版その他表現の自由も絶対無制限ではなく、公共の福祉の範囲内においてのみ、その行使を許さるべきものと解すべきであるから、公共の福祉のために利用すべき責任に違反し、権利濫用となる場合においては、憲法の保障を受けず、犯罪行為として処罰されることもあり得るのである。

そして、ここに公共の福祉とは、日本国民全体の幸福を指すが、本質的には同時に人類全体が理想として有する永遠の幸福にも関連あり、これに寄与する概念であり、その構成員たる個々人の基本的人権を最大限度に尊重することも同時に包含するのである。しかしながら、時と処を超え、人類全体に共通した公共の福祉は、理想としては考えられるにしても、現実的にはあり得ないのであつて、時代を異にし、国を異にするに従い、その間に共通性と類似性とはあるにもせよ、公共の福祉の内容は異なるのであり、憲法の規定する公共の福祉は、わが国の現在(過去を承継し、未来に向上発展を目指すものであることは勿論である)のそれであるといわねばならない。その内容は、日本国民各個の基本的人権を最大限に尊重することを基礎としつつも、それを超越した日本国民全体の幸福の維持発展に必要な各種の要素によつて構成されているのである。これを例示すれば、個人の生命、身体、自由、財産、名誉等の保護のほか、憲法を根拠とする国家の基本的組織の保持、国家作用の保護、社会生活の平穏の維持、文化の保持発展、善良な風俗の維持等があり、わが国現代における政治的、経済的、文化的、社会的諸利益を包括するのである。これらの諸利益を侵害する行為は、憲法の公共の福祉に違反するものとして、刑法その他の刑罰法規によつて処罰される場合があり、国家の刑罰法規は、公共の福祉の維持に奉仕するものと解し得るのである。従つて、国民各自の政治的、経済的、文化的、社会的な各般の活動が、公共の福祉に遵つて行われることが要請されているものということができるのである。「猥褻文書」はたとえ出版物として販売、頒布される場合であつても、前記説明の理由によつて、善良の風俗の一部である性的秩序に悪影響を及ぼす危険性があり、公共の福祉に違反するものというべきである。そして、刑法第百七十五条は右性的秩序維持に向けられた公共の福祉維持を目的とする刑罰法規であつて、憲法に違反する点のないことが明らかであるから、前記出版法、新聞紙法等特別法の廃止後においては、一般法として、出版物による「猥褻文書」の販売、頒布の場合にも亦適用されるものと解し得るのである。

原判決の説明は、多少その表現を異にし又「猥褻文書」の危険性を、「人類の滅亡を招来するに至る危険」としている点に行き過ぎもあるのであるけれども、その趣旨は右と同一に帰着するのであつて、原判決には所論の理由を附せざる違法若しくは理由のくいちがいがあり又は法令適用の誤ありとは認められない。従つて論旨は理由がない。

以下順次項目毎に説明することとする。

〔33〕について。この点は前記説明及び以下説明のとおりであつて所論の誤はない。

〔34〕について。原判決が「憲法がかゝる自然権を法上の権利として確認するに至つたのは、この基本的人権を認めることが、人の社会生活をして価値あらしめるからである。」と説明していることは所論のとおりである。「社会生活をして価値あらしめる」とは、前記説明のとおり、個人の基本的人権を保障することが、その個人の幸福を増進すると共に、公共の福祉にも適合するとの趣旨であると解せられるから、所論のように不当の点は認められない。

〔35〕について。原審において、主任弁護人正木ひろしが「公共の福祉」の意味を「ヒユーマニテイ」との関係において詳細に論じていること(最終弁論「その二」)は所論のとおりであり、その要旨は、「知性と文化の向上、進歩、『増大しつつある世界の過去、現在、未来に亘るあらゆる可能性』を我が身の中に感じ、また我が身もその中に厳存していることを感じつつ進んで行く当体が『ヒユーマニテイ』であつて、これは各自が、自分達の『自我』が存在していると思つているのと同様なる直観的事項と信じます。……凡て、人類の、この向上進歩、頭脳活動の無限の可能性を否定するものは悪であります。……凡て、部分だけをみて、全体との関係を、一元的に認識しないことは理性を否定することであつて、論理的には誤謬であり、実行的には不正であります。論理の統一、法律の統一、人類の統一、科学原則の統一等、人類文化は、統一、無矛盾に対する一元化への強烈な要請を持つて居り、これを否定する時には、今日までの人類文化は崩壊する運命をもつています。これは現代人類文化成立上の仮定であると共に信仰であります。凡て、真実を尊び、虚偽を憎み、実行を愛し、観念の遊戯を排斥するのは、人類社会の健全なる新らしい風紀又は教育上の方向であり、これに反するものは、人類社会を停頓、混乱、不和、暴力使用等の未開時代に逆行させる悪であり、公共機関に関して行えば許し難き不正であると信じます。何故なら、地上の生命は幻でなく、永遠の現実だからであります。右の如く『ヒユーマニテイ』を解する時は、日本国憲法の規定する公共の福祉は『ヒユーマニテイ』に関するあらゆる条件を充たし、且つ不足するものがない故に、この五つの文字『公共の福祉』は生々とした新日本の指導原理となつて、憲法全体、法律全体を活かすことになります。……」というに帰すると考えられるのである。従つて、原判決の「『公共の福祉』の本来の意味は人間の共同生活に於ける幸福をいうのである。」という説明と比較して、より詳細であり、含蓄あるやに認められる。しかしながら、「公共の福祉」は前記説明のとおり、日本国民全体の幸福を意味するのであり、たとえ抽象的な嫌いはあるにしても、原判決の言わんとするところは、理解できるのであるし、弁護人の主張は「公共の福祉」が、「ヒユーマニテイ」に由来し、且つ、日本国憲法の指導原理であるというのであるが、右主張といえども原理、原則の解明に当然伴う抽象性を免かれているものとは認めることができないのである。されば、原判決の説明と、右弁護人の主張とは、抽象的に公共の福祉を「人間の共同生活の幸福」と解する点においては、相矛盾するものとは解し得られない。従つて、原判決に前記抽象性を免れない点があるにもせよ、所論指摘の欠点があるものとはいえない。

〔36〕について。原判決が「人間は、自然的には心身の慾望を満足し、理性的には人格を向上せしめることによつて幸福を感ずるのであるが……」と説明していて、「自然的」と「理性的」との用語において、所論指摘のように、不正確な憾があるのであるが、右は人間に精神的及び肉体的方面における幸福追求の努力が存在することを説明した趣旨と解し得ない訳ではないから、原判決には、所論の違法はない。

〔37〕について。原判決が「人間の人間たる所以を自覚すれば、自他共に平和と幸福をもたらす如く、行動すべきであり、がくてこそ、社会的共同生活の幸福が保たれるのである。」と説明していることは所論のとおりであるが、右は、当然のこととはいえ、正当なことを言つているのであるから、所論の非難は当らない。

〔38〕乃至〔41〕について。原判決が、「ここにいふ『公共の福祉』は我が憲法上の概念であるから、その『公共の福祉』は、日本国における国民の共同生活に於ける幸福と解すべく、何が公共の福祉であるかは、我が国の現在と近き将来を基準とし、一般社会通念に従つて決すべきものである。」と説明していることは所論のとおりである。そして、原判決の説明の趣旨は、既に説明したように、公共の福祉は本質的には人類全体に通ずる概念であるが、日本国憲法の規定する公共の福祉は、世界人類の進歩発展に寄与することを目指すにしても、日本の現代という時と処によつて制約されたものであり、従つてその時と処に適合する具体的内容を持つものと考えられることをいおうとするものと解すべきである。又、既に説明したように基本的人権は、これを享有する個人の立場から見たものであるに反して、公共の福祉は、個人の基本的人権を包摂しつつも、これを超えた集団的共同生活に関するものであるから、公共の福祉の解釈については、個人的立場を離れた国民全体の集団意識の立場において判断されなければならない。このような集団意識は、国家意識又は社会意識と観念し得るのであつて、これを合して、国民意識としての「一般社会通念」と称することもできるのである。従つて、前段の説明中「人類が天賦の権利として有したもの」、「自然権」、「永久の権利」、「侵すことができない」との用語を用い、後段に「日本国に於ける国民の共同生活の幸福」、「わが国の現在と近い将来」、「一般社会通念に従つて定む」との用語を用いて説明したことは明らかであるが、かように説明したことについては何等所論の誤は認められない。

次に、原判決が、弁護人の主張の要旨を挙げ、「弁護人の主張は人類の理想そのものを我が憲法上の公共の福祉となすもので、現実の国家社会を直視しないうらみがある」としていることは所論のとおりであるが、その趣旨は、前記〔35〕に対する説明のように、弁護人は、わが憲法の公共の福祉は、ヒユーマニテイのあらゆる条件を充たすものとして、その指導原理であると主張するものであり、わが国の現在という時と処に対応したより具体的な内容を持つた公共の福祉を超えて人類全体に通ずるものとして、公共の福祉の意味を定めようとする点を指したものであると解し得るのである。既に説明したように、わが憲法の公共の福祉は、人類全体に通ずることを目指すとしても、わが国の現在という時と処を超えることができないものと解せられること、既に説明したとおりであるし、わが国現在における公共の福祉を考えるに際しても、この立場から、人類全体に目を向け、国家百年の計を樹て、現代社会の風習や制度を批判し、これを改革することのできることはいうまでもないところであつて、ただ現在の状態を超越して、数百年後或いは数千年後にあるべき人類の理想状態を尺度として、現在の状態の可否を批判することの誤であることはいうまでもないところであるから、原判決の右説明には不当の点はないというべきである。(以上〔38〕、〔41〕)

なお、弁護人は、その主張する公共の福祉の意味を、憲法前文及び各条並びに「ヒユーマニテイ」の立場から主張し、最終弁論その一末尾添附のグラフ五枚をもつて説明しているが、その要旨は、前記〔35〕に対する説明に引用したとおりであり、第十八回公判期日に、証人土居光知が思想の自由、出版の自由に関連する公共の福祉の解釈についての見解を示していること等所論引用のように公共の福祉の概念の主張立証に努力し、原理的な説明としては、理解できるけれども、その具体的適用に関する点については、後記説明のように、弁護人主張の結論は、わが国現在の公共の福祉に照らし、到底採用し難いところである。従つて、原判決に所論の理由を附せざる違法はない。(以上〔39〕、〔40〕)

〔42〕及び〔43〕について。弁護人が、最終弁論その一末尾添附のグラフをもつて、公共の福祉及び「ヒユーマニテイ」の概念を説明しているのに対し、原判決が、その添附の別紙(三)の図をもつて、公共の福祉の概念を説明しており、原判決が、弁護人のグラフについては特別に説明を加えていないことは所論のとおりである。右グラフ及び図はいずれも、その説明によつて、その趣旨を理解することはできるけれども、あくまで一応理解し得るというに止まり、社会的共同生活から発生するすべての社会現象を数学的正確性をもつて割り切ることは不可能であるし、又図をもつて説明し尽すこともできないと考えられるから、弁護人のグラフも原判決の別紙(三)の図も、公共の福祉の概念を理解する手段としての有用性を認め得るに過ぎないものというべきである。従つて、原判決が、弁護人のグラフに説明を加えず、原判決の別紙(三)の図に所論指摘のような不正確な点があつたとしても、原判決が右の図を援用して説明している公共の福祉の意味は理解することができ、且つ正当であると考えられるし、弁護人のグラフについては、原判決は間接にはその採り得ないことを文章をもつて前記〔38〕乃至〔41〕に引用したとおり判断しているのであるから、原判決には理由を附せざる違法又は理由にくいちがいあるものということもできない。

〔44〕及び〔45〕につて。原判決が、「人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険」ありと説明して、「猥褻文書」排除の理由としていること、いかに春本が悪影響を及ぼす文書であるにしても、それだけによつて、人類の滅亡が生じないであろうことはいずれも所論のとおりである。従つて、原判決の説明中「延いては人類の滅亡を招来する危険」との部分は行き過ぎであり、他の政治的、経済的、文化的諸原因が結合してかかる危険を生ずると説明すべきであるといわなければならない。しかし、原判決は、一、猥褻文書の意義の項で「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより、人が性的興奮を惹起し、理性による制御を否定又は動揺するに至るもので、自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対して嫌悪感を抱く文書」と定義すべきものとし、右の危険性を法律上の「猥褻文書」の成立要件とはしてはいない趣旨が窺われ、その限度において、右危険性を要せずして、既に「猥褻文書」となるものと解しておるのである。他方、弁護人の「猥褻文書」の定義も亦狭きに失すること既に説明したとおりである。従つて、原判決の右の部分には所論の違法はないものというべきである。

(その他の判決理由は省略する。)

(裁判長判事 下村三郎 判事 高野重秋 判事 真野英一)

