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東京地方裁判所 昭和63年(ワ)18258号 判決 1999年11月26日

目  次

頁数<略>

主文

事実及び理由

第一 請求

第二 事案の槻要

一 事案の概要

二 争いのない事実

1 当事者

(一) 原告ら

(二) 被告ら

2 一連のピース缶爆弾事件等の発生

(一) ピース缶爆弾製造事件

(二) 八・九機事件

(三) アメ文事件

(四) ピース缶爆弾事件

(五) その他の事件

3 日石事件の発生

4 土田邸事件の発生

5 各事件についての捜査等の状況

6 原告らについての逮捕、勾留及び公訴提起

(一) 原告堀

(二) 原告江口

(三) 原告榎下

(四) 原告前林

7 原告らに係る刑事事件の公判の経過

別紙 裁判結果等一覧表<省略>

(一) ピース缶爆弾事件第一審の公判係属状況

(二) 日石・土田邸事件第一審の公判係属状況

(三) 刑事裁判結果

第三 争点及び当事者の主張

一 争点

二 当事者の主張

1 原告堀の八・九機事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告都の主張

2 原告堀の八・九機事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

3 原告堀の八・九機事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

4 原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告都の主張

5 原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

6 原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

7 原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告都の主張

8 原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

9 原告榎下の日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告都の主張

10 原告榎下の日石・土田邸事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

11 原告らの日石事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

12 原告堀及び同江口の土田邸事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

13 原告前林及び同榎下の土田邸事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

14 違法取調べと供述の任意性等

(一) 原告堀

(二) 原告江口

(三) 原告榎下

(四) 原告前林

(五) 増渕

(六) 中村(隆)

(七) 松村

(八) 松本

(九) その他の共犯者ら

15 原告らに対する公訴追行の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

16 原告らに対する控訴提起及び控訴審における公訴追行の違法

(一) 原告らの主張

(二) 被告国の主張

17 損害

(一) 原告らの主張

(二) 被告らの主張

第四 当裁判所の判断

一 ピース缶爆弾事件の捜査の槻要

1 ピース缶爆弾事件の発生

(一) 八・九機事件

(二) アメ文事件

(三) ピース缶爆弾製造事件

2 一連の窃盗事件についての捜査

(一) 捜査の端緒

(二) 逮捕・勾留及び公訴提起

3 アメ文事件

(一) 捜査の端緒

(二) 逮捕・勾留及び公訴提起

(三) 被疑者らの供述状況等

4 八・九機事件

(一) 初動捜査の状況

(二) 捜査の端緒及び被疑者の特定の経緯

(三) 逮捕・勾留及び公訴提起

(四) 被疑者らの供述状況等

5 ピース缶爆弾製造事件

(一) 捜査の端緒

(二) 被疑者らの特定

(三) 逮捕・勾留及び公訴提起

(四) 被疑者らの供述状況

二 検察官が捜査の終局段階で認定したピース缶爆弾事件の槻要

1 L研の活動状況

2 ピース缶爆弾製造事件

(一) ピース缶爆弾製造の謀議

(二) ピース缶爆弾製造の実行

(三) 一〇・二一闘争の際の状況

3 八・九機事件

(一) 八・九機事件の謀議

(二) 八・九機事件の実行

4 アメ文事件

(一) アメ文事件の謀議等

(二) アメ文事件の実行

三 原告堀の八・九機事件の逮捕状請求

1 逮捕状請求の違法性判断基準

2 原告堀の逮捕状請求等

(一) 逮捕の経過

(二) 逮捕状記載の被疑事実

3 司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 疎明資料の内容

4 判断

四 原告堀の八・九機事件の勾留請求

1 勾留請求の違法性判断基準

2 勾留請求等

(一) 勾留の経過

(二) 勾留の被疑事実

3 検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 疎明資料の内容等

4 判断

五 原告堀の八・九機事件の公訴提起

1 公訴提起の違法性判断基準

2 公訴事実

3 検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(二) 佐古の供述

(三) 前原の供述

(四) 内藤の供述

(五) 村松の供述

(六) 増渕の供述

(七) 井上及び原告堀の黙秘ないし否認供述

4 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

(一) 増渕のアリバイ

(二) 内藤のアリバイ

(三) 段ボール箱等に関する裏付捜査

(四) 同種他事件の記録検討及び関係者の事情聴取

5 判断

六 原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の逮捕状請求

1 逮捕状請求の違法性判断基準

2 原告堀、同江口及び同前林の逮捕状請求等

(一) 逮捕の経過

(二) 逮捕状記載の被疑事実

3 司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 佐古の供述等

(三) 増渕の供述

(四) 前原の供述

(五) 村松の供述

(六) 内藤の供述

4 判断

七 原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の勾留請求

1 勾留請求の違法性判断基準

2 勾留請求等

(一) 勾留の経過

(二) 勾留の被疑事実

3 検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 疎明資料の内容等

4 判断

八 原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の公訴提起

1 公訴提起の違法性判断基準

2 公訴事実

3 検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(二) 佐古の供述

(三) 前原の供述

(四) 内藤の供述

(五) 増渕の供述

(六) 村松の供述

(七) 原告江口の供述

(八) 石井の供述

(九) 原告らの主張に対する判断

(一〇) 各供述証拠の信用性についてのまとめ

4 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

(一) 石井のアリバイ

(二) 原告江口のアリバイ

(三) 平野のアリバイ

(四) 「ミナミ」、「エイト」の休業日に関する裏付捜査

5 判断

九 日石・土田邸事件の捜査等の概要

1 日石事件の発生及び爆弾の構造等

(一) 日石事件の発生

(二) 日石爆弾の構造等

2 土田邸事件の発生及び爆弾の構造等

(一) 土田邸事件の発生

(二) 土田邸爆弾の構造等

3 日石・土田邸事件に関する捜査状況等

(一) 事件発生後昭和四七年末までの捜査

(二) 佐古の供述

(三) 檜谷啓二の供述

(四) 増渕の自白

(五) 増渕、原告前林、同堀及び同江口の逮捕・勾留

(六) その後の捜査体制

(七) 原告榎下らの逮捕等

(八) 昭和四八年三月一四日から同年四月四日までの間の被疑者等の供述状況

(九) 増渕、原告堀、同江口に対する土田邸事件の公訴提起

(一〇) 昭和四八年四月四日から同月七日までの捜査状況

(一一) 昭和四八年四月八日の捜査の新展開

(一二) 昭和四八年四月九日の捜査状況

(一三) 原告榎下及び松本の土田邸事件による逮捕

(一四) 昭和四八年四月一〇日から同月一三日までの捜査状況

(一五) 原告榎下及び坂本の日石事件による逮捕

(一六) 原告榎下、松本及び坂本の勾留

(一七) 昭和四八年四月一四日の捜査状況

(一八) 昭和四八年四月一五日から同月一七日までの捜査状況

(一九) 中村(隆)及び松村の逮捕・勾留

(二〇) 昭和四八年四月一八日及び同月一九日の捜査状況

(二一) 金本の土田邸事件による逮捕・勾留

(二二) 昭和四八年四月二〇日以降公訴提起までの捜査状況

(二三) 捜査の終局と原告堀、同榎下、同江口、同前林、増渕、中村(隆)、中村(泰)、松本、松村、坂本及び金本に対する公訴提起

4 検察官が捜査の終局段階で認定した日石・土田邸事件の概要

(一) 爆発物の郵送を計画するまでの経緯等

(二) 日石事件

(三) 土田邸事件

一〇 原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の逮捕状請求

1 逮捕状請求の違法性判断基準

2 原告堀、同江口及び同前林の逮捕状請求等

(一) 逮捕の経過

(二) 逮捕状記載の被疑事実

3 司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 疎明資料の内容

4 判断

一一 原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の勾留請求

1 勾留請求の違法性判断基準

2 勾留請求等

(一) 勾留の経過

(二) 勾留の被疑事実

3 検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 佐古のプランタン会談についての供述

(三) 檜谷の供述

(四) 増渕の供述

4 判断

一二 原告榎下の日石・土田邸事件の逮捕状請求

1 逮捕状請求の違法性判断基準

2 逮捕状請求等

(一) 逮捕の経過

(二) 土田邸事件の逮捕状の被疑事実

(三) 日石事件の逮捕状の被疑事実

3 土田邸事件

(一) 司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(二) 疎明資料の内容

(三) 判断

4 日石事件

(一) 司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(二) 疎明資料の内容

(三) 判断

一三 原告榎下の日石・土田邸事件の勾留請求

1 勾留請求の違法性判断基準

2 勾留請求等

(一) 勾留の経過

(二) 勾留の被疑事実

3 検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

(二) 原告榎下の供述

4 判断

一四 原告らの日石事件の公訴提起

1 公訴提起の違法性判断基準

2 日石事件の公訴事実

3 検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(二) 日石リレー搬送等に関する供述

(三) 日石爆弾の製造に関する供述

(四) 日石二高謀議に関する供述

(五) 下見に関する供述

(六) 筆跡隠ぺいのための準備に関する供述

(七) 原告前林のアリバイ

(八) 原告江口のアリバイ

4 検察官が通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

(一) 中村(隆)の日石リレー搬送に関するアリバイ

(二) アリバイ授査に関する事実関係等

(三) 判断

5 判断

一五 原告堀及び同江口の土田邸事件の公訴提起

1 公訴提起の違法性判断基準

2 土田邸事件の公訴事実

3 検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(二) 土田邸事件についての自白をした増渕の供述

(三) 「六月爆弾」に関する佐古、村松及び原告江口の供述

(四) 増渕が爆弾闘争志向を有していたことに関する石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び中村勉の供述並びに前林メモ

(五) 増渕の爆弾闘争志向に協力したことに関する原告江口の供述

(六) キティ方での口裏合わせに関する原告榎下の供述

(七) 増渕からの都心下見依頼に関する原告榎下の供述

(八) 原告堀に対する荷札渡しなどに関する金本の供述

(九) 宛名書きなどに関する原告堀及び中村(泰)の供述

(一〇) 増渕方への爆弾運搬に関する原告堀の供述

(一一) 金本への小包預けと郵送依頼に関する原告堀の供述

(一二) 土田邸爆弾の保管に関する中村(泰)の供述及び土田邸爆弾の寄託とその返還に関する原告堀の供述

(一三) 犯行後の増渕の言動に関する長倉の供述

(一四) 原告堀の土田邸事件告白に関する原告榎下の供述

(一五) 大晦日口止めに関する原告榎下及び坂本の供述

(一六) プランタン会談に関する佐古の供述

4 判断

一六 原告前林及び同榎下の土田邸事件の公訴提起

1 公訴提起の違法性判断基準

2 土田邸事件の公訴事実

3 検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(二) 日石総括

(三) 土田二高謀議

(四) 下見

(五) 土田邸爆弾の製造

(六) 中村(泰)への土田邸爆弾の保管依頼

(七) 松本への土田邸爆弾保管依頼

(八) 土田邸爆弾の搬送及び郵便局への差出し

(九) 土田邸事件の当日の総括

(一〇) 判断

4 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

(一) 原告前林のアリバイ

(二) アリバイ捜査等

5 判断

一七 違法取調べと供述の任意性等

1 原告堀

(一) 起訴後の取調べ

(二) 取調方法等

(三) その他

2 原告江口について

(一) 取調方法等

(二) 認定事実

(三) 判断

3 原告榎下

(一) 別件逮捕・勾留、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返し

(二) 取調方法

4 原告前林について

(一) 法政大学生協窃盗事件の取調べ

(二) その他

5 増渕

(一) 犯人との断定、被害者の死体の写真

(二) 取調承諾の不存在、出頭拒否及び退去の自由の不告知

(三) 取調官による押付け

(四) 増渕の健康状態

(五) 取調べの態様

(六) 長時間の取調べ

(七) 起訴後の勾留中の余罪取調べ

(八) 違法な別件逮捕・勾留

6 中村(隆)

(一) 特異な取調方法

(二) 起訴後の取調べ

(三) 検察官の取調べ

7 松村について

(一) 違法な別件逮捕・勾留

(二) 利益供与

(三) 執拗かつ強引な追及

8 松本

(一) 別件逮捕・勾留

(二) 取調方法

9 金本

10 中村(泰)

11 総合判断

一八 原告らに対する公訴の追行

1 公訴の追行の違法性判断基準

2 ピース缶爆弾事件の第一審における公訴追行

(一) ピース缶爆弾事件の第一審における公判経過

(二) 八・九機事件についての若宮らの証言

(三) ピース缶爆弾製造事件についての牧田の証言

(四) ピース缶爆弾製造事件に関する石井のアリバイ

(五) ピース缶爆弾製造事件に関する原告江口のアリバイ

(六) 八・九機事件に関する増渕及び内藤のアリバイ

(七) ピース缶爆弾製造事件に関する平野のアリバイ

(八) アメ文事件に関する村松のアリバイ

(九) アメ文事件に関する佐古及び国井のアリバイ

(一〇) 京都公安調査局事件との関係等

(一一) 総合判断

3 日石・土田邸事件の第一審における公訴追行

(一) 日石・土田邸事件の第一審における公判経過

(二) 供述調書の却下

(三) 日石事件に関する中村(隆)のアリバイ

(四) 日石事件における原告前林のアリバイ

(五) 日石事件に関する原告江口のアリバイ

(六) 日石事件に関する坂本のアリバイ

(七) 土田邸事件に関する中村(泰)のアリバイ

(八) 土田邸事件に関する原告堀及び増渕のアリバイ

(九) 土田邸事件に関する原告前林のアリバイ

(一〇) 土田邸事件に関する松本のアリバイ

(一一) 総合判断

一九 原告らに対する控訴提起及び控訴審における公訴追行

1 控訴の提起、追行の違法性の判断基準

2 控訴提起に至る経過

(一) 地刑九部判決の要旨

(二) 控訴の提起

(三) 控訴趣意書の内容

3 公訴追行の経過

(一) 控訴審における公判経過

(二) 峰孝一の証人尋問

(三) 鈴木茂の証言

(四) 控訴審判決

4 判断

二〇 結論

目次以上

凡例(略語、略称)

この判決における略称は、次のとおりである。

なお、項目は、あいうえお順に列挙してある。

一 氏名等

略称     氏名(省略箇所<略>)

荒木     荒木久義

石井     石井ひろみ

石崎警部   石崎誠一警部

石田     石田茂

市川検事   市川敬雄検事

井上     井上清志

岩城巡査部長 岩城秀夫巡査部長

岩間警部補  岩間拓生警部補

梅津     梅津宣民

江藤警部   江藤勝夫警部

緒方検事   緒方重威検事

親崎検事   親崎定雄検事

金本     村松ミネ子(旧姓金本)

神崎検事   神崎武法検事

菊井     菊井良治

鬼嶌警視   鬼嶌正雄

国井     国井五郎

栗田検事   栗田啓二検事

原告江口   原告西山良子(旧姓江口)

原告榎下   原告榎下一雄

原告堀    原告堀秀夫

原告前林   原告中村則子(旧姓前林)

古賀警部   古賀照章警部

坂本     坂本勝治

坂本警部補  坂本重則警部補

佐古     佐古幸隆

佐藤     佐藤安雄

鈴木     鈴木茂

平副検事   平保三副検事

高橋警部補  高橋正一警部補

多田巡査部長 多田俊夫巡査部長

津村検事   津村節蔵検事

内藤     内藤貴夫

長倉     長倉悟

中村(泰)  中村泰章

中村(隆)  中村隆治

根本警部補  根本宗彦警部補

花園     前之園紀男(旧姓花園)

濱田検事   濱田弘幸検事

原田巡査   原田祥二巡査

被告都    被告東京都

檜谷     檜谷啓二

平塚警部補  平塚健治警部補

平野     平野博之

藤田     藤田和男

舟生警部   舟生禮治警部

古川     古川経生

堀内警部   堀内英治警部

前田     前田祐一

前原     前原和夫

牧田     牧田吉明

増渕     増渕利行

町田     町田敏之

松村     松村弘一

松本     松本博

水崎検事   水崎松夫

村松     村松和行

好永巡査部長 好永幾雄巡査部長

横内課長   横内基康公安第一課長

若宮     若宮正則

二 事件等の呼称

略称 説明箇所<略>

愛宕署

アメ文事件

員面

L研

岡田香料

興津実験

上赤塚事件

火取法違反事件

河田町アジト

火薬庫侵入未遂事件

牛乳屋グループ

共産同

協同組合

京都地方公安調査局事件

警察官

検面

高刑七部

島崎建設工業

社学同

社研

白山自動車

住吉町アジト

捜査本部

早大正門前集結

大菩薩峠(福ちゃん荘)事件

タイヤ窃盗事件

高橋荘

地刑九部

中央大学会館事件

月島自動車

土田邸

土田邸事件

土田邸爆弾

土田二高謀議

東京簡裁

東京地検

東京地裁

東薬大事件

中野坂上事件

日大二高

日石サン謀議

日石事件

日石総括

日石爆弾

日石二高謀議

日石本館ビル

日石郵便局

日石リレー搬送

八・九機

八・九機事件

犯人隠避事件

ピース缶爆弾事件

ピース缶爆弾製造事件

プランタン会談

法政大学生協窃盗事件

法政大学図書窃盗事件

南神保町郵便局

ミナミ謀議

立教大学窃盗事件

六月爆弾

若松町アジト

以上

原告 堀秀夫 ほか三名

被告 国 ほか一名

代理人 八代宏 大野重國 田邊哲夫 小沢満寿男 田中雅幸 糸山隆 森悦子 大圖明 松田良宣 松岡升翁 根原稔 ほか一名

主文

一  原告らの各請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  被告らは、各自、原告らに対し、それぞれ金五〇〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年一二月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告らは、原告らのために、別紙第二記載の要領により、別紙第一記載の文面の謝罪広告をせよ。

第二事案の概要

一  事案の概要

本件は、昭和四四年から昭和四六年ころまでに発生したいわゆるピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件等について、刑事被告人として起訴され無罪判決を受けて確定した者である原告ら四名が、被告東京都の公務員である警察官が違法な逮捕状請求等を行い、被告国の公務員である検察官が違法な勾留請求、公訴提起、公判追行、控訴提起等を行ったなどとして、被告東京都及び被告国に対し、国家賠償法に基づき慰藉料等の損害賠償を求めるとともに、謝罪広告の掲載を求めた事案である。

二  争いのない事実

1  当事者

(一) 原告ら

(1) 原告堀秀夫(以下「原告堀」という。)

原告堀は、後記の八・九機事件、ピース缶爆弾製造事件、日石・土田邸事件等で逮捕、勾留、起訴された者である。

(2) 原告西山良子(刑事事件当時の旧姓「江口」、以下「原告江口」という。)

原告江口は、後記のピース缶爆弾製造事件、日石・土田邸事件等で逮捕、勾留、起訴された者である。

(3) 原告榎下一雄(以下「原告榎下」という。)

原告榎下は、後記の日石・土田邸事件等で逮捕、勾留、起訴された者である。

(4) 原告中村則子(刑事事件当時の旧姓「前林」、以下「原告前林」という。)

原告前林は、後記のピース缶爆弾製造事件、日石・土田邸事件等で逮捕、勾留、起訴された者である。

(二) 被告ら

(1) 被告国

後記各刑事事件について、原告らに対する勾留請求、公訴提起、公訴追行、控訴提起及び控訴審における公訴の追行等を行った検察官は、被告国の公権力の行使に当たった公務員である。

(2) 被告東京都(以下「被告都」という。)

後記各刑事事件について、原告らに対する捜査、逮捕状請求等を行った警察官は、公共団体である被告都の公権力の行使に当たった公務員である。

2  一連のピース缶爆弾事件等の発生

(一) ピース缶爆弾製造事件

(1) ピース缶爆弾製造事件

ピース缶爆弾とは、缶入りたばこピースの空き缶にダイナマイト、パチンコなどを充填し、これに工業用雷管と導火線を結合した手製爆弾であり、昭和四四年一〇月中旬ころ、何者かが、後記の八・九機事件及びアメ文事件で使用されたピース缶爆弾十数個を製造した(以下「ピース缶爆弾製造事件」という。)。

(2) 検察官が右事件につき原告堀、同江口及び同前林を起訴した時点で認定した事実の槻要

原告堀、同江口及び同前林は、増渕利行(以下「増渕」という。)、村松和行(以下「村松」という。)、佐古幸隆(以下「佐古」という。)、前原和夫(以下「前原」という。)、井上清志(以下「井上」という。)、石井ひろみ(以下「石井」という。)、内藤貴夫(以下「内藤」という。)、平野博之(以下「平野」という。)、菊井良治(以下「菊井」という。)及び国井五郎(以下「国井」という。)らと共謀の上、昭和四四年一〇月一六日ころ、東京都新宿区河田町六番地所在の倉持賢一方秋田修こと佐古の居室(四畳半と二畳、以下「河田町アジト」という。)において、ピース缶爆弾十数個を製造した。

(二) 八・九機事件

(1) 八・九機事件

昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、何者かが、東京都新宿区若松町九五番地所在の警視庁第八、第九機動隊隊舎(以下「八・九機」という。)正門に向けて、同正門前の通称若松通りをはさんだ向かい側にある寿司店「花寿司」横角付近から、ピース缶爆弾一個を投てきした。右爆弾は、右正門付近で立番勤務中の機動隊員仁科正司巡査らに向けて投てきされ、付近の路上に落下したが、導火線の火が消えたため不発に終わった。また、立番勤務に赴くため、正門に向けて歩いていた機動隊員河村周一巡査は、右爆弾投てきの犯人を現認し、ただちに追跡したが、逃走され、その場で逮捕するには至らなかった(以下「八・九機事件」という。)。

(2) 検察官が右事件につき原告堀を起訴した時点で認定した事実の槻要

原告堀は、増渕、前原、井上、村松、内藤及び赤軍派の者二名(氏名不詳)と共謀の上、増渕の指揮の下に、原告堀、井上及び村松が爆弾の投てき班となり、前原と内藤が見張りを担当して、前記八・九機事件を実行した。

(三) アメ文事件

(1) アメ文事件

昭和四四年一一月一日午後一時一〇分ころから一五分ころまでの間に、何者かが、東京都千代田区永田町二丁目一四番二号所在の山王グランドビル二階アメリカ大使館広報文化局アメリカ文化センター受付カウンター上に、ピース缶爆弾に電気雷管、タイマー及び電池を結合した手製爆弾一個を設置したが、同一五分ころ、同ビルの清掃に従事していた日本ビルサービス株式会社清掃係伊藤一男に発見され、同会社電気係矢部昭恭が右爆弾の時限装置と爆発物を連結している二本のリード線を切断したため、不発に終わった(以下「アメ文事件」という。)。

(2) 検察官が右事件につき増渕らを起訴した時点で認定した事実の概要

増渕、村松、佐古、前原及び氏名不詳者一名は、共謀の上、アメ文事件を実行した。

(四) ピース缶爆弾事件

右ピース缶爆弾製造事件、八・九機事件及びアメ文事件を総称して「ピース缶爆弾事件」という。

(五) その他の事件

(1) 法政大学図書窃盗事件

昭和四四年六月下旬ころ、東京都千代田区内の学校法人法政大学の図書館において、同大学所有の図書多数が窃取されるという事件(以下「法政大学図書窃盗事件」という。)が発生し、昭和四七年一〇月二五日から昭和四八年二月一九日にかけて、増渕、佐古、村松、井上及び前原が逮捕され、前原を除く四名が起訴されていずれも有罪判決を受け、確定した。

(2) 法政大学生協窃盗事件

昭和四四年八月末ころ、前記法政大学内の生活協同組合において、テレビ、ラジオ、テープレコーダー及び万年筆等が窃取されるという事件(以下「法政大学生協窃盗事件」という。)が発生し、昭和四八年二月二〇日、原告前林が逮捕・勾留されたが、不起訴処分となった。

(3) 立教大学窃盗事件

昭和四四年一〇月四日から同月六日までの間、東京都豊島区内の立教大学ホテル研究会部室において、現金九万九五二五円在中の手提金庫などが窃取されるという事件(以下「立教大学窃盗事件」という。)が発生し、昭和四七年一一月一四日、増渕が逮捕・勾留されたが、不起訴処分となった。

(4) タイヤ窃盗事件

昭和四四年一二月九日ころから同月二二日ころにかけて、東京都世田谷区桜上水一丁目一番所在の日本住宅公団東経堂団地内駐車場等において、乗用自動車のタイヤが窃取されるという事件(以下「タイヤ窃盗事件」という。)が発生し、増渕、佐古、村松及び梅津宣民(以下「梅津」という。)が、起訴されて、いずれも有罪判決を受け、確定した。

(5) 東薬大事件

昭和四四年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争(反日共系過激派学生集団が、一〇月二一日の国際反戦デーに、都内各所の警察署、派出所等を火炎びんで襲撃するなどして暴徒化し、一〇〇〇名以上が検挙されたもの)に関連して、増渕が、平野に対し、東京都新宿区北新宿所在の東京薬科大学において、火炎びんの材料である塩素酸カリウム、濃硫酸等を手渡すなどしたとして毒物及び劇物取締法違反、兇器準備結集罪に問われ、指名手配された(以下「東薬大事件」という。)。増渕は、昭和四七年九月一〇日以降、逮捕・勾留され、毒物及び劇物取締法違反により公訴を提起され、同年一二月一八日、東京地方裁判所において、懲役一年、執行猶予三年の有罪判決の言渡しを受け、同判決は確定した。

(6) 火薬庫侵入未遂事件

東京都世田谷区千歳台所在の田辺牛乳店で従業員の解雇撤回闘争をしていた同店従業員グループ(以下「牛乳屋グループ」という。)の一員であった石田茂(以下「石田」という。)が、昭和四七年八月二七日、東京都西多摩郡檜原村所在の火薬庫に侵入しようとして現行犯逮捕された(以下「火薬庫侵入未遂事件」という。)。

(7) 犯人隠避事件

昭和四七年九月以降、東薬大事件の犯人として指名手配されていた増渕を隠避させるという事件(以下「犯人隠避事件」という。)が発生し、佐藤安雄(以下「佐藤」という。)、原告江口、藤田和男(以下「藤田」という。)、長倉悟(以下「長倉」という。)、森谷義弘、原告榎下、松本博(以下「松本」という。)、中村泰章(以下「中村(泰)」という。)、村松ミネ子(旧姓金本、以下「金本」という。)、松村弘一(以下「松村」という。)らが順次逮捕され、このうち金本及び中村(泰)を除く全員が勾留された。そして、そのうち右佐藤、藤田及び森谷が、起訴され、いずれも罰金刑の有罪判決を受けて確定し、その他の者が不起訴処分となった。

(8) 火取法違反事件

原告堀が、昭和四八年一月二二日、「他数名と共謀の上、法定の除外事由がないのに昭和四四年一〇月一九日ころから昭和四五年二月中旬ころまでの間、東京都杉並区内の実父方において、瓶入りの黒色火薬五、六本及びダイナマイト二、三〇本を所持した」という火薬類取締法違反の事件(以下「火取法違反事件」という。)で逮捕された上、勾留されたが不起訴処分となった。

(9) 中野坂上事件

昭和四四年一〇月二一日午後一〇時三〇分過ぎころ、東京都新宿区柏木(現北新宿)所在の東京薬科大学付近において赤軍派の者十数名が、火炎びん、ピース缶爆弾等を準備して小型トラックに乗り込み、警視庁新宿警察署(当時淀橋警察署)を襲撃する目的で同警察署に向かって出発し、同警察署前に至り、走行しながら同警察署に火炎びんを投てきし、さらに走行して同区中野坂上交差点付近に至り、同所に前記トラックを停車させ、同所付近に停車中のパトカーに火炎びん等を投てきした後、同所に前記トラックを放置して逃走したが、その際同所付近にピース缶爆弾合計三個を遺留した(以下「中野坂上事件」という。)。

(10) 大菩薩峠(福ちゃん荘)事件

昭和四四年一一月五日、山梨県塩山市大菩薩峠唐松尾分岐点所在の「福ちゃん荘」において、赤軍派の者四九名が兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕された際、ピース缶爆弾三個が押収された(以下「大菩薩峠(福ちゃん荘)事件」という。)。

(11) 中央大学会館事件

昭和四四年一一月一〇日、東京都千代田区神田駿河台三丁目一一番地所在中央大学会館玄関口において、ピース缶爆弾一個が爆発した(以下「中央大学会館事件」という。)。

(12) 京都地方公安調査局事件

昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ころ、当時いわゆるアナーキストを志向していた大村寿雄及び村橋稔が、共謀のうえ、村橋において、京都市東山区馬町通大和大路東入下新シ町三三九番地所在の京都地方公安調査局の庁舎に向けピース缶爆弾を投てきし爆発させた(以下「京都地方公安調査局事件」という。)。

3  日石事件の発生

(一) 昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分ころ、東京都港区西新橋一丁目三番一二号所在の日本石油株式会社本館ビル(以下「日石本館ビル」という。)地下一階にある日石本館内郵便局(以下「日石郵便局」という。)窓口に、紺色の長袖事務服を着て眼鏡をかけた若い女性一名が現われ、同郵便局係員本田哲郎に対し、包装を解くことなどにより爆発する装置を施した爆発物二個を、後藤田正晴警察庁長官あてと今井栄文新東京国際空港公団総裁あての各小包郵便物として差し出した。本田は直ちにこれを窓口カウンター近くの小包郵袋に入れたが、右女性が立ち去ってから二、三分ぐらいして再び同じ女性が窓口に現われ、本田と同郵便局係員星野栄に対し、先程の小包の住所がちょっと違っているようですから返してくださいとの趣旨の申出をしたため、本田らは右小包二個を窓口カウンターに載せ、同女に対し、いったん受け付けた郵便物は簡単に返せないから違っているならばこの場で直してほしい旨申し向けたところ、同女は、会社へ帰って調べてきますと言って立ち去った。その一、二分後、同女と同じような事務服を着ているが眼鏡をかけていない別の若い女性が窓口に現われ、星野に対し、先程うちの社員が来て住所が違っていると言っていましたので来ましたと申し出た。星野が同女に会社名を確かめると、後藤田あての小包の差出人となっている中央警備保障の者であるというので、小包二個を並べて示したところ、同女は後藤田あての小包の方の受取人の住所を確認し、間違いありませんなどと言って立ち去った。同日午前一〇時四〇分ころ、星野が右小包二個を普通の小包郵便物と同様に前記郵袋に落とし込んだところ、まず後藤田あての小包が弱い爆発を起こし、一、二秒して引き続き今井あての小包が強い爆弾を起こし、右爆発により日石郵便局の床、天井の一部等が破壊されるとともに、星野(当時二六歳)が加療約四〇日間を要する顔面、右腕等熱傷の傷害を負った(以下、右事件を「日石事件」という。)。

(二) 右事件につき検察官が原告らを起訴した時点で認定した事実の概要

原告らは、増渕及び中村隆治(以下「中村(隆)」という。)と共謀の上、昭和四六年一〇月一二日ころの夜、東京都世田谷区給田四丁目一九番一五号所在のアパート高橋荘の増渕の借間(原告前林も同居、以下「高橋荘」という。)において、原告ら及び増渕において、アルマイト製と思われる弁当箱に塩素酸ナトリウム、クロム酸ナトリウムなどを充填し、これに手製雷管、乾電池、手製スイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納した箱の包装を解くことなどにより爆発する装置を施した爆発物二個を製造し、同月一八日午前九時ころ、原告榎下及び中村(隆)が順次運転した自動車二台によって、右爆発物二個を所持した原告江口及び増渕を、原告榎下の勤務先であった東京都杉並区<以下略>所在の白山自動車工業有限会社(以下「白山自動車」という。)付近から日石本館ビル手前約五〇メートルの路上まで運び、同所で原告前林が合流し、原告江口及び同前林の二人が、右爆発物二個を所持して日石本館ビルに赴き、両名のいずれかが右爆発物二個を小包郵便物として日石郵便局窓口に差し出すなどし、もって、日石事件を実行した。

なお、日石事件実行後、中村(隆)は、原告江口、同前林及び増渕を自動車に乗車させて、通称第一ホテル前通り付近まで運び、同人らを同所で下車させて、坂本勝治(以下「坂本」という。)の運転する自動車に引き継ぎ、同人は、原告前林及び増渕を乗車させて、千葉県船橋市習志野台の千葉県陸運事務所習志野支所まで送った。

4  土田邸事件の発生

(一) 昭和四六年一二月一八日午前一一時二四分ころ、東京都豊島区<以下略>所在の警視庁警務部長土田國保方(以下「土田邸」という。)において、同人の妻土田民子(当時四七歳)が、夫の土田國保あてに配送された普通郵便小包の包装を解いていたところ、同小包内に包蔵されていた爆発物が爆発し、右爆発により同人が即死し、同室に居合わせた土田國保の四男恭四郎(当時一三歳)も加療約一か月間を要する顔面、両手第二度熱傷等の傷害を負ったほか、土田邸の天井、床の一部や窓ガラス、家具等が損壊する事件が発生した(以下、これを「土田邸事件」という。)。

(二) 右事件につき検察官が原告らを起訴した時点で認定した事実の概要

原告らは、増渕、中村(隆)及び松本らと共謀の上、昭和四六年一二月八日ころの夜、原告ら、増渕、中村(隆)らが、弁当箱に塩素酸ナトリウム、砂糖を充填し、これに手製雷管、乾電池、マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を製造し、松本が、同月一七日午前一一時三〇分ころ、右爆発物を車に乗せて阿佐ヶ谷駅南口付近に至り、原告前林及び増渕を乗車させて、同日午後一時前ころ駿河台下交差点手前まで走行し、原告前林が、同日午後一時ころ、東京都千代田区神田神保町一の二五所在郵政相互ビル内の神田南神保町郵便局(以下「南神保町郵便局」という。)へ赴き、右爆発物を小包郵便物として差し出し、もって、土田邸事件を実行した。

なお、松村は、増渕、原告らに対し犯行のための連絡、謀議の場所を提供し、金本は、右爆発物を包装紙などを用いて包装し、それぞれ土田邸事件の犯行を幇助し、中村(泰)は、同月一一日から一五日まで、右爆発物一個を預かり保管して、爆発物の寄蔵を受けた。

5  各事件についての捜査等の状況

石田が火薬庫侵入未遂事件で現行犯逮捕され、同人の供述が手掛りとなって、東薬大事件で指名手配中の増渕の所在が判明して、同人が逮捕されるとともに、牛乳屋グループによる増渕の犯人隠避が発覚して、同グループの佐藤らが逮捕された。佐藤の供述等から法政大学図書窃盗事件が発覚し、さらに、一連の窃盗事件が次々と発覚していき、増渕、村松、佐古、梅津、前原及び井上が順次逮捕されて公訴提起された。また、原告前林も法政大学生協窃盗事件で逮捕・勾留されたが不起訴処分となり、原告堀も火取法違反事件で逮捕・勾留されたが不起訴処分となった。

この捜査の過程で、佐古が、昭和四七年一二月一一日、アメ文事件に関与している旨の自白をしたことが、ピース缶爆弾事件についての犯人検挙の端緒となった。

そして、佐古は、昭和四八年二月一四日、「昭和四八年一月五日、渋谷の喫茶店プランタンにおいて、増渕及び江口に会った際、江口が増渕に対し、『六月爆弾の件が警察にわかれば、日石事件が発覚し、日石事件が発覚すれば土田邸事件が発覚してしまうではないか』と増渕の取調べに対する態度を厳しく追及し、前林、堀、国井、長倉ら関係者と早急に連絡をとって、右事件について供述しないように働きかけるように要求した」旨の供述をした(以下この会談を「プランタン会談」という。)ため、増渕らに対する日石・土田邸事件の嫌疑が生じた。そこで、警察官が、同年三月七日から、日石・土田邸事件について増渕を取り調べたところ、同月一三日、増渕が日石・土田邸事件について自白をし、同月一四日、増渕、原告堀、同江口及び同前林が日石・土田邸事件で逮捕・勾留され、同年四月四日、土田邸事件で、増渕、原告堀及び同江口が公訴提起され、原告前林は処分保留となり、日石事件では全員が処分保留となった。すると、同月八日、それまで犯人隠避罪で逮捕・勾留されていた原告榎下が日石・土田邸事件を自白したことなどが転機となり、中村(隆)、中村(泰)、原告榎下、松本、坂本、松村及び金本が次々と土田邸事件や日石事件で逮捕・勾留された上、原告らを含めて公訴提起された。

なお、アメ文事件及び八・九機事件の主任検察官は、東京地方検察庁(以下「東京地検」という。)の水崎松夫検事(以下「水崎検事」という。)であり、ピース缶爆弾製造事件及び日石・土田邸事件の主任検察官は同検察庁の親崎定雄検事(以下「親崎検事」という。)であった。

6  原告らについての逮捕、勾留及び公訴提起

(一) 原告堀

(1) 火取法違反事件 昭和四八年一月二二日逮捕、同月二四日勾留、同年二月一二日釈放

(2) 八・九機事件 同年二月一二日逮捕、同月一五日勾留、同年三月六日起訴

(3) ピース缶爆弾製造事件 同年三月一三日逮捕、同月一六日勾留、同年四月四日起訴

(4) 日石事件、土田邸事件 同年三月一四日逮捕、同月一六日勾留、同年四月四日土田邸事件起訴、同年五月五日日石事件起訴

(二) 原告江口

(1) 犯人隠避事件 昭和四七年一〇月三〇日逮捕、以後勾留、同年一一月一七日釈放

(2) アメ文事件 昭和四八年二月二〇日逮捕、以後勾留、同年三月一三日釈放

(3) ピース缶爆弾製造事件 同年三月一三日逮捕、同月一六日勾留、同年四月四日起訴

(4) 日石事件、土田邸事件 同年三月一四日逮捕、同月一六日勾留、同年四月四日土田邸事件起訴、同年五月五日日石事件起訴

(三) 原告榎下

(1) 犯人隠避事件 昭和四八年三月一九日逮捕、同月二二日勾留、同年四月一〇日釈放

(2) 日石事件、土田邸事件 同年四月一〇日土田邸事件逮捕、同月一二日日石事件逮捕、同月一三日両事件勾留、 同年五月二日土田邸事件起訴、同月五日日石事件起訴

(四) 原告前林

(1) 法政大学生協窃盗事件 昭和四八年二月二〇日逮捕、以後勾留、同年三月一三日釈放

(2) ピース缶爆弾製造事件 同年三月一三日逮捕、同月一六日勾留、同年四月四日起訴

(3) 日石事件、土田邸事件 同年三月一四日逮捕、同月一六日勾留、同年五月二日土田邸事件起訴、同月五日日石事件起訴

7  原告らに係る刑事事件の公判の経過

(一) ピース缶爆弾事件第一審の公判係属状況

ピース缶爆弾事件関連で公訴提起された被告人は、原告堀、同江口、同前林、増渕、村松、前原、井上、平野、佐古、内藤及び石井の合計一一名であったが、当初は東京地方裁判所(以下「東京地裁」という。)のそれぞれ別の裁判体で審理されていた。

その後、原告前林及び増渕に対するピース缶爆弾事件等が併合されて、東京地裁刑事第九部(以下「地刑九部」という。以下同裁判所の刑事部を同様に略す。)で審理されるようになり、さらに、第二六回公判(昭和四九年一二月一九日)において、原告堀及び同江口に対するピース缶爆弾事件等が併合されて審理されるようになった。

また、村松、前原、井上、平野及び佐古は、最終的には、地刑五部で併合審理されたが、内藤は、地刑八部で、石井は、地刑二部でそれぞれ単独審理された。

(二) 日石・土田邸事件第一審の公判係属状況

日石・土田邸事件関連で公訴提起された被告人は、原告堀、同江口、同前林、同榎下、増渕、中村(隆)、松村、金本、中村(泰)、松本及び及び坂本の合計一一名であったが、当初は、東京地方裁判所のそれぞれ別の裁判体で審理されていた。

その後、原告前林及び増渕に対する日石・土田邸事件等が併合されて、地刑九部で審理されるようになり、さらに、第二六回公判に、原告堀、同江口、中村(隆)、松村、中村(泰)及び金本に対する日石・土田邸事件が併合され、第四三回公判(昭和五〇年九月一六日)に、原告榎下に対する日石・土田邸事件が併合されて併合審理された。

また、松本は、地刑六部で、坂本は、地刑三部でそれぞれ単独審理された。

(三) 刑事裁判結果

原告らは、公訴提起された事件のすべてについて、昭和五八年五月一九日、地刑九部において無罪判決の言渡しを受け、検察官により控訴されたが、昭和六〇年一二月一三日、東京高等裁判所第七刑事部(以下「高刑七部」という。)において、控訴棄却の判決を受けた。そして、これについて検察官の上告がなく、原告らの無罪判決は、確定した。

第三争点及び当事者の主張

一  争点

本件の中心的な争点は、原告らに対する刑事裁判において無罪判決が確定したことを基礎として、捜査段階における捜査から刑事裁判における訴訟追行までの一連の公権力の行使について、被告都の公務員である警察官及び被告国の公務員である検察官に違法行為があったか否かであり、その具体的な争点は、次のとおりである。

1  原告堀の八・九機事件の逮捕状請求の違法

2  原告堀の八・九機事件の勾留請求の違法

3  原告堀の八・九機事件の公訴提起の違法

4  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の逮捕状請求の違法

5  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の勾留請求の違法

6  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の公訴提起の違法

7  原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法

8  原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の勾留請求の違法

9  原告榎下の日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法

10  原告榎下の日石・土田邸事件の勾留請求の違法

11  原告らの日石事件の公訴提起の違法

12  原告堀及び同江口の土田邸事件の公訴提起の違法

13  原告前林及び同榎下の土田邸事件の公訴提起の違法

14  違法取調べと供述の任意性等

15  原告らに対する公訴追行の違法

16  原告らに対する控訴提起及び公訴追行の違法

17  損害額

二  当事者の主張

1  原告堀の八・九機事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

八・九機事件について、原告堀を逮捕する根拠資料となった前原、内藤らの供述は、いずれも虚偽の供述であり、本来証拠たり得ないから、右事件についての原告堀の逮捕状請求は違法である。

すなわち、八・九機に対する爆弾攻撃の現場に身を置き、効果測定係として十分に緊張した意識のもとで行動したであろう前原にとって、犯行時及びその直前、直後の行動は極めて印象的であったはずで、当然一連のものとしての記憶が残るべきであるのに、前原の供述は、都電内からフラッシュが焚かれるの見たことだけが記憶に残存し、その後の行動については記憶が極度に希薄化したというものであり、不自然である。

さらに、前原は、右フラッシュを目撃したことを供述した昭和四八年一月二〇日ころの時点では、犯行当時一緒に行動した赤軍派の者の存在を述べず、その後同月三一日に至って、ようやく、その存在を想起したとして供述するのであるが、同行者についての記憶までなくなっているというのも不自然である。

次に、前原の供述によれば、午後七時一〇分ころになっても変わった事態はなく、赤軍派の者からも、爆弾は投げこまれたらしいが、何も変わった様子がない旨の報告を受けながら、前原は、午後七時三〇分ころ都電に乗るまで、約二〇分間、無為のうちに河田町電停付近に立っていたことになるのであるが、このような行動は、いかにも不自然な印象を与える。

フラッシュを七時三〇分ころ見たとの供述も、むしろこのことは取調官にとって明らかな事実であったのだから、前原が取調官に迎合したことを疑い、慎重に吟味すべきであった。

(二) 被告都の主張

(1) 判断基準

刑事事件において無罪判決が確定したというだけでは、直ちに警察官、検察官の職務行為が違法となるものではない。警察官は、犯罪捜査の密行性と迅速性の要請によって制約された、ごく限られた資料によって犯罪の嫌疑や逃亡、罪証隠滅のおそれを判断しなければならないから、警察官による令状請求は、警察官において犯罪が存在すると考えたことについて、当時の資料の下で、常識上到底首肯し得ないほど合理性を欠く重大な過誤が認められる場合に限り、違法となるものと解すべきである。

(2) 疎明資料

警視庁所属警察官(以下、単に「警察官」という。)が、八・九機事件についての捜査を遂げた結果、佐古、前原及び増渕等の供述を得たが、前原は、原告堀が、八・九機事件において事前謀議、下見、爆弾投棄の実行行為を行ったと供述した。

(3) 前原供述の信用性

右前原の供述については、任意性を疑わせる取調状況が全くなかったこと、自白内容が具体性に富み、かつ詳細であったこと、他の共犯者に先だって供述した事項が多いこと、客観的証拠物に反するものではないこと、同人は取調べを開始してから比較的短時間のうちに供述を開始していること、捜査段階で一貫して自白を維持していること、捜査に協力的であったこと、同人の「都電に乗って、八・九機前を通過し様子を見た。正門の付近に二〇人くらいの機動隊員が集っており、フラッシュが焚かれていた」(前原の昭和四八年一月二二日付司法警察職員に対する供述調書。以下、司法警察職員の面前における供述を録取した供述調書を「員面」といい、検察官の面前における供述を録取した供述調書を「検面」という。)との供述は、映像的で生々しく、真実体験した者でなければ到底供述し得ない内容と認められたことなどから、同人の供述は客観的に信用性が高いと判断された。

(4) 警察官の判断及び逮捕

警察官らは、右のように、客観的にみて信用性が高いと判断された前原の自白などの捜査結果等から、原告堀につき、八・九機事件の実行行為及び事前謀議に関わっていた嫌疑があって、爆発物取締罰則一条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、昭和四八年二月一二日、東京簡易裁判所(以下「東京簡裁」という。)裁判官に同人の逮捕状を請求し、同日その発付を得て、原告堀を通常逮捕した。

警察官の右判断は極めて合理的かつ正当であって、違法とされるべき事情は全く存在しない。

2  原告堀の八・九機事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

八・九機事件についての原告堀に対する勾留請求は、その根拠資料とされた共犯者らの自白が、長時間にわたり、かつ、強制、誘導、切り違い等の方法を駆使した違法な取調べにより得られた虚偽自白であるにもかかわらず、これを看過してなされたものであり、違法である。

また、右資料とされた前原、佐古及び増渕の各自白は、法政大学図書窃盗事件もしくはアメ文事件についての同人らの勾留中に得られたものであるところ、右各事件についての逮捕・勾留は、日石・土田邸事件の捜査を目的とした違法な別件逮捕・勾留にあたるから、八・九機事件についての原告堀に対する勾留請求の資料となし得ないものであり、右勾留請求は、これを看過してなされた点でも違法である。その詳細は、次のとおりである。

(1) 佐古の取調べ

<1> 供述調書及びメモの存在

佐古は、

昭和四七年一一月三日法政大学図書窃盗事件で逮捕、同月二四日同事件で起訴、

同年一二月二七日、タイヤ窃盗事件で起訴、

同月二八日、一旦保釈、

昭和四八年一月八日アメ文事件で逮捕、同月二九日同事件で起訴、

同年四月一八日、ピース缶爆弾製造事件で起訴

されている。

この間、佐古について、ピース缶爆弾事件関係につき供述調書が作成されているほか、同人作成にかかるメモが存在した。

<2> 取調官

佐古は、前記逮捕・勾留の期間中、主として、警視庁公安部の好永幾雄巡査部長(以下「好永巡査部長」という。)、原田祥二巡査(以下「原田巡査」という。)によって取調べを受け、他に岩間拓生警部補(以下「岩間警部補」という。)、坂口清巡査部長、多田俊夫巡査部長(以下「多田巡査部長」という。)等が右取調べに加わった。取調検察官は、親崎検事、水崎検事、神崎武法検事(以下「神崎検事」という。)等であった。

<3> 取調時間、取調場所

佐古は、主として、警視庁地下の取調室において、連日平均一一時間以上食事中もいとわず取調べを受けた(久松警察署において取調べを受けたこともある。)。取調べは、午前から始められ、遅いときには、午後一一時を過ぎ深夜にわたることもしばしばであった。なお、留置場所は、久松警察署の代用監獄であった。

<4> 昭和四七年一一月三日、佐古は、自宅で逮捕された後、久松警察署の代用監獄に勾留されて、好永巡査部長、原田巡査等の取調べを受けることとなった。

取調官は、当初から、佐古を単なる窃盗事件の被疑者と考えていたのではなく、専ら、ピース缶爆弾事件等の取調べの対象と考えており、右勾留の期間を利用して、佐古に対し、ピース缶爆弾は、新宿付近で作られたものであると教えたり、あるいは、ピース缶爆弾に用いられたパチンコ玉の出所を、引当りに際して示唆するなどして、次第にピース缶爆弾事件の概要を佐古の頭の中に注入していった。

同年一一月二四日、佐古は窃盗事件により起訴されたが、それ以降好永巡査部長等は、佐古をピース缶爆弾事件の犯人と断定した取調べを行うに至った。好永巡査部長や原田巡査は、佐古に対し「窃盗による逮捕・勾留は別件であり、本件は爆弾事件だ。これからは爆弾事件の取調べをする。」と申し向け、「お前たちが、ピース缶爆弾事件をやったことにまちがいない。自白しろ。」などといって、自白を強要した。

取調官等は、これを否定する佐古の弁明に全く耳をかそうとせず、「L研(法政大学レーニン研究会。以下「L研」という。)がやったことにまちがいない」「自白をしないことは、反省していないことだ」などと、L研のメンバーが、ピース缶爆弾事件に関与していると思いこませ、佐古の記憶の有無とは全く無関係に、自白を強要していった。

そして、取調官は、佐古が、その自白を容易にしないとみるや、同人に対し、「佐古が自白をしなければ、兄夫婦を逮捕するよう上司に言われているが、俺が待ってくれと頼んでいる。兄夫婦が逮捕されれば、お前の家族はメチャメチャになる」とか、「自白しなければ、何度も逮捕する」「結婚した後でも逮捕に行く」「自白するまで調べを続ける」などと脅迫し、捜査官のいうとおりに自白をしなければ、家族にも被害が及び、また自分もくりかえし逮捕され取調べを受けることになるかもしれないといった絶望的な気持ちに陥らせ、あるいは、取調官に迎合した方が、自分のためになると思いこませながら自白を迫ったのである。

このため佐古は、取調官等が言うことは、事実でまちがいないことであると思いこむに至り、事実、L研のメンバーが、ピース缶爆弾事件にかかわっており、自分は利用されたのかも知れないという疑問を持ちはじめた。そして、捜査官の、「アメ文事件の爆弾は不発だから罪は重くない」とか「自白しても起訴されるとは限らない」という言葉などを信用して、遂に、取調官に対し、「思いだせるようヒントを教えてほしい」と頼み込むといった態度を示すに至り、虚偽の自白をせざるを得ない状態に陥っていったのである。

このような状況の中で、捜査官による巧みな誘導の結果、佐古は、一〇・二一闘争のとき、中野坂上で爆弾を持って逃げ、その爆弾を後に処分したものであることにされてしまった。佐古は、かかる供述をさせられたことにより、いよいよもって、L研が、ピース缶爆弾事件に関与しているとの捜査官の追求に抵抗できなくなり、捜査官から聞かれるまま、当時の断片的な記憶を供述すると、それがことごとく、捜査官によって、爆弾事件に関連する事実とみなされていったのである。

このような経過の中で、昭和四七年一二月一一日、アメ文事件についての最初の自白調書が作成された。当初、多田巡査部長から増渕の指示により段ボール箱入り時限爆弾を運搬するため車の運転をしたにちがいないと追求されたため、佐古は、車をどこかで運転したという自らの断片的な記憶に、それまで捜査官から教えこまれていたアメ文事件の筋書きを結びつけて虚偽の供述をした。右多田巡査部長の取調べをひきついだ好永巡査部長、原田巡査は、右自白の内容を拡大し、<1>虎ノ門付近のアメリカ領事館に、<2>佐古が借りたサンコウレンタカーに増渕、村松、赤軍派の板東の三人を乗せて、<3>爆弾を仕掛けに行ったという内容の調書を作成したのである。

しかしこの調書は、佐古の記憶(もともとそのような記憶はない)とは全く無関係なところで作成されたものであるだけに、調書の記載内容自体、後になって変更されなければならない運命にあった。爆弾を仕掛けた場所、人員、使用した車両名など、真犯人であれば、誤って供述するはずのない事項が、事実経験したかの如く記載されているこの調書に、強制された自白の典型を見出すことができる。

しかし、このように、一旦、調書をとられてしまった佐古は、以後、捜査官が与えるヒントなどに沿って、そのいうがままに、調書を取られていったのである。

捜査官は、「罪が軽くなるよう調書を作ってやる」、「佐古はいいやつだ」などと、佐古をおだてあげ、自白とひきかえに、勾留中の待遇等に便宜をはかるなどして捜査官に迎合せざるを得ない状態に導いていった。こうして、捜査側は、一二月二八日の保釈までの間に、アメ文事件関係の基本的な自白調書を作成し終えてしまったのである。

一二月二八日に保釈された佐古は、わずか一〇日余りの後の翌昭和四八年一月八日、アメ文事件容疑で、再逮捕され、再び前にもまして厳しく、かつ長時間にわたる取調べを受けるに至った。再逮捕後一週間の否認黙秘は佐古としては精一杯の真実の主張であったが、前年に詳細な自白をさせられている以上その抵抗も長くは続かず、一月一六日に再び自白調書が作成されるに至った。それから四月二五日東京拘置所への移監までの間に作成された自白調書類は膨大な数量に上り、事件としてもアメ文事件のほか、ピース缶爆弾製造事件、昭和四五年六月の爆弾製造事件、日石・土田邸事件など多岐にわたっているが、これらはいずれも、昭和四七年段階の取調べと同じパターンの取調べによって事実に反する虚偽自白を強いられた結果作成されたものなのである。

また、佐古は、前記のように、昭和四八年一月二九日、アメ文事件で起訴されたにもかかわらず、その後長期間にわたって、代用監獄に身柄を拘束されたまま、右事件に関して取調べを受けた。これに対して、佐古の弁護人(内田剛弘弁護士)は、再三にわたって、右取調べの中止を求めたが、取調官等は全くこれを無視し、同年三月三一日、第一回公判が行われた後においても、その取調べを継続したものである。

以上に述べたように、佐古の自白調書には、別件逮捕・勾留中ないし起訴後の取調べの結果作成されたものが含まれており、その各調書は、違法収集証拠として証拠能力が認められないのみならず、佐古の自白は、いずれも、精神的にも肉体的にも疲労困ぱいした状態の下で、取調官から精神的圧迫と、甚だしい誘導を加えられた結果なされたものであるから、右自白調書には、特信性がないことはもちろん、任意性、信用性がないことは明らかである。

(2) 前原の取調べ

前原の司法警察職員面前調書(員面)は、いずれも長期の身柄拘束と、捜査官の誘導、押付け、これに対する前原の迎合とに基づいて作成されたもので、任意性、特信性に欠け、各検察官面前調書(検面)は、右警察での取調べの影響下で、しかも右員面を前提として作成されたものであり、右各員面と同様、任意性、特信性及び信用性がない。

<1> 別件を利用しての取調べ

前原は、昭和四八年一月六日、法政大学図書窃盗事件で逮捕されたが、右事件に関する取調べは一月一三日ころ終了し、翌一四日以降専らピース缶爆弾事件に対する取調べが行われた。

すなわち、一月一四日段階ですでに、窃盗関係についての取調べは全くなく、専ら八・九機事件に関する件、アメ文事件に関する件、さらには一〇月中旬の窃盗関係以外の諸行動について取調べが集中され始めた。

逮捕被疑事実に関しては、一月一〇日ころにほぼ前原のアリバイが明らかにされ、また、これに関連するいわゆる生協・政文堂窃盗についても遅くとも一月一三日には取調べが終了していた。捜査官は、右法政大学図書窃盗事件による身柄拘束を利用し、専ら別件であるピース缶爆弾事件に関する取調べを行う目的で右身柄拘束を続けたものというべきである。そして、捜査官は、このような不当な身柄拘束に加え、後記の如き脅迫的言動を加味した取調べを行うことにより、前原を長期間の身柄拘束に対する恐怖感からする捜査官への迎合的心理状況へと陥れ、誘導あるいは押付けによる不任意自白を引き出したものである。

<2> 脅迫的言辞、増渕らに対する不信感の植え付け

捜査官は、前原に対し次のような脅迫的な取調べを行い、前原をして捜査官の意にそうが如き供述を行わない限り身柄拘束が延々と続くことになるとの恐怖感を抱かしめ、また捜査官の意にそうが如き供述を行うことにより温情的な処置を受けられるかの如き迎合的な心理状況に陥れ、誘導、押付けによる虚偽自白を引き出した。

すなわち、捜査官は、前原に対し、捜査官が否定するが如き供述を行っている限り、「増渕の如く繰り返して逮捕を行う」などと長期間の身柄拘束に対する畏怖感を植え付け、さらには「(警務要鑑を示し)爆取の刑は死刑等だ。しかし素直に話せば在宅起訴も考えられる。再逮捕すれば新聞発表になる」などと、捜査官の意にそう供述を行う限り、あたかも早期に拘束から解放されるかの如き甘言を弄し、前原の捜査官に対する迎合的態度を煽った。

一方では、増渕らに対する悪口、誹謗が並べ立てられ、事実増渕らがピース缶爆弾関係の犯行を行っているのではないかとの疑惑を持たされることにより、前原は、自分自身の記憶は判然としないが、何らかの形で事件に巻き込まれていたのではないかとの自己の記憶に対する不信感と記憶の混乱を引き起こさせられた。

<3> 一月一七日初自供前後における取調べ

前記のとおり、前原に対するピース缶爆弾事件に関する本格的な追求は、すでに一月一四日から行われて、一月一七日には「一〇月二二日早朝佐古らによる河田町への搬入」等を内容とする員面が作成されるのであるが、右「自供」は、捜査官(高橋一月一四日、同一六日、同一七日調べ、多田一月一五日調べ)の次の如き誘導、押付けによりなされたものである。

(ア) 一〇月二二日爆弾搬入―理詰め、押付け

前原は、一〇月二一日夜、河田町アパート(河田町アジト)に国井と帰ってきた際、誰か二人の男がいた記憶はあったが、右二人が誰であったかの明確な記憶はなかったのであるが、これに対し捜査官は、「この二人が佐古、井上であり、同人らはピース缶爆弾を持ち帰った」旨の虚偽自白を理詰めで押付け、前原にこれを認めさせた。

すなわち、捜査官は、前原が一〇月二一日夜河田町アパートで会った「二人の男」に関し、「(当日、河田町に)佐古と井上が来なかったか」と執拗に追求し、これに対し「そのような記憶がない」とする前原に対し、「それならば一〇月二一日夜、中野坂上から逃げ帰った井上、佐古は、どこへ帰ったのだ。それがわからないなら佐古らが河田町に来なかった根拠はないではないか」(高橋)、「河田町アパートには佐古らが来ているはずだ。(二人の男のうち一人が)菊井というのは間違いで、佐古、井上ではないのか」(多田)などと理詰め、押付け的取調べを続けた。そして他方では、「(連合赤軍事件の)坂東の父親が自殺をした」話や、「殺人(内ゲバ)事件でも捜査官の情状により在宅起訴になった」話等を「説得」することにより、前原を「何とか認めないと捜査官の言うとおり再逮捕を繰り返され情状も悪くなる」との捜査官への迎合的な心理状況へと追い込んでいった。

(イ) 一〇月二二日爆弾搬入等―誘導、切違え

さらに捜査官(高橋)は、佐古の取調官(原田巡査)に、前原を取り調べさせることにより、次のような誘導及び切違えによる取調方法を行使したのである。すなわち、前原は、捜査官(高橋)に「佐古は既に(一〇月二一日夜の件に関し)すべて自供している。佐古の取調官に話を聞いて思い出せ」と言われ、佐古の取調官に聞けば、(自分の記憶にないことが)何か話せるのではないかと思った。そして、捜査官高橋に呼び寄せられた佐古の取調官(原田)は、前原に対し、「(中野坂上から)ピース缶爆弾二個を持ってきて、一個を八・九機に、残り一個を時限装置付に改造しアメ文に使用したことは間違いない。一〇月二一日の夜、佐古、井上は河田町に爆弾を持ってきたはずだ。」等と言い、「佐古はこれをすでに認めている」として具体的な誘導的追求を行った。原田巡査の右誘導的取調べは(昭和四八年)一月一七日付員面に録取されている事項のほぼ全体にわたるものであったが、(昭和四四年)一〇月二二日の河田町アパートへの爆弾搬入に関する取調方法をみると、次の如きものであった。前原は、原田巡査から「一〇月二一日夜、佐古が河田町アパートへ爆弾二個を持ってきて、八・九機、アメ文に各一個使用した」といきなり言われてショックを受けた。それまで前原は、捜査官(高橋)から「お前たちが(各爆弾事件を)やった」と追求されていたが、その筋道がよく分からなかったところ、原田巡査の具体的な事実をつきつける形の右取調べにより、「自分が直接疑われているのだとの切実感」を持ちショックを受けたのであった。

原田巡査は、右のように混乱状況に陥り、自分が具体的な嫌疑の対象になっているとの恐怖感に陥っている前原に対し、「お前はもうここまで思い出しているはずだ。早く言ってしまえ」等と威圧を加え、さらに「思い出せないなら俺がヒントを与えてやる」と具体的な事実をあげて誘導的取調べを行った。これに対し前原は、記憶にはなかったが、認めなければならないというような追いつめられた状態となり、そういう状況を一生懸命イメージして、虚偽の自白を行った。結果的に、右虚偽自白を前提に、前原は、翌一月一七日付をもって「一〇月二一日夜、河田町アパートへ佐古、井上が帰ってきた。その際両名は窓から入った。当日、佐古か井上からピース缶爆弾を見せられた気もする」旨の員面を作成されたが、右自白がこのような精禅的混乱状況下での誘導的取調べによりなされたものであることは、同調書上にもその一端が現われている。

(ウ) 時計の半田づけ等―記憶の混同を利用した誘導、押付け

前原は、前記原田巡査の取調過程において、「前後の脈絡は全く不明であるが、かつて乾電池(単二、表面は赤)を直列にしコードを半田づけしたことがあった」ことをふと思い出したのであるが、この記憶が最終的には時限装置(アメ文事件)造りの一環に関与した旨の虚偽自白へと発展させられてしまった。これは、前原の記憶の混乱に乗じて誘導あるいは押付けによる取調べを行った典型とも言えよう。

前原は、原田巡査から、「タイマー等を工作したことはないか」等の追求を受け、一生懸命それに関連するような記憶がないかと考えたところ、前記のことをはっと思い出したのである。事実、右記憶は(後日記憶を整理したところ)、高校三年の大学受験の為のラジオ講座を開いていた時期にラジオに使用する乾電池を半田づけしたことに関するものであったが、右捜査過程においては前後の状況を全く思い出せなかった。これに対し原田巡査は、「それは河田町で増渕の指示で行ったに間違いない」と決めつけたうえ、執拗に押付け的追求を行ったのである。前原は、いろいろ考えたものの(原田巡査の追求に)合うような記憶が全く出て来なかったが、さらに原田巡査から、「増渕が言った(指示をした)のに間違いないんだ」と駄め押しをされ、記憶にないまま原田巡査の追求を認めることとなった。

右「半田づけ」に関する虚偽自白は、その後捜査官高橋(一月一六日)により細部にわたる具体的な誘導的取調べが行われ、一月一七日付員面として録取されたが、これと全く同様のパターンによる虚偽自白として、次の村松のタイマーへの悪戯書きに関する自白がある。

(エ) タイマーへの悪戯書き―知識の注入による誘導

前記「半田づけの際、村松が居た」ことを曖昧に認めさせられた(一月一六日調べ、一月一七日付員面)前原に対し、捜査官(高橋)は、さらに「村松が居たことは間違いない。村松が何か時計に悪戯書きをしていなかったか。村松が落書きをしたのだ。間違いない。河田町に針があっただろう。」等と、村松の悪戯書きを決めつけて取調べを行ってきた。これに対し前原は、(捜査官の求めている自白は)村松が時計に何か漢字で書いたことであると想像できたが、書かれたものが具体的に何という言葉であるのか全く想像がつかず、返答できなかったため、取調べは一種の膠着状況に陥ってしまった。業を煮やした捜査官高橋は、前原から十分見えることのできる位置にある机の上のワラ半紙に「毛沢東万歳」と落書きするように書き、自己の求めている答えを暗に前原に教えるようにして示した。これを見て前原は、捜査官が求めている答えは「毛沢東万歳」であることがわかり、その旨自白した。

この村松悪戯書きに関する自白が捜査官の誘導に基づく全くの虚偽自白であることは、右悪戯書きの文字及び書かれた位置(参照一月二五日付員面添付図面)等が客観的事実と全く異なることからも明らかであろう。

(オ) 段ボール箱の製造―押付け、誘導

原田巡査は、「段ボール箱(時限装置付き爆弾が入れられていたもの)」を、河田町アパートで佐古と前原が増渕の指示で製造したとして前原に押し付ける取調べを行った(一月一六日)が、その経緯は概略次のとおりであった。

原田巡査は、前原が佐古と共に河田町アパートで箱造りをしたことを決めつけた上で、原田巡査の求めている「箱」の形状等(特に蓋の有無)を想像しかねている前原に対し、手でその形状を示して求めている答えを暗に教えた。前原は、原田巡査が片方の手で蓋の形をまねる手つきをしたので、それを見て箱の片方に蓋がついているものと想像し、そのように認める供述をした(一月一七日付員面添付図面参照)。ところで実際の段ボール箱は、二枚の段ボール片を組み合せた極めて特殊な製造方法により作成されているものであるが、真実体験したものの供述であるならばこの様な特異事項についての供述が欠かせないはずであるのに、当然ながら前原の自白にはこの点の供述が全く現われてこない。また、箱の製造に使用した「ホッチキス」も、実際のものはいわゆる文具用のホッチキスではなく、特殊な器材(例えばステッチヤー)によって止められたものであることが明らかであるが、この様な特異事実に関する供述も存在せず、否むしろ前原自白は、大型文具用ホッチキスを使用したとし、客観的事実とは明白に異なっており、この箱製造に関する供述の虚偽性を如実に示している。

<4> 一月二二日自供前後の取調状況―虚偽自白採取の一事例として

(ア) 決めつけ―迎合

前原に対する八・九機事件の本格的な取調べは一月二〇日ころから行われ始めた(アメ文事件起訴は二月八日)が、右取調べは、捜査官(高橋)の真犯人は増渕らに間違いないとの有無を言わせぬ決めつけから開始された。すなわち、捜査官(高橋)は、前原に対し、「八・九機をやったのはお前達だ、証拠も挙がっている、指紋も採取されている、赤軍の幹部も認めている、投てき者は村松だ」と前原らの犯行を一方的に決めつけた上、他方、「黙っていたら再逮捕するし起訴をする」等と、恫喝とも言うべき言辞を持って捜査官への迎合を強制するが如き取調べを行った。前原は、このような捜査官の決めつけ的取調べを受け、「捜査官がL研がやったと、しかも村松が投げたと断定的に言ってるのだから正しいのではないか」などと思う一方、「断定的な追求に対しては、否定する具体的な材料がなければ認めるよりしようがない。情状をよくする為には何とか捜査官に合わせていくしか方法がないのだ。」などと考え、あきらめと迎合的な態度に基づく虚偽の自白を続けた。また、捜査官(高橋)は、一〇月二五日付の毎日新聞(縮刷版)を前原に示した上、お前はこの新聞を事件の翌日見たに違いないと押付けによる取調べを行ったが、このことが一方では、犯行時刻、結果、爆弾の形状(参照、二月六日には証拠物も示されている)等についての前原に対する予備知識の注入ともなり、後日の誘導による虚偽自白の前提にもなっている。

(イ) 脅迫的、暴力的取調べ

一月二〇日ころの八・九機事件の調べが本格的に行われるようになった日の取調べ終了直前ころ、捜査官高橋と替わった捜査官朝原伸太郎は、前原に対し、語気激しく「お前まだ隠しているのか」等と詰めより、前原の両肩を激しくゆさぶったり、のどに手を当てたり、さらには両手で耳を持って頭をゆさぶったりして前原に自白を迫った。さらに捜査官(朝原)は、手で机をたたきながら、「お前八機のことを佐古に説明しただろう」等と繰り返し、一方的にまくし立て、怒鳴る様な調子で前原を追求した。前原は、「本当に思い出せないのだ」と何度となく繰り返したが、捜査官朝原はこれを聞き入れる様子を全く見せず、ますます興奮状態が強くなる一方であったので、前原は、とにかく捜査官の興奮状態が治ればという絶望的な気持ちから、「(佐古に八機のことを)言ったかも知れない」と認める供述をした。

捜査官朝原は、この取調方法に多少やり過ぎたとの感を持ったのか、当日三田署への護送中の車中で、前原に対し、謝罪とも取れる態度を見せていた。しかし、このような脅迫的言辞をもって取調べを行ったのは、捜査官朝原のこの例だけに限られず、前原が否認し(例えば三月六日ころの千葉による取調べ)、あるいは捜査官が意図する供述が得られない時(例えば高橋、兼子による取調べ)など、その枚挙にいとまなし、と言えるほどである。

このような取調べに対し、前原は、捜査官の意図するところを認めて早く調べを終わらしてもらいたいとの思いを抱き、迎合的態度を強めていった。

(ウ) 記憶の混乱を利用した押付け的取調べ

八機に関係することは、事件との関係の有無に拘わらず、何でも思い出して見ろとの捜査官の追求の過程で、前原は、八機の前を誰かと二人で新宿方向へ都電で通った際、正門付近に人が二〇人くらいいてフラッシュがたかれている情景を見たことを思い出し、その旨供述した。この「記憶」は、日付や前後の脈絡も明確でなく、もちろん、八機事件と関係が有るものとして記憶が甦ったものでは全くなかったが、当時の記憶で八機に関係することを何でも思い出して捜査官に判断してもらいたいとの気持ちから懸命に記憶をたどった結果出てきたものであった。前原はこの様な「記憶」を供述することで自分に対する嫌疑がより濃くなるとは思っていなかった。

これに対し、捜査官(高橋)は、「それは爆弾投てき後の効果測定」であると判断した上で追求を重ねてきた。前原は、捜査官(高橋)の「お前なんか大したことはやっていないのだから、いくらでも情状は良くなる。一か月で出してやる」等の説得を受け、さらには、「お前は下見だってやっているのだから云々」と追求されて反駁出来ず、「何とか捜査官に合わせて行こう」との気持ちもあり、認める供述をしてしまった。

(エ) 予備知識の注入―誘導

導火線燃焼実験について追求している過程で、一月二一日ころ、三田署からの護送途中で、捜査官は、前原に対し、「導火線というのは一秒に一センチメートルの割で燃えるのだ」と、わざわざ予備知識を与えている。さらに捜査官(高橋)は、導火線の燃焼状況、構造等詳細にわたる知識を取調べに際し前原に注入している。前原は、このような捜査官(高橋)よりあらかじめ与えられていた知識(そのなかには前記の縮刷版毎日新聞より得た知識もある)を前提に、導火線燃焼実験(八機事件に関する)に関する虚偽自白を作りあげさせられたものである。

このような虚偽自白には、当然ながら知識として与えられなかった事項に対する内容的な不自然性が現われている。例えば、前原自白は、実験に使用した導火線について他一個の爆弾から抜き取ったものを使用したと述べているが、接着剤による固化現象については全く言及していないし、また、着火方法についても具体性に欠ける点がある。また、事件全体の流れからして、この八機事件前の導火線燃焼実験は極めて不自然なものとなっている。

右のとおりであり、前原自白は、捜査官の不当、違法な取調べにより採取されたものであって、いずれも任意性、特信性に欠ける虚偽自白であり、また信用性もない。

(3) 増渕の取調べ

<1> 取調官による押付け

取調官は、増渕の内妻であった原告前林の逮捕や起訴、別件で逮捕されていた知人石田や増渕の同房者であった檜谷らの虚偽自白などを恫喝の武器にして、増渕に虚偽自白を強要した。

(ア) 増渕の内妻であった原告前林は、当時、妊娠中であったが、昭和四八年三月一三日にピース缶爆弾製造事件で逮捕された。増渕にとって、妊娠中の原告前林の身柄拘束は最も恐れていたことであった。

取調官は、同日の初自白以前から増渕に対し、「高橋荘で爆弾を作ったことになると前林も共犯になる。前林をかばってやれ、お前が責任をとってやれ」と執拗に説得し続け、「増渕が首謀者、爆弾製造は原告江口、発送は原告堀」という三人犯行のストーリーを内容とする自白を強要した。

原告前林逮捕後も、取調官は、増渕に、「前林のつわりがひどく、洗面器を抱えながら取調べを受けている」などと虚偽の事実を申し向け、自白を迫った。

(イ) 右三人犯行説は、取調警察官が増渕に押し付けたものであったが、その内容の一部は、増渕が昭和四六年一〇月九日、原告江口から受け取った爆弾を、原告堀の勤務先近くの聖蹟桜ヶ丘の喫茶店近くで原告堀に渡したことになっていた。しかし、捜査官は、その日原告堀が欠勤していて手渡すことが不可能であったことを知り、高橋荘ではない他の場所に一時預けたと推定し、当時増渕が出入りしていた石田のアパートに預けたというストーリーを、昭和四八年四月四日、増渕に押し付けた。増渕は原告前林を庇うことに必死であったため、右ストーリーを拒めなかった。

石田は、日石・土田邸事件とは全く関係なかったが、同月六日、共犯にされかねない取調状況に屈して、増渕自白にそった供述調書に署名押印させられた。

(ウ) 檜谷は、昭和四八年二月一二日に、詐欺、窃盗の容疑によって麹町警察に逮捕され、同署の留置場に留置された。このときの留置房(第五房)が増渕と同房であったことが、増渕と知り合い話をするきっかけとなったとされている。

檜谷は、同年三月五日ころ、増渕と一緒に入っていた第五房から第三房へ一人で移されたが、この転房後から増渕に関する供述調書が作られ始めた。

最初の員面調書は、同月六日付であるが、ここでは、<1>檜谷が、増渕の依頼に基づき、同年二月二八日に地検の同行室で、前原と話をしたこと、<2>同年三月一日ころ、房内で増渕とアメ文事件に関する会話をかわしたこと、<3>同じころ、増渕が、檜谷に肩車をしてくれるよう頼み、首吊りの話をしたこと、<4>更に、増渕が、爆弾の名称や作り方を檜谷に説明したことなどがその内容となっている。

同月七日の員面調書では、同年二月二七日の就寝時、檜谷が、増渕から頼まれて久松署の被疑者を通じて原告堀に伝言を依頼し、それらを二八日の夜就寝後、増渕に話したことが冒頭に述べられている。

同年三月一〇日の員面調書では、前日の同月九日、留置場の洗面所で、増渕から「お前も頑張ってくれ」と言われたこと、檜谷が増渕から頼まれて共犯者への連絡をした経緯、その他同房中の増渕との会話内容等が供述されている。

同月一一日の員面調書には、檜谷が増渕から聞いたと称する爆弾の構造の極めて具体的な供述、同月一〇日朝、増渕から土田邸事件についてしゃべるなと口止めされたこと、目白付近に関する増渕との会話等が記載されている。

最後の三月二六日付検面調書では、増渕から聞いたという手製爆弾の話及び増渕の土田邸事件の口止めの話が主要な内容となっている。爆弾の話は極めて詳細かつ具体的であり、時期的に言っても檜谷の記憶により述べられたものとは考え難い。

捜査側は、警察に対して極めて弱い立場にあり自分の罪責を軽くするために他人を陥れることも辞さないという収監された同房者を別の房に移し、これにスパイ的役割をさせたばかりでなく、虚偽供述をさせて、それを増渕の取調べで脅しの武器にした。

(エ) 同月一四日から同年四月四日までの増渕の取調べは、右三人犯行説に立ちながらも、増渕が爆弾製造に具体的に関与したこととして雷管製造が追求された。この点の自白も取調官の誘導と強制によって作られたものであり、後に著しく変遷し、虚偽であることが明白となる。

右のとおり、この間の増渕に対する取調べは、強制、誘導が著しく、その供述は、一審の証拠採否決定が認めるとおり任意性がなく、違法な取調べの結果作られたものであることが明らかである。

<2> 長時間の取調べ

増渕が昭和四八年一月二二日アメ文事件容疑で逮捕されて以後、取調べの一段落する同年四月末日までの各日の取調時間は、後記のとおりである。これは麹町署の留置場の出入時間をそのまま引用したものであるが、麹町署から取調場所である警視庁本部までは自動車でせいぜい五分から長くかかっても一〇分くらいであることを考えると、右の時間すべてを取調べの時間と考えても差し支えないと思われる。これを見れば明らかなように、この期間、取調べは一日も休むことなく連日続けられ、しかも、一日の取調時間が一二時間以上に及んだことが二〇日以上(一〇時間以上の日は実に約五〇日)も数えられるのであって、これは増渕に対する取調べがいかに過酷なものであったかを如実に物語っているものである。

取調開始時間   取調終了時間   通算取調時間

一月二三日 午前九時五〇分  午後五時四〇分  七時間五〇分

二四日 午前九時五分   午後四時一〇分  七時間五分

二五日 午前一〇時一五分 午後六時一五分  八時間

二六日 午前九時三五分  午後六時一〇分  八時間四五分

二七日 午後〇時四〇分  午後六時二五分  五時間四五分

二八日 午後〇時二〇分  午後三時五分   二時間四五分

二九日 午前九時五〇分  午後六時五五分  九時間五分

三〇日 午前八時四五分  午後五時一〇分  八時間二五分

三一日 午前一〇時〇分  午後七時四〇分  九時間四〇分

二月一日 午前一〇時〇分  午後八時〇分   一〇時間

二日 午前一〇時五分  午後七時三〇分  九時間二五分

三日 午前九時四九分  午後一〇時三〇分 一二時間四一分

四日 午前九時五〇分  午後九時三〇分  一一時間四〇分

五日 午前一〇時一〇分 午後一〇時一〇分 一二時間

六日 午前一〇時五分  午後一〇時一〇分 一二時間五分

七日 午前九時三〇分  午後一〇時五分  一二時間三五分

八日 午前九時四〇分  午後九時一五分  一一時間三五分

九日 午前八時三五分  午後九時三〇分  一二時間五五分

一〇日 午前一〇時三五分 午後九時四五分  一一時間一〇分

一一日 午前一〇時二五分 午後八時〇分   九時間三五分

一二日 午前一〇時〇分  午後七時五分   九時間五分

一三日 午前八時四五分  午前八時五五分

午前九時一五分  午前一〇時〇分

午前一〇時四〇分 午後六時三〇分  八時間四五分

一四日 午前一一時〇分  午後八時〇分   九時間

一五日 午前九時四五分  午後五時三〇分  七時間四五分

一六日 午前一〇時〇分  午後九時〇分   一一時間

一七日 午後〇時四五分  午後七時五〇分  七時間五分

一八日 午前一一時二〇分 午後六時〇分   六時間四〇分

一九日 午前一〇時四〇分 午後五時二〇分  六時間四〇分

二〇日 午前一〇時三五分 午後四時四〇分  六時間五分

二一日 午前一〇時四五分 午後八時四〇分  九時間五五分

二二日 午前一一時一〇分 午後七時四〇分  八時間三〇分

二三日 午前一一時〇分  午後八時四〇分  九時間四〇分

二四日 午前八時四五分  午後一時四五分

午後二時一〇分  午後六時三〇分  九時間二〇分

二五日 午前一〇時一〇分 午前一一時五分

午後一時三〇分  午後六時三〇分  六時間四五分

二六日 午前一一時五〇分 午後七時四五分  七時間五五分

二七日 午後〇時四〇分  午後七時一五分  六時間三五分

二八日 午前一〇時五七分 午後八時五分   九時間八分

三月一日 午前一〇時一五分 午後六時三五分  八時間二〇分

二日 午前八時四五分  午後五時二〇分

午後七時三〇分  午後八時三〇分  九時間三〇分

三日 午前一一時五分  午後七時三〇分  八時間二五分

四日 午後二時一五分  午後六時四〇分  四時間二五分

五日 午前一一時〇分  午後八時〇分   九時間

六日 午後〇時五〇分  午後一〇時五五分 一〇時間五分

七日 午後〇時五五分  午後一〇時三〇分 九時間三五分

八日 午後二時〇分   午後一〇時〇分  八時間

九日 午後一時三〇分  午後九時四七分  八時間一七分

一〇日 午後二時一五分  午後一〇時四〇分 八時間二五分

一一日 午後一時一〇分  午後一〇時一〇分 九時間

一二日 午後〇時四五分  午後九時二五分  八時間四〇分

一三日 午前一〇時二〇分 午後一〇時三〇分 一二時間一〇分

一四日 午前八時二五分  午後五時五〇分  九時間二五分

一五日 午前一〇時二五分 午後一〇時三五分 一二時間一〇分

一六日 午前一一時四二分 午後四時四〇分

午後五時二〇分  午後九時二〇分  八時間五二分

一七日 午前一一時三〇分 午後九時三〇分  一〇時間

一八日 午前一一時三〇分 午後九時四〇分  一〇時間一〇分

一九日 午後一時二〇分  午後九時五〇分  八時間三〇分

二〇日 午前一一時一〇分 午後八時四〇分  九時間三〇分

二一日 午前一〇時五分  午前一〇時三〇分

午後一時〇分   午後九時二〇分  八時間四五分

二二日 午後二時〇分   午後九時四〇分  七時間四〇分

二三日 午前九時五〇分  午後一〇時四〇分 一二時間五〇分

二四日 午後一時五〇分  午後一〇時三八分 八時間四八分

二五日 午後〇時二〇分  午後一〇時三〇分 一〇時間一〇分

二六日 午前九時四〇分  午後一〇時二五分 一二時間四五分

二七日 午前九時一五分  午前九時四〇分

午前一一時一五分 午後九時四五分  一〇時間五五分

二八日 午前一〇時三〇分 午後一〇時三五分 一二時間五分

二九日 午前九時二五分  午後一〇時五分  一二時間四〇分

三〇日 午前九時一五分  午後一〇時一八分 一三時間三分

三一日 午前一一時五五分 午後一〇時四〇分 一〇時間四五分

四月一日 午前一一時〇分  午後一〇時四〇分 一一時間四〇分

二日 午前一〇時二〇分 午後一〇時〇分  一一時間四〇分

三日 午前九時四五分  午後一〇時一五分 一二時間三〇分

四日 午後〇時四〇分  午後一〇時〇分  九時間二〇分

五日 午前一〇時四〇分 午後一〇時三五分 一一時間五五分

六日 午後〇時一〇分  午後一〇時〇分  九時間五〇分

七日 午前一一時四〇分 午後一一時一五分 一一時間二五分

八日 午後〇時〇分   午後一一時四五分 一一時間四五分

九日 午前九時四〇分  午後一一時二〇分 一三時間四〇分

一〇日 午前九時一五分  午後一一時三〇分 一四時間一五分

一一日 午前一〇時一五分 午後一〇時四五分 一二時間三〇分

一二日 午前九時二五分  午後一〇時一〇分 一二時間四五分

一三日 午前一〇時三〇分 午後一一時一五分 一二時間四五分

一四日 午前一一時五八分 午後一〇時一五分 一〇時間一七分

一五日 午前一〇時四分  午後一〇時三〇分 一二時間二六分

一六日 午前九時五〇分  午後一〇時〇分  一二時間一〇分

一七日 午前一〇時〇分  午後一〇時五五分 一二時間五五分

一八日 午前一〇時〇分  午後一〇時〇分  一二時間

一九日 午前九時五五分  午前一〇時〇分  一二時間五分

二〇日 午前九時〇分   午前九時四五分

午前九時五五分  午後八時一六分  一一時間六分

二一日 午前一一時〇分  午後九時一五分  一〇時間一五分

二二日 午前一〇時二〇分 午後四時二〇分  六時間

二三日 午後〇時三〇分  午後八時四五分  八時間一五分

二四日 午前九時三〇分  午後七時四五分  九時間一五分

二五日 午前一〇時五分  午後八時五五分  一〇時間五〇分

二六日 午前九時五分   午後八時五〇分  一一時間四五分

二七日 午前一〇時二五分 午後八時一〇分  九時間四五分

二八日 午前一一時〇分  午後九時三〇分  一〇時間三〇分

二九日 午前一〇時一〇分 午後八時四〇分  一〇時間三〇分

三〇日 午前九時四五分  午後七時一〇分  九時間三五分

<3> 違法な別件逮捕・勾留

増渕に対する東薬大事件の起訴は、昭和四七年九月三〇日にされ(毒物及び劇物取締法違反)、第一回公判が一〇月二三日に行われ、翌二四日増渕は保釈された。しかも検事は、「然るべく」の意見を付していた。ところが、翌一〇月二五日増渕は、法政大学図書窃盗事件容疑で再び逮捕された。

しかし、右事件については、九月一〇日の東薬大事件による逮捕の際に給田のアパート(高橋荘)で発見されているはずであること、九月三〇日以前に捜査官の高橋自身が法政大学図書については知っていたこと、九月一七日に給田のアパートの捜査令状が請求されており、そのころ再び捜索がなされていること、一〇月四日ころに楠本(牛乳屋グループとされている)のところから本が出ている(高橋も認めている)等から見て、捜査側は、当初から増渕が法政大学図書を所持していたことを知悉していたものである。

したがって、この再逮捕は、本来過去に訴追できたにもかかわらずこれをせず、増渕の保釈という事態に対抗するため、ひたすら増渕の身体の拘束のためになされたものである。この逮捕に続く勾留請求は、一〇月二七日却下された。このように最初の別件逮捕の企ては、短時日で当初の目的を達せずに終わってしまった。

(二) 被告国の主張

(1) 判断基準

国家賠償法一条一項の「違法」とは、公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背することである。検察官の職務行為の国家賠償法上の違法性は、当該行為が行われる時点における証拠資料を総合勘案して、それが法の許容するところであるか否か、換言すれば、当該行為が検察官の個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違反するか否かによって決せられるべきである。

勾留請求については、検察官が、刑事訴訟法六〇条一項所定の嫌疑の存在あるいは勾留の理由や必要性を判断する上で合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求をしたと認め得るような事情がある場合に限り、国家賠償法上違法となると解される。

(2) 疎明資料

八・九機事件については、目撃者の供述等によっては被疑者を特定することができなかったところ、アメ文事件で勾留中の佐古が、昭和四八年一月一六日、前原が八・九機事件に関与していることを供述し、その供述を端緒に、前原を取り調べたところ、同人は、同月一六日から昭和四八年一月二二日までの間に、アメ文事件への関与のほか、昭和四四年一〇月二三日夜、増渕が河田町アジトに村松、内藤、前原及び井上を集め、ピース缶爆弾で八・九機を攻撃することを提唱したところ、全員が賛成し、村松、原告堀、井上が爆弾の投てきを実行することなど各役割分担を決定したこと、その場で導火線の燃焼実験をしたこと、翌二四日、前原、村松、内藤、原告堀、井上らが河田町アジトに集まり、八・九機周辺の下見を行い、午後七時ころに爆弾を投てきする旨打ち合わせて出発したこと、後に井上から爆弾を投げた時の様子などを聞かされたことなど、ほぼ事件の全容を自白するに至った。また、増渕も、昭和四八年二月一一日、「昭和四四年一〇月二三日ころ、村松か、菊井から爆弾が入ったとの連絡があったので、実験を兼ねて八機に投げてみろと指示した。」旨供述した。

(3) 検察官の判断

原告堀についての八・九機事件の送致を受けた検察官は、佐古及び前原が、具体的かつ詳細に供述していたことからして、その供述の任意性・信ぴょう性には問題がないと判断し、原告堀について、八・九機事件の犯罪の嫌疑が存在するものと認めた。また、検察官は、八・九機事件は罪質からみて重罪である上、共犯者が多数で組織的犯行であると目される複雑な事案であり、共犯者中前原を除き他は実質的に否認していることなどを考慮し、罪証隠滅及び逃亡のおそれがあり、勾留の必要があるものと判断して、東京地裁の裁判官に対し、原告堀の勾留を請求し、同月一五日、いずれもその請求が認められた。したがって、原告堀の勾留請求には違法はない。

3  原告堀の八・九機事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

原告堀に対する八・九機事件の起訴は、前原、増渕、村松、内藤の自白に基づくが、各自白間の矛盾は著しく、その矛盾を合理的に説明することができないのに、このような自白内容の検討を怠ってした違法なものである。

<1> 公訴提起段階で、検察官が把握し得た事実

検察官は、公訴提起の段階で、それまでに把握し得た資料により、被疑者を訴追するに十分な嫌疑があるかどうか、合理性を持った判断をしなければならないし、それで足りるものであることはいうまでもない。

そこで、検察官が嫌疑を判断するについて、どのような資料を把握していたのか、あるいは把握すべきだったのかを、まず検討することにする。

検察官は、その段階で把握し得た供述のみならず、物的資料や事件の外観的事実や他の事件との関連性なども、当然総合勘案して判断すべきなのである。

(ア) 事件当時の赤軍派の行動に関する検察官の知識

赤軍派は、結成の年の昭和四四年一〇月二一日前後の期間を首都決戦と設定して、九月二二日に関西で大阪戦争を行った後大挙上京して東京でも連続して東京戦争として爆弾闘争を行った(地刑九部・一六七回公判村松和行証言四六、四七丁)が、一〇月二一日に日本デザインスクールで赤軍派がその日の淀橋署襲撃の打ち合わせをしていた際に、若宮正則(以下「若宮」という。)等がピース缶爆弾を準備していた。

これらの経緯は、刑事事件公判の若宮証言(地刑九部一六八回公判若宮証言)以前にも、昭和四四年一一月一六日付木村一夫の検面調書、昭和四四年一二月二六日付大川保夫の検面調書、昭和四五年三月二日付大桑隆の検面調書、前田祐一(以下「前田」という。)の昭和四五年三月二四日付、同月三一日付、同年四月三日付各検面調書等により、検察官にとっても既に周知の事典であった。これらの資料がいずれも十分信用するに足るものであり、公訴提起に当たった検察官が、それらの経過と被疑者等の供述の整合性について慎重な検討を怠ったことは明白である。

昭和四四年一〇月二四日に八・九機動隊宿舎にピース缶爆弾が投げ込まれたが不発に終わった事件(昭和四四年一〇月二五日付司法巡査河村周一の現認報告書)について、捜査側は犯人を特定できないものの、これら一連の赤軍派の行動の一つと考えるのが当然である。

村松は、取調べに当たっていた岩間警部補から、ピース缶爆弾製造は赤軍派がやったと分かっていると聞かされていた(地刑九部一七一回公判村松証言五、六丁)。それが偽らぬ捜査当局の認識であったと理解される。

(イ) 諸事件のピース缶爆弾は総て同一の材料であること

赤軍派等によるこの時期の一連の爆弾闘争事件としては、昭和四四年一〇月一七日京都地方公安調査局事件、昭和四四年一一月五日山梨県大菩薩峠(福ちゃん荘)事件(赤軍派大量逮捕。前記昭和四四年一一月一六日付木村一夫の検面調書)、一一月上旬ピース缶爆弾解体廃棄事件、一一月一二日松戸のアパートからピース缶爆弾が押収された事件(前記前田昭和四五年三月二四日付、同月三一日付、同年四月三日付各検面調書)、中央大学会館事件等があり、これらの事件で押収されたピース缶爆弾は、その構造に共通性(新宿ゲームセンターパチンコ玉入り)があることから、これらが単一のグループにより同一機会に製造された物であることがほぼ明らかであった。これらのピース缶爆弾と、八・九機事件の爆弾、アメ文事件の爆弾は、いずれも同じパチンコ玉であり同じピースの空き缶であるという共通の特徴を持つピース缶爆弾であることから、それらも含めて同じ由来性を持つピース缶爆弾であることが、捜査の根底に据えられねばならないわけであった。

これらのピース缶爆弾は、右各事件等に関与し、赤軍派、関西アナーキストグループ(大村寿雄)、共産主義者同盟(以下、「共産同」という。)叛旗派(三潴末雄)等のグループの総てに関与したグループの行為により製造されたと考えるのが当然である。それは赤軍派に限らないとしても、これらの組織等にピース缶爆弾を配布し得るような、枢要な地位にいたグループにより製造されたということが容易に推定されたのである。

現在では明らかになったように、赤軍派等のこの時期の一連の爆弾闘争に使われたピース缶爆弾は、牧田吉明(以下「牧田」という。)等のグループが製造(地刑九部二六六回、二六七回公判牧田証言)したピース缶爆弾であった。牧田等はその大部分を赤軍派などに渡し、八・九機事件やアメ文事件その他で使われた残りが福ちゃん荘で押収された。このグループが、右のような枢要な地位にあったとの疑いを持たれても当然なことは、右牧田の証言からも明らかである。

(ウ) 一〇月二一日以後のL研の解体

被疑者等の当時の日常生活やL研活動に関する供述等で明らかなように、増渕等のL研グループは赤軍派の周辺にくっついていた一サークルに過ぎなかったが、当時は大規模な大衆武装闘争が思うように成果を得られず、その打開を目的とする赤軍派のみならずゲリラ的武装行動が多発して、世情騒然とした状況にあった。サークル的なグループでも、何らかの転機によって爆弾闘争のゲリラ組織に転ずることがないとまではいえないが、捜査当局が取調べで得た知識には、そのような転機があったと認められるような経過は無かったはずである。

被疑者等の供述からも窺えるように、L研のグループも昭和四四年九月までは大学の施設を占拠して寝泊まりしたりしていたが、昭和四四年一〇月ころ大学構内から追い出されてからは独立した一体性を失い、アジトとなるアパートに分散して、一〇月二一日の闘争を契機に実質的に解体し、L研グループとしての統一した行動をしたということは何も無かった(地刑九部二七〇回公判井上証言一〇ないし一五丁)のである。このようなL研グループの実態は、各被疑者の取調べの結果を総合すれば、検察官にも既に把握されてしかるべきことであった。

そのような流れから見ると、八・九機事件は、L研のような脆弱なグループではなくて、昭和四四年一〇月二一日以後もゲリラ的に爆弾闘争を継続しようとした赤軍派の中の強靭な部分が行ったものと見るのが順当なのであり、警察当局もそのように見ていたのである。若宮等はまさにそのような部分であった(地刑九部一六八、一六九及び一七一回公判若宮証言)わけである。

このように客観的にも犯人の位置づけを推測し得たのに、これを増渕等L研グループに転嫁させたのは、捜査側の未必の故意とも言える暴走である。元々は佐古のアメ文自供から始まって捜査がエスカレートしたとはいえ、少なくとも検察官には、発端の佐古のアメ文自供そのものを疑う見識があって当然だったのである。そのような捜査過程の綿密な検討なしに、漫然と起訴を急いだ検察官の失態は責められるべきである。

(エ) 目撃された犯人

昭和四四年一〇月二四日午後七時に、八・九機動隊宿舎正門にピース缶爆弾が投げ込まれたが不発に終わった事件の犯人は目撃されていた。

事件直後に、自宅前で犯人と出会い頭に対面した高杉早苗(昭和二一年六月二日生)は、「工員風、三〇歳くらい、一六〇センチのやせ形、長髪、グレーの作業着、黒短靴、黒縁眼鏡の犯人らしい一人の男が、八・九機正門前の路地から反対方向に一〇メートル先の路地を右折して逃げた」と追ってきた警察官に話した。松浦英子は、道路の反対側からの目撃ではあるが、「投げた犯人は、大学生風、年齢二〇から二四歳、一七〇センチ、長髪、やせ形、小豆色上着、黒っぽいズボンの一人の男」と述べている。これらの目撃者の目撃の供述は、咄嗟の観察とはいえ、事件直後の比較的事実に近い信頼度の高いものだった。これらの目撃者の目撃した状況を総合すると、犯人らしい男は単独で投てきを実行した後全速力で付近から逃走したのであり、多数の者が関与し、しかも事件直後に付近の喫茶店に集まるという、被疑者等の述べた行動とは何ら符合しなかったのである。

後の若宮の証言(地刑九部一六八、一六九及び一七〇回公判若宮証言)によれば、同人は単独で八・九機正門前の道路越しにピース缶爆弾を投げた後、そこの路地を反対方向に逃げ一〇メートル先の路地を右折して逃げたということで、同人の行動は目撃された状況に良く符合している。

(オ) 検察官による投てき犯人の追加

後記のように、被疑者等の供述では、投てきの実行者と目される者が三人になってしまった。検察官は、投てきする者が三人いたことになるという経緯は、右の目撃の状況に徴して供述全体の信用性を強く疑わしめることになると苦慮したと推察される。

機動隊員河村周一も犯人を目撃していたが、事件直後の昭和四四年一〇月二五日の現認報告書では、目撃した投てき犯人は一人であるが、出会った付近の女性からは、「三人の男が逃げた」と聞いたように書いていた。同人の昭和四八年二月一八日の員面調書では、目撃した投てき犯人は一人であるが、出会った付近の者からは「誰も見なかった」と聞いたように変化した。河村周一が出会った付近の女性に該当するのは高杉早苗であるが、同人は昭和四八年二月二七日付検面調書でも「目撃した犯人は一人である」と述べている。当然、河村周一に「三人の男が逃げた」と告げることはあり得ない。すなわち、右の河村周一が報告書で書いた三人という人数は何の根拠もない錯覚であった。

河村周一の右員面調書の直後の、昭和四八年二月二一日付検面調書では、同人が出会った付近の女性から「三人の男が逃げた」と教えられたと聞いたように書き直されている。検察官は、河村周一に、犯人は三人であると示唆して、そう思い込ませたのである。河村周一は明らかにそう思い込んで、公判では三人の犯人が逃げるのを聞いたのではなく、自身が現認した(昭和五五年一〇月六日地刑五部一〇九回公判調書)と述べた。

被告国は、河村周一が目撃者から「三人の男が逃げた」と聞いたので、検察官が三人の者がいた可能性があると判断したことは合理的であると主張するであろう。しかし、検察官は、客観的な目撃の状況を虚偽の自供に合わせようとしたのであり、その姿勢は合理的な判断をこえた証拠の捏造であると言われてもやむを得ない。

<2> L研とピース缶爆弾とが関連するとの供述の経過

右のように、被疑者等の供述を別にすると、L研とピース缶爆弾を結び付けるような状況は何も無く、それを示唆する資料も全く無い。被告国も認めるように、検察官は、増渕や村松の供述よりも、専ら前原と内藤の供述に依拠して公訴提起を決定したものと理解される。しかし被告国は、取調べにおける厳しい追及で、それほど思想が強固ではないと思われた佐古、前原や、むしろ迎合的とも看取された内藤らが、身に覚えの無い犯罪に加功したという虚偽の自白をする可能性も否定はしていない。

アメ文事件、ピース缶爆弾の改造、八・九機事件、ピース缶爆弾の製造という逆行した供述の経過そのものの、その全体の信用性を疑わしめるに足りる不自然さは無視できない。

(ア) 被疑者らの置かれた状況

前原、内藤らの被疑者は、取調べから三年以上前の事件当時、どのような状況に置かれていたかというと、アジトには連日多数の者が出入りしたり、喫茶店で集ったりする日常であった。そこで話される話題も、当時の世情から自ずと警察署の攻撃などの非現実的な幻影に関することであった。

取調べを受けた被疑者には、何時何処にどのような人物がどのような話題で集ったかということに関して、明白な記憶が無いのは当然なのである。そして、非現実的な幻影に過ぎない話題が、誰かが実行したのではないかという漠然とした疑念として残っていた。

そういう事情の下に、前原、内藤、村松、増渕らが取調べに応じて述べたのは、おそらくいつごろどこそこに誰が居たというような曖昧な記憶に、想像で尾鰭を付けたような供述であったが、それを何らかの謀議であると決めつけてしまうことは容易なことであったのである。

そのころ特定の日に特定のアジトに集ったことは無いか、という設問には、否定も肯定もできないのが被疑者等の記憶の実情であろう。その際に機動隊攻撃の話をしたのではないかという設問にも、当時の趨勢や被疑者等の生活実態から否定も肯定もできないのは同様なのである。

被疑者等が、記憶の曖昧な部分を無理に八・九機攻撃に結び付けるような嘘を言わなければ良いではないかと言われればそれまでであるが、集積された供述のほとんどは、そのような記憶の曖昧な部分に関するものである。

(イ) 架空のピース缶爆弾の捏造

佐古のアメ文事件の自供に関する反駁は別の項目に委ねるが、それに使用した爆弾を何処から入手したのかについては、佐古から明確な自供が得られていなかった。それはアメ文事件そのものが、佐古の錯覚や迎合に基づく架空の自供であるから当然である。

被告国も認めているように、佐古は、昭和四八年一月一六日にアメ文事件に前原が関与していたことを供述した。

前原は、昭和四八年一月一六日から佐古の自供を前提に取調べを受け、その結果同じ昭和四八年一月一六日に、自分もアメ文事件に加担したことを認めた上、佐古が昭和四四年一〇月二一日に淀橋警察署襲撃に参加して、ピース缶爆弾二個を拾ってきたという供述をする。前原は、佐古の供述とはあまりに食い違うアメ文事件の供述をして、それが引き金となりピース缶爆弾をどうして手に入れたかを述べざるを得ない羽目になる。それでピース缶爆弾の入手経過として、佐古が河田町アジトに持ち込んだことを捏造するのである。前原のこの供述は、主として佐古に巻き添えにされたという反感に起因するものと理解されるが、それと同時に、アメ文事件の爆弾の入手先を言わせるための取調べに対して、苦し紛れに述べられた嘘でもある。前原は、佐古から、右の一〇月二一日の襲撃の際に、「ピース缶爆弾を見た」ということを聞いていた可能性もあるが、その曖昧な記憶が「ピース缶爆弾二個を拾って持ち帰った」という間違った記憶として迎合的に呼び起こされたとも推測される。

被告国は、前原が、アメ文事件の時限装置の半田づけ工作を述べたことに、信用性を裏付ける新規性があると主張するが、アメ文事件の時限装置が半田づけされていたことは捜査側には顕著な事実であったし、仮に誘導が無かったとしても、憶測で述べるのにさして困難な事実では無いから、それをもって前原の供述が信用できると言えるほどのことではない。

昭和四四年一〇月二一日の中野坂上交番襲撃について、佐古も出ていない赤軍派の事前謀議で決められていた運転手は別の者であったが、当日佐古は突然トラックの運転をする羽目になった。そこで佐古の知らないピース缶爆弾二個という話が出たのは、前記昭和四四年一一月一六日付木村一夫の検面調書や、昭和四四年一二月二六日付大川保夫の検面調書に書かれた、似たような経験が下敷きにされていると思われる。これらの供述では運転をしていた佐古が、ピース缶爆弾を見たとか、拾ったとかの経験はあり得ないが、佐古がそのような物を見たのではないかと聞かれて、調子を合わせた可能性は考えられる。

(ウ) 佐古と前原の切違え

その架空のピース缶爆弾二個に関して、捜査当局は、被疑者等を追及することになる。自供の順序から、一個の使途についてはアメ文事件となり、残りの一個の使途については更に追及することになった。

捜査当局は、その誤った前提で、未解決のピース缶爆弾事件であった八・九機動隊宿舎にピース缶爆弾が投げ込まれた事件について、村松、内藤、増渕らにも追及を開始し、被疑者等の供述を合致させようとした。その発端は、前原が最初に述べたとされている「佐古がピース缶爆弾二個をアジトに持ち帰った」という架空の事実認識にあることは明らかである。

佐古は、昭和四八年一月一七日には、「前原と井上が八・九機事件に関与した」と述べる。これは、昭和四八年一月一六日に前原が述べた「佐古がピース缶爆弾を拾って持ち帰った」という供述に対する刺し違えである。捜査当局は、佐古と前原とを交互に、相手を巻き込むような供述をするよう仕向けて行ったのである。

前原のこの下見に関する供述の内容は、一〇月一七日にアメ文の爆弾改造を行った後の、かつ八・九機事件の発生した一〇月二四日よりも後の、一〇月二六日に行ったという矛盾したものである。八・九機事件とアメ文事件を同一グループの行った一連の事件と仮定した上で証拠物を検討すれば、八・九機事件のピース缶爆弾ではピース缶爆弾の第一次改造がなされ、その時限爆弾化としてアメ文事件のピース缶爆弾の第二次改造がなされたという経過と理解するのが合理的なのである。前原の右供述は、このような想定される経過からは説明しがたい矛盾したものであることが明らかである。

(エ) 前原の八・九機事件供述の嘘

前原は、一月二一日以後、謀議や下見に加えて、更に多くの者を巻き込むような出鱈目な供述をしていく。

被告国は、前原が「事件当日の午後七時三〇分ころ、八・九機正門前で制服の警察官が十数人くらいいて、フラッシュが焚かれているのを電車の中から見た」と供述しているのは、経験的事実を述べているような現実感があり信用できるという。

前原が見たのは、明らかにピース缶爆弾を投げた事件の当日のことではない。そのころに警察機関等が何回もデモ隊やゲリラなどの攻撃を受けていたことは公知の事実であり、そのような機会にフラシュが焚かれたり、火炎びんが燃えるのをフラッシュが焚かれるように見えたりするのは間々あったことである。前原にたまたまそのような情景に遭遇した体験の記憶が残っており、それを漠然とした情景として述べたとしても何も不自然ではない。前原が一部体験に基づく供述をしている可能性はあるが、それを八・九機事件の際の記憶と限定して信用できるとするのは、単なる軽率な即断と言われてもやむを得ない。

もしこの体験を当日の事件直後の体験として信用した場合には、前原は投てきのあった午後七時から三〇分近くも現場付近に居たことになり、当然付近の不審人物を探していた警察官等に咎められていたはずである。供述通りの体験を前提にした前原の行動の方が不自然なのである。他の被疑者は、事件後付近の喫茶店で被疑者等が集ったというような、前原の右の行動と矛盾する経過を供述しているが、それらの供述を前提にした公訴提起を認定することはできないはずなのである。

前原は最後まで、公訴事実にもあり、他の何人もが述べている喫茶店「エイト」での謀議に関する供述をしなかった。前原が述べていたのは、別の機会のことと混同していた河田町アジトでの謀議だけである。

前原がL研と赤軍派の連絡係をしていたということは、あながち出鱈目ではないから、検察官が、前原が述べたような赤軍派との接触があったと認めたとしても特に不都合は無い。しかし、赤軍派から参加したのがどのような人物かという点になると、前原を含め各被疑者等の供述はにわかに曖昧になり、最終的に参加したのかどうかさえ判然としなくなってしまうのである。前原の供述で一月二二日に赤軍派との接触を述べながら、一月三一日に初めて赤軍派が参加したと述べたということの不自然さは考慮すべきであった。

前原の一連の供述は、被告国の主張するように自然で信用性に富むものではない。前原の述べたことは、公訴事実とは全く一致しないものである。日付、指示した人物、下見した人物がいずれも食い違うのである。このように前原の供述全体が信用するには難点が多く、信用できるものかどうかは慎重に検討すべきであったのである。

もっとも、公訴提起直前に、検察官は前原の供述に備わったこれらの致命的な欠落を内藤の供述に合わせて補正(昭和四八年三月九日付検面)させた。

(オ) 前原の供述を信用した過失

架空の自白をする被疑者は少なくない。その心理は、逮捕・勾留による拘禁状態で、当たり前な日常生活が遮断されたことによる挫折感や、被疑者とされた立場を回復することの困難さに打ちひしがれた絶望感による、一つの心理的断絶を契機にしている。そのような被疑者は、自分が被疑者に置かれた原因に対する攻撃性を含む虚偽の自白を行うのである。前原の自白にも同じパターンが見受けられる。

捜査当局は、前原には他の被疑者に対してしたように供述を強要したり誘導したりして都合の良い筋書きに合わせることを比較的控えめにしていたようである。それは、前原が多少とも自分から何でも述べるという姿勢を示していたからであろう。前原は自分の推測に基づく嘘を積み上げるような供述をしていったのである。

仮にほぼ公訴事実のような事実があり、被告国の主張するように前原がその記憶通りに自然に事実を述べていたとすると、前原の供述は、初めは記憶違いや忘却による欠落があっても、述べるうちに記憶の回復や修正がなされて、最終的には公訴事実に近い内容に無理なく収斂していくのが当たり前であると考えるべきであろう。前原の自供には、そのような自然な収斂が見られない。

前原が虚偽の自供をする契機は十分あり、その信用性は専ら証拠物や目撃供述等との合致に求められるべきところ、前原の自供は証拠物や目撃事実とは極端に合致しない点が多々あり、想像により述べているのではないかと推測せざるを得ないようなものであった。

前原の供述には、刑事事件判決において指摘されているような疑念や変遷が多々あり、起訴の前にこれらの疑念を冷静に評価する機会は十分あった。そのようなことも無く、漫然と不合理な供述を信用して起訴に踏み切ったことの過失は少なくない。

被告国の主張するように、捜査官が前原の供述を信用したということに、L研に関係した原告堀らが八・九機事件を行ったという事実誤認をしこれに基づく起訴へ進む、直接の原因があった。

(カ) 内藤の供述の薄弱さ

被告国が迎合的と主張する内藤の供述は、前原のそれと比べて一層頼りなく心細いものである。

内藤は、おそらく前原の供述を根拠に、昭和四八年二月六日からほとんど八・九機事件を中心に取調べを受け、八・九機に関して記憶していることを断片的に供述する。

その記憶は、極めて断片的で、謀議をしたとされるころに佐古の河田町アパート(河田町アジト)に集ったということや、八・九機付近を歩いたということ、その際に誰かと会ったという記憶が綴られるだけであり、肝心の八・九機攻撃の実行に関連した目的的行動としてはレポをしたという曖昧な役回り以外は、何も述べられなかったのである。それらに関連する具体的な部分の供述は、理由の不明確な変遷が甚だしく、信用に値するものはない。その姿勢は、検察官が三月一〇日公訴提起の判断を行う時期までほとんど変わっていない。

三月八日の検面調書は、公訴提起の直前のまとめの調書と言えるが、最後までピース缶爆弾という肝心のものが出てこない。このような攻撃手段の特定が無い供述は、犯行の自供と言えるようなものではない。

被告国は、内藤が迎合的であると看取されたので、取調べに際して誘導を避けたと主張する。八・九機攻撃について知っていることを述べよとは聞いたが、ピース缶爆弾攻撃を計画実行したのではないかとは、誘導しなかったということであろう。おそらくそれが内藤の調書にピース缶爆弾が出てこない理由と思われる。だとすれば、内藤には、八・九機にピース缶爆弾で攻撃を仕掛けるという犯行の基本的な構造の認識が無かったことを意味するのである。

前原の供述と共に、公訴事実確定のもう一つの柱となった内藤の供述とは、このようなものだったのである。

(キ) 各供述の不一致

このように、捜査当局はL研グループがピース缶爆弾を使用して八・九機事件を行ったという前提で、これを被疑者の供述で固めていくために、意図的に供述を形成させて行ったのであり、当然多くの被疑者から多くの供述が積み上げられた。そして井上、原告堀以外の者からは、極めて多くの供述が得られたのである。

これらの被疑者等の新規な供述の要点は、直ちに別の被疑者を追及するために取調官全員に知らされたが、供述の具体的な詳細は知らされなかった。それは、複数の被疑者から別々に同じ具体的な詳細な事実が供述されれば、その信用性は高くなるからである。しかし、その供述内容を相互に修正していくら積み上げても、具体的事実を彷彿とさせるような細部にわたる一致を見ることはついに無かった。いわゆる供述の拡散である。

被疑者等の供述は、具体的な体験に基づく供述ではなく、他の体験や想像のはめ込みによる供述であるがゆえに、一つの犯行事実に収斂することは無かったのである。結局被疑者等の供述の共通点は、取調官の誘導により得られるような、被告国も認めるように極めて大まかな要点でしか無かった。

被告国の主張にあるように、被疑者等の供述の共通点は、昭和四四年一〇月二三日河田町アジトに増渕、村松、前原、井上、内藤らが集まって謀議をしたこと(前原、内藤、村松及び増渕)、翌二四日河田町アジトに同じ増渕、村松、前原、井上、内藤らが集まったこと(前原、内藤及び村松)、同日八・九機の下見をしたこと(前原及び村松)、同日付近の喫茶店(喫茶店エイト)に集まったことなどの、直接犯行にかかわらない事実のみにすぎない。

一〇月二三日と二四日河田町アジトで、二四日喫茶店で、総じて三、四回も謀議がなされたという点は、その必要性から見ても不自然に念が入りすぎている上に、それぞれの謀議の必要性も窺えない。要するに、ただ集まったというだけで、そこでの話題も各自の想像したことや他の経験に基づくことを述べているにすぎない。

(ク) 核心部分である投てき行動に関する供述の欠落

被疑者等の供述の不一致は、八・九機事件の核心である実行行為に関する部分になると、際立って著しい。

前原や内藤は直接の投てきに関与しない間接的な下見やレポの役割であり、村松も投てきではなく効果測定の役割である等の、いずれも一歩退いた役割を述べている。誰もが自分が投てきしたとは言わず、自分は周辺にいただけで、犯行の中心である投てき行為は他の者になすり付けるような供述をしていたのである。取調官に迎合して完全に否定することを回避しつつ、直接的に関与した立場は避けがたいという、虚偽自白一般に見られる退えい的な心理が窺える。それらの供述が信用できるとは到底言えないものである。

被疑者等は、右のように自分が直接投てきを行ったとも供述しなかったばかりか、それらの供述を前提にすると少なくとも投てき者の行動を注視しているはずなのに、投てき者がどのように行動をしたかについては、目撃状況に合致する供述はおろか、具体的な状況を何一つ述べることができなかった。

(ケ) 原告堀が参加することになった理由

前原は、昭和四八年一月二二日に、八・九機事件についての概括的な供述をしたが、そのときに既に原告堀に関して供述した。L研グループにとって、したがって、前原にとっても面識が薄かった原告堀(地刑五部二一、二六回公判内藤証言)が、なぜ前原から早い時期にその供述に出たのかという謎は、別の機会に詳しく論ずることとする。

前原のそれまでの供述に名前が出たのは、その当時L研において比較的頻繁に顔を合わせていた、増渕、村松、国井、井上、前原、佐古、菊井、峰孝一や、東薬大の社会科学研究会(以下「社研」という。)の平野、石本、町田敏之(以下「町田」という。)、内藤等である。実家に帰っていたことが明らかな佐古は別にして、前原の印象として、一〇月二一日を境に顔を見なくなった者がいるはずで、前後を通じて交流のあった、増渕、村松、井上、前原等の名前が前原の一月二二日の調書に出ることに不自然さは無い。しかし、一月二二日の調書で、原告堀がどうしてにわかに名前が出たのかは奇怪としか言いようがない。

前原のこの供述が、検察官が公訴提起に当たりメンバーを特定するのに、特別に信用すべき意味があったとは思われない。前原は同じ調書で、他に赤軍派の者もいたようなことを述べている。捜査側では、原告堀の参加について被疑者等の供述を求めた結果、原告堀の名前が他の被疑者等の供述にも出たが、投てき担当としては別の人物が挙げられ、原告堀についてはほとんど具体的な供述は得られなかった。L研グループにとって原告堀は面識が薄かったが、その原告堀が現実に投てきを担当したとすると、それはむしろ被疑者等にはかえって強い印象を残したはずなのであるが、被疑者等の印象には残っていなかったのである。

結果原告堀は、この前原の一月二二日の供述が後々まで尾を引いて起訴された。内藤は、八・九機事件公訴提起後の三月二二日の検面調書で、原告堀も投てきの役割だったと述べる。その供述の経過から見ると、検察官が公訴事実に合わせて内藤の供述を誘い出したものと理解される。

被告国の言うように、一歩退いてこれらの供述の大筋を公訴事実として確定できたとしても、原告堀を投てきに関与したと認めたのは乱暴極まるのである。井上や原告堀が、そのような馬鹿げた取調べに対して黙秘したのは賢明なことであった。

増渕は、昭和四七年中の石田等牛乳屋グループの捜査と、プランタン会談の捜査から、捜査当局の別の爆弾事件の目標にされ、捜査側が、増渕の他、その周辺にいた原告堀、同江口、同前林を逮捕して調べる口実を必要としていたことは歴然とした事実であった。その中で原告堀については特に逮捕する口実が無かった。八・九機事件に原告堀が関与していたという前原の供述は、まさに渡りに舟であった。

捜査当局は、増渕、原告堀、同江口、同前林の四人を中心に日石・土田邸事件を想定して、それを増渕に認めさせることになった。結果的に捜査当局の思惑は成功した。

<3> アメ文事件自白との関連

八・九機事件起訴の根拠となる証拠としては、前原ら四名の自白しかなく、このうち増渕及び村松の各自白は、供述内容、供述経過等に照らし一見して明らかに信用性を欠くため、検察官が公訴を提起、維持しようとするためには前原及び内藤の自白の信用性に依拠する以外にない。

ところで、前原自白は、アメ文事件の公訴提起、維持にとっても佐古自白と並び最も有力な証拠であったが、アメ文事件と八・九機事件について、一〇月二一日闘争から持ち帰った二個のピース缶爆弾をそれぞれ一個ずつ右事件に使用したと関連づけて説明していた。しかし既に見たとおり、アメ文事件に関する前原自白―佐古自白はもとよりであるが―は、重要な部分において客観的事実に反し(例えば、段ボール箱に関する事実)、信用性は皆無というべきであって、検察官及び捜査官が通常の注意を払って証拠物を観察し捜査するならば、むしろ、前原が犯人であることを疑う根拠となるべき資料であった。前原自白におけるアメ文事件と八・九機事件の関連性を見るならば、アメ文事件自白の虚偽性が直ちに八・九機事件供述の信用性判断に影響を与えないはずはない。こうした判断は常識的な判断力を備えた者にとって、誠に容易であったと考えられる。したがって検察官は、八・九機事件起訴にあたり、重要な証拠である前原自白(さらに八・九機事件の直接の証拠とはならないものの、事件全体にとり重要なものとなっている佐古自白)の信用性をそもそも疑い、吟味して、それが虚偽であることを発見すべきであったのであり、またそうすることは可能であったと言わねばならない。

すなわち、警察捜査を批判的に吟味検討して訴追すべきか否かを決定する検察官としては、既に前記のような供述が現われた段階(昭和四八年一月段階)から、アメ文事件、八・九機事件等がL研のメンバーによる一連の犯行であるという想定(筋書きまたは供述の流れ)に対してむしろ疑問を抱くべきであって、本件(一連の事件)起訴は自白のみに依拠し、しかもその信用性を検討することもしない、余りに杜撰な起訴であったというほかないのである。

<4> 内藤の自白について

内藤の自白は、事件への関与について全面的に否認するのでもなく、曖昧な供述に終始した挙げ句、次第に具体的かつ詳細な供述をするに至っているが、その最終的自白についても、公訴提起時において既に多くの疑問点の存することが明らかであり、その供述過程は総じて記憶を喚起して供述したものとは評価できないものであった。

そして内藤がかかる自白をするに至った要因を検討すると、任意取調べの段階においては、河田町アジトにおける八・九機襲撃の話し合いの状況のついてかなり具体的に述べるが、八・九機周辺における行動については、断片的な記憶らしきものを述べるだけで、右話し合いと関連づけて供述するものではない。また、八・九機事件による逮捕後、昭和四八年二月二四日付員面ころまでの供述については、同事件への関与をあやふやに認めつつ、河田町話し合いの翌日八・九機周辺を歩いた旨話し合いと関連づけて述べるようになったが、その内容は、まことに曖昧かつ茫漠として理解し難く、具体的な事件への関わりを持った者の供述とは到底思われないようなものであった。検察官が、これを内藤の取調官であった田村巡査部長に問い質していれば、信用性のないものであることが明らかになったと思われる。

さらに、提訴検察官は、濱田弘幸検事(以下「濱田検事」という。)を含む取調官から内藤の供述態度には、顕著な迎合的傾向があることを知らされていたはずであり、それゆえにこうした虚偽自白が生まれたことも看破し得たと言わなくてはならない。

<5> 前原の自白について

前原の自白も、その供述の相当部分につき、多くの疑問点が指摘されるほか、取調べの経緯等に鑑みると、アメ文事件に関する自白同様、取調官の追及に迎合してなされた信用性の欠如する供述であり、訴追官たる検察官がこのことを見過ごすことは到底許されなかったといわねばならない。

結局、前原の八・九機事件の自白の信用性には、疑問が残らざるを得ず、内藤、増渕及び村松の各自白並びに前原の八・九機発言に関する菊井証言及び佐古供述も、その信用性を補強ないし補完するものとはいえない。

<6> 村松の自白の問題点

村松は、昭和四八年二月一二日八・九機事件により逮捕され、当初否認していたものの、同月一四日自白し、同月二二日再び否認に転じたが、同年三月三日改めて自白するに至ったものである。

村松の八・九機事件に関する最終的自白は、大要、「昭和四四年一〇月二三日増渕から電話連絡を受け、喫茶店エイトに行くと、増渕、前原、井上外一名(内藤であったかもしれない。)がおり、増渕から河田町アジトに爆弾が入ったので八機を攻撃することに決めた旨の話がなされた。八機付近の地理を説明しろと言われ、自分が説明した。同日夜増渕の指示どおり河田町アジトに赴くと、増渕、前原、井上、内藤が既に来ており、八機の攻撃方法について話し合った結果、翌日話を更に詰めるということになったが、その時点では、翌日決行という話も、決行時の役割分担の話もなかった。翌二四日午後一時ころ河田町アジトへ行き、増渕の指示で堀を近くの駅に迎えに行って同アジトまで連れ戻った後、午後三時ころ、再び増渕に指示され、堀と二人で八機周辺の下見をし、その結果を増渕に報告した。午後四時ころ、当夜八機に爆弾を投てきすることに決し、増渕が各自の任務分担を決めていった。その時点では、増渕、前原、井上、内藤、堀及び自分の計六人がいた。当初投てき班として『村松、井上、前原』と言われたが、前原も自分も断った。増渕は、前原に菊井を呼んでくるよう指示し、前原は出かけたが、三〇分くらいして一人で戻ってきた。増渕は、その後一人で外出し、戻ってくると自分に木村コーヒー店に行って連絡が入るのを受けるよう指示したので、午後六時ころ、同アジトを出て同コーヒー店に行った。同店には午後七時三〇分ころまでいたが、その間前原から電話があり、また堀も顔を出したその後、住吉町アジト(東京都新宿区住吉町六四番地アパート風雅荘の村松の借間、以下「住吉町アジト」という。)に戻った後、石井とテレビを見ていると、八機の件がスポットニュースで放送された。午後一〇時ころ、増渕が来て、爆弾が不発だったことを知った。」

というものである(昭和四八年三月五日付検面)。

右に見るとおり、その内容は、事件前日の謀議の内容、犯行時の村松自信の行動等、重要な事項について、前原及び内藤の各自白と大きく相違するものであり、特に、村松自身の犯行時の行動として木村コーヒー店で待機していた旨述べるところは、そもそも右の待機が、八・九機事件の遂行にどのような意味をもつものであるか判然とせず、さらに、村松の自白に従えば、爆弾投てきが誰によってなされたかも不明である(もっとも村松の昭和四八年三月三日付員面では増渕であることを示唆している。)など、八・九機事件という具体的事件に関与した者の供述としては不自然な内容となっている。

以上のような供述の内容、供述の経過を総合すると、村松の八・九機事件に関する自白は、アメ文事件に関する自白と同じく、否認を続ければ、かえって自己に不利になると考え、事件への加担は認めつつ、専ら増渕が主導的であって、自己の関与は従たるものにすぎないと強調しようとの動機に出たもので、真実性のないことは明白である。

このような供述は、さらに前原、内藤の自白の信用性を減殺するもので、訴追官がこのことを考慮しなかったことには重大な過失があったものといわなくてはならない。

<7> 増渕の自白の問題点

(ア) 八・九機事件の自白

増渕は、昭和四八年二月一一日、八・九機事件について事件の実行を指示した旨自白し、翌一二日逮捕され、以後事前謀議の状況等具体的な供述をするに至ったものである。

増渕の最終的自白は、大要、

「昭和四四年一〇月二三日河田町アジトか住吉町アジトで菊井に会った際、同人から、一〇・二一闘争後井上がピース缶爆弾二個を河田町アジトに持ち帰った旨聞き、直ちに爆弾闘争を決定し、前原か村松にL研メンバーをミナミに集合させるように指示して、同日午後四時ころ、ミナミに菊井、前原、国井、井上及び自分が集まった。石井も来たかもしれない。村松はいなかった。自分が、入手したピース缶爆弾で八機を攻撃することを提起し、全員が賛成したので、八機の下見を指示し、自分も同店を出て八機の裏を回る形で下見をした。下見後喫茶店にいた者全員が住吉町アジトか河田町アジトに集合し、自分が専ら指示する形で『明日夕方実行する。爆弾は正門に向かって投げることとし、投てき役は村松と菊井、他の者はその前後のレポとする。実行前の集合場所は河田町アジトとする。』旨打合せをした。同夜、内藤、堀にも電話連絡し、八・九機事件への参加を依頼し了承を得た。同月二四日午後四時ころ、住吉町アジトに行き、村松、石井、前田と会い、村松に打合せの結果を話して了承を得た上、実行前に一旦八機斜め向かいの喫茶店に入り、そこから出発するよう指示した。村松は午後六時か六時三〇分ころ、住吉町アジトで待っていたが、午後八時か九時ころ菊井が来て失敗だった旨報告を受けた。なお、当日河田町アジトか住吉町アジトかで導火線の燃焼時間を計測するため、燃焼実験を行っている。ピース缶爆弾は、当日夜までに見ているかもしれないが、よく思い出せない。」というものである(昭和四八年三月二日付検面)。

増渕の右自白内容は、重要かつ多くの点において、前原、内藤及び村松の前記各自白と異なるほか、不自然、不合理な内容を含み、到底信用し得ないものであった。

(イ) 前日の喫茶店謀議

事件当日の喫茶店謀議について、喫茶店の店名(ミナミと供述)と参加メンバー(「増渕、菊井、前原、井上及び国井」と供述)が、内藤(エイトにおいて「増渕、前原、井上、内藤及び赤軍派の者二名」が参加と供述)及び村松(エイトにおいて「増渕、前原、井上、村松外一名」が参加と供述)と相違する(前原の自白は、喫茶店名、参加メンバーを具体的に供述せず、増渕の自白と相違するかどうかは明らかでない。)。

また、増渕は、右謀議後、直ちに八・九機を全員が下見した旨供述するが、前原、内藤及び村松は、下見は事件当日であった旨述べ、供述が食い違う。なお、増渕は右下見の状況につき、八・九機裏側を回る形で下見した旨供述し、その経路を図示するが(昭和四八年三月一日付員面添付図面)、八・九機裏側には増渕が図示するような道路は存在せず、増渕が述べる経路に従って下見をすることは不可能である。

(ウ) 前日のアジト謀議

事件前日のアジトにおける謀議について、住吉町アジトであった可能性を述べる点及び参加メンバーの点(前記のミナミのメンバーと同じと供述)で、前原、内藤及び村松の各自白(いずれも河田町アジトにおいて「増渕、村松、前原、井上及び内藤」が参加と供述)と異なる。

また、謀議内容に関連して、爆弾投てき役として村松及び菊井を指示したと述べるが、前原及び内藤の各自白(いずれも投てき班は「村松、堀及び井上」と供述)と相違し(村松が事件前日の謀議において、かかる任務分担がなかった旨供述するのは前記のとおり。)、また爆弾投てき後の効果測定役の存在を述べず、かつ、赤軍派との連絡について述べない点で前原の自白と異なる。

(エ) 事件当日の行動

事件当日の行動として、増渕自身は住吉町アジトに待機し、村松に実行方を指示した旨自白するが、前原、内藤及び村松の各自白と異なる。

(オ) 導火線燃焼実験

増渕は、導火線燃焼実験を事件当日河田町アジト又は住吉町アジトで行ったとするが、前原及び内藤は、事件当日河田町アジトで行ったというのであって、相違する(村松が導火線燃焼実験について供述していないのは前記のとおり。)。

(カ) 供述経過

ところで、増渕は、当初八・九機事件を否認していたが、昭和四八年二月一一日「喫茶店で村松か菊井から電話連絡を受けた際ピース缶爆弾を入手した旨聞き、同人に爆弾投てきを指示した。」旨の自白をし(昭和四八年二月一一日付員面)、その後「一〇月一八日ころ、L研で八・九機への爆弾攻撃を計画したが中止したことがあり、同月二三日喫茶店で村松から電話連絡を受けた際、ピース缶爆弾の入手を聞いてあらためて八・九機への爆弾攻撃を決意し、同人にその旨指示し、翌二四日住吉町アジトにおいて、更に同人に最終的指示を行い八・九機事件を実行させた。」旨供述(昭和四八年二月二一日付員面、同月二一日付検面)した後、前記八・九機事件に関する自白(一〇月二一日以前の八・九機爆弾攻撃については述べない。)に至るのである。

