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東京高等裁判所 平成元年(う)719号 判決 1990年12月19日

本籍

東京都中野区本町三丁目一六番地

住居

同都調布市染地三丁目一番一九 多摩川住宅ハ-四-二〇一号

会社役員

石田篤

昭和二〇年八月二八日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成元年五月九日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があったので、当裁判所は検察官樋田誠出席の上審理をし、次のとおり判決する。

主文

原判決中被告人に関する部分を破棄する。

被告人を懲役八月に処する。

この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人安田秀士名義の控訴趣意書及び同弁護人、弁護人戸館正憲連名の控訴趣意補充書に、これに対する答弁は、検察官樋田誠名義の答弁書にそれぞれ記載のされたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一点(事実誤認・解釈適用の誤りの主張)について

論旨は、要するに、原判示第二の事実に関し、被告人は、原審相被告人中瀬古功(以下「中瀬古」という。)の脱税行為を幇助したに過ぎないのに、被告人を中瀬古の共同正犯と認定した原判決は、事実を誤認し、ひいては、刑法六〇条等の解釈適用を誤ったものであって、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、原審記録及び証拠物を調査して検討すると、被告人が、中瀬古と共謀の上、原判示第二のとおり、同人の昭和六一年分の所得税を逋脱した旨認定した上、その所為につき刑法六〇条、六五条一項を適用した原判決は、正当としてこれを是認することができる。すなわち、

原判決挙示の関係証拠によると、<1>被告人は、昭和四五年四月ころ有限会社明電工(同年一〇月以前は有限会社明電工事。同四八年八月株式会社に組織変更。以下「明電工」という。)に入社し、同五六年ころ以降中瀬古を実質的なオーナーとする明電工及び株式会社石田省エネルギー研究所(以下「石田省エネ研」という。)の取締役として活動してきたものであるが、同五九年ころ以降本格的な株式取引を開始した中瀬古が、株価を刺激することを避けると共に取引による利益を秘匿する目的で、借名・仮名口座を利用していることを知りながら、同人の依頼に応じて同人が被告人の名義を株式取引に利用することを認めていたこと、<2>被告人は、同六一年一〇月中旬ころ、中瀬古から、同月二日に始まった東京国税局の明電工に対する法人税法違反の査察の矛先が同人の所得税法違反に向けられる虞があるとして、その対策について相談された際、同人の同法違反が発覚して同人が告発、訴追され、ひいて受刑するような事態となれば明電工や石田省エネ研の存続も覚束ないと強い危機感を抱き、かかる事態を極力防止しなければならないとの気持から、中瀬古に対し、同人の株式取引による所得を七名に分散させるのが最良の策である旨提言し、これに応じた中瀬古との間で、同人の一連の株式取引が、同人とその妻芳江、同人の兄修、被告人及び明電工の幹部社員である近藤義久、中道能樹、池田謙司の共同取引で、その売買益も七名に分散帰属する旨仮装することを決めた上、近藤、中道、池田の三名に対しこれに協力すべき旨要求してその承諾を得、担当税理士や公認会計士らの協力により、同年一二月四日中瀬古の昭和六〇年分の有価証券売買益について七名に分散した虚偽の修正申告を行ったこと、<3>被告人は、その直後ころ更に中瀬古と協議して、同人の昭和六一年分の有価証券売買益についても、当初から七名に分散して虚偽過少の申告をするほかないことを確認した上、同六二年三月上旬ころ改めて他の五名からその承諾を得、公認会計士らの協力により、中瀬古以外の六名がそれぞれ虚偽の所得税確定申告書を提出すると共に、中瀬古において、原判示第二のとおり、同六二年三月一三日所轄税務署長に対し、同六一年分の総所得金額、所得税額につき虚偽過少の所得税確定申告書を提出して、そのまま納期限を徒過させたこと、以上<1>ないし<3>の事実が認められる。

このような事実関係によれば、被告人は、中瀬古との間で、同人の昭和六一年分の所得税を逋脱することについて相談し、これに基づき、その所得秘匿行為の重要な部分を積極的に実行したものであるから、中瀬古の共同正犯と認めるのが相当であって、被告人が、明電工及び石田省エネ研の役員という立場から、両社の実質的なオーナーである中瀬古のために本件犯行に関与したもので、自己の個人的利益を図ったものではなく、また、逋脱にかかる中瀬古の一連の株式取引に、当初から深く関与していた訳ではないことなど、関係証拠上認められる所論指摘の諸点(なお、所論のように、被告人が、中瀬古の有価証券売買益を七名に分散して申告することについて、これを合法的で許されるものと信じていたとは到底認められない。)をもって被告人の共同正犯性を否定することはできないところであって、これらの諸点は、量刑上被告人に有利に斟酌されるべき情状に過ぎない。

したがって、原判決に所論の事実誤認及びこれに基づく法令の解釈適用の誤りはなく、論旨は理由がない。

控訴趣意第二点(量刑不当の主張)について

所論に鑑み、原審記録及び証拠物を調査して検討するに、本件は、被告人が中瀬古と共謀の上、同人の所得税を免れることを企て、前示のとおり、有価証券の売買を他人名義で行うなどの方法によりその所得を秘匿し、同人の昭和六一年分の実際総所得金額が二五億六二二九万三四五一円あったのに、総所得金額が八億六八九五万六五三一円でこれに対する所得税額が五億六八二五万二四〇〇円である旨虚偽の確定申告書を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もって不正の行為により、正規の税額との差額一一億八四六九万七九〇〇円を免れた、という事案である。

右に見るとおり、逋脱にかかる所得税額が極めて巨額である上、逋脱率も約六七・六パーセントとかなり高率を示しているのみならず(但し、同年分の所得として中瀬古以外の者の名義で確定申告した分約七億五〇〇〇万円は、後日還付されて同人の昭和六〇、六一年分の所得税の本税の一部に充当されている。)所得秘匿の手段、方法が計画的かつ巧妙であることに照らし、犯情は全体として悪質、重大といわざるを得ない。

そして、被告人が本件共謀に加わった動機は、前示のとおり、昭和六一年一〇月二日に始まった東京国税局の明電工に対する査察を契機として中瀬古の所得税法違反が発覚し、同人が訴追され、受刑するような事態を招けば明電工や石田省エネ研の存立にもかかわるとの強い危機感から、是が非でもこれを回避するにあったものと認められ、その手段として、まず昭和六〇年分について他人名義を借用し、有価証券売買による同人の所得を分散して虚偽の修正申告をしたのに引き続き、本件の同六一年分についても当初から同様の方法で同人の所得秘匿を図ったものであって、同人の従前の犯跡を隠蔽すると共に新たな税の逋脱を策したすこぶる反社会性の強いものというべきである。加うるに、被告人は、さきに指摘したように、右所得秘匿工作を中瀬古に提言し、関係者の同意を取り付けてこれを推進しているのであるから、その刑責はたやすくこれを軽視することができない。

しかしながら、本件は中瀬古個人の所得税の逋脱にかかる事案であって、被告人は、共同正犯の刑責を免れないとはいえ、共犯者の内部においては従たる地位に止まることが明らかであり、明電工及び石田省エネ研における中瀬古の実質的オーナーとしての存在が余りにも強大であったため、個人的にも同人に心酔していた被告人が、同人に対する訴追を免れることを企業存続のためにも至上命題と考え、同人の犯跡隠蔽あるいは所得秘匿という行動に走らざるを得なかった点は、社会的には到底是認できないものの、当時の切迫した被告人の心情としてはあながち理解し得ないではない。そして、同様の心情から虚偽の修正申告あるいは確定申告により中瀬古の所得の分散、隠蔽に協力した者の中で、被告人が最も責任の重い立場にあることは争い得ないとしても、その余の者、殊に中瀬古芳江との間に格段の刑責の差異を認め得ないところ、同女を始めとする中瀬古以外の関係者はことごとく刑事訴追を免れているのであって、ひとり被告人に厳刑をもって臨むのは、その処遇にいささか権衡を失する憾なしとしない。

なお、原判決は、中瀬古の株式譲渡代金等の内から被告人が費消した金額は数千万円に上る旨指摘し、これを被告人の刑責を重いとする情状の一つに数えているが、関係証拠によれば、被告人は、中瀬古所有にかかる株式の譲渡代金などを預け入れていた太陽神戸銀行池袋支店の被告人名義の預金口座から約三五〇〇万円を引き出し、明電工の代理店関係者に対する接待費の外、被告人の個人的用途にも費消していることが窺われるが、右預金口座には、被告人の給与や被告人が中瀬古から贈与された資金を運用して得た被告人自身に帰属する資金が少なくとも三五六五万円は混入しているものと認められるので、被告人の個人的用途に費消した分は被告人に帰属する金額の範囲内に止まることが明らかであり、右金員の費消をもって被告人を非難するのは、当を得ないというべきである。

以上の諸点に、被告人には前科・前歴がなく、本件犯行を深く悔悟していること(なお、原判決後に石田省エネ研を解散し明電工の役員を辞任している。)、中瀬古において、昭和五九年分ないし同六一年分の所得税につき修正申告をした上、還付された税金を充当し、自己の資産を処分するなどして逐次納付に努力していること(原判決後に完納されている。)、中瀬古に対しては懲役三年及び罰金四億円の刑が科せられ(確定)、法秩序の回復が図られていること、その他所論指摘の首肯するに足りる諸事情を併せ考慮すれば、この際被告人を直ちに実刑に処するよりは、しばらく刑の執行を猶予し、自力更生の機会を与えることが一層刑政の本旨に合致する所以と認められるので、ことここに出ず、被告人に懲役八月の実刑判決をもって臨んだ原判決は、その量刑重きに失し、不当といわざるを得ない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三八一条により、原判決中被告人に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書に従い被告事件について、更に次のとおり判決する。