検察官の控訴趣意

本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」上下二巻の中には原判決が認定した十二個所の性的描写の記述(同判決等別紙(一))があつて、この部分が刑法第百七十五条に所謂「猥褻の文書」に該当すること洵に明白であるに拘らず、原判決は、右猥褻文書の本質を誤断したため、同法の解釈適用を誤つた許りでなく、その理由にくいちがいを生じ、小山被告に対しては量刑の不当を、伊藤被告に対しては事実誤認(無罪)の結論を招来するに至つたもので到底破棄を免れないものと信ずる。

そもそも本訳書の原本となつた一九二八年オリオリ版は、後に詳述する如く著者ロレンス自身、その内容の極めて露骨なる性的描写の記述があるために、公刊しても世の反撃に会つて流布を禁圧せられるに至ることを予想し私家版として小部数を出版したものであるが、果して同書は彼の生国であるイギリスにおいてまづ禁圧せられ、次いでアメリカ合衆国においても同様の取扱を受けた。而して今日に至るまで英米両国においては英文の非削除本は発売頒布を許されていないのである。わづかに、フランスにおいて、異国語訳の本書が存在するに止まることを先づ想起しなければならないと思料する。以下各被告について順次、その理由を詳述する。

第一、被告人小山久二郎に関する部分

一、原判決は猥褻文書販売罪を規定する刑法第百七十五条の解釈を誤つた結果その理由にくいちがいを生じたものである。即ち同判決はその事実摘示の項において『被告人小山久二郎は東京都千代田区富士見町二丁目十二番地出版業株式会社小山書店の社長として出版販売業等一切の業務を統轄して居るものであるが、D・Hロレンスの著作なる「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳出版を企図し、伊藤整に之れが飜訳を依頼しその日本訳を得たる上、その内容に別紙(一)の如き性的描写記述あることを知悉し乍ら之れを上下二巻に分冊して出版し、昭和二十五年四月中旬より同年六月下旬までの間前記会社本店等において日本出版販売株式会社等に対し上巻八万二十九冊、下巻六万九千五百四十五冊を売渡し以て猥褻文書の販売を為したものである』との事実を認定し、これに刑法第百七十五条前段、罰金等臨時措置法第三条第一項を適用処断しているのであるが、その理由中被告人の主張に対する判断を示すにあたり、まづ猥褻の本質につき『思ふに人は個人として生存を完うすると共に種族を永遠に確保する為に生命の創造たる生殖行為を行うのである。この種族本能たる生殖行為は生物一般の為すところと同じであるが、現在にのみ生きる生物殊に動物は本能たる性慾の導くまゝに瞬時に満足することによつて種族保続のことは終るけれども、理性に基き文化を授受し向上を続ける人間は現在に生きるのみでは足らず過去より来り、未来に及ばねばならぬのであるからその営みは本能的、瞬時的ではなく精神的、永遠的でなければならぬのである。性慾は生殖行為の源であり人間に於いても動物と等しくその奥底に根ざしたものであるが、人に於ける性慾は動物のそれと異り理性によつて醇化され、自己を拡大し異性を視ること我の如くなすところの恋愛となつて居るのである。性慾を醇化せる恋愛は自然の帰趨として結婚となり、性慾が背景となり成立したる結婚はその性慾を浄化して恋愛に導くものである。元来性慾は旺盛でありこれが満足による快楽は大である為に耽溺の危険が最も甚しいのであり、動物に於ては発情期の存在等の如く自然的な調節が為されて居るが、人間は理性による自己制約を為し得る為に進化を重ねて現在の如く自然的制約を超越して性の営みを為し得るに至つたのである。性慾はこれを醇化し、調整し、昇華するときは人生を豊潤にし美化する上に欠くべからざる原動力となるのであるが、これを刹那的、享楽的の具とするときは乱倫となりてその人は亡び、社会の秩序は失われてついには民族の滅亡を来すに至るのである。人間と動物を区別する重大なる点は精神生活の有無である。精神生活は大脳の機能によるものであるが、その機能は抑制的、調節的な面と鼓吹的、煽情的な面があり、性慾についてはその抑制調節作用によつて克己、修養、羞恥、礼儀が生じ、そこに性の道徳が確立されたのである。性本能に対する理性による抑制作用は人間の人間たる所以の大本であり、これにより倫理が起り、文化も栄えるのである。性慾という最も強い慾望に於いて克己の実を挙げてこそ人間として万物に誇り得るのであつて、自然のまゝの慾望に引きづられるのでは何等動物と選ぶところはないのである。この理性による性慾の抑制を否定又は動揺せしめるような結果を招来するものは人類の幸福を阻害するものであるから断乎としてこれを排除しなければならぬ。ここに猥褻物に関する刑罰法規の存在理由があり、猥褻刊行物の流布の禁止に関する国際協定の締結せられた所以があるのである。性慾は生殖に対する衝動であるが、これが成立には肉体的、精神的の要件が必要であり、これを一言にして表現すれば緊張状態と発散状態である。緊張状態は神経、筋肉等の敏感なる反射作用によるものであり、この反射作用は (一)生殖線を中心とするホルモンの働きにより心神が敏感となり複雑なる反応が起り易くなり (二)五官から来る種々なる刺戟が動機となつて性の慾望が喚起され (三)中枢神経系の働きによつて起る複雑なる精神作用殊に性に関する情念、想像等によつて性慾はいや増すのである。従つて性の慾望するような五官からの刺戟や性慾をいや増す情念の喚起が、理性による性慾の抑制を否定又は動揺せしめる態のものであるときは、かゝる刺戟や情念等を起さしめるものは猥褻物であり、それが文書であれば猥褻文書となるのである。而して或文書がかかる結果を生む文書であるかどうかは各人について定むべきことであるが、之れを法律により猥褻文書として社会より排除する場合には社会的に評価しなければならないのであつてその標準は社会の通常人を以てすべきも、年令的には未婚の青少年に重点がおかるべきものである。蓋し青春期に於いては精神状態は感傷的さなり、心神が不安敏感となつて感情は転換し易く空想は旺盛に、衝動は泉の如く湧いて制御するを得ず、自ら求めて懊悩煩悶するにいたるが結婚によりて性慾を満足し得るに及び始めて理性による克己の余裕を生ずるのであるから、未婚の時期に於いては性に対する刺戟をつとめて避け、純潔なる雰囲気の中で育成すべきものだからである』(原審判決書四頁一二行目より同八頁八行目まで)と説き、ついで猥褻文書がいかなるものであるかの点について、児玉省、波多野完治、宮城音弥、等の証言を引用し『従つて弁護人主張の如く「悪意ある性関係の文書」「効果を期待したと判断される図書」と主観的(即ち作者の意図を観ること)に定義すべきもめではない。(従つて弁護人主張のような意図があつても、前記の効果を生じ難いものは猥褻文書とはならないのである。)而してかかる結果を招来する文書は先づ性慾の喚起を催す動機たる刺戟を与えこれにより性慾を刺戟興奮せしめる文書の内かかることからして理性による抑制を否定又は動揺する結果を招来するようなものに対しては吾人は嫌悪感を抱き、自ら羞恥を感ずるにいたるのである。蓋し宮城証人の供述によれば人間が青春期になり性感覚が起ると自然に羞恥感が起つてこれを抑制しようとする。これを肉体の知恵と呼んでいるのであり、これは生物学的のものであるが、更に後天的には道徳的、社会的に助長されるというのであり、性慾を刺戟、興奮され理性の制御を動揺せしめられるにいたれば自ら羞恥を感じ、かかる文書に対しては嫌悪感を覚えるからである。弁護人が「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ」というのは理性の制御を失つた結果を指摘するもので、ヤングが「堕落させるような」といつたのとその類を同じくするものである。斯様な見地からすれば猥褻文書は「一般的に性慾を刺戟するに足る表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し理性による制御を否定又は動揺するに至るもので自ら羞恥の念を生じ且つそのものに対し嫌悪感を抱く文書」と定義すべきである』(同判決書一〇頁八行目より同一二頁一行目まで)と謂い、出版自由と刑法第百七十五条との関係について『刑法第百七十五条の猥褻文書を前記の如く定義するときはかかる文書は公共の福祉に反するものといふべきであるから之が出版は基本的人権の行使と解し得ないのであつて、これを刑法によつて処罰することは基本的人権の侵害とはならないのである。所謂春本が刑法第百七十五条に該当する猥褻文書とせられることは異論のないところであるが、かかる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険があるからである。従つてかかる結果を招来する危険のある文書は所謂春本であると否とを問わず、刑法第百七十五条の猥褻文書として排除することが、社会共同生活の幸福を確保する所以であるというべきである』(同判決書一三頁八行目より同一四頁五行目まで)と断じ、次いで本件日本訳「チヤタレイ夫人の恋人」上下二巻の猥褻性に関し、まづ本書と春本等との関係について、『所謂春本が刑法第百七十五条に該当することは前記の如くであるから「チヤタレイ夫人の恋人」の伊藤整訳のものが、所謂春本と類を同じくするものか否かの点について考察するに証人渡辺銕蔵は「非常に猥褻な書物でよくもかような露骨なことが書かれたものだ」と思う程であり「その猥褻性は超弩級的で、淫猥な書物である」と供述し、証人ガントレツト恒は「今まで読んだものの内で一番汚い表現がなされて居り、読むと身の気のよだつ思いであつた」と供述した。証人波多野完治は、世に猥褻図書として定評のある「ガミアニ」「バルカン戦争」を取上げその一部と本件訳書の性描写の部分とを、文章心理学的立場より検討したところ、本訳書は所謂猥褻文書の要件を具備していないとの結論(別紙四)を得たと供述した。依つて該二図書(証六八、六九)を閲読するにその行文は所謂春本と異ならざるものであり、同証人の供述を詳細に検討したところ首肯し得べきものであるから、本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである』(同判決書一六頁八行目より同一七頁七行目まで)とし右の「ガミアニ」「バルカン戦争」を春本なりと断じた上本書のそれと異る点がある旨を説示しているのである。

而して本件訳書の存在意義については証人福原麟太郎その他の証言及び各種の本書に関する著作物の内容を引用した上『この小説をロレンスの傑作であるとすることは一般的とは言い得ないと思われるが、英文学殊にロレンスを研究する人々にとつて価値あるものとして遇せらるべきものであることは認め得るのであるから、本書は英文学殊にロレンスを研究する人々より奪うことは出来ないと言うべきである。然るところ、本件訳書はかかる研究家にのみ与うるものとして出版せられたものではなく、一般読者に対して無制限に購読せしめんとして出版せられたものであるから、英文学やロレンスの研究家以外の者に対する関係について、更に考察しなければならないのである。』(同判決書三二頁一三行目より同三三頁八行目まで)とし、所謂本訳書に対する読後感について、曽根千代子、吉田精一、野尻与顕、峯岸東三郎、岩淵辰雄、金森徳次郎、東まさ、森山豊、沢登哲一、森淳男、宮川まき、宮地直邦、駒田錦一、児玉省等主として一般読者層とみられる人々の各証言を比較検討し、右各証人の読後感にそれぞれ相違の存する点に論及し、『此の様に本訳書を読んで理解するところが、異なるのは何故であろうか。この点について桑原武夫著「文学入門」(証六四)には「人間は絶えず欲求或は興味、関心によつて環境即ち客観世界に働きかけてこれを変化し更に人間もそれによつて変化させられるので人間と環境との相互的変化作用が行われて一応の均衡状態に達したときそこに人間は一つの経験をするのである。この経験が完了するまでおし進められて欲求は満足するのであつて、この経験が完了したとき作品が生れるのである。作品を書くことは主観的なインタレストを客観世界との連関の内におくことであり、読者はこの作品を読むことによつてインタレストも感ずるのである。この様なインタレストは読者が作者と共通な基盤の上にあり、作品が伝達可能即ち作品の精神が読者に働きかけて影響を与えるものでなければならないのであつて「共通なもの」を読者が持たぬときは、それによつてインタレストを覚えないのである」とある。金森、ガントレツト、渡辺証人が本訳書を読んで共感を覚えないのは、ロレンスとその基盤を異にして居る為と思われ、土居、斎藤証人が専門的立場からロレンスの思想を知悉して居乍らも本訳書を共感し得ないのも「共通なもの」がないからであると思われる。』(同判決書四〇頁一一行目より同四一頁一三行目まで)とて本訳書に対する理解の異な所以を説明し、本訳者叙文にあるロレンスが「誰が何といつても、この小説が今日の人間に必要な真摯な作品であることを私は断言する」とあるのに対しエドウイン・シユア著「一九一四年以後の現代」エーシー・ウオード著「一九二〇年代」中橋一夫著「二十世紀の英文学」等がいずれもロレンスの本作品に対して酷い批判を加えている点を引用し、福原麟太郎、野尻与顕、斎藤勇、土居光知の各証人がそれぞれの見地よりロレンスの本作品の特殊な性質について言及する点を指摘しロレンスの書簡集、及び本訳書の「あとがき」のフリーダの言辞を引用した結果の結論として『ロレンスもこの小説は一般的には容れられないものであり、本訳書の序文にある如く「わずかな場所にこの作品の範囲は限られている」といふ特殊なものであることによつても裏付けられるものであるというべきである。』(同判決書四六頁八行目より同一一行目まで)として、作品としても本訳書が一般性をもつには余りにも露骨は性描写を含むものであることを強調しているのである。