(キ) 考察

増渕の右の供述経過は、その供述内容の変転ぶりに照らし、到底正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることはできず、また前原、内藤らとの前記のような供述の不一致あるいは供述内容の不自然さは、記憶の変容ないし混同によるものとも解し難く、このような事情からすると、増渕自白は到底信用し得ないものであった。

以上の諸点に加え、増渕の取調官であった水崎検事は、増渕が本当のことを話しておらず、捜査を間違った方向に引きずってゆく供述をしていると感じていたというのであるから、増渕の自白の信用性にはそれ自体多大の疑問があり、到底前原、内藤及び村松の各自白を補強ないし補完するには足りないことが明らかであった。

(2) 公訴提起の判断の誤り

被告国は、公訴提起に当たる検察官は、公訴提起の段階での証拠資料を検討して、著しく合理性に反する判断をしなければよいとの趣旨の主張をする。

検察官の公訴提起は、被疑者を犯人として被告人にするという重大に人権に対する侵害を生ずるわけであるから、証拠資料を検討した結果公訴提起をするからには、有罪判決に必要な証拠資料の評価とは自ずから違うことは当然であるものの、被疑者等が犯行を行ったと認定するに十分な証拠資料が必要である。疑わしいからと言ってやみくもに公訴提起を行ってもよいということではない。それら証拠資料が、共犯者の自供のみに頼る場合には、自供の信用性も含めて当然検討されねばならない。

被告国は、これらの供述が信用できた根拠として、それぞれ幾つかの理由を挙げているが、それらの理由は供述を信用できる根拠としては全く意味がない。

捜査当局が迷路に入り込んだ最大の原因は、証拠物の分析を疏かにして、被疑者からの無理な自供に依存しすぎたからである。これらの経過の示すものは、単に信用性の判断には合理性が無いという以上に、捜査が一定の意図の下に曲げて進められたものであることが明らかなのである。

<1> 捜査当局の意図

昭和四四年一〇月二四日に八・九機動隊宿舎にピース缶爆弾が投げ込まれた事件は、前記のように赤軍派がやったことであるというのは、雨宮証言を待つまでもなく今日では周知のことであるが、捜査当時はさほど明白ではなかった。

それにしても、L研メンバーが八・九機事件の犯人ではないと判断する根拠は少なからずあった。既に検察官には、公訴提起の段階でも前記のようなピース缶爆弾に関する資料があった。当時の捜査当局は、既に相当の数のピース缶爆弾そのものを証拠として押収しており、それらの分析をきちんと行っていれば、本件の公訴提起のような迷路に入り込む余地は無かった。被疑者の自白が真実の自白であるかどうかを見分けることもできたのである。

捜査当局は、把握し得たピース缶爆弾に関する製造や使用の流れとは全く断絶し、何ら接点が見られないと思われるL研グループに対して、同じピース缶爆弾の製造と使用の疑いをかけていったというのが、通常の感覚では理解できないピース缶爆弾捜査の経過だった。

捜査当局には、L研グループもピース缶爆弾を使った赤軍派並みの武闘派であるという誤った認識があり、佐古のアメ文事件の自供とそれに関連するプランタン会談の捜査資料から、被疑者の供述でその容疑を固めていくという方向を定めた。被告国の主張のように自然な経過で自供が取れたのではなく、方向を定めた上で意図的に供述をさせていったのである。被疑者等は何かやっているに違いないという前提で、何らかの事実を押し付けてしまおうということだったのである。

特に未解決の爆弾事件の中でも、警察の威信のかかった土田邸事件、日石事件の犯人捜しには血眼であった。村松らはその犯人として追及を受ける過程で、より犯責の軽いピース缶爆弾事件を自供するように迎合して行った。

<2> 供述の信用性の間違った評価

被告国は、被疑者等の供述は食違いが少なくないが、大筋で一致する点もあるので信用性が高いと判断したと主張する。果たして大筋で一致すれば信用性が高いのか。

大筋で捜査の見込みにそった供述をしたからといって何ら信用性を高める根拠にはならないことは、被告国も認めている通りなのである。被告国は、増渕や村松については、指導的活動家であり活動歴、革命思想、反権力意識が強固であると認めているが、それらの者からも多くの調書を取っているように、それだけ取調べが強烈であったということである。強制捜査での被疑者等の取調べにおいて、被疑者等の供述の大筋を一致させることなどはたやすいことであり、そうであるからといって信用性があると言えるような事柄ではない。

そういう疑問の多い供述なので、単に供述があるというだけでは被疑者を起訴できない。被疑者らの起訴については、供述の信用性の評価が決定的なものになる。

そして特に核心部分について前記のように供述が拡散しているような場合には、供述全体が信ずるに値するものかどうかという再吟味がなされるべきであり、大筋がほぼ一致するからといって安易に信用すべきではない。

単に供述間の具体的な部分での不一致について、それなりの理由付けがなされれば合理性があると言うこともできない。具体的な部分での不一致の理由として、公訴提起に当たった検察官は、単純に増渕と村松については捜査撹乱のために嘘を交えたと判断し、内藤については迎合しやすい性格によるものと判断したが、それだけで供述の大筋を信用する理由にはならない。

公訴提起に当たり、供述と証拠物との齟齬をどのように評価するかは極めて重要な判定であった。しかし、証拠物との対照はほとんどなされなかった。被疑者の供述相互の対照のみが重視されたのである。そしてその対照においても、信用性の高い複数の被疑者から別々に供述された、同じ具体的な詳細な事実の積み上げから全体の事実を掴むという努力もなされなかった。単純におおまかに大筋が一致すればよいという判断であったのである。

しかし、各被疑者の述べた、謀議内容や犯行の具体的な詳細等の供述相互にも、あまりに変遷や食違いが多すぎたのである。むしろ各供述が時間的にも被疑者によっても、なぜそんなに違うのかが検討されねばならなかったのである。

これらの経過は、前記のように全体として空中楼閣ではなかろうか、との疑いを持たれる余地が、十分にあるものである。

被疑者等の当時の生活感覚を前提にしてこれらを検討すると、被疑者等が、そういうこともあったかも知れないという程度の曖昧模糊とした体験と、漫然とした記憶をないまぜた上、それを取調官に迎合して八・九機事件に結び付けただけの、いいかげんな事実の羅列にすぎないことが明瞭である。

<3> 提訴判断の誤りの程度

明らかに被疑者の供述は、供述相互の間でも、供述と証拠物との間でも齟齬が著しい。公訴提起に当たった検察官は、公訴事実を確定するに際して、何を根拠にするかということに悩んだに違いない。多数の供述が一定の事実に収斂する場合には、その収斂した事実を公訴事実として認定することは容易である。本件の被疑者の供述は、単に大筋で一致するというだけのことであり、公訴事実を確定するには、A事実部分は<1>被疑者の<A>供述を、B事実部分は<2>被疑者の<B>供述を、C事実部分は<3>被疑者の<C>供述を、というように継ぎ接ぎの事実を確定する他はないのである。そうして、事件の流れとして極めて不自然な奇妙な公訴事実を作り上げたのである。

明らかに個々の個別的具体的事実については、被疑者間の供述に大きな食違いが残ったままで、それら個別的事実の大部分を、真実と信用するには重大な難点が残ったままだったのである。要するに、単に疑わしいというだけで、公訴提起に耐えるほど真相が解明されたと言えるような状況では無かった。

これらの被疑者等には、八・九機事件に関して共通の体験に基づく共通の記憶が無いと判断すべきだったのである。公訴提起は見合わされるべきであり、検察官がそう判断するに十分な材料があったのである。これをそのまま公訴提起した検察官の過失は甚大であり、著しく合理性に反する態度と言わざるを得ない。

<4> 原告堀に対する公訴提起の誤り

右のように八・九機事件そのものの公訴提起の判断についての評価でも、公訴提起は誤りであった。更に踏み込んで、被疑者の個々がどのような役割をしたのかを踏まえた上での、個々の被疑者に対する公訴提起の妥当性の評価も必要である。本件では、原告堀について、八・九機事件の投てき担当者として公訴提起したことが、合理性に欠けていない判断かどうかということが必要なのである。

前記のように、原告堀に関する供述は、前原の昭和四八年一月二二日のものが最初であるが、前原のそれまでの活動中にも原告堀の名前は出てないのである。一月二二日の前原の調書で、どうして原告堀が突然投てき者として名前が出たのか、その謎の解明がなされる必要があった。

捜査の後の方では、右前原の供述後も、他の被疑者等の供述からも原告堀の名前が出るには出たが、おおむね投てき担当としてではなく、その具体的な役割については述べられなかった。L研の被疑者等に印象の薄かった原告堀が現実に投てきを担当したとすると、それはむしろ被疑者等にはかえって強い印象を残したはずであるが、被疑者等の印象には残っていなかった。

原告堀は、事件の中枢の投てきの役割を押し付けられているわけであるから、特別の理由が無い限り被疑者等の供述に現われないということは不自然なのである。合理性に欠けていないというためには、このような被疑者等の供述の出方に特別の理由があるのかどうかを検討することが少なくとも必要であろう。供述の出方を検討すれば、検察官が原告堀の関与に疑いを持つのが当然なのである。前記の一月二二日の前原の供述において原告堀が投てき担当であるということはもちろん、そもそも八・九機事件に関与したということすら、その余の事項にもまして信用性の薄いことであったのである。

被告国の言うように、一歩退いてこれらの供述の大筋を公訴事実として確定できたとしても、原告堀を投てきに関与したと認めたのは乱暴極まるのである。水崎検事が何らそのような疑いを持たなかったというのであれば、それは合理性を欠くと言われてもやむを得ない。その誤りの程度は著しい。

(3) 各供述の信用性

被疑者らの個々の供述について、その信用性が欠如している理由は次のとおりである。

<1> 佐古の下見に関する供述

佐古の供述するレンタカーを利用した行動(昭和四四年一〇月三〇日ころのアメリカ文化センターへの下見)は、客観的事実に反する事実であり、これによっても佐古の供述は信用できない。

(ア) レンタカー

昭和四四年九月から一一月にかけて、佐古が都内のレンタカーを借りたのは、九月七日ころ、一〇月二〇日から二二日まで、そして一一月一〇日の計三回だけである。

佐古は、捜査当局の強制、誘導により、ピース缶爆弾事件への関与を自白させられる際、レンタカーを利用した行動(例えば、一〇月三〇日ころのアメリカ文化センターへの下見)を供述しているが、その供述は右事実に照らし明白な虚偽である。

(イ) 犯行に使った自動車は、前記佐古の初自白によると、佐古が池袋のサンコウレンタカーで借りたことになっており、再逮捕後の再自白でも、昭和四八年一月一六日付員面調書では、「私が借りた新宿のレンタカー」を使ったことになっていたが、同月一八日付員面調書で藤田が持ってきた勤務先のライトバンを使ったと変更された。これは、裏付捜査により佐古が右時期に池袋のサンコウレンタカーから自動車を借りた事実がないことが判明し、佐古を追及したところ、今度は新宿のレンタカー店に変更されたが、その裏付けもとれないため、さらに佐古を追及し、増渕関係で自動車を用意できたのは増渕の引っ越しで自動車を貸した藤田だけであったことから、そのように変わったものである。

爆弾事件で使った自動車について、借りたレンタカー店の名前まで特定して自分が借り運転して関与したと自白しているのに、簡単に変更されてしまう供述が自然と言えるはずがなく、右事件で自動車を運転して加担したことを前提にして自動車の調達先を追及したため、佐古が苦し紛れに言い逃れたものである。そればかりか、藤田の自動車が使われたことの裏付けも取られていない。

<2> 前原及び内藤の供述する爆弾投てき人数

関係証拠によれば、八・九機事件で爆弾投てきに直接関与した者の人数は一名である可能性が高く、これからすれば、八・九機事件の爆弾投てきが村松、井上及び原告堀の三名で行われたとする前原及び内藤の供述は、信用性がない。

(ア) 前原及び内藤は、いずれも、八・九機事件の爆弾投てき班を「村松、井上及び原告堀」の三名である旨供述し、特に前原は、犯行後、投てきの際の状況を井上から「自分が八機の反対側の路地から道路に出て様子を見たが、誰も警戒の者が気がつかなかったので、村松と堀に合図し、二人が電柱の陰に行って投げ込んだ。後は三人がばらばらになって駆け出して逃げた」と聞き、また村松からも「堀が隠すように爆弾を持ち、自分が導火線に火をつけてから、爆弾を受け取り、前に駆け出していって投げた。投げた後、追いかけられてまくのに苦心した。」と聞いた旨具体的に述べるが(昭和四八年三月九日付検面。以下、員面、検面につき、昭和、年、月、日を省略することがある。)、既に述べたように、被告人及び共犯者とされる者の自白並びに真犯人と称する者の証言を除いた関係証拠によれば、本件爆弾の投てきに直接関与した犯人は、一名である可能性が高いところ、右のような、三名による犯行であることを内容とする井上、村松発言にも、この可能性を覆すに足りるだけの確実性のある事項は何も含まれておらず、各発言の真実性は、むしろ疑わしいというべきである。

右のような爆弾投てき班の存在及びそのメンバーについては、前原が比較的早い段階(四八・一・二二付員面参照)から「村井、井上及び原告堀」と一貫して自白しているのに対し、内藤は、取調べ当初から事前謀議の状況、レポ時の状況に関する供述はするものの、投てき班については全く述べず、昭和四八年三月七日に至ってようやく供述を始め、その後も、その構成メンバーが次のとおり変遷する。

四八・三・七付員面 投てき班は村松、井上である。増渕、原告堀の役目は不明。

四八・三・八付検面 投てき班は村松、井上外一名(増渕であったと思うがはっきりしない。)。菊井、原告堀の役割は不明。

(イ) 右のとおりであるが、かかる重大事件において、投てき者のための「レポ」を担当したはずの者が、投てき者を知らないとすることには根本的な疑問があるし、また、内藤は、同月三日にはそれまで否認していた八・九機事件における爆弾投てきに対する認識を自白するに至っており、その時点において供述していた内容に照らすと、投てき班についても、供述するのが自然であるのに、何ら述べず、同月七日に至り突然「村松及び井上」と、さらに原告堀に対する八・九機事件起訴後の同月二二日には「原告堀」を付け加えて供述するが、いずれも、その供述の経過からみて正確な記憶が次第に喚起されていった過程とみることはできず(いずれも思い出したきっかけについては何ら供述されていない。)、かえって内藤の取調官である田村巡査部長が、内藤の取調べに先立ち、前原の昭和四八年一月二二日付及び同月三一日付員面を閲読していること(なお、四八・一・二二付員面は、八・九機事件について赤軍派二名の関与の点を除き、投てき班の構成メンバーはもとより、ほぼその全容について自白した内容のものであり、四八・一・三一付員面は、赤軍派二名の関与を供述したものである。)に照らすと、田村が前原の自白を基に、内藤に対して追及し、結果的に内藤がこれに迎合して前記のような供述をしたことが明らかである。

確かに、検察官は、昭和四八年二月二一日、目撃警察官河村周二の取調べを行い、投てき犯人を追いかけている途中、出会った女性から、「三人がまっすぐ急いで駆けていった。」旨聞いたとの供述を得ているが(四八・二・二一付検面)、右供述は、同月一八日付員面調書の「追跡の途中で、通行人の女性に、誰か走っていく姿を見なかったかと尋ねたが、いずれもそれらしい姿は見なかったとのことであった」という供述と明確に矛盾し、また右員面供述の三日後に唐突にもこれと矛盾する「三人が…」なる記憶の回復した理由が前記検面調書に録取されていないことなどに照らすと、検察官は前原らの自白と辻褄を合わせるためだけに河村を取り調べ、その供述を誘導したと認められるのであって(地刑五部判決五五頁も同旨の認定をしている。)、真相解明のため自白あるいは供述を吟味しようとしなかったことが明らかである。

そもそも八・九機襲撃の実行犯人の数という事件像の最も基本的な部類に入る事実については、可能な限り客観的証拠に基づき、より十分な捜査と証拠の吟味が行われるべきであって、安易に自白との辻褄合わせを行うようなことがあってはならない。検察官は、右事実を解明し、自白の信用性に正当な評価を下すためには、第三者の目撃者たる松浦英子、高杉早苗らから再度事情を聴取して事実調査を行い、また目撃警官である河村周二、仁科正司から供述を不当に誘導することなく事情を聴取すべきだったのであった。

かかる努力を怠った上での本件起訴が違法であることは到底否定できないものといわなければならない。

<3> 前原のフラッシュを見たとの供述

前原は、「犯行後、現場を立ち去る際、八・九機前でフラッシュがたかれていたのを電車の中から見た」旨供述しているが、その後の行動についての供述が変遷しており、前原がフラッシュのことだけを記憶しているというのは不自然である。

(ア) 都電に乗り、フラッシュを見た後の行動について、前原の供述が次のとおり変遷していることに注意が向けられなければならない。

四八・一・二二付員面 落ち合う場所(思い出せない。)に向かった。

四八・二・二付検面 投てき後の集合場所(喫茶店だったと思う。)に行ったかどうかははっきりしない。午後一〇時ころ河田町に戻った。

四八・二・一三付員面 都電でそのまま新宿周辺まで行き、かねて打ち合せていた場所(新宿周辺の喫茶店だったと思うが、店名、場所は思い出せない。)に行った。

四八・二・一六付検面 どこで都電を降りたか記憶がない。とにかく暫く時間がたってから河田町アジトに戻った。

四八・二・二六付検面 どこかの喫茶店で皆が集まり、それから河田町アジトに帰ったと思う。これだけ大胆なことをやりながら総括もせずバラバラに別れてしまうはずがない。

四八・三・九付検面 都電を東大久保で降りた。近くで降りて怪しむ乗客がいるのではないかと思いつつも思い切って降りた。事件後に集合する喫茶店は、その周辺で、赤軍派の者と一緒に行った。

右の供述の変遷は、その変遷状況に照らし、逐次正確な記憶を喚起していった過程とは到底見ることができない。

また、既に八・九機事件における自己の行動の主要部分を供述している以上、都電による結果確認後の行動を秘匿する理由も必要性も存しなかったはずであるから、前原がことさらに言を左右にしたものとも考え難い。そうすると、機動隊に対する爆弾攻撃の現場に身を置き、効果測定係として十分に緊張した意識のもとで行動したであろう前原にとって、犯行時及びその直前、直後の行動は極めて印象的であったはずで、当然一連のものとしての記憶が残るべきであるのに、都電内からフラッシュが焚かれるのを見たことだけが記憶に残存し、その後の行動については記憶が極度に希薄化したということにならざるを得ない。

さらに、前原は、右フラッシュを目撃したことを供述した昭和四八年一月二〇日ころの時点では、犯行当時一緒に行動した赤軍派の者の存在を述べず、その後同月三一日に至って、ようやく、その存在を想起したとして供述する(四八・一・三一付員面)のであるが、同行者についての記憶までなくなっているというのも不自然である。

(イ) 次に、前原の右供述によれば、午後七時一〇分ころになっても変わった事態はなく、赤軍派の者からも「爆弾は投げ込まれたらしいが、何も変わった様子がない。」旨の報告を受けながら、前原は、午後七時三〇分ころ都電に乗るまで、約二〇分間、無為のうちに河田町電停付近に立っていたことになるのであるが、このような行動は、いかにも不自然な印象を与える。

フラッシュを七時三〇分ころ見たとの供述も、むしろこのことは取調官にとって明らかな事実であったのだから、検察官としては前原が取調官に迎合したことを疑い、慎重に吟味すべき契機となる部分である。

<4> レポ(外周警戒)についての前原と内藤の各供述の相違等

前原と内藤の各供述を比較検討すると、両名がレポ途中で出会った場所が相違しており、犯行後内藤が喫茶店に戻る途中、両名が出会うはずであるのに両名ともそのことを述べていないなど、右両名の供述には信用性がない。

(ア) 前原は、爆弾投てきの効果測定の際内藤に会った旨供述し、内藤も、レポの際前原に会った旨供述しているところ、出会った場所についての両名の供述が全く異なる。すなわち、前原は内藤とどこで出会ったか記憶はないと述べるものの、当時の自己の行動を、河田町交差点から少し八機の方へ向かって歩いて行き、また戻ってきて河田町電停付近に立っていたというのであるから、前原が内藤に出会った場所は、論理的に、河田町電停付近と同電停から少し八機方向に歩いて行ったその間ということになるのに対し、内藤は八機前を過ぎ、余丁町電停付近で前原外一名に会ったというのであって、両者の述べる場所は、八機正門をはさみ、全く正反対の側に位置し、その間の距離を少なくとも三〇〇メートル近く離れているのであって、両者間の供述が大幅に食い違っていることは明らかである。

(イ) ところで、内藤は、取調べに際し、当初前原と会ったことを述べず、昭和四八年三月七日に至って初めて供述し(四八・三・七付員面)、また、前原も当初内藤に会ったことを述べず、同月九日に至って初めて内藤と会ったかもしれない旨供述(四八・三・九付検面)しているところ、右の供述は、両名の起訴を目前に控え、内藤供述と前原供述をできる限り整合させるべく、同月九日、取調官である濱田検事において、内藤の昭和四八年三月七日付員面及び同月八日付検面に基づいて追及を行い、前原がこれに合わせる供述をした結果であると思われる(前原の四八・三・九付検面には、内藤との出会いの事実のほか、最終謀議段階における増渕の存在、犯行直前の喫茶店への集合、犯行前日の喫茶店謀議等、従前述べられていない事項が供述されており、かつその供述内容が内藤の四八・三・七付員面及び四八・三・八付検面の供述内容とほぼ符合し、あるいは、漠然とではあるが符合するものであることに照らすと、取調官が右に述べたように両者の供述の整合を図る追及をしたことはほとんど疑いを容れない。)。

なお、両者が遭遇した地点に関する内藤及び前原の供述の不一致について、さらに、検討を進めると、前原は爆弾投てき予定時刻である午後七時の時点において、河田町電停付近に立っていた(前原の実況見分時の指示説明によれば、同地点は、新宿区河田町一七番地稲子啓親方前歩道上である。)旨述べ、一方、内藤は、その時点には、河田町電停から八・九機方向に向かい最初の路地の入口付近に立っていた旨述べるところ、両地点は極めて近接しており、その間には、酒店及び煙草店の商店二軒が存するだけであって、前原及び内藤が、右の時点において、互いの存在について認識しないのは不自然である。また、内藤は、午後七時五分過ぎころ、右地点を離れ、喫茶店に戻った旨述べるところ、その際の経路として内藤が述べるところに従えば、河田町電停付近に立っていた前原に出会うはずである。しかるに、前原及び内藤のいずれも、このようなことを一切供述していないのであって、結局右両名の前記自白には大きな相互矛盾があることを認めざるを得ない。

<5> 菊井の参加についての内藤及び前原の供述

菊井が八・九機事件に参加したか否かについての内藤及び前原の供述が一致しておらず、不自然で、この点からも両者の供述には信用性がない。

内藤の八・九機事件に対する菊井の参加の有無についての供述は、曖昧で、かつ、変遷を重ねているが、最終的には、「犯行前日の事前謀議で菊井に対して何か役が割り振られた。犯行当日、爆弾投てき直後、集合すべき喫茶店に行ったところ、菊井がいた。」となっている(四八・三・八付検面)。

これに対して前原は、自白においても明確にこれを否定している。そして前原は、菊井が参加しなかったことは一貫して述べるものの、参加しなかった理由ないし経緯、特に菊井に対する事前の連絡の有無については供述が変遷する。そして、この点に関する前原の最終的な自白は、「一〇月三日河田町アジトに井上といると、村松が現れ、内藤と菊井を集めておけと指示した。内藤がひょっこり現われたので、内藤に菊井を呼んでくるよう依頼したところ、しばらくして内藤は戻ってきたが、『菊井は行く必要がないと言って来ない』とのことだった。そのため、井上と二人で不思議に思い、菊井の噂をした」というものであるが(四八・三・九付検面)、他方、内藤は、前原から右のような依頼を受けたことを全く述べておらず、前原の前記供述と一致しない。

右のように、前原と内藤の菊井の参加の有無について言及した自白には黙過できない不自然さと相互不一致が存する。

<6> 前原及び内藤の導火線切断に関する供述

八・九機事件に使用されたピース缶爆弾は、導火線の長さから見て、導火線の先端部が切断されたことになると思われるのに、前原や内藤の供述にこの点に触れた供述がないのは不自然である。

八・九機事件に使用されたピース缶爆弾は、導火線の長さ(全長約九・五センチメートル、缶体の外に出ている部分は約六・三センチメートル)が中野坂上事件のピース缶爆弾三個のそれ(一二・五センチメートル、一三センチメートル、一二・五センチメートルと、九・五センチメートル、八・五センチメートル、七・五センチメートル)に比べて短く、かつ、その先端の形状も後者のそれがいずれもほぐされているのに対し、斜めに切られている点で異なっている。前原らが捜査段階において述べるように、本件ピース缶爆弾が中野坂上から持ち帰られたものであるとすれば、持ち帰り後、本件関係者らのうちの誰かによって導火線の先端部が切断されたことになると思われるのであるが、前原自白にも、内藤自白にも、この点に触れた供述はなく、そのことは、本件の爆弾が佐古らによって持ち帰られたものである蓋然性を減殺し、ひいて原告堀や前原らと本件犯行との結びつきがないことをかえって示している。

<7> 前原の導火線燃焼実験の供述

前原は、八・九機事件の謀議の際に行った導火線燃焼実験に使用した導火線が中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾のものであると供述しているが、右供述は客観的事実と合致せず、この点からも前原の供述は信用性がない。

前原は、本件謀議の際の導火線燃焼実験に使用した導火線は、中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾二個のうち一個の導火線を引き抜いたか切り取って使用したと供述(四八・二・二〇付員面)しているが、他方、実験に使用した導火線の長さを一二・三センチメートルと述べ(四八・一・二二付員面、四八・二・一六付検面、なお四八・二・一一付員面参照)、内藤も一〇センチメートル余りと供述(四八・三・八付検面)しているから、佐古らが持ち帰ったという爆弾が、中野坂上事件のものと同種であったとする限り、これから右の長さの導火線を切り取ったものが八・九機事件の爆弾であり得ないことは自ずから明らかであって、前原の右供述が八・九機事件の爆弾の導火線が切り縮められていることに対応するものでないこともまた多言を要しないであろう。さらに付言すると、増渕及び村松の各自白にもこの点に触れた部分はないのである。

<8> 前原の下見に関する供述

前原の供述する下見の経路は時間的にも距離的にも迂遠で無駄が多く、また、同人の八・九機の警備状況についての供述には、警察官の立哨位置を考慮しないまま逃走方向を考えるという不自然さがあることからも、同人の下見に関する供述は、想像の産物と認められ、措信できない。

前原は、昭和四八年二月一六日、「犯行当日の午後三時ころ、井上と二人で河田町アジトを出て下見に出かけた。八機正門やその付近の警備状況を注意して見て回った。八機前の道路を隔てた向かい側の裏路地等も見て回った。一時間くらい下見をしてから河田町アジトに戻った。」旨供述し(四八・二・一六付検面)、翌一七日右下見の経路等を明らかにするため、現場へ実況見分に赴いたが、その際指示したところによると、下見の経路は、河田町アジトを出て、フジテレビ前通りを右折して河田町交差点方面に向かい、途中新宿区市谷河田町一六東京電力河田町変電所角を左折して住吉町商店街に向かい、同区住吉町二三近藤商店角を右折し、更に同区市谷台九深井医院角を左折した上地獄坂通りに出て右折し、その後同通りを抜弁天交差点まで至り、同交差点を右折して若松通りに入り、その後厳島神社付近の路地に入ったりした後、同通りの八機反対側道路を河田町交差点方向に向かい、八機前を通過し、同区市谷河田町一八東京都中央児童相談所角を右折、同町一七先を左折し、同番地所在新宿区検察庁角を右折してフジテレビ前通りに至り河田町アジトに戻るというものである。

ところで、右下見の経路は、八機正門前及びその付近の警備状況の把握というその目的に照らすと、時間的にも距離的にも迂遠で無駄が多い。すなわち、フジテレビ前通り東京電力河田町変電所角を左折してから抜弁天交差点に至るまでの道程が、前記下見の目的にほとんど資するものでないことは明らかであり、かつ、下見に同行した井上は、爆弾投てき役の一員とされており、投てき後の逃走経路を確認する必要があるところ、両名の下見はいわば現場付近の大通りばかりを歩いており、逃走経路たるべき路地や脇道の状況を確認した形跡がない。このような不自然さは、「下見」そのものの実在にかなり疑問を投げかけるものであり、検察官がこれに疑問を抱かないとすれば、職務怠慢というべきである。

この点について、前原は、「八機正門前に二名、八機前道路歩道上に二名、さらに若松通りの八機正門反対側歩道上角(新宿区余丁町一〇五神原修方前歩道上角)に一名、機動隊員が立っていた。」旨右供述に見合う指示、説明を行っているところ、前原は、前記昭和四八年二月一六日付検面においては、「(下見の際)河田町電停方向には交番があることを知っていたので、投げ込んだ後、逃げる方向としては、東大久保電停方向か裏路地を通って余丁町方向に逃げるのがよいと思った。」旨供述しているのであるが、これによれば、前原は、逃走方向を考えるに当たり、下見の際現認したはずの機動隊員の立哨位置を考慮にいれているとは思われず(特に、前記新宿区余丁町一〇五神原修方前歩道上角の機動隊員の存在が、投てき後、河田町交差点方向への逃走を断念する最大の理由になるはずである。)、したがって、下見に関する一連の供述の間に不自然な抵触のあることを知っているのであるから、結局、通常の注意を払ってさえいれば、「下見」に関する右各供述が現実体験に基づくものではなく、想像の産物であることを看破できたはずである。

<9> 前原及び内藤の喫茶店集合に関する供述

犯行の直前と直後に喫茶店に集合した旨の前原及び内藤の供述は、集合者等について不一致がある上、そもそも喫茶店に集合する必要性に乏しく、かえって喫茶店の従業員らに不審を抱かせる一因ともなりかねないので不自然である。また、各供述経過が変遷していることからみても、取調官が増渕の自白を基に追及し、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をし、さらにこの内藤供述を基に前原を追及し、前原がこれに合わせて虚偽の供述をした疑いが強い、これらに照らすと、内藤及び前原の各供述は、信用性がない。

(ア) 犯行直前の喫茶店集合

(あ) 犯行直前の行動状況について、前原は、「河田町アジトで最終的な打合せをした後、増渕と赤軍派の者二名が出発した。その際、赤軍派二名と喫茶店で落ち合うよう打ち合せた。その後、村松、堀及び井上が出た後、自分も内藤も河田町アジトを出発し、赤軍派と落ち合う約束の河田町交差点近くの喫茶店に行った。同店には増渕もおり、自分と内藤は、増渕から具体的任務の内容について指示を受けた。村松、井上及び堀は来ていなかった。増渕、内藤らが出ていった後、午後六時四〇分ころ、赤軍派の者一名と同店を出発した。」と供述し(四八・三・九付検面)、内藤は、「河田町アジトで最終的な役割分担を確認した後、午後六時ころ、二、三のグループに分かれ、同アジトを出た。自分は前原と一緒に出て、前原の案内で河田町電停方面に向かい、途中の喫茶店に入った。同店には、河田町アジトにいた者が全員集まった。自分は増渕からレポについて指示を受けた後、赤軍派の者一名と同店を出発した。」旨供述する(四八・三・八付検面)。

しかしながら、両名の右供述は、次のとおり信用性を欠如することが明らかである。

(い) 集合者の不一致

喫茶店に集合した者について、前原は、投てき班の村松、原告堀及び井上は来なかったと述べるのに対し、内藤は、犯行に関与した者全員が集まったと述べ、両者の供述が一致しない。

(う) 喫茶店集合の必要性

前原、内藤の両名とも河田町アジトにおいて最終的な打合せをしたというのであるから、更に犯行直前に喫茶店に集合する必要性は乏しい。かえって、犯行直前に現場近くの喫茶店に集合し、同店から順次出発するなどというのは、事件後、同店の従業員あるいは他の客らに不審を抱かせる一因ともなりかねず(特に、後記のように、内藤自白によれば、犯行直後にも再び同店に集まったというのであり、右のような危険性を倍加させることになりかねない。)、供述の信ぴょう性評価はより慎重でなければならない。

(え) 供述経過

ところで、右犯行直前の喫茶店への集合は、両名の当初の供述には出ておらず、内藤が、昭和四八年三月三日付員面において、「河田町アジトを出て、直接八機に向かわず、一旦喫茶店に集合し、そこからレポには出たような気がする。」と供述したのが初めてで、内藤は更に同月七日付員面及び同月八日付検面で前記のように供述するに至り、また、前原は、同月九日付検面において突然前記のような供述をしたのである。

供述経過等を検察官の立場に立って検討しても、犯行直前に共犯者らが喫茶店に集合したこと自体は、それまでの両名の供述内容からして別段秘匿しておく必要性があったとは思われず、当初の供述にこの点が出てこなかったことが、両名のことさらな隠し立てによるものとは考えられないし、また右のような供述の経過自体からみて、両名がいずれもこの点に関する記憶を消失していたところ、自然のなりゆきで想起し、供述したものと解することも甚だ困難である。そして、増渕が同年二月一八日付員面において、内藤らに先立ち、「村松に、八機前の通りの喫茶店を出撃拠点にして出発するように指示した。」旨供述していることをも併せ考えると、内藤の取調官である田村巡査部長が、増渕自白を基に、犯行前の喫茶店集合について追及した結果、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をしたものではないかとの疑いをもって然るべきなのである。

また、前原の同年三月九日付検面における前記供述は、内藤自白と整合させるべく、取調官の濱田検事が、内藤の同月七日付員面及び同月八日付検面に基づき前原を追及し、前原がこれに合わせて虚偽の供述をした疑いが濃厚である。すなわち、内藤は同月七日付員面において、右喫茶店を「河田町交差点近くのフジテレビ前通りのフジテレビと反対側の店」と述べ、その位置を図示していたが、昭和四八年三月九日実況見分に立ち会った結果、右供述した地点には喫茶店がないことが判明し、付近を検索して、若松通りに面した喫茶店であったと供述を訂正しているところ(四八・三・九付員面)、前原は、同日(すなわち内藤の右実況見分当日)、濱田検事に対し、右の喫茶店集合の件を初めて供述し、かつ、その所在位置を前記内藤の同月七日付員面添付の図面と同じ場所に図示しているからである。これは検察官に、捜査官及び訴追官としての両面において問題のあったことを示している。

(イ) 犯行直後の喫茶店集合

(あ) 犯行直後の喫茶店への集合に関し、前原は、「都電に乗って、八機前を通過した後、東大久保で下車し、午後七時四〇分か五〇分ころ、事件後集合することになっていたその付近の喫茶店に赤軍派の者一名と行った。同店では井上及び内藤に会った。増渕がいたかどうかはわからない。村松及び堀は来なかった。」と述べ(四八・三・九付検面)、内藤は、「午後七時から五分くらい過ぎても何も変わった様子がないので、レポ出発前に集合した喫茶店に戻った。同店には菊井がいた。前原もいたが、自分より早く戻っていたか断言できない。その後、井上及び増渕が来た。村松及び堀は来ていない。」と述べている(四八・三・八付検面)。

しかし、両名の右の供述については、次のような疑問を抱くのが当然である。

(い) 犯行直後集合した喫茶店について、内藤は犯行直前に集合した喫茶店と同一の喫茶店であった旨述べるのに対し、前原は右の喫茶店とは異なる東大久保の喫茶店と述べるほか、犯行直後喫茶店に来たものとして、内藤は菊井を述べるが、前原は述べない。

両名の自白が同一の実在する事象についての共通の体験を真摯に再現するものであるならば、このような不一致はあり得ないと考えられ、看過できない。

(う) 前原の犯行直後の行動状況に関する供述は変遷しているが、そのうち、前原が昭和四八年二月二六日付検面において、「どこかの喫茶店で皆が集まり、それから河田町に帰ったと思う。これだけ大胆なことをやりながら総括もせず、バラバラに別れてしまうはずがない。」と供述している点は、前原供述の推測的性格を示すものといえよう。すなわち、前原は、この時点において、理屈の問題として、犯行直後の集合場所の存在を考えているにすぎず、前原の断定的自白が前原自身の確たる記憶に基づかないものであることを検察官は疑うべきである。

<10> 内藤及び前原の犯行前の謀議に関する供述

内藤及び前原は、犯行前の喫茶店における謀議について供述しているが、これらは、内藤の供述経過の不自然さ、前原の供述の唐突さなどからみて、村松、増渕の供述に基づく捜査官の誘導によりなされた疑いが強く、信用性がない。

(ア) 謀議の場所等

(あ) 犯行前日の謀議の場所及び謀議の状況に関し、内藤はかなり変遷、混乱した次のとおりの供述をしている。

四八・二・六付員面 河田町アジトに村松、前原、井上外二名くらい(一人は菊井と思う。)と集まり、村松が機動隊を攻撃しようとの話を始めた。「八機が手薄だ。」、「正門のところに何か投げ込み、注意を引きつけてその隙に横の方から侵入する」などの話も出、村松が略図のようなものを書いた。増渕はいなかったと思う。誰かから「明日町田か高野を連れてこい」と言われた。

四八・二・八付員面 河田町アジトで八機襲撃の話が出た際のメンバーは前回どおり。増渕はいなかったと思う。「明日高野か町田を連れてこい。」と言ったのは村松か誰かだった。

四八・二・一八付員面 河田町アジトで、村松が、八機の地図を書き、「八機の正門のところに何か投げ、注意を引きつけて八機の中に侵入する。」という話をしだす。何を投げるか具体的には聞いていないが、ジュース(火炎ビンの意)と思う。その際、話し合ったメンバーは従前とおり。帰り際に村松から「高野か町田を連れてこれないか」と聞かれた。

四八・二・二四付員面 河田町アジトで前原及び井上といると村松が来た。村松から八機襲撃の話が出た。村松は略図を書いて一気に説明した。その際、「これからは爆弾等を使用する時代だ。」などと話す者がおり、それが増渕だったと思う。

四八・二・二八付員面 河田町アジトに前原、井上(あと一名いたかもしれない。)といると村松が来て、八機の略図を書き、「正門に何か投げ注意を引きつけ横の方から侵入する。」という話をした。侵入は勘違いかもしれない。その際、爆弾闘争の話があったが、増渕からだと思う。その後増渕が各自の任務を決めた。帰り際、増渕から、「明日町田か高野を連れてきてくれ。」と言われた。

四八・三・七付員面 午後四時か五時、喫茶店に増渕、前原、井上、梅内、花園(赤軍派幹部の前之園紀男[旧姓花園]を指す。以下「花園」という。)と集まり、増渕から八機を爆弾で襲撃する話が出された。午後六時か七時ころ、河田町アジトに前原、井上と三人で戻っていると、村松が来て、略図を書いて八機襲撃計画を説明した。その後増渕が少し遅れてやってきて各自の任務を決めた。

四八・三・八付検面 午後四時ころ、喫茶店に増渕、前原、井上、初対面の赤軍派の男二名と集まり、増渕から爆弾による機動隊攻撃が提案された。午後六時ころ、前原、井上と三人で河田町アジトに戻っていると村松がやってきて、村松が中心となって話した結果八機襲撃が確定した。八機横の路地から攻撃することに決まったと思うが、それが正門に投てきするとどの段階で変更になったのか記憶がない。増渕がいつ来たのかはっきりしないが、その後の各自白の役割を決定する段階では来ており、増渕がこれを行った。

(い) これに対し、前原の供述は、当初の自白以来、概ね、「夜、河田町アジトに増渕、村松、井上、内藤と自分が集まり、増渕から爆弾闘争の提起があり、一〇・二一夜佐古らが持ち帰ったピース缶爆弾を用いて八機を攻撃することになった。その後増渕を中心に各自の任務が決定した。」との趣旨で一貫していたが、昭和四八年三月九日付検面に至り、「夜の謀議に先立って、午後五時三〇分から午後八時までの間に、喫茶店で増渕からピース缶爆弾による機動隊攻撃の提起があり、皆賛成した。どういう経緯でどのようなメンバーが集まったかは思い出せない。」旨述べ、突如喫茶店における謀議を供述している。

(う) しかし、内藤及び前原の喫茶店謀議に関する各自白には、次のような疑問を持つべきであった。

内藤のこの点に関する供述は、前記のとおり、かなり変遷しているが、まず、内藤には、喫茶店謀議を秘匿しておかなければならなかった理由は見あたらず、したがって、内藤がことさらに隠し立てをし、あるいは言を左右にした結果、このような変遷が生じたものとは認められず、捜査官としては、その真実性に疑問をもって当然であった。

また、前原も昭和四八年三月九日付検面に至って突然喫茶店謀議を述べるが、その供述内容は、八・九機事件に関する他の供述事項に比べ余りにも茫漠としており、かつ、にわかにそのような供述をした理由も述べられておらず、通常の注意を持ってすれば、真実の記憶を喚起しての供述とみることは到底できなかったはずである。

(え) ところで、村松及び増渕は、内藤及び前原に先立って、次のように犯行前日の喫茶店謀議につき供述していた。

四八・二・二二付検面 村松 喫茶店(エイトと思う。)で増渕と会った。他に誰かいたかもしれない。八機の話が出たかもしれない。

四八・三・一付検面 増渕 喫茶店ミナミに国井、井上、菊井、前原らと集まり、自分が八機攻撃を提案し、全員が賛成した。

(お) 以上に照らすと、内藤の前記喫茶店謀議に関する供述は、取調官が村松ないし増渕のこの点に関する自白に基づき、追及した結果、内藤がこれに合わせて述べたものであり、また、前原のこの点に関する供述は、起訴を控え、内藤自白との整合性を重視していた濱田検事による誘導の結果、前原が迎合して漠然とした認め方をしたものというべきである。

(イ) 謀議の内容

(あ) 八・九機に対する攻撃方法について、内藤の自白には、「横の方からの侵入」ないし「横からの攻撃」に強く固執する傾向が見られる。内藤の攻撃方法に関する最終的な自白は、前記のように「八機横の路地から攻撃することに決まったと思うが、それが正門に投てきするという方法にどの段階で変更になったのか記憶がない。」というものであるが(四八・三・八付検面)、前原は、「横からの攻撃」については一切述べず、一貫して、謀議段階以来「正門前の道路端から正門に向かって投てきする」旨の攻撃方法について述べているのであって、右供述内容の不一致は看過し得ないものを含んでいる。

(い) 八・九機事件に使用する爆弾について、内藤は、犯行前日の喫茶店における謀議の際、「一〇・二一闘争では赤軍派が増渕を通してL研と東薬大で一緒に爆弾を作ったが失敗した。そのときの爆弾をL研に持ってきて明日使う。」と聞いた旨供述する(四八・三・七付員面)が、一〇月二一日東薬大において製造された爆弾は鉄パイプ爆弾であって、右の爆弾の入手経路に関する供述は客観的事実に明らかに反する。

(う) 前原、河田町における謀議の際、押し入れからピース缶爆弾二個を取り出し、その場にいた者に見せた旨述べるのに対し、内藤はこの点を供述しない。昭和四八年三月三日付員面において、爆弾投てきの認識について自白した以上、謀議の際、ピース缶爆弾を目撃したことを内藤が秘匿しなければならない理由はないはずであるのに、その後もこのことを供述していないのは不自然であり、検察官がこの点を考慮しなかったとすれば、明らかに不注意である。

<11> アメ文事件における段ボール箱

佐古及び前原の供述の信用性を判断するにあたっては、アメ文事件で爆弾の収納に使用された段ボール箱を専門家等に鑑定させていれば、既製品であることが容易に判明したはずであり、そのような観点からの証拠収集を怠り、右供述の信用性を吟味しないで公訴提起をした違法がある。

また、アメ文事件における段ボール箱の底に組んだ十字の割り箸が爆弾を固定する目的で使われたことは明らかであるのに、検察官は、誤って、これと異なる判断をした。

(ア) アメ文事件で使用された段ボール箱については、実際の証拠物は既製の段ボール箱であるのに、佐古らの自供は手製となっており明白な虚偽自白である。

地刑五部判決は、「これらの自白は、右証拠物を見た取調官の印象に基づいて佐古が追及され、その旨の自白がなされた後、これを前提として前原にも(また、更に増渕にも)同様の追及がなされた結果、これに迎合する形で得られたのではないかという疑いを抱かせる」と認定しているとおり、このように「まことに具体的かつ詳細で、直接体験した者でなければ供述し得ないかのような迫真性をもった外観を呈する右ダンボール箱の製造状況に関する供述が、虚偽としか判断し得ないものであること」は、本件捜査の本質を暴露しているものである。

捜査当局の強制と誘導こそ、本件捜査の本質だったのである。

しかも、その強制と誘導が証拠物を冷静かつ科学的に分析、検討することなく、誤った「取調官の印象」にのみ基づいてなされるという、いわば二重の違法捜査がなされているのである。

(イ) このような強制、誘導があったことを佐古は刑事公判廷において、次のように供述している。

箱の話のきっかけはどういうところから始まったんですか。

きっかけは、佐古どうだ今日おれはアメリカ文化センターの段ボール箱を、おれというのは原田なんですけれども、原田がおれは段ボール箱を見てきたんだけれども、本当に佐古が図面を書いたように、全く同じなんだけど、今日はちょっとその段ボール箱についてヒントを教えてやるからちょっと思い出してみないか、というふうなことを言ったわけです。

ヒントを教えてやるから、ということをはっきり言われたわけですか。

はい、そうです。

なるべく原田の言葉どおりにそこんところ言ってみてください。

今日アメリカ文化センターに仕掛けられた段ボール箱を、おれと坂口、ちょっと話が前後してしまうんだけれども、そのときの取調べというのは、坂口と好永と原田の三人で調べを受けていたわけです。年末になってそのときも三人だったんだけども、原田がおれと坂口さんの二人だけがアメリカ文化センターに仕掛けられた段ボール箱を見てきたんだよ。それでおれはやはり佐古が図面書いたようにそれと同じなんだ。だからどうしても佐古があれをどこかで見てるか、自分で作ったに間違いないと思うんだ。だからおれがヒントを教えてやるから、ちょっと思い出してみないか。そういうふうに言われたわけです。それで好永が、こういうふうな取調べというものは捜査官のほうがすべてを知ってて被疑者に尋ねるというのはよくないのでおれは全く見ていないんだと、だからおれは何も知らないから、佐古は原田に自分の思う、感じたことを答えればいいんだ。そういうふうな言い方で好永は言ってました。

ただ好永が見ていないといっても、原田と坂口はよく見てきた、ということだったんでしょう。

はい、そうです。

その場所には好永ほか原田や坂口もいて、あなたを取り調べたと。

そういうことです。

そういうふうに原田のほうからヒントを教えてやるから、思い出せ、というふうに言われても、あなたとしては何か言えましたか。

ぼくとしてはもうこの間長い間、自分としては思い出せないとか、記憶にないとか、とにかくよくわからないというふうなことで答えてきたので、とにかく捜査官のほうから、一つにぼくに追及してくるようなことでわかっていることがあれば、ヒントなり教えてもらって思い出してもいい、というふうな気持ちでいました。

そういうふうに言いましたか。

……。

是非そのヒントを教えてください、というようなことを言ったんですか。

ヒントを教えてくれれば思い出してみよう、というふうなことは言いました。

思い出すように努力してみようと。

はい。

それで教えてくれましたか。

はい、それで教えてくれました。

どういうことですか。

まず、ああいう段ボール箱について、佐古はどういうふうに段ボール箱を使うのか、というふうなことで尋ねられました。

ということは、アメリカ文化センターの。

そこに仕掛けられた段ボール箱について。

それを作るのにということですか。

それを使用するのに、いわゆる既製の箱か、自分で作るのかと、そういうふうな聞き方で佐古はどうするのか、というふうな尋ねられ方をしたわけです。そしてぼくはもちろんというか、ぼくはそういうふうに尋ねられて自分で作るということは考えもしなかったし、適当に既製の小さな箱があればそれを使います、というふうな言い方をしたわけです。

あなたもそういう言い方をしたというのは、何か根拠があるんですか。

いや、むしろいちいち自分の手で作ってみた、というような感じのことの記憶というものは全くなかったから、適当にその辺から作ればという、ぼくの推定で述べたわけです。

それに対してどういうふうに言われましたか。

それに対しては、いやそんな既製の箱というか、そういうものではないんだというふうなことを言われたわけです。

それはだれから言われたの。

原田から言われました。

既製の箱を使ったんじゃないんだと、作ったんだということを言われたということですね。

そうです。

それで。

それで原田は、佐古どうだ、よく考えてみろよ、というふうな言い方で、とにかくこれは作られているんだというふうなことで、まずそこで一つのポイントを押さえられて、次のポイントに移ったわけですけれども、丁度取調室のロッカーのようなところに大きな段ボール箱のようなものがあったわけです。

そのとき取調べを受けていたところの、久松署の取調室。

ロッカーのようなところにみかん箱より一回りぐらい大きな段ボール箱があったわけです。書類なんか入れてしまってあったような。それを原田自身が指さして、佐古こういうふうな箱から小さな箱を作るにはどうして作るんだ、というふうな尋ねられ方をしたわけです。で、ぼくはそれを見て、こういうような大きな箱から小さな箱を作るんだったら、その大きな箱の一部の角でも使って、小さな箱でも作りますね、なんていうふうな言い方でぼく自身は推定をしたわけです。そしたら原田は、それだよ、君よくわかってるじゃないか、思い出せるじゃないか、というふうな言い方をするわけです。

つまりあなたとしては、いろいろヒントを与えられて、大きな箱のすみを切り取って作るんじゃないかと、作るんだったらね、そしたら原田のほうがそれでいいんだ、というふうに認めてくれたということですか。

それでいいというか、そういうような作られ方をしているんだと、佐古、やっぱり思い出せるじゃないか、というふうな、要するに原田自身はヒントを与えてやれば思い出せるではないか、というふうな言い方で、それは思い出しているんだということの断定をはっきりと言ってくるわけです。

あなたは実際に思い出したんですか。

いや、ぼく自身は思い出してはいなかったわけです。だけど原田自身は、佐古、思い出せるではないか、何も心配することないんだ、ちょっと考えれば思い出せる、というふうな言い方で、次の調べという形で流れていくわけです。

そういうふうにあなたはヒントに従って推定しただけなのに、原田たちが思い出したんだ、というふうに決めてかかってくると。

はい。

ということに対して、あなたは抵抗できなかったんですか。

はっきりした態度での抵抗はできませんでした。

いや、思い出したんじゃないんだと、あなたがたがヒントを教えてくれるから推定したんだ、というふうには抵抗できなかった。

はい。

それはなぜですか。もしも、そういうふうに抵抗したらどうなると思いました。

やはり同じように、佐古の口から出てきたんだからそれは推定じゃなくて、記憶があったからなんだ、というふうに言われたんではないかと思います。

前にそういうことがあったわけですね。

はい。

(ウ) ちなみに、この証拠物たる段ボール箱が既製品であることは、公判開始後に開示された実物を見た弁護人の調査により判明したものである。すなわち、まずこの段ボール箱に打ち込まれている平線が佐古自白のいうようなホチキスの針ではなく、ステッチャーという大型機械によって打ち込むものであることが、段ボール箱メーカーへの問い合わせにより簡単に判明したので、弁護人らは裁判所を通じて専門家の鑑定を求め、その結果、段ボール箱そのものが既製品であることが解明されたのである。

つまり、捜査当局はこのような(素人でもすぐ気付くような)事実すら見過ごして、ただひたすら自白さえさせれば良いとの、まことに安易かつ不当極まりない捜査を続けたのであり、客観的証拠の無視以外の何者でもない。

<12> 内藤の供述するレポの方法及び同行者等

内藤の供述するレポの方法は、必要性に乏しく余りにも杜撰であり、また、内藤のレポの同行者及び内容についての供述に変遷があることから、同人の供述は信用できない。

(ア) 内藤自白の要旨は、「自分はレポ役であって、増渕から、八機を中心にして、何田町から東大久保交差点までのレポをやり、八機正門前の警備状況と回りの警察の動きを見て、その状況を途中で出会った者に報告するよう指示され、赤軍派の者一名とレポに出発した。河田町交差点から、八機前の通りを機動隊と反対側の道路端を歩いて、東大久保の交差点に向かった。八機正門前歩道上には三人くらいの制服の機動隊員が立っていた。八機前を過ぎ、余丁町電停付近に至って、前原外一名(誰かは思い出せない。)に会ったので、八機正門前の警備状況を報告した。その後、余丁町電停付近で暫く待機した後、再び八機の方に引き返した。途中の路地の入口で路地に立っている村松外一名に会ったが、意識的に無視して通り過ぎた。八機前を通過し、河田町電停付近まで来ると、反対方向から井上が来たので、八機前の警備状況を伝えた。井上と別れ、時刻を確認したところ、午後七時の四、五分前だったので、近くの路地に入り、時間の調節をした後、午後七時一分前に路地から出て、路地入口付近に立ち、斜め向かいの交番と八機正面の様子を見ていた。同行していた赤軍派の者は井上と出会った前には近くにいたが、この時点でどこにいたかは記憶がない。午後七時を五分くらい過ぎても何の変化もないので出発前に集合した喫茶店に戻った。赤軍派の者がどうしたかは確認していない」というものである(四八・三・八付検面、四八・三・七付員面)。

右自白もまた次のように不自然である。

(イ) まず、第一に、八・九機事件に占める内藤の役割が結局判然とせず、内藤自身が供述するレポの必要性が疑われることが指摘される。すなわち、爆弾投てき時のレポ(見張り)の核心は、投てきが通行人等に不用意に目撃されることのないよう周囲の状況に注意し、あるいは投てき後の投てき者の逃走経路の安全を確認し、これを投てき者に伝達するにあると考えられるのに、内藤がレポの実際として供述するところは、これらに比べて必要性の乏しい役割に過ぎず(例えば、八機正門前の警備状況の観察と報告が任務のひとつとされているが、そのようなことは、投てき者においても容易にみずから認識し得るところである。)、しかも内藤と投てき者との間の連絡方法が、その供述するとおりだとすると、余りにも杜撰な感を免れない(この点につき、内藤は、前原が投てき班との連絡役と思っていた旨供述するが(四八・三・八付検面)、前原の供述は、その可能性を実質的に否定するものである。)。

また、同様な意味で、レポ役である内藤が「途中の路地の入口で路地の中に立っている村松外一名に会ったが、意識的に無視して通り過ぎた」と供述するには、疑問がある。すなわち、右供述は、一面、現場における緊張した雰囲気を描写するかのようであって、いかにもありそうなこととして、一見迫真性に富むように見えるが、他方、内藤自白によれば、村松は爆弾投てき班員とされており、八・九機付近の警備状況等の把握が最も必要な立場にあったものであるから、内藤が村松に対する報告もせず、ことさらに無視して通り過ぎたというのは、何としても不自然であるといわざるを得ない。

(ウ) 内藤自白のうち、レポの具体的内容に関する部分も、他の事項と同じく、当初曖昧な供述に終始し、徐々に具体的、詳細になっていくものであるが、その供述の経過は次のとおりである。

四八・二・六付員面 一〇月二二日から同月二四日までの間の午後八、九時ころ、八機正門前の路地を村松と思われる男(L研関係の背の低い男)と歩いたことがある。その男は「この道は抜けられるかな」と言い、二人して五〇メートルくらい歩いたが、行き止まりで引き返したことがある。

四八・二・八付員面 日ははっきりしないが、八機付近の路地に一人で入ったことがある。この時のことかどうかわからないが、「同じ場所を単調に歩くな」と言われたことがある。

四八・二・一七付員面 時期ははっきりしないが八機周辺を歩いた記憶がある。

四八・二・一八付員面 一〇月二四日に八機周辺に行ったかどうか思い出せない。同月二三日から同月三一日までの間の午後八時ころ、八機正門前あたりの小さな路地に入ったことがある。目的ははっきりしないが、単調に歩くとまずいと思ったのではないか。

四八・二・二一付員面 一〇月二三日から同月末ころの間の夜、八機前都電通りで、L研の者と会ったことがある。自分は一人だった。L研の者とは立ち止まって二、三言話して別れたが、内容はレポに関することだった。

四八・二・二二付員面 一〇月二三日か二四日、下見なのかレポなのかはっきりしないが、村松、前原、菊井のうちの一人と、暗くなってから八機の周囲をかなり時間をかけてぐるぐる回り、河田町に帰ったことがある。また、同月二四日のことか同月二一日のことかはっきりしないが、八機前の八機と反対側の道路を歩きながら、八機の様子を見るためという感じで八機正門の方をチラッと見たことがある。

四八・二・二八付員面 一〇月二四日薄暗くなってから、もう一人の男(前原と思う。)と八機前の通りを歩き、八機正門前付近でL研の者(井上と思う。)と会った。その者は一人ではなかった。

四八・三・三付員面 一〇月二四日八機正門前を往復する形で二回くらい通った。相棒がいたのか一人だったのかはっきりしない。相棒がいたとすれば村松、菊井、前原、原告堀のうちの一名である。新宿方面から河田町方面に向かい八機正門前を少し通り過ぎた地点で井上と会い、自分と一緒だった男が井上にレポの状況を報告した。その後、河田町交差点少し手前の路地に一人で入った。

四八・三・七付員面 前記自白の要旨に記載したとおり(ただし、同行した赤軍派の者を「梅内」とし、前原と一緒にいた者を「花園」とする。)

四八・三・八付検面 前記自白の要旨に記載したとおり。

以上のとおりであるが、右のような一貫性のない供述変遷の状況のほか、内藤自白によれば、内藤は機動隊に対する爆弾による攻撃という特異な状況に自らを置いていたのであるから、その際の自己の行動については、細部は格別、その大筋の記憶まで失ってしまうとは考え難いことに照らすと、右の供述経過を正確な記憶が次第に喚起されていった過程と見ることはできない。もとより、前記のとおり、真犯人が取調官の追及により秘匿していた事実を明らかにせざるを得なくなったものと見ることもできようが、他方、内藤は、任意の取調段階から八・九機周辺を歩いた記憶がある旨供述しているところ(四八・二・六付員面及び二・八付員面とも、八・九機事件のレポであることを強く窺わせる供述である。)、真実、同事件にレポ役として関与しながら、これを秘匿しようと考えていた場合には、取調べの当初の段階から右のような供述態度に出ることは、供述者の心理として理解し難く、その意味で、この見方には難点がある。

(エ) レポの同行者についても、内藤の供述は以下のとおり著しい変遷を重ねる。

四八・二・二二付員面 村松、前原、菊井のうちの一人(ただし、一〇月二三日か同月二四日のころかははっきりしないとする。)

四八・二・二八付員面 前原と思う。

四八・三・三付員面 相棒がいたのか一人だったのかはっきりしない。相棒がいたとすれば、村松、菊井、前原、原告堀のうちの一人。

四八・三・七付員面 梅内

四八・三・八付検面 赤軍派の者(比較的背の低い男)

四八・三・九付実況見分立会時 梅内

四八・三・一〇付検面(三・八付検面を訂正することはない旨供述)

前記のとおり、八・九機事件遂行時のレポは、内藤にとって極めて特異な体験であったはずであるばかりか、レポの際の同行者の有無及び同行者が誰であったかなどの点は、特に記憶に残りやすい事柄であると思われる。なかでも、同行者の有無についてまで記憶が消失するようなことは、通常考え難いところである。また、レポの事実を自白したのに、同行者についてのみ、その有無ないし氏名をことさらに秘匿し、あるいは曖昧にしなければならない特段の理由も見当たらない。したがって、この点に関する供述に右のような著しい変遷が見られること自体、甚だ不自然であると思われる上、その変遷の経過には、右に見たとおり、何らの脈絡も認められず、正確な記憶が次第に喚起され、若しくは追及によって真相が逐次解明されていった過程とは到底考えられない。殊に、昭和四八年三月七日以降の供述変遷の状況は、内藤が、取調官の追及の仕方によって、たやすくこれに迎合し、供述の変更をしたのではないかとの疑問を抱かせるものである。

これらの点を考えあわせると、レポ同行者に関する内藤自白に真実性を認めることは困難である。

<13> 増渕の参加に関する内藤供述の変遷

増渕の八・九機事件への参加の有無についての内藤供述には変遷があって不自然であり、取調官の押付けによるものであるから、内藤の右供述は信用性がない。

前原は、自白の当初から、八・九機への爆弾攻撃を提起したのは増渕である旨一貫して供述し、内藤も、最終的にはほぼ同様の供述をするに至る(四八・三・七付員面。なお、四八・三・八付検面には、機動隊に対する爆弾攻撃は喫茶店で増渕が提起したが、最終的には八・九機に確定したのは、河田町アジトにおいて村松を中心に攻撃方法を検討したときであるとされ、従前の内藤供述と決定的な食違いが生じないよう配慮された供述記載となっている。)。

しかし、内藤は、当初は「村松から八・九機への攻撃が提起されたもので、増渕はいなかったと思う。」と述べ、あるいは「八機襲撃の話が出た際、増渕はいなかったと思う。」と述べていたものである。増渕は、内藤の属する東薬大社研にも頻繁に出入りして指導するなど、内藤にとって、村松、前原及び井上に比し、より接触の多い人物であり、増渕が他の者に先立って、最初に八・九機に対する爆弾攻撃(あるいは機動隊に対する爆弾攻撃)を提起したのであれば、これを内藤が忘失し、村松と混同するということは考え難い。また、内藤が、増渕だけを特にかばわなければならない理由の存在を窺わせるような事情も何ら存しない。したがって、内藤の供述の右変遷は不自然であって、取調官がこうした供述を押し付けたものとみるべきである。

(4) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

<1> アメ文事件の段ボール箱に関する裏付捜査

前記のとおり、アメ文事件で爆弾の収納に用いられた段ボール箱を専門家に鑑定させれば、それが既製品であることが容易に判明したはずであり、これと食い違う供述をしている佐古及び前原の供述の信用性は損なわれたはずであるから、そのような観点からの証拠収集を怠って公訴提起の判断をした違法がある。

アメ文事件の証拠物たる段ボール箱が既製品であることは、公判開始後に開示された実物を見た弁護人の調査により判明したものである。すなわち、まずこの段ボール箱に打ち込まれている平線が佐古自白のいうようなホチキスの針ではなく、ステッチャーという大型機械によって打ち込むものであることが、段ボール箱メーカーへの問い合わせにより簡単に判明したので、弁護人らは裁判所を通じて専門家の鑑定を求め、その結果、段ボール箱そのものが既製品であることが証明されたのである。

つまり、捜査当局は、このような(素人でも気付くような)事実すら見過ごして、ただひたすら自白さえさせれば良いとの、まことに安易かつ不当極まりない捜査を続けたのであり、公訴提起段階で、通常要求される裏付捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料の取得を怠ったものである。

<2> 大菩薩峠(福ちゃん荘)事件のピース缶爆弾との関達性

八・九機事件のピース缶爆弾と大菩薩峠(福ちゃん荘)事件のピース缶爆弾との関連性が窺えるから、水崎検事は、同事件の証拠を検討し、同事件に関与した赤軍関係者の事情聴取を行っていれば、少なくとも荒木久義(以下「荒木」という。)、古川経生(以下「古川」という。)からは供述を得られ、それにより、前原らの供述が虚偽であり真犯人が別にいることが分かったはずである。

(ア) 警察官は、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件などの関連事件で採取されていた各証拠を検討、分析し、さらには右事件の関係者等の取調べあるいは事情聴取等を行えば、容易に原告堀は全く無関係であり、若宮(八・九機事件)や牧田らアナキストグループ(ピース缶爆弾製造事件)が真犯人であることが判明したにもかかわらず、原告堀らL研グループの犯行であるとの予断に基づき、右関連事件の証拠等の検討、評価を十分に行わず、佐古らから虚偽自白を獲得することのみに終始した。

(イ) ピース缶爆弾事件の第一審公判審理段階において、自ら投てき犯人であるという若宮の証言、これを補強する古川、荒木の各証言が飛び出した。

右三名の者は、いずれも大菩薩峠(福ちゃん)荘事件に関係する赤軍派関係者である。福ちゃん荘において押収されたピース缶爆弾が缶体、内容物等の点において八・九機事件爆弾と明らかな関連性が窺え、また、前原、内藤の自白中に赤軍派の者が犯行に加わったとの供述が現われている以上、検察官が大菩薩峠(福ちゃん荘)事件関係記録証拠を十分検討し、赤軍派関係者からも事情聴取をすべきであったことはいうまでもない。

刑事公判廷における証言態度からするならば、少なくとも荒木、古川からは供述を得られる可能性が十分にあり、そのことによって、前原、内藤らの自白の虚偽性も明白になったものと考えられる。

検察官は、右の余りにも当然の捜査と証拠評価を怠り、原告らを違法に起訴したものというほかないのである。

(ウ) 前記のとおり、村松及び増渕の自白はもとより、前原及び内藤の各自白も客観的事実に反し、また多大の疑問を抱かせる不自然な部分を多数蔵していた。これらの問題点は検察官の八・九機事件公訴提起当時、既に明らかであり、または容易に真相を究明し得たはずのものであった。

すなわち、検察官は、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件関係証拠を検討し、関係者か事情を聴くことも容易であり、高杉、松浦らの第三者に真相解明のため事実関係を確認し、投てきされた爆弾を正確に検討して各自白に信用性が欠如することを明らかにすることもたやすいことだったといわざるを得ないのである。右のように自白獲得のみに頼らず、可能な限り客観的な物証及び第三者の冷静な供述により捜査を行い、公訴権行使をするということは、それらの権限を付与された機関のとるべき常道なのであり、とりわけ公訴権を独占する検察官には格別に要求される職務上の義務なのである。

しかるに本件八・九機事件起訴にあたり、検察官は、右のような捜査及び証拠の正当な評価に基づく公訴権行使を怠り、自白のみに、しかも信用性を全く欠く自白のみに依拠して公訴を決定したものであって、右職務上の義務に違反したことは明らかである。

<3> 増渕及び内藤のアリバイ

増渕は、「昭和四四年一〇月二四日ころ、火炎びんを平野方から江口方に運んだことがある。」旨供述していたのであるから、増渕にはアリバイがあり、検察官はその裏付捜査をすべきであった。

また、内藤は、「同年一〇月二三日から三日間にわたり、火炎びんを大学から平野方へ搬出した。」旨供述していたのであるから、内藤にはアリバイがあり、検察官はその裏付捜査をすべきであった。

(ア) 増渕及び内藤ほ、八・九機事件の発生した昭和四四年一〇月二四日夕刻から午後一〇時ころにかけて、同月二〇日東薬大において、社研の者らが製造し、同月二三日及び二四日の各早朝に同大学から平野の下宿に運び込んであった火炎びん七、八〇本を、町田らとともに、同下宿から渋谷区本町所在の原告江口及び同前林のアパートに運び込んでいたのであるから、八・九機事件についてアリバイがある。

この点については、増渕が早くから「一〇月二四日ころ、火炎びんを平野方から江口方に運んだことがある。」と述べ(四八・一・二二付員面)、内藤も「同月二三日から三日間にわたり、火炎びんを大学から平野方へ搬出した。」旨供述しているのであるから(四八・一・一二付員面、四八・二・六付員面、四八・二・一八付員面)、検察官が公平、虚心にこれらの供述の信ぴょう性を確認しようとしたのであれば、町田はもとより、当時原告江口と同居していた原告前林及び両名の知人、友人(例えば、内藤の控訴審で証人として取り調べられた長谷川幸子など)に広く事情を聴き、より明確な事実関係を捜査できたと思われるし、またそうすべきであったことはいうまでもない。

(イ) 右アリバイについて、地刑九部判決四一三頁は、長谷川幸子尋問調書により、「長谷川が供述する右のような事実があったとしても、長谷川が増渕らの男が江口の居室を訪れたのを目撃したのが増渕らにおいて火炎びんを運んで来た時のことであったとまではたやすく認めることはできない」としている。

右認定は証拠評価において誤っていると言わねばならないが、その点はさておくにしても、捜査当局に長谷川幸子の供述を求め、同人より日記の任意提出を受けていれば、より明確に搬出日を特定できていたはずである。

(二) 被告国の主張

(1) 判断基準

検察官の公訴提起は、有罪判決を期待し得る合理的な理由が欠如しているのに、あえて公訴を提起した場合に違法になると解すべきである。そして、検察官は、自己の専門的知識、経験等を頼りに自己が正当であると信じるところに従って証拠を総合的に評価し、心証を形成し、事実を認定し、犯罪の成否を判断していくのであるから、合理的理由の欠如の有無を判断するに当たっては、証拠評価及び法的評価についての通常考えられる検察官の個人差による判断の幅を考慮に入れて合理的理由の有無の判断がなされるべきである。

また、検察官の公訴提起における違法性の根拠は、公訴提起時における通常の検察官の行為規範に照らした職務上の法的義務違反にあるから、検察官の公訴提起の違法性の有無を判断する場合の判断資料は、公訴提起時において検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料に限られるものと解すべきである。そして、通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料とは、検察官が公訴提起時までにそれらの証拠を収集しなかったことに義務違反があると認められる場合、すなわち、公訴の提起時に検察官が現に収集した証拠資料に照らし、その存在を予想することが可能な証拠資料であって、通常の検察官において、公訴提起の可否を決定するに当たり当該証拠資料が必要不可欠と考えられ、かつ、当該証拠資料について捜査をすることが可能であるにもかかわらず、これを怠ったというような事情のある場合をいうものと解すべきである。さらに、検察官が通常要求される捜査を尽くしたか否かの点に関する最終的な立証責任は、原告側において負うものと解すべきである。

結局、検察官の公訴提起は、有罪と認められる嫌疑があると判断した検察官の証拠評価及び法的判断が、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる判断の幅を考慮にいれても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達している場合に、はじめて国家賠償法上違法と評価される。

(2) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

検察官は、原告堀を八・九機事件の共犯者として起訴するに当たり、検察官あるいは警察官作成の捜査関係書類、供述調書のほか証拠物等多くの収集証拠を検討し、原告堀が八・九機事件の共犯者であることを立証するには、次のような証拠が重要であると判断した。

<1> アメ文事件において現場に遺留されたピース缶爆弾等の特徴

<2> 佐古、前原、村松及び増渕のアメ文事件に関する各供述

<3> 八・九機事件において現場に遺留されたピース缶爆弾についての鑑定結果

<4> 八・九機事件に関する目撃者の供述

<5> 前原、内藤、村松及び増渕の八・九機事件に関する各供述

<6> 法政大学レーニン研究会(L研)の活動状況

<7> 佐古の八・九機事件に関する供述

<8> 井上及び原告堀の否認ないし黙秘

(3) 検察官の公訴提起時における判断

検察官は、八・九機事件と密接に関連し、証拠もかなりの部分が共通であると認められたアメ文事件に関する証拠資料及びそれに対する判断をも前提として、同事件の捜査の端緒及び被疑者を特定した捜査経過が自然であること、増渕の指揮の下に井上、村松及び原告堀が爆弾の投てき班となって、これを実行し、前原と内藤が見張りを担当した旨の佐古、前原及び内藤の各供述はいずれも信用性が高いと判断されたこと、村松及び増渕も一部を除き犯行を概ね自白していたこと、井上及び原告堀の供述態度は否認又は黙秘で、アリバイ主張もなかったことなどに照らし、原告堀が八・九機事件の共犯であって、有罪と認めるに足りる嫌疑があると判断した。

(4) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料の有無

原告堀を八・九機事件について起訴するに当たり、検察官が現に収集した証拠資料以外に、公訴提起の可否を決定するについて不可欠であるといえるような、通常要求される捜査により収集し得た証拠資料は、存在しない。

(5) 判断の合理性

右のとおり、検察官が八・九機事件につき原告堀を起訴したことは、いずれも合理的なものであり、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる判断の幅を考慮に入れても、右公訴提起が、行き過ぎであり、論理則、経験則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達しているとまではいえない。

4  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

ピース缶爆弾製造事件についての原告堀、同江口及び同前林の各逮捕は、その時点において捜査当局が収集済みの証拠資料及び収集可能であった証拠資料を基礎として判断したとき、同原告らに対する嫌疑の存在については多くの疑問が認められるのであり、それを無視して安易に同原告らを犯人と断定して逮捕したことには、明らかに過失がある。

(1) 謀議の場所及び参加者

原告らを除く被告人らの自白は、次のようなものであった。

<1> 佐古 東京都新宿区若松町一三五番地所在のアパート「宮里荘」の菊井の借間(以下「若松町アジト」という。)あるいは河田町アジトで謀議を行い、参加メンバーは増渕、村松、前原、井上、菊井、国井、石井及び佐古である。また、住吉町アジトでも謀議を行い、そのときの参加メンバーは増側、村松、前原、石井及び佐古である。

<2> 前原 住吉町アジトで、増渕、村松、井上、石井、佐古、菊井及び前原

<3> 村松 河田町アジトで、増渕、原告堀、前原、井上、佐古及び村松

<4> 増渕「ミナミ」で、増渕、村松及び井上

<5> 内藤、石井及び原告江口はこの点につき供述していない。

地刑九部判決は、四四一頁において、「被告人らにとって初めての重大な体験であるはずのピース缶爆弾製造の謀議場所は極めて印象深い事項であり記憶の混同を来すということは通常考えられない」とし、また地刑五部判決も二四七頁において、「本件犯行についての謀議の場所及び参加者に関し、これに参加したとされる者らの供述が、このように一致せず、区々に分かれていることは、同一の事柄を経験したはずの者らの供述としてはまことに不自然であるといわざるを得ない。」と指摘しており、逮捕状請求時においてもこの点につき留意すべきは当然で、何としても解明すべきであったのである。そうすれば同じような内容の謀議が何度も繰り返されるという不自然さが判明したはずである。

(2) 導火線燃焼実験

佐古及び前原は、住吉町アジトにおける謀議の際、導火線の燃焼実験を行った旨供述するのに対し、増渕はこの点について供述していない(佐古の四八・三・二六付I検面、二・一五付I員面、三・九付I員面、前原の四八・三・九付員面、三・一一付員面、三・一六付検面、三・二八付検面等。)。

これらの供述の相違は、各人の記憶の混乱によるものとも考えられないでもないが、それにしても同一の事象についての真摯で正確な自白というには余りにも食い違う点が多く、不自然さを免れないように思われる。

(3) 佐古自白の変遷

佐古の爆弾製造参加者に関する供述には、次のように不自然な変遷が見られる。

四八・二・一三付員面 増渕、村松、佐古、前原、原告堀。井上、国井らはいたかもしれない。計五名(ないし七名くらい)。東薬大メンバーは意識が低いので除外した。

四八・二・一五付I員面 増渕、村松、佐古、前原、原告堀のほか石井が参加、計六名。

四八・三・九付II員面 増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、菊井、国井及び石井。原告堀もいたかもしれない。計九名(ないし一〇名)。

以上のとおり、佐古の供述する参加者は、後の供述になるに従い、次第に数を増しているものである。時日の経過による記憶の希薄化を充分に考慮しても、これはいかにも不自然である。

(4) 導火線及び工業用雷管

<1> 接続作業の担当者は、佐古の自白によれば佐古と前原、前原の自白によれば菊井と原告江口、内藤の自白によれば佐古、増渕の自白によれば佐古と原告堀であるというのである。佐古が右接着作業を担当したということは自ら述べるところであり、内藤及び増渕の自白もこれに一致するが、佐古自白には次のような疑問がある。

<2> 佐古の自白によれば、導火線の先をほぐし、その中に雷管の先を押し込んでボンドで接着し、ガムテープを巻いて補強したというのである。しかし、本件ピース缶爆弾の雷管と導火線との接続状況は雷管の管口部に導火線が差し込まれているのであり、佐古の自白はこれと正反対であって、客観的事実と相違する。これは接続作業の最も基本的な部分であり、この相違を佐古の記憶の混同によるものと見ることはできない。また、佐古は、本件雷管と導火線の接続に際し接着剤が使用され、かつ、ガムテープが巻かれているという、異例な方法が取られていることまで述べているのであるから、佐古がそのような特徴的な状況まで述べながらなお基本的な部分についてことさら虚偽を述べたものと見ることにも疑問がある。仮に雷管と導火線の接続作業をした経験がある者がことさら虚偽を述べようとした場合でも、佐古の自白のような雷管と導火線の接続手順を思い浮かべるということはやや困難なようにも思われる。佐古が雷管についての十分な知識がなく、かつ、捜査官から本件の証拠物の導火線と雷管は接着剤で接続されガムテープが巻かれていることを断片的に聞き知った場合、前記自白のような接続手順が比較的自然に思い浮かぶのではないかとも思われるのである。なお、佐古の最初の自白によれば、「ダイナマイトの上に火薬を入れ、火薬に火がつくように導火線を取り付けた。ピース缶の蓋と導火線をブラブラしないようにボンドで固定した」というのであって工業用雷管について述べていないのであるが(四八・二・一三付員面)、雷管だけを隠す必要は見当たらず、疑問が残る。佐古はアメ文事件の取調べの際証拠物を見せられているが、同事件の爆弾には工業用雷管は使用されておらず、雷管は見せられなかったもので、そのことが佐古の最初の自白内容に影響しているのかも知れない(地刑九部判決五五三頁以下を略引用)。

(二) 被告都の主張

(1) 疎明資料

捜査官らが、ピース缶爆弾製造事件について捜査を遂げた結果、佐古の供述(昭和四八年一月二〇日付員面、同年二月一〇日付員面、同月一二日付メモ、同月一三日付員面、同月一五日付員面、同年三月九日付員面、同月一〇日付員面)、増渕の供述(昭和四八年二月一三日付員面、同月一八日付員面)、前原の供述(昭和四八年三月九日付員面)、村松の供述(昭和四八年三月八日付員面)及び内藤の供述(昭和四八年三月一〇日付員面)などが得られた。

(2) 捜査官の判断及び逮捕

捜査官らは、右捜査結果から、原告堀、同江口及び同前林につき、治安を妨げ、かつ、人の身体財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月一七日ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方佐古借用の部屋(河田町アジト)において、ピース缶爆弾一〇個を製造したという前記のピース缶爆弾製造事件の製造行為に加担していた嫌疑があって、爆発物取締罰則三条の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ、逮捕の必要性もあると判断して、昭和四八年三月一一日ころ、裁判官に対し逮捕状を請求し、そのころその発付を受け、同月一三日、原告堀、同江口及び同前林をそれぞれ同事件で通常逮捕した。

前記佐古らの供述は、具体的かつ明確なものであり、これらをもとに、原告堀、同江口及び同前林に対してピース缶爆弾製造事件を犯したと疑うに足りる相当な理由及び逮捕の必要性があると認めた捜査官の右判断は、極めて合理的かつ正当であり、令状請求の適法性判断基準に照らし、違法とされるべき事情は全く存在しない。

5  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

検察官が、ピース缶爆弾製造事件について、原告堀、同江口及び同前林に対する勾留請求の資料としたものは、佐古、増渕、村松、前原、内藤の各自白である。これらは、違法な別件逮捕・勾留中に得られた自白であり、かつ、違法な取調べによって得られた自白である。にもかかわらず、検察官は、これらの資料に基づいて各勾留請求を行った違法がある。

(1) 佐古の供述

佐古の供述は、取調べが長時間にわたり、かつ強制、誘導、切り違いなどの方法を駆使した違法な取調べにより得られた虚偽の供述である。また、右供述は違法な別件逮捕・勾留中に得られたものであって、この点からも、右供述をピース缶爆弾製造事件の勾留請求の根拠資料とすることは許されない。

右主張の詳細は、前記第三、二、2、(一)、(1)に述べたとおりであるから、これをここに引用する。

(2) 前原の供述

前原の供述は、いずれも長期の身柄拘束と、捜査官の誘導、押付けとこれに対する前原の迎合とに基づいてなされたもので、任意性、特信性に欠け、信用性がない。その詳細は、前記第三、二、2、(一)、(2)に述べたとおりであるから、これをここに引用する。

(3) 増渕の供述

取調官は、増渕の内妻であった原告前林の逮捕や起訴、別件で逮捕されていた知人石田や増渕の同房者であった檜谷らの虚偽自白などを恫喝の武器にして、増渕に虚偽自白を強要した。また、増渕に対する取調べは長期間、長時間にわたる極めて過酷なものであった。しかも、増渕の逮捕・勾留は、違法な別件逮捕・勾留であった。このような取調べによる増渕の供述には、証拠能力がなく、また、信用性もない。その詳細は、前記第三、二、2、(一)、(3)に述べたとおりであるから、これをここに引用する。

(二) 被告国の主張

(1) 疎明資料等

前記(ピース缶爆弾製造事件についての逮捕状請求の違法の項)のような捜査経過、逮捕状況の中において、佐古、前原、村松らは、警察官及び検察官に対し、原告堀、同江口及び同前林の右事件への関与を認める詳細かつ具体的な供述を続けており、その活動歴、革命思想、反権力意識の強固さからみて身に覚えのない犯罪への加功を認めるとは到底考えられない増渕さえも、関与の程度、内容はともかく、爆弾製造に加功したことを認めていた。

(2) 検察官の判断

原告堀らの送致を受けた検察官は、佐古、前原、村松らの供述には信ぴょう性が認められると判断し、送致を受けた者のいずれについても、ピース缶爆弾製造事件についての犯罪の嫌疑が存するものと認めた。そして、検察官は、右事件が、罪質からみて重罪であり、かつ、共犯者が多数で組織的犯行と認められる複雑な事案であり、原告堀らが実質的には否認していることなどを考慮し、昭和四八年三月一六日、罪証隠滅及び逃亡のおそれがあり、勾留の理由及び勾留の必要があるものと判断して東京地裁裁判官に対し、勾留を請求し、いずれもその請求が認められた。

このように、検察官は、佐古、前原及び村松の供述から、原告堀、同江口及び同前林について、ピース缶爆弾製造事件についての犯罪の嫌疑があり、罪証隠滅及び逃亡のおそれがあるとして、勾留の理由及び勾留の必要があるものと判断して勾留請求をしたものであり、そこに違法は存在しない。

6  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の起訴は、共犯者とされた者たちの各自白について、その重要な部分における相互の矛盾が著しいばかりか、佐古の早大正門前結集に関する供述、謀議場所、材料の調達、石井アリバイなどについての裏付捜査を怠っており、また、爆弾製造方法についての自白と証拠物との整合性についても検討していないなど、十分な捜査をしないで行った違法なものである。

また、原告江口、石井及び平野には、ピース缶爆弾製造事件に関してアリバイがあったのであり、さらに、京都地方公安調査局事件等の他のピース缶爆弾を使用した事件の記録、証拠の検討を行っていれば、ピース缶爆弾製造事件についても、同原告らを含む被疑者らが全く無関係な者であることが分かったはずであり、それにもかかわらずなされた原告堀らに対する起訴は違法である。

<1> 客観的事実との関連

検察官は、原告堀、同江口及び同前林に対し、昭和四八年四月四日、いわゆるピース缶爆弾製造事件について公訴の提起をしたが、右公訴提起の段階において、一連のピース缶爆弾事件とL研グループの関係を否定し、あるいは被疑者、被告人らの自白に反する客観的事実が数限りなく存在していた。

すなわち、右公訴提起時までに検察官が検討できた物的証拠として、八・九機事件爆弾、現場に設置されたアメ文事件爆弾、時限装置、段ボール箱等のあることはいうまでもない。また、ピース缶爆弾関連事件として、京都地方公安調査局事件、中野坂上事件、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件、中央大学会館事件などがあり、これら事件は爆弾の形状、材料等に照らし、ピース缶爆弾製造事件と何らかの関係がある一連の事件であり、真相解明に重要な手掛かりを与えるものであった。

検察官は、これらの物的証拠を検討し、右関連事件の捜査を行っていれば、ピース缶爆弾製造事件と原告らが全く無関係であることを了知し得たはずである。また、石井、原告江口、平野にはアリバイがあったこと、平野は身体に障害があり爆弾製造事件に参加することが非常に困難であったこと等の諸点は、検察官をして、極めて容易に、原告らが何らピース缶爆弾製造事件に関係がないことを了知せしめる事実である。

さらに、検察官は、ピース缶爆弾製造事件について、京都地方公安調査局事件との関連で製造日時の特定が事実認定に必要不可欠なのであるから、その日時特定の前提たる謀議場所とされた喫茶店「エイト」、同「ミナミ」の経営者からの事情聴取や営業日の調査が直ちに必要であったにもかかわらず、これらに思いをいたさず完全にこれを看過していた。

<2> 自白の問題性

(ア) 起訴時点において、物証に乏しく、事件と原告らとを結び付ける証拠が自白のみであり、かつ、前原、村松、佐古、内藤、増渕、石井及び原告江口の捜査段階における各自白は存したものの、これらの自白にはいわゆる秘密の暴露が全くなく、これを裏付ける客観的証拠も全くなかった。そして、それにとどまらず、数多くの自白は、一連のピース缶爆弾関連事件について、遺留された証拠物などの客観的証拠により検察官が起訴時点で知り、もしくは容易に知り得た事実に明白に反していたのである。

また、供述内容には重大な不合理な点あるいほ不自然な変遷があり、また、重要な事項について、相互に齟齬矛盾するなど看過し得ない諸点が多々存した。

これらの事実から、検察官は、容易に自白の信用性に疑問を呈し得ることができたにもかかわらず、これらに寄りかかり漫然と起訴をなしたのである。

地刑九部判決は、二三六頁において、自白の信用性につき、「事前に捜査官に判明しておらず、自白によって証拠物等の動かし得ない事実を証明する証拠が発見される等、自白が他の確実な証拠によって裏付けられるに至ったというもの(いわゆる秘密の暴露)はなく・・・重要な点において証拠物との不一致、内容の不自然さ、各供述相互の食違い、供述の変遷等が少なからず見られるのであって、各自白の信用性を判断するには慎重な検討が必要である」とし、さらに四二〇頁において、「アメリカ文化センター事件に関する佐古及び前原の各自白、八・九機事件に関する前原及び内藤の各自白の信用性には疑問があり、これら両事件に関する各自白はピース缶爆弾製造事件に関する各自白に先行するものであるから、同事件に関する佐古、前原及び内藤の各自白の信用性にも疑問を生じさせ兼ねないのである。そこで、佐古、前原及び内藤の同事件に関する自白にこれらの者のアメリカ文化センター事件、あるいは八・九機事件に関する自白と区別できるだけの高度の信用性が認められるかどうか、菊井の証言の信用性ほどうであるか、また石井らの自白の信用性はどうかなどの点につき、慎重に検討する必要があるといわなければならない。」としている。

また、地刑五部判決も二四一頁において、次のように述べている。「アメリカ文化センター事件に関する佐古、前原、村松及び増渕の各自白並びに八・九機事件に関する前原、内藤、村松及び増渕の各自白については、前記のとおりその信用性に多大な疑問があるところ、本件(爆弾製造事件)の各自白は、前記『自白の概況』から知られるように、右両事件に関する各自白よりも後の時点でなされたものである。このことは、本件の各自白の信用性を判断するにあたっては一段と慎重な態度が必要であることを意味するというべきであろう。そこで、右の各自白の内容を子細に検討し、あるいは逐一比較してみると、供述内容に軽視できない不合理な点あるいは不自然な供述の変遷があり、また重要な事項について相互に齟齬矛盾するなどの点が見られるのであって、その信用性については、結局、アメリカ文化センター事件及び八・九機事件の場合と同様、否定的に解さざるを得ないのである。」

したがって、検察官が、ピース缶爆弾製造事件の各自白の信用性を判断するにあたっては、一段と慎重な態度が必要であったことは明らかである。

右のとおり、検察官は、その有するリーガルマインドを正常に機能させ、原告らの自白の信用性につき重大な疑問を感得すべきであったのであり、本件起訴を断念しもしくは不起訴とすべきであった。

(イ) ピース缶爆弾製造事件の謀議に関する各自白は、いくつもの重要な点につき、相互に著しい不一致を示しており、検察官がその信用性を高く評価し、各自白の中でも基本的地位にあるといってよい佐古及び前原の各自白間でさえその不一致は顕著であるばかりでなく、右佐古及び前原の各供述は、その内容に看過し難い不合理な部分を含み、また供述経過にも不自然と思われる大きな変遷が認められるのであって、同一の犯行の謀議に関するものであるはずの各供述がこの程度にまで区々に分かれ、あるいは不合理な点、不自然さを含むことは、各自白の信用性を著しく減殺し、ひいては供述の対象である謀議の存在自体について強い疑いを抱かせるものである。

検察官は、自白の信用性につき重大な疑問を感じるべきであったのであり、右爆弾製造事件を起訴すべきでなかったことは明らかである。

(ウ) ピース缶爆弾の製造工程は、複雑ではなく、製造作業に携わったものでなければ製造工程を述べ得ないというものではない。ところで、製造作業の役割分担について各自白にはかなり相違が見られるが、他人の作業分担については記憶の混同も生じ得るところであろう。しかし、ダイナマイトを切断してピース缶に充填する作業及びパチンコ玉をダイナマイト中に埋め込む作業については、互いに担当者の名前を挙げるが、結局自分が右作業を担当した旨述べる者は一人もいない結果になっていて不自然であり、したがって、その作業の具体的状況についても詳細な供述は得られていない。また、自分が作業を担当した旨述べる者があって、作業の具体的状況について供述が得られているもののうち、導火線と工業用雷管の接続作業(佐古の自白)、塩素酸カリと砂糖の混合作業及びピース缶への充填作業(前原の自白)については各自白の内容に重大な疑問があり、ピース缶の蓋の穴開け作業(佐古及び前原の自白)については証拠物から認められる事実(バリ(めくれ)の処理)について自白中に説明がなく、かつ、自白の内容にも不自然さがある。その他の作業(導火線付工業用雷管をダイナマイト中に埋め込む作業、ピース缶の蓋をし、蓋と缶体とを接着する作業(前原だけが供述する)、ピース缶の外表面にガムテープを巻く作業)については作業内容自体も単純であり、簡単な供述が録取されているにとどまる。佐古及び前原はピース缶爆弾製造事件の取調べに先立つアメ文事件あるいは八・九機事件の取調べにおいてこれらの事件の証拠物を見せられ、また、これらの事件の取調べ等を通じ、本件ピース缶爆弾の構造については知識を得ることのできる状況にあったものであるが、前記の佐古及び前原の自白の疑問点は証拠物を見せられたことによって考えつくことが可能ではないと思われる部分に生じていることが指摘できる。

(エ) ピース缶爆弾の特徴として、缶内に塩素酸カリと砂糖の混合物が充填されているものがあるが、それは例外的で少数であること、ガムテープは青色と茶色のものが使用されており、証拠上判明したものについてはすべて導火線と工業用雷管の境界部に巻かれたガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に巻かれたガムテープの色に一致することを指摘できる。ところが前者については各自白は正反対であって、塩素酸カリと砂糖の混合物が充填されているのが原則であるかのような内容であり、後者についてはこれを説明するものは誰もおらず、二種類のガムテープを使用した旨述べる前原も導火線と工業用雷管の境界部にガムテープを巻いたことを述べないし、その自白の内容も必ずしも前記特徴にそうものとはいえない。

(オ) 内藤は、公判段階に至っても当初起訴事実を概ね認める態度をとったものであり、内藤の自白については検察官も信用性が高いものと評価しているが、右自白はピース缶爆弾の構造の基本にかかる爆薬及びこれに関連する事項について客観的事実と相違し、あるいは他の者の自白には見られない特異な内容のものとなっている。

(カ) 検察官が信用性に富むと主張する佐古、前原及び内藤の自白は、多くの疑問点があり、その信用性に疑問がある。

(あ) 証拠物との不一致等

(a) ピース缶爆弾の構造は複雑ではなく、製造手順も比教的容易に想像し得るものであり、佐古はすでにアメ文事件の取調べの際に同事件の証拠物(ピース缶空き缶、ピース缶の蓋、ダイナマイト、パチンコ玉七個、白色粉末、ガムテープ片等)を見せられ、前原はすでにアメ文事件及び八・九機事件の取調べにおいて両事件の証拠物(アメ文事件については佐古に同じ。八・九機事件についてはピース缶、ダイナマイト、パチンコ玉八個、ガムテープ五枚)を見せられて、証拠物について知識を得ていた。したがって、ピース缶爆弾の構造及び作業手順の大筋において、佐古及び前原の自白が証拠物と一致するのは当然である。ところが、佐古及び前原の自白は、右のように証拠物を見ただけでは直ちに知り得ない事項で、かつ、実際に作業を担当した者であれば誤るはずのない事項につき、客観的事実と相違する。導火線と工業用雷管の接続作業に関する佐古の自白、塩素酸カリと砂糖の混合作業に関する前原の自白、塩素酸カリと砂糖の混合物を充填した爆弾の個数に関する両名の自白がそうである。また、ピース缶の調達方法に関する両名の自白も客観的事実と相違する可能性が高い。ピース缶の蓋の穴の開け方については、前記証拠物を見ればドライバーのような鉄棒様のものを打ち込むなどして穴を開けたのではないかとの推測が可能である。前原の自白にこのことが端的現われている。ところが、鉄棒様のものをピース缶の蓋の穴に打ち込んだ場合どの程度のバリが発生するかは実際に作業をした者でないと容易には推測できない。爆弾のピース缶の蓋に開けられた穴には、バリを切断するなどして処理したものと未処理のものとがあるが、右穴開け作業を担当した旨述べる佐古及び前原は右のような点について全く説明していない。

(b) 佐古の当初の自白では雷管を使用したことを述べていないが、佐古がアメ文事件の証拠物を見せられた際に雷管を見せられなかったことも影響しているのかもしれない(なお、同事件の爆弾には工業用雷管は使用されていない。)。

(c) アメ文事件に使用されたガムテープは茶色であり、八・九機事件に使用されたガムテープは青色である。佐古の自白によれば製造の際に使用したガムテープは茶色で、前原の自白によれば茶色と青色の二種類であるというのであるが、佐古はアメ文事件の証拠物のみを見せられ、前原は両事件の証拠物を見せられたことが影響しているのかもしれない。また、本件各ピース缶爆弾の特徴として、導火線と工業用雷管の境界部に巻かれたガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に巻かれたガムテープの色に一致する点を指摘できるが、佐古も前原もこの点について全く説明していない。

(d) 内藤の自白は、爆弾の構造の基本である爆薬について証拠物と相違する。また、製造した爆弾の個数について述べるところが客観的に存在するとされた個数の半数余りにとどまる。

(い) 京都地方公安調査局事件との関係

佐古らの自白によれば、京都地方公安調査局事件に使用されたピース缶爆弾も佐古らが同一機会に製造したものの一個ということになる。そうだとすると、佐古、前原及び内藤のピース缶爆弾を製造した日に関する自白は、右事件の発生日時との関係で矛盾する可能性が強い。また、佐古らは右事件との関係について全く述べるところがない。

(う) 自白内容の不自然さ

佐古、前原及び内藤の自白によれば、間借りで狭い(四畳半と二畳の二間)河田町アジトに十数名の者が次々に集まり、約一〇名の者が部屋の中で製造作業をし、他の者はレポをするなどし、また、製造作業中にも同アジトにしばしば出入りがあったということになるが、参加者の数が本件爆弾製造作業に必要とは思われないほど多数であり、アジト内で製造作業をするのが窮屈すぎるばかりでなく、家主らの不審も招きやすく、また、参加者の一部の口から犯行が漏れる虞もあり、不自然さが残る。

また、佐古が述べるレポの方法、佐古及び前原が述べるピース缶の蓋の穴開け作業の状況は、人目を惹きやすく不自然さが残る。

(え) 各自白の相違

佐古の自白と前原の自白を比較してみると、謀議の場所、犯行に至る経緯(早稲田大学正門前集台の有無)、ピース缶空き缶入手の有無、パチンコ玉入手の日時、塩素酸カリ及び砂糖が河田町アジトに搬入された経緯、製造の際使用したガムテープの種類、完成した爆弾の処分などについて、記憶の混同では説明し難い相違が見られる(その他製造の際の各参加者の役割や謀議及び製造の際の参加者の一部についても相違が見られるが、これらの点については記憶の混同で説明することが可能である。)。

内藤は、製造作業当日に現場に居合わせて作業をしただけである旨述べるが、爆薬について客観的事実と相違する自白をしており、これに伴い作業状況についても佐古及び前原の自白と大きな相違が見られる。また、製造当日河田町アジトに行った際の状況について佐古の自白と相違する。

(お) 各自白の変遷又は動揺

佐古の自白は、爆弾製造を決意するに至る経緯、爆弾製造の目的、謀議場所、パチンコ玉の入手、製造に参加した者及び人数、自分の担当した役割、爆弾の構造について変遷又は動揺するが、いずれも記憶の不正確さや記憶の混同では説明し難いものである。

前原の自白は、パチンコ玉の入手、製造に参加した者及び人数、ピース缶の蓋の穴開けに使用した道具、完成した爆弾の処分について供述が変遷するが、記憶の不正確さや記憶の混同では説明し難いものである。

内藤の自白は、製造に参加した者及び人数、爆弾の構造について変遷するが、記憶の不正確さや記憶の混同では説明し難いものである。

(か) 右のとおり、佐古、前原及び内藤の自白は多くの疑問点があり、その信用性に疑問が生ずるものであるが、ここで視点を変え、検察官が最も信用性に富むと主張する佐古及び前原の自白について、両名の自白がピース缶爆弾製造事件の大筋においてどの程度一致しているかを見てみると、両名の自白は、昭和四四年一〇月一五、一六日ころ、住吉町アジトでL研独自の爆弾闘争としてピース缶爆弾を製造することが話し合われ、同所で導火線燃焼実験をし、そのころ両名で新宿ゲームセンターからパチンコ玉を入手し、翌日ころ河田町アジトにL研の者ら十数名の者が集まり、各自任務を分担してピース缶爆弾十数個を製造したとの大筋において一致する。しかし、右の程度の大筋において供述が一致したからといって、犯行に至る経緯(早稲田大学正門前集合の有無)、最も重要な材料であるダイナマイト、導火線及び雷管の調達の経緯、完成した爆弾の処分など大筋においても重要であると見られる点において供述が相違することに照らせば、直ちに佐古及び前原の自白を信用できるものとすることにはなお躊躇させるものがあるし、右一致すると見られる大筋の部分についても、パチンコ玉入手の経緯、製造参加者及び参加人数に関する佐古及び前原の自白並びに謀議の場所に関する佐古の自白は変遷が著しく、変遷を重ねた挙句ようやく概ねの一致をみたものであり(謀議の場所、パチンコ玉入手の日時についてはなお供述の相違があり、その他についても細部の供述の相違は残存している。)、製造日時については京都地方公安調査局事件の発生日時と矛盾する可能性が強く、河田町アジトにおける多人数による製造作業の状況にも不自然さが残るのであり、また、製造作業手順及び爆弾の構造の概要については自白に先立ち証拠物を見せられていて供述が一致するのも当然であるといえるから、結局右のような大筋において佐古及び前原の自白が一致するからといって、直ちに両名の自白を信用できるとすることは難しい。

(キ) 検察官が信用性が十分である、あるいは重要であるとはいえないと主張する増渕、村松、原告江口及び石井の自白

(あ) 増渕及び村松の自白は具体性において十分ではなく、塩素酸カリと砂糖の混合物を充填した爆弾の個数についても客観的事実と相違する可能性が強く、佐古らが説明していない特徴についても説明するところがない。また、原告江口の自白は極めて具体性に乏しい。

(い) 増渕、村松及び石井の自白についても、製造日時が京都地方公安調査局事件との関係で矛盾する可能性が強く、また、製造場所の河田町アジトが狭すぎる点で不自然さも残る。

(う) 石井の自白の中心はレポであるが、レポの方法に人目を惹きやすく、不合理かつ不自然な点が見られる。しかも石井が事件に関与しながらことさら虚偽を述べたものとは見難い事情がある。

(え) 増渕の自白は、犯行に至る経緯、謀議場所、導火線燃焼実験の有無、完成した爆弾の処分について、佐古、前原及び村松の自白と相違するし、完成した爆弾の処分については内藤の自白とも相違する。村松の自白は謀議の場所、導火線燃焼実験の時刻、パチンコ玉の調達担当者、完成した爆弾の処分について佐古及び前原の自白と相違する。

(お) 右のとおりであり、増渕、村松、原告江口及び石井の自白は、検察官も重視していないのであるが、前記の佐古、前原及び内藤の自白の疑問点を解消するに十分ではなく、信用性に疑問が残る。

<3> 以上のとおり、本件ピース缶爆弾事件に関与したとされた者らに関し、犯行と同人らを結び付ける客観的証拠は皆無であり、同人らの自白も全く措信し難く、しかも、石井及び原告江口については明白なアリバイも存在する。

検察官は、右の事実を虚心に直視せずして、一見して明らかに不合理不相当な判断をして本件の公訴提起をした。

十分な検討を怠り、員面調書を鵜呑みにした上、これに寄りかかって起訴に及んだという検察官の行為は、もはや適法な職務執行行為とは言えず、むしろ高度に違法性を有するものと目されるべきものである。

また、右のような起訴により原告らの身柄拘束を継続せしめ、その重大な法益を侵害した検察官には極めて重大な過失が存したというべきである。

(2) 原告ら及び共犯者らの各供述の信用性等

前項の公訴提起の違法の事由をさらに詳細に述べると次のとおりである。

<1> 爆弾製造の謀議場所及び参加者についての供述の不一致

ピース缶爆弾製造事件で共犯者とされた者たちの爆弾製造の謀議場所及び参加者に関する供述が一致しないことは不自然であり、検察官は、起訴時において、この点を解明すべきであった。

原告らを除く被告人らの謀議の場所及び参加者に関する供述は、次のようなものであった。

(ア) 佐古 若松町アジト(河田町アジトだったかもしれない。参加メンバーは増渕、村松、前原、井上、菊井、国井、石井及び佐古)及び住吉町アジト(参加メンバーは増渕、村松、前原、石井及び佐古)

(イ) 前原 住吉町アジトで、増渕、村松、井上、石井、佐古、菊井及び前原

(ウ) 村松 河田町アジトで、増渕、原告堀、前原、井上、佐古及び村松

(エ) 増渕 「ミナミ」で、増渕、村松及び井上

(オ) 内藤、石井及び原告江口はこの点につき供述していない。

地刑九部判決は、四四一頁において、「被告人らにとって初めての重大な体験であるはずのピース缶爆弾製造の謀議場所は極めて印象深い事項であり記憶の混同を来すということは通常考えられない」とし、また地刑五部判決も二四七頁において、「本件犯行についての謀議の場所及び参加者に関し、これに参加したとされる者らの供述が、このように一致せず、区々に分かれていることは、同一の事柄を経験したはずの者らの供述としてはまことに不自然であるといわざるを得ない。」と指摘しており、起訴時においてもこの点につき留意すべきは当然で、何としても解明すべきであったのである。

そうすれば同じような内容の謀議が何度も繰り返されるという不自然さが判明したはずである。

<2> 佐古の早大正門前集結に関する供述

佐古がピース缶爆弾製造事件の契機として述べる「早大正門前集結」については前原、村松及び増渕が何ら供述しておらず、佐古の右供述は、極めて不自然であり、ひいてはピース缶爆弾製造事件に関する佐古の自白全体の信用性を否定するものである。

佐古は、当初、ピース缶爆弾を製造するに至った直接の契機として、「一〇月一四日か一五日ころの夜八時ころ、赤軍派とともに、L研メンバー六名くらいと東薬大社研の平野が早大正門前に集結し、機動隊を攻撃しようとしたが、赤軍派が用意する予定の火炎びんが届かず、失敗に帰した」ことを挙げ、「その夜、若松町アジトに集まり、増渕を交えて総括をした結果、赤軍派に武器を頼っていては闘い抜けない。爆弾材料は入手済みであるので爆弾を作ろうとの提起がなされ、翌日の若松町アジト及び住吉町アジト謀議を経て製造に至った」と供述していた(四八・三・九付I員面、四八・三・二六付I検面、なお四八・二・一三付員面、四八・二・一五付I員面参照)。

佐古のこの点に関する供述は、その後やや不自然な変遷を重ね、早大正門前での集結と爆弾製造との結びつきが次第に薄められるに至る。

しかし、いずれにせよ、右終結の翌日にピース缶爆弾製造につき具体的謀議をしたとの点は何ら否定されておらず、その点の変動はないように思われ、佐古の自白によれば、右早大正門前集結が大きな節目となって製造謀議に至ったもの、すなわち、右集結と製造謀議とは極めて密接な関係にあると解してよい。

しかるに、前原、村松及び増渕の各自白には佐古が述べる右早大正門前集結の事実が述べられていないのである。

爆弾製造の契機(動機)は、極めて重要な事項であり、通常は印象深いものとして記憶されやすいと思われるが、佐古以外の者にほ、この点に関し自白がないことは極めて不自然である。

検察官は、起訴時において当然このことに気付くべきであったのである。

このことは、ひいては本件の謀議、さらには製造の事実自体に関する佐古の自白の信用性にも疑いをさしはさませるものというべきであろう。

地刑九部判決も、この点につき、四五八頁において「結局早稲田大学正門前集合の有無に関する前記各供述の相違には疑問が残り、この集合とピース缶爆弾製造の謀議とを密接なものとして述べている佐古の自白の信用性に疑問を抱かせる」と指摘している。

<3> 導火線燃焼実験

佐古、前原及び村松の住吉町アジトにおける導火線の燃焼実験に関する供述は、導火線の燃焼実験をした時間帯、参加メンバー、点火役、使用した導火線の長さ等について相互に相違しており、不自然さを免れない。

佐古及び前原は、住吉町アジトにおける謀議の際、導火線の燃焼実験を行った旨供述し、村松は、河田町アジトにおける謀議後、住吉町アジトにおいて導火線の燃焼実験を行った旨述べるのに対し、増渕はこの点について供述していない(佐古の四八・三・二六付I検面、二・一五付I員面、三・九付I員面、前原の四八・三・九付員面、三・一一付員面、三・一六付検面、三・二八付検面等。村松の四八・三・一八付員面、三・二四付検面等)。

また、導火線燃焼実験をした時間帯について、佐古及び前原が昼間と供述するのに対し、村松は夜であったと述べる。村松は、河田町アジトに赴き右実験をしたとしており、その点では佐古の中間自白とほぼ符合するが、佐古の最終自白及び前原自白と一致せず、かつ、村松は住吉町アジトで謀議をしていないとする点で、佐古及び前原と大きく相違する。

参加メンバーについて、佐古及び村松は一致するが、前原は、菊井を加える。実験の方法につき、点火役を、佐古は佐古自身、村松及び前原はいずれも村松及び前原と述べる。

また、使用した導火線の長さについて、佐古及び前原は一〇センチメートルくらいと述べるのに対し、村松は一〇センチメートルくらい、七センチメートルくらい、五センチメートルくらいの三種類と供述する。

これらの供述の相違は、各人の記憶の混乱によるものとも考えられないでもないが、それにしても同一の事象についての真摯で正確な供述というには余りにも食い違う点が多く、不自然さを免れないように思われる。

<4> 爆弾製造(謀議)の日時

製造の謀議及び製造の日時についての原告堀らを含む被疑者らの供述は一致せず、京都地方公安調査局事件との関係や石井アリバイとの関係等を考慮すれば、被疑者らが爆弾を製造することができた日時がないことに帰し、この点からも各被疑者の供述が信用できないにもかかわらず、検察官はこれを看過して漫然とピース缶爆弾製造事件を起訴した。

(ア) 起訴の段階において、検察官は、製造日時を特定し得ていない。「昭和四四年一〇月一六日ころ」と極めて曖昧にしか特定することができなかったのである。

検察官が、爆弾製造に多人数が参加したと主張しながら、製造日を何ら特定できなかったということの中に、「砂上の楼閣」性が如実に示されていた。爆弾製造が仮に行われたのであれば、それは、各人にとって印象深いものであり、記憶に残るはずである。しかし、右爆弾製造事件において、自白が全く一致せず、曜日すら特定できなかったのである。

各人の自白は、次のとおりである。

佐古 一〇月一五日か一六日ころ謀議し、翌一六日か一七日ころの午後一時ころから午後五時ころにかけて製造。

前原 一五日ころ謀議し、一、二日後の一六日か一七日ころの昼ころから午後五時ころにかけて製造。

村松 一四日ころ謀議し、翌一五日の午後一時ころから午後四時にかけて製造。

増渕 一六日に謀議し、翌一七日正午過ぎころから午後五時ころにかけて製造。

内藤 謀議には不参加。一五日か一六日午後二時ころから製造、終わったときは薄暗くなっていた。

石井 謀議には不参加。製造は一七日か一八日と思うが根拠はない。一六日だったかもしれない。昼過ぎから午後五時半から六時ころにかけてであった。

原告江口 謀議については述べない。二一日の直前ころの夜製遣。

(イ) 検察官は、ピース缶爆弾製造の日を、「昭和四四年一〇月一六日ころ」として起訴した。

ところで、京都地方公安調査局事件との関係からすると、ピース缶爆弾は、一〇月一五日以前に製造されたと考えざるを得ない。

さらに、石井アリバイの検討結果によれば、右期間中、石井が昼過ぎから夕方まで河田町アジト近辺で製造当日の「レポ」に従事できたのは、九日、一〇日、一一日午後、一二日の四日間に限られることとなり、製造参加者とされる原告江口のアリバイ(九日及び一五日)によって、右のうち、九日も除外しなければならない筋合いである。また、九日は、巣鴨駅前派出所及び池袋警察襲撃のため、L研の者たちが巣鴨、池袋付近に参集していた日でもある。

したがって、製造可能日として残されるのは、一〇日、一一日午後、一二日となるが、これらは各自白と大きくかけはなれている。

結局、検察官は、当時収集可能であった資料を何ら収集せず、また、各供述を検討することなく、製造日も全く特定することができなかったにもかかわらず、漫然と起訴したのである。

<5> 爆弾製造の参加者等

犯行は武装闘争のための爆弾の製造という非合法行動であって、性質上、極秘裡に行われるべきものである。したがって、これに参加する者は、信頼のおける最小限度の者に限られるべきであろうが、増測らが、その当時、例えば内藤や石井に対して、それほどまでの信頼感を抱いていたとは考え難い。しかも、本件のピース缶爆弾は、比較的簡単な構造のものであるから、その製造に多くの人数を必要としたとも考えられない。加えて、河田町アジトは、単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳で、家主の使用する部屋とは壁、襖で仕切られているだけであり、十数名の者が全員入り込んで増渕らの説明を受け、そのうち一〇名近くの者が残留し木箱や爆弾材料あるいは器具等を傍らに置いて爆弾の製造作業に従事するだけの余地があったかどうか疑問である。また、十数名の者が集合し、何名かの者が出たり入ったりするということになれば、家主の不審を招くおそれが大である。爆弾製造作業としては、余りにも密行性を欠いたやり方であり、非現実的な安直な発想によるものと断ぜざるを得ず、その場で発覚しなかったことが、むしろ奇異に思われる。それ故に、検察官は、原告堀らを含む参加者各人の供述の信用性につき当然疑問を持つべきであり、起訴すべきではなかった。

(ア) 自白の概要

佐古 増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、原告江口、同前林、同堀、内藤、菊井、国井、石井(四八・三・二六付I検面)。

前原 増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、原告江口、同前林、菊井、石井。内藤、原告堀もいたと思うがはっきりしない。国井、元山、富岡は参加せず(四八・三・二八付検面)。

村松 増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同前林、同堀、内藤。国井もいたと思うが、はっきりしない。菊井、平野、石井はいなかったと思う(四八・三・二四付検面)。

増渕 増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同前林、同堀、内藤、国井、石井。平野も参加したように思うがはっきりしない(四八・三・二三付検面)。

内藤 増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、原告江口、同前林、同堀、内藤、菊井、国井、石井。富岡、元山についてははっきりしない(四八・三・一九付検面、四八・三・二三付検面)。

石井 増渕、佐古、前原、井上、平野、原告江口、内藤、国井、石井、元山、富岡。村松は当日見ていない。原告堀及び同前林も見ていないが、参加していたかどうかは分からない(四八・四・三付検面)。

(イ) 自白の合理性の欠如

まず、事は、いわゆる「武装闘争」のための手製爆弾の製造という非合法行動であって、性質上、極秘裡に行われるべきものであることは言うまでもない。したがって、これに参加させる者は、発覚を厳に防ぐためにも、秘密を漏らす虞のない、信頼のおける最小限度の者に限られるべきであろう。しかるに、首謀者とされる増渕らが、その当時、例えば内藤や石井に対して、それほどまでの信頼感を抱いていたとは甚だ考え難い。しかも、本件ピース缶爆弾は、比較的簡単な構造のものであるから、その製造工程が複雑であったはずはなく、右のような者まで参加させなければならないほどに多くの人物を必要としたとも考えられない。加えて、爆弾の製造場所と主張される河田町アジトは、独立家屋とか外部と遮断された堅固なアパートの一室とかでなく、単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳の続き間で、当時、同アジトに置かれていた長机、本棚等の占めるスペースを除けば、実質は五・五畳程度に過ぎず、その上、家主の使用する部屋との境は壁一枚、一部は襖一枚で仕切られているだけであった。そして、検察官の主張するところによれば、そのような狭い場所に、製造作業開始前十数名の者が全員入り込んで増渕らの説明を受け、その後、屋外に出たというレポ担当者らを除いても、一〇名近くの者がそのまま残留し、右室内に裏返したパン運送用の木箱や爆弾材料あるいは使用する器具等を置いて、薬品の調合、ピース缶への充填等の製造作業に従事したということになるのであるが、いかにも窮屈であって、果たして、そのような作業をするだけの余裕があったかどうかすら心もとないように思われる。また、このような間借り人の部屋に十数名の者が集合し、何名かの者が出たり入ったりするということになれば、当然家主の不審を抱く虞が大である。

もし、真実このような形で本件犯行が実行されたのであれば、爆弾製造作業としては、余りにも密行性を欠いたやり方であり、非現実的なまでに安直な発想によるものとせざるを得ず、その場で発覚しなかったことが、むしろ奇異にすら思えるのである。これは、各自白の信用性に対し、重大な疑義を投げかけるものである。

また、平野は参加者とされているが、平野は、身体障害のため、座って作業するには背中を壁等の固定物にもたれかからせた上、足を前方に投げ出し、しかも身体の正面間近に座卓を引き寄せてその上で作業するという特異な姿勢を保持しなければならないが、この点に関し、誰も供述していない。

したがって、検察官は、自白の信用性につき当然疑問を持ち起訴すべきではなかったのである。

<6> 平野及び内藤が河田町アジトに来た状況

爆弾製造当日、平野、内藤が河田町アジトに来た状況についての佐古、内藤及び石井の各供述は、相互に食違いがあり、いずれも信用性がない。

また、佐古、内藤、石井らの相互に会った場所についての供述にも不一致がある。

佐古、内藤及び石井の右の点に関する供述は、次のとおりである。

佐古 爆弾の製造を開始して一時間くらいして後、レポとの連絡のため、外に出たところ、パン屋のところ(四八・四・一付員面によれば、パン屋横の路地の中)で、平野と内藤が来るのに出会った(四八・三・三〇付I検面)。

内藤 平野とともに河田町アジトに赴いたところ、同アジトに入る路地(四八・四・二付II員面によれば、佐古の居室の東側窓付近)で菊井と国井に会い、同アジト入口付近(同員面によれば玄関前)で佐古に会った。その後、室内で増渕から説明があり、製造作業が始まった(四八・三・二八付横面)。

石井 佐古の指示でパン屋の角に立ってレポをしていると、午後一時ころ増渕が来て、その後間もなく平野と内藤が来た(四八・四・三付検面)。

右に見るとおり、佐古及び内藤の供述は、二人が出会ったこと自体については一致しているものの、出会った場所及び出会った時点(すなわち製造作業の開始との時間的先後関係)が相違し(とくに後者が重要視される。)、また、内藤供述は、途中石井と出会ったとは述べない点で石井供述と食い違う(内藤は、河田町アジトに入ってから後、石井が室内に入って来たと述べる。内藤の四八・三・二八付検面)。右三名の供述はいずれも具体的かつ明確であって、記憶の希薄化あるいは混同を思わせる表現は見られない。

<7> 爆弾製造参加者に関する佐古供述の変遷

佐古の供述する参加者は、後の供述になるに従い、次第に数を増し、当初五名ないし七名くらいと供述していたものが、最終的には一三名と約二倍に達しており、不自然である。

佐古の右参加者に関する供述には、次のように不自然な変遷が見られる。

四八・二・一三付員面 増渕、村松、佐古、前原、原告堀。井上、国井らはいたかもしれない。計五名(ないし七名くらい)。東薬大メンバーは意識が低いので除外した。

四八・二・一五付I員面 増渕、村松、佐古、前原、原告堀のほか石井が参加、計六名。

四八・三・九付II員面 増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、菊井、国井及び石井。原告堀もいたかもしれない。計九名(ないし一〇名)。

四八・三・二六付I検面 増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同堀、菊井、国井及び石井の計一〇名。原告前林はわからない。

四八・三・三〇付I検面 平野、内藤及び原告前林も参加、計一三名。

四八・四・一付検面 同右

右のとおり、佐古の供述する参加者は、後の供述になるに従い、次第に数を増し、当初五名(ないし七名くらい)と供述していたものが、最終的には一三名と約二倍に達しているものである。時日の経過による記憶の希薄化を充分に考慮しても、一三名のうち六名ないし八名もの存在を忘失し、また想起するというのはいかにも不自然であるばかりか、その想起の具体的なきっかけは明らかではない。

<8> ダイナマイト、工業用雷管及び導火線

(ア) ダイナマイト、工業用雷管及び導火線の入手先に関する村松、増渕及び佐古の供述は、村松が早稲田アジト(東京都新宿区西早稲田所在(早稲田大学正門付近)の某食堂二階の借間)からダイナマイト等を持って来たとの点で一致しているが、前原の供述は、住吉町アジトでの謀議の際村松が整理ダンスからダイナマイト、雷管、導火線を出して見せ、どこかで盗んで来たようなことを話していたというのであり、前者と大きく相違する。ダイナマイトの入手先という極めて重要な事項に関し、曖昧な供述しかないのは不自然であり、かつ、何の裏付けもないことは、捜査の杜撰さを意味する。検察官は問題点を点検し、ピース缶爆弾製造事件の起訴を取りやめるべきであった。

(イ) 村松の供述は、「製造前日河田町アジトにおいて新聞紙包みを開いてダイナマイト等を見たが、その場には増渕、前原、佐古、井上、原告堀も同席した。」というのであるが、増渕及び佐古は製造日より前にダイナマイト等を見たことを述べていない。

(ウ) 前原の供述は、「住吉町アジトでの謀議の際、ダイナマイトを見た、そのダイナマイトの数は約一〇本であるが製造当日には数が増えていた。」というのであり、他の者の供述と相違する。

(エ) ダイナマイトの入手先に関する増渕の供述は、「前田から青梅方面の火薬庫からダイナマイトを盗むのでL研から兵隊を出してほしいとの依頼を受け了承した。その後前田からダイナマイトを入手した旨聞いた。」というのであるが、具体性に欠け、裏付けもない。

(オ) ダイナマイトの入手先に関する佐古の供述は、増渕の供述に近いところがあるが具体性に欠ける面があり、また、増渕がダイナマイトの盗み出しに参加している旨を述べている点で、増渕の供述と相違する。

<9> ピース缶についての佐古及び前原の供述

八・九機事件、アメ文事件、中野坂上事件、福ちゃん荘事件及び中央大学会館事件にかかるピース缶爆弾のうち八個については、ピース缶番号が判明しているところ、うち五個が「9S171」、二個が「9T211」、他の一個が「8W281」であって、右缶番号が同一の五個及び二個はそれぞれ同一の日に製造されたものであり、かつ、前原と一緒に東薬大でピースの空き缶一、二個を入手した旨の佐古の供述と、ピースの空き缶を探したが一個も見つけられなかった旨の前原の供述には相違点がみられるのであるから、各人がピースの空き缶を持ち寄ったとする佐古らの供述につき、検察官は疑問を持って検討し、起訴すべきではなかった。

<10> パチンコ玉についての佐古及び前原の供述

ピース缶爆弾に充填したパチンコ玉の入手場所については、パチンコ玉が爆弾製造に用いるものであり、かつ、入手先とされた新宿ゲームセンターが比較的特徴のある場所に位置していることから考えると、おおよその所在位置についての記憶が残るのではないかと思われるので、佐古の供述の変遷を、次第に記憶を喚起していく過程とみることには疑問がある。佐古の引当たり前の供述は客観的事実と全く相違していた。入手する際同行した者についての供述の変遷についても同様である。検察官が佐古の供述の変遷等に注意を払わなかったのは全く不可解である。

また、パチンコ玉を入手した日時及びパチンコ玉の具体的な入手状況に関する佐古と前原の最終的供述は大きく相違しており、これは、事柄の重要性を考えれば、単なる記憶の混同によるものとみることはできない。

(ア) パチンコ玉を入手した日時について、佐古の供述は製造日の午前中というのであり、前原の供述は導火線燃焼実験の当日か翌日の夜(四八・三・二九付員面)というのであって、大きく相違する。この相違を記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。なお、前原は導火線燃焼実験をした日は爆弾製造の前日ころと述べるが、この点は供述に動揺があり明確ではない。

佐古の供述は、パチンコ玉を入手した者、入手した日、入手したパチンコ店につき変遷が著しい。

四八・二・一三付員面 製造当日の午前中急に思いつき、村松か前原が河田町アジトの近所のパチンコ店で入手した。

四八・三・九付員面 製造前日村松の提案により、村松と一緒に住吉町アジトから徒歩二〇分くらいで明治通りと大久保通りの交差点の角にある店に行き、二〇〇円で玉を買い、二人で分けて持ち帰った。村松は少しはじいたかも知れない。一〇〇個くらい持ち帰った。

四八・三・二六付検面 製造前日村松の提案により、村松と一緒に河田町アジトから徒歩二〇分くらいのところにあるパチンコ屋に行き、村松が玉を一〇〇個くらい買って二人で半分ずつ分けて持ち帰った。

四八・四・二付引当たり報 前原と新宿ゲームセンターに行きパチンコ玉を入手した(三月三一日引当たり実施)

四八・四・一付員面 製造日の午前中、河田町アジトから前原と新宿三越裏の新宿ゲームセンターにバスで行き、一〇〇円ずつ玉を買い、持ち帰った。前原は少しはじいたのかも知れない。

四八・四・二付検面 製造前日村松と一緒にパチンコ玉を買いに行き、さらに製造当日の午前中前原と新宿のパチンコ店に行ってパチンコ玉を買ってきたように思うが、村松と一緒にパチンコ玉を買いに行ったことは記憶違いかも知れない。

四八・四・一七付検面 パチンコ玉は前原と買いに行ったというのが正しい。

右のとおりであり、引当たり前の供述内容はパチンコ玉を入手したパチンコ店につき客観的事実と大きく相違する。爆弾に使用するためのパチンコ玉を入手した場所であり、かつ、新宿ゲームセンターは新宿三越の裏通りという特徴のある場所に位置していることから考えると、比較的記憶に残りやすく、店名や店の正確な位置について記憶が希薄化することはあり得るが、おおよその所在位置については記憶が残るのではないかと思われる。右のような供述の変遷を佐古が次第に記憶を喚起して行く過程と見ることには疑問がある。また、佐古がパチンコ玉を入手した店を隠さなければならない理由も特に見当たらない。佐古がことさら虚偽を述べたとの可能性についても、パチンコ玉の出所は刻み込まれたマークを手掛かりにした捜査により判明しているであろうことは佐古にも容易に知り得ることと思われるので、ことさら虚偽を述べても捜査攪乱の実効性に乏しく、仮に当初捜査官の反応を見るためことさら虚偽を述べるようなことがあっても、ピース缶爆弾製造事件を認め、詳細な供述をしている佐古が約五〇日後に行われた引当たり捜査に至るまで言い逃れを続けるというのもやや考え難い。したがって、佐古がことさら虚偽を述べている可能性を全く否定することはできないにしても、その可能性は低いと考えられる。

次に、パチンコ玉を入手する際誰と一緒にパチンコ店に行ったのかということも比較的記憶に残りやすい事項と思われる。佐古は当初村松と一緒に行った旨述べ、その後曖昧ながら村松と行き、さらに前原とも行った旨供述を変更し、最終的に前原と行ったとの供述に落ち着くのであるが、これを佐古の記憶が喚起されていく過程と見ることには疑問がある。佐古の昭和四八年四月一七日付検面によれば、村松とパチンコをしに行ったことがあったので勘違いをしたというのであるが、佐古は製造前日村松の提案により村松とパチンコ玉を買いに行った旨述べているのであって、勘違いと見ることには疑問がある(なお、前記四八・四・二付引当たり報(謄)には、佐古が好永巡査部長から新宿ゲームセンターには遊びに来たのか爆弾のパチンコ玉を買いに来たのかとの質問を受けたのに対し、私はパチンコはやらないし、前原と来たのはピース缶爆弾の時に玉を買いに来たという以外にはパチンコ店に来ていないと答えた旨の記載があることに照らしても、佐古の右勘違いには疑問がある。)。

(イ) 前原も、当初パチンコ玉を入手したパチンコ店についてこれを特定する供述をしなかった。前原は、当初千駄ヶ谷にあるパチンコ店と供述し、あるいは新宿か四谷か千駄ヶ谷にあるパチンコ店と供述し、昭和四八年三月一一日付員面では、「どこのパチンコ店か思い出せないが、河田町アジトからそんなに遠いところとは思えない。」と述べ、同月一六日付検面では、「新宿駅近くのパチンコ店のように思うがはっきりしない」と述べ、同月二八日付検面では新宿のパチンコ店である旨述べて所在位置について略地図を作成するが、新宿通りを挾み新宿ゲームセンターとは反対側の位置を図示し、同月二九日付員面では、「新宿駅近くのパチンコ店で入口が二か所ある店」と述べ、翌日の引当たりにおいて新宿ゲームセンターである旨特定するに至ったものである。

佐古について述べたのと同様、右のような供述の変遷を前原が次第に記憶を喚起していく過程とみることには疑問がある。また、右引当たり捜査についても、前原はアメ文事件の取調べを通じて本件パチンコ玉の出所が新宿ゲームセンターであることを知りながら引当たりに臨んでおり(前記引当たり報によれば、引当たり捜査実施担当者の若松巡査部長が前原に対し、「君は前に文化センターの事件で使われたピース缶爆弾の証拠品を見せられた際に、パチンコ店の名前を知ったようだけど、名前を気にしないで君が本当にパチンコ玉を集めた店を思い出した時は正直に話してもらいたい」旨申し向けたとの記載がある。)、右引当たり捜査の結果を高く評価することはできない。

前原は、当初千駄ヶ谷にあるパチンコ店と述べた理由につき、捜査官からアメ文事件の証拠物を見せられたときに証拠物の一覧表があって、そこに「新宿ゲームセンターの支配人、渋谷区千駄ヶ谷云々」との記載があるのを見ていたので、新宿ゲームセンターが千駄ヶ谷にあるものと勘違いして述べたものである旨弁解するところ、新宿ゲームセンターの支配人がSGCマークのパチンコ玉を警察に任意提出しており、同人の住所が(東京都)渋谷区千駄ヶ谷五―一五―一四であることが認められることに照らせば、前原の右弁解は直ちに排斥し難いところがある。

検察官が、右佐古の供述の変遷等に注意を払わなかったのは全く不可解である。

<11> 塩素酸カリウムについての佐古、増渕、前原、内藤の供述

塩素酸カリウムの入手状況に関する佐古及び増渕の供述と前原の供述、内藤の供述には相互に不一致があり、各供述は信用性がない。

佐古の自白によれば、塩素酸カリウムは製造日の四、五日前に村松がリュックサックに入れて河田町アジトに持ち込んだもので、砂糖は前から河田町アジトにあったが、さらに製造途中に自分が近くの店で買ったというのであり、前原の自白によれば、「塩素酸カリウムは製造作業開始後間もなく平野が持って来たように思う。砂糖は江口が持って来たように思う」というのであり、また、増渕自白によれば塩素酸カリウムは村松が法政大学から盗んで保管していたものであるというのである。なお、内藤の自白によれば、製造当日平野が薬品びん二本を持って行ったが増渕がそれを見てピクリン酸だと言ったというのである。

右のとおりであり、増渕の自白が佐古の自白に一致すると見ることができるほかは大きく相違する。砂糖についてはともかく、劇薬である塩素酸カリウムの調達につき右のように自白が相違することには疑問がないではない。もっとも被告人らは昭和四四年一〇月当時塩素酸カリウムを使用した触発性火炎びんを製造することもあったのであるから、塩素酸カリウムの調達についてもあまり印象に残らず記憶が希薄化していたところ、捜査官から具体的に供述するように求められて推測を交えて適当に供述したため前記のような相違が生じたということもあるかも知れない。

