大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成元年(行コ)141号 判決 1992年5月19日

控訴人

外務大臣

渡辺美智雄

右指定代理人

名取俊也

外五名

被控訴人

信原孝子

右訴訟代理人弁護士

鈴木淳二

主文

原判決を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

一  当事者の求めた裁判

1  控訴人

主文と同旨

2  被控訴人

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

二  当事者の主張

当事者の主張は、原判決事実摘示のとおりである。ただし、原判決四四枚目裏一行目の「始め」を「初め」に、同四六枚目裏九行目の「隠密理」を「隠密裡」に改める。

三  証拠関係<省略>

理由

第一本件拒否処分及び異議申立て

被控訴人は、昭和五七年九月当時シリアに在留していたが、同月一日、在シリア日本大使館を経由して、控訴人に対し、数次往復用一般旅券の発給の申請(本件申請)をしたところ、控訴人は、昭和五八年二月一七日付けで、一般旅券の発給をしない旨の本件拒否処分をし、同年三月二日、「貴殿の従前からのいわゆる日本赤軍との密接なる関係にかんがみ、貴殿は旅券法一三条一項五号にいう著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者に該当する。」との処分理由を付記して、本件拒否処分を被控訴人に通知した。

被控訴人は、同年四月二〇日、本件拒否処分につき控訴人に対し異議申立てをしたところ、控訴人は、同年六月二〇日付けで、異議申立てを棄却する旨の決定をし、同月二二日に被控訴人に通知した。

以上の事実は、当事者間に争いがない。

第二旅券法一三条一項五号の規定が憲法に違反するとの被控訴人の主張について

当裁判所も、右主張は失当であると判断する。その理由は、原判決理由第二(六〇枚目表三行目から同裏五行目まで)に記載のとおりである。

第三そこで、本件拒否処分が適法であるかどうかについて検討する。

一理由付記不備の主張について

当裁判所も、被控訴人の右主張は採用できないと判断する。その理由は、原判決理由第三の二(六二枚目裏九行目から六六枚目裏一行目まで)に記載のとおりである。

二旅券法一三条一項五号該当性の有無について

控訴人は、被控訴人が日本赤軍と密接な関係、すなわち、日本赤軍に対して有形無形の支援活動をするなどしてその破壊活動を援助助長するような関係(以下「密接な関係」というときは、このような関係を指す。)にあったとした上で、被控訴人は旅券法一三条一項五号の「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」に当たると主張するので、判断する。

1  日本赤軍の組織実態及びその破壊活動等

この点についての認定判断は、原判決理由第三の三1(六六枚目裏末行から七一枚目表九行目まで)に記載のとおりである。ただし、原判決六七枚目裏一〇行目の「オないしク」の次に「及びサ」を加え、同六八枚目表一行目の「ケないしシ」を「ケ、コ、シ」に改め、同四、五行目の「窺い得ないではない。」を「認めることができる。」に改める。

2  被控訴人と日本赤軍との関係について

(一) 被控訴人の出入国及び中東における移動の状況について

(1) 控訴人の主張3の(二)の(1)のア及びウないしオの事実は、当事者間に争いがない。

そして、<書証番号略>及び被控訴人本人尋問の結果によると、被控訴人が関係した赤三日月社は、PLOの機関で、多数の病院、診療所、医院等を開設し、医療を中心とする社会事業を行うほか、アラブの赤十字社連盟及び赤三日月社連盟に加盟し、また、赤十字国際委員会、世界保健機構(WHO)等にオブザーバーの資格で参加するもので、おおむね我国の日本赤十字社に相当する活動を行う機関であると認められる。

(2) 中野マリ子との関係について

前記争いのない事実と<書証番号略>及び被控訴人本人尋問の結果によると、昭和四六年四月にパレスチナ難民支援センター等の後援により、ボランティア医師として、看護婦の中野マリ子とともに日本を出国した被控訴人は、昭和四六年冬ころ、それまで中野とともに稼働していたベイルート市内にある赤三日月社のアルコッツ(英語名ジェルサレム)病院から、被控訴人のみがレバノン南部スールのラシャディーエキャンプ内にある同じ赤三日月社の療養所に移籍して、同療養所の診療所で稼働するようになったが、同時に週のうち何日かは定期的に同キャンプ内にあったPFLPの診療所で診療を行うことになったこと、中野は、右のころから被控訴人の行動を政治的であると考えるようになり、中野自身は人道的立場から診療活動に参加したいとして、被控訴人と行動をともにせずベイルートにとどまり、右以降は、被控訴人と中野は別個に行動するようになったこと、被控訴人と中野は、昭和四七年五月のテルアビブ・ロッド空港事件についても議論をし、その評価について意見が分かれたことが認められる。

(二) 重信との交際関係について

<書証番号略>、証人伊藤孝の証言及び被控訴人本人尋問の結果によると、被控訴人は、昭和四六年四月に中野とともにベイルートに渡航した後、ベイルート市内において重信と知り合って何回か会ったこと、同年五月末ないし六月ころ、映画監督若松孝二(本名伊藤孝)及び当時若松とともに映画製作に携わっていた足立が映画撮影のためにベイルートを訪れた際に、重信、中野とともに若松らに会ったこと、同年夏ころ重信を診察したことがあったことが認められる。

