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東京高等裁判所 平成3年(う)1390号 判決 1992年5月28日

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人村田彰久提出の控訴趣意書及び上申書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

所論は、要するに、原判決は、被告人が原判示交差点に進入するに当たり、対面信号が赤色灯火の点滅であったから、交差点手前の停止位置で一時停止し、道路の安全を確認して進行すべき注意義務があるのに、これを怠り、停止位置で一時停止することなく、かつ左方道路の安全を十分確認しないまま、時速約一〇キロメートルで交差点内に進入した業務上の過失により、左方道路から進行してきた河野房男運転の普通乗用自動車前部に自車前部左側を衝突させて、本件事故を発生させた旨認定判示したが、被告人には、一時停止及び左方道路の安全確認を怠った事実はなく、また、仮に停止位置での一時停止違反があったとしても、同所から左方道路の安全を確認することは、生け垣等の障害物により不可能であり、一時停止違反と本件事故との間には因果関係がないから、本件事故につき被告人に過失は認められず、この点において、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討すると、原判決が認定した被告人の過失は、当裁判所もこれを是認することができる。以下、所論に鑑み若干付言する。

まず、客観的な事実についてみると、

1  本件事故現場は、被告人運転の普通貨物自動車(以下「被告人車両」という。)が進行してきた、新町方面から用賀方面に通じる道路(以下「被告人車両進行道路」という。)と、河野房男運転の普通乗用自動車(以下「河野車両」という。)が進行してきた、駒沢通り方面から玉川通り方面に通じる同方向に一方通行の道路(以下「河野車両進行道路」という。)とがほぼ直角に交差する交差点内であるが、本件事故当時同交差点において、被告人車両の対面信号機は赤色点滅信号を表示し、他方、河野車両の対面信号機は青色信号を表示していた(これらの信号機は、被告人車両進行道路に沿って設置された横断歩道の押しボタン式信号機と連動していた。)こと、

2  被告人車両進行道路の交差点入口の停止線付近から左方河野車両進行道路方向への見通しは、交差点角に高さ約二メートルの生け垣があるため、直接には約9.4メートル程度しか見通すことができないが、交差点の右手向かい側に設置されたカーブミラーを介すれば、七〇メートル程度見通すことが可能であったこと、

3  本件事故に伴う各車両の破損痕跡をみると、河野車両のフロントバンパー中央やや右寄り部分に、四箇所にわたり六角ナット様の打痕が印象され、その打痕部に僅かに黄色ペンキ様の塗料が付着し、他方、被告人車両左前輪のタイヤ装着のための六個のナットのうち、四個には表面に擦過が生じるとともに、塗られていた黄色ペンキがはがれて、黒色様のものが付着しており、これらからみて、本件事故の態様は、河野車両のフロントバンパー中央やや右寄り部分と被告人車両の左前輪部分とがほぼ直角に衝突したものであって、事故当時被告人車両は直進状態にあったことが動かし難いこと、

4  事故当時被告人車両に装着されていたタコグラフの解析結果によれば、同グラフの時刻表示で約一二時二一分に停止状態から加速して、毎時約三一キロメートルを記録し、そこから減速途中に衝撃によると思われる異常振動が記録されており、事故直前ないし事故当時被告人車両が停止していた形跡はないこと、

などが認められる。

さらに、被告人車両の後方から交差点に向かって歩行していた原審証人本田恵理は、被告人車両が一時停止することなく交差点に進入したのを目撃した旨供述し、河野車両を運転していた原審証人河野房男は、被告人車両が右側からいきなり飛び出してきた旨供述し、河野車両の後部座席に同乗していた篠崎真靖も、司法警察員に対する供述調書中で同旨の供述をしている。所論は、本田、河野の各原審証言や篠崎の司法警察員に対する供述は信用性がないというけれども、これらの証言や供述の内容は、前記の各車両の衝突部位やタコグラフの解析結果とも符合していて、基本的に信用性を有するものというべきである。

以上の証拠関係を総合考慮すれば、本件はいわゆる出会い頭の衝突事故であり、被告人が交差点手前の停止線で一時停止せず、左方道路の安全を十分確認せずに、交差点に進入したため、本件事故が発生するに至ったことが優に肯認できる。

これに対し、被告人は、司法警察員に対して「停止線付近で一時停止し、左方を見て、更にカーブミラーも見た」旨弁解するほか、原審及び当審において「停止線付近で一秒の三分の一くらい停止した後、左方向を直接見通すことができる地点まで進行して再度停止し、生け垣と街路樹の間から左方向を確認したが走行してくる車両はなかった。そこで、直進しようと進行を始めたところ、助手席にいた青木から右折を指示されたため、交差点内で、ブレーキを踏み、ハンドルを二、三回切って右折にかかり、車両が四〇度くらい右に向いたとき、河野車両が衝突してきた」などと弁解する。しかし、この弁解は、被告人自身が司法警察員に対して「青木君が右折と言う前に、オーライと言ったのに気を許し、左方の安全を良くしないで進行した」旨供述したり、検察官に対して「交差点の手前で車両の速度を落としたことははっきり覚えているが、一時停止したかについては、はっきりした記憶がない」旨供述するなどしていて、その供述内容が必ずしも一貫していないこと、前記の本田、河野及び篠崎の供述、各車両の衝突部位やタコグラフの解析結果などに照らして、これを採用することはできない。

所論は、本件事故は、左方の安全を確認して交差点内に進入した後、既に右折態勢に入っていた被告人車両に、河野車両が衝突したもので、河野の前方不注視が事故の原因であり、被告人が一時停止して左方の安全確認をしたにもかかわらず、河野車両を確認できなかったのは、同車両が時速五五キロメートル程度の速度を出していたためであり、また、被告人車両が一時停止していなかったとしても、停止線から左方の安全を確認することは、生け垣などの障害物によって不可能であるから、同所での一時停止違反と本件事故との間には因果関係がない旨主張するが、既に述べたとおり、事故当時被告人車両は直進状態にあったこと、被告人車両は停止線で一時停止していなかったこと、同所付近から左方へは、カーブミラーをも介すれば十分な見通しが得られていたことなどが認められるので、右主張は採用できない。

したがって、原判決に所論のような事実の誤認はなく、論旨は理由がない。

なお、原判決は、罪となるべき事実として、被害者の一人篠崎真靖に対する関係で、「全治約一週間を要する傷害」を負わせたと摘示するのみで、傷害の具体的内容をなんら摘示していない(関係証拠によれば、「頚椎捻挫、右肩上肢打撲の傷害」と記載されるべきであったと認められる。)。業務上過失傷害罪のように、人の身体に傷害を与えることが構成要件の不可欠な要素となっている犯罪においては、罪となるべき事実として、少なくとも主たる傷害について具体的な部位及び傷病名を摘示することが必要であると解されるから、篠崎の傷害の部位及び傷病名を何ら摘示していない原判決は、罪となるべき事実の摘示が明確さを欠き、刑訴法三三五条一項に反する訴訟手続の法令違反があるものといわざるを得ない。しかし、本件は、一名を死亡させ、篠崎ほか一名を負傷させた業務上過失致死傷の事案であり、しかも、篠崎の傷害は全治約一週間であって、他の負傷被害者のそれが加療約一二日であるのに比べても軽微であることなどに照らすと、右違法は、判決に影響を及ぼすことが明らかなものとはいえず、原判決破棄の理由とはならない。

また、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討しても、原判決の刑を軽減するのを相当とするほどの情状は見当たらない。

よって、刑訴法三九六条により、本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官横田安弘 裁判官小田健司 裁判官河合健司)

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