原判決の認定した被告人に関する事実に刑種の選択を含めて原判決と同一の法令を適用し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役八月に処し、前示情状に鑑み刑法二五条一項を適用して、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予することとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 堀内信明 裁判官 新田誠志)

控訴趣意書

所得税法違反

被告人 石田篤

平成元年九月四日

弁護人

弁護士 安田秀士

東京高等裁判所第一刑事部 御中

第一、原判決には事実誤認・法令の解釈適用の誤まりがあり、これが判決に影響を及ぼすこと明白であるので破棄さるべきである。

一、中瀬古功(以下単に中瀬古という)が昭和六一年分所得の一部を脱税した事実についての原判決の事実摘示は左記のとおりである。

「………所得税を免れようと企て、有価証券売買を他人名義で行う等の方法によりその所得を秘匿した上、…………昭和六一年分の実際総所得金額が二五億六二二九万三四五一円であつたのにかかわらず、同六二年三月一三日、前記北沢税務署において同税務署長に対し、同六一年分の総所得金額が八億六八九五万六五三一円でこれに対する所得税額が五億六八二五万二四〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、そのまま法定納期限を徒過させ、もつて不正の行為により、同年分の正規の所得税額一七億五二九五万三〇〇円と右申告税額との差額一一億八四六九万七九〇〇円を免れた」(原判決三丁裏~四丁表)

そして、原判決は、石田篤(以下単に石田という)を中瀬古の右所為の共同正犯者であるとしている。

二、石田が中瀬古の昭和六一年分所得税脱税に関与した行為につき以下検討を加える。

(一) 中瀬古の所得の秘匿について

a.中瀬古が昭和五九年以来「多数の借名口座を利用して他人名義の取引に分散する工作を行うなど所得秘匿の手段・方法が大がかりであるうえ、計画的かつ巧妙である」(原判決一三丁表)という所得秘匿を行なつてきたことに関しての石田の関与は、中瀬古に頼まれて(威圧されてやむなくという表現がより適切である)、自己の名義の使用を消極的に受諾したというだけである。

b.石田は、第三者に借名を依頼したこともないし、中瀬古に借名口座の利用をすすめたりしたこともない。脱税を教唆するような行為も全くしていない。中瀬古の株取引にならつて自ら株取引を行なつて利得の図つたこともない。(唯一の例外として、石田が昭和六一年五月二八日に山田建設の代表取締役に就任して週一回位の割合で山田建設に出勤しはじめて間もなくのころ、大田相談役から山田建設株二万三四六六株を単価七〇円で譲り受け、昭和六二年二月に明電工グループが山田建設の経営権をロイヤル航空グループに引渡した際に中瀬古の株と一緒に単価一五五〇円で譲り渡したことがある。しかし、これは、石田が山田建設の社長としての立場上保有していた方がよいとの考えのもとに保有したことであり、投機目的で保有したものではない。石田の昭和六三年七月二八日付検面調書、中瀬古の昭和六三年七月二九日付検面調書三項)

c.中瀬古に借名口座利用をすすめたという点で久保田進(以下単に久保田という)や高野肇元(以下単に高野という)(彼らの行為は単に借名口座をすすめたという以上に、脱税そのものの教唆というべきものである。)、自己の名義の使用許諾だけではなく第三者に借名依頼までしているという点で久保田、中瀬古芳江(以下単に芳江という)、中瀬古修(以下単に修という)(特に久保田の行為は極めて積極的である。)、自らも中瀬古にならつて株取引をして利得を得ているという点で、芳江、池田謙司(以下単に池田という)、中道能樹(以下単に中道という)等を指摘することができる。

石田の関与の程度は、これらの者に比して同程度かむしろ小さいというべきである。

d.原判決は、中瀬古の「指示するまま石田省エネから多額の株式購入資金を貸し付け」た(原判決一七丁表)ことを石田に不利な量刑事情としてかかげているが、これは、石田が単なる雇われ社長(それも形式的で社長としての実質的権限を有しない社長、なにしろ取締役会招集権限さえもない社長であつたのである)であり、中瀬古がワンマンオーナーであつた事実を全く顧慮しないもので誤りである。

中道能樹の検面調書を引用する。

「………石田省エネというのは、明電工の全くの子会社で、事務所の中で区別などもなく、石田さんが代表取締役というのもただ名前だけで………」(昭和六三年七月五日付=八〇枚つづり=三丁裏)

(二) 明電工の実態と明電工内部での石田の位置・立場

a.最盛期の昭和六一年当時でも明電工は、株式会社明電工と株式会社石田省エネルギー研究所両社あわせても従業員は合計四〇名程度の小さな会社だつたのである。内部部署の分担もほとんどなく、人事・経理関係を扱う総務部門は別としてそれ以外の部課の担当が決められておらず、近藤義久(以下単に近藤という)、中道、池田らは会社の業務全般を扱つていたのであり、石田も然りであつた。

(形式的には)石田省エネ研の専従の従業員であつた高橋文江(昭和五九年一〇月頃から昭和六二年六月頃まで石田省エネ研の取締役であつた)が供述しているように、

「………私は石田省エネルギー研究所の従業員でありますが、明電工であれ、石田省エネルギー研究所であれ、いずれも功さんが運営している会社であつて、どちらの会社の従業員も両会社の仕事に従事しているというのが実体です」(高橋文江の昭和六三年五月三〇日付検面調書三丁裏)というような実体であつた。

b.明電工と石田省エネ研の株主

両社とも中瀬古功と兄の修、妻の芳江ら親族で発行済株式総数の大部分を保有しており、この点からも明電工が中瀬古のワンマンカンパニーであつたことをうかがい知ることができる。

株式会社明電工の株主は左記のとおりであり、中瀬古、修、芳江の三名の持株比率は九〇%を超えている。

<1> 中瀬古修二一六〇〇株 <2> 功一四〇〇〇株 <3> 芳江八〇〇〇株 <4> 石田篤四〇〇〇株 <5> 長井一美四〇〇株

そして、石田省エネ研の株主は左記のとおりであり、前記三名に芳江の父小木曽槙雄を加えた四名の持株比率が七五%という高率になつている。なお石田の持株よりも近藤の持株の方がはるかに多いことも注目にあたいする。

<1> 中瀬古修二四〇〇〇株 <2> 功二四〇〇〇株 <3> 芳江一六〇〇〇株 <4> 小木曽槙雄八〇〇〇株 <5> 近藤一六〇〇〇株 <6> 石田八〇〇〇株

c.明電工(及び石田省エネ研)の役員会

昭和六一年四月にオリエントフアイナンスから出向してきた伊沢喜久雄が明電工の代表取締役社長に就任するまでは明電工の取締役会は全く開催されていなかつた。(木下良則の昭和六三年六月一一日付検面調書二丁裏~三丁表、竹森政治の昭和六三年六月四日付検面調書三丁表~裏)。そして、昭和六一年四月以降開催されるようになつた取締役会でもとりあげられる議題は、販売促進等に限定されていた。商法第二六〇条等によつて取締役会決議事項とされている会社の重要な業務執行事項、たとえば明電工で転換社債を発行することとか会社の金員の取締役個人への貸付けなどについては全く議題とされていない。全て中瀬古が独断で実行していたのである。会社の重要な業務執行事項については全て中瀬古が決定し、各取締役の印鑑を芳江と中瀬古とで占有保管していて、この印鑑を使用して取締役会議事録等必要書類をほしいままに作成していたのである。

会社の代表取締役社長であつた修でさえ会社の代表者印も個人の印鑑も中瀬古に預けつぱなしだつたのである。「………肩書きは社長でしたが、代表者印等も弟の功に預け……任させておりました」(修の昭和六三年七月一日付検面調書=七七枚つづり=三丁裏~四丁表)

石田省エネ研の代表者印も石田が管理していたことは全くなくて、中瀬古が保管して自由に使用していたのである。そればかりか石田個人の実印さえも芳江が保管していたのである。

「明電工は、オーナーの功さんにすべてその経営がとり仕切られてきており、会社の経営方針については取締役である私にも相談があつたということもありませんし、また会社の組織運営などについても功さんから相談されたということも、あるいは知らされていたということもありません」(木下良則の検面調書五丁裏~六丁表)

「明電工の経営は功さんによつて取り仕切られてきているのがその実態です。明電工の業務の執行に関する重大なことなどについては、功さんが取り仕切つてきていたことなどからだと思いますが、役員会に諮られていないのが実情なのです。」(竹森政治の検面調書六丁表~裏)

d.中瀬古の専断的人事権

(株)明電工と石田省エネ研の役員は、それぞれ別紙の一覧表のとおりである。

これらの一覧表を見ると、役員の変更が激しいことがよくわかる。役員の変動が多いのは、中瀬古がその時々の事情によつてかつてに役員を変更してきていたからである。

(株)明電工の取締役として名前を出す茂俣美奈子は芳江と中学校の同期生で、同窓会で芳江と出会つたことをきつかけに明電工に入社して経理事務の仕事をするようになつた者であるが、中瀬古に頼まれて名目的な取締役になつている。(茂俣美奈子の昭和六三年五月二三日付検面調書二丁表~四丁表)吉田光子は吉田工務店社長吉田力の妻であり、明電工に顔を出すことも全くない人物である。