しかし、<書証番号略>、証人高橋正一の証言及び被控訴人本人尋問の結果によると、当時は日本赤軍がまだ結成されていないか、少なくとも表立った活動を開始していなかった時期であり(日本赤軍が共産同赤軍派から分派したのは同年一一月ころである。)、重信もPFLPと接触をもっていたものの、その所在を明らかにしてベイルート在留の報道関係者その他の邦人と公然と交際し、在レバノン日本大使館員とも接触をもっていたものであること(重信が所在をくらましたのは、昭和四七年四月ころのことである。)を認めることができる。

被控訴人と重信のその後の関係については、後に検討する。

(三) 行者の供述について

(1) <書証番号略>、証人行者芳政、同高橋正一、同加藤和雄の各証言及び被控訴人本人尋問の結果によると、次の事実が認められる。

行者は、昭和四九年二月ころストックホルムに滞在していたが、日本赤軍構成員である北川明の誘いによって翻訳作戦(西ドイツのデュッセルドルフの日本商社員誘拐・身代金強奪作戦)に参加し、主に西ドイツのケルンに住んでデュッセルドルフの日本商社員の行動調査に当たっていたところ、同年七月二六日に日本赤軍の構成員である山田義昭がパリで逮捕された(パリ事件)ことから、危険を感じて同年八月末にベイルートに逃走し、同年一〇月初めからはバクダッドに滞在し、同年一一月末又は一二月初めにいったんベイルートに戻った後、同年末にストックホルムに帰った。

そして、昭和五〇年八月アメリカに密入国するため、偽造の選挙人登録カード等をアメリカとカナダの国境の検問所で示した際に発覚し、日本に送還されて、同年九月一日に偽造有印私文書行使の被疑事実により逮捕勾留されて取調べを受け、同事実により起訴されて有罪判決を受けた。

(2) 右取調べの際に作成された行者の警察官に対する供述調書の中に、次の二通の調書が存在する。

① 昭和五〇年九月八日付け供述調書(<書証番号略>)

これは、行者が昭和四九年八月末にベイルートに逃走した当時、ベイルートに残っていた人物として重信、丸岡修、日高俊彦、シルビー、足立、痩身の二〇歳くらいの日本人女性、戸平と並んで「ドクター(日本人女性三〇歳くらい)」を挙げ、警察官の示した一三〇葉の写真の中から被控訴人の写真を選んで「ドクター、三〇歳くらい女」と特定した旨の供述調書である。

右の被控訴人の写真は、被控訴人が昭和四四年ころ日本でデモ行進に参加して検挙された際に撮影されたもので、被控訴人が常時使用していた眼鏡をかけない状態で写されているものである。

なお、右調書において、行者は、ベイルートで重信らが「なみだ橋」と呼んでいたハムラ地区にあるアパート(三部屋)に出入りしたと供述している。

② 昭和五〇年九月一五日付け供述調書(<書証番号略>)

これは、ベイルートに逃走した行者が、ベイルート滞在中のこととして「この期間はハーグ事件の発生があり、ベイルートの日本赤軍は緊張に包まれておりました。……重信、丸岡、私、足立、日高らは、拠点の『なみだ橋』に集まり、ラジオ、新聞などに注意深く関心を払い焦慮のときを過しました。この拠点には、主として重信、丸岡、私、遅くなって戸平らがつめ、時々足立、二〇際くらいの日本人女性、ドクター、日高らが来て、コマンドがいつどこで動くか待っていたわけです。」と供述をした旨の調書である。

(3) そこで、右行者の各供述書の信用性について検討する。

行者は、本件における証人尋問において、当時ベイルートで被控訴人と会った記憶はない、前記①②の供述及び写真の特定は警察官から西川の供述を告知されてしたものであって警察官の誘導によるものである、前記の供述部分は自分と直接関係がなかったので警察官の言うことをそのまま追認したものであるなどと述べるけれども、右の証言は、記憶がないとか言いたくないなどとして明確な証言を避けた部分も少なくない上、全体として相当曖昧なものであって、右証言から、前記供述が警察官の誘導によるもので信用できないものとすることはできないというべきである。まだ、警察当局は、行者の取調べ以前に西川、戸平を逮捕して、その供述を得ていたものであり、「ドクター」なる者の存在についても情報を得ていたことが認められるが(証人高橋正一、同加藤和雄の各証言)、行者の取調べ当時、右「ドクター」が具体的な捜査の対象になっていたとの形跡はうかがわれないのであるから、行者の取調べに当たった警察官が「ドクター」に関して右西川らの供述や情報に基づいて行者を誘導し、虚偽の供述を得たものと疑うのは合理的でない。行者の「ドクター」に関する供述は、前記のように比較的簡単なもので、コマンドの動きに注目していたという以上にその具体的活動に言及していないのであるが、この点も、右の供述が警察官の誘導に基づく虚偽のものであることを窺わせるに足りるものとはいいがたい。さらに、行者の証言によると、行者は、特に逮捕当初は朝早くから夜も比較的遅くまで相当長時間にわたって取り調べをうけたこと、行者自身の容疑事実については早い段階で自白したので、その後は主として日本赤軍について供述を求められたことが認められるが、行者の証言によっても、取調べが特に苛酷なものであったとの事実は認められず、かえって、証人加藤和雄は、取調べは無理なく行われ、ときには行者から冗談も出るほどであった供述しているのである。