ついで証人波多野完治の証言により心理学上の「素地」と「図柄」なる学術語について説明を加え本書が読者から如何に受取られるかについて、吉田健一、土居光知、森淳男、宮川まき、福原麟太郎、沢登哲一、斎藤勇、駒田錦一等の各証言、被告人伊藤整の供述を参酌し『これらのことによれば、読者の多数は本訳書を読んでその性的描写を「図柄」として受取るのであり、更にその図柄よりロレンスの思想を汲みとるまで至らないのが普通の状態と思われるのである。然るところ沢登証人は少数の生徒に教育的な立場から読書指導をして、共に勉強するのであれば意味があると思ふが、それには生徒や教師その他いろいろの条件がうまく行かなければ出来ないことであると供述したのである。このことからすれば、条件にして本訳書を理解するに適するものであれば、その性的描写により刺戟を受くるも、理性によりその性的興奮を制御し得ないような結果を招来せしめない場合もあり得るものと解すべく、本訳書はかゝる条件下の読者に与うることは有意義であるとしなければならぬ。従つて本訳書は条件の如何によりその理解を異にするものであるから、猥褻文書に頗る類似(紙一重ともいうべきもの)したものといふべきである』(同判決書五八頁一〇行目より同五九頁八行目まで)とて本書の刑法上の性質に言及し、続いてかかる性質をもつ本書と一般読者との関係について論旨をすすめ、証人波多野完治の証言中相良守次著「行動の理解」に現われているある書物を読んで猥褻感を受ける場合を分析して、その猥褻感(B)は読者(P)と書物並びに環境(E)の函数(f)であるとする定義を引用した上『本訳書の如く僅かに猥褻文書たることを免れておる文書は読者並環境の変化により、猥褻文書となることも考えられるので、その点について考察する。』(同判決書六一頁四行目より同六行目まで)とて、桑原武夫著「文学入門」及び毎日新聞の行つた「読者世論調査」の結果により『本書が如何様に読みとらるべきかについては青少年を主なる対象として考察しなければならないのである。その学歴について見るに前記調査によれば中学卒業者(新、旧中学、新高校)は半数以上の多数で、小学卒業者と高専卒業者以上は夫々同数位であるから、そのほとんどは中学卒業者以下であると言ふべく従つて難解なる本訳書は波多野証言によつて明らかである如く文学形象の第二層を掴む程度に読まれるのが通常であると認むべきである。このことは曽根証人は文学を愛好し相当多数の文芸書を読了して居り、読書態度も極めて眞摯であるが、本訳書を読みその性描写の部分を「花を構成している花弁の一枚々々をはつきり書いたというよりに受取つたので、それがないと花の幻影はわかるが花を構成している雄蕊、雌蕊の存在がわからないと同じことになる」と供述したが、十一ケ所の性交の描写については「大体同じものだと思つた。ロレンスは性描写が一ケ所であると暗示力に富みそこに目をつけて読むが、沢山書いてあると赤裸々となつて好奇心を起さずに読み、性の実能がわかると思つて何度も書いたと思ふ」と供述した』(同判決書六二頁三行より六三頁三行まで)点又文芸愛好である峯岸証人が検事指摘の十二ケ所の一つ一つがこのような意味を持つているかは考へなかつたと供述している点等からして、本書がその真意を汲みとり得ない程度の難解の書であることを肯定しているのである。かような内容を包む本書が一般社会にいかに受入れられるかについては同判決はまつその基盤をなす社会の状勢のうち出版界について証人石井満、岩淵辰雄、金森徳次郎、阿部真之助、宮地直邦、福原麟太郎、波多野完治、の各証言、押収に係る戦後出版物の内容、形式等からそれらの一般的傾向について『その装幀、挿絵は極めて煽情的で、その記述も露骨或は擽り的な物でいづれも煽情的である。従つてこれを購読する者は勿論店頭に於いて披見し或は瞥見した者は、公然と街頭に貼出されてあるところのこの種出版物の露骨煽情的なる広告、新聞紙上に掲載された内容目次の広告を瞥見することと相俟つて性的刺戟を累加されて居るものと認められるのである。』(同判決書六六頁八行目より同頁一三行目まで)となし、又青少年の性的虞犯化の原因として映画の重視すべき所以を説きことに戦後映画倫理規定なるものが定められ製作者側において風紀その他の面につき自主的審査を実施しているものの強制的な手段が認められていないため、時には斯る見地よりする社会的批判を甘受しなければならないような事態のあること、従つて社会的に好ましくない影響を及ぼしている事実をも認めた上、証人宮地直邦、宮川まき、福原麟太郎、駒田錦一、児玉省、森山豊等の証言により『戦後は性的不良出版物が多く現われ、街娼の出現等も加つて性に関する考え方は乱れて居り、思慮の不十分なる青少年に於ては性的衝動について理性による制御力を著しく鈍化せしめられて居るものと解すべきである』(同判決書六七頁一〇行目より一三行目まで)と謂い、戦後の青少年が性的堕落の面について危険な状況にあることを説き、かかる性的な事に関する社会の一般的混乱状態はこれを一面性意識の解放を意味するものであるという見解、出版物、映画街頭の出来事などは一見性知識の進歩を意味するというが如きは皮相の見解である事を力説し、証人吉田精一、神近市子、曽根千代子等の証言よりして『戦後の性の混乱は単なる混乱であり、ロレンスの所謂「乱痴気騒ぎ」に過ぎないのであつて性の意識はまだ「羞かしいもの」としてその脳裡に刻まれて居り、暴露的快楽を追うている状況であると解すべきである。従つて我が国に於ける性についての社会的意識はしかく解放されていないと認めなければならない。』(同判決書七〇頁一〇行目より同七一頁一行目まで)として我が国の性に関する伝統的な考え方が今日においてはしかく変革をうけてはいないことを肯定し、性教育の観点よりする本書の意義について証人波多野完治、ガントレツト恒、宮川まき、駒田錦一、神近市子、峯岸東三郎、岩淵辰雄、吉田精一、沢登哲一の各証言、被告人伊藤整の供述により、現在にあつては性は人間の本性に根ざした重大事であることは見極められているが、その教育の程度、方法について未だ帰一するところがないほど困難な問題であり、この点よりすれば『性教育との関係において本訳書が如何に厳しい取扱をさせられねばならぬかを示唆しているものである。』(同判決書七七頁六行目より同七行まで)と断じ、本書が一部論者の性教育の見地より価値あるものとするの説を一蹴しているのである。

この性教育に関連する性科学書との関係については『証人波多野完治、森山豊が指摘した如く通常猥褻文学は性を禁止されたものであるとし、快楽的に下等な態度でこれを取扱い、作中の人物に個性を持たせ、実在するが如く書かれているに反し性科学書は性を純粋に客観的に扱ひ作中の人物は人間といふ抽象的なもの(即ち人格のない物とも謂ひ得るもので親近感がない)としそれにより情緒的なものを受取らないような記述が為されて居るのである。従つて性科学書に於いても抽象的でなく人物に個性を持たせて記述することにより情緒的なものを読者に与えるにいたれば猥褻文学となる可能性は強いのである。従つて読者にインタレストを与えることを本質とする文学作品に於いて性の探求を為さんとするときは、その記述により読者が情緒的なものを、どの程度に受くべきかに充分なる考慮が払わるべきものである。』(同判決書七七頁一〇行目より同七八頁七行目まで)と結論している。判旨は更に進んで前に述べた函数式の一要因たる環境の一部として本訳書がその出版販売に当つてどのように取扱われたかを論じ先づ本訳書が上下二冊に分けて出版販売せられた点について『本書は性についてのロレンスの考え方が小説として書かれて居るのであるが、これは他の小説と異り上巻より下巻へと真面白なる態度で読むのでなければその意図を汲むことが困難であることは敍上の説明によつて明らかである。従つて本訳書が読者に与えられる際には如何にしたら真面目に読まれるかという点に重点をおいて考えられ、措置せれるべきであつて、手軽に、気安く買われるというが如きは却つて本書を誤読することへの拍車となるのである。右両名(小山被告及び証人高村昭)の供述によれば小山被告は本書を手軽に買われることのみを考え、一部の人は上巻のみしか読まないであろうこと、手軽さから通俗小説的に取扱うことから誤読するであろうことを考慮しなかつたものであるといわねばならぬ。小山書店出版目録や広告スクラツプ帳(証七四)によれば相当高価なるものが分冊でなく出版されて居ること、性科学者である前出「完全なる結婚」が非分冊であり、キンゼイ外二名著「男性の性行為」(証七三)は分冊であるが高価であること、右両著共に上質なる装帳製本がなされておることに比すれば、本訳書は出版者が手軽く取扱つたことにより一般読者が通俗小説的に受取るものとの算は極めて多いと認むべきである。』(同判決書七九頁八行目より同八〇頁一〇行目まで)と説き先づ本訳書の分冊販売がこれを通俗小説的に誤解される原因となつたものであることを論じ更にこれに関連して本訳書販売についての広告方法を検討し一例として昭和二十五年四月十六日附毎日新聞掲載の広告文に『「戦争のために性的不具となつた夫にかしづく貴婦人チヤタレイと坑夫の家に生れた森番メラーズとの恋愛を描いたこの小説は死を五年後にひかえたロレンスが全く発表を予想せず書いたものだけに、その愛慾描写は曽て何人も試み得なかつた程大胆である為に各国ともこれが出版の可否をめぐつて烈しい論争の渦を巻き起した」とある。』(判決書八一頁二行目より同六行目まで)もの、或は同月二十五日附大学新聞に『「この小説は戦争で性的不具になつた夫にかしずくチヤタレイ令夫人と坑夫の息子で森番をしているメラーズとの恋愛を描いたものであるが、その愛慾描写が余りに烈しいため、世界各国で大いに問題となつた。わが社はこれを全文伏字なしの完訳としたが、それはこの小説がエロスの世界を最も知的に最も厳粛に追究したからである」と』(判決書八二頁二行目より同九行目まで)した一文、その他読売新聞等三十紙に掲載された同様の広告文を引用し『而してこれらの広告は、本訳書を愛慾描写の烈しい小説であると評価し、死をひかえて、発表の意思なく、赤裸々に書いたもので、世界中で出版の可否を烈しく論議されたという経歴をもつものであるというのであるから、読者はこれを低俗なる性慾小説と速断する虞は多分にあるのである。更に同年五月二十七日附読売新聞の広告には「驚くべきはチヤタレイの売行である。三週間ベストセラーズのトツプを切つてチヤタレイ旋風を捲き起している。」「数多い最近の飜訳小説のうちこの一ケ月間に売行のよかつたもののトツプはチヤタレイ夫人の恋人である。」とあり、同年六月十一日附都新聞、同月十三日附図書新聞、同月十四日附読売新聞の広告には「八週間ベストセラーズのトツプを切りつつある問題作」とあることからしても、本訳書が広告により低俗化せられたとの感を深くするものであり、伊藤被告が「煽情的な、刺戟的な広告をすると夫婦雑誌のような種類のものと誤解し、起訴状のように春本的にとられる危険性がある」と懸念したことが、事実となつて現われたものというべきである。文学作品は作者の人格の現われであるから、その作品は個別的に読むべきでなくその一生を通じ、全体として見るべきものであつて、思想的作家についてはそのことは重要であり殊にロレンスの如くその思想が生活そのものであり、その間に幾変転かして居るものにとつては特に必要である。証人沢登哲一がロレンスは文学的にも人間的にも優れたところがあるから、その人格に触れさせようとするならば選集でなく全集で出すべきであると供述し、証人土居光知がロレンスの思想はその作品を、作られた順序に従つて読めばわかると思うが、この小説を一番目に出したことは真剣に読ませる上から言えば順序が違つていたと思うと供述したことはこのことを指称するものと思われる。小山被告は単に原稿が早く出来たことのみの事情から本訳書を第一回に売出し、予ねて出版を予定されていたという啓蒙的出版物たる「ロレンス研究」をそのはるか後にいたつて発行したことは、この点について何等の配慮をなさなかつたものである』(同判決書八四頁一二行目より同八六頁まで)と断じ、続いて判旨は『前敍認定の如き環境下にこの書を出版するについて、小山被告は何等の措置を為さなかつたことはエイ・シイ・ウオードの指摘する如く「疲労しきつた熱病患者にビフテキとビールを与えるような無思慮な」企図であり、かくして出版された本訳書は読者の多数には低俗なる性慾小説として、春本的に受け取られるであろうことが認められるのである。』(同判決書八六頁一三行目より同八七頁四行目まで)と結論し、尚同書下巻に挿入せられたアンケート第五項に「あなたが若し検閲官だつたら本書を発禁するか」という点から小山被告においても本書が刑事問題化することを予め知つていたものと認め得るとなし、而して本書が所謂猥本として読まれたことについては証人阿部真之助、森淳男、駒田錦一、城戸浩太郎、高村昭の各証言並びに工藤房太郎提出の販売一覧表より認め得る販売の翌月なる同年六月に入つて販売部数が急激に増加した点及び前記アンケートに基く回答書による内容を分析説明し又『小山被告が本訳書の広告によつて多少性的好奇心を持つであろうがこの書は性の問題を解決する為のものであるからそれは当然のことであると思つていた。広告によつて本書に大胆な性描写があると読者に思わせて広く読ませたいと云う気持即ち広告によつて橋渡しをするという気持であつた。本訳書の売行きは、初は上、下共に一万部乃至三万部位であると予想していたと供述したことも考え合せると本訳書は相当広範囲の読者に春本的取扱を受けたものと認められる』(同判決書九二頁三行目より同九行目まで)とて本書により真にロレンスの言わんとするところを理解する読者が極めて小範囲で大多数は本書を春本として購読したものであることを認定し、尚証人吉田精一及び波多野完治の『本訳書を春本的に読む傾向は起訴によつて惹起されたものであるというのである。』(同判決書九三頁一〇行目より同一一行目まで)との証言を引用しつつも、尚証人曾根千代子、小山被告の各供述、前記毎日新聞の調査等よりして本書は、『起訴以前において既に猥本的に取扱われそれによつて爆発的売行を呈していたものと認むべきである。』(同判決書九四頁八行目より同九行目まで)とし、起訴の前後を問わず一個の猥褻文書として取扱われていたことを肯定しているのである。尚判旨はその結論として『本訳書を読んで、その結論としてその性的描写記述を「図柄」として受取るところの多くの読者は行動直前的とも謂うべき性的興奮を覚え理性により制御するを得ざるか著しく困難を感ずに至るであろうと思われるのである。而して曾根証人が、本訳書の内容についてコニイとクリフオードとの間に子供があつたとしてもコニイがクリフオードとの虚偽の生活をいやだと思えば子供をすてて家を出て行くことは当然である。人間は子供の為に自分の性を殺すことは悪いことである。子供に対して幾らかの愛情を持つていても偽瞞に満ちた生活を離れたかつた場合に自分を犠牲にすることは絶対に悪い。本書のテーマと逆で男性が女性を捨てることも、それによつて男性が幸福になれば肯定するのである。私はロレンスの考え方に全く同感であると供述したことは「行動の直前的状態」とも解すべきであろう。』(同判決書九五頁九行目より同九六頁六行目まで)とて所謂行動の直前的状態ともいうべき一例を示し次いで『而して同証人の如く積極的に理解せんとして本訳書を読むものは、性的興奮を覚えても理性に依る制御に乱されることはないであろうが、之に反して積極的に理解しようとしないで本訳書を読む者は、この行動直前的状態ともいうべき点について如何なる影響を受けるであろうか』(同判決書九六頁七行目より同一〇行目まで)とてこの点については証人沢登哲一、宮川まき、駒田錦一等の証言よりして『敍上の如き環境下に販売せられたる本訳書は、続者の性慾を刺戟し、性的に興奮せしめ、理性による性の制御を否定又は動揺するに至らしめるところのものとなり、ここに刑法第百七十五条に該当する所謂猥褻文書と認められるに至るのである。』(同判決書九七頁八行目より同一二行目まで)となし、ここにおいて始めて本書が猥褻文書となつたものであると断じているのである。