爆弾材料の主要なもののひとつである塩素酸カリウムの入手状況について各自白間にこのような重大な違いが存していたのであるから、検察官は、これらの自白の信用性に疑問を抱くべきであったのである。

検察官は、自白調書のチェックを何らしないまま、漫然と起訴をした疑いが極めて強い。

<12> ガムテープの使用等

(ア) ピース缶爆弾には、茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されているが、右二種類のガムテープが使用されたと述べるのは前原だけであることには疑問があり、また、佐古及び前原は、茶色のガムテープにつき河田町アジトにあったとする点で一致しているが、青色ガムテープにつき入手先を述べておらず、村松の供述は佐古、前原の供述と相違し、増渕の供述はビニールテープを使用したという点で客観的事実に合致しない。

さらに、ピース缶爆弾の導火線と工業用雷管の結合部に巻きつけられたガムテープの色は、いずれも缶体そのものに巻かれたガムテープの色と一致しているところ、二種類のガムテープを使用したとする前原の供述は、証拠物の状態にそぐわず、真実性に乏しい。

検察官がこれらの点を看過し、起訴したことは職務の懈怠である。

(イ) 本件ピース缶爆弾の外表面及び導火線と雷管の境界部にガムテープが巻つけられており、そのガムテープには青色と茶色の二種類のものがある。そこで、さらに検討してみると、中野坂上事件のピース缶爆弾三個のうち外表面に茶色のガムテープが貼りつけられているもの一個の導火線と雷管の境界に巻きつけられているガムテープの色もまた茶色であること、中野坂上事件のその余の二個及び八・九機事件のピース缶爆弾一個の外表面にはいずれも青色のガムテープが貼りつけられているが、これらの爆弾の導火線と雷管の境界部に巻きつけられているガムテープもまたいずれも青色であることが認められる(なお、八・九機事件のピース缶爆弾には茶色ガムテープの小片もいずれかの部分(おそらく外表面)に貼りつけられていた。また、外表面に貼りつけられたガムテープの色が確認できた五個の他のピース缶爆弾(茶色のもの三個、青色のもの二個)については、証拠が十分保全されていないために導火線と雷管の境界部に巻かれているガムテープの色が当該ピース缶爆弾の外表面に貼りつけられているガムテープの色と同一かどうかは不明である。)。前原の自白によれば、「ダイナマイト及びパチンコ玉を充填したピース缶一五個ぐらいに塩素酸カリと砂糖の混合物を入れ(一部不足して入れなかったのもあるかも知れない)、その後ほぼ全員で導火線付工業用雷管をピース缶の中央部に埋め込み蓋をし、ガムテープを巻きつけた。ピース缶の外表面にガムテープを巻いた際青色ガムテープが不足したので、一部につき茶色ガムテープを使用した」というのであり、そうだとすると、外表面に貼りつけられたガムテープの色が確認できたピース缶爆弾九個のうち、その中に埋められた雷管と導火線の境界部に巻かれているガムテープの色が確認できた四個全部について、右境界部に巻かれたガムテープの色がいずれも当該ピース缶の外表面に貼りつけられたガムテープの色と一致するというのはいささか偶然過ぎて不自然さが残る。

<13> 爆弾の構造及び添加物に関する内藤の供述

ピース缶爆弾の構造に関する内藤の供述は、客観的事実と大きく相違しており、検察官は当然内藤の供述の信用性につき疑問を感ずるべきであった。

(ア) ピース缶爆弾の基本的構造は、次のとおりである。

(あ) 八・九機事件で用いられた爆弾

缶入ピースの煙草の空き缶にダイナマイト約一九七グラムを充填し、右ダイナマイトのほぼ中央に工業用雷管に導火線を差し込み、接着剤で接着し、管口部付近に青色粘着テープの小片を巻き付けて固定したものを埋め込み、更にその周囲のダイナマイト中にパチンコ玉八個を埋め込んだもので、ピース缶の蓋のほぼ中心部に開けられた円形の穴から右導火線がピース缶の外に出ており、ピース缶の蓋及び缶体の概ね全面に青色粘着テープを張り付けたものである。

(い) アメ文事件で用いられた爆弾

缶入ピースの煙草の空き缶にダイナマイト約一九五グラムを充填し、ダイナマイトの中心に、管体の周囲にニトロセルローズ系の接着剤を塗布した電気雷管一本を、その周囲のダイナマイト中にパチンコ玉七個を、それぞれ埋め込み、右ダイナマイトの上に、塩素酸カリウムと砂糖の混合物を入れたもので、ピース缶の蓋の中心部に開けられた円形の穴から電気雷管の赤色及び赤白色の脚線がピース缶の外に出ており、脚線の電気雷管の管口部付近からピース缶の蓋の穴に接触するあたりまでの部分にガムテープが巻き付けられ、かつ、右穴の周囲にはポリ酢酸ビニールを主成分とし、これに炭酸カルシウムと少量の酸化チタンなどを充填剤として加えた灰白色様の接着剤が塗布されており、ピース缶の蓋全体を覆うようにガムテープが貼り付けられている。

八・九機事件の爆弾と比較すると、雷管の種類及び塩素酸カリウムと砂糖の混合物の添加の有無を除き基本構造は同一である。

(イ) 内藤の爆弾の構造に関する供述は、次のとおり、特異なもので、客観的事実と大きく異なる。

四八・三・一〇付員面 ピース缶に薬品を混合したものを注入した。

四八・三・一九付検面 褐色のブヨブヨした糊様のもの及び二種類の薬品を混合したものを詰めたと述べ、爆弾の構造図として第一図を作成。

四八・三・二〇付員面 茶褐色の粘土状のものと混合薬品を入れたと述べ、爆弾の構造図として第二図を作成。

四八・三・二一付員面 (河田町アジトに行ったところ、)ピース缶が七、八個置いてあり、そのうちの一、二個には既にダイナマイトが充填されていた。増渕が、「缶の中にダイナマイトを入れ、殺傷能力を高めるためにパチンコ玉を入れる」旨爆弾の構造を説明した。

四八・三・二二付員面 ピース缶の中に褐色の糊状のものを半分くらい入れ、ダイナマイトを切ってその中に埋め込み、混合薬品(白色粉末)を入れたと述べ、爆弾の構造図として第三図を作成。

四八・三・二三付検面 ブヨブヨした糊様のものがダイナマイトかどうかわからない。

四八・三・二五付員面 ダイナマイトは紙を剥がして充填した。糊状のものは何かの薬品に液体の薬品を加えて作り上げたものである。爆弾の構造図の第二図と第三図は異なるが、どちらが正しいかはわからない。

右のとおりであるが、ダイナマイトは、微黄色で、固さなど糊よりもはるかに固く羊羮に近い感じのものであるから、内藤が供述する褐色のブヨブヨした糊様のものはダイナマイトとは色、形状とも異なる。

内藤のこのような供述態度を見れば、内藤はピース缶爆弾の構造を何ら知らないことが明らかである。

検察官は、内藤のこの客観的事実に全く反する供述を見れば、当然供述の信用性につき疑問を感ずるべきであったのである。

<14> ダイナマイトの切断と充填の担当者

ダイナマイトの切断と充填の担当者については、関係者の各供述の内容が大きく相違し、自分が右作業を担当したと述べる者はなく、不自然である。

佐古が、村松がピース缶にダイナマイト四本くらいを詰め込んだと供述していながら、ダイナマイトを切断した状況について述べていないのは、客観的事実と相違する。

各人の供述からパチンコ玉をダイナマイト内に充填する作業を担当した者を確定し難く、かつ、自分が右作業を担当したと自白する者は一人もいない。

(ア) 検察官が信用性に富むと主張した内藤の自白は、ダイナマイトの形状と異なる物をピース缶に詰めたと供述し、また、この点に関する自白も変遷が著しく、全体として特異な供述内容となっている。

ダイナマイトを切断しピース缶に詰める作業をした者にとっては、自分が右作業をしたかどうかは記憶に残りやすいものと思われる。しかし、この点について作業を担当した者として佐古は村松、菊井、平野及び内藤と、前原は増渕、村松、原告江口及び菊井と、村松は増渕、佐古、原告掘及び同江口と、増渕は村松及び前原と、内藤は増渕、原告掘及び同江口とそれぞれ供述し、自分が右作業を担当した旨述べる者は一人もいないのであって不自然である。

(イ) 佐古の自白によると、ダイナマイトの油紙を剥がし、四本くらいがピース缶に詰め込まれたというのであり、ダイナマイトを切断した状況を述べていないが、各ピース缶爆弾は一本のダイナマイト(一〇〇グラム)を約半分に切断した(あるいはちぎった)もの計四本をピース缶に詰め込んだもので、佐古の自白は、客観的事実と相違する。

(ウ) パチンコ玉を充填する作業の担当者は、佐古の自白によれば村松、菊井、平野及び内藤、前原の自白によれば増渕、原告江口、村松及び菊井、村松の自白によれば増渕、原告江口、同堀及び佐古、増渕の自白によれば村松及び前原であったというのである。しかし、自分が右作業を担当した旨自白する者は一人もいない。村松の名前を挙げる者が多いことから考えると、村松が隠していることも考えられるが、右作業を全部村松一人が担当したものとは考え難く、一人も右作業を担当した旨述べる者がいないということは、それぞれに自己の責任を重くしないように秘匿していると見られないではないが、不自然さは否定できない。

<15> 佐古の供述する導火線と雷管の接着方法の矛盾

佐古は、導火線と工業用雷管の接続作業を担当したと述べているが、右接続作業の態様について客観的事実と異なる供述をしており、これは、佐古が実際には右作業をしていないことを強くうかがわせるもので、ひいては佐古の供述に信用性がないことを示すものである。

(ア) 接続作業の担当者は、佐古の自白によれば自分と前原、前原の自白によれば菊井と原告江口、内藤の自白によれば佐古、増渕の自白によれば佐古と原告堀であるというのである。佐古が右接着作業を担当したということは自ら述べるところであり、内藤及び増渕の供述もこれに一致するが、佐古自白には次のような疑問がある。

(イ) 佐古の自白によれば、導火線の先をほぐし、その中に雷管の先を押し込んでボンドで接着し、ガムテープを巻いて補強したというのである。しかし、本件ピース缶爆弾の雷管と導火線との接続状況は雷管の管口部に導火線が差し込まれているのであり、佐古の自白はこれと正反対であって、客観的事実と相違する。これは接続作業の最も基本的な部分であり、この相違を佐古の記憶の混同によるものと見ることはできない。また、佐古は、本件雷管と導火線の接続に際し接着剤が使用され、かつ、ガムテープが巻かれているという、異例な方法が取られていることまで述べているのであるから、佐古がそのような特徴的な状況まで述べながらなお基本的な部分についてことさら虚偽を述べたものと見ることにも疑問がある。仮に雷管と導火線の接続作業をした経験がある者がことさら虚偽を述べようとした場合でも、佐古の自白のような雷管と導火線の接続手順を思い浮かべるということもやや困難なようにも思われる。佐古が雷管についての十分な知識がなく、かつ、捜査官から証拠物の導火線と雷管は接着剤で接続されガムテープが巻かれていることを断片的に聞き知った場合、前記自白のような接続手順が比較的自然に思い浮かぶのではないかとも思われるのである。なお、佐古の最初の自白によれば、「ダイナマイトの上に火薬を入れ、火薬に火がつくように導火線を取り付けた。ピース缶の蓋と導火線をブラブラしないようにボンドで固定した」というのであって工業用雷管について述べていないのであるが(四八・二・一三付員面)、雷管だけを隠す必要は見当たらず、疑問が残る。佐古はアメ文事件の取調べの際証拠物を見せられているが、同事件の爆弾には工業用雷管が使用されておらず、雷管は見せられなかったもので、そのことが佐古の最初の自白内容に影響しているのかも知れない(以上は、地刑九部判決五五三頁以下を略引用した。)。

<16> 塩素酸カリウムと砂糖の混合作業

ピース缶爆弾事件に関連して製造されたと認められるピース缶爆弾一三個のうち、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加充填されていたことが明らかであるか若しくはその可能性があるのは二個にすぎないのに、佐古、前原、村松、増渕は、製造したピース缶爆弾の大部分に右混合物ないし白色粉末を添加充填した旨の客観的事実と食い違う供述をしており、同人らの供述には信用性がない。

塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の担当者についての各供述が相互に食い違っていて確定し難く、また、右混合作業を担当した旨の前原の供述する作業方法は、危険性があり、不自然である。

(ア) 一三個のピース缶爆弾のうち、塩素酸カリ及び砂糖の混合物の充填が確認又は推認されるものは多くとも二個である。

ところが、佐古らの自白は、製造した十数個のピース缶爆弾の少なくとも大多数にこの混合物を充填した旨述べていると見ることができるのであり、客観的事実と相違する。検察官は、「被告人、共犯者らの自白は製造されたピース缶爆弾中の何個かにはダイナマイト以外に塩素酸カリウム、砂糖の混合物を充填したという趣旨であることは明らかである」と主張するが、首肯し得ない。もしそうであれば、この点はピース缶爆弾の基本構造にかかわることであるから、その趣旨を明確にした供述が録取されるはずであるが、そのような供述が録取されたものはないし、製造したピース缶爆弾中に前記混合物を充填しなかったものもあるということすら明確に述べる者は、村松の昭和四八年三月一五日付員面のほかは一人もいないのである。前原の自白によれば、「もう一人の者と一緒に混合した薬品をスプーン二杯ぐらいずつピース缶に入れた。全部のピース缶に入れたと思うが、量が不足して一部には入れられなかったかも知れない」というのであり、佐古の自白によれば、砂糖は河田町アジトにあったが、途中でさらに買いに行ったというのであるし(四八・三・九付員面(本文一一丁のもの)によれば、砂糖一袋ぐらいを使用したというのである。)、また、内藤の自白は爆薬はダイナマイトよりも混合薬品を主体とするものであるかのような内容であって、これらの自白の内容を検察官が主張する趣旨に解することはできない。そして、これは爆弾の基本構造にかかわる事項であること及び右前原らの自白の内容が具体的であることから考えると、前原らに記憶の混同があると見ることは疑問である。

(イ) 塩素酸カリと砂糖の混合作業の担当者について、佐古の自白によれば増渕、原告江口及び同堀、前原の自白によれば自分、佐古及び石井、内藤の自白によれば自分、村松、井上及び前原というのであって相違する。他の者の作業分担については記憶の混同が生じ得るところであったとしても、自分が作業を担当したと述べる前原及び内藤の自白の内容について検討すると、前原の自白によれば、塩素酸カリ二(あるいは三)に対し砂糖一の割合で新聞紙の上で混合した上乳鉢に入れてすって混合する作業を繰り返したというのであるが、このような方法は危険であり、不自然であるし、内藤の自白によれば、薬品を計量し、二種類の薬品を混合する作業を四、五回繰り返したというのであって、砂糖について述べないが、菊井の証言によれば市販の砂糖の袋が置いてあったというのであるから、混合作業を担当した者が砂糖と薬品とを混同することは考え難く不自然である。

<17> バリの処理に関する佐古及び前原の供述

佐古及び前原が、いずれもピース缶の蓋に穴を開ける作業を自分が担当したと言いながら、バリ(めくれ)の処理について述べていないのは不自然であり、また、右穴開け作業を、河田町アジト玄関前付近の路上脇で行ったというのは、密行性が強く要請される作業の場所として非現実的である。

(ア) 作業担当者

ピース缶の蓋の穴開け作業の担当者については、佐古の自白によれば、自分ともう一人、前原の自白によれば自分、佐古及び石井、石井の自白によれば佐古及び井上であったというのであるが、佐古及び前原の自白はそれぞれ自分が右作業を担当した旨述べるものであり、かつ、両者の自白は概ね一致するものと見ることができる。

(イ) 佐古及び前原の自白の内容

佐古の自白によれば、「玄関前の庭で作業をした。ピース缶の蓋に釘か折りたたみ式ナイフで小さな穴を開け、庭の植木の根本あたりに蓋を置いて穴の部分にドライバーを突き刺し、金槌か石で叩いて穴を開けた」というのであり、前原の自白によれば、「外で作業をした。最初五寸釘をハンマーで叩いて穴を開けたところ小さ過ぎたので、石井が住吉町アジトからプラスドライバーかポンチと思うが他の道具を取ってきて、それで穴を開けた」というのである。

(ウ) 佐古及び前原の自白の疑問点

右に述べたように、佐古及び前原の自白はピース缶の蓋に穴を開ける方法について大きな相違があるとは見られない。ところで、右のような方法による場合は、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件のピース缶爆弾三個のうちの一個のピース缶の蓋の穴と同様の穴を開けることは可能であるが、アメ文事件及び八・九機事件のピース缶爆弾のピース缶の蓋の穴と同様の穴を開けるには、さらに生じたバリをペンチなどで切断する必要がある。各ピース缶爆弾のうちピース缶の蓋の穴のバリの有無が確認できるものは右の三個だけであり、そのうちの二個についてバリの切断が行われているのである。しかし、佐古及び前原はいずれもバリの切断について述べないのであり、疑問が残る。右は細部の事項であって記憶の希薄化が生じ得るところであるとの見方もあろうが、佐古は捜査段階においてアメ文事件の証拠物を、前原もアメ文事件及び八・九機事件の証拠物を示されているのであるから、ピース缶の蓋の穴の形状を見て、穴を開ける作業方法についても記憶の喚起ができるのではないかと思われる。

佐古らの自白によれば、河田町アジトの玄関前の庭で右作業をしたというのであるが、右作業は金槌を使用する際に相当大きな音を伴うものであることは容易に推測がつくのであり、家主や隣人の注意を惹く危険があって不自然ではなかろうか(右庭は路地を入っていくと路地から見通すことができる。)。

<18> 完成した爆弾の処分

完成したピース缶爆弾を河田町アジトから搬出した状況に関する原告堀らを含む被疑者の供述は大きく相違し、また、この点に関する前原、増渕の供述は客観的事実と矛盾するので、信用性がない。

(ア) 佐古の自白によれば、「製造後増渕が完成した爆弾を持ち帰った」、内藤の自白によれば、「花園と思われる男が来て増渕と一緒に爆弾を持って行ったように思う」、村松の自白によれば、「花園が来て爆弾を持ち帰った」というのであり、製造当日河田町アジトから爆弾が全部搬出されたとの点において、佐古、内藤及び村松の自白は一致している。ところが、前原の自白によれば、「製造当時赤軍派と思われる男が来て増渕と一緒に完成した爆弾のうち何個かを持って行ったように思う。残った爆弾は段ボール箱に入れ、河田町アジトに保管し、昭和四四年一〇月二一日午前一〇時ごろ保管していた爆弾一〇個ぐらいをバックに詰め、増渕及び堀とこれを持って大久保まで行き、自分はそこで別れた。増渕と堀は爆弾を持って東薬大の方へ歩いて行った」というのであり、佐古らの自白と大きく相違する。また、増渕の自白によれば、「製造当日村松らに爆弾と残材料を赤軍派の者に渡すように指示して自分は帰った。同月二一日夏目から爆弾が赤軍派に渡っていないと聞かされたので、夏目に対しL研の者に河田町アジトにある爆弾を赤軍派に渡すように伝えることを指示した」というのであり、河田町アジトに爆弾が保管されたとの点においては前原の自白と一致する。製造した爆弾の全部又は大部分を河田町アジトに保管したかどうかの点についての右のような供述の相違を、記憶の混同によるものと見ることには疑問がある。

(イ) 昭和四四年一〇月二一日午前中赤軍派の若宮らは東京都渋谷区千駄ヶ谷所在の東京デザインスクール内で数個以上(ピース缶爆弾入菓子箱二個くらい)のピース缶爆弾を所持していて、その後東薬大に運んだものであり、前原及び増渕の自白は右と相違する可能性が強い。そこで、前原及び増渕がことさら虚偽を述べたとの可能性について検討する。まず、前原については、当初製造した爆弾全部を河田町アジトに保管した旨述べていたが、これは前原が爆弾製造はL研独自の爆弾製造である旨述べていたことに結びつく供述であるように思われること、右のような供述は赤軍派の指示で爆弾を製造し即日赤軍派に引き渡したということに比較すれば、情状面で不利であり、特に前原は河田町アジトに居住していたのであるから爆弾を保管することも前原の情状としては不利になること、前原はその後「製造作業の途中に赤軍派の者が来たかもしれない」と述べ、昭和四八年三月二六日付検面において前記のような自白をするに至ったものであり、部分的にではあるが内藤らの自白に合わせようとしたものとも見られないではないことから考えると、前原がことさら虚偽を述べたものとの可能性を全く否定することはできないにしても、そのように見ることには疑問が残る。次に増渕の自白については他の者の自白が概ね出揃った時点での自白であり、ことさら虚偽を述べた疑いは否定できない。

佐古らの自白に従えば、昭和四四年一〇月二一日午前中東京デザインスクール内で赤軍派の者がピース缶爆弾を所持していたとの前記事実との間に矛盾はない。ただ、L研の者らがピース缶爆弾を製造した後同月二一日までの間のピース缶爆弾の保管状況について誰からも供述が得られておらず、また、製造当日赤軍派の者が河田町アジトに来たかどうかについても各自白に相違があり、佐古らの前記自白をそれだけで直ちに信用性が十分なものと見ることはできない。

<19> 同種他事件の記録、証拠の検討

主任検察官である親崎検事が、京都地方公安調査局事件などの他のピース缶爆弾を使用した事件の記録、証拠の検討を行っていれば、ピース缶爆弾製造事件についても、原告堀らを含む被疑者らが全く無関係であることが分かったはずである。

佐古らの自白によれば、京都地方公安調査局事件に使用されたピース缶爆弾も佐古らが同一機会に製造したものの一個ということになる。そうだとすると、佐古、前原及び内藤のピース缶爆弾を製造した日に関する自白は右事件の発生日時との関係で矛盾する可能性が強い。また、佐古らは右事件との関係について全く述べるところがない。

<20> 石井及び原告江口のアリバイ

石井のアリバイについて、捜査段階できちんとした裏付捜査を行っていれば、製造日に関する被疑者らの供述が誤りであり、ひいては供述全体の信用性がないことも分かったはずである。また、原告江口及び平野にも、ピース缶爆弾製造事件に関してアリバイがあった。検察官は、この裏付捜査を怠って安易に起訴した違法がある。

(ア) 石井のアリバイ

石井ひろみは、昭和四四年当時、L研の村松と同棲していた女性であるが、捜査当局により昭和四四年一〇月にピース缶爆弾の製造に参加したとされた。しかし、当時の石井は台東区にある日本プラスチック玩具工業協同組合(以下「協同組合」という。)にアルバイトとして勤務していたので、その勤務状況に応じてアリバイが成立する。

石井は、捜査段階でこのアリバイを取り調べにあたった警察官に話しているが、勤務先の協同組合に出向いた警察官がおざなりな聴取をしただけで勤務の事実なしと速断し、調査を打ち切ってしまったため、公判に至るまで事実が判明しなかったのである。

この石井アリバイも、その他の客観的事実と同様、公判開始後の弁護人の調査により判明したものであるが、その根拠となる帳簿、伝票類は捜査当時から協同組合事務所に保管されていたのであるから、捜査当局が石井の記憶にのっとり調査をすすめていれば、捜査段階で容易に発見し得たはずのものである。ところが、捜査当局は石井が犯人であると頭から決めつける余り、「当時の記憶が残っているはずがない」と一蹴してしまった。ここにも、見込捜査の誤りがはっきりと示されている。

(イ) 原告江口のアリバイ

大学ノート(表紙に、「4NAQ及び4HAQOのEhrlich cell殺cell効果江口良子」との記載があるもの。)には原告江口が昭和四四年一〇月九日及び一五日に実験作業に従事したものと読み取ることのできる記載があり、刑事審で証人になった川添豊によれば、右ノートは右研究室の室長であった同人が昭和四五年二月ころに原告江口が国立ガンセンター化学療法部の研究室を退職する際に同原告から預かり、以後昭和五七年二月ころまで保管していたものであることが認められ、その他右川添が刑事審で述べる昭和四四年当時の同原告の勤務状況を併せて考慮するときは、原告江口が昭和四四年一〇月九日及び一五日の両日そのころ通勤していた右研究室においてほぼ終日実験作業に従事していたという同原告のアリバイは成立する余地がある。

<21> 喫茶店「ミナミ」、同「エイト」の休業日に関する裏付捜査

東京都新宿区若松町一二番地所在の喫茶店「ミナミ」及び同区同町所在の喫茶店「エイト」の休業日については裏付捜査が可能であった。

被疑者らの自白によれば、ピース缶爆弾製造日の前日ころ、新宿区若松町の喫茶店「ミナミ」において謀議が行われたとされている。しかし、「ミナミ」は当時、日曜、祝日は休業していた。地刑五部判決もこの点につき、「ミナミは、昭和四四年一〇月当時、日曜、祝日が休業であ……った公算が極めて高いというべきである」と認めている。

また、被疑者らの自白によれば、製造実行日に石井、井上らはアジト周辺の見張りを担当したが、その際、近くの喫茶店「エイト」を利用したとされている。しかし、当時の「エイト」は、日曜、祝日は休業しており(近所にあるフジテレビの関係者から依頼されて開けることはあったが、その場合も一般客は入れなかった。)、L研グループによる利用は不可能であった。

謀議場所とされていた「ミナミ」、そして製造実行日に使用したとされる「エイト」の休業日を調査していれば、喫茶店の利用が製造日との関係で不可能となることが了知できたはずである。

(二) 被告国の主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

検察官は、原告堀、同江口、同前林をピース缶爆弾製造事件の共犯者として起訴した当時、捜査関係書類、供述調書、証拠物等の多数の証拠資料を収集しており、右原告ら三名がピース缶爆弾製造事件の共犯者であることを立証する重要な証拠として、

<1> アメ文事件において現場に遺留されたピース缶爆弾等の形状

<2> 八・九機事件において現場に遺留されたピース缶爆弾の鑑定結果

<3> 佐古、前原、内藤、原告江口、石井、村松及び増渕のピース缶爆弾製造事件に関する各自白

<4> L研の活動状況

<5> 檜谷伝言の内容

すなわち、前原が、昭和四八年二月二八日、東京地検地下同行室において、増渕とたまたま留置場で同房であった檜谷啓二(以下「檜谷」という。)に対し、増渕への伝言として、「窃盗は処分保留となったが、アメ文で再逮捕された。アメ文と八・九機については、ある程度供述してしまったが、爆弾製造の件についてはまだ供述していない。佐古は自分をきれいにするつもりで完全に供述していると考えられる。原告堀からは、あまり供述が出ていないと考えられる」などと伝えてくれるよう依頼したこと

<6> 井上、原告堀、同前林、菊井及び平野の否認ないし黙秘の状況などに関する証拠を収集していた。

(2) 検察官の公訴提起時の判断

検察官は、ピース缶爆弾製造事件において、アメ文事件あるいは八・九機事件の際現場に遺留された証拠物等を検討したところ、いずれも犯人を特定するに足るものではなかったが、<1>佐古、前原及び内藤の「増渕の指揮の下に井上、村松、佐古、前原、内藤、原告堀、同前林、同江口、石井、平野、国井及び菊井の一三名が河田町アジトにおいてピース缶爆弾を製造した」旨の各自白は、いずれも信用性が高いと判断されたこと、<2>原告江口、石井、村松及び増渕も、それぞれの組織上の地位あるいは立場から一部虚偽を交えていると思料されたものの、少なくとも自らが右爆弾製造に関与したことを認めていたこと、<3>井上、原告堀、同前林、菊井及び平野は否認ないし黙秘をしており、アリバイ主張などなかったことなどから、原告堀らには有罪と認められる嫌疑があると判断した。

(3) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

検察官が、原告堀、同江口、同前林をピース缶爆弾製造事件により起訴するに当たっては、前記の現に収集した証拠資料以外に、通常要求される捜査を遂げれば収集し得た証拠資料は存在しない。

(4) 判断の合理性

したがって、検察官が、右原告堀ら三名をピース缶爆弾製造事件により公訴提起するに当たり行った判断は、いずれも合理的なものであり、まして、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる判断の幅を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達しているものでないことは明らかである。

7  原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

警察官らは、違法な取調べによって獲得した増渕の自白を疎明資料として逮捕状を請求し、原告堀、同江口及び同前林を逮捕したが、右増渕自白は本来証拠たり得ないものであるから、右逮捕は違法である。

(1) 増渕は、遅くとも昭和四八年三月一二日夜の取調べが終わった段階で、翌日以後の取調べにおいては自白をせざるを得ないような「極度に追いつめられた心理状態」に達しており、同月一三日の自白は、右心理状態に基づくものであって、任意性がなく、また、信用性もない。

(2) 増渕の昭和四八年三月一三日自白に至るまでの取調状況をみると、増渕は、同年二月一二日の八・九機事件逮捕の少し前から未解決爆弾事件の取調べを受け、同月下旬ころからは日石・土田邸事件の本格的追及を受け、その際取調官の高橋正一警部補(以下「高橋警部補」という。)から、「お前を犯人として断定する」と宣言され、更に被害者の死体等の写真を見せられたりして取調べを受けた。このような取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

(3) 取調官は、昭和四八年二月下旬ころから日石・土田邸事件で増渕を取り調べるに当たり、増渕から承諾を得ておらず、増渕も、同事件の取調べについて出頭拒否及び退去の自由があることを知らなかった。このような取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

(4) 取調官は、増渕の取調べにおいて、取調官が考えた筋書きを断定的に押し付け、また、原告江口及び同堀が既に自供しており細かいところまで分かっているとして誤導した。このような取調官の押付けなどによる取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

(5) 増渕は、昭和四八年一月二二日の逮捕以前から健康状態が悪く、その後連日連夜の取調べの中でさらにこれを悪化させ、ぜん息が続き、腰痛を起こしたり、夜も眠れない日が続いて、最悪の健康状態になっていた。このような健康状態における取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

(6) 増渕は、昭和四八年一月二二日から一日の休みもなく朝から深夜まで休憩時間も与えられずに長時間の取調べを受け、日石・土田邸事件の取調べに入ってからも、大きな声で追及された。このような長期間、長時間の取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

増渕は、昭和四八年一月二二日にアメ文事件により逮捕されて以来、長期間の身柄拘束を受け、その間、連日不当に長時間厳しい取調べを受けて肉体的にも精神的にも疲労していたのに、日石・土田邸事件でも連日深夜に及ぶ長時間の取調べを受け、厳しい追及、説得を執拗に継続されたことから、同月一二日夜の取調べが終わった段階では、虚偽の自白をせざるを得ないような「極度に追いつめられた心理状態」に達し、それが原因となって同月一三日に自白をしたものである。

(7) 昭和四八年二月下旬から同年三月一三日までの増渕に対する日石・土田邸事件についての取調べは、アメ文事件等の起訴(同年二月一二日)後の拘留中の余罪取調べであって、長期間にわたる逮捕・勾留中の連日の長時間取調べにより疲労している増渕に対し、引き続いて更に起訴された事件よりはるかに重大な被疑事件について、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで七ないし八時間、午後九時ないし午後一〇時に及ぶまで行われたものであり、とりわけ同年三月七日から同月一二日までの間の取調べは極めて厳しいものであった。右取調べは、任意の取調べとして許容される限度をはるかに越えた違法な取調べであって、これによって得られた増渕の自白は証拠能力がない。

(8) 増渕の津村節蔵検事(以下「津村検事」という。)に対する自白は、右のような警察の違法な取調状況をチェックせず、むしろこれに乗じて獲得されたものであって、任意性がなく、信用性もない。

(二) 被告都の主張

(1) 疎明資料

日石事件及び土田邸事件に関する捜査は、事件発生後犯人特定の具体的な手がかりが得られないまま推移していたが、昭和四八年二月一四日に至り、佐古は、同年一月五日に渋谷の喫茶店「プランタン」において増渕及び原告江口と会った際、原告江口が「六月の爆弾の件が警察にわかれば、日石事件が発覚し、日石事件が発覚すれば土田邸事件が発覚してしまうのではないか。」等と発言した旨を警察官に対して供述をし、同年三月二日、三日、五日の三回にわたり、親崎検事が佐古を取調べた際にも、佐古は右同様の供述をした。

他方、そのころ、東京都千代田区麹町警察署(麹町署)で増渕と同じ房に留置されていた檜谷は、警察官に対し、増渕から爆弾やその点火装置等の製造方法を教えられたこと、増渕から「土田邸事件のことは言うな、死活問題だ。」と口止めされたことなどを供述した。

増渕は、同年三月七日から日石・土田邸事件についての取調べを受け、当初は、両事件に関与したことを否定したのであるが、同月一三日に至り、親崎検事の指示により初めて増渕の取調べに当たった津村検事に対し、自己が日石・土田邸事件を敢行したことを自認するとともに、右事件の概要を自白し、原告前林が日石事件の共犯者である旨供述した。

更に増渕は、津村検事の取調べの終了後に行われた、同日の警察官の取調べにおいても、自己が日石・土田邸事件に関与したことを認め、その概要を供述したほか、更に、右事件の共犯者として、原告江口、同堀の名前をあげた(ただし、原告前林については、事件への関与を否定した。)。

(2) 捜査官の判断及び逮捕

捜査官は、取調官が、増渕に対し、自白を強要しておらず、同人は、任意かつ自発的に供述しており、前記供述は、全体として信用できるものであると認められたことのほか、増渕及び原告江口が右両事件に関与していたことをうかがわせる佐古のプランタン会談供述、増渕から土田邸事件の口止めをされたとする檜谷供述、ピース缶爆弾事件以降も増渕、原告江口、同前林らが爆弾闘争志向を有していたことを裏付ける佐古、村松の六月爆弾供述、増渕逮捕当時まで同人が爆弾闘争志向を有していたことを裏付ける増渕の実家の捜索等の捜査結果から、原告堀、同江口及び同前林が日石・土田邸事件の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があり、かつ逮捕の必要性もあると判断し、昭和四八年三月一三日、東京簡裁裁判官に対し、同原告らの逮捕状を請求し、その発付を得て、同月一四日、同原告ら三名を右両事件で逮捕した。

捜査官の右判断は、警察官による逮捕状請求が国家賠償法上違法とされる判断基準である「捜査官において犯罪が存在すると考えたことについて、当時の資料の下で、常識上到底首肯し得ないほど合理性を欠く重大な過誤が認められる場合」という基準に照らし、合理性を欠く違法なものであるとは到底認められない。

なお、逮捕状請求の際に疎明資料とされた供述証拠が、後の公判等において、証拠能力を否定されたとしても、それは当該供述調書を事実認定の証拠に供し得ないという証拠能力の問題に止まり、当該供述調書を疎明資料として逮捕状を請求、執行したことまでも当然に違法となるものではない。

8  原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

検察官は、日石・土田邸事件に関し、佐古、檜谷及び増渕の供述に基づいて、原告堀、同江口及び同前林の勾留を請求したが、佐古らの右各供述は、次のように信ぴょう性のないものであり、勾留の疎明資料となり得ないものであるから、この点を看過してなされた右各勾留請求は違法である。

(1) 佐古の供述

<1> 佐古の「プランタン会談」供述は、取調官の強引な断定と押付けの産物であり、同会談で日石・土田邸事件の話が出たというのは全くの架空の作り事であり、佐古の供述に信用性はない。

<2> 増渕及び原告江口が未だ事情を知らない佐古の面前で日石・土田邸事件の話をするはずがないなど、プランタン会談供述はその内容自体において不自然である。

<3> 右会談で小包の筆跡が原告前林のものである旨の会話がなされたと供述しているが、これは客観的事実と異なるのであるから、ここからも佐古供述が虚偽であることが判明する。

<4> 佐古は、親崎検事から「こういうふうな供述は犯人しかできない」といわれたため、同事件の犯人と断定され逮捕されるという恐怖心からプランタン会談に関する供述を維持したのであり、その供述に信用性はない。

(2) 檜谷の供述

<1> 檜谷の供述は、真実を述べることが期待し難い状況の下で作成され、その内容も不自然であって信用性がない。

<2> 取調官は、証拠隠滅罪の適用を念頭において被疑者調書を用い、黙秘権を告げて檜谷を取り調べているから、檜谷としては、自己に不利益が及ばないようにしたいと考えて取調官に迎合的に対処し、虚偽供述をしたのであって、同人の供述には信用性はない。

<3> 檜谷は、昭和四八年三月一〇日に増渕が檜谷に対して土田邸事件についての口止めをしたと供述しているが、増渕が檜谷に対しそれ以前に土田邸事件の話をしたことはなかったのであるから、そもそも口止めをする必要性は全くなく、また、檜谷が右口止めをされた日の取調べでその供述をしなかったのに、翌一一日に供述するというのは不自然である。

(3) 増渕の自白

<1> 増渕は、遅くとも昭和四八年三月一二日夜の取調べが終わった段階で、翌日以後の取調べにおいては自白をせざるを得ないような「極度に追いつめられた心理状態」に達しており、同月一三日の自白は、右心理状態に基づくものであって、任意性がなく、また、信用性もない。

<2> 増渕の昭和四八年三月一三日自白に至るまでの取調状況をみると、増渕は、同年二月一二日の八・九機事件逮捕の少し前から未解決爆弾事件の取調べを受け、同月下旬ころからは日石・土田邸事件の本格的追及を受け、その際取調官の高橋警部補から、「お前を犯人として断定する」と宣言され、更に被害者の死体等の写真を見せられたりして取調べを受けた。このような取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

(ア) 昭和四八年二月一二日の八・九機事件逮捕の少し前から、増渕は、高橋警部補らに未解決爆弾について取り調べられた。坂口ら取調官から二冊の未解決事件一覧表に基づいて、一つ一つ「お前がやった。」と決めつけられていったのである。

それらの追及について、捜査当局は何らの根拠、証拠も持ち合せていなかったことは明白で、高橋警部補自身、この目的は、日石・土田邸事件の調べに入るために感触をとったことを認めている。しかし、この追及は、日石・土田邸事件の追及が始まるまで連日行われた。

昭和四八年二月下旬ころ、日石・土田邸事件の本格的追及が開始された。高橋警部補らが取調室に来て、主任の高橋警部補は、突然日石・土田邸事件につき、「お前を犯人として断定する」と宣言した。そして二冊のファイルされた写真集(被害者の死体等の写真が貼られてある。)を出して、「これを見ろ」と言った。引き続き他の刑事らは増渕に、お前だ、お前だと言いながら、被害者土田民子の死体のカラー写真を一枚ずつ見せていった。

増渕にとっては晴天の霹靂であったことは想像に難くない。増渕は「僕じゃない。」と否定し、写真を見て思わず「ひどいなあ」と述べるが、刑事らは「ふざけたことを言うな、お前がやったんだ」の一点張りであった。とにかく高橋警部補らは、増渕を日石・土田邸事件の犯人であると確信していた。

そのため、増渕が何を言っても「余談は聞かんということで説得した」(昭和四八年三月七日付取調状況報告書)、すなわち、弁解は一切聞かないという調べ方で自白を迫ったのである。

(イ) 二日目以降も、前記カラー写真集は取調机の上に載せられており、刑事らは増渕に右写真を見せて、どう思うかなどと迫った。これは増渕の自白まで続き、写真集は三月一四日の逮捕以降もしばらく同所に置かれてあった。高橋らは写真を見せて、線香をあげろ、涙を流せと迫った(昭和四八年三月七日付報告書)。

<3> 取調官は、昭和四八年二月下旬ころから日石・土田邸事件で増渕を取り調べるに当たり、増渕から承諾を得ておらず、増渕も、同事件の取調べについて出頭拒否及び退去の自由があることを知らなかった。このような取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

増渕は、昭和四八年二月下旬ころ、高橋警部補から「お前を犯人と断定する」と宣言され、その後引き続いて取調べを受けてきたが、取調官は勾留中の事件以外の事件(しかも勾留中の事件よりはるかに重大な事件)についての取調べとして、増渕の承諾を得ていないことが明らかである。高橋警部補も承諾をとっていないことを認め、また取調べに際し、任意だから拒否できるということは言っていないと証言している。増渕においても、勾留中の事件の取調べについて出頭拒否及び退去の自由があることを知る由もなかった。

<4> 取調官は、増渕の取調べにおいて、取調官が考えた筋書きを断定的に押付け、また、原告江口及び同堀が既に自供しており細かいところまで分かっているとして誤導した。このような取調官の押付けなどによる取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

刑事らは、爆弾の郵送につき、発送したのは原告前林と同江口であるとか、原告堀の車で郵送したとして追及した。高橋警部補は、日石事件のモンタージュ写真の存在及び女性二人であることを事前に知っていたことから、そのように推定したものと思われる。また、原告前林と同江口が勤めを休んで行った旨増渕に告げ、あたかも彼女らが犯人であることが客観的に裏付けられたかのような感を増渕に与えようとした。

刑事らがいう増渕の事件における役割も、増渕が否認していく経過で、次々と変えられた。当初は増渕が責任者であるとされ、爆弾も増渕らが作ったと断定して追及されていた。しかし、増渕がそんな記憶がないと否認していたためか、その後増渕は原告江口から爆弾を受け取って原告堀に渡しただけというように追及の筋書きが変化してきた。

また、取調官らは、初自供に至るまでの取調べに際し、増渕に対し、原告江口及び同堀が既に自供しており、細かいところまで分かっていると誤導した。

<5> 増渕は、昭和四八年一月二二日の逮捕以前から健康状態が悪く、その後連日連夜の取調べの中でさらにこれを悪化させ、ぜん息が続き、腰痛を起こしたり、夜も眠れない日が続いて、最悪の健康状態になっていた。このような健康状態における取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

増渕の健康状態は、昭和四八年一月二二日の逮捕以前からむしばまれ、同月二二日以降の勾留、連日連夜の取調べの中で悪化していった。ぜん息は直らず、治療も受けられないまま、クララやトローチでごまかすしか方法もなく、効果は無かった。

また、取調べの際に無理な姿勢を一日中強要されたため、腰痛をおこし、夜も横になれず、無理に横になっても眠れない日が続き、最悪の状態となっていた。

<6> 増渕は、昭和四八年一月二二日から一日の休みもなく朝から深夜まで休憩時間も与えられずに長時間の取調べを受け、日石・土田邸事件の取調べに入ってからも、大きな声で追及された。このような長期間、長時間の取調べによって得られた増渕の自白には、任意性がなく、信用性、信ぴょう性もない。

(ア) 増渕は、昭和四八年一月二二日にアメ文事件により逮捕されて以来、長期間の身柄拘束を受け、その間、連日不当に長時間厳しい取調べを受けて肉体的にも精神的にも疲労していたのに、日石・土田邸事件でも連日深夜に及ぶ長時間の取調べを受け、厳しい追及、説得を執拗に継続されたことから、同月一二日夜の取調べが終わった段階では、虚偽の自白をせざるを得ないような「極度に追いつめられた心理状態」に達し、それが原因となって同月一三日に自白をしたものである。

(イ) 増渕の取調時間は、昭和四八年一月二二日から一日の休みもなく、朝から深夜まで、休憩時間も与えられず取り調べられた。

日石・土田邸事件についての取調べに入ってからの追及態度の一つは「馬鹿の一つ覚えで、やったんだろう」と「でかい声で追及し続けた」というものであった。語気も荒く、取調べを受ける者が耐え難い感を受けるものである。高橋警部補が増渕を犯人と確信しながら、自供以外に「逮捕状請求するまでのあれ(資料)はないだろうと思っていた」こととあいまって、追及の厳しさはいやがうえにも増してきたと考えられる。

取調官は、再三にわたって、余罪にしろ、他の連中は余罪で自供している、彼らはお前のようにこういう(きつい)調べをされていないんだ、余罪であれば自首になるなどと言って、警務要鑑を持ってきて説明した。また、余罪でしゃべれば、調べ時間、食事が違う、人間らしく扱ってもらえるなどと、逮捕状執行の前に自白しろと迫った。増渕は、人間らしく扱われることになれば医者にもかかれるのではないかと考えるようになっていた。

また、取調官らは、増渕の内妻で当時妊娠中であり、法政大学図書窃盗事件容疑で勾留され、日石・土田邸事件の取調べを受けていた原告前林を、自供を引き出す効果的な材料に使った。彼らは、増渕に対し、原告前林の防波堤になってやれ、このまま日石・土田邸事件でもっていかれたら刑務所で子供を産ませることになる、子供の籍が刑務所になる、このまま調べられたら流産してしまうと脅した。

このまま否認すれば、初めの事件から逮捕し直すと言われた増渕は、前に六か月先までとか、昭和四八年一〇月まで逮捕状は用意してあると言われたことを思いだし、そんなところまでこの取調べが続くんだろうかと恐ろしくなると同時に絶望的な心理状態に陥っていく。

増渕は、当時、風邪が慢性化していて疲労は極度に達しており、ぽっくりと死んでしまうのではないかとの思いがつのってきて、とにかくこのような連日の調べがなくなればどんなにいいだろうということで頭がいっぱいであったので、この調べが更に何か月も続けばどうなるのかと絶望的な心理状態になっていたことは想像にかたくない。

右の状況の下で、昭和四八年三月一三日の直前のころ、増渕は、もはやほとんど刑事らの追及に対する抵抗力を喪失し、彼らのほしいままに心理状態を左右されるようになっており、彼自身このままでいくと認めされられるのは時間の問題ではないかとの心理になっていたといえ、もはや正常の心理状態ではなくなっていたと言って過言ではない。

<7> 増渕の昭和四八年三月一三日の検察官に対する供述は、次のとおり信用性がない。

(ア) 自白に至る状況

当日、増渕は、いつもと同じように午前一〇時ころ(出入簿は一〇時三〇分)から、高橋警部補らから取調べを受け、「お前がやった。一日も早く認めろ。余罪にしろ、自首にしろ、新聞には出すな」とあらゆる手をつくして自白を迫った。

午前一一時ころ津村検事が来て、「今どういうことを調べられているのか」などと聞くとともに、「土田、日石は本当にやったのか」と追及したが、増渕は「違う、否認している」と答えた。その他後に述べる事項について取調べをした。この時少なくとも一人の刑事が残って津村検事に説明をしたりしている。昼ころ検事は昼食のため退出して、高橋警部補らが再び部屋に入ってきて、その中で増渕は昼食をとった。昼食後再び検事が取調べのために来て、引き続き日石・土田邸事件に関して尋問をしているとき、弁護士が接見に来た。高橋警部補がそれを知らせに入室して、「会わせましょうか、どうしましょうか」と聞いたところ、津村検事は「会わせて下さい」と言って部屋を出ていった。ところが、それから一時間以上待っても刑事らは接見させず、増渕は二〇号取調室で待たされたあげく、高橋警部補から「お前もう弁護士に見捨てられたな、先生帰っちゃったよ」と言われた。増渕は久しぶりに来た弁護士との接見を心待ちにしており、「早く会いたい」とただそれだけを考えていた。会ったなら体がだめになっている、医者に見せてほしいと訴え、調べの状態を訴え、原告江口や同前林のアリバイについての報告を聞く予定であった。増渕は本当に弁護士が帰ってしまったと思いこみ、しかも初めての経験だっただけに、弁護士にも見捨てられたとの思いに至り、自分の状態を分かってくれる人は一人もいなくなってしまったと思ってしまう。そして、その後刑事らからの、早く余罪にしろ、楽な調べにして清算しろ等の追及に対し、「何しろ今の調べを柔らかくしたい」と思い、もはやあとの結果を考える力もないまま「もう分かった」と、「口から先に言葉が出てしまった」。そのとき彼は、「母を保護してほしい、助けてほしい」と叫んでしまった。

(イ) 調書の内容

このようにして、津村検事によって、初めての自白調書が作成されるのであるが、この調書はその内容からしても、到底証拠として用いることができないものであった。

すなわち、右調書の記載内容は、大要、増渕が爆弾を作り、郵便局から土田邸にこれを送ったものであること、爆弾を作った場所は、増渕の部屋である高橋荘であること、爆弾を作ったのは、郵便局に出す二、三日前であること、爆弾をどこの郵便局に出したか、爆弾を作った状況等は思いだし次第話すこと、土田邸に爆弾を送った理由は、その一年くらい前に、京浜安保共闘のメンバーが交番を襲って挙銃を奪おうとした際に警察官に射殺され、これが正当行為とされたため、権力に復讐するためであったこと、土田邸に爆弾を送った一か月くらい前、日石郵便局で爆発した爆弾も、増渕が土田邸事件に使用された爆弾(以下「土田邸爆弾」という。)を作ったところと同じところで作り、これを「女の人」に郵便局に行って差し出させたものであること、「女の人」の名前や、爆弾を作ったときの状況については、思いだし次第話すことなどについて記載されている。しかし、右内容はいずれも取調べを担当した津村検事が、以前から知悉していたもので、真犯人しか知り得ない事実では全くない(つまり、秘密の暴露がない)ばかりでなく、その内容自体極めて不自然、不合理なものであって、到底信用できないものであった。

(ウ) 「秘密の暴露」がない

右調書に記載されている内容は、いずれも捜査当局が知っていた事実か、あるいは捜査方針として確定していた事柄にすぎない。増渕が高橋荘に居住していたこと、土田邸爆弾が「郵便局」から差し出されていること、日石事件に使用された爆弾(以下「日石爆弾」という。)は、女性によって日石郵便局から差し出されていることなどは、既に従前から捜査当局が確定していた事実なのである。さらにまた、土田邸事件の動機が、「京浜安保共闘メンバーが警察官によって射殺されたこと(いわゆる上赤塚事件)に対する復讐」にあったということも、捜査当局の捜査上の既定方針の一つであったのである。

そして、津村検事は、増渕を取り調べる以前から、右事情を当然知り得る立場にあり、また当然これを知っていたものとみなければならない。増渕の生活状況については、既に昭和四八年三月上旬から長倉を増渕の犯人隠避容疑で取り調べていたことからして、十分知悉していたし、日石・土田邸事件の爆弾が、いずれも郵便局から差し出されたとの方針の下に捜査が進められていること、日石事件の爆弾が女性によって差し出されていることは、少なくとも親崎検事から増渕の取調べを指示された時点では、当然これを聞かされていたものとみなければならない。津村検事は公判廷において、親崎検事から事件の内容については聞かされていない旨述べているが、およそ検察官が当該事件について被疑者を取り調べるとき、事件の概要すら調査せず、あるいは指示を受けることもないなどということはなく、津村検事が前記事実ないし捜査方針を知らなかったということは、到底あり得ない。

このように津村検事は、右のような事実ないし捜査方針を知っていたのであるから、増渕から直接右事実等を聞かなくとも、右事項等を記載した調査を作成することは、極めて容易であったはずである。

(エ) 調査内容の不自然性、不合理性

この調書の内容は、増渕が述べたものではなく、津村検事の想像によって書かれているものだけに、いたるところに不自然で不合理な記載を見ることができる。

第一に、右調書に、「(土田邸)爆弾をどこの郵便局から出したか、爆弾の作った状況等詳しいことを今思い出しておりますので、思い出し次第申し上げます」と記載されている点である。津村検事の証言によると、増渕は、素直に日石・土田邸事件を自白したということである。仮に増渕が真犯人で、反省覚悟の上自白したというのであれば、たとえ短時間の取調べであったとしても、土田邸爆弾を郵送した郵便局の名や爆弾製造状況の概要くらいは当然供述し得たはずである。なぜなら、これらの事項は、いずれも真犯人にとっては、極めて印象に残り、しかも重要な事項なのであるから、忘れてしまうはずがなく、思い出さなければ話し得ない事項ではないからである。津村検事が、本件調書に右のような記載しかなし得なかったことは、端的に増渕が「真犯人」でないことを物語っているといえよう。

第二は、土田邸事件についての動機に関してである。この調書の記載内容によれば、増渕の認識は、いわゆる上赤塚事件が発生したのは「土田邸事件の一年くらい前だと思う」ということでしかない。しかし、増渕が真に土田邸事件を「上赤塚の復讐」と考えていたのであれば、その事件が前年の一〇月一八日に発生したことを忘れているはずはなく、「一年くらい前だと思う」といった曖昧な表現をするはずがない。また、京浜安保共闘の組織とはまったく関係のない増渕が、その「復讐」のために、土田邸事件を企図するなどということも全く不可能である。右動機に関する供述記載は、捜査当局がそれまで捜査方針として考えてきたものをそのまま記載したにすぎない。

(オ) このように、増渕の自白もまた、その作成経過や記載内容自体からして、到底証拠として用いることができないものであり、これらが信用できるとして、同人らの勾留請求を行った検察官の判断は、明らかに違法なものであったと言わなくてはならない。

<8> 起訴後の勾留中の余罪取調べ

昭和四八年二月下旬から同年三月一三日までの増渕に対する日石・土田邸事件についての取調べは、アメ文事件等の起訴後の勾留中の余罪取調べであって、長期間にわたる逮捕・勾留中の連日の長時間取調べにより疲労している増渕に対し、引き続いて更に起訴された事件よりはるかに重大な被疑事件について、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで七ないし八時間、午後九時ないし午後一〇時に及ぶまで行われたものであり、とりわけ同月七日から同月一二日までの間の取調べは極めて厳しいものであった。右取調べは、任意の取調べとして許容される限度をはるかに越えた違法な取調べであって、これによって得られた増渕の自白は証拠能力がない。

増渕の津村検事に対する自白は、右のような警察の違法な取調状況をチェックせず、むしろこれに乗じて獲得されたものであって、任意性がなく、信用性もない。

(二) 被告国の主張

(1) 疎明資料

検察官は、昭和四八年三月一六日、東京地裁裁判官に原告堀、同江口、同前林及び増渕の勾留を請求し、いずれについても勾留状の発付を得たのであるが、右勾留請求時において、前記逮捕状請求までに収集された資料の外に次のような疎明資料を収集していた。

<1> プランタン会談に関する佐古の供述

<2> 増渕から爆弾等の製造方法を教えられ、また、土田邸事件の口止めをされたことに関する檜谷の供述

<3> 自己並びに原告堀、同江口及び同前林が日石・土田邸事件を敢行したことを認める増渕の自白

(2) 検察官の判断

検察官は、右の資料に関し、増渕の自白は、任意性に疑いのない自白であることはもとより、その自白獲得の捜査、取調べも違法ではなく、いわゆる違法収集証拠でもないと判断するとともに、佐古の「プランタン会談」供述、檜谷の供述及び増渕の三月一三日の自白は、いずれも信用性が高いと判断した。そして、検察官は、右証拠によれば、原告堀、同江口及び同前林につき、日石・土田邸事件に関する犯罪の嫌疑が存することは明らかであり、また、両事件ともその罪質が極めて重く、他にも共犯者がいる可能性も高く、複雑かつ困難な事案であるから、右原告らが罪証隠滅及び逃亡をするおそれが極めて大きく、勾留の理由及び必要性が認められると考えて勾留請求をしたのであり、右勾留請求は適法である。検察官の右判断は、資料についての判断、評価を著しく誤るなどの合理性を欠く重大な過誤があったとは到底認められず、また、当然なすべき捜査を著しく怠ったとも認められない。

9  原告榎下の日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法

(一) 原告らの主張

警察官らは、原告榎下を日石・土田邸事件で逮捕したが、原告榎下らの供述調書は本来証拠たり得ないものであるから、右逮捕は違法である。

日石・土田邸事件について原告榎下の逮捕は逮捕・勾留の蒸し返しである。犯人隠避事件についての昭和四八年三月一九日の原告榎下の逮捕及びこれに続く勾留は、専ら日石・土田邸事件に関する自白を獲得するために行われた違法な別件逮捕・勾留であり、したがって、土田邸事件についての同年四月一〇日の逮捕及び日石事件についての同月一二日の逮捕は、いずれも同一事件についての逮捕・勾留の蒸し返しに他ならず、令状主義に反する違法な身柄拘束である。

(二) 被告都の主張

(1) 疎明資料

<1> 捜査官は、増渕、原告堀、同江口及び同前林とその他の関係者を日石・土田邸事件で取り調べた。そして、捜査官が、原告榎下を犯人隠避事件で取り調べていたところ、昭和四八年四月上旬、原告榎下は、増渕に対する犯人隠避の程度を超えて、日石・土田邸事件に関与している旨の供述を任意に行った。

<2> 原告榎下は、日石事件について、昭和四八年四月八日付、同月九日付、同月一〇日付、同月一一日付供述において、原告前林や同堀から、昭和四六年一〇月一八日に原告江口と同前林が日石爆弾を郵送する際、新橋まで自動車を運転するよう依頼されたこと、同年九月末あるいは同年一〇月七日ころ、増渕らを車に乗せて、増渕の案内で、日石ビル付近まで下見に行ったこと、同月一八日朝、増渕、原告江口及び同堀が原告榎下の勤務先である東京都杉並区内の白山自動車に集合し、同所から新橋へ向かったことなどを供述し、土田邸事件について、昭和四八年四月八日付供述において、昭和四六年一二月一日と同月一〇日ころ、増渕らとともに、南神保町郵便局を下見したこと、土田邸事件発生当日の夜、原告堀から土田邸爆弾郵送の話を聞いたことなどを供述した。

<3> また、松村は、昭和四八年四月九日付及び同月一〇日付の供述で、増渕らが昭和四六年九月一八日の夜に、東京都杉並区天沼一丁目四五番三三号所在の学校法人日本第二学園(日本大学第二高等学校。以下「日大二高」という。)の職員室で行った日石事件のための謀議に、原告榎下が参加していたこと、その謀議において、原告榎下は車の運転や下見を担当させられたこと。同年一〇月二三日に増渕らが行った日石事件の総括に原告榎下が参加していたことなどを供述した。

さらに、中村(隆)は、昭和四八年四月八日の供述で、昭和四六年八月から九月上旬ころ日大二高において、増渕が、原告榎下に対し爆弾闘争に関しマイクロスイッチの購入や車の運転を依頼していたと述べた。

<4> そして、増渕は、昭和四八年三月一三日付の供述で、日石・土田邸事件を自ら行ったことを自白し、同月一四日付、同月一九日付、同月二〇日付供述では、土田邸爆弾を原告堀や同江口らとともに製造したことを認め、同年四月八日付供述では、昭和四六年九月中旬に日大二高で爆弾闘争の謀議をしたこと、同謀議に原告榎下も参加したこと、同年一〇月下旬か一一月初めころ、原告榎下に頼んで、神保町の郵便局に下見に行ったことなどを述べた。

また、原告堀は、当初日石・土田邸事件への関与を否定していたものの、昭和四八年三月二六日に至り、増渕から頼まれて、爆弾らしきものを自動車で運搬したことがある旨供述し、同月二七日及び二八日には、増渕から頼まれて、金本に対し、爆弾らしき小包を預けたことがある旨供述した。

(2) 捜査官の判断及び逮捕

<1> 捜査官は、右のような捜査結果、とりわけ、原告榎下の昭和四八年四月八日付供述、松村の同月九日付供述、増渕の同年三月一三日付、同月一四日付、同月一九日付、同月二〇日付、同年四月八日付供述、原告堀の同年三月二八日付供述等から、原告榎下について、増渕ら数名が共謀のうえ、治安を妨げ、人の身体、財産を害する目的をもって、昭和四六年一二月一七日、土田邸爆弾一個を、南神保町郵便局から、土田邸宛に小包郵便として発送し、同月一八日午前一一時二四分ころ、土田邸において、これを爆発させ、もって爆発物を使用するとともに、右爆発により、土田民子四七歳を即死せしめたほか、同人の四男土田恭四郎一三歳に対し、加療約一か月を要する傷害を与えた際、増渕らが右各犯行を行うものであることの情を知りながら、増渕からの請託を容れ、(ア)同年一二月一日ころ、自己の勤務先から通勤用として貸与された軽四輪貨物自動車に増渕を乗車せしめ、同日午後九時ころから深夜に至るまでの間、東京都千代田区神田神保町一丁目周辺一帯の下見(事前調査)に参加し、(イ)同年一二月一〇日ころ、右自動車に増渕外二名を乗車せしめ、同日午後八時ころから深夜に至るまでの間、同区町一丁目周辺一帯の下見に参加し、もって、増渕らの右犯行を容易ならしめてこれを幇助したとの土田邸事件幇助の嫌疑があって、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、昭和四八年四月一〇日、東京簡裁裁判官に対し、逮捕状を請求し、同日、その発付を得て、原告榎下を土田邸事件(幇助)で通常逮捕した。

捜査官の右判断は合理的かつ正当であり、捜査官が、原告榎下を土田邸事件(幇助)で逮捕したことに何ら違法はない。

<2> また、捜査官は、捜査の結果、とりわけ原告榎下自身の昭和四八年四月八日付、同月九日付、同月一〇日付、同月一一日付供述、松村の同月九日付供述、中村(隆)の同月八日付供述等から、原告榎下について、数名の者と共謀のうえ治安を妨げ、かつ、警察官らを殺害する目的をもって、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三五分ころ、日石爆弾二個を、日石本館ビル内の日石郵便局から小包郵便として差し出し、同日午前一〇時四〇分ころ、同郵便局においてこれを爆発させたとの日石事件の嫌疑があって、かつ、逮捕の必要性もあると判断し、昭和四八年四月一二日、東京簡裁裁判官に対し、逮捕状を請求し、同日その発付を得て、原告榎下を同事件で通常逮捕した。

捜査官の右判断は合理的かつ正当であり、原告榎下の逮捕に何ら違法はない。

10  原告榎下の日石・土田邸事件の勾留請求の違法

(一) 原告らの主張

(1) 逮捕・勾留の蒸し返し

昭和四八年三月一九日からの原告榎下に対する犯人隠避事件を理由とする逮捕・勾留は、被疑事実について捜査の意思も必要性もなかったのに、専ら日石・土田邸事件に関する自白を獲得することを目的とした違法な別件逮捕・勾留であり、したがって、同年四月一〇日以降の土田邸事件、同月一二日以降の日石事件を理由とする身柄拘束は、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返しに他ならず、いずれも令状主義に違反する違法な身柄拘束であった。

(2) 疎明資料の不適格

原告榎下に対する犯人隠避事件による逮捕・勾留は、違法な別件逮捕・勾留であり、この逮捕・勾留中に得られた原告榎下の自白調書を疎明資料としてなされた原告榎下に対する日石・土田邸事件の逮捕・勾留は、その理由を欠き違法である。

(二) 被告国の主張

(1) 疎明資料

前記(原告榎下についての日石・土田邸事件の逮捕状請求の違法)のように、原告榎下は、犯人隠避事件での逮捕・勾留中に、自己が日石・土田邸事件に関与したことを自白したものであり、捜査官は、主にこれに基づいて日石事件及び土田邸事件についてそれぞれ同原告を逮捕した。

そして、右両事件について送致を受けた検察官は、原告榎下につき、勾留の理由及び必要性があると判断し、その勾留を請求した。

(2) 検察官の判断

検察官は、犯人隠避事件についての原告榎下の逮捕・勾留につき、その理由と必要性が認められる以上、同事件による勾留中に、日石・土田邸事件についての取調べを行ったとしても、その取調べが直ちに違法となり供述調書の証拠能力が否定されることとなるものではないし、また、犯人隠避事件について、原告榎下の犯罪事実を特定して同事件の処分を決するためには、原告榎下が日石・土田邸事件についての増渕らの関与の有無等を知っていたか否かを把握することが必要不可欠だったのであるから、日石・土田邸事件についての原告榎下の取調べは、単なる余罪の取調べとはいえず、勾留事実たる犯人隠避事件に関係する取調べであったと評価できるものであり、したがって、右取調べによる自白調書には、証拠能力があると判断した。

右のように、犯人隠避事件による原告榎下の逮捕・勾留は、違法な別件逮捕・勾留には当たらないし、また、日石・土田邸事件による同原告の逮捕・勾留は、「同一事件による逮捕・勾留の蒸し返し」となるものではなく、「令状主義に違反する違法な身柄拘束」ではない。

原告榎下につき、日石・土田邸事件についての勾留の理由及び必要性があったことは明らかであり、少なくとも、犯人隠避事件の逮捕・勾留中における日石・土田邸事件についての原告榎下の自白調書に信ぴょう性があるとして、これを基礎にして原告榎下につき日石・土田邸事件についての勾留の理由及び必要性があると判断した検察官の判断には合理性がある。よって、原告榎下に対する日石・土田邸事件についての勾留請求は、違法ではない。

11  原告らの日石事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

原告らに対する日石事件についての起訴は、原告榎下が自白し、同堀、同江口及び同前林が否認していたところ、他の共犯者らの自白の変遷が著しく、また、これら自白相互間の矛盾も多かったにもかかわらず、その検討が極めて不十分であった上、これらの自白のほとんどが、違法な別件逮捕・勾留中の取調べ、違法な起訴後の取調べ、任意性のない取調べなどによって収集されたものであったのに、検察官により積極的にこれらの結果が利用されて起訴判断の証拠資料とされ、その証拠能力及び証拠価値の有無が誤って判断されて行われた違法なものである。

<1> 日石リレー搬送

日石爆弾を、被疑者らが自動車で運転を交替しながら日石本館ビル内郵便局付近まで運んだとの検察官主張事実(以下「日石リレー搬送」という。)に関する被疑者らの自白は、連日の、長時間にわたる厳しい取調べの中での自白の変遷であること、他の供述者への伝染が余りにも不自然であることなどから、当然その信用性に疑問が持たれなければならないことが明らかである。

原告堀が原告榎下に日石爆弾を預け、その搬送を依頼したとの原告堀の供述及び喫茶店での謀議に関する同原告の供述は、いずれも取調官が原告榎下の供述に基づいて誘導、押付けをしたものである。

(ア) 昭和四八年三月一三日の増渕の自白内容は、「自分は雷管を製造し、これを江口に渡し、江口に爆弾製造をさせ、江口から爆弾を受け取って堀に渡し、堀に郵送させた。江口や堀は輩下の者を手伝わせているかもしれない」(原告前林の郵送関与も匂わせている)というものである。しかし、捜査当局は、日石事件当日、原告堀は多摩町役場に出勤しており、原告堀自身は爆弾を郵送していないことが分かっていた。必然的に、原告堀は増渕から受け取った爆弾をどうしたか、誰に郵送させたかを厳しく追及された。三月一五日に原告堀は取調警察官の岩間に対して「爆弾を預けるとすれば榎下、中村(泰)、松村である」旨を供述したとされる。捜査当局の目は当然この三人に向けられ、中村(泰)は八王子保健所に勤務していて不可能であったし、松村も車の点や勤務状況からして難点があった。必然的に、自動車の整備工で外出に融通がきく原告榎下が搬送者として最も疑われた。

また、捜査当局は、原告前林が事件当日に自動車の登録手続をしていたことをアリバイ工作と判断し、ホンダN三六〇の仲介をした原告榎下もそれに深く係わっている、あるいは事情を知っているとの疑いを強めた。このことは、三月二二日に原告榎下から筆跡採取が行われていることからも明らかである。

原告榎下は、当日の仕事の関係から三時間もの長時間会社を留守にするのは不可能であることが、白山自動車の関係者に対する捜査で明らかになっていたし、原告榎下自身もそのように主張していた。

昭和四八年三月二四日、原告榎下は、昭和四六年九月から一二月の間に、「彼らが重要な相談をし、もしその場に私がいたとすると白山自動車そばの喫茶店で夜江口、増渕、堀らがいた時以外に考えられません」というメモを作成する。記載内容からも原告榎下が増渕に爆弾のオルグないしは事件の謀議をしたことを追求されていたことが明確である。

昭和四八年三月二六日には、原告堀に「昭和四六年秋ころ、白山自動車付近の喫茶店で増渕と待ち合わせ、一旦席を外して白山自動車の榎下のところで待っていると増渕及び江口がやってきた。増渕が手提げ袋を持っており、白山自動車から増渕を乗せて高橋荘まで行ったが、爆発するから気をつけろと言われ、袋の中には爆弾があると思った」という供述が出る。この供述から爆弾が白山自動車まで行ったこと、原告榎下が搬送に係わっているとの疑いが一層強くなったと思われる。

なお、同日、原告榎下の取調担当警察官は、公安部管理官である石崎誠一警部(以下「石崎警部」という。)に替えられた。これは原告榎下が日石・土田邸事件に深く関与していたと確信し、同人の取調べを最重要視し、管理官という重職に交替させたものである。

勾留延長後の昭和四八年三月二八日には、下見の運転を増渕に頼まれたが断ったこと、増渕から爆弾闘争のオルグをされたことなどの供述が出る。そして、同月三〇日には、昭和四六年五月ころ増渕から「見ていろ。この秋ごろ大きな出来事があるから」と言われたこと、昭和四七年一〇月ころ、原告堀から土田邸事件の犯行を打ち明けられたこと、同年一二月三一日日大二高で原告堀から口止めされたことなどの供述が出る。

(イ) このような取調経過を経て、昭和四八年四月八日の原告榎下の自白が出る。原告榎下は、同日の局面調書で、昭和四六年一〇月九日ころ原告前林から、二、三日後には原告堀から、それぞれ、原告前林及び同江口のアリバイ工作を聞き、車の運転を頼まれたが曖昧な態度を取ったこと、日石事件当日の同年一〇月一八日午前九時ころ、原告堀が白山自動車に車で来て、増渕と原告江口が遅れて来たが、原告江口が大きな紙袋を持っていて、まもなく原告堀の車でどこかに行ったこと、同月二〇日ころ、原告堀から、事件は失敗であり、原告前林が新橋で爆弾を出してから習志野で車の登録手続をしたと聞いたことなどを供述した。しかし、同日の検面調書では、車の運転は断ったこと、原告堀の車が白山自動車から出発したことが消え、後日原告堀から「しょうがないから俺が行ったよ」と聞いたことに変更される。

この自白内容は、自分が車の運転をしたことは頑張って否認していたものの、三月二六日の原告堀供述及びホンダN三六〇の登録手続に関するアリバイ工作を繋げて作り上げたものであることは明白であり、捜査当局は事件当日の出発点が白山自動車であること、したがって、爆弾は白山自動車に来ていたこと、車は原告榎下が運転したとの心証をかためていたことを意味する。

翌日である昭和四八年四月九日の原告榎下自白は、白山自動車のトヨエース内に爆弾を預かったこと、事件当日朝、白山自動車に来た増渕と原告江口に爆弾を渡したら、二人は歩いて荻窪駅方向へ歩いて行ったこと、昭和四六年一〇月二〇日ころ、原告堀に聞いたが、運転したかをはっきり言わなかったという供述に変わる。

さらに、翌日の昭和四八年四月一〇日には、事件当日朝に白山自動車に爆弾を取りに来た増渕及び原告江口から、突然、車の運転を頼まれ、一旦は断ったが、新宿に中村(隆)が待っているからと言われ引き受けたこと(二人リレー)、新宿の高速道路の入口付近で中村(隆)らしい人が運転していたサニークーペに引き継いだことなどが供述される。

この自白に基づいて、任意取調べを受けていた中村(隆)が追求されるが、同人は翌一一日夕方まで否認する。しかし、その夜、取調官が坂本重則警部補(以下「坂本警部補」という。)に替わると右原告榎下供述と似てはいるが異なる点も多い自白が出現する。その内容は、昼ころ原告榎下に電話で、新宿高速入口の中央公園辺りに来いと言われ、そこに行くと増渕と原告江口が立っていたので二人を乗せ高速道路を通って新橋駅近くに行き、原告前林を乗せて日石本館ビル前に行き、三人が降りていったので帰るのを待って再び乗せ、東京駅まで送り午後五時ころ家に帰ったというものである。

翌一二日、中村(隆)は、時間を原告榎下供述に合わせ、新橋第一ホテル出口とガードの中間で、坂本に引き継いだという三人リレー、喫茶店サンにおける日石事件の謀議を自白する。

原告堀は、この日、原告榎下単独搬送を自白し、当分この自白を維持する。

翌一三日には、右中村(隆)の自白を基に、夕刻、坂本が日石事件で逮捕される。

原告榎下は、この日、聞いた話として坂本のリレー搬送参加を認め、三人リレーの供述が出現する。

増渕は、従前の原告堀搬送を撤回したが、よく覚えていないを連発し、日石搬送は曖昧のままである。

翌一四日、それまで否認していた坂本が、午後九時三〇分ころ取調官が江藤勝夫警部(以下「江藤警部」という。)に替わったと同時に、リレー搬送に加わったこと、「サン謀議」に加わったことを認める供述をする。

翌一五日、坂本は「サン謀議」が二回あった旨供述する。

昭和四八年四月一七日、増渕も三人リレー搬送を認めたが、搬送謀議場所を「ドライブインGT」とし、同月一九日になってようやく「サン」に変更する。

原告堀は、同月一八日、増渕が原告榎下に「サン」で日石搬送を頼んだとするが、原告榎下単独搬送を維持する。

原告榎下自白では、「サン謀議」が中村(隆)、坂本自白に相当遅れて、四月二〇日になってようやく現われる。

原告堀は、同月二一日、場所は「ボサノバ」ではあるが、増渕、原告堀、同榎下、中村(隆)による搬送の謀議を認め、同月二三日に坂本も加える。

(ウ) 以上は日石爆弾リレー搬送自白の概略の変遷を述べたものであるが、連日の、長時間にわたる厳しい取調べの中で自白の変遷であること、他の供述者への伝染が余りにも不自然であることなどから、当然その信用性に疑問が持たれなければならないことは明らかである。

(エ) 原告榎下に日石爆弾の運搬を依頼し、同原告にこれを預ける件(四八・四・一二付員面、四・一七付員面、四・一八付検面)に関する最初の調書が作成された昭和四八年四月一二日まで、原告堀は、捜査官から多くのことを追及されており、その追及の根拠となる他の共犯者の供述が存在する。

(あ) 昭和四八年四月七日

原告堀は、親崎検事より松村の日大二高の口止めに関する調書を示されて追及され、原告堀自身大きなショックを受け、岩間警部補をして、「最後まで堀君とは良好な人間関係は保っていた。」、(岩間に対して)「岩間さん私の言っていることのほうが本当なんだというような訴え方」、「岩間さんあれはうそなんだよと、しかしうそじゃ通らないよねえと相談を持ちかけるような言い方」と認識されるような心理的状態となっていた。

すなわち、原告堀としては、虚偽のことを友人の松村が供述しているそのことを「調書」という具体的なもので示されたことで、大きなショックを受け、さらに捜査官の追及から、「他の者の供述が存在する」という事実を強く印象づけられ、他の者は何故にこのようなことをいうのだろうとの疑心を深くし、自らも供述しなければ何か不利になるのではないかとの心理状態に追い込まれて行った。

捜査のベテランである岩間警部補らは、右の原告堀の心理状態を背景に誘導その他の追及をしていくのである。

なお、岩間警部補自身は日大二高口止めの件を三月三一日既に管理官の堀内英治警部(以下「堀内警部」という。)の指示で認識していることである。

岩間警部補は、右の背景のもとに同日口止めの件を追及するが調書に出来なかった。また、堀内警部の指示に基づいて電話帳の件についても追及を行っている。

(い) 昭和四八年四月八日

原告堀には、右口止めの件、電話帳の件(原告堀が増渕がらみで日大二高から電話帳を持ち出してるようだ…の堀内警部の指示に基づく)、爆弾製造の件、下見の件などが追及され、原告堀は、捜査官の認識として、「取調官の人間性にすがりつく態度」、「それは打ち解けたというか、すがるというんですか…」と見られるような、心理的状態に追い込まれていった。

(う) 昭和四八年四月一二日付調書が作られるまでの数日の間に、四月四日付でいわゆる土田邸事件が起訴となったが、日石事件は処分保留のままとなっている。日石事件の起訴、不起訴は、土田邸事件の勾留を利用したところのいわゆる起訴後の取調べに待つこととなったのである。

検察官の立場からしても、日石事件についてこの段階では、起訴に足りるだけの証拠は存在しなかったわけであるが、捜査側の当初の原告江口、同前林の両名が日石郵便局に小包を差し出す、その両名を搬送したのは原告堀であるとの見込みには大きな障害が出てきたのである。

すなわち、一〇月一八日、原告江口は大阪の学会に出席している、原告前林は、習志野の陸運事務所に行っている。原告堀は、多摩町役場に出勤していることからして、原告江口及び同前林の両名のアリバイの否定、両名を日石郵便局まで搬送する人物の特定が必要な時期であった。

(え) このことから、検察官が冒頭陳述で主張する、いわゆる日石郵便局までのリレー運搬のフィクションが創出されてくるのである(それは中村(隆)のアリバイで崩壊した。)。

それは、原告榎下、中村(隆)などの供述調書として創出されるわけであるが、原告堀の取調べも、右供述をもとに、原告堀にも同様の供述を強いる過程であった。親しい人間関係にあった、原告榎下、中村(隆)の供述を根拠としての追及に抵抗しきれない部分として、原告堀の供述調書は作成されたのである。

この件の追及が始まる前に、既に原告榎下が日石郵便局へ行っているということや、その車が当初は原告榎下のサンバーだったが、中村(隆)のサニーだったのではないかという追及がひととおりあった。

そして、この件は親崎検事の「以前に荻窪から高橋荘へ爆弾を運んだという話があったけれども、それは逆の話で、高橋荘から荻窪ではないか」という追及から始まった。

それを受けて、警察官は、「榎下に何かものを頼んだことはないか」、「榎下に新橋行きを頼んだことはないか」と追及し始めた。

この点に関して岩間警部補は、四月一二日の取調べに入る前に堀内警部から、「日石郵便局の事件には堀、榎下がらみで何かあるようだからその点調べてくれ」との指示を受け取り調べている事実を認めている。

しかし、証言では、「堀君または君の友達が日石事件で何か関係していないかというような聞き方をしている…」と述べているが、この段階の捜査としては全く措信し難いものといわなければならない。事実は、「榎下が預かったといっている」、「榎下は認めている」として追及をしていることは前に述べたとおりである。

これに対し、原告堀は、原告榎下にものを頼むことはよくあったことである上に、警察官より「榎下も頼まれたと言っている、行った本人が言っているのだからしようがない」という例の追及を受け、爆弾を運ぶということとは関係なく、「増渕が用事があるので乗せて行ってくれ」ということで原告榎下に新橋へ行ってくれと頼んだことを認めた。

ところが、警察官は、原告堀がそのように認めると、今度はその事実を逆手にとって、「実は原告榎下は、爆弾を日石へ運ぶということを知っていたんだ」と告げたのである。

ここに至り、原告堀は、当時の原告榎下とのつきあいの状況からして、原告榎下が知っていて原告堀が知らないということはあり得ないという窮地に追い込まれ、遂に原告榎下に爆弾を新橋まで運んでくれと依頼し、その間の保管を依頼したということを認めざるを得なかったのである。

原告榎下が預かった場所については、車の中となったものの、その車が特定できず、原告堀がガスボンベの裏辺り、ライトバンにひもを置いたところ、スバルサンバーの中、パプリカのバン等考えられる箇所すべてを順々にあげていったが、警察官によってすべて違うと言われ、ついにしびれを切らした警察官よりトヨエースだと誘導され、言われるままにそうなったのである。

捜査官が「爆弾のかくし場所」についての原告榎下供述を認識しながら誘導をしていた事実は、四月一二日に記載したとされる原告堀のメモに、白山自動車にある自動車の車種が記載されている(捜査官の追及による)ことからも認められる。そして、そのメモは当初原告堀がトヨエースを思いつかなかったことをも示している。

<2> 日石爆弾製造

日石爆弾製造に関する自白の変遷、相互伝染にも著しいものがあり、右自白が到底信用できないものであったことは明らかである。

日石爆弾製造については、増渕と原告榎下だけが自白しており、外に自白した者はない。土田邸事件の方が死者も出ており重罪であることが明らかなのに、土田邸事件に使用された爆弾(土田邸爆弾)の製造に参加したことを認めた原告堀、中村(隆)、松本、坂本、金本らの者が日石爆弾製造参加を否認しているということは、極めて奇妙である。この一事をもってしても、増渕らの右自白の信用性に当然疑問が持たれるべきである。最も詳しい原告榎下自白は、その変遷が著しく、肝心の点について未解明な部分が多いものであるし、増淵の自白も、原告榎下の後追い的自白にすぎず、原告榎下自白と矛盾している点が多い。

<3> 日石二高謀議

日大二高で日石事件の謀議をしたとの検察官主張事実(以下「日石二高謀議」という。)関する原告堀の供述は、取調官が、原告堀に対して具体的内容を教えて誘導したものである。

(ア) 日大二高謀議の件(四八・四・二三付員面、四・二四付員面、四・二七付検面調書)については、原告堀を犯人と決めつけ、原告堀の述べることが、捜査官の追及、すなわち他の共犯者の供述と一致しない部分は、「隠している」、「とぼけている」として追及する捜査姿勢が取られた。

(イ) 昭和四八年四月一三日取調開始前に岩間警部補は、堀内警部から、「日大二高の事件前の謀議は一〇月に入ってから二回、最初が六人であとが四人くらいと思われるから、堀君に聞いてみてくれ」と指示を受けたことを認めている。

右岩間証言は、四月一二日付調書で原告堀が日大二高に集まった件について先に述べて、一三日に堀内警部の指示があったという趣旨で述べているが、原告堀の四月一二日付調書の記載が「謀議」を認めたものとは読みとれないし、他の共犯者とされている者、原告榎下、中村(隆)、松村らの先行する供述調書の存在からいっても、右堀内警部の指示は四月一三日より前になされた可能性が大である。

岩間は、証言で、堀内警部の指示内容は、前記のような簡単なものであり、他の共犯者とされている者の供述調書も見ていない(補助者)、謀議内容についても指示はなく、それを原告堀に聞いてみてくれということだったと述べる。しかし、堀内警部の指示が右のような簡単なものであったとは、取調べを受けた原告堀の体験からも措信し難いところであるし、仮に指示が簡単なものとしても、捜査のこの段階に於いては、継続して捜査を担当していたベテラン捜査官の岩間警部補にとっては、供述している「共犯者」は誰であるか、六人の共謀者は誰であるか、四人の共謀者は誰であるか、謀議の内容は何であるかなどについては、所与の前提として推定可能なことなので、堀内警部の指示の内容が簡単であったとも考えられる。

いずれにしても、原告堀が受けた取調べは、強引な誘導であり、その誘導内容は具体的なものであった。

(ウ) 取調べは、警察官より、「堀、お前日大二高で謀議しているじゃないか」という突然の発言から始まった。「増淵は日大二高で日石事件のことを話している、土田事件のことも話していると認めている」と言うので、原告堀としては、聞いたこともないので、「自分は外でバットでも振っていたか、コーラかビールでも買いに行ったので聞かなかったのかもしれない」と答えていると、しばらくすると、「お前も発言しているではないか、お父ちゃんの言うとおりだ、この事件やろうと言っていると他の者が言っている」と言われ、このころには意識が混乱の頂点に達していたこともあって、そのようなことがあったかもしれないと思うようになっていった。

そして、原告堀は、自分は実行行為はやっていないことがはっきりしているので、話があり、それを聞いたというならそれも仕方があるまいという変に安易な気持ちになり、さらに、「増淵がリーダーで堀がサブリーダーであることをはっきりさせろ」との警察官の追及に、今までの諸々の追及の中から、「義理で認める」というような気になり、認めさせられていってしまった。

(エ) 右の点に関し、岩間証言は、堀内警部の指示を生のまま尋問するのではない等述べ、強引な誘導を行ったことは否認しているが、ある意味で取調べの当事者として当然の証言であろう。

岩間証言では、「…最初は六人じゃないか、あとは四人じゃないかという聞き方をしていると思います。」等と曖昧に述べているが、昭和四八年四月一四日付被告人取調状況報告書の四月一三日の取調状況として、「日石事件の後、日大二高に集まって何をやった、一〇月中に君は二度集まっている。最初は六人で次は四人だ、最初の時のことから話してみろと質問すると」、「本当に記憶がないんです。六人中五人が認めていることならそれが事実でいいですよ、もう全くいやになった、と答え、具体的事実には触れようとしなかった」と記載されていることからして、原告堀の述べるように、また、以下に述べることからして、かなり高飛車な、かつ、他の者は供述しているとして強引な取調べを行ったことが認められる。

(オ) これに対する原告堀の対応としては、集まったメンバーについては「全然判らないです。」と否認するが、取調官の追及の結果として、「しかし、集まるとしたら」と仮定の話として、「中村隆治、榎下、松村、江口、増渕、堀」(取調状況報告書添付メモ)、「増渕、榎下、中村隆治、松村、私に前林さんか江口さんである。」(前同)と六人の氏名を想定せざるを得なくなる。

原告堀は、「私のやったことは裁判所で明らかになるでしょう、ここでいう人間性を表すということは自供を強いているように聞こえる」などと抵抗を続けるが、捜査官の謀議の内容の具体的な誘導には、一応仮定、想定の話としてではあるが、「思う」、「でしょう」、「ことになる」、「なると思う」という表現であるが、誘導には同調的になっていく。

しかし一方では、捜査官の話す事実があまりに具体的で、他の供述者が一致して供述しているとされるので、「人間の記憶でこんなことがあるかどうか、もしそんなことないのなら精神鑑定を受けます」、「しかし、弁護士には、記憶がないことを言う必要がないと言われたので、一切言えない」、「自分にはわからないことが多すぎる、しかし、自分はうそをついていない」と最後の抵抗を試みたりしていくが、だんだん追い込まれていくのである。

(カ) さらに、当初は一般論として聞き、右に述べたように仮定のこととして話していたのが、原告榎下や中村(隆)が爆弾の話や技術的なことを話していただろうとの追及に対し、中村(隆)とか原告榎下は、そういう爆弾闘争をやる人間ではないから、爆弾なんか作れっこないということを日大二高の校庭に出るときに思ったのではないかと思い込み、そこから具体的な任務分担があったのかなということになり、ついに認めさせられてしまったのである。

集まったメンバーについても、原告江口については、日大二高へ行ったのは二人でしかないという記憶もあったのであるが、警察官より原告江口は二回も行っていると言われ、二回もあったとなれば、自分の記憶間違いらしいと思うようになり、さらに、「江口は余りしゃべらなかったから記憶に残っていないのだ」などと言われ、原告江口についても認めてしまったのである。

(キ) そして、結局のところ、岩間証言によっても、追及を開始してから一〇日間余り後の昭和四八年四月二三日、同月二四日に認めさせられて調書とされてしまうのである。しかし、その内容は、他の共犯者とされている者の供述に比較すれば、「簡単な」、「あいまいな」ものであり、それが、右に述べたとおり、捜査官の押付けによることの証左の一つともなっているのである。

しかし、捜査官とすれば、「具体的事実」を知っていながら「逃げていた」原告堀から供述を「曖昧な」ものでもとにかく調書に出来たということで以後取調べもますます厳しくなっていくのである。

しかし、この段階を客観的に見れば、勾留後九〇日以上になった時点であり、原告堀の勾留状況、身体状況と右取調経過を総合すれば、任意性、特信性のない調書であることは明らかである。

<4> 原告前林のアリバイ

原告前林のアリバイ供述は、日石事件当日は、午前九時ころ千葉県松戸市常盤平の実家を出て、自動車の登録手続をするため、松戸市役所常盤平支所に行き住民票の交付を受け、その後電車及びバスを乗継いで千葉県陸運事務所習志野支所に行き、午後二時ころ車検場を出たというものであるが、これについて、捜査官が実地捜査を実施したところ、<1>午前一一時発の京成バスはワンマンバスであり、午前一一時八分発のバスは男の車掌が乗務しているがこれは新京成バスであること、<2>所要時間は一五分であることの二点を除き、多くの事項が原告前林供述にそうものであったこと、前林の前記アリバイ供述は、約一年半前の出来事からすると、この二点程度の記憶違いがあっても止むを得ないもので十分な信用性があること、しかも、裏付捜査の結果、松戸市役所常盤平支所の前林則子の署名のある住民票抄本交付申請書が提出され、同抄本が交付された事実及び陸運事務所で前林名義の軽自動車登録手続がなされている事実がそれぞれ確認されたことなどに照らすと、捜査官としては、なお一層原告前林の供述に基づいて詳細な捜査を継続すべきであったので、それは事前の綿密なアリバイ工作の結果に違いないと即断して、必要な捜査をしなかった。

<5> 原告江口のアリバイ

捜査官は、原告江口が午前一〇時四〇分ころの爆発直前に日石地下郵便局に爆弾を差し出した後、東京駅に急行して午前一一時発のひかり号に乗車し、午後二時一〇分に新大阪駅へ到着してなにわ会館へ直行すれば辛うじて午後二時四五分ころに到着することができるから、原告江口が第八回全国衛生化学技術会議総会の第二分科会に出席することは不可能ではないとして十分な裏付捜査をしなかった。しかし、原告江口の右行動は、時間的に極めて窮屈で綱渡り的なきわどさを有しているから、原告江口のアリバイが認められる可能性があった。原告江口に対する容疑が、場合によっては将来極刑も予想される爆発物取締罰則違反等であるから、捜査官は、さらに慎重に原告江口のアリバイの成否について捜査をすべきであったのに、アリバイが成立するとしてもそれは事前の綿密なアリバイ工作の結果に違いないと即断して、必要な捜査をしなかった。

<6> アリバイ工作

アリバイは犯罪行為の時に犯罪現場以外の場所に居たという事実の証明であるから、犯行の日時と場所が特定されて初めて意味を持つところ、日石事件については、犯人が当初計画したとおりに送付宛先で爆弾が爆発すれば、証拠が散逸し爆弾差出し郵便局や日時を特定することがおよそ不可能となってしまうのであるから、そもそもアリバイ工作をする必要がない。日石事件で原告前林及び同江口の行動がアリバイとして意味を持つに至ったのは、当初予期しなかった日石郵便局での爆発という偶然の事態発生による差出日時特定の結果に他ならず、犯人が、差出しに失敗して爆弾が爆発することを想定して、差出時間に合わせてアリバイ工作をするということはおよそあり得ない。

また、事前に周到なアリバイ工作が行われていたのであれば、自己に犯人としての嫌疑が向けられた場合には直ちにアリバイを主張するはずなのに、原告前林及び同江口の取調べに対する態度は、明らかにそれに反している。

さらに、事前に周到なアリバイ工作が行われていたのであれば、他の共犯者らもそのアリバイを主張して自己に対する追及を逃れようとするのが自然であるが、原告榎下、増渕らの取調べに対する態度は、明らかにそれに反している。

原告前林及び同江口のアリバイについての各供述を虚心坦懐に受け止めて検討するとともに、両名の右供述に至る経緯や増渕らのアリバイ工作なる供述がなされた時期、経緯を仔細に比較すれば、捜査官としても、アリバイ工作などという結論を採用できなかったことが明らかである。

(ア) 事前に周到なアリバイ工作が行われていたのであれば、自己に犯人としての嫌疑が向けられた場合には、直ちにそのアリバイを主張して、それ以上捜査が自己に及ばないようにするのが自然であるが、両名の取調べに対する態度は明らかにそれに反している。

(あ) 原告前林は、昭和四八年三月一四日に日石・土田邸事件で逮捕されたが、翌一五日の取調べに際し、「あなたは昭和四六年一〇月一八日と一九日の両日会社を休んでいるが、なぜ休んだのか」と尋ねられたのに対し、「日石等に行っていません。何で休んだか、現在のところまったく記憶にありません。」と答えており(四八・三・一五付検面)、三月二〇日の取調べに際しても、「昭和四六年九月か一〇月ころ、習志野陸運事務所で自分で手続きをしたか、はっきりした時期は判らないし、印鑑登録をしていなかったから住民票が必要だったので、同じ日かどうか覚えていないが、これを自分で取りに行った。」と答えるにとどまっており(四八・三・二〇付取報)、同年三月三一日になって初めてアリバイを主張したのであり、右の供述経過に照らせば、原告前林が当初アリバイを主張しなかったことは明らかである。

(い) 原告江口は、大阪に行く際乗った新幹線について、「午後二時半ころまでになにわ会館に到着すればよいという記憶があったので、新幹線の東京発の時刻は到着を午後二時半ころを目安にして一八日の午前一一時の列車の切符を買いました。」と供述しており(四八・四・三付検面)、五月四日の取調べに際し、「キップを買う時乗車希望列車についてどのように記入したか、申込用紙を出したか」との問いに対し、「私は新大阪駅に午後二時につけば第二分科会に出られると考えていたので、駅員に二時ころ着く列車を尋ねたうえで、東京駅発午前一一時ころのキップを買ったのです」と供述した(四八・五・四付検面)。

原告江口は、右のとおり新幹線の発車時刻を述べるに際しては、いずれもなにわ会館に到着しなければならない時間を基準にしており、しかも午前一一時あるいは午前一一時ころと供述している。もし、原告江口が事前に周到なアリバイ工作の謀議をしたのであれば、日石郵便局で差し出した時刻、すなわち爆発した午前一〇時四〇分を基準として完全にアリバイが成立し得る早い時刻、例えば午前一〇時三〇分の新幹線に乗ったと供述するのが自然であって、差し出し後多少の無理をすれば乗車可能な、したがってアリバイとして成立し難い午前一一時あるいは午前一一時ころの新幹線に乗ったと供述することはあり得ない。

(イ) 事前に周到なアリバイ工作の謀議が行われていたのであれば、アリバイのある真犯人のみならず他の共犯者らもそのアリバイを主張して自己に対する追及を逃れようとするのが自然であるが、原告榎下、増渕らの取調べに対する供述態度は明らかにそれに反している。

(あ) 増渕は、検察官の推測によれば日石事件の首謀者であり、アリバイ工作の中心人物としてその内容を最も熟知しているはずの者であり、したがって、捜査官の取調べに際して当然に原告前林、同江口のアリバイを主張して自己のみならず他の共犯者に対する追及をかわそうとするのが自然である。ことに、原告前林は増渕と同棲して内妻とも呼べる関係にあったのであるから、増渕が原告前林の行動を供述してそのアリバイを主張することは格別不自然なことではなかったはずである。しかし、増渕は取調べに際して、アリバイについて何ら供述をすることなく、四月九日には、「私はホンダN三六〇を登録することにしておりましたが、一八日に前林則子に日石郵便局に爆弾を出させてから同女を習志野に登録のためやり、前林則子のアリバイを作ろうと思いました。江口良子さんの方も爆弾を出してすぐ新幹線に乗ってしまえばアリバイがあることになり、二人とも大丈夫だと思ったわけです。」と突然アリバイ工作を供述した(同日付検面)のは、事前にアリバイ工作の謀議が存しなかったからである。

(い) 原告榎下も、原告前林のアリバイについて何ら主張することなく、直ちに「前林は、『実は一八日にビックリ爆弾を郵送することになった。私が習志野に行って自動車の登録手続をしているようにみせかけるから、それに間に合うよう廃車手続をやってほしい。』と言いました。」と供述して(四八・四・八付検面)、原告前林のアリバイ工作を自白したというのも、事前にアリバイ工作の謀議が存しなかったからである。

(う) 原告前林及び同江口の供述するアリバイについて虚心坦懐に受け止めて検討するとともに、両名の右供述の出た経緯や増渕らの「アリバイ工作」なる供述の出た時期、経緯を仔細に比較すれば捜査官としてもアリバイ工作などという結論には到底至らなかったことは明らかである。

(2) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

捜査官は、日石リレー搬送におけるアリバイに関し、中村(隆)が東京都府中市内の自動車運転試験場で普通免許取得のための学科試験を受けたことが分かっていたのであり、学科試験を受けた日を極めて簡単に調査できるにもかかわらず、全くこれを調査しなかった。

中村(隆)は、日石事件当時、運転免許を取得しようとしていた最中であった。捜査当局には、中村(隆)が、日石事件発生のころ、学科試験を受けたことが分かっていたのである。また、高速道路を、爆弾を乗せた車を運転するのであるから、無免許運転をするには心理的に強い抵抗があったはずである。しかし、中村(隆)の日石リレー搬送に関する自白には無免許で運転したことの不安は全く記載されていない。これだけの自白を得ながら、捜査官は、学科試験を受けた日を極めて簡単に調査できるにもかかわらず、全く調査しなかった。これは捜査上の初歩的ミスである。地刑六部の松本に対する判決は、このミスについて「まさに重大な捜査の失態といわざるをえない」と断じている。このような「失態」は、日石リレー搬送についての自白が、被疑者から任意に出てきたものではなく、各供述者の弁解を聞きながら捜査官が筋書を作り挙げ、これを押し付けて作出されたものであるからこそ捜査官がそのような調査を思いつかなかった結果発生したものである。

<1> 日石事件について、刑事裁判所が、原告らに無罪の判決を言い渡した最大の理由の一つは、日石爆弾のリレー搬送者の一人となった中村(隆)に明確なアリバイが存在したという点であった。

同人は、搬送の日とされた同日、同時刻に運転免許試験場において、筆記試験を受験していたのである。

同人に対するアリバイの成立は、同人の無罪を明らかにするだけでなく、本件事件全体が、虚構の上に成り立っているものであることを端的に示している。

第一に、弁護人が弁論要旨等で、詳細に明らかにしたように、右アリバイの存在は、右搬送に関与したとされる者、すなわち、増渕、原告榎下、坂本らの供述調書の任意性、信用性に決定的な影響を与えることになったのである。

しかも、時を同じくして、これらのものから、中村(隆)が、リレー搬送に関与したとの供述調書が作成されている事実は、まさしく、捜査官の不当かつ違法な誘導等があったことを明確に示しているのである。連絡が遮断されたこれらの者が任意にかかる虚構の自白をするはずはなく、捜査官による違法捜査以外に考えられないのである。

<2> このような中村(隆)のアリバイは、捜査官が通常の注意をもって捜査すれば、容易に判明したはずである。

同人が受験した運転免許試験場は、民間の機関ではなく、本件捜査を担当した警視庁自体の管轄下にあった機関である。

中村は、事件当時、運転免許を有していなかったことは、取調官らは十分に認識しており、同人も、同日ころに運転免許を取得したと供述しているのであるから、同人が、いつ、どのような方法で、運転免許を取得したのかは、当然捜査すべきであったし、警視庁の捜査官にとっては、容易に捜査することができた事実であったといわなくてはならない。

親崎検事は、右の点についても、十分な捜査を行うよう警察側に指示しており、そのとおり捜査が行われていたと証言する。しかし、実際はそうではなかったのである。右アリバイの事実が、弁護人が弁護士法二三条の二の照会によって、容易に認知できたものであることをみれば、捜査官が捜査を怠ったことは明らかといわなくてはならない。

親崎検事の右証言は、捜査の不十分さを自ら認めているものにほかならない。

かかる捜査を怠り、違法な誤導により供述調書を作成した取調官や、これに基づいて本件起訴をした起訴検察官の責任は、きわめて重いといわなくてはならない。

(二) 被告国の主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

検察官は、原告らを含む被疑者らを日石事件の共同正犯として東京地裁に公判請求した際、それまでの捜査によって収集した検察官あるいは警察官作成の捜査関係書類、供述調書のほか、証拠物等の多くの証拠を検討し、原告らが日石事件を敢行したことを立証するには、<1>日石事件において爆発現場に遺留された小包爆弾の破片及び荷札等、<2>原告榎下、増渕、中村(隆)及び坂本の各自白、<3>原告堀の自白、<4>原告江口及び同前林のアリバイ工作に関する証拠、<5>松村、中村(泰)、金本及び松本の各供述が特に重要な証拠であると判断した。

(2) 検察官の公訴提起時における判断

<1> 自白調書の証拠能力についての判断

親崎検事は、右の原告榎下、増渕、中村(隆)、坂本及び原告堀の各自白を録取した供述調書は、いずれも、任意性に疑いのない自白であるだけでなく、その自白獲得の捜査、取調べも違法ではなく、いわゆる違法収集証拠ではないから、証拠能力を有すると判断した。

<2> 証拠の評価

(ア) 日石リレー搬送等

日石リレー搬送及び喫茶店「サン」で日石事件の謀議をしたとの検察官主張事実(以下「日石サン謀議」という。)に関する具体的供述は、昭和四八年四月八日の原告榎下に始まり、その後増渕、中村(隆)、坂本、原告堀らが供述したが、右関係共犯者五名の供述は、大筋において一致し、とりわけ、原告榎下、中村(隆)、坂本の各供述は、詳細かつ具体的で、迫真性に富むものであったので、親崎検事は、これらの各供述に信用性があるものと判断した。

この点、日石事件の公訴提起後、中村(隆)のアリバイが判明して、日石リレー搬送に関する供述のうち、中村(隆)が第二搬送者であったという点についての中村(隆)、原告榎下、増渕及び坂本の各供述が虚偽であることが明らかとなった。しかし、ここでの問題は、公訴提起時における親崎検事の証拠の評価が合理性を有していたか否かであるから、公訴提起後における右アリバイの発見をもって、直ちに検察官の公訴提起に違法があったということはできない。

検察官は、右五名の他の供述部分を総合すれば、次の事実を認めることができると判断した。

すなわち、「日石リレー搬送に関するサン謀議は二回あったのであり、一度目の謀議で中村(隆)を第二搬送者とする搬送計画が決まったが、同人がその後怖じ気づきいったん引き受けた日石リレー搬送の役割から離脱したため、二度目の謀議で搬送計画の練り直しが行われたのである。中村(隆)が日石事件当日に学科試験を受けたのは、日石リレー搬送から故意に脱落し、試験場に逃避したということである。日石事件当日中村(隆)自身は日石リレー搬送に関与していないが、少なくとも新宿の高速道路入口付近から新橋の第一ホテル前付近の区間は中村(隆)方のサニークーペが使われたことは間違いなく、ただ、その運転者が不明であるのみである」というものである。

原告榎下、増渕、中村(隆)、坂本及び原告堀の自白は、各人各様の配慮から意図的に、あるいは記憶の欠落から、虚偽をまじえたことはあっても、最終的な形においては、ほとんどの点において真実を語っており、右中村(隆)の運転及び二回のサン謀議に関しては、五名とも真の運転者が中村(隆)でないことを知りつつ、何らかの理由から真の運転者を隠すこととし、捜査官の質問により先に供述した者の真意を悟り、いわば以心伝心で中村(隆)を第二搬送者とするほぼ一致した虚偽自白をなしたものと評価することができる。このことは、捜査段階においては捜査官も看破しえなかったが、右五名の自白を、供述経過を踏まえ、各人の供述全体とその特徴をも勘案しつつ仔細に検討すれば、自ずと明らかなことである。

(イ) 日石爆弾の製造

原告らは、増渕と原告榎下だけが、日石爆弾製造について自白しており、製造参加メンバーとして、増渕、原告堀、同江口、同榎下、同前林、中村(隆)、松本、坂本及び金本の合計九名であったと述べていることを捉えて、重罪であることが明らかな土田邸爆弾製造参加を認めた原告堀、中村(隆)、松本、坂本、金本らの者がこれよりも軽い日石爆弾製造参加を否認しているということは、極めて奇妙であり、この一事をもってしても、右自白の信用性に当然疑問が持たれるべきであった旨主張する。しかしながら、親崎検事は、このうちの増渕、原告堀、同江口、同榎下及び同前林の五名について日石爆弾製造に参加したと判断したものであり、右自白をそのまますべて信用したものではないから、原告らの右主張は、親崎検事の証拠評価の合理性に対する直接的な批判にはならない。また、公訴提起当時、日石爆弾製造を自白していたのは、増渕及び原告榎下の二名であり、残りの者は否認していたが、原告前林及び同江口は、日石事件についての一切の関与を一貫して否認していたものであり、原告堀も基本的には否認の態度に終始していたものであることを考えれば、自白した者が二名であること自体は、何ら不自然なことではないと評価され得るものであった。

さらに、原告らは、原告榎下自白は、その変遷が著しく、肝心の点について未解明な部分が多いものであるし、増渕の自白も、原告榎下の後追い的自白にすぎず、原告榎下自白と矛盾している点が多い旨主張し、日石爆弾製造に関する右自白の信用性を否定しているが、原告らは、右自白の変遷や齟齬等を表面的に評価しているものであり、証拠評価の方法を誤っている。なぜならば、多数の被疑者によってなされた個々の自白の真偽を判断するに当たっては、当該供述をした被疑者の組織内における地位、供述時における心理状態、供述者の性格等諸事情を考慮しつつ、捜査の過程における自白時期と内容、自白の新奇性、虚偽の自白をするに至った動機、原因、供述内容の変遷及びその理由などを総合的に考慮する必要があり、自白の変遷があること、自白相互間に齟齬があること、自白の一部に客観的事実と合致しないものがあること等を形式的、表面的に取り上げて自白全部について一義的にその信用性を判断すべきではないからである。

親崎検事は、原告榎下及び増渕の各自白について、右の諸要素を総合的に考慮し、さらに、爆弾製造に使用されたビニールテープに関する供述について客観的な証拠と照合するなどして供述の真実性を確かめた上で、右供述の信用性を慎重に判断した。

(ウ) 日石二高謀議

昭和四六年九月一八日ころの夜、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)及び松村が、日大二高に集合し、増渕は、「これからは爆弾闘争によって権力を倒さなければならない。小包爆弾を権力の要人に郵送するので、協力してくれ。」などと説明して原告榎下らを説得し、同原告らは、これに協力することを約束して、爆弾闘争の推進を話し合い、さらに増渕は各人に対しそれぞれの任務分担などを指示した。

この日石二高謀議については、原告榎下の昭和四八年四月三日の供述が発端となり、同月八日になって、まず原告榎下が日石二高謀議として認め、中村(隆)も同日、日大二高で増渕から政府要人に対し小包爆弾を送るので協力してほしいと頼まれたが金属ケースやスイッチについて助言したにとどまる旨の供述をし、松村は同月九日に謀議を認め、同月一一日には、中村(隆)が右日大二高における出来事を任務分担の割当てを伴う謀議として供述するに至った。他方、増渕も同月八日にオルグとして、同月一三日に謀議としてこれを認め、原告堀も同月一二日に日石二高謀議を初めて供述し、同月一四日、一五日にその概要を供述した。

日石二高謀議については、多数の関係者の供述がいずれも比較的早い時期に自然に出てきており、先行した原告榎下らの供述の信用性も高いと判断できたことから、検察官は、「昭和四六年九月一八日ころ、日大二高で、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)、松村らが爆弾闘争に向けて話し合いをし、増渕からそれぞれの任務分担などが指示された」という事実があったものと判断した。

なお、右謀議への原告江口の参加については、増渕及び原告堀がこれを否定していたものの、原告榎下が昭和四八年四月八日以降、中村(隆)が昭和四八年四月一一日以降一貫してこれを肯定し、増渕によって指示された原告江口の任務分担についても明確に供述していたこと、増渕及び原告堀の供述態度が取調官の反応を見つつ、捜査の進展状況を探り、虚偽供述を混入させることによって捜査の混乱を画策しようとしていたのに対し、他の両名とりわけ中村(隆)のそれは極めて真摯であって、その信用性は高いと評価できたことなどから、検察官は、原告江口の右謀議参加が間違いないものと判断した。

(エ) 現場の下見

日石事件関係の下見については、原告榎下が、昭和四八年四月八日石崎警部に対し、昭和四六年九月末ころ増渕と原告江口を乗せて日石本館ビル付近の下見をした旨を簡略に自白し、その後これを若干変更して、「昭和四六年一〇月七日ころの午後八時ころ、増渕、江口、堀の三人を車に乗せて新橋方面の郵便局の下見をした。」旨詳細に自白を展開し、増渕も、昭和四八年四月一三日高梁警部補の取調べにおいて、「昭和四六年一〇月初旬ころの夜八時過ぎころ、榎下に頼んでスバルサンバーで日石ビルの郵便局の下見に行ったが、一緒に行ったのが誰だったか忘れた。私一人だったかもしれない。」旨、原告榎下の自白に添う供述をした。

また、原告榎下は、自己以外の者が関与した下見として、「昭和四六年一二月三日ころ高橋荘で荷札書きをした際、そこへ来ていた坂本から、増渕、前林、堀を乗せて夜日石郵便局の下見をしたと聞いた。」旨、次いで、「自分が日石下見に行った時の車内で、増渕が、堀に、また昼間でも一回来てみる必要があるんじゃないか、どうだ堀、昼にでも出て来ないか、と聞くと、堀が、昼間出るのはやっぱりヤバイよ、じゃあボンタ(松本を指す。)にでも頼むんだなあ、と言っているのを聞いたので、松本が下見か何かの手伝いをするのではないかと思っていた。」旨それぞれ供述した。

松本は、日石関係の下見に関し、「昭和四六年九月三〇日ころの午後九時二〇分ころ、増渕と阿佐ヶ谷駅前の喫茶店「華厳」で落ち合い、ローレルに増渕を乗せて日石ビル手前に午後一一時ころ停車した。増渕は日石ビルの前を五、六分見てまわった。」旨、「昭和四六年一〇月四、五日ころの午後九時四〇分高橋荘に行き、増渕をローレルに乗せて目白駅近くの下落合を下見した。増渕は下車して一五分か二〇分付近を見ていたが、帰ってきてわかったと言ったように記憶している。」旨(前同)、更に「下落合の下見をしたあと増渕から横浜の方へ行くように言われたが、横浜は遠いので時間がないと言って断った。」旨それぞれ供述した。

検察官は、これらの自白が信用できるものと判断した。

(オ) 筆跡隠ぺいのための準備

日石・土田邸事件の遺留筆跡が誰の手によるものかの点について密接な関連を有する筆跡集め、荷札書き等筆跡隠ぺいのための準備に関する供述は、昭和四八年四月三日の中村(隆)に始まり、同月八日には松本が、続いて同月一〇日に増渕が、翌一一日には原告榎下がそれぞれ行っている。

日石事件に関し、犯行現場から押収された荷札の筆跡と増渕ら被疑者一一名の筆跡との同一性の鑑定については、正式には昭和四八年六月二二日付け警視庁科学検査所長宛鑑定嘱託に基づく同年八月八日付け鑑定が最初のものではあるが、捜査本部は、既に捜査段階から、同科学検査所文書鑑定課長であった鳩山茂に、右押収にかかる荷札と対照資料を見分させ、その意見を徴していた。それによれば、右荷札の筆跡は、写し字と多数回のなぞり書きを特徴とするもので、これがために、鑑定上重要な筆勢、筆圧、書字能力、字画形態、字画構成の判定が困難であって、対照資料中の筆跡に類似するものがいくつか認められるものの、特定人の筆跡であると断定するには至らなかったというものであった。

親崎検事は、筆跡を集めて写し字の方法によって荷札を書いた旨の中村(泰)、松本、原告榎下らの各供述は、それ自体信用性が高いと判断できた上、これが右鳩山の専門家としての意見によって裏付けられたことから、被疑者と本件犯行とを結び付ける重要な事情であると判断したのである。そして、筆跡集めの事実は、主犯である増渕及び原告堀もこれを認める供述をしていたことをも併せ考えると、増渕らが筆跡を隠ぺいするために多数の者から筆跡を集め、なぞり書き、二重書きをしたことは疑う余地がないと判断できたのである。

<3> 原告前林及び同江口のアリバイ

検察官は、当時、原告前林及び同江口の各アリバイ主張について、警察を指揮して、詳細な捜査を実施しており、この点について通常要求される捜査を尽くしている。したがって、原告前林にはアリバイが成立しないとした検察官の判断には、合理性がある。

また、増渕及び原告榎下の供述等の関係証拠に照らすと、原告前林、同江口の日石アリバイ主張は、増渕によって考え出されたアリバイ工作であると認定した親崎検事の判断は、合理的であることが明らかである。

<4> 右のように、親崎検事は、前記(1)記載の各証拠を慎重に検討した結果、原告榎下、増渕、中村(隆)、坂本及び原告堀の各供述は基本的部分について物証とも矛盾せず、信用性が高いと判断した。そして、親崎検事は、これらの証拠を総合すれば、昭和四六年九月一八日ころ、日大二高において、原告堀、同江口、同榎下、増渕及び中村(隆)が日石事件についての共謀を遂げ、また、増渕の内妻として高橋荘で同棲していた原告前林も同年九月下旬ころまでに、増渕らとの共謀を遂げた上、これらの者が、爆弾郵送先の選定や日石本館ビル付近の下見、筆跡隠ぺいのための準備及び事務服の調達などを行い、同年一〇月一二日ころ高橋荘において日石爆弾二個を製造した上、同月一八日、原告榎下および中村(隆)が、いわゆるリレー搬送によって、日石爆弾を所持した原告江口および増渕を日石本館ビル近くまで運び、原告江口及び同前林において、日石爆弾二個を日石郵便局窓口に提出したとの事実、さらには、右犯行後、原告江口が新幹線で大阪に赴き、坂本が原告前林及び増渕を習志野まで車で運ぶなどのアリバイ工作をしたとの事実を認めることができるとして、原告らについて、いずれも日石事件につき爆発物取締罰則違反、殺人未遂の罪で有罪判決を得るに足る犯罪の嫌疑があると判断したものである。

(3) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

捜査官は、中村(隆)の自動車運転免許学科試験受験日の裏付捜査を実施しなかったが、それは、中村(隆)自身がリレー搬送したことを認め、アリバイ主張を全くしていなかった上、第一搬送者の原告榎下、第三搬送者の坂本、主犯である増渕がいずれも中村(隆)の右自白を裏付ける供述をしていたことから、それら手持ちの証拠資料のみで有罪の嫌疑が十分に認められると判断し、殊更にアリバイ捜査として学科試験の受験日の裏付捜査を尽くすことが公訴提起の可否を決する上で必ずしも重要でないと判断したためである。なお、捜査官は、学科試験受験日の裏付捜査に優先する裏付捜査、すなわち日石事件当日の取引先の捜査やガソリンスタンドの捜査などを行っていたのであって、中村(隆)の学科試験受験日に関する裏付捜査を行わなかった点については、通常要求される捜査を尽くさなかった違法があるとはいえない。

(4) 判断の合理性

検察官は、右の証拠を総合勘案して、合理的な判断過程により、原告らが有罪であると認められる嫌疑があると判断して公訴を提起したものである。検察官の右証拠評価は、合理的であり、少なくとも、法の予定する一般的な検察官を前提として、通常考えられる判断の幅を考慮に入れても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達しているとまでは到底認められない。

12  原告堀及び同江口の土田邸事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

検察官が土田邸事件について原告堀及び同江口を起訴するにあたって判断の資料とした増渕や原告堀らの自白には、証拠能力も信用性もなかった。

昭和四八年四月四日に土田邸事件について原告堀及び同江口が起訴された時点において、証拠資料は増渕の自白が存在するのみであったから、この起訴は、十分な証拠もないのになされた違法な見込起訴というべきである。

(1) 増渕の供述

<1> 増渕の昭和四八年三月一三日の自白内容は、抽象的で具体性に乏しく、自白した事実は他の証拠によって裏付けられていないので、それ自体は証拠としての価値がない。

<2> 増渕の津村検事に対する自白は、警察の違法な取調状況をチェックせず、むしろこれに乗じて獲得されたものであって任意性がなく、違法収集証拠であり、証拠能力がない。

増渕は、昭和四八年四月四日、土田邸事件勾留満期の日に、同事件で起訴された。しかるに、右時点までに検察官が収集した証拠、特に関連被疑者の「自白」の内容は、現時点において検察官が主張している事実の内容とは、ほど遠いものであった。

それまでの増渕の「自白」の主たる内容は、

(ア) 土田邸事件は、増渕、原告堀及び同江口の三人が行ったものであり、

(イ) 原告江口が、増渕の指示で爆弾を製造し、できあがった爆弾を増渕が受け取り、これを原告堀に渡し、原告堀が土田邸にこれを郵送とした、

というものであった。

しかるに、取調べを担当した津村検事自身、かかる自白内容自体、信用していたわけではなかった。

同検事はこの点につき、刑事審において、「製造については増渕君が少なくとも、共犯者、何人おるかわかりませんけれども、少なくとも増渕君が自宅において爆弾を製造したということは、主張できると思います。」「増渕君が爆弾を自分の住居から、神保町郵便局に運んだということは主張できると思います」と述べていることからも明らかなように、増渕に対する起訴は、四月四日までに作成された自白調書の内容に裏付けられて行われたものではなく、単に、増渕が、抽象的に土田邸事件を「自認」しているとの理由で、勾留期間が満了するため、捜査当局によって、その具体的内容は起訴後の取調べに委ねて行われたものといわなければならないのである。この意味で増渕(並びに原告堀及び同江口)の土田邸事件に関する起訴は、典型的な見込起訴というべきである。

捜査当局は、当初から、四月四日起訴以後、土田邸事件に関する起訴後の勾留を利用して増渕から「自白」を採取することを予定していたのであり、当然にその必要があったのである。

(2) 原告堀の供述

<1> 原告堀の「昭和四六年秋、増渕と堀の両名が、白山自動車から高橋荘へ行った際、増渕が爆弾らしい物を持っていた。」との供述は、警察官の決めつけによる追及を受けた結果、「幻覚というか思いこみとかそういうもので」供述させられたものである。

(ア) 原告堀は、捜査官の取調べにおいて、自分は知らないで手伝っていたのではないかとの意識になり、「何か運んでいるのだったら認めなければいけないな」とか「何かあるのだったら一つ認めなければいけないな、一つ認めて勘弁してもらおう」などと考え、そしてどうせ他人の供述でもっていかれるのなら三年くらいのところで勘弁してもらおうなどと思っていた。

そして、車の中であったことの追及の一環、続きとして、「増渕と一緒にいて増渕の言動に何かおかしなことがあったときはないか」「何か爆弾があってひやひやしたことはないか」という追及がなされ、原告堀は一生懸命思い出そうとした。

そしてまず、たまたま増渕よりアパートの近くでゆっくり走れと言われたことがあるような気がして、それを言うと、なぜゆっくり走らなければならなかったのかと追及され、その説明ができないでいると、それが爆弾を運んだときであると決めつけられたのである。

さらに次には、「環状八号線を走っているときに増渕にスピードを出すな、爆発するものがある」と言われたような気になり、正に幻覚というか思い込みというかそういうもので、その気になり、その点が付け加えられたのである。

白山自動車の近くの喫茶店が出発点となったのは、増渕、原告堀、原告江口が最後に会ったのが、昭和四六年夏ころで、それが白山自動車の近くの喫茶店であったのであるが、それが事件の脈絡の中に組み入れられ、昭和四六年の秋というのは、右の昭和四六年夏ころを強引にもっていかれたためである。

(イ) 被告国は、親崎検事は、昭和四八年四月四日の起訴時において、原告堀の「昭和四六年秋、増渕と原告堀の両名が白山自動車から高橋荘へ行った際、増渕が爆弾らしい物を持っていた」旨の供述(四八・三・二六付員面、三・二九付検面)は、原告江口が爆弾の製造関係を担当し、原告堀が搬送関係を担当したとする三月一三日以来の増渕自白の基本線とよく符合し、増渕自白の真実性を担保するものと判断したと主張している。

しかしながら、右供述は、増渕を車に乗せてどこへ行ったとかいう追及の中から出てきたものであり、また、原告堀が高橋荘と白山自動車の間を増渕を車に乗せて往復したということは原告堀は単に増渕の「足」であったということにすぎず、原告堀が爆弾の搬送担当であったという判断には大いに飛躍があり、右のような判断は思い込みでしかない。

<2> 原告堀が金本に小包の郵送を依頼した旨の供述は、小包の一般的な話から具体的に爆弾事件に結びつける取調べが行われてそのように思いこんでしまって供述させられたものである。

<3> 原告堀の金本に対する小包預けや小包郵送依頼の供述については、捜査官は、金本の取調べや勤務状況の調査から、同人が南神保町郵便局から小包を郵送することがあり得ないことを起訴時までに認識していたはずであるから、原告堀の右供述が信用性のないものであることを知っていたはずである。

被告国は、親崎検事は、昭和四八年四月四日の起訴に当たって、原告堀の「昭和四六年一二月ころ、堀が金本に小包の郵送を依頼した。」旨の供述(四八・三・二七付及び三・二八付員面、三・二九付及び三・三一付検面)の信用性は高く、ひいては原告堀を郵送担当者として土田邸事件を敢行したとする増渕自白を裏付ける重要な供述であると判断したと主張している。

しかしながら、増渕がなぜ原告堀を通じて金本に小包の郵送を依頼するのか、その必要性、意味が明らかでなく、一方、金本の取調べ及び勤務状況の捜査から金本が南神保町郵便局から小包を発送したことはあり得ないことが起訴時までには判明していたはずであるから、原告堀の右供述の信用性がないことは判ったはずであり、右供述を重視するのは間違いである。

<4> 原告堀の「昭和四六年一二月ころ、増渕方で女性が小包に宛名書きをしているのを見た。」との供述は、取調官からそのように決めつけて追及されたためこれに抗しきれず供述させられたものである。

(ア) 原告堀に対し、昭和四八年三月二一日に爆弾の郵送の追及と同時に、「小包の宛先は誰がどこで書いたのだ」、「そのとき誰がいたのか」という追及がなされた。

次いで、同月二七日付供述調書が作成された後に、再度その追及が厳しくなされた。

そして、既に、原告堀、金本、中村(泰)が高橋荘に行ったことがあるという事実は出ていたのであるが、捜査官は、そのときに宛名書きをしたのではないかと決めつけた追及をなしてきた。その中で、原告堀は抗しきれず、「女の人が宛名書きをしているイメージです」と認めさせられていったのである。

しかし、次の日に原告堀は、この調書の内容はおかしい、高橋荘に行った日と宛名書きを見たという日が同じ日と言えば言えるかもしれないが、半々の感じであると述べ、記憶がはっきりしないことを捜査官に申し述べている。

(イ) 被告国は、原告堀の「昭和四六年一二月ころ、増渕方で女性が小包に宛名書きをしているのを見た。」との供述(四八・三・二八付員面、三・二九付検面)も、増渕及びその周辺にいる女性の土田邸爆弾郵送準備を窺わせる供述であったと主張している。

しかしながら、右供述は極めて抽象的なものでしかなく、これを重視するのは間違いである。

<5> 原告堀の「私は、昭和四六年一二月に増渕と一緒に八王子保健所に赴き、中村(泰)に小包を預け、その後、同人から返還を受けて増渕方へ届けた。」旨の供述は、先行する中村(泰)の供述を前提とした誘導、押付けがなされ、原告堀が断片的記憶を供述したところ、取調官によって右記憶がつなぎ合わせられて供述させられたものである。

(ア) 被告国は、親崎検事は、原告堀の「昭和四六年一二月に増渕と堀が八王子保健所に赴き、中村(泰)に小包を預け、その後、同人から返還を受けて増渕方へ届けた。」旨の供述(四八・四・四付員面、四・四付検面)は、増渕の四月四日段階における供述とは食い違うものの、少なくとも爆弾が一旦は高橋荘に持ち込まれ、点検確認の上で原告堀に郵送が指示されたのではないかとの元々の推測とも合致したので、真実であるとの心証を得、その信用性は極めて高いと判断したと主張している。

(イ) しかしながら、第一に起訴当日の員面調書が起訴の判断材料になったとは思えず、また、同日付検面調書は、中村(泰)に八王子保健所で何か荷物を渡したのではないかという程度の極めて抽象的なものでしかなく、到底被告国の主張するような判断になるものではない。

第二に、右供述では原告堀は、増渕と聖蹟桜ヶ丘駅付近で待ち合わせ、八王子保健所へ行き、増渕が持ってきた爆弾と思われる小包を中村(泰)に預け、その後に原告堀が八王子保健所から高橋荘に運んだとなっているところ、親崎検事は右供述の最後の部分が「少なくとも爆弾は一旦は高橋荘に持ち込まれ、点検確認の上で原告堀に郵送が指示されたのではないか」という自己の推測と合致する可能性があるので意味があると判断したというが、その自己の推測の観点から言えば、増渕はなぜ聖蹟桜ヶ丘駅からそのまま高橋荘へその小包を持って帰らなかったのかという疑問の方が先に来て然るべきである。

なぜならば、八王子保健所へ持って行き、中村(泰)に預けるということは、仲間を増やすことでもあり、発覚の危険を増やすようなものであり、その必然性、意味がないからである。

このような供述を信用性が高いと判断することは間違いである。

(3) 原告榎下の供述

<1> 原告榎下は、昭和四六年四月ころ、増渕から赤軍の理論や爆弾闘争の必要性についての話を聞かされた上で、同年五月ころ、増渕から二回にわたって都心方面への運転を頼まれたので、都心へ赴くのは爆弾闘争の下見ではないかと察知して断った旨の供述をしているが、これは、以前から都心に行ったことがあるだろうとの捜査官の執拗な追及、誘導を受け、睡眠不足からの疲労により投げやりな気持ちからなされたものである。

<2> 原告榎下の「昭和四七年一〇月一五日前後にキティー方で堀から土田邸事件の告白を受けた。」旨の供述については、原告堀や同榎下が土田邸事件の共犯者であるとすれば、昭和四七年一〇月になって、原告堀が、同榎下に対し、「土田邸事件を堀が手伝い、増渕がやった。」と告白するはずがなく、右供述は虚偽供述である。

(4) 金本の供述

金本の荷札書き等に関する供述は、金本が宛名書きや包装に関与したのではないかとの観点からその嫌疑を向けて取り調べたことによるものであり、任意性、信用性がない。

<1> 昭和四八年四月四日当時の金本に対する嫌疑と自白

被告国は、金本の取調べ当初は、同人が小包爆弾の包装に関与していることは判らず、したがって、捜査官の側からこれを誘導等することはありえなかったと主張している。

しかしながら、金本に対する土田邸事件についての嫌疑の中心は、当初から小包爆弾の包装と宛名書きに向けられたものであった。

金本は、昭和四八年三月一五日から二四日までの間、警視庁本部等に呼び出されて取調べを受けた後、同月二九日犯人隠避の被疑事実により逮捕された。これについては、同月三一日、勾留請求が却下されて釈放されたものの、翌四月一日以降、土田邸事件で逮捕される同月一九日までの間、連日にわたって取調べを受けている。そして、すでにこの間において、金本に包装等についての嫌疑が向けられていたのである。金本に対する包装についての嫌疑は、まず原告堀の取調べの中で現われている。

昭和四八年三月二七日付原告堀の員面調書には、金本に対して、小包の郵送を依頼したという虚偽の供述記載があるが、この記載に続けて、同調書は、「はっきり断言できるのは、私も金本さんも、その小包に、宛名を書いたり、荷造りをしたことはありません。」との記載がある。

あえて、右のような弁解が調書に記載されているのは、捜査官の側から、原告堀に対して、金本が宛名書きや包装に関与したのではないかという観点からの取調べがあったことを示しており、このことは、つまり捜査官が金本に対して、宛名書き、包装についての嫌疑を向けていたことを示しているものといわなくてはならない。

そして、これと符節を合わせて、金本に対しても、「堀に荷札を渡したことがあるかどうか」、「堀から小包ひもがあるか尋ねられたことがないか」(四八・三・三〇付員面)、「堀に包装紙を渡したことはないか」、「堀から包装の仕方を聞かれたことはないか」(四八・四・一付員面、同日付検面)などという包装についての周辺事実に関する取調べがなされている。

一方、原告榎下に対しても、金本が包装に関与したという視点から取調べを行い、昭和四八年四月八日付調書中で、「金本という保健所の女の人が包装をした」旨、原告堀から聞いたとの供述を引き出し、その後、同月一三日、金本に対して行われたポリグラフ検査においても、「あなたは、土田さんの家に送った宛名を書いていますか」、「あなたは、土田さんの家に送った小包を包装していますか」、「土田さんの家に送った小包の色はえび茶色でしたか」などと、小包包装に関連した具体的な質問がなされているのである。さらに、同月一四日、原告榎下から、同月一六日中村(隆)からあいついで、金本が包装をしたとする供述が現われると、捜査官側は、新たに金本について土田邸事件で逮捕状を請求(同月一八日)し、同月一九日、同人を逮捕するのである。

金本は、同人に対する起訴の時点でも、同人自身が包装の宛名書きにも関与したとされたのであるが、その自白が、客観的事実に反し、到底信用できるものでないことは、刑事事件判決で明確にされている。

このような観点からしても、昭和四八年四月四日の時点での金本に対する取調べに問題があったことを、起訴検察官としても当然に考慮すべきであったのである。

<2> 雑誌「服装」との関連性

被告国は、さらに、金本は爆弾を包装するに際して、雑誌「服装」(昭和四六年一月号)に掲載された「クリスマスプレゼントのパッケージ作戦」という記事を参考にしたものであり、金本のアパートから、この雑誌が押収されたことは、金本が包装に関与したことの重要な証拠の一つであると主張するもののようである。

確かに、被告国が主張する外部包装の方法は、この雑誌に掲載されている「大きな模様の包装紙で包む時」という記事に書いてある包装方法と一致している。しかし、この包装方法は、右記事にもあるとおり、「デパートなどでやっているいちばんポピュラーな方法」であり、「特異な包装の仕方」ではない。つまり、右記事を参考にするまでもなく一般に可能な包装方法なのであり、むしろ、かかる包装をするに際して、わざわざ雑誌の記事を参考にすることの方が、一般にあり得ないといわなくてはならない。したがって、金本が、この雑誌を当時所持していたからといって、金本が、本件包装に関与したなどという根拠には、到底なり得ないのである。