石田省エネ研にいたつては、中瀬古修の妻の中瀬古次江、近藤義久の妻の近藤恵子、小木曽槙雄の妻の小木曽ユキ、事務員の高多直美、高橋文江、石田篤の妻の石田静江など名目的な取締役が非常に多い。これらの者が取締役になつたりやめたりの事実を石田は後になつてから中瀬古から聞かされたり会社の登記簿謄本を見たりして知り得たのみであつた。それ以外の役員の変更についても同様であつた。

関係者の検面調書の関連部分を以下に引用する。

「昭和五九年六月には相談役(中瀬古功)の意向により石田省エネルギー研究所の取締役にして貰いました。これは私の方から希望して取締役になつたものではなく、その頃相談役から

今度役員にしたからな

という趣旨のことを言われ、事後承諾的な形で役員になつた記憶です」(近藤の昭和六三年七月一五日付検面調書二三丁裏~二四丁表)

<木下良則>

「………五一年頃…中瀬古功さんから口頭で言われ 明電工の取締役営業第一部長 に就任しております」

(昭和六三年六月一一日付二丁表)

<小管輝雄>

「私は株式会社明電工が設立された頃明電工のオーナーである中瀬古功さんに声をかけられ同社の取締役に就任しております。現在も同社の取締役の地位にあるものと思つていましたが、ただ今検察官から六二年一〇月に取締役を辞任されているのではないかと言われ、初めて明電工の取締役の地位を失つていることを知り大変びつくりしているところです」(昭和六三年六月七日付一丁裏~二丁裏)

石田は昭和五六年五月二五日に石田省エネ研の取締役に就任し、同月三〇日に明電工の取締役に就任している。中瀬古から「明電工の名前ではやれないから新しい会社をつくらねばならない。名前を貸してくれ」と言われ、更に後日「役員にしたからな」と言われ、石田もまた近藤らと同様事後承諾的に役員に就任しているのである。就任承諾書も自分では作成しておらず、中瀬古が作成して登記をしているのである。

石田がカロリナと山田建設の役員に就任したときも中瀬古の指示によるものである。

e.石田は中瀬古の指示のもとで、明電工と石田省エネ研の事業の発展のために懸命に働らいてきた。

石田が東京大学を中退して明電工に入社した昭和四五年頃の明電工は社員一〇名位の小さな会社であり、石田は中瀬古について営業の見習い等雑用一切を手がけて早朝から夜遅くまで働らいた。そして電気についての専門知識を学ぶために昭和五一年に工学院大学夜間部の電気工学科に入学してがんばつた。石田の熱心な仕事ぶりは中瀬古にも少しつつ評価されるようになり昭和五六年からは石田省エネ研と明電工の営業面等の実務の中心的役割をになうようになつた。

両会社の資金繰りと経理・会計・人事そして対外的接衡などは中瀬古の専権事項であつたが中瀬古の決定した基本方針の枠内で石田は、会社内部の従業員や代理店のとりまとめの中心になつていつた。セーブドゥーシステムの成長期であつた昭和五七年頃から六〇年五月頃までは、石田は設置工事の先頭に立つて全国に出張に出かけ、一カ月の内二〇日位も出張していた。若い従業員と一緒に出かけて、施工制や営業のシステムを作りあげていくことが石田の仕事であつた。

石田は昭和五九年頃から中瀬古のところへ証券会社の外務員が出入りするようになつていたことを知つてはいた。しかし、そのころの石田はセーブドゥーシステム販売の実務的システムを作りあげるために全国をとびまわつて昼夜をとわず忘殺される毎日をおくつていたのである。その上に中瀬古の指示で昭和六一年五月に山田建設の社長に就任し、同年八月にはカロリナの専務に就任したのである。中瀬古の株取引の相談にのつているような余裕は石田には全くなかつたのである。

昭和六一年四月に初台のビルが完成するまでの明電工・石田省エネ研の事務所は幡ケ谷のマンションにあった。(石田の昭和六三年七月六日付検面調書末尾に添付されている石田作成の図面の写しを末尾に添付する)幡ケ谷の事務所では石田は一〇三号室の左方の大机で執務していて(前述のように全国に出張に出かけるあい間に執務していた)、中瀬古は一〇四号室の奥の方で執務していた。証券会社の外務員らも一〇四号室の方に出入りしていたのである。初台に移つてからも中瀬古は一階で執務し、石田は二階で執務していた。

石田は、中瀬古が株取引にのめり込んでいつたあとも明電工・石田省エネ研の正業の中心になつて多忙な毎日を送つていた。時々中瀬古から証券会社の外務員を紹介されたり、業務提携について参考意見を求められたりすることはあつたが、それは石田の生活の中でごくごく小さな一部分でしかなかつた。

明電工が国税局の調査を受けたあとも代理店や従業員の動揺をおさえ、明電工の営業を守ろうとして石田は従業員の中心になつて働らいてきた。

f.石田は中瀬古の忠実な使用人にすぎなかつた。石田は、表面的には、あたかも中瀬古から明電工の重要事項についても相談を持ちかけられているようにみえる場合もあつたが、内実は、中瀬古の決定したことにただ相づちを打つだけ(せいぜいのところ中瀬古が決定するための参考意見を求められるだけ)のイエスマンであつた。

石田は、大学生時代にキリスト教の教会で中瀬古と知り合い、中瀬古という人物に心酔し、個人企業で将来性については全く未知数の当時の明電工に東京大学を中退して入社したのである。石田と中瀬古との関係はあたかも小学生と学校の先生との関係のようなものである。中瀬古は石田に対して絶大な威圧感を与える存在であつた。明電工の中で、中瀬古にある程度でも対等に意見が言える立場にあつたのは実兄の修と妻の芳江の二人だけであつた。(修の昭和六三年六月二日付検面調書二項、同七月一日付六項、同八月四日付八項、芳江の昭和六三年七月六日付検面調書六項等)

石田と中瀬古とでは最初から立場が全く異なつており、石田が中瀬古に対して「意見」を述べることがあつたとしても、それは対等な立場からの「意見」ではなく、中瀬古の意志を先取りして表明するというものであり、石田は中瀬古の単なるイエスマンでしかなかつた。

以下に中道と池田の各検面調書から関連部分を引用する。

<中道>

「既に御承知かと思いますが、明電工は相談役(中瀬古功)のワンマン経営で、相談役に逆らつたら明電工を辞めさせられるしかありませんでした………」(昭和六三年八月四日付六丁裏~七丁表)

<池田>

「会社の経営については明電工、石田省エネ研、関連子会社の中島産業、ビデオテックスなど全て中瀬古功さんのワンマン経営であつたと言つても過言ではありません。」(昭和六三年七月六日付三一丁表)

「石田篤さんは芳江さんと比べるとずつと功さんとの相談を重ねており、外見的には功さんと二人で相談して重要な事柄を決めていたように見えたかも知れませんが、実態は既に功さんが決定したことを言葉上

こういうようにしようと思うが

どうかな

などといかにも相談を受けるように持ちかけられて、自分なりの意見を功さんの意向に沿うように述べるだけのイエスマン的な存在でした。

つまり功さんは自分が決めたことを石田さんにも賛成して貰つて自己満足するという形で石田さんに話を持ちかけるだけで、決定それ自体に石田さんを加えるというようにはしていなかつたのです。石田さんでさえも功さんから

何やつてんだお前は

などと怒鳴りまくられることも度々だつたのです。」(前同三三丁表~裏)

「私達にとつて功さんはただ一人の経営者で絶対的な存在であり、私などは功さんの役員室に呼ばれて顔を合わせるだけで脇の下に汗をかく程緊張したものです」(前同三四丁裏)

(三) 中瀬古の昭和六一年分所得秘匿工作については、中瀬古一人の株取引を七名の共同取引と仮装して中瀬古の所得を秘匿したという問題があるので、この点について以下詳論する。

a.石田は、昭和六一年一〇月二日に東京国税局の株式会社明電工に対する法人税法違反容疑(中瀬古に対する所得税法違反容疑ではない)による査察調査が開始されたあと、国税局が中瀬古の所得税法違反にも強い関心を寄せていること、中瀬古が膨大な株取引について全く納税してきていないことを知らされた。石田は、中瀬古が告発されないように最大限の努力をしなければならないと考えたのであるが、このことは直ちに脱税の教唆、幇助を考えたということではない。合法的に許される限りの努力をしなければならないと考えたのである。このことは、芳江、近藤、池田、中道についても同様であつた。

b.中瀬古は明電工及び石田省エネ研の創業者兼オーナー、それも全くワンマンオーナーであつた。(石田省エネ研という社名によつて、石田が実権を有している会社ということをいささかなりとも想起することは全く誤りである。中瀬古が、明電工及び中瀬古とは一見無関係な会社を前面に押し出すことによつて電力業界等の風あたりをやわらげようと考えて、石田の名前、そして石田そのものを利用しただけのことなのである。)

石田は中瀬古に対して絶大な威圧感をいだいていて、中瀬古の単なるイエスマンでしかなかつたし、近藤、池田、中道の三名にとつては、中瀬古の存在はほとんど神様であつた。

中瀬古(イコール明電工)の利益を守るために、できる限りの自己犠牲を払うことは、石田以下の四名(石田、近藤、池田、中道)にとつてはごく自然で当然のこととされていたのである。

c.中瀬古の昭和六一年分株取引を七名の共同取引と仮装することを決定し、実行したのは、あくまでも中瀬古であり、石田は中瀬古の決定に従つて遂行の手伝いをしただけのことである。