よつて右諸論点につき以下その違法を指摘しこれを明らかにしたい。

(一) 先づ原判決は刑法第百七十五条の規定する猥褻文書の解釈を誤つた違法がある。

即ち原判決は本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」の販売行為に対し、刑法第百七十五条を適用処断しながら本件訳書が本質的には猥褻文書ではないと判断した違法がある。

原判決はこの点について検察官指摘の如き性的描写を含むことを前提としつつ本訳書をロレンスの傑作であるとは称し難いも英文学殊にロレンスを研究する人々より奪うことのできないものであるが、本訳書はかかる研究家にのみ与うるものとして出版せられたものでなく、一般読者に対し無制限に購読せしめんとして出版せられたものであると認定し、更に本訳書は一般的にはたやすく受け容れられないものでありその存在はわづかな場所に限定されているものであつて読者の多数は本訳書を読んでその性的描写を「図柄」として受取りそれより思想までを汲みとるに至らないのが普通の状態と思はれるので条件にして本書を理解するに適するものであれば、その性的描写により刺戟を受くるも、その理性によりその性的興奮を制御し得る場合もあり、かような場合は本書を与うることは有意義であるから猥褻文書に頗る類似(紙一重ともいうべきもの)はしているが、本質的には猥褻文書ではない。しかし本訳書が判旨の如き環境下においてしかもこれを分冊して安価に販売し、たやすく一般読者に入手しうるようにしたこと、又本訳書出版に際しなされた広告が低俗な続者の性的興味を喚起させるようなものであつたためその続者においてこれを春本的な意味で購読したため刑法第百七十五条に該当する猥褻文書となつたものであると判示した。而しながら、本質的に猥褻文書にあらざる文書が販売方等その取扱の如何によりその性質を変ずるものであろうか。この点についてはまづ猥褻文書とは何かということを考えてみなければならない。

原判決は猥褻文書について「性慾を刺戟しその人を性的に興奮せしめ理性による制御を否定又は動揺せしめるような表現のあるもので、人はそれに対して嫌悪感を抱き自らは羞恥を感ずるような文書」であるといつている。

この趣旨は検察官が原審公判廷において述べた従来の大審院判例の示すところと根本的には同じものであり又昭和二十六年五月十日最高裁判所判決に示された「猥褻とは徒らに性慾を興奮又は刺戟せしめ且普通人の正常な性的羞恥心を害し性的道義観念に反するものをいう」とした論旨とも異るものではない。即ち猥褻文書の本質を決定するには客観的にその文書について観察すべきでありその作者の意図は勿論販売者の意図そのものは全然関係のない問題であるといわなければならない。

上記判例の説くところの中心をなすものは、性的描写の記述を含む文書を一般社会人の良識に照し法的にいかにこれを評価すべきかという問題に関するものであつて、右の論旨に明らかなように人が猥褻文書に対し嫌悪感を抱いたり羞恥を感ずるというのは、かかる文書がときに人の一面にひそむ低俗な興味に投じ私かにこれを読もうとする場合があるとしても、人はまた同時に一個の社会人として乃至は家庭において子女の教養にあたる父兄としての立場もあり、かような立場からいえば反対にかかる文書を読むことを恥じ、その公刊を排斥せんとするものであつて、検察官が引用した大阪高等裁判所が猥褻文書について、「健全な常識人の良識に訴え、それが性慾を刺戟し、嫌悪の情をそそるものありとすれば、換言すれば善良な家庭団欒の席において読むにはばかるところあり、見るにはづるところあるもの」であると判示しているのは正に猥褻文書を人の前記後者の立場において評価すべきものとしたというべきである。

本件は日本訳「チヤタレイ夫人の恋人」中の十二個所に及ぶ性的描写の記述が我国現時の良識からみて肩をひそめさせるような露骨なものであり、まさに既存の文芸におけるこの種記述の垣を越えること甚だしく、したがつてそれが猥褻文書に該るものであることは、いやしくも良識をもつてこれを読む者にはたやすく判断し得られるものであると信ずるのである。

この問題の箇所が露骨極まるものである点については後述伊藤被告の犯意を論ずる際に該述するのであるが、ここでは終始ロレンスの傍にありその最もよき理解者であるその妻フリーダでさえも「私は又誰一人書いたり言つたりしようとしないああした秘密事を直視したり書いたりする彼の大胆さに驚嘆した」(後記三笠書房版「チヤタレイ夫人の恋人」の伊藤整の序文より)とあるのは洵によく本書の性的描写の本質を喝破したものというべきである。

かかる十二個所に及ぶ性行為とか性器に関する記述部分こそまさに判示のいう「理性による制御を否定又は動揺せしめるような表現」といえるのである。

すでに検察官は原審論告においても、るる述べている如く(猥褻文書販売罪の項参照)この種猥褻文書が販売頒布等公然性をもたず又これを予定(販売目的所持)しない場合には法律の干渉するところではないことは刑法第百七十五条の文理に照し極めて明白である。刑法は猥褻というようなその言葉自体に一種の可罰的意味を連想させる表現を用いてはいるけれども、猥褻という文字は刑罰法的にも無色のものであつてたとえば男女間の性行為は一般的にはそれ自体何等違法性をもつものではない。しかしそれが不特定又は多数人の知り得るような状況のもとで行わるるときには刑法第百七十四条の公然猥褻行為とされるのであつて、右の公然性をもたない場合にはこれを犯罪とされることはない。しかし行為自体はこの場合でも猥褻行為といえるのである。即ち猥褻文書にせよ、猥褻行為にせよ、それぞれの場合により出版物と人の行為という相違点からして、その公然性の内容に若干の差異があるとしても公然性を付与されて、はじめて犯罪となる点においては何等差異はないのである。

従がつて、猥褻文書販売罪に問われるような文書は、販売頒布されると否とを問わず猥褻文書であることに変りはないのである。刑法は趣味としてこの種文書を所持することを処罰していないのは前述公然性の欠如という点から当然のことであるが、しかしこの場合でもその文書自体が猥褻文書であることに変りはないのである。この猥褻文書たるの性質を決定する基準はすでに述べたが、苟もそれがその時代の良識と照して猥褻文書として取扱われる内容のものであるかどうかは客観的に定まつていることであつてかかる本質はその文書自体が当然帯有しているものと謂わなければならない。

この趣旨からいえば猥褻文書に所謂猥褻性というのはその文書がもつている客観的性質で一種の静的な観念であり、これに販売行為という動的要素が加わることによつて猥褻文書販売罪が成立するのであり、この二つの要素は概念的に、はつきりと区別せられ得るのである。

このことは刑法第百七十五条が「猥褻ノ文書図画其他ノ物ヲ」「頒布若クハ販売シ」と規定している文理からも当然引出され得る結論である。

しからば本訳書「チヤタレイ夫人の恋人」上下二巻もまたかような前提のもとにその猥褻文書なりや否やを決定するのが当然の論理的順序でなければならない。

しかるに原判決はすでに記述したように「本訳書の性描写は所謂春本のそれと異なるものであると認むべきである」といいながら「本訳書は条件の如何によりその理解を異にせられるものであるから猥褻文書に頗る類似(紙一重というべきもの)したものというべきである」とし、その理由として一般読者中多数の者は本訳書の性的描写に惹きつけられ強い刺戟をうけるからであるとするのである。而して判決書はこれに該当する部分として起訴状に記載されている検察官指摘の十二個所の部分をそのまま判決書別紙(一)に引用しているのである。

即ちこれを要約すれば原判決は一面においてかかる十二個所に及ぶ描写記述の部分は一般読者の多数が猥褻文書として読むために一般に公刊することは好ましくないものであると認め乍ら他面、もし条件にして本訳書を理解するに適するものであればその性的描写により刺戟を受くるも理性によりその性的興奮を制御し得ないような結果を招来せしめない場合もあり得るものと解すべきであるとして、本訳書が猥褻文書たることから僅かに免れ、これと所謂紙一重のものであるとの結論を出しているのである。

原判決が所謂春本であるとしている「ガミアニ」「バルカン戦争」の如きもその作品が書かれた時代の風俗資料として風俗史的意味から珍重する者も居るであろうし、又浮世絵乃至泰西名画中にもいわゆる春画の範疇に加うべきものが多く存在することは明らかであり、これも一面風俗画として又人体の構図の表現技術として美術的見地から観賞する者も少くはないであろう。

かく観じ来れば万人がひとしく理性による制御を困難ならしめるというような判示所論の猥褻文書は恐らく存在しないであろう。従つて刑法にいう猥褻文書なるものはあり得ないことになるのである。そこで一般読者のうちの多数が性的な記述表現に興味をもつて読み、それから性的刺戟を受け一般的にいつて理性による制御を困難ならしめる体の文書は、即ち猥褻文書であると謂わなければならない。換言すれば多数の者に所謂春本的な意味で読まれるような内容をもつているものは猥褻文書であるとしなければならない。