(二) 被告国の主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

検察官は、昭和四八年四月四日、増渕、原告堀及び同江口を土田邸事件の正犯として東京地裁に公訴提起したが、公訴提起に当たり、それまでの捜査によって収集した多数の証拠資料を検討した結果、右三名が同事件を敢行したことを立証するには、以下の証拠が重要であると判断した。

<1> 土田邸事件についての自白をした増渕の供述

<2> 増渕方への爆弾運搬、金本への小包預けと郵送依頼、中村(泰)への爆弾預けとその返還に関する原告堀の供述

<3> キティ(原告堀の婚約者)方での口裏合わせ、増渕からの都心下見依頼、大晦日口止め、原告堀の土田邸事件告白に関する原告榎下の供述

<4> 増渕及び原告堀の依頼による土田邸爆弾の保管並びに宛名書き及び筆跡集めに関する中村(泰)の供述

<5> 大晦日口止めに関する坂本の供述

<6> 原告堀に対する荷札渡し等に関する金本の供述

<7> 昭和四五年の「六月爆弾」(増渕が、昭和四五年六月ころ、梅津の居室において、原告江口及び同前林らとともに作ったとされる、爆弾の収納された箱の蓋を開ければ爆発する装置を施した爆発物であって、千葉県上総興津海岸で爆発実験がなされたものである。以下、右爆発物を「六月爆弾」といい、爆発実験を「興津実験」という。)に関する佐古及び村松の供述

<8> 昭和四六年以降も増渕が爆弾闘争志向があったことに関する石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び中村勉の供述並びに原告前林メモ

<9> 昭和四六年以降における増渕の爆弾闘争志向とこれに協力したことに関する原告江口の供述

<10> 本件犯行後の増渕の言動に関する長倉の供述

<11> プランタン会談に関する佐古の供述

(2) 検察官の公訴提起時における判断

捜査官は、昭和四八年三月一四日から増渕、原告堀、同江口及び同前林を日石・土田邸事件(他にピース缶爆弾製造事件)で逮捕・勾留の上、取り調べるとともに、参考人取調べ等の捜査を実施したが、勾留満期日の同年四月四日の段階では、右被疑者四名の中で土田邸事件を自白した者は増渕のみであった。

しかしながら、検察官は、増渕、原告堀、同榎下、中村(泰)、金本及び佐古らの供述等は、いずれも任意性に疑いがなく、また右供述過程における捜査、取調べの違法もなく、いわゆる違法収集証拠に当たらないから、いずれも証拠能力があるものと判断した。また、前記の各証拠を慎重に検討した結果、右各供述は、いずれも基本的部分について信用性が高いと判断した。

そこで、検察官は、右各証拠を中心とするそれまでの捜査で得られた証拠を総合勘案して、増渕は、かねてからの爆弾闘争志向に基づき、六月爆弾を製造しその爆破実験(興津実験)を行うなどしていたところ、小包爆弾による権力機関の要人テロを決意したものであり、少なくとも、増渕、原告堀及び同江口の三名については、土田邸事件について殺人、同未遂、爆発物取締罰則違反の罪で有罪判決を得るに足りる犯罪の嫌疑があると判断したものである。

このような検察官の判断は合理的であり、前記公訴提起が国家賠償法上違法であるとは到底いえない。

13  原告前林及び同榎下の土田邸事件の公訴提起の違法

(一) 原告らの主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

原告前林及び同榎下に対する昭和四八年五月二日の起訴は、その捜査段階で得られた共犯者の自白の変遷が著しく、自白相互間の矛盾も多いにもかかわらず、その検討が極めて不十分であった上、これらの自白のほとんどが違法な別件逮捕・勾留中の取調べ、違法な起訴後の取調べ、任意性のない取調べなどによって収集されたものを基礎として行われたものであり、検察官はこれらの証拠資料の証拠能力及び証拠価値の有無の判断を誤って公訴提起した違法がある。

<1> 中村(隆)の供述

(ア) 中村(隆)は、昭和四八年四月八日に、土田邸爆弾のマイクロスイッチに関する供述をしているが、右供述は、取調官の誘導によるものであり、証拠能力、信用性がない。

(イ) 中村(隆)は、マイクロスイッチの端子に赤色ラッカーを塗布した旨供述しているが、高校時代からマイクロスイッチになじんでいた中村(隆)が端子に赤色ラッカーを塗る必要性はなく、わざわざ赤色ラッカーを用意したというのは不自然である。

(あ) 中村(隆)は、高校時代からマイクロスイッチに馴染んでおり、また、家業でもマイクロスイッチに接していたし、スイッチ自体にも端子の選定を間違えないような表示(KOM、ON、NC)があり、自分で配線作業をしたのであるから、わざわざそのような印をする必要がない。また、単に端子に印をつけるだけなら手近にあるマジックでも足りる。端子にちょこっと印をするだけのために、わざわざ豆ラッカーを用意するのは不自然である。

(い) 親崎検事は、中村(隆)の供述調書の信用性を強調するために、土田邸事件の爆弾の起爆装置に用いられたマイクロスイッチの端子に豆ラッカーにより赤色印をつけるという点をあげている。同供述は、秘密の暴露供述であるというのである。親崎検事は、この中村(隆)供述が、昭和四八年四月一六日になされたことを前提に、右赤色印の点を信用性の根拠としている。

しかしながら、中村(隆)の取調べを担当していた坂本警部補が作成した「取調状況報告書」には、中村(隆)は、右の点について同月一七日に初めて供述した旨の記載があり、坂本警部補は、刑事の公判上で、上司に右供述の内容を報告すると証拠物もそのようになっていると言われたため、そこで初めて本当のことを言っていると確信した旨証言している。

しかるに、右報告書の内容は、刑事第一審判決が指摘するように、「坂本警部補が、マイクロスイッチの端子には、付着していなかった赤色塗料を捜査の上層部が主張していることを何らかのルートで知り、中村(隆)がこの点について、自発的に供述するに至ったことを印象づけようと作為を試みた」ことは明らかである。

右の事情は、親崎検事が強調するように、中村(隆)供述が秘密の暴露供述と評価するなどということができないのみならず、かえって、坂本警部補が意図的に秘密の暴露供述を作り出したことを明示しているといわなくてはならない。

(ウ) 中村(隆)は、マイクロスイッチの作動線をクランク型に曲げたと供述しているが、現場遺留品はクランク型というより「富士山」形に見えるものである上、作動線は捜査機関の手中にある間に変形されており、自白と現場遺留物とが一致しているとは言えないので、右供述部分は信用できない。

(エ) マイクロスイッチを爆弾に接着させるのに二液性スーパーセメダインを使用したのは不自然であり、その旨の自白は信用できない。

中村(隆)の土田邸爆弾のマイクロスイッチに関する自白で最も問題なのは、マイクロスイッチを爆弾外箱内側に接着するのに使用したのが二液性スーパーセメダインであるという点である。同接着剤は硬化するまでに常温で五、六時間が必要であるにもかかわらず、自白では、接着後ビニールテープで固定しただけで通電を含む爆弾製造作業を続け、二時間くらいで包装まで完了してしまっている。製造途中で通電し爆発する危険が強く、自分達の生命にかかわることであり、このような製造工程は考えられない。しかも、中村(隆)は、捜査段階で製造工程の再現を二回も行い、その模様がビデオテープに収録されており、その中でも、マイクロスイッチが落ちてしまう状況がはっきり現われているのであるから、自白が信用できないことは容易に分かったはずである。

(オ) マイクロスイッチ購入日時についての中村(隆)の供述は変遷しており、このような変遷は、取調官がそのつど誘導ないし勝手な作文をしたためである。

(カ) 中村(隆)は、一貫して自己が購入したマイクロスイッチは二個であると供述しているが、土田邸爆弾が一個しか製造されていない以上、購入したマイクロスイッチが二個というのは辻褄があわず不合理であり、その供述には、任意性、信用性がない。

(キ) マイクロスイッチの形態に関する中村(隆)の供述は変遷しており、このような供述の変遷は、取調官の誘導によるものである。

(ク) 中村(隆)の供述によると、土田邸爆弾の製造は、増渕方において、増渕、原告前林、同堀、同江口、中村(隆)、金本、原告榎下、松本及び坂本の九名によって行われたのであるが、四畳半一間の増渕方に九名もの多数が集まって爆弾を製造することは極めて不自然である。また、増渕方はアパート二階にあり、多数の者が鉄製階段を昇降すれば、近隣の人に異常を察知される危険性が大きいから、そのような危険を冒してまでも多数の者を集めるはずはない。さらに、昭和四六年当時の警察官によるアパートローラー作戦の実施状況にかんがみると、夜間、多数の者が車で乗りつけて駐車すれば、警察の目にとまらないはずがない。

<2> 松本の供述

松本の供述は、同人が自白と否認を繰り返していた状況からみて、信用できないものである。

(2) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

原告前林が昭和四六年一二月一七日に土田邸爆弾を郵便局から差し出したとの容疑に関しては、アリバイが存在していた。同原告は同日勤務先である東京都武蔵野市吉祥寺所在の岡田香料株式会社(以下「岡田香料」という。)において、上司に対し冬のボーナスについての不満を述べており、同原告が同日に会社を抜け出して右爆弾を郵便局から差し出すことは不可能であるにもかかわらず、捜査当局は、当日の原告前林の行動等についての詳しい捜査を行わず、また、同原告が同日の昼休みに勤務先近くの銀行において預金を引き出した事実についての調査も怠った。

(二) 被告国の主張

(1) 検察官が公訴提起時において現に収集していた証拠資料

検察官は、昭和四八年五月二日、原告前林及び同榎下を土田邸事件の正犯として、東京地裁に起訴した。検察官は、この起訴にあたり、同年四月四日付けで増渕、原告堀及び同江口を同事件につき起訴した際に重要であると判断した証拠のほかに、更に以下の証拠が重要な証拠であると判断した。

<1> 土田邸爆弾製造及び同爆弾差出し等を含めた、土田邸事件の全般についての増渕の供述

<2> 日石総括、土田二高謀議(日大二高で土田邸事件の謀議をしたとの検察官主張事実(以下「土田二高謀議」という。))、下見、土田邸爆弾製造、同爆弾の松本保管、同爆弾の差出し、土田邸事件の当日の総括などに関する原告榎下の供述

<3> 日石事件総括、土田邸爆弾製造等に関する原告堀の供述

<4> 日石事件総括、土田二高謀議、土田邸爆弾製造等に関する中村(隆)の供述

<5> 下見、土田邸爆弾製造、同爆弾の松本保管、同爆弾の差出しなどに関する松本の供述

<6> 土田二高謀議、土田邸爆弾製造等に関する坂本の供述

<7> 土田邸爆弾製造に関する金本の供述

<8> 日石事件総括、土田二高謀議等に関する松村の供述

(2) 検察官の公訴提起時における判断

検察官は、前記(1)に記載した増渕、原告榎下、同堀、中村(隆)、松本、坂本、金本及び松村の各供述は、いずれも任意性に疑いのない供述であるだけでなく、その供述獲得の捜査、取調べも違法ではなく、いわゆる違法収集証拠でもないから、右供述を録取した供述調書は、いずれも証拠能力を有すると判断した。

また、これらの各供述を慎重に検討した結果、いずれも基本的部分については信用性が高いと判断した。

そこで、検察官は、右各証拠を中心とするそれまでの捜査で得られた証拠を総合判断することにより、原告榎下及び同前林は、増渕を中心として、昭和四六年一〇月二三日ころ、日石事件についての総括を行い、今後も更に爆弾闘争を継続することを確認し、同年一一月一三日ころ、警視庁警務部長の土田國保方に小包爆弾を送付することを決め、同月下旬から同年一二月一〇日ころにかけて現地の下見をする一方で、同月八日ころに土田邸爆弾を製造し、同月一一日ころこれを中村(泰)に預け、同月一五日にその返還を受けてさらに松本に預け、同月一七日朝、増渕、原告前林、松本の三名が南神保町郵便局に赴いて同局から原告前林が土田邸爆弾を差し出した事実等を認定し、原告榎下及び同前林について、いずれも土田邸事件につき、殺人、同未遂、爆発物取締罰則違反の罪で有罪判決を得るに足りる犯罪の嫌疑があると判断したものである。

(3) 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

原告らは、捜査官が、原告前林の土田邸事件犯行当日(爆弾差出日)の昭和四六年一二月一七日に関するアリバイについて通常要求される捜査を怠った旨主張する。

しかし、捜査当局は、当然のことながら、原告前林の勤務先である岡田香料における当日の勤務状況はもちろんのこと、岡田香料から土田邸爆弾差出郵便局(南神保町郵便局)までの所要時間等の裏付捜査を行っている。捜査官は、同原告の勤務先である岡田香料が社長以下一四名という小規模の会社であって、従業員の勤務管理が厳格ではなく、私用外出の手続についても特段の定めがない上、従業員が私用で外出したい時や仕事を怠けたい時は中庭から外へ出て怠業したりしており、原告前林が時々この方法で外出していた旨の供述を得ていた。これらのことから、原告前林が当日岡田香料に出社していたことは何らアリバイとなるものではなく、同原告が右爆弾を差し出すことが可能であったことは十分捜査をした上での結論であった。また、当日原告前林とその上司とが口論したことについても、右のような口論があったとしても、アリバイが成立するわけではなく、原告前林の右爆弾差出を不可能にするものではない。右のとおりであり、原告前林の出勤状況等に関する捜査は十分に行われたというべきである。

次に、原告前林が同日の昼休みに勤務先近くの銀行に行き預金を引き出した事実に関し、原告らは、同原告の行動の調査を怠った旨主張するが、預金払戻しに際しては銀行届出印の照合さえできれば相手方の身分証明を求めることなく手続が進められるのであり、払戻請求書用紙も容易に持ち帰り可能で事前に記入しておくこともできるのであるから、必ずしも払戻当日に原告前林本人が銀行に赴かなくても払戻手続に支障がないのであって、右預金引き出しの事実が必ずしも原告前林のアリバイとなるわけではない。のみならず、原告前林は捜査段階において右事実に関する主張を全くしていないのであるから、公訴提起時において、前記の収集済みの証拠のみで有罪の嫌疑が十分に認められると合理的に判断できた以上、右預金払戻事実の有無の裏付捜査を行うことが公訴提起の可否を決定するために不可欠であるとはいえず、また、同原告から右主張がなされないにもかかわらずこれに関する裏付捜査を行うことは困難であって、右捜査を行わなかったことをもって通常要求される捜査を遂げなかった違法があるということはできない。

(4) 判断の合理性

以上のような判断を経て、検察官は、原告前林及び同榎下について、いずれも土田邸事件につき、殺人、同未遂、爆発物取締罰則違反の罪で有罪判決を得るに足りる犯罪の嫌疑があると判断したものである。また、通常要求される捜査を怠ったこともない。検察官の右判断には、十分な合理性を認めることができ、まして、同判断が、検察官として法的に許容された判断の幅を越え、客観的に違法と評価できる程度の著しくかつ明白な不当があったとは到底いえない。したがって、かかる判断に基づく検察官の公訴提起は適法である。

14  違法取調べと供述の任意性等

原告らは、次のとおり、数々の違法な取調べ等があり、原告ら及び共犯者らの各供述には、いずれも任意性、信用性等がないと主張する。

(一) 原告堀

(1) 起訴後の取調べ

土田邸事件で起訴された昭和四八年四月四日以降の原告堀に対する同事件の取調べは、起訴後の取調べとして、身柄不拘束の被疑者の取調べに準じるよう配慮し、任意取調べとしての限度で許されるにすぎず、かつ、同事件の補充的事項に限られなければならないにもかかわらず、起訴前と同様ないしそれ以上の取調べを継続し、任意取調べの限界を超える取調べをした違法がある。

(2) 取調方法等

<1> 警察官による取調べは、長期間かつ長時間連続して取調べを続け、大声で怒鳴り、誘導、誤導、切り違え、脅迫、甘言、弁護人への不信感を煽る等の様々なありとあらゆる違法な手段を用い、自白を得ようとするためだけのものであり、その違法性は極めて大きい。

<2> 検察官による取調べは、警察官による取調べと時間的に密着し、内容的にも一体となったものであり、警察官による取調べによって現出した原告堀の意識状況を利用してなされたものであり、違法である。

<3> 捜査当時の原告堀は、長期間にわたる長時間の取調べを受け続け、これによって疲労が極限に達し、意識も混濁状態となっており、「幻覚というか思いこみとかそういうもので」供述をさせられたものであって、右供述は虚偽自白である。

<4> 取調官は、原告堀の母親や姉を逮捕すると告げたり、家に爆弾を郵送したり放火する者が出てくると言って原告堀を脅迫した。また、取調官は、原告堀を動揺させ自白を得るために、同原告の義兄弓削某が勤務先の自衛隊を辞職せざるを得なくなったと申し向けた。

<5> 取調官は、原告堀に対し、「供述調書を多数作ってもらって反省の情を示せば、裁判で情状を酌量される。」、「供述をするなら情状意見書を書いてやる。」等の甘言を弄し、利益誘導をして自白を迫った。

(二) 原告江口

捜査官らは、一貫して、原告江口を犯人と決めつけて発問し、共犯者の自白をあることないこと取り混ぜて押し付け、脅迫して黙秘権を侵害し、健康のすぐれない同女に多人数で長期間かつ長時間の取調べを継続した。

(三) 原告榎下

(1) 別件逮捕・勾留、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返し

昭和四八年三月一九日からの原告榎下に対する犯人隠避を理由とする逮捕・勾留は、被疑事実について捜査の意思も必要性もなかったのに、専ら日石・土田邸事件に関する自供を獲得するため身柄拘束を利用することを目的とした違法な別件逮捕・勾留であり、したがって、同年四月一〇日以降の土田邸事件、同月一二日以降の日石・土田邸事件を理由とする身柄拘束は、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返しに他ならず、いずれも令状主義に違反する違法な身柄拘束であり、故に、右身柄拘束を利用した取調べはそもそも許されない違法なものである。

<1> 原告榎下は、当時犯人隠避容疑で逮捕・勾留されていたものであるが、その身柄拘束は違法な別件逮捕・勾留として許されないものだったのであり、その期間中に獲得した自白は違法収集証拠として証拠能力がない。

しかも、原告榎下の逮捕は、被告国も認めるとおり、親崎検事が警察と協議の上決定したものであるから、検察官において逮捕が違法であったことを知らなかったと言い逃れる余地のないものである。

なお、少なくとも昭和四八年三月二八日以降の身柄拘束が違法な別件逮捕・勾留として許されないものであり、その期間中に獲得した自白が違法収集証拠として証拠能力がないことは、刑事事件の東京地裁決定(昭和五七年四月一五日付「被告人榎下一雄の供述調書及び供述書の取調請求に対する決定書」)が明言するところである。しかも検察官は、同事件の控訴理由において右決定の取消しを求めず、これを承服したのである。しかるに本件審理に至ってこれを否定する態度をとることは、余りに不正義であって、許されてはならない。

<2> 被告国は、主張の根拠としている自白が、違法な別件逮捕・勾留の結果得られたものであること、そして、地刑九部がほとんどの自白について、あるいは任意性を否定し、あるいは違法な身柄拘束中の自白であることを理由にして、証拠能力を否定したことを全く無視している。

捜査当局は、昭和四八年三月に入ると、増渕らを日石・土田邸事件の犯人であるとの予断と偏見を一層強くし、増渕と交友関係のあった者らを増渕に対する犯人隠避容疑で次々と逮捕・勾留した。

犯人隠避容疑の本犯は、増渕のいわゆる東薬大事件であり、昭和四四年一〇月二〇日ころ、平野に塩素酸カリウム及び硫酸各一本を手渡したという事件及び同じころの凶器準備結集事件である。前者は、既に昭和四七年一二月一八日に懲役一年、執行猶予三年の有罪判決が言い渡され確定しており、後者は不起訴処分となっていた。この事件は、右逮捕・勾留の二年半以上も前の事件で、それほど重大な事件ではなく、本犯の刑事裁判も終了している。昭和四七年に増渕に対する犯人隠避容疑で逮捕された佐藤は略式命令であったし、長倉は不起訴処分、藤田は略式裁判に同意しなかったため通常裁判になったが罰金刑であったことなどからも、改めて増渕と交際のあった大勢の者を逮捕・勾留までして犯人隠避事件を捜査する必要がなかったことは明らかである。

しかし、捜査当局は、昭和四八年三月二日長倉を、同月一二日森谷義弘をそれぞれ逮捕し、同月一三日に増渕の自白が出たことから翌一四日に増渕、原告堀、同前林及び同江口の四名を日石・土田邸事件で逮捕して厳しい取調べを続けた。その後、同月一五日には金本、中村(泰)を、犯人隠避容疑で任意出頭を求めて取調べを開始し、同月一九日に犯人隠避容疑で原告榎下及び松本を、同月二〇日に毒物及び劇物取締法違反容疑で森口信隆をそれぞれ逮捕した。同月二六日から中村(隆)の任意出頭による取調べを開始し、犯人隠避容疑で同月二九日に金本及び中村(泰)を、同月三〇日に村松をそれぞれ逮捕した。

原告榎下の場合、犯人隠避の容疑内容は、<1>昭和四五年六月ころから同年一〇月ころまでの間十数回にわたり増渕の使用する車を無償で修理してやったこと、<2>同年九月一三日ころ増渕が使用する車(セドリック中古車)を自己名義で購入するなどの便宜を与えたこと、<3>昭和四六年一〇月ころに原告前林に車(ホンダN三六〇中古車)購入の仲介をしたやったことなどである。

捜査当局は、昭和四七年九、一〇月の増渕の供述で、右<3>の事実を把握し、原告榎下の事情聴取も終えていたが、ことさら犯人隠避事件として立件することはしなかった。原告榎下を犯人隠避で逮捕したのは、昭和四八年三月一四日に日石・土田邸事件で増渕ら四名を逮捕し、増渕の三月一三日付警察官調書に「堀が爆弾郵送を担当した、堀のグループの者が手伝っているかも知れない」という供述、原告堀の同月一五日の「爆弾を預けるとすれば榎下、中村(泰)、松村である」旨の供述などによって、原告榎下が日石・土田邸事件に関係しているか、事情を知っているとの疑いを持ったこと、しかし、右供述だけでは日石・土田邸事件で逮捕するには極めて不十分な証拠しかないため、前年には立件もしなかった犯人隠避事件で逮捕・勾留し、捜査が手詰まりであった日石・土田邸事件の局面打開を図ろうとすることが目的であったことは明白である。

原告榎下の取調内容も、逮捕当日は否認するが、翌日以降は犯人隠避被疑事実を全面的に認めているので、ことさら勾留を継続する必要がなかった。しかし、昭和四八年三月二二日には筆跡採取が行われ、翌日には原告堀と会って話した内容のメモが作成され、同月二三日には昭和四六年九月から一二月ころまでの増渕らとの接触状況に関するメモが作成され、昭和四八年三月二六、二七日には原告前林が日石事件の当日である昭和四六年一〇月一八日にホンダN三六〇の登録手続をしていること(アリバイ主張)との関連で、同車の引渡し、ナンバープレートの授受などについての執拗な取調べが行われ、供述調書が作成されている。そして、勾留が延長された同月二八日以降の取調べは、日石・土田邸事件一色の取調べとなる。

以上のとおり、原告榎下に対する犯人隠避の逮捕・勾留は、最初から証拠がほとんどなくて逮捕できなかった日石・土田邸事件の取調べを目的として、本来立件する意思もない軽微な事件で逮捕・勾留をして、専ら日石・土田邸事件の取調べを行ったもので、違法な別件逮捕・勾留であることは明らかであった。

<3> 別件逮捕・勾留については、地刑九部の証拠決定において明言されているとおりであるが、事実を直視するならば、原告榎下らに対して、当初より別件(犯人隠避)を口実に本件(日石・土田邸事件)の取調べを目的とした身柄の拘束が行われたのであり、しかも、検察官もそのことを知悉していたのである。

原告榎下、松本の逮捕(昭和四八年三月一九日)について、主任検察官である親崎検事は、逮捕状請求の昭和四八年三月一七日の時点から相談を受けている。原告榎下は、同月一九日に逮捕された際に、足紋を採取されているが、その目的について、親崎検事は、日石事件の証拠品に足紋が付着しているものがあったからであることを認めている。同じく同日、原告榎下の自宅から万年筆一本が押収されている。その目的について、親崎検事は、日石・土田邸事件の爆弾発送のための筆跡集めや練習のために使った可能性があるとの嫌疑に基づくものであることを認めている。原告榎下は、同月二二日に、日石・土田邸事件の遺留宛名の筆跡との異同を鑑定する目的で、筆跡を採取されている。これも同様の嫌疑に基づくものであることは、親崎検事の証言を待たなくても明らかなところである。同日、白山自動車からニットービニールテープが押収されている。爆弾の包装等に使用されたビニールテープとの同一性について捜査するためであった。

足紋も筆跡もビニールテープも、犯人隠避には関係がない。逮捕当時から一貫して、原告榎下に対する嫌疑が日石・土田邸事件にあったことは、これらの客観的事実が極端に物語っているのであり、親崎検事自身もこれを認めているのである。

すなわち、このような違法な身柄拘束について、警察官のみならず検察官も責任があるのであり、そのような違法な身柄拘束に基づく捜査、起訴が違法であることは明らかである。

(2) 取調方法等

<1> 原告榎下に対する取調べは、弁護人選任権、供述拒否権の侵害(取調官が、原告榎下の弁解録取に当たって弁護人選任権を告知せず、弁護人選任権を否定する発言をし、また、供述拒否権を告知説明しなかった。)、捜査官の見込みや他の被疑者の供述に基づく誘導、押付け、弁解や否認を全く取り上げようとしない断定的な取調べ、「認めるまで再逮捕を繰り返す」等の虚偽の脅迫と利益誘導、多数取調官による連日の食事時間や睡眠時間にくい込む長時間にわたる取調べ、謎かけや「宿題」による睡眠の妨害と記憶、精神状態の混乱を利用した取調べ、出鱈目な読み聞けによる調書作成というものであって、原告榎下の人権を侵害する違法なものであった。

(ア) 弁護人選任権、供述拒否権の侵害

取調官は、原告榎下の弁解録取にあたってなすべき弁護人選任権を告知せず、原告榎下からの質問に対しても、「今の段階ではまだ弁護士を付ける必要はない」と、弁護人選任権を否定した。取調官は、供述拒否権についても原告榎下に告知説明したことはなかった。

(イ) 捜査官の見込みに基づく誘導、押付け、脅迫

原告榎下の逮捕は、犯人隠避の捜査を目的としたものではなく、増渕や原告堀らを日石・土田邸事件の真犯人であるとする捜査当局の予断に基づき、小包爆弾の搬送関与者として原告榎下から同事件に関する供述を獲得することを目的とするものである。捜査官は、昭和四八年三月一三日の増渕供述に飛びついて「事件解決」と大々的に報道したが、当初爆弾搬送担当者との見込みを持っていた原告堀にアリバイが発見され、爆弾の差出人と見込んだ原告前林と同江口にもアリバイが明らかとなったことから、原告堀と親しく車の運転、修理に習熟した原告榎下に目を付け、原告堀の指示で爆弾搬送に加担したのではないかとの予断をもち、捜査の進展を図るため原告榎下を叩いて供述を獲得しようとしたものである。

したがって、原告榎下に対する取調べは、当初から「増渕たちが土田邸の事件の犯人だということを知っているだろう」「お前も何かやっているんじゃないか」「土田邸(あるいは日石)事件では多くの指紋や足紋が検出されているから、もし関係しているならば、話すなら今だぞ」等の追及を加えたり、カーテン地のような厚い黄色の布切れ(日石爆弾の絶縁体と同種のもの)を示して「見覚えあるだろう」「堀、増渕あたりから、こんな布切れを頼まれたことはないか」「増渕のアパートで見たことないか」とか、大きさを示して「これくらいのドカ弁をお前知っているだろう」等の質問を浴びせて行われた。

そのような追及は、「こういうことがあったはずだ」「堀とは親友なのだから知らないはずがない」「他の者が、原告榎下がやったと言っているんだ」「堀や増渕が榎下がやったと言っているんだ」などと、次第に具体的、断定的になっていった。

特に、原告榎下に対する逮捕事実である犯人隠避については、捜査当局にとっては逮捕前年に既に把握済みのことで、原告榎下も当時取調べを受けていなかった事柄であったから、原告榎下としては、勾留がつくとは思っていなかったのに、勾留決定を受けてガックリしていたところ、取調官は「堀から薬品を預かっただろう」「増渕を都心に連れていったろう」「女性を乗せて都心へ行ったことがあるはずだ」などと具体的、断定的追及を加え、否認する原告榎下に対し、「もうわかっているんだから、早く言え」「榎下が知らないはずがない。言わないなら、お前が隠しているんだ」と恫喝するとともに、「認めなくてもどうせ再逮捕だ」「今認めれば保釈になる」「認めたってどうせ執行猶予だ」と脅しと甘言を用いて供述を強制した。

(ウ) 連日の長時間に及ぶ取調べ

原告榎下に対する取調べは、朝早くから夜遅くまで、しかも食事中も続けられた。出入簿によっても、昭和四八年三月二〇日から二七日までの間、昼食時と夕食時の双方とも原告榎下が房の中にいた日は全くない。また、出入簿によれば、一日の取調時間は、三月二三日は五時間二一分、同月二四日は八時間五五分、同月二五日は六時間四五分、同月二六日は七時間八分と連日長時間に及んでいる。

原告榎下の逮捕以降四月一〇日までの取調時間は、九時間以上の日が過半数を超える一四日間に及んでおり、三月三〇日以降は連日九時間以上である。四月六日は一三時間五分、四月八日は一三時間二〇分に示されているように、石崎警部の投入以降長時間化の傾向が強まり、二高口止めを追求された三月三〇日、神田下見や薬品運搬を追及された四月三日以降際立った長さを示している。

しかも、それは連日深夜に及んでいる。留置場における被疑者の生活は、起床午前六時、朝食午前七時、昼食正午、夕食午後五時で、午後七時を過ぎると仮眠の時間に入る。ところが、原告榎下の取調べが夕食までに終わっているのは三月二二日のただ一度に過ぎない。逆に、もし入房時刻から直ちに睡眠に入ったとしても、八時間の睡眠時間が保障されないことになる。午後一〇時を過ぎる取調べが半分近くを占めており、特に四月三日から八日までは連続午後一〇時を過ぎている。現実には、取調べによる精神的疲労や不安、宿題による睡眠妨害によって、なかなか寝つかれず、眠りも浅いものになってしまう。

そのような取調べによって正常な精神を保つことは不可能である。原告榎下は、右のような連日深夜にわたる長時間の取調べで全く身に覚えのないことを次々と追及されたことによって、記憶に対する自信や正常な理解力、判断力を失ってしまう。

(エ) 「宿題」による睡眠妨害

しかも、不安や精神的疲労で睡眠不足の原告榎下に対し、取調官は「知らないはずがないから思い出せ」「増渕との交際を全部思い出してみろ」と宿題を出し、ますます原告榎下の睡眠を妨害し、原告榎下の記憶を混乱させていった。

(オ) 捜査官の投入による取調べの強化

昭和四八年四月四日の増渕らの勾留満期が切迫しながら、期待した供述を獲得できず焦慮した捜査当局は、同年三月二七日から管理官の石崎警部を原告榎下の取調べ担当に加えて、原告榎下に対する追及の強化を図った。石崎警部自身、「取調べに入る前から、榎下に対して車による物及び人間の移動について、一切詳細に調べるようにとの指示を受けていた」ことを認めており、石崎警部投入の目的が専ら日石・土田邸事件の追及にあった事実は、投入当日の同年三月二七日付員面調書の内容からも明白である。

石崎警部は、原告榎下に対して、「お前は親孝行だと聞いているんで、普段は俺は取調べをやったことがないんだけれど特別取調べにあたることになった」と、特別の地位にあることを伝え、本当のことを理解してもらえるはずだと期待した原告榎下は懸命に弁明するが、石崎警部はまったく信用せず、原告榎下を深い失望に陥れた。

(カ) 過大追及

石崎警部の取調方法は、供述拒否権についての同人の理解、すなわち、「述べることによって、その述べた以上のことはいわゆる責めを負わなくても済むわけでございます」「したがいまして、例えば二人殺しているという疑いをかけられていると、その場合に、正直に私は一人しか殺していないということを述べることは、一つの自分の権利の保護ということと考えております」に示されている。証拠上明らかな事実だけではなく、もっと大きな嫌疑をかけて追及するのが石崎警部の取調方法なのである。原告榎下が、石崎警部から「認めないと、他の者はどんどんお前に押し付けてくるぞ。否認していると極刑(重罪)にされてしまうぞ」と追及されたと述べていることを、右の石崎警部の証言は裏付けている。

<2> 捜査官は、昭和四八年三月一九日の原告榎下の逮捕当初から、増渕が日石・土田邸事件の犯人であることを前提に、原告榎下もこれに関与したとの断定的な追及を加え、恫喝的な取調べや「今認めれば保釈になる。」「認めたってどうせ執行猶予だ。」と甘言を弄して供述を強制した。

<3> 管理官という高い地位にある石崎警部を、あえて犯人隠避の被疑者である原告榎下の取調べに当たらせ、追及の強化を図った。

<4> 昭和四八年四月四日の神崎検事の取調べにおいて、原告榎下が泣きじゃくりながら取調室に入ってきて押送の警察官を外に出してくださいと申し出たのに、同検事は、原告榎下にも押送警察官にも何らの確認を行わず、最初に警察官に供述した事項であるから警察官に調べさせようとしてすぐに原告榎下を警察に帰したものであり、同検事の右措置は検察官としてその資格を欠いたものである。

(ア) 検察官は、自ら増渕らが、日石・土田邸事件の犯人であり、しかも原告榎下が同事件についての知情を有するとの予断をもって、自ら同原告の逮捕を決定し、取調べに当たるとともに、同原告に対する警察官の違法な取調べに対して検察官として当然になすべきチェックを行わず、逆に違法な取調べによって得られた自白調書を鵜呑みにして増渕らの起訴資料としたものであるが、右の態度は検察官として許されないものであった。

例えば、原告榎下の主任検察官であった神崎検事は、昭和四八年四月四日の取調べにあたって、押送されてきた同原告が泣きじゃくって、入ってくるなり押送の警察官を外に出すよう申し立て、他の被疑者の供述をもとに取調官から自白を強要されている旨の訴えをしたにもかかわらず、警察における取調べをチェックすべきであるとの問題意識を全く持たず、逆に同原告を間もなく警察署に戻して警察官による取調べに委ねてしまった。

そのときの状況について、神崎検事は、次のように証言している。「四月四日に護送の警察官と一緒に取調室に入ってきた榎下は、泣きじゃくっており、入ってくるなり『警察官を外に出してください』と申し立てた。非常に動揺していた。しかし、榎下に『何故警察官を出してくれと言ったのか』という確認はしていない。押送の途中、警察官とどういうやりとりがあったかについては、一時間足らずで榎下を警察に返したので、詳細は分からない。本人にどうしたんだと聞いたら、下見の話を話し出して、非常に事件に関係している印象を受けた。それ以上は聞いていない。押送警察官にも質問していない。下見の話をしきりに私にしたがっていたが、私は全然当日の調べを予定していないし、どういう供述関係になっているのか、本人の供述を聞いただけでは十分わからなかったし、最初に警察官に話したことなら、警察官に調べさせようと考えて、一時間足らず本人の言い分だけ聞いて警察に帰した。」

この点について、親崎検事は、刑事公判で、「神崎検事から、同日、榎下は泣いていて、中村(隆)から出てきたんだということで腹を立てていたとの報告を受けた」と証言している。

中村(隆)の昭和四八年四月二日付員面調書には、「榎下から『増渕に頼まれて、神田神保町の方まで車で行ってきた。堀に頼まれて、増渕のところに薬品を運んだ』と聞いた」との趣旨の供述が録取されている。

すなわち、神崎検事の証言は意識的に曖昧にしているが、事実は、中村(隆)の同日付員面調書に基づいて、警察官から「中村(隆)が、榎下から、『増渕に頼まれて、神田神保町の方まで車で行ってきた。堀に頼まれて、増渕のところに薬品を運んだ』と聞いたと供述しているぞ。親友の中村(隆)が供述しているのだから、間違いない。否認しても無駄だ。かえって罪が重くなるぞ。早く認めろ」という追及を受けたことから、同月四日に護送の警察官と一緒に取調室に入ってきた榎下が、神崎検事に対して、泣きながらそのことを訴え、「身に覚えのないことで、警察官から中村(隆)が供述していると追及されている。警察官を外に出してくれ」と申し立てて、警察官の影響のないところで神崎検事に真実を理解してもらおうとしたものであることが、優に理解される。

原告榎下の同月四日付員面調書に、「私は、増渕や堀らがどのような方法で目白事件をやったのか知らないままに死刑を言い渡され、気がついたら死刑台の上に立たされていたというような将来を空想したりして、たまらない気持ちに襲われた」との記載があるが、そこに、神崎検事に対する必死の訴えが退けられ、「否認を続ければ死刑になるぞ」という警察の脅しに屈するよりなかった原告榎下の心境が、如実に示されている。

ところが、神崎検事は、せっかく原告榎下が、直接検察官に警察官の取調べの実態を説明し、真実を理解してもらおうとしているのに、原告榎下に対して「何故警察官を出してくれと言ったのか」という確認も、押送警察官に対して質問することも、まったく行おうとせず、逆に、警察官にこのまま追及を続けさせれば下見についての自白が得られる可能性が高いと判断し、他方、自分は中村(隆)の同月二日付員面調書の内容をまだ判断していなかったことから、原告榎下を追及する材料の持ち合わせがないため、自分ではなく引き続き警察官に取り調べさせた方が「落ちる」だろうと考えて、原告榎下をそのまま警察に返してしまったのである。

この昭和四八年四月四日は、増渕らの勾留満期であった。中村(隆)の同月二日付員面調書は伝聞供述にすぎないから、それだけでは証拠価値がない。捜査当局が同月四日に何としてでも原告榎下から自白を取ろうと焦っていたことが、容易に理解できる。そのために、検察官もまた、捜査の適法性についての配慮は無視したのであり、それが検察官の本質なのである。

このような神崎検事の態度が、警察官の取調べの当否をチェックするという自らの責任を放棄し、手段を選ばずひたすら「自白獲得」のみを目的としたものであったことは、明らかである。

このような神崎検事の態度について、親崎検事は本件訴訟において、「被疑者が、泣きじゃくりながら、同行してきた警察官を部屋から出してくれと求めて、実は警察の調べで、誰それが自分がしかじかの関与をしていると供述しているという追及を受けていると訴えている場合」の検察官の取るべき態度を、「警察官を部屋から出して、検事だけで取り調べ、被疑者の訴えを聞くのが、通常のやり方だ」と述べながら、具体的に昭和四八年四月四日の神崎検事による原告榎下の取調べのこととして聞くと、「(警察官を部屋から)出してもよろしい、出さなくてもよろしい。大した問題じゃありません」と答え、現に、当日の神崎検事の取った態度を承知していながら、何等の注意も指導もしていないのである。これでは、親崎検事を含めて、検察官において警察官の取調べの適否をチェックするという発想がなかったと見られても当然であろう。

親崎検事は、昭和四八年三月一四日の津村検事による増渕自白の獲得について、「警察の影響を遮断した取調べ」だったとして証拠価値を強調するが、警察の取調べ方に対するこのような無頓着、無批判な態度と居直りを見るならば、「警察の影響の遮断」も絵空事に過ぎないことが、容易に理解されるであろう。

(イ) 日石・土田邸事件については、増渕らの自白にもかかわらず、同人らと事件とを結び付ける物証は皆無だったのであるから、自白の任意性、信用性の吟味は、検察官として最大の慎重さをもって確認すべき作業でなければならなかった。かような事件においてこそ、取調官によって行き過ぎた強引な自白強要の例が後を絶たないのである。

しかるに、前記のような検察官の態度は、単になすべき任意性、信用性の検討を怠ったという怠慢にとどまらず、明らかに違法な取調べを積極的に許容したものであり、このようにして獲得された自白を証拠とすることは許されない。

検察官の重要な任務の一つが、警察官による違法不当な取調べをチェックし、被疑者の供述の任意性、信用性を誤りなく判断することにあることは、改めて言うまでもない。

しかしながら、本件捜査において、検察官はなすべき任務を意図的に怠って、警察官による違法不当な取調べを助長し、検察官を統括していた親崎検事もまた、そのような処理を容認していたのである。

(四) 原告前林

原告前林の法政大学生協窃盗事件による逮捕・勾留は、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件の追及を目的とした違法な別件逮捕・勾留である。

原告前林は、昭和四八年二月二〇日に逮捕された当時、妊娠三か月の身体であったが、逮捕、取調べ中は否認をしているからということで、食料等を満足に差し入れ、購入してもらえず、体重も減少した。妊娠中は食事や胎教に気をつけなければならないのに、それを妨げられ、かつ、全く身に覚えのない爆弾事件により長時間取調べを受け、爆弾事件によって死亡した土田民子の写真等を見せられ、この世の中のこととは思えないほどの拷問的取調べを受けた。

(1) 別件逮捕・勾留

原告前林に対する昭和四八年二月二〇日の逮捕は、法政大学生協からの窃盗事件に関する逮捕であり、この時点であえて原告前林を逮捕・勾留しなければならない必要性は全くなかった。

しかも、捜査官側は、同月一四日ころの原告前林の任意取調べの中で、原告前林自身から本人が妊娠中(妊娠三か月)であることを知っていながらあえてこの時点で逮捕したのである。これは、ピース缶爆弾事件や日石・土田邸事件といった未解決の重大事件について追及することを目的としたものであり、いわゆる別件逮捕・勾留であった。すなわち、この逮捕・勾留自体が、法の趣旨を潜脱する違法な身柄拘束なのである。

(2) 取調方法等

<1> 原告前林は、当時妊娠中であるにもかかわらず、長期間にわたって勾留され、ほぼ連日にわたって長時間の取調べを受けさせられたために、疲労し、椅子に座っているのが苦痛となり、吐き気を催すなどの状態になった。そのため取調べをやめて欲しいと頼んだが、取調官は、「土田の奥さんを殺しておいて、気持ちが悪いとはどういうことなのか」などと言って、原告前林が吐き気を覚えて手洗いに行くことも許さなかった。

長時間の取調べを続けて、被疑者である原告前林に苦痛を与えることが、自白強要のための手段とされたのである。

<2> また、妊娠中であった原告前林が自分自身や胎児の健康を気遣って、牛乳を毎日飲めるようにして欲しいとか、出前を取らせて欲しいとか、差入れのあった食べ物を食べられるようにして欲しいなどと希望していたが、取調官は「認めれば何でも食べさせてやるが、否認しているから食べさせられない」と言って、原告前林の希望を拒絶した。

この場合も、食事の制限が、自白をしない原告前林に対する懲罰として使われているのである。

<3> 取調官は、原告前林が被疑事実を認めないのに対し、「人殺し野郎」、「殺人犯」、「被害者にあやまれよ」、「爆弾魔」などと口を極めて原告前林を罵った。

また、昭和四八年四月四日の少し前ころ、取調べの警察官は、死亡した土田國保夫人の凄惨なカラー写真を原告前林の眼前に突きつけ、「よく見ろ。お前が土田さんの奥さんをこんなふうにしたんだ」、「どうするんだ。土田さんの奥さんをこんなふうにしちゃって、どうするんだ」などと、一時間くらいにわたり何度も繰り返して、執拗に自白を迫った。

その際、取調官は、原告前林がその写真から視線をそらせると、「何で目をそらすんだ」、「まともに見られないのはお前が犯人だからだ」と非難し、仕方なく原告前林が写真を見ると、今度は、「お前はよく写真を見ていられるな」と難癖をつけた。

取調官によるこのような追及は、被疑者に苦しみと不快感を与えることだけを目的としたものであり、心理的な拷問である。

(五) 増渕

(1) 取調方法等

<1> 増渕の昭和四八年三月一三日自白に至るまでの取調べにおいて、増渕は、同年二月一二日の八・九機事件逮捕の少し前から未解決爆弾事件の取調べを受け、同月下旬ころからは日石・土田邸事件の本格的追及を受け、その際高橋警部補から「お前を犯人として断定する」と宣言され、更に被害者の死体等の写真を見せられたりして取調べを受けた。

昭和四八年三月七日付取調状況報告書には、明らかに増渕を犯人と決めつけて取調べを行っている状況が見られる。すなわち、「四機・文化センターの関係において嘘を言っていたことを強力について、今後は中途半端な態度で対処できない旨を強調し、弁解を聞かない姿勢で被疑者の口を閉じさせたうえ、すべてを清算しろと向け、午後二時三〇分「土田邸と日石を清算しろ。」と切り出した。」、「君にやっているのかと聞いているのかどうかを聞いているのじゃなく、君がやったこの事件を清算する決断を下すように話しているんだ。」などとの記載は、まさしく警察官による虚偽自白の強制以外のなにものでもない。

<2> 取調官は、昭和四八年二月下旬ころから日石・土田邸事件で増渕を取り調べるに当たり、増渕から承諾を得ておらず、増渕も同事件の取調べについて出頭拒否及び退去の自由があることを知らなかった(これは、八・九機事件等での別件勾留中の余罪取調べとしても違法である。)。

<3> 取調官は、増渕の取調べにおいて、取調官が考えた筋書きを断定的に押し付ける取調べをした。

また、取調官は、増渕に対し、原告江口及び同堀が既に自供していて細かいところまでわかっていると誤導した。

<4> 増渕の健康状態

増渕の健康状態は、昭和四八年一月二二日の逮捕以前からむしばまれており、その後連日連夜の取調べの中で悪化していき、ぜん息も治らず、腰痛を起こしたり夜も眠れない日が続いて、最悪の状態になっていった。

(2) 取調べの態様

増淵は、昭和四八年一月二二日から一日の休みもなく朝から深夜まで休憩時間も与えられずに取調べを受け、日石・土田邸事件に入ってからも、取調官は、でかい声で追及し続け、増渕が犯人であると断定して取り調べた。

また、取調官は、増渕を、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで取り調べた。

(3) 長時間の取調べ

増渕は、アメ文事件による逮捕以来長期間の身柄拘束を受け、その間、連日不当に長時間厳しい取調べを受けて肉体的にも精神的にも疲労した。

(4) 起訴後の余罪取調べ

昭和四八年二月下旬から三月一三日までの増渕に対する日石・土田邸事件での取調べは起訴後の勾留中の余罪取調べであって、その取調べは任意取調べの範囲内に限られる。また、被疑者が取調べを受認する義務がないことを知っており、かつ、取調前またはその途中において明示的に取調べを拒否することがなかったとしても、取調官において、たとえば長時間の執拗な取調べをすることによって被疑者の取調拒否の自由意思を事実上抑圧するような取調べをすることは許されない。増渕の右事件での取調べは、長期間にわたる逮捕・勾留中の連日の取調べにより疲労している増渕に対し、引き続いて更に起訴された事件よりはるかに重大な被疑事件について、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで七ないし八時間、午後九時ないし午後一〇時に及ぶ取調べを行い、とりわけ同月七日から一二日までの間の取調方法は極めて厳しいものであって、任意の取調べとして許容される限度をはるかに越えた違法な取調べであった。

(5) 別件逮捕・勾留

原告堀に対する八・九機事件並びに原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の各勾留の資料とされた増渕の自白調書は、同人に対する法政大学図書窃盗事件若しくはアメ文事件の勾留中に得られたものであり、それらは日石・土田邸事件の捜査を目的とした違法な別件逮捕・勾留であるから、その勾留中に得られた自白調書の証拠能力はない。

(六) 中村(隆)

(1) 取調方法等

主たる取調官である坂本警部補は特異な取調方法(自己の万能力を誇示することによって、中村(隆)の運命を一手に握っていると見せかけ心理的に制圧する。)による長期間かつ長時間の連続した取調べを続け、その間、誘導、誤導、切り違え、利益誘導、強制的な手記の作成等の様々な違法な手段を用い、それは「現代の拷問」とも評価すべき違法な取調べを行った。また、四月一六日の中村(隆)の取調べには庄司英義巡査部長が加わっており、同巡査部長は爆弾と電気の専門家であり、中村(隆)の昭和四八年四月一六日付員面は、同巡査部長が口授したものであり、中村(隆)の同日付メモは同巡査部長の口授を三沢巡査部長が筆記したものである。

(2) 起訴後の取調べ

中村(隆)は、起訴後一〇か月以上も警察署の代用監獄に勾留され、連日にわたり取調べを受けたが、それは、取調べの異常性、違法性を特徴づけるものであり、また、起訴後の取調べの限界を超えるものであった。

(3) 検察官の取調べ

検察官による取調べは、警察官による取調べと時間的に密着し、内容的にも一体となったものであり、違法なものである。

(七) 松村

(1) 別件逮捕・勾留

捜査官は、原告堀及び増渕と交友関係のあった松村について、真実は犯人隠避事件に関する捜査の必要性もその意思もないのに、もっぱら日石・土田邸事件の取調べを目的として、違法な別件逮捕・勾留をし、更に日石・土田邸事件で再逮捕して取調べをして自白調書を獲得したが、右自白調書は任意性を欠き、証拠能力を有しない。

(2) 取調方法等

捜査官は、母親思いの松村に対して母親に会わせて昼食をともにさせるという利益供与をし、松村を自白に追い込んだ。

松村に対する取調方法は、虚偽の供述をせざるを得ないような程度に執拗かつ強引な追及をするものであり、違法であった。

(八) 松本

(1) 別件逮捕・勾留

捜査官は、原告堀及び増渕と交友関係のあった松本について、真実は犯人隠避事件に関する捜査の必要性もその意思もないのに、もっぱら日石・土田邸事件の取調べを目的として、違法な別件逮捕・勾留をし、更に日石・土田邸事件で再逮捕して取調べをして自白調書を獲得したが、右自白調書は任意性を欠き、証拠能力を有しない。

(2) 取調方法

松本に対する取調方法は、執拗かつ強引な追及を行うなどの違法なものであった。

(九) その他の共犯者ら

(1) 金本

金本は、昭和四八年三月二九日に犯人隠避罪で逮捕されたが、同逮捕は、同罪に関する捜査の必要性もその意思もないのに日石・土田邸事件の取調べを目的としてなされた違法な別件逮捕であり、これによって得られた自白は任意性を欠き証拠能力を有しない。

(2) 中村(泰)

捜査官は、原告堀及び増渕と交友関係のあった中村(泰)について、真実は犯人隠避事件に関する捜査の必要性もその意思もないのに、もっぱら日石・土田邸事件の取調べを目的として、違法な別件逮捕をし、更に日石・土田邸事件で再逮捕して取調べをして自白調書を獲得したが、右自白調書は任意性を欠き、証拠能力を有しない。

15  原告らに対する公訴追行の違法

(一) 原告らの主張

ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件は、この関連で起訴された一八人が一つの鎖でつながれた運命共同体の関係にあり、そのうちの一人が欠けても、また一つの公訴事実が欠けても、直ちに全員につき全部の公訴事実につき無罪となる構造になっていた。右全事件の公判の過程で、以下の事業が認められたのであるから、検察官としては、公訴の追行を止めるべきであったのにこれを実行しなかった。したがって、検察官の公訴追行は違法である。

(1) 公訴の追行、維持と検察官の職責

<1> 検察官の客観義務、真実義務

刑事訴訟法二五七条の定める検察官の公訴取消権は、同法二四八条の定める起訴便宜主義の反面であるといわれる。起訴便宜主義は、その精神を拡充するときには、当然に起訴変更主義に結びつく。すなわち、公訴提起のみならず、公訴の維持、追行もまた検察官の裁量的権限に属するのである。刑事訴訟法二五七条は、いかなる場合に公訴を取り消すことができるかにつき、なんら規定していない。公訴の維持、追行は検察官の裁量的権限に属するからである。

しかしながら、裁量権限であるからといって何をしても、また、何をしなくてもよいとは言えない。また、現行刑事訴訟法が当事者主義を採用し、検察官は被告人と対立する当事者たる原告官と位置づけられているが、だからといって検察官にいかなる攻撃、防御方法も許されるというわけではない。そこには検察官に捜査や公訴の提起、追行、維持の権限が与えられている目的に由来する限界がある。

検察庁法四条は、検察官を「公益の代表者」と位置づけ、「法の正当な適用を請求する」権限を与えるが、これは同時に検察官の義務でもある。刑事訴訟規則一条二項は、一般に「訴訟上の権利は、誠実にこれを行使し、濫用してはならない」と規定するが、「公益の代表者」たる検察官にはより一層厳格な制約法理が働くのである。これは、しばしば検察官の「客観義務」と呼ばれる。

そして、刑事訴訟法一条が実体的真実主義を規定していることから、「事案の真相」を解明すべき検察官の職責は、検察官の「真実義務」と呼ばれるのである。

<2> 客観義務、真実義務の具体的内容

検察官は、公訴の提起、維持にあたって、公益の代表者として、被告人に有利となる事情についても考慮しなければならず、被告人に有利な証拠をも開示することが義務づけられるほか、全ての証拠を客観的、合理的に総合評価し、有罪判決を得る合理的な見込みがない場合は、公訴の維持にこだわることなく、公訴の取消しを行うか、あるいは無罪の意見を述べるなどの相当な処置に出るべきであって、いずれにしてもすみやかに被告人を裁判手続から解放すべきなのである。

(2) 公訴追行、維持の違法を基礎づける視点

公訴の提起自体が違法であれば、その後新たに有罪を基礎づける証拠が出現しない限り、公訴の追行、維持は当然に違法になる。本件はまさしくそのような場合であり、すでに述べたように、本件公訴提起自体が違法であって、しかも新たに有罪を基礎づける有力な証拠は全くといってよいほど得られていない(むしろ、後記のように、逆に無罪を基礎づける有力な証拠が多数公判廷に顕出された)。したがって、本件公訴追行、維持は当然に違法である。

仮にその点を置くとしても、公訴提起時の事情に加えて、その後更に、有罪を疑わしめ、あるいは無罪を基礎づける事情の加重があれば、公訴の追行、維持は、それ自体が新たに違法となるか、あるいはその違法性は一層強度のものとなる。

(3) ピース缶爆弾事件についての公訴追行、維持の違法

<1> 概観

(ア) 審理状況

原告江口、同堀及び同前林は、ピース缶爆弾事件についても起訴されていたところ、同原告らの共犯者として井上、村松、前原及び平野がピース缶爆弾事件について起訴され、右四名は地刑五部で併合審理された。井上らはピース缶爆弾事件についてのみ起訴されていた結果、ビース缶爆弾事件の審理については地刑五部が先行して、地刑九部の審理は地刑五部の後を追い、場合によっては地刑五部の審理の結果を証拠として取り調べることもあった。

(イ) 被告人、弁護人らの反証活動の成功

ピース缶爆弾事件の公判審理の全課程を通じて、被告人、弁護人らは、検察官の主張に覆いがたい矛盾や欠陥が存することを明らかにするとともに、被告人らが無実であることを証明する多数の証拠を顕出した。その点については地刑五部判決四一頁が次のように述べているとおりである。

「以上のような検察官の主張に対し、被告人・弁護人らは、本件審理の当初から事実を激しく争い、公訴事実については全く身に覚えがなく無実であるとし、村松、前原の自白はもちろん、共犯者とされるその余の者らの自白も、すべて捜査官の強要、誘導に基づきやむなくした虚偽の自白、あるいは取調官の執拗な示唆の結果、自己が犯人であるとの錯覚に陥り、記憶にないことをも迎合的に供述した、真実に反する自白であって、任意性、信用性を欠くものであると主張するほか、積極的に、被告人自身あるいは共犯者とされる者らのアリバイや、その他、真実であれば公訴事実に反し、又はこれと密接に関係する事項と相容れず、従って公訴事実にそう自白の信用性を否定すべきこととなるいくつもの事実、更には前記のような真犯人と称する者らの存在に関する諸事実の主張、立証に力を注いで来たのである。」

その結果、検察官の主張の虚偽性は益々明白となっていった。特に、検察官の主張には次のような致命的欠陥が存することが、弁護人らの反証活動を通じて自白のもとにさらされたのである。即ち、

(a) 検察官の主張は基本的に自白のみに依存するものであり、客観的事実や、証拠物などの客観的証拠に基かないものであること

(b) その結果、自白と右客観的事実や証拠との間に多くの矛盾が生じたこと

(c) この点で特筆すべきは、本件が十数個のピース缶爆弾を製造し、かつこれを使用したとされる事件であるにもかかわらず、それらの爆弾の流れ(経路)が全く解明されておらず、かえって検察官においては、自白との矛盾が表面化するのをおそれる余り、爆弾の流れを敢えて黙殺したのではないかと考えられること

などである。これは、致命的欠陥であるというにとどまらず、初歩的ともいうべき過ちである。

(ウ) 自白と客観的事実、証拠との矛盾

いわゆる冤罪事件を分析してみると、圧倒的多数は、基本的に自白のみに頼り、化学的な捜査や、客観的事実、証拠との地道で丹念なつき合わせが怠られている。検察官は、本件においてもまた、あいもかわらず自白を「証拠の王」とあがめ、客観的事実、証拠との照合を怠るという冤罪事件特有の初歩的過ちに陥っている。

被告人、弁護人の反証活動により、本件公判廷に数多くの客観的事実、証拠が顕出され、被告人らの自白との間に覆いがたい矛盾の存することが明らかにされた。

ピース缶爆弾製造事件については、石井アリバイ、原告江口アリバイなどの決定的とも言える事実が明らかにされた。またピース缶など爆弾の製造材料との関連で、自白との矛盾や不自然な点が多数存在することが明らかにされた。更に、「河田町アジト」の現場検証などを通じて、そもそも右場所が犯行場所たりえるものでないことさえ明白になった。

八・九機事件については、目撃者らの目撃状況や犯行、逃走現場の状況に照らし、犯人の数という最も基本的で重要な点について、被告人らの自白や検察官の主張に重要な矛盾の存することが明らかにされた。また、鑑定人らの証言などを通じて、導火線燃焼実験との関係で、被告人らの自白の信用性に重大な疑義が生じた。

アメ文事件については、佐古アリバイ、国井アリバイ、村松アリバイなどの重大な反証がなされた。また、段ボール箱製造状況との関連で、佐古、前原らの自白にほとんど決定的とも言える重大な矛盾の存することが明らかにされたほか、時限装置の形状、作動状況や、電池と雷管の結線状況についても、被告人らの自白と証拠物との間に大きな矛盾、齟齬の存することが明らかにされた。

以上の客観的事実は、ことごとく、予断、見込み、偏見を持たず、曇りのない眼で捜査を遂行していれば、容易に判明しえたことばかりである。しかるに、検察官らは、捜査段階でそれを怠ったばかりでなく、公判廷でこれらの客観的事実が明らかになって以降も、それに眼をつむり、しゃにむに公訴を維持、追行してきたのである。

(エ) 爆弾の流れ(経路)の未解明と検察官主張の崩壊

後記のように、検察官の主張は、爆弾製造日時の点で重大な疑義を生じ、これに関する訴因変更請求の時点で基本的に瓦解した。更に、若宮真犯人証言や、牧田真犯人証言によって虚構の崩壊は決定的でかつ最終的なものとなった。しかし、これはひとえに検察官が右十数個の爆弾の流れ(経路)の解明を放棄、無視したことによるものである。「高度の類似性」を有し、「同一の者(ら)か、又は相互に密接な関係を有する者らの製造にかかるものと推認される」(地刑九部判決書八四頁)ピース缶爆弾一三個の存在が具体的に判明していた。しかるに、検察官は、これらのうち八・九機事件とアメ文事件の各一個計二個についてのみその流れ(製造以後の経路)を「解明」したにとどまり、その余の一一個については、本件「製造」以後の流れの解明を敢えて放棄した。

たとえば、京都地方公安調査局事件の爆弾二個の流れを解明していれば、製造日時の特定の問題で検察官がかくも苦しみ、「一〇月中旬ころ」に訴因変更請求するなどという破局に陥ることはなかったであろう。また、この二個の流れを解明していれば、「一〇月一六日ころ」製造したとする被告人らの自白が虚偽であることを容易に喝破しえたはずであろう。

更に、右二個の爆弾は「大村が牧田から入手して来たものである可能性が強い」(地刑九部判決書六八頁)のであり、「牧田がその製造にも何らかの形で関与しているのではないかということを強く窺わせる」(地刑五部判決書六七頁、四〇八ないし四一一頁)のであるが、このような観点から牧田、三瀦、大村らの関与を追及するてがかりは充分得られていたのであるから、検察官としては、関係記録をつぶさに検討すれば、牧田真犯人証言などという衝撃的な事態に直面しなくてすんだであろう。逆に言えば、牧田真犯人証言の登場は必然的なことだったのである。

しかるに、検察官は、弁護人らからこの点を指摘され、京都地方公安調査局事件の一件記録が公判廷に顕出されたのちも、これを一切黙殺しようとしたのである。そればかりか、右京都地方公安調査局事件の二個が被告人ら「製造」にかかるものか否かについてさえ、主張を二転三転させるなど、無理な公判維持に汲々としてきたのである。

贈収賄事件や横領事件であれば金銭の流れ(経路)を解明することが捜査の常道であり、これを立証することが公訴追行、維持の基本原則である。これと同様に、事件が爆弾の製造、使用の事件であるならば、製造から使用に至る一連の経路を解明することは、捜査、公訴の提起、公訴の追行、維持のための初歩の初歩である。被告人、弁護士らの反証活動により、この点における本件の捜査(警察、検察の双方を含む)の余りの杜撰さ、お粗末さが誰の眼にも明らかになった以上、検察官は公訴を取り消すか、さもなくば直ちに無罪の意見を述べて被告人をすみやかに裁判手続から解放すべきだったのである。

(オ) 検察官の基本的姿勢、態度

以上の点は、公判審理の比較的早い段階から明らかにされ、公判審理が進行するにつれ弁護側の反証の成功は益々明瞭となっていった。

ところが、これに対し検察官の行ったことといえば、弁護側の反証の成功に対し証拠や客観的事実をもって再反論するのではなく、その主張自体を拡散させ、曖昧にし、あるいは主張を二転、三転させることによって何が何でも有罪の主張を維持しようとするものであった。

たとえば、製造事件については、「一〇月中旬ころ」に訴因変更請求するなどという姑息な手段によって、主張を拡散させたほか、京都地方公安調査局事件の爆弾二個が被告人らの「製造」にかかるものであるか否かについて、猫の眼のように主張をくるくると変えた。また、八・九機事件については、「投てき班四人説、二方向逃走説」などの珍説まで展開するありさまであった。

いずれにしろ、自白のみを金科玉条の如くあがめた上、幾重にも推理を重ね、空想に空想を重ね、荒唐無稽な筋書きをあくまで主張しようとした。

このようなことは、「公益の代表者」としての検察官のとるべき姿勢、態度としては、到底許されるところではなかった。

(カ) 論告において検察官の取るべき態度

ピース缶爆弾事件と京都地方公安調査局事件との関連性を前提にすれば、牧田がピース缶爆弾の製造に深く関与していると考えざるを得ないことはすでに述べた。したがって、検察官としては、公判審理のもっと早い段階で公訴の追行、維持を断念すべきであったが、そのこともすでに述べたとおりである。しかるに検察官があえて公訴の追行、維持にふみきった以上牧田真犯人証言によって手痛い打撃を蒙ることは必然だったのである。

論告において、検察官の選択すべき途はひとつしかなかった。それは、被告人ら全員につき、無罪の意見を述べることであった。

しかし、検察官はそうしなかった。それどころか、地刑九部第二八〇回公判において昭和五七年九月一四日付釈明書で「右二個の爆弾(注、京都地方公安調査局事件の爆弾及び三瀦が解体した爆弾)は被告人らが河田町アジトにおいて製造したピース缶爆弾十数個の一部であると、積極的に主張する意志はない」などと主張して、またもやピース缶爆弾事件と京都地方公安調査局事件の関連性を曖昧にした。この無節操さ、無責任さこそ、本件公訴提起、追行、維持に一貫する検察官の訴訟行為の不法性を物語って余りあるものがある。

ピース缶爆弾事件についての公訴追行、維持が違法であることをさらに詳述すると次のとおりである。

<2> 証人牧田証言について

ピース缶爆弾製造事件については、牧田が、自分が真犯人であると証言し、その証言は真犯人でなければ判らない事項についても詳細に述べられていたのであるから、検察官としては、公判審理のもっと早い段階で公訴の追行、維持を断念すべきであった。

<3> 証人若宮、同荒木及び同古川の証言

自らが八・九機事件の真犯人であるとする若宮、荒木及び古川ら三証人の証言は、相互に内容が一致するのみでなく、具体性、迫真性を有し、周囲の客観的状況とも正確に符合した極めて信ぴょう性の高い証言であった。若宮らの右証言による八・九機事件の真相が明らかになった以上、検察官としては、直ちにその公訴追行、維持を断念すべきであった。

(ア) 現在の時点において、ピース缶爆弾事件の真相は、公判における真犯人証言などによりほぼ解明されたと言える。

すなわち、ピース缶爆弾製造を計画し実行したのは、牧田のグループであり、製造された爆弾は関西アナキストグループ、赤軍派などに配布された。その後、関西アナキストグループは京都公安調査局事件を起こし赤軍派は一〇・二一闘争などの一連の闘争に使用したが、八・九機事件の実行は若宮単独の行動であった。原告らはもちろんのこと、増渕らL研グループは全員、これらのピース缶爆弾事件には全く無関係だったのである。

なお、地刑九部判決はこれらの真犯人証言につき、「牧田証言をもって、直ちに、弁護人の主張するように、ピース缶爆弾製造事件の真犯人の証言にほかならず、被告人の無罪を示す証拠であると認めることはできないものである。」とか「(若宮、古川、荒本)らの各証言をもって、直ちに、弁護人の主張するように、第八・九機動隊事件は若宮の単独犯行であって、被告人らの犯行でないことを示す証拠であると認めることはできないものである。」と判示し、その信用性について慎重な評価を行っている。

これらの真犯人証言が真実であるとされれば、それだけで原告らの無罪が明らかとなり、本件の他の証拠について検討するまでもないことになる。しかし、裁判所としてはそのようなドラスティックな判断方法を取らず、あくまで検察官による公訴事実の証明がなされているかどうかを逐一検討し、その結果として無罪の結論を導いているのであって、裁判所がそのような手堅い手法を選択したことにもそれなりの理由があると言えよう。この問題に関する判示が、裁判の中でピース缶爆弾事件について犯罪の証明がないと結論付けた後の部分に置かれているのも、この問題をいわば付録のような形で取り扱いたいとする裁判所の意図によるものと考えられるのである。

したがって、表面上、真犯人の証言の信用性を認めなかったからといって、真犯人証言を全く排斥したと見るべきではない。

一方、地刑五部はこれらの真犯人証言につき、「かなりの真実性を示し、被告人らが犯人でないとした場合におけるあり得べき事実経過の一つを窺わせる」が、「なお少なからぬ問題点を残す」とし、「右各証言をもって、右各事件につき、被告人らに対し無罪を言い渡すべき直接の根拠とはしない」(四三四頁)、と慎重な評価に止めている。

しかもこれも、公訴事実の証明がないこと(したがって、被告人らが無罪となること)を適示した後の判示であり、無罪の結論が真犯人証言の信用性の有無によって左右されないことを前提とした判示であることに注意すべきである。刑事裁判所としては、真犯人の追及自体は職責の範囲外である故に、かような慎重な態度に止めたものと理解されるのである。むしろ、そのような慎重な配慮をしていながらなお、この判決が「牧田吉明が本件ピース缶爆弾の製造に深く関与しているのではないかとの嫌疑は、ある程度認められる。」(四二〇頁)、「八・九機事件は若宮の単独犯行であるとする若宮証言及びこれを補強する古川並びに荒木の証言は、相当高度に信用すべきもののようである」(四三四頁)、と評価していることに、裁判官の真意が何処にあったかが窺われるのである。

(イ) 若宮真犯人証言に至る経緯

検察官は、地刑五部第一五回公判において、冒頭陳述追加補充をなすとともに、いわゆる大菩薩峠(福ちゃん荘)事件の関係記録の証拠調べ請求をなした。これらの記録は同第八七回公判(昭和五四・三・二七)において取り調べられた。これにともない、この事件に関与した赤軍派関係者である木村一夫、大桑隆、大川保夫、酒井隆樹、荒木、前田、出口光一郎、若宮らにつき、検察官申請または弁護人申請ないしは双方申請による証拠調べ請求がなされ、同第八六回公判(昭和五四・三・九)の証人木村一夫を筆頭に、これらの大部分が順次証人として取り調べられるに至った。

そして、すでに昭和四四年当時入手されていた右大菩薩峠(福ちゃん荘)事件記録により、昭和四四年一〇月二一日正午前後ころピース缶爆弾一二個が中條宅で開かれた赤軍派の戦術会議に持ち込まれていたことが明らかにされていた(同時に導火線切り縮めという重要な手掛かりも明らかにされていた)が、右一連の証人調べにより、ピース缶爆弾一二個の流れの詳細が更に解明されようとしていたのである。

このような経緯の中で、地刑九部第一六四回公判(昭和五四・六・五)に出頭した証人荒木は、本件被告人らが無実であり、若宮が八・九機事件の真犯人であることを明らかにした。そして、昭和四四年一〇月下旬、荒木、若宮及び遠藤こと古川らが大森アジトに居住し、そこから若宮と古川が犯行現場に赴き、若宮が実行し、古川が脱落していったという事件の真相が明らかにされた。

続いて、同第一六五回公判(昭和五四・六・六)及び同第一六八回公判(昭和五四・六・二〇)において、証人若宮は、八・九機事件の真犯人として、事件の全体を詳細に証言した。それは極めて衝撃的なものであった。

更に、第一七七回公判(昭和五四・二・七)において、証人古川は、荒木、若宮らの証言を更に具体的に裏付けた。

(ウ) 若宮ら三証人の証言の信ぴょう性

若宮ら三証人の証言は相互に一致するのみではなく、真相を知るもののみが語り得る具体性、迫真性を有し、周囲の客観的状況とも正確に符合した、極めて信ぴょう性の高い証言であった。

そして、若宮の証言は、前記の目撃者らの証言(単独犯行)とも合致しており、若宮が真犯人であることは疑いをさしはさむ余地がないほどまでに立証された。

(エ) 検察官のとるべき態度

このように若宮らの証言による八・九機事件の真相が明らかになった以上、検察官としては、直ちに本件公訴追行、維持を断念すべきであった。ピース缶爆弾製造事件に次いで八・九機事件についても検察官主張の虚構性が明らかになった以上、検察官がこれ以降もなお公訴を追行、維持するいかなる合理的理由も存しなかった。

しかるに、検察官は、右三名の証人調べ途上において、一方で裁判所、弁護人に対し証人古川の住所は不明であると虚偽の報告をなしつつ、他方で古川の取調べを行なうなどの背信的行為に及ぶなどしたものの、公判審理の見通しについて再吟味することもなく、あくまで公訴を追行、維持しようとした。

そして、地刑五部における昭和五五年六月六日付意見書において、検察官は、「犯人四名(以上)、二方向逃走」なる珍説を展開するに至った。これは、被告人らの自白による「犯人三名」説と目撃証人の証言(単独犯行)によっても裏付けられている若宮真犯人証言とをあえて結合させようとする意図に出たものではないかとさえ推察される奇怪な説であった。

いずれにしろ、検察官は、弁護人らの反証の成功に対し、証拠や客観的事実をもって反論することなく、益々証拠から乖離し、シャーロック・ホームズばりの推理を働かせ、「自由奔放に」空想をたくましくしていったのである。

<4> 石井のアリバイ

ピース缶爆弾製造事件において、石井は、爆弾製造の見張りを担当したとされ、当初その製造日は昭和四四年一〇月一六日ころと主張されていた。しかし、同人は、昭和四四年九月五日から一〇月一八日まで日本プラスチック玩具工業協同組合事務所でアルバイトをしており、製造事件への関与を否定する重大なアリバイの存することが明らかとなった。同アリバイにより、被告人らの自白の信用性に重大な疑義が生じたのであるから、検察官としては、この時点で事件全体を見直し、証拠を総合的・客観的に再吟味したうえ、公訴の追行、維持の当否につき根本的に再検討をすべきであった。

また、石井のアリバイが判明したことにより、同人がピース缶爆弾製造事件に関与したことが否定されたのみならず、事件そのものの存在が否定され、ひいては全部のピース缶爆弾事件も崩壊した。

地刑五部第一五回(昭和四九・九・五)ないし第一八回公判(昭和四九・一〇・二一)における石井の証人尋問の結果、同人は昭和四四年九月五日から一〇月一八日まで日本プラスチック玩具工業協同組合事務所でアルバイトをしており、製造事件への関与を否定する重大なアリバイの存することが明らかとなった。なお、石井はその後地刑九部第一八〇回公判(昭和五四・一二・五)及び第一八一回公判(昭和五四・一二・六)でも証言した。

検察官としては、この時点で、公訴の追行、維持の当否につき根本的に再検討をなすべきであった。しかし、検察官はそうしなかった。

<5> 原告江口のアリバイ

原告江口は、昭和四四年から一年間国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室に研究員として勤務していたのであり、ピース缶爆弾製造事件等に関してアリバイがあった。しかしながら、検察官は、原告江口のアリバイの存在が明らかにされたにもかかわらず、公訴事実や証拠関係を見直すことなく公訴を追行、維持した。

地刑五部第三一回公判(昭和五〇・一〇・二九)における原告江口の証言により、ピース缶爆弾製造事件に関与したとされる同人にアリバイの存することが明らかとなった。同人は昭和四四年から一年間国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室に研究員として勤務していたのである。同人のアリバイは、その後の公判審理を通じ、川添豊の証言(地刑九部第二八三回公判)、庭山正一郎証言(同第二八五回)などによって更に強固な裏付けを得ていくのであるが、当時検察官としても容易にそれを確認し得たはずである。しかし、検察官はそうしなかった。

<6> 増渕及び内藤のアリバイ

増渕及び内藤は、八・九機事件が発生した昭和四四年一〇月二四日夕刻から午後一〇時ころにかけて、東薬大の社研の者らが同月二〇日同大学で製造し同月二三日と二四日の各早朝に同大学から平野の下宿に運び込んであった火炎びん七、八本を、町田らと共に、下宿から渋谷区本町の原告江口と原告前林のアパートへ運び込む作業を行っていたから、八・九機事件についてアリバイがある。検察官は、右アリバイの成否を検討する必要があるのにこれを行わず、公訴を追行し、維持した。

<7> 平野のアリバイ

平野は、ピース缶爆弾製造事件の犯行日であるとされている昭和四四年一〇月中旬ころにあたる同月一四日午前中、従前の下宿先であった杉並区天沼の八田方から新宿区柏木の糖信荘へ引越しをし、同日午後その荷物整理をしていたから、平野には、少なくともこの日についてはピース缶爆弾製造に関し明らかなアリバイがあった。平野につきアリバイが成立しピース缶爆弾製造事件の爆弾製造に平野が関与していない明白な証拠があるから、平野が製造に関与したとする関係被告人の捜査段階の供述は客観的事実に矛盾する証拠であるのに、検察官は、これを見直すことなく、平野にアリバイが成立しないことを前提に公訴を追行、維持した。

<8> 村松のアリバイ

村松は、アメ文事件が発生した日である昭和四四年一一月一日未明、赤軍派による首相官邸襲撃用のトラックを調達するため、ダンプカー一台を窃取し、これを松戸近辺の江戸川の河原に隠匿した後、若松町アジトに戻り、同アジトか風雅荘の自室のいずれかで午後一時か二時ころまで寝ていたので、アメ文事件に関してアリバイがある。このように村松に関してはアリバイが成立したから、村松がアメ文事件に関与したとする共犯者らの捜査段階の自白を見直すべきであったのに、検察官は、何ら見直しや再検討を行うことなく、アメ文事件の公訴を追行、維持した。

<9> 佐古及び国井のアリバイ

佐古及び国井に関しても、佐古靖典及び国井啓子の証言により、昭和四四年一〇月二一日の爆弾二個の持ち帰りに関して有力なアリバイが存在したにもかかわらず、検察官は公訴を維持、追行した。

佐古は、昭和四四年一〇月二一日夜、豊島区の兄佐古靖典方のアパートに泊まり、国井も、その夜は杉並区の自宅に戻っており、したがって、二人とも河田町アジトには戻らなかった。

<10> 京都地方公安調査局事件との関連

検察官は、ピース缶爆弾製造事件において、石井のアリバイ発見及び京都公安調査庁事件との関連が問題となり、製造日を昭和四四年一〇月一六日ころとしていたのでは公判追行を維持できないことが明白になると、製造日を昭和四四年一〇月中旬ころとする訴因変更をしたが、これは何らの証拠もないのにただ公判追行を維持するためにのみなされたものである。

(ア) 訴因変更請求に至るまで

(あ) 冒頭手続における求釈明、釈明論争

起訴状記載の公訴事実及び検察官の冒頭陳述書記載の事実について、弁護人らは数多くの事項にわたって求釈明をなした。これに対する検察官の釈明は誠に不十分なものであった。そして、この求釈明、釈明論争を通じて検察官主張が多くの問題点をかかえていることがわかった。それは次のような点である。

(a) 犯罪を構成する重要な部分に矛盾や不明確な点があり、被告人らが真犯人であれば容易に判明しているはずの事実関係が曖昧なままであったこと。

(b) 事件の筋書き、展開に脈絡がなく、唐突な印象を免れないこと。

(c) 製造された爆弾十数個の流れが全く明らかでないこと。

これらは、いずれも自白偏重の捜査、公訴提起が生んだ欠陥であり、本件事件の虚構性を予感させるものであった。

(い) 冒頭陳述追加補充の問題点

地刑五部第一五回公判(昭和四九・九・五)において、検察官の「冒頭陳述追加補充」がなされた。ここでは検察官は前記釈明論争で露呈された基本的欠陥、「爆弾十数個の流れの未解明」を補うべく、中野坂上事件の三個、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件の三個、松戸市岡崎アパート事件の二個の「使用状況」を明らかにした。しかしながら、なぜか中央大学会館事件の一個、京都地方公安調査局事件の二個については本件と関連性を主張しなかった。おそらく京都地方公安調査局事件の二個の存在とその流通経路が明らかになると、「一〇月一六日ころ」製造という被告人らの自白に重大な疑義が生じ、公訴を維持することができなくなることを恐れたのである。かくして、検察官は、この時点ですでに重大な事実に目をつむることによって公訴を追行、維持しようとした。

また、右「追加補充」を立証するため請求された証拠は、いずれも大菩薩峠(福ちゃん荘)事件などに関連してすでに昭和四四年ないし昭和四五年段階で入手されていたものばかりであった。

(う) 石井アリバイ

地刑五部第一五回(昭和四九・九・五)ないし第一八回公判(昭和四九・一〇・二一)における石井の証人尋問の結果、同人は昭和四四年九月五日から一〇月一八日まで日本プラスチック玩具工業協同組合事務所でアルバイトをしており、製造事件への関与を否定する重大なアリバイの存することが明らかとなった。なお、石井はその後地刑九部第一八〇回公判(昭和五四・一二・五)及び第一八一回公判(昭和五四・一二・六)でも証言した。

(え) 原告江口のアリバイ

地刑五部第三一回公判(昭和五〇・一〇・二九)における原告江口の証言により、同様にして製造事件に関与したとされる同人にアリバイの存することが明らかとなった。同人は昭和四四年から一年間国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室に研究員として勤務していたのである。同人のアリバイは、その後の公判審理を通じ、川添豊の証言(地刑九部第二八三回公判)、庭山正一郎証言(同第二八五回)などによって更に強固に裏付けられた。

(お) 河田町アジトの現場検証

地刑五部での弁護人の昭和五二年六月二二日付証拠調べ請求に基づき行われた地刑五部第四五回公判(昭和五一・九・二)終了後の現場検証において、本件製造現場とされる河田町アジトの状況が明らかにされた。その結果、地刑九部判決書五一三頁以下が述べるように、「爆弾製造場所とされている河田町アジトは四畳半と二畳の続き間であり、長机、本棚、テレビが置かれていたというのであって、必ずしも広いといえず」「間借りであって玄関は家主と共通で、かつ、家主が使用する部屋との仕切りが襖の部分もあるというのであり」「そのような場所に約一〇名の者が履物を持って入り、爆弾製造作業をするというのは不可能ではないにしても窮屈で不自然ではないか」また「そのような場所に十数名の者が次々に集まり、またしばしば出入りするというのは少なくとも家主の注意を惹く虞れのある行動と見ることができ、爆弾製造をしている状況としては不自然な面がないとはいえない。」とまで認められるようになった。

(か) その他の自白の信用性を疑わしめる事実

地刑五部第六〇回公判(昭和五二・六・二八)までに、遺留物である爆弾などの証拠物を鑑定した横川、福山、飯田、徳永、三宅らの鑑定人の証人尋問がなされ、導火線の点火方法、導火線が燃焼した場合の状況、時限装置の構造やセット方法などに関連して、被告人らの自白の真偽を判断する重要な手掛かりが与えられた。なお、徳永は、地刑九部第一六一回公判(昭和五四・五・九)及び第一七四回公判(昭和五四・一〇・三)でも証言した。

また、地刑五部での弁護人らの昭和五一年一一月二五日付証拠調べ請求に基づき、ピース缶の底面の刻印番号との関連で、ピース缶の入手方法につき被告人らの自白に重大な疑義が投げかけられ、同じく弁護人らの昭和五三年二月二四日付証拠調べ請求に基づき、段ボール箱の製造状況に関連し、赤銅色の金属製の針が業務用ステッチャーによって打ち込まれたものではないかとの観点から被告人らの自白に重大な疑義が投げかけられた、そして、弁護人らの主張にそう証拠が公判廷に顕出された。

このようにして、被告人らの自白のみに基礎を置く検察官の主張は、客観的事実や証拠物との関係での詰めが著しく甘く、杜撰なものであることが、徐々に明らかにされていった。

また、八・九機事件の目撃者の証人調べ(地刑五部第三三回及び第五三回公判)を通じて、八・九機事件は単独犯行によるものであることがほぼ明らかにされ、犯人三名説に立脚した被告人らの自白に、この面からも重大な疑義が生じた。

(イ) 訴因変更請求の違法

(あ) 訴因変更請求に至る経緯

弁護人らは、早くから本件と京都地方公安調査局事件との関連を指摘し、地刑五部第五〇回公判(昭和五一・一一・二五)において京都地方公安調査局事件の公判記録の取寄せを請求し、同第七〇回公判(昭和五三・二・二四)においてそれら記録の証拠調べ請求をなした。これらの記録は同第七七回公判(昭和五三・七・一四)において取り調べられた。

これに対し、検察官は、地刑五部第七五回公判(昭和五三・六・二)において、突如としてピース缶爆弾製造事件の訴因変更を請求し、「昭和四四年一〇月中旬ころ」製造したと主張するに至った。

更には、地刑九部でも昭和五三年九月五日に同じく爆弾製造日を「昭和四四年一〇月中旬ころ」とする旨の訴因の変更を請求した。右訴因、冒頭陳述変更の理由については、第一四四回公判(昭和五三・一〇・二六)において釈明書を提出し、「京都地方公安調査局爆弾事件に使用された爆弾は、本件ピース缶爆弾製造事件の際被告人らが製造した爆弾の一個と認められるところ、本件起訴後右京都地方公安調査局爆弾事件の犯人らが検挙され、京都地方裁判所において順次審理されていたので、同事件の捜査及び公判記録並びに本件ピース缶爆弾製造事件の手持証拠を総合し検討した結果、訴因変更の請求をするのを相当と考えたものである。」と述べた。

(い) 右訴因変更請求の違法

ここに至って、検察官は、これまで曖昧にしてきた八・九機事件及びアメ文事件と京都地方公安調査局事件との関連を初めて認めるに至ったのであるが、同時にこの訴因変更請求により、これまでの公訴提起、追行、維持が被告人らの自白のみに依存しており、しかもそれが全く客観的事実の裏付けをもたないものであることを自認するに至った。すなわち、「もっぱら被告人ら実行行為担当者の記憶をたよりになされており、これを根拠づける合理的事実の裏付けに乏しかった。」(地刑五部釈明書)ことを率直に認めるに至ったのである。そして、ピース缶爆弾事件と京都地方公安調査局事件との関連を肯定することは、これまでの検察官主張の基本的筋書きや枠組み自体が崩壊したことを意味するのである。

そうであれば、ことここに至って検察官のとるべき態度は、もはやピース缶爆弾事件の公訴追行、維持を断念するほかなかったはずである。

しかも、ピース缶爆弾製造事件については有力なアリバイや反証がなされて被告人らの自白に重大な疑義が投げかけられ、しかも八・九機事件やアメ文事件の自白にもいくつかの観点から疑いがさしはさまれていたのであるから、右のように京都地方公安調査局事件との関連で検察官の創り上げた「事件の筋書き」「事件の基本的構造」自体がほとんど決定的とも言える破綻をとげた以上、これ以上の公訴追行、維持に無理があることはだれの眼にも明らかなことであった。

しかるに検察官はあえて無謀な公訴追行、維持に挑み、その後論告に至るまで、本件京都地方公安調査局事件との関連につき主張を更に二転、三転させていくのである。

すなわち、地刑九部第一五二回公判(昭和五四・二・七)では「『一〇月中旬頃』の意味につき右は釈明したところは『一〇月八日以降一六日までの間』と理解されて差し支えない」と主張していたが、第一六一回公判(昭和五四・五・一七)に至るや「変更請求にかかる犯罪日時の『昭和四四年一〇月中旬ころ』の始期につき、第一五二回公判において同月八日と釈明していたのを同月九日と改める。」と訂正した。

(4) 日石、土田邸事件についての公訴追行、維持の違法

<1> 中村(隆)アリバイ

公判開始早々、中村(隆)について日石事件に関するアリバイが発見され、日石・土田邸事件の構成そのものが崩壊したにもかかわらず、検察官は公訴を維持、追行した。

(ア) 検察官は、当初日石事件当日における新宿から新橋までの爆弾搬送担当者(第二搬送者)は中村(隆)であると主張していたが、公判開始早々中村(隆)について当日府中の運転免許試験場において受験していた明白なアリバイが発見されたため、以後「第二走者が誰であったかは不明である」と冒頭陳述を変更した。右搬送行為についての中村(隆)の自白は、同人の自白中において中心部分をなすものであるのみならず、日石、土田邸事件についての捜査段階における各人の自白においても一つの大きな根幹をなしており、これが虚偽であると判明したということは、中村(隆)自白の任意性ないし信用性がなくなったというのみならず、日石・土田邸事件の構成そのものが崩壊したということである。

検察官の右冒頭陳述変更は、それを糊塗するためのみのものであった。

(イ) 検察官としては、少なくとも中村(隆)のアリバイが判明した時点で、すべての事件につき、公訴取消の手続を行うべきであったといわなくてはならない。

そうであるにかかわらず、その後も公訴を維持し、さらに昭和五三年八月、日石リレー搬送者の一人とされた坂本に対して、右アリバイの成立等を理由に無罪判決があり、これが確定した時点においてさえ、検察官は、公訴を維持し続けたのである。

しかし、日石、土田邸事件は、中村(隆)のアリバイ成立により、到底起訴及び公判維持ができなかった事件であり、それにもかかわらず、これを維持した検察官の責任は、極めて明らかといわなくてはならない。

<2> 自白調書の取調請求却下

日石・土田邸事件については、取調請求された大部分の供述調書が却下されており、これにより、日石・土田邸事件は根底から崩壊し、同じ捜査過程で得られたピース缶爆弾事件の供述調書の信用性にも疑問が生じたにもかかわらず、検察官は公訴を維持、追行した。

日石、土田邸事件については、昭和五六年一一月一八日に増渕と原告堀の供述調書が、昭和五七年三月一七日に松村の供述調書が、同年四月一五日に原告榎下と松本の供述調書が、同年五月一三日に坂本の供述調書が、それぞれ却下され、右却下決定に対する検察官の異議申立ても棄却された。

これにより、日石、土田邸事件についての各人の供述調書の大部分が証拠能力を否定されたわけであるから、日石・土田邸事件は根底から崩壊し、捜査の違法性も明白となった。のみならず、証拠能力があるとされ採用された供述調書についても信用性は乏しいものとなり、また同じ捜査過程で作成されたピース缶爆弾事件についての供述調書の信用性の判断についても疑問を投げかけるものであった。

(二) 被告国の主張

公訴提起が違法でないならば公訴の追行は原則として違法ではなく、公訴提起後、公判において右嫌疑を客観的かつ明白に否定する証拠が提出され、もはや到底有罪判決を期待し得ない状況に至らない限り、違法とされることはないと解すべきである。八・九機事件を含むピース缶爆弾事件関連の公判においては、原告らの嫌疑を客観的かつ明白に否定する証拠は存在せず、少なくとも、そのように解した検察官の判断が合理的でないと断定できないことは明らかである。

16  原告らに対する控訴提起及び控訴審における公訴追行の違法

(一) 原告らの主張

(1) 控訴提起

捜査の違法及び供述調書の虚偽性を厳しく指摘した第一審の無罪判決があったにもかかわらず、かつ、新たな証拠は何もないことが分かっていたにもかかわらず、あえて控訴提起したことは違法である。

<1> 地刑九部は、昭和五八年五月一九日、原告らを含む九名の被告人に対し、日石・土田邸事件、ピース缶爆弾事件につき、無罪の判決を言い渡した。

右判決は、すでにそれまで行われてきた多くの被告人の供述調書の取調請求却下決定を前提に、詳細にその問題点を検討し、検察官の主張が何ら根拠のないものであることを明言した。

ところが、検察官は、右無罪判決のあった者のうち、金本、中村(泰)、松村を除き、原告ら六名についてのみ、控訴の申立てを行ったのである。

<2> 右三名に加えて、当時既に検察官が日石事件のリレー搬送にかかわったと主張していた坂本や、土田邸事件の爆弾搬送にかかわったと主張していた松本の無罪が確定していた。

<3> このような状況の中で、右のような一部の者についてのみの控訴の申立ては、検察官の本件に対する対応の不統一性を示すだけでなく、当初から、原判決を覆すだけの意図も、証拠も持ち合せていないことを自ら示すものであった。

検察官は、当初から、無罪が確定した松本、坂本ら五名についても、日石・土田邸事件に重要な役割を果たしたものと主張していた。そして、これにそう多くの供述調書も作成されていたのである。

この者らが、無実であることは、当然に検察官が、右事件で描いていた構図が虚構であること、そして、おびただしい供述調書記載のすべても虚偽であることを示すことになったのである。

控訴審の判決が、原告らの無実の結論に達し、検察官の控訴が棄却されることは、当初より明白であったのである。

検察官は、当然かかる結論を予見できたはずであり、これを無視してあろうことか本件控訴を行ったことは、故意または過失の責任があるものといわなくてはならない。

検察官の控訴は、いわば面子以外のなにものでもなく、かかる控訴提起が、検察官の裁量権を著しく逸脱し、その責に帰することは明白である。

(2) 公訴追行

控訴審における若干の証拠調べにより無実が一層明らかになったにもかかわらず、あえて控訴審の公判を追行したことは違法である。

(二) 被告国の主張

(1) 控訴提起

検察官の控訴の提起、追行は、第一審の判決を覆して有罪の判決を得られる可能性があるとした検察官の判断過程に合理性が認められる場合には、法が検察官に控訴権を付与した趣旨に反するものではなく、その権限を逸脱するものでもないから、適法というべきである。有力な反証が発見されたとか又は被告人に明白なアリバイ証明があったとか、あるいは真犯人が検挙され、それが間違いないことが確認されたなどの特別の事態が生じた場合を除いては、検察官の公訴提起時及び追行時における有罪判決の可能性があるとの判断過程に合理性がある限り、第一審の判決を覆して有罪判決を得られる可能性があるとした検察官の判断過程にも合理性があるというべきである。

検察官は、原告らに対する一審判決に対して控訴するにあたり、証拠資料を総合すれば、一審判決には事実誤認及び訴訟手続の法令違反があるから、控訴審により一審判決が覆されると判断したものであって、検察官の右判断は、合理的であると認められる。少なくとも、右判断が、法の予定する一般的検察官を前提として通常考えられる判断の幅を考慮にいれても、なおかつ行き過ぎで、経験則、論理則に照らして到底その合理性を肯定することができない程度に達しているとまでいうことはできない。しかも、検察官は、新たに、峰孝一及び鈴木茂(以下「鈴木」という。)の証人尋問を予定していた。したがって、本件ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件についての控訴が、検察官に控訴権を付与した法の趣旨に反していないことは明らかである。

(2) 公訴追行

控訴審における証拠調べでは、まず、峰孝一の証人尋問が行われ、峰証言によって、ピース缶爆弾製造事件及び八・九機事件が原告らによって行われたものであることが強く推認され、菊井証言等他の証拠と相まって、原告堀らについて有罪と認めるに足る嫌疑が強められた。また、原審における証言を補充する鈴木の証人尋問も行われ、これらによって、ピース缶爆弾事件及び日石、土田邸事件について原告らを有罪と認めるに足る嫌疑が一層強まったと認められたのであって、少なくとも、控訴審において、新たに有力な反証が発見されたとか又は原告らに明白なアリバイ証明があったとか、あるいは真犯人が検挙され、それが間違いないことが確認されたなどの特別の事態が生じたわけではない。そうすると、地刑九部の無罪判決が覆され有罪判決が得られる可能性があるとした検察官の判断過程には、合理性が認められるから、控訴審における公訴の追行は、法が検察官に控訴権を付与した趣旨に反するものではなく、その権限を逸脱するものでもないから、適法であった。

17  損害

(一) 原告らの主張

(1) 原告堀

原告堀は、昭和二三年に東京に生まれ、昭和四五年に日本大学獣医学部を卒業後、多摩市役所に就職し、勤務していた。

しかし、本件の起訴により休職処分を受け、その後無罪確定の後である昭和六〇年一二月まで復職できなかったため、同期に多摩市役所に採用された者らと比較して昇進等に大きな不利益を負うことになった。

(2) 原告江口

原告江口は、昭和二一年埼玉県川口市に生まれ、昭和四四年に東京薬科大学を卒業後、国立ガンセンター勤務を経て、昭和四五年から都職員として東京都立衛生研究所に勤務していた。

しかし、本件の起訴により休職処分を受け、その後無罪確定の後である昭和六〇年一一月まで復職できなかったため、同期に東京都職員に採用された者らと比較して昇進等に大きな不利益を負うことになった。

(3) 原告榎下

原告榎下は、昭和二三年に東京に生まれ、昭和四一年日大二高を卒業後、母校の職員等を経て、昭和四四年一月から白山自動車に勤務し、自動車整備工として実務に従事しながら、整備士の資格を取得すべく研鑚に励んでいた。同原告は、将来整備士の資格を取り、さらに独立して自ら整備工場を経営するなどの大きな希望と夢を抱いてその実現に着実に前進していたが、本件によってその実現は事実上不可能になった。

(4) 原告前林

原告前林は、昭和四八年二月二〇日に逮捕された当時、岡田香料に勤務して、収入を得ていた。また、東京都台東区にある増渕の家族と同居し、妊娠三か月の身体であった。執行停止により同年九月九日に原告前林の実家のある千葉県松戸市近くの病院で男児を出産したが、不当な刑事被告人にされていたため育てることができず、子供は養子縁組による別離を余儀なくされた。原告前林は右出産後再び東京拘置所に収監されたが、子供との別離は言葉に尽くせぬ苦しみであり、なぜこのようなひどい目にあわなければならないのかと涙する日々であった。昭和六〇年一二月二七日、無罪が確定したものの、でっち上げによる起訴等によって職を奪われ、原告前林は、現在でも再就職できずアルバイトの身分である。

(5) 結論

原告らは、いずれも二〇代という、もっとも充実すべき年月を長時間にわたり爆弾殺人事件犯人という汚名をきせられ、裁判に拘束されたことにより、裁判に関する出費、職業上の収入の喪失ないし減額のほか、健康、結婚、出産等についての不利益、家族に与えた心労、世間、周囲の者から家族ぐるみで迫害された被害等筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。

原告堀は、被告国より刑事訴訟法一八八条の二第一項本文により裁判に要した費用の補償として一一一五万七七四九円、刑事補償法一条一項により刑事補償として一六一八万二〇〇〇円を、原告江口は、同じく費用補償として一一三四万三〇七六円、刑事補償として一四一二万三六〇〇円を、原告榎下は、同じく費用補償として八三九万六三一七円、刑事補償として一〇〇四万三六〇〇円を、原告前林は、同じく費用補償として一一五〇万二三六五円、刑事補償として一五九六万九六〇〇円をそれぞれ受領しているが、前記の原告らの被った財産上、精神上の一切の損害は、本件訴訟の弁護士費用を含め、右受領分のほかに各原告につき各々さらに五〇〇〇万円が相当である。

また、原告らは、誤った逮捕、勾留、起訴により身柄を拘束されたばかりでなく、長期にわたって「被告人」としての地位に立たされ、また、報道機関からは、爆弾による本件事件の殺人犯人の如く大々的に報道され、著しくその名誉を害された。よって、被告らは、原告らの名誉回復のため適当な措置を講ずべき義務がある。

(二) 被告らの主張

原告らの右主張は、不知ないし否認する。

第四当裁判所の判断

一  ピース缶爆弾事件の捜査の概要

<証拠略>によれば、ピース缶爆弾事件の捜査の概要は、次のとおりであったことが認められる。

1  ピース缶爆弾事件の発生

(一) 八・九機事件

昭和四四年一〇月二四日、東京都新宿区若松町所在の警視庁第八機動隊及び第九機動隊の隊舎(八・九機)正門に向けて、何者かが、缶入りたばこ「ピース」の空き缶に爆薬、パチンコ玉等を充填し、起爆装置を付加した構造の手製爆弾一個(ピース缶爆弾)を点火した上投てきした。このピース缶爆弾は、爆発することなくその場で押収されたが、その物自体からは、指紋その他の犯人を特定できるだけの資料が発見されなかった。また、犯人はそのまま逃走してしまい、その投てき状況及び逃走状況を目撃した者がいたが、それは、いずれもやや離れたところからの目撃又は一瞬のすれ違いの際の目撃であって、目撃者の供述自体から直ちに犯人を特定できるものではなかった。

(二) アメ文事件

昭和四四一一月一日、東京都千代田区所在のアメリカ文化センター受付カウンター上に、何者かが段ボール箱に入れた時限装置付ピース缶爆弾一個を置いた。このピース缶爆弾は、間もなく発見されて時限装置との連結線が切断されたため爆発に至らず、段ボール箱とともに押収されたが、その物自体からは、指紋その他の犯人を特定できるだけの資料が発見されなかった。また、犯人はそのまま逃走してしまい、その犯行状況及び逃走状況を目撃した者はなく、犯人特定の手がかりとなるような遺留品等も発見されなかった。

(三) ピース缶爆弾製造事件

ピース缶爆弾製造事件は、昭和四八年二月一二日に佐古が増渕らとピース缶爆弾を製造した旨自供したことから発覚した事案であり、その後の捜査により、右八・九機事件及びアメ文事件において使用されたピース缶爆弾が、増渕らL研(法政大学レーニン研究会)のメンバーにより十数個製造されて赤軍派に渡されたところ、たまたまそのうちの二個が戻ってきたものであるとの嫌疑が濃厚となったもので、物的証拠に乏しく被疑者らの供述に依拠するところの大きい事案であった。

右のとおり、一連のピース缶爆弾事件は、爆発物取締罰則一条の使用罪(法定刑は、死刑又は無期若しくは七年以上の懲役又は禁錮である。)あるいは、同罰則三条の製造罪(法定刑は、三年以上一〇年以下の懲役又は禁錮である。)を構成する重大事件であるが、物的証拠に乏しく、かつ極左過激派集団の構成員らによって敢行された組織的かつ計画的な事犯であると思料されたものであり、その捜査に困難を極めた事案であった。

2  一連の窃盗事件についての捜査

(一) 捜査の端緒

昭和四七年八月二七日、牛乳屋グループの一員であった石田茂が火薬庫侵入未遂事件で現行犯逮捕され、同人の供述から、東薬大事件で指名手配中であった増渕の所在が判明して、増渕は、同年九月一〇日、毒物及び劇物取締法違反容疑で警察官に逮捕された。

増渕については、勾留の上捜査が遂げられて、同月三〇日、右毒物及び劇物取締法違反の事実(東薬大事件)で起訴されたが、その間、増渕の供述等から牛乳屋グループの佐藤らによる犯人隠避事件が判明したため、警察官は、佐藤らを犯人隠避罪により逮捕し、さらに、その捜査を進める過程で増渕らL研グループに対する法政大学図書窃盗事件の嫌疑を抱いた。

(二) 逮捕・勾留及び公訴提起

警察官は、法政大学図書窃盗事件の容疑に基づき、昭和四七年一〇月二五日に増渕を、同月二八日に村松を、同年一一月二日に佐古を、昭和四八年一月六日に前原を、さらに、同年二月九日に井上を順次逮捕し、右各事件の送致を受けた水崎検事は、被疑者らについていずれも勾留の理由及び必要があると判断して、それぞれ東京地裁裁判官に勾留を請求し、いずれも認められた。

水崎検事は、右事件の捜査を遂げた上、村松については昭和四七年一一月一八日に、佐古については同月二四日に、増渕については同年一一月四日に、井上については昭和四八年二月一九日に、それぞれ右窃盗罪により起訴した。そして、前原については起訴猶予処分に付した。

また、水崎検事は、法政大学図書窃盗事件の取調中に判明した法政大学大学院研究室からの図書窃盗、法政大学生協窃盗事件、同組合傘下の店舗である政文堂書店からの図書窃盗事件、同大学宿直室からの複写機窃盗事件、タイヤ窃盗事件、祖師谷及び日野市における自動車窃盗事件、立教大学窃盗事件、同大学教授室からのタイプライター等の窃盗事件等一連の窃盗余罪事件について捜査を遂げ、その中から、タイヤ窃盗事件で、昭和四七年一二月四日に増渕を、同月二七日に佐古及び村松を、それぞれ起訴した。

そして、警察官は、昭和四八年二月二〇日、原告前林を法政大学生協窃盗事件で逮捕し、水崎検事は、同原告を勾留の上捜査を遂げたが、同年三月一三日に処分保留で同原告を釈放した。

3  アメ文事件

(一) 捜査の端緒

佐古は、昭和四七年一一月一七日、法政大学図書窃盗事件で勾留中に、取調担当者ではなく、当時検察庁への身柄押送に従事していたにすぎない警視庁警察官小林正宏巡査部長に対し、中野坂上事件に関与していることを認める供述をした。

すなわち、佐古は、「昭和四四年一〇月二一日、中野坂上においてトラックから飛び降り、火炎びんを二、三本投げた後、井上と一緒に路地に逃げたところ、二、三人のグループが、『爆弾どうしよう。どこかに捨てようか』と話していたので、『俺が持っていってやる』と言って爆弾二個を受け取ったが、三、四〇〇メートル走ったところで不安になり、側溝に捨てた」旨供述した。これが、以後、一連のピース缶爆弾事件についての捜査を進展させる契機となった。

佐古は、昭和四七年一二月一一日にも、同人の取調担当者ではなく、たまたま上司の指示で食事休憩時間中の佐古の身柄戒護に当っていた警察官多田巡査部長との雑談中に、「まだ爆弾事件がある。アメリカの文化施設に仕掛けた爆弾のことだ。そのことを話すつもりだ」などと供述を始め、その日の午後の取調べにおいて、詳細なメモを作成するとともに、増渕の指示で段ボール箱入りの時限式爆弾をアメリカ領事館に仕掛けるに際して自動車の運転を担当し、増渕、村松らを虎の門付近まで乗せて行った旨自白するに至った。

さらに、同月一四日、佐古は、右事件に関し、爆弾設置場所が「アメリカ領事館」ではなく「アメリカ文化センター」であった旨供述を訂正するとともに、増渕らと待ち合わせ、爆弾を仕掛けるため赤坂見附交差点付近まで車を運転し、同所に駐車して村松らがアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けて戻るまで待機した状況等を、より詳細に供述した。

そして、同月二八日、佐古は、アメリカ文化センターに仕掛けた爆弾は、昭和四四年一〇月三〇日か三一日ころ、増渕が、原告江口方で、時計の機械部分と電池をつなぎ合わせれば完成するところまでできていたものを、電気ゴテを使ってつなぎ合わせたものであることや、自己が爆弾を入れる段ボール箱の製造を担当し、割り箸を使って箱の補強をしたことなどを自白した。

(二) 逮捕・勾留及び公訴提起

右捜査結果等から、警察官は、昭和四八年一月八日に、法政大学図書窃盗事件で保釈中であった佐古をアメリカ文化センターに爆弾を設置したとの爆発物取締罰則違反(アメ文事件)の容疑で逮捕した上、同月一七日には前原を、同月二二日には増渕及び村松をそれぞれ同罰則違反の容疑で逮捕した。右各事件の送致を受けた水崎検事は、右被疑者らについていずれも勾留の理由及び必要性があると判断して、東京地裁裁判官に勾留を請求し認められた。

なお、水崎検事は、右事件の捜査を遂げた上、増渕、村松及び佐古については爆発物使用の共同正犯、前原については爆発物製造の正犯として、いずれも爆発物取締罰則違反の罪を犯したと認めるに足る嫌疑が明らかであると判断して、同月二九日佐古を、同年二月八日に前原を、同月一二日に増渕及び村松を、いずれも同罪により起訴した。

(三) 被疑者らの供述状況等

(1) 佐古の供述

佐古は、アメ文事件で逮捕された後、いったん否認に転じたが、昭和四八年一月一六日に再び自白し、「昭和四四年一〇月二九日ころ、爆弾を収納するための段ボール箱を前原と共に製造した。翌三〇日ころ、増渕と二人でアメリカ文化センターの下見を行い、計画を細部にわたって打ち合わせた」旨供述し、翌一七日には、「昭和四四年一〇月二一日、中野坂上で受け取ったピース缶爆弾二個を河田町アジトに持ち帰り、そのうち一個は八・九機に投てきされ、残りの一個をアメリカ文化センターに仕掛けた」旨供述した。

また、佐古は昭和四八年一月一九日、警察官の取調べに対し、法政大学図書窃盗事件について保釈されてからアメ文事件で逮捕されるまでの同月四日及び五日に御徒町の喫茶店「シャンネル」や渋谷の喫茶店「プランタン」で増渕及び原告江口と会い、アメ文事件について話し合ったこと及びその際の会話の内容について詳細に供述した。その後、佐古は、一貫して自白を維持した。

(2) 前原の供述

前原は、法政大学図書窃盗事件で勾留中の昭和四八年一月一六日、初めてアメ文事件について警察官である高橋警部補の取調べを受けたところ、その日のうちに、「増渕、村松と共に、河田町アジトにおいて、爆弾の時限装置の部品として乾電池及び電気雷管を用い、はんだ付けの方法によって導線を接続した。同じく河田町アジトにおいて、佐古と共に時限装置付きの爆弾を収納するための箱作りをした」旨自白した。

また、時限装置のタイマー本体には、「毛沢東」「赤軍」「World Revolution」「MAO」などと落書きされていたが、同月一九日、前原は、右落書きが村松によってなされたものである旨供述した。その後、前原は、一貫して自白を維持した。

(3) 増渕及び村松の供述

増渕は、アメ文事件で起訴直前の昭和四八年二月一一日に同事件を村松に指示した旨自白し、起訴後も、同事件に関与したことを認めた。村松は、否認の態度を続けたか、起訴後に、同事件に関与したことを認めるに至った。

村松は、警察官や検察官の取調べに対し強い反抗的態度をとっていたが、同月一二日、東京地検公安部所属の濱田検事から、アメ文事件について「本日起訴する」旨告げられた際、非常に動揺した態度を示し、翌一三日、警察官に対し、アメ文事件について、「妻が妊娠しており、生まれてくる子や家庭のことなどを考え、一刻も早く罪を償い、平和な暮らしに戻りたい」と述べた後、「時限爆弾の仕掛けに加わっていたことは間違いない。時限装置に書かれている文字は、私が河田町アジトで千枚通しで書いたものである」旨自白するに至り、同日、濱田検事にも、右事件に関与したことや時限装置に落書きをした事実などを認めた。

4  八・九機事件

(一) 初動捜査の状況

警察官は、八・九機事件の発生直後から、同事件の犯人やその可能性のある人物の目撃者を探索し、その供述を得るべく捜査を進めていたが、捜査の初期の段階において次の供述及び報告が得られた。

(1) 警察官河村周一の現認報告

同人は、昭和四四年一〇月二四日午後七時少し前ころ、立番勤務に赴くため八・九機正門に向かって歩いていた際、同正門前の通りをはさんだ向い側にある「花寿司」横の路地角から爆弾を投てきする一人の男を現認して追跡した警察官であるが、途中出会った氏名不詳の女性に「誰か逃げて行かなかったですか」と尋ねたところ、同人から「三人が急いでかけて行きましたよ」と教えられた旨の報告をしている。

(2) 目撃者高杉早苗の供述

同人は、「花寿司」横の路地を余丁町小学校方向に進み、余丁町通り方向に向かって右折する最初の小路に面する自宅前路上にいて、「花寿司」方向から余丁町通り方向に勢いよく走り去る男一人とその後を追いかけて行く機動隊員らの姿を目撃した者であるが、逃走した男の人相について、一見して工員風で年齢三〇歳位、身長一六〇センチメートル位、やせ型、髪はオールバックで油がついていたように思う、着衣はグレーの背広型作業衣、同系か黒のズボン、黒短靴、黒縁眼鏡をかけていた旨供述している。

(3) 目撃者松浦英子の供述

同人は、爆弾が投てきされた際、偶然八・九機正門付近を通りかかり、目の前を煙草の火のようなものがその正門の方に飛んでゆくのを目撃して反対側を見たところ、一人の男が「花寿司」横の路地を奥の方に向かって駆け出して逃走する姿を現認した者であるが、その男の人相について、年齢二〇から二四、五歳位で身長一七〇センチメートル位、髪は長く学生のような感じでやせ型、あずき色の上着に黒っぽいズボンをはいていた旨供述している。

(二) 捜査の端緒及び被疑者の特定の経緯

(1) 捜査の端緒

八・九機事件については、前記のとおり、事件直後から目撃者の供述等が存したものの、これらによっては被疑者を特定することができなかったところ、アメ文事件で勾留中の佐古は、昭和四八年一月一六日及び同月一七日、警察官に対し、「昭和四四年一〇月二一日、井上と二人で中野坂上から逃げ帰る際、同所付近で赤軍派の者からピース缶爆弾二個を受け取り、井上と相談の上、これを河田町アジトに運び込んだ。いったん帰阪し再上京後の同月二九日、河田町アジトで前原と会い、中野坂上から持ち帰った爆弾の処分を尋ねたところ、前原は、八・九機の方角を示しながら『爆弾の一発は花園に言われ、俺と井上でやったんだ。』と言っていた。」旨、前原が八・九機事件に関与していたことを供述した。

(2) 被疑者の特定の経緯

そこで、警察官は、同月一六日、初めてピース缶爆弾事件について前原を取り調べたが、その際、同人は、前記のとおり段ボール箱の製造及び乾電池と電気雷管の連結をした旨アメ文事件への関与を自白し、翌一七日には、村松の指示で、井上と一緒に八・九機動隊の警備状況を下見し、村松に報告した旨供述し、同月二二日までに、昭和四四年一〇月二三日夜、増渕が河田町アジトに村松、内藤、前原及び井上を集め、ピース缶爆弾で八・九機を攻撃することを提唱したところ、全員が賛成し、村松、原告堀、井上が爆弾の投てきを実行することなど各役割分担を決定したこと、その場で導火線の燃焼実験をしたこと、翌二四日、前原、村松、内藤、原告堀、井上らが河田町アジトに集まり、八・九機周辺の下見を行い、午後七時ころに爆弾を投てきする旨打ち合わせて出発したこと、後に井上から爆弾を投げた時の様子などを聞かされたことなど、ほぼ事件の全容を自白するに至り、昭和四八年一月三一日には、同事件に赤軍派の氏名不詳者二名が加担していることを供述した。

また、増渕も、昭和四八年二月一一日、「昭和四四年一〇月二三日ころ、村松か、菊井から爆弾が入ったとの連絡があったので、実験を兼ねて八機に投げてみろと指示した。」旨供述した。

以上の捜査の結果、八・九機事件の被疑者として、増渕、松村、前原、内藤、井上及び原告堀が特定された。

(三) 逮捕・勾留及び公訴提起

警察官は、八・九機事件の容疑により、昭和四八年二月一二日増渕、村松及び原告堀の三名を、同月一七日内藤を、同月二〇日井上を、それぞれ逮捕した。右各事件の送致を受けた水崎検事は、各被疑者につきいずれも勾留の理由及び必要性があると判断してそれぞれ東京地裁裁判官に勾留請求をし、いずれも認められた。

そして、水崎検事は、右事件の捜査を遂げた上、八・九機事件は、増渕の総指揮の下に、井上、松村及び原告堀が爆弾の投てき班となって、これを実行し、前原及び内藤が見張りをするなどして共同加功したものであって、いずれも共同正犯として爆発物取締罰則違反の罪を犯したと認めるに足る嫌疑が明らかであると判断して、増渕、村松及び原告堀については同年三月六日、前原、内藤及び井上については同月一〇日、いずれも同罪により起訴した。

(四) 被疑者らの供述状況等

(1) 前原の供述

前原は、前記被疑者の特定の経緯のとおり、八・九機事件に関し初めて取調べを受けた昭和四八年一月一七日、八・九機周辺を下見したことを供述した後、同月二二日までに同事件のほぼ全容にわたり自白するに至ったが、その後も捜査段階においては一貫して自白を維持した。

(2) 内藤の供述

内藤は、昭和四八年二月六日、参考人として任意で取調べを受けた際、昭和四四年一〇月二三日に河田町アジトにおいて八・九機襲撃の話合いの場に居合わせ、また、そのころの夜、八・九機正門前の路地を村松と思われる男と歩いた旨を供述し、以後昭和四八年三月一〇日に起訴されるまでの間に、次第に具体的かつ詳細な自白をした。

(3) 村松の供述

村松は、八・九機事件で逮捕された当初、犯行を全面否認したものの、昭和四八年二月一三日には、同事件について、増渕と花園が計画し、菊井と井上が投てきした旨供述するに至り、翌一四日には、自らも結果を確認する役としてではあるが同事件に関与した旨供述し、その後再び否認に転じたが、同年三月三日改めて自白するに至った。

(4) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年二月一一日、八・九機事件の実行を自己において指示した旨自白し、翌一二日逮捕され、以後謀議の状況等具体的な供述をするに至った。

(5) 原告堀及び井上の否認ないし黙秘と反証の不提示

検察官及び警察官は、原告堀及び井上の両名を逮捕後、両名に十分な弁解の機会を与え、犯罪に関与した事実がないならばアリバイ等反証を提示するよう求めたが、井上は、否認ないし黙秘するのみで、何ら自己の嫌疑を払拭するような具体的な弁解をせず、原告堀もまた何ら具体的反証を提示しなかった。

5  ピース缶爆弾製造事件

(一) 捜査の端緒

佐古は、法政大学図書窃盗事件により勾留中の昭和四七年一一月一八日、警察官から昭和四四年六月から昭和四五年一月一八日までの行動を明らかにするよう求められて作成提出したメモの中で、月日不明としながらも、既に「昭和四四年九月から住んでいたフジテレビ前のアパートでピース缶にダイナマイトの火薬を詰め込み、爆弾をつくったと村松から聞いた。」旨供述し、次いでアメ文事件で勾留中の同四八年一月二〇日、警察官に対し、「前田、花園、増渕と四人で青梅でダイナマイトを盗んだ。その後、村松から前田が盗ってきたダイナマイトを使ってピース缶爆弾をつくったと聞いた。」旨供述する一方、「昭和四五年六月ころ増渕が赤軍派の坂東国男、森恒夫らに爆弾の製造方法を教示していた。」旨述べていた。

このような、佐古のピース缶爆弾の入手ないし製造に関する従来の供述に不審を抱いた警察官が、昭和四八年二月一二日、その点について佐古を取り調べたところ、佐古は、ワラ半紙五枚にわたる詳細なメモを作成し、「第一次東京戦争が敗北に終わったため、我々の武器を持つ必要があり、昭和四四年一〇月一七日ころ、河田町アジトで、我々の持つダイナマイトの中身を取り出してピース缶に詰め、殺傷力を高めるべく当時ベトナム戦争で使われていたナパーム弾をヒントにパチンコ玉をこれに入れることにし、七、八個の爆弾をつくった。これには、私のほか増渕、原告堀、村松、前原が加わったように思う。」旨自白するに至った。

一方、増渕は、昭和四八年二月一二日、水崎検事に対し、「一〇・二一闘争の前に私らがダイナマイトを盗み、それを利用して、村松が、フジテレビ前の河田町アジトでピース缶爆弾をつくり、それをいったん赤軍に渡し、赤軍が一〇・二一闘争で使い、残り三個を再びL研の者が赤軍から受け取った。受け取った者は、佐古と井上と聞いている。」旨、翌一三日、警察官に対し、「八・九機攻撃に使った爆弾は、一〇月中旬ころ、河田町アジトで村松が中心となりつくったもので、一〇月初めころから中旬にかけて前田が指示してつくらせたものである。」旨各供述した。

そこで、増渕らL研グループにより相当数にのぼるピース缶爆弾が製造された嫌疑が濃厚になり、この点を解明するための捜査が開始された。

(二) 被疑者らの特定

佐古は、昭和四八年二月一三日、警察官に対し、ピース缶爆弾製造の動機及び製造時の具体的状況のみならず、爆弾の形状や構造に至るまで図面に示すなどして詳細に供述し、増渕、村松、前原、原告堀らと共に一〇個位の爆弾をつくった旨自認し、同月一五日には、増渕、村松、前原、石井と共に住吉町アジトで爆弾製造の事前謀議をしたこと及び導火線の燃焼実験をしたことを供述するに至った。

また、増渕は、同月一八日、警察官に対し、「前田が村松に爆弾をつくらせたいと言ったので、これを村松に伝えて承知させ、製造に村松、前原、佐古を、材料集めに菊井、国井、井上をあてた。詳しい製造状況は、村松、菊井に任せたので知らない。」旨供述した。

さらに、前原は、同年三月五日、取調べ警察官に対し、爆弾製造に関与したことを認め、同月六日、その旨の自筆のメモを作成した。そして、同月九日、警察官に対して「一〇月一六、一七日ころの昼、河田町アジトで、増渕、村松、佐古、菊井、江口、石井と一五個くらいの爆弾をつくった。その際、井上もいたように思う。」旨供述し、同年三月一一日、爆弾の形状につき図示しながら爆弾製造の状況を詳細に供述した。

村松もまた、同月八日、警察官に対し、「一〇月中旬の午後一時から五時までの間、河田町アジトで増渕の指示により、前原、井上、菊井、内藤、堀、江口、前林、佐古、国井、平野、富岡らと五個くらいのピース缶爆弾をつくった。」旨供述した。

なお、この点に関し、内藤は、同年三月一〇日、警察官に対し、「一〇月一五日前後ころ、平野に誘われて佐古のアパートに行き、増渕、村松、井上、佐古、平野、江口、石井、前原、国井、菊井とで五個くらいの爆弾をつくった。」旨供述した。

かくして前記各供述により、昭和四八年三月一〇日ころまでに増渕、村松、佐古、前原、内藤、原告堀、同前林、同江口、井上、石井、平野、菊井、国井の一三名について、いずれもピース缶爆弾製造の嫌疑が濃厚となった。

(三) 逮捕・勾留及び公訴提起

警察官は、ピース缶爆弾製造事件により、昭和四八年三月一三日に原告堀、同前林、同江口、井上及び石井を、同月一四日に増渕をそれぞれ逮捕した。右各事件の送致を受けた親崎検事は、各被疑者についていずれも勾留の理由及び必要性があるものと判断して、同月一六日東京地裁裁判官に勾留を請求し、いずれも認められた。

次いで、警察官は、同月一六日菊井を、同月二五日平野をそれぞれ右事件で逮捕して送致した。これを受けた親崎検事は、菊井及び平野についても同様に勾留の理由及び必要性があるものと判断して勾留を請求し、いずれも認められた。

そして、親崎検事は、右各事件の捜査を遂げた上、原告堀、同江口、同前林を含む一二名が、増渕の指示の下、昭和四四年一〇月一六日ころ、河田町アジトで、ピース缶爆弾十数個を製造したものであって、いずれも共同正犯として爆発物取締罰則違反の罪を犯したと認めるに足る嫌疑が明らかであると判断して、石井については昭和四八年四月三日、増渕、原告堀、同江口、同前林及び井上については同月四日、平野については同月一四日、村松、佐古、前原及び内藤については同月一八日、いずれも同罪により、起訴した。一方、親崎検事は、菊井については、右事件の嫌疑が認められるものの、加担の程度が比較的軽微であった上、当時既に別件強盗殺人罪等により起訴されており、右事件を追起訴しても量刑にさしたる影響を及ぼさないと思われることなどを考慮して、起訴猶予処分に付した。

(四) 被疑者らの供述状況

(1) 佐古の供述

佐古は、昭和四八年二月一二日、ピース缶爆弾製造の事実について詳細な自白をし、その後も一貫して自白を維持した。

(2) 前原の供述

昭和四八年二月一三日ころ、佐古がピース缶爆弾製造事件について前原も加功した旨を自白したことから、当時前原の取調担当警察官であった千葉繁志巡査部長が同月二〇日ころから同事件について前原の取調べを開始したところ、前原は、当初「わからない。記憶がない」などと否認を続けていたが、同年三月四日に至って、同巡査部長に対し、留置場で増渕と同房であった檜谷を介して増渕と通謀したことを打ち明けるとともに、ピース缶爆弾製造に関与したことを認め、以後その全容を自白するに至った。

(3) 内藤の供述

内藤は、昭和四八年三月一〇日、取調警察官に対し、初めてピース缶爆弾製造の事実について供述したが、その際の状況は、次のとおりであった。すなわち、内藤は、警察官から、八・九機事件以外に何かやっていないかと尋ねられ、当初「記憶がない」などと供述していたが、弁護人からの要求により、いったん取調べを中断して弁護人と接見をさせたところ、接見終了後間もなく、「河田町で女性が薬品の調合をした」などと供述した。しかしながら、内藤は、逮捕直後の同月一四日、ピース缶爆弾製造について否認に転じ、同月一九日再び事実を認めるという経緯をたどり、以後詳細な供述をするに至った。

(4) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年三月一四日に逮捕される以前にはピース缶爆弾製造に関与したことを認める供述をしていたものの、逮捕後は、同日の逮捕事実の一つであった日石・土田邸事件に関する事実についてはこれを認めながら、ピース缶爆弾製造の事実については否認するに至った。しかしながら、同月二二日に至り、再びピース缶爆弾製造に加功した事実を認め、その後は自白を維持した。

(5) 村松の供述

村松は、当初製造した爆弾の数を五、六個と述べていたが、昭和四八年三月一五日に至り、実際は一二、三個であることを認め、導火線の燃焼実験についても供述するなど、ピース缶爆弾製造の事実については一貫してこれを認める供述をした。

(6) 原告江口の供述

原告江口は、逮捕二日後の昭和四八年三月一六日、検察官に対し、概括的な供述ではあるが、爆弾の製造に関与した旨認め、その後も自白を維持した。

(7) 石井の供述

石井は、当初否認していたものの、昭和四八年三月二〇日に至り、昭和四四年一〇月一六日か一七日ころ、佐古の指示により河田町アジト周辺でレポしたことを認め、昭和四八年三月二二日、検察官に対し、風雅荘で村松らが導火線の燃焼実験をしたことをほのめかす供述をし、同年四月一日には、ピース缶爆弾製造時に自分はこれを承知の上でレポをしたことを認めた。

(8) 原告堀及び井上らの否認ないし黙秘と反証の不提示

原告堀及び井上がピース缶爆弾製造事件により逮捕された昭和四八年三月一三日以降、原告堀は、自己の嫌疑を払拭するための具体的反証を何ら提示し得ず、井上においても否認ないし黙秘するのみであった。

原告前林、菊井及び平野も、同様に、いずれも否認又は黙秘に終始した。

二  検察官が捜査の終局段階で認定したピース缶爆弾事件の概要

<証拠略>によれば、検察官が捜査の終局段階で認定したピース缶爆弾事件の概要は、次のとおりであったことが認められる。

1  L研の活動状況

(一) 増渕を中心とする法政大学レーニン研究会(L研)は、昭和四四年四月ころ、共産同の構成員であった増渕と、社会主義学生同盟(以下、「社学同」という。)の構成員であった村松とが中心となって社会主義学生同盟法政大学支部として結成した、共産主義者同盟の主義主張に同調する過激派集団であり、当初のメンバーは、指導者である増渕以下、村松、石井、国井及び今井誠らであった。L研は、その後、井上、佐古、前原、菊井、原告堀、同江口、同前林及び峰孝一らも加わって拡大し、さらに、東京薬科大学社会科学研究会(社研)のメンバーである平野、内藤、町田、石本武司、高野一夫、元山貴美子及び富岡晴代らに対しても、増渕を通じて影響力を及ぼすようになった。

(二) L研は、いわゆる極左過激派集団であって、井上ほかのL研及び社研のメンバーらは、増渕から繰り返し暴力革命の必要性を説かれるなどして、いわゆる大衆カンパニア闘争方式を乗り越えた武装闘争が必要であるとの認識を次第に強めていった。

L研のメンバーらは、昭和四四年四月以降、法政大学の占拠、封鎖闘争に加わり、火炎びん数十本を製造するとともに、同年九月ころにはその後の闘争活動の拠点として、<1>河田町アジト(新宿区河田町六番地倉持賢一方秋田修こと佐古の居室)、<2>住吉町アジト(同区住吉町六四番地アパート「風雅荘」の村松の居室)、<3>若松町アジト(同区若松町一三五番地アパート「宮里荘」の菊井の居室)、<4>早稲田アジト(同区西早稲田所在(早稲田大学正門付近)の中華料理店二階の借間)を使用していた。

(三) 増渕は、当時最も破壊的活動を標榜していた過激派武闘集団である赤軍派の闘争方針に共鳴し、L研及び社研のメンバーを指導して、赤軍派の唱える前段階武装蜂起を成功させるために共闘するとして、同年九月三〇日のいわゆる神田戦争、同年一〇月九日の巣鴨駅前派出所及び池袋警察署に対する襲撃未遂事件、同月二一日の一〇・二一闘争において、赤軍派の活動に協力した。L研のメンバーらは、特に一〇・二一闘争において、赤軍派のためにあらかじめ火炎びんを製造し、鉄パイプ爆弾の製造場所を提供し、あるいは淀橋警察署襲撃に使用する小型トラックを調達するなど重要な役割を果たしただけでなく、当日同警察署が襲撃された際には、増渕の指示を受けた佐古がピース缶爆弾で武装した赤軍派の者らをトラックに乗せて運転し、井上が右トラックの荷台に乗り込んで同事件に加担するなど積極的な役割を果たしていた。

なお、増渕は、昭和四四年九月ころ、各種爆弾の製造方法を解説した、いわゆる爆弾教本である「薔薇の詩」、「球根栽培法」及び火薬関係の専門書等を入手し、これを化学の知識のあった原告江口に手渡して、研究しておくよう指示していた。

2  ピース缶爆弾製造事件

(一) ピース缶爆弾製造の謀議

増渕は、昭和四四年一〇月中旬ころ、東京都新宿区若松町一二番所在の喫茶店「ミナミ」において、村松、佐古、菊井、前原、原告江口、井上らに対し、「我々で、ピース缶の空き缶を利用した爆弾を製造し、一〇・二一闘争の際、赤軍派とともに武装蜂起するための武器としよう。」などと提唱し、居合わせた者全員の賛同を得た(以下「ミナミ謀議」という。)。増渕は、村松らに指示して、早稲田アジトに保管されていたダイナマイト数十本、工業用雷管等を河田町アジトに持ち込ませ、他方、佐古、前原に指示して新宿のパチンコ店「新宿ゲームセンター」からピース缶爆弾に封入するパチンコ玉約二〇〇個を入手させてこれを河田町アジトへ搬入させ、その他ピースの空き缶等の爆弾材料や製造用の器具は、各メンバーに手分けして集めさせ、あるいは河田町アジトにあったものを利用することとした。

ミナミ謀議の翌日ころ、増渕は、村松、佐古、菊井、前原、井上、国井、原告前林、同堀、同江口、平野、内藤及び石井らを河田町アジトに集め、同人らに対し一〇・二一闘争に用いる爆弾を製造する旨提案して全員の賛同を得、ここにピース缶爆弾製造について、右一三名の謀議が成立した。