中瀬古は、昭和六一年一〇月二日に東京国税局の査察が入つたことに大変ショックを受け(この段階では他の関係者らは査察の意味する深刻さをほとんど理解できていなかつたのと対照的である)、直ちに弁護士と対応策を協議し、専門家税理士に依拠することが大切であると判断していた。そして、川島貢税理士、澤会計士の意見あるいは反応を軸にしながら昭和六一年一二月三日に、七名共同取引として昭和六〇年分の修正申告をすることを中瀬古が最終的に決定したのである。そして、昭和六一年分の中瀬古の株取引について七名の共同取引として確定申告することを昭和六二年二月二五日に最終的に決定したのも中瀬古である。他の共犯者らは中瀬古の存在の大きさゆえに(そして査察に対する理解が不足していたがゆえに)異議をとどめることなく消極的に承諾しただけのことである。

芳江の検面調書から関係部分を以下に引用する。

「昭和六一年九月一七日に国税局の直税部が調査に来ました。ですがこの時も中瀬古はさほど動揺している様子はなかつたし、私もその中瀬古の態度を見ていて大したことはないのだと安心していました。」(昭和六三年七月一四日付九項)

「ところが……昭和六一年一〇月二日の早朝に突然東京国税局査察部が私の自宅に家宅捜索に来られ、その日から厳しい調査が始まりました。

………一〇月三日の朝に中瀬古と会つた時には中瀬古が前の直税部の調査の時とはまるで人が違つたようにふさぎ込んで両手で頭を抱えて髪をかきむしりながら

大変なことになつた査察は徹底して調べ上げるんだから これでは明電工も終りだ

と言つていました……そして……査察部が調べ上げた上で金額が多かつたり悪質だつたりしたことがばれたら……場合によつては刑務所に入れられてしまうかも知れないとわかりました。そこで中瀬古と私は検察庁に回されたり裁判にかけられたりするのを防ぎたい……できるだけ穏便に消ませてもらいたいと思い……小谷野三郎弁護士を訪ね相談しました。」(前同一〇項)「何度か川島先生に会つて先生から今後のことについてのご指導を受けていた様子で、それは中瀬古の言動からよく分かつていました。」(前同十一項)

「中瀬古は第一段階としてはまだ人数を決めずに私に対し

何人かの共同取引だつたことにしてくれ

と頼み、後日第二段階としてその人数を決定して

七人での共同取引

と指示してきた………」(前同十二項)

次に中瀬古の検面調書の関連部分を引用する。

<昭和六〇年分修正申告について>

「私自身は資料調査課の調査を受けた時点(昭和六一年九月一七日)で明電工の顧問弁護士であつた小谷野三郎先生に調査を受けた事実を通報し、先生からは遅くとも査察調査を受けた(同年一〇月二日)直後頃には新橋方面の横山税理士を紹介された記憶です。」(昭和六三年七月一七日付一丁裏~二丁表)

「川島先生は、急いで、申告して下さい。七人の取引とする証拠は不十分ではあるが本人の気持が皆なに分けるつもりであつたと言うのだから七人の取引でいいでしよう。

などと言い、七人分の修正申告書用紙に川島先生の記名押印をしてくれたのです」(前同九丁)

「私が国税局によつて告発され重い処罰を受けるようになつては明電工や石田省エネ研の運営にも重大な支障をきたすであろうことを心配した石田君らの配慮により、私は本来自分自身の納付すべきはずであつた税額を小さなものとさせてもらつたのです」(前同十一丁表)

<昭和六一年分過少申告について>

「昭和六二年一月になつて、澤先生が明電工の初台の事務所に顔を出され、私に対し、

昭和六一年の所得税の確定申告も修正申告の際と同様の方針でなさいますね

と言って、……昭和六一年中の私の株式取引が…七人共同の取引であると偽つて確定申告することの確認を求めましたので、私は躊躇する気持ちも若干ありましたが思い切つて

御願いします

と答えました。」(昭和六三年八月四日付三丁裏~四丁表)

「それにつけても、会社や私に対する好意で私と共に七人共同取引説を唱え、私の道連れとして逮捕された石田、近藤、池田や私の妻に対しては申し訳ないことをしたと思つております。」(前同一〇丁表)

「私の所得を小さく見せかけると言つても、七人について確定申告書を提出した後の納税は、全部私の負担においてするわけでしたから、国家に入る税金の総額自体は、私が株式取引を私一人のものであるとして正直な申告をする場合と比較して極端に少額になるということはないものと思つておりました。」(前同十二丁裏~十三丁表)

「………確定申告についての方針を最終的に納得し決断したのは、……当の本人の私であつたことは間違いなく、七人共同取引説に立つて確定申告をしたことについて、その責任を他人になすりつけようなどという気持はありません。」(前同十七丁)

d.中瀬古の昭和五九年分、昭和六〇年分株式取引を七名の共同取引として仮装できないかと最初に口にしたのが石田であつたとしても、石田は中瀬古から何かよい考え(合法的に中瀬古が刑事処分を免れうるようなよい考えという意味である)はないかと迫られて(そのような状況下で)、中瀬古の意志を先取りして意見を表明しただけのことである。このような方策が合法的であるかどうか、中瀬古と明電工の損害を小さくくい止めるためのベストの方策かどうかなどについては、税理士、会計士らの意見なども参考にしながら中瀬古が最終的に決定したことである。

石田はもともと明電工や石田省エネ研にとつての重要事項についてさえ中瀬古と共同決定権を有する立場にはなかつた。せいぜい中瀬古の気が何いた時に参考意見を求められる立場でしかなかつた。

以下に石田の検面調書の関連部分を引用する。

「今回の相談役の脱税事件について相談役の株取引を七人の共同取引にしようと言い出したのは私ですが、これは相談役の意を体して言つたことです。……相談役は査察後、私の手を握り

自分もつらい助けてくれ

と何度も言つたのです。それにまた、相談役は自分で助かるために各方面に手を伸ばし、金だつて使つているのです。

………川島税理士から、税額で一億円超えれば告発され、三億円超えれば実刑判決を受けると聞けば、相談役の株取引の儲けが実刑判決の基準を超えていることを知つている者ならば誰でも相談役を救うためには儲けを分散するしかないと考えます。自分の株の儲けがどれだけあつたかをよく知つている相談役が、助かるためにどうすべきかはすぐにわかつた筈です。しかし、自ら脱税という悪い事をしてしまつていた相談役が私達部下に対し

(皆なでおれを助けるために泥をかぶつて申告してくれないか)

とは言い出しにくいことだろうと私は思いました。………当事者である相談役が……仲間に引きずり込むことを頼むのは難しいことだろうと思つたので私は相談役の意を体して七人組の主張を提案したのです。

……私は相談役に右のような提案をしたときも、その後も、現在もなんら私心は抱いておりません。」

(昭和六三年八月四日付=九枚綴り=、一丁表~四丁裏)

「私は、相談役の助かりたいという意図を察したがために七人組の共同取引ということを言い出しました。

……相談役を告発から免れさせ、少なくとも実刑判決だけは受けないようにするためには七人組の共同取引ということにするしかありませんでした。相談役にしたつて、このことはよくわかつていた筈です。しかし、そうするには罪のない人達を仲間に引きずり込まなければなりません。しかし、当事者である相談役の口からは言い出せないことだろうと考えて、私は自分の口から言い出したわけです。」(昭和六三年八月八日付、三丁裏~四丁裏)

「相談役が

自分一人で責任をとる。みんなをまき込むわけにいかない

と一言、言つてくれさえすれば足りることでした。相談役がはつきりそのように言つてくれるのであれば私だつてそれに従います。そして私の部下をまき込むような馬鹿なことはしませんでした」(前同、九丁裏~一〇丁表)

「……相談役が

七人組というのは無理だから

とはつきり言つてくれたのであれば、私だつてそれにこだわりはしませんでした。」(前同、十一丁表)

e.なお、石田は昭和六二年二月頃は、中瀬古の昭和六一年分所得税を七名の名義で分散して申告、納税しても全体としての納税額がほとんど変わらないのであるならば合法的で許されると信じていたのである。少なくとも違法性の小さい行為(それほど悪質でない行為で国税当局が容認してくれる行為)であると信じていたのである。(それどころか昭和六〇年分修正申告については無申告状態に比べて中瀬古の情をよくする行為、国税当局に納税の意思のあることをアピールする行為であると信じていたのである。)川島税理士や澤会計士から違法であるからやめるべきであるとか、かえつて情を悪くする結果になるからやめるべきであるなどとの指摘を受けなかつたことが石田の右誤信の重要な原因となつていた。

近藤、池田、中道らも石田と同様の誤信に陥つていたのである。

彼らは、中瀬古名義の昭和六一年分申告は過少申告であるけれども他の六名名義の申告も合算すれば過少申告にはならないと認識していたのである。彼らの認識はまちがつた認識であり、やがて彼らもそのことに気づいていくのであるが、当時彼らが誤信したことについては無理からぬ事情があつたのである。

(この点については後述第二、一、(二)で詳述する。)

ちなみに、七名の昭和六一年所得税申告額は別紙申告額一覧表のとおりの合計約一三億八四〇〇万円であり、原判決が認定した正規の税額との差額は約三億六九〇〇万円(誤差率約二一%)である。この誤差は大きいが、資料的にも極めて制約された状況下での石田らの当時の正規税額の認識は概略的なものにならざるをえなかつたことが考慮されねばならない。

f.近藤、池田、中道の三名が七名共同取引説に加担した主な原因は石田の説得ではなくて、彼らにとつて中瀬古の存在が巨大であつて中瀬古が決定したことには無条件に従うという関係にあつたことと、彼らが石田と同様の誤信に陥つていたなどの理由から七名共同取引説に加担することを合法的に許されることあるいは違法性の小さいことと安易に考えていたからなのである。