本来猥褻文書とは認められないものが、その販売方法乃至広告の内容によつて猥褻の素地をつくり上げそれによつて青少年層に春本的に読まれたから猥褻文書となつたとする原判決の所論は、刑法第百七十五条に所論猥褻文書の解釈としては、これを法律論的に見て、到底首肯し得ないのである。右所論の販売方法その他の事実はこれによつて多くの部数が販売されるに至つた原因と認むべき事柄であつて、単に犯罪行為の悪質な情状として考慮すべき事項に過ぎないものである。

以上説明したように原判決は多数販売等の事情即ち検察官が動的な要素として説明した事実が加わつてはじめてそのものが猥褻文書たるの性質を帯びてくるとしたのであり、これは要するに猥褻文書と猥褻文書販売罪との関係を誤解したことに起因するものであるといわなければならない。

仮に判決のいうところを容認するとした場合一冊の文書が一般に公刊販売され当初は極めて少数の者のみ購読されていたが漸次その内容が喧伝され一般多数人から購読されるようになり最後に爆発的売行を示し所謂低俗な読者層の手に渡るようになつた場合の如き、一体何時からその書が猥褻文書に変じてくるとするのであろう。

もし判示のような解釈をとるとするならばその文書の販売方法や販売部数の如何によつて或は猥褻文書とされ或はそれを否定されることとなり法的安全性を害することは蓋し甚大なものがあろう。要するに広告の内容が大胆な性的描写を含むという如き煽情的なものであつたということは出版者のその書の内容に対する認識の表われであり、他面販売の方法その部数等と相俟つて犯罪行為の情状の資料と考うべきものである。

かような犯情認定の資料たるべきものをとつて猥褻文書そのものの性質を決定する資料としたことは重大な誤りであると信ずる。

本訳書が一般青少年層を含む多数の読者から専ら性的な興味をもつて所謂春本的に読まれ性道徳の面で好ましくない影響を与えるようなものであることはすでに述べたところで明らかであり、原判決も「その内容に別紙(一)の如き性的描写記述ある」ものとし、検察官指摘の十二箇所の部分はこれをそのまま採用し判決書にも引用しているのであるから、本訳書が猥褻文書であることを肯定せざるを得なかつたことを暗に示しているともいえるのであつて、この点からしても寧ろ端的に本訳書が本来猥褻文書に属するものであると断定すべきであつたと思料する。

しかるに本来猥褻文書でないものを小山被告がこれを猥褻文書として売出したため「小山被告の手により」猥褻文書とされるに至つたというが如き原判決の理論は明白な矛盾であり、かかる矛盾を含みながら前記の如くこれに刑法第百七十五条の猥褻文書販売罪を適用したことは同条の解釈を誤つたものであると断ずべきである。

(二) 次に原判決には以下順次述べるような理由くいちがいの違法がある。

原判決は猥褻文書について「一般的に性慾を刺戟する表現があり、これにより人が性的興奮を惹起し、理性による制御を否定又は動揺するに至るもので自ら羞恥の念を生じ且そのものに対して嫌悪感を抱く文書」であると定義し、所謂春本はまさにこの定義に該当するものであるから刑法第百七十五条にいう猥褻文書であると断定しているのである。しかして前述の如く本件「チヤタレイ夫人の恋人」の猥褻文書としての性質に言及し、本訳書は所謂春本とその記述方法を異にするの故をもつてこれを春本にあらずと結論し、この結論を導き出す前提として証人波多野完治のこの点に関する証言を全面的に肯定しているのである。しかしながら判旨にもあらわれているように、右波多野証人は証拠として提出された東京書院発行の日本版「ガミアニ」及び「バルカン戦争」なる二書をテキストとしその内容の記述方法と本件「チヤタレイ夫人の恋人」の間における相違点を形式的に指摘し、これを唯一の資料として右の結論を出しているのである。しかして判旨は右の「ガミアニ」「バルカン戦争」が「世に猥褻文書として定評ある」ものといつているだけで何が故に所謂春本として取扱われ、一般的に猥褻文書として定評があるのであるか、何等本質的な理由を明らかにしていないのである。いやしくも本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」の猥褻性を決定するにあたりそれを重要なる判断の基礎にするには前掲の二書が何が故に春本となるかその内容本質について確たる判断を示さなければならないのにこの判断を示さずして漫然「本訳書の記載方法と比較して」と謂ふに止り、その本質に触れなかつたことは、その本質が果して異るものであるか、どうかの基本的な判断が明確を欠くのであつて結局人をして首肯せしめる所以ではない。殊に前記の如く原判決が漫然採用している証人波多野完治の証言によれば、同証人は何等の根拠を示すことなく右二書を猥褻文書なりとしており、かかる前提のもとに同証人の専攻する文章心理学者としての立場から右二書を本件「チヤタレイ夫人の恋人」との間の描写記述の異同を論じたものと思われるが、そもそも何が猥褻文書なりやは判旨もいうが如く、これを社会的に評価しなければならないもので、「その標準は社会の通常人をもつてすべきも年齢的には未婚の青少年に重点が置かるべきもの」であつて、かかる文章心理学者のしかも首肯し得べき理由をも示していない一専門家の見解を前記の如く判断の基礎としたことは判示自体が自己撞着に陥つたものであると共に採証の法則にも反したものというべきである。右二書が猥褻文書として定評あるものであることは原判決の認めるところであり、又本件訳書の性的描写、記述の内容と右二書との間に若干の異同があることは検察官においても争はないものであるが、それはその作者が異りその取扱う主題が異ることから生ずる当然の結果であるに拘らずこの点について判旨は記述方法を同じくしないと謂ふ理由で直に本訳書を猥褻文書に非らずとなすことは、恰も主題と描写、記述の方法が、右の二者と等しく又は同一でなければ猥褻文書に該当しないことを前提とするもので、その本質を不問に付した結論は、論理を誤ること洵に明白であると信ずる。

本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」が文学作品なりや否やは猥褻文書たる本訳書の性質と必らずしも相矛盾するものでなく従つてその文学性を論議するものでないことは、原審の全公判を通じ検察官の終始明らかにしているところであり、この点判旨は「所謂春本が刑法第百七十五条に該当する猥褻文書とせられることは異論のないところであるが、かかる文書が猥褻文書として排除せられるのは、これによつて人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来する危険があるからであつてかかる文書は所謂春本であると否とを問わず刑法第百七十五条の猥褻文書として排除することが、社会共同生活の幸福を確保する所以であるというべきである。」と謂い、所謂春本以外にも猥褻文書の存在することを肯定していながらなお本訳書「チヤタレイ夫人の恋人」についてはその性描写は所謂春本と異るものであるという結論を出しそれによつて本訳書が猥褻文書でないという判断を導き出そうとする自己矛盾の理論を展開しているのは、要するに判旨が猥褻文書とは所謂春本をいうのであり、偶々秘密出版による春本のようなものをこそ猥褻文書の基本的な型としている極めて狭隘な既成観念に固執している証左であつて、外形上文学書のレツテルを冠して公刊される出版物に対する実質的内容に対する判断の不徹底を露呈したものといわざるを得ない。

ことに右波多野証言によれば、該証人は検察官が起訴状に指摘した箇所と同証人の独自の判断から右指摘箇所に相応するものとしている記述箇所を選んでこれを比較対照し論評を加えている。しかしながらその双方の性的描写を通読し且つその論評を検討するに必らずしも明確であるとは謂い難く、判旨所論のように軽々に右証言を首肯し得べきものとして採用することはできないのである。前述の如く出版物の猥褻性の評価は社会の一般読者の感覚を基礎とし右読者によつていかに受取られるかということを判断の基準としなければならないのであつて、一部の文章心理学専攻者や文芸家等の如き専門家の見解を判断の基礎とすべきでないことは判旨所論のとおりであるにも拘らず、同時に判示はかかる専門家の特殊の見解にとらわれてをり、判断の矛盾を露呈しているのである。

思うに猥褻といい、性的興奮ということは、かような専門的分野の者の学術的乃至理智的な分析判断によつて定まるべきものではなく、刹那的、感覚的な問題なのである。従つて通常の社会人が波多野証人の如くあらゆる猥褻文書を心理学的専門知識を以て分析検討するようになれば、そこには猥褻文書などというものは最早存在の余地なく、刑罰法令の対象とはならないであろう。

果して然れば、前記の如き資料に基き、判旨が卒爾として本訳書が所謂春本と異るものであるとの結論を出したことは論理の矛盾を暴露したものであり理由にくいちがいがあるものというべきである。

以上の理由により原判決は破棄を免れないものと信ずる。

第二、被告人伊藤整に関する部分

原判決は猥褻文書販売罪における猥褻文書並びに刑法第六十条の共犯の法理を誤解し被告人伊藤整に対する犯罪事実を誤認した結果同被告人に対し無罪の言渡をしたのは明らかに違法である。

即ち原審判決書は第四項「伊藤被告の刑事責任」の部分において被告人に対する本件公訴事実につき判断を示すにあたり『本訳書は小山被告の手により猥褻文書として販売されたものであるが、伊藤被告はこれに共犯として加功したかどうかについて考察する』とし、まづその前提として『作者或は飜訳者は作品をつくることによつてそのことを終り、その作品を販売することは出版者の為すところであるが、作品は読者に読まれること即ち販売されることを予定してつくられるものであるから、作者と出版者は、作品を介し、販売なることを共にするものと解し得られるのが通常の事態であり、その共にすることの態様により、これを刑法上の正犯又は幇助犯と認め得るのである』(判決書第九七頁一三行目から同九八頁六行目まで)とて出版発行における著作者乃至飜訳者即ち原稿提供者と出版業者との役割を法律的に説明した上『然るところ「チヤタレイ夫人の恋人」は所謂春本とは異り本質的には刑法第百七十五条の猥褻文書とは認め得ないものであるが、敍上のような環境下に本訳書が販売されたことによつて猥褻文書とせられたるものと認むるを以て、訳者たる伊藤被告はかかる環境下のものとして本書を販売することに積極的な加功したかどうかを審らかにしなければならないのである』と謂い『証人高村昭は本訳書上巻の原稿を伊藤被告より受取つたとき同人は、完訳したが、出すかどうかは小山書店に一任すると言つた。それは性的描写のところが誤解されるのではないかとの考慮からであると思つた。上巻発売後の昭和二十五年四月末頃伊藤被告より、本訳書の短い広告文を取上げて、長い文章だと間違はないが、性を厳粛に、知的に扱つたことを書かずに大胆な描写であるとだけ書くと誤解され易いからと注意されたことがあつたと供述し、小山被告は伊藤被告に「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳を依頼したところ、同人はこの書にはこういうことが書いてある。過去に外国で問題が起つて、色々と論争され、非難もあつたから、慎重に考慮して完訳のままで出版するなり、多少の手加減を加えるなりよく考えてくれと言つた。伊藤被告は読者がこの書の性描写のところをロレンスの考えて居るように正しく受け入れるかどうかを懸念しての申出と思つたと供述し、伊藤被告は、小山被告より「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳を依頼されたときに、私はロレンスの性格、この書の性格、殊に先に誤解されたことがあること、現在では英文学では第三番目に論ぜられる位で、これをぬきにしては現代英文学は考えられないほどの重要な作品であることを説明し、全部訳して、お目にかけるから、それを読んで慎重に考えた上で小山書店側の決意に於いて完訳を出版するなり、多少手加減をするなりしてくれと話した。この手加減というのは性的描写の部分で、同じ意味の日本語の、どれを使うか、原文とか、ラテン語とか、学術語にするか、或は削除するかという意味であつた。その後に小山書店の者に「広告はカストリ雑誌のように煽情的な感じを絶対に出さないようにしてくれ、誤解されるから」と注意したが、それはこの書は性を取扱つたものであるからそのことを書くのはよいが、下手な文章で書くと煽情的となり夫婦雑誌のような種類のものではないかとの誤解の下に読み起訴状のように春本的にとられる危険性があると思つたからである。この原著が世に出たときは世間の反抗を受けたので、現在では一流の批評家は猥褻であるとは言わないのであるが、これを飜訳するのには気をつけねばならぬと考え、思想的な固苦しさと文体とを合致するように直訳体をとつたのであると供述した』(判決書九八頁一一行目より同一〇〇頁一二行目まで)と認め、その結論として『伊藤被告は本訳書を正しく読みとるものを読者と想定し、これらの人々にのみ買われることを希望し、その具体策を小山被告に申出でたことが認められる。』(判決書一〇〇頁一三行目より同一〇一頁二行目まで)といひ『小山被告は日本出版協会の有力会員であり高級出版物を多数に出版して居るのであるから、伊藤被告が小山被告を信じ右の申出を以て足れりとしたことは諒し得るところである。従つて伊藤被告は本件販売行為が、前敍の如き環境を利用、譲成して為されたことについては法律上加功しなかつたものと解すべく刑法上共犯と目することは出来ないのである。』(判決書一〇一頁三行目より同七行目まで)となし、伊藤被告が本件出版販売自体に協力した事実は肯定しつつもその法律上の共同加功即ち共犯なることを否定しているのである。尤も伊藤被告が敍上小山被告の犯罪行為が相当期間継続していたことに対し伊藤被告が何等の積極的な措置をとらなかつた点については『本訳書がその後爆発的売行を呈するにいたつたのであるから、さきに懸念したことの現れであることに考えを致しその対策を講ずべきに、ことここに出でなかつたのは文学を愛する者として怠慢であるとのそしりを免れないのであるが、これは文人としての徳義上のことに属し法律上の責任を問うべきことではないのである。』(判決書一〇一頁七行目より同一一行目まで)となし、本書が昭和二十五年四月上旬発売より同年六月二十七日猥褻文書販売被疑事件として検挙されるまで前示の如き夥しい部数の販売されたことにつき、積極的にこれを阻止しなかつた点について法律上何等の責任なきものとなし無罪の言渡をしているのである。