(二) ピース缶爆弾製造の実行

右一三名は、増渕の指示により各人別に製造、見張り等の任務を分担し、右謀議の日、河田町アジトにおいて、ピース缶にダイナマイト、パチンコ玉を充填し、これに導火線を接続した工業用雷管を挿入した上、ピース缶の蓋に開けた穴から導火線を出し、缶体と蓋をガムテープで封じるなどして十数個のピース缶爆弾を製造した。なお、右ピース缶爆弾の中には、爆薬として前記ダイナマイト以外に塩素酸カリウムと砂糖の混合物を充填したものもあった。このようにして製造されたピース缶爆弾は、赤軍派関係者の手に渡された。

(三) 一〇・二一闘争の際の状況

赤軍派は、一〇・二一闘争の当日、東京薬科大学の正門付近から、右ピース缶爆弾と火炎びんを準備してトラックに乗って出発し、新宿警察署を襲撃したが、その際にはピース缶爆弾を投てきするには至らなかった。赤軍派は、さらに、同日午後一一時七分ころ、新宿区中野坂上交差点付近において、パトカー、警察官らに向けて火炎びんを投てきし(中野坂上事件)、その際、ピース缶爆弾三個を現場に遺留し、トラックを放置して逃走した。赤軍派の右行動には、前記のとおりL研のメンバーも参加し、佐古が右トラックを運転し、井上がその荷台に乗り込んでいた。佐古は、中野坂上から逃走する際、赤軍派メンバーからピース缶爆弾二個を受け取り、井上とともに河田町アジトに戻った後、居合わせた前原、国井に対し、右ピース缶爆弾を見せるなどした。

3  八・九機事件

(一) 八・九機事件の謀議

増渕は、前記製造にかかるピース缶爆弾を佐古らが持ち帰ったことを知るや、これを用いて河田町アジトに近く、かつ攻撃し易いと思われた八・九機を攻撃することとし、昭和四四年一〇月二三日夜、河田町アジトに集まった前原、井上、村松、内藤に対し、「一〇・二一は失敗だったが、佐藤首相訪米阻止のため闘争を続けなければならない。この爆弾を八・九機攻撃に使う。」旨提唱して全員の賛同を得た。その際、増渕が総指揮に当たり、村松、井上のほか原告堀を加えた三名がピース缶爆弾の投てきを、内藤らが見張りを、前原が効果測定を担当するほか赤軍派等との連絡を行うなどの任務分担を決定し、また、導火線の燃焼実験を行って、燃焼速度を計測するなどした。

なお、同月二四日、前原が赤軍派と連絡をとった結果、赤軍派からも二名が参加することとなり、同日午後三時ころ、村松、井上、前原、内藤、原告堀らが河田町アジトに集まり、各自手分けして八・九機周辺の下見を行った。その後、増渕、村松、前原ら及び赤軍派の氏名不詳者二名が河田町アジト及び付近の喫茶店で更に打合せを行い、任務分担は概ね事前の打合せどおりとして決行すること、赤軍派の二名はそれぞれ前原、井上と組んで効果測定、見張りを担当すること、決行時刻は同日午後七時とすることなどを決定した。

(二) 八・九機事件の実行

昭和四四年一〇月二四日午後六時ころ、増渕らは、相次いで河田町アジトを出発し、一旦河田町電車停留所近くの喫茶店に入った後、順次、八・九機周辺へ向かい、投てき役の村松、井上、原告堀の三名は、ピース缶爆弾一個を紙袋に入れて携行し、同日午後七時ころ、八・九機正門前路上に至り、道路反対側の「花寿司」角付近から、導火線に点火した右ピース缶爆弾一個を右正門付近で立番勤務中の仁科正司巡査らに向けて投てきした。投てきされたピース缶爆弾は、正門付近の路上に落下したものの、導火線の火が途中で消えたため、爆発するには至らなかった。

その後村松らは、機動隊員に追跡されたが、逃走して逮捕を免れ、付近で見張りなどをしていた前原らも、付近の喫茶店や河田町アジト等に引き揚げた。

4  アメ文事件

(一) アメ文事件の謀議等

増渕は、八・九機事件は導火線付き工業用雷管を使用したため失敗したものと判断し、佐古が中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾二個のうち一個を改造し、電気雷管と時限装置を使った時限爆弾を製造して、これをアメリカ合衆国政府の出先機関や権力機関に仕掛けようと決意し、昭和四四年一〇月二六日ころの午後、河田町アジトにおいて、村松、前原に対し、時限爆弾で米帝の出先機関を襲撃することを提唱し、同人らの賛同を得た。そして、増渕、村松、前原は、河田町アジトで乾電池、電気雷管、タイマー及びピース缶爆弾一個などを用意し、爆弾の改造作業を行った。その際、前原は乾電池と電気雷管を連結するはんだ付けの作業を、村松はタイマーを改造して時限装置を作る作業を、増渕はピース缶爆弾の改造作業をそれぞれ担当した。しかし、その日は時限爆弾を完成できず、増渕が未完成品を持ち帰った。右作業の際、村松は時限装置に「赤軍」、「毛沢東」等の落書きをした。

同月二七日ないし二八日ころ、村松及び前原は、爆弾を仕掛ける場所を決めるため、国会周辺、首相官邸付近及びアメリカ文化センターのある山王グランドビル付近などを下見した。

一方、佐古は、同日二三日以降大阪に帰郷していたが、再度増渕らと共に闘争に参加しようと決意して、同月二八日に上京し、翌二九日、河田町アジトにおいて、前原から、一〇・二一闘争の際に中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾のうちの一個を八・九機に投てきしたことを聞かされた。その後、増渕は、河田町アジトを訪れ、佐古を付近の喫茶店に連れ出して、同人の闘争継続の意思を確認した上、同人に対し、「持ち帰った爆弾の残り一個を時限爆弾に改造して米帝の施設を攻撃したいので、自動車の運転を担当してもらいたい。」旨指示し、佐古はこれを引き受けた。

増渕、佐古及び前原は、同日、河田町アジトにおいて、前記未完成の時限爆弾に手を加え、時限装置付き爆弾一個を完成した。その際、時限装置の製造等の作業は主として増渕が行い、前原と佐古は、爆弾収納用の段ボール箱を作り、これに完成した爆弾及び時限装置を収納して接着剤等で固定した。この際、箱の補強等のため、右箱の底面内部に割箸を十文字に貼り付けた。

右時限装置付き爆弾の構造は、ピース缶爆弾から導火線付き工業用雷管を取り外し、代わりに乾電池と時限装置を電線で連結した電気雷管を挿入したもので、右時限装置をセットすることにより、一定時間経過後に電気雷管に通電して爆発するものであった。

増渕は、同月三〇日ころまでに、右爆弾を仕掛ける場所を東京都千代田区永田町二丁目一四番二号山王グランドビル二階のアメリカ文化センターと決め、そのころ、佐古の運転する自動車で山王下交差点付近に至り、下車してアメリカ文化センターの下見をした。

増渕は、同月三一日、佐古に指示して河田町アジトを引き払わせ、同日夜佐古と共に原告江口方に宿泊した。

(二) アメ文事件の実行

翌一一月一日午前一一時三〇分ころ、増渕は、段ボール箱の上から紙袋を利用して包装した右時限装置付き爆弾一個を携行し、佐古の運転する自動車に乗って原告江口方を出発し、東京都中野区新井一丁目九番一号埼玉銀行中野支店前路上で村松及び氏名不詳の男一人を乗車させ、赤坂見附方面に向かった。増渕は、車内で村松及び氏名不詳の男に対し、「二人で仕掛けろ。三〇分待って戻らないときは先に出発するが、その場合の連絡場所は中野の喫茶店『クラシック』とする。」などと指示した上、同日午後零時三〇分ころ、同都港区赤坂二丁目五番三号付近路上で自動車を停車させた。

同所で下車した村松は、右氏名不詳の男とともに前記山王グランドビル二階アメリカ文化センターに赴き、同センター受付カウンター上に右爆弾を置いて仕掛けると、増渕らの待つ右自動車に戻り、佐古が運転して同所を立ち去った。その後、村松及び右氏名不詳の男は新宿駅東口付近で下車し、増渕及び佐古は原告江口方へ戻った。

村松らによって仕掛けられた時限装置付き爆弾は、同日午後一時一五分ころ、山王グランドビルの清掃係員によって発見され、同ビルの従業員が時限装置と爆発物を連結している二本の電線を切断したため、爆発するに至らなかった。

三  原告堀の八・九機事件の逮捕状請求

1  逮捕状請求の違法性判断基準

司法警察職員による被疑者の逮捕状請求については、司法警察職員が、逮捕状請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情がある場合にかぎり、司法警察職員による逮捕状請求が違法となるものと解するのが相当である。

そこで、八・九機事件に関する原告堀の逮捕状請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  原告堀の逮捕状請求等

前記認定事実及び<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一) 逮捕の経過

被告都の司法警察職員である警察官は、昭和四八年二月一二日、原告堀に対する八・九機事件に関する逮捕状を裁判官に請求し、同日その発付を得て、原告堀を同事件で通常逮捕した。

(二) 逮捕状記載の被疑事実

原告堀についての逮捕状記載の被疑事実は、要旨次のとおりであった。

被疑者は、他数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体、財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時〇分ころ、東京都新宿区若松町九五番地、警視庁第八機動隊、同第九機動隊正門前において、同所で警戒中の警察官に対して、煙草ピース空き缶にダイナマイトおよびパチンコ玉を充填し、これに、工業用雷管と導火線を結合した手製爆弾を投てきし、もって、爆発物を使用したものである。

3  司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

<証拠略>によれば、被告都の司法警察職員である警察官は、一連の捜査結果により、八・九機事件について原告堀に対する逮捕状を請求した当時(昭和四八年二月一二日)、疎明資料として、(1)前原が八・九機事件に関与していたことを示す佐古の供述(昭和四八年一月一七日付員面)、(2)八・九機事件に関する前原の供述(昭和四八年一月一七日付員面、同月二一日付員面、同月二二日付員面、同月三一日付員面、同年二月一〇日付員面、同月一一日付員面)及び(3)八・九機事件を指示したとする増渕の供述(昭和四八年二月一一日付員面)を収集していたことが認められる。

そこで、右各供述の内容等を検討し、もって、警察官が、右原告につき右事件の嫌疑と逮捕の必要性があるかを判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二) 疎明資料の内容

(1) 佐古の供述

<証拠略>によれば、佐古は、アメ文事件で勾留中の昭和四八年一月一七日、警察官に対し、要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四四年一〇月二一日の一〇・二一闘争で、井上某と中野坂上から逃げるとき、赤軍の誰かにピース缶爆弾二個を渡され、渋谷へ逃げた後に井上と相談したが、幹部の指示待ちという結論になり、河田町アジトに運んで、押入れに隠した。再上京後の一〇月二九日午前一〇時ころ河田町アジトで前原と会ったが、ピース缶爆弾二個が押入れになかったので、「爆弾はどうしたんだ。」と聞くと、前原は、「増渕が持って行ったんだ。」と言い、さらに、八機の方を指して、「一発は花園に言われて俺と井上でやったんだ。」と言って、増渕が残りの一個を時限装置に改良して権力機関に仕掛ける準備をしているというような話をした。

(2) 前原の供述

<証拠略>によれば、前原は、法政大学図書窃盗事件で勾留中の昭和四八年一月一七日、アメリカ文化センター事件で勾留中の同月二一日、同月二二日、同月三一日及び同事件で起訴後の勾留中の同年二月一〇日、同月一一日、警察官に対し、要旨次のとおり供述したことが認められる。

<1> 昭和四八年一月一七日の供述

昭和四四年一〇月、村松に指示されて、私と井上で八機の警備状況を下見した。下見をした日は一〇月二六日ころではないかと思う。門に四人も警察官が長い棒を持って立っていたことから、村松に、「警戒が厳重だ。」と報告した。

<2> 昭和四八年一月二一日の供述

昭和四四年一〇月二三日午後八時ころ、増渕が河田町アジトに来て、増渕、井上、村松、内藤、私で爆弾の処分について相談した。増渕は、「一〇・二一は失敗だったが、我々は佐藤訪米を阻止するため、ゲリラ闘争をしなければならない。この爆弾を使ってやろう。」と提案し、皆が賛成した。手始めに八機を襲撃することに決めた。翌一〇月二四日八機襲撃に参加した。

<3> 昭和四八年一月二二日の供述

昭和四四年一〇月二三日午後八時ころ、増渕が河田町アジトに来て、増渕を中心に村松、内藤、私、井上の五人で機動隊襲撃計画を立てた。増渕が、「一〇・二一闘争は失敗だった。しかし、闘争は終わっていない。佐藤訪米阻止に向けて非公然闘争を強化しなければならない。今度は爆弾を使って闘争を組もう。」と提案し全員が賛成した。第四機動隊と第八機動隊が対象となったが、前の道路が狭いので道路の反対側から投げられること、人通りと路地が多いので逃走に便利なことから八機を選定した。翌日の昼間、村松、井上、内藤、原告堀、町田、私の六人で下見し、夜決行することになった。任務分担は、内藤、町田がレポ、村松、井上、原告堀が実行、私は赤軍派との連絡となった。会議の後、導火線の燃焼実験をやった。増渕が一二、三センチくらいの導火線を灰皿に乗せて、村松がマッチで火をつけ、私と井上が時間を測った。導火線一センチに一秒と分かった。翌二四日午前一〇時ころ赤軍派の者と会い、河田町アジトに戻ると井上がおり、午後一時ころ村松が原告堀を連れて来た。午後二時ころ内藤が来たが、町田は闘争に参加できないとのことだった。五人で実行することになった。私、井上、村松で警戒状況、原告堀、村松で逃走経路の下見に行った。内藤も下見をやったと思う。村松が地図を見て略図を書き、具体的な襲撃方法を検討した。村松、井上、原告堀の組が電柱の陰で爆弾に火をつけ、走り出して機動隊の反対側から投げて新宿方向へ逃げ、私が結果を確認することとした。午後六時三〇分ころ出発した。私と内藤はちょっと遅れて出た気がする。午後七時ころ投げると打ち合わせていたので、同時刻ころ河田町停留所から都電に乗り八機の正門前を通ると、二〇人くらいの機動隊員が集まっており、フラッシュを使って写真を撮っていた。不発と判断し、落ち合う場所へ行き、午後八時ころまで待ったが、村松は来なかった。そこで解散し、井上と河田町アジトへ戻った。井上の話によると、井上が周囲を警戒し、原告堀が爆弾に火をつけ、村松が爆弾を持って三人で走りながら投げた後、逃走した。

<4> 昭和四八年一月三一日の供述

昭和四四年一〇月二四日、中野駅付近の喫茶店で赤軍派の者と会い、八機襲撃はL研と赤軍との共同計画との確認を得、「赤軍から二人くらいやる。」と言われ、約束通り、赤軍派の若い男二人くらいが加わった。一人は私と一緒に都電に乗って結果を確認した。

なお、右供述の際、前原は、増渕、村松、及び原告堀の写真面割りをした。

<5> 昭和四八年二月一〇日の供述

昭和四四年一〇月二三日午後八時ころから午後一一時ころまで河田町アジトで八機襲撃の打ち合わせをやったが、増渕らに機動隊襲撃の腹づもりができていて集められたように思う。参加者は、私、増渕、村松、井上、内藤で、増渕が爆弾闘争を提案し、八機襲撃を決定した。目的は、佐藤訪米を阻止するため、ゲリラ闘争の一環として機動隊せん滅を図るということだった。加えて、増渕からと思うが、「機動隊襲撃は、L研が主体となって赤軍と共闘する。」旨の発言もあった。任務分担は、内藤、町田がレポ、村松、井上、原告堀が実行、私が赤軍との連絡、増渕が総指揮と決まった。集合場所、時間は、昼ころ河田町アジトと決定したように思う。

<6> 昭和四八年二月一一日の供述

昭和四四年一〇月二四日午前一〇時ころ、中野駅付近の喫茶店で藤田に八機襲撃計画を報告し、午後一時ころ一度河田町アジトに戻った。井上がおり、間もなく村松が原告堀を連れて来て、午後二時ころ内藤が来て、町田が参加できない旨話した。増渕は姿を見せず、村松が、増渕は急用で来られない旨話した。その後、私、村松、井上で警戒状況をレポしたが、警戒が厳しく昼間は無理だから夜ならやれるだろうということになった。次に、村松と原告堀が逃走経路のレポをした。午後四時ころから五時ころまで五人で最終的な打ち合わせをし、村松が決行時間を午後七時と決定した。投てき場所は、八機正門の中であることも村松の略図に書き込まれて決まっていたと思う。その後、赤軍派の若い男二人を明るいうちに河田町アジトに連れて来て概略を話してやった。午後六時ころ、村松の組が出発した。村松が押し入れにあったピース缶爆弾を紙袋か黒のショルダーバッグに入れて行った。その三〇分くらい後、私と赤軍派の一人が出発した。内藤と赤軍派のもう一人は、私たちより若干遅れて出ることになっていた。

(3) 増渕の供述

<証拠略>によれば、増渕は、アメ文事件で勾留中の昭和四八年二月一一日、警察官に対し、「昭和四四年一〇月二三日昼ころ、村松が菊井から、『爆弾が入った。』旨の連絡があったので、『実験を兼ねて第八機動隊へ投げて見ろ。』と指示した。一〇月二四日夜遅く、平野のところへ菊井が来て、『八機へ投げたが不発で失敗した。』との報告があった。」旨供述したことが認められる。

(4) 信用性

右各供述の信用性が否定されるほどの事情は認められない。

4  判断

右認定事実によれば、警察官が原告堀に対する八・九機事件の逮捕状請求時に現に収集していた資料を総合勘案すると、原告堀が、右逮捕状の被疑事実に記載されたとおりの罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があったものと認めることができる。

そして、争いのない事実、<証拠略>によって認められる右事件の重大性等からすれば、明らかに逮捕の必要性がないとは認められない。

原告らは、八・九機事件逮捕の根拠とされた右の前原らの供述は虚偽自白であり、本来証拠たり得ないから、原告堀に対する逮捕は違法である旨主張する。しかし、逮捕状請求の時点では、収集した証拠資料について、明らかに証拠として使用できない事情があると認められない限り、これを嫌疑の存在の認定資料として用いたとしても、直ちに逮捕状請求が違法となるものではないと解するのが相当であり、本件全証拠によっても、明らかに右の事情があると認めることはできないから、原告らの右主張は理由がない。

結局、本件全証拠を検討してみても、警察官が、原告堀に対する右逮捕状請求時に、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認定し得るような事情の存在を認めるに足りる証拠はない。したがって、右逮捕状請求が、国家賠償法一条一項の違法行為に当たるということはできない。

四  原告堀の八・九機事件の勾留請求

1  勾留請求の違法性判断基準

検察官による被疑者の勾留請求については、検察官が、勾留請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して。刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留を請求したと認め得るような事情がある場合にかぎり、右勾留請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である(最高裁平成四年(オ)第七七号同八年三月八日第二小法廷判決・民集五〇巻三号四〇八頁参照)。

そこで、八・九機事件についての原告堀の拘留請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  勾留請求等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一) 勾留の経過

原告堀は、昭和四八年二月一二日、増渕及び村松とともに八・九機事件で逮捕され、同月一五日、増渕及び村松とともに東京地裁裁判官に対し、勾留請求され、同日その請求が認められて勾留され、同年三月六日まで勾留延長された。

(二) 勾留の被疑事実

原告堀の八・九機事件についての勾留の被疑事実は、次のとおりであった。

被疑者は、他数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体、財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時〇分ころ、東京都新宿区若松町九五番地、警視庁第八機動隊、同第九機動隊正門前において、同所で警戒中の警察官に対して、煙草ピース空き缶にダイナマイトおよびパチンコ玉を充填し、これに、工業用雷管と導火線を結合した手製爆弾を投てきし、もって、爆発物を使用したものである。

3  検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

<証拠略>によれば、検察官は、原告堀について、その逮捕に際し、前原が八・九機事件に関与していたとする佐古の供述(昭和四八年一月一七日付員面)、原告堀が八・九機事件に関与したとする前原の供述(昭和四八年一月二二日付員面)、八・九機事件で指示を出したとする増渕の供述(昭和四八年二月一一日付員面)などが収集されており、さらに、佐古及び前原に対するアメ文事件の取調べ過程で、(1)佐古の昭和四八年一月二〇日付検面、同人の同月二五日付検面、(2)前原の同月二三日付、同年二月二日付、同月五日付検面を収集していたことから、その各供述の任意性、信ぴょう性に問題がなく、原告堀に八・九機事件の犯罪の嫌疑が存在すると判断し、また、同人には罪証隠滅及び逃亡のおそれがあり、勾留の必要性があるものと判断したことが認められる。

(二) 疎明資料の内容等

そこで、右各疎明資料の内容について検討するに、佐古、前原及び増渕の八・九機事件に関する右各員面調書の供述内容及びその信用性については、前記のとおりであるから、以下、佐古及び前原の右各検面調書の供述内容及びその信用性を見ることとする。

(1) 佐古の供述

<証拠略>によれば、佐古は、昭和四八年一月二〇日、検察官に対し、増渕、持谷及び前原から、昭和四四年一〇月二一日の赤軍派の攻撃の際持ち帰った爆弾二個のうちの一個は、第八機動隊の建物に投げつけたと聞かされた旨供述し、昭和四八年一月二五日にも検察官に対し同様の供述をした。

(2) 前原の供述

<証拠略>によれば、前原の検察官に対する供述は、次のとおりであることが認められる。

<1> 昭和四八年一月二三日の供述

昭和四四年一〇月二三日の午後、増渕とアジト周辺の喫茶店で会った。増渕から一〇・二一闘争の話があり、私が増渕に対し、「佐古が爆弾を持ってきてアジトにおいてあるが、どうしたらよいか。」と聞くと、増渕は、「俺が責任を持つ」と言った。その夜、増渕、私、村松及び井上の四人で、爆弾をどうするかについて話した。増渕は、「とりあえず、その一つを使って、アジトの近くにある第八機動隊を襲撃しよう」と提案し、私たちは全員賛成した。

翌二四日夕方五時ころ、八機襲撃を実行した。村松、井上及び原告堀の三人が爆弾を投げに行った。私はそのあと三〇分位たってから、都電に乗って現場の状況を確認しに行った。

<2> 昭和四八年二月二日の供述

昭和四四年一〇月二三日の晩、午後八時ころから午後一一時ころ、河田町アジトで、増渕、村松、私、井上及び内藤が、佐古の持ってきた爆弾二個を押入れから取り出して来て、どこか権力機関に対して使うという話になった。決行の日は、翌二四日の晩に決め、任務分担については、増渕が総指揮、村松が井上、原告堀と一緒に実行を担当、私が赤軍派との連絡、内藤は町田を誘ってレポを担当するということになった。また、翌日の昼に下見をすることや、更に全員で打ち合わせをすることを決め、導火線の燃える速度を確かめる実験をした。町田への連絡は内藤がやり、原告堀への連絡は村松か増渕がやったはずだ。

私は、翌二四日午前中に、赤軍の者と会い、計画を伝え、赤軍からは二名が加わることになった。昼ころ河田町アジトに村松、原告堀、井上、内藤、私及び赤軍の者二名が集まった。町田は来ていなかった。増渕はいなかったと記憶している、そこで話し合い、村松、原告堀及び井上の三名で実行する、内藤と赤軍の者一名がレポを担当する、私と赤軍の者一名が効果測定を担当することが決まった。午後三時ころからそれぞれ下見に出かけた。私は井上と二人で一緒になり、一時間位かけて第八機動隊の付近を見てきた。村松、内藤、赤軍の者も別個に組を作って下見に出かけたはずだ。私は帰ってきて、レポした結果を村松に報告した。このときは増渕はいなかった。それから村松が中心となって、昼集まったメンバーでどのようなコースで八機に行くか、どこで火をつけるか、どちらに逃げるかを話し合った。午後五時半ころ、まず村松、原告堀及び井上が、爆弾一個を紙袋に入れて一緒に河田町のアジトを出た。それから内藤と赤軍の者一名が出て、その後私と赤軍の他の一名が午後六時ころアジトを出て下見をした。午後七時に投込む予定になっていたのに、午後七時になっても何も変わった状況がなかった。しばらくたって、私より第八機動隊の近くまで進んでいた赤軍の者が私のところにきて、投げ込んだらしいけど、変わった様子がないと伝えた。そこで、私は都電に乗って八機の方を通り様子を見ることにした。午後七時半ころ都電で八機の方を通ったところ、機動隊員が八機の正門のところに集まっており、写真を撮っているらしく、フラッシュがたかれていた。私は爆弾は投げ込まれたのだが不発に終わったのだろうと思った。私は午後一〇時ころ河田町のアジトに帰り、そこで初めてやった者達と落ち合い、そこにいた井上から、「井上が八機の横の路地から最初に出て、その後堀が爆弾を持って出てきて、八機の正門の手前の電柱の影で火をつけ、これを村松が受けとって三人で駆け出し、村松が爆弾を投込んで、後はばらばらになって逃げた」と、投込んだ状況を聞いた。

<3> 昭和四八年二月五日の供述

昭和四四年一〇月二三日、増渕と喫茶店で会った際に、同人から、佐古が持ってきて河田町アジトにおいてある爆弾二個について、「爆弾は俺に任せろ」と言われた。その晩八時ころ、河田町アジトで、増渕、井上、村松、内藤及び私で八機を爆弾で襲撃する相談をした。

(3) 信用性

右証拠によれば、佐古及び前原の右各供述について、前原の供述に謀議参加者や襲撃時間等の点で若干の変遷が認められるものの、原告堀に対する右勾留請求の段階で、明らかにその信用性がないとまでいえるほどの事情はなかったことが認められる。

4  判断

右認定の事実関係によれば、八・九機事件にかかる原告堀の勾留請求については、同原告が右事件の罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があったものと認めることができる。また、争いのない事実、<証拠略>によれば、右事件は、罪質の重い重大事件であるが、客観的証拠に乏しい立証の困難な事案であって、同原告につき、罪証隠滅及び逃亡のおそれがあったことも認めることができる。したがって、右勾留請求については、勾留の理由及び必要性があったものと認められる。

原告らは、原告堀に対する八・九機事件の勾留請求は、その請求にあたって根拠資料とされた共犯者らの各供述が、長時間にわたり、かつ、強制、誘導、切り違い等の方法を駆使した違法な取調べにより得られた虚偽の供述であるにもかかわらず、これを看過してなされたものである旨主張し、また、右勾留請求の根拠資料とされた前原、佐古及び増渕の各供述は、同人らについての法政大学図書窃盗事件もしくはアメ文事件の勾留中に得られたものであるところ、右各事件による同人らの逮捕・勾留は、日石、土田邸事件の捜査を目的とした違法な別件逮捕・勾留であるから、違法に収集された証拠資料として勾留請求の資料となし得ず、これを看過してなされた勾留請求は違法である旨主張するが、前記認定、判断に照らすと、本件全証拠によっても、共犯者らの右各供述につき、明らかにその信用性がないとまでいえるほどの事情を認めるに足りる的確な証拠はないというべきである。

この他に、本件全証拠関係を検討してみても、検察官が、勾留請求時において、捜査により収集した証拠資料を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留を請求したと認め得るような事情の存在は認められない。

よって、右勾留請求は国家賠償法上違法とはいえず、原告らの主張は理由がない。

五  原告堀の八・九機事件の公訴提起

1  公訴提起の違法性判断基準

公訴の提起は、検察官が裁判所に対して犯罪の成否、刑罰権の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから、起訴時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、起訴時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解するのが相当であり、刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の提起が違法となることはない。公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である(最高裁昭和四九年(オ)第四一九号同五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁、最高裁昭和五九年(オ)第一〇三号平成元年六月二九日第一小法廷判決・民集四三巻六号六六四頁)。

そこで、原告堀に対する右事件の公訴提起時において、検察官が現に収集していた証拠資料及び通常要求される操作を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、原告堀について、右事件につき有罪と認められる嫌疑が存在したかを検討する。

2  公訴事実

<証拠略>によれば、原告堀に対する八・九機事件の公訴事実(昭和四八年三月六日付起訴状記載の公訴事実)は、次のとおりであったことが認められる。

被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月二四日午後七時ころ、東京都新宿区若松町九五番地警視庁第八機動隊・同第九機動隊正門前路上において、煙草ピース空き缶にダイナマイトなどを充填し、これに工業用雷管および導火線を結合した手製爆弾一個を右導火線に点火して前記機動隊正門に向けて投てきし、もって、爆発物を使用したものである。

3  検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(1) 前記認定事実(第四の一ないし四項)及び<証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年三月六日、原告堀を八・九機事件の犯人(共犯者)として起訴するに当たり、現に収集していた捜査関係書類、供述調書のほか証拠物等多くの証拠を検討し、そのうち、原告堀が八・九機事件の共犯者であることを立証するには、(1)アメ文事件において現場に遺留されたピース缶爆弾等の形状、(2)佐古、前原、村松及び増渕のアメ文事件に関する各供述、(3)八・九機事件において現場に遺留されたピース缶爆弾の鑑定結果、(4)八・九機事件に関する目撃者の供述、(5)前原、内藤、村松及び増渕の八・九機事件に関する各供述、(6)L研の活動状況、(7)佐古の八・九機事件に関する供述、(8)井上及び原告堀の否認ないし黙秘状況等が重要な証拠であると判断し、さらに、検察官は、これらの証拠資料を検討した結果、<1>増渕の指揮の下に井上、村松及び原告堀が爆弾の投てき班となって、これを実行し、前原と内藤が見張りを担当した旨の佐古、前原及び内藤の各自白があり、いずれも信用性が高いと判断されたこと、<2>村松及び増渕も一部を除き犯行を概ね自白していたこと、<3>井上及び原告堀の供述態度は否認又は黙秘で、アリバイ主張もしなかったことなどに照らし、原告堀が八・九機事件の共犯者であって、有罪と認めるに足りる嫌疑があると判断したものであることが認められる。

(2) そこで、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起時において、検察官が現に収集していた証拠資料である右各供述調書について、原告堀の右嫌疑を肯定するに足り得る証拠であったかを検討する。なお、右のとおり、検察官は、八・九機事件とアメ文事件とは密接に関連していると判断していたから、アメ文事件についても関連する証拠の評価を行うこととする。

(二) 佐古の供述

(1) 供述内容

前記認定(第四、一、4、(二))のとおり、佐古は、昭和四八年一月一六日及び同月一七日、前原が八・九機事件に関与していたことを供述した。

(2) 信用性の判断

<1> 右認定事実によれば、前原が八・九機事件に関与していた疑いが認められる。

<2> 原告らは、佐古の右供述中、昭和四四年一〇月三〇日ころレンタカーを使ってアメリカ文化センターの下見をした旨の供述部分は客観的事実に反するものであり、これによっても佐古の右供述全体が信用できないものであることが明らかである旨主張する。そして、前記のとおり、アメ文事件と八・九機事件は密接に関連しているから、仮にアメ文事件に関する佐古の右供述の信用性が失われれば、同人の八・九機事件に関する供述部分の信用性も失われる可能性があるところ、<証拠略>によれば、佐古は、昭和四四年一〇月三〇日新宿付近のジャパンレンタカーで車を借り、増渕と二人でアメリカ文化センター付近の下見をしたと供述したこと、捜査当局は、同レンタカー借り出しについて裏付捜査を行ってみたものの、該当する借り出しの事実を確認できなかったことがそれぞれ認められる。

右認定事実によれば、佐古の右供述中、レンタカー借出しの供述部分は、客観的事実に反する可能性が高いものの、これを考慮に入れても、原告堀の公訴提起の段階において、佐古の右供述全部の信用性が否定されるとまで認めることはできないというべきである。したがって、原告らの右主張は理由がない。

(三) 前原の供述

(1) 供述の経過及び内容

<1> 前記認定事実(第四、一、4、(二))並びに<証拠略>によれば、前原は、昭和四八年一月一七日、警察官に対し、村松の指示で、井上と一緒に八・九機の警備状況を下見し、村松に報告した旨供述し、その後同月二二日までに、警察官に対し、昭和四四年一〇月二三日夜、増渕が河田町アジトに村松、内藤、前原及び井上を集め、ピース缶爆弾で八・九機を攻撃することを提唱したところ、全員が賛成し、村松、原告堀、井上が爆弾の投てきを実行することなど各役割分担を決定したこと、その場で導火線の燃焼実験をしたこと、同月二四日、前原、村松、内藤、原告堀、井上らが河田町アジトに集まり、八・九機周辺の下見を行い、午後七時ころに爆弾を投てきする旨打ち合わせて出発したこと、後に井上から爆弾を投げた時の様子などを聞かされたことなど、ほぼ事件の全容を自白するに至り、昭和四八年一月三一日には、同事件に赤軍派の氏名不詳者二名が加担していることを供述し、このほか、八・九機事件について、警察官に対し、同年二月一〇日、一一日、一三日、検察官に対し、同年一月二三日、同年二月二日、五日、一六日、同年三月二日、九日それぞれ供述したことが認められる。

<2> 前記各証拠によれば、前原の右各供述の要旨は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 昭和四四年一〇月二三日、喫茶店(エイトと思う)で増渕と会った際、同人に佐古が爆弾二個を中野坂上から持ち帰ったこと及び佐古が帰阪すると言って出て行ったことを報告したところ、増渕は、「爆弾のことは任せておけ」と答えた。同日午後八時ころ、河田町アジトに増渕、村松、井上、内藤、私が集まり、機動隊攻撃の打合せをした際、私が押入れから爆弾二個を取り出し全員に見せた。増渕は、「一〇・二一は失敗だったが、佐藤首相の訪米を阻止するために持続的にゲリラ闘争をしなければならない。手始めにこの爆弾一個を八・九機攻撃に使う」旨提唱し、これに全員が賛成し、攻撃先も八・九機に決まった。この件については、増渕が総指揮を執ることになり、増渕の指示で、村松・井上が爆弾投てき班になり、村松の提案で、原告堀も投てき班に加えることとなった。増渕は、内藤に対し、レポをやるように指示し、私は爆弾投てき後の効果測定を担当することになったが、増渕から赤軍派との連絡役も担当するように指示された。翌日昼ごろ、河田町アジトに全員が集まり、同日夜爆弾を正門に投げ込むという方法で決行することになり、私が赤軍派に連絡しておくことになった。その後長さ一二、三センチメートルの導火線に村松がマッチで点火し、私と井上が燃焼速度を測った。

(イ) 翌二四日、赤軍派と連絡をとり、昼近く中野駅近くの喫茶店で赤軍派の者(藤田と思う)に会い、前夜の打合せの結果を伝えると、赤軍派からも二名出すというので、河田町アジト近くの喫茶店に午後四時か五時に来るように指定した。その後河田町アジトに戻ると、井上、村松、原告堀が来ており、村松が、「増渕は用があって出て行った」と言っていた。三〇分くらい後に内藤が来たので、午後三時ころから、手分けして八・九機周辺の下見を行い、私は井上と二人で下見に出掛け、八・九機の付近で村松と原告堀が一緒に歩いているところに出会った。その後、赤軍派の者に指定してあった喫茶店に行くと、昼近くに会った者のほか二名が来ていたので、いったん増渕のいる喫茶店に行って同人に報告した後、その指示を受け、赤軍派の者二名を連れて河田町アジトに戻った。任務分担の再確認等をし、午後七時に投てきすることになり、内藤と赤軍派の者一名が組んでレポをし、私は他の赤軍派の者一名と組んで効果測定をすることになった。打合せが終了したころ増渕が来たような記憶があり、同人に打合せの結果を報告して了解をもらい、さらに八・九機攻撃後集まる喫茶店を決めた。

その後、増渕と赤軍派の者二名が河田町アジトを出て、次に午後六時ころ村松、井上及び原告堀が出発した。村松あたりが爆弾を紙袋に入れて出発したような気がする。その後内藤と一緒に河田町アジトを出て、河田町交差点近くの喫茶店に行き、増渕から、「午後七時前に河田町電停付近に待機し、爆発が起きたら八・九機前へ行って爆発効果を見るように」との指示を受けた。

しばらくして増渕が喫茶店を出て行き、内藤も喫茶店にいた赤軍派の者一名と一緒に出て行った。私は午後六時四〇分ころもう一名の赤軍派の者と喫茶店を出て、都電通りを少し八・九機方向に歩いて戻り、河田町電停付近に立っていた。その間に内藤に出会った記憶があるが、出会った場所は思い出せない。午後七時一〇分ころになっても特に変った様子はなく、赤軍派の者から、「爆弾は投げ込まれたらしいが変化はない」との報告を受け、午後七時三〇分ころ河田町から赤軍派の者と都電に乗り、八・九機前を通ると、制服の警察官らが集まっており、フラッシュがたかれていたので不発だったと思った。

東大久保で都電を降り、午後七時四〇分か五〇分ころ、その付近にある約束の喫茶店に赤軍派の者と行った。井上が遅れて来て、「私が八・九機の反対側の路地から道路に出て様子を見て村松と原告堀に合図をし、二人が電柱の陰に行って爆弾を投げ込み、その後三人がばらばらになって駆けて逃げた」と話していた。その後井上と河田町アジトに戻ったところ、午後九時三〇分か一〇時ころ村松が河田町アジトに来て、「原告堀が隠すように爆弾を持ち、私が導火線に点火してから爆弾を受け取り、前に駆け出して投げたが、投げた後追いかけられて、まくのに苦労したので、喫茶店には行けなかった」と話していた。

(2) 信用性の判断

<1> 右認定事実によれば、原告堀が八・九機事件に関与していた疑いが認められる。そして、前原の右各供述は、次に検討するとおり、その信用性に疑問のある部分がいくつかあるが、本件全証拠を検討してみても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、右各供述につき、全体として、明らかにその信用性が否定されるといえるほどの事情があることを認めるに足りる証拠はないというべきである。

<2> 爆弾投てき人数

原告らは、関係証拠によれば、八・九機事件で爆弾投てきに直接関与した者の人数は一名である可能性が高い旨主張し、これを前提として、八・九機事件の爆弾投てきが村松、井上及び原告堀の三名で行われたとする前原及び内藤の供述は信用性がない旨主張する。

しかしながら、前記認定(第四、一、4、(一)、(1))のとおり、警察官河村周一の現認報告によれば、爆弾投てきに直接関与した者の人数が一人であるとは断定できず、目撃された投てき関与者が三名であった可能性も否定できなかったのであるから、前原及び内藤が、八・九機事件の爆弾投てき者を村松、井上及び原告堀の三名であると供述したとしても、直ちにその信用性が否定されるものではない。

<3> フラッシュを見たとの供述

原告らは、前原が、現場を立ち去る際、八・九機前でフラッシュがたかれていたのを電車の中から見た旨供述しながら、その後の行動についての同人の供述が変遷していることをとらえ、前原がフラッシュのことだけを記憶しているというのは不自然である旨主張する。

<証拠略>によれば、フラッシュを見た後の行動に関し、喫茶店に入ったかについて前原の供述は変遷していることが認められるものの、この点を考慮に入れても、前原がフラッシュのことを印象的に覚えていたとしても、不自然とまではいえない。原告らの主張は採用できない。

<4> レポについての内藤供述との相違等

原告らは、前原と内藤の各供述を比較検討すると、両名がレポ途中で出会った場所が相違すること、犯行後内藤が喫茶店に戻る途中、両名が出会うはずであるのに両名ともそのことを述べていないことなどの点を指摘し、右両名の供述には信用性がない旨主張する。

この点、前原の前記供述及び内藤の後記供述によれば、原告ら主張のように、右両名がレポ途中で出会った場所が相違すること、犯行後内藤が喫茶店に戻る途中、両名が出会うはずであるのに両名ともそのことを述べていないことなどの各事実が認められるが、前原及び内藤が取調べを受けたのは事件後約三年半も経過した時点であったこと、右供述によれば、同人らは爆弾投てきそのものを担当したのではなく、現場付近で効果測定やレポという従的役割をしたというにすぎないものであったことなどを考慮すれば、原告堀の公訴提起の段階において、前原及び内藤の供述の信用性がなかったとまではいえない。

<5> 菊井の参加

(ア) 原告らは、菊井が八・九機事件に参加したか否かについての内藤及び前原の供述が相互に一致しておらず、不自然で、この点からも両者の供述には信用性がない旨主張し、<証拠略>によれば、前原は、菊井が参加しなかった旨述べる点では一貫しているものの、不参加の経緯については供述に次のような変遷があったことが認められる。

昭和四八年二月一〇日付員面 菊井は一〇・二一後増渕に対し批判的となり、赤軍派と一緒に活動すると広言していたためはずされた。

同月一六日付検面 事件前日村松が河田町アジトに来て内藤、井上、菊井を集めておくようにと言った。菊井に連絡したかどうかははっきりしない。

同月二六日付検面 事件前日内藤から、菊井のところへ行ったが、自分は行く必要がないと断られた旨聞いた。皆で菊井はなぜ来なかったのだろうと理由を話し合った。菊井は当時増渕の指導性に批判的だった。

同年三月九日付検面 事件前日村松が河田町アジトに来て内藤、菊井を集めるように指示した。しばらくして偶然内藤が来たので菊井への連絡を頼むと、内藤が出ていった。再び内藤が戻り、菊井は行く必要がないと言って来ないと報告した。井上と二人でなぜ菊井が来ないのか不思議に思い菊井のうわさ話をした。

(イ) 右のとおり、菊井の参加に関して、前原の供述には変遷があり、その内容は内藤のそれとも異なるが、前原の供述は、事件後約三年半たってからの供述であったこと、右供述によれば、菊井に参加を誘いかけたのは前原自身ではなく、伝聞にすぎないことなどを考えれば、右変遷等が認められたからといって、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、前原の右各供述の信用性が否定されるとまではいいがたい。

<6> 導火線の切断

原告らは、八・九機事件に使用されたピース缶爆弾は、導火線の長さから見て、導火線の先端部が切断されたことになると思われるのに、前原や内藤の供述がこの点に触れていないのは不自然である旨主張する。

<証拠略>によれば、八・九機事件に使用されたピース缶爆弾の導火線の長さは、全長約九・五センチメートルで、そのうち缶体の外に出ている部分の長さは約六・三センチメートルであり、中野坂上事件に使用されたピース缶爆弾三個のそれ(全長が一二・五センチメートル、一三センチメートル、一二・五センチメートル、缶体の外の長さが九・五センチメートル、八・五センチメートル、七・五センチメートル)に比べて短く、かつ、その先端の形状は、前者が斜めに切断されているのに対し、後者のそれがいずれもほぐされている点で異なっていること、前原及び内藤の捜査段階における供述によれば、八・九機事件で使用されたピース缶爆弾は中野坂上事件の犯行後に持ち帰られたものであり、その後誰かが導火線の先端部を切断したことになるにもかかわらず、同人らの供述には、この点に触れた部分がないことがそれぞれ認められる。

しかしながら、右両名の供述中に右の導火線の先端部分に関する供述部分がないからといって、直ちに、それをもって、原告堀の公訴提起の段階において、前原及び内藤の右各供述に信用性がなかったとまではいえない。

<7> 導火線の燃焼実験

原告らは、前原は八・九機事件の謀議の際に行った導火線の燃焼実験に使用した導火線が中野坂上から持ち帰ったピース缶爆弾のものであると供述しているが、右供述は客観的事実とは合致せず、この点からも前原の供述には信用性がない旨主張し、<証拠略>によれば、右供述が客観的事実に符合しないことが認められるが、そのことだけで、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、前原の前記供述全部の信用性が否定されるとまでは解されない。

<8> 現場の下見

原告らは、前原の前記供述中、下見に関する部分は、現場までの経路が時間的にも距離的にも迂遠で無駄が多く、また、八・九機の警備状況に関する部分は、警察官の立哨位置を考慮しないまま逃走方向を考えており、不自然であることから、同人の下見に関する供述は想像の産物と認められ、措信できない旨主張する。そして、<証拠略>によれば、前原は、昭和四八年二月一六日、検察官に対し、「犯行当日の午後三時ころ井上と二人で河田町アジトを出て下見に出かけた。八機正門やその付近の警備状況を注意して見て回った。八機前の道路を隔てた向い側の裏路地等も見て回った。一時間位下見をしてから河田町アジトに戻った」旨供述し、翌一七日右下見の経路等を明らかにするため、現場へ実況見分に赴いたが、その際に、下見の経路として、河田町アジトを出て、フジテレビ前通りを右折して河田町交差点方面に向かい、途中新宿区市谷河田町一六東京電力河田町変電所角を左折して住吉町商店街に向かい、同区住吉町二三近藤商店角を右折し、更に同区市谷台九深井医院角を左折した上地獄坂通りに出て右折し、その後同通りを抜けて弁天交差点まで至り、同交差点を右折して若松通りに入り、その後厳島神社付近の路地に入ったりした後、同通りの八機反対側道路を河田町交差点方向に向かい、八機前を通過し、同区市谷河田町一八東京都中央児童相談所角を右折、さらに同町一七先を左折し、同番地所在新宿区検察庁角を右折してフジテレビ前通りに至り河田町アジトに戻った旨の現場指示をしたことが認められる。

右認定事実によれば、右下見の経路は、八機正門前及びその付近の警備状況の把握という目的に照らして、時間的にも距離的にも迂遠である上、原告は、現場付近の大通りばかりを歩いており、逃走経路たるべき路地や脇道の状況を確認した形跡がなく、下見の際に現認したはずの機動隊員の立哨位置を考慮に入れた逃走経路についての供述をしていなかったことが認められ、前原の下見に関する供述部分は、必ずしも合理的なものとはいえないが、この点を考慮に入れても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、前原の前記供述が全体として信用性のないものであるとまではいえない。

<9> 喫茶店への集合

原告らは、犯行の直前と直後に喫茶店に集合した旨の前原及び内藤の各供述は、集合者等について不一致がある上、そもそも喫茶店に集合する必要性に乏しく、かえって喫茶店の従業員らに不審を抱かせる一因ともなりかねないので、不自然であり、またその内容が変遷していることからみても、取調官が増渕の自白を基に追及し、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をし、さらにこの内藤供述を基に前原を追及し、前原がこれに合わせて虚偽の供述をした疑いの強いものであり、いずれも信用性がない旨主張する。そして、<証拠略>によれば、前原と内藤の各供述は、犯行直前に喫茶店に集合した共犯者の特定、犯行直後に集合した喫茶店の場所及びその際集合した共犯者の特定等の点で相違していること、前原及び内藤ともに、河田町アジトで最終的な打ち合わせを行ったというのであるから、犯行直後に喫茶店に集合する必要性が乏しいこと、犯行直前の喫茶店への集合については、右両名の供述に変遷があることなどがそれぞれ認められる。

右認定事実によれば、前原及び内藤の犯行の直前直後における喫茶店集合に関する供述部分は、高度の信用性を有するとは認め難く、必ずしも合理的なものとはいえないが、これらの点を考慮に入れても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、前原及び内藤の前記供述が全体として信用できないものであるとまでは解されない。

なお、本件全証拠によっても、取調官が増渕の自白を基に追及し、内藤がこれに迎合して虚偽の供述をし、さらにこの内藤供述を基に前原を追及し、前原がこれに合わせて虚偽の供述をしたとまで認めることはできない。

<10> 犯行前の喫茶店における謀議

原告らは、犯行前の喫茶店における謀議についての前原及び内藤の各供述は、内藤の供述経路の不自然さ、前原の供述の唐突さなどからみて、村松、増渕の供述に基づく捜査官の誘導により供述させられた疑いが強いものである旨主張する。そして、<証拠略>によれば、内藤は、当初、犯行前日の喫茶店での謀議について供述をしていなかったが、昭和四八年三月七日の員面に至って初めて同謀議に関する供述をするようになったこと、前原も、同月九日に至って初めて同謀議を供述したことがそれぞれ認められる。

右認定事実によれば、前原及び内藤の犯行前日の喫茶店での謀議に関する供述には変遷が認められるものの、このことから、直ちに、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、前原及び内藤の前記供述の信用性がないとまではいえない。

なお、本件全証拠によっても、内藤及び前原が、村松、増渕の供述を基礎とした捜査官の誘導により、右供述をさせられたものと認めることはできない。

<11> アメ文事件における段ボール箱

(ア) 原告らは、佐古及び前原の前記供述の信用性を判断するにあたって、アメ文事件の爆弾が収納されていた段ボール箱を鑑定すれば、それが既製品であることが容易に判明したはずであり、そのような観点からの証拠収集を怠って公訴提起をした違法がある旨主張する。前記のとおり、アメ文事件と八・九機事件が密接に関連していることを考えると、仮にアメ文事件の段ボール箱に関する供述の信用性が失われれば、同人らの八・九機事件に関する供述の信用性も失われる可能性があるので、以下、右段ボール箱に関する供述の信用性について検討する。

(イ)(あ) <証拠略>によれば、捜査段階でのアメ文事件の段ボール箱に関する佐古及び前原らの供述は、次のとおりであったことが認められる。

佐古及び前原は、増渕の指示により時限式爆弾を収納する段ボール箱を製造した旨供述した。

佐古は、昭和四七年一二月二八日に爆弾を収納する段ボール箱を製造した旨の供述をし、昭和四八年一月一六日アメ文事件について再自白した以後一貫して右供述を維持し、右製造の状況につき具体的かつ詳細な供述を繰り返し、捜査官から証拠物の段ボール箱を示されてもなお自分らが作ったものである旨供述していた。

前原は、同月一六日アメ文事件につき初めて自白した際に段ボール箱の製造を供述して以後一貫して右供述を維持し、捜査官から証拠物の段ボール箱を示されてもなお自分らが作ったものである旨供述していたものである。なお、増渕も前原に指示して段ボール箱を製造させた旨供述していた。

佐古及び前原の段ボール箱の製造についての自白は、具体的かつ詳細であって、近所のパン屋から段ボール箱を二個入手し、その大型段ボール箱の一角を利用し、はさみ、ボンド、ガムテープ、紙テープ、真鍮色の針のホチキス等を使用して手製の蓋付き段ボール箱一個を製造し、割り箸を十字に組んだものを底に貼り付けて補強したというものであった。

(い) そして、後記(第四、五、4、(三)、(2))のように、刑事審である地刑五部、地刑九部及び地刑九部の控訴審における各判決によれば、右段ボール箱は、既製品ないし既製品の一部を切り取って再度箱の側面をつけなおしたものであることが認められており、右佐古及び前原の右供述と異なる方法により製造されたことが認められる。

(ウ) 右によれば、佐古及び前原の各供述は、客観的証拠との間に不一致が認められるものの、後記のように、右段ボール箱が発見直後に開披されて原形をとどめておらず、指紋等の被疑者の特定につながるような資料も出てこなかったこと、佐古と前原が段ボール箱が置かれていたと供述する場所が実在し、当該場所の状況が段ボール箱が置かれていたとしても不自然でないとの裏付けが取れていたこと、佐古及び前原が、捜査段階で、右段ボール箱を示されても供述を変更せず、しかも、佐古が自ら段ボール箱を再製して見せるなどしていたことなどの事情を総合考慮すれば、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階で、佐古及び前原の前記供述が信用性に欠けるものであったとまで認めることはできない。

なお、原告らは、佐古及び前原が段ボール箱の客観的状況と食い違う自白をしたのは取調官の強制や誘導によるものである旨主張するが、本件全証拠によっても、これを認めることはできない。

<12> 段ボール箱底の十字の割り箸

(ア) 原告らは、アメ文事件の爆弾を収納した段ボール箱の底に十字に組まれた割り箸は爆弾を固定する目的で使用されたことが明らかであり、これと異なる佐古及び前原の捜査段階の供述は信用性がない旨主張する。

(イ) <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(あ) 佐古は、捜査段階で、爆弾の収納状況に関して、「段ボール箱の底面に、箱を補強するため、十文字に組んだ割り箸をボンドで貼り付け、上からガムテープで押さえた上、時限装置とピース缶爆弾を箱内に入れたところ、ピース館爆弾は、箸と箱の内壁に接する形でぴったり納まったので、爆弾を固定するためにも丁度よかったなと思った。」旨供述した。

(い) 前原は、捜査段階で、爆弾の収納状況に関して、「増渕か佐古の発案で、箱自体の補強と収納する爆弾や時限装置を固定しやすくするため、箱の底面に割り箸を十文字様にして入れ、ボンドとガムテープで固定した。箱ができあがって三〇分くらい後に増渕が主になって爆弾等を収納した。」旨供述した。

(う) 地刑五部、地刑九部及び地刑九部の控訴審における各判決は、右割り箸は、少なくとも主たる目的は、箱自体の補強を目的としたものではなく、ピース缶爆弾本体と時限装置が分かれていることから、箱内部でのずれや移動を防ぎ、それらの位置をしっかり固定するために用いられたものであると認定した。

(ウ) 右認定事実によれば、佐古及び前原の右各供述は、右各判決が認定する事実と相違する部分があることが認められるものの、この点を考慮に入れても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階で、佐古及び前原の前記供述全体の信用性が否定されるとまでは認められない。

(四) 内藤の供述

(1) 供述の経過及び内容

前記認定事実(第四、一、4、(四)、(2))並びに<証拠略>によれば、内藤は、昭和四八年二月六日、参考人として任意で取調べを受けた際、昭和四四年一〇月二三日に河田町アジトにおいて八・九機襲撃の話合いの場に居合わせ、また、そのころの夜、八・九機正門前の路地を村松と思われる男と歩いた旨の供述をしたこと、以後昭和四八年三月一〇日に起訴されるまでの間に、次第に具体的かつ詳細な自白をしたこと(警察官に対しては、同年二月八日、一七日、一八日、二一日、二二日、二四日、二八日、同年三月三日、七日、九日、同年四月二日、検察官に対しては、同年三月八日)、右各供述内容の要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

<1> 昭和四四年一〇月二三日午後四時ころ、河田町アジトから余り遠くない喫茶店に増渕、前原、井上、初体面の赤軍派の男二名、それに私が集まり、増渕から爆弾による機動隊攻撃が提案された。午後六時ころ、前原、井上と三人で河田町アジトに戻っていると、村松がやってきて、同人が中心になって話した結果、八・九機襲撃が確定した。増渕がいつ来たかははっきりしないが、その後の各自の役割を決定する段階では来ており、増渕がこれを指示した。投てき班には井上、村松、原告堀が指名され、私は、レポ役を命ぜられ、翌二四日の夜決行すること、同日午後一時か二時ころ河田町アジトに集合することが決められた。その後、導火線の燃焼速度を測る実験が行われた。

<2> 同月二四日午前中、河田町電停から余丁町まで歩いて、八・九機の前の通路や八・九機正門付近の様子を下見した。同日午後三時ころ、河田町アジトに行くと、井上、前原、村松及び原告堀は既に来ており、増渕は遅れて来た。赤軍派の男二名も既に来ていたと思う。皆がそろった段階で分担の変更や確認がされ、私は赤軍派の者一名と組んでレポをすることになった。

その後、全員が河田町電停に向かう途中喫茶店に入り、最終的に午後七時決行が決まった。増渕から、八・九機を中心にして川田町から東大久保交差点までのレポをやり、八・九機正門前の警備状況と周り警察の動きを見て、その状況を途中で出会った者に報告するよう指示され、赤軍派の者一名とレポに出発した。河田町交差点から、八・九機前の通りを機動隊と反対側の道路端を歩いて、東大久保の交差点に向かった。八・九機正門前道路上には三人くらいの制服の機動隊員が立っていた。その前を過ぎて、余丁町電停付近に行った際、前原ほか一名に会ったので、正門前の警備状況を報告した。その後、同電停付近でしばらく待機した後、再び八・九機の方に引き返した。途中の路地の入口で路地の中に立っている村松ほか一名と会ったが、意識的に無視して通り過ぎた。八・九機前を通過し河田町電停付近まで来ると、反対方向から井上が来たので、やはり正門前の警備状況を伝えた。

井上と別れ、時刻を確認したところ、午後七時の四、五分前だったので、近くの路地に入って時間を調節し、午後七時一分前に路地から出て、その付近に立ったまま、斜め向かいの交番と八・九機正門の様子を見ていた。午後七時を五分くらい過ぎても何の変化もないので、出発前に集合した喫茶店に戻った。

(2) 信用性の判断

<1> 右認定事実によれば、原告堀が八・九機事件に関与していた疑いが認められる。そして、内藤の右各供述は、次に検討するとおり、その信用性に疑問のある部分がいくつかあるが、本件全証拠を検討してみても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、右各供述につき、全体として、明らかにその信用性が否定されるといえるほどの事情があることを認めるに足りる証拠はないというべきである。

<2> レポの方法

原告らは、内藤のレポは、必要性に乏しく、その方法が余りにも杜撰であり、同人の供述は措信できない旨主張する。

この点、内藤の右供述によれば、内藤の行ったレポは犯行にとって必要性が乏しいともいえること、レポの結果の伝達方法が場当たり的なことがそれぞれ認められるものの、これらを考慮に入れても、原告堀の八・九機事件の公訴提起の段階で、内藤の右供述が信用性のないものであるとまでは認められない。

<3> レポの同行者及び内容

(ア) 原告らは、内藤のレポの同行者及び内容についての供述に変遷があることから、同人の供述は信用できない旨主張する。

(イ) そして、<証拠略>によれば、内藤の供述するレポの同行者については、次のような変遷があったことが認められる。

昭和四八年二月二二日付員面 村松、前原、菊井のうち誰か

(ただし、二三日のことか二四日のことかはっきりしないとする。)。

同月二八日付員面 前原と思うがはっきりしない。

同年三月一日付検面 自分よりかなり背の低い男(井上、国井、村松、増渕ではない。)。

同月三日付員面 レポは一人でしたか二人でしたかはっきりしない。二人でしたとすればもう一人は村松、菊井、前原及び原告堀のうちの一人であるような気がする。

同月七日付員面 梅内

同月八日付検面 赤軍派の者(比較的背の低い男)

同月一二日付実況見分調書(三月九日施行) 梅内

同年四月二日付員面 花園

地刑八部三回公判 知らない男

(ウ) また、<証拠略>によれば、内藤の供述するレポの内容については、次のような変遷があったことが認められる。

昭和四八年二月六日付員面 昭和四四年一〇月二二日から同月二四日までのある日八機前路地で村松と袋小路を歩いたことがある。

昭和四八年二月八日付員面 日ははっきりしないが、八機前路地に一人で入ったことがある。この時のことかはわからないが同じ場所を単調に歩くなと言われた。

同月一七日付員面 八機周辺を歩いたことがある。

同月一八日付員面 午後八時ころ八機正門あたりの小さな路地に入った。単調に歩くとまずいと思ったためと思う。

同月一九日付検面 二四日夜一人の者と八機近くをうろついた記憶がある。

同月二一日付員面 二三日から一〇月末の間の夜八機前都電通りで誰かと会った。レポに関して話したと思う。

同月二二日付員面 二三日か二四日かはっきりしないが、夜、村松、前原、菊井のうちの誰かと組んで八機をぐるぐる回り河田町に帰った。いずれの日かはっきりしないが、八機正門を様子を見る感じでチラッと見た。

同月二六日付検面 二四日は連絡役か見張役だったと思う。

同月二八日付員面 二四日夕方もう一人の者(前原と思うがはっきりしない。)と八機前を歩き井上と会ったと思う。

同年三月一日付検面 二四日自分よりかなり背の低い男と八機前を河田町方向に歩き井上外一名に会った。真っ暗になっていた。ブリジストンアパートの方の路地に入る。

同月三日付員面 誰かと組んで八機前を二回くらい通った。河田町方向に向かって正門を通り過ぎてから井上に会った。その後河田町交差点少し前の路地に入った。

同月七日付員面 正門を通り過ぎて会ったのは前原と花園である。

(エ) 右のように、内藤の供述には、内藤のレポの同行者及び内容について変遷があることが認められるものの、内藤が右供述をしたのは事件後約三年半も経過した時点であったこと、同人の供述によれば、同人は爆弾投てきそのものを担当したのではなく、現場付近で効果測定やレポという従的役割をしたにすぎないことなどを考慮すれば、原告堀の八・九機事件の公訴提起の段階において、内藤の前記供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

<4> 菊井の参加

原告らは、菊井が八・九機事件に参加したか否かについての内藤及び前原の供述が相互に一致しておらず、不自然で、この点からも両者の供述には信用性がない旨主張し、<証拠略>によれば、内藤は、菊井の参加の有無について、当初はっきりしない等の曖昧な供述をしていたが、その後犯行当日菊井がいたように思う旨述べ、ついで犯行当日菊井がいた旨述べるに至ったこと、右供述は、前原及び菊井の供述とも異なっていたことがそれぞれ認められる。

右のとおり、菊井の参加に関して、内藤の供述には変遷があり、その供述内容は前原及び菊井のそれとも異なるが、内藤の供述は、事件後約三年半たってからの供述であったことなどを考えれば、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、内藤の前記供述が信用性のないものであったとまでは認められない。

<5> 横からの攻撃

原告らは、謀議の内容に関して、内藤が「八機の路地から攻撃することに決まったと思うが、それが正門に投てきするという方法にどの段階で変更になったのか記憶がない」旨供述したのをとらえて、右供述は、不自然であり、前原がこの点について述べていないことと矛盾する旨主張する。

<証拠略>によれば、内藤は、捜査段階で右のように供述していたこと、内藤の供述は微妙に変遷しつつも、横からの攻撃に固執する様子が見られたこと、前原は、横からの攻撃に関して供述していないこと、もっとも、村松は、河田町アジトにおける謀議の席上、正門の正面から投てきするか裏から回って投てきするかというように種々の攻撃方法の話が出たと供述していることがそれぞれ認められる。

右認定事実によれば、内藤の右供述は、確かに不自然な点が認められるものの、これを考慮に入れても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、内藤の前記供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

<6> 爆弾の入手経路

原告らは、内藤が爆弾の入手経路について述べるところは客観的事実に反する旨主張し、<証拠略>によれば、内藤は、「犯行前日の喫茶店における謀議の際、一〇・二一闘争では赤軍派が増渕を通してL研と東薬大で一緒に爆弾を作ったが失敗した。そのときの爆弾をL研に持ってきて使うと聞いた」旨供述したこと、昭和四四年一〇月二一日東薬大において製造された爆弾はピース缶爆弾ではなく鉄パイプ爆弾であったことがそれぞれ認められる。

右認定事実によれば、内藤の供述する爆弾の入手経路は客観的事実に反するものと認められるが、<証拠略>によれば、内藤は、右供述の時点ではピース缶爆弾製造の事実をいまだ自白していなかったことも認められ、このようなことを考慮に入れれば、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、内藤の前記供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

<7> 増渕の参加

原告らは、増渕の八・九機事件への参加の有無についての内藤供述には変遷があって不自然であり、取調官の押付けによるものであるから、内藤の供述には信用性がない旨主張する。そして、<証拠略>によれば、内藤は、当初、「村松から八・九機への攻撃が提起されたもので、増渕はいなかったと思う」と述べ、あるいは「八機襲撃の話が出た際、増渕はいなかったと思う」旨供述していたこと、内藤も最終的には、八・九機への爆弾攻撃を提起したのは増渕である旨供述するに至ったこと、内藤は、地刑八部における自己の第三回公判で、増渕が謀議に参加した旨を明瞭に述べていること、前原は、自白の当初から、八・九機への爆弾攻撃を提起したのは増渕である旨一貫して供述していたこと、内藤は、刑事の公判廷で「逮捕されて少したってから、増渕の存在に関しての取調べがすごくきびしくなり、取調官のほうから、こんな相談をするのに増渕がいないはずがないと追及された。任意の段階から逮捕されて少しのちまで、増渕はいなかったと言っていたので、後から来たんじゃないかという形の供述になった。」旨供述していることがそれぞれ認められる。

右認定事実によれば、増渕の参加に関する内藤の供述には変遷が認められるものの、これをもってしても、原告堀に対する八・九機事件の公訴提起の段階において、内藤の供述に信用性が否定されるとまでは解されない。

なお、原告らは、内藤の右供述の変遷は、取調官の押付けによるものである旨主張し、内藤は刑事審において、右主張にそう内容の供述をしているが、これは、前記各証拠に照らして、たやすく採用し難く、ほかに右主張を認めるに足りる証拠はない。したがって、原告らの右主張は採用できない。

<8> その他

この他、原告らは、内藤の供述の信用性が低い理由として、投てき犯人の人数に関する内藤と目撃者との供述の不一致、レポに関する内藤と前原の供述の不一致、レポについての前原供述との相違、導火線の切断についての供述の不存在、犯行直前直後の喫茶店集合に関する供述の不自然、犯行前の喫茶店における謀議に関する供述の不合理等についても主張しているが、右各主張を採用し得ないことは前項((三)前原の供述)(2)信用性の判断記載のとおりである。

(五) 村松の供述

(1) 供述の経過及び内容

前記認定事実(第四、一、4、(四)、(3))並びに<証拠略>によれば、村松は、昭和四八年二月一二日に八・九機事件で逮捕された当初、犯行を全面否認したものの、同月一三日には、警察官に対し、同事件について、増渕と花園が計画し、菊井と井上が投てきした旨供述するに至り、同月一四日には、警察官に対し、自らも結果を確認する役としてではあるが同事件に関与した旨供述したこと、同人はその後再び否認に転じたが、同年三月三日改めて警察官に対し自白するに至ったこと、同人は、その後も同月六日警察官に対し、同月五日検察官に対し、それぞれ供述したこと、右供述内容の要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四四年一〇月二三日、増渕から電話連絡を受け、喫茶店エイトに行くと、増渕、前原、井上外一名がおり、増渕から、河田町アジトに爆弾が入ったので八機を攻撃することに決めた旨の話がされ、私は八機付近の地理を説明しろと言われたのでそれを説明した。同日夜、河田町アジトに赴くと、増渕、前原、井上、内藤が既に来ており、八機の攻撃方法について話しあった結果、翌日話を更に詰めるということになった。翌二四日午後三時ころ、河田町アジトで、増渕に指示され、原告堀と二人で八機周辺の下見をし、その結果を増渕に報告した。午後四時ころ、当夜八機に爆弾を投てきすることに決し、増渕が各自の任務分担を決めていった。その時点では、増渕、前原、井上、内藤、原告堀、私の計六人がおり、当初投てき班として「村松、井上、前原」が指名されたが、前原が断ると、「村松、井上、堀でやれ」ということになったので、私も断った。増渕は、その後一人で外出し、戻ってくると、私に木村コーヒー店に行って連絡が入るのを受けるよう指示したので、午後六時ころ、同アジトを出て同コーヒー店に行った。同店には午後七時三〇分ころまでいたが、その間、前原から電話があり、原告堀も顔を出した。その後、住吉町アジトに戻った後、石井とテレビを見ていると八機の件がスポットニュースで放送された。午後一〇時ころ、増渕が来て、爆弾が不発だったことを知った。

(2) 信用性の判断

右認定事実によれば、原告堀が、八・九機事件に関与した疑いが認められる。

村松の右供述は、自己が八・九機事件に関与したことは認めているものの、犯行前日の謀議の内容や犯行時及び犯行後における村松自身の行動など重要な事柄について、前原及び内藤の各供述と大きく相違しているが、<1>八・九機事件は一〇・二一闘争の夜、佐古が赤軍派から受け取り持ち帰ったピース缶爆弾二個のうち一個を用いて決行されたこと、<2>同事件の謀議は、犯行前日の昭和四四年一〇月二三日に河田町アジトで行われ、増渕、村松、前原、井上、内藤が参加したこと、<3>同月二四日に増渕の指示で、それぞれ八・九機付近の下見をしたこと、<4>原告堀も犯行に参加したこと、<5>同日河田町アジトで打合せが行われ、増渕から各人の任務分担の指示があり、投てき班三名以外の見張りを担当する者達も指名されたこと、<6>井上及び原告堀は投てき班であったこと、<7>村松自身も本件犯行に関与したことなどの多くの点で、前原や内藤の各供述と基本的に符合しており、このような点を考えれば、原告堀の八・九機事件の公訴提起の段階で、村松の右供述の基本的部分の信用性が否定されるとまでは認められない。

(六) 増渕の供述

(1) 供述の経過及び内容

前記認定事実(第四、一、4、(四)、(4))並びに<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年二月一一日、警察官に対し、八・九機事件の実行を指示した旨自白したこと、翌一二日逮捕され、以後謀議の状況等具体的な供述をするに至ったこと、増渕の供述経過及び供述内容は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

<1> 昭和四八年二月一三日付員面の要旨

現場へ行った記憶はない。しかし、昭和四四年一〇月二三日ころと思うが、赤軍派の前田から第八機動隊を爆弾攻撃するよう指令があり、その旨村松に指示した。同年一〇月二四日夜遅く、村松か菊井から結果報告があった。八機攻撃に使ったピース缶爆弾は、河田町アジトで村松が中心となって造ったが、その指示は、一〇月初めから中旬ころにかけて、前田が直接村松らに出したものだ。一〇月中旬ころ製造したもので、爆弾の材料は、同月一〇日前後ころ、赤軍とL研が共同で青梅の火薬庫から盗んできたもので、詳しくは聞いていないが、ダイナマイトや雷管だと思う。爆弾を造った残りの火薬類は原告堀に預けたと聞いている。

<2> 昭和四八年二月一四日付司法警察職員に対する作成メモの要旨

昭和四四年一〇月一七日ころ、ダイナマイトを入手したことを聞き、前田からL研で手投弾を造るように言われ、村松を指揮者として河田町アジトで製造に当たらせた。同年一〇月一八日ころ、村松以外の全員を喫茶店に集め、爆弾闘争の方法を説明した。このとき、前田の指示があり、八・九機を目標に定めた。二人ずつに分けて下見をさせた後、村松のアジトに終結し、同月二一日前に決行することを赤軍の決定と伝えた。村松の説明で、同月二〇日決行とし、村松を製造キャップ、菊井を行動隊長として、村松、前原、佐古で製造、菊井、国井、井上をレポとした。同月一九日ころ、池袋の方のスナックで花園と会い、赤軍の進行が遅れていることを聞き、L研の者で同月二〇日決行とした。同月二〇日午前中、喫茶店クラシックに集まったが、村松と佐古が赤軍の直接命令で車の確保に行くことになったことを聞き中止を決定した。一〇月二一日、夏目を通じて菊井か前原にL研所有のピース缶爆弾を赤軍に渡すよう指示した。一〇月二二日夕方、菊井、国井、井上と今後の爆弾闘争について話し合った。一〇月二三日昼ころ、村松から電話があり、佐古と井上がピース缶爆弾を河田町アジトに持って来たことを聞き、八・九機襲撃を決定した。一〇月二四日午後四時ころ、村松、前田と会い、村松に連絡させて河田町アジトに全員を集めた。午後六時ころ村松が出発し、八時ころ失敗の報告を聞いた。

<3> 昭和四八年二月一八日付員面の要旨(なお、この供述の際、増渕は、八機周辺の下見を行った経路の図面を作成し提出した。)

昭和四四年一〇月一八日ころと思うが、前田から、「一〇・二一前にL研グループで八機を爆弾攻撃せよ。」との指示があり、八機前の電車通りの喫茶店にメンバーを集めた。集まったのは、菊井、国井、前原、佐古、井上で、村松は来なかった。石井もいたかもしれないがはっきりしない。前田の指示を伝え、八機の下見をやらせた。私は菊井と一緒に八機の周辺を下見した。他の者も二人一組にして下見させた。組み合せはわからない。下見後、村松のアパートに集まり、具体的攻撃方法について検討した。この結果、爆弾は八機の裏から塀越しに投げ込む、出発拠点は八機前通りの喫茶店とする、菊井、村松が爆弾投てき、前原、国井、佐古、井上がレポと決めた。村松には後でこの任務を伝えたと思うが、具体的には覚えていない。この討議のとき、実行日を同月二〇日と決め、その日、中野の喫茶店クラシックに集合するよう決めたと思う。同月一九日昼ころ、村松から、私のいた喫茶店に電話があり、「爆弾は完成した。明日予定通りやるのか。」と聞くので、「予定通りだ。」と答えた。そのとき、村松は、爆弾はピース缶を利用したもので河田町アジトにあると言っていた。その日の午後、前原とともに池袋の方の喫茶店で赤軍の花園に会い、「爆弾はどうなっているか。」と聞かれ、順調にいっている旨答えた。同月二〇日午前一〇時ころ、クラシックに行くと、国井、井上、村松、佐古が集まって来た、村松と佐古は、赤軍の指示で急にトラックを盗みに行くということで出て行った。爆弾投てき役の村松がいなくては八機攻撃は実行できないと判断し、計画を中止した。河田町アジトに用意した爆弾は、何個だったかわからないが、一〇・二一当日菊井が前原に指示して赤軍に引き継いだ。同月二二日午後七時か八時ころ、菊井、国井、井上が平野のアパートに来たので、付近の喫茶店で話し合い、L研としては今後も爆弾闘争を続けようと闘争方針を確認し、相互の連絡方法を決めた。同月二三日昼ころ、村松から電話があり、井上か佐古がピース缶爆弾を持って来たとのことだった。三発くらいだと聞いたような気もする。この報告を聞き、八機爆弾攻撃の実行を決意し、村松に、「明日実行したいので、前田にもおまえのアパートへ来るよう伝えてくれ。集合時間は午後四時ころにしよう。」と指示した。同月二四日午後四時ころ、村松のアパートへ行くと、村松と石井がおり、前田もすぐ来たと思う。村松に、「要員を河田町アジトに集結させ、八機前通りの喫茶店を出撃拠点として出発するよう。」と指示した。村松は、午後四時三〇分か五時ころ、一旦出て行き、間もなく戻って、「要員は集めた。」と言った。午後六時か六時三〇分ころの間に村松が出て行った。私は、その後平野のアパートへ行った。夜遅く、菊井だったと思うが、「爆発しなくて失敗だった。」と結果報告に来た。爆発すれば、機動隊員の殺傷も考えたが、革命の手段として当然のことと思った。

<4> 昭和四八年三月一日付員面の要旨(なお、この供述の際、増渕は、アジト並びに八機周辺下見経路の略図と題する図面一枚を作成し提出した。)

アメリカ文化センターへ爆弾を仕掛けた事件と八機正門へ爆弾を投げた件について、今まで責任を逃れたい気持ちと記憶が薄いことから、曖昧な供述をしてきたが、今冷静に考えるとはっきり記憶していることもあり、今更責任を逃れることもできないと悟ったので真実を話す。昭和四四年一〇月二三日であったと思うが、村松のアパートか河田町アジトで、菊井から、「井上が一〇・二一に赤軍が新宿警察署襲撃に使用した残りのピース缶爆弾を持ち帰り、河田町アジトに保管した」との報告があった。この報告を聞いて、爆弾闘争の方針を打ち出し、具体的に計画するため、村松に対してであったと思うが、「メンバーを集めてくれ。」と指示し、集合場所を八機斜め向かいの喫茶店ミナミと指定した。菊井が村松のところに来たのは正午ころと思う。村松にこの指示をしたのは、午後〇時三〇分ころと思う。午後四時ころと思うが、ミナミに菊井、国井、井上、前原が集まった。石井は来たかもしれないがはっきりしない。村松は来なかったように思う。村松には赤軍の前田に連絡するよう指示していたのでミナミには来られなかったのだと思う。私が八機爆弾攻撃の計画を話し、誰も反対しなかったので、「すぐ下見に出よう。下見が終ったら村松のところへ集まってくれ。」と指示した。最初に私が一人で下見に出た。他の者は二人一組で一〇分おきくらいに出発させたと思うが、組み合せははっきりしない。下見に出発したのは午後四時三〇分ころであったと思う。私は裏の状況を見た。下見時間は、三〇分くらいで、全員が村松のアパートへ集まり、具体的打合せをした。下見後の集合場所は河田町アジトという記憶もある。はっきり覚えているのは、攻撃目標が正門警戒の機動隊員とする、村松と菊井が爆弾を投げる、前後にレポをつけるということだ。爆弾を見たかどうかはっきりしない。決行日は翌日の同月二四日とした。その夜、メンバーが少ないと思ったので、東薬大の内藤と日大獣医学部の原告堀に、同月二四日八機を爆弾攻撃するからレポをやってもらいたい旨連絡し、同月二四日河田町アジトに呼び出した。同月二四日午後四時ころ村松のアパートへ行った。村松と石井がいた。前田も来たが、私の後か既に来ていたのかもしれない。村松に対し、午後七時ころ正門攻撃を開始するよう指示した。このとき、前田から、「アジトから直接出発するのではなく、一旦喫茶店に入り、そこから出発させるようにしろ。」と言われたので、村松に、「六時三〇分ころミナミに入り、そこから出発するようにしてくれ。」と指示した。村松が菊井と一緒に爆弾を投げる役目であることは、同月二三日菊井の報告を受けたとき村松に話し、承知したのではなかったかと思う。八機攻撃に実際に参加したのは、村松、菊井、国井、井上、前原、内藤、原告堀だと思う。同月二四日の昼間であったと思うが、村松のアパートか河田町アジトで導火線の燃焼実験をした。一〇センチくらいの導火線を灰皿の上に乗せ、誰かに時計を測らせながら、私が火をつけた記憶がある。同月二四日午後八時か九時ころと思うが、村松のアパートに菊井が戻り、「失敗だった。」と報告してきた。このとき、前田と石井もいた。その後、菊井と付近の飲み屋で三〇分くらい飲み、タクシーで原告江口のアパート近くに行き、一時間くらい飲食して同原告のアパートへ泊まった。

<5> 昭和四八年三月二日付検面の要旨

昭和四四年一〇月二三日、河田町アジトか住吉町アジトで菊井に会った際、同人から、一〇・二一闘争後井上がピース缶爆弾二個を河田町アジトに持ち帰った旨聞いたので、直ちに爆弾闘争を行うことを決定し、前原か村松にL研メンバーをミナミに集合させるよう指示して、同日午後四時ころ、ミナミに菊井、前原、国井、井上、私が集まった。私が、入手したピース缶爆弾で八機を攻撃することを提起し、全員が賛成したので、八機の下見を指示し、私も同店を出て八機の裏を回る形で下見をした。下見後、喫茶店にいた者全員が住吉町アジトか河田町アジトに集合し、私が専ら指示する形で「明日実行する。爆弾は正門に向かって投げることとし、投てき役は村松と菊井、他の者はその前後のレポとする。実行前の集合場所は河田町アジトとする」旨打合せをした。同夜、内藤と原告堀にも電話連絡し、八・九機事件への参加を依頼し、了承を得た。翌二四日午後四時ころ、住吉町アジトで村松、石井、前田と会い、村松に打合せの結果を話して了承を得た上、実行前にいったん八機斜め向かいの喫茶店に入り、そこから出発するよう指示した。村松は、午後六時か六時三〇分ころ、住吉町アジトを出発し、私は住吉町アジトで待っていたが、午後八時か九時ころ、菊井から失敗だった旨の報告を受けた。なお、当日、河田町アジトか住吉町アジトで、導火線の燃焼時間を計測するため、燃焼実験を行った。

(2) 信用性の判断

右認定事実によれば、原告堀が八・九機事件に関与したとの疑いが認められる。

増渕の右供述には、内容の変遷や、前原、内藤らの前記供述との不一致等が認められるものの、その供述が具体的であること及び前原及び内藤の前記供述と符合する部分が多いこと、すなわち、八・九機事件は、持ち帰ったピース缶爆弾二個のうち一個を用いて決行したこと、同事件は増渕が提唱し、他のメンバーがこれに賛同してその共謀が成立し、実行に移ったこと、謀議は犯行前日の昭和四四年一〇月二三日に行われ、その場所は河田町アジトか住吉町アジトであったこと、謀議の内容は、同月二四日夕刻、八・九機の正門に爆弾を投てきするというもので、任務分担としては、投てき担当者以外に、レポ等を担当する者もいたこと、村松は投てき班の一員であり、前原、井上、内藤及び原告堀も本件犯行に加担したこと、犯行に備えて導火線の燃焼実験が行われたこと、決行時刻は同月二四日午後七時とし、現場へ赴く前にいったん喫茶店へ入り、そこから出発することとされたことなどが認められ、これらを総合考慮すれば、原告堀の八・九機事件の公訴提起の段階で、増渕の右供述が信用性のないものであったとまで認めることはできない。

(七) 井上及び原告堀の黙秘ないし否認供述

前記(第四、一、4、(四)、(5))のとおり、井上及び原告堀は、具体的な弁解ないし反証を提示しなかった。

4  通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

原告らは、検察官が通常要求される捜査を遂行していれば、増渕、内藤にアリバイがあること、アメ文事件の爆弾収納段ボール箱に関する客観的事実と佐古、前原の供述が食い違っていること、同種他事件の記録上現われた事実と関係者の供述が一致しないことなどに関する証拠資料を収集することができたのに、これらを怠って原告堀の公訴提起をしたかの如く主張するので、これらの点につき検討する。

(一) 増渕のアリバイ

原告らは、増渕にはアリバイがあり、この点につき増渕は、「一〇月二四日ころ、火炎びんを平野方から江口方に運んだことがある。」と述べていたのであるから、検察官はその裏付捜査をすべきであった旨主張する。

しかしながら、<証拠略>によれば、捜査段階の増渕の供述は、「平野のアパートにいた(昭和四四年)一〇月二一日から一一月四日までの間、一〇月二四日ころ、平野のアパートに運びこまれていた火炎びん五〇本くらいを江口のアパートに運び込んだことがある。」というものであって、必ずしも昭和四四年一〇月二四日に限定した供述ではなかったことが認められ、これによれば、通常要求される捜査を遂行していれば、増渕の右アリバイに関する証拠資料を収集し得たとまでは認められない。

(二) 内藤のアリバイ

原告らは、内藤にはアリバイがあり、この点につき内藤は「一〇月二三日から三日間にわたり、火炎びんを大学から平野方へ搬出した。」旨供述していたのであるから、検察官はその裏付捜査をすべきであった旨主張する。

しかしながら、<証拠略>によれば、捜査段階の内藤の供述は、「昭和四四年一〇月二三日の午前六時ころ、同月二四日の午前六時ころ及び同月二五日の午前六時ころの三回にわたり、東薬大から平野の下宿まで火炎瓶を運んだ。」というものであり、時間的に見て、「昭和四四年一〇月二三日午後四時ころ、喫茶店で増渕から爆弾による機動隊攻撃が提案され、翌二四日午前中、河田町電停から余丁町まで歩いて下見をした。同日午後三時ころ、河田町アジトに皆が集まり、私はレポをすることになった。」旨の八・九機事件に関する内藤の供述と何ら矛盾するものではなかったことが認められるから、内藤の右アリバイに関する裏付捜査を実施しなかったとしても、通常要求される裏付捜査を遂行しなかったとまでは認められない。

(三) 段ボール箱等に関する裏付捜査

(1) 原告らの主張

前記のように、原告らは、佐古及び前原の供述の信用性を判断する上で、アメ文事件で爆弾を収納した段ボール箱を業者等に鑑定させれば、既製品であることが容易に判明したはずであり、そのような観点からの証拠収集を怠って公訴提起の判断をした違法があると主張する。

(2) 段ボール箱の状況等

<証拠略>によれば、アメ文事件の爆弾を収納した段ボール箱に関して、次の事実が認められる。

<1> 右段ボール箱は、発見後、事件現場において、警視庁鑑識課員により箱の四端が縦に切断開披されており、段ボール箱の外側や内側には、各稜線をはさむ形でガムテープが貼付されており、開披時にガムテープごと切断されていたため、段ボール箱の切り口が複雑な様相を呈し、開披前の原型を容易に把握し得なかった上、一直線で機械切断された切り口と認められるものが存在するものの、切り口が斜めであり、人為的にカミソリ等で切断されたもののように解される部分もあり、平線(留め針金)も一般的に工場等で使用されるものに比べて相当小型で、しかも一部の継ぎしろには手作業であっても容易に打つことのできる上部にのみ平線が打ち込まれていた。

<2> 右段ボールは、右のように、発見直後に開披されて原形をとどめておらず、その外観上作成方法について種々の見方が可能な証拠物であり、また、指紋等、被疑者の特定につながるような資料も出てこなかった。

<3> 佐古と前原は、右段ボールに関して、近所のパン屋の脇に放置されていた段ボール箱の中から任意に大型段ボール箱二個を河田町アジトに持ち込み、この大型段ボール箱の一角を利用して、手製の蓋付き段ボール箱一個を製造した旨供述していた。これについて、捜査官は、佐古と前原が段ボール箱が置かれていたと供述する場所が実在し、当該場所の状況が段ボール箱が置かれていたとしても不自然な場所ではないとの裏付捜査を実施していた。

<4> 佐古は、捜査段階で、右段ボール箱を示されても供述を変更せず、しかも、自ら段ボール箱を再製して見せるなどしていた。

<5>(ア) 井上らの刑事審である地刑五部の判決は、本件段ボール箱の一側面切り落とし及び継ぎ足しについて、要旨次のように認定した。

右段ボール箱は、既製の段ボール箱(日本工業規格JISZ一五〇七に定められたB―1形)の一側面を何らかの理由により切り取り、その後において、右切り取った側面あるいは他の段ボール箱を利用して同じ大きさに作成した段ボール紙を、切り取った場所にあてガムテープで固定して箱としたものである。

(イ) 原告らの刑事審である地刑九部の判決は、右段ボール箱に関し、要旨次のとおり認定した。

押収してある右段ボール箱及びアメ文犯行直後ごろにおいて撮影された同段ボール箱の各写真により、四側稜の段ボール紙の切面及び輪郭線並びに補強のため貼りつけられたものと推認される紙テープ及びガムテープの輪郭線の状況を仔細に検討すれば、右段ボール箱は、後に一面を切り取ったうえ、これに代わる段ボール紙を継ぎ合わせたものではない。

(ウ) 地刑九部判決の控訴審である高刑七部の判決は、右段ボール箱に関して、要旨次のとおり認定した。

右段ボール箱を仔細に見ると、<1>検察官が切断されたと主張する側面とこれに隣接する側面(二箇所)の両面にわたって貼付されているガムテープの切断面はこれに対応する段ボールの切断面と一致しないことが明らかであり、このことは切断された段ボールがガムテープでつながれておりそのガムテープが事件発生後警察官により切断されたことを示すものであること <2>検察官が切断されたと主張する側面の底辺とこれに接する箱の底面との間隙から紙テープが箱の内側にまで入り込んでいるのであり、このことは右の底辺が切断されている状態で初めて生じ得ると認められること <3>検察官が切断されたと主張する側面については、他の側面に比べてより強固に外側がガムテープで補強されていること、などからすれば、この点に関する原判決の認定は誤りで、検察官の言うように、右段ボール箱の一側面は、いったん切り取られ、後に同じ大きさの段ボール紙(いったん切り取られたもの自体である可能性もある)が切り取った場所にあてられ、ガムテープにより固定されたものと認定するのが相当である。

(3) 判断

右認定事実によれば、アメ文事件の爆弾を収納した段ボール箱は、被疑者の特定につながるようなものではなく、特に不自然なところが認められなかったものであり、既製品かどうかについても刑事審において判断が分かれるなど、捜査官が右段ボール箱を証拠として重視していなかったとしてもやむを得なかった事情が認められ、こういった事情を考慮に入れれば、右段ボール箱が既製品であるかについての鑑定を行うなどの裏付捜査を実施しなかったとしても、通常要求される捜査を遂行しなかったとまでは認められない。

(四) 同種他事件の記録検討及び関係者の事情聴取

原告らは、水崎検事は、八・九機事件のピース缶爆弾と大菩薩峠(福ちゃん荘)事件のピース缶爆弾との関連性が窺えるのであるから、右事件の記録を検討し、これに関与した赤軍派関係者の事情聴取を行うべきであったのであり、これを実施していれば、少なくとも荒木、古川から供述を得ることができ、これにより、前原らの供述が虚偽であって真犯人が別にいることが分かったはずである旨主張する。

<証拠略>によれば、昭和四四年一一月五日山梨県塩山市大菩薩峠唐松尾分岐点所在の「福ちゃん荘」において、赤軍派の者四九名が兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕された際、ピース缶爆弾三個が押収されたこと、この爆弾は、その基本構造、充填されていたダイナマイトの種類及び製造会社(ただし、三個のうちの一個についての分析結果、他の二個に充填されていたダイナマイトについては組成について分析がされていないが、外観観察により同種のものと推定されている)、導火線の構成及び種類、使用雷管、充填されていたパチンコ玉の刻印、雷管と導火線及びピース缶の缶体と蓋との接着状況、雷管と導火線の境界部及びピース缶の外表面に巻きつけられた粘着テープなどの点において八・九機事件のピース缶爆弾と同一であったこと、荒木及び古川は赤軍派に属していた者達であって、荒木は大菩薩峠(福ちゃん荘)事件で取調べを受けていたことがそれぞれ認められる。また、後記のように、原告らの地刑九部の公判において、若宮、荒木及び古川らは、八・九機事件の真犯人は若宮である旨の供述をしている(もっとも、若宮は検察官の反対尋問や裁判所の補充尋問に答えるのを拒否した。)ことも認められる。

右認定事実によれば、原告ら主張のように、八・九機事件のピース缶爆弾と大菩薩峠(福ちゃん荘)事件のピース缶爆弾との関連性から同事件の記録を検討し、同事件に関与した赤軍派関係者の事情聴取を行っていれば、荒木、古川から若宮が真犯人である旨の供述を得られた可能性がないとはいえないが、荒木及び古川らは別事件の関係者であるにすぎず、しかも、必ずしも捜査側に協力的な立場になかったことも考えると、荒木や古川の事情聴取を実施しなかったからといって、検察官が通常要求される捜査を遂行せず、収集可能な証拠資料の収集を怠ったとまで認めることはできないというべきである。

5  判断

よって、検察官の右公訴提起は違法とはいえず、この点の原告らの主張は理由がない。

六  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の逮捕状請求

1  逮捕状請求の違法性判断基準

前記のとおり、司法警察職員による被疑者の逮捕状請求については、司法警察職員が、逮捕状請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情がある場合にかぎり、右逮捕状請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である。

そこで、ピース缶爆弾製造事件に関する原告堀、同江口及び同前林の逮捕状請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  原告堀、同江口及び同前林の逮捕状請求等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一) 逮捕の経過

司法警察職員は、昭和四八年三月一一日、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件に関する逮捕状を裁判官に請求し、同日その発付を得て、同月一三日、同原告らを同事件で通常逮捕した。

(二) 逮捕状記載の被疑事実

原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の各逮捕状記載の被疑事実は、次のとおりであった。

被疑者は、他数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月一七日ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方佐古幸隆借用の部屋(河田町アジト)において、煙草ピース空き缶にダイナマイト及びパチンコ玉を充填し、これに工業用雷管と導火線を結合した手製爆弾十数個を製造したものである。

3  司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

<証拠略>によれば、被告都の司法警察職員である警察官は、一連の捜査結果により、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の逮捕状を請求した当時、疎明資料として、(1)佐古の供述(昭和四八年一月二〇日付員面、同年二月一〇日付員面、同月一二日付メモ、同月一三日付員面、同月一五日付員面、同年三月九日付員面、同月一〇日付員面)、(2)増渕の供述(昭和四八年二月一三日付員面、同月一八日付員面)、(3)前原の供述(昭和四八年三月九日付員面)、(4)村松の供述(昭和四八年三月八日付員面)及び(5)内藤の供述(昭和四八年三月一〇日付員面)を収集していたことが認められる。

そこで、右各供述の内容等を検討し、もって、検察官が、右原告らにつき右事件についての嫌疑の存在と逮捕の必要性が認められるかを判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二) 佐古の供述等

<証拠略>によれば、佐古の警察官に対する供述について、次の事実がそれぞれ認められる。

(1) 佐古は、アメ文事件で勾留中の昭和四八年一月二〇日、要旨次のとおり供述した。

昭和四四年一〇月中旬の午後七時ころ、増渕から、「今晩火薬庫を一発狙うぞ。レンタカーを借りて来い。」と言われ、池袋のジャパンレンタカーで車一台を借りた。午後八時ころ、立教大学から増渕、花園、前田を乗せ、増渕の指示で青梅に向かった。道路に小さな倉庫のあるようなところで車を止め、三人が降りて行き、四、五〇分すると戻って来た。前田か花園が袋のような荷物を持っていた。三人のうち誰かが、「うまくいった。」と話していた。午前二時ころ、この場所を出発して午前四時ころ立教大学に戻った。ダイナマイトと火薬は三人がどこかに隠した。その後、増渕から、ダイナマイトや火薬は増渕の知っている東海大学の学生の家に預けてあるということを聞いた。日時や場所ははっきりしないが、村松が、「前田が盗って来たダイナマイトを使ってピース缶爆弾を造ったことがある。」と話した。

(2) 佐古は、昭和四八年二月一〇日、要旨次のとおり供述した。この際、佐古は、梅津の借家で増渕が点火装置の実験をしたときの位置と状態などと題する図面二枚を作成し提出した。

昭和四五年六月中旬ころ、増渕が赤軍の森恒夫、板東国男に爆弾の造り方を教えていたのを見た。この一週間くらい前に烏山アジトで増渕からゲリラ教程という本を見せられ、「お前も爆弾の造り方を覚えておけ。」と言われたことがある。この二、三日後、増渕に呼び出されて梅津の借家へ行くと、増渕、村松、板東がいて、増渕から、村松と二人で鉛筆のキャップ、脱脂綿、ニクロム線、電池等を買ってくるよう指示されて、その材料と行き先のメモを渡され、豪徳寺駅前近くに買いに行ったことがある。この三日くらい後、梅津の借家へ行くと増渕、森、板東がいて、爆弾の点火装置の実験をしていた。二、三〇分くらい見ていた。増渕がテーブル上で電池にコードをつないでコードの先にニクロム線をつなぎ、ニクロム線上に黄色い液体を含ませた脱脂綿を載せたもののコードに電流を流して点火するという実験をしていた。電流を流すと脱脂綿がボッと燃えた。部屋には、黄土色の紙袋に入ったダイナマイト五、六本くらいが置いてあった。

(3) 佐古は、昭和四八年二月一二日、警察官の取調べに際し、次のような内容のメモを作成し提出した。

第一次東京戦争の敗北により、早急に我々で武器を造る必要があった。昭和四四年一〇月一七日ころ、河田町アジトで、我々の持つダイナマイトの中身を取り出してピース缶に詰め、殺傷力を高めようと当時ベトナム戦争で使われていたナパーム弾をヒントにパチンコ玉を入れ、ピース缶爆弾七、八個を完成させた。これには、私のほか増渕、原告堀、村松、前原らが加わったと思う。

(4) 佐古は、アメ文事件で起訴後の勾留中である昭和四八年二月一三日、要旨次のとおり供述した。この際、佐古は、ピース缶爆弾の略図及び爆弾を造ったときの部屋の中の状況図と題する図画二枚を作成し提出した。

昭和四四年一〇月一〇日ころ、青梅方面からダイナマイトを盗んだが、このダイナマイトを使ってピース缶爆弾を造った。ピース缶は、各アジトに一、二個くらいは用意してあったが、不足分は手分けして集めた。私は、東薬大で社研のメンバーが見つけた一、二個をアジトへ持ち帰った。パチンコ玉は、爆弾製造当日、前原か村松と思うがパチンコ屋から持ってきた。ダイナマイト、導火線などは青梅から盗んで保管していた。立教大学か早稲田大学前の中華料理店二階のアジトから誰かが運んできたと思う。火薬や薬品は、既にリュックに詰めて河田町アジトに保管してあった。ガムテープ、接着剤、ボンドは既に河田町アジトにあったと思う。これらの爆弾材料を河田町アジトに集め、一〇月一六日か一七日午前一一時ころから午後二時ころまでの間に爆弾を製造した。この爆弾製造をやったのは、増渕、前原、村松、私と原告堀の五名ははっきりしている。その他に井上や国井らがいたかもしれない。日本農獣医科の原告堀の薬品の知識を利用しようということから、原告堀をメンバーに加えた。爆弾は、ピース缶の中にダイナマイト四本くらいを詰め、その周囲にパチンコ玉を入れてダイナマイトの上部に火薬を入れ、導火線を取り付け、蓋をして、蓋の上に導火線の一部を出すというものだ。ピース缶の上蓋の中央部に穴を開けて、長さ一〇センチくらいの導火線を缶外に七、八センチ出るように差し込み、導火線がぶらぶらしないように缶蓋にボンドで固定した。缶と蓋を固定し、かつ、投げるとき持ちやすいように缶の回りに缶が外から見えないほどガムテープをぐるぐる巻いた。使用した道具は、蓋に穴を開ける道具くらいで、折りたたみ式ナイフ一丁、ドライバー一本くらいだったと思う。私は、主にピース缶の蓋の中央に穴を開け、導火線を一〇センチくらいに切って穴に通し、ボンドで固定する作業をした。穴開けの方法は、折りたたみ式ナイフの先で少し穴を開け、ドライバーで導火線が入るくらいの丸い穴を開けた。増渕と原告堀は、火薬に薬品をしみ込ませて何か調合していたように思う。他の者は、缶の中にダイナマイトとパチンコ玉を詰める作業をやったと思う。皆で缶にガムテープを巻き付けたと思う。ダイナマイトは、みかん箱半分くらいのダンボール箱に四、五〇本くらい入っていたと思う。導火線は、四〇センチくらいの束になって六巻くらいあったと思う。ピース缶爆弾は、全部で一〇個くらい造ったが、午後三時ころ、増渕が黒っぽい布かビニールの手提カバンに入れてどこかへ持ち出した。

(5) 佐古は、アメ文事件で起訴後の勾留中である昭和四八年二月一五日、要旨次のとおり供述した。この際、佐古は、爆弾の略図と題する図面一枚を作成し提出した。

河田町アジトでの爆弾製造について記憶違いをしていた点などがある。製造前日の夜の昭和四四年一〇月一六日ころの午後七時ころから午後九時ころまでの間、住吉町の村松のアジトで増渕、村松、前原、石井、私の五人で爆弾製造について打合せをした。主導権は増渕がとり、増渕の判断で決定した。これまで集めた爆弾材料の数をメモし、爆弾は二、三〇個造る予定だった。雷管が一〇個くらいしかなく足りないということで、雷管に代わるものが火薬や薬品でできないか相談した。保管していた濃硫酸、硝酸、ナトリュウム、塩素酸カリなどを火薬と一緒に使えば起爆力が大きくなって雷管の役目を果たすのではないかと話し合ったが結論が出なかった。そこで、薬品に詳しい者を加えようということになり、原告堀を加えることになった。役割りは、男五人が爆弾を造り、石井がレポをやる、製造中、大声や爆弾に関する話は絶対にしない、ドアに鍵をかける、他の仲間が来ても絶対に入れない、爆弾ができたら一応赤軍に渡しておく、残りの物は菊井のアジトに運んでおくということになった。打合せの途中、導火線の燃焼実験をやった。ガス台で火をつけ、燃え尽きる速度を測った。一〇秒前後かかったと思う。導火線の長さは七、八センチに決めたと思う。実験をやったのは私と前原だったと思う。爆弾は、これまで起爆剤に薬品をしみ込ませた火薬を使っていたと話したが、思い違いをしていたもので雷管を使っていた。各人の役割りについて、私はピース缶の蓋と導火線の接着部分を担当したと話したが、この前に導火線と雷管を接着させる作業もやった。導火線の端を少し開いてボンドを付け、少し乾いたところで雷管を付けてガムテープか紙テープで巻き付けたと思う。ピース缶の蓋の中央に穴を開けたことについて詳しく話すと、テーブルの角を台にして折りたたみ式ナイフで少し穴を開け、ドライバーを突っ込んで根元まで差し込み導火線が入るくらいの穴にした。缶の内側から開けたと思う。村松は、主にピース缶の中にダイナマイトとパチンコ玉を詰める作業と雷管を入れて蓋を閉める作業をやっていた。前原は、私と同じような作業をしたと思う。増渕と原告堀は、薬品などを調合していた。石井はレポ役をしていた。爆弾は一〇個くらい製造したと思う。できあがった爆弾は、増渕が、「赤軍に渡す。」と言って持ち出した。

(6) 佐古は、アメ文事件で起訴後の勾留中である昭和四八年三月九日、要旨次のとおり供述した。この際、佐古は、村松アジト、河田町アジト、菊井のアジトの略図、早稲田アジトの略図、パチンコ店の略図と題する図面、使った用具と材料の略図、爆弾の略図、爆弾を造ったときの状況図と題する図面各一枚を作成し提出した。

<1> 青梅方面から盗んだダイナマイトを使ってピース缶爆弾を製造した。昭和四四年一〇月一五日ころ、菊井のアジトで、増渕が、赤軍派に武器を頼っていては闘い抜けない、我々の手で武器を造りだそう、爆弾を造ろう、材料は既に手に入れている、場所は河田町アジトを使おうということになった。河田町アジトを指定したのは、アジトとして長く使える場所ではなく、貸間だから爆弾を造ったら早いうちに捨てようということだったと思う。翌朝午前一〇時ころ、菊井のアジトにL研メンバー全員が集結し、爆弾製造を再確認して製造日を翌日と決めた。どのような爆弾を造るかについては、村松がピース缶による手榴弾を造ろうと提案した。ピース缶爆弾ということは、以前から村松あたりが言い出しており、既にピースの空き缶は各アジトに若干集められていた。増渕から、「ダイナマイト、雷管、導火線等は早稲田アジトに菊井と村松が取りに行く。(青梅方面から盗んできたダイナマイト等が保管されていた。)ピース缶の足りない分を井上、国井は早稲田、立教大学方面、佐古、前原は東薬大方面へ行ってできるだけ多く探して来い。」と材料集めの任務分担が指示された。私と前原と思うが東薬大社研の部屋に行き、二、三人に頼んで一、二個見つけてもらい、一旦河田町アジトに運び、午後二時ころあらかじめ指定されていた村松のアジトへ行った。既に増渕、村松、石井がいた。菊井、国井、井上についてははっきりしない。増渕らは、爆弾の材料をメモしていた。増渕が主導権をとって具体的な話に入ったが、爆弾材料の検討中に村松だったと思うが、「爆弾の中にパチンコ玉を入れよう。ベトナム戦争で使われているボール爆弾は中に鉄片などが入っていて威力が強い。」と言い出し、村松からと思うが誘われて、明治通りと大久保通りの交差点角のパチンコ屋に行った。村松と思うが、二〇〇円くらいを出して玉を買って半分ずつ分け、パチンコをやる振りをして店を出た。パチンコ玉一〇〇個くらい持ち帰ったと思う。増渕が「爆弾の造り方についてはすべて江口に任せてある。爆破力を高める薬品を使うことも話してある。明日来ることになっている。」ということを話した。雷管が一〇本くらいしかなく、予定した二、三〇個の爆弾はできないから、一応雷管の数だけ造り、原告江口に雷管の代わりになる物を検討してもらうことになった。増渕がダイナマイト、導火線、薬品などの性質を説明し、この中で導火線の燃焼実験をした。私がガスコンロで火をつけ、テーブル上の灰皿に乗せて皆で燃焼状況を見た。爆弾の中に砂糖を入れる話もあったと思う。その後、東薬大の連中は薬品に詳しいので、製造させ、我々が使用するという話も出たが、東薬大では平野、石本、木村以外は漏れる心配があるので、薬品の知識もあり、闘争意識も高い原告堀を加えることになった。次に、爆弾製造の任務分担や諸注意の具体的打合せに入り、河田町アジト周辺のレポは、国井、井上が外の通り、石井がアジト前と決まった。合図は目隠し板を叩く、最悪の場合は言葉を発する、一時間に一回くらい部屋の中と外の状況を情報交換する、逃げる場合のため履き物を部屋の中に入れておく、部屋のドアに鍵をかけテレビをつける、爆弾に関する話は絶対せず、世間話をして家主に気づかれないようにする、製造中他の仲間が来ても絶対に入れない、私が部屋の管理をする、出来た爆弾は一応赤軍に渡しておく、残りの物はすべて菊井のアジトに運んでおくということになった。

<2> 昭和四四年一〇月一七日午後一時ころ、河田町アジトに井上と国井が来て、私と前原を入れて四人でいなり寿司を食べた。井上と国井は、コーヒーを飲みに近くの喫茶店エイトに行ったと思う。間もなく村松、菊井、石井が来た。このとき、村松がダイナマイト、雷管、導火線等の入った手提紙袋のようなものを持ち込んだ。その後、増渕と原告江口が来た。原告堀も一緒に来たと思うがはっきりしない。原告江口は、薬品等を調合する容器などを持ち込んだ。薬品類は、村松と思うが、以前に東薬大からリュックで河田町アジトに持込み、押し入れに保管されていた。これで人と材料が全部揃った。午後二時ころ製造にかかった。石井は、エイトの国井と井上に連絡を取り、レポに行った。部屋の鍵をかけ、カーテンを閉めた。まず、原告江口の説明で薬品の調合をやったと思う。次に、私がピース缶の蓋の穴開け作業をやったと思う。釘か折りたたみ式ナイフの先で小さい穴を開け、その穴にドライバーを差し込んで大きくした。ドライバーを土の中に突っ込んだ記憶があるので庭でやったと思う。ドライバーを突き刺すとき金槌か石でその頭を叩いたと思う。前原が手伝ってくれているかもしれない。この作業を終わり部屋に入ると、村松と菊井がピース缶の中にダイナマイトとパチンコ玉を詰めていた。増渕と原告江口は薬品類の調合をやっていた。原告堀もいたような気がするが、いたとすれば薬品の調合をやっていたと思う。私と前原が中心となって、一〇センチくらいに切ってあった導火線に雷管を付ける作業をやった。導火線の端にボンドを付けて少し乾かしてから雷管の点火部を接着させ、ガムテープで補強したように思う。原告江口が砂糖が足りないと言い出し、増渕の指示で、私が一袋買ってきた。このとき、石井がパン屋の前、国井が東京女子医大の方の歩道、井上が五機の方の都営住宅様のアパート前の歩道に立っているのを見た。井上とは何か話した記憶がある。その後、村松がピース缶に詰めたダイナマイトの上に薬品を載せたものに、鉛筆か何かで穴を開けて雷管を差し込んでいた。私は、蓋と缶や導火線と蓋をボンドで固定した。缶の周りにガムテープをぐるぐる巻き付けた。黒色火薬の瓶が持ち込まれていたので、薬品には黒色火薬も入っていたと思う。爆弾は一〇個くらい完成したと思う。ダイナマイトとパチンコ玉の入った未完成のものが一、二個あったと思う。出来た爆弾は、増渕が黒いビニールのかばんに入れていた。帰るとき持ち帰ったと思う。使った材料などの残り物は、菊井のアジトに運んだ。

この二日後ころ、私と増渕で原告堀の実家に運んだ。

(7) 佐古は、アメ文事件で起訴後の勾留中である昭和四八年三月一〇日に、昭和四四年一〇月一七日ころ、河田町アジトでピース缶爆弾を造ったが、この爆弾製造に参加したのは、増渕、原告江口、村松、原告堀、菊井、井上、前原、国井、石井である旨供述し、増渕、原告江口、村松、原告堀、菊井、井上及び前原の写真面割りをした。

(三) 増渕の供述

<証拠略>によれば、増渕は警察官に対しピース缶爆弾製造事件に関し要旨次のとおり供述したことが認められる。

(1) 八・九機事件で逮捕後の昭和四八年二月一三日の供述

八機攻撃に使ったピース缶爆弾は、河田町アジトで村松が中心となって造ったが、その指示は、一〇月初めから中旬ころにかけて、前田が直接村松らに出したものだ。一〇月中旬ころ製造したもので、爆弾の材料は、一〇月一〇日前後ころ、赤軍とL研が共同で青梅の火薬庫から盗んできたもので、詳しく聞いていないが、ダイナマイトや雷管だと思う。爆弾を造った残りの火薬類は、原告堀に預けたと聞いている。

(2) 昭和四八年二月一八日の供述

昭和四四年一〇月中旬ころ、前田から、「青梅の方の火薬庫にダイナマイトを盗みに行くから兵隊を出してもらいたい。」と言われたので、「適当に人選して連れて行ってくれ。」と了承した。言われた場所は立教大学だったかもしれない。その後、前田から、「ダイナマイトを入手したから爆弾を造らなければならないが、村松にやらせたい。」と話があった。この話を村松に話すと引き受けてくれたので、前田に伝え、村松達に爆弾製造を指示した。任務分担は、村松、前原、佐古が爆弾製造、菊井、国井、井上が爆弾の材料集めだった。一〇月一九日昼ころ、村松から私のいた喫茶店に電話があり、「爆弾は完成した。ピース缶を利用したもので河田町アジトにある。」旨言っていた。河田町アジトに用意した爆弾は何個だったか分からないが、一〇・二一当日菊井が前原に指示して赤軍に引き継いだ。

(四) 前原の供述

<証拠略>によれば、前原は、アメ文事件で起訴後の勾留中である昭和四八年三月九日、警察官に対し、要旨次のとおり供述したこと、この際、前原は、ピース缶爆弾製造打合せ時に増渕が書いて説明した図の略図、住吉町アジトの略図と題する図面各一枚を作成し提出したことがそれぞれ認められる。

昭和四四年一〇月、河田町アジトで増渕らとともにピース缶爆弾一五個位を造った。昭和四四年一〇月当時の行動については誤りであったと認識し、アメリカ文化センターや八機の件について話してきたが、その過程において自分が当時増渕らと爆弾を造ったことも思い出されてきた。ピース缶爆弾を造ったのは、昭和四四年一〇月一六日、七日ごろの昼間、河田町アジトで、メンバーは私、増渕、村松、菊井、佐古、原告江口、石井と思う。井上もいたような気がする。四時間くらいかかったと記憶している。この一、二日前、住吉町アジトで予め打合せをし、準備をしたうえで造った。当時、赤軍が標榜していた東京戦争にL研が共闘という形で呼応し、一一・一七佐藤訪米阻止に向けて機動隊殲滅を含む爆弾などによる持続的ゲリラ闘争を展開すべく、一〇月一〇日ころまでに赤軍に武器の調達を依存していたものの、失敗した苦い経験からL研でも爆弾を造ろうということになった。もちろん使うことも計算に入れられていたはずだ。一〇月一五日前後ころの午前一一時ころ、菊井か誰かの迎えで佐古と河田町アジトから住吉町アジトへ行った。住吉町アジトには、村松、石井、もう一人くらいおり、しばらく後増渕が来て、正午ころまでに増渕、村松、菊井、佐古、私、石井が集まった。井上も参加したような気がする。丸テーブルを囲むような形で打合せをした。最初増渕が、「これからは武器を赤軍に頼らず、L研独自で爆弾を造り、ゲリラ闘争をしよう。」というようなことを切り出した。L研では一〇・八などの失敗を契機に、一〇月一〇日以降赤軍に武器を頼っていては闘争できないという意見が高まっていた。全員が増渕の提案に賛成した。続いて村松が、「ダイナマイト、雷管、導火線は揃っている。」という発言をし、整理ダンスからダイナマイトや導火線を出した。ダイナマイトは一〇本くらいが新聞紙に包まれていた。導火線は直径二〇センチくらいの輪状に巻かれていたと思う。電気雷管も見たような気がするがはっきりしない。次に増渕から、「ピースの空き缶にダイナマイトとパチンコ玉を詰め、その上に起爆力を強めるために塩素酸カリと砂糖を混ぜたものを乗せ、上部のほぼ中央部に導火線と接続した電気雷管を差し込み、次にほぼ中央に導火線の通るくらいの大きさの穴を開けたピース缶の蓋を導火線を通してかぶぜ、ピース缶本体と蓋を接着剤で固定して仕上げる。」という説明があった。さらに、蓋と本体をガムテープで押えるという説明もあったと思う。増渕は、ワラ半紙かノートようの紙にピース缶爆弾を造る過程の内部構造を三、四種類書いて説明した。材料集めの方法について協議した結果、塩素酸カリなどの薬品は増渕が東薬大社研のメンバーを動かして入手する、パチンコ玉は私と佐古が調達する、ピースの空き缶は全員で集める、ガムテープ、金槌、はさみなどの器具は河田町アジトにあるものを使う、その他必要なものは原告江口が持って来る、技術を持っている原告江口に参加してもらうということになった。増渕は、原告江口の了解もとってあるということを言った。私がパチンコ玉を集めることになったのは、パチンコがうまいという評判があったからだと思う。製造日は、一、二日後の昼ころと決められたと思う。その後、導火線の燃焼実験をやり、二時間くらいかかって打合せが終わった。

(五) 村松の供述

<証拠略>によれば、村松は、八・九機事件で起訴後の昭和四八年三月八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述したこと、この際、村松は、ピース缶爆弾を造ったときの図、ピース缶爆弾の図などと題する図面各一枚を作成し提出したほか、増渕、佐古、原告堀、井上、菊井、前原、平野、原告江口、同前林、内藤、花園、藤田及び富山の写真面割りをしたことがそれぞれ認められる。

昭和四四年一〇月一五日ころの午後一時ころから午後五時ころまでの間、河田町アジトで、増渕の指揮により、私、前原、井上、菊井、内藤、原告堀、同江口、同前林、富山らでピース缶爆弾を五個くらい製造したことがある。昭和四四年の一〇・二一闘争の一週間くらい前の一〇月一五日ころの午後三時か四時ころ、増渕からの連絡で喫茶店ミナミへ行くと、増渕、菊井、井上、前原、原告堀らがいた。増渕が私と井上を別の席に呼び、「お前たち二人で早大前アジトへ行って花園から荷物を受け取って来い。」と指示され、歩いて赤軍アジトへ行った。誰もいなかったが、一時間くらいで花園が来て、外から抱えてきた新聞紙に包まれた横二〇センチ、縦一〇センチ、厚さ四センチくらいの物を渡され、「これを増渕に渡してくれ。」と言われた。喫茶店ミナミへ戻り、荷物を増渕に渡した。増渕の指示で、午後六時ころ、皆河田町アジトへ行った。増渕が、「このダイナマイトと雷管を使ってピース缶爆弾を造る。目的は、一〇・二一に備えて赤軍に渡すためだ。この爆弾はものすごく威力があり、建物の一個くらいは吹っ飛ぶ。パチンコ玉を入れることによって殺傷能力も高まる。」などと、既に造ってどこかで実験したようなことを言った。その後増渕は、これから言う物を買ってきて、明日の午後集まるよう任務分担を指示した。私は紙火薬一箱、井上はパチンコ玉、前原はガムテープを指示され、別れた。私は、新宿三丁目にあるおもちゃ屋で紙火薬一箱を買い、住吉町の部屋へ帰った。翌一〇月一六日ころの午後一時ころ、部屋にあったピース空き缶一個と紙火薬を持って河田町アジトへ行った。奥の方に増渕、佐古、菊井、原告江口、同堀、確か原告前林もいて、爆弾の仕上げのようなことをしていた。横の机の近くに前原、中央辺りに平野、入り口近くに富山、内藤、国井がいて、爆弾の何かの部分を造っていた。私は、増渕に言われて近くの電気店で白色単線コード一メートルくらいを買って来て増渕に渡してから、増渕の指示で、紙火薬をほぐし、上質半紙に巻き、長さ五センチくらいの物を五本くらい造った。この作業中に見た爆弾の構造は、ピースの空き缶の中にダイナマイト一本を二つに切ったものを四本入れ、その上に白い粉(薬品)を入れてピース缶の蓋の中央部に穴を開け、導火線を差し込み、中にパチンコ玉を入れ、蓋をガムテープで固定させたものだ。増渕を中心に佐古、菊井、原告江口、同堀らがダイナマイトをナイフで二つに切ってピース缶の中に入れ、その上にパチンコ玉と白い薬品を入れているのを見た。原告前林はピース缶を拭いていた。完成した物は一個づつ増渕らが新聞紙に包んでいた。私が見た完成したピース缶爆弾は五個位だが、一時席を外したので、全部はわからない。増渕が書いたピース缶爆弾の設計図を見ている。作業は午後五時ころ終わった。その一日くらい後の午後六時ころ、増渕に呼ばれて河田町アジトへ行くと増渕、藤田、佐古、原告堀がおり、増渕から、「これから昨日造った爆弾と残りの材料を藤田のところに運ぶから手伝え。」と言われた。藤田の勤める会社のコルトライトバンを藤田が運転し、私、増渕、佐古が乗り込み、ダンボール一箱を藤田のアパートへ運び込んだ。ピース缶爆弾の製造に関係したメンバーは、増渕、佐古、原告堀、井上、菊井、前原、平野、原告江口、同前林、内藤、花園、藤田、富山だ。

(六) 内藤の供述

<証拠略>によれば、内藤は八・九機事件で起訴当日の昭和四八年三月一〇日、警察官に対し、要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四四年一〇月一五日前後ころ、佐古の下宿でピース缶爆弾を造ったことがある。参加者は、増渕、村松、井上、佐古、平野、原告江口、石井ははっきりしており、菊井、前原、国井はいたと思う。女はもう一人位いたと思うがはっきりしない。一〇月一五日前後ころの午後四時ころ、平野から、「増渕から一〇・二一闘争のことで相談があるから佐古の下宿まで来いと連絡があったから一緒に行こう。」と誘われ、午後四時三〇分ころ、二人で佐古の下宿へ行った。増渕が、「一〇・二一闘争に使う爆弾を造る。」というように話し、爆弾の構造について大体説明した。その後、原告江口が薬品混合上の注意をしたが、具体的には思い出せない。具体的に誰がどのような役割を分担したか思い出せないが、流れ作業のような感じで、村松がビーカー様の物の中で薬品混合、増渕がそれを空き缶の中に注入した。原告江口は、村松と増渕の傍でアドバイスし、私は村松の混合を手伝ったように思う。使用した道具や材料で記憶があるのは、ピース空き缶五ないし七個、薬品四種類のびん四本、乳鉢一個、ビーカー一個くらいだ。薬品名を覚えているのはピクリン酸だ。午後八時ころまでに爆弾は五個くらい完成した。増渕がバッグの中に入れた。バッグの完成品の形はよく思い出せない。

4  判断

右認定事実によれば、警察官が原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の逮捕状請求時に現に収集していた資料を総合勘案すると、同原告らがピース缶爆弾製造事件の逮捕状の被疑事実に記載されたとおりの罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由(嫌疑)があったものと認めることができる。そして、争いのない事実、<証拠略>によって認められる右事件の重大性等からすれば、明らかに逮捕の必要性がないとは認められない。

原告らは、ピース缶爆弾製造事件の原告堀ら三名の逮捕は、その時点において捜査当局が収集済みの証拠資料及び収集可能であった証拠資料を前提としたとき、右原告らに対する嫌疑の存在には多くの疑問が認められるのであり、それを無視して安易に右原告らを犯人と断定して逮捕したことには、明らかに過失がある旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

その他、本件全証拠を検討してみても、警察官が、右原告ら三名に対する右事件の逮捕状請求時に、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情の存在を認めることはできない。右逮捕状請求が、国家賠償法一条一項の違法行為に当たると認めることはできない。

七  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の勾留請求

1  勾留請求の違法性判断基準

前記(第四、四、1)のとおり、検察官による被疑者の勾留請求については、検察官が、勾留請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求したと認め得るような事情がある場合にかぎり、右勾留請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である。

そこで、次に、ピース缶爆弾製造事件についての原告堀、同江口及び同前林の各勾留請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  勾留請求等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一) 勾留の経過

原告堀、同江口及び同前林は、昭和四八年三月一三日、井上及び石井とともにピース缶爆弾製造事件で逮捕され、検察官により、同月一六日、東京地裁裁判官に対し勾留請求され、同日その請求が認められて勾留され、同年四月四日まで勾留延長された。

(二) 勾留の被疑事実

原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の各勾留の被疑事実は、次のとおりであった。

被疑者は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月一七日ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方の佐古幸隆居室において、煙草ピース空き缶にダイナマイトおよびパチンコ玉などを充填し、これに工業用雷管、導火線を結合した手製爆弾十数個を製造したものである。

3  検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一) 疎明資料の存在

前記認定事実(第四、六、3)、<証拠略>によれば、検察官は、原告堀、同江口及び同前林について、その各逮捕に際し、佐古の供述等(昭和四八年二月一二日付メモ、同月一三日付及び同月一五日付員面、同年三月九日付及び同月一〇日付員面)、増渕の供述(昭和四八年二月一三日付及び同月一八日付員面)、前原の供述(昭和四八年三月九日付員面)、村松の供述(昭和四八年三月八日付員面)及び内藤の供述(昭和四八年三月一〇日付員面)などが収集されており、さらに、これらの他に、前原の昭和四八年三月一一日付員面及び前原の検察官に対する具体的かつ詳細な供述調書などを収集していたことから、その供述の任意性、信ぴょう性に問題がなく、右原告らにピース缶爆弾製造事件の犯罪の嫌疑が存在すると判断し、また、同原告らには罪証隠滅及び逃亡のおそれがあり、勾留の必要性があるものと判断したことが認められる。

(二) 疎明資料の内容等

右各疎明資料の内容は、前記第四、六、3(二)ないし(六)で検討したとおりである。また、<証拠略>によれば、前原は、昭和四八年三月一一日、爆弾の形状につき図示しながら、要旨次のとおり爆弾製造の状況等を供述したことが認められる。

爆弾製造の日時を提案したのは増渕と村松であった。作る場所は河田町アジトに決まった。昭和四四年一〇月一五日前後ころ、住吉町アジトで爆弾を作る話がまとまったとき、導火線の燃焼実験をやった。この打ち合わせのあった翌日ころ、午後から佐古とともにパチンコ玉を集めに行った。同月一六、七日ころの正午ころ、河田町アジトで爆弾を製造した。増渕、村松、菊井、私、佐古、原告江口、石井がいた。井上もいたような気がする。私の作業分担は原告江口に指導されての塩素酸カリと砂糖の混合であった。ピース缶の蓋に穴を開ける作業やガムテープを巻く作業も行った。できあがったピース缶爆弾一五個位は、段ボール箱に入れて、河田町アジトの押入れにしまった。

そして、<証拠略>によれば、前原の検察官に対する供述も、概ね同人の司法警察職員に対する前記供述内容と同様であったことが認められる。

4  判断

右認定の事実関係によればピース缶爆弾製造事件にかかる原告堀、同江口及び同前林の勾留請求については、同原告らが右事件の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があったものと認めることができる。また、前記争いのない事実、<証拠略>によれば、右事件は、罪質が重く、被疑者と犯人の同一性に関する客観的証拠も乏しく、立証困難な事案であって、同原告らにつき罪証隠滅及び逃亡のおそれがあったことも認めることができる。したがって、右勾留請求については、勾留の理由及びその必要性があったものと認められる。

原告らは、検察官が、原告堀らに対する勾留の疎明資料とした増渕らの前記各供述は、違法な別件逮捕・勾留中に得られたものであり、かつ違法な取調べによって得られた供述であるにもかかわらず、検察官は、これらを疎明資料として同原告らに対する勾留を請求した違法がある旨主張するが、後記(第四、一七、5)のとおり、右勾留請求の段階で、これら各供述の信用性がないとまでは認められないから、右主張は理由がない。

この他に、本件全証拠関係を検討してみても、検察官が、右事件についての原告堀ら三名の勾留請求時において、捜査により収集した証拠資料を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求をしたと認め得るような事情は認められない。

よって、右勾留請求は国家賠償法上違法とはいえず、原告らの主張は理由がない。

八  原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の公訴提起

1  公訴提起の違法性判断基準

前記のとおり、刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の提起が違法となることはなく、公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である。

そこで、次に、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起時において、検察官が現に収集していた証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、同原告らについて、右事件につき有罪と認められる嫌疑が存在したかを検討する。

2  公訴事実

<証拠略>によれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件についての昭和四八年四月四日付各起訴状記載の公訴事実は、次のとおりであったことが認められる。

被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、人の身体・財産を害する目的をもって、昭和四四年一〇月一六日ころ、東京都新宿区河田町六番地倉持賢一方秋田修こと佐古幸隆の居室において、煙草ピース空き缶にダイナマイト・パチンコ玉などを充填し、これに工業用雷管および導火線を結合し、もって、爆発物である手製爆弾十数個を製造したものである。

3  検察官が現に収集していた証拠資料

(一) 証拠資料の存在

(1) 前記認定事実(第四、七、3)、<証拠略>によれば、検察官は、原告堀、同江口、同前林をピース缶爆弾製造事件の犯人(共犯者)として起訴するに当たり、同原告らが右事件の共犯者であることを立証する証拠資料として、(1)アメ文事件において現場に遺留されたピース缶爆弾等の証拠物、(2)八・九機事件において現場に遺留されたピース缶爆弾の鑑定結果、(3)佐古、前原、内藤、原告江口、石井、村松及び増渕のピース缶爆弾製造事件に関する各供述、(4)L研の活動状況、(5)檜谷伝言、(6)井上、原告堀、同前林、菊井及び平野の否認ないし黙秘状況等の各証拠を収集していたところ、これら証拠資料を検討した結果、<1>佐古、前原及び内藤の「増渕の指揮の下に井上、村松、佐古、前原、内藤、原告堀、同前林、同江口、石井、平野、国井及び菊井の一三名が河田町アジトにおいてピース缶爆弾を製造した」旨の各自白は、いずれも信用性が高いと判断されたこと、<2>原告江口、石井、村松及び増渕も、それぞれ組織上の地位あるいは立場から一部虚偽を交えていると思料されたものの、少なくとも自らが右爆弾製造に関与したことを認めていたこと、<3>井上、原告堀、同前林、菊井及び平野は否認ないし黙秘をするだけで、アリバイ主張などの反論をしていなかったことなどから、原告堀、同江口及び同前林には有罪と認められる嫌疑があると判断したものであることが認められる。

(2) そこで、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起時において、検察官が現に収集していた証拠資料である右各供述証拠について、原告堀、同江口及び同前林の右嫌疑を肯定するに足り得る証拠であったかを検討する。

(二) 佐古の供述

(1) 警察官に対する供述

<証拠略>によれば、<1>佐古は、法政大学図書窃盗事件により勾留中の昭和四七年一一月一八日、警察官から昭和四四年六月から昭和四五年一月一八日までの行動を明らかにするよう求められて作成提出したメモの中で、月日不明としながらも、昭和四四年九月から住んでいたフジテレビ前のアパートでピース缶にダイナマイトの火薬を詰め込み、爆弾をつくったと村松から聞いた旨供述したこと、<2>佐古は、昭和四七年一二月一〇日、警察官に対し、昭和四五年六月ころ増渕が赤軍派の坂東国男、森恒夫らに爆弾の製造方法を教示していた旨供述したこと、佐古は、<3>アメ文事件で勾留中の昭和四八年一月二〇日、<4>同年二月一〇日、それぞれ、警察官に対して供述し、<5>同月一二日、警察官の取調べに際し、自らメモを作成して提出したこと、<6>佐古は、アメ文事件で起訴後の勾留中である同月一三日、警察官に対して供述し、この際、ピース缶爆弾の略図及び爆弾を造ったときの部屋の中の状況図と題する図面二枚を作成、提出したこと、<7>佐古は、同月一五日、警察官に対して供述し、この際、爆弾の略図と題する図面一枚を作成、提出したこと、<8>佐古は、同年三月九日、警察官に対して供述し、この際、村松アジト、河田町アジト、菊井のアジトの略図、早稲田アジトの略図、パチンコ店の略図と題する図面、使った用具と材料の略図、爆弾の略図、爆弾を造ったときの状況図と題する図面各一枚を作成、提出したこと、<9>佐古は、同月一〇日、警察官に対して供述し、増渕、原告江口、村松、原告堀、菊井、井上及び前原の写真面割りをしたこと、右<3>ないし<9>の各供述及びメモの内容は、前記第四、六、3、(二)、(1)ないし(7)に認定したとおりであることがそれぞれ認められる。

(2) 検察官に対する供述

<証拠略>によれば、佐古は、昭和四八年三月二〇日、同月二六日、同月三〇日、同年四月二日、検察官に対しそれぞれ供述したこと、右各供述の要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四四年一〇月一四日か一五日の午後八時ころ、赤軍派と共に村松、前原、菊井、国井、井上、平野、私が早稲田大学正門に集結し、機動隊を攻撃しようとしたが、赤軍派が用意する予定の火炎びんが届かず、失敗に帰した。

翌日の午前中、若松町のアジトに増渕、村松、前原、菊井、国井、井上、石井と私が集まった際、ピース缶爆弾製造の話が出た。同日午後ころ、住吉町アジトに増渕、村松、前原、石井と私が集まった際と思うが、翌日河田町アジトでピース缶爆弾を製造すること、今日中に材料を河田町アジトに搬入することが決定された。任務分担は、村松、菊井が早稲田アジトにダイナマイト、雷管、導火線を取りに行き、国井、井上、私、前原がピース缶を集め、村松の提案で爆弾の中に入れることになったパチンコ玉は、私と村松がこれを調達するというものであった。その際、増渕は、「爆弾の製造方法については原告江口に任せてあり、雷管が一〇本くらいしかないので雷管の数だけ爆弾をつくる」と話し、ダイナマイト、導火線、雷管、薬品の性質について説明した。増渕は、何かの薬品と砂糖を混合して爆弾に詰めると爆破力が高まると話していた。