そして、前掲①の供述調書において、行者は、供述を始めるに当たり警察官から供述拒否権の告知を受けて、「もうそういうことはいいですよ。九九パーセントまで言っていますよ。」と答えた上で前記の供述をしたものであり、①②の調書は、翻訳作戦をめぐる状況等について自らの経験した事実を詳細かつ明確に供述し、知らないことは知らないと述べるなど供述がごく自然であること、②の供述調書については、途中で削除を求めたり、署名指印するに当たって調書を読み聞かされた上で自ら補足の供述をして追加記載を求めたりしており、また自らなみだ橋の位置や内部の状況を図面に書いていること、さらに、行者は、逮捕当座は救援対策本部の弁護士を弁護人に選任していたが、その後同弁護士を解任し、救援対策本部の物品の差し入れも断ったこと(行者の証言)が認められる。これらの事情にかんがみると、行者が前記供述調書において虚偽の供述をしたとは認めがたい。

次に、被控訴人は、行者の供述調書にある「ドクター」が被控訴人を意味するとはいえないと主張するが、当時レバノンには被控訴人以外に日本人女性の医師はいなかったことは被控訴人自身が認めるところであり、また、<書証番号略>、証人坂井定雄の証言によっても、被控訴人が、「スアード」(「幸せ」を意味する現地語で被控訴人の現地名)を付して「ドクトルスアード」などと呼ばれていたことが認められるから、被控訴人が「ドクター」と呼ばれていたことは明らかというべきである。

被控訴人は、行者が選んだ写真と昭和四九年当時の被控訴人との同一性や、被控訴人の年齢を三〇歳くらいとしたことを疑問として提起するところ、たしかに、行者の選んだ写真は昭和四九年よりも数年前のものであり、眼鏡をかけていないものであるのに対し、昭和四九年当時被控訴人は黒ぶちの眼鏡をかけていたことが認められ(被控訴人の供述)、また、被控訴人によると、栄養状態がよくなかったので写真の当時よりもやせていたというのであるが、このことをもって、行者が被控訴人の写真を選んでなみだ橋で見かけたとしたことを誤りであるとするのは根拠不十分というべきである。

さらに、前記認定のとおり、被控訴人は昭和四六年冬にレバノン南部のスール地区に赴き、昭和四九年当時も同地区に居住して診療活動に当たっていたものと認められるところ、被控訴人は、行者が見かけたと供述した昭和四九年九月当時被控訴人は同地区における診療活動のため多忙であり、また当時のレバノンの危険な情勢からしてベイルートに赴くことは不可能に近かったと主張するので、検討する。<書証番号略>、証人坂井定雄の証言及び被控訴人本人尋問の結果を総合すると、スールとベイルートとの距離は約七五キロメートルで幹線道路が設けられており、その間の主な交通手段はバス又は乗合いタクシーであったこと、レバノンにおいては、昭和五〇年から内戦状態になったが、前年の昭和四九年もイスラエルからの攻撃に加え、レバノン国内各派の抗争も激しくなり、このような当時の情勢から、スールとベイルートの往来は危険であったとは認められるが、昭和四九年九月当時、その往来が不可能あるいは著しく困難であったとは認めがたい(被控訴人は、スールへ行ってからも、時折ベイルートに出掛けて英字新聞を購入したりその折に中野と会ったりしていたが、昭和四九年春ないし七月ころからは多忙と往来に困難が伴ったことからベイルートへ行く回数が減り、昭和五〇年に入ってからは内戦状態でベイルートへ行ける状態ではなかったと供述するが、昭和四九年九月当時ベイルートへの往来が不可能であったとまでは供述していない。)。また、前記のとおり被控訴人は当時スール地区で医療活動に従事していたと認められるものの、昭和四九年当時の被控訴人の具体的な行動は明らかでないのであって、同年九月前後に被控訴人がベイルートに滞在していた可能性も否定できない。このようにしてみると、当時のレバノンの情勢等から、被控訴人がベイルートにいた可能性がないということはできない。

(4) 以上のとおり、前記行者の供述調書の被控訴人に関する部分についてその信用性を否定すべき事情は認められず、右調書によると、被控訴人は、昭和四九年九月当時、ベイルートにいて、時々日本赤軍の拠点に来て日本赤軍の構成員とともにハーグ事件のコマンドの動きに注目していた事実があると認めることができる。

(四) 西川の供述について

(1) 1において認定した日本赤軍の破壊活動等に関する事実及び<書証番号略>によると、西川は日本赤軍の構成員であり、昭和四八年五月に出国してベイルートで日本赤軍に合流した後、翻訳作戦に参加して、昭和四九年五月末ないし六月初めころから同年八月ころまでデュッセルドルフに滞在したが、翻訳作戦の失敗後、同年九月のハーグ事件に参加し、その後昭和五〇年三月にストックホルム事件で逮捕されたが、同年八月のクアラルンプール事件の際に日本赤軍に奪還され、昭和五二年九月のダッカ空港事件に参加したことが認められる。

(2) そして、<書証番号略>及び証人高橋正一の証言によると、西川は、ストックホルム事件で逮捕され日本へ送還されて取調べを受けたが、この際に作成された警察官に対する昭和五〇年五月二日付け供述調書(<書証番号略>)において、「いままで話してきた人物について写真を見ながら説明する」として、警察官の示した五一葉の写真の中から、和光晴生、重信らの写真合計二一葉とともに、被控訴人の写真一葉を抽出し、これについて「名前は知りませんが、ベイルートで見たことがあります。アジトで偶然見かけたことがあります。この人が信原孝子であることは今はじめて知りました。」との供述をしていること、右の被控訴人の写真は、右(三)の行者に示された写真と同じく被控訴人が昭和四四年ころ日本でデモ行進に参加して検挙された際に撮影されたものであり、行者が<書証番号略>の調書で選んだ写真と同一人物が写っていることは明らかであるが、西川が抽出したものは被控訴人が眼鏡をかけて写っているものであること、西川の検察官に対する昭和五〇年五月六日付け供述調書(<書証番号略>)にも、<書証番号略>と同一内容の供述が記載されていることが認められる。