原判決はこの点でも石田の役割を異常に重要視しすぎている。原判決が「近藤義久ら部下を説得してその旨納得させて……」(一七丁表)としているのは、現象面のみ短絡的に眼を奪われた皮相な把握に基因する重大な誤まりである。

以下に中道の検面調書の関連部分を引用する。

「……続けて中瀬古相談役がその場にいた皆に

どうだ七人で行つてくれるのか

そうすれば会社も今まで通り

やつていける

と言つて来たのです。…私はそこまで相談役や会社が追い詰められていると思うとただだまつてうなずくしかありませんでした。更に相談役は

税金は株の利益から払うから

君達に迷惑はかけない

とも言つておりました。」(昭和六三年六月七日付、二七丁裏~二八丁裏)

「……まず澤先生の方から

株取引を七人に分配してみました

……………………

これが税法の面からも正しいやり方ということです。こうして共同にすれば問題なく行けます。

などと説明したのです。

……共同取引にすれば後から脱税などの大事件にならずにうまく切り抜けられるやり方というようにしか受け止められませんでした。脱税として相談役が検挙されるのを避ける方法はこれしかないということを言つて来てるのだと思いました。」(前同二八丁裏~三〇丁表)

次に近藤の検面調書から関連部分を引用する。

「………たまたま私が仕事の件で二階の石田社長室に行つたところ、………私に相談役の株の取引のことを口に出したのです。その時の言葉をここでそのまま再現できるほど記憶力がありませんが、私の記憶に残つているところで申しますと、

一人にすると税金が多くて

あれなんだよな

というような言葉でした。……石田社長が本当に困りきつた様子でそんなことをぼつんと言うものですから私も是非何かお手伝いしたいと思い

私で出来ることは何でもします

と返事をしておきました。とにかく明電工や明電工を中心とした明電工グループは相談役がいてこそ存立しているようなものであり、その相談役に税金の問題にしろ、勿論刑事問題にしろ、打撃を蒙るようなことは一大事であるという考えでした。そのことは私だけでなく社内の誰もが有していた共通の意識であつたと思います。」(昭和六三年七月一二日付、九丁表~十一丁表)

「………川島先生を交じえての打ち合わせの際に個人の分は早く修正申告した方がいいですね それだけ

国税の受けがいいんですから

という話しになつておりましたから、………早く修正申告すれば、それだけ国税の方でも脱税事件を穏便に処理してくれるものと理解しておりました。」(前同三五丁裏~三六丁表)

池田の検面調書からも一カ所だけ引用する。

(昭和六一年一二月三日初台の事務所の地下会議室での打ち合わせの際に)「この打ち合わせの席ではまず澤先生が皆に向つて

中瀬古相談役から言われて吉田工務店の割当増資を基本にするということでその比率に従つて一人一人に取引を分けてみました

などと言つて挨拶し………

……六〇年分は手元にある資料の通りですからこれが皆さん一人一人の取引ということで説明して貰うようになります。皆さん良く頭に入れておいて下さい

などと言つていました。

……その後今度は川島先生が皆に

作業は大変だつたでしよう ご苦労様でした 多少遅れたけれど急いで修正申告して下さい 株については七人とする証拠も一人とする証拠もないようです だから一人の取引であつたと決めつけることは出来ないので七人で修正申告しても大丈夫です

などと言つて来ました。」(池田の昭和六三年七月一四日付検面調書二〇丁表~二一丁裏)

(四) 原判決は「中瀬古及び同石田の両名は、共謀の上、……有価証券売買を前同様他人名義で行う等の方法によりその所得を秘匿した」(三丁裏)と認定しているが、これは全くの誤まりである。

中瀬古は昭和五九年以来膨大な借名口座を利用して株取引を行つてきていたが、石田は中瀬古と借名口座等の方法を利用した株取引について共謀したことは全くない。昭和六一年度についても中瀬古は証券会社外務員らと相談しながら大がかりな株取引を実行していたのであり、石田は中瀬古の株取引について相談相手になつたことさえないのである。石田は昭和六一年一〇月二日の査察調査のあとになつてから初めて中瀬古の株取引の概要を知るようになつたのであり、それまでは概略さえも知らされていなかつた。

石田が中瀬古の昭和六一年分所得税の脱税に関与するようになつたのは、あくまでも一〇月二日の査察調査開始のあとになつてからである。より正確には昭和六一年一二月四日に昭和六〇年分修正申告提出が終つて以後のことである。石田にとつて中瀬古が昭和六一年分所得税申告をどのようにするのかに関心が向くようになつたのは昭和六一年一二月四日以後のことである。

それ以前に中瀬古の昭和六一年分所得の秘匿・借名口座利用の株取引などについて中瀬古と石田とが共謀し共同実行するなどということは全くありえないことである。

三、まとめ

(一) 中瀬古の昭和六一年分所得税脱税行為についての石田の関与は以下の三点に尽きる。

<1> 中瀬古の意を体して昭和六〇年分の中瀬古の所得税脱税について、七名共同取引と仮装しての修正申告をするという中瀬古の決定に従つて準備作業に加わつた。そして、昭和六一年一二月三日中瀬古の昭和六〇年分株取引を七名の共同取引と仮装して修正申告する旨の明電工地下会議室での謀議の場に出席し、これを消極的に了解した。

これらのことが、昭和六一年分の中瀬古の株取引を、七名の共同取引と仮装して所得税申告するとの中瀬古の決断の一つの誘因となつた。

<2> 昭和六二年二月二五日、ビデオテックス会議室に関係者が集まつた席に出席し、澤会計士らが中瀬古の昭和六一年分所得税について同人の株取引を七名の共同取引として申告する旨説明して出席者の了解を求めたのに対してこれを消極的に了解した。(石田昭和六三年八月二日付検面調書八項、修同年八月四日付検面調書、芳江同八月二日付六項、近藤同八月三日付三項~四項、池田同七月一四日付九項~十三項、中道同七月五日付=四枚綴=、同八月四日付四項~五項、中瀬古八月四日付六項~七項)

<3> 中瀬古の昭和六一年分所得二五億六二二九万三四五一円のうち約一億九千万円を石田篤名義で申告することを消極的に承諾し、昭和六二年三月一三日にその旨の申告書を税務署に提出した。

(二) 石田の右関与好意はあくまでも中瀬古の昭和六一年分所得税脱税行為の部分的且つ受動的な補助行為であるにすぎない。そして石田の行為は専ら中瀬古の利益のために一方的に奉仕する関係の行為であり、相互に利益を付与しあう関係にはない。

従つて、石田の関与は、従犯(幇助犯)であると言うべきであり、原判決が共同正犯と処断しているのは事実誤認あるいは刑法第六〇条、第六二条等の解釈適用の誤まりであり、この誤まりが原判決に影響を及ぼすこと明白である。

第二、量刑不当

一、犯行の動機

(一) 石田が中瀬古の昭和六一年分所得税脱税に関与した動機には自己の利得を図る意図は全く含まれていない。専ら中瀬古個人及び中瀬古のワンマンカンパニーであつた明電工などの企業、ひいてはそれら企業の従業員の生活を守ろうとの心情に起因したものであつた。関連従業員等の数は、(株)明電工と石田省エネ研あわせて約四〇名、山田建設が約七〇名、カロリナ約一一〇名、吉田工務店約五〇名、明電工代理店約四〇店、施行場所(ユーザー)約五〇〇〇件という多数になつていた。多数の人に迷惑をかけることになるのを何とか回避したいとの心情に出たものであつた。

(二) そして石田の心情は、明確な違法行為にあえて加担しようというものではなくて、最大限の自己犠牲を払つてもよいから合法的に許される、できる限りの努力をしようとの決意を出発点としていたものである。重大明白な違法行為にあえて加担するとの決意は全くなかつたのである。

a.税法の分野で合法的に許される行為と違法で許されない行為との区別を正確に判断することは、時に極めて困難なことがありうる。だからこそ中瀬古は限界事情に精通している専門家税理士らのアドバイスを求めたのである。

中瀬古は、中瀬古及び明電工グループにとつて最も有利で且つ合法的な方策を考え出してくれることを川島税理士及び澤会計士らに求めていたのである。本件の現実に即して中瀬古及び明電工グループにとつて合法的に許されるベストの方策は何か?とか中瀬古個人の所得を七名の所得に分散して七名の名義で申告・納税することがトータルの納税額が変わらなければ合法的なものとして許されるのか否か?などについては専門家のアドバイスを受けないと正確な判断を下しにくい問題である。

b.石田らが自らの行動を合法的で許されることであると信じていたのは間違いであり、特に最高裁判所の昭和四六年三月三〇日判決(判例時報六二号)などが出されている状況下ではなおさら然りである。

しかし、石田が誤信に陥つてしまつたについては石田に同情すべき左記の諸事情が存在する。

<1> 中瀬古は、昭和六〇年分所得税について、所得を七名に分散して七名の名義で昭和六一年一二月四日に修正申告した。

これについて専門家の川島税理士、澤会計士は、違法であるからやめるべきであるとのアドバイスを全くしなかつた。むしろ消極的にせよこれを容認することによつて、中瀬古らに対して客観的には合法的であるとの判断を与えた。

<2>  澤会計士は、中瀬古らが七人の共同取引ということにしてほしいと言つているのは、利益を七等分することによつてほ脱額を少なく見せかけようとしているのだと理解していながら、そして所得を七人に帰属させることは正しくないと判断していながら、あえて作業担当者の矢崎所員に対して

「七人での取引だということにして作業を続けて下さい」と指示していたのである。(澤力の昭和六三年六月一七日付検面調書七項)そして、同会計士は「現在私はこの中瀬古さんらの申告手続きに関与したことを深く反省しております。査察というものについての経験が十分ではなくそのために川島先生に責任をかぶせるつもりはありませんが、国税のOBで査察に明るいという川島先生も了解してくれているということから軽率な行為を行なつてしまいました。」(前同二一丁裏~二二丁表)と述べている。

つまり、澤会計士でさえも、査察税務の処理に精通しているという川島税理士が容認していたことによつて、違法な行為であるとしても違法性が小さくて国税当局も許容する範囲内の行為であると誤信していたのである。石田が誤信したとしても無理からぬと言つては過言であろうか?