製造の際の任務分担は、増渕が中心になって決め、その内容は、増渕、原告江口、同堀が薬品の調合をすること、菊井がダイナマイトの詰め込み、国井、井上、石井がレポ、私がレポの中継、部屋の管理、製造の簡単な作業をすることになった。

その後、導火線の燃焼速度を計測したが、マッチではなかなか火がつかなかったので、ガスコンロで点火した。

翌一六日か一七日ころの午後一時ころ、河田町アジトに私、前原、井上、国井、村松、石井、菊井、増渕、原告江口、同堀、同前林、平野、内藤らが集まり、ピース缶爆弾を製造した。同日午前中、前原と新宿のパチンコ店「新宿ゲームセンター」へ行ってパチンコ玉を買って河田町アジトに持ち帰った。

村松は、紙袋にダイナマイト(五、六〇本)、雷管(一〇本くらい)、導火線(長さ一〇センチメートルくらいのもの一〇本以上)を入れて持ってきた。薬品類の濃硫酸、塩素酸カリは、四、五日前に村松が持ち込み、ピース缶は一五ないし二〇個くらいが前日持ち込まれていた。

最初増渕から爆弾の製造手順について話があり、次いで原告江口から薬品類の調合について説明があった。石井、国井、井上は、レポに立った。各人の作業内容は、私がピース缶の蓋に釘等で小さな穴を開け、穴の部分にドライバーを突き刺し、金槌が石で叩いて穴を開けた。また導火線の先をほぐしてボンドで雷管の先に接着させ、ガムテープを巻いたり、レポの者と連絡を取ったり、砂糖を買いに行ったりした。増渕は全員に対して指示をしたり、薬品と砂糖を混合したりした。村松は、ダイナマイトの油紙をはいで四本くらいをピース缶に詰め込み、パチンコ玉を入れ、ダイナマイトの上に入れた薬品の中に雷管を埋めたりした。前原は、雷管と導火線を接続したり、ピース缶にガムテープを巻き付ける作業をしていた。原告江口、同堀は、増渕と共に薬品と砂糖を混合する作業をしていた。菊井、平野、内藤は、ダイナマイトの油紙をはいでピース缶に詰め、パチンコ玉を入れる作業をしていた。原告前林は、ピース缶の指紋を拭いていた。午後五時ころまでにピース缶爆弾一〇個くらいが完成したが、他に雷管を詰めていないものが、一、二個あった。増渕は、爆弾を黒色ビニール製鞄に詰め、持って行った。一〇月二一日、新宿署に向かう途中、赤軍派の者が私達が作ったピース缶爆弾を持っているのを見た。中野坂上でピース缶爆弾二個を受け取り、「火をつけて逃げろ」と指示されたが、投げないで、井上と共に河田町アジトに持ち帰った。

(三) 前原の供述

(1) 警察官に対する供述

<証拠略>によれば、前原は、アメ文事件で起訴後の拘留中である昭和四八年三月九日、警察官に対して供述し、この際、ピース缶爆弾製造打ち合わせ時に増渕が書いて説明した図の略図、住吉町アジトの略図と題する図面各一枚を作成、提出したこと、右供述の内容は、前記第四、六、3、(四)に認定したとおりであることがそれぞれ認められる。

(2) 検察官に対する供述

<証拠略>によれば、前原は、昭和四八年三月一六日、同月二八日、同年四月一日、検察官に対しそれぞれ供述したこと、同各供述の要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四四年八月、L研が千葉県の興津海岸で合宿した際、増渕を中心として、爆弾を使用した闘争の必要性について理論的な学習をした。

L研は、同年の九・三〇及び一〇・一〇闘争では、赤軍派から火炎びんを調達することにしたが、入手できず、失敗に終わった。同年一〇月一二日から一四日ころ、L研の者が集まった際、雑談中に、「今までの方法では闘争に限界がある。私らで爆弾を作って武装闘争に入ろう」という話が出た。

同月一五日ころの昼ころ、佐古、菊井と一緒に住吉町アジトに行ったところ、同アジトには村松、石井がおり、井上も来た。増渕が爆弾を使用したゲリラ闘争の必要性を説き、「今までは赤軍派に武器を頼って失敗したので、これからはL研で武器を製造する。材料も調達済みである」旨話した。村松が、整理ダンスから茶色っぽい紙で包装されたダイナマイト一〇本くらい、小さな雷管、直径二〇センチメートルくらいの輪に巻いてある長さ約二、三メートルの導火線を出して見せた。増渕がピース缶爆弾の製造方法を説明したが、ピース缶にダイナマイト、パチンコ玉を詰め、その上に塩素酸カリと砂糖を混ぜたものをのせ、導火線と雷管を接続したものを入れ、蓋の穴から導火線を出し、接着剤、ガムテープで固定するというものであった。爆弾製造のための道具は河田町アジトにあるものを使い、それ以外のものは原告江口が持参するということであった。爆弾の材料のうち、パチンコ玉は私と佐古が集め、ピース缶は皆で手分けして集めることになった。二日くらい後に河田町アジトで爆弾を製造することに決まった。

その後、導火線が使用可能かどうか見るため、導火線の燃焼実験を行い、導火線にマッチで点火しようとしたが、点火できず、ガスコンロで点火した。

右の打合せの日かその翌日、佐古とパチンコ店新宿ゲームセンターに行き、私が一〇〇個ないし一五〇個くらい、佐古が五〇個くらいのパチンコ玉を河田町アジトに持ち帰った。

同月一六日から一七日ころの昼ころから午後五時ころにかけ、河田町アジトで、増渕、原告江口、同前林、佐古、菊井、村松、石井及び井上らとピース缶爆弾を製造した。河田町アジトには以前から茶色のガムテープがあったが、そのほかに青色ガムテープも用意されていた。

最初、増渕と原告江口から製造手順等について説明があり、作業分担を決め、午後一時過ぎころから製造を開始した。原告前林、井上らは、ピース缶を布で拭いていた。私は、最初、佐古、石井らと砂糖と共に塩素酸カリの混合作業をした。増渕、原告江口、村松、菊井が中心になり、ダイナマイトをナイフで切ってピース缶に詰め、更にその中にパチンコ玉を詰めていた。菊井は、増渕の指示で導火線を一定の長さに切断し、原告江口と共に導火線と雷管の接続作業をしていた。私は、薬品関係の作業後、佐古、石井と外に出て、ピース缶の蓋に穴を開ける作業をした。その後、部屋に戻り、もう一人の者と一緒にダイナマイト入りのピース缶に混合した薬品を入れた。ピース缶は一五個くらいあった。その後、ほぼ全員で導火線付き工事用雷管をピース缶の中央部に埋め込み、蓋をし、蓋の穴から導火線を通して蓋を接着剤で固定する作業をした。更にガムテープを巻き付け、蓋、導火線を固定したが、青色ガムテープが不足し、一部茶色ガムテープも使用した。井上がときどき外へ出てレポをやっていたと思う。石井もレポをやっていたかもしれない。完成した爆弾は一二、三個ないし一五個あったと思うが、赤軍派と思われる者が来て、増渕と一緒に爆弾のうち何個かを持って行ったように思う。残った爆弾は、段ボール箱に入れ、河田町のアジトの押入れに保管した。

同月二〇日、河田町アジトに泊まり、翌二一日、増渕の指示で爆弾一〇個くらいをバックに詰め、午前一〇時ころ増渕及び原告堀と爆弾を持ってタクシーで大久保駅まで行った。

増渕は、私に、喫茶店「アルタミラ」で西田に会って濃硫酸を受け取り、同人と一緒に東薬大の方に行くようにと指示し、原告堀と爆弾を持って東薬大の方に歩いて行った。

(四) 内藤の供述

(1) 警察官に対する供述

<証拠略>によれば、内藤は、八・九機事件の起訴当日の昭和四八年三月一〇日、警察官に対して供述したこと、その内容は前記第四、六、3、(六)に認定したとおりであることが認められる。

(2) 検察官に対する供述

<証拠略>によれば、内藤は、昭和四八年三月一九日、同月二三日、同月二八日、同年四月二日、検察官に対しそれぞれ供述したこと、同各供述の要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四四年一〇月一五日か一八日の午後二時ころから薄暗くなるころまでの間、河田町アジトでL研メンバーとピース缶爆弾を作った。その日、東薬大で平野と会ったとき、「一〇・二一闘争のことで増渕に呼ばれているから一緒に来てくれ」と誘われ、承知すると、平野は、「河田町アジトに行って爆弾を作る」と言った。

河田町アジトに行くと、増渕、村松、佐古、前原及び井上がおり、菊井、国井はアパートの角で見張りをしていた。原告堀及び同前林もいたと思う。原告江口、石井は少し遅れて来た。増渕が一〇・二一闘争に使う爆弾を製造するのにピース缶に薬品を入れ、雷管をセットし、導火線を接続することの説明をし、原告江口が薬品混入に当たっての注意を与えた。

原告堀は、増渕から指示され、瓶入りのニトロ系の薬品を持って来て、原告江口と共に、乳棒を使い液体をたらしながら薬品を調合した。私は、村松と薬品の分量を計り、二種類の薬品を四、五回混合した。井上も前原も同じことをした。増渕と原告堀、同江口が、ブヨブヨの糊状のものを缶に詰め、その上にパチンコ玉一〇発くらいを置いたように思う。また、ダイナマイト五、六本が机の下にあり、増渕、原告堀、同江口が缶に詰めた。佐古は、導火線と雷管を接続していた。原告前林は、缶の指紋を拭き取っていた。石井は、村松について部屋を出たり入ったりしていた。

完成した爆弾は、五、六個ないし七、八個の記憶である。爆弾は、作ったその日に、花園と思われる男が取りに来た。増渕が、爆弾を黒チャックの付いたカバンに入れ、花園と一緒に出て行った。

(3) 供述の信用性の判断

右(1)、(2)の認定事実によれば、原告堀、同江口及び同前林がピース缶爆弾製造事件に関与したとの疑いが認められる。

内藤の右各供述の中には、爆弾の製造現場に特殊な薬品(ピクリン酸、ニトロ系の薬品)が多数用意されていたことや、製造したピース缶爆弾の中に糊状の薬品が詰められたことなどと述べた部分があり、これらは、客観的事実と矛盾するものであることが認められ、また、前記認定事実及び<証拠略>によれば、内藤の右供述中、爆弾製造の参加者に関する部分は、石井、元山貴美子及び富岡晴代に関して変遷していることも認められるが、供述内容が具体的、かつ詳細であり、その基本的部分が佐古や前原らの供述と合致していることなどを考えると、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、内藤の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(五) 増渕の供述

(1) 警察官に対する供述

<証拠略>によれば、増渕のピース缶爆弾製造事件に関する供述につき、次の事実が認められる。

<1> 増渕は、八・九機事件で逮捕後の昭和四八年二月一三日、同月一八日、それぞれ、警察官に対して供述した。右各供述の内容は、前記第四、六、3、(三)、(1)、(2)に認定したとおりであった。

<2> 増渕は、昭和四八年三月一四日に逮捕された後は、同日の逮捕事実の一つであった日石・土田邸事件に関する事実についてはこれを認めながら、ピース缶爆弾製造事件については否認するに至った。しかし、同月二二日に至り、再びピース缶爆弾製造に加功した事実を認め、要旨次のとおり供述した。

昭和四四年の一〇・二一闘争の前に、L研グループでピース缶爆弾一二、三発造ったことがある。この爆弾は赤軍派の指示で赤軍派のために造ったものだ。爆弾製造の指示は、一〇月一六日ころ、喫茶店ミナミで村松を通じて受けた。井上もいる席で聞いた。私、村松、井上で爆弾を造る計画をし、午後四時三〇分ころだったと思うが、赤軍派の早稲田アジトに材料を取りに行かせた。村松達と別れるとき、一〇月一七日正午ころ河田町アジトに集合することを約束した。村松達と別れてから、内藤、原告堀、同江口に一〇月一七日昼ころ河田町アジトに集合するよう電話で指示した。一〇月一七日正午ころ、河田町アジトに私、佐古、村松、井上、前原、国井、原告堀、内藤、原告江口、石井、原告前林が集まった。まず爆弾の製造方法を指示した。爆弾の構造は、ピースの空き缶にダイナマイトを一本くらい団子にして入れ、この上にパチンコ玉一〇個くらいと塩素酸カリを入れ、工業用雷管と導火線を結び付けたものを入れ、一センチくらいの穴の開いた蓋をして穴から導火線を出し、蓋と本体をビニールテープで巻き付けたものだ。任務分担は、私が役の割り振りと総指揮、石井、原告前林がレポ、村松、前原がダイナマイトを缶に入れる作業、井上、前原、内藤、国井がパチンコ玉と塩カリを入れる作業、原告堀、佐古が雷管と導火線の接着作業、原告江口が塩カリの分量の測定などをそれぞれ担当することにした。材料は、ダイナマイト二〇本くらい、工業用雷管二〇個くらい、導火線一・五メートルくらい、ピースの空き缶一二、三個、パチンコ玉両手一杯くらい、塩素酸カリ一瓶、ビニールテープ一巻だ。雷管、ダイナマイト、導火線は村松と井上が赤軍の早稲田アジトから持ってきたものだ。パチンコ玉は前原が持ってきたものだ。塩カリはL研が法政大学にいたころ持っていたもので、村松が持ってきた。ピース缶は皆で集めてきたものだ。ビニールテープは河田町アジトにあったものだ。これらの材料は、一〇月一六日の喫茶店ミナミでの相談により村松が皆に指示し、その日のうちに集めさせたものだ。製造には一〇月一七日の正午過ぎから午後五時ころまでかかった。一二、三個できあがった。ダイナマイトは直径二、三センチくらい、長さ一五センチくらいで茶色の紙に包まれ、中身は白っぽいゼリー状だった。パチンコ玉は(一缶に)一〇個くらい入れた。導火線は一〇センチくらいに切った。直径一センチくらいの穴の開いた蓋をして、穴から缶の外に導火線を六、七センチくらい出した。製造の際、指紋がつかないようにアジトにあった軍手をはめた。製造後、前原と村松に爆弾と残った材料を赤軍派に渡すよう指示して帰った。平野のアパートへ泊まったと思う。一〇月二一日、当時の連絡拠点であった東薬大の夏目方に電話したところ、爆弾がまだ赤軍派に渡っていないとのことだったので、夏目に、「L研の誰かから連絡があったら河田町アジトにある爆弾を赤軍派に持って行くよう伝えてくれ。」と話した。持って行く先は、代々木のデザインスクールの寮で前原が知っていたと思う。

(2) 検察官に対する供述

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年三月二三日、同年四月二日、検察官に対しそれぞれ供述したこと、右各供述の要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四四年一〇月一六日の午後四時ころ、喫茶店「ミナミ」に私、村松、井上が集まったとき、村松から「赤軍派から一〇・二一闘争に使う爆弾を作るように依頼された」との話が出たので、すぐその場で爆弾の製造を決め、村松、井上に早稲田アジトへ爆弾材料を取りに行かせた上、同人らのほか、内藤、原告堀、同江口に対し、翌一七日正午ころ河田町アジトに集合するよう指示した。

同日正午ころ、河田町アジトに私、佐古、村松、井上、前原、国井、内藤、石井、原告堀、同江口、同前林が集まったので、私は、各人に任務分担を指示し、同アジト周辺の警戒をする見張り役として石井、原告前林を指名した。爆弾の製造方法を皆に説明した後、私が総指揮をとり、ダイナマイトを缶に入れる作業を村松、前原に、パチンコ玉、塩素酸カリを缶に入れる作業を井上、前原、内藤、国井に、雷管と導火線の接続作業を原告堀、佐古に、塩素酸カリの計量作業を原告江口に指示した。正午過ぎころから爆弾を製造して一二、三個が完成し、その間、石井と原告前林が河田町アジト周辺を見張っていた。工業用雷管、ダイナマイト、導火線は、村松、井上が早稲田アジトから持ってきたもの、パチンコ玉は前原が持ってきたもの、塩素酸カリは村松が法政大学から盗んできたもの、ピース缶は皆であちこちから集めたものである。私は、午後五時半ころ、村松と前原に完成したピース缶爆弾と残材料を赤軍派に渡すよう指示して帰った。

(3) 供述の信用性の判断

右(1)、(2)の認定事実によれば、原告堀、同江口及び同前林がピース缶爆弾製造事件に関与したとの疑いが認められる。

増渕の右各供述は、佐古、前原の各供述と符合しない部分が多く認められるものの、増渕らを含むL研グループの者が赤軍派の指示に基づいてピース缶爆弾を多数製造し、製造された爆弾は花園ら赤軍派の者に引き渡されたという事件の基本的な部分は佐古及び前原の各供述と符合していること、また、取調べ当時増渕の婚約者であり、かつ、妊娠中であった原告前林が、爆弾製造時に周囲のレポをしていたことを認めていたことなどを考えれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、増渕の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(六) 村松の供述

(1) 警察官に対する供述

<証拠略>によれば、村松は、八・九機事件で起訴後の昭和四八年三月八日、警察官に対して供述したこと、その内容は、前記第四、六、3、(五)に認定したとおりであったこと、右供述の際、村松は、ピース缶爆弾を造ったときの図、ピース缶爆弾の図などと題する図面各一枚を作成し提出したほか、増渕、佐古、原告堀、井上、菊井、前原、平野、原告江口、同前林、内藤、花園紀夫、藤田及び富山の写真面割りをしたことがそれぞれ認められる。

(2) 検察官に対する供述

<証拠略>によれば、村松は、昭和四八年三月二四日、検察官に対し要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四四年一〇月一四日ころの午後三時か四時ころ、増渕に呼び出されて若松町の喫茶店「ミナミ」に行くと、増渕、原告堀、井上、前原がいた。佐古もいたと思うがはっきりしない。増渕の指示で井上と早稲田アジトに行き、花園から新聞紙に包んだものを「やばい物」であると言われて受け取り、「ミナミ」に戻って増渕に渡し、その後河田町アジトに持ち込んだ。新聞紙の包みの中にはダイナマイト二〇本ないし三〇本くらい、雷管何個か、長さ一メートル余の導火線が入っていた。増渕は、私、原告堀、井上、前原、佐古に対し、「一〇月二一日に赤軍派が武装蜂起するが、その際に使用するピース缶爆弾を赤軍派の指示で製造する。明日赤軍派の者が取りに来るから急ぐ必要がある」と話した。午後七時ころ、増渕、佐古、前原、私が風雅荘に行くと、石井がおり、同所で導火線の燃焼速度を計測した。私が導火線にマッチで点火しようとしたが点火できず、ガスコンロで点火した。同月一五日午後一時ころ、河田町アジトに行くと、増渕、原告堀、同江口、同前林、佐古、前原、内藤、井上が来ており、その他に菊井及び国井が来ていたような気がするがはっきりしない。増渕の指示で全員が爆弾製造作業に取りかかった。製造手順は、ピース空き缶にダイナマイトを二つに切ったもの四つを入れてその上に白い粉を入れ、ピース缶の蓋に穴を開けて雷管に接続された導火線をその穴から出し、ピース缶内にパチンコ玉を入れて蓋をし、ガムテープで巻いて固定するというものであった。私はパチンコ玉やピース缶を部屋にあったボロ切れで拭いたりしていた。原告堀、同江口、佐古らは、ダイナマイトを二つに切ってピース缶に入れ、その上にパチンコ玉と白い粉を入れていた。原告前林は、パチンコ玉やピース缶を拭いていた。他の者がどういう作業をしていたか覚えていない。午後四時過ぎにピース缶爆弾一二、三個が完成した。午後五時ころ、花園がもう一人の男と来て、増渕からピース缶爆弾全部が詰め込まれた鞄を受け取り、帰って行った。

(3) 供述の信用性の判断

右(1)、(2)の認定事実によれば、原告堀、同江口及び同前林がピース缶爆弾製造事件に関与したとの疑いが認められる。

村松の右各供述は、佐古、前原らの供述と符合しない部分が多く認められるものの、村松らを含むL研グループの者が赤軍派の指示に基づいてピース缶爆弾を多数製造し、製造された爆弾は花園ら赤軍派の者に引き渡されたことという事件の基本的な内容は佐古及び前原の供述と符合していることなどを考えれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、村松の右供述が信用性のないものであるとまで認めることはできない。

(七) 原告江口の供述

(1) 供述内容

<証拠略>によれば、原告江口は、昭和四八年四月二日、検察官に対し要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四四年九月、増渕から指示があったので、佐古の案内でL研のアジトとして借りていた河田町のアジトに初めて行き、一〇月末ころ、そこを引き払うとき、荷物の搬送を手伝った。

同年の一〇・二一闘争の直前ころ、河田町アジトにL研メンバー五、六名が集まり、ピースの空き缶を利用した爆弾を作った。私がそこに居合わせたことは間違いない。

私は、何かの容器から黄色いサラサラした粉末の薬品をピースの空き缶に一杯に入れ、はみでないように手で押さえつけて充填した。作った爆弾は二、三個であるが、私が薬品を詰めたのが二、三個だからそう思っているだけなのかもしれない。造った爆弾は、一〇・二一闘争の際、機動隊せん滅のために使うものと思っていた。

(2) 供述の信用性の判断

右認定事実によれば、原告江口がピース缶爆弾製造事件に関与したとの疑いが認められる。

原告江口の右供述は、自己の行為のみについて供述するだけで、共犯者等については一切供述せず、しかもその供述内容は曖昧かつ全体に概括的であるが、一〇・二一闘争の直前ころ、河田町アジトにL研メンバーが集まってピース缶爆弾を造り、自らもピース缶に薬品を充填したこと、そのピース缶爆弾は一〇・二一闘争で機動隊をせん滅するために使われるものだとの認識を持っていたことなどの事件の基本的部分については、佐古や前原の供述と一致するものであり、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、原告江口の右供述が信用性のないものであるとまでは認められない。

(八) 石井の供述

(1) 警察官に対する供述

<証拠略>によれば、石井のピース缶爆弾製造事件に関する供述について、次の事実が認められる。

<1> 石井は、当初ピース缶爆弾製造事件の犯行を否認していたものの、昭和四八年三月二〇日に至り同事件の犯行を認め、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四四年一〇月一六日か一七日ころだったと思うが、喫茶店エイトへ行った。午前一一時ころ、村松と二人で部屋を出て、フジテレビ前のそば屋に寄って食事後、昼ころ佐古の部屋へ行った。佐古と前原だったと思うが部屋におり、村松が、「二人に何か買って来てやれ。」旨言うので、パンを買って来たところ、佐古と前原は、部屋の真ん中付近で、錆びたヤスリを紙ヤスリでこすっていた。二人の側には、薄汚れた茶色のリュックサックかナップサックがあった。佐古の部屋に行ってから二、三〇分後、喫茶店エイトへ行った。増渕、富岡、元山がおり、この他国井、井上、内藤、平野の中の二人くらいがいたと思う。この四人は、当日エイトに出入りしていることは間違いない。「菊地(菊井)はいないの」と聞くと、増渕は「トラックを探しに行っている。」と言った。増渕はすぐ出て行った。私、富岡、元山は、村松から救対活動の話を聞いた。その後、村松が出て行った。一時間くらいして、原告江口が来て救対に関する資料により話をした。その間、国井や井上が店に出入りしたと思う。しばらくして、佐古が来て、富岡、元山、国井、井上、私それに平野もいたかもしれないが、「L研のメンバーが(佐古の)部屋に集まっている。そこを拠点に行動する。警察に知られては行動できないので、皆で手分けして警戒するように。」旨言った。話の途中で村松が来て、「担当区域は、四谷に行く道路から市谷台にかけて、時間は二時間くらい。見るのは機動隊が出てくるかどうか、その位置、人数など。変わったことがあればすぐ佐古の部屋に報告しろ。」という内容の指示を受けた。私は、午後二時ころからだと思うが、一時間から一時間三〇分くらいフジテレビ横から風雅荘に来る通りを中心に警戒した。佐古の部屋へ報告に向かったとき、パン屋の横に立っている富岡、元山に会った。玄関で佐古に、「機動隊は出ていない。」旨報告した。その後、佐古から、「パン屋のところで富岡達と一緒に警戒してくれ。」と言われたので、富岡達と一緒にいた。その三〇分くらい後、村松が来て、「部屋に帰れ。」と言われたので、午後五時ころ風雅荘に帰った。この日、佐古の部屋やエイトで会ったのは、増渕、村松、佐古、前原、原告江口、元山、富岡、井上、国井、平野、内藤だ。原告堀にも会っているかもしれない。原告前林、菊井、小林、木村には会っていない。

<2> 石井は、昭和四八年三月三〇日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

私が爆弾造りに関係しているとすれば、一〇・二一闘争前に喫茶店エイトや佐古の部屋に行き、L研のメンバーと会い、レポ活動をしたときのことではないかと思う。喫茶店エイトに行ったのは、昭和四四年一〇月一八日ころだったと思う。この前夜、風雅荘で村松から、「明日はゲリラ戦のため武器造りをやる。これからは逮捕される者も多くなるので救対活動が必要となる。救対のことで明日東薬大女子部の人達が集まるので行ってくれ。」と言われた。翌日午前一一時ころ村松と部屋を出て途中で食事し、昼ころ佐古の部屋へ行った。佐古、前原の他に井上もいた。間もなく、佐古と村松が部屋から出た。村松に言われてパンを買って部屋に帰ったとき、井上と前原が部屋で錆びたヤスリを紙ヤスリでこすっていた。間もなくして村松が帰り、エイトに連れて行ってもらった。エイトでの救対の話が終り、午後二時三〇分ころ富岡、元山と店を出たところ、佐古が来て、「店の中にいる国井、井上にレポを始めるよう伝えてくれ。」と言われたので、二人にその旨伝えた。二人は了解していたらしく、すぐ出かけた。佐古は、路上で富岡と元山の二人に何か話していたが、私に、「これからL研のメンバーが(佐古の)部屋に集まる。そこで武器を造る。フジテレビ付近の警戒が厳しいし機動隊が出てくるかもしれないので手分けして警戒してくれ。石井は四谷に行く道路から市谷にかけて見てくれ。時間は二時間くらい。変わったことがあれば、すぐ部屋に連絡してくれ。」と言った。佐古に言われるまま、レポ活動をやり、一時間三〇分くらいで住吉町通りから四谷方面を回ったが、変わったことがなかったので佐古の部屋の方へ戻って行ったところ、路地入り口のパン屋のところに富岡と元山が立っていた。玄関のところで、佐古に、「異常ない。」旨言ったところ、「もうそちらはよいから富岡達と話し合ってレポの中継をやってくれ。」と言われ、富岡達のところで引き続きレポした。富岡、元山は、「レポの連絡をパン屋の前で石井が受け、他の二人がパン屋から部屋まで中継する。井上は都営住宅の方に行き、国井はどこに行っているかわからない。彼らは旗を振って合図する。」という内容のことを言った。三〇分くらい立っていたが連絡はなく、この間女子医大方向から増渕が帰ってきた。井上は部屋の前の垣根のところにいて、何かやっていたので、富岡か元山に聞くと、「ドリルで木の幹に穴を開けている。」とか「缶の蓋に穴を開けている。」などと言った。井上のところに佐古が行き来しているようだった。パン屋の前で三〇分くらいたったころ、村松が来て、「のり巻を買って来い。」と言うので、買いに行き、二〇分くらいで帰って来て、佐古の部屋に入ると増渕と佐古がおり、窓際の畳のところに黄土色のナップやダンボール箱などがあり、その側の新聞紙の上に白っぽい砂のようなもの、砂時計、折り紙などがあって、佐古が、「砂時計を造ったんだ。」とか言っていた。佐古の部屋に五分か一〇分いて風雅荘に帰った。

<3> 石井は、昭和四八年四月一日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。この際、石井は、佐古の部屋の略図などと題する図面一枚を作成し提出した。

昭和四四年一〇月一七日か一八日ころ、佐古の部屋を中心にレポ活動をやったことについては、そのレポのとき、佐古から、「爆弾を造るためのレポである。」と言われていた。レポをした日とエイトで救対の話をしたのは別の日であることを思い出した。佐古のところでレポ活動をやったのは一〇月一七日か一八日ころだったと思う。それはエイトで救対の話をした二、三日前のことであった。レポ活動の前日、村松から、「L研はビンゲバ闘争ではなくゲリラ戦をやる。ゲリラ戦に使うための強力な武器を造るため明日材料集めをやる。佐古の部屋に明日行ってレポをやれ。レポの指揮は佐古がやるから部屋に行けばわかる。」という内容の指示を受けた。翌日午後一時ころだったと思うが、佐古の部屋に行った。佐古、井上、前原がおり、間もなく原告江口が来た。部屋の中にはナップサックが二個くらいあった。井上と前原が部屋を出て、間もなく佐古も出て行った。しばらくして佐古が帰り、「エイトに行き井上、国井にレポを始めるよう言ってくれ。」と言われ、エイトに行き井上にこの旨伝えた。その後、佐古の部屋の方に帰って来るとき、路地のところに佐古が出て来て、「これから部屋で爆弾を造る。石井はレポをやってくれ。富岡、元山がまだ来ないので路地入口のパン屋のところに立っていてくれ。国井、井上から連絡があったら中継してくれ。」と指示された。佐古の指示どおりレポした。パン屋のところに立ってレポを始めたのは、午後一時三〇分から二時ころだったと思う。しばらくして増渕、続いて内藤、平野が部屋の方に行った。レポ後、三〇分か四〇分位して富岡、元山が来て三人でパン屋のところに立った。間もなく、佐古が来て、「一緒に立ってないで間隔をおいて立ってくれ。」と言われ、さらに、私は、「四機、五機の方を見て来てくれ。二時間くらい様子を見て来てくれ。急を要する場合は報告してくれ。」と言われた。住吉町通りから市谷自衛隊方向を歩き、一時間三〇分くらいしてパン屋のところに戻って来た。富岡と元山は路地に分かれて立っていた。玄関付近で佐古に異常がなかったことを話したところ、「もうそちらの方は良いから富岡達と一緒にパン屋のところでやってくれ。パイプ管方式でやってくれ。」と指示された。富岡達に聞くと、「パン屋のところから部屋までリレー方式で中継連絡する。国井は女子医大方向、井上は都営住宅方向に行っている。合図は黄色い旗ですることになっている。」とのことだった。パン屋の前に一時間くらい立っていたころと思うが、部屋の前の垣根のところに井上がおり、富岡達の話ではドリルで木の幹か缶に穴を開けているということだった。このころ、増渕が一人で女子医大方向から帰って来た。そのうち村松が来て、「のり巻を買って来てくれ。」と言うので、買いに行き、二〇分くらいで部屋に入ろうとしたところ、佐古から「ゴミの掃除をするからちょっと待ってくれ。」と言われ待たされた。部屋に入ると増渕、佐古がおり、窓際の方にダンボール箱五、六個が積んであり、その箱の上に缶詰めの空き缶のような缶が数個あった。大きさはまちまちだが、いずれもステンレス色でパケツの取っ手のように針金ようのものが付けてあった。増渕と佐古は、「それが爆弾だ。」と話していた。その日佐古の部屋や付近で会ったのは増渕、佐古、村松、井上、前原、原告江口、平野、内藤、富岡、元山の一〇人であり、そのほか国井もいたと聞いている。

<4> 石井は、昭和四八年四月二日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四四年一〇月一七日ころ佐古の部屋でL研のメンバーが爆弾を造ると言うことで、私はそのレポ活動をしたが、どのような爆弾を何個くらい造ったのかは聞いていない。佐古から爆弾造りのレポ活動の指示を受けたとき、佐古が、「材料を集めてきたのでこれから部屋で武器を造るためのレポである。」と言うので、「火炎びんでも造るの。」と聞くと「爆弾を造るんだ。」と言った。どんな爆弾を造るのか説明はなく、どんな材料で造るのかについても聞いたことがなかった。しかし、その爆弾はゲリラ戦を闘うための武器となるものであると理解し、警察に知られることなくスムーズに行くように考えてレポに当たった。ピース缶爆弾について知ったのは、八機・九機に投げ込まれた際、テレビのニュースを見たときだ。この事件の数日後、村松から、「あの事件は花園がやった。塀伝いに逃げて捕まらなかった。」と聞いた。レポ当日、村松からのり巻きを買って来るように言われたと話したが、佐古に言われたか、自分で気をきかせて買って来たものだ。

<5> 石井は、昭和四八年四月四日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

今まで話した中で、考え違いをしていたことがある。レポのときのり巻を買ったと話したが、これは間違いで別の日のことだ。自衛隊の方をレポして、パン屋の前に再び立ってから、大屋の家のトイレに行こうとしたとき、入口付近で佐古と井上が缶の蓋の穴開け作業をやっており、誰かに、「邪魔になるから今入らないでくれ。」と言われた。その後、トイレを終えて玄関を出ようとしたとき、井上から、「五寸釘を買ってきてくれ。」と言われたが、「店がわからない。」と言うと、「バンドエイドを買ってきてくれ。」と言われた。薬局を探したが見当たらず、その旨佐古に連絡した。その後、パン屋の前でレポをしているとき、井上か佐古に、「誰かが怪我をしてワイシャツで血を拭いたので、赤っぽい格子縞の男物ワイシャツを買ってきてくれ。」と言われ、新宿東口まで行ったが注文通りのものがなかった。爆弾造りが終わってから部屋に入ると、増渕、佐古、平野がいた。内藤、井上、富岡、元山はゴミ燃やしをやっているようだった。八機・九機の事件後、村松から、「八機・九機は花園達がやったものだ。この爆弾は佐古の部屋で造ったものだ。実際使うには造った者でないとわからないという理由で、増渕から前原、井上の二人が選ばれて加わった。」ということを聞いた。そのころ、村松から、「佐古の部屋では精巧なものは造れない。東薬大でもう一度造り直す。」という話を聞いており、また、一一月ころ村松から、「造ったピース缶爆弾を中大で実験したらすごい威力があった。」との話を聞いた。中大のピース缶爆弾は、佐古の部屋で造ったものを東薬大で造り直したものだと思う。村松は、後日、「増渕が部屋に来て導火線の燃焼実験をやったことがある。」と話していた。

(2) 検察官に対する供述

<証拠略>によれば、石井は、昭和四八年四月二日、検察官に対し要旨次のとおり供述したことが認められる。

私は、村松から「ゲリラ戦に使うための強力な武器を作るため明日材料集めをやる。佐古の部屋に明日行ってレポをやれ。指揮は佐古がとる」と指示されたため、昭和四四年一〇月一七、八日午後一時ころ、佐古の下宿に行った。その時「強力な武器」とは爆弾かなと思った。

佐古の下宿には、佐古、前原、井上がおり、原告江口も間もなく来た。井上、前原、佐古が部屋から出て行き、佐古が戻ってきて私に「エイトの井上、国井にレポを始めるように言ってくれ」と言った。そこで私は、「エイト」に行き、井上にその旨伝え、その帰りに路地のところで佐古から「これから部屋で爆弾を造る。石井はレポをやってくれ」と指示された。しばらくして部屋に入ったところ、増渕、佐古、平野、内藤、井上、富岡、元山が部屋を出たり入ったりして忙しく動いていた。

八・九機事件の後、村松が「八・九機に投げたのは、河田町アジトで造ったピース缶爆弾で、花園がやったんだ」と言った。

(3) 供述の信用性の判断

右(1)、(2)の認定事実によれば、原告堀及び同江口がピース缶爆弾製造事件に関与したとの疑いが認められる。

石井の右各供述は、佐古、前原らの供述と符合しない部分が一部認められるものの、佐古、前原、内藤及び増渕らが、石井がレポしたことを認めていることなどを考えると、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、石井の右供述が信用性のないものであるとまでは認められない。

(九) 原告らの主張に対する判断

(1) 謀議の場所及び参加者

<1> 原告らは、ピース缶爆弾製造事件で共犯者とされた者たちの製造の謀議場所及び参加者に関する供述が一致しないことは不自然であり、共犯者とされた者たちの右供述は、いずれも信用性がない旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、ピース缶爆弾製造事件で共犯者とされた者たちの捜査段階における謀議の場所及び参加者に関する供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 佐古  若松町アジト(河田町アジトだったかもしれない。)で、増渕、村松、前原、井上、菊井、国井、石井、佐古が参加して謀議。住吉町アジトで増渕、村松、前原、石井、佐古が参加して謀議。ミナミで謀議した記憶はない。

(イ) 前原  住吉町アジトで、増渕、村松、井上、石井、佐古、菊井、前原が参加して謀議。喫茶店及び若松町アジトでは謀議していない。

(ウ) 村松  河田町アジトで、増渕、原告堀、前原、井上、佐古、村松が参加して謀議。

(エ) 増渕  ミナミで、増渕、村松、井上が参加して謀議。

(オ) 内藤、石井、江口はこの点につき供述していない。

<3> 佐古の供述に関する前記認定事実及び<証拠略>によれば、佐古の謀議場所に関する供述には、次のような変遷が認められる。

(ア) 昭和四八年二月一三日付員面

昭和四四年一〇月一四日か一五日の午後八時ころ機動隊を攻撃するために、佐古、村松、前原、菊井、国井、井上、平野が早大正門前に集まり、赤軍派が火炎びんを持ってくるのを待ったが届かなかったことがあった(以下、これを「早大正門前集結」という。)ところ、その当日か翌日の午前中、右について総括した際、爆弾製造について謀議をした(ただし、謀議場所については具体的に述べていない。)。

(イ) 昭和四八年二月一五日付員面

早大正門前集結に対する総括で爆弾製造について意見統一後、更に住吉町アジトで謀議。

(ウ) 昭和四八年三月九日付員面

早大正門前集結後若松町アジトで総括し、その際増渕から爆弾を製造することが提起され、翌日(製造の前日)午前中若松町アジトで爆弾製造の日時、場所、爆弾材料の入手方法について謀議し、午後住吉町アジトで謀議した。

(エ) 昭和四八年三月二六日付検面

同右

(オ) 昭和四八年三月三〇日付検面

早大正門前集結の翌日(製造の前日)、若松町アジトで増渕から一〇・二一の赤軍派の新宿署襲撃用の武器としての爆弾製造の提起があり、全員賛成した(早大正門前集結当夜の総括が消える。)。

(カ) 昭和四八年四月二日付検面

製造の前日に謀議を若松町アジトでしている記憶であるが、河田町アジトで謀議をしたのかもしれない。

<4> 右認定事実によれば、前記各共犯者とされた者の間の供述には不一致が認められ、これらは、同じような内容の謀議を、特に必要性が認められないにもかかわらず何回も場所を変えて行っている点、佐古及び前原の述べる住吉町アジトでの謀議は導火線燃焼実験という特異な体験を伴うものであり記憶に残りやすい点等から考えて、不自然であるとも考えられる。

しかしながら、前記認定事実によれば、謀議の参加者は、平素から親交関係があり、日常的に集合して会議を開いていた可能性があり、そのため各アジト及びその付近の喫茶店等に頻繁に出入りしていたものと認められるから、謀議の場所、内容及び参加者等の印象が薄くなっていたとしても必ずしも不自然ではなく、また、事件発生から約三年半経過した後の供述であることなども考えると、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、共犯者とされた者たちの前記各供述の信用性が否定されるとまでは認められず、これらが信用できるとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

(2) 早大正門前集結

<1> 原告らは、佐古がピース缶爆弾製造の契機として述べる「早大正門前集結」について、前原、村松及び増渕が何ら供述していないことを取り上げ、佐古の右供述は極めて不自然であり、これがひいてはピース缶爆弾製造事件に関する佐古の供述全体の信用性を否定するものである旨主張する。

<2> 前記各認定事実並びに<証拠略>によれば、佐古は、捜査段階で、「昭和四四年一〇月一四日か一五日の午後八時ごろ機動隊を攻撃するために佐古、村松、前原、菊井、国井、井上、平野が早稲田大学正門に集まり、赤軍派が火炎びんを持って来るのを待ったが届かなかったことがあった。その翌日午後住吉町アジトでピース缶爆弾製造に関する具体的な謀議をした」旨供述したこと、村松及び前原の供述には、右の早大正門前集結に関する部分がなかったことが認められる。

右認定事実によれば、佐古の早大正門前集結に関する供述は、高度の信用性を有するとまでは認められないものの、同人が捜査段階及び公判段階でも右供述を一貫して維持していることを考えれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、佐古の供述全体の信用性が否定されるとまでは認められず、これが信用できるとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

(3) 導火線燃焼実験

<1> 原告らは、佐古、前原及び村松の住吉町アジトにおける導火線の燃焼実験に関する供述は、導火線の燃焼実験をした時間帯、参加メンバー、点火役、使用した導火線の長さ等について相互に相違しており、不自然さを免れない旨主張する。

<2> <証拠略>によれば、導火線燃焼実験に関する佐古、前原及び村松の供述に関し、次のような相違点があったことが認められる。

(ア) 時間帯

導火線燃焼実験をした時間帯について、佐古及び前原が昼間と供述するのに対し、村松は夜であったと述べる。村松は、河田町アジトへ爆弾材料を搬入後、住吉町アジトに赴き右実験をしたとしており、佐古の最終供述及び前原の供述と一致せず、かつ、村松は住吉町アジトで謀議をしていないとする点で、佐古及び前原と大きく相違する。

(イ) 参加メンバー

参加メンバーについて、佐古及び村松は一致するが、前原は、菊井を加える。

(ウ) 点火役

実験の方法につき、点火役を、佐古は佐古自身、村松及び前原はいずれも村松、前原と述べる。

(エ) 使用した導火線の長さ

使用した導火線の長さについて、佐古及び前原は一〇センチメートルくらいと述べるのに対し、村松は一〇センチメートルくらい、七センチメートルくらい、五センチメートルくらいの三種類と供述する。

<3> 右認定事実によれば、導火線燃焼実験に関する佐古、前原及び村松の各供述は、高度の信用性を有するとまでは認められないものの、各供述が大筋において一致していること、年月の経過による記憶の希薄化も考えられることなどを考慮に入れれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(4) 製造(謀議)の日時

<1> 原告らは、製造の謀議及び製造の日時についての被疑者らの供述が一致せず、京都地方公安調査局事件との関係や石井アリバイとの関係等を考慮すれば、被疑者らが爆弾を製造することができた日時がないことに帰し、この点からも各被疑者らの供述が信用できないにもかかわらず、検察官はこれを看過して漫然とピース缶爆弾製造事件の起訴をした旨主張するので次に検討する。なお、京都地方公安調査局事件や石井アリバイとの関係については後に説示する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、ピース缶爆弾製造事件で共犯者とされた者たちの、捜査段階における製造日時及び謀議日時に関する供述には、次のような供述の不一致があったことが認められる。

(ア) 佐古  昭和四四年一〇月一五日か一六日ころ謀議し、翌一六日か一七日ころの午後一時ころから午後五時ころにかけて製造。

(イ) 前原  一五日ころ謀議し、一、二日後の一六日か一七日ころの昼ころから午後五時ころにかけて製造。

(ウ) 村松  一四日ころ謀議し、翌一五日の午後一時ころから午後四時ころにかけて製造。

(エ) 増渕  一六日に謀議し、翌一七日正午過ぎころから午後五時ころにかけて製造。

(オ) 内藤  謀議には不参加。一五日か一六日午後二時ころから製造、終わったときは薄暗くなっていた。

(カ) 石井  謀議には不参加。製造は一七日か一八日と思うが根拠はない。一六日だったかもしれない。昼過ぎから午後五時半から六時ころにかけてであった。

(キ) 原告江口  謀議については述べていない。二一日の直前ころの夜製造。

<3> 右認定事実によれば、製造の謀議及び製造の日時についての右各供述はそれぞれ一致していないことが認められるものの、各供述が昭和四四年一〇月中旬で大筋一致していること、年月の経過による記憶の希薄化も考えられることなどを考慮に入れれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述が全面的に信用性のないものであるとまでは認められず、これらが信用できるとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

(5) 爆弾製造の参加者等

<1> 原告らは、「事は武装闘争のための手製爆弾の製造という非合法行動であって、性質上、極秘裡に行われるべきものである。したがって、これに参加させる者は、信頼のおける最小限度の者に限られるべきであろうが、増渕らが、その当時、例えば内藤や石井に対して、それほどまでの信頼感を抱いていたとは考え難い。しかも、本件ピース缶爆弾は、比較的簡単な構造のものであるから、その製造に多くの人数を必要としたとも考えられない。加えて、河田町アジトは、単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳で、家主の使用する部屋とは壁、襖で仕切られているだけであり、十数名の者が全員入り込んで増渕らの説明を受け、一〇名近くの者が残留して木箱や爆弾材料あるいは器具等を置いて爆弾の製造作業に従事するだけの余地があったかどうかすら心もとないように思われる。また、十数名の者が集合し、何名かの者が出たり入ったりするということになれば、家主の不審を招くおそれが大である。爆弾製造作業としては、余りにも密行性を欠いたやり方であり、非現実的なまでに安直な発想によるものとせざるを得ず、その場で発覚しなかったことが、むしろ奇異にすら思える」旨、地刑五部判決と全く同様の主張をし、それ故に、検察官は、共犯者らの各供述の信用性につき当然疑問を持つべきで、起訴すべきではなかった旨主張する。

<2> 前期各認定事実並びに<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 参加者

ピース缶爆弾の製造に参加した者に関して、共犯者とされた者らが捜査段階(原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起前の段階)で供述するところは、次のとおりである。

(あ) 佐古  増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、原告江口、同前林、同堀、内藤、菊井、国井、石井

(い) 前原  増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同前林、菊井、石井

(う) 村松  増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同前林、同堀、内藤(当初の供述では富山も参加したとする。)。菊井や国井ははっきりしない。

(え) 増渕  増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同前林、同堀、内藤、国井、石井

(お) 内藤  増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、原告江口、同前林、同堀、内藤、菊井、国井、石井

(か) 石井  増渕、村松、佐古、前原、井上、平野、原告江口、内藤、国井、石井、元山、富岡。原告堀には会っているかもしれない。原告前林には会っていない。

(イ) 製造場所

ピース缶爆弾の製造場所であると検察官が主張した河田町アジトは、独立家屋とか外部と遮断された堅固なアパートの一室とかではなく、単なる間借りであって、玄関を家主と共通にしており、その広さは四畳半と二畳の続き部屋で、当時同アジトに置かれていた長机、本棚等の占めるスペースを除けば、実質は五・五畳程度に過ぎず、その上、家主の使用する部屋との境は壁一枚、一部は襖一枚で仕切られているだけだった。

(ウ) その他

ピース缶爆弾製造事件で製造されたとするピース缶爆弾は、比較的簡単な構造のものであった。

<3> 右認定事実によれば、ピース缶爆弾の製造に参加した者に関して、共犯者とされた者らが捜査段階(原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起前の段階)で供述するところには不一致が認められ、爆弾の製造の際に、必要以上の多数の人間が、狭い場所で、しかも隣の家主に発見される可能性のある場所で製造行為を行っていたことが認められ、右共犯者とされた者たちの各供述は、爆弾製造に通常要求されるであろうと思われる密行性を欠き、全面的には信用できない部分が認められる。

しかしながら、右認定事実によれば、増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口といった主要なメンバーが製造に参加していたことについては、各供述に不一致がないこと、<証拠略>によれば、できる限り短時間で作業を終わらせることを意図していたとの前原の供述(昭和四八年三月一六日付検面等)があったこと、<証拠略>によれば、作業に際し履物、音声などに注意し、家主に対する配慮をしていたとの供述(前原昭和四八年三月一六日付検面、同人昭和四八年三月二二日付員面、佐古昭和四八年二月一三日付員面、同人昭和四八年三月九日付員面)があったこと、<証拠略>によれば、製造場所とされた河田町アジトは、その玄関の位置が、表通りから約一七・七メートル入った人目につきにくい路地沿いの民家内にあったことがそれぞれ認められることなどを考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述が全面的に信用性のないものであるとまでは認められず、これらが信用できるとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

<4> なお、原告らは、平野が関節炎の後遺症による身体障害者であり、同人が座って爆弾製造の作業を行ったとすれば、背中を壁等の固定物にもたれかけさせた上、足を前方に投げ出し、しかも身体の正面間近に座卓を引き寄せてその作業をするという特異な姿勢を保持しなければならず、検察官が爆弾製造作業への平野の参加の有無を判断するに当たっては、この点を注意しなければならないのであり、平野の参加を述べる佐古、内藤、石井の各供述は信用性がない旨主張するが、たとえこれを考慮に入れても、前記判断に変わりはない。

(6) 河田町アジトへの集合状況

<1> 原告らは、製造当日、平野、内藤が河田町アジトに来た状況についての佐古、内藤及び石井の各供述には食い違いがあり、いずれも信用性がない旨主張し、また、原告らは、佐古、内藤、石井らの相互に会った場所についての供述に不一致があると指摘する。

<2> 前期各認定事実及び<証拠略>によれば、佐古、内藤及び石井の、製造当日平野及び内藤が河田町アジトに来た状況についての捜査段階の供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 佐古  爆弾の製造を開始して一時間くらいして後、レポとの連絡のため、外に出たところ、パン屋のところ(昭和四八年四月一日付員面によれば、パン屋横の路地の中)で、平野と内藤が来るのに出会った。

(イ) 内藤  平野とともに河田町アジトに赴いたところ、同アジトに入る路地(昭和四八年四月二日付員面によれば、佐古の居室の東側窓付近)で菊井と国井に会い、同アジト入口付近(同員面によれば玄関前)で佐古に会った。その後、室内で増渕から説明があり、製造作業が始まった。

(ウ) 石井  佐古の指示でパン屋の角に立ってレポをしていると、午後一時ころ増渕が来て、その後まもなく平野と内藤が来た。

<3> 右認定事実によれば、右三者の供述は、出会った場所及び出会った時点等について食い違いが認められるものの、これを考慮に入れても、事件発生から右各供述まで約三年半の年月が経過していることなどを考えれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(7) 製造参加者に関する佐古供述の変遷

<1> 原告らは、佐古の供述する参加者は、後の供述になるに従い、次第に数を増し、当初五名(ないし七名くらい)と供述していたものが、最終的には一三名と約二倍に達しており、不自然である旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、佐古の製造参加者に関する供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 昭和四八年二月一三日付員面

増渕、村松、佐古、前原、原告堀。井上、国井らはいたかもしれない。計五名(ないし七名くらい)。東薬大メンバーは意識が低いので除外した。

(イ) 昭和四八年二月一五日付員面

増渕、村松、佐古、前原、原告堀のほか石井が参加。計六名。

(ウ) 昭和四八年三月九日付員面

増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、菊井、国井、石井。原告堀もいたかもしれない。計九名(ないし一〇名)。

(エ) 昭和四八年三月二六日付検面

増渕、村松、佐古、前原、井上、原告江口、同堀、菊井、国井、石井の計一〇名。

(オ) 昭和四八年三月三〇日付検面

平野、内藤、原告前林も参加、計一三名。

(カ) 昭和四八年四月一日付検面

同右

<3> 右認定事実によれば、佐古の製造参加者に関する供述には大きな変遷が認められ、月日の経過による記憶の希薄化のみでは説明できず、また、当初東薬大社研の者は除外されていた旨明言していたのに、後には同除外理由に特に触れることもないまま東薬大社研の者らの参加を供述するなど不自然な点が認められ、佐古の右各供述は必ずしも高度の信用性を有するとはいえないものの、佐古は、まず、L研メンバーで製造の中心的な役割を果たした自己や、増渕、村松、前原、原告堀、井上及び国井の名前を参加者として挙げており、佐古が後に名前を挙げた者は、いずれもL研の正規のメンバーではない者(平野、内藤は社研メンバーである。前記第四、二、1参照。)、結成当初からのメンバーではない者(原告江口、同前林、菊井。)、L研の活動自体についてもまたピース缶爆弾製造の際の行動についても必ずしも積極的、重要な役割を果たしたとは認め難い者(石井、菊井、平野、内藤及び原告前林)などであったことなどをも考えれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、佐古の右各供述の信用性がすべて否定されるとまでは認められない。

(8) ダイナマイト等の入手

<1> 原告らは、ダイナマイトの入手先等に関する村松、前原、増渕及び佐古の各供述は、次のとおりであり、その各内容が一致しておらず、あいまいで裏付けのないものであって、いずれも信用性がない旨主張する。

(ア) ダイナマイト、工業用雷管及び導火線の入手先に関する村松、増渕及び佐古の各供述は、村松が早稲田アジトからダイナマイト等を持って来たとの点で一致しているが、前原の供述は、住吉町アジトでの謀議の際村松が整理ダンスからダイナマイト、雷管、導火線を出して見せ、どこかで盗んで来たようなことを話していたというものであり、双方の供述は大きく相違する。ダイナマイトの入手先という極めて重要な事項に関し、曖昧な供述しかないのは不自然であり、かつ、何の裏付けもないことは、捜査の杜撰さを意味する。検察官は問題点をチェックし、本件起訴を取りやめるべきであった。

(イ) 村松の供述は、「製造前日河田町アジトにおいて新聞紙包みを開いてダイナマイト等を見たが、その場には増渕、前原、佐古、井上、堀も同席した。」というのであるが、増渕及び佐古は製造日より前にダイナマイト等を見たことを述べていない。

(ウ) 前原の供述は、「住吉町アジトでの謀議の際、ダイナマイトを見た。住吉町アジトで見たダイナマイトの数は約一〇本であるが製造当日には数が増えていた。」というのであり、他の者の供述と相違する。

(エ) ダイナマイトの入手先に関する増渕の供述は、「前田から青梅方面の火薬庫からダイナマイトを盗むのでL研から兵隊を出してほしいとの依頼を受け了承した。その後前田からダイナマイトを入手した旨聞いた。」というのであるが、具体性に欠け、裏付けもない。

(オ) ダイナマイトの入手先に関する佐古の供述は、増渕の供述に近いところがあるが、具体性に欠ける面もあり、増渕がダイナマイトの盗み出しに参加している旨述べる点で増渕の供述と相違する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、ダイナマイト等の入手先に関する村松、前原、増渕及び佐古の供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 村松の供述

製造の前日、ミナミで増渕から指示を受け、井上と二人して早稲田アジトに赴き、花園から新聞紙に包んだ物(縦一〇センチメートル、横二〇センチメートル、厚さ四センチメートル)を受け取り、ミナミに戻って増渕に手渡した。その後、増渕らと河田町アジトに行き、同アジトで右包みを解いたところ、ダイナマイト二〇ないし三〇本くらい(長さ二〇センチメートルくらい、直径二センチメートルくらい)、雷管(長さ五センチメートルくらい)何個か、導火線一メートル余が入っていた。

(イ) 前原の供述

住吉町アジトでの謀議の際、村松が整理ダンスの引出しからダイナマイト(一〇本くらい)、導火線(二、三メートル)、雷管(片手のひらに乗るくらい)を出した。

(ウ) 増渕の供述

自分の指示により、村松と井上が早稲田アジトからダイナマイト、工業用雷管及び導火線を持ってきた。

一〇月中旬ころ、前田からダイナマイト窃盗のため兵隊を出してもらいたい旨依頼を受け了承した。その後どこからどのようにしてダイナマイト等を盗んだのかは知らないが、一週間くらい後、前田からダイナマイトを入手した旨聞いた。

(エ) 佐古の供述

謀議の際、増渕から村松と菊井に早稲田アジトにダイナマイト等を取りに行くようにとの指示があった。製造当日、村松、石井、菊井が連れだって河田町アジトに来た際、村松がダイナマイト、工業用雷管、導火線の入った紙袋を持ってきた。

一〇月中旬ころ、増渕、花園、前田と一緒にレンタカーで青梅に行き、増渕ら三名がダイナマイトを盗んできた。

<3> <証拠略>によれば、ダイナマイト等が早稲田アジトに保管される前にそもそもどこから入手されたものかについての確実な証拠はなかったこと、佐古の述べるレンタカーの借出しについての裏付けが取れなかったことがそれぞれ認められる。

<4> 右認定事実によれば、ダイナマイト等の入手先等に関する村松、前原、増渕及び佐古の各供述は一致せず、特にダイナマイトの入手先に関する増渕及び佐古の供述は具体性に欠ける面があり、また、同人らの入手先に関する供述の裏付けは取れなかったことが認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとはいえないが、これらを考慮しても、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述が全面的に信用性のないものであるとまでは認められない。

(9) ピース缶についての佐古及び前原の供述

<1> 原告らは、八・九機事件、アメ文事件、中野坂上事件、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件及び中央大学会館事件にかかるピース缶爆弾のうち八個については、ピース缶番号が判明しているところ、うち五個が「9S171」、二個が「9T211」、他の一個が「8W281」であって、右缶番号が同一の五個及び二個はそれぞれ同一の日に製造されたものであり、かつ、前原と東薬大でピースの空き缶一、二個を入手した旨の佐古の供述と、ピースの空き缶を探したが一個も見つけられなかった旨の前原の供述には相違点がみられるのであるから、各人がピースの空き缶を持ち寄ったとする佐古らの供述につき、検察官は疑問を持って検討し、起訴すべではなかった旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、ピース缶爆弾製造事件で爆弾製造に用いられたピース缶の入手方法に関する共犯者とされた者たちの供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 佐古の供述

爆弾製造の話が出るまでに、各アジトに一、二個くらいのピース缶は用意してあったが、足りないので、占拠中の大学に行き、具体的には、自分と前原が東薬大方面に行き、井上と国井は早大、立大方面に行き、それぞれ集めて来るよう増渕から指示があった。指示後、前原と二人で東薬大に行き、社研メンバー二、三名に頼んでピース缶を集めさせ、一、二個入手して河田町アジトに持ち帰った。

(イ) 前原の供述

ピース缶は全員で手分けして集めることとされ、石井、佐古その他の者が少しずつ河田町アジトに持ち寄った。

(ウ) 村松の供述

製造当日増渕から指示されていたピース缶一個を持って河田町アジトに行った。

(エ) 増渕の供述

ピース缶は皆であちこちから集めた。

<3> <証拠略>によれば、八・九機事件及びアメ文事件の各ピース缶爆弾、中野坂上事件のピース缶爆弾三個のうちの二個、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件のピース缶爆弾三個のうちの一個に使用されたピース缶の缶番号(製造番号)はいずれも「9S171」で合計五個が同一番号であったこと、中野坂上事件のピース缶爆弾のうちのその余の一個及び中央大学会館事件のピース缶爆弾に使用されたピース缶の缶番号が「9T211」で同一であったこと、大菩薩峠事件のピース缶爆弾のうち一個のピース缶の缶番号は「8W281」であったこと、これらの番号はピース缶の製造年月日及び製造場所を示すものであること、右五個及び二個のピース缶はそれぞれ同一の日に製造されたことがそれぞれ認められる。

<4> 右認定事実によれば、佐古が大学ごとに収集要員が集めたとする点は、佐古の外誰も述べる者がなく、東薬大へ前原と同行したとする点は、前原自身は述べていないなど、佐古と前原の供述に不一致が認められ、また、佐古、前原らの供述のように、缶入りたばこを購入することなく、空き缶だけを手分けして集めたのであれば、右のように、缶番号が一致する同一の日に製造されたものを集めることは確率論的には到底あり得ないことが認められることなども考えれば、これらの供述の一部は信用性を有するとはいえないものの、これらを考慮しても、少なくとも、原告堀、同江口及び前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述全部が信用性のないものであったとまでは認められず、これらが信用性のないものではないとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

(10) パチンコ玉についての佐古及び前原の供述

<1>(ア) 原告らは、ピース缶爆弾に充填したパチンコ玉の入手についての佐古の供述につき、入手場所等の変遷をとらえて、次のように主張する。

爆弾に使用するという特別の使用目的のためのパチンコ玉を入手した場所であり、かつ、入手先の新宿ゲームセンターは比較的特徴のある場所に位置していることから考えると、おおよその所在位置については記憶が残るのではないかと思われ、佐古の供述の変遷を次第に記憶を喚起していく過程とみることには疑問がある。佐古の引当たり前の供述は客観的事実と全く相違していた。入手する際同行した者についての供述の変遷についても同様である。検察官が佐古の供述の変遷等に注意を払わなかったのは全く不可解である。

(イ) また、原告らは、パチンコ玉を入手した日時及びパチンコ玉の具体的な入手状況に関する佐古及び前原の最終的供述が大きく相違することをとらえ、事柄の重要性を考えれば右相違を記憶の混同によるものとみることはできない旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、捜査段階における、パチンコ玉の入手に関する共犯者とされた者たちの供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 佐古の供述

製造当日の午前中、前原と新宿のパチンコ店「新宿ゲームセンター」に行き、パチンコ玉を取って河田町アジトに戻ってきた。

右パチンコ玉を取るに際しては、どちらが金を出したか覚えていないが、二〇〇円出してパチンコ玉を買い、一〇〇円分ずつ(五〇個ずつ)分け、それを持って店内を少し回った。自分ははじかなかったが、前原は少し奥ではじいたような気がする。

(イ) 前原の供述

住吉町アジトにおける謀議の日かその翌日かははっきりしないが、佐古と新宿三越裏角のパチンコ店「新宿ゲームセンター」に行き、一〇〇円ずつそれぞれ五〇個のパチンコ玉を買い、自分は少しはじいて一〇〇個ないし一五〇個に玉を増やし、佐古はその間落ちている玉を拾い集めていた。結局自分が一〇〇個ないし一五〇個を、佐古が五〇個くらいをポケットに入れ、河田町アジトに戻って机の引出しにしまった。

(ウ) 村松の供述

河田町アジトにおける謀議の際、増渕から井上に対し、パチンコ玉を入手するよう指示があった。

(エ) 増渕の供述

パチンコ玉は前原が持ってきた。

<3> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、捜査段階における、パチンコ玉の入手に関する佐古の供述経過は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 昭和四八年二月一三日付員面

製造当日の午前中、爆弾を作り始めたころ、急にパチンコ玉を入れるという話になり、村松か前原が河田町アジト近くのパチンコ店に取りに行った。

(イ) 昭和四八年三月九日付員面

製造前日、住吉町アジトにおける謀議の際、村松がパチンコ玉の充填を提案し、すぐに村松と一緒に同アジトから徒歩二〇分くらいの明治通りと大久保通りの交差点角にあるパチンコ店に行き、村松が二〇〇円で玉を買い、二人で分けて同アジトに持ち帰った。村松は少しはじいたかもしれない。持ち帰ったパチンコ玉は一〇〇個である。

(ウ) 昭和四八年三月二六日付検面

同右

(エ) 昭和四八年三月三一日引き当たり

新宿ゲームセンターを指示

(オ) 昭和四八年四月一日付員面

製造日の午前中、河田町アジトから前原と新宿三越裏の新宿ゲームセンターに行き、一〇〇円ずつ玉を買い、持ち帰った。前原は少しはじいたような気もする。

(カ) 昭和四八年四月二日付検面

自分の記憶では爆弾製造の前日村松と一緒にパチンコ玉を買いに行き、更に製造当日の午前中前原と新宿のパチンコ店に出かけ、パチンコ玉を買って河田町アジトに戻ったと思うが、村松と一緒に行ったというのは記憶違いかもしれない。

<4> 右認定事実によれば、佐古と前原のパチンコ玉入手日時及びパチンコ玉の具体的な入手状況に関する最終的供述には若干の不一致が認められ、また、佐古のパチンコ玉の入手場所等に関する供述には変遷が認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとまではいえないものの、年月による記憶の希薄化をも考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められず、これらが信用できるとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

(11) 塩素酸カリウムについての佐古、増渕、前原、内藤の供述

<1> 原告らは、塩素酸カリウムの入手状況に関する佐古及び増渕の供述と前原の供述、内藤の供述には相互に不一致がある点を指摘して、各供述の信用性がない旨主張する。この点、<証拠略>によれば、前原の塩素酸カリウムの入手状況に関する具体的供述は、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起後のこと(昭和四八年四月六日付検面)であると認められ、内藤の供述も、「製造当日平野が薬品瓶二本を携え河田町アジトに来たが、増渕がそれを見てピクリン酸だと言った。」というものであって、塩素酸カリウムとは述べていないので、これらを除外し、次に、佐古、増渕の供述について検討する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、捜査段階における、塩素酸カリウムの入手状況に関する佐古、増渕の供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 佐古の供述

塩素酸カリウムは、製造日の四、五日前に村松が他の薬品類とともにリュックサックに入れて河田町アジトに持ち込んだ(なお、佐古は、昭和四八年三月九日付員面で、同薬品類については東薬大から入手したと村松が述べていた旨供述しており、同供述は、その後も調書上明確な形では否定されていない。)。

(イ) 増渕の供述

塩素酸カリウムは、L研が法大にあったころ村松が盗み、保管していたもので、村松が持ってきた。

<3> 右認定事実によれば、佐古と増渕の塩素酸カリウムの入手状況に関する供述には不一致が認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとまではいえないが、<証拠略>によれば、東薬大事件においては塩素酸カリウムが爆弾製造に使用されており、L研、社研のメンバーは昭和四四年一〇月当時塩素酸カリウムの入手が可能であったことが認められ、これと年月による記憶の希薄化をも考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(12) ガムテープ等の使用等

<1> 原告らは、ピース缶爆弾には、茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されているが、右二種類のガムテープが使用されたと述べるのは前原だけであることには疑問があり、また、佐古及び前原が茶色のガムテープにつき河田町アジトにあったとする点で一致しているものの、青色ガムテープにつき入手先を述べる者はなく、村松の供述は佐古、前原の供述と相違し、増渕の供述はビニールテープを使用したという点で客観的事実に合致していないのであり、検察官が、この点を看過し右各供述の信用性があるとして、起訴したことは職務の懈怠である旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、ピース缶爆弾製造事件で製造されたとされるピース缶爆弾には茶色及び青色の二種類のガムテープが使用されていたこと、捜査段階における、右ガムテープの入手状況に関する佐古、前原、村松、増渕の各供述は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

(ア) 佐古の供述

茶色ガムテープは河田町アジトにあったとし、青色ガムテープについては入手先を供述していない。

(イ) 前原の供述

右二種類のガムテープが使用されたと明確に述べるが、入手先については、茶色ガムテープは以前から河田町アジトにあったとし、青色ガムテープについては誰が持ち込んだのか分からないとする。

(ウ) 村松の供述

河田町アジトで謀議の際、前原にガムテープを購入するよう指示があったとする。

(エ) 増渕の供述

缶体と蓋の固定にビニールテープを使用したとする。

<3> 右認定事実によれば、佐古、前原及び村松のガムテープの入手状況等に関する供述には不一致があること、また、増渕の供述は客観的事実に反することがそれぞれ認められ、佐古らの各供述は必ずしも高度の信用性を有するとまではいえないが、年月による記憶の希薄化をも考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、佐古らの各供述が全体として信用性のないものであったとまでは認められず、これらが信用性の否定されるものではないとした検察官の判断が不合理であったとまでは認められない。

<4> なお、原告らは、ピース缶爆弾の導火線と工業用雷管の結合部に巻きつけられたガムテープの色は、いずれも缶体そのものに巻かれたガムテープの色と一致しているところ、二種類のガムテープを使用したとする前原の供述は、証拠物の状態にそぐわず、真実性に乏しい旨主張する。

この点、前記認定の前原の供述によれば、前原は二種類のガムテープを使用したと供述していることが認められるものの、導火線と工業用雷管の結合部に巻きつけられたガムテープの色と缶体そのものに巻かれたガムテープの色を違えた旨供述しているわけではないから、原告らの主張は採用できない。

(13) 爆弾の構造及び添加物に関する内藤の供述

原告らは、ピース缶爆弾の構造に関する内藤の供述は、客観的事実と大きく相違しており、検察官は当然内藤の供述の信用性につき疑問を感ずるべきであった旨主張するが、前記第四、八、3、(四)に認定、判断したとおりであり、原告らの右主張は採用できない。

(14) ダイナマイトの切断と充填の担当者

<1> 原告らは、ダイナマイトの切断と充填の担当者に関する共犯者らの各供述は、その内容が大きく相違し、自分が右作業を担当したと述べる者がいないなど、不自然であり信用性がない旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、ダイナマイトをピース缶に充填する作業を担当した者として、佐古は、「村松、菊井、平野、内藤」を、前原は、「増渕、村松、原告江口、菊井」を、村松は、「増渕、佐古、原告堀、同江口」を、増渕は、「村松、前原」を、内藤は、「増渕、原告堀、同江口」をそれぞれ供述していたことが認められる。

<3> 右認定事実によれば、ダイナマイトの充填作業の担当者に関する佐古、前原、村松、増渕及び内藤の供述は、相互に食い違っていることが認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとまでいえないものの、年月による記憶の希薄化や、自己の罪責を軽減しようとする心理をも考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(15) 佐古のダイナマイト切断に関する供述の不存在

<1> 原告らは、佐古が、村松にピース缶にダイナマイト四本くらいを詰め込んだと供述していながら、ダイナマイトを切断した状況について述べていないのは、客観的事実と相違する旨主張し、<証拠略>によれば、右主張事実が認められる。

<2> しかしながら、右の点を考慮しても、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右供述が信用性のないものであるとまでは認められない。

(16) パチンコ玉の充填作業担当者

<1> 原告らは、被疑者らの各供述からパチンコ玉をダイナマイト内に充填する作業を担当した者を確定し難く、かつ、自分が右作業を担当したと述べる者が一人もいないから、右各供述は信用性のないものである旨主張する。

<2> 前期各認定事実及び<証拠略>によれば、パチンコ玉をダイナマイト内に充填する作業を担当した者として、佐古は、「村松、菊井、平野、内藤」を、前原は、「増渕、村松、原告江口、菊井」を、村松は、「増渕、佐古、原告堀、同江口」を、増渕は、「前原、井上、内藤、国井」を、内藤は、「増渕」をそれぞれ供述していたことが認められる。

<3> 右認定事実によれば、パチンコ玉の充填作業担当者に関する佐古、前原、村松、増渕及び内藤の供述は、相互に食い違っていることが認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとまではいえないものの、年月による記憶の希薄化等を考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(17) 佐古の供述する導火線と雷管の接着方法の矛盾

<1> 原告らは、佐古は、導火線と工業用雷管の接続作業を担当したと述べているが、その作業態様について、客観的事実と異なる供述をしていると指摘し、右供述は、佐古が実際に右作業を行っていないことを強くうかがわせるものであって、信用性がない旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、佐古は、右接続作業の態様について、「導火線の先端を少しほぐしてボンドをつけ、少し乾かしてから雷管をその中に押し込めるようにして接続し、ガムテープを巻いて補強した。」と供述していること、ピース缶爆弾製造事件で製造されたとされるピース缶爆弾の工業用雷管と導火線の接続方法は、工業用雷管の空管部に、一方の先端部分に接着剤を塗布した導火線を挿入した上、接続を確実にするため、右結合部にガムテープ小片を巻くというものであったことがそれぞれ認められる。

<3> 右認定事実によれば、佐古の右供述は、客観的事実と相違することが認められるものの、年月による記憶の希薄化を考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(18) 塩素酸カリウムと砂糖の混合作業

<1> 原告らは、ピース缶爆弾製造事件で製造されたと認められるピース缶爆弾一三個のうち、塩素酸カリウムと砂糖の混合物が添加充填されていたことが明らかであったもの若しくはその可能性があったものは二個であるにすぎないのに、佐古、前原、村松、増渕は、製造したピース缶爆弾の少なくとも大部分に右混合物ないし白色粉末を添加充填した旨、客観的事実と食い違う供述をしており、同人らの供述には信用性がない旨主張する。

また、原告らは、塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の担当者についての供述が相互に食い違っていて担当者を確定し難く、また、自ら右混合作業を担当したと供述する前原の述べる作業方法は、危険性があり、不自然である旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 回収されたピース缶爆弾のうち、塩素酸カリウム及び砂糖の混合物の充填が確認又は推認されるものは多くとも二個であった。

(イ) 捜査段階において、佐古、前原、村松及び増渕は、製造したピース缶爆弾の大部分に右混合物ないし白色粉末を添加充填したとの趣旨にとれる供述をしていた。

(ウ) 塩素酸カリウムと砂糖の混合作業の担当者について、佐古は、「増渕、原告江口、同堀」、前原は、「自分、佐古、石井」、内藤は、「自分、村松、井上、前原、原告堀、同江口」とそれぞれ供述していた。

(エ) 前原は、右混合作業につき、自分が担当したとして、塩素酸カリウム二(あるいは三)に対し、砂糖一の割合で新聞紙の上で混合した上、乳鉢に入れてすり合わせる作業をしたと供述した。この作業方法は、危険なものであった。

<3> 右認定事実によれば、佐古、前原、村松及び増渕の塩素酸カリウムと砂糖の混合物の充填に関する供述は、客観的事実と相違している疑いが強いこと、混合作業の担当者に関する右各供述は相互に食い違っていること、前原の供述する作業方法は危険なものであったことがそれぞれ認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとまではいえないものの、右供述によれば、ピース缶爆弾製造時には多数の者が手分けして作業していたこと、前原は増渕らから指示されて作業をしていたにすぎないこと、年月により記憶が希薄化していると思われること等を考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述が信用できないものであったとまでは認められない。

(19) バリの処理に関する佐古及び前原の供述

<1> 原告らは、佐古及び前原が、いずれもピース缶の蓋に穴を開ける作業を自分が担当したと言いながら、バリ(めくれ)の処理について供べていないのは不自然であり、また、右穴開け作業を、道路脇の河田町アジト玄関前付近で行ったというのは、密行性が強く要請される作業の場所として非現実的である旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 蓋の穴開け

(あ) 佐古の供述

最初、釘か折りたたみ式ナイフで缶蓋に小さな穴を開け、庭の植木の根っ子あたりに蓋を置いて穴の部分にドライバーを突き刺し、金槌か石でドライバーの頭を叩いて穴を開けた。

(い) 前原の供述

最初、五寸釘をハンマーで叩いて穴を開けたが小さすぎた。石井がもっと適当な道具があるということで、住吉町アジトからプラスドライバーかポンチを取ってきて、それで穴を開けた。

(イ) 作業の場所等

作業の場所について、佐古は「玄関前の庭で作業をした。」と、前原は、「玄関前の地面で作業をした。」とそれぞれ供述した。

右作業場所である河田町アジトの玄関前の庭は、表通りから幅員約一・三メートルの私道を約一八メートル、更に西方向の袋小路を約五メートル入った位置にあり、玄関の反対側は塀でさえぎられ、右私道を利用する民家はアジトのほか一軒で、右袋小路は同アジトの住民のみが使用していた。

なお、ピース缶爆弾製造事件で製造されたとされるピース缶爆弾のうち二個については、缶の蓋の穴のバリが切断されている。

<3> 右認定事実によれば、佐古及び前原の供述する作業方法では、缶蓋に穴があくものの、バリ(めくれ)の発生が防げないこと、ピース缶爆弾の缶蓋のバリが切断されているものがあるが、このバリの処理に関する同人らの供述はないこと、同人らの供述する作業場所は、人目につく可能性があったことがそれぞれ認められ、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するとまではいえないものの、年月による記憶の希薄化、穴開け作業が印象に残り、バリの処理まで思い至らなかった可能性もあること、作業場所も表通りからは奥まったところであったこと等を考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、佐古、前原の各供述が全体として信用性のないものであったとまでは認められない。

(20) 完成した爆弾の処分

<1> 原告らは、完成したピース缶爆弾を河田町アジトから搬出した状況に関する被疑者らの各供述は大きく相違し、また、前原、増渕の供述は客観的事実と矛盾するので、右各供述は信用性がない旨主張する。

<2> 前記各認定事実及び<証拠略>によれば、完成したピース缶爆弾の河田町アジトからの搬出状況に関する共犯者とされた者たちの供述は、次のとおりであったことが認められる。

(ア) 佐古の供述

製造後、増渕が黒色ビニール製鞄に詰めて河田町アジトから持って出ていった。

(イ) 前原の供述

製造当日、赤軍派と思われる者が来て、増渕と一緒に爆弾のうち何個かを持って行った。残った爆弾は、段ボール箱に入れ、河田町アジトの押入れに保管した。昭和四四年一〇月二一日、増渕の指示で爆弾一〇個くらいをバックに詰め、午前一〇時ころ増渕及び原告堀と爆弾を持ってタクシーで大久保駅まで行った。増渕は、原告堀と爆弾を持って東薬大の方に歩いて行った。

(ウ) 村松の供述

午後五時ころ花園が来て爆弾を持ち帰った。

(エ) 増渕の供述

製造当日、村松らに爆弾を赤軍派に渡すように指示して自分は帰った。同月二一日、夏目に連絡したところ、爆弾が赤軍派に渡っていないということだったので、まだ河田町アジトにあると思い、夏目に対し、L研の者に爆弾を赤軍派に持っていくよう伝えてくれと依頼した。

(オ) 内藤の供述

完成した爆弾は、五、六個ないし七、八個の記憶である。爆弾は、造ったその日に、花園と思われる男が取りに来た。増渕が、爆弾を黒チャックの付いたカバンに入れ、花園と一緒に出て行った。

<3> 右認定事実によれば、佐古、前原、村松、増渕及び内藤の完成したピース缶爆弾の搬出状況に関する供述には不一致が認められ、また、内藤は花園が取りに来たと述べているにもかかわらず、<証拠略>によれば、昭和四八年三月一〇日、検察官の取調べにおいて、花園の写真を呈示されながら、それが誰であるか見分けがつかなかったことが認められるなどの点から考えれば、これらの供述は必ずしも高度の信用性を有するものとはいえないが、製造したピース缶爆弾の大部分を花園ら赤軍派関係者に引き渡したというその大筋においてほぼ一致していることなども考慮すれば、少なくとも、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、右各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(21) 同種他事件の記録、証拠の検討

<1> 原告らは、主任検察官である親崎検事が、京都地方公安調査局事件などの他のピース缶爆弾を使用した事件の記録、証拠の検討を行っていれば、ピース缶爆弾製造事件について、原告堀らを含む被疑者らが全く無関係であることが分かったはずである旨主張する。

<2> 前記各認定事実並びに<証拠略>によれば、親崎検事は、ピース缶爆弾製造事件について、最初に同種ピース缶爆弾が使用された京都地方公安調査局事件等同種事件を意識し、同種他事件の発生日時、場所、爆弾の鑑定結果等を把握して必要な裏付捜査も行っていたこと、京都地方公安調査局事件の犯行日時は昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ころであったが、ピース缶爆弾製造事件について、共犯者とされた者たちの右製造日に関する各供述は概ね同月一六日以前となっていたこと、京都地方公安調査局事件は、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起段階では、その全容が解明されるまでに至っていなかったことなどがそれぞれ認められる。

<3> 右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起の段階で、同種他事件の記録及び証拠の検討が行われていれば、同原告らに対するピース缶爆弾製造事件の嫌疑が否定されていたとまで認めることはできない。

(一〇) 各供述証拠の信用性についてのまとめ

右(二)ないし(九)に認定、判断したとおりであり、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起時において、検察官が現に収集していた共犯者らの前記各供述は、その信用性に疑問のある部分がいくつか存在するが、本件全証拠を検討してみても、全体として、明らかにその信用性が否定されるとまでは認められないものというべきである。

4  通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

原告らは、検察官が通常要求される捜査を遂行していれば、石井、原告江口及び平野にアリバイがあることなどの証拠資料を収集することができたのに、これらの裏付捜査を怠り、供述の信用性についての判断を誤って、原告堀、同江口及び同前林を提起した違法がある旨主張するので、これについて検討する。

(一) 石井のアリバイ

(1) 原告らは、石井にはアリバイがあり、検察官が、これについて、通常要求される裏付捜査を行っていれば、爆弾製造に関する共犯者らの各供述が誤りであり、ひいては各供述全体の信用性がないことを認識し得たはずであるのに、検察官は、この捜査を怠って安易に起訴した違法がある旨主張する。

(2) 前記(第四、八、3、(八))認定の石井の供述並びに<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の内容

石井及びその弁護人は、刑事審において、ピース缶爆弾製造事件に関する石井のアリバイ主張として、検察官がピース缶爆弾製造日と主張する昭和四四年一〇月九日から同月一六日までのうち、同月九日は午前九時から午後五時まで、又は午後一時ころから午後五時まで、同月一一日は午前九時から午前一二時まで、同月一三日、同月一四日、同月一五日、一六日はそれぞれ午前九時から午後五時まで、国電浅草橋駅近くにある日本プラスチック玩具工業協同組合(協同組合)にアルバイトとして勤務していたと主張した。

<2> 石井の捜査段階における供述

石井は、昭和四八年三月一三日、原告堀らと共に本件ピース缶爆弾を製造したとの被疑事実により逮捕され、同月一五日、検察官による弁解録取の際、被疑事実を否認したが、自己のアリバイを主張することは一切なく、その後、前記のとおり、昭和四八年三月二〇日以降、佐古の指示により、昭和四四年一〇月一六日か一七日か一八日ころ、河田町アジトでL研メンバーが爆弾を製造しているかも知れないと認識しつつ、右アジト周辺でレポをした旨の供述をするに至った。

<3> 伝票等の取得経過

捜査官が、昭和四八年三月二〇日、協同組合に赴き、同組合の専務理事である藤川高から事情聴取したところ、同人は、帳簿に石井に対する給料支払の記載がないこと、石井の顔や名前を知らないことをそれぞれ述べた。

(3) 右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起前の段階で、検察官が石井のアリバイに関し、通常要求される程度の捜査の遂行を怠り収集し得た証拠資料を収集しなかったとまで認めることはできない。

(二) 原告江口のアリバイ

(1) 原告らは、原告江口には、ピース缶爆弾製造事件に関してアリバイがあったのであり、検察官は、通常要求される捜査を遂行すれば、原告江口の右アリバイに関する証拠資料を収集し得たのに、この捜査を怠って安易に起訴した違法がある旨主張する。

(2) 前記(第四、八、3、(七))認定の原告江口の供述並びに<証拠略>によれば、原告堀らの弁護人は、地刑九部における審理において、原告江口は、昭和四四年一〇月当時、日曜日を除く毎日午前一〇時から午後七時ころまで国立ガンセンター化学療法部実験化学法研究室の研究員として勤務しており、特に同月九日と一五日については同研究室で動物実験に従事していたことが明らかであるから、河田町アジトで行われたピース缶爆弾製造に参加しているわけはない旨主張したこと、原告江口は捜査段階では、アリバイ主張をしていなかったこと、捜査官は、原告江口の勤務日等を出勤簿を閲覧したり職場の管理者に会って調べ、右製造日当時の勤務状況を詳細に確認していたこと、さらに、捜査官は、原告江口の右勤務場所とピース缶爆弾製造事件の爆弾製造場所が近距離にあり、同原告の勤務先が職場を離れることが比較的自由な執務状況にあったことを確認していたことがそれぞれ認められる。

(3) 右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、検察官が、原告江口のアリバイに関し、通常要求される捜査の遂行を怠り、収集し得た証拠資料を収集しなかったとまでは認められない。

(三) 平野のアリバイ

(1) 原告らは、平野には、ピース缶爆弾製造事件に関してアリバイがあったのであり、検察官は、この裏付捜査を怠って安易に起訴した違法がある旨主張する。

(2) <証拠略>によれば、平野は、刑事審において、昭和四四年一〇月一四日は杉並区荻窪の下宿先から新宿区柏木のアパート糖信荘に引越しをし、終日荷物の整理をしていたものであり、同月一五日は午前中東薬大の授業に出席し、午後は社研の者らを糖信荘の自室に呼んでおり、また、同月一五日から一八日までは連日、同月二一日の国際反戦デーのために立看板やビラを作っていたと思う旨供述したこと、しかし、右供述には客観的資料の裏付けがなかったことがそれぞれ認められる。

(3) 右認定事実に照らすと、検察官が、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起前において、平野のアリバイに関し、通常要求される捜査の遂行を怠り収集し得た証拠資料を収集しなかったとまでは認められない。

(四) 「ミナミ」、「エイト」の休業日に関する裏付捜査

原告らは、喫茶店「ミナミ」及び「エイト」の休業日については裏付捜査が可能であり、これを遂行していれば、右休業日に関する証拠資料を収集し得た旨主張する。

しかしながら、右休業日に関する裏付捜査は、前記石井アリバイの主張を前提に、これによって限定される爆弾製造可能日に、爆弾製造前日の謀議場所である喫茶店「ミナミ」及び製造当日のレポ担当者の連絡場所である喫茶店「エイト」の休業日を加味考慮すると、なお一層爆弾製造可能日が限定されるという意味あいのものであり、前記のように、検察官が、石井アリバイに関し、通常要求される捜査の遂行を怠り証拠資料を収集しなかったとは認められないから、原告らの右主張は、その前提を欠き、採用できない。

5  判断

以上の認定、判断によれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公訴提起時において、検察官が現に収集した証拠資料を合理的に総合勘案すれば、右事件に関して右原告らに有罪と認められる嫌疑があったと認めることができる。本件全証拠を検討してみても、検察官が、右嫌疑の存在を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて右公訴を提起したと認め得るような事情があることを認めることはできない。よって、検察官の右公訴提起は違法とはいえず、この点の原告らの主張は理由がない。

九  日石・土田邸事件の捜査等の概要

1  日石事件の発生及び爆弾の構造等

<証拠略>によれば、日石事件の発生経過等は、次のとおりであったことが認められる。

(一) 日石事件の発生

昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分ころ、東京都港区西新橋の日石本館ビル内の日石郵便局窓口に、紺色の長袖事務服(ネームは入っていない。)を着て眼鏡をかけた若い女性(以下「甲女」という。)が現れ、同郵便局係員本田哲郎に対し、後藤田正晴警察庁長官(当時)あてと今井栄文新東京国際空港公団総裁(当時)あての小包爆弾各一個(日石爆弾。以下これを順に「日石A爆弾ないしA爆弾」、「日石B爆弾ないしB爆弾」という。)を普通の小包郵便物のように装って差し出し、料金の四三〇円は五〇〇円紙幣一枚と一〇円硬貨三枚で支払い(つり銭一〇〇円)、郵便シール二枚を受け取って右小包爆弾にそれぞれ貼付し、これを受け付けさせた。右本田は直ちにこれを窓口カウンター近くの郵袋に入れたが、一、二分後、再び甲女が窓口に現れ、右本田と同郵便局係員星野栄に対し、「先程の小包の住所がちょっと違っているようですから返してください。」と申し出たため、右本田らは右小包爆弾二個を窓口カウンターに載せ、甲女に対し、いったん受け付けた郵便物は簡単に返せないから違っているならばこの場で直してほしい旨申し向けたところ、甲女は「じゃあ、私ではわかりませんから帰って聞いてきます。」と言って退出した。その一、二分後、甲女と同じような事務服を着ているが眼鏡をかけていない別の若い女性(以下「乙女」という。)が窓口に現れ、右星野に対し、「先程うちの社員が来て住所が違っていると言っていましたから来ました。」と申し出た。右星野が乙女に会社名を確かめると、日石A爆弾の差出人となっている中央警備保障の者であるというので、右小包爆弾二個を並べて示したところ、乙女は日石A爆弾のほうの受取人の住所を右示指で麻ひもを寄せながら確認し、「間違いありません。」などと言って退出した。

同日午前一〇時四〇分ころ、右星野が右小包爆弾二個を普通の小包郵便物と同様に前記郵袋に落とし込んだところ、まず日石A爆弾が弱い爆発を起こし、一、二秒して引き続き日石B爆弾が強い爆発を起こし、右爆発により日石郵便局の床、天井の一部等が破壊されるとともに、右星野(当時二六歳)が加療約四〇日間を要する顔面、右腕等熱傷の傷害を負った。

(二) 日石爆弾の構造等

日石爆弾の構造等については、爆発現場の状況や現場から収集された証拠物を復元、鑑定するなどした結果、次のような事柄が判明した。

すなわち、まず、現場に残存したA爆弾の包装紙には荷札二枚が貼付されており、その中の一枚は「【荷受人】新宿区<以下略>後藤田正晴【様】」(【 】括弧内は印刷不動文字。以下同じ。)と、他の一枚には「【荷送り人】港区新橋2―9―1 青葉ビル 中央警備保障業務部【出】」との記載があり、A爆弾に結び付けられていたと認められる荷札一枚の表面には「【荷受人】新宿区<以下略>後藤田正晴【様】」、その裏面には「【荷送り人】港区新橋2―9―1 青葉ビル中央警備保障KK(業務部)【出】」との記載が認められた。また、B爆弾に結び付けられていたと認められる荷札一枚の表面には「神奈川県横浜市<以下略>今井栄文【様】」、その裏面には「港区新橋 新幸ビル 東京貿易K・K【出】」との記載があり、B爆弾の包装紙に貼付されていた荷札の断片を復元したものには右の今井栄文の住所及び氏名が記載されていた(ただし、全部かつ完全ではない。)。また、これらの各荷札に記載されていた文字は、B爆弾の包装紙に貼付されていたものを除き、黒色又は青色のインクペン又はボールペンで下書きがされ、かつ、その上になぞり書きがされていた。

そして、A爆弾は、縦約二〇・五センチメートル、横約一三・六センチメートル、高さ約三・一センチメートル、肉厚約〇・七八ミリメートルのアルマイト製と思われる弁当箱に直径約一・六ミリメートルの針金を約二〇巻きし、さらに幅約一七ミリメートルのビニールテープ(残存幅であり、規格幅約一九ミリメートルのものを使用したと思われる。)と幅約五〇ミリメートルのガムテープを巻いたものが本体容器であり、これにソケット付きガスヒーター、乾電池(ナショナルハイトップ単三型)、長さ各約一〇センチメートル、幅約二・四ないし二・六センチメートル、肉厚各約〇・八ミリメートルのアルミ板(大部分にビニールテープを巻き、一端を露出させてあるもの)二枚を重ね合わせ、一端に黄色厚布片を絶縁体として挿入した手製スイッチ等を装置し、右本体容器の中に塩素酸ナトリウムを主成分とし、これにクロム酸ソーダ、糖類(砂糖が考えられる。)を配合した混合爆薬を充填し、右絶縁体を抜くことによって通電する電気回路を形成し(右ガスヒーターを右爆薬内に埋め込んだもの)、これらを「ユーハイム」の表示のある菓子缶に入れ、この外箱(菓子缶)の蓋に穴を開け、そこから右絶縁体を外に出し、さらに小包の包装紙の折りたたまれた部分(外から見えない部分)に右絶縁体の端をガムテープで接着し、この包装を解くことにより、絶縁体が前記スイッチから抜けて通電し、爆発する仕掛けのものであった。

また、B爆弾は、縦約二一センチメートル、横約一四センチメートル、高さ約二・九五センチメートルで、かつ、総重量約一四二・二五グラム以上のアルマイト製と思われる弁当箱(重量は残存破片を計測したもの)に、塩素酸ナトリウムを主成分とし、これにクロム酸ナトリウムを配合した混合爆薬を充填し(A爆弾と同様砂糖の類をも混合したものと推定された。)、これに前記A爆弾と同様のガスヒーター、乾電池、アルミ板のスイッチを装置し、これらを黒色ビニールテープで巻いたアルマイト製菜入箱(縦約一二センチメートル、幅約六センチメートル、厚さ約三センチメートル)と共に木製の箱に収容し、前記A爆弾と同様に包装を解くことにより爆発する仕掛け(ただし、スイッチの絶縁体は縫製用布製メジャー片であった。)のものであった。

2  土田邸事件の発生及び爆弾の構造等

<証拠略>によれば、土田邸事件の発生経過等は、次のとおりであったことが認められる。

(一) 土田邸事件の発生

昭和四六年一二月一八日午前一一時二四分ころ、東京都豊島区<以下略>土田國保方(土田邸)の階下居間において、同人あての小包郵便物を装った小包爆弾(土田邸爆弾)を同人の妻土田民子(当時四七歳)が開けたところ、同爆弾が轟音とともに爆発し、これによって同人が即死し、同室に居合わせた土田國保の四男恭四郎(当時一三歳)も加療約一か月間を要する顔面及び両手第二度熱傷などの傷害を負ったほか、土田邸の天井、床の一部や窓ガラス、家具等が損壊した。

当時、土田邸は、改築中で、これがまだ完全に終了していなかったため、表札も出ておらず、住所、氏名を書いた紙が柱に貼られているという状態であり、土田國保とその家族は、昭和四六年三月から東京都文京区内のアパートに仮住いしたのち、同年一二月二日にまず長男らが土田邸に戻り、同月一二日に土田國保夫妻も同所に帰ったばかりで、そのわずか六日後に右の被害に遭遇したものである。

土田國保は、当時警視庁警務部長の地位にあり、土田邸事件のちょうど一年前の昭和四五年一二月一八日に発生した上赤塚事件(東京都板橋区赤塚三丁目四一番地所在志村警察署上赤塚派出所において柴野春彦ら三名が強盗傷人事件を敢行し、その際、警察官がけん銃を発射した結果右柴野が死亡した事件。以下「上赤塚事件」という。)に際し、警視庁警務部長として警察官のけん銃の使用は正当防衛であり何の問題もなかった旨の発言をしたことが右柴野の属していた京浜安保共闘など過激派グループを強く刺激していた上、昭和四六年夏から過激派によるものと思われる警察署等への爆弾事件が頻発し、ことに警察庁長官等の要人を狙った日石事件が発生したことなどから、捜査当局より、小包郵便物等について不審な点がないかどうか厳重に警戒するよう呼びかけられていた。

ところが、土田邸爆弾の差出人として記載されていた名前は久保卓也であったこと。同人は、当時防衛庁防衛局長で、土田國保と海軍経理学校の同期生であり、共に警視庁に籍をおいたこともある親しい間柄にあったこと、昭和四六年一一月二三日に土田國保夫妻は揃って右久保の長女の結婚式に招待されていたことなどから、捜査当局は、民子が、右のような警戒状況下にあっても、なお右小包郵便物に不審を抱くことなく、これを開けたものと推認した。

土田邸爆弾は、同年一二月一七日中に東京都千代田区内の南神保町郵便局に小包郵便物として差し出され、東京南部集中局を経て同月一八日午前八時までに豊島郵便局に配達され、同局員片岡計雄によって同日午前一一時過ぎころ土田邸に配達され、右民子によって受領された。

(二) 土田邸爆弾の構造等

土田邸爆弾の構造等については、爆発現場の状況、現場から収集された証拠物を復元、鑑定等するなどした結果、次のような事柄が判明した。

本件郵便物小包に付けられていたと認められる荷札一枚には、いずれも墨筆で、表面に「都内豊島区<以下略>土田國保様」、その裏面に「千代田区<以下略> 久保卓也」と書かれ、また、同小包の包装紙の一部を復元したものには、墨筆によって書かれた土田國保及び久保卓也の各住所及び氏名中の数文字(いずれもその各部分)が残っていた。また、小包に貼付されていたと認められる郵便シール(郵便料金別納計器証紙)の破片を集めてその一部を復元すると、そこに印出されている残存印影は、東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号所在の神田南神保町郵便局(南神保町郵便局)の印影と極めて類似していたことから、同小包は同郵便局に差し出されて受け付けられたものと推定された。

次に、爆発現場に残存したアルミニウム破片に打刻されている文字と模様の一部から、同破片は、東京都墨田区東向島二丁目一九番一七号株式会社青田製作所で製造した深大角弁当箱(約〇・八ミリメートルのアルミ板を用い、アルマイトメッキ加工をしたもの)の破片と判明した。

また、爆発現場の物件から塩素酸イオン、ナトリウムイオン及び糖が検出されたことから、爆発物の主体であった爆薬には、塩素酸塩及び糖を含む塩素酸塩系爆薬が含まれていたものと推定されたが、それ以外に成分は検出されていないものの、爆発の状況から、右爆薬よりも爆速の速い何らかの高性能爆薬も含まれていたものと推定された。

そして、爆発現場の残存物(破片)等から、爆薬は、前記アルマイト製弁当箱(内容積約一リットル)に充填されており、右弁当箱は、ビニールテープ等で厚く巻きつけられた上、木箱に入れられていたと推定された。

また、爆発現場に残存した物件(破片)の中に積層乾電池(ナショナルハイトップ〇〇六P―D)一個、ガスヒーター(電圧階級一・三ボルト)と同用ソケット(E一〇)各一個、マイクロスイッチ(株式会社サン電業社製MULON・MLV―二型)とバッテリスナップ一個、ビニール絶縁線の破片と認められるものがそれぞれ存在したことから、右弁当箱及び木箱内には、右マイクロスイッチ、積層乾電池、ガスヒーター及びソケット等で構成される無時限式点火装置が取り付けられ、爆薬を点火又は起爆させる構造になっていたと推定された。

さらに、爆発現場に残存した赤茶色の紙片から、爆発物を入れた右木箱は、当時市販されていた赤茶色の包装紙や封緘シール等から成る渦巻き印の小包セットを用いて包装されていたものと推定され、かつ、その包装紙は、カクケイ工業株式会社製と推定された。

また、爆発現場に残存した前記マイクロスイッチの破断片のうち、ワイヤーレバー(作動線)の表面、固定端子の結線孔の内面と付近表面、共通端子の結線孔の付近表面、シャフトのワイヤーレバーを挿入するシャフト孔付近表面、並びに、同様残存したアルミ金属片の一部表面に、それぞれ赤色塗料様のものが付着していた。

3  日石・土田邸事件に関する捜査状況等

<証拠略>によれば、日石・土田邸事件の捜査経過は、次のとおりであったことが認められる。

(一) 事件発生後昭和四七年末までの捜査

日石事件については警視庁愛宕警察署(以下「愛宕署」という。)に捜査本部が、土田邸事件については目白署に特別捜査本部が、それぞれ右各事件発生直後に設置されたが、当時日石・土田邸事件以外にもいわゆる過激派による爆弾事件が頻発していた情勢に対処するため、昭和四六年一二月二七日、警視庁に極左暴力取締本部が設けられ、各事件の捜査本部の指導等に当たっていた。そして、日石事件及び土田邸事件の現場遺留物の分析等の捜査が進められるうち、両事件は爆弾の構造が類似しており、小包爆弾という手口が共通していることなどから、同一の犯人(グループ)が敢行したものではないかと考えられるに至り、昭和四七年四月以来、愛宕署と目白署の各捜査本部が合同して捜査を続行するようになった。

一方、東京地検においても、土田邸事件については同庁検察官による司法検視が行われた関係で、同庁の未済事件として担当検察官が定められていた。

なお、日石事件については、日石B爆弾の包装紙に足紋一個が、日石A爆弾のユーハイム缶本体の底の外側に指紋一個が、甲女が差し出した五〇〇円札に指紋一個が残され、いずれも不完全ではあるが検出されており、日石郵便局員の供述に基づいて甲女と乙女のモンタージュ写真が作成され、昭和四六年一〇月二五日以降マスコミ等を通じて公開されていたものの、これらから犯人を特定することはできず、土田邸事件については、このような不完全な指紋等の証拠すら発見されず、犯人を目撃した者もいなかった。

そして、前記極左暴力取締本部及び捜査本部は、両事件の現場遺留物の分析のほか、過激派に属するとみられる者の検挙の都度、日石事件の足紋等との照合を行うなどして、犯人の発見に努めていたが、昭和四七年末まで具体的な手がかりを得られなかった。

(二) 佐古の供述

佐古は、昭和四七年一一月二四日法政大学図書窃盗事件で勾留のまま起訴され、同年一二月二八日保釈されたものの、同四八年一月八日、アメ文事件で再び逮捕され、引き続き勾留された。

佐古は、右勾留中の一月一九日、警視庁本部において、岩間警部補から、右保釈期間中に増渕、原告江口らと接触した状況につき取調べを受け、同月五日に渋谷の喫茶店「プランタン」において増渕及び原告江口と会った際、原告江口が、増渕に対し、昭和四五年六月に爆弾を製造した件をしゃべっていないかどうかを問いただしていた旨のプランタン会談について供述した。さらに、佐古は、昭和四八年二月一四日、好永巡査部長からプランタン会談について重ねて取調べを受け、原告江口が、プランタン会談の折に、増渕と佐古に対し昭和四七年に逮捕・勾留されたときに黙秘の態度をとらなかったことを非難する中で、特に、増渕に対し、六月爆弾を製造した件について取調べを受けたかどうかを尋ね、「六月の爆弾の件が警察にわかれば、日石事件が発覚し、日石事件が発覚すれば土田邸事件が発覚してしまうではないか。」と増渕の取調べに対する態度を厳しく追及し、原告前林、同堀、国井、長倉ら関係者と早急に連絡をとって、右事件について供述しないように働きかけることを要求した旨の供述をし、その後も警察官に対し、同旨の供述を繰り返した。

また、東京地検における土田邸事件の担当検察官となっていた親崎検事は、佐古の右供述の信用性を確認すべく、昭和四八年三月二日、三日、五日の三回にわたり、麻布警察署と東京地検で佐古を取り調べたが、その際にも、佐古は同様の供述を繰り返しその供述内容に間違いない旨述べた。

(三) 檜谷啓二の供述

檜谷は、昭和四八年二月一二日、窃盗、詐欺事件で逮捕され、以後麹町署で増渕と同じ房に留置されていたが、同月二八日、東京地検押送室において、ピース缶爆弾事件の容疑で当時三田署に勾留されていた前原と通謀した事件が判明した。

そこで、増渕の取調べを担当していた伊藤恭瑛巡査部長らが、同年三月六日、七日、一〇日、一一日の四回にわたって檜谷を取り調べたところ、檜谷は、増渕の依頼により前原と通謀したことを認めた上、房内で増渕とアメリカ文化センターの建物の構造や第八、第九機動隊付近、目白、雑司が谷方面の地理について話し合ったこと、増渕から爆弾やその点火装置等の製造方法を教えられたこと、増渕から「土田事件のことは言うな、死活問題だ。」と口止めされたことなどを述べ、同月一二日、親崎検事の指示で檜谷を取り調べた平保三副検事(以下「平副検事」という。)に対しても同様の供述を繰り返した。

(四) 増渕の自白

佐古プランタン供述を信用できると判断した親崎検事は、増渕らに対する日石・土田邸事件の嫌疑が具体的になったので、警視庁極左暴力取締本部の横内基康公安第一課長(以下「横内課長」という。)と連絡をとり、増渕については、八・九機事件の起訴の翌日の昭和四八年三月七日から、主として土田邸事件につき取り調べることとし、原告江口、同前林については、勾留事実についての取調べと並行して、同月九日から日石・土田邸事件についても取調べを始めることとしたが、原告堀については、日石・土田邸事件についての具体的な嫌疑内容が把握されていなかったので、従前どおり、増渕、原告江口、同前林らとの交友関係を中心とし、直接日石・土田邸事件についてではなく、余罪がないかとの観点から取調べを継続することとした。

そして、増渕に対しては、同年三月七日から高橋警部補が日石・土田邸事件についての取調べを開始したが、同月一三日までの間、増渕は、両事件に関与したことを強く否定し続けた。

ところで、増渕らについては同月一四日にピース缶爆弾製造の被疑事実で逮捕することが予定されていた関係上、同日以降いったん日石・土田邸事件についての取調べを中断しなければならなかった。

そこで、親崎検事は、取調べを中断する前に、日石・土田邸事件についての増渕の供述態度等を見て検事としての心証ないし勘を得ておこうと考え、日石・土田邸事件について何ら予備知識を有しない津村検事に対し、増渕の人柄、経歴、昭和四七年九月以降の身柄状況、交遊関係等について増渕の口から話をさせるとともに、余裕があれば、当時頻発していた爆弾事件一般についての増渕の知識や供述態度等も取り調べるよう指示した。

津村検事は、昭和四八年三月一三日午前一〇時半ころから、警視庁本部において、同検事としては初めて増渕の取調べを実施した。

津村検事は、同日午前中の取調べで、増渕が昭和四七年一二月四日に保釈釈放されてから昭和四八年一月二二日にアメ文事件で逮捕されるまでの行動や東薬大事件で逮捕された昭和四七年九月一〇日以降の取調べの経過を聴取し、かつ、同人にメモ書きをさせ、昼休みにいったん東京地検に戻って親崎検事に対し午前中の取調べ経過を報告した後、昭和四八年三月一三日午後二時ころ、再び警視庁に赴いて取調べを再開した。

津村検事は、右の取調べの中で、親崎検事の指示に基づき、増渕に対し、機会を見計らって昭和四六年に発生した爆弾事件についての知識を尋ねたところ、増渕は、明治公園爆弾事件、クリスマスツリー爆弾事件を記憶していると答え、同検事が「それ以外にないか。」と尋ねたのに対して、「土田、日石事件です。」と答えて、日石・土田邸事件の名前を初めて口に出した。同検事は、増渕の反応を的確に把握するため、話を明治公園爆弾事件に戻し、同事件の概要を尋ね、次いでクリスマスツリー爆弾事件についても同様の質問をした後、再び土田邸事件のことを尋ねると、増渕は「土田邸に爆弾が送られて爆発して奥さんが亡くなられた事件です。」と説明したが、その際、同検事が増渕の様子を注視すると、同人が非常に緊張した表情を浮かべていると思われたことから、とっさに、「土田のところは誰がしたんかね。」と間髪を入れず質問したところ、増渕は「私です。」と言って、以後、同検事の問いに対し、日石・土田邸事件の概要を自白した。

ところで、このように津村検事が増渕を取調べている最中の昭和四八年三月一三日同日午後二時ないし三時ころ、増渕の弁護人である村田寿男弁護士が突然警視庁を訪れ、増渕との接見を申し入れた。津村検事は、警察官から右接見申出の事実を知らされたが、増渕が日石・土田邸事件につき自白し始めている状況にあったため、「『しばらくお待ち下さい。』と言ってもらいたい。」と警察官に依頼し、これを受けて堀内警部が高橋警部補と共に村田弁護士に会い、「検事の取調中なので少し待ってもらえないか。」と打診したところ、同弁護士は「出直します。」と言ってすぐに退出した。

津村検事は、増渕との接見に訪れた右村田弁護士が同検事の取調終了を待たずに退出したことを知らず取調終了後接見させるものと考えていたため、検面調書の作成を急ぎ、検面調書作成後の同日午後三時半ころ親崎検事に連絡をとり、増渕の供述の内容や供述状況を報告するとともに、「午後四時ころに弁護士が接見を予定している。」旨伝えた。

なお、増渕は、右取調べにおいて、日石事件について、原告前林に爆弾を発送させた旨自供したが、供述調書を録取される際に、原告前林の名を記載しないで欲しいと強く要請したため、調書上では単に「女の人」に発送させたと録取されるに止まった。

また、津村検事の右取調べが終了した後、警察においても、同日午後四時ころから高橋警部補と岩城秀夫巡査部長(以下「岩城巡査部長」という。)が増渕を取り調べたが、増渕は、自己が日石・土田邸事件を敢行したことを認めた。

(五) 増渕、原告前林、同堀及び同江口の逮捕・勾留

前記極左暴力取締本部は、昭和四八年三月一三日夜、前記各証拠を主たる疎明資料として、増渕、原告前林、同堀及び同江口につき、日石・土田邸事件に関する逮捕状の発付を得、翌一四日午前八時三〇分ころ、右逮捕状を執行し、右四名をそれぞれ逮捕して、同月一五日、身柄とともに検察官に事件送致した。

これを受けた親崎検事は、事案の重大性や犯行の組織性にかんがみれば各被疑者につきいずれも罪証隠滅及び逃走のおそれがあり、勾留の理由及び必要があるものと判断し、同月一六日、東京地裁裁判官に右四名の勾留を請求し、いずれも認められた。

(六) その後の捜査体制

原告堀、同江口、同前林及び増渕を日石・土田邸事件の嫌疑で逮捕した後の昭和四八年三月一五日ころ、愛宕署及び目白署の日石・土田邸事件の合同捜査本部は、警視庁本庁の極左暴力取締本部と合同し、警視庁本庁に横内課長を総指揮者とする日石・土田邸事件合同捜査本部(以下「捜査本部」という。)を発足させ、以後、若干の変動があるものの、捜査の実務面を、堀内警部、舟生禮治警部(以下「舟生警部」という。)、松岡忠雄警部及び宮内管理官をそれぞれその責任者とする堀内班、舟生班、松岡班及び宮内班の班編成によって担当させることとした。このうち、堀内班は主として増渕ら右四名の被疑者の取調べを担当し、舟生班は、当初、捜索、検証等の裏付捜査を担当した後、捜査の進展に伴って右四名以外の共犯者や被疑者等の取調べをも担当することとなり、松岡班及び宮内班はそれぞれ土田邸事件及び日石事件につき地取り捜査等の裏付捜査と事件の送致関係事務や特命事項の捜査を担当した。なお、これら四班とは別に、古賀照章警部(以下「古賀警部」という。)を責任者とする古賀班は、日石・土田邸事件の現場採取証拠物の整理、検討、保管を行い、各爆弾の製造等の解明に従事することとなった。

他方、東京地検においては、同月一四日の時点では、親崎主任検事のほか、津村、濱田両検事及び平副検事の計四名が日石・土田邸事件の捜査に従事し、同月一七日に神崎、寺西両検事が、同月末に緒方重威、市川敬雄両検事(以下、それぞれ「緒方検事」、「市川検事」という。)が、四月九日に栗田啓二検事(以下「栗田検事」という。)が、それぞれこれに加わった。検察官の捜査においては、主任検察官たる親崎検事が捜査全般を統轄し、濱田検事・平副検事がこれを補助したほかは、各検察官が被疑者の取調べ及び各被疑者ごとの裏付捜査を適宜分担するというものであり、検察官相互の連絡は親崎検事と各検察官の間で個別に行われるほか、必要な都度、検察官全員が親崎検事の下に集まって協議するというものであった。

検察官の警察官に対する指揮や連絡は、原則的には親崎検事と横内課長ないし各捜査班の責任者との間で行われ、必要に応じ各検察官と警察との各責任者との連絡も行われたが、検察官と警察官との合同の捜査会議というようなものは開かれなかった(以下、この情報交換に関与し捜査の全体を把握できる横内課長、前記各捜査班の責任者、古賀警部を単に「本部」ともいう。)。

(七) 原告榎下らの逮捕等

捜査本部は、増渕、原告堀、同江口及び同前林の交友関係について、かねてから捜査を続けていたが、その結果、原告榎下、松本、中村(泰)、金本、村松について、いずれも、増渕が東薬大事件の被疑者として警察から指名手配を受けて逃走中の者であることを知りながら、各種便宜を供与して増渕の逃走を容易ならしめたという、犯人隠避の容疑が浮かび、原告榎下及び松本を昭和四八年三月一九日に逮捕して勾留し、中村(泰)及び金本を同月一五日から在宅で取り調べ、同月二九日逮捕し(ただし、いずれも同月三一日勾留請求却下により釈放)、さらに、松村を同月三〇日逮捕して勾留した。

原告榎下らの犯人隠避の被疑事実における供与した便宜の内容は、

原告榎下は、<1>昭和四五年六月ころから同年一〇月ころまでの間、十数回にわたり、杉並区上荻二丁目一八番一一号所在の白山自動車等において、増渕らの使用する自動車を無償で修理し、<2>同年九月一三日ころ、東京都世田谷区上用賀六丁目三番一号所在の南急モーターズにおいて、増渕がセドリック中古車を購入するに際し、品定めした上、自己名義で購入契約をし、<3>昭和四六年一〇月ころ、白山自動車において、増渕の内妻であった原告前林が自動車を購入するに際し、同人に対し、熊谷博文所有の軽自動車(ホンダN三六〇中古車)の売却の仲介をし、増渕が逃走生活を継続して、組織や友人と連絡をとるなどのため必要としていた自動車の入手等を助けた、

中村(泰)は、昭和四六年六月ころから昭和四七年九月上旬ころまでの間、昼間中村(泰)の居室を、増渕の潜伏場所として自由に使用させた、

松本は、<1>昭和四五年一二月二五日ころ、増渕が烏山のアパートから高橋荘に移転するに際し、荷物運搬用として貨物自動車一台を提供して自らこれを運転し、<2>昭和四六年一月ころから昭和四七年八月ころまでの間、数回にわたり増渕が東北、信州、山陽方面に自動車で旅行、移転するに際し、右自動車を運転した、

金本は、昭和四七年六月ころから同年九月ころまでの間、金本の居室を自由に使用させた、

松村は、昭和四六年一〇月ころから昭和四七年四月ころまでの間、約一〇回くらい、増渕に対し、自己が勤務する日大二高の職員室等を逃避場所あるいは連絡場所として使用させた、

というものであった。

また、捜査本部は、中村(隆)及び坂本に対しても同月二六日から参考人として在宅で取調べを開始した。

これらの犯人隠避事件について、逮捕された原告榎下、松本、中村(泰)、金本、松村の五名は、ともにその外形的事実を認め、松本を除く四名はまもなく増渕の指名手配を認識していたことについても自白したが、松本は増渕が指名手配をされていたことのみならずその本名さえ知らないで交際していたと述べて犯行を否認した。なお、松本は、右犯人隠避の被疑事実のほか、模造けん銃一四丁を所持したとの銃刀法違反の被疑事実も併せて勾留されたが、右銃刀法違反の事実については争わなかった。

(八) 昭和四八年三月一四日から同年四月四日までの間の被疑者等の供述状況

(1) 増渕

増渕は、昭和四八年三月一五日、検察官からの弁解録取時には、被疑事実を概ね認めていたが、同月一六日、裁判官から勾留質問を受けた際には黙秘した。その後は、前記三月一三日に司法警察員に対して供述した内容とほぼ同様の自白を維持した。

(2) 原告堀

原告堀は、自己が日石・土田邸事件を行ったことを否定していた。

(3) 原告江口

原告江口は、逮捕以来一貫して否認の態度に終始したが、アリバイを主張するとともに、爆弾との関わりについて供述した。

(4) 原告榎下

原告榎下は、犯人隠避事件により昭和四八年三月一九日に逮捕され引続き勾留されていたが、その間に、増渕からのオルグなどについて供述した。

(5) 坂本

坂本は、昭和四八年三月二六日から日石・土田邸事件の参考人として取調べを受け、同年四月一三日、日石事件の共同正犯として逮捕されたが、同年四月三日までの間に、原告堀らが爆弾闘争らしき話をしていた旨供述した。

(6) 金本

金本は、犯人隠避事件により昭和四八年三月一五日から取調べを受け、荷札及び包装紙等を渡したことなどを供述した。

(7) 中村(隆)

中村(隆)は、昭和四八年三月二六日から日石・土田邸事件の参考人として取調べを受け、同年四月九日、土田邸事件の幇助犯として逮捕されたが、同年四月三日までの間に、原告堀が土田邸事件をやったと聞いたことなどを供述した。

(8) 中村(泰)

中村(泰)は、犯人隠避事件により、昭和四八年三月一五日以降取調べを受け、八王子保健所で荷物を預かったことなどを供述した。

(9) 佐古

佐古は、昭和四八年三月二〇日以降、昭和四六年六月ころに爆弾を製造し爆破実験をしたことなどを供述した。

(10) 村松

村松は、昭和四八年三月六日、八・九機事件で起訴され、同月八日、ピース缶爆弾製造事件について自白していたものであるが、同年三月二一日、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受け、昭和四六年六月ころに爆弾を製造したことなどを供述した。

(11) 石田

石田(石田茂)は、いわゆる牛乳屋グループの一員であり、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けたものであるが、昭和四八年三月二六日までの間に、増渕から爆弾を製造したと聞いたことがある旨供述した。

(12) 森口信隆

森口信隆は、増渕らの供述から増渕に硝酸を手渡したとして、昭和四八年三月一九日、毒物及び劇物取締法違反の容疑により逮捕されたものであるが、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受け、同年四月三日までの間に、昭和四六年七月ころに増渕に硝酸を渡したことなどを供述した。

(13) 金沢盛雄

金沢盛雄は、前記牛乳屋グループの一員であって、昭和四八年三月二六日、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けたものであるが、昭和四六年ころに増渕から薬の瓶を預かったことなどを供述した。

(14) 長倉

長倉は、昭和四八年三月三日、犯人隠避罪により逮捕されたものであるが、増渕が土田邸爆弾の構造を知っているような話しぶりをしていた旨の供述をした。

(九) 増渕、原告堀、同江口に対する土田邸事件の公訴提起

昭和四八年三月一四日から増渕、原告堀、同江口、同前林が日石・土田邸事件(他にピース缶爆弾製造事件)で取り調べられたが、勾留満期日の昭和四八年四月四日の段階では、この被疑者四名の中で土田邸事件を自白した者は増渕のみであった。

しかし、親崎検事は、関係証拠を慎重に検討した結果、後記のとおり、少なくとも増渕、原告堀、同江口の三名が土田邸事件を犯した嫌疑は明らかであると判断し、いずれも同日、土田邸事件(爆発物取締罰則違反、殺人等)で起訴した。

なお、親崎検事は、原告前林について、増渕から同原告の役割についての供述が得られず、他の関係者からも直接同原告に結びつく供述が得られなかったことから、右事件の起訴を見送った。

また、親崎検事は、日石事件については、増渕が犯行を自認し、これを裏付ける佐古のプランタン会談供述が存在しているものの、右増渕供述がやや具体性に欠ける上、勾留満期日である同日の時点においては、これを裏付ける状況証拠も必ずしも十分であるとは判断できないとして、慎重を期するため被疑者四名いずれについても処分を保留し、その後の捜査に託すこととした。

(一〇) 昭和四八年四月四日から同月七日までの捜査状況

(1) 増渕の供述

増渕は、四月四日、津村検事に対し、雷管を作る際使用したガスヒーターに関する供述をしたほか、日石事件の爆弾を原告江口から受け取って原告堀に渡すまでの間、石田方に預けておいたかもしれないなどと供述した。

(2) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月四日、東京地検へ押送中の車内で、常盤学警部補らに対し、昭和四六年秋に増渕と共に九段から神田神保町方面へ下見に行った旨供述し、昭和四八年四月四日午後、石崎警部によりその調書が作成された。また、原告榎下は、同日、石崎警部に対し、原告堀の依頼で増渕方へ爆弾材料入りの段ボール箱や薬品を運んだ旨供述し、その調書は同月五日に作成され、さらに、同月七日、石崎警部に対し、土田邸事件が報道された当夜、原告堀と共に増渕のアパートへ行ったことを供述した。

(3) 原告堀の供述

原告堀は、四月四日、濱田検事に対し、増渕から防衛庁関係の名簿を入手するよう指示されたことや土田邸事件当夜増渕方へ行った際の状況について供述し、さらに、同日、岩間警部補に対し、増渕と共に八王子保健所で中村(泰)に新聞紙に包んだ荷物を預け、数日後にこれを引き取り、増渕方へ運んだことを供述した。

(4) 松村の供述

松村は、三月三〇日、犯人隠避事件の容疑で逮捕され、引き続き勾留されていたが、四月五日には、市川検事に対し、昭和四六年秋に増渕らに日大二高の放送室を使わせたことを、四月六日及び七日にはその取調べに当たっていた坂本警部補に対し、昭和四六年九月中旬ころ、原告堀、増渕が電話帳一組を持って行ったこと、同月の宿直の夜、日大二高の職員室で増渕らと小包爆弾を権力の首脳に送ることを相談した状況、同年一二月三一日に日大二高で原告堀から爆弾事件の口止めをされた状況等をそれぞれ供述した。

(5) 中村(隆)及び石田の供述

中村(隆)は、三月二六日から日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けていたが、四月五日、辻英男巡査部長に対し、昭和四六年八月か九月上旬ころ日大二高に増渕、原告榎下、同堀、松村、私の五人が集まり爆弾闘争の話が出た際、増渕から金属ケースを造るよう依頼されたが、難しいので断った旨供述し、また、石田は、四月七日、参考人として取り調べられた際、津村検事らに対し、昭和四六年一〇月上旬から中旬にかけて増渕から手提袋入りの荷物を預かったことを供述した。

(6) 中村(泰)は、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けていたが、昭和四八年四月四日以降、昭和四六年一〇月上旬から中旬にかけて高橋荘で筆跡隠ぺいのための準備をしたことを供述した。

(一一) 昭和四八年四月八日の捜査の新展開

昭和四八年四月八日は日曜日であったが、原告榎下ら各関係者から日石・土田邸事件に関する具体的事実について多くの供述があり、これを一つの契機として日石・土田邸事件の容疑者の範囲が拡大し、捜査は新たな展開を迎えることになった。

(1) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月八日午前中、東京地検で神崎検事に対し、ホンダN三六〇の廃車手続等について供述するとともに、原告前林や同堀から、昭和四六年一〇月一八日に原告江口と同前林が爆弾を郵送する際に新橋まで自動車を運転するよう依頼されたこと、同日朝、増渕、原告江口及び同堀が白山自動車に集合し、同所から新橋へ向かったことを供述し、昭和四八年四月八日午後、その旨の供述調書が作成された。

原告榎下は、引き続き当日夜、石崎警部に対し、昭和四六年九月二〇日ころの日大二高における謀議、同年九月末の日石ビル付近の下見、日石事件後の日大二高における同事件についての総括、同年一二月上旬の神田神保町付近の下見、土田邸事件が報道された当夜の増渕方における同事件についての総括及び同事件の爆弾を発送する際松本が自動車を運転をしたと原告堀から説明されたことなどを供述した。石崎警部は、原告榎下の供述が多岐にわたるため、同人にメモを書かせたところ、原告榎下は、メモを作成し、これに土田邸事件の爆弾製造は増渕方で行われたと記載したが、供述調書作成の段階では、原告堀から同江口方で製造されたと聞いた旨供述を変更した。

(2) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、四月八日、参考人として取調べを受けた際、辻、野崎照夫両巡査部長に対し、日大二高で増渕に金属ケースを造るよう依頼され、爆弾闘争について協力を求められた際、増渕にマイクロスイッチについて説明した旨供述した。

(3) 松村の供述

松村は、四月八日、坂本警部補に対し、昭和四六年一二年三一日夕方に増渕方で同人から土田邸事件につき口止めされたことを供述した。

(4) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年四月八日、高橋警部補に対し、原告江口や同堀と権力機関に爆弾を郵送することを相談した状況、昭和四六年九月中旬ころ、権力に対する爆弾闘争のため、原告榎下、中村(隆)をオルグして協力を頼んだこと、そのころ、権力機関等の所在を調べるため松村から電話帳五冊をもらったこと、日石事件の爆弾は、原告江口から受け取った後、石田茂方の押入れに預け、一両日後に原告堀に渡したこと、同年一〇月下旬か一一月に入ってから、原告榎下に運転を頼んで神田神保町付近をレポしたこと、土田邸事件の爆弾は、同年一二月一一日ころ、八王子保健所で中村(泰)に預けたこと等を供述した。

(5) 松本の供述

松本は、昭和四八年三月一九日、犯人隠避事件の容疑で逮捕され、引き続き勾留されていたが、同年四月八日、東京地検で、平副検事に対し、昭和四六年一〇月ころの夜に増渕方へ行った際、増渕、原告堀、同前林、中村(泰)が白紙に住所氏名等を書いていた旨供述したほか、同日夜の舟生警部の取調べにおいて、昭和四六年秋ころに給田アパートで増渕らと警察の幹部を爆弾でやろうと話した記憶がある旨を断片的に供述した(同供述は調書に録取されず、松本がメモ書きした。)。

(一二) 昭和四八年四月九日の捜査状況

(1) 中村(隆)及び中村(泰)の土田邸事件による逮捕・勾留

捜査本部は、昭和四八年四月八日までの捜査の結果、土田邸事件に関し、中村(隆)については、「昭和四六年九月一八日、日大二高での謀議において、トリック手製爆弾に関して、爆体収納の金属製蓋付容器としてはラジオ用シャーシを使用すべきこと及び爆体収納容器の蓋を開披すると同時に爆発せしめる装置としてはマイクロスイッチを使用すべきこと等の技術的提案ないし示唆を与えて、増渕らの土田邸事件の犯行を容易ならしめた」との容疑が、中村(泰)については、「昭和四六年一二月一一日ころから同月一五日ころまでの間、八王子保健所において手製爆弾一個を所持した」との容疑が濃厚であると判断した。

そこで、警察官は、土田邸事件に関する右の各容疑で東京簡裁裁判官から右両名に対する逮捕状の発付を得て、昭和四八年四月九日、中村(隆)及び中村(泰)を逮捕した。

同月一一日、右両名の送致を受けた親崎検事は、右事件が罪質からみて極めて重罪であり、かつ、共犯者が多数で組織的、複雑な事案と認められ、いまだその全容が解明されていないことなどを考慮し、中村(隆)及び中村(泰)のいずれについても罪証隠滅、逃亡のおそれが極めて高いと判断して、同日、東京地裁裁判官に勾留請求をし、いずれもその請求が認められた。

(2) 増渕の供述

親崎検事は、昭和四八年四月八日夜、増渕の取調べを担当している津村検事に対し、原告榎下が、日石爆弾の搬送に原告前林が関与している旨の供述をしたことを説明するとともに、増渕が、原告前林の右爆弾事件に関連する部分をことごとく否認しており、なお多くの事実を隠していると思われるので、一度は原告前林の犯行関与を認める供述をしたことがある同年三月一三日の原点に戻って増渕を調べ直すよう指示した。

右の指示を受けた津村検事は、増渕から日石・土田邸事件の真相を聞き出すためには増渕の原告前林をかばう供述態度を改めさせることが必要であると考え、同年四月九日午前九時三〇分ころからの取調べで、増渕に対し、夫婦の愛情と社会的責任は別であり、社会的責任を果たすため真実を述べるように説得したところ、同人は、ついに、土田邸事件の爆弾は、自分と原告前林が松本の運転する車で神田に行き、原告前林に南神保町郵便局から発送させたこと、日石事件の爆弾は、自分と原告江口が原告堀の運転する車で新橋に出て、同所で原告前林と合流し、同人と原告江口に発送させたことを供述した。

(3) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月九日、石崎警部に対し、日石事件当日の爆弾搬送に関する前日の供述を変更し、昭和四六年一〇月一六日白山自動車で原告堀から爆弾を預かってこれを保管し、同月一八日朝増渕と原告江口がこれを受け取りに来て、これを持って徒歩で出かけたと供述した。

(4) 松村の供述

松村は、昭和四八年四月九日、坂本警部補に対し、昭和四六年九月一八日ころ日大二高で爆弾郵送の話合いをした状況や、日石事件後の同年一〇月二三日日大二高で日石爆弾が失敗した原因を話し合った状況等について供述した。

(一三) 原告榎下及び松本の土田邸事件による逮捕

捜査本部は、昭和四八年四月九日までの捜査の結果、原告榎下について、日石事件に関し、昭和四六年一〇月一六日に原告堀から日石爆弾を預かって白山自動車内のトヨエース・バンの中に保管し、同月一八日に右爆弾を増渕と原告江口に渡したとの容疑を抱くとともに、土田邸事件に関し、同年一二年一日ころ及び同月一〇日ころの二回にわたり増渕らを車に乗せて南神保町郵便局の下見に赴いて土田邸事件の犯行を幇助したとの容疑が濃厚であると判断した。また、松本について、昭和四六年一二月一七日午前一一時ころ、土田邸爆弾を所持した増渕と原告前林を自宅付近から自動車に乗せて南神保町郵便局近くまで運転し、増渕らの土田邸事件の犯行を幇助したとの容疑を固めた。

そこで、捜査本部の警察官は、昭和四八年四月一〇日、東京簡裁裁判官から逮捕状の発付を得て、原告榎下及び松本を土田邸事件に関する右の各容疑で逮捕した。

(一四) 昭和四八年四月一〇日から同月一三日までの捜査状況

(1) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月一〇日、石崎警部に対し、日石事件当日の勤務先の状況等について詳細な取調べを受けているうち、日石事件当日、爆弾を持った増渕らを新宿まで車で送り、中村(隆)に引き継いだと供述を改め、また、同月一一日、同警部に対し、日石事件の筆跡隠ぺいのための準備に関与したことなどを供述し、さらに、同月一二日には、同警部に対し、日石事件に関する従前の供述の一部を変更し、原告堀から爆弾の発送のため増渕らを車で送るよう依頼された時、新宿までは原告榎下、新宿から新橋までは中村(隆)、新橋から習志野までは坂本に頼んであると言われたこと、事件後、坂本から、増渕と原告前林を習志野まで運んだと聞いた旨を供述し、さらに、同日夕刻から夜にかけ、東京地検で神崎検事に対し、日石事件で自己が担当した搬送の詳細や坂本から習志野へ行った時の状況につき聞いた内容を供述した。

また、同月一三日、原告榎下は、石崎警部に対し、日大二高で増渕から日石事件の爆弾の構造について説明を受けたこと、昭和四六年一一月二三日ころの夜、日大二高で、増渕、原告堀、同江口らと、次は爆弾を改良して土田邸事件を実行する旨を謀議したことを供述した。

