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東京高等裁判所 平成5年(く)62号 決定 1993年4月21日

主文

原決定を取り消す。

検察官の被請求人に対する刑の執行猶予の言渡し取消請求を棄却する。

理由

本件即時抗告の趣意は、原審弁護人彦坂浩一名義の「即時抗告の申立書」に記載されているとおりであるから、これを引用する。

趣旨は、要するに、原決定は、執行猶予者保護観察法五条所定の遵守事項違反を理由に被請求人に対する刑の執行猶予の言渡しを取り消したが、被請求人が平成四年一一月八日に犯した札入れ窃取の件は、被請求人の精神分裂症が発症している時期の犯行であり、これが遵守事項違反に当たるとしても、その情状は重いとはいえず、また、現在、被請求人に必要なのは病院での治療であり、刑罰ではないことにかんがみると、刑の執行猶予を取り消すこととした原決定の判断は誤りであるから、この取消しを求めるというのである。

ところで、原決定は、取消しの理由として「被請求人は執行猶予者保護観察法第五条所定の遵守事項及びこれを守るための指示事項に違反し、善行を保持しないことが明らかであり、その情状が重いことも是認できる」と説示するのみで、被請求人のどのような行為が遵守事項のどの点に違反し、どのような理由でその情状が重いと認められるのか、具体的に述べていないけれども、検察官作成の「刑の執行猶予の言渡し取消請求書」の記載によつても、被請求人が同法五条二号所定の遵守事項に違反した事跡は窺われず、また、指示事項に違反したのみでは直ちに遵守事項違反に当たらないことにかんがみると、結局、被請求人が右請求書記載の窃盗罪を犯し、公訴を提起されたことをもつて同法五条一号所定の善行保持義務に違反し、かつ、その情状が重いものと認めた趣旨を解するほかない。そこで、その判断の当否につき以下に検討する。

記録によれば、次の事実が認められる。

1  被請求人は、高等学校を卒業し一浪したのち、独協大学外国語学部仏語学科に入学したが、一年生のとき交通事故に遭い、頭部挫創・左腕骨折の傷害を受けて約六か月入院加療した。そのころから性格が変わり、高校生のころは真面目にアルバイトしていたのに、勤め先に長続きしなくなり、大学二年生のころには女遊びを覚えてサラ金などに一〇〇万円の借金をこしらえ、結局三年生で中退するに至つた。その後、職業を転々とするうち、昭和六二年三月二五日葛飾簡易裁判所において、窃盗罪により懲役一年六月・三年間執行猶予の判決を受けた。

2  被請求人は、右執行猶予の期間中更に窃盗罪を犯し、同六三年四月二二日東京北簡易裁判所において、懲役一年・五年間執行猶予・付保護観察の判決を受けた(同年五月七日確定。本件刑の執行猶予の言渡し取消請求の対象となる裁判)。被請求人は、同年四月二七日東京保護観察所に出頭し、東京都葛飾区東四つ木四丁目八番四号を住居として定め、これを届け出るとともに、執行猶予者保護観察法五条所定の遵守事項及び右遵守事項を守るための指示事項(<1>仕事について辛抱強く働くこと、<2>浪費をやめ地道な生活を送り、借金などしないこと、<3>毎月担当の保護司を訪ね生活状況を報告すること)を指示され、指示事項に従つて遵守事項を守ることを誓約した。

3  被請求人は、英検二級の資格を活かすため、同年五月ころ、英語の教材販売会社に就職したが、営業担当で語学力を発揮する機会がないことから、同年一二月にここを辞め、海外の商品相場の情報提供を行つている会社に就職した。しかし、ここは、夜間勤務が多く、きつかつたので、翌平成元年二月ころ退職し、パブ・スナックに調理担当として勤めるようになつた。その後、昼間の仕事がしたくなつたので、喫茶店勤めに変わつたが、翌平成二年一〇月ころ退職した。

4  被請求人は、このころから幻聴に苦しむようになり、夜眠られず、街中を徘徊中、保護され、家族が警察官から精神科医の受診を勧められるなどのことがあつた。そして、同年一二月二五日ころ、精神分裂病と診断され、板橋区内にある愛誠会病院に入院した。翌平成三年二月二〇日ころ退院し、自宅で療養していたが、状態が良くなつてきたので、同年五月ごろ、ネクタイ等を扱つている会社に就職し、翌平成四年三月には、店長にまでなつたが、仕事上の付き合いなどから、飲酒の機会が増えた上、被請求人自身も一人で飲みに出掛けるようになつていたところ、同年六月ころ、再び幻聴が聞こえるようになり、七月に入ると、ますますひどくなつた。