(3) そこで、右西川の供述調書の信用性について検討する。

前記認定の事実からすると、西川が被控訴人の写真で特定した人物を見かけた時期は、被控訴人の写真が撮影された時期よりも四年ないし六年くらい後であると考えられるので、当時の被控訴人の容貌が写真のとおりであったかに疑問がないではなく、また、西川の供述調書の内容にかんがみると、西川はそれまでにほとんど接触のなかった人物をたまたまベイルートのアジトで見かけただけで話をしたわけでもないものとうかがえるのであるから、その人物について正確な認識・記憶ができたかにも疑問が生じないではない。しかしながら、西川の供述調書は、写真の人物を特定できるものは特定し、断定できないものについては似ているとしながらも名前を断定せず、忘れたものはそのように述べるなど、全体として明確かつ自然であって誇張などはない。また、証人高橋正一も、西川は当初否認していたが、その後事実を自ら自供するようになり、その取調べに無理な点などはなかったと供述しているのであるから、これらに照らすと、西川が被控訴人の写真を選んでアジトで見かけたことがある人物であるとした供述を信用できないものとすることはできないし、他に西川の供述の信用性を疑わせるような証拠はない。

(4) 右西川の供述調書によると、被控訴人がベイルートの日本赤軍のアジトに出入りしていたことがあるものと認定することができる。

(五) 松田の手紙文について

(1) <書証番号略>及び証人高橋正一の証言によると、次の事実が認められる。

警察官が昭和四九年二月五日に、足立を中心として結成された日本赤軍の国内支援組織であるIRF・ICの事務所を捜索した際、用箋三枚に書かれた中途までの手紙文のコピー(<書証番号略>)を発見押収したが、右手紙文の原本は、若松と足立が製作した映画「赤軍―PFLP・世界戦争宣言」の上映運動をフランスで行うために昭和四八年一〇月一二日に出国した松田が、PFLP及び重信と連絡をとるために立ち寄ったベイルートから足立にあてて出したものであり、右手紙文の中に、次の三つの記載部分がある。

「(ベイルートで)カナガワ君とまず会い、その時彼女が私と会う必要はないと言っていたと聞かされ、愕然とした。彼女は、私と会うためには、私がパリでまず上映運動をやってみる、それで何か月か成果が上がってから、相互の経験を交流しようというのだそうである。……それも結構と諦めていたところに、ドクターと三、四日後に会い、ドクターもまた彼女の見解として、私がパリで自活するといっている、どこまでやれるか頑張らせたところで、それから会ってみようということを伝えた。」

「守さんと若ちゃんがやって来、いろいろ経過があって、彼女と会う羽目になったとき、さいわい北沢氏を含めて四人がつるんでいたときだから、彼女もついに私と会うこととなり、結局、テープどりが終わる二日間さらに待たされ、話した。」

「翌日、テープに収録しつつ行われた北沢氏を含めた三者会談で、例によって連絡が悪く、私が遅参していた最初の三〇分間に行われた彼女の問題提起が……」

(2) 他方、<書証番号略>、証人高橋正一、同伊藤孝の各証言及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

若松とシナリオライター佐々木守は、重信の著書の出版のため、昭和四八年一〇月二〇日にベイルートに渡航し、同年九月一〇日に出国した北沢正雄とベイルートで会った。若松及び佐々木と北沢とは、それぞれ同年一〇月二八日ころまでの間に重信と会見し、若松及び佐々木はその結果を重信著「わが愛わが革命」という書物として出版し、北沢は雑誌「流動」(昭和四九年二月号)に重信との会見記を掲載した。佐々木は、右「わが愛わが革命」の後書きに重信との会見について「丸二日かかって、収録したテープが一二時間分」と書いており、また、雑誌「流動」の右会見記には、北沢と重信との会見に途中から「M氏」なる人物が参加したものとされている。

このように、前記松田の手紙文の内容は、右事実と符合する点があるので、松田の手紙文には一応信用性を認めることができる。そして、手紙文中の「彼女」は重信を、「守さん」は佐々木守を、「若ちゃん」は若松を、それぞれ指すものと認められるから、右手紙文によって、松田が昭和四八年一〇月一二日ころから同月二八日ころまでの間に、ベイルートで「カナガワ君」及び「ドクター」を通じて重信からの連絡を受けた後、佐々木、若松及び北沢と合流して重信と会見した事実をうかがうことができる。

(3) そこで、松田の手紙文中の「ドクター」が被控訴人を指すものかどうかが問題となる。

先に(三)で検討したところからすると、被控訴人はレバノンにおいて「ドクター」ないし「ドクトル」と呼ばれており、また、当時レバノンに滞在していた日本人で被控訴人以外に「ドクター」と呼ばれていた者がいたとは認められないから、右の「ドクター」とは被控訴人を指すものと認めるのが自然である。