(2) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年四月一〇日、高橋警部補に対し、原告江口と同前林に日石事件の爆弾を郵送させたことや、警察庁長官と成田空港総裁の宛名を書いて、筆跡集めをしたことを供述し、さらに、四月一三日には、同警部補に対し、日石事件に関し、攻撃目標を警察庁長官と成田空港総裁に決定した時期や爆弾を昭和四六年九月一一日ころ喫茶店「ウィーン」で原告堀に渡すまでの経緯、同年一〇月一八日朝、荻窪のバス停で原告江口と合流し、原告榎下や中村(隆)の運転する車を乗り継いで日石郵便局へ行った状況等につき供述した。

(3) 松村の供述

松村は、昭和四八年四月一〇日、翌一一日の両日、坂本警部補に対し、昭和四六年九月下旬に増渕、原告堀、同江口に宿直室を貸した状況や日石事件後の同年一〇月二三日、増渕らと日石爆弾の失敗の原因等を話し合った状況を供述し、さらに、昭和四八年四月一二日、平塚健治警部補(以下「平塚警部補」という。)に対し、昭和四六年一〇月二三日の話合いの席上、増渕が日石事件の爆弾郵送にはアリバイ工作がしてあると話していた旨供述した。

(4) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、坂本警部補に対し、昭和四八年四月一一日には、日石事件の当日、原告榎下に頼まれ、増渕と原告江口を車に乗せて新宿西口公園から新橋まで行き、原告前林と合流し、さらに、爆弾郵送後、増渕と原告前林を習志野まで送った旨と、日石事件後、日大二高で同事件につき検討し、次の闘争の任務分担を決めた状況につき供述し、同月一二日及び同月一三日には、昭和四六年九月の日大二高での謀議後、ノブ付きの手持ちのマイクロスイッチや、秋葉原で購入した作動線の付いたマイクロスイッチ等を原告榎下や増渕に渡した経緯につき供述するとともに、日石事件の当日増渕らを新橋まで搬送したことについて前日の供述の一部を変更し、昭和四六年一〇月一六日ころ、「サン」で原告榎下、中村(隆)、坂本の三名が増渕と原告堀から搬送を依頼された旨及び日石事件当日爆弾を発送した後、増渕らを車で送り坂本に引き継いだことを供述した。

(5) 原告堀の供述

原告堀は、昭和四八年四月一一日、東京地検で親崎検事に対し、日石事件当日、勤務後、白山自動車へ立ち寄った際の原告榎下の態度や、自分が原告榎下に増渕を車で新橋へ乗せて行くよう頼んだような記憶もあることにつき供述し、同月一二日は、弁護人の接見後、岩間警部補に対し、増渕と日石事件の爆弾搬送を原告榎下に依頼し、爆弾を原告榎下に預けたことや、同事件当日の夕方、原告榎下から爆弾搬送の状況を聞いたことを供述した。

(6) 松本の供述

松本は、昭和四八年四月一一日、鬼嶌正雄警視(以下「鬼嶌警視」という。)に対し、昭和四六年一二月一七日に増渕、原告前林及び同堀を高橋荘から駿河台交差点付近まで車で送ったことの概要のほか、その前日の一六日午後九時前ころ、小包様の物を持った原告前林と増渕を阿佐ヶ谷の店から高橋荘まで車で送った状況、同年一一月下旬の午後と一二月上旬の午後の二回にわたり、増渕の依頼で、南神保町郵便局の下見を手伝った状況等について供述し、昭和四八年四月一二日、市川検事にも同旨の供述をした。

(7) 中村(泰)の供述

中村(泰)は、昭和四八年四月一一日、神崎検事に対し、昭和四六年一二月一一日に預かった箱様の品物が爆弾である旨供述し、昭和四八年四月一二日、古賀時雄警部に対しても、同様の供述を繰り返すとともに、昭和四六年九月中旬ころ、増渕、原告堀から爆弾郵送の相手方を教えられたこと、同年一〇月高橋荘で宛名書きの練習をした時、原告堀から爆弾はでき上がっていることを聞いたことを供述した。

(一五) 原告榎下及び坂本の日石事件による逮捕

昭和四八年四月一一日までの捜査の結果、原告榎下が、日石事件に関し、日大二高における謀議への参加、日石郵便局の下見、日石爆弾の保管、日石爆弾のリレー搬送等への関与等によって、増渕らと共にこれを敢行した嫌疑が濃厚になったことから、捜査本部の警察官は、同月一二日、東京簡裁裁判官から逮捕状の発付を得て、同日、原告榎下を日石事件の正犯容疑で逮捕した。

また、同月一二日までの捜査の結果、坂本が日石爆弾のリレー搬送に関与した嫌疑も濃厚となったことから、捜査本部の警察官は、同月一三日、東京簡裁裁判官から逮捕状の発付を得て、同日、坂本を日石事件の正犯容疑で逮捕した。

(一六) 原告榎下、松本及び坂本の勾留

原告榎下について昭和四八年四月一二日に土田邸事件幇助容疑で、翌一三日に日石事件正犯容疑で各送致を受けた親崎検事は、原告榎下に対する土田邸事件及び日石事件についての嫌疑が十分に認められた上、事件が組織的で複雑かつ重大であることから、罪証隠滅や逃走のおそれもあり、勾留の必要が認められたため、同日、右両事実で東京地裁裁判官に勾留を請求し、翌一四日、勾留状の発付を得て即日執行した。

松本について同月一二日に土田邸事件容疑で送致を受けた親崎検事は、土田邸爆弾搬送による土田邸事件幇助の嫌疑が十分認められた上、原告榎下におけると同様、勾留の必要性も認められたため、同月一三日、東京地裁裁判官に勾留請求し、同日、勾留状の発付を得て即日執行した。

また、坂本について同月一五日に日石事件の正犯容疑での送致を受けた親崎検事は、坂本に対する日石事件についての嫌疑が十分認められ、他の者と同様、勾留の必要性も認められたため、同月一六日、東京地裁裁判官に勾留を請求し、同日、勾留状の発付を得て即日執行した。

(一七) 昭和四八年四月一四日の捜査状況

(1) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月一三日、日石・土田邸両事件について、殺人、同未遂罪及び爆発物取締罰則違反(いずれも共同正犯)の罪名で勾留請求され、翌一四日、勾留質問を受けた際、裁判官から読み聞かされた右の各被疑事実につき、「事実は其の通り相違ありません。」と述べて、すべての被疑事実を認めた。

原告榎下は、同日の勾留質問を終えて帰署した後、石崎警部の取調べを受け、昭和四六年一〇月一二日ころの夜、原告江口のアパートで、増渕、原告掘、同江口、同榎下、中村(隆)、金本が日石爆弾を製造したこと及び同年一二月八日ころの夜、同じく原告江口のアパートで、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本が土田邸爆弾を製造したことを供述し、さらに、爆弾製造の材料、作業の分担、作業内容の概要などをも供述した。

(2) 松本の供述

松本は、昭和四八年四月一四日、鬼嶌警視に対し、昭和四六年一二月ころの夜増渕と原告堀らを車に乗せ雑司が谷二丁目周辺へ行ったことなどを供述した。

(3) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、昭和四八年四月一四日、坂本警部補に対し、マイクロスイッチの購入を原告堀らから依頼された時期やマイクロスイッチを秋葉原で購入し原告榎下と共に増渕のアパートへ持参して結線方法を図に書いて増渕に説明したことなどにつき供述した。

(4) 坂本の供述

昭和四八年四月一三日に逮捕された坂本は、翌一四日夜、江藤警部に対し、喫茶店「サン」で、原告堀から依頼され、日石事件当日、新橋から習志野まで増渕と女二人(一人かも知れない。)を車に乗せて行ったことを供述した。なお、坂本は、翌一五日午前中、根本宗彦警部補(以下「根本警部補」という。)の取調べにおいて、右事実をいったん否認したが、その後、再度具体的な自供をしたことから、同警部補が調書を作成した。また、坂本は、同日、栗田検事に対し、同様の供述をした。

(一八) 昭和四八年四月一五日から同月一七日までの捜査状況

(1) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年四月一五日、津村検事に対し、昭和四六年九月中旬ころ日大二高で原告堀と共に同榎下、中村(隆)、松村をオルグしたこと、そのころ松村から電話帳をもらったこと、原告榎下が同堀から頼まれたといって届けてきた塩素酸カリなどの入った段ボール箱を原告江口に渡したこと、同年一〇月上旬ころ高橋荘で筆跡集めをしたこと、原告江口と同前林に日石爆弾の発送を頼んだこと、同年一〇月一八日朝、原告榎下に預けておいた日石爆弾を同人から受け取り、同人の車で新宿に出て、中村(隆)の車に乗り継いで新橋に至り、原告前林と合流したこと、その後日石爆弾を原告江口と同前林に発送させたことなどを供述した。

(2) 松本の供述

松本は、昭和四八年四月一五日、鬼嶌警視に対し、増渕から爆弾闘争の話を聞いた経過を説明する中で、昭和四六年九月末から一〇月上旬ころにかけ、日石ビル周辺や新宿区下落合周辺を下見したこと、そのころ増渕から横浜へ行くよう指示されたが断ったこと、その後、同年一一月下旬から一二月上旬にかけ、駿河台下交差点付近の郵便局や雑司が谷周辺を下見したこと、同年一〇月一三日ころ、増渕から新橋へ爆弾を運ぶのを手伝うよう言われたが断ったことなどを供述した。

(3) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月一五日、石崎警部に対し、土田邸事件に関し、昭和四六年一一月下旬日大二高で増渕らと土田宅へ爆弾を郵送することを話し合ったこと、同年一二月六日ころ中村(隆)と増渕方へ行き、マイクロスイッチ等を届けたこと、自己が爆弾製造用の材料を用意したこと、金本が爆薬を調達したと本人から聞いたこと、爆弾製造に際し中村(隆)がスイッチの取り付け、原告榎下が電池の取り付けをしたことなどを供述した。

(4) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、昭和四八年四月一五日から同月一七日にかけ、坂本警部補に対し、昭和四六年九月の日大二高での爆弾闘争についての話し合いの後、爆弾製造材料の銅板とアルミ板を原告榎下と同堀に渡したこと、同年一一月初旬マイクロスイッチを秋葉原で購入し、増渕に渡して爆弾の配線図を説明したこと、同年一二月一六日ころの夜増渕のアパートで、増渕、原告前林、同堀、同江口、同榎下、坂本及び金本と土田邸爆弾を造ったこと、土田邸爆弾製造時の任務分担、作業手順の詳細などにつき供述した。また、マイクロスイッチの端子に赤印を付けた旨も供述した。同供述は、同月一八日に調書に録取された。

(5) 原告堀の供述

原告堀は、昭和四八年四月一七日、岩間警部補に対し、日石事件の爆弾を増渕から受け取って預かり、増渕の指示で事件当日まで原告榎下に預けた事実の詳細を供述した。

(一九) 中村(隆)及び松村の逮捕・勾留

(1) 中村(隆)の日石事件による逮捕・勾留

捜査本部の警察官は、昭和四八年四月一二日、東京簡裁裁判官から中村(隆)の逮捕状の発付を得て、同月一五日、同人を日石事件の正犯容疑で重ねて逮捕した。

親崎検事は、同月一七日、中村(隆)の送致を受けたが、同人が日石事件の犯行に加功している嫌疑は十分認められるものと判断し、事案の重大性、組織性、複雑性等にかんがみ、逃亡、罪証隠滅のおそれも極めて大きいと考え、四月一七日、東京地裁裁判官に中村(隆)の勾留を請求し、これが認められた。

(2) 松村の日石・土田邸事件による逮捕・勾留

警察官は、昭和四八年四月一六日、東京簡裁裁判官から松村の逮捕状の発付を得て、同人を日石・土田邸事件の各正犯容疑のほか、日石・土田邸爆弾製造(爆発物取締罰則三条違反)容疑で逮捕した。

親崎検事は、同月一七日、松村の送致を受けたが、同人が逮捕後こそ被疑事実を全面否認したものの、同人の逮捕前の供述や増渕らの供述等により日石・土田邸事件の正犯としての嫌疑が十分認められるものと判断し、前同様勾留の必要性も認められたことから、同日、東京地裁裁判官に松村を日石・土田邸事件の正犯容疑で勾留請求し、翌一八日、これが認められた。

なお、親崎検事は、松村に対する日石・土田邸爆弾製造容疑については、当時の原告榎下、中村(隆)両名の供述より、松村が爆弾製造の共謀共同正犯であると認定できたものの、松村が爆弾製造に直接参加したとは認められなかったことから、松村に対する右勾留請求事実から除外した。

(二〇) 昭和四八年四月一八日及び同月一九日の捜査状況

(1) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月一八日、石崎警部の取調べにおいて、同月一六日に中村了太弁護士を選任したこと、その後事件のことをいろいろと考えて心の整理ができたことを前置きした上で、日石・土田邸事件の爆弾製造についての従前の供述を変更し、これらの爆弾を製造した場所はいずれも高橋荘であると供述するとともに、昭和四六年一〇月七日ころ高橋荘で雷汞を作成した状況、同月九日ころ高橋荘でセロファンフォイルに雷汞を入れ雷管を作った状況、同年一一月二四日ころの土田邸事件に関する日大二高での謀議の際、増渕が爆弾は二個造り一個は土田警視庁警務部長(当時)へ一個は防衛庁長官に送る旨述べた状況、同年一一月二七日ころ原告江口のアパートで硝化綿を造った状況、同年一二月三日ころ高橋荘でアルミホイルに雷汞を入れ雷管を造った状況、同月八日ころ高橋荘で土田邸事件の爆弾を製造した状況等について、極めて重要な供述をした。原告榎下は、昭和四八年四月一九日にも、引き続き爆弾製造時の配線作業の詳細について供述したほか、土田宛に送る爆弾は中村(泰)に預けたと聞いたが、もう一個の爆弾は増渕らが伊豆妻良で爆発実験に使ったと聞いた旨供述した。

(2) 原告堀の供述

原告堀は、昭和四八年四月一八日、東京地検において、親崎検事に対し、昭和四六年九月ころ日大二高で増渕が小包を開くと爆発する爆弾について話をしたこと、同年一〇月中旬ころ喫茶店「サン」で原告榎下に月曜日に増渕を乗せて新橋まで行ってくれと頼み、その後、原告榎下に爆弾を預けたこと、日石事件当日の夕方原告榎下から増渕らを乗せて新橋へ行ってきたと聞いたことなどを供述し、さらに、昭和四八年四月一九日午前中に親崎検事に対し、同日午後に多田巡査部長に対し、昭和四六年一〇月ころ、多摩町役場から事務服一着を持ち出し原告前林に渡したことをそれぞれ供述し、同供述は、多田巡査部長が調書に録取した。

(3) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、昭和四八年四月一八日、坂本警部補に対し、土田邸爆弾を造るのに用いた道具は、ボンナイフ、切り出し、プラスチック棒と板、ラジオペンチ、ハサミ、毛筆などであり、材料は、木箱、弁当箱、マイクロスイッチ、乾電池、バッテリースナップ、ガスヒーター、豆球ソケット、スーパーセメダイン、豆ラッカー、爆薬、アルミホイルなどであること、土田邸爆弾を製造した日は、原告堀がボーナスをもらってブルジョアになったと言っていたことから、昭和四六年一二月初旬であることなどを供述した。

(4) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年四月一九日、津村検事に対し、日石事件の爆弾の郵送に関し、原告江口と同前林を発送担当者とした経緯、昭和四六年一〇月一六日ころの喫茶店「サン」における謀議の状況、同月一八日の爆弾搬送の状況、爆弾発送後、日石付近に来ていた坂本運転の車に原告前林が乗って習志野に向かい、原告江口、増渕が中村(隆)の車で東京駅へ行った状況等につき供述した。

(二一) 金本の土田邸事件による逮捕・勾留

警察官は、昭和四八年四月一八日、東京簡裁裁判官から逮捕状の発付を得て、翌一九日、金本を土田邸事件の正犯容疑で逮捕した。

親崎検事は、同月二一日、金本の送致を受けたが、金本が逮捕直後は容疑事実を否認したものの、その翌日には自白に転じ、同月二一日の検察官による弁解録取の際にも、爆弾であることを承知の上で包装したことを明確に認める供述をしたほか、同人が土田邸爆弾の製造に関与したことについては、原告榎下、中村(隆)らのそれまでの供述によっても裏付けられていたことから、その嫌疑は十分に認められると判断し、他の被疑者と同様勾留の必要性も認められたので、同日、東京地裁裁判官に勾留を請求し、その請求が認められた。

(二二) 昭和四八年四月二〇日以降公訴提起までの捜査状況

(1) 増渕の供述

増渕は、昭和四八年四月二四日、津村検事に対し、昭和四六年一〇月上旬に高橋荘で日石事件の爆弾二個を製造したこと及びこれに使用した雷管二個を高橋荘で造ったこと、また、雷汞、硝化綿をその二、三日前に高橋荘で造ったこと、同年一〇月下旬、日大二高で日石事件を総括して、更に完全なトリック装置をつけた小包爆弾を造ることにしたこと、同年一一月下旬、日大二高で南神保町郵便局から土田に対し小包爆弾を郵送することを決めたこと、同年一二月上旬、高橋荘で土田邸へ送る爆弾を製造し、雷管にはアルミホイルを用いたことを供述した。さらに、増渕は、四月二五日に日石事件の概況を、同月二六日に土田邸事件の概況をそれぞれ供述した上、同月二九日には土田邸事件についての全般的供述をし、その中で、昭和四六年一二月一五日ころ、松本に爆弾の保管と同月一七日に神保町へ車を運転して行くことを依頼し、手提げ袋に入った爆弾を預け、同月一七日、松本運転の車で原告前林と共に神保町へ行った状況を供述した。

(2) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月二〇日、神崎検事に対し、日石事件に至る経緯を供述し、その際、日石爆弾搬送について喫茶店「サン」で増渕から指示を受けた状況を説明し、翌二一日、土田邸事件に至る経緯について詳細に説明した。また、同日、原告榎下は、石崎警部に対し、土田邸爆弾の搬送について、自らも松本、中村(隆)、坂本と共に関与した旨を供述した。

なお、原告榎下は、同月二八日、石崎警部の取調べに対し、土田邸事件で製造した爆弾は二個でなく一個であると、従来の供述を訂正してその変遷の理由を述べ、さらに、土田邸事件の爆弾を新宿まで搬送する際の自己の関与を否定する供述をするとともに、翌二九日、神崎検事に対し、同様の供述をした。

(3) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、昭和四八年四月二〇日、坂本警部補に対し、土田邸事件の爆弾製造状況について説明し、同爆弾を製造した際、松本が見張りをしたことや、事件後、原告榎下から、同原告は同事件について下見をしただけで、土田邸爆弾の搬送をしたのは松本であったと聞いた旨供述し、翌二一日午前中には、土田邸爆弾に使用したマイクロスイッチの構造や購入場所について供述し、同日午後には、秋葉原での実況見分において、マイクロスイッチの購入店を説明した。さらに、中村(隆)は、同月二八日、原告榎下に手製スイッチの作り方を教えた状況を供述し、同年五月三日には、土田邸事件の爆弾の起爆装置の状況や同爆弾の製造現場でアルミホイルを見た状況等について供述し、同月八日には、市川検事に対し、土田邸事件の爆弾製造状況の詳細を供述した。

(4) 松本の供述

松本は、従前、土田邸事件の爆弾を駿河台交差点付近まで搬送した際、原告堀が同道した旨供述していたが、昭和四八年四月一八日、鬼嶌警視から右供述の真偽を追及された際、土田邸事件の爆弾搬送を否認し、爆弾らしい小包を運んだのは昭和四六年一〇月ころである旨弁解したが、昭和四八年四月二〇日午後六時ころからの江藤警部の取調べにおいて、土田邸爆弾を搬送したことを再度自供するとともに、爆弾を搬送した際自動車に乗せて行ったのは増渕と原告前林であり、同堀については同人に対する憎しみから同人も同道したと嘘をついたと供述した。さらに、松本は、翌二一日、鬼嶌警視に対し、昭和四六年一二月初旬の夜、土田邸爆弾の製造に関与した状況(坂本とともに外での見張り)、同月一五日夜、増渕と原告前林から爆弾を預かった際の状況、同月一七日に爆弾を郵送するため増渕と原告前林を駿河台交差点手前まで運んだことなどを供述し、昭和四八年四月二五日には、市川検事に対し、同様の供述をした。

(5) 坂本の供述

坂本は、昭和四八年四月一六日に勾留された後、日石事件当日習志野へ行ったことを否認する態度をとってきたが、同月二一日夜、根本警部補の取調べに対し、日石爆弾を搬送したことを再び自供したほか、土田邸事件の爆弾を製造した際、戸外で見張りをしたこと、昭和四六年一二月一七日の土田邸事件の爆弾搬送にも関与したことを供述し、土田邸事件の爆弾搬送に関与したとの供述は間もなく撤回したものの、土田邸事件の爆弾製造に関与したとの供述はこれを維持し、昭和四八年四月二三日、栗田検事に対しても、同様の供述をした。

(6) 原告堀の供述

原告堀は、昭和四八年四月二一日、岩間警部補に対し、昭和四六年一〇月一六日、増渕と共に白山自動車に行って原告榎下と中村(隆)に会い、四人でスナックへ行き、同月一八日午前中に増渕が新橋へ爆弾を運ぶのを原告榎下が車で送り届けることを確認した旨供述し、さらに、昭和四八年四月二三日には、右会合に坂本も参加していたこと及び昭和四六年九月中旬、日大二高で増渕が爆弾郵送の話をして、中村(隆)、原告榎下、松村らに協力を依頼し、増渕から爆弾を造る役割を指示されたことを供述した。

また、原告堀は、昭和四八年四月二四日、岩間警部補に対し、昭和四六年一〇月下旬、日大二高で日石事件の結果について話し合い、引き続き爆弾闘争を続けることを確認した旨の供述をし、昭和四八年四月二五日には、増渕と一緒に、日大二高で宿直中の松村から電話帳一組を借りたことを供述した。

そして、原告堀は、昭和四八年四月二六日、岩間警部補に対し、土田邸事件の爆弾製造現場に居合わせたことを供述し始め、翌二七日には、親崎検事に対し、昭和四六年一二月初旬ころの夜、金本を誘って高橋荘へ行き、畳の上に新聞紙のようなものを敷き、その上で爆弾製造作業をし、坂本と松本が外で見張りをした旨供述し、昭和四八年四月二九日には、岩間警部補に対し、右同旨の供述をしたほか、金本が爆弾を包装した旨供述し、同年五月二日には、日大二高の松村から借りた電話帳を増渕方に運び、増渕の指示する一〇人くらいの住所を調べたことを供述し、同月三日には、親崎検事に対し、右同旨の供述をした。

(7) 金本の供述

金本は、昭和四八年四月二〇日、千葉繁志、若林秀康両巡査部長に対し、昭和四六年一二月上旬、原告堀や中村(泰)と共に高橋荘に行った際、手製爆弾を包装結束した旨供述し、昭和四八年四月二七日には、平塚警部補に対し、昭和四六年一二月初めころの夜原告堀と高橋荘に行き、原告前林と共に爆弾の包装を担当し、毛筆であて名を書いた状況を、昭和四八年四月二九日には、土田邸事件の爆弾を製造した際、原告江口、中村(隆)、坂本も加わっていたことなどを供述し、さらに、同年五月五日、平塚警部補に対し、土田邸爆弾の包装作業の詳細を供述し、二重包装やガムテープの使用方法を明らかにするため、包装状況を実演するとともに、あて名書きについて供述し、同月六日には、神崎検事に対し、同様の供述をした。

(8) 松村の供述

松村は、昭和四八年四月二二日、平塚警部補に対し、昭和四六年一一月一三日と思われる日の夜、日大二高職員室で土田邸への爆弾郵送を相談したこと及び同年一二月一五日、原告堀から爆弾の郵送日が決まったとの連絡を受けたことを供述し、昭和四八年四月二三日、同供述が調書に録取された。また、松村は、同年五月二日、栗田検事に対し、同様の供述をした。

(二三) 捜査の終局と原告堀、同榎下、同江口、同前林、増渕、中村(隆)、中村(泰)、松本、松村、坂本及び金本に対する公訴提起

親崎検事は、右に述べた捜査によって得られた証拠に基づき、後記(第四、九、4、(一)ないし(三))のとおりの事実を認定し、各被疑者の勾留期限を考慮しつつ、昭和四八年四月三〇日中村(隆)、中村(泰)を土田邸事件(中村(泰)は爆発物取締罰則五条違反)で、同年五月二日原告榎下、同前林を土田邸事件で、同月五日増渕、原告前林、同堀、同江口、同榎下及び中村(隆)を日石事件で、松村を土田邸事件の幇助で、坂本を日石事件の幇助で、同月一〇日金本を土田邸事件の幇助で、それぞれ東京地裁に起訴した。

4  検察官が捜査の終局段階で認定した日石・土田邸事件の概要

前記認定事実及び<証拠略>によれば、検察官が、捜査の終局段階で認定した日石・土田邸事件の概要は次のとおりであったことが認められる。

(一) 爆発物の郵送を計画するまでの経緯等

(1) 犯行の動機

増渕は、革命のためにはその前段階として社会不安を惹起させることが必要であり、その手段として爆弾闘争が効果的であると考え、昭和四四年にピース缶爆弾を製造し、これを使用して闘争を行ってきたが、昭和四五年五月ころになると、当時赤軍派中央委員の梅内恒夫から指示されて「世界革命情報」に掲載された雷管などの造り方に関する記事を読んで研究し、同年六月ころ、当時増渕らがアジトとして利用していた梅津の居室において、原告江口の協力を得て、当時赤軍派中央委員の森恒夫らと共に、雷汞、硝化綿など起爆材料の製造及びこれら起爆材料を用いた手製雷管の製造技術を身につけ、更にそのころ、右梅津方において、原告江口、同前林らと共に、爆弾を収納した箱の蓋を開ければ爆発する装置を施した爆発物(六月爆弾)を作り、これを千葉県上総興津海岸に運んで爆発実験(興津実験)をするなどして、近い将来この種の爆弾を使用した闘争を行うことを期していた。

原告堀は、右爆発物やその材料を自宅に預かり保管するなどして、増渕の考えや行動に同調していた。

その後赤軍派から離脱した増渕は、昭和四六年六月一七日に発生したいわゆる明治公園鉄パイプ爆弾事件を契機として、いよいよ爆弾闘争時代に突入したものと判断し、自ら爆弾闘争に取り組むことを決意したが、大きな組織を持たない同人としては、小人数で実行でき、かつ、爆発により証拠を残さない方法で人を殺害し社会不安を招来させるには、爆発物を収納した箱の蓋を開け、あるいは爆発物の包装を解くことによって爆発する装置を施した爆弾を製造し、これを小包郵便物にして権力機関の要人へ郵送することが最も効果的であると考えるに至り、その実行を決意した。

(2) 増渕と原告堀、同江口による基本方針の協議、決定

増渕は、右計画を実行に移すため、昭和四六年七月中旬及び同年八月下旬ころの二回にわたり、原告堀及び同江口を、原告堀と親交のあった松村が事務職員として勤務していた日大二高の職員室等に集め、両名に対し、爆弾闘争時代に入ったので自分達も爆弾闘争を行うべきであること、蓋を開ければ爆発する爆弾を造りこれを権力機関の要人に郵送して人を殺害する計画を実行することを打ち明け、同原告らに対し右計画の実行に加担するように求め、原告堀、同江口もこれに賛同した。さらに、増渕ら三名は、右計画について協議した結果、増渕が総指揮、爆薬についての知識と製造技術を有する原告江口が爆弾製造関係、原告堀が権力機関等の調査と爆弾郵送関係をそれぞれ担当するとの基本方針を決定した。

(3) 事前準備

昭和四六年九月上旬ころ、原告堀は、かねて増渕から預かっていた爆弾製造に必要な薬品、材料などの入った段ボール箱を原告榎下に命じて増渕が居住していた高橋荘に運ばせ、増渕に渡した。

同月中旬ころ、増渕と原告堀は、松村に依頼して日大二高職員室備付けの電話帳五冊を持ち出し、小包爆弾の送り先及び送り主とすべき者一〇名くらいを選び、高橋荘などで、右電話帳によってその住所などを調査してメモした。

(二) 日石事件

(1) 共謀成立の経緯

<1> 日大二高における共同謀議

増渕及び原告堀は、右小包爆弾郵送計画を実行する補助者の必要を感じ、まず、昭和四六年九月七日ころの夜、日大二高職員室に松村を訪ね、同人に対し、小包爆弾郵送による爆弾闘争の必要性を説き、同人が当直勤務のときには同人によって同校の管理が行われることを利用し、関係者が集まりやすく、かつ警察官の出入りもない同校を連絡、協議の場所として提供するように依頼し、同人もこれに同意した。

次いで、増渕は、原告堀に対し、爆弾の製造及び郵送の補助者となるべき要員を日大二高に集めるよう指示し、原告堀は、同年九月一七日ころ、日大二高時代の同級生で卒業後も親交のあった原告榎下に電話連絡して同校へ集まるよう依頼した。

松村が当直勤務であった同年九月一八日ころの夜、日大二高職員室に、増渕、原告堀、同江口をはじめ、原告堀から電話連絡を受けた原告榎下、同人から誘われた中村(隆)が集まり、さらに、松村も加わって、増渕を中心に右六名が小包爆弾郵送計画について協議した。

その席上、増渕は、原告榎下、中村(隆)、松村の三名に対し、「革命のためにはテロが必要であり、これからは爆弾闘争によって権力を倒さなければならない。開ければ爆発する装置付きの小包爆弾を権力の要人に郵送するので、その計画の実現に協力してくれ。」などと説明して説得し、さらに、原告堀、同江口もこれに同調する態度を示して原告榎下ら三名を説得したため、原告榎下らは、それぞれ右計画の実現に加担することを約束した。

そこで、増渕は、原告榎下、中村(隆)、松村に対し、小包爆弾の製造は増渕と原告江口が担当し、爆弾の送り先等の調査及び関係者間の連絡などは原告堀が担当する旨を説明した上、原告榎下に対し、小包爆弾を発送する郵便局や送り先の住居などの下見に必要な自動車の提供とその運転を指示し、中村(隆)に対し、爆弾製造に必要な部品の入手や起爆装置に関する技術の提供を求め、松村に対し、爆弾材料となる薬品の入手や連絡、謀議の場所の提供を求めた。

これに対し、原告榎下は、右の自動車の提供及び運転を承諾し、中村(隆)は、爆弾の収納箱の蓋を開ければ爆発する装置に必要なスイッチの構造や配線に関する知識を提供して犯行に加わる意向を明らかにした。松村は、謀議の場所として当直の際に日大二高職員室などを提供することについては重ねて同意したが、薬品の入手については増渕の要請を断った。

ここに松村を除き、増渕、原告堀、同江口、同榎下及び中村(隆)の間に、小包爆弾を警察幹部など権力機関の要人に郵送して爆発させ、治安を妨げるとともに、郵送の名宛人やその家族など爆発の現場に居合わせた者を殺害するという犯行についての共同謀議が成立した(日石二高謀議)。

<2> 原告前林との共謀

原告前林は、増渕の内妻で、高橋荘において増渕と同棲していたものであり、昭和四六年六月、増渕が小包爆弾郵送の実行を計画して以来、同年九月下旬ころに至るまでの間、同人が高橋荘において松本、中村(泰)らに右計画を打ち明けて同調を求めた際、その場に同席し、あるいは爆弾材料の搬入及び郵送先等の住所調べの現場に居合わせるなどして、増渕の小包爆弾郵送の意図を知悉し、右計画の実現につき増渕と行動を共にすることを決意し、増渕においても、原告前林をも本件犯行に加担させることとして、同年九月末ころまでに、両者の間に、前同様の共謀が成立した。

(2) 具体的計画実行の準備

<1> 郵送先等の選定と下見

昭和四六年九月末ころ、増渕及び原告堀は、高橋荘などにおいて協議を重ね、第一回目の小包爆弾を同年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争に向けて権力機関の要人に郵送すること、送り先は警察の最高幹部である警察庁長官後藤田正晴と、いわゆる成田闘争との関連を考慮して、新東京国際空港公団総裁今井栄文の各自宅とすること、これを差し出すべき郵便局を日石郵便局とすること、小包爆弾の送り主名義を、右郵便局に近い中央警備保障株式会社業務部及び東京細田貿易株式会社とすることを、それぞれ決定した。

そして、同年一〇月初旬ころ、増渕は、原告堀、同江口、同榎下と共に、原告榎下の運転する自動車で日石本館ビル付近の下見をし、さらに松本に自動車を運転させて前同様日石本館ビル付近の下見をし、同じく松本運転の自動車で新宿区下落合方面(後藤田正晴の住居付近)の下見をした。

また、増渕は、松本に対し、同年一〇月七日ころ、横浜市緑区(現青葉区)美しが丘方面(今井栄文の住居地付近)の下見に行くよう要請し、さらに、その後間もなく、松本に対し、爆弾郵送当日には自動車の運転を担当するよう依頼したが、同人に断られた。

<2> 筆跡隠ぺいのための準備及び事務服の調達等

小包爆弾の筆跡を隠ぺいするため、昭和四六年一〇月初旬ころの夜、高橋荘に、増渕、原告堀のほか、同前林、中村(泰)、松本が集まり、原告堀が中心となり、サインペンなどを使用して、わら半紙や荷札に原告堀の調査した後藤田正晴など小包爆弾郵送の名宛人や差出人の住所氏名を書き、各人の筆跡を原告堀が集めた。

また、そのころ、同じく高橋荘に、増渕、原告堀のほか、同前林、同榎下らが集まり、右同様の宛名などを書く練習をし、筆跡の隠ぺいを図る準備をした。

さらに、増渕及び原告堀は、小包爆弾を発送する日石郵便局がオフィス街にあるため、右爆弾を同郵便局の窓口に差し出すのは事務員を装った女性がよいと考え、そのための事務服を入手しようと企図し、同年一〇月中旬ころ、原告堀が女性用の濃紺の事務服一着を調達し、これを原告前林に渡した。

(3) 爆弾の製造等と増渕らの犯意

<1> 爆弾の製造

増渕は、爆弾闘争を総力戦と位置づけて全員で小包爆弾の製造を行うこととし、昭和四六年一〇月一二日ころの夜、高橋荘に増渕、原告堀、同江口、同前林、同榎下らが集合し、増渕が作業全般を指揮し、原告江口が増渕と協力して爆薬の調合、充填を行い、原告榎下らが起爆装置のスイッチ部門や電気配線などを担当し、原告堀、同前林がこれらの作業を手伝って、小包爆薬二個を製造した。

<2> 爆弾の構造

右爆弾二個のうち、一個は金属製菓子箱(ユーハイム缶)が外箱として使用され、他の一個は外箱に木箱(カステラ箱)が利用されているが、その構造は、ほぼ同一で、いずれも、アルマイト製弁当箱に、塩素酸ナトリウムを主成分としこれに若干量のクロム酸ナトリウム、砂糖を混合した爆薬を充填したものであった。また、起爆装置は、増渕がガス点火用ヒーター豆ソケットを用いてかねてから作ってあった手製雷管を使用し、これにアルミニウム片二枚を絶縁して重ね、その中間にメジャー布地片、洋服生地片を挿入して絶縁体とした簡易な手製のスイッチと乾電池とをビニール絶縁線で結合させて電気回路を形成させたものであった。爆弾本体と起爆装置の結合方法は、爆弾本体である弁当箱の爆薬中に起爆装置の一部である手製雷管を埋め込み、右弁当箱、スイッチ、乾電池を外箱内部にテープなどで取り付けて固定し、外箱の蓋の一部に穴を開け、その穴からスイッチの絶縁体であるメジャー布地片、洋服生地片を出し、包装紙からも絶縁体が外へ出るようにして包装した上、絶縁体を包装紙に貼り付けたものであって、爆弾の爆発は、右包装を解くことにより絶縁体が手製スイッチからはずれて通電し、雷管に点火し、これが起爆作用を起こして爆弾本体が爆発するというものであった。

<3> 爆弾の威力と増渕らの犯意

右のようにして完成した各小包爆弾の爆力は、これをダイナマイトのそれに換算すると、新桐ダイナマイト約一七〇グラムに相当する破壊力を有し、その爆発により人を爆死させるに十分な威力を持っていた。

右小包爆弾の製造に関与するなどしてその組成、構造等を知悉していた増渕、原告堀、同江口、同前林、同榎下、中村(隆)らは、本件小包爆弾の殺傷力を十分に認識しつつ、その送り先である後藤田正晴、今井栄文はもちろん、情を知らずに右小包爆弾を取り扱う同人らの家族、郵便局員等をして、その包装を解きあるいは投てき、落下等の衝撃を加えるなどして爆発させ、これを取り扱う者並びにその現場付近に居合わせた者が爆死するに至ることを意図ないし認容し、あえてこれを郵送することとしたものである。

(4) 実行の経緯

<1> 爆弾郵送のための準備行為

増渕は、右小包爆弾二個を製造した翌日ころの昭和四六年一〇月一三日ころ、これらを手提げ袋に入れて世田谷区千歳台にある石田茂方居室に赴き、同人に対し右爆弾の保管を依頼したところ、同人はこれを引き受けて保管した。同年一〇月中旬ころ、増渕と原告堀は、協議の上、後藤田正晴と今井栄文あての各小包爆弾を同月一八日を期して日石郵便局から郵送することを決定するとともに、同郵便局までの爆弾搬送と同郵便局への差出しの実行行為を原告江口及び同前林に担当させること、同人らを運ぶための自動車の運転者を原告堀において手配することなどを取り決めた。

原告江口は、同月一八日大阪市内の「なにわ会館」で開催される全国衛生技術者協議会に出席のため出張する予定であったことから、増渕及び原告堀は、原告江口が当日東京を離れる直前に爆弾を発送させることとし、同月一四日ころの夜、世田谷区祖師谷の喫茶店「ウィーン」及び料理店「和」において、増渕から原告江口に対し、その旨の指示がされ、同人はこれを了承した。

原告前林については、そのころ同人が原告榎下を介して購入した軽自動車ホンダN三六〇の登録手続を千葉県陸運事務所習志野支所で行うことになっていたことから、爆弾発送後同手続を行うこととし、増渕から原告前林に対し、その旨の指示がされ、同人はこれを承諾した。

増渕及び原告堀は、当初、同月一八日の日石郵便局までの自動車運転を原告榎下に担当させようとしたが、同人は、勤務の都合上新橋までは自動車の運転ができないと断り、また、増渕から新橋まで爆弾を運ぶよう依頼されていた松本も、これを断った。

<2> 爆弾運搬の任務分担

そこで、増渕及び原告堀は、協議の結果、原告榎下と中村(隆)のほか、かつて原告榎下と共に白山自動車で修理工として勤務し原告堀とも親交のあった坂本の三名をして、運転区間を分けて運転を分担させることとし、昭和四六年一〇月一五日ころの午後八時ころ、原告堀が連絡を取り、原告榎下、中村(隆)及び坂本の三名を杉並区上荻一丁目一三番三号所在の喫茶店「サン」に集めた。

増渕及び原告堀は、その席で、右三名に対し、同月一八日午前中に日石郵便局から小包爆弾を郵送することを説明し、そのため三名が自動車を用意してその運転を分担する形で加功するよう指示、説得した。

すなわち、原告榎下に対しては、同人の勤務先である白山自動車を同日午前九時ころ出発し、新宿中央公園の首都高速道路入口近くまで、中村(隆)に対しては、新宿中央公園付近で午前九時四〇分ころ待ち合わせ、同所から日石本館ビルを経てさらに新橋第一ホテル付近まで、坂本に対しては、新橋第一ホテル付近で午前一〇時半ころ待ち合わせ、爆弾の差出しを終わった原告前林を同乗させて千葉県船橋市習志野台まで、それぞれ自動車を運転し、小包爆弾と輸送担当者である原告江口、同前林及びこれに同道する増渕を運搬するよう指示、説得した。このように自動車の運転を分担させ、これを乗り継ぐようにしたのは、原告榎下らが仕事先から抜け出す時間帯を短くするためのほか、発覚した際の弁解(特に各人のアリバイの主張)を容易にするためであった。

これに対し、原告榎下は、勤務中で時間的余裕がないことを理由に承諾をためらったが、増渕から一時間くらいだといわれて引き受け、中村(隆)も承諾をためらったが、原告堀に説得されて承諾し、坂本においても、爆弾を差し出した後、新橋から習志野まで原告前林を運ぶことならば協力するという態度を示し、結局増渕らの指示どおり引き受けた(日石サン謀議)。

増渕及び原告堀は、日石郵便局から郵送すべき小包爆弾二個を、原告榎下に預けておき、同月一八日当日、白山自動車前から出発することとしたため、同月一六日ころの夜、原告堀において、増渕が石田方に預けておいた手提げ袋入りの小包爆弾二個を白山自動車へ運び、原告榎下に同月一八日(月曜日)朝までこれを保管するよう指示し、原告榎下は、これを引き受け、白山自動車において物置代わりに利用していた廃車となった貨物自動車(トヨエース)の中に右爆弾二個入りの手提げ袋を入れて保管した。

<3> 爆弾の運搬と発送

増渕及び原告江口は、昭和四六年一〇月一八日午前九時ころ、白山自動車へ到着した。原告榎下は、原告掘から預かり保管していた小包爆弾二個入りの手提げ袋を原告江口に渡し、増渕と原告江口は、同榎下より先に歩き出し、同榎下は、自動車でその後を追って付近の路上で停車し、増渕を助手席に、原告江口を後部座席に同乗させ、青梅街道を経由し、午前九時四〇分ころ、新宿中央公園の高速道路入口付近で増渕、原告江口を下車させた。

右高速道路入口付近に自動車を停めて待機していた中村(隆)は、増渕を助手席に、原告江口を後部座席に乗せて出発し、高速道路に入り、霞が関ランプから高速道路を出て、虎の門を経て新橋に向かい、午前一〇時二〇分ころ、増渕の指示で、日石本館ビル手前約五〇メートルの路上に停車した。

原告前林は、同ビル前付近歩道上で待機しており、中村(隆)の車から降りた増渕、原告江口と合流し、増渕は間もなく中村(隆)の車に戻った。

原告江口及び同前林は、小包爆弾の入った手提げ袋をさげて、日石本館ビルへ赴き、午前一〇時三〇分ころから三五分ころまでの間に同ビル内の日石郵便局に入り、両名のうち一名が同郵便局窓口へ現れ、二個の小包爆弾を普通の小包のように装って同郵便局郵便係員本田哲郎に差し出し、郵送料金四三〇円を支払った上、情を知らない右本田をしてこれを小包郵便物として受け付けさせた。そして、右小包を差し出した女性は一、二分後に再び窓口に現れ、同郵便係員星野栄に対し、右二個の小包のうち後藤田正晴あて小包に関し、住所が間違っているかもしれないと申し出たが、右星野から「間違っていればこの場で直して下さい。」と言われていったん退出し、原告江口、同前林のうち他の一名が窓口に来て右小包の名あて人の住所氏名を確認して、星野に対し、「間違っていないからお願いします。」と告げ、いち早く同ビルから退出した。

このように、増渕らが右小包爆弾を右郵便局員をして郵便物として受け付けさせたことにより、右爆弾は爆発の現実の危険がある状態におかれるとともに、それが爆発するにおいては他人の爆死を招来する事態に至った。

その後、原告江口及び同前林は、増渕が乗車して待機している前記中村(隆)の自動車に乗り込み、同人は、増渕の指示で車を走らせ、同都港区新橋一丁目一二番一二号の通称第一ホテル前通り付近で増渕、原告江口、同前林を下車させ、坂本の運転する自動車に引き継いだ。

坂本は、同日午前一〇時三〇分ないし三五分ころから右第一ホテル前通りに自動車を停車させて待機し、中村(隆)の自動車が到着すると、増渕及び原告前林を乗車させ、両名を千葉県船橋市習志野台の千葉県陸運事務所習志野支所まで送った。

一方、原告江口は、中村(隆)の車から下車した後、大阪へ赴くため新橋駅方向へ向かった(右の「日石リレー搬送」における運転担当者を、以下、順次、「第一搬送者」、「第二搬送者」、「第三搬送者」ということがある。)。

(5) 爆弾の爆発と実害の程度

日石郵便局係員である星野は、前記の経過で原告江口らから受け付けた小包爆弾二個の内容物について全く知るところがなかったので、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時四〇分ころ、同郵便局において、同小包爆弾二個のうちまず、今井栄文あてのものを、次いで、後藤田正晴あてのものを普通の小包郵便物と同様に窓口カウンター近くの郵袋に高さ約五〇センチメートルの所から落とし込んだが、二個目の小包爆弾を郵袋に落とした瞬間、後藤田あての小包爆弾が弱い爆発を起こし、その直後、今井あてのものが強度の爆発を起こした。右爆発の原因は、小包爆弾を郵袋の中へ落とし込んだ衝撃により、絶縁体スイッチからはずれて通電し、起爆装置が点火爆発したことによるものと推定された。

右爆発により、日石郵便局の床、天井の一部が破壊されるとともに、星野は加療約四〇日を要する顔面及び右耳介部第一度熱傷、右上肢及び胸部第二度熱傷の傷害を負い、同年一一月二六日まで通院しながら自宅療養を続けた。同時に、右爆発は、同郵便局に勤務する者、及び付近住民に重大な衝撃を与えたことはもとより、広く右事件を知った一般市民等に対しても極度の恐怖、不安の念を抱かせ、社会不安を招来した。

(三) 土田邸事件

(1) 共謀成立の経緯

<1> 日石事件の総括

増渕は、日石郵便局内で小包爆弾が爆発したことは失敗であったと評価し、再度権力機関の要人に小包爆弾を郵送して爆発させ、人を殺害し、かつ社会不安を招来させる犯行を計画し、これを実行することとした。

そこで、昭和四六年一〇月二三日ころの夜、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)らが前記日大二高職員室に集まり、当直の松村も加わって、日石事件についての評価と今後の爆弾闘争方針について討論(いわゆる総括)した。

増渕、原告堀、同江口は、その席上、日石事件は失敗であったと評価し、増渕が「この前ははじめてだから失敗もやむを得ない。技術的な検討を加えてもっと精巧な小包爆弾を作り、権力機関に郵送する闘争を続ける。」旨発言し、原告堀も「ここでやめたら今までやって来たことがなんにもならない。」と口添えし、増渕及び原告堀において、原告榎下、中村(隆)、原告江口に対し、引き続いて犯行に加担するよう求め、原告榎下ら三名もこれに加担することを約束した。そこで、増渕は、「任務分担は従前どおりとし、計画が具体化したら連絡する。」旨指示し、全員これを了承し、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)の間に、今後も小包爆弾を郵送し、人を殺害する計画を実行することで意思の一致をみた(以下、これを「日石総括」という。)。

さらに、同月三一日ころの夜、日大二高に、増渕、原告堀、同江口及び同前林が訪れ、松村から同校放送室を借り受け、約一時間にわたり、小包爆弾郵送計画について具体的協議をした。

<2> 犯行の目的

増渕は、柴野春彦ら三名が、昭和四五年一二月一八日板橋区赤塚三丁目四一番地所在志村警察署上赤塚派出所において、強盗傷人事件を惹起し、その際に、警察官が拳銃を発射したことによって柴野が死亡するという事件(上赤塚事件)が発生してから一周年を迎えるに当たり、警視庁警務部長土田國保が右事件当時報道機関に対し右警察官による拳銃発射を正当行為と発表したことに報復するとともに、犯人を柴野らの所属する京浜安保共闘グループによるものと見せかけて捜査の方向を同グループに向けさせることができるものと考え、昭和四六年一一月中旬ころまで数回にわたり原告堀と協議したすえ、第二回目の小包爆弾郵送先を土田國保とし、またその差出人の名義を、原告堀の調査結果に基づき、当時防衛庁防衛局長であった久保卓也とすることを決めた。

<3> 共同謀議の成立

昭和四六年一一月一三日ころ、松村の当直勤務を利用して、日大二高職員室に、増渕、原告堀、同江口、同榎下、同前林、中村(隆)が集合し、これに松村も加わり、土田國保に対して郵送すべき小包爆弾の製造と郵送準備などについて更に具体的な謀議を行った。

増渕は、右出席者に対して、第二回目の小包爆弾郵送計画が具体化したと告げ、その理由を説明した上、「上赤塚事件の一周年記念として、警察官の射殺行為を正当行為と発表した警視庁警務部長土田國保に小包爆弾を郵送することにする。前回はスイッチがまずくて失敗した。爆発力も思ったより弱かったが、今度はより完全なものにする予定であり、発送する郵便局は神田方面にする。」旨説明した。

その席上、原告江口は、「今度はもう少し爆薬を多くする。爆発を前回と同じ塩素酸ナトリウムにするかどうか、今研究中である。」旨発言して加功の意思をあらためて表明した。

次いで、増渕は、原告榎下に対し、今度も下見用の自動車を運転するように指示し、原告榎下もこれを了解した。また、増渕は、日石事件では爆発物のスイッチ部門に欠陥があったと考えていたことから、中村(隆)に対し、どのようなスイッチを使用したらよいかと相談し、中村(隆)は、マイクロスイッチを使用するよう提案してマイクロスイッチの機能について説明し、増渕は、中村(隆)の提案を採用することとして、同人に対し、マイクロスイッチを購入するよう指示し、中村(隆)もこれを承諾した。さらに、原告堀は、前回同様連絡役を分担し、原告前林は、小包爆弾の包装を分担することが決まった。

ここに、増渕、原告堀、同江口、同榎下、同前林、中村(隆)の間に、小包爆弾を土田國保あてに郵送して爆発させ、治安を妨げるとともに、同人及びその家族らを殺害する犯行についての共謀が成立した(土田二高謀議)。

一方、同月下旬ころ、松本は、高橋荘において、増渕、原告堀、同榎下、同前林のほか中村(泰)が同席する中、増渕から土田國保に対する小包爆弾郵送計画の説明を受けた上、同計画の実施に必要な自動車の運転方を依頼されてこれを了承し、ここに、同人と増渕らとの間に右と同様の共謀が成立した。

(2) 具体的計画実行の準備

<1> 送り先等の下見

増渕は、昭和四六年一一月下旬ころ、原告堀と協議の上、土田國保あての小包爆弾を発送する郵便局を、差出人として氏名を利用する久保卓也の住所に近い千代田区神田神保町一丁目二五番四号所在の神田南神保町郵便局(南神保町郵便局)に決め、その後数回にわたり同郵便局周辺を下見し、併せて土田國保方付近を見分した。すなわち、松本の運転する自動車に増渕が同乗し、同月下旬ころの昼間、南神保町郵便局の下見をし、同年一二月初旬ころの夜、豊島区雑司が谷二丁目(土田國保の住居は雑司が谷一丁目)付近の下見をしたほか、原告榎下の運転する自動車に増渕、原告堀、同前林が同乗し、同月一日ころの夜、南神保町郵便局付近を下見し、同月一〇日ころの夜、九段、神田方面を下見し、その前後ころにも、松本の運転する自動車に増渕が同乗し、神田方面を下見するなどした。

<2> 爆弾製造材料等の調達

中村(隆)は、昭和四六年一一月下旬ころ、増渕からの依頼により、千代田区外神田一丁目国電秋葉原駅前のラジオセンター内第二パール無線において、マイクロスイッチ二個を購入し、そのころ、原告榎下とこれを高橋荘へ持参して、増渕に渡した。

同年一二月二日ころの夜、増渕、原告堀、同榎下、同前林、中村(隆)、松本らが高橋荘に集まり、土田國保や久保卓也などの氏名を書く練習と荷札書きをした。

増渕は、原告堀、同江口及び同前林らの協力を得て、同年一二月上旬までに起爆剤として使用する硝化綿、手製雷管などを用意し、小包爆弾を製造する準備を整えた。

(3) 爆弾の製造等と増渕らの犯意

<1> 爆弾の製造

高橋荘において小包爆弾を製造することとした増渕は、昭和四六年一二月八日ころの夜、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本、坂本、松本を高橋荘に呼び集め、これに原告前林も参加して、小包爆弾の製造が行われた。

増渕は、これらの者に対して、担当すべき任務を指示し、自らは原告江口と共に爆薬の調合と充填、雷管の取り付けその他爆弾の仕上げを担当し、原告榎下及び中村(隆)は、起爆装置のうち、スイッチ、乾電池の取り付けと配線関係全般を、原告堀は、増渕を補佐し、道具の手渡しなどの雑務及び見張りとの連絡を、原告前林及び金本は、増渕、原告江口の手伝い、爆弾の包装、あて名書きなどを、松本及び坂本は、戸外での見張りを、それぞれ担当して、小包爆弾(土田邸爆弾)を製造した。

<2> 爆弾の構造

右小包爆弾は、外箱である木箱の中に本体としてアルマイト製の深大角弁当箱が配され、右弁当箱の中には塩素酸ナトリウム、砂糖が混合して充填され、その爆薬中央部に硝化綿と手製雷管が埋め込まれ、弁当箱の蓋がされてテープが巻かれた上、接着剤で外箱に固定されたもので、これらの作業は増渕及び原告江口によって行われた。また、手製雷管は、ガス点火用ヒーター、豆ソケットを点火器具とし、これに起爆剤として雷汞、硝化綿を詰めた筒状のアルミニウム箔(アルミホイル)を結着させたもので、増渕らがあらかじめ準備していた。小包爆弾の電気系統は、マイクロスイッチと乾電池からなり、マイクロスイッチには作動線(ワイヤーレバー)が取り付けられ、外箱の蓋を閉じると作動線が押さえられて絶縁状態になり、蓋を開ければ作動線がはね上がって通電状態になるように外箱に取り付けられており、これらの作業は中村(隆)と原告榎下によって行われた。なお、マイクロスイッチ、乾電池(積層乾電池)、豆ソケットはビニール絶縁線で結ばれ、この結線回路の一箇所が外箱の穴から外部へ出されており、外箱の蓋をして、マイクロスイッチを絶縁状態にし、最後に結線することにより回路が完成されたもので、この作業は増渕によって行われた。

このようにしてできた爆弾は、金本が中心となり、包装紙を使用して包装されたが、日石事件において爆発物が郵送途中で爆発した原因の一つが包装の緩みであったことから、特に慎重に強く包装するため二重の包装が施された。包装した小包爆弾には、原告前林及び金本によって、送り先として土田國保、差出人として久保卓也の各住所氏名が毛筆で書かれ、麻ひもで結束された上、毛筆で書かれた荷札二枚が取り付けられた。

<3> 爆弾の威力と増渕らの犯意

右のようにして完成した小包爆弾の爆力は、これをダイナマイトのそれに換算すると、新桐ダイナマイト三三〇グラム前後の爆力に相当し、その爆発により人を死亡させるに十分な殺傷破壊力を持っていた。

右小包爆弾の製造に関与してその組成、構造等を知悉していた増渕、原告堀、同江口、同前林、同榎下、中村(隆)、松本らは、本件小包爆弾の殺傷力を十分に認識しつつ、その送り先である土田國保やその家族等情を知らずに右小包爆弾を取り扱う者をして、その包装を解き、外箱の蓋を開けさせるなどしてこれを爆発させ、当該取り扱う者並びにその現場付近に居合わせた者を爆死させることを意図ないし認容し、あえてこれを郵送することとしたものである。

(4) 実行の経緯

<1> 発送までの保管状況

増渕及び原告堀は、右の小包爆弾を郵送するまでの間、これを一時保管するに当たり、増渕が当時指名手配中であったことから、高橋荘に長く置くことは危険であると考え、中村(泰)に依頼し、同人が当時勤務していた八王子保健所に預かってもらうことにした。原告堀は、昭和四六年一二月一一日、中村(泰)が当直勤務であることを確かめ、同日夕方、増渕を自動車に同乗させ、手提げ袋に入れた小包爆弾を運搬して八王子保健所に赴き、増渕と共に中村(泰)に右小包爆弾の保管を依頼した。

中村(泰)は、同年九月中旬ころ、増渕から小包爆弾郵送計画について打ち明けられて、右計画を手伝うよう要請されていたものであるが、原告堀らから保管を依頼された手提げ袋が権力機関に郵送する爆発物であることの情を知りながら、これを受け取り、自己のロッカーに収納して保管した。

<2> 発送担当者の決定

増渕及び原告堀らは、かねてから上赤塚事件の一周年に当たる昭和四六年一二月一八日に爆発物を爆発させることを目的として計画を進めてきたことから、協議の上、同月一七日に南神保町郵便局から小包爆弾を土田方に郵送することとし、同郵便局に持参して差し出す役割を増渕と原告前林が担当することを決め、小包爆弾と増渕、原告前林を運搬する担当者として松本を選んだ。

そこで、増渕は、同月一五日、原告堀に対し、中村(泰)に預けた小包爆弾を受け取ってくるよう指示し、原告堀は、同日、八王子保健所へ赴き、中村(泰)から先に預けた小包爆弾を受け取り、これを高橋荘へ運んだ。増渕は、同日夜、原告前林を同道し、原告堀から受け取った小包爆弾を持って、杉並区阿佐谷南一丁目三五番一六号松本方へ赴き、同人に対し、右小包爆弾を同月一七日午前中まで保管するよう依頼し、松本は、これを了承して同区阿佐谷南一丁目三三番一四号の別宅に右小包爆弾を保管した。増渕は、当夜松本が増渕と原告前林を高橋荘に送った際、松本に対し、同月一七日午前一一時三〇分ころ阿佐ヶ谷駅南口で待ち合わせ、小包爆弾と増渕及び原告前林を南神保町郵便局付近まで自動車で搬送するよう最終的な指示を与え、松本もこれを承諾した。

<3> 爆弾発送の実行

原告前林は、昭和四六年一二月一七日朝、増渕の指示により勤務先の武蔵野市吉祥寺本町二丁目所在の岡田香料株式会社(岡田香料)に出勤し、出勤カードに打刻の上、勤務中に同会社を抜け出し、阿佐ヶ谷駅付近で増渕と合流した。松本は、同日午前一一時三〇分ころ、増渕との約束どおり、預かり保管中の小包爆弾を車に乗せて阿佐ヶ谷駅南口付近に至り、待機していた増渕を助手席に、原告前林を後部座席に同乗させ、神田方面へ向かい、青梅街道、新宿、市谷、後楽園横、御茶ノ水駅前を経由して明大前通りに出て、同日午後一時前ころ、増渕の指示により、駿河台下交差点手前で停車した。

増渕は、手提げ袋入りの小包爆弾を携帯した原告前林と共に直ちに下車して南神保町郵便局へ赴き、原告前林が同日午後一時ころ、窓口に右小包爆弾を普通の小包のように装って差し出し、情を知らない同局係員にこれを小包郵便物として受け付けさせて、松本が待機する自動車に戻った。松本は、増渕、原告前林を乗せ、同日午後三時前後ころ、阿佐ヶ谷駅前に戻った。

かくして、増渕らが小包爆弾を右郵便局員をして受け付けさせたことにより、右爆弾は爆発すべき状態に置かれるとともに、これが爆発するにおいては他人の爆死を招来する事態に至った。

<4> 土田邸までの郵送経路

南神保町郵便局で受理された小包爆弾は、昭和四六年一二月一八日午前八時までに豊島郵便局に配送され、同局員片岡計雄により、同日午前一一時過ぎころ豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号土田國保方に配達され、情を知らない同人の妻土田民子によって受領された。

(5) 爆弾の爆発と実害の程度

土田民子は、昭和四六年一二月一八日午前一一時二四分ころ、土田方階下居間において、右小包の内容物が爆弾であることを夢想だにもしないまま、右小包爆弾の包装を解き、木箱の蓋を開けた瞬間、轟音と共に同爆弾が爆発し、右爆発により、同人は、即時その場で爆死し、同室に居合わせた右土田國保の四男恭四郎も、加療約一か月を要する顔面及び両手第二度熱傷などの傷害を負った。

同時に、右爆発は、土田方のその他の家族及び付近住民に重大な衝撃を与えたことはもとより、ひろく右事件を知った一般市民等に対しても極度の恐怖、不安の念を抱かせ、社会不安を招来した。

一〇  原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の逮捕状請求

1  逮捕状請求の違法性判断基準

司法警察職員による被疑者の逮捕状請求については、司法警察職員が、逮捕状請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情がある場合にかぎり、右逮捕状請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である。

そこで、以下、日石・土田邸事件に関する原告堀、同江口及び同前林の逮捕状請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  原告堀、同江口及び同前林の逮捕状請求等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一) 逮捕の経過

警察官は、原告堀、同江口及び同前林について、昭和四八年三月一三日、日石・土田邸事件に関する逮捕状を裁判官に請求し、同日その発付を得て、同月一四日、同原告らを同事件で通常逮捕した。

(二) 逮捕状記載の被疑事実

原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件に関する各逮捕状の被疑事実は、次のとおりであった。

被疑者は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、国家権力粉砕、警察官及び家族等殺害の目的をもって

第一  昭和四六年九月ころ、東京都世田谷区給田四ノ一九ノ一一高橋荘内、増渕利行の居室ほかにおいて、菓子缶に弁当箱を入れ、これに塩素酸ナトリューム、砂糖等を充填し、起爆装置として乾電池、ガスヒーター等を結合したもの二個、菓子缶に弁当箱を入れ、これに塩素酸ナトリューム、クロロ酸ナトリューム、砂糖等を充填し、起爆装置として乾電池、ガスヒーター、マイクロスイッチ等を結合したもの一個のいわゆるトリック手製爆弾三個を製造し

第二1  昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三五分ころ、前記トリック手製爆弾二個を、小包に偽装し、港区西新橋一ノ三ノ一二号日石本館内地下郵便局より

(1)  差出人 港区新橋二ノ九ノ一青葉ビル 中央警備保障KK、業務部

名宛人 新宿区<以下略>後藤田正晴

(2)  差出人 港区新橋 新幸ビル 東京細田貿易KK

名宛人 横浜市<以下略>今井栄文

宛、郵便小包として発送し、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時四〇分ころ、前記郵便局においてうち一個を爆発させ、もって爆発物を使用するとともに右爆発により

千葉県<以下略>郵便局員 星野栄 二六歳

に対し、火傷二度加療約三週間を要する傷害を与えたにとどまり殺人の目的を遂げず

2  昭和四六年一二月一七日午前一一時ころから、同日午後二時ころの間、前記トリック手製爆弾一個を小包に偽装し、千代田区神田神保町一ノ二五郵政相豆ビル内神田南神保町郵便局より

差出人 千代田区<以下略>久保卓也

名宛人 都内豊島区<以下略>土田國保

宛郵便小包として発送し

昭和四六年一二月一八日午前一一時二二分ころ、これを爆発させ、もって爆発物を使用するとともに、右爆発により

名宛人の妻 土田民子 四七歳

を即死させたほか、同人の四男恭四郎一三歳に対し、加療約一か月を要する爆発による傷害を負わせたにとどまり殺人の目的を遂げなかった

ものである。

3  司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

(一)  疎明資料の存在

<証拠略>によれば、被告都の司法警察職員である警察官は、一連の捜査結果により、原告堀、同江口及び同前林に対する日石・土田邸事件の逮捕状を請求した当時(昭和四八年三月一三日)、疎明資料として、プランタン会談に関する佐古の供述、増渕と通謀したとする檜谷の供述、六月爆弾に関する村松及び佐古の供述並びに増渕の供述等を収集していたことが認められる。

そこで、右各供述の内容等を検討し、もって、警察官が、同原告らに右事件の嫌疑と逮捕の必要性があるかを判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二)  疎明資料の内容

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1) プランタン会談に関する佐古の供述等

<1> 佐古は、昭和四八年二月一四日、警察官に対し、要旨次のとおり供述し、詳細なメモを作成した。

昨年一二月、窃盗事件で取調中のところ、同月二八日保釈となった。この保釈中の一月五日の午後七時ころから午後一〇時ころまでの間、渋谷駅前の喫茶店プランタンにおいて、釈放後の打ち合わせのため、増渕及び原告江口と会った。この話の中で、原告江口は、「日石事件なんかどうなの。私達のモンタージュでさえ、あれだけ出回っているし、少しでも警察にわかればどうなるかわかるでしょう。前林さんだってもうだめでしょう。日石の小包の件にしたってそれは証拠に残っているんだから、それは筆跡鑑定なんか警察がしないはずはないでしょう。それが増渕さんの事件の関係で任意でも調べられることは、その筆跡でわかることははっきりしているじゃないの。私達がやったということがすぐバレるでしょう。小包に誰が書いたか知らないの、前林さんでしょ。それをそこまで参考人が出るということは私達の組織を守る唯一の手段である黙秘をなぜしゃべってしまうのよ。六月の爆弾がでればどうなるのよ。それで日石が出ればみんなやられるのよ。それが出れば土田邸が出ることははっきりしているじゃないの。あんた達がどうなるか私は知らないけれど、私が逮捕されるようなことになれば前林さんだって危ないし助からないでしょ。私はいやよ。そんなことで逮捕されるなんて。今だってね、ある程度警察が知っていること位はわかるけど増渕さんがしゃべることはないでしょう。私と前林さんが日石に行ったことは、警察ではある程度わかっているみたいだし。」と感情的に話していた。これに対し、増渕は「六月の爆弾は俺と坂東で責任とっているから大丈夫だ。梅津から名前が出ても心配ないよ。ただ、今の状態で村松から出なければ心配いらないよ。」と答えていた。これに対し、原告江口は、「村松さんは爆弾関係はいっさいしゃべってないと言っているのよ。」と話していた。この話を聞いて、増渕及び原告江口達がでっかい事をやっているんだなと思い驚いた。この話をしている原告江口は、非常に感情的になり、こわばった表情でとげとげしく話しており、増渕は、いたって平然として関係ないような素振りで対応していた。最後に私達が喫茶店を出ようとするとき、原告江口が私と増渕に対して、「ここで会った話は証拠隠滅罪になるから絶対言わないように。」と言ったので、私達は絶対に言わないと約束し合った。

<2> 佐古は、昭和四八年二月一八日、警察官に対し、右プランタン会談に至る経緯及びその後の行動について、要旨次のとおり供述した。

昭和四八年一月三日、私は、大阪から上京し、翌四日午後一時過ぎ、新宿の喫茶店ランブルで原告江口と待ち合わせをして、青山一丁目交差点角のレストランで話し合った。原告江口は、私たちのグループであった者の逮捕状況や原告江口が逮捕されて捜索されたときの状況等について話し、私は、私の取調状況を窃盗事件についてのみ話した。爆弾の話は双方から出なかった。同日午後七時過ぎ、原告江口と別れた後、御徒町駅近くの喫茶店シャンネルで増渕と会った。私は、増渕に、アメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことを警察に話した旨告げたが、増渕は、俺は知らないよ、お前そんなことを言って「爆取」で捕まっても知らないぞと言って平然としていた。同月五日午後一時半ころ、喫茶店シャンネルで増渕と待ち合わせた後、私が原告江口と連絡を取り、渋谷駅前の喫茶店プランタンで三人で話し合った。初めは、原告江口が増渕を詰問する形で、自分は二人の話を聞いていたが、爆弾の話に移り、まず原告江口が、「爆弾関係は大丈夫なんでしょうね。」と質問し、これに対して増渕が、「イカがアメリカ文化センターに仕掛けた爆弾が俺がリーダーになっているらしい」と話し、私がそれに対して、「調書の中で、江口さんのところで爆弾を作ったと話しているんだ。」と付け加えた。すると原告江口は急に興奮して、私に、「そんなこと話しているの。私はそんなことをやった覚えはないわよ。そんなことで捕まるのはいやよ。佐古さんもっとどんな調書をとられたか教えてよ。そしてこれからのことを考えましょうよ。そうしないと皆が助からないのよ。でも佐古さん再逮捕されるかも知れないね。今度逮捕されたら黙秘で行かなきゃだめよ。そうしないと責任もてないわ。」というようなことを話し、私にこれからの言動に釘をさし、それから、前回の調書で話した日石・土田邸事件の話に移っていった。同月六日午後一時半ころ、新宿の喫茶店ランブルで原告江口と待ち合わせをした。まず、原告江口は私をモサップ舎(模索舎)に連れて行った。名前を忘れたが、目当ての人はいなかった。そこで今度は、新橋にある統一救対の事務所の山中という人を訪ねて行った。原告江口が私に代わって、私が警察に捕まったとき連絡しなかったことについて弁解をしてくれた。簡単な書類を作成した後、二人から今後は絶対に完黙しなければだめだと言われた。

<3> 佐古は、昭和四八年二月二八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

私が大阪へ帰っていた昭和四七年一〇月二六日ころの夜、原告江口から電話があり、梅田の富国生命ビル裏にある比較的大きな喫茶店(店の名前は忘れた。)で同原告と会った。原告江口は、「増渕さんが逮捕された経緯は、八月二〇日ころ石田という人が逮捕されて、その人が増渕さんのことをしゃべってしまったということらしい。それで三人が隠匿罪で逮捕されたが、皆認めて罰金一〇万円くらいで釈放された。藤田はずーっと否認しているので長い間勾留された。森谷も逮捕されているらしい。増渕さんもそのため色々話しているらしい。増渕さんは救対の弁護士を付けずに父親の付けた弁護士をつけたので、それからが大変で、増渕さんと連絡がつかず、増渕さんがどうなっているのかわからない。もしかしたら、佐古さんまで来るかもしれないと思って大阪まで来た。警察は隅々まで調べてはっきりさせようとすごく厳しい状態であるし、それにもまして、私たちは以前はずっと完黙を通していたのに、今になって皆がしゃべってしまっているので、そういうことも佐古さんに話しておきたかった。」と言い、「火炎びんのほうはどうなの。」と聞いて来たので、「俺は自首して二泊三日で出て来たよ、うそばっかりついたけど。」と答えると、原告江口はさらに、「その方は大丈夫ね。でも隠匿で来るかもしれないから気をつけてね。私も危ないところだと思って身辺の整理は済ませておいた。増渕さんは、来年四月ころに保釈で出られることになるだろうと思うけど、そのとき保釈金三〇万円くらい貸して貰いたい。佐古さんも東京に出てきたら、会社と実家の電話番号を教えておくから連絡して欲しい。また、救対を教えておくから、逮捕された場合は連絡するように。」と言った。その後、私は逮捕され昨年の一二月二八日に保釈となり、大阪の実家に帰ったが、今後のことをどうしようかと考え、仲間の状態も知りたいことから一月三日にまた上京した。一月四日午後一時ころ、新宿中央通りにある喫茶店ランブルで原告江口と待ち合わせ、青山一丁目交差点角のレストラン(店の名前は覚えていない。)において話し合った。原告江口は、「増渕さんは、二度逮捕され、はっきりわからないが相当しゃべっているらしい。藤田さんが増渕さんの自筆の調書を見せられたと言っていた。村松さんとは、何回となく連絡を取り合っているが、取調べが増渕さんから出てくるようなので増渕さんを憎んでいるようだった。爆弾関係は全く話していないと言っていた。今の警察は何を調べているのかしら。私が逮捕されたときのガサ入れで私のところに電池が七個もあって、これを見て(警察が)電池が多すぎるとか言っていた。電気ゴテのようなものまで写真にとっておいたり、増渕さんの荷物がここにあるのはおかしいと言って、何から何まで写真にとっておくのよ。」と言って、最後に私の窃盗事件についてどの程度まで話したのかと聞いてきたので、自分は、「窃盗のことは自分が関係したことは全て調書にした。それは窃盗まで出てきたのだから幾ら隠しても隠し切れなかった。仕方がなかったんだ。」と話すと、原告江口は、これに対し、「それでも、黙秘すれば助かったのに。供述が食い違えば起訴は出来ないのよ。」と話してくれた。そこで、私は、今後のことで増渕にも会いたいと思っていたので、原告江口に対し、「俺は今日これから増渕に会いに行くつもりだから、江口さんの話も伝えておくよ。」と言って、午後五時ころレストランを出た。

<4> 佐古は、昭和四八年三月一日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四八年一月四日、原告江口と別れて、午後七時五〇分ころ御徒町駅前にある喫茶店シャンネルで増渕と会った。お互いに逮捕され、取り調べられた状況等を話した後、爆弾の話になった。先ず最初に私の方から、「俺達は爆弾関係はどうなんだ。」とさぐりを入れて言うと、増渕は、「俺は知らんよ爆弾なんか。」と言葉の上で逃げるので、私は、「でも、何か俺、変なこと喋ったみたいでどうなのかなあ。四四年ころにアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことあるか。」と言うと増渕は、「アメリカ文化センターって、お前は何を喋ったんだ。」と聞いてきたので、私が、「村松がその件で話しているから、自分もよくわからなかったが認めてしまったんだよ。」と私が自分から話したのに村松からと嘘をついて話すと、増渕は、「馬鹿だなあ。そんなことを認めて知らんぞ。お前、『爆取』なんかひっかかっても知らんぞ。」と増渕が言い、私が、「だってしょうがないよ。それで爆弾仕掛けたようなことを話してしまったんだ。でも自分はまだよくわからないんだ。」と話すと、増渕は、「そのアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたのは村松と西宮がやったとおれは聞いたことがある。そして俺は一〇・二一以後赤軍と連絡をとっていないんだ。一二月に前田の友人を紹介されるまで赤軍と連絡をとっていなかったんだ。そうだろう。」と聞いてきたが、私が、「ふうん」といった半信半疑の返事をしていると、増渕は、「おれは一〇・二一のとき、平野のところに居たんだ。東薬大の前には居なかったんだ。それから考えても一二月一〇日ころのタイヤの窃盗の日付がおかしいんだよ。一二月初めは立教に一週間位いてそれから前田の紹介で新宿からあそこに行ったんだ。一一月一日ころは、村松は車を盗みに行っているんだ。俺達は大菩薩峠は全く知らなかったんだ。そうだろう。村松はその周辺で動いていた。だから文化センターなんか知らん。どれくらい喋っているのか知らんが、ひっくり返せるならひっくり返してしまえよ。『爆取』でひっかかるぞ。」と言っていた。私は増渕が少しとぼけているなと感じたが、それ以上話せなかった。その翌日の一月五日午後一時二〇分過ぎ、増渕と喫茶店シャンネルで会った。増渕との雑談の中で、私の方から、「あの文化センターの爆弾を仕掛けたことで、増渕がリーダーになっている。」と話すと、増渕が、「どうして俺がリーダーになっているんだ。」と聞くので、私は、「俺はやったのなら、それは増渕がどうしてもリーダーになってしまう。」と答えると、増渕が、「変んなこと喋るなよ。俺は当時赤軍とも連絡をとっていないし、一一月一日ころ何をしていたか忘れたが、あのときは一〇・二一の後、平野が藤田さんのところに居て俺もそこに居たんだと思うけど、そんなことを話しているのか佐古、又逮捕されるぞ。」と増渕が言ってきたので、「だってしょうがないよ。喋ってしまったことは。」と話して、増渕が、「じゃ俺もやられるかも知れないなあ。もうこれ以上変なことを話すなよ。本当にひっくり返せるならひっくり返せ。できなけりゃ否認しろ。」と私に指示した。その後、増渕に原告江口と会って話すことの了解をとり、私が原告江口に電話してまず私と原告江口で待ち合わせることとした。御徒町駅で一旦増渕と別れて、待ち合わせ場所のランブルに向かった。

<5> 佐古は、昭和四八年三月四日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四八年一月五日午後五時三〇分過ぎ、喫茶店ランブルで原告江口と待ち合わせをした。原告江口に対し、増渕が原告江口と会ってもよいと言っていた旨伝えると、原告江口は「会ってもいいわ」と答えてきたので、電話で増渕を呼び出し、三人で渋谷に行き駅前の喫茶店プランタンに入った。店に着いた時間は大体午後七時ころだったと思う。私達の占めた席は、入り口を入り左側一番奥だった。当時客は六割くらい入っており、私達の隣の席にも客がいたが、テーブルとテーブルの間が広く、店内で音楽を流しているため、普通の話し声では他人に聞かれるということはなかった。話は、原告江口が切り出し、まず、増渕が釈放後連絡をとらなかったことを非難し、村松が増渕を本当に憎んでいるみたいだということ、今後のために三人(増渕、原告江口、村松)で会っておいたほうが良い旨告げると、増渕は、自分から会いにいくのは嫌だ、村松の方から会いに来れば会ってもいいと答えていた。

次に、原告江口は、増渕に同人の取調状況について説明を求めるとともに、増渕が救対の弁護士を断わって父親が頼んだ弁護士をつけたこと、藤田や村松が増渕の自筆の調書を見せられたと言っていたことなどを挙げて、増渕が逮捕されて皆がイモずる式に逮捕されてしまったことを個人攻撃のように非難した。これに対し、増渕は、「俺はそんなものを書いた覚えはない。本当に俺の字か。村松なんか俺の字を知らないのじゃないか。」と答え、「俺の最初の毒劇は東薬の一年の元山がそこで作った火炎びんを喋ってしまい、どうしようもなかったんだ。」などと弁解していた。原告江口がさらに「私の渋谷のアパートまで警察に分かってしまった。あそこなんて出てくるところじゃないはずで、おかしいわよ。」と言ったが、増渕は、「俺は知らん。」と否定していた。

それから話は窃盗事件の共犯者の話になり、原告江口が「国井さんは今フランスに言っている。連絡が取れないけれど帰ってくるまでに捕まえて話しておかなければならない。皆んな一度は逮捕されてしまうんだから早く手を打っておかないといけないと思う。梅津さんは、弁護士とも連絡がとれないのでまったくわからない。あの人とも何とか連絡しないといけない。でも、どうして梅津さんなんか逮捕されてしまったの。」と言うと、増渕は、「イヤ、タイヤの窃盗なんだ。あいつがその主犯になっているから。」と説明すると、原告江口は「あんた達は何をやっていたの。でも誰かがしゃべったんでしょう。」と責め立て、増渕は「村松がしゃべってしまったらしいんだ。」と言って窃盗関係の話が終った。

爆弾関係の話に移り、原告江口がまず、「爆弾関係は調べられなかったの。」と切り出し、これに対して増渕が、「いや、それが佐古が変なことをしゃべっているんだ。」と答えると、原告江口が急に驚いたように、「何を調べられたの。」と私に聞いてきた。私が、これに対して、「アメリカ文化センターに」と言いかけると、増渕は、私の話を横取りするようにして、「何かアメリカ文化センターに爆弾を仕掛けたことがあって、俺がリーダーになっているらしいんだ。」と説明した。原告江口は、私に向かって、「佐古さん、どうしてそんな調書を取られたの。」と尋ねてきたので、私は、「いや村松が話しているらしくて、何か赤軍の幹部も話しているらしい。それで刑事がお前もやったんだと言うんだ。で、俺も良くわからなかったがそうかなあと思い認めてしまったんだ。」と偽りを加えて弁解した。すると原告江口が、私に対し、「どうしてそんなことを認めちゃうのよ。もう少し考えてよ。」と語気を強めて言ってきたので、私は、警察に話したことの中で原告江口に関係ある部分を少し話しておかなければまずいかと思い、「自分もどんな調書をとられたかわからないんだが、なにか調書に江口さんのところで爆弾を作ったと話しているみたいなんだ。」とぼかして言った。すると、原告江口は、急に怒りを顔面に出して口調を早め、「なんですって。そんなこと知らないわよ。どうしてそんな私に関係ないことを話してしまうの。私は全く知らないのよ、そんな爆弾の話なんか聞いたこともないし現実に見たこともないのよ。佐古さん、しっかりしてよ。もう調書に取られてしまったのなら私達も逮捕されるかも知れない。」と顔色を変えながら話して来たが、増渕は、平然とした態度で、「来るかも知れないなあ。しかし俺は全く知らんのだ。そんなことは。」と答えていた。そこで原告江口が、私に向かい、「佐古さん、もっとはっきりどんな調書をとられたのか話してみてよ。そうしないと大変なことになる。村松さんも何か聞かれるかも知れない。それじゃ村松さんにも会わなければならない。」と私に強く話して来た。私は、調書の内容は言えないので、「あまりはっきりと調書を覚えてないんだ。村松にも会わなけりゃな。」と偽って話した。

原告江口は、増渕に、「六月の爆弾は出てないでしょうね。」と尋ね、増渕が「大丈夫だ」と一言話すと、もう心配で心配でどうしようもないという風な態度で興奮して口早に増渕に向かって、「梅津さんからも名前が出てこないでしょうね。どうなの、あの爆弾が出来上がったということがわかったら大変なことになる。」と厳しい口調で言った。増渕は、「いや大丈夫だ。あれは俺と坂東で責任をとるということになっているから大丈夫だ。心配いらない。それが出てくることはない。」と強く答えていた。原告江口は、「でも私が梅津さんのところへ行っていることがわかってしまったら……。嫌だ、警察はそこをどの位知っているの。増渕さんはそこを何も調べられなかったの。本当に出来上がったことは警察にわかってないでしょうね。」と聞くと、増測は、「大丈夫だ。ただ六月の爆弾の材料が村松から出て来ているんだ。警察の調べで村松と佐古に材料を買いに行かせただろうと刑事にしつこく聞かれたんだ。俺はそれを知らんとつっぱねた。でもどうして村松がそんなことを話したんだろう。」と言った。原告江口はこれに対し、「村松さんは爆弾のことは一切喋ってないと言っていたわ。そんなこと言うはずがないじゃないの、おかしいわよ。」と言い、増渕は、「村松から出てこない限り心配ない。」と答えた。原告江口は、更に、「でもあの時の出来上がった爆弾が警察にわかるようなことになったらどうするの。あの時の爆弾の材料でも話が出ていることだけで大変よ。増渕さんと坂東さんの二人が責任をとると言っても、話が出てくればやばいことになるでしょう。二人が責任を取ると言っても警察がそのままにして置くわけがないでしょう。」と言って、原告江口は今までの興奮した状態に加えて何か慌てて話す言い方になって来たので、私は急にどうしたんだろうと感じた。ここで原告江口は、より語気を強めてたたみかけるように増渕に向かって、「この時に造った爆弾が出れば私達の爆弾がみんなわかっちゃうわよ。私達はもう助からないわ、そうでしょう。私達の爆弾がわかったらどうなると思っているの、日石だって土田邸だって、ただですむ問題じゃないでしょう。どうすればよいかはっきりしていることだと思うわ。それなのに増渕さん達って皆んな喋ってしまっているんだから。そんな簡単な問題じゃないと思う。私達は黙秘を通す以外に助からないことくらいはっきりしていることじゃないの。それでも活動家だったの。私達が組織を守るのは唯一黙秘をすることが原則だったでしょう。私達のモンタージュでさえあれだけ出回っているのよ。少しでも足跡を残したら終りよ。私達は黙秘することによって、任意の捜査だって決して出してはならない。日石にしたって少しは証拠を残しているのよ。あの小包の筆跡にしたって警察が筆跡鑑定で調べ上げないはずがないでしょう。その筆跡で私達が出て来たりするようなことを任意でも決して調べられる人を警察に出してはいけないのよ。一体警察は今何を調べているの。どれだけ知っているの。こんなことがわかったら関係者皆んな上げられるわよ。堀さんにしたってどうするの。」と話して来たので、私は、あの日石事件、土田邸事件を増渕らがやっていたのかと思い、びっくりしてしまった。増渕は、原告江口の話に対し、「堀は心配いらない。奴は別に出てくることはないはずだ。ただ俺は四四年九月に火炎びんを造る時に長倉のところに濃硫酸などを置いていたことがあるので、それが出て来ると長倉が劇毒物で逮捕されるからヒヤヒヤしていたんだけれど出てこなかったところから見ると大丈夫だろう。」と原告江口をなだめるように平然として話していた。これに対し、原告江口は、「でも皆んなにも一応連絡体制をとって置いた方が良いじゃないの。でも本当に大丈夫かしら。もう私が持っていたやばいようなもの皆んな処分してしまったけど、私が逮捕されるようなことになれば前林さんだって助からないだろうし、小包に誰が書いたか知らないわけないでしょう、前林さんじゃなかったの。どうするの本当に。皆んな逮捕されてしまったら私達助からないわよ。現実に日石が出て来るだけではすまないのだから。私達に土田邸が出て来ればどうするの、人一人の生命を奪っていてただですむはずがないでしょう。警察は何も聞かなかったの。爆弾関係で全く聞かないはずがないでしょう。どうだったの。」と前よりは幾分落ち着きをとり戻したように話していた。

この原告江口の話に対して増渕は、「俺は知らん。」というような事件に関係していないんだというようなことを話していたが、私がこのことを初めて聞くので私の態度を気にしているように横目をつかって私の方をちょくちょく見ていた。そして原告江口が、「本当に皆んな気を付けた方が良いんじゃないの、これ以上逮捕者を出さないようにしてね。そうしないと私も前林さんも助からないわ。」と言ってこの事件の話は一応終った。

最後に、文化センターの事件については、私が逮捕されたら黙秘すること以外に方法がないということで意見が一致し、原告江口は私達に向かって、「今までの話は三人が会ったことが警察にわかっても内容は絶対に話さないようにしないと証拠隠滅罪にひっかかるおそれがあるので絶対に喋らないで。」と言って私達に約束をせまり、増渕は「よくわかった」と返事をし、私は黙秘を約束した。プランタンを出たのは午後一〇時半過ぎころで、私は渋谷の駅前で二人と別れた。

<6> 佐古は、昭和四八年三月六日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四八年一月六日午後一時半ころ、新宿の喫茶店ランブルで原告江口と待ち合わせをした。原告江口は一〇分位遅れてやって来た。原告江口は私に対し、アメリカ文化センター事件に関して私が取られた調書の内容を思い出して教えてほしい旨要求してきたので、二、三日よく考えて思い出してノートに書き出してみると言って即答を避け、引き延ばしをした。店を出て、原告江口に連れられ、モサップ舎に行ったが、私達が会いたいという人は出掛けていて何時に帰って来るかわからないということで、二、三〇分待ったが、又の日に来ようということになった。それから、新橋の統一救対の事務所に行った。午後四時ころ、山中という人が帰ってきたので、私が挨拶をすると原告江口は、私が救対の差入れを断わったり連絡を取らなかったことについて、私に代わって謝った。そして、原告江口が、「佐古さんが警察の誘導尋問にひっかかって、アメリカ文化センターの爆弾のことを話している。」と言い、これに対し、山中が、記録を見ながら、「昔の事件を調べているんだなあ。」「こんな古い事件なら証拠も残ってないから黙秘すれば大丈夫だ。まあ二〇日間は辛抱しなければならないな。大体二〇日で助かるよ。」と言って黙秘すれば助かる旨自信ありげに話すので、私は、これを信じ今後あくまで黙秘しようと決意した。その後、原告江口と新橋駅まで行く途中、私は、「村松と会ってみるから、それからまた来週あたりに会おう。」と約束し、原告江口と別れた。その後は、誰とも会わないうちに、一月八日警察に逮捕された。

<7> 佐古の右供述の裏付捜査は、次のとおりであった。

喫茶店プランタンの昭和四八年一月五日分売上伝票から、佐古の指紋が検出され、同伝票には、佐古が増渕、原告江口、佐古の注文品として供述した飲み物と合致する品名及び金額が記載されていた。

右裏付捜査にあたっていた公安第一課員は、昭和四八年二月二〇日ころ、喫茶店プランタン店内の実況見分を実施した結果、同店内の机、椅子等の配置状況が、佐古の供述と一致することを確認した。

公安第一課員は、同年三月一日ころ、喫茶店シャンネル店内の実況見分を実施した結果、同店内の机、椅子等の配置状況が、佐古の供述と一致することを確認した。

公安第一課員は、同年二月二〇日ころ、プランタン店内において、同店店員から事情聴取をした結果、「本年一月五日ころの夜八時ころ、プランタン店内で佐古と原告江口を見かけたことがある。」旨の供述を得た。

高橋警部補が、同年三月四日、刑事管理課調室において、増渕を取り調べたところ、同人は、「……国井の話が出ないが、ふと一月四、五日、さる女の話の中にフランスへ行っているようなことを聞かされたのを思い出した。彼はドイツ語は達者だったからなあ、行ってるとしても、もうビサが切れるんじゃないかな。」等、佐古供述にそう供述をした。

<8> 東京地検においては、親崎検事が同年三月二日、三日及び五日にかけて佐古を取調べたが、取調べにあたり、佐古に対し、「この供述が真実であるなら増渕らは逮捕されるかもしれない。」「君自身も疑われるかもしれない。」などと繰り返し念を押したうえで取調べたが、佐古は警察官に対するのと同様の供述を繰り返し、間違いないことであると述べた。そして、このことは、極左暴力取締本部にも伝えられた。

(2) 増渕との通謀に関する檜谷の供述

<1> 檜谷は、昭和四八年三月六日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

私は、昭和四八年二月一二日以降窃盗、詐欺事件により、逮捕・勾留され、警視庁麹町署に留置されたものであるが、当時同署に留置されていた増渕と同房になり、話を交わすうちに増渕と自分は東海大学の先輩後輩の関係にあることがわかり、気が合って色々話をするようになった。二月二七日、増渕から、共犯者である佐古、原告堀、井上という者が各警察署に分散して留置になっているから、明日押送に行って同行室で一緒になったら今調べられている状況を聞いてきてくれと頼まれた。特に、原告堀と接触できたら、佐古の方から出ている旨を伝達し、原告堀の逮捕罪名、取調べの状況等をできるだけ詳しく聞いて来るように頼まれた。二月二八日、私は、地検で右三人と会うことはなかったが、公安関係の被疑者らしい人を見かけ、話しかけると前原和男であることがわかったので、同人に対し、増渕から連絡を頼まれたこと、増渕が八機で起訴されていること、増渕は余り話をしていないことなどを伝えた。これに対し、前原から「堀からは余り話が出ていないようだ」「佐古、菊井の方から話が出ている」等の伝言を依頼され、その晩増渕にこれを伝えた。この時、八機の話が出て、増渕は八機の付近にアジトが二つある旨説明してくれた。三月一日ころ、アメリカ文化センターの話が出た。私はたまたまアメリカ文化センターが入っているビルの中に所在する会社でアルバイトをしたことがあるので、増渕に机やカウンターの配置状況や人の出入状況を説明してやった。三月一日か二日ころ、増渕は私に肩車をさせ、天井の電灯の配線パイプに手を伸ばして「ああ、とどくとどく、これならできる。」と言った。その意味について、増渕は、「ここの房では一か所だけ自殺可能な場所がある。配線パイプに衣類を裂いて紐をかければ首を吊ることができる。」と言っていたが、私は冗談だと思った。その他、増渕は、薬品の名称を言って爆弾の作り方を説明したり、電池を使った時限装置の説明をしたこともあり、また、よく「表の梅内、裏の増渕」と豪語していた。

<2> 檜谷は、昭和四八年三月七日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昨日は言い落したが、前原との通謀後、久松警察署から押送で地検に来ている人に、増渕の原告堀に対する伝言を伝えた。これは、前日、増渕から、「久松署に堀というのがいて、久松署から誰か信用のおけそうな人が来ていたら、『佐古、村松からある程度出ているが、俺の方からは何も出ていないから頑張ってくれ』と伝えてくれ。」と頼まれたことによるものである。その晩、増渕にこのことを話すと、同人は、「どっちで起訴になっているのかな」「あいつ(原告堀)から出ていなければ俺は大丈夫だ」などと言い、もし私に押送があったら、「統一公判をやろう」と原告堀に伝えてもらいたいと頼んだ。増渕の共犯者についての話の中では原告堀の話が一番多く、同原告が増渕から一番信頼されているようだったが、反面、増渕は原告堀のことを一番心配しているように見受けられた。今朝(三月七日)、朝食後、二房にいる増渕が、三房にいる私に対して、仕切りの壁板を叩いて合図をした。そして、増渕は私に「お前調べられただろう。」と言い、増渕と前原の通謀は、増渕から言いだしたものでなく前原からの伝言であったように言ってくれと依頼した。また、最近は「調べがきつくなってきて、もたないかも知れない。」というようなことを話していた。同房のとき、増渕は、爆弾の製造方法を五、六種類説明してくれた。自分の記憶では、ピースの空き缶、石けん箱、タイムスイッチ付き、ニッケル爆弾などを覚えている。

<3> 檜谷は、昭和四八年三月一〇日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

三月九日午前一〇時三〇分ころから留置室の外で留置人の運動があった。タバコを吸った後、吸い殼入れに使ったバケツの一個を私が持ち、他の者がもう一個のバケツを取ろうとしたときに、増渕がそのバケツを取って私に続いて吸い殼を捨てる洗面所までついて来た。同所で、私と増渕の二人きりとなり吸い殼を捨てる際に、増渕が、私に小さな声で、「お前も頑張れよ。」と言った。増渕は、私が増渕の共犯者と通謀したことについて警察から取調べを受けていることを知っているらしく、私は、増渕から聞いた話を「しゃべるな」という意味に理解した。そして、増渕が日ごろ私に話してくれていたことは、それだけ重要なことであるのかなとも思った。私が、留置されて間もない二月一四日ころ、増渕から一番最初に頼まれたことは、私が釈放になったら電話をしてもらいたいということだった。増渕は私に電話先はとても覚え切れないから、調べに出た際鉛筆の芯を持って来いと言った。二月二〇日ころ、増渕は、私に自宅の住所と電話を教え、父親が鉄工所をやっているから釈放になったらそこで働きなと言った。証人に出てもらうには、父のところで働いてもらうのが一番いい、居所だけははっきりしておいてくれと言った。増渕は、私が起訴になっても私の場合は保釈の手続きがきくから、出られるようになったら頼みたいことがある、例えば電話番号を教えるから電話先からの指示どおり動いてくれないかと言っていた。爆弾の話もちょっと出て、何か警察に分かるとまずい物が残っているような話振りだった。二月の末から三月の初めころ、増渕は寝床で、最近調べがきびしくなってきたが完黙あるのみだと言って、取調べの状況や、完黙のやり方などを話してくれた。時間は前後するかも知れないが、五房の寝床の中で、増渕と八機付近のアジトの地理を話した際、私がその付近をよく知っていたので、詳しく話をしたところ、目白の方を知っているかという話になった。私は、日本女子大に彼女がいて目白駅前の喫茶店などによく行くので同所の地理は大体知っていた。私がひととおりの地域の話をすると、増渕は、私の寝ている右腕を逆さに取り、「お前は公安のスパイではないか。」と言ったことがあった。

<4> 檜谷は、昭和四八年三月一一日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

二月二七日、増渕は私に、私が釈放になったら、電話番号を教えた相手方に電話して、爆弾かその材料が残っているのでその処分を一緒に手伝ってほしいと依頼した。増渕から聞いた爆弾の話については、先日私が、ガスレンジのスイッチを利用すると供述したが、これは電池利用の細長い棒状のガス点火装置のことである。石けん箱の話のときに、弁当箱の話を聞いたことがある。手を触れたら爆発する爆弾の話については、スイッチの構造や材料について話をしてくれた。昨日(三月一〇日)の運動終了直前の午前一一時〇〇分ころ、私がタバコの吸い殼をかたづけていたとき、増渕が私の近くに来て、「調べられているんだろう。土田のことは言うな。頑張ってくれ。死活問題がかかっている。」と看守に気付かれないように小声で私に注意した。土田邸事件のことは、増渕から直接聞いたことはないので、口止めされた理由がよく分からないが、増渕は、とにかく目白駅付近の地理をよく知っていた。今朝の運動のときも、増渕から、また、「死活問題だから、頑張ってくれよなー。」と注意されている。

(3) 六月爆弾に関する供述

<1> 村松の供述

(ア) 村松は、昭和四八年三月八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四五年六月下旬ころ、自分と梅津が住んでいた部屋に、赤軍の坂東が二種類くらいの薬品を持ち込んできた。同じころ、坂東か増渕に言われて、私と佐古で東大の研究室から天秤ばかりを盗んで来て、仙川の増渕の部屋に届けたことがある。また、同じく六月下旬ころの夕方、坂東、神田、城崎が部屋を貸してくれというので、奥の八畳間を貸したことがある。話の内容から爆弾を造っている様子で、梅津がやめてくれという趣旨のことを話したが、聞き入れられないので梅津と私は近くに住んでいた鈴木某(元日大生)の部屋に泊まった。翌朝自分達の部屋に戻ると、坂東が出来上がった爆弾のようなものを紙に包んで持っていた。二、三日後、増渕、坂東が佐古の運転でやってきて、爆弾の設計図を見ながら爆弾の話をしていた。その三日くらい後、増渕が坂東、佐古、原告前林、同江口を連れて来た。持って来た薬品瓶と脱脂綿を取り出し、増渕が原告江口に指示されながら坂東と、どんぶりの中に薬品を入れ、脱脂綿を浸していた。原告江口は一時間ほどで帰ったが残りの者は泊まった。翌日、私と佐古は増渕の指示で、電池、ガスヒーター、鉛筆サック、セメダインスーパー、電気コードを豪徳寺まで買いに行った。そして、午後三時ころから一時間かけて、増渕と坂東とで鉛筆サックを利用した雷管を製造し、発火実験をした。二、三日後、増渕が梅津に対して、爆弾の実験をするから車を貸してくれと言ったが梅津は断わっていた。その後、どこか海岸の方で増渕らが爆弾の実験をしたと聞いている。

(イ) 村松は、昭和四八年三月一三日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四五年六月下旬ころの午後一〇時三〇分ころから午前二時ころの間、千葉県下の興津海岸において、坂東、増渕、佐古、原告前林、同堀、梅津、私は、箱に入った爆弾一発を爆破実験した。その日午後七時ころ、私と梅津が世田谷区下高井戸の梅津の部屋にいると、増渕、佐古、坂東、原告堀、同前林の五人が佐古の運転する増渕のブルーバードでやって来て、興津海岸へ行こうと誘った。午後九時ころ出発することになり、梅津のカローラに梅津、原告堀、同前林、私が乗り、増渕のブルーバードには佐古、増渕、紙袋を大事そうに抱えた坂東が乗った。京葉道路から外房を回り、午後一〇時三〇分ころ興津海岸に着いた。海岸線の道路から入った小さな漁港の横に車を二台並べて駐車させた。原告前林は車に残り、私達は、坂東と増渕の後ろについて港の横を通り海岸に出て砂浜を抜けて岩が海に突き出している先端に行き、道路から見えない岩陰で、坂東が紙袋から段ボール箱に入った爆弾一個を取り出し、その場に置いた。梅津が見張りをし、坂東と増渕が爆弾本体をセットし、私、佐古、原告堀は、坂東の指示で爆弾と電池を約一〇メートルのコードでつないだ。午後一一時ころ実験の準備ができ、皆岩陰に隠れると、坂東は「やるぞー」という大声で叫び、それから二、三秒後に「ばあん」という腹に響くような音がした。爆弾をセットした場所に行ってみたが、爆弾は何も残っていなかった。実験が終わり、私達は「すげえな。」と言って話し合った。帰りは、来たコースを戻り、午前二時ころ梅津の部屋に戻った。私と梅津のほかは、それぞれ別れて帰って行った。

<2> 佐古の供述

佐古は、昭和四八年三月一三日、要旨次のとおり供述した。

昭和四五年五月下旬ころ、赤軍派の幹部会議があり、私達の軍団のキャップである増渕が参加した。その翌日の昼ころ、世田谷区祖師谷の通称烏山アジトにおいて、増渕は私、原告前林に会議の話をした。内容は、「赤軍はハイジャック以後何もやっていない。六月闘争で何かをやらなければ俺達の組織性が失われる。他の赤軍の幹部らは、俺に爆弾の作り方を教えてくれと頼んできた。爆弾でもって、国家公安委員長あたりをぶっ殺してやろうという話があった。」というものだった。それから、増渕は会議の席上で梅内から貰ったという鉄パイプ爆弾に使用する鉄管を私達に見せ、「これが梅内のくれた鉄パイプ爆弾だ。イカも爆弾の造り方を覚えろ。この本(ゲリラ教程)に載っている爆弾の作り方を読んで勉強しろ。六月になったら梅津のところで赤軍の幹部に爆弾の作り方を教えて作る。」と言い、爆弾製造が六月に行われることを話してくれた。そして、六月の中旬に偽装爆弾を製造した。メンバーは、増渕、原告江口、村松、原告前林、私、森恒夫、坂東、ほか二、三名の赤軍の連中で、場所は世田谷区桜上水にある梅津の借家だった。梅津については、爆弾の製造に直接加わっていないが、爆破実験には車の運転をして参加している。爆弾の製造は、増渕の指揮で原告江口が薬品関係の諸注意を行い、他の者が手伝って造った。爆弾の構造は、ダンボール箱の蓋を開けさせることによって爆破させる偽装爆弾だった。偽装装置は、真鍮と真鍮の間にプラスチックの絶縁体を置き、これに糸を付け、糸のもう一方の端をダンボールの蓋に取り付け、蓋を開けることによって、その絶縁体を引上げて真鍮同士を接触させ通電させるというものだった。このようなダンボール箱入り爆弾を二、三個、爆弾本体のみのものを二個くらい造った。

(4) 増渕の自白等

<1> 警察官は、昭和四八年三月一三日、増渕が逮捕当時身を寄せていた実父増渕利一宅を捜索したところ、増渕の部屋から、硝酸、硫酸、硫黄等の薬品や試験管、乳鉢、乳棒等の爆弾製造のための薬品、器具等を多数発見し、これらを押収した。

<2>(ア) 増渕は、右同日、検察官に対し、日石・土田邸事件について自白したが、その要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一二月ころ、警視庁幹部の土田邸に小包爆弾が送られ、その爆弾が爆発して土田の奥さんが亡くなられた事件があったが、その爆弾は、私が造り郵便局から土田邸に送ったものだ。爆弾を造った場所は当時私が住んでいた東京都世田谷区給田の高橋アパートの私の部屋である。爆弾を造ったのは郵便局に出す二、三日前である。その爆弾をどこの郵便局に出したか、爆弾の造った状況等詳しいことを今思い出しているので思い出し次第話す。

土田邸に爆弾を送った理由は、その一年位前だと思うが、京浜安保共闘のメンバーが交番を襲って拳銃を奪おうとした際、警察官に射殺されたが、この事件が正当行為ということで終わってしまったので、権力に復讐するためである。

その土田邸に爆弾を送った一か月位前のことと思うが、日石の郵便局で小包が爆発した事件があったが、これも私が爆弾を造り、女の人にその爆弾を郵便局へ差し出させたものである。この爆弾も土田邸に送った爆弾と同じところで造った。私がその爆弾を持って行かせた女の人の名前や爆弾を造った時の状況等詳しいことを今思い出しているので思い出し次第話す。

(イ) なお、増渕は、右取調べにおいて、日石事件について、原告前林に爆弾を発送させた旨自供したが、供述調書を録取する際に、「前林(原告前林)の名を記載しないで欲しい。」と強く要請したため、調書上では単に「女の人」に発送させたと録取されるに止まった。

<3> 増渕は、昭和四八年三月一三日、前記検察官に対する供述の後、警察官に対しても土田邸事件について自白し、同自白内容の要旨は、次のとおりであった。

土田邸事件を計画したのは昭和四六年九月下旬ころで、私が原告江口、原告堀とそれぞれ別々に話し合い、権力機関に対して爆弾闘争をすることを決めた。

雷管は私が高橋荘で作った。製造のための器具や薬品類は、昭和四五年五月ころ梅津の下宿で雷汞を作った時に使ったものを利用して雷汞を作り、これを鉛筆のサックに詰め、これに石油ストーブの点火装置用のフィラメントを結合して雷管を二個作って、爆弾の起爆装置にするよう原告江口に引き渡した。爆弾の本体は原告江口が担当して作成したので構造等についてはよく判らない。

その間にも三人で爆弾闘争の方法について相談し、爆弾を権力機関に郵送することを決めたが、送り先はその時はっきり決めたかどうかよく覚えていない。送り先が土田邸であったことは事件後しばらくたってから聞いたように思う。私は、昭和四五年一二月ころ京浜安保共闘の戦士が警察官に射殺された時、土田が警察官の職務行為が正当であったと評価したことについて怒りを感じていたので、このことを原告堀たちにも話したように思うので、あるいは原告堀に爆弾を渡すとき土田邸に郵送するよう指示しているかもしれない。

爆弾は二個でき、二個とも包装されて私のところに持ち込まれた。原告江口の説明では、包みを開くと爆発する装置になっているとのことだったが、詳しい構造は判らない。爆弾の大きさは、縦一五、六センチメートルくらい、横三〇センチメートルくらい、高さ七、八センチメートルくらいだった。爆弾ができあがってきたのは一〇月初めころで、その翌日ころ、爆弾郵送を担当していた原告堀に渡した。原告堀は、爆弾を自宅に持って帰り、彼の責任で郵送しているはずである。原告堀は、差出人を自衛隊の幹部にして郵送するようなことを言っていた。

私は、この二個の爆弾のうちの一個を土田邸に郵送したということを後で聞いて知ったが、他の一個についてはどこに郵送されたのか聞いていないような気がする。

新聞で、日石郵便局で小包爆弾が爆発したことを知ったが、あの爆弾は私達の造った爆弾にほぼ間違いないと思う。

私の知っている限りでは、この爆弾事件に関与したのは、私、原告江口、同堀の三人である。ひよっとすると、原告江口や同堀のグループの者が手伝っているかもしれないが、原告前林は絶対に関係していない。

4  判断

右認定事実及び前記(第四、九、1、2)認定事実によれば、警察官が、原告堀、同江口及び同前林に対する日石・土田邸事件の逮捕状を請求した当時、現に収集していた資料を総合勘案すると、原告堀、同江口及び同前林が、日石・土田邸事件の逮捕状の前記被疑事実に記載されたとおりの罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があったものと認めることができる。そして、右事件の重大性等からすれば、明らかに逮捕の必要性がないとは認められない。

原告らは、日石・土田邸事件について、原告堀らに対する右各逮捕状請求の根拠とされた増渕の右供述は、違法な取調べによって獲得されたものであり、本来疎明資料たり得ないものであるから、右各逮捕状請求は、いずれも違法である旨主張する。しかし、後に(第四、一七、5)説示するとおり、右逮捕状請求の時点で、明らかに右疎明資料として用いることができないといえるほどの事情があったとは認められないから、右主張は理由がない。

その他、本件全証拠を検討してみても、警察官が、原告堀、同江口及び同前林に対する右各逮捕状請求時に、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて右各逮捕状を請求したと認定し得るような事情の存在を認めるに足りる証拠はない。したがって、右各逮捕状請求が、国家賠償法一条一項の違法行為に当たると認めることはできない。

一一 原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件の勾留請求

1  勾留請求の違法性判断基準

前記(第四、四、1)のとおり、検察官による被疑者の勾留請求については、検察官が、勾留請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求したと認め得るような事情がある場合にかぎり、右勾留請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である。

そこで、次に、日石・土田邸事件についての原告堀、同江口及び同前林の各勾留請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  勾留請求等

(一)  勾留の経過

<証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年三月一六日、日石・土田邸事件に関して、東京地裁裁判官に対し、原告堀、同江口及び同前林の勾留を請求し、同日、それが認められて勾留状が発付され、同月二四日、同勾留が同年四月四日まで延長されたことが認められる。

(二)  勾留の被疑事実

右各勾留の被疑事実の要旨は、次のとおりであった。

被疑者は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警察官らを殺害する目的をもって

(1) 昭和四六年九月ころから同年一〇月ころまでの間、東京都世田谷区給田四丁目一九番一一号高橋荘などにおいて、弁当箱に塩素酸ナトリウム、砂糖などを充填しこれに乾電池、ガスヒーターなどを用いた起爆装置を結合した手製爆弾三個を製造し

(2) 同年一〇月一八日午前一〇時三五分ころ、右手製爆弾二個を小包に偽装し、東京都港区西新橋一丁目三番一二号日本石油本館ビル内の日石本館内地下郵便局より、後藤田正晴及び今井栄文宛小包郵便物として差し出し、同日午前一〇時四〇分ころ、同郵便局においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆弾により同郵便局職員星野栄(二六年)に対し加療約三週間を要する火傷二度の傷害を負わせたが、同人を殺害する目的を遂げなかった

(3) 同年一二月一七日ころ前記(1)の手製爆弾一個を小包に偽装し、東京都千代田区神田神保町一丁目二五番神田南神保町郵便局より東京都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号土田國保宛小包郵便物として差し出して郵送し、同月一八日午前一一時二二分ころ、右土田方においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により同人の妻土田民子(四七年)を即時爆死させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎(一三年)に対しては加療約一か月を要する爆傷を負わせたが同人殺害の目的を遂げなかった

ものである。

3  検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一)  疎明資料の存在

前記認定事実(第四、九、1、2及び第四、一〇、3、(二))並びに<証拠略>によれば、検察官は、原告堀、同江口及び同前林の勾留を請求した当時、前記(第四、九、1、2)の日石事件の発生及び爆弾の構造等並びに土田邸事件の発生及び爆弾の構造等にかかる事実を認定した証拠資料を収集していたほか、捜査により次の各証拠を収集していたので、これらの各証拠を総合勘案すると、各供述の信ぴょう性に問題がなく、同原告らにつき、日石・土田邸事件の犯罪の嫌疑が存在するとともに、罪証隠滅及び逃亡のおそれ並びに勾留の必要性が存在するものと判断したことが認められる。

<1> プランタン会談に関する佐古の供述。

<2> 増渕から爆弾等の製造方法を教えられ、また、土田邸事件の口止めをされたことに関する檜谷の供述。

<3> 自己並びに原告堀、同江口及び同前林が日石・土田邸事件を敢行したことを認める増渕の供述。

そこで、右各供述の信用性を検討した上、右勾留請求当時、すでに収集されていた疎明資料を総合勘案することによって、検察官が、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上で、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二)  佐古のプランタン会談についての供述

(1) 供述経過及び供述内容等

前記各証拠によれば、佐古がプランタン会談などについて供述した経過は、前記第四、九、3、(二)に認定したとおりであり、その供述の要旨等は、前記第四、一〇、3、(二)、(1)に認定したとおりであることがそれぞれ認められる。

(2) 判断

<1> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同江口及び同前林が、日石・土田邸事件を敢行したのではないかとの嫌疑を認めることができる。

<2> 原告らは、右の佐古プランタン会談供述は、取調官の強引な断定と押付けの産物であり、プランタン会談で日石・土田邸事件の話が出たというのは全く架空の作り事であるとして、佐古の右供述は信用性がない旨主張する。また、原告らは、佐古がプランタン会談の供述をした理由につき、佐古が、親崎検事から「こういうふうな供述は犯人しかできない」と言われたため、右事件の犯人と断定され逮捕されるのではないかとの恐怖心を抱き、その供述を維持するほかなかった旨主張し、前記証拠によれば、佐古は、刑事の公判廷で同趣旨の供述をしていることが認められる。

しかしながら、他方において、前記各証拠によれば、佐古の取調べにあたった親崎検事は、佐古に対し、「この供述が真実であるなら増渕らは逮捕されるかもしれない。」、「君自身も共犯と疑われるかもしれない。」、「今までの供述を撤回するのなら撤回してよい。」と言って取調べをしたことも認められ、この事実を考慮すれば、佐古の刑事公判廷における右供述によっても、原告らの右主張事実を推認することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

<3> さらに、原告らは、増渕及び原告江口が事情を知らない佐古の面前で日石・土田邸事件の話をしゃべるはずがないとして、その供述内容の不自然さを主張するが、前記のように、佐古のプランタン会談供述が具体的かつ詳細なものであることなどを総合考慮すると、原告堀らに対する各勾留請求の時点において、右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

<4> なお、原告らは、小包の筆跡が原告前林のものであるとの会話がなされた旨の右佐古供述は、客観的事実に反しているとも主張するが、右会話内容が結果的に虚偽であったとしても、<証拠略>によれば、原告堀、同江口及び同前林の日石・土田邸事件に関する勾留請求時には、小包の筆跡に関する事実関係が明らかになっていなかったことが認められ、これらを考慮すれば、本件全証拠によっても、勾留請求時において佐古の右供述がすべて信用性のないものであったとまで認めることはできない。

(三)  檜谷の供述

(1) 供述経過及び供述内容

前記各証拠によれば、檜谷が増渕から依頼されて前原と通謀したことなどについて供述した経過は、前記第四、九、3、(三)に認定したとおりであり、その供述の要旨は、前記第四、一〇、3、(二)、(2)に認定したとおりであることがそれぞれ認められる。

(2) 判断

<1> 右認定事実によれば、檜谷の右供述から、増渕が目白付近に土地勘があること及び日石・土田邸事件で使用されたものと同様の爆弾の構造等についての知識を有することが認められ、土田邸事件を敢行したのではないかとの疑いがあることが認められる。

<2> 原告らは、取調官が、証拠隠滅罪の適用を念頭において被疑者調書を用い黙秘権を告げて檜谷を取り調べたため、檜谷は、自己に不利益が及ばないようにしたいと考えて取調官に迎合的に対処し、虚偽の供述をしたものである旨主張をするが、たとえ取調官が、証拠隠滅罪の適用を念頭において被疑者調書を用い黙秘権を告げて檜谷を取り調べたとしても、これのみをもって檜谷が直ちに虚偽供述をするとは認められないから、原告らの右主張は採用できない。

<3> また、原告らは、昭和四八年三月一〇日に増渕が檜谷に対して土田邸事件についての口止めをしたことについて、増渕はそれ以前に土田邸事件の話をしたことはなかったのであるから、そもそも口止めをする必然性は全くなく、また、檜谷が右口止めをされた日の取調べでその供述をしなかったのに、翌一一日に供述をすると言うのは不自然であるなどと主張する。

しかしながら、原告主張の右点を考えても、檜谷の前記供述の具体性などを考えると、原告堀、同江口及び同前林の勾留請求段階において、檜谷の右供述の信用性が否定されるとは認められない。

(四)  増渕の供述

(1) 供述経過及び供述内容

前記各証拠によれば、増渕が日石・土田邸事件について自白するに至った経緯は、前記第四、九、3、(四)に認定したとおりであり、その自白の要旨等は、前記第四、一〇、3、(二)、(4)に認定したとおりであることがそれぞれ認められる。

(2) 判断

<1> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同江口及び同前林が、日石・土田邸事件を敢行したのではないかとの疑いのあることが認められる。

<2> 原告らは、増渕は、三月一二日の夜の取調べが終わる段階で、翌日以後の取調べにおいては自白をせざるを得ないような「極度に追いつめられた心理状態」に達していたものであり、三月一三日の自白は、右心理状態に基づくものであって、信用性がない旨主張し、前記各証拠によれば、増渕は、同月一二日、「今後爆弾事件に関し、総て清算する覚悟です。記憶にないことがありましたら思い出してお話しいたします。深く反省しておりますので、よろしくおねがいいたします。」という内容の誓約書を書いていたこと、地刑九部における「被告人増渕利行の供述調書及び供述書の取調請求に対する決定書」には、増渕は、遅くとも同月一二日の夜の取調べの終わる段階では、翌日以後の取調べにおいては自白をせざるを得ないように相当追いつめられた心理状態に達していたこと、同月一三日の自白は、このような心理状態に基づくものであることが認定されていることがそれぞれ認められる。

しかしながら、前記各証拠によれば、津村検事は、昭和四八年三月一三日の取調べの際、増渕に対し、心理的に威迫するような違法、不当な取調べの方法又は態度をとっていなかったこと、また、増渕は、右取調べで、自己の犯行への関与を認めるのみならず、原告前林の犯行への関与までも供述していることなどが認められ、これらを総合考慮すれば、原告堀らの前記勾留請求段階で、増渕の右供述が信用性のないものであったとまでは認められない。

<3> なお、原告らは、次のような主張もしているが、これらは、増渕の右自白の信用性に関する、前記「極度に追いつめられた心理状態」に基づく自白である旨の主張と同趣旨のものであり、いずれも理由がない。

(ア) 増渕は、昭和四八年二月一二日の八・九機事件逮捕の少し前から未解決爆弾事件の取調べを受け、同月下旬ころからは日石・土田邸事件の本格的追及を受け、その際高橋警部補から「お前を犯人として断定する」と宣言され、更に被害者の死体等の写真を見せられたりして取調べを受けた。

(イ) 取調官は、昭和四八年二月下旬ころから日石・土田邸事件で増渕を取り調べるに当たり、増渕から承諾を得ておらず、増渕も同事件の取調べについて出頭拒否及び退去の自由があることを知らなかった。

(ウ) 増渕の健康状態は、昭和四八年一月二二日の逮捕以前からむしばまれていて、その後連日連夜の取調べの中で、一層悪化し、ぜん息も治らず、腰痛を起こしたり夜も眠れない日が続いて、最悪の状態になっていった。

(エ) 増渕は、昭和四八年一月二二日から一日の休みもなく朝から深夜まで休憩時間も与えられずに取調べを受け、日石・土田邸事件の取調べに入ってからも、でかい声で追及され続けた。

<4> さらに、原告らは、増渕の取調べにおいて、取調官は、自らが考えた筋書きを断定的に押し付ける取調べをし、また、原告江口及び同堀が既に自供していて細かいところまでわかっているとして増渕を誤導したので、増渕の右供述は信用性がない旨主張する。

しかしながら、<証拠略>によれば、増渕は刑事審において右主張にそう供述をしていることが認められるものの、右各証拠及び<証拠略>によれば、増渕の取調べにあたった前記高橋警部補は、刑事審においてこれを否定する供述をしていることも認められ、増渕の刑事審における右供述は、高橋警部補の刑事審における右供述に照らして容易に採用し難く、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

<5> 原告らは、昭和四八年二月下旬から三月一三日までの増渕に対する日石・土田邸事件についての取調べは、起訴後の勾留中の余罪取調べであるから、その取調べは、任意取調べの範囲内に限られ、また、被疑者が取調べを受認する義務がないことを知っており、かつ、取調前またはその途中において明示的に取調べを拒否することができることを告知した上で行うべきであり、たとえ取調拒否がなかったとしても、取調官において、たとえば長時間の執拗な取調べをすることによって被疑者の取調拒否の自由意思を事実上抑圧するような取調べをすることは許されないとした上で、増渕の右取調べは、長期間にわたる逮捕・勾留中の連日の取調べにより疲労している増渕に対し、引き続いて更に起訴された事件よりはるかに重大な被疑事件について、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで七ないし八時間、午後九時ないし午後一〇時に及ぶ取調べを行い、とりわけ同月七日から一二日までの間は極めて厳しいものであって、任意の取調べとして許容される限度をはるかに越えた違法な取調べであったとし、これによって得られた増渕の自白は証拠能力及び信用性がない旨主張する。

この点、<証拠略>によれば、増渕は、八・九機事件及び土田邸事件の起訴後も長時間にわたる取調べを受けており、地刑九部における「被告人増渕利行の供述調書及び供述書の取調請求に対する決定書」においても、右取調べが任意捜査として許される限度を超えているとされたことがそれぞれ認められるが、これを考慮しても、増渕の右供述内容の具体性等を考えれば、原告堀らに対する勾留請求の段階で、右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

<6> 原告らは、増渕の津村検事に対する供述は、警察の違法な取調状況をチェックせず、むしろこれに乗じて獲得されたものであって任意性がなく、信用性のないものである旨主張するが、前記のとおり、増渕の警察官に対する供述の信用性が否定されるとは認められず、他に本件全証拠によっても、増渕の検察官に対する供述の信用性が否定される事情は認められない。

<7> また、増渕の前記供述は、検察官及び警察官に対し、同日になされたものであるにもかかわらず、原告前林が犯行に関与したか否かという点及び土田邸爆弾の製造時期及び場所についてそれぞれ変遷が認められ、また、日石爆弾の個数については客観的事実(日石事件で使用された爆弾は二個)と相違があるが、右変遷等の事実を考慮に入れても、なお、原告堀らの前記勾留請求段階で、増渕の右供述の基本的部分の信用性が否定されるとは認められない。

4  判断

以上の認定、判断によれは。日石・土田邸事件に関する原告堀、同江口及び同前林の勾留請求については、同原告らが右事件の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があったものと認めることができる。また、前記争いのない事実、<証拠略>によれば、右両事件は、罪質が重く、被疑者と犯人の同一性に関する客観的証拠も乏しく、複雑かつ立証困難な事案であって、同原告らにつき罪証隠滅及び逃亡のおそれがあったことも認めることができる。したがって、右勾留請求については、勾留の理由及びその必要性があったものと認められる。

原告らは、検察官が原告堀らに対する右勾留請求の疎明資料とした佐古、檜谷、増渕の各供述は、いずれも信用性がない旨主張するが、これが理由のないものであることは前記のとおりであり、この他に、本件全証拠を検討してみても、検察官が、右勾留請求時において、捜査により収集した資料を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求をしたと認め得るような事情は認められない。

よって、右勾留請求は国家賠償法上違法とはいえず、原告らの主張は理由がない。

一二 原告榎下の日石・土田邸事件の逮捕状請求

1  逮捕状請求の違法性判断基準

前記のとおり、司法警察職員による被疑者の逮捕状請求については、司法警察職員が、逮捕状請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情がある場合に限り、右逮捕状請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である。

日石・土田邸事件に関する原告榎下の逮捕状請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  逮捕状請求等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一)  逮捕の経過

司法警察職員は、原告榎下について、昭和四八年四月一〇日、土田邸事件の逮捕状を裁判官に請求し、同日その発付を得て、原告榎下を同事件(幇助)で通常逮捕した。

また、司法警察職員は、原告榎下について、同月一二日、日石事件の逮捕状を裁判官に請求し、同日その発付を得て、原告榎下を同事件で通常逮捕した。

(二)  土田邸事件の逮捕状の被疑事実

原告榎下の土田邸事件に関する逮捕状の被疑事実(土田邸事件幇助)は、次のとおりであった。

被疑者は、増渕利行ら数名が共謀のうえ、治安を妨げ、人の身体、財産を害する目的をもって昭和四六年一二月一七日午前一一時ころから、同日午後二時ころの間いわゆるトリック手製爆弾一個を、小包に偽装し、千代田区神田神保町一の二五郵政相豆ビル内神田南神保町郵便局より

差出人 千代田区<以下略> 久保卓也

名宛人 都内豊島区<以下略> 土田國保

として発送し、右同年同月一八日午前一一時二二分ころ右土田宅において、これを爆発させ、もって爆発物を使用するとともに右爆発により、

名宛人の妻 土田民子 四七歳

を即死せしめたほか、同人の四男恭四郎一三歳に対し加療約一か月を要する爆発による傷害を与えた犯罪を敢行するにあたり、右爆発物使用の目的及び警察首脳に対する小包偽装のトリック手製爆弾郵送計画があることを知りながら、右増渕の請託を容れ、

1  昭和四六年一二月一日ころ自己の勤務先から通勤用として貸与された軽四輪貨物自動車(第六~練馬せ五五六八号)に増渕利行を乗車せしめ、同日午後九時〇〇分ころから、深夜に至る間、東京都千代田区神田神保町一丁目周辺一帯の下見(事前調査)に参加し、

2  右同年一二月一〇日ころ右同自動車に増渕外二名を乗車せしめ、同日午後八時〇〇分ころから、深夜に至る間、東京都千代田区神田神保町一丁目周辺一帯の下見に参加し、

もって右犯罪を容易ならしめたものである。

(三) 日石事件の逮捕状の被疑事実

原告榎下の日石事件に関する逮捕状の被疑事実は、次のとおりであった。

被疑者は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警察官らを殺害する目的をもって、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三五分ころ、弁当箱に塩素酸ナトリューム、砂糖などを充填し、これに乾電池・ガスヒーターなどを用いた起爆装置に結合した手製爆弾二個を、小包に偽装し、

東京都港区西新橋一丁目三番一二号

日本石油本館ビル内の日石本館内地下郵便局より

(1)  差出人 港区新橋二ノ九ノ一青葉ビル 中央警備保障KK、業務部

名宛人 新宿区<以下略> 後藤田正晴

(2)  差出人 港区新橋新幸ビル 東京細田貿易KK

名宛人 横浜市<以下略> 今井栄文

宛、小包郵便物として差し出し、同日午前一〇時四〇分ころ、同郵便局においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により、

千葉県<以下略> 郵便局員 星野栄 二六歳

に対し、加療約三週間を要する火傷二度の傷害を負わせたが、同人を殺害する目的を遂げなかったものである。

3  土田邸事件

(一)  司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

<証拠略>によれば、被告都の司法警察職員である警察官は、一連の捜査結果により、原告榎下に対する土田邸事件(幇助)の右逮捕状を請求した当時、原告堀、同江口、同前林に対する日石・土田邸事件の逮捕状請求及び勾留請求時にすでに収集していた前記の疎明資料(第四、一〇、3、(一)、(二)及び第四、一一、3)のほかに、さらに、原告榎下の昭和四八年四月八日付、松村の同月九日、増渕の同年三月一四日付、一九日付、二〇日付、二八日付及び四月八日付並びに原告堀の同年三月二八日付各供述等を現に収集していたことが認められる。

そこで、右各供述の内容等を検討し、もって、警察官が、原告榎下に右事件の嫌疑と逮捕の必要性があるかを判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二)  疎明資料の内容

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告榎下の供述

原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月二〇日ころ、日大二高職員室に増渕、原告堀、同江口、中村(隆)、松村、私の六人が集まり、増渕から「ビックリ爆弾をビル街の郵便局を探して、そこから権力に小包で送る。」との話があり、その任務分担について、原告堀は送り先を決める、原告江口は爆弾を作る、中村(隆)は爆弾の材料を捜す、私には、下見などの車の運転ということが指示された。この時の指示に基づいて、同年九月末ころの夜、私は、増渕と原告江口を車に乗せて、増渕の案内で、日石ビル付近まで下見に行った。同年一〇月九日ころ、原告前林が、私が増渕に斡旋してやったホンダN360のナンバープレートを持って白山自動車に訪ねて来た。近くの喫茶店で原告前林と待ち合わせ、N360のナンバープレートを受け取った際、原告前林が廃車証明はいつまでに出来るかと聞いてきたので、二、三日中には出来ると答えると、原告前林は「実は一八日にビックリ爆弾を郵送することになった。私が習志野に行って自動車の登録手続をしているようにみせかけるから、それに間に合うよう廃車手続きをやって欲しい。」と言った。それから、私に「一八日の昼間、新橋に行けないか。」と聞いてきたが、私は、昼間は会社を抜け出せないと言って断わったように思う。日石事件直後の松村が宿直の夜、日大二高職員室に増渕、原告堀、松村、原告江口、私の五人が集まって総括をした。増渕は「失敗の原因は爆弾のトリックだ。もっと精巧なものを作り、あらためて権力に郵送する準備をする。任務分担はこのままでいこう。」と指示した。同年一二月一日午後九時ころ、白山自動車に増渕、原告前林、同堀、私が集まり、私が運転するスバルサンバーに乗せて神保町交差点近くの郵便局を下見した。その途中の車中で、増渕から、ビックリ爆弾は土田警務部長の自宅に送ると聞かされた。同月一〇日ころの午後八時過ぎころにも、白山自動車に増渕、原告堀、同前林の三人が来て、私の運転する車で再度神保町の郵便局を下見した。この際に、原告前林が小包を郵便局に差し出す任務であることを知った。土田邸事件発生当日の夜、原告掘と一緒に給田の増渕のアパートへ行ったが、その途中原告堀から「ビックリ爆弾の製造は、江口のアパートで江口が中心となり増渕が手伝って行い、出来上がったものを金本が包装して、前林が松本運転の車で神保町の郵便局から土田邸に郵送した。」旨聞かされた。

(2) 松村の供述

松村は、昭和四八年四月九日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月一八日の夜、日大二高職員室に増渕、原告堀、同江口、原告榎下、中村(隆)、私の六名が集まり、増渕が「我々の路線を実行する時が来た。我々が開発したビックリ爆弾をビル街の郵便局から敵警察権力などに小包で送る。」とアジった。原告堀も「とうちゃんが言うとおり、敵権力をウチらの犠牲を出さずに完全に倒せるのはこの方法しかない。みんな団結して闘おう。」とあおった。増渕から任務分担が言い渡され、原告堀は、副官役と郵便局の選定、原告江口は増渕と共に爆弾製造、原告榎下は車の運転、特に下見、中村(隆)は爆弾の部品の入手、私は、場所提供と塩素酸カリの盗み出しだった。

同年一〇月二三日の宿直の夜、増渕、原告堀、同江口、同榎下、私が日大二高職員室に集まり、増渕が「日石は失敗した。爆弾のトリック部分が失敗だった。完全な爆弾を作って権力に郵送する。」などと総括し、原告堀も、失敗に懲りず大いにやろうと闘争心をあおりたてた。