5  被請求人は、同月一三日ころ、家族に相談することもなく会社に退職願を提出した後、急に、祖母の遺骨を分骨してある京都の西本願寺に行こうと思い立ち、新幹線で京都に向かつた。夜、京都に着き、西本願寺にお参りした後、人につけ回されているという幻覚から三日間位京都市内を闇雲に彷徨した末、京都駅で昏倒し、病院に収容された。同月一七日ころ、両親らに連れられて東京に戻り、即日葛飾区内にある葛飾橋病院に入院し、医師には幻聴のあることを秘匿したまま同年九月一七日ころ退院した。

6  その後、被請求人は、一時、洋服店に勤めた後、船橋港で魚を冷凍倉庫に入、出庫する作業員のアルバイトに出るようになつたが、同年一〇月末ころから、また幻聴が再発した。そうこうするうち同年一一月八日午前二時二〇分ころ、遊びに行つた先の浅草のディスコで、自分が座つたソファーの上に置いてあつた客のショルダーバッグの中から現金三万六八五〇円等在中の札入れを抜き取り窃盗したが、その場で現行犯逮捕され、同月二五日起訴されるに至つた。

7  右の間、被請求人は、保護観察開始の当初から昭和六三年一二月までは、数回担当保護司方を訪問し、生活状況を報告するなどしていたが、その後は、保護司方を訪問することをほとんどせず、担当保護司や保護観察官から電話や文書で多数回にわたつて来訪するよう指示されたにもかかわらず、保護司方へは二回訪問し、保護観察官の下に一回出頭したほか、数回保護司に電話を掛けたのみであつた。家族も、被請求人に保護司から連絡があつたことなどを伝えると、被請求人がひどく塞ぎ込んでしまうなどの反応を示すため、保護観察にはあまり言及しないようにしていた。しかし、被請求人が転居したり、所在不明となつたようなことはなく、保護観察所ないし保護司は、不十分なものではあつたが、本人との右接触や家族との電話での応答を通じて、被請求人の大体の状況は把握していた。

以上の認定事実に照らすと、被請求人は、保護観察付執行猶予の期間中に窃盗罪を犯し、公訴を提起されているのであるから、特段の事情のない限り、執行猶予者保護観察法五条一号所定の善行保持義務に違反したものであり、かつ、その情状は重いものと推認することができる。

しかしながら、医師市川達郎作成の「精神衛生診断書」謄本によれば、被請求人は、本件犯行時及び診断時(平成四年一一月一九日)には精神分裂症に罹患しており、一時よりは軽快しているが、幻聴がすつかり消えきつておらず、寛解状態とはなつていないことが認められる。もつとも、右診断書は、本件は幻聴など異常体験に左右されて行つたものではなく、発病以前からある盗癖のあらわれとみるのが自然であろうとも説明している。なるほど、被請求人の保護観察官に対する質問調書謄本並びに司法警察員及び検察官に対する各供述調書謄本によれば、本件犯行時に幻聴などの症状が現れていたとは窺われないこと、また、今回の窃盗の態様が前回のそれと類似していることなどに徴すると、同医師の説明も首肯し得ないではない。しかし、被請求人の既往の精神分裂症の病歴や病像などについては十分な資料に乏しく、被請求人も司法警察員の取調べに際し自己の経歴などについて一部虚偽の供述をし、葛飾橋病院の医師に対しても病状の一部を秘匿するなどの行為に出ているので、犯行時における被請求人の責任能力の存否、程度についてはなお慎重な解明を要するものと考えられ、公判裁判所において現在進められている被請求人の精神鑑定の結果に俟つほかはない。そして、鑑定の結果、被請求人の責任能力が否定されることになれば、善行保持義務違反の要件が欠けることとなるのはもとより、限定責任能力が認められた場合であつても、そのことと、本件が前回の犯行(昭和六二年一二月二七日)から五年近く、執行猶予の判決確定から四年六月を経過した後に犯されたものであること、被害が比較的軽微で、犯行直後に回復されていることなどを併せ考慮し、情状重いときに当たらないか、裁量による執行猶予の取消しは相当でないと判断される可能性があることに照らすと、鑑定の結果、完全な責任能力の存在が肯認される可能性が少なくないことを考慮しても、現時点において、刑法二六条の二第二号に定める執行猶予の裁量的取消しの要件が存すると断定するには、なお合理的な疑いが残るものというべきである。

してみると、右の要件があるものと認めて被請求人に対する刑の執行猶予の言渡しを取り消した原決定は事実を誤認したか法令の解釈を誤つたものであつて取消しを免れない。論旨は理由がある。

よつて、刑訴法四二六条二項、三四九条の二第一項により、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 浜井一夫 裁判官 林 正彦)

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