<3> 中瀬古の昭和六〇年分所得修正申告は昭和六一年一二月四日に七名分全てについてそれぞれの所轄税務署ですんなりと受理され、納税も同月六日にすんなりと完了した。

<4> 中瀬古の右修正申告について、明電工に対する査察調査中であつた東京国税局からも、違法であるとの指摘も指導もなかつた。

東京国税局は当時(昭和六一年一二月上旬頃)既に中瀬古の所得税法違反についても重大な関心を示していてかなりの資料も所持していた。明電工関係者からの事情聴取もひととおり終つていて聴取の対象はむしろ中瀬古の株取引に向けられていたのである。「私への呼び出しは、ほかの人達よりもかなり遅れて六一年一二月二日に国税局へ行きました」(芳江の昭和六三年七月一四日付検面調書三二丁表)川島税理士が中瀬古の修正申告の動きについて、中瀬古の情状をよくするために東京国税局に対して報告、説明していた筈である。更に、澤会計士も「修正申告書を提出して間もないころに、私は矢崎を国税局に行かせて修正申告書の説明を」させているのである。(澤力の前記検面調書一八丁裏)にもかかわらず東京国税局は中瀬古の所得税六〇年分修正申告について違法であるとの指摘を行なわなかつたのである。

<5> 以上の諸事情から昭和六二年三月はじめ頃の石田らは中瀬古の昭和六一年分所得について、七人共同取引として処理することを許容してくれるであろうと誤信してまつていたのである。東京国税局が許容しないのではないかと石田らが考えはじめたのは昭和六二年四月に東京国税局が中瀬古の所得税法違反容疑で査察調査を開始してからであつた。

c.石田が中瀬古の昭和六一年分所得税申告を七名名義で分散申告することが合法的に許容されるのではないかと判断したのは重大な誤まりであつた。しかし中瀬古と明電工グループを何とか助けなければならないと、おぼれる者わらをもつかむの心境であるところに前記<1>~<4>のような諸事情が重なれば誰でも誤信に陥つてしまうにちがいないと断言しても決して過言ではないというべきである。

(三) 石田が中瀬古の昭和六一年分所得税脱税に加担した動機は、以上の通り極めて同情すべき点が多いものであるというべきである。石田の犯行の故意は末必の故意に近いものであり、違法性も有責性も小さいと評価さるべきである。

二、犯行の態様(他の共犯者との比較)

(一) 中瀬古功の脱税行為についての共犯者の関与事実、程度を整理すると以下のとおりである。

a.芳江

<1> 明電工など三つの会社の役員で報酬月額は合計一四〇万円である。(芳江の昭和六三年六月二七日付検面調書三項)。

<2> 中瀬古の株式取引に関する借名口座については単に自らの名義の使用を承諾しただけではなく、積極的に他人を説得し、その相手は両親の小木曽槙雄、同ユキ、妹の同篤子、おじの嶋本泉治、金子大吉の六名にのぼる。

「私もせつかく株で儲けても税金でその儲けを吐き出すよりは、名義を借用してくることで税金をごまかすことができるのなら協力しようと考え、私の身内に頼んで名義を貸してもらうことにしました」

(芳江の昭和六三年七月一三日付検面調書三六丁裏)

昭和五九年一二月の吉田工務店第三者割当増資に関する借名工作についても、芳江は自らの名義使用を承諾したのみならず、中瀬古と二人で人選をし、説得にもあたつている。そして、かねて保管管理していた明電工の角印と丸印(代表者印)を押捺して「名義借用のための念書」を作成しているなど極めて積極的な役割をはたしている。

<3> 昭和五九年分、六〇年分の中瀬古の脱税についても、堀越税理士事務所の清水英治事務員に嘘の説明をして不正な申告書を作成させるなど重要な役割をはたしている。(清水英治の昭和六三年五月三〇日付検面調書九丁表~一〇丁表、同五項、六項、同人の同年六月一六日付検面調書特に九丁裏~二一丁裏)

<4> 昭和六〇年分の修正申告と昭和六一年分過少申告への加担もしている。昭和六一年分自己申告額は約二億二五〇〇万円で共犯者中最高額である。

<5> 昭和六〇年一一月一二日以降自らも株取引を行ない、約四九〇万円の利益をあげている。(芳江の昭和六三年七月一八日付検面調書、特に九丁裏~一〇丁表)なお、芳江の株取引と子供名義の株取引の利益との合計利益額は約一億七〇〇万円となつている。(東京地方検察庁事務官村松高男作成昭和六三年七月一四日付報告書=芳江の前同検面調書末尾に写し添付)

b.修

<1> (株)明電工と石田省エネ研両方の筆頭株主であり、最盛時の報酬月額は合計約二五〇万円である。(修の昭和六三年七月一日付=六九枚つづり=検面調書一丁裏)

<2> 中瀬古が株取引をはじめるに当つて相談を受けてこれを了解し、自分の名義の使用を快諾した。そして、それのみならず松澤トシ子とその息子の松澤光徳に対して借名の依頼をしている。(修の昭和六三年七月一日付=七七枚綴り=検面調書一四丁裏~一六丁裏)

<3> 昭和五九年分、六〇年分の自己の所得の申告手続きを中瀬古にまかせ、納税も中瀬古に負担させている。(修の昭和六三年六月二日付検面調書九項)

<4> 昭和六〇年分修正申告と昭和六一年分過少申告にも加担もしている。昭和六一年分自己申告額は約二億一七〇〇万円である。

<5> 中瀬古から小遣いとして合計約三〇〇〇万円を受領している。

c.近藤

<1> 明電工入社は昭和五七年九月頃であるが、中瀬古とは明電工の取引先であつた田中商事社員時代からの付き合いがある。「私と相談役とは昭和四九年ころからの長い付き合いでありお互いに信頼しておりました」(近藤の昭和六三年七月一八日付検面調書六丁表)

<2> 中瀬古の株取引につき自己の名義の使用を承諾していた。

<3> 昭和六〇年分修正申告と昭和六一年分過少申告にも加担している。昭和六一年分の自己申告額は約九〇〇〇万円である。

<4> 昭和五九年一二月四日にBT一〇〇〇株を買い、昭和六〇年九月ころCTAの転換社債二〇〇〇万円を購入し、その後東芝一〇〇〇株を購入した。

そして、中瀬古から小遣い等名目で約二四〇万円を受領し(近藤の昭和六三年七月一六日付検面調書三〇丁表~裏、七月一八日付一四丁裏)、近藤義久名義の三井総合口座通帳から計一一〇〇万円を引き出して費消した。(近藤前同二四丁裏、同二五丁表及び末尾添付預金通帳写し五頁の昭和六一年一〇月九日引出欄)両者の合計額は一二四〇万円となる。

d.池田

<1> 三一才の若さで月額報酬合計八〇万円を得ていた。(池田の六月二八日付=一三枚綴り=検面調書九丁表~一〇丁表)

<2> 昭和五九年八月か九月頃中瀬古から株取引借名を頼まれて承諾した。(池田七月一二日付検面調書四丁表)

<3> 昭和六〇年分修正申告と昭和六一年分過少申告にも加担している。昭和六一年分の自己申告額は約四五〇〇万円である。

<4> 中瀬古から預つていたシヤクリ株売却益約三四〇万円を費消し、池田名義の加州相互銀行預金通帳から計約三五〇六万円を引き出して費消した(池田七月一四日付検面調書一八項)。両者の合計は三八四六万円となる。

e.中道

<1> 中瀬古の株取引につき昭和五九年夏ころから自己名義の利用を承諾していた。

<2> 昭和六〇年分修正申告、六一年分過少申告にも加担している。昭和六一年分自己申告額は約四五〇〇万円である。

<3> 中瀬古にすすめられて株取引を行ない、約六〇万円及び吉田工務店一万株及びカロリナ一万株(両者の購入代金は合計五五〇万円)の利益をあげている。一株一〇〇〇円で計算すると中道の得た利益額は一五一〇万円となる。

<4> 小遣い名目等で中瀬古から一〇六〇万円と山田建設株二〇〇〇株を受けとつている。山田建設株を単価一〇〇〇円で計算すると中道の受領額は計約一二六〇万円となる。

f.久保田

<1> 中瀬古の株取引にあたつて借名口座の利用をすすめ、自らも極めて多くの借名口座を中瀬古のためにかき集めている。

<2> 中瀬古から左記のとおり計約一億六一〇〇万円を受領している。(但し、久保田は否認している)。

イ.三〇〇万円(中瀬古八月七日付=一一枚綴り=検面調書二丁裏)

ロ.五〇〇万円(同三丁表)

ハ.四五〇〇万円(同六丁表、13500-9000=4500)

ニ.約一億円(同六丁裏~九丁表)