そして、先に(二)で被控訴人と重信との交際関係に関して認定したとおり、足立は既に昭和四六年にベイルートで被控訴人と会っていたのであり、松田と足立の間で被控訴人を「ドクター」と呼んでいたとしても何ら不合理はない。

なお、後に検討する足立が作成したと認められる換字表では、被控訴人を指称するのに「ソアド」という現地名が使用されていて、「ドクター」の語は用いられていないけれども、前記のとおり行者は被控訴人が「ドクター」と呼ばれていたと供述しているのであるから、前記手紙文の「ドクター」が被控訴人を指すことを否定することはできない。

(4) そうすると、昭和四八年一〇月当時、被控訴人がベイルートにいて重信の意向を松田に伝えるという行動をとったことがあると認められる。

(六) 足立のノートについて

(1) <書証番号略>及び証人高橋正一の証言によると、次の事実が認められる。

足立は、若松とともに映画の製作に当たっていたが、その後日本赤軍と合流して、日航機ハイジャック事件の直後の昭和四八年八月一三日にパリで同事件に関する日本赤軍の声明を発表するなど、日本赤軍のスポークスマン的な役割を果たすようになった者であるが、警察官が日本に帰国していた足立を昭和四九年二月四日東京駅で発見して警視庁に同行を求め、シンガポール事件に関して足立の着衣及び携帯品を捜索した際、表紙の中央上部に「I・R・F」と、その下部に「ATAH」と記載された足立のノート(<書証番号略>)を発見押収した(右の際同時に、(七)で検討する第一及び第二の換字表も押収された。なお、足立は、その後同年八月までに日本を出国してベイルートの日本赤軍に合流し、その後も昭和五二年一〇月にニコシアでダッカ空港事件について記者会見するなど、日本赤軍のスポークスマンとしての活動を続けた。)。

(2) <書証番号略>によると、右ノート中に次の記載部分があることが認められる。

「 日本人戦士奪還闘争

1  H・J闘争の国内評価醸成と陳情攻セ

A I・R・F、パレ解、パレ人支、パレ研等を通して、リビア大使館への陳情(東京5.30行動実委)

B リビア政府への陳情電文攻セ(東京5.30行実委)

C リビア政府(トリポリ)への直接陳情(抗ギ)代表派遣(アラブ赤軍=ドクトル、東京から=アタ)」

(3) ところで、<書証番号略>によると、昭和四八年一一月発行のパレスチナ人民支援センター機関誌「支援センターニュース」に、日航機ハイジャック事件に関し「われわれはリビア政府が四人のハイジャッカーを解放戦士として取り扱うよう大使館を通して養成してきた」との記事が掲載されていることが認められ、右記事は、足立のノートの1Aの記載と符合する。

そうすると、前記ノートの記載の1Cの部分は、日航機ハイジャック事件に関してリビア政府に対する直接陳情のため、アラブ赤軍から「ドクトル」を、東京から「アタ」をそれぞれ派遣する計画を記載したものとみることができる。

(4) そして、当時ベイルートの日本赤軍ないしその周辺にいた者の中で「ドクトル(ドクター)」と呼ばれていたのは、医師である被控訴人以外にはないと考えられる。もっとも、本件の証拠全体に照らしてみたとき、被控訴人が日本赤軍を代表してリビア政府と交渉するほどの地位にあったかについては、疑問の余地があるので、右の計画がどれほど具体的に検討されたものであるのかについて疑問があり、また、右の計画のとおりの交渉が行われたと認めるべき証拠は見当たらないが、少なくとも、足立がそのようなことを考えた可能性があることは否定しがたい。なお、被控訴人は、足立のノートの「ドクトル」はベイルートでハイジャッカーの釈放交渉をした庄司弁護士を指すものであると主張するが、その裏付けはない。

(七) 換字表について

(1) <書証番号略>、証人高橋正一の証言及び被控訴人本人尋問の結果によると、次の事実が認められる。

警察官は、前記のとおり昭和四九年二月四日に足立の着衣及び携帯品を捜索した際、第一の換字表(<書証番号略>)及び第二の換字表(<書証番号略>)を発見押収し、また、同月五日にIRF・ICの事務所を捜索した際、第三の換字表(<書証番号略>)を発見押収した。

第一の換字表は、三葉のメモからなり、各葉の両面を用いて、「1マリアン」に始まり、「191 アドレス(上記別紙)」で終わる人名・地名その他の名詞を1から191までの数字に対応させた手書きの記載があり、その二番目に「2 ソアド」との記載がある。また、右「191 アドレス(上記別紙)」の記載のある三葉目の裏の上部に、「同封の山本さんあての手紙を下記に転送して下さい。至急(住所は秘にひかえといて)」として、特定人の住所氏名の記載のある重信の筆跡のメモが貼付してあった。

第二の換字表は、二葉のメモからなり、各葉の表を用いて「1 和光」から始まり、「183 ビラ」で終わる人名・地名その他の名詞を1から183までの数字に対応させた手書き記載があり、その二番目に「2 信原」との記載がある。また、一葉目の裏に0から9までの数字の平仮名に、また1から12までの数字を他の数字に対応させた記載もある。

第三の換字表は、押収当時切り裂かれていたが、これを復元すると、「1和光」から始まり、「253 開発」、「254 Mr・Hdr」に終わる人名・地名その他の名詞を1から254までの数字に対応させた記載があり、その九番目に「9 信原」との手書き記載がある。また、一月から一二月までを他の月に対応させた記載がある。