しかしながら該判決は冒頭掲記の違法あるものと思料するので、以下においてその理由を明らかにする。

(一) 本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」上下二巻は猥褻文書であること。

本訳書が刑法第百七十五条に規定する猥褻文書に該当するものであることは、すでに被告人小山久二郎に対する控訴趣意の項において詳述したので茲にこれを引用するものであるが、既に指摘した如く原審判決が「チヤタレイ夫人の恋人」は所謂春本とは異り本質的には猥褻文書とは認め難いと結論し、本訳書が小山被告の手によりはじめて猥褻文書として販売されたものであるとしたのは既述の如く原判決が所謂春本なるものが、猥褻文書であり、又猥褻文書は春本に限られる如く錯覚し、本訳書を春本にあらずと前提しながら、尚かつ本訳書の本質的な猥褻性はこれを否定し去ることができなかつた結果、論理的矛盾を犯しつつも右の如き結論に導かれたものであると信ずる。しかも判旨は所謂春本について明白なる定義を示さず卒爾として本訳書が春本と異る旨の判断を下しているのであるが、所謂春本にあらざる猥褻文書の存在することは敍上すでに明らかにしたところであり、この点については原判決もその第二項において『従つてかかる結果を招来する危険のある文書は所謂春本であると否とを問わず刑法第百七十五条の猥褻文書として排除することが、社会共同生活の幸福を確保する所以であるというべきである』(同判決書一六頁二行目より同五行目まで)としていることと矛盾するのである。

これを要するに原判決は伊藤被告人が本件出版に協力した歴然たる事実はこれを左右し得ないことを認めつつ、且つ伊藤被告人の本訳書出版に関する共犯としての刑事責任を排斥するため殊更に該訳書を本質的猥褻文書にあらざるものとし、小山被告人の手によりはじめて猥褻文書として販売された結果、刑法第百七十五条の猥褻文書となつたという無から有を生ずるが如き非論理的な結論に到達したものであると信ずる。

(二) 伊藤被告は本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」につき猥褻性の認識をもつていたこと。

猥褻文書販売罪における犯意はその文書の内容に対する認識即ち本訳書についてこれをいえば検察官指摘の如き十二ケ所が本訳書中に含まれていることを認識しこれを出版販売すれば犯罪事実の認識に欠くるところなきことは検察官の一貫して主張しているところであり更に進んで右の十二個所の内容が法律に所謂猥褻性を具備するや否やの価値判断的認識は犯意認定上これを必要とせざるものであると解する。而して本訳書は伊藤被告の飜訳にかかるものであり全文その手によつて書かれたものである以上、前記十二個所が本訳書中に含まれていることの事実の認識においては何等欠くるところがないものといわなければならない。

しかしながら検察官がこれに附加し論ぜんとする所以のものは伊藤被告においては右の如く必要にして十分なる犯意の要件を充足している以上に右の猥褻性の点に関しても、尚その認識を有していたものであることを強調したいのである。

伊藤被告が各大学において英文学を講じ殊にロレンスの研究に従つたことはその原審公判廷で供述しているところであり、殊に昭和十一年イギリスセツカー版を底本とせる削除版「チヤタレイ夫人の恋人」全一冊を三笠書房より飜訳出版したことは原審公判廷において提出せる証拠により明らかである。

しかし以上の点よりするも「ロレンス書簡集」にも表われている如く、一九二八年六月出版された非削除版たる本訳書原本オリオリ版がその内容に露骨な性的描写の記述あるの故を以て原著者の生国イギリスにおいて反響を捲き起し、ロンドン警視庁がこれを差押えたこと、又一九二八年八月同書がアメリカ合衆国郵政局において同様の趣旨により移動を禁じられ今日においても該非削除版は右両国において公刊を禁じられていることは原審証人三宅一郎の証言を俟つまでもなく篤と諒知していたものと認めざるを得ない。さればこそ前述三笠書房版「チヤタレイ夫人の恋人」中その飜訳者伊藤整の序文として「一九二五年に彼はイタリーのフローレンスの郊外で別荘を借りて住みそこで「チヤタレイ夫人の恋人」を書き始めた。この作品の原稿を書き改めること三度に及んだといわれている。余り直截な表現を含んでいたため、ロレンス自身もそれを発表する決意がつかずフリイダに相談した。フリイダはこの内容が世に容れられはしないではないかと心配したが貴方が芸術家として信ずる処があつて書いたのなら発表したらいいではないかと言つた。それでロレンスも発表の決心をしフローレンスの小さな本屋オリオリから最初の限定版を出した。英国では発表禁止になつたが後に剪除版を出した。」と書いてあり、尚同書末尾に訳者の言葉としてロレンスの死後その妻フリイダがフローレンスにおいて、「チヤタレイ夫人の恋人」を書いていた頃のことを次のように述べているとし「彼は画を描くことを楽しんでいた……どんなに彼はそれに熱中したことであろう。……それから彼は「チヤタレイ夫人」を書いた。朝食――大抵七時かそこらにした――がすむと彼は本とペンとクツシヨンを持つて犬のジヨンを供にミレンダ荘の背後の森え入つて行くそして昼食には書き上げた原稿をもつて帰つてくるのだつた。私は毎日それを読んでどんな風にしたらそれら全てが彼の頭に浮んでくるのか不思議に思つた。私は又誰一人書いたり言つたりしようとはしないああした秘密事を直視したり書いたりする彼の勇気と大胆さに驚歎した「チヤタレイ夫人」は二年間というものロレンスが緑黄地の地にバラ花を描いた古い箱の中にしまつておかれた。私はその箱の前を通つた時、度々こう考へたものであつた。「この本が何時かここから出る時があるだろうか?」ロレンスは私に聞いた「僕はこれを出版したものだろうか、それともこれは又罵言と憎悪をしか齋らさないものかしら?」私は答へた「貴方はそれをお書きになりそれを信じていらつしやる、それでいいのだわ、是非出版なさいよ」で、ある日、私達はそれについて詳しくオリオリと話し合つた。私達は古い印刷機をもつている小さな旧式の印刷屋さんを尋ねた。そこには本を半分印刷するだけの活字があるきりだつた――こうして「チヤタレイ夫人」は印刷された。印刷が出来上ると「チヤタレイ夫人」――もしくは私達の言葉を使つていえば「私達の夫人」の夥しい堆積がオリオリの店に積み上げられた。余り沢山の数に見えたので私はおそれをなしてこう言つた位だ「これをみんな売ることはとても出来ないに相違ないわ」騒動が起る前に大部分が売れて行つた。最初アメリカへ送つたものが送り先へ届かずその次に英国から悪罵が送られた……しかしそれは彼の最後の大努力が成し遂げられたのである。」(足立重氏訳)ロレンスがこの小説を書き始めたのは一九二六年彼が四十才の時である。フローレンスのオリオリ書店から出販されたのは一九二八年である。この小説については原稿が三つ作られた。彼は一九三〇年に死んでいるから死に先立つこといくばくでもなかつた。フリイダが書いているように彼はこの小説を始めから世に行はれる目当があつて書いたのではないらしい。だが彼がこれだけのことをそれにも拘らず書かなければならぬ内的必要を感じていたということは特筆すべきことだと思う。この小説は版行される当を作者がもてなかつたほどの神聖な露骨さで有名なものである。その原版は今パリーのオデツセイプレスから発行されている。しかし英国ではこの本は許されていない。ここに私が使用した原書は危険な個所だけを取り去つて特に英国のセツカープレスから流布されている「公認英国版」である。それだけ原著者の意思は充されていないものであるが、この作品の小説としての力量、形態を知るにはこれで足れりといつていいだろう。とにかくロレンスはこの小説で語らんとしている思想はこの「公認英国版でつくされているのである。」とある。すなわちこれによれば伊藤被告自身が「神聖な露骨さで有名である」と評価し又「危険な個所(検察官指摘の十二個所を含む)と謂い、尚フリイダの言葉として「私は誰一人書いたり言つたりしようとしないああした秘密事を直視したり書いたりする彼の勇気と大胆さに驚歎した」とある点等よりするも本書の内容が所謂猥褻性をもつことについて予め認識していたものといえるのである。これを知りつつ敢えて完訳して小山被告の出版に協力した伊藤被告こそロレンスと同様フリイダの言える如く「彼の勇気と大胆さに驚歎した」ということばを呈せらるべきであり、このことにつき原審証人福原麟太郎は「伊藤君は、おそらくそういうものも戦後の日本の社会に対して与えたいということをお考えになつてどうせ先例があつて問題になるに相違ないところの書物をあえてお訳しになつたのであろうということを考えましてむしろその勇気に敬服しておるのであります」(公判速記録十一回一四頁)と供述している点よりみるも、英文学者間で極力さけられていた本書を敢えて出版した点につきその暴勇を言外ににほわせ、又本件の如く刑事問題となるのも又やむなきことを肯定しているのである。

かく本訳書の出版に先だちその書の来歴につき伊藤被告がすでに十分なる認識をもつていたことを詳述したのであるが、本書の出版にあたつても同被告は前記訳者の言葉と同趣旨の「あとがき」をその下巻に掲載しておるのである。而して本訳書出版にあたつて同被告は小山被告側との間に本書の完訳出版についてはその猥褻性をめぐりかなり危虞の念をもち詳細打合せをしている。このことはすでにあげたように原判旨にも小山書店総務部長高村昭の証言より「証人高村昭は本訳書上巻の原稿を伊藤被告より受取つたとき同人は、完訳したが出すかどうかは小山書店に一任すると言つた。それは性的描写のところが誤解されるのではないかとの考慮からであると思つた。」との供述部分、又小山被告の供述より「小山被告は伊藤被告に「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳を依頼したところ、同人はこの書にはこういうことが書いてある。過去に外国で問題が起つて、色々論争され、非難もあつたから、慎重に考慮して、完訳のままで出版するなり、多少の手加減を加えるなりよく考えてくれと言つた。伊藤被告は読者がこの書の性描写のところをロレンスの考えて居るように正しく受け入れるかどうかを懸念しての申出と思つた」と、小山被告に対する伊藤被告の申出部分を摘示し、次いで伊藤被告の公判廷における供述より「伊藤被告は小山被告より「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳を依頼されたときに私はロレンスの性格、この書の性格、殊に先に誤解されたことがあること、現在では英文学では第三番目に論ぜられる位で、これをぬきにしては現代英文学は考えられないほどの重要な作品であることを説明し全部訳してお目にかけるからそれを読んで慎重に考えた上で小山書店側に於て完訳を出すなり、多少の手加減をするなりしてくれと話した。この手加減というのは性的描写の部分で、同じ意味の日本語のどれを使うか、原文とかラテン語とか、学術語にするか、或は削除するかという意味であつた。その後に小山書店の者に「広告はカストリ雑誌のように煽情的な感じを絶対に出さないようにしてくれ、誤解されるから」と注意したが、それは、この書は性を取扱つたものであるからそのことを書くのはよいが、下手な文章で書くと煽情的となり夫婦雑誌のような種類のものではないかと誤解の下に読み起訴状のように春本的にとられる危険があると思つたからである。この原著が世に出たときは世間の反抗を受けたので、現在では一流の批評家は猥褻であるとは言わないのであるが、これを飜訳するのには気をつけなければならぬと考え、思想的な固苦しさと文体とを合致するように直訳体をとつたのであると供述した」とある部分を摘示しているが、これら判決が引用した供述の内容を一貫するものは伊藤被告等出版関係者の本訳書内容の性的描写部分に対する危惧、換言すればその内容の所謂猥褻性につきこれが公刊についての苦慮であり、それにもかかわらず敢えて完訳出版した所以のものはすでに述べた如く小山被告の商業主義に伊藤被告が同調した結果であるといわなければならない。すなわち前述の伊藤被告の供述よりしても同被告は本訳書が春本的によまれる素因をもつていると認めているのであり、同被告の言える如く、なるほど一流の批評家はこれを猥褻であるといわないかも知れないが、それは一般読者とは別のものであり、この言葉の裏をかえせば一流批評家以外の者は所謂猥褻的な意味でよむという結論に達するのであり、伊藤被告はこの事実を認識していたことを認めることが出来る。