ホ.吉田工務店株八〇〇〇~一万株(同一一丁表~裏)単価一〇〇〇円の八〇〇〇株で計算すると八〇〇万円となる。

(二) 石田の関与の態様、程度について他の共犯者との比較検討を加える。

a.石田は、山田建設、カロリナの役員をも兼務していた最盛時の報酬月額合計が約一七〇万円であつた。(石田七月四日付検面調書九丁表)これは芳江より多いがほぼ同格であり、修は二人よりも一ランク上である。

b.中瀬古が株取引を開始したきつかけ、しかも多数の借名口座を利用してはじめたことについては久保田の関与が最も大きく、次いで芳江、そして修となり、石田は近藤、池田、中道らと同程度かそれ以下の関与しかしていない。

c.中瀬古の昭和五九年分、六〇年分脱税については芳江の関与が他の共犯者に比して極端に大きく、次いで久保田、修となり石田らはほとんど全く関与していない。(自己の名義の使用を株取引について承諾していたというにとどまる)

d.昭和六一年分過少申告への加担の程度については石田(と川島税理士ら)の関与の程度が大きくて、芳江・修がこれに続き、次いで近藤、池田、久保田、最後に中道と評価されるべきである。修について異論が予想されるが、各自の申告額(中瀬古の所得を過少にするために各人が分担した金額にほぼ合致する)の比較では芳江に次ぎ、石田よりも多額であることが重視されねばならない。

e.中瀬古の株取引の利益からの個人的利得額については左の順序になる

<1> 久保田 約一億六一〇〇万円(但し久保田は否認している)

<2> 池田 約三八四六万円

<3> 修 約三〇〇〇万円

<4> 中道 約一二六〇万円

<5> 近藤 約一二四〇万円

<6> 石田 約六四九万円

<7> 芳江はゼロ。但し芳江名義と子供名義の株取引利益額の合計は約一億七〇〇万円となる。

石田は右六四九万円の中から山田建設従業員の接待費に約一四〇万円を使い、昭和六一年八月に中道ら五名に計約一一〇万円を渡し、九〇万円を明電工等従業員の接待費に使つている。従つて、中瀬古から石田が受けとつたのは約六四九万円であるがこの内個人的な領得・費消は約三〇九万円のみである。

更に言うならば、この三〇九万円のうち約一六〇万円は石田が山田建設の社長として週一回山田建設に勤務しはじめたころ社長の立場をおもんばかつて山田建設株二万三四六六株を購入した代金に充てているので、これを除いた純粋に個人的な費消は約一四九万円である。

(三) 原判決は「被告人中瀬古から受け取つたり、あるいは被告人石田名義の預金口座に振り込まれる被告人中瀬古の株式譲渡代金等の内から被告人石田が費消した金額は数千万円に上る」(原判決一七丁表)と認定して石田にとつて不利益な情状と指摘しているが、これは全く誤まりである。

a.石田が中瀬古の株取引の利益から利得したのは合計約六四九万円のみである。

(<1>昭和六〇年暮一〇〇万円、<2>昭和六一年五月頃三〇〇万円、<3>同年八月下旬二〇〇万円、<4>技研興産配当金約四九万円 石田の昭和六三年八月四日付検面調書一丁裏、同三丁裏、同四丁裏~五丁裏、同五丁裏~六丁表)

b.石田篤名義太陽神戸銀行池袋支店預金通帳から石田が昭和六一年~六二年にかけて引き出した金額の合計は三五二五万〇九五九円であり、これは、石田の山田建設株二万三四六六株の売却代金三六三七万二三〇〇円の範囲内の出費であつて、中瀬古の株譲渡代金には手は全然つけられていない。

<昭和六一年中の引き出し額>

<1> アメックスカード 七七万八二二一円

<2> オリエントファイナンス支払 四一万八四九八円

<3> イギリス旅行費 二〇〇万円

<4> 飲食代 三〇〇万円

(石田八月四日付検面調書六丁表~八丁表)

<昭和六二年中の引き出し額>

「昭和六二年中に私が使つた金は二九〇五万四二四〇円になります。その内訳は

飲食代等 二二六〇万円

アメックスカード 一六五万二四九〇円

旅行費用 四八〇万一七五〇円

です」(石田前同一〇丁裏~一一丁表)

c.石田が中瀬古のお金に手をつけていないということは中瀬古も認めているところである。

「昭和六一年一〇月の査察調査のあと、石田君が新宿のクラブあたりで派手に金を使つたらしい件については、石田君が山田建設の役員から取得した二三〇〇〇株余の株式を石田君の帰属と認めてもらいましたので、その株を売つた儲けの中から飲み代を賄つたように計算になると思います。」(中瀬古八月六日付検面調書三五丁裏~三六丁表)

d.査察調査のあと石田が飲食代やゴルフ代に毎月二〇〇万円位ずつも使わざるを得なかつたのは、心配して上京してくる代理店の接待のために必要だつたからなのである。また動揺する従業員らの接待のためにも必要だつたのである。石田は自己の個人的遊興のために飲食代金を使つていたのではなく、なんとか多くの明電工関連の人々の生活を守らなければならないと考えて行動していたのである。石田は中瀬古の金でも会社の金でもなく身銭を切つて努力していたのである。

(四) 中瀬古の脱税全体への関与の程度を比較検討してみるとき、石田の関与の程度が他の共犯者に比してはるかに軽いとは言いがたい。しかし、芳江や修の関与の程度が石田に比べてはるかに軽いともとうてい言いがたい。近藤、池田、中道の関与の程度は全体的に見るならば石田より低いと思われるが、はるかに低いとまで言えるのだろうか?久保田や川島税理士の責任も石田に比べてはるかに低いとは到底言えないのではなかろうか?石田以外の共犯者のうち逮捕されたのは芳江、近藤、池田、久保田であり、修と中道は在宅捜査であつた。そして全員が不起訴処分となつている。川島税理士にいたつては捜査官の取調べを任意で受けたものの調書も作成されていない。共犯者らのこのような結果と比較すると石田に対する原判決の量刑はあまりも重きにすぎ公平を失する。

三、中瀬古による昭和六一年分所得税納税の進展

(一) 中瀬古の昭和六一年分所得税について中瀬古は昭和六三年一二月二六日に修正申告をした。この修正申告後更正決定された中瀬古の昭和六一年分の正規の所得税額は一七億五二九五万三〇〇円である。(原判決三丁裏)ここから昭和六二年三月に既に納付済であつた五億六八二五万二四〇〇円を差し引くと一一億八四六九万七九〇〇円となる。

右修正申告等により中瀬古は税務署から本年二月二八日に九億六八一五万六八八二円の還付を受け、これが中瀬古の昭和五九年分所得税、同六〇年分所得税の各本税等に充当され、一部昭和六一年分所得税にも充当された。昭和六一年分本税に充当されたのは一億四七一九万六二八二円であつた。(「国税還付金支払及び充当通知書」記号番号B073202 02 弁一九番)

そして本年三月二三日に中瀬古は二億七〇〇〇万円を納付した。

従つて原判決言渡し時点での中瀬古の昭和六一年分所得税本税の未納額は七億六七五〇万一六一八円であつた。

(1,184,697,900-147,196,282-270,000,000=767,501,618)

(二) 原判決言渡し後も納税は進められ、平成元年八月一〇日現在の昭和六一年分未納税額は一億九七一七万七九〇二円である。原判決言渡し後に五億七〇〇〇万円余が納税され、残り二億円弱となつてきたのである。既に大部分が納税されたといつてもよいと思われる。

(三) 昭和六二年五月頃中瀬古は一カ月程入院してしまい、その後は明電工等の事業に対しても事実上放棄してしまうような投げやりな態度が目につくようになつた。石田は明電工の事業が崩壊してパニツク状態に陥いることがないように必死に努力を続け、そのことが中瀬古の昭和六一年分納税を支えてきているのである。

四、石田の経歴・人柄・家族

(一) 経歴

a.石田は、朝鮮総督府の吏員をしていた父宇佐男と母澄子の長男として韓国全羅北道で生まれ、家族は戦後岡山県西大寺市に引き揚げてきた。引き揚げ後二人の妹が生まれ、長女は現在結婚して新潟に住み、次女は独身で川崎で働らいている。

b.岡山県の職員となつた父の転勤のため、石田は小学校も中学校も途中で転校した。そして岡山朝日高校を昭和三九年三月に卒業し、同年四月東京大学に入学した。そして同大学の工学部燃料工学科に進んだが昭和四五年三月に中退した。

c.石田は大学一年生の時友人に誘われて長老主義教会に属する十貫坂基督教会に行くようになつて一年間位続けたがその後中断した。そして昭和四三年頃からまた行くようになり昭和四三年に洗礼を受けている。

d.石田が昭和四三年頃再び十貫坂教会へ行くようになつてから熱心なクリスチヤンであつた中瀬古夫妻と知り合うようになり、やがて中瀬古を尊敬し心酔するようになつていつた。そして昭和四五年に中瀬古からすすめられて大学を中退して明電工に入社することになつた。

e.石田が入社したころの明電工は従業員がせいぜい一〇名で電気工事を主な業務とし、その他に秋川工場で配電盤を製造していた。石田は電気については全くの素人であつたから中瀬古にくつついて現場に行き荷物運びの手伝いをしたりして毎日朝早くから夜遅くまで働らいた。

f.石田は、十貫坂教会で知り合つた、外資系会社の秘書をしていた星野静江と昭和四七年四月に結婚した。

g.昭和四八年頃から明電工は配電盤メーカーとしての比重が大きくなつていつた。石田はあいかわらず早朝から深夜まで雑務一般をこなしていたが、電気のことを本格的に勉強しようと決意して昭和五一年工学院大学電気工学科夜間部に入学した。既に結婚していて、長男と長女があいついで誕生しているという家庭状況の中であらたな気持ちで学問を目指すということは容易なことではなかつたが、石田は昼も夜も懸命に頑張つた。

h.電気についての専門知識もマスターした石田は、昭和五六年頃からは明電工のセーブドゥーシステムの製造、販売、施工、保守の全国的なシステムを作りあげていく実務レベルの責任者になつていつた。