そして、これらの記載はいずれも足立の筆跡によるものと認められる(証人高橋正一の証言)。

各換字表に記載されている名詞は、①マリアン(重信の現地名)、山本ら日本赤軍構成員の本名又は現地名、②松田、若松ら日本赤軍と何らかの接触をもった者の名前、③山口女史(山口淑子参議院議員を指すものと推測される。)、ナセル、サルトル、庄司ら日本赤軍にとって何らかの意義を有すると思われる者の名前、④東京、成田、ベイルート、ダマスカス、フランス、モスクワ等の日本及び世界各地の地名、⑤「H・J(ハイジャック)」、「声明」、「作戦」、「カンパ」、「資金」、「旅券」等日本赤軍の活動内容、活動時の携帯品等に関係するものなどに大別することができる。

(2) そして、足立は、警察官に対し、第一及び第二の換時表について、「メモに記載された暗号は、ある人間から自分あてに来た手紙を読むのに必要なものである。この暗号は自分が決めたものでなく、向こうから言ってきたものである。ある人間の名前は言えない。」と供述した(<書証番号略>)。また、前記(六)で検討した足立のノート(<書証番号略>)には、第一の換字表によって解読しうる暗号文が記載されている。

右の事実によると、各換時表は日本赤軍関係者との通信用暗号文の解読に用いられるものであると認められる。被控訴人は、記載の順序などから、足立の心覚え等を記載したにすぎないものと主張するが、そのようには認めがたい。

(3) そして、<書証番号略>、被控訴人本人尋問の結果によると、被控訴人はレバノン在住当時から「スアード」という現地名を使用し、現地の患者らからそのように呼ばれていたことが認められるから、第一の換字表の「ソアド」は被控訴人の現地名を記載したものと認めることができる。

このように、各換字表には、いずれにも被控訴人の本名及び現地名が前記のとおり二番目、二番目、九番目の位置に記載されている。

換字表には前記のように大別される名詞が記載されているが、そのいずれも上位に日本赤軍の幹部の名前とともに被控訴人の名前及び現地名が記載されているのであって、被控訴人が日本赤軍に相当近い関係にある者とされていたことがうかがわれる。

(八) 被控訴人の発した声明文について

(1) <書証番号略>及び証人高橋正一の証言によると、IRF・ICが、査証編集委員会なる組織と共同で編集して昭和五〇年六月三〇日に出版した「隊伍を整えよ――日本赤軍宣言」と題する出版物に、アラブ赤軍(日本赤軍)及びPFLP国際局やPFLP・GC政治局等のPLO内急進派組織などの声明文と並んで、控訴人の主張する内容の「PFLP日本人医療隊」の声明文が三通、「日本PFLP医療委員会」の声明文が一通掲載されていることが認められる。右声明文の内容には、テルアビブ・ロッド空港事件等の日本赤軍の活動を称えるものなどのほか、日本赤軍の主張と共通する部分がある。

(2) ところで、前記認定のとおり、当時レバノンに在住していた日本人の医療関係者としては、被控訴人と中野マリ子のみであったところ、前記認定のとおり、中野マリ子は、昭和四六年末ころから、被控訴人と行動を別にするようになり、<書証番号略>によると、中野はベイルート周辺の医療機関に勤務したのみで、レバノン南部の医療機関に勤務したことはないことが認められるのに対し、前記声明文からうかがわれる声明者の所在及び時期は前記(一)で認定した被控訴人の移動状況と合致し、また、被控訴人は、前記のとおりレバノン南部において赤三日月社の医療機関で働く一方、PFLPの医療機関でも医療活動に携わっていたのであるから、前記声明文の作成、発表には、被控訴人がかかわっているものと推認することができる。

右声明文は、「医療隊」などと組織の名前を用いたり、「我々」、「私たち」などと複数形が用いられたりしているが、そのことが前記推認を妨げるものとは考えられない。

(3) そして、右声明文によると、テルアビブ・ロッド空港事件等の日本赤軍の活動を称えるなどのほか、日本赤軍の主張と共通する主張が述べられており、また、PFLP日本人医療隊と称しているのであるから、これらからすると、被控訴人が日本赤軍の活動を支援していたものということができる。

(九) 新聞報道によるPFLP幹部の発言について

(1)ア <書証番号略>によると、昭和四七年六月二日付け東京新聞に、次の二つの記事が掲載されたことが認められる。

① PFLPのバシム・スポークスマンが同月一日に共同通信記者と会見し、PFLPに協力している日本人として赤軍派幹部の重信と医師「延原たか子」(被控訴人を指すものと推測される。)を挙げ、「二人とも実によい人で働いてもらって助かっている。」とした上、「延原たか子さんはレバノン南部にある難民キャンプで働いており、重信さんは最近日本から医療機械などの救援物資が到着したので、それの使い方を教えるため現在同じ難民の病院で働いている」と延べた旨の記事。

② レバノンの新聞デイリー・スターが、同日、テルアビブ空港を襲撃した日本人はPFLPに加わっている赤軍(ジャパニーズ・レッド・アーミー)グループの一部である旨、同グループには女性を含む日本人医師からなる医療隊があり、赤軍は医師、看護婦、器材からなる完全な野戦病院の提供を約束したが、これは「交流計画の」一部として取り決められたものである旨を報じたとの記事。