(三) 本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」上下二巻を対象とする猥褻文書販売罪は伊藤、小山両被告の共謀による行為であること。

原判決は小山被告に対する有罪判決中の事実摘示欄において「被告人小山久二郎は東京都千代田区富士見町二丁目十二番地出版業株式会社小山書店の社長として出版販売等一切の業務を統轄しているものであるがD・Hロレンスの著作なる「チヤタレイ夫人の恋人」の飜訳出版を企図し、伊藤整に之れが飜訳を依頼しその日本訳を得たる上、その内容に別紙(一)の如き性的描写記述のあることを知悉し乍ら之れを上下二巻に分冊し、昭和二十五年四月中旬頃より同年六月下旬までの間、前記会社本店等に於いて日本出版販売株式会社等に対し上巻八万二十九冊、下巻六万九千五百四十五冊を売渡し以て猥褻文書の販売を為したものである」との事実を認定して、小山被告には罰金十五万円の言渡をしているが、伊藤被告に対しては同判決第四項において、小山被告の右の犯罪行為に法律上加功しなかつたもので、刑法上共犯と目することは出来ないとして無罪を言渡していることは既述の通りである。およそある書物が出版販売されるにあたつては、その書物の原稿を提供する著作者又は飜訳者とそれを出版発行する出版者の協力を必要とすることは自明の理であり、もしその出版物が公刊販売されたことにつき刑法上の猥褻文書販売の責任を問う場合にはその出版者は勿論その出版を前提として右の原稿を提供した著作者等もその共犯たるの責任を免れ得ないものであることは、この著作者と出版者の行為のいづれか一つを欠くも本件の如き犯罪行為は決して遂行することを得ないためでありこの両者の行為が相俟つて終局的な目的に到達することは理の当然であり、両者の間に軽重をも附し得ない点において、それは刑法第六十条の共同正犯たる関係にあるものといわなければならない。

さればこそ原判決も「作者或は飜訳者は作品をつくることによつてそのことを終り、その作品を販売することは出版業者の為すところであるが、作品は読者に読まれること即ち販売されることを予定してつくられるものであるから、作者と出版者は、作品を介し、販売なることを共にするものと解し得られるのが通常の事態であり、この共にすることの態様によりこれを刑法上の正犯又は幇助犯と認め得るのである。」としており、この両者の行為の法律上の性質については、その幇助犯たる場合ありとする点を除いては正当であると思料する。原判決はかような前提に立ちつゝ前記の如く本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」の出版につき伊藤被告がこの日本訳をした上、小山被告に与へたことを認定しているのであり、右に掲げた小山被告に対する犯罪事実を卒直に読めば伊藤被告の刑事責任は当然に結論づけられるところである。それにもかかわらず同判決主文末項で伊藤被告に無罪の言渡をしているのは到底容認できないものである。

かような矛盾する結論に到つたのはすでに述べた如く原判決が本件において猥褻文書の法律的性質を誤解した結果、本訳書が未だ販売に供せられる以前においては猥褻文書たるの性質を有せず、小山被告の手により猥褻文書として販売されたためにはじめて猥褻文書たる性質を具有するに至つたものと判断し、その前提に立つて本件の販売行為そのものに加功しない伊藤被告にはその共犯たる責任なしとするのであるが、かような猥褻文書に対する法律解釈が許さるべきものでないこと小山被告の項において論述した通りである。上述の両被告に関する協力行為はまさに共同正犯たる法律的事実を充足しているものでありこのことは明白に肯定せらるべきものと信ずる。

而して本件訳書出版行為につき右両被告が具体的に協力関係にあつたことのほかにはなほ進んで本訳書が猥褻性をもつ点についても同様相互に意思の連絡のあつたことはすでに伊藤被告の猥褻性の認識の項において引用したところによつて明らかである。即ち伊藤被告は本件の原稿を小山書店側に渡すにあたり同店総務部長高村昭や小山被告との間に本訳書中の性的描写の記述部分の公刊について詳細検討した点からするも、上述の如く伊藤、小山両被告は単に本訳書中の性的描写の記述部分の公刊について詳細検討した点からするも、上述の如く伊藤、小山両被告は単に本訳書の出版に協力したというに止まらず、相互に猥褻性の認識をもつてその点について特に打合せしたことになるので、猥褻文書の出版販売についても十分の共謀事実があつたものと認定すべきである。

しかるに原判決は前述の如く、むしろ伊藤、小山両被告の本件訳書に対する猥褻性の認識の資料とみるべき前記伊藤被告の小山被告に対する広告文の内容に対する注意や、性的描写の部分を伏字にするとの申出を伊藤被告が小山被告の販売行為に協力しなかつた資料として同被告に有利に引用しているのは全然その価値判断を誤つたもので、伊藤被告に対し既述の如き予断を抱き強いてかく解したものといわざるを得ないのである。即ち本件訳書「チヤタレイ夫人の恋人」上巻が発売された期間は昭和二十五年四月中旬より同年六月下旬までであること原判決の認定したところであるが、同判決は「上巻発売後の昭和二十五年四月末頃、伊藤被告より本訳書の短い広告文を取上げて、長い文章だと間違ないが、性を厳粛に、知的に扱つたことを書かずに大胆な描写であるとだけ書くと誤解され易いからと注意されたことがあつた」とする証人高村昭の証言を引用しているが、これはすでに述べた如く、昭和二十五年四年十六日附毎日新聞その他に掲載された「その愛慾描写は曽て何人も試み得なかつたほど大胆である」等の広告文に関する伊藤被告の発言を意味するものであろうが、同種の広告はその後もあとを絶たず、同年五月中まで及んでいるのであるが、かかる広告に対して小山書店に対し、更に伊藤被告より厳重な抗議をしたことは証拠上存在しないのである。伊藤被告は東京工業大学講師であり又文筆業に従う者である以上、都下の新聞や主要な雑誌を散見し、この種の広告文をも発見するであろうから、同被告にして真に文学を愛するもののみに購読されることを欲するならば、何故小山書店に対し自己の意に添わない広告文を引続き掲載することを禁止し、それに応じないなら本件出版物の検印を拒み発行の停止を求めなかつたのか。又本訳書の売行についても、小山被告の供述している如く上下各一万乃至三万の売行が通常の事態であるのに、工藤房太提出の販売一覧表によれば、発売以来逐次尻上り的に売行が上昇しその間上巻は同年六月十日まで前後四版下巻は同月十五日までに三版を重ね結局合計十四万部以上という意外の爆発的売行を示したのであるから、もし伊藤被告の弁解する如くであるならば、同被告は其の出版を限定し、その後版の同訳書奥付欄には、訳者たる自己の検印を拒絶しこれが出版を中止せしめている筈でなければならないと思料する。判旨の如く「伊藤被告は本訳書を正しく読みとるものと想定し、これらの人々にのみ買われることを希望し」ていたものであるならば右の爆発的売行をみて、その志に反するものとし、中途においてその販売を阻止する方法はあつたわけである。

原判決はその説くが如き「環境を利用、醸成して為された」本件猥褻文書販売行為に、伊藤被告は関与しなかつたとするが、右の事実によつてこれをみれば、その認定が誤りであることは洵に明白であつて、伊藤被告はまさしく本件犯罪行為につき共同正犯の責を負ふべきものである。なお個々の販売行為そのものについても一冊々々その販売に協力しており、判旨のいう爆発的売行の後即ち猥褻文書にその性質を変じたのちも尚その販売行為に関与していることは証拠上絶対に否定できないところである。

仮に百歩を譲り、原判決の右の説くところを容認するとしても、叙上の如き全部数の販売行為に協力した伊藤被告の所為はまさに「さきに懸念したことの現れであることに考えを致し、その対策を講ずべき」であつたのであり、この対策の有無はまさに法律的な判断の対象とさるべき事項である。

然るに同被告は、これに対して何等の対策を講じた事跡もないのみならず、前示の如く上下巻合計十数万部に検印しその売上金の七パーセントの印税百九十八万円余を取得した上積極的にその販売行為に協力しているのである。

この伊藤被告の責任について原判決は「ことここに出でなかつたのは文学を愛する者として怠慢であるとのそしりを免れないのであるが、これは文化人としての徳義上のことに属し、法律上の責任を問うべきことではない」としてこれを不問に附しているが如きは、小山被告の前示責任とも考え合わせ決して人を納得せしめる所以のものではない。換言すれば原判決は確定した事実に対し法律を適用しなかつた違法があるものといわなければならないのである。以上論述した如く伊藤被告に対する原判決は多岐にわたる誤謬を含んでいるものであつて到底破棄を免れないものと信ずる。

弁護人正木ひろしの控訴趣意

〔32〕 (一一頁)には「嫌悪感」、「羞恥」について、錯雑せる批評をしています。

この頁の文を判読するに、「羞恥」とは青少年等が「青春期になり性感覚が起ると自然に羞恥感が起つて」というように、生理現象としての「ハズカシサ」を意味し、「ハズカシサ」を起す文書に対しては、何びとが嫌悪を感ずるのか、「吾人は嫌悪感を抱き、自らは羞恥を感ずる」、「自ら羞恥を感じ、かかる文書に対しては嫌悪感を覚える」とあつて、その主体も不分明であり、羞恥、嫌悪の実体はハツキリしません。しかもこの二つの用語については、第一回の公判以来屡々検察官と弁護人との間に問答があり、弁護人は新憲法の立場から、この判例に用いられた二語を生かすには、「嫌悪」とはヒユーマニテイの自覚から、これに反する物件に対する排除の意味とし、「羞恥」とはかかる物件を、同胞が提供することに対する人類的自責の感以外にはあり得ない旨を、第一回公判以来、持ち続けて来たもので、第三十一回公判の証拠申請の時に多少詳しく説明したものでありました。しかるに原判決は『性慾を刺戟、興奮され理性の制御を動揺せしめられるにいたれば自ら羞恥を感じ、かかる文書に対しては嫌悪感を覚えるからである。弁護人が「性の種族本能としての人道的職分を否定又は忘却せしめ」というのは理性による性の制御を失つた結果を指称するものでヤングが「堕落させるような」といつたのとその類を同じくするものである』と記載していますが、弁護人とヤングとは共に、ヒユーマニテイ違反という知的、客観的批判によつてする評価を重視するもので、決して原判決の如き感覚的の現象を自己に起すことを以つて言つているのではありません。原判決に「各人について定むべきこと」とあるのとはちがつて、有識者のみが真に判断し得る標準をもつているのであります。

この点においても判決は弁護人の主張を甚だしく誤認しているといわなければならず、結局判決に掲げた刑法第一七五条の猥褻文書の定義はナンセンスに非ずんば低級卑俗な性慾に対する被害妄想者の告白以外の何ものでもありません。かくの如き定義に従つて基本的人権を覆すということは公共の福祉の立場から許さるべきことではないと信じます。

〔33〕四、『出版自由と刑法第百七十五条』の部に記された部分について、(十二頁――十六頁)

この部で原判決が記していることは、弁護人側と体系的な理論で、根本的の対立を示していることであり、一方が正しければ、他方は全く間違いということになり、その中間はあり得ない性質をもつています。主任弁護人は最終弁論「その一」、「その二」の中に弁護人等主張の体系的な法律理論を述べ、その立場に立つて二人の被告人の絶対無罪たるべきことを全公判を通じ立証したもので、弁護人等は判決が若し弁護人の主張する法律理論に同調するに非ずんば支離滅裂に陥る以外に本件の行方はあり得ないことを確信していました。果して右の確信の如く、判決は右に記して来た通り、支離滅裂な記述に陥つています。その原因は判決のこの部に現われている憲法の解釈が誤つているところから由来するものであり、それを記述の順に従つて左に指摘いたします。

〔34〕 (十二頁)には原判決は憲法第二十一条と刑法第一七五条との不可分の関係に対する弁護人の主張を述べ、次に右の第二十一条が憲法第十一条、第十三条、第九十七条によつて犯すことの出来ない永久の権利たることを確認していますが、その次に、『憲法がかゝる自然権を法上の権利として確認するに至つたのは、この基本的人権を認めることが人の社会生活をして価値あらしめるからである。』といつています。『社会生活をして価値あらしめる』とは一体何を意味するものでしようか、これは何等の特定の意味をもたないナンセンスです。

〔35〕 (十三頁)には、憲法第十二条記載の『「公共の福祉」の本来の意味は』として『人間の共同生活に於ける幸福をいうのである』と断定しました。これも甚だしい抽象名辞で且つ主観的です。〔弁護人は主任弁護人が最終弁論「その二」の『一〇、「公共の福祉」と「ヒユーマニテイ」との関係』(八四頁以下)に陳述した理論を全部こゝに援用し、弁護人主張の、「公共の福祉」の意味はかゝる抽象名辞でないことを明らかにしておきます。)