(二) 石田には前科も犯歴も全くない。

(三) 石田は妻静江ともども熱心なクリスチャンとして十貫坂教会へ通い続けてきている。石田は、毎月の給料から長年に亘つて同教会への献金を続けてきていて、その合計額は約一〇〇〇万円にものぼる。(石田篤作成の上申書(二)=弁十一番=に、中瀬古の株取引の利益の出金先の一つとして十貫坂教会への献金として石田約三〇〇〇万円とあるのは誤まりである。石田が同教会に長年に亘つて献金してきた約一〇〇〇万円は石田が自らの給料から少しずつ出金してきたものである。石田が中瀬古から頼まれて中瀬古から預つたお金を石田名義で十貫坂教会に献金したのは二〇〇〇万円である。)

(四) 熱心なクリスチャンであることが一つの要因となつていると思われるが、石田は社会奉仕の精神が強く、ずつと以前から社会奉仕団体等への寄附援助等を続けてきている。

a.社会福祉法人カナンの園(盛岡市大沢川原三丁目二-三七キリスト教センター善隣館内、理事長本庄義雄)が、知恵遅れの身障児のための児童施設「奥中山学園」を一六年前に建設開園した。

石田は同学園の開園当初から自分の乏しい給料の中から寄附金を送り、年一~二回ずつ送金を続けてきている。同園が開園した昭和四八年頃は石田が結婚した頃で給料も安く家計りやりくりも大変だつた頃である。

b.財団法人日本フォスター・プラン協会が発展途上国の児童の成長を物心両面で支援するフォスター・ペアレント(里親)を募集する活動をしている。里親は里子一人につき里子が二〇才になるまで毎月五〇〇〇円を負担し、手紙の交換をして精神的にも支えていくというシステムである。

石田は昭和五九年はじめ頃から妻の協力も得ながらこの活動に参加し、現在左記三名の子の里親になつてる。(ちなみに石田には四人の子供がいる。)

<1> スリランカの女子 アビスインハ(Abeysingha)

一九七三年三月一六日生

<2> ホンジュラスの女子 エステル(Ester)

<3> ケニアの男子 ヨエル(Joel)

一九七四年一〇月二一日生

(五) 石田は利己的なところが全くなくて、自分の利益を優先させて他人を切り捨てることができない人間である。他人の面倒みがよく責任感が強い。競輪、競馬などは全くせず、個人的遊興にふけることもなく、生活態度も着実で、大変な努力家である。家庭も極めて円満な家庭を築きあげてきている。

明電工の苦しい時に従業員や代理店の人達が石田を頼つて結集しようとするのも石田のこのような人柄によるところが大きい。石田は多くの者が明電工を去つてしまつた今も代理人店やユーザーに対する社会的責任を果たすべく努力している。

(六) 石田の家族

a.石田は昭和四七年四月二七日に星野静江と結婚し、中野区本町に住居を定め、昭和五二年九月一日調布市の多摩住宅ハ-11-206号室に転居した。その後同所ト-7-406号室に移り、昭和六〇年一〇月に現住所の同所ハ-4-201号室に移つた。この際に石田の両親も一緒に住むようになり隣の202号室に両親が移つてきた。

b.この間、昭和四八年四月三日に長男啓(アキラ)、昭和四九年九月六日に長女愛、昭和五一年五月二五日に次男励二、昭和六〇年九月二八日に次女麻菜がそれぞれ誕生した。

c.長男啓は現在都立府中東高校一年生である。彼は今春高校に入学するための受験勉強の最中であつた昨年五月頃から、特に六月二七日の父石田篤ら逮捕以後の連日の激しいマスコミ報道による傷を深く受けてしまつている。長女愛は現在私立恵泉中学校の三年生であり来春の高校入学に向けて受験勉強中であるる次男励二は調布市第三中学校一年生、次女麻菜は調布市立国領保育園に通園している。妻静江は夫の収入が激減してしまつた家計を支えるために平成元年三月頃から働らきに出るようになり、現在は株式会社クリオに勤務して毎月手取り約二〇万円の収入を得ている。

石田の父宇佐男は現在七六才、母澄子は六九才の高令で、年金生活を送つている。

d.石田が住んでいる多摩川住宅は、東京都住宅供給公社が建築した分譲住宅で居住者(権利者)は昭和四二年一月から三五年間かけて建築費を償還するシステムとなつており、権利の承継人はこの償還義務をも承継する。償還が終るまでは住宅供給公社が土地についても建物についても所有権を留保しているので権利者が担保物件として活用することができない。公社の承諾を得て権利を第三者に譲渡することが可能であるのみである。多摩川住宅の居住権はこのような特殊な権利である。

石田は昭和五二年に多摩川住宅ハ-十一-二〇六号の居住権を入手し、その後少しずつ広い部屋を求めて同所ト-七-四〇六号、そして同所ハ-四-二〇一号及び二〇二号と買換えていつて現住居を入手した。なお、東京都住宅供給公社に対する償還義務等の債務については中瀬古と近藤義久が連帯保証人となつている。石田は時間をかけて着実に現住居を入手してきたのである。(住宅供給公社に対する償還等ローンが現在も残つている。)

e.石田の明電工及び石田省エネ研からの収入(税引後)は昭和六三年五月分までが月収約一一五万円、同六月分が約九九万円、同七月分、八月分が約七〇万円、九月分が約七八万円、一〇月~一二月分が約六九万円と急激に減少してきている。

石田は、明電工の負債整理や代理店等との協議など明電工の多数のユーザーなどに対する社会的責任を果たしていくために毎日深夜まで仕事に追われている。(昭和六三年一一月一五日に明電工の猪股正二代表取締役社長が辞任し、それ以後は石田が明電工の社長の重責をになつてきている。)

従つて、中小企業の経営者の場合誰でもそうであるように石田の場合も個人的に負担しなければならない企業のための出資もかさんでくる。石田の家計はいくつかのローン返済もかかえ込んでいる。石田の保釈保証金のうち保証書部分を除く金五〇〇〇万円は妻静江の兄川口昇司に頼みこんで、同人の関係会社日本インキュベーター株式会社から年利一五%の約束で借り受けたものであり、この利息の支払いだけでも毎月六二万五〇〇〇円という高額になる。ここまで説明すれば、石田の妻静江が必死に働らきに出て家計を支えねばならない状況に石田の家族が追い詰められたことが十分に理解される筈である。

五、反省・社会的制裁

(一) 石田は昭和六三年六月二七日に中瀬古、芳江、近藤、池田とともに中瀬古の昭和五九年分、六〇年分各脱税に関与した容疑で逮捕された。そして同年七月一八日右容疑について処分保留のまま中瀬古の昭和六一年分脱税に関与した容疑で再逮捕された。(中瀬古は同日昭和五九年分、六〇年分について起訴され、六一年分について再逮捕された。そして新たに同日久保田が逮捕された。)石田は同年八月八日に中瀬古の昭和六一年分脱税関与の容疑で起訴されるまでに四〇余日間身柄を拘束され、同年一〇月一四日に保釈されるまでに一一〇日間も身柄を拘束された。

(二) この間マスコミによつて連日顔写真、実名入りで大々的に報道され、しかもその内容はかなりの誇張を含んだものが多かった。石田の老父母、妻、そして四人の子供達がどんなにつらい思いをしてきたか筆舌に尽くしがたいものがある。石田の被つた精神的苦痛も並大抵のことではない。

(三) 石田の家族が現実的に生活面で苦境に追いこまれていることは既に述べたとおりである。

(四) 以上諸点をかんがみれば石田は既に十分な社会的制裁を受けているというべきである。

(五) 石田は、逮捕されるまで本件の重大性をかならずしも十分認識することができないでいた。(そうなつてしまつたについては既に述べたように無理からぬ点が多々あるのであるが)しかし、自らが逮捕勾留されてしまつただけでなく、近藤、池田、中道までをも巻き込んでしまつたこと、家族らの苦痛などに思いを寄せるにつけ本件犯行を深く反省するに到り、捜査段階から一貫して自らの責任を認めてきている。

(六) 本件は、中瀬古の脱税についてたまたま石田が中瀬古がオーナーであつた会社の役員であつたことから巻き込まれてしまつたという全く偶発的な犯行であり、再犯のおそれは全くない。

六、結論

以上の諸点を考慮するならば、本件については執行を猶予すべきであり、原審判決が実刑を選択したのはあまりにも過酷にすぎ不当であること明白である。

以上

株式会社明電工役員一覧表

<省略>

株式会社石田省エネルギー研究所役員一覧表

<省略>

幡ケ谷事務所見取図

103号室 104号室

<省略>

昭和63年7月6日 石田篤

初台事務所 地下

<省略>

昭和63年7月6日 石田篤

初台事務所見取図 1F

<省略>

昭和63年7月6日 石田篤

初台事務所 2F

<省略>

昭和63年7月6日 石田篤

初台事務所 3F

<省略>

昭和63年7月6日 石田篤

昭和61年分所得税申告額一覧表

<省略>

注、税額は配当控除後の税額である。

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