イ 右①の記事のうち、重信に関するものは、信憑性に疑問の余地があるが、被控訴人に関するものは、当時被控訴人がスール地区のPFLPの医療機関で働いていた事実と符合する。そして、少なくも、PFLPが被控訴人を右のように認識していたことが明らかである。また、②の記事は、日本赤軍が完全な野戦病院の提供を約束したとするなど、にわかには信じがたい内容が含まれている。

(2)ア <書証番号略>によると、昭和五七年一二月二一日付けサンケイ新聞及び同日付け朝日新聞に次のような記事が掲載されたことが認められる。

日本赤軍に近いPFLP幹部が同月一九日にレバノンで時事通信記者と会見して、最近の日本赤軍の動向を明らかにし、その中で、日本赤軍は現在一七、八人で、最高幹部の重信ら少なくとも四人はシリア国内にいること、このうち、重信はサミーラというシリア人名で自分の子供といること、他の三人のうち一人は女医、もう一人は歌が上手な女性、残りは男性で、ダマスカス市内のPFLP事務所近くに住み、外国からの資金援助が豊富なため不自由のない生活ぶりであることを伝えた旨の記事。

イ しかし、他方、<書証番号略>によると、PFLP政治局メンバーであるバッサム・アブ・シャリフが、被控訴人代理人に対し、PFLP幹部が日本の通信員に対してこのような内容の情報を与えたことはない旨の書面を提出していることが明らかであり、右アの新聞報道の信頼性には疑問がある。

(一〇) レバノン国防当局からの情報について

(1) 証人中島浩の証言によると、レバノン国防当局から在レバノン日本大使館にもたらされた情報として、昭和五七年八月のPLOのベイルート撤退後にレバノン国防軍がベイルート市内のブルジュ・バラジュネキャンプ内を調査した際、同年六月まで同キャンプ内で三人の日本赤軍の女性兵士が活動しており、そのうちの一人は「スアド」という名前であったことを把握した、との情報があったことが認められる。

(2) 前記のとおり、被控訴人はレバノンにおいて「スアード」と呼ばれており、また、昭和五七年六月当時ベイルートに滞在していたものであるから、右情報における「スアド」は被控訴人を指すものと考えられるが、右情報の正確性、殊に「日本赤軍の女性兵士」の具体的意味内容を明らかにする資料が他にないので、右情報のみによって、被控訴人が日本赤軍の女性兵士として活動していたものと認めることは困難である。

(一一) 被控訴人と日本赤軍コマンドの出入国時期の一致について

(1) <書証番号略>及び証人高橋正一の証言によると、次の事実が認められる。

① 被控訴人が初めてベイルートに向けて出国したのが昭和四六年四月二一日であるところ、その少し前の同年二月二六日にはテルアビブ・ロッド空港事件に参加した奥平剛士が、また、同月二八日には重信が、それぞれベイルートに向けて出国した。

② 被控訴人が昭和四七年三月にいったん帰国して、再度ベイルートに向けて出国したのが同年五月一四日であるところ、その少し前の同年二月二九日にはテルアビブ・ロッド空港事件に参加した岡本公三が、また同年四月一三日には丸岡修が、それぞれベイルートに向けて出国している。

③ 本件訴訟提起後のことではあるが、被控訴人は昭和六二年一一月二〇日ころシリアから帰国したものであるところ、同月二一日には丸岡修が帰国した。

(2) 控訴人は、右のように、被控訴人の出入国の時期と日本赤軍コマンドの出入国の時期とが近いことを根拠に、被控訴人が日本国内において、コマンドの「一本釣り」又は外国送り出しに何らかの役割を担っていたことが推測されると主張する。

しかし、証人高橋正一が自ら認めているように、右の程度の時期の近さだけで右のように推測することは、根拠がうすいといわざるをえない。

(一二) 被控訴人のシリアにおける居住地とPFLP及び日本赤軍の勢力範囲の一致について

被控訴人がベイルート撤退後、シリアのダマスカスに移住し、ヤルムークキャンプの診療所等で稼働していたことは前記(一)に認定のとおりである。

控訴人は、ダマスカスから日本赤軍がいるとされるベカー高原までがPFLPの勢力下にあり、ダマスカスで被控訴人と日本赤軍との交流が可能であったと主張し、その根拠として、いくつかの点を挙げるので、検討する。

(1) <書証番号略>によると、昭和四九年一一月一〇日付け夕刊フジに、外国人記者が同年一〇月三一日にダマスカス郊外の難民キャンプでハーグ事件の主犯とされる和光晴生と会見した旨の記事が掲載されたことが認められる。

もっとも、同じ紙面に、和光のシリア滞在を疑問視する日本の警察関係者の談話も掲載されていて、同記者がシリアで和光と会見したとの記事の信用性には疑問がある。

仮に右記事が真実であったとしても、それは被控訴人がシリアに移住した時期よりも八年前のことであるから、被控訴人がダマスカスに在住していたころに、日本赤軍がダマスカス付近を勢力範囲としていたことの根拠としてはいささか弱いものといわざるをえない。

(2) <書証番号略>によると、本件拒否処分後に、ダマスカス経由で日本赤軍の重信らと接触したジャーナリストが存在することが認められる。

したがって、ダマスカスに在住する者は、日本赤軍と連絡をとることが不可能ではないと考えられるが、そのことだけで、ベイルート撤退後ダマスカスに在留する被控訴人が日本赤軍と頻繁に連絡をとっているものと認定するには根拠がうすいといわざるをえない。