〔36〕 次に原判決は「幸福」の本体を「人間は自然的には身心の慾望を満足し、理性的には人格を向上せしめることによつて幸福を感ずるのであるが』と論じ、幸福に二種類あることを主張しました。すなわち (1) 自然的(心身の慾望満足)(2) 理性的(人格の向上)の二種です。しかしこの分類は全く非科学的です。何故なら、この分類では、「理性」を「心身の慾望満足」の中から閉め出してしまいました。「理性」は「心」の満足でないことになり、且つ「不自然」のものであるということになつたのです。

従つて、「人格の向上」というものも、不自然或は少なくとも自然に対立する存在となりました。このような性悪説的の議論も、嘗て歴史的に存在したことはあります。しかし「人格の向上による幸福」というのは、いかなる幸福を指すのでしようか、「心境が高くなる」ことを指すのでしようか、或は社会的位置が高くなることを云うのでしようか、甚だ不分明な主観的非科学的抽象概念です。

〔37〕 次に『人間の人間たる所以を自覚すれば、自他共に平和と幸福とをもたらす如く行動すべきである』とし、それが『社会共同生活の幸福』であるというのです。「幸福」とか「平和」とかいう名辞は、主体と内容を限定しなければ、全くナンセンスとなるものです。云い換えると原判決は、憲法上の「公共の福祉」を、二、三回云い直して、少しづつ言葉の意をズラし、説明したかの如く、見せかけながら、実は同語類似のものを反覆しただけで、ボカシたに過ぎません。結局何も言わなかつたのと同じにしたのです。

〔38〕 そして突如として『こゝにいう「公共の福祉」は我が憲法上の概念であるから、その「公共の福祉」は、日本国に於ける国民の共同生活に於ける幸福と解すべく、何が公共の福祉であるかは、我が国の現在と近き将来を基準とし、一般社会通念に従つて定むべきものである』と、脱兎の如き早業をもつて宣言しました。すなわち、「公共の福祉」は『日本の現在の近い将来』を頭において、『一般社会通念』で、『共同生活の幸福』が何であるか定めるべきものだと天下り的におしつけるのです。前の頁では基本的人権を『人類が天賦の権利として有したもの』とか『自然権』とか『永久の権利』とか、『侵すことは出来ない』とか列べながら、次の頁では、『人類』が『日本人』となり『永久』が『現在と近い将来』となり『侵すことの出来ない』が『一般的社会通念に従つて定む』と早変りしてしまいました。これが果して、論理に忠実なるべき裁判官の態度であり、憲法の正しい解し方でしようか。若し、たゞ小山久二郎を罰すれば足るという目的だけに終始するものならば、憲法の方を縮めて、基本的人権をタワイもないものにし、ここ数年間の日本社会の一般通常人の幸福感に奉仕するところの、戦時中に配給された「火たたき」みたいなものにしてもいいでしよう。

けれどもそれでは国家百年の計を樹つる為めには役立ちません。それをするには現社会の風習や制度を批判したり、改革したりしなければならぬことが起ります。原判決では『弁護人の主張は人類の理想そのものが我が憲法上の公共の福祉となすもので、現実の国家社会を直視しないうらみがある』(十四頁――十五頁)と非難し、主任弁護人が第二回公判冒頭陳述以来、最終弁論に至るまで綿密に論証し来つた公共の福祉に関する理論や説明を、この一語を以つて葬り去りました。『現実の国家社会を直視しないうらみがある』……あゝ何という含みの多い言葉でしよう。しかし裁判は政治でもなく作文でもない筈です。

弁護人が『現実の国家社会を直視』しているかいないかということは、弁護人に社会批評家としての能力があるかないかという個人的の問題であつて、何等憲法の条文の論理的な解釈とは関係のないことです。

〔39〕 弁護人は一個の市民として日本の現状に対し憂慮の念を持つことは敢て原審裁判官の指示をまつまでもなく、この裁判記録全部の中にも現われていると信じています。ことに最終弁論においては、〔その一〕、〔その二〕共に現実の日本の国家社会について、これを直視し、憲法が愈々重要なる意味をもつて来たことを具体的理論的に力説したつもりであります。(最終弁論その一『この裁判の意味』、その二『結論』参照)

原審判決は、それでもまだ弁護人の直視が不足だというのでしようか。苟くも判決において弁護人の認識能力を否定する以上、既に弁護人の陳述した現実の日本の国家社会に対する見解を理論的に打ち破らなければなりません。それを不問にしておいて、いきなり弁護人の国家社会に対する認識能力を否定することは、憲法と法律と良心だけに従うべき裁判官の判決理由としては、甚だしき横路であり、無意味であると信じます。無意味な因縁をつけて弁護人の理論をしりぞけ、裁判官の独断をおしつけることは、判決理由としては不備です。

〔40〕 しかも弁護人はその主張する「公共の福祉」の意味について、何等時局に対する弁護人の主観的批評を混えて立論したものではなく、純粋に憲法の各条文並びに憲法前文自体より演繹して、その意味を確定させたものであります。その論証は第二回公判主任弁護人の冒頭陳述以来、第四回公判、第八回公判、第十六回公判、第十九回公判、最終弁論その一、その二等に於いて、詳細に論証して居るばかりでなく、証人中にも土居証人の如く第十八回公判(一七四頁-一七六頁)に主任弁護人と同意見を述べ、また法学博士末川博氏が主任弁護人の冒頭陳述に同意を表した記載が第八回公判調書中、弁護人の証拠調請求に対する検察官の意見の中に、「右は速記録中の正木弁護人の冒頭陳述に対する同意並に検察官の釈明に対する駁論のように見うける」として述べられています。ことに主任弁護人は、最終弁論その一の五五頁から六十九頁にわたつて、五枚のグラフと、その説明書とをもつて(最終弁論〔その一〕の末尾に添附)最も冷静、綿密に説明いたしました。この説明以上に現代日本を、法律的に直視観察し且つ整頓して発表することを、公判で求めることは無理でしよう。そのように、最大の努力を仏つて「公共の福祉」を理論的に立証をした主任弁護人に対し、原判決が、何等理由を述べず、これを葬り去ろうとすることは、憲法の軽視であると共に裁判から良心を追出してしまうものであります。

〔41〕 原判決は、「公共の福祉」という新憲法の指導理念の中から「人類性」と「永遠性」とを駆逐し、これを「局所的」なものとし、「現在及び近き将来」だけのものとしてしまいました。そのような近視眼的の時間と、空間とを限界とする対象の中からは、正義や真理に対する追究の念は起つて来ません。ただ便宜主義と俗論、或いは権力主義だけが巾をきかすことになるだけであります。憲法第九七条にあるような「人類の多年にわたる自由獲得の成果」とか「これらの権利は、過去幾多の試練に堪え」とか、「永久の権利」というようなものとは全く種類の違つたタワイもないものになつてしまうばかりでなく、新憲法下の法律体系は崩壊してしまいます。不統一なバラバラのものになつています。これこそ前記判決(六頁三行目)に書かれた「民族の滅亡を来すに至る」動因となるものと信じます。

〔42〕 (一四頁全面)にわたつて原判決が述べていることは、非常に入り込んだマギラわしい表現をしていますが、詳細に検討すると、怖るべきトリツクが使用されて居るのを発見するでしよう。

すなわち、主任弁護人の最終弁論〔その一〕においてグラフを以て説明した「公共の福祉」の解釈(主任弁護人最終弁論〔その一〕の五十五頁-六八頁)に対し、原判決は一指も染めることが出来ず、これをその侭不問にしておいて、別に判決は(別紙三)なるものを掲げました。この図を見ると、真中に一本黒線で「理想」と記したものが通つています。これは「方向」を示しているものか、「状態」を示しているものか、わかりません。両者を同時に示すことは出来ません。その図の下部に(平和時における状態)として、理想線に近くジクザクした折線があります。しかしこの折線は、いつも中心線と殆んど同じ角度をもつて交つています。そして「平和時」の部分においても、その方向は一つも上部の「理想」という文字の方向には向いていません。それは(行過)とある部分の折線と同じです。ただちがうのは、中央線の附近にあるか、中央線から離れて描かれているかというだけです。若し下部の(平和の時における状態)というものを、善とするならば、「理想」は中央線上の各部分の上に移動しているものと考へなければなりません。これは「理想」というものの常識に反します。またこの中央線の両側に点線があり、それより左右に出たところを(行過)と記してあります。(行過)が左にも右にもあるところを見ると、右左共に「善悪」とは関係ないことが推知されます。すなわち、この左右のジクザクは何等質的な善悪とか健不健の意味はもつていないことがわかります。

主任弁護人の示したグラフにおいては、曲線上の如何なる部分もy1という(各自が任意に定めた)人類の向上方向線との角度によつて健不健が評価され、しかも基線y1の上方は常に向上、下方は常に堕落として明らかにされていました(これらの説明は原本にゆずる)。しかるにこの(別紙三)には、折線上の如何なる部分にも、向上、堕落、善悪の意味はありません。あたかもこの折線は、一匹の猿が人間の真似をして「試行錯誤」法を或る時間、繰近へしている無善悪のグラフに似ているだけです。この図は全く何ものをも線として表現していない出鱈目のものです。そしてその両側にある点線に自動制御線(ソーシアルコントロール)と記してあります。あたかも道路における車道と人道とのようになつていますが、この道幅は何等、全体の図とは関係のつけられない藪から棒の棒に過ぎません。両側にあることによつて、それが何等、善悪、健不健と関係のないことは前記の通りです。

すなわち、この図は何等憲法とも関係ずけられていない寄木細工式のものです。若しこの基線の左右に、善悪、健不健をつけると、主任弁護人のグラフBの曲線y2と同じ意味になります。原判決は同じになることを嫌らつたか、ともかく左右共に同価値として表現しました。すなわち、この(別紙三)なるものは、善意に解釈しても、「極端を忌み、中庸を貴ぶ」といつたくらいの非近代的の、瞬間的の気分満足を強いて図表したと見るの他ありません。私人として、中庸を貴び、極端を忌むことは、一こう差し支えないことですが、これからハズレたら、刑罰をもつて矯正しようとする処に、怖るべき憲法否定が生じます。この点線存在の根拠として『この右傾し左傾することは進歩の過程であるが、そこには自らなる社会的制御があり、左右えの振動は一定の巾員を保つのが通常の状態である』としていますが、「自らなる社会的制御」とか「通常の状態」とかは、何等憲法上に根拠をもつ概念ではありません。

「自らなる社会的制御」は、自ら社会的制御に委かせればいいことであり、「通常の状態」は可もなく不可もなく、強いて人々の行動を通常の状態におさえつけておく憲法上の理由はありません。

〔43〕 これに対し判決が「国家社会に自ら存する巾員内の行為が公共の福祉に寄与するもの」、「外側線外への行き過ぎの行為は公共の福祉に反するもの」とし、「自らなる巾員、外側線の何れにあるやは歴史とその時代の文化によつて明らかにせらる」ということは、責任を歴史とか、その時代の文化とかいう捕捉し難い概念と結びつけることによつて、憲法上の公共の福祉を、アイマイにし、論議より先に刑罰を与え、官尊民卑的傾向を温存せんとする怖るべき非民主性の現われと見るの外ありません。憲法第十二条に記載する公共の福祉が、このようなものであることはできません。原判決が基本的人権の根拠に誤りを犯し、従つて基本的人権の意味を誤り、その結果刑法第一七五条の範囲や性質を誤解していることは右の(別紙三)によつて明らかであります。それによつて判決理由が全部不統一、非論理的になつて来るのであります。

〔44〕 (十五頁――十六頁)に、「人の性慾を刺戟し、興奮せしめ、理性による性衝動の制御を否定又は動揺せしめて、社会的共同生活を混乱に陥れ、延いては人類の滅亡を招来するに至る危険がある」と記しているのは、弁護人主張の、「猥褻文書の定義」をそのまま踏襲することも出来ず、さりとてこれを論理的に否定することも出来ない窮地に陥つた原判決がこれを逆に敍述し、強いてヒユーマニテイまで結びつけようと無理をしたことから起つた矛盾を表わす表現であります。

〔45〕 いかに春本が、ヒユーマニテイに違反する文書であつたとしても、それによつて、社会共同生活の混乱が起つたり、人類が滅亡するというようなことは、被害妄想に過ぎません。この不条理は、「延いては」という言葉の濫用から来ているのです。この言葉は、何等論理的の必然性を表わしているものでなく、単なる妄想的因果関係を現わす言語魔術に過ぎません。

以上の如く『出版の自由と刑法第百七十五条』の部に記された判決理由は、全部が「くいちがい」或いは非論理によつて構成されている不法のものと信じます。

(その他の控訴趣意は省略する。)

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