(3) <書証番号略>によると、日本赤軍構成員岡本公三を始めイスラエルの捕虜となっていたパレスチナ・ゲリラが、捕虜交換により釈放された後、昭和六〇年七月にダマスカスに入り、次いでダマスカス近郊にあるPFLP・GCのキャンプに運ばれ、同キャンプからさらにレバノン東部のベカー高原にあるパレスチナ・ゲリラの基地に移動したことが認められる。

(4) 以上の事実からすると、日本赤軍が根拠地としているといわれるダカー高原とダマスカスとは比較的近く、ダマスカスからの交流も可能であると認められるが、右(1)ないし(3)の事実のみから、被控訴人がダマスカスにあって日本赤軍と交流をもっていたと認めるには根拠が不十分であるといわざるをえない。

(一三) 被控訴人及び日本勢力と人民新聞社との関係について

この点についての認定判断は、原判決理由第三の三2(一三)の項(一一六枚目裏二行目から一二〇枚目表三行目まで)に記載のとおりであり、被控訴人が人民新聞に投稿したことがあるからといって、そのことのみによって、被控訴人と日本赤軍との間に密接な関係があると認定することは困難である。

(一四) まとめ

(1)  以上の認定事実によって被控訴人と日本赤軍との関係についてみると、被控訴人は、昭和四六年にレバノンに渡ってから、主としては、レバノン南部の赤三日月社やPFLPの医療機関において、パレスチナ難民の病気の治療、健康に関する相談、さらには衛生に関する啓蒙等のいわば地道な難民救済のための医療活動に従事してきたものであって、日本赤軍の破壊活動に直接加わったものでないことはもとより、控訴人のみるように日本赤軍の連絡担当役を常時果たしてきたものとも認めがたいというべきであるが、他方、昭和四八年一〇月ころ重信と会おうとする者に対する連絡役を果たしたことがあること、昭和四九年九月のハーグ事件のころにはベイルートの日本赤軍の拠点に時々赴いて日本赤軍の最高幹部を含む構成員とともに破壊活動の進行状況を見守っていたこと、その後もPFLP医療隊などの名で日本赤軍やPFLPの思想行動に共鳴し、これを支持する声明文を発表していたこと、日本赤軍の関係者足立のノートや構成員間の暗号解読のための換字表に日本赤軍の構成員らの表示とともに被控訴人を示す記載があり、PFLPからも日本赤軍の協力者とみなされていたこと、等の事実が認められる。

(2)  そうすると、被控訴人は、日本赤軍の構成員とはいえないが、単にその共感者、あるいは構成員とたまたま接触した者というにとどまらず、積極的に日本赤軍の活動を支持し、これに寄与し、行動を共にしたことがあるものであって、これらを通じて日本赤軍の破壊活動を援助助長するような関係にあったものと認めるべきである。

したがって、被控訴人が従前から日本赤軍と密接な関係があったことを前提として行われた本件拒否処分は、事実を誤認したものということはできない。

3  本件拒否処分の適否について

(一)  旅券法一三条一項五号の規定は、憲法二二条二項で保障された国民の海外渡航の自由に対し公共の福祉の観点から合理的な制約を課したものであり、同号自体も「著しく且つ直接に」との限定を付しているのであるから、同号に基づいて旅券の発給を拒否するには慎重でなければならないことはもとよりであるが、同条の趣旨、文言等に照らして考えると、同号該当性の判断については、国際情勢に精通し、高度の専門的知識と判断力を有する控訴人に一定の裁量権が与えられているものと解すべきである。

(二)  日本赤軍の組織実態及びその破壊活動等は前記認定のとおりであり、本件拒否処分当時破壊活動を継続し、今後も武装闘争を辞さない旨を言明しているものであるから、日本赤軍が本件拒否処分後も破壊活動を行う危険性があったことは、明らかである。

また、<書証番号略>及び弁論の全趣旨によると、右のような日本赤軍の破壊活動に対しては、本件処分以前から国際的にも厳しい非難が浴びせられ、世界各国は一致して自国の出入国管理を強化するなどその防止に努め、国連総会、サミット等で繰り返しその防止のための努力と決意が表明されていたものであるが、各国は右破壊活動の中心的人物の所属国である我が国に対しても出入国管理の強化及び破壊活動再発の防止に努めるよう強く期待し、我が国もこれに応えるべき立場にあったことが認められる。

そして、前記認定のとおり、被控訴人は日本赤軍と従前から密接な関係を有してきたところ、本件拒否処分当時において、被控訴人と日本赤軍とのこのような関係が以後断ち切られるとうかがわせる資料があったとは認められない。

(三)  そうすると、従前の行為にかんがみ日本赤軍の破壊活動を援助助長するような関係にあると認められる被控訴人について、「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当な理由がある者」に該当するとした本件拒否処分の判断は、右の諸事情に照らして不合理なものではなく、控訴人に与えられた裁量権を逸脱又は濫用した違法があるということはできない。

<書証番号略>及び被控訴人本人尋問の結果によると、被控訴人は、レバノンあるいはシリアにおいて長期間難民のために医療活動に献身してきたものであり、今後も同地域における医療活動を継続したいとの熱意を有していることが認められるけれども、このような事情を考慮しても、控訴人のした本件拒否処分を違法とすることはできない。

第四結論

以上の次第で、本件拒否処分の取消しを求める被控訴人の請求は失当というべきである。

本件控訴は理由があるから、原判決を取り消して被控訴人の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤繁 裁判官岩井俊 裁判官坂井満)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例