(3) 増渕の供述

<1> 増渕は、昭和四八年三月一四日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

土田邸事件については、昭和四六年九月下旬ころ、私、原告江口及び同堀の三人で相談し、私が雷管製造、原告江口が爆弾製造、原告堀が爆弾郵送という任務分担を決めて行ったものである。昨日は、雷管を二個作ったと供述したが、三個だったかも知れない。雷管は、原告前林が会社へ行っている間に高橋荘で一人で作った。雷管製造に使った器具や材料は原告堀の家に保管してもらった。私は自分で作った二ないし三個の手製雷管を封筒に入れて、荻窪の喫茶店「金沢」で原告江口に渡したが、日時ははっきりしない。雷管を原告江口に渡して一週間くらいで爆弾が出来てきた。白っぽい紙製の手提袋に入っていた。昨日は、爆弾の数を二個と供述したが、紙袋の中は見ていないので、三個あったかも知れない。土曜日の午後一時半ころ喫茶店「金沢」で受け取った。その際、原告江口から、爆弾は開ければその場で爆発するように出来ているとの説明を受けた。午後二時ころ原告江口と別れ、荻窪からバスで烏山へ行き、京王線で聖蹟桜ヶ丘駅へ行った。駅前の喫茶店で原告堀に会い、午後五時か五時半ころ爆弾を渡した。その後、その爆弾を発送したかどうかについての結果報告は受けていない。

<2> 増渕は、昭和四八年三月一九日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。なお、増渕は、この際、「堀秀夫の家の見取図」及び「日石・土田宅に使った雷管の図」と題する図面二葉を作成した。

昭和四六年一〇月初めころの午後七時ころ、原告堀が車で高橋荘にやってきて、「増渕ちよっと話がある。爆弾闘争をやろう。」と話を持ちかけてきた。自分も何かやろうと思っていた矢先だったので、即座に同調した。闘争の方法は、警察庁長官、警視総監、機動隊に(爆弾を)郵送しようというものだった。そして、原告堀から「雷管を作る準備ができているから家に来てくれ。」と言われ、午後八時ころ同人の家に行った。机の上に雷管づくりの材料等が並べてあった。雷汞は、原告堀と二人で造り、使い残りの硝化綿を利用して雷管を四~五本造った。鉛筆サックを利用したものを一、二本、原告堀のアイディアでクッキングホイルを使用したものを二本くらい(いずれも、ガスヒーターの点火装置使用。)、石油ストーブの点火装置とクッキングホイル使用のもの一本くらいを造った。全部完成するのに二、三時間かかったと思う。出来上がった雷管は、私が、茶色の封筒に入れて持って帰った。

<3> 増渕は、昭和四八年三月二〇日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。なお、増渕は、この際、「喫茶店金沢の見取図、堀とあった喫茶店見取図」及び「堀と相談した場所の図」と題する図面二葉を作成した。

雷管の発火装置に使用したヒーターは、ガスヒーターが一、二種類、石油ストーブが一種類だったと思う。一・五V用だったと思うがはっきりしない。いずれも原告堀が用意したものである。昭和四六年一〇月初めころ、原告堀が高橋荘に来て、爆弾闘争の話をもちかけてきたので、原告堀の車の中で相談した。手投爆弾や、時限爆弾は作れないので、蓋を開けたら爆発する装置の爆弾を造り、警察庁長官、警視総監、機動隊などを攻撃しようということになった。当初から、爆弾製造は原告江口に頼むつもりだった。原告堀方で雷管製造後、それを一旦高橋荘に持ち帰り、原告江口と連絡して次の土曜日に荻窪駅前の喫茶店「金沢」で待ち合わせた。私が原告江口に対し、「爆弾闘争をしたいから、開ければ爆発するような仕掛の爆弾を二、三個作ってくれ。」と頼むと、同女はこれを承知した。そこで、原告堀方で作った雷管を原告江口に手渡した。次の週の土曜日午後一時半ころ「金沢」で原告江口から手提袋に入った爆弾(茶色っぽい紙で包装した箱様のもの)を受け取った。そこから、バスで烏山に出て、京王線で聖蹟桜ヶ丘駅へ行き、午後五時三〇分ころ、喫茶店で、原告堀に手提袋のまま爆弾を手渡した。聖蹟桜ヶ丘駅を待ち合わせ場所にしたのは、私と原告堀が両方とも知っている喫茶店がそこしかなかったからである。一週間くらい後、日石郵便局で小包爆弾が爆発したというニュースを聞いて、私は「あの爆弾失敗したな。」と感じた。一一月下旬ころの午後六、七時ころ、再度、原告堀が高橋荘にやってきた。原告堀は、「この間の爆弾は失敗した。今度は、下赤塚の一周年記念で土田宅に郵送しようと思うので、もう一発爆弾を作ってくれ。」と言った。私もこれに賛成し、再び原告江口に爆弾の製造を依頼した。五、六日後、原告江口に電話すると爆弾が出来ているということだったので、その週の土曜日午後一時半ころ、喫茶店「金沢」で待ち合わせ、爆弾を受け取った。今回も、白っぽい手提紙袋に入っており、そのまま受領し、午後五時半ころ、聖蹟桜ヶ丘駅前の喫茶店で原告堀に引き渡した。帰りは、原告堀に自動車で送ってもらった。事件当日、高橋荘でテレビを見ていると、午後六時半のニュースコープで土田邸の事件の報道があり、「やった。」と思った。その後、一二月三〇日ころ、原告堀が高橋荘に来たとき、同人は私に「やった。」と言っていた。

<4> 増渕は、昭和四八年三月二八日、検察官に対し、原告堀のグループで知っている人物の名前を挙げ、その中で、原告榎下の名前を挙げると同時に、同人から昭和四六年九月一日ころホンダ軽乗用車を買った他たびたび自動車を修理してもらっている旨供述した。

<5> 増渕は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年七月中旬ころの午後八時ころ、私は、原告堀及び同江口を日大二高に集めた。当日は、日大二高職員で原告堀の友人である通称まっちゃん(松村)が宿直であった。目的は、現状を分析し、今後の闘争方針を確認するためだった。私は、昭和四五年一〇月ころまで赤軍派に所属しており、昭和四六年二月ころから始まった赤軍派のM作戦を興味をもってみており、これが将来は内戦にまで発展するであろうと予測した。そして、同年六月一七日明治公園爆弾事件等が発生し、いよいよ爆弾闘争に入った感じがしてきたので、両名を呼んで、爆弾闘争の意志統一をしなければならないと考えた。このときの会合では、全員、爆弾闘争の時代に入った、我々も爆弾闘争をやらねばならないということに決定した。爆弾闘争の手段は、我々の力量では、安全確実に闘争を進めるためには、爆弾を小包にして郵送するしかないという結論だった。このアイディアは昭和四五年五、六月当時赤軍派が考え出したもので、私はこれに参画していたことから、この方法を継承することにした。任務分担は、私が総指揮、原告江口が爆弾製造、原告堀がレポ(調査下見等)及び郵送であった。会合は一時間くらいで終わり、松村は参加していない。

同年八月下旬ころの午後八時ころから午後九時ころまでの間、再び、原告堀及び同江口を日大二高に集めた。目的は七月の決定を実行に移すため、この日も松村は宿直だったが、会合には参加していない。私は、原告江口に、開くと爆発する爆弾を郵送できる大きさに造りあげる準備をしておくように指示し、原告堀に対しては、狙う目標を権力関係の機関及び個人にするので具体的に調べておくよう指示し、それぞれ承諾をとった。この段階では、攻撃目標は未だ具体的には定まっていなかった。

同年九月中旬ころ、原告堀が、電気関係の仕事をしている中村(隆)と白山自動車修理工の原告榎下を部下として使いたいと言ってきたので、私はオルグする必要があると考え、原告堀にこれらの者を日大二高に集めさせた。時間は午後八時ころで、集まった場所は職員室、メンバーは中村(隆)、原告榎下、松村、原告堀、私の五人。私からこれらの者に爆弾闘争の意義を「ビンゲバではなく、爆弾闘争でなければならない。爆弾によって権力を倒す闘争をやるので協力して欲しい。」旨説明し、協力を求めると、全員賛成し、原告堀の指揮下に入ることになった。松村に塩素酸カリの入手方を頼んだように思うが、断られた。同じころ、原告堀のレポが遅れているというので、松村から日大二高の電話帳五冊をもらい、原告堀が持って行った。権力機関の所在地を調べるのが目的だった。

原告江口から爆弾を受け取った同年一〇月九日の昼ごろ、爆弾を原告堀に渡すつもりで原告堀に電話したが、休みで連絡が取れなかったため、午後三時ころ石田茂のアパートへ行き、同人に「大事な物だから、さわるんじゃないぞ。二、三日預かってくれ。」と言って、自分で押し入れにしまった。それから一、二日後の午後七時ころ、原告堀が給田のアパートに来たので、一緒に祖師谷の喫茶店ウイーンに行き、一人で石田のアパートへ行って紙袋に入った爆弾を持ってきて原告堀に渡した。この爆弾が日石郵便局で爆発した爆弾である。

同年一〇月下旬か一一月初めころ、原告堀から「防衛庁の幹部の家が神田付近なので、神田付近の郵便局を当たっておく必要がある。」と言われ、長倉からそれとなく神保町付近の郵便局を聞き出した。しばらくしてから、原告榎下に「神田方面に行ってくれ。」と頼み、原告榎下の車で神保町付近をレポし、神保町の郵便局を確認してきた。

原告江口からの爆弾受領は一二月一一日、荻窪の喫茶店金沢で行い、これを聖蹟桜ヶ丘へ運んで原告堀に渡した。その後、原告堀が「中村(泰)が宿直なので遊びに行こう。」と言うので八王子保健所に向かった。「爆弾の保管は中村(泰)に頼もうと思う。公務所なのでガサ入れ等もなく安全」というので、賛成した。午後七時ころ保健所に着き、中村(泰)に「これを暫く預かってくれ。」と言って紙袋入りの爆弾を渡し、ロッカーに保管してもらった。

(4) 原告堀の供述

原告堀は、昭和四八年三月二八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一二月ころの午後六時ころ、自分のカローラを運転し勤め先を出て、まず中村(泰)の家に行き、次に国立の金本の家に行った。途中、私が免許証を忘れたことに気付き、金本に運転して貰って私の自宅へ行き、金本、中村(泰)の二人を母に紹介した。午後一〇時ころ、三人で増渕の住む高橋荘へ行った。増渕のアパートの奥の四畳半で、原告前林か金本が炬燵の上で小包に字を書いていた記憶がある。その後午前〇時ころ、中村(泰)は高橋荘に泊ることとなり、原告前林が金本にも泊るよう勧めていたが帰るというので、私が金本を車で送り、その際増渕から頼まれて小包を金本のアパートまで持って行ったような気がする。小包の大きさは縦一三センチくらい、横一三センチくらい、奥行二三センチくらいの大きさで、もしかしたら同じような比率でもっと大きかったかも知れない。私は、「都内の郵便局から送ってくれ。」と言って小包の郵送を金本に頼んだと思う。

(三)  判断

右認定事実及び前記(第四、九、1、2)認定事実によれば、警察官が原告榎下に対する土田邸事件(幇助)の逮捕状請求時に現に収集していた資料を総合勘案すると、同原告が右事件の逮捕状の前記被疑事実に記載されたとおりの罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由(嫌疑)があったものと認めることができる。そして、右事件の重大性等からすれば、明らかに逮捕の必要性がないとは認められない。

原告らは、原告榎下らの供述調書は本来証拠たり得ないものであるから、これらを基礎とする右逮捕状請求は違法である旨主張するが、理由がない。

また、原告らは、犯人隠避事件による原告榎下の逮捕・勾留は違法な別件逮捕・勾留であり、この逮捕・勾留中になされた同原告の供述には証拠能力がない旨主張するが、後記(第四、一七、3)のとおり、右逮捕・勾留が違法な別件逮捕・勾留であるとは認められず、また、犯人隠避事件での逮捕・勾留中における日石・土田邸事件の取調べも直ちに違法とまではいえないことなどを考えれば、警察官が、犯人隠避事件の逮捕・勾留中になされた原告榎下の供述も根拠にして土田邸事件(幇助)についての逮捕状を請求したとしても、これをもって、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状請求をしたものであると認めることはできない。

さらに、原告らは、犯人隠避事件を理由とする原告榎下の逮捕・勾留が違法な別件逮捕・勾留であることを前提に、日石・土田邸事件を理由とする逮捕・勾留が、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返しであり、令状主義に違反する違法な身柄拘束であった旨主張するが、前記のように、犯人隠避事件の逮捕・勾留中に日石・土田邸事件の取調べを行うことも直ちに違法とまではいえず、日石・土田邸事件による逮捕状請求が同一事件による逮捕状請求の蒸し返しとは認められない。

他に、本件全証拠を検討してみても、警察官が、原告榎下に対する右事件の逮捕状請求時に、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情の存在を認めるに足りる証拠はない。したがって、右逮捕状請求が、国家賠償法一条一項の違法行為に当たると認めることはできない。

4  日石事件

(一)  司法警察職員が逮捕状請求時において現に収集していた疎明資料

<証拠略>によれば、被告都の司法警察職員である警察官は、一連の捜査結果により、原告榎下に対する日石事件の逮捕状を請求した当時、原告堀、同江口、同前林に対する日石・土田邸事件の逮捕状請求及び勾留請求時にすでに収集していた前記の疎明資料のほかに、さらに、原告榎下の昭和四八年四月八日ないし一一日付、松村の同月九日付及び中村(隆)の同月九日付各供述等を現に収集していたことが認められる。

そこで、右各供述を検討し、もって、警察官が、原告榎下に日石事件の嫌疑と逮捕の必要性があるかを判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二)  疎明資料の内容

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告榎下の供述

<1> 原告榎下は、昭和四八年四月八日、検察官及び警察官に対し、それぞれ日石事件について供述したが、警察官に対する供述の要旨は前記のとおりであり、検察官に対しては、ホンダN360の廃車手続等について供述するとともに、原告前林や同堀から、昭和四六年一〇月一八日に原告江口と同前林が爆弾を郵送する際、新橋まで自動車を運転するよう依頼されたこと、一八日朝、増渕、原告江口及び同堀が白山自動車に集合し、同所から新橋へ向かったこと等を供述した。

<2> 原告榎下は、昭和四八年四月九日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月一六日午後八時ころ、原告堀が白山自動車に私を訪ねて来て、「月曜日の朝、とうちゃんと江口が取りに来るから、例のビックリ爆弾を預かってくれ。」と言って手提袋入りの爆弾を渡され、物置がわりにしているポンコツのトヨエース・バンの中に隠した。同月一八日午前九時過ぎころ、増渕と原告江口が白山自動車に訪ねてきたので、トヨエース・バンの中に隠していた爆弾を原告江口に渡した。二人は、爆弾を受け取ると荻窪駅の方へ歩いて行った。同月二〇日か二一日ころの夜、原告堀方を訪ね、日石郵便局の爆発について話していた際、原告堀は「前林は爆弾を差し出してから習志野へ行った。江口は、そこから東京駅に行って関西に行っている。」と話してくれた。

<3> 原告榎下は、昭和四八年四月一〇日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月一八日午前八時五五分ころ、増渕と原告江口が環状八号線の歩道を荻窪駅方向から白山自動車に向かって歩いてきた。私は、原告堀から預かってトヨエース・バンに隠しておいたビックリ爆弾を取り出して原告江口に手渡した。増渕は、私に「頼みがあるんだ。新宿まで行ってくれないか。新宿に行けば中村(隆)が待っているんだ。」と言うので、断り切れず、社長の長男に免許証を忘れたのでちよっと取りに行ってくると断って、スバルサンバーを運転して会社を出、途中で増渕と原告江口を乗せて環状八号線から青梅街道に出て、新宿の高速道路入口まで運んだ。新宿の高速道路入口には、一見して中村(隆)の車と思われるブルーのサニークーペが停まっており、私が見たところでは中村に違いない男が運転席にいて、増渕と原告江口を乗せて高速道路へ入っていった。

私にとって中村(隆)は親友なので、どうしてもその名前を言い出せなかったが、つい正直に言ってしまった。新宿に自動車で待っていたのは、私の知らない人だとか、あるいは松本博であったとか、中村(隆)と言ったあとで中村(隆)ではなかったと否定したりしたが、これは、私が中村(隆)のことを一生懸命にかばおうとしたためである。

<4> 原告榎下は、昭和四八年四月一一日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月初めころの午後八時ころ、原告堀からの呼出しで給田の増渕のアパートへ行くと、増渕、原告堀、同前林、中村(隆)、松本が集まり、増渕を除く四人が毛筆、万年筆、サインペンでわら半紙に後藤田や今井の名前や住所を書いていた。原告堀に尋ねると、原告堀は「爆弾の送り先だ。」と言い、その後、荷札に同様に書いて原告堀が集めていた。私も書いた。

同月七日ころの午後八時ころ、白山自動車に訪ねてきた増渕、原告江口、同堀の三人を私の運転する車に乗せて新橋方面の下見に出かけた。高いビルの前に車を停めると、私以外の三人が車から降りて郵便局を下見に行った。

(2) 松村の供述

松村は、昭和四八年四月九日、警察官に対し、前記第四、一二、3、(二)、(2)のとおり供述した。

(3) 中村(隆)の供述

中村(隆)は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。なお、同人は、同供述の際、「私が増渕に説明したマイクロスイッチ」と題する図面一葉を作成した。

昭和四六年八月か九月上旬ころ、日大二高に増渕、原告堀、松村、原告榎下、私が集まった際、増渕から「これからは爆弾闘争が必要だ。皆も協力してくれ。攻撃目標は政府要人だ。」と言われた。その際、増渕から金属ケースを作ってくれないかと頼まれたので、ラジオのシャーシに蓋を付ければできると思い、秋葉原で買えば作るより安く手に入ると説明した。また、増渕から「箱のフタを開けると爆発する様な装置はどんなものを使えば良いか。」と聞かれたので、「マイクロスイッチを使えば簡単だよ。一〇〇ボルトから二〇〇ボルト用の二、三センチで平角のノブのついたものならいい。」と教えた。増渕は、私にマイクロスイッチの購入を頼んだが、私が断ったところ、原告榎下にマイクロスイッチを購入するように依頼し、更に、車の運転を頼んだりしているようだった。

(三)  判断

右認定事実によれば、警察官が原告榎下に対する逮捕状請求時に現に収集していた資料を総合勘案すると、同原告が日石事件の逮捕状の被疑事実に記載されたとおりの罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由(嫌疑)があったものと認めることができる。そして、右事件の重大性等からすれば、明らかに逮捕の必要性がないとは認められない。

原告らは、原告榎下の右供述調書は証拠能力、信用性のないものであるなどと主張するが、いずれも前記のとおり理由がない。

本件全証拠を検討してみても、警察官が、原告榎下の日石事件に関する逮捕状請求時に、刑事訴訟法一九九条一項、二項所定の嫌疑の存在及び逮捕の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて逮捕状を請求したと認め得るような事情の存在を認めることはできない。したがって、右逮捕状請求が、国家賠償法一条一項の違法行為に当たると認めることはできない。

一三 原告榎下の日石・土田邸事件の勾留請求

1  勾留請求の違法性判断基準

前記のとおり、検察官による被疑者の勾留請求については、前記のように、検察官が、勾留請求時において、捜査により収集した資料(疎明資料)を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求したと認め得るような事情がある場合に限り、右勾留請求について国家賠償法一条一項の適用上違法の評価を受けるものと解するのが相当である。

日石・土田邸事件についての原告榎下の勾留請求に右のような事情が存在するかを検討する。

2  勾留請求等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(一)  勾留の経過

原告榎下は、昭和四八年四月一〇日土田邸事件(幇助)を理由として、同月一二日日石事件を理由としてそれぞれ逮捕され、同月一三日両事件について勾留を請求され、同月一四日これが認められて右両事件について勾留された。

(二)  勾留の被疑事実

右勾留の被疑事実の要旨は、次のとおりであった。

被疑者は、ほか数名と共謀のうえ、

第一  治安を妨げ、かつ、警察官らを殺害する目的をもって、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三五分ころ、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖などを充填しこれに乾電池・ガスヒーターなどを用いた起爆装置を結合した手製爆弾二個を、小包に偽装し、東京都港区西新橋一丁目三番一二号日本石油本館ビル内の日石本館内地下郵便局より、後藤田正晴及び今井栄文宛小包郵便物として差し出し、同日午前一〇時四〇分ころ、同郵便局においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆弾により同郵便局職員星野栄(二六年)に対し加療約三週間を要する火傷二度の傷害を負わせたが、同人を殺害する目的を遂げなかった

第二  治安を妨げ、かつ、警視庁警務部長土田國保及びその家族らを殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を、同四六年一二月一七日同都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局に小包郵便物として差し出し、同都豊島区<以下略>前記土田國保宛郵送し、翌一八日午前一一時二四分ころ、右土田方においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により同人の妻土田民子(当四七年)を即時爆死させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎(当一三年)に対しては加療約一か月を要する顔面・両手第二度熱傷などの爆傷を負わせたにとどまり同人殺害の目的を遂げなかった

ものである。

3 検察官が勾留請求時において現に収集していた疎明資料

(一)  疎明資料の存在

前記認定事実並びに<証拠略>によれば、検察官は、右勾留請求時において、一連の捜査により、警察官が原告榎下に対する日石・土田邸事件の逮捕状請求時にすでに収集していた前記の疎明資料等を現に収集していたので、そのうち特に、原告榎下自身が右事件の犯行を認める供述をしていたことなどを重視し、これらの各証拠を総合勘案して、原告榎下につき、日石・土田邸事件を犯した嫌疑が存在するとともに、勾留の理由及び必要性があるものと判断したことが認められる。

そこで、原告榎下の右各供述を検討し、もって、検察官が、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上で、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留を請求したと認め得るような事情があるかどうかを検討する。

(二)  原告榎下の供述

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  原告榎下は、犯人隠避事件により昭和四八年三月一九日に逮捕され引続き勾留されていたが、その間、同月二八日、三〇日、三一日、同年四月一日及び同月三日警察官に対し、同年三月三一日検察官に対し、要旨次のとおり供述した。

<1> 昭和四六年四月初めころ、原告堀と一緒に高橋荘に増渕を訪ねると、増渕は私に爆弾闘争の必要性をオルグした。その後、同年五月ころ、増渕から二度にわたって、霞が関、日比谷あたりを中心に見に行きたいので自動車に乗せて行って欲しいと頼まれたが、爆弾闘争の下見だと感じて断った。

同年五月初旬ころ、原告堀と高橋荘に増渕を訪ねた時、増渕が私にニヤニヤしながら「まあみていろ、この秋ごろ大きい出来ごとがあるから。」と言った。何をやるのかと聞き返したが、「今はまだ言う段階ではない。」と言い、原告堀や同前林もこの増渕の話を聞いていたが黙ってうなずいていた。その三日くらい後の夜、原告堀にこのことを聞いたが、同人は「まだ言えない。今にわかるよ。」と言っただけで、内容は話してくれなかった。

<2> 昭和四七年一〇月一五日ころの夜、原告堀の婚約者であるキティーが住んでいた家に行くと、原告堀が沈み込んでいるので、どうしたんだと聞くと、「実は目白の事件は俺が手伝って増渕がやったんだ。」と打ち明けられたので、びっくりして「本当か。」と聞き返すと、「本当だ。」と言った。

同年一二月三一日の夕方、日大二高の職員室で、松村、坂本、私の三人が、原告堀から「この前話した目白事件のことだけど、俺達がやったということだけは絶対に黙っていろ。目白事件のことは増渕は絶対に話さないだろうから俺達さえ言わなければ判らない。絶対に言わないと約束してくれ。」と真剣に口止めされ、誓約書の意味で全員罫紙に名前を連記させられた。

<3> 昭和四六年九月初めころの午後三時ころ、原告堀からの電話で中村(隆)を誘って日大二高へ行った。職員室で増渕と原告堀、松村が話し合っており、増渕から「俺達は今、具体的に爆弾によるテロの計画を進めている。やるのは俺達がやるから手伝ってもらいたいことがあるんだ。」という話があった。原告堀が増渕のそばでうなずいている姿が印象的であった。

(2)  原告榎下は、昭和四八年四月四日ないし七日、警察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月中旬ころの午後七時三〇分ころ、増渕に類まれ、スバルサンバーに増渕を乗せて白山自動車から九段下まで行った。竹橋の一つ先の交差点で左に曲がり、少し行って右に曲がり、路地一つ過ぎて停めた。増渕は「知り合いがいるんだ。」と言って出て行き、三、四〇分して戻った。帰りに聞いたら、増渕は「郵送の調査だ。普通の仕かけ方じゃ駄目なんだよ。政府関係の偉い人に郵便で送るんだ。小包郵送が一番効果があるんだなあ。」と言った。後でこのことを原告堀に話したら、同人は「何だ。父ちゃんは君に話したのか。」と言って怒っていた。

昭和四六年九月一〇日ころ、方南町の原告堀の家で、同人から「薬品だよ。爆弾作るのに必要なんだ。」と言われ、段ボール箱を預けられ、翌日増渕方に右段ボール箱を届けた。

また、同月末ころ、原告堀が白山自動車に訪ねて来て、大封筒に入った茶色の薬びんを渡し、増渕方に届けてくれと言うので、その夜のうちに届けた。

同年一〇月末ころ、原告堀の家で、「爆弾はどうなっているの。」と聞くと、同人は「作っているよ。俺達のグループで爆弾作りはもう始めているよ。他にもアジトはいっぱいあるんだ。」と答えた。

土田邸事件が発生した日の午後五時ころ、夕刊で事件を知った。午後七時ころ原告堀が訪ねて来て、増渕のところへ行こうと誘われた。車中で、原告堀に「今日の事件誰がやったんだ。」と聞くと、増渕や原告堀が計画していたとおりのことをやったんだという趣旨の返事だった。増渕は、ウイスキーを飲んでごろ寝していた。原告堀が増渕を起こし、二人で二〇分間くらい外に出た。

(3)  原告榎下は、昭和四八年四月八日警察官に対し供述したが、その要旨は、前記第四、一二、3、(二)、(1)に記載したとおりである。同原告は、さらに同日、検察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月九日ころに原告前林と会った二、三日後、原告堀が白山自動車に訪ねて来て、私を原告堀の車に呼び出し、「一八日にビックリ爆弾を出す。江口と父ちゃん(増渕のこと)を車で新橋まで乗っけてやってくれ。」と頼んできた。私は断ったような気もするが、曖昧な返事をしたかもしれない。原告堀は、さらに、「母ちゃん(原告前林のこと)とは向こうで合流することになっている。母ちゃんと江口がビックリ爆弾を出してから、母ちゃんが車に戻るから、習志野の陸運事務所まで連れて行って欲しい。江口は車に戻らず、東京駅に出て関西に行くことになっている。」と話してくれた。

同年一〇月一八日午前九時二五分ころ、原告堀がスプリンターを運転して白山自動車にやってきた。一〇分くらい遅れて増渕と白っぽい四〇センチ四方くらいのデパートの紙袋を持った原告江口がやってきた。しばらくしてから、原告堀がスプリンターを運転し、増渕と原告江口を乗せてどこかに走っていった。増渕達は、新橋の郵便局にビックリ爆弾を出すために出発したものと思う。

同年一〇月二〇日か二一日ころ、方南町の原告堀の家を訪ね、同人に「ついに実行したのか。」と聞くと、同人は「あれは失敗たった。」と言った。私が原告堀に「母ちゃんは、あの時どうしていた。」と聞くと、同人は「どこそこから戻ってきて新橋で会って、ビックリ爆弾を出してから習志野で手続を済ませた。」と言っていた。

(4)  原告榎下は、昭和四八年四月九日、警察官に対し、前記第四、一二、4、(二)、(1)、<2>のとおり供述した。

(5)  原告榎下は、昭和四八年四月一〇日ないし一三日警察官に対し、同月一二日及び一三日検察官に対し、要旨次のとおり供述した。

<1> 昭和四六年一〇月初めころの午後八時ころ、原告堀からの呼び出しで給田の増渕のアパートへ行くと、増渕、原告堀、同前林、中村(隆)、松本が集まっており、増渕を除く四人が毛筆、万年筆、サインペンでわら半紙に後藤田や今井の名前や住所を書いていた。原告堀に尋ねると、同人は「爆弾の送り先だ。」と言っており、その後、荷札にも同様に書いて原告堀が集めていた。私も書いた。

同月七日ころの午後八時ころ、白山自動車に訪ねてきた増渕、原告江口、同堀の三人を私の運転する車に乗せて新橋方面の下見に行った。高いビルの前に車を停めると、私以外の三人が車から降りて郵便局を下見に行った。

同月一七日、原告堀から電話で「実はどうしても人間の都合がつかないから、ベト(原告榎下を指す。)は新宿まで行ってくれ。それから先は中村(隆)が新橋まで行く。後は坂本勝治君に習志野まで行ってもらう。このことは、中村(隆)にも坂本にも連絡がついている。父ちゃんと江口がきたらすぐ車で新宿の高速道路入口まで行ってくれ。そこで中村(隆)が待っている。」と頼まれ、承諾した。もちろん、増渕らが新橋の郵便局から爆弾を郵送するつもりでいることはわかっていた。

<2> 翌一八日午前八時五五分ころ、増渕と原告江口が環状八号線の歩道を荻窪駅方向から白山自動車に向かって歩いてきた。私は、原告堀から預かってトヨエース・バンに隠しておいたビックリ爆弾を取り出して、原告江口に手渡した。増渕は、私に「頼みがあるんだ。新宿まで行ってくれないか。新宿に行けば中村(隆)が待っているんだ。」と言うので、断りきれず、会社の者には家に免許証を忘れたのでちょっと取りに行ってくると断って、スバルサンバーを運転して会社を出た。途中で増渕と原告江口を乗せて、環状八号線から青梅街道に出て、新宿の高速道路入口まで運んだ。新宿の高速道路入口には、一見して中村(隆)の車と分かるブルーのサニークーペが停まっており、私が見たところでは中村(隆)に違いない男が運転席にいて、増渕と原告江口を乗せて高速道路へ入っていった。

同月二〇日か二一日ころ、坂本から、「堀から頼まれて一八日の朝は新橋駅の近くで父ちゃんと母ちゃんと待ち合わせて習志野まで送った。」と聞いた。

これまで、原告堀搬送という嘘をついたが、その底には、日石事件にしても、私が増渕や原告堀に利用されてしまったという気持ちが強いので私の代りに原告堀の名前を挙げてしまった。事件当日増渕達を私、中村(隆)、坂本で運んだことを話さなかったのは、中村(隆)、坂本も私の親友だから、本当のことを話すと二人とも罪に問われることになり気の毒だと思ったからで、また、中村(隆)、坂本にしても私同様増渕、原告堀から利用されたという気持ちがあった。

<3> 同年一〇月二三日ころ、日大二高の職員室に増渕、原告江口、同堀、松村、中村(隆)、私の六人が集まり、日石事件の評価と今後の爆弾闘争のやり方について話し合った。増渕は「初めてだから失敗もしようがない。もっと精巧なものを作り、あらためて権力に郵送する準備をしよう。」と発言し、原告堀は「ここでやめたら俺達が今までやってきたことが何にもならない。」と言い、増渕も「ここでやめたら目標を達成できない。また計画しなおして、この次いつになるかわからないが、準備ができ次第連絡するから協力してくれ。」と言い、結局全員が協力することになった。

<4> 同年一一月二四日か二五日ころの午後八時ころ、日大二高の職員室に、増渕、原告江口、同堀、松村、中村(隆)、松本、私が集まり、土田邸事件を実行する謀議をした。増渕は皆に「この次の計画が具体化してきた。また皆も骨おってくれないか。」と頼み、全員が承知すると、増渕は「堀が調査して、この次は警視庁の土田警務部長を狙うことにした。上赤塚交番で巡査が革命の闘士をピストルで射殺したことをこいつが正当化した発言をしているからだ。この前新橋の郵便局から出したのはスイッチがまずくて失敗した。爆発力も思ったより弱かった。この次はより完全なものにする予定だから大丈夫だ。」、「郵便局は、神田あたりに目ぼしをつけている。榎下や松本も下見に行ってくれ。」、「ビックリ爆弾は、本体と蓋の間にスイッチがある。蓋を開けるとスイッチが通じて電池からヒーターに電流が流れて点火するようになっている。今度はスイッチをもっと完全に固定する必要がある。」と説明した。原告江口は「今度ほもうちょっと爆薬を多くする。爆薬に塩素酸ナトリウムを使うか別のものにするか研究してみる。」と言っていた。

4 判断

(一)  以上の認定、判断によれば、日石・土田邸事件に関する原告榎下の勾留請求については、同原告が右事件の罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があったものと認めることができる。

原告榎下の右供述には、大きな変遷が認められるものの、その供述内容の具体性等を考慮すれば、右勾留請求の段階で、右供述全体の信用性がないとまでは認められない。

(二)  また、前記争いのない事実、<証拠略>によれば、右事件は、罪質が重く、被疑者と犯人の同一性に関する客観的証拠が乏しく、複雑かつ立証困難な事案であって、原告榎下に罪証隠滅及び逃亡のおそれがあったことも認めることができる。

(三)  原告らは、前記のとおり、犯人隠避事件による原告榎下の逮捕・勾留は違法な別件逮捕・勾留であり、この逮捕・勾留中になされた原告榎下の供述は証拠能力がない旨主張するが、右逮捕・勾留が違法な別件逮捕・勾留であると認めることはできず、また、犯人隠避事件による逮捕・勾留中に日石・土田邸事件の取調べを行っても直ちに違法とまではいえないことなどを考えれば、検察官が、右逮捕・勾留中の原告榎下の供述をも根拠にして日石・土田邸事件の右勾留請求を行ったことが、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらずあえて勾留請求をしたものであると認定することはできない。

(四)  したがって、日石・土田邸事件の右勾留請求については、勾留の理由及びその必要性があったものと認められる。

この他に、本件全証拠を検討してみても、検察官が、右勾留請求時において、捜査により収集した証拠資料を総合勘案して、刑事訴訟法二〇七条一項、六〇条一項所定の嫌疑の存在及び勾留の必要性を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて勾留請求したと認め得るような事情は認められない。

一四 原告らの日石事件の公訴提起

1  公訴提起の違法性判断基準

前記のとおり、刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の提起が違法となることはない。公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である。

そこで、原告らに対する日石事件の公訴提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、原告らにつき、右事件について有罪と認められる嫌疑が存在したかを検討する。

2  日石事件の公訴事実

<証拠略>によれば、原告らに対する日石事件についての各昭和四八年五月五日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも、次のとおりであったことが認められる。

被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警察庁長官後藤田正晴、新東京国際空港公団総裁今井栄文等他人を殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・クロム酸ナトリウム・砂糖などを充填し、これに手製雷管・乾電池・手製スイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納した箱の包装をとくことなどにより爆発する装置を施した爆発物二個を、昭和四六年一〇月一八日午前一〇時三〇分すぎころ、東京都港区西新橋一丁目三番一二号日石本館内郵便局において前記後藤田正晴、同今井栄文各宛小包郵便物として受け付けさせ、同郵便局員星野栄(当二六年)らにおいてこれらを取扱中同日午前一〇時四〇分ころ爆発するにいたらしめ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆弾により右星野栄に対し加療約四〇日を要する顔面・右耳介部第一度熱傷、右上肢・胸部第二度熱傷の傷害を負わせたが、同人を殺害するにいたらなかったものである。

3  検察官が現に収集していた証拠資料

(一)  証拠資料の存在

<証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年五月五日、日石事件について原告らに対し右各公訴を提起するに当たり、現に収集していた多数の証拠のうち、<1>日石事件において爆発現場に遺留された小包爆弾の破片及び荷札等、<2>原告榎下、増渕、中村(隆)及び坂本の各供述、<3>原告堀の供述、<4>原告江口及び同前林のアリバイ工作に関する証拠、<5>松村、中村(泰)、金本及び松本の各供述が重要であると判断し、これらの各証拠関係を慎重に検討した結果、昭和四六年九月一八日ころ、日大二高において、原告堀、同江口、同榎下、増渕及び中村(隆)が、日石事件についての共謀を遂げ、また、増渕の内妻として高橋荘で同棲していた原告前林も同年九月下旬ころに至るまでの間、増渕らとの共謀を遂げた上、爆弾郵送先の選定や日石本館付近の下見、筆跡隠ぺいのための準備及び事務服の調達などの準備を行い、同年一〇月一二日ころ高橋荘において日石爆弾二個を製造し、同月一八日、原告榎下及び中村(隆)が、いわゆるリレー搬送によって日石爆弾を所持した原告江口及び増渕を日石本館近くまで運び、原告江口及び同前林において、日石爆弾二個を日石郵便局窓口に提出した事実、さらには、右犯行後、原告江口が新幹線で大阪に赴き、坂本が原告前林及び増渕を習志野まで車で運ぶなどのアリバイ工作をした事実が認められるとして、原告らについて、いずれも日石事件につき爆発物取締罰則違反、殺人未遂の罪で有罪判決を得るに足る犯罪の嫌疑があると判断したものであることが認められる。

そこで、右各証拠資料を総合勘案して、検察官が認定した<1>日石二高謀議、<2>日石爆弾製造、<3>下見、<4>筆跡隠ぺいのための準備、<5>日石リレー搬送、<6>原告前林のアリバイ、<7>原告江口のアリバイについての関係供述等を検討し、原告らに有罪と認められる嫌疑があったかを検討する。

(二)  日石リレー搬送等に関する供述

(1)  原告榎下

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、原告榎下の日石リレー搬送に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年四月八日警察官及び検察官に対し、原告前林や同堀から、昭和四六年一〇月一八日の日石事件当日に、原告江口及び同前林が爆弾を郵送する際に新橋まで自動車を運転するよう依頼されたがこれを断ったこと、同日(日石事件当日)朝、増渕、原告江口及び同堀が白山自動車に集結して原告堀の運転する車で新橋へ向かったことなどをそれぞれ供述した。その供述の要旨は、前記第四、一二、3、(二)、(1)(員面)及び前記第四、一三、3、(二)、(3)(検面)に認定したとおりであった。

(イ) 原告榎下は、昭和四八年四月九日、白山自動車で、原告堀から、昭和四六年一〇月一六日、爆弾を預ってこれを保管した旨供述するとともに、日石事件当日原告堀が運転した旨の前供述を撤回して、同日朝、増渕と原告江口に右爆弾を渡し二人が徒歩で荻窪駅方面に向かった旨供述した。その供述の要旨は、前記第四、一二、4、(二)、(1)、<2>に認定したとおりであった。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月一〇日、同原告自身が増渕らを搬送し、中村(隆)に新宿で引き継いだ旨供述し、以後は一貫して、中村(隆)が日石リレー搬送の第二搬送者であると供述した。その供述の要旨は、前記第四、一二、4、(二)、(1)、<3>に認定したとおりであった。

(エ) 原告榎下は、昭和四八年四月一〇日ないし一二日警察官に対し、同月一二日及び一三日検察官に対し、新橋から習志野まで運転を担当したのは坂本であり、原告堀からの電話で、自分と中村(隆)、坂本によるリレー搬送であることを事前に聞いていたこと、事件後、坂本から、同人が増渕と原告前林を習志野まで運んだと聞いたことなどをそれぞれ供述した。その供述の要旨は、前記第四、一三、3、(二)、(5)、<1>、<2>に認定したとおりであった。

(オ) 原告榎下は、昭和四八年四月二〇日、日石事件に至る経過を供述し、その際、日石爆弾搬送について喫茶店「サン」で増渕から指示を受けた状況を説明した。右供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一五日ころの昼過ぎ、原告堀が、どうしても休めないから同月一八日に増渕達を車に乗せて新橋の郵便局まで連れて行ってくれと電話で頼んできた。私が、「とても習志野まで行って帰ってくるのは不可能だし、中村(隆)や坂本も仕事があるから無理だ」と答えると、原告堀は、一度相談してみたいから、その日の午後八時に喫茶店サンに来るように中村(隆)と坂本を誘っておいてくれと言った。

私は、中村(隆)と坂本に電話で「サン」に来るよう頼み、白山自動車に来た原告堀及び増渕と一緒に「サン」に行くと、しばらくして中村(隆)、坂本が来た。増渕から、だれか行ける奴はいないかと聞かれたが、皆渋っていると、増渕は、「それなら、いっそのこと、みんなで一、二時間ずつ都合つけろ。リレー式にしよう。」と言い出し、私には新宿まで、中村(隆)には新宿から新橋まで、坂本には新橋から習志野までと言い、皆があまり良い顔をしないと、「ここまでやれば同罪だ。捕まればみんな死刑だ。」と言ったので、皆渋々引き受けた。

その後、増渕は、「ベト(原告榎下のこと)のところに俺と母ちゃん、江口が九時ころ行く。中村(隆)は新宿の高速道路の下に九時半ころいてくれ。坂本は、場所と時間をガリ(原告堀のこと)が連絡する。」と言い、皆もこれを承知した。

(カ) 原告榎下は、昭和四八年四月二九日、中村(隆)の無免許に関し、「私はその当時中村が車の運転免許を当然持っていると思っていました。その話し合い前に中村が時々サニークーペを運転して白山自動車にやって来ているのをみているからです。中村は器用な方で私がみるかぎりでは運転は下手ではないと思います。ですから私は中村が新宿で引き継ぐ事に決まっても別に不自然さは感じませんでした。中村の口からも運転免許を取っていないという話はサンでの話し合いでも出ていませんでした。」旨供述した。

<2> 判断

右認定事実によれば、原告榎下の日石リレー搬送に関する供述から、公訴提起時において、原告らが日石リレー搬送に関与したという原告らに対する日石事件の嫌疑が認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

これに対し、原告らは、刑事審で被告人となった者たちの供述に変遷があるなどとして、各供述に信用性がない旨の主張をする。そして、右認定事実によれば、原告榎下の日石リレー搬送に関する供述は、リレー搬送者の特定等の点で変遷していることが認められ、また、原告榎下は、サン謀議において日石リレー搬送が決められたとするが、増渕、坂本、中村(隆)等他の者は右謀議以前にリレー搬送が決定していたと述べているなど内容面における疑問が認められる。

しかしながら、原告榎下の供述には、同人が日石爆弾を預かっていたこと、増渕と原告江口が白山自動車から新橋へ出発したこと等一貫した部分も認められること、搬送者の特定について変遷したのは、親しい中村(隆)や坂本をかばうためであったとその理由を一応述べていたこと、その他供述の具体性、詳細さなどを考えると、公訴提起の段階における判断として、右変遷などによって原告榎下の供述全体の信用性が否定されるとまでは認められない。

なお、中村(隆)については、刑事審の公判段階で、日石事件当日のアリバイがあったことが判明しており、同人を第二搬送者とする原告榎下の供述は虚偽であったことが判明したが、後記のように、アリバイを立証する証拠は、公訴提起の段階で検察官が通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料とは認められないから、右アリバイを根拠に、原告榎下の日石リレー搬送に関する供述の信用性を否定することはできない。

(2)  増渕の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、増渕の日石リレー搬送に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 増渕は、昭和四八年四月九日、日石リレー搬送について、原告堀が自動車を運転し、増渕及び原告江口を同乗させて新橋まで日石爆弾を搬送し、同所で原告前林と合流した上、原告前林と同江口が同爆弾二個を日石郵便局に差し出し、その後、原告堀は同前林を習志野まで車に乗せて行った旨供述した。右供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一四、一五日ころの午後七時ころ、喫茶店「ウイーン」で原告江口と会い、午後九時ころ烏山の「和」という飲み屋へ行った。同月一八日に日石郵便局から爆弾を送ることを話すと、原告江口が大阪での学会に同日午前一一時何分かの東京発の新幹線で行くというので、「新幹線に乗るちょっと前にこの間の爆弾を日石郵便局に持って行ってくれ。」と頼むと原告江口が承諾したので、同日午前九時半ころ、荻窪駅のバス停で待つ約束をした。

昭和四六年一〇月一四、一五日の翌日ころ、原告堀の勤務先に電話し、同人に「一八日に発送するから出勤簿を押して午前九時ころ車で迎えに来い。」と話し、了承を得た。

ホンダN三六〇を登録する予定だったので、原告前林に爆弾を出させたあとで習志野へ行かせ、アリバイを作ろうと思った。原告江口も爆弾を出してすぐ新幹線に乗ってしまえばアリバイがあることになり、二人とも大丈夫だと思った。

同月一八日午前八時ころ、原告前林に「習志野へ登録に行ってこい。その行く前に日石郵便局から小包を江口と一緒に出しに行ってくれ。」と頼んだが、原告前林が用事があるというので、午前一〇時半ごろ新橋駅のところで待っていることにして先に出発させた。

午前九時ころ、原告堀がカローラで高橋荘に来たので、同乗して荻窪駅に向かい、午前九時半ころバス停で原告江口を乗せ、新橋駅付近で原告林を乗せて日石ビルに向かった。午前一〇時半ころ、日石ビル付近に車を止め、原告前林と同江口の二人に爆弾を渡し「頼む」と言うと、二人は爆弾を持って日石ビルの方へ行った。二人は、一〇分ないし二〇分で戻った。東京駅で私と原告江口が降り、原告堀は同前林を乗せたまま習志野へ出発した。

(イ) 増渕は、昭和四八年四月一三日、よく覚えていないなどと連発しながらも、日石リレー搬送に関する従来の供述内容を変更し、原告榎下がスバルサンバーに増渕及び原告江口を同乗させて白山自動車から新宿付近まで運転し、次いで、同所付近から中村(隆)が増渕及び原告江口を乗せて新橋まで運転し、新橋駅付近で原告前林と合流した上、原告前林及び同江口が日石爆弾を差し出し、その後、中村(隆)が原告前林を習志野まで車に乗せて行ったと供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一八日午前九時か九時半ころ、荻窪駅前のバス停で原告江口と落ち合って、白山自動車へ行き、小包爆弾の入った紙袋を原告榎下から受け取り、同人運転のスバルサンバーに乗って新宿付近まで行き、そこで中村(隆)運転の車に乗りかえ、新橋駅付近で原告前林と落ち合い、車内で原告江口と同前林に事務服に着替えさせ、日石郵便局に差し出しに行かせた。

小包爆弾を差し出した後、車で東京駅八重州口に行き、私と原告江口はそこで降り、同原告は新幹線で大阪へ行き、私は高橋荘に帰り、原告前林はそのまま車で習志野の陸運局へ車の登録手続に行った。

(ウ) 増渕は、昭和四八年四月一五日、二人リレー搬送の供述を訂正して初めて三人リレー搬送を供述し、日石爆弾の差出し後、原告前林は、坂本の運転する車に乗って日石郵便局から習志野へ行き、増渕及び原告江口は中村(隆)の運転する車で東京駅まで行ったと供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一三日か一四日ころ、原告堀が「郵送者として予定していた女がだめになってしまった。」と言ってきた。同月二一日までに爆弾が相手方に到着するように送らなければならないと考えていたので、あまり日がなかったため、原告前林と同江口にその爆弾を持って行かせようと思った。同月一八日に原告江口が大阪の学会に行くと聞いていたので、これを同人のアリバイ作りに使い、原告前林には習志野に自動車の登録に行かせてアリバイを作ろうと思った。ただ、一人の運転手を長時間使うのは難しいので、乗り継ぎをすれば頼みやすいし、アリバイも作りやすいと考え、原告堀と相談して、原告榎下に爆弾を預け、同年一〇月一八日午前九時ころ、私と原告江口が同榎下のところに行って爆弾を受け取り、同原告の車で出発し、新宿で中村(隆)の車に乗り換えて新橋まで行き、歩いて日石郵便局まで行って爆弾を出してから、原告前林が坂本の車に乗り換えて習志野に行くことを決めた。

日石事件当日の昭和四六年一〇月一八日午前九時ころ、白山自動車に行くと、原告江口もそのころ白山自動車に来た。原告榎下から爆弾二個入りの手提袋を受け取り、白山自動車付近から同原告運転のスバルサンバーに乗り込んで出発した。

新宿の高速道路入口付近で中村(隆)運転の車に乗り換え、新橋付近で原告前林と落ち合った。車の中で原告江口と同前林が事務服に着替え、爆弾を持って日石郵便局に行った。二人は一五分ほどで戻り、原告前林は坂本運転の車で習志野に出発し、私と原告江口は中村(隆)運転の車で八重州口まで行って、中村(隆)と別れ、原告江口はすぐ新幹線に乗り、私は中央線で荻窪まで行き、バスで給田に帰った。

(エ) 増渕は、昭和四八年四月一七日、ドライブインGTにおける搬送謀議を自白した。その要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一六日、ドライブインGTで小包爆弾の郵送について私と原告榎下、同堀、同江口及び中村(隆)で最終的打ち合わせをした。爆弾の発送は原告江口の大阪行きの時間に合わせて一〇月一八日午前一〇時半ころにすることに決め、出発は爆弾を運んである白山自動車とし集合時間は発送時間から逆算して午前九時とした。発送人の輸送は、新宿の高速道路入口までは原告榎下のスバルサンバーで輸送し、それから先は中村の普通乗用車で輸送することとした。坂本はこの会議に出席しておらず、彼の任務については出なかったように思う。発送人はもう一人原告江口がオルグするようなことを言っていたが、詳しいことは忘れた。原告前林のことについてはこの時の会議には出なかったように思う。

(オ) 増渕は、昭和四八年四月一九日、前記のドライブインGTを訂正して喫茶店サンとしたほか、日石事件当日原告前林に松戸の市役所で住民票を取らせてから日石ビル近くに来させるようにしたこと、一〇月一六日ころの夜の日石サン謀議のメンバーは増渕、原告堀、同榎下、中村(隆)及び坂本であり、そこで三段階の乗り縦ぎを原告堀から話したこと、一八日当日原告前林と落ち合ったのは日石ビルの手前約二、三〇メートルのところであり、原告前林も車の中に入り、原告江口とともに事務服に着替えたこと、自分は助手席で二人の戻るのを待ったこと、坂本の車に乗りかえた地点は第一ホテル付近ではなく、日石ビルの付近であり、原告前林が坂本の車に乗り、増渕と原告江口は中村の車に乗ったことなどを付加訂正した。

なお、増渕は、右供述後、再びGTでの謀議の自白をしたが、後に再度サンでの謀議とした。

(カ) 増渕は、昭和四八年四月二八日、中村(隆)から坂本への引継地点についての供述を変更し、日石付近から新橋付近と訂正したほか、日石事件当日、自分も原告前林と一緒に坂本の車で習志野陸運事務所まで送ってもらった旨従来の供述を変更し、江口は東京駅まで中村(隆)の車で行ったか、新橋駅から国電で行ったか判らない。私と前林は坂本の車で高速道路に入り習志野に行った。陸運局までの道は坂本か原告前林が知っていたと思う。坂本にはそこで帰ってもらい、私と原告前林は電車で帰り、午後四時か五時ころ高橋荘に着いた旨供述した。

(キ) 増渕は、昭和四八年五月二日、中村(隆)の無免許について、自分は当時中村(隆)が無免許であるということは全然知らず中村が自動車を持っており運転しているのを知っていたので当然運転免許証を持っているものと思っていた旨供述した。

<2> 判断

右認定事実によれば、増渕の日石リレー搬送に関する供述から、公訴提起時において、原告らが日石リレー搬送に関与したという原告らに対する日石事件の嫌疑が認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

これに対し、原告らは、刑事審で被告人となった者たちの供述の変遷の存在等を挙げその供述に信用性がない旨主張する。そして、右認定事実によれば、増渕の日石リレー搬送に関する右供述は、日石事件当日の自己の出発地点、原告江口ないし同前林との各合流地点、リレー搬送者である中村(隆)から坂本への引継地点、原告江口の下車地点、自己が習志野まで同行したか及びサン謀議の態様ないし参加者等の点で変遷していることが認められる。また、増渕の供述には、日石爆弾の爆発音を聞いた旨の供述がないこと、指名手配中であるにもかかわらず習志野まで行き電車で帰ったなど、内容面における疑問点も認められる。

しかしながら、これらの点を考慮しても、前記増渕供述の具体性、詳細さを考慮すれば、公訴の提起段階における判断として、増渕の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

また、増渕の前記供述は、坂本の引縦ぎ、搬送状況が抽象的であること、待ち合わせ場所、時刻についての供述が詳細さを欠くこと及び爆弾の差出しについて事前の計画と実際の犯人の行動(前記の争いのない事実によれば、爆弾を差し出したのは女性一人)が矛盾していることなどが認められるものの、これらを考慮しても、やはり、公訴の提起段階における判断として、増渕の右供述の信用性がすべて否定されるとまでは認められない。

なお、中村(隆)には、刑事審の公判段階で、日石事件当日のアリバイが判明しており、同人を第二搬送者とする増渕の供述は虚偽であつたことが判明したが、後記のように、右アリバイを立証する証拠は、検察官が通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料とは解されないから、右アリバイを根拠に、増渕の日石リレー搬送に関する供述の信用性を否定することはできない。

(3)  坂本の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、坂本の日石リレー搬送に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 坂本は、昭和四八年四月一三日の日石事件での逮捕直後、被疑事実を否認するとともに、日石事件当日は勤務先である月島自動車有限会社(以下「月島自動車」という。)で修理等の作業をしていた旨のアリバイ主張をしていたが、同月一四日夜、日石事件に関与していたことを認めて初めて日石サン謀議を自白し、「サンという喫茶店だと思いますが、一〇月一六日の夜だと思いますが、堀、榎下、中村、私、増渕がいたと思います。これは増渕が言ったと思います。車の運転をしてくれとの事でした。一〇月一八日の昼近く(後で思い出します)新橋の近くの所に(後で思い出します)来てくれとの事でした。目的は人を送っていく目的でした。これはたぶんアリバイの為だと思います。これは爆弾の荷物を郵便局に持って行ったので、この為のアリバイだと思います。」旨供述し、翌一五日の取調べでもサン謀議の供述を維持した。

また、坂本は、右昭和四八年四月一四日夜、日石リレー搬送について自白し、「昭和四六年一〇月一八日に、新橋の近くから増渕と二人の女性(女性は一人だったかもしれない。)をセリカに乗せ、東京駅か千葉かはっきり思い出さないが、千葉の駅の方に運転していった。」旨メモに記載し、翌一五日の朝一旦否認したものの、再度日石リレー搬送状況を詳細に自白した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一八日の二、三日前の午後七時半か八時ころ、原告榎下の誘いで荻窪の「サン」という喫茶店へ行った。同店には、原告堀、中村(隆)、原告榎下と増渕もいたように思うが断言はできない。同所で原告堀から「あるものを運ぶんだが、大事なものだから、それを運んだ後、お前が行って女の人を習志野の陸運事務所まで運んでくれ。車の運転を頼む。」と言われた。待ち合わせ場所は新橋のガードの近くだった。日時は一〇月一八日の午前中で午前一〇時から一一時の間の時間を指定され、承知した。その一、二日後に原告榎下から再び「サン」に呼び出されたが、私は同店に行くのを断った。同月一八日、工場を出る時、同僚の久保田か辻に声をかけて出てきたと思う。約束の場所に車を停めていると、見覚えのある中村(隆)のサニーが来て、私の車の後に停まった。中村(隆)は降りて来ず、原告前林と増渕が降りてきて、原告前林が助手席、増渕が後の席に乗った。原告前林は紺色のような上っ張りを着、紙袋を持っていた。増渕はブレザーか背広だった。首都高速と京葉道路を使って陸運事務所の前まで行くと増渕と原告前林が車から降り、私に帰ってもいいと言ったので、京葉道路を通って午後二時か二時三〇分ころ工場に戻った。

(イ) 坂本は、昭和四八年四月一六日の勾留質問で「やる前にうすうすわかっていましたが、やった直後増渕らからはっきりききました。悪いことをしてすみませんでした。もう少し早く警察に知らせるべきでした。」と述べたが、その直後の警察官の取調べにおいて、後記のように否認に転じた。

(ウ) 右のように否認に転じていた坂本は、昭和四八年四月二一日夜に至って、日石リレー搬送のみならず土田邸爆弾搬送及び土田邸爆弾製造見張りまで合わせて自白し、昭和四八年四月二二日、日石サン謀議に増渕が出席し、謀議の席上増渕及び原告堀が搬送を指示したことを初めて断定し、その後もその供述を維持したのである。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一八日の二、三日前、サンに集まったのは、増渕、原告堀、同榎下、中村(隆)、私の五人で、増渕と原告堀の二人が、中村(隆)、原告榎下と私に「大事な物を運ぶんだが、協力してくれ。」「榎下が荻窪から新宿まで、中村(隆)が新宿から新橋まで、坂本は新橋から習志野まで。」と任務を指示し、三人とも承知した。私には、大事な物を運んだ後、女一人を習志野まで連れて行けとの話だった。待合せ時間は午前一〇時から一一時の間であつたが、はっきりしたことは忘れた。また、待合せ場所は新橋ガード寄りで、第一ホテルの名前が出たような気がする。同月一八日午前一〇時ころ、新橋第一ホテル前ガード付近で、中村(隆)から増渕と原告前林を引き継ぎ、赤のセリカに乗せて習志野陸運事務所へ行ったことは間違いない。

(エ) 坂本は、昭和四八年四月二四日、実況見分に立ち会い、新橋付近での引継状況及び搬送コース等を指示説明した。

右実況見分によって、それまで、坂本が供述していた習志野陸運事務所の建物及び駐車場の位置関係、建物の概観等が客観的状況に合致していたことが判明した。

(オ) 坂本は、昭和四八年四月二五日、新橋での引継状況を詳細に供述した。その要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月一八日の約束の時間は、一〇時二〇分過ぎであった。自分が車を停めたところは、第一ホテルの前を少し通り過ぎた所で、ガード沿いに車を停めた。中村の車から降りて自分の車に乗ってきたのはトウちゃん(増渕)とカアちゃん(原告前林)で、もう一人いたかもしれないが、はっきりしない。車の中でトウちゃんとカアちゃんはポツリポツリ話をしていた。カアちゃんは自分にはほとんど話しかけなかったが、京葉道路に入ってからはいちいち道筋を指示してきた。習志野の陸運事務所に着いたのは一一時半ちょっと過ぎであったと思う。

<2> 判断

(ア) 右認定事実によれば、坂本の右供述等によって、公訴提起時において、原告堀、同前林及び同榎下が日石リレー搬送に関与したという同原告らに対する日石事件の嫌疑が認められ、これに照らすと、本件全証拠によっても、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

(イ) これに対し、原告らは、刑事審で被告人となった者たちの供述に変遷があることなどを挙げその供述に信用性がない旨の主張をする。

右認定事実によれば、坂本の日石リレー搬送に関する右供述は、サン謀議の参加者、搬送車の同乗人物、新橋での引継時刻、引継場所等の点で変遷が認められ、また、二回のサン謀議を供述しているのは、共犯者の間でも坂本一人であること、坂本の分担する搬送所要時間は三時間程もあり、ちょっと抜け出すには時間がかかりすぎることなど内容面での疑問点もあることなどが認められるが、これらを考慮しても、公訴の提起段階における判断として、坂本の右供述の信用性がすべて否定されるとまでは認められない。

(ウ) なお、<証拠略>よれば、坂本は、日石事件により逮捕された後、右各供述に至るまでの間の昭和四八年四月一三日、一四日及び一五日朝に、搬送行為等を度々否認しており、特に同月一六日の取調べにおける否認は、「私の一人ごとを話していいですか」「本当は私は何もやっていないんですよ」と言いながら声を出して泣き出し、「本当に申し訳けありませんでした。本当は私は何も頼まれていませんし習志野なんかにも行っておりません。何回もうそをついたので信用してもらえないかも知れませんが私は何もやっていないのです。昨日話したことは新聞で読んだことや刑事さんの話をつないで話したのです。」「調べがあまりきつかったのでやったとうそをついていった方がよいと思って昨日話したのですが、これ以上うそを話すことはできません。」というものであったことが認められる。

しかしながら、<証拠略>によれば、坂本は、大事件ゆえに怖くなり、また、両親や兄弟にも迷惑をかけたくなかったので話せなかったが、人間的に考えても許されないので、今後は本当のことを話す旨の昭和四八年四月一五日付の上申書を書いていること、同月二一日の取調べでは、捜査官の説得に、泣きながら「本当にすいませんでした。親からあんな大きな事件(日石事件、土田邸事件)をやったのかと言われるのがつらくて今までうそを話しておりました。私は習志野にも行っています。」と供述したことも認められ、これらを総合勘案すれば、坂本の日石リレー搬送等に関する供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(エ) そのほか、<証拠略>からは、坂本が、昭和四八年四月二四日に施行された新橋から習志野陸運事務所までの実況見分に際し、京葉道路から右陸運事務所に向け左折する個所を指示、特定できなかったこと、同人が供述調書中で説明している右陸運事務所の建物の構造、周囲の状況が概略にすぎなかったことなども認められるが、これらを考慮しても、なお、同人の日石リレー搬送等に関する供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(4)  中村(隆)の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、中村(隆)の日石リレー搬送に関する供述の経過は以下のとおりであったことが認められる。

(ア) 中村(隆)は、当初日石リレー搬送への関与を否定していたものの、昭和四八年四月一一日、右搬送を初めて認める供述をした。その要旨は、次のとおりであった。

日石事件の当日の昼過ぎ、原告榎下から電話があり、新宿の高速道路入口の中央公園前あたりに来い、そこに増渕らがいるから運んでくれといわれ、サニークーペでそこに行くと、増渕、原告江口が立っており、同原告は紙袋のようなものをもっていた。増渕を助手席、原告江口を後部座席に乗せて増渕の指示で高速道路を通り、新橋駅近くのビル街でいったん停車し、原告前林が小走りでやってきて後部座席に乗った。増渕の指示で日石ビルの手前で車を停め、三人は降りて揃って日石ビル方向に歩いて行き、原告江口が紙袋を持っていた。二、三分後増渕が戻り、一〇分位して原告前林、同江口が戻ってきたが原告江口は空の紙袋を二つ折りにしていた。増渕の指示で三人を乗せて東京駅付近まで行き、三人は車を降りてひそひそ話をしていたが、増渕に原告前林を習志野まで送ってくれといわれ、仕方なく承知し、増渕、原告前林の二人を後部に乗せて原告前林の案内でその実家の近くで車をとめ、二人を降ろした。帰りの際、増渕から口止めされ、午後五時ころ自宅に戻った。

(イ)(あ) 中村(隆)は、昭和四八年四月一二日、前日の供述を一部変更して、要旨次のとおり供述し、原告榎下同様、坂本を含む三人による日石リレー搬送を認めるに至った。

昭和四六年一〇月一八日午前九時ころ、サニークーペで新宿中央公園前に行くと、原告榎下のサニーバンが停まっていた。増渕と紙袋を持った原告江口が車の陰に隠れるようにして立っていた。増渕と原告江口を乗せ、高速に入り新橋へ向かった。虎ノ門を過ぎて二、三〇〇メートルの所で原告前林と合流した。増渕ら三人は歩いて新橋駅方向に行った。原告江口は紙袋を持っていったが、一五分くらいして帰って来た時は中身のない紙袋を持っていた。その後三人を乗せ新橋駅へ行き、原告江口を降ろし、一〇時二〇分ころ第一ホテルを出たところ(中村(隆)は、当初「外壕通りの新橋駅ガード手前」としていたものの、その後「外壕通りと交差する第一ホテル前の細い道路上」とした。)に着いたが、新橋駅のガードと第一ホテルの出口の中間に坂本の赤いセリカが停車していたので、その後部に停め、三人を坂に引き継いで、そのまま正午ころ自宅に帰った。

(い) そして、中村(隆)は、右供述変更と同時に、日石サン謀議を自白し、「一〇月一六日ころの午後八時ころ、榎下の指示でサンに行くと、増渕、堀、榎下、坂本がいた。そこで、増渕が、『一〇月一八日にやる、みんな自分の任務分担の配車を頼む。榎下は朝の八時ころ白山自動車から新宿まで、中村(隆)は午前九時ころ新宿の高速入口の公園前、坂本は新橋駅の第一ホテルを出たところ、時間は午前一〇時ころ。行先は俺が車の中で指示する。』旨話し、私は瞬間いよいよ権力に小包爆弾を送るんだなあと思ったが、今さら手をひけず配車を承諾した。榎下も坂本も承諾した。」と供述した。

中村(隆)は、その後もこれらの供述を維持した。

(い) 右各供述中、新宿中央公園前での原告榎下との引継時の状況、日石本館近くで増渕、原告江口が同前林と合流したときの状況及び爆弾を差し出して原告江口、同前林が戻ってきたときの状況についての具体的供述は次のとおりであった。

(a) 新宿中央公園前での原告榎下との引継時の状況増渕と手に紙袋を持った原告江口が車のかげにかくれるようにして立っていました。私が原告榎下の車のすぐあとに車をとめると増渕は「やあー」と言って自分で助手席に急いで座り、原告江口も持っている紙袋を大事そうに持って後部座席に座りました。二人が私の車に乗るや、まず原告榎下が発車しすぐに左折して姿を消しました。

(b) 日石本館近くで増渕、原告江口が同前林と合流したときの状況

増渕は助手席の窓を開け左手を外に出して、おい、こっちだと言ってコイコイの手招きをして車を降りました。ついで原告江口も持っていた紙袋を手でかかえるようにゆっくりと車を降りました。私は増渕の手招きと二人の降車の状況から誰かが待っていて、送る場所はこの辺かなあと思い窓越しに歩道の方を見ると原告前林が増渕と原告江口のいる方にゆっくりと接近して合流しました。

車からまず増渕が降り、車のドアを手前に引いて原告江口がドアから出るのを隠す様にかばって原告江口を車外に出しました。原告江口は増渕が座っていた助手席の座席を前に倒し増渕がドアを手前に引いているところから紙袋をかかえる様にして外に出ました。そこで増渕は原告前林と同江口を車のそばに集め、二言三言ひそひそ話をして増渕を中心に右側が原告前林、左側が紙袋を手に持った原告江口の順序で新橋駅の方向に歩いて行きましたが三人は相変らず増渕を中心にして何事か話をしながらゆっくりと歩いていきました。すると増渕は車から三〇メートル位の地点から原告江口、同前林と別れ再び私の車のところに引き返して来ました。私は原告前林と同江口の行先を車の窓越しに見ていたのですが二人は車から約五、六〇メートルの左側の大きなビルの石段と思いますが二、三段のぼり左方に消えて行きました。

(c) 原告江口、同前林が戻ってきたときの状況

増渕は車内の私に青ざめた顔で「もうしばらく待て」と言いながら、そのビルの方を見ながら車を中心に二、三メートル程度あわてた格好で行き来していました。私は車内で吸いつけのロングピースを二、三本吸いましたので、私の煙草の速度と言うか吸い方からして二、三本の吸い方は約二〇分程度の状態だったと思います。私が相変らず前方を見ていると原告江口が右側、同前林が左側の順序ではいったビルから出て車道よりの歩道の端をこっちに向かって帰って参りました。増渕も私の車のそばであわてていたのでしょう、少々早口で私に来たと言って合図しました。行先は新橋駅と判っていたのですぐ直進できるようハンドルに手をかけました。原告江口と同前林は増渕が車の左側の助手席のドアを外に引いていた間からまず原告江口が車内に入り続いて原告前林が車内に入りました。そのとき原告江口は左手に空の紙袋を二つ折にして持っていましたので私は前後の状況からそのビル内の郵便局から小包トリック爆弾を郵送したなあと直感しました。

<2> 判断

(ア) 右認定事実によれば、中村(隆)の右供述によって、公訴提起時において、原告らが日石リレー搬送に関与したという原告らに対する日石事件の嫌疑が認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

(イ) これに対し、原告らは、中村(隆)の右各供述が変遷していることなどを指摘して右供述の信用性がない旨主張する。

右認定事実によれば、中村(隆)の日石リレー搬送に関する右供述は、搬送時間、搬送者、引継場所等の点で変遷が認められ、また、リレー搬送はその準備及び実現の点で困難さが伴うこと、サン謀議における引継場所及び時間の指示が綿密さに欠けること、中村(隆)にとって、教習中を別にすれば、日石事件当日が都心部への初めての運転であること、初めての運転でしかも無免許であるにもかかわらず、中村(隆)の供述の中には心理的抵抗や不安等は全く記載されていないこと、日石爆弾の爆発音を聞いたとの供述がないこと、中村(隆)の搬送所要時間は三時間程もあり、ちょっと職場を抜け出すには時間がかかりすぎることなど、内容面で種々の疑問点も認められるが、これらを考慮しても、前記供述の具体性及び詳細さなどを考慮すれば、公訴の提起段階における判断として、中村(隆)の右供述の信用性が全面的に否定されるとまでは認められない。

(ウ) なお、中村(隆)の右供述は、刑事審の公判段階で同人の日石事件当日のアリバイが判明したことにより、その内容が虚偽であったことが判明したが、後記(第四、一四、(4))のように、公訴提起時において、右アリバイに関する裏付資料について、検察官が通常要求される捜査を怠ったとは認められないから、右アリバイを根拠に、中村(隆)の右供述の信用性を否定することはできない。

(5)  原告堀の供述

<1> 供述内容

<証拠略>によれば、原告堀は、日石リレー搬送に関して、要旨以下のとおり供述したことが認められる。

増渕に言われて原告榎下に爆弾を預けたころ、増渕、原告榎下、中村(隆)、坂本、自分の五人が喫茶店サンの斜め前辺りにある喫茶店で新橋へ爆弾を運ぶ手はずを確認した。増渕が手帳のようなものを見ながら、原告榎下、中村(隆)、坂本の三人に一八日の月曜日の午前中に新橋まで爆弾を運ぶ車の運転について指示をしていたが、指示の細かい内容については記憶していない。誰かが断ったという記憶もない

<2> 判断

右認定事実によれば、原告堀の右供述によって、公訴提起時において、原告堀及び同榎下が日石リレー搬送に関与したという同原告らに対する日石事件の嫌疑が推認され、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

なお、原告堀の右供述の中には、不明瞭な部分があり、増渕や中村(隆)らの供述との食い違いも認められるが、これらを考慮しても、公訴の提起段階における判断として、原告堀の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

原告らは、原告堀が、同榎下に日石爆弾を預け、同原告に日石爆弾搬送を依頼したとの供述及び喫茶店での謀議に関する供述は、取調官が原告榎下の供述に基づき誘導、押付けをしたものである旨主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

(6)  日石リレー搬送等に関する判断

以上の認定、判断によれば、日石事件の公訴提起時において、原告らが日石リレー搬送に関与した疑いが認められ、これに照らすと、本件全証拠によっても、同様の結論に至った検察官の判断が合理性に欠け誤ったものであったとは認められない。

(三)  日石爆弾の製造に関する供述

(1)  原告榎下の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、原告榎下の日石事件で使用された爆弾(日石爆弾)の製造に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 原告榎下は、土田邸事件に関し、昭和四八年四月一〇日に爆発物取締罰則違反(幇助)で逮捕され、同月一二日に同罪名で検察官に送致されるとともに、同日、日石事件に関し、爆発物取締罰則違反、殺人未遂(共同正犯)で逮捕され、翌一三日同罪名で検察官送致された。そして、原告榎下は、同日、日石・土田邸事件に関し、殺人、同未遂罪及び爆発物取締罰則違反(いずれも共同正犯)の罪名で勾留請求され、翌一四日勾留質問を受けたが、その際、殺人罪及び爆発物取締罰則違反の被疑事実を読み聞かされ、裁判官に対し、「事実は其の通り相違ありません。」と述べた。

(イ) 原告榎下は、右昭和四八年四月一四日、石崎警部に対し、昭和四六年一〇月一二日ころの夜、原告江口のアパートで、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本が日石爆弾を製造したこと及び同年一二月八日ころの夜、同じく原告江口のアパートで、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本が土田邸爆弾を製造したことを供述し、さらに、爆弾製造の材料、作業の分担、作業内容の概要などをも供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年九月二〇日ころの日大二高職員室での打合せ会議で、増渕から、「ビックリ爆弾は、発送する日の一週間位前になったら江口(原告江口)のアパートで作る予定だから、そのときは集まるように。」との話があり、原告江口、同堀、中村(隆)、松村と私はこれを承知した。

原告堀から前日に連絡を受けて、同年一〇月一二日ころの夜、原告江口のアパート(二階部分)に行った。メンバーは、増渕、原告江口、同堀、中村(隆)、金本、私の六人だった。増渕から「ビックリ爆弾は二個作る。後藤田と今井に送るためだ。」との話があり、増渕と原告江口が薬品担当、中村(隆)と私が起爆に使う電気関係の担当、原告堀と金本は両方の手伝いを担当するとの任務分担が決められた。外箱用の木製の菓子箱とクッキーの空き缶、私が買ってきた内箱用の弁当箱、爆薬に使用する塩素酸ナトリウム、白砂糖その他の薬品や、マイクロスイッチ、ヒータープラグ、電池等が準備されており、工具類は私が白山自動車から持参した。

爆弾は、最初木箱の分から作り、増渕、原告江口が薬品を混合して弁当箱に詰め、その中に点火装置を埋め込み、配線を蓋の間から出した。私と中村(隆)が木箱の内部配線を終えると、増渕と原告江口は、木箱の中にその弁当箱をセットした。そして、原告堀、金本が包装して麻ひもで結んで仕上げた。同じ要領でブリキ缶の爆弾も仕上げた。

二回目の爆弾製造は、同年一二月八日ころの午後八時ころから原告江口の家で同じメンバーでやった。外箱には文明堂のカステラの箱を使い、弁当箱は私が買ったもので前よりも大きいものを用意し、爆薬も日石爆弾より多く使った。製造作業の分担及び材料、用具の準備状況等は日石爆弾を作った時と同じであった。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月一八日、石崎警部に対し日石・土田邸事件の爆弾製造についての従前の供述を変更し、これらの爆弾を製造した場所はいずれも高橋荘(増渕方)であると供述した上、爆弾を製造した状況等について極めて重要な供述をし、翌一九日にも、引き続き爆弾製造時の配線作業の詳細について供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月七日ころの夜、増渕方で、増渕、原告江口、同堀、同前林、中村(隆)、私の六人で雷汞を作った。これは、その後、合計六個の雷管製連に際し使用している。

同月九日ころの夜、増渕方で、増渕、原告江口、同堀、同前林、中村(隆)、私の六人で雷管を作った。セロファンを万年筆の端に三、四重に巻き付け、筒を作って片方をねじり、原告前林がそこを糸でしぼり、開いた口の方から雪汞を詰め、口の方に何かを埋めて押さえた。全部で四本作った。うち二本は日石爆弾に使ったが、残り二本はどのようになっているのか聞いていない。

日石爆弾二個を作ったのは、同月一二日ころの午後八時ころからで、場所は給田の高橋荘二階の増渕方である。これまで原告江口方だと言っていたのは、共犯者の名前を全部出したくなかったのと、爆弾作りという主要な仕事をしていた原告江口方と言えばそれで通ると思ったからである。製造に参加したメンバーは、増渕、原告江口、同堀、同前林、金本、中村(隆)、私、坂本、松本の九人で、任務分担は、増渕が指揮のほかに薬品混合と弁当箱の工作、原告江口が薬品混合と包装手伝い、金本が薬品混合手伝いと包装、中村(隆)がマイクロスイッチの取り付け、私が配線と電池の取り付け、原告堀が手伝い、原告前林が薬品混合手伝い、坂本と松本は見張りをした。ビニール粘着テープとしては、自分が勤務先の白山自動車の工場から、新品の黒色ビニールテープを増渕のアパートに持っていった。

(エ) 原告榎下は、昭和四八年四月二四日、日石爆弾の材料として針金が用意されていたことを初めて供述し、また、同月二八日には、弁当箱に針金が巻かれていたこと、日石爆弾には洗濯ばさみ式のスイッチが使用されたこと、絶縁体として黄色っぽい布切れが用いられたこと及びユーハイム缶の底の面に開けた二個の穴のうち、小さい方の穴に関してはめくれあがったギザギザを修正したことなどを供述した。

<2> 判断

(ア) 右認定事実によれば、原告榎下の右供述によって、公訴提起時において、原告らが日石爆弾の製造に関与したという原告らに対する日石事件の嫌疑が認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

(イ) これに対し、原告らは、原告榎下の自白は、変遷が著しく、肝心な点について未解明な部分が多いので、その供述に信用性がない旨の主張をする。そして、右認定事実及び前記各証拠によれば、原告榎下の日石爆弾製造に関する右供述には次のような変遷ないし内容上の疑問点が認められる。

(あ) 変遷

(a) 原告榎下は、日石爆弾の製造場所に関して、当初原告江口方と述べ(しかも原告榎下は、原告江口の居住部分を二階としていたが、<証拠略>によれば、同原告の居住部分は一階であったことが認められる。)ていたが、その後高橋荘(増渕方)と訂正した。

(b) 原告榎下は、当初、日石爆弾の製造参加者を、増渕、原告江口、同堀、中村(隆)、榎下及び金本と供述していたが、その後、これらの者に、原告前林、坂本及び松本を加えた。

(c) 原告榎下は、当初、日石爆弾にもマイクロスイッチを使ったと供述していたが、その後、洗濯ばさみスイッチが使用されたと供述を変更した。

(d) 他に、原告榎下は、爆弾の製造材料である弁当箱の調達者、調達先、薬品の高橋荘への搬入時期並びに電池及び電池ホルダーの種類、形状等に関しても供述を変遷させた。

(い) 内容上の疑問点

(a) 原告榎下の供述する爆弾製造参加者は、その作業内容及び作業場所に比較して人数が多すぎて密行性に欠けるともいい得る。

(b) 原告榎下の供述は、硝化綿が日石爆弾に用いられたかどうか及び具体的参加者に関して、後記の増渕の供述と相違する。

(c) 原告榎下は、日石爆弾の製造に、中村(隆)が参加したとして、具体的にその分担部分等について供述しているが、中村(隆)は爆弾製造に参加したことを強く否定している。

また、原告榎下が日石爆弾製造に参加したとする原告堀についても、同原告は参加事実を強く否認している。

(d) 日石爆弾の材料に関して、原告榎下以外にセロファンホイルを用いたと供述する者はなく、また、セロファンホイルは、管体の素材として不向きであると考えられる。

(e) 他にも、原告榎下の供述は、日石爆弾の製造に関し、材料である弁当箱、電池及び電池ホルダー等に関して客観的証拠との不一致がある。

(ウ) 右のような点を考えれば、原告榎下の供述には、信用性に疑問のある部分があることが認められる。

しかしながら、原告榎下の供述は、日石爆弾製造の日時を昭和四六年一〇月一二日の夜(特に午後八時ころ以降)としている点などでは一貫しており、これに原告榎下の前記供述の具体性、詳細さ、証拠物との符合の程度<証拠略>によれば白山自動車から押収した黒色ビニールテープと日石爆弾に使用されていたそれが同種、同一メーカーのものと判断されたこと、ユーハイム缶を使った日石爆弾の方に黄色い布切れが絶縁体として使用されていたことなどが認められる。)なども合わせて考えれば、右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  増渕の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、増渕の日石爆弾の製造に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 増渕は、昭和四八年三月一三日、検察官の取調べの際、日石・土田邸両爆弾を、ともに高橋荘の自室で自ら製造したことを自白した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

土田邸に爆弾を送った一か月位前のことと思うが、日石の郵便局で小包が爆発した事件があったが、これも私が爆弾を作り、女の人に郵便局にその爆弾を差し出しに行かせたものである。この爆弾も土田邸に送った爆弾と同じところ(高橋荘の自室)で作った。私がその爆弾を持って行かせた女の人の名前や爆弾を作った時の状況等詳しいことを今思い出しているので思い出し次第話す。

(イ) 増渕は、右同日(昭和四八年三月一三日)、右検察官の取調べのあった直後の警察官の取調べにおいて、右供述内容を否定し、原告江口が爆弾を製造したことを供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

雷管は私が高橋荘で作った。製造のための器具や薬品類は、昭和四五年五月ころ梅津の下宿で雷汞を作った時に使ったものを利用して雷汞を作り、これを鉛筆のサックに詰め、これに石油ストープの点火装置用のフィラメントを結合して雷管を二個作って、爆弾の起爆装置にするよう原告江口に引き渡した。爆弾の本体は原告江口が担当して作成したので構造等についてはよく判らない。

爆弾は二個でき、二個とも包装されて私のところに持ち込まれた。原告江口の説明では、包みを開くと爆発する装置になっているとのことだったが、詳しい構造は判らない。爆弾の大きさは、縦一五、六センチメートルくらい、横三〇センチメートルくらい、高さ七、八センチメートルくらいだった。爆弾ができあがってきたのは一〇月初めころで、その翌日ころ、爆弾郵送を担当していた原告堀に渡した。原告堀は、爆弾を自宅に持って帰り、彼の責任で郵送しているはずである。原告堀は、差出人を自衛隊の幹部にして郵送するようなことを言っていた。

私は、この二個の爆弾のうちの一個を土田邸に郵送したということを後で聞いて知ったが、他の一個についてはどこに郵送されたのか聞いていないような気がする。

新聞で、日石郵便局で小包爆弾が爆発したことを知ったが、あの爆弾は私達の作った爆弾にほぼ間違いないと思う。

私の知っている限りでは、この爆弾事件に関与したのは、私、原告江口、同堀の三人である。ひょっとすると、原告江口や原告堀のグループの者が手伝っているかもしれないが、原告前林は絶対に関係していない。

(ウ) 増渕は、昭和四八年三月一四日、警察での弁解録取書において、日石・土田邸事件での逮捕事実を認めながら、製造場所が「増渕利行の居室」とされていたのを否定した。

また、増渕は、右同日、日石・土田邸爆弾について、これらを原告江口から受けとったこと、爆弾は三個であったかもしれないことを供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年九月下旬ころ、私、原告江口及び同堀の三人で、私が雷管製造、原告江口が爆弾製造、原告堀が爆弾郵送と任務分担をした。

雷管を作ったのは二個であるように話したが、三個であったかもしれない。雷管は高橋荘の自室で作り、これを原告江口に渡した。雷管製造に使った器具や材料は、原告堀に保管してもらった。

雷管を原告江口に渡して、一週間位で爆弾が出来てきた。爆弾は二個であったかわからず、三個であったかもしれない。

(エ) 増渕は、昭和四八年三月一五日、右供述を繰り返すとともに、雷管は三個作り、原告江口から預かった爆弾も三個であったことを供述した。

(オ) 増渕は、昭和四八年三月二一日、仮定的に洗濯ばさみ式のスイッチの形態を図示し、同月二九日、爆弾のトリック装置の作り方を原告江口に説明したと供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月上旬ころ、喫茶店「金沢」で原告江口に、ふたを開ければ爆発する爆弾二個の製造を頼んだ際、私は爆弾に使うトリック装置について説明した。

爆弾の入れてある容器のふたの端の方を切り、布等の絶縁物をその切ったところに通し、その布等をふたに結合すれば、そのふたを取れば布等が持ち上がるようになる。そのふたに結合された布等を垂らし、これを二枚の金属板の間にはさんで絶縁するようにする。こうすれば、容器のふたを取ると、ふたに結合してある布等が持ち上がり二枚の金属板が接触し、電流が流れ、起爆する。この方法でトリック装置をつくるように原告江口に話した。

(カ) 増渕は、昭和四八年四月四日、警察官に対し、日石・土田邸爆弾製造への関与を否定しつつ、仮定の形式で、爆弾の構造につき具体的に供述し、構造図二枚を作成した。

また、同人は、同日、検察官に対し、雷管を作る際使用したガスヒーターに関して、「昭和四五年五月ころ、梅津方で雷管作りをしたり、同年六月ころ、同所で爆弾作りをした。梅津方にはガスヒーター、石油ヒーター合わせて一〇個くらいあった。原告堀方で同原告と二人で雷管作りをした際使ったガスヒーターは、梅津方にあったものが原告堀方に運ばれてきたものと思った」旨供述した。

(キ) 増渕は、昭和四八年四月二四日、検察官に対し、昭和四六年一〇月上旬に高橋荘で日石事件の爆弾二個を製造したこと、これに使用した雷管二個を高橋荘で作ったこと及び雷汞、硝化綿をその二、三日前に高橋荘で作ったことなどをそれぞれ供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

日石事件及び土田邸事件の三個のトリック装置付爆弾は、私、原告堀、同江口、同榎下、同前林及び中村(隆)の六名が作った。

これまで原告江口に爆弾の製造を任せていたといっていたのは、中村(隆)、原告榎下及び同前林の名前を出したくなかったからである。

昭和四六年一〇月上旬ころの夜、高橋荘の私の部屋に、私、原告堀、同江口、同榎下、同前林、中村(隆)の六名が集まり、警察庁長官と新東京国際空港公団総裁に郵送するトリック爆弾二個を作った。

トリック装置は、輪ゴムでとめた二枚の金属板の間に洋栽用のメジャーを絶縁体として挾み、その絶縁体の上部を蓋に固定させておいて、蓋を開けると絶縁体が外れて通電し、ガス点火用ヒーターが熱せられて爆発するというものである。爆薬を入れる容器は、原告榎下に準備させたアルミ製弁当箱で、爆薬の混合充てん作業は原告江口が行った。雷管に使った雷汞と硝化綿は、二、三日前から私が作っておいた。

日石爆弾と土田邸爆弾合計三個の製造に使った爆薬は、同年九月中旬ころ、原告榎下が同堀方から持ってきた段ボール箱に入っていたものを使った。雷管の材料もこの段ボール箱の中に入っていた。

(ク) 増渕は、昭和四八年四月二五日以降には、日石爆弾は、午後八時ころから約三時間位かかってつくったこと、前記六名以外の人間が製造に加わったかは覚えていないことなどの供述が加わったほかは、基本的には右と同じ内容の供述をした。

<2> 判断

(ア) 右認定事実によれば、増渕の右供述によって、公訴提起時において、原告らが日石爆弾の製造に関与したという原告らに対する日石事件の嫌疑が認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

(イ) これに対し、原告らは、日石爆弾製造について自白した者は、増渕と原告榎下を除いて外にいないのであり、増渕の自白は原告榎下の自白とも矛盾しているから、その供述には信用性がない旨の主張をする。そして、右認定事実及び前記各証拠によれば、増渕の日石爆弾製造に関する右供述には、製造場所、製造参加者、爆弾の個数、スイッチの種類等の点で変遷が認められるし、次のような内容上の疑問点も認められる。

(あ) 増渕の供述は、日石爆弾二個とも絶縁体にメジャーを使用したとする点、スイッチの形状を洗濯ばさみ式のものとしていない点、外箱の蓋に絶縁体を固定したとする点等の点で、実際の爆弾の形状と一致せず、また、同人が雷管を使用したとする点は、右二個の爆弾では雷管が使用されていなかった可能性が大きいことと矛盾する。

(い) 増渕の供述では、原告江口以外の者の行為の分担、指紋の付着防止を図ったか否かということ、外箱の種類が異なっている(一つはユーハイム缶、一つは木箱)理由、スイッチの寸法及び弁当箱に巻かれた針金の太さがそれぞれ異なっている理由、スイッチの絶縁体の種類が異なる(一つは黄色布地、一つは布製メジャー)理由及びユーハイム缶の方の弁当箱の蓋には不要と思われる穴が一個開けられている理由等の点が説明されていない。

(う) 増渕の供述は、硝化綿が使われている点や製造参加者の点で原告榎下の前記の供述と相違する。

(え) 増渕の供述する製造参加人数は、作業内容、作業場所からすると多すぎ、人目につく危険性がある。

(ウ) 右のような点を考えれば、増渕の供述は、その信用性に疑問のある部分があることが認められる。

しかしながら、増渕の右供述の具体性、詳細さ、日石爆弾構造との符合の程度なども合わせて考えれば、なお、同供述の信用性が全面的に否定されるとまでは認められない。

(3)  日石爆弾製造に関する判断

以上の認定、判断によれば、日石事件の公訴提起時において、原告らが日石爆弾製造に関与した疑いが認められ、これに照らすと、本件全証拠によっても、右と同様の結論を下した検察官の判断(原告榎下、増渕及び中村(隆)の否認供述等を総合して、原告榎下、同堀、同江口、同前林及び増渕の五名が日石爆弾製造に参加したとの判断)が不合理であったと認めることはできない。

なお、日石爆弾の製造に関しては、これを自白している者が原告榎下と増渕のみであり、土田邸爆弾製造に比較して自白者の数が少ないことが認められるが、これを考慮に入れても、右判断に変わりはない。

(四)  日石二高謀議に関する供述

前記のとおり、検察官は、公訴提起の段階で、主として原告榎下、同堀、増渕、中村(隆)及び松村の各供述から、「日石二高謀議」として、昭和四六年九月一八日ころの夜、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)及び松村が、日大二高に集合し、増渕が、「これからは爆弾闘争によって権力を倒さなければならない。小包爆弾を権力の要人に郵送するので、協力してくれ。」などと説明して原告榎下らを説得し、同人らも協力を約束し、爆弾闘争に向けて話し合い、増渕からそれぞれの任務分担などが指示されたとの事実を認定したことが認められるので、次に右関係者の各供述の信用性を検討し、もって、原告らに対する日石事件の嫌疑の有無を検討する。

(1)  原告榎下の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、原告榎下の日石二高謀議に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年四月三日、昭和四六年九月初めころ、日大二高において、増渕から爆弾闘争の相談を持ちかけられたことを供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年九月初めのころ、日大二高に増渕、原告堀、松村、中村(隆)及び私が集まり、増渕と原告堀から、爆弾闘争をやる為の相談を持ちかけられた。その日は、午後二時ころ原告堀から電話で誘われた。午後八時半ころ、中村(隆)を誘って日大二高に行った。日大二高の職員室には増渕、原告堀及び松村がいた。増渕は、「これからの革命闘争は、爆弾によるテロでなければだめだ。もうデモなどをやっている場合ではない。」などと言っていた。私は、大変なことを言い出したなと思い、これは本当にやることになったんだと確信した。増渕は、松村や中村(隆)に具体的な用件を頼んでいた。増渕は、私に対しては、「俺が見に行きたいところがあるから、その時は乗せて行ってくれ、頼むよ。」と言ってきた。私は、その場でははっきり断ることはできなかった。

(イ) 原告榎下は、昭和四八年四月六日、右謀議日時は、前後のいきさつを考えると、昭和四六年九月二〇日ころであったと思う旨供述した。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月八日、「これからは包み隠さず、ありのままを申し上げますので、宜しくお願いします。」と述べた上で、日石二高謀議について、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月二〇日ころの松村が宿直の夜、日大二高職員室で、増渕、原告堀、同江口、中村(隆)及び私が会合を持った。この席上、増渕から、ビル街の郵便局を捜して、そこからビックリ爆弾を権力に小包で送ること、その任務分担については、原告堀は送り先を決め、原告江口は爆弾を作り、中村は爆弾の材料を捜し、松村については思い出さないが、私には下見等の車の運転することがそれぞれ指示された。

<2> 判断

右認定事実によれば、原告榎下の右供述によって、公訴提起時において、原告らが日石二高謀議に参加したことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

原告らは、右供述には信用性がない旨主張し、右認定事実によれば、原告榎下の日石二高謀議に関する右供述には、謀議の日時について変遷が認められるが、供述の具体性等を考えれば、なお、同供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  松村の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、松村の日石二高謀議に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 松村は、昭和四八年四月六日、捜査官に対し、昭和四六年九月ころ、日大二高職員室において、松村、増渕、原告堀、同榎下及び中村(隆)が、爆弾の郵送に関する話し合い(日石二高謀議)をしたと述べ、翌七日には、日石二高謀議について具体的に供述した。その供述の要旨は、次のとおりであった。

私は、昭和四六年九月一八日に、増渕及び原告堀から、爆弾闘争の手伝いをしろと言われ、その任務分担を命令されたことがある。同日午後七時三〇分ころ、日大二高の職員室に、原告榎下と中村(隆)がやってきて、同日午後八時ころには増渕と原告堀もやってきた。話し合いの途中で、原告堀が、「これからは何と言っても爆弾闘争が必要なんだよ」と切り出した。その後、増渕が、「爆弾闘争で革命をやるには警察の建物とか権力の首脳部を爆弾で攻撃して社会の不安をまねき蜂起しなければならないんだ」、「爆弾の種類としては、ビックリ爆弾を作る。作るのは我々がやる」、「ビックリ爆弾を小包にして発送して爆破させれば、何の証拠もなくなる」、「このような爆弾闘争をやっていくつもりだが、我々だけではできないから、皆も協力してくれ」と言った。そして、増渕は、原告榎下に、自動車の運転等での協力を求め、私には、学校の実験室から塩素酸カリウムを出すよう求めたが、自分は断った。増渕は、中村(隆)に対して、爆弾に使う部品を作るよう求めたが、中村(隆)は断っていた。

(イ) 松村は、昭和四八年四月九日、日石二高謀議についてさらに具体的に供述したが、その供述の要旨は、前記第四、一二、3、(二)、(2)に認定したとおりであった。

(ウ) 松村は、昭和四八年四月一〇日、日石二高謀議について、昭和四六年九月一八日の夜、日大二高の職員室で増渕、原告堀、同榎下、中村(隆)、私の五人が集まった際、増渕や原告堀からビックリ爆弾を小包にして送り込むなどの話があったことは前に話したとおりだが、その際、ビックリ爆弾を作るのは増渕と原告江口だと聞いた旨供述した。

(エ) その後、松村は、昭和四八年四月一六日には、右日大二高謀議について一旦否認したものの、同月一九日の検察官に対する取調べでは再度自白し、一旦否認した理由について、大変な事件の仲間に加わっていたことが怖くなり、また、母親等に迷惑をかけると思ったからである旨供述した。

(オ) 松村が、検察官に対し、昭和四八年五月二日に供述した日大二高謀議に関する最終的内容の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年九月一八日だったと思える晩に、最初の爆弾闘争の話合いがあった。

まず、原告榎下、中村(隆)の二人が来て、自分と三人で校庭で遊んでいるところへ、増渕を乗せて原告堀がカローラを運転して来た。それから職員室に入り、受付のところで原告堀が持ってきたビール、つまみを口にしながら雑談しているうち、増渕が、「これからの革命闘争は地下からの爆弾攻撃で社会の不安を招くようにしなければだめだ」と言い出し、原告堀は、これに調子を合わせる言い方をした。増渕は、「トリック爆弾を地下から送り込み爆発させれば証拠が残らない。爆弾は我々が造るが、この闘争は我々だけではできないから皆も協力してくれ」と言い、自分達もすっかり増渕に引き込まれ協力する気持ちになっていた。この協力については、原告榎下に対して車関係、中村に対して容器だか部品関係が言い渡され、自分には塩素酸カリウム一びんの調達を言いつけられたが断ったところ、増渕も承諾し、ただ場所を使わせることを念を押したように思う。原告堀が攻撃目標を探し、爆弾作りを増渕と原告江口とでするという話も出た。原告江口は、その晩は来ていなかったように思う。九時ちょっと過ぎにこうした話が終り、増渕が「今日の話は絶対に誰にも言うな」と言って、皆一緒に出ていった。

<2> 判断

右認定事実によれば、松村の右供述によって、公訴提起時において、原告堀及び同榎下が日石二高謀議に参加したことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

原告らは、右供述には変遷などがあり、信用性がない旨主張する。

そして、右認定事実によれば、松村の日石二高謀議に関する右供述には、謀議の日時について変遷が認められ、また、一旦自白した後もこれを否認し、再度自白したことが認められる。さらに、地刑九部判決及びその控訴審並びに松本に対する地刑六部判決で指摘があったように、松村の右供述には秘密の暴露またはこれに類する事実が含まれておらず、その他、原告榎下等他の共犯者とされた者の供述の変遷に伴って松村の供述が変遷している部分も認められる。

このような点を考えれば、松村の右供述は、高度の信用性が認められるとまではいえない。しかしながら、右各事情を考慮にいれても、松村の右供述の具体性等に照らすと、なお、公訴の提起段階において、右供述に信用性がないとまで認めることはできない。

(3)  原告堀の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、原告堀の日石二高謀議に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 原告堀は、昭和四八年四月一二日、日石二高謀議について初めて供述したが、その要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年九月ころ、日大二高の職員室に増渕、原告榎下、松村、中村(隆)、私の五人が集まった時、増渕から「ビックリ爆弾の目的は、相手を殺傷することではなく、支配階級に対し、爆弾を郵送して爆発させることにより、精神的に動揺させることだ。」と聞いた。

(イ) 原告堀は、昭和四八年四月一八日、日石二高謀議について要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月ころと思うが、松村の宿直の日に日大二高に増渕、私、松村、原告榎下、中村(隆)の五人が集まった際、増渕が「小包郵送爆弾」について話をした。私の理解するところでは、小包を開くと爆発する爆弾ということで、増渕の言葉を小包爆弾と覚えている。ビックリ爆弾とかトリック爆弾とかいう表現を増渕が使ったかは覚えていない。

増渕は、「この小包爆弾は破壊力は少なく、むしろ郵送する相手に精神的ショックを与えることを狙いとするものだ。」、「直接投げたりするよりも犯人が捕まる可能性が少ない。」と話していた。

私は、この段階では、小包郵送爆弾についての増渕の話は、今すぐ実行するというものではなく、こういうことをやったらおもしろいといった調子の一般論として理解していた。

この時か別の機会かはっきりしないが、増渕から各人に役割を指示し、私には「おまえは連絡役をやれ。」と言われたことがある。

(ウ) 原告堀は、昭和四八年四月二三日以降も日石二高謀議について供述したが、同供述の要旨は次のとおりであった。

昭和四六年九月中旬ころの午後八時ころから一一時ころまで、日大二高職員室に、増渕、原告榎下、中村(隆)、松村、私の五人(もしかすると原告江口もいたかもしれない。)が集まって、爆弾製造計画の話をした。午後九時ころ、増渕が全員に「ビックリ爆弾を権力機関の上層部に送り、それが爆発することによって人が死ねば、そこには人が集まらなくなるし、そのことにより権力が精神的に動揺する。それをやるから協力してくれ。」と言い、役割分担として、私は統括連絡役を、原告榎下と松村は爆弾の化学に関することを、中村(隆)は爆弾の部品作りをそれぞれ担当するよう指示された。

<2> 判断

右認定事実によれば、原告堀の右供述によって、公訴提起時において、原告堀及び同榎下が日石二高謀議に参加したことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

原告らは、右供述の変遷等をとらえて、供述に信用性がない旨の主張をする。

そして、右認定事実によれば、原告堀の日石二高謀議に関する右供述には、謀議の日時等について若干の変遷が認められ、また、原告榎下、松村及び増渕などの供述と参加者、役割及び会話内容等について相違する部分も認められる。さらに、地刑九部判決の控訴審が指摘するように、原告堀の右供述にははっきりしない部分があり、松村供述等に基づく取調べによって誘導されている可能性もないとはいえない。

このような点を考えれば、原告堀の右供述は、高度の信用性が認められるとまではいえないが、右各事情を考慮にいれても、原告堀の右供述の具体性等を考えれば、なお、公訴提起の段階において、右供述の信用性が全面的に否定されるとまでは認められない。

なお、原告らは、原告堀の日石二高謀議に関する供述は、取調官が、原告堀に対して具体的内容を教えて誘導したものである旨主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

(4)  増渕の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、増渕の日石二高謀議に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 増渕は、昭和四八年四月八日、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月中旬ころ、原告堀が、中村(隆)と原告榎下を使いたいと言ってきたので、オルグの必要があると考え、日大二高に集めた。メンバーは、私、原告堀、中村(隆)、原告榎下、松村の五人であった。私がこれらの者に爆弾闘争の意義について「これからの闘争は、瓶やゲバによる大衆カンパニアではなく爆弾による武装闘争でなければならない。我々は爆弾によって権力を倒す闘争をはじめるので協力して欲しい。」と説明して協力を求めると、全員賛成し、原告堀の指揮下に入ることになった。松村に塩素酸カリの入手方を頼んだように思うが、断られた。

(イ) 増渕は、昭和四八年四月一五日、要旨次のとおり供述した。

私は、権力機関に小包爆弾を郵送する爆弾闘争を進めるためには手足として働いてくれる者が必要であると思っていたことと、この闘争を通じて私の組織を作ろうと思ったことから、昭和四六年九月中旬ころ、原告堀にその旨話して、オルグするからその要員を集めるよう指示した。

その数日後の夜、日大二高の職員室に、私、原告堀、中村(隆)、原告榎下、松村が集まり、私が、原告榎下、中村(隆)、松村に爆弾闘争の必要性を説き、原告堀の下についてやってくれないかとオルグした。

(ウ) 増渕は、昭和四八年四月二五日、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月中旬ころの午後八時ころ、日大二高の職員室に、自分、原告堀、同榎下、中村(隆)及び松村の五名が集った。自分は、原告榎下、中村(隆)、松村に対し、「これからの闘争は爆弾による武装闘争でなければならず、爆弾によって権力を倒さなければならない。爆弾闘争を行いたいが一緒にやろうではないか。堀の下についてやってくれないか」と言ってオルグし、これに対し三名は協力することを約束してくれた。それで、自分は開ければ爆発するトリック装置付の小包爆弾を権力機関に郵送することを話し、三名はこれに協力することを約束してくれた。オルグの時間は一時間位で終わった。

<2> 判断

右認定事実によれば、増渕の右供述によって、公訴提起時において、原告堀及び同榎下が日石二高謀議に参加したことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

この点、地刑九部の控訴審判決及び松本に対する地刑六部判決が指摘するように、増渕の供述は簡略で抽象的な部分も見受けられ、また、松村供述等に基づく誘導のあった可能性も否定できず、このような点を考えれば、増渕の右供述は、高度の信用性が認められるとまではいえない。しかしながら、右各事情を考慮にいれても、公訴提起の段階において、増渕の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(5)  中村(隆)の供述

<1> 供述経過

<証拠略>によれば、中村(隆)の日石二高謀議に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 中村(隆)は、昭和四八年四月五日、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年八月か九月上旬ころ、日大二高に増渕、原告榎下、同堀、松村、私の五人が集まり爆弾闘争の話が出た際、増渕から金属ケースを作るよう依頼されたが、難しいので断った。今考えると、爆弾に使うつもりであったことが想像されるのであり、ただ、自分がその時話したことがヒントになって弁当箱が使われたかも知れない。

(イ) 中村(隆)は、昭和四八年四月八日、日石二高謀議に関して、前記第四、一二、4、(二)、(3)に認定したとおりの供述をした。

(ウ) 中村(隆)は、昭和四八年四月一〇日、日石二高謀議に関して、金属ケース、マイクロスイッチを提案したことを認めたが、自分が提案したとおりの物が日石・土田邸両事件で使われたとは断言できないので、自分には関係ないとして、被疑事実を否認した。

(エ) 中村(隆)は、昭和四八年四月一一日、日石二高謀議に関して、任務分担の割当を伴う謀議として初めての供述をし、同月一二日及び同月一三日にも同様の供述をした。その供述の要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年九月中旬ころの午後七時ころ、日大二高の職員室に増渕、原告堀、同江口、同榎下、私、松村が集まり、増渕から「今は爆弾時代だ。それも地下から敵権力に爆弾を送り、権力の士気を低下、消耗させ、社会の不安を起こし、武装蜂起をする。」などと爆弾闘争の必要性を説かれ、協力を求められた。原告堀も「とおちゃんのいうとおりだ。ただ実行あるのみだ。われわれも、団結して敵権力の打倒のために闘おう。」と発言した。爆弾は小包爆弾を使用することになった。

爆弾闘争に向けての任務分担については、増渕が総指揮、原告堀が日大二高グループの連絡と指揮、郵便局の選定、原告江口が爆弾製造、松村が場所提供、原告榎下が車の運転、私が原告堀の補助と原告江口の爆弾製造の助言、具体的には金属ケースを作ることであった。

私は、金属ケースやマイクロスイッチは秋葉原あたりで買った方がよいと断ったが、ラジコンを作ったときに秋葉原で買ったマイクロスイッチがあることを思い出し、増渕に「家に一個あるからあとで見せるよ。」と言っておいた。

同年九月中旬の日大二高での謀議後約一週間して、自宅にあったマイクロスイッチを原告榎下を通じ増渕に渡したが、その後、白山自動車で原告堀から「おまえからもらったスイッチは、ちょっとしただけでスイッチが入ってしまい、ヤバイから使わなかった。」と聞いた。

(オ) 中村(隆)は、昭和四八年四月一四日、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月中旬の日大二高の謀議の際、増渕と原告堀からマイクロスイッチを見つけてくれと頼まれ、自宅にあったマイクロスイッチを原告榎下に渡した。このマイクロスイッチについては、その後、原告堀から、「ストロークが短くてだめだったから、ちょっと余裕のあるものを一、二個買ってきてくれ。」と言われた。それで、秋葉原に行き、マイクロスイッチを二個買い、原告榎下と増渕方に行き、これを増渕に渡し、結線の方法を図に書いて説明してやった。

(カ) 中村(隆)は、昭和四八年四月一五日及び同月一六日、右と同様の日石二高謀議について詳しく供述するとともに、加えて要旨次のとおり供述した。

昭和四六年九月の日大二高での爆弾の話し合いの際、私は「スイッチの部分については、銅板を曲げて作ればいい。その銅板はうちにあるからあとで榎下に届けるよ。」と言っておいたので、その二、三日後、原告榎下が私の家に来た時、会社のものを手渡した。その前後に、原告堀が私の家に来てアルミ板一枚を持って行った記憶もある。

<2> 判断

右認定事実によれば、中村(隆)の右供述によって、公訴提起時において、原告堀、同榎下及び同江口が日石二高謀議に参加したことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

原告らは、右供述に変遷があることなどを挙げて、右供述に信用性がない旨主張し、右認定事実によれば、中村(隆)の日石二高謀議に関する右供述には、謀議の参加者等について若干の変遷が認められる。また、地刑九部の控訴審判決等でも指摘されたように、謀議の内容に比して謀議参加者の人数が多い等不自然な点も認められる。

このような点を考えれば、中村(隆)の右供述は、高度の信用性があるとまではいえないが、その供述内容の具体性、詳細さなどを考えれば、右各事情を考慮にいれても、中村(隆)の右供述が、公訴提起の段階において、信用性のないものであったとまでは認められない。

なお、中村(隆)の供述中日石リレー搬送の点は、刑事審の公判段階で同人の日石事件当日のアリバイが判明したことにより虚偽であったことが判明したが、後記(第四、一四、4)のように、公訴提起の段階においては、右アリバイを立証する証拠は、検察官が通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠とは認められないから、右アリバイを根拠に、中村(隆)の日石リレー搬送に関する供述の信用性を否定することはできず、これと密接に関連する日石二高謀議の供述の信用性を否定することもできない。

(6)  日石二高謀議に関する判断

以上の認定、判断によれば、日石事件の公訴提起時において、原告堀、同榎下及び同江口が日石二高謀議に関与した疑いが認められ、これに照らすと、本件全証拠によっても、公訴提起の段階で、検察官が前記関係者の各供述を信用できるものとし、これらを総合勘案して、「昭和四六年九月一八日ころ、日大二高で、増渕、原告堀、同榎下、同江口、中村(隆)、松村らが爆弾闘争に向けて話し合いをし、増渕からそれぞれの任務分担などが指示された」という事実を認定できると判断したことが合理的でなかったと認めることはできない。

なお、日石二高謀議に関しては、地刑九部の控訴審判決及び松本に対する地刑六部判決が指摘しているように、坂本等の実行段階で重要な役割を果たした人物が同謀議に参加していないこと、学役関係者が出入りし、正門付近に派出所があるなど日大二高は謀議場所として不適当とも考えられること、謀議日時とされた昭和四六年九月一八日は日大二高の文化祭直前の土曜日であり、職員や生徒が遅くまで残っている危険があること並びに謀議内容が、小包爆弾の送り先、搬送担当者及び爆弾製造スケジュールなどの詳細に及んでいないことなどいくつかの不自然な点が認められるが、これらを考慮に入れても、前記の各供述の具体性、詳細さなどを考えれば、右判断に変わりはない。

(五)  下見に関する供述

(1)  原告榎下の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、原告榎下の日石事件における下見に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年三月二八日、増渕から昭和四六年五月ころ霞が関、有楽町、日比谷方面への運転を依頼された旨供述した。

(イ) 原告榎下は、昭和四八年四月八日、昭和四六年九月末ころの夜に増渕と原告江口を車に乗せて日石本館付近まで赴いたこと、目的は日石本館ビル内にある日石郵便局の下見であったことを簡略に供述した。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月一一日、右下見に関し供述を変更し、昭和四六年一〇月七日ころの午後八時ころ増渕、原告江口及び同堀の三人を車に乗せて新橋方面の郵便局を見に行ったこと、ただ、郵便局の具体的場所は見ておらず、郵便局がどの建物内にあるか案内することはできないことをそれぞれ供述した。

(エ) 原告榎下は、昭和四八年四月一二日、自己以外の者が関与した下見として、「昭和四六年一二月三日ころ高橋荘で荷札書きをした際、そこへ来ていた坂本から、増渕、前林、堀を乗せて夜日石郵便局の下見をしたと聞いた。」旨供述した。

(オ) 原告榎下は、昭和四八年四月一三日、「自分が日石下見に行った時の車内で、増渕が堀に、また昼間でも一回来てみる必要があるんじゃないか、どうだ堀、昼にでも出て来ないか、と聞くと、堀が、昼間出るのはやっぱりヤバイよ、じゃあボンタ(松本を指す。)にでも頼むんだなあ、と言っているのを聞いたので、松本が下見か何かの手伝いをするのではないかと思っていた。」旨供述した。

(カ) 原告榎下は、昭和四八年四月二〇日、前記の日石事件の下見の日時を九月下旬と訂正している。

<2> 判断

右認定事実によれば、原告榎下の右供述によって、公訴提起時において、増渕、原告堀、同江口及び同榎下が日石事件の下見を行っていたことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

原告らは、右供述に変遷があることなどを挙げて、その信用性がない旨の主張をし、右認定事実によれば、原告榎下の日石事件の下見に関する右供述には、下見日時及び同乗者等について変遷が認められるものの、これらを考慮にいれても、公訴提起の段階において、原告榎下の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  増渕の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、増渕の日石事件の下見に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 増渕は、昭和四八年四月一三日、昭和四六年一〇月初旬ころの夜八時過ぎころ原告榎下に頼んでスバルサンバーで日石ビルの郵便局の下見に行ったが、一緒に行ったのが誰だったか忘れており、私一人だったかもしれない旨供述した。

(イ) 増渕は、昭和四八年四月二五日、昭和四六年一〇月初めころ原告榎下と二人で同原告の運転する自動車に乗り日石ビル付近を下見し、日石ビルの周りを見てまわった。時刻は午後八時か九時ころだったと思う旨供述した。

<2> 判断

右認定事実によれば、増渕の右供述によって、公訴提起時において、原告榎下や増渕が日石事件の下見を行っていたことが窺われ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

これに対し、地刑九部の控訴審判決が指摘するように、増渕の右供述は抽象的であり、臨場感に欠ける面も認められ、このような点を考えれば、増渕の右供述は、高度の信用性が認められるとまではいえない。しかしながら、これを考慮にいれても、公訴提起の段階において、増渕の右供述の信用性が全面的に否定されるとまでは認められない。

(3)  松本の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、松本の日石事件の下見に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

松本は、昭和四八年四月一五日及び同月一七日、日石事件の下見について、要旨次のとおり供述した。なお、同月一五日付の松本の調書には、同人が作成した日石ビルの所在場所の概要や、下落合での車の停車位置を図示した図面が添付された。

昭和四六年九月三〇日ころの午後九時二〇分ころ、増渕と阿佐ヶ谷駅前の喫茶店「華厳」で落ち合い、ローレルに増渕を乗せて日石ビル手前に午後一一時ころ停車した。増渕は日石ビルの前を五、六分見てまわった。同年一〇月四、五日ころの午後九時四〇分高橋荘に行き、増渕をローレルに乗せて目白駅近くの下落合を下見した。増渕は下車して一五分か二〇分付近を見ていたが、帰ってきてわかったと言ったように記憶している。下落合の下見をしたあと増渕から横浜の方へ行くように言われたが、横浜は遠いので時間がないと言って断った。

<2> 判断

右認定事実によれば、松本の右供述によって、公訴提起時において、増渕や松本が日石事件の下見に行っていた疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

(4)  日石事件の下見に関する判断

以上の認定、判断によれば、日石事件の公訴提起時において、原告榎下及び同江口が、増渕らとともに日石事件の下見に関与した疑いが認められ、これらに照らすと、本件全証拠によっても、同様の結論に至った検察官の判断が合理的でなかったと認めることはできない。

なお、日石事件の下見に関しては、松本に対する地刑六部判決が指摘しているように、爆弾製造、土田邸事件の下見等この時期のスケジュールが過密であること、また、関係者の供述する下見が夜に行われており、日石事件における昼間の爆弾搬送には必ずしも正確な下見とはならないことなど不自然な点も見受けられるが、これらを考慮に入れても、前記の各供述の具体性、詳細さなどを考えれば、右判断に変わりはない。

(六)  筆跡隠ぺいのための準備に関する供述

前記(第四、九、4、(二)、(2)、<2>)のとおり、検察官は、公訴提起の段階において、日石事件に関し、小包爆弾の筆跡を隠ぺいするため、昭和四六年一〇月初旬ころの夜、高橋荘に、増渕、原告堀のほか、同前林、中村(泰)、松本が集まり、原告堀が中心となって、サインペンなどを使用して、わら半紙や荷札に原告堀の調査した後藤田正晴など小包爆弾の郵送名宛人や差出人の氏名や住所を書き、各人の筆跡を原告堀が集めたこと、また、そのころ、同じく高橋荘に、増渕、原告堀のほか、同前林、同榎下らが集まり、右同様の宛名などを書く練習をし、筆跡の隠ぺいを図る準備をしたことを認定したことが認められる。

そこで、右筆跡集め、荷札書き等筆跡隠ぺいのための準備について供述している中村(泰)、松本、増渕、原告榎下及び同堀の各供述について、その信用性等を検討し、もって、原告らに対する日石事件の嫌疑の有無を検討する。

(1)  中村(泰)の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、中村(泰)の筆跡隠ぺいのための準備に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

(ア) 中村(泰)は、昭和四八年四月三日、「今思いついたんだけど、増渕のアパートで何か筆字を書いたような記憶がある」旨供述し、その後同月四日以降、高橋荘等で筆で宛名書きをしたことがある旨供述した。その要旨は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月八日夜宿直中、原告堀が八王子保健所に来て、書いた手紙と荷札一枚を出し、「こういうふうに書いてくれ」と言って、原告堀から今井栄文の住所氏名を示され、同人宛の荷札を事務机の中にあった付けペンと黒インクを用いて書いた。証拠物の荷札の写真の字は、自分の筆跡に非常によく似ていると思うが、直接書いたものではないように思う。

一〇月一一日から一五日までの間に、増渕のアパートで、増渕、原告前林、同堀、松本及び自分の五人で、毛筆等で宛名書の練習をした。帰りの車内で、原告堀は、「写し字を知っているか」と言って、その方法を教えてくれたので、郵送の際、いろいろな者の字を混ぜて写し、筆跡をわからなくするためのものとわかった。

その二、三日後、国立市内の中村(泰)のアパートで、原告堀に、「警備保障KK業務部」という部分を含む会社名とその所在地が記載された手紙を見せられるとともに手帳のメモ用紙の紙を渡されて、それに右所在地及び会社名を書くよう頼まれ、その際居合わせた土屋博子とともに、各一枚ずつサインペンを用いて書いた。原告堀に「また写し字をするのか」と聞くと、「そうだ」と答え、原告堀はこれらを持ち帰った。

(イ) なお、中村(泰)が、昭和四八年四月四日、昭和四六年一〇月上旬から中旬の間に高橋荘で筆で宛名書きしたことに関し初めて自白した際の具体的供述内容は、次のとおりであった。

その日の午後八時か九時ころ、原告堀が車で迎えに来て二人て高橋荘に行き、着いたのは午後一〇時ころと思う。増渕が新しい小筆三、四本と黄色い缶の墨汁を取り出し、机の上に並べ、小筆の穂先を噛んでから墨汁をつけていた。原告前林がメモ用紙を配り、原告堀がメモ帳を見ながら黒のサインペンでメモ用紙に何か書いたものを五、六枚差し出し、これを見て書けよといった。見ると自分の知らない人の住所、氏名がメモ用紙一枚に一名ずつ書いてあった。四人は原告堀の書いた宛名を筆でメモ用紙一枚に一名あてていねいに書いた。三〇分位して松本も入ってきた。自分は一時間位で一五枚位は書いたと思う。松本が書いたかどうかは覚えていない。その時書いた字で覚えているのは「九」、自分の本籍地、「八王子保健所」、「土屋博子」、更に「新宿区西大久保」、「靖国神社」などと思う。このとき書いたのは全部誰かの住所、氏名ばかりで、用紙は全部で五、六〇枚あったと思う。このメモ用紙は原告前林が集めて、増渕が原告堀に渡し、机の下の方にしまったと思う。(日石遺留荷札の複写写真を示され今井栄文宛のものを選び出し、)全体として自分の字によく似ているが「横浜市」「の」「8」「今井」「丘」は自分が書いた記憶のない字体である。「神」「美」「栄」の各文字は当時自分が書いていた字体ときわめてよく似ていて自分で書いたのではないかと錯覚するほどである。(土田遺留荷札の複写写真を示され、)このようなものを書いた記憶はない。しかし、「谷」は当時自分が書いていた字体に似ている。「土」「國」「保」については、高橋荘で書いた記憶はあるが自分の書く字ではない。差出人の字についても書いた記憶はない。しかし、「九」「久保」については高橋荘で書いたことはあるが、自分の字に似ていない。

<2> 判断

右認定事実によれば、中村(泰)の右供述によって、公訴提起時において、増渕、原告前林、同堀、松本及び中村(泰)が筆跡集め、荷札書き等筆跡隠ぺいのための準備に関与していたことが認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

なお、右筆跡集めなどに関しては、地刑九部判決及び松本に対する地刑六部判決が指摘しているように、荷札書の字体、形態等から判断すると、「写し字」の方法がとられたとは考えにくいこと、わずか一週間位の間に、三度にわたり三か所で、しかも日石事件前であるにもかかわらず土田邸事件の宛名まで筆跡採取したこと及び筆跡集めの時期が後記の増渕の供述と異なることなどの点で不自然さが認められる。

このような点を考えれば、中村(泰)の右供述は、高度の信用性が認められるとまではいえないが、その供述内容の具体性、詳細さなどを考えれば、右各事情を考慮にいれても、公訴提起の段階において、中村(泰)の右供述に信用性がなかったとまでは認められない。

(2)  松本の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、松本の筆跡隠ぺいための準備に関する供述の経過及び内容は次のとおりてあったことが認められる。

松本は、昭和四八年四月三日の取調べにおいては、「字を書いたり書かされたりしたことはない」として字を書く練習をしたことを否定していたが、同月八日、検察官に対し、初めて筆跡集めに関する供述をし、その後警察官に対しても同様の供述をするようになった。その要旨は、次のとおりである。

昭和四六年九月か一〇月ころ(一〇月一五日以前)の午後九時四〇分ころ、高橋荘に行ったところ、原告堀、中村(泰)が来ており、増渕、原告前林らとメモ用紙に何か書いていた。何を書いているか見なかったので何を書いているか判らないが、同じメモ用紙に書いてあった字を見ながら写し書きしているようだった。多分誰か他人の住所、名前を書いていたように思う。用具はボールペンか先の細いマジックだったと思う。その時原告堀の座っていた前に地図が広げてあったが、多分都内地図ではなかったかと思う。私が行った時は増渕も原告前林も何もやっておらず、原告堀と中村がメモ用紙に書いた字を見ながら同じようなメモ用紙に住所とか名前を書いていた。自分が座ると間もなく原告前林がボンチャンも書くかいと言ってメモ用紙を出したが、俺は字が下手だからいいやと言って断った。一人二から三枚は書いていたと思う。用具は自分の記憶ではボールペンかマジックだったと思う。その時筆や墨を見た記憶はないし書く時の姿勢も筆を使う時の姿勢ではなかったと記憶している。原告堀と中村が書き終わると原告前林は見本のメモと書いたメモを集め、机の上に置いたと思う。

<2> 判断

右認定事実によれば、松本の右供述によって、公訴提起時において、増渕、原告前林、同堀、松本及び中村(泰)が筆跡集め、荷札書き等筆跡隠ぺいのための準備に関与していたことが認められ、同様の結論に至った検察官の公訴提起時における判断が不合理であったとは認められない。

なお、松本の右供述については、松本に対する地刑六部判決が指摘しているように、筆跡練習の時期、筆記具について中村(泰)の供述との相違が認められるが、高橋荘という場所、参加者、松本は字を書かなかったことなどの点については中村(泰)供述と一致しており、その供述内容の具体性、詳細さなども考えれば、公訴提起の段階において、松本の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(3)  増渕の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年四月一〇日、筆跡隠ぺいのための準備に関する供述をし、以後も同内容の供述をしたが、その要旨は、次のとおりであったことが認められる。

昭和四六年一〇月上旬ころ、高橋荘で筆跡集めをした。メンバーは自分、原告前林、同堀、同榎下、中村(泰)及び松本であった。書いた内容は、原告堀がメモしてきた警察庁長官と成田国際空港総裁の宛名、住所等でワラ半紙を八つ折り位にした大きさの紙にマジックや万年筆を使って書いた。この筆跡集めは、爆弾郵送の際に写し字を書いて筆跡を隠すためにやったことで、集めた筆跡は原告堀が持って帰った。

<2> 判断

右認定事実によれば、増渕の右供述によって、公訴提起時において、増渕、原告前林、同堀、同榎下、中村(泰)及び松本が筆跡集め、荷札書き等筆跡隠ぺいのための準備に関与していたことが認められる。

なお、地刑九部の控訴審判決及び松本に対する地刑六部判決が指摘するように、増渕の右供述は、筆跡採取の時期、筆記具及びその参加者の点において中村(泰)の供述と相違し、また、荷札書の字体、形態等から判断すると、「写し字」の方法がとられたとは考えにくいにもかかわらず写し字のための筆跡集めを行ったとする点で疑問が残るものの、公訴提起の段階において、増渕の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(4)  原告榎下の供述

<1> 供述経過及び内容

<証拠略>によれば、原告榎下の筆跡隠ぺいのための準備に関する供述の経過及び内容は次のとおりであったことが認められる。

原告榎下は、昭和四八年四月一一日、昭和四六年一〇月初めころに増渕方で増渕、原告前林、同堀、同榎下、中村(隆)及び松本が集まり各人がわら半紙や荷札に文字を書き、それを原告堀が集めた旨供述し、昭和四八年四月一二日には、検察官に対しても同旨の供述をし、同月二〇日には、この荷札書きに坂本も参加していた旨供述した。原告榎下の昭和四八年四月一一日の供述内容は、次のとおりであった。

昭和四六年一〇月初めころの午後八時ころ、高橋荘に行くと、増渕、原告堀、同前林、中村(隆)及び松本の五人が墨汁の缶と毛筆、万年筆、サインペンの太いのとをそれぞれ持ってわら半紙に後藤田や今井の名前や住所を書いていた。書いていたのは四人で、増渕は傍で見ていたと思う。自分も一とおり書きわら半紙の練習書きを終ると、今度は全員で荷札に練習したとおりのことをそれぞれ三枚位づつ書きあげ、原告堀が集めていた。

<2> 判断

右認定事実によれば、原告榎下の右供述によって、公訴提起時において、増渕、原告前林、同堀、同榎下、中村(隆)及び松本が筆跡集め、荷札書き等筆跡隠ぺいのための準備に関与していたことが認められる。

なお、松本に対する地刑六部判決が指摘しているように、原告榎下の右供述は、参加者等の点において中村(泰)らの供述と相違しているが、これを考慮に入れても、公訴提起の段階において、原告榎下の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(5)  その他

<1> <証拠略>によれば、原告堀は、昭和四八年四月五日、昭和四六年五月以降に高橋荘の増渕の部屋で、机かコタツを増渕、原告前林と囲んで私がサインペンかボールペンで荷札と思われるものに宛名を書いたようなことを思い出した旨供述したことが認められる。

<2> <証拠略>によれば、日石爆弾の荷札の筆跡は多数のなぞり書きを特徴とするとの鑑定が存在し、検察官は、原告らの日石事件の公訴提起段階で、右鑑定結果を聞いていたことが認められる。

(6)  筆跡隠ぺいのための準備に関する判断

以上の認定、判断によれば、日石事件の公訴提起時において、原告堀らが日石事件の筆跡隠ぺいのための準備に関与した疑いが認められ、これに照らすと、本件全証拠によっても、同様の結論に至った検察官の判断が合理的でなかったとは認められない。

なお、右準備に関する供述については、地刑九部判決に対する控訴審判決や松本に対する地刑六部判決が指摘しているように、筆跡集めまでした用意周到な準備のわりには日石爆弾の荷札の記載にいくつかの誤りないし訂正が存在していることは不自然であると考えられるが、これを考慮に入れても、前記の各供述の具体性、詳細さなどを考えれば、右判断に変わりはない。

(七)  原告前林のアリバイ

原告らは、日石事件について原告前林のアリバイが成立する旨主張し、右アリバイに関して捜査官らの捜査が不十分であったと主張する。これに対して、被告国は、同原告には日石事件に関してアリバイは成立せず、そう結論づけた検察官の判断は合理的であったと主張する。

そこで、公訴提起段階において、同原告の日石事件に関するアリバイが成立するか及びこれによって原告らの同事件に関する嫌疑が否定されるかを検討する。

(1)  原告前林のアリバイ主張の要旨

<証拠略>によれば、原告前林の日石事件当日である昭和四六年一〇月一八日のアリバイ主張の要旨は、次のとおりであったことが認められる。

私は、昭和四六年一〇月一八日、そのころ購入した軽自動車(ホンダN三六〇)の登録手続をするため、午前九時ころ、松戸市常盤平の実家を出て、一〇分位歩いて松戸市役所常盤平支所に行き、住民票の申請手続をして午前九時三〇分ころ住民票の交付を受けた。それから歩いて一〇分位のところにある新京成電鉄の常盤平駅に行き、午前一〇時ころ発の電車に乗り、午前一〇時四〇分ころ新津田沼駅に着いた。そこから約一〇分くらい歩いて国鉄津田沼駅前に出てバス停留所を探し、バスの誘導整理をしていた制服制帽を着たおじさんに習志野車検場行きのバス停を教えてもらい、バスが来るまで五人位の客と共に二〇分位待っていた。バスは、真ん中あたりの乗降口に男の車掌さんが居た京成バスだったと思うが、その後増えた客と共に乗り込み、乗ってから料金六〇円を払って車掌から切符をもらった。乗ってから発車まで一〇分位待たされたと思う。習志野車検場停留所までバスで二、三〇分かかった。そのバス停留所に付いたのは午前一一時四〇分ころではなかったかと思う。そこから歩いて車検場に行ったが、車検場に到着したのは午後零時に近い時間で、まず、所内の代書屋で右車輌の登録申請書類を代書して作成してもらったが、丁度昼休みで、午後一時まで受付を待たされた。所内で待っている間に中学時代の同級生であった平山という男の人を見かけた。午後一時から一時間位で登録手続を済ませ、午後二時ころ車検場を出て、バスで国電津田沼駅前に出、友人の村越すみの自宅に電話して連結をとった上、午後四時半ころ国電市川駅付近の喫茶店で同女と会った。

(2)  アリバイを肯定する証拠及び事実関係

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 捜査官は、公訴提起前の昭和四八年三月二〇日ころ、昭和四六年一〇月一八日に、松戸市役所常盤平支所において、「前林則子」の署名のある住民票抄本交付申請書が提出され、同抄本が同日午前八時半から四五分くらいまでの間に交付された事実を確認した。

<2> 捜査官は、公訴提起前の昭和四八年三月二〇日ころ、昭和四六年一〇月一八日に、千葉県陸運事務所習志野支所で前林則子名義の軽自動車登録手続が午後二番目か三番日くらいになされている事実を確認した。

(3)  アリバイを否定する証拠及び事実関係

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 捜査段階で、原告前林が、昭和四六年一〇月一三日、勤務先を早退して松戸警察署において運転免許証の再交付を受けていることが判明した。

そして、ホンダN三六〇の廃車手続は同月一一日に終了しており、同日以降いつでも新規登録の手続が可能であったことも判明した。

<2> 原告前林の実家から陸運事務所に至る経路と所要時間を検討すると、同人が、実家を午前九時ころに出発したとすれば、当日午前中に登録手続を終了させ得る時刻に陸運事務所に到着することが可能であった。

<3> 原告前林は、津田沼駅前から乗車したバスについて「午前一一時二〇分ころのバスに乗った。乗り場は、五つくらい並んだうちの真ん中辺だった。バスには男の車掌がいた。バスに乗った後車掌から切符を購入した。」旨具体的に供述していたが、右供述どおりの経路をたどったとすれば、右バスは午前一一時二三分発船尾車庫行きの京成バスと認められ、同バスはワンマンバスであって、右供述はこの点において事実と符合しないことが判明した。

<4>(ア) 捜査段階での報告書等によれば、原告前林の供述する行動を時間的に確定すると、次のとおりであった。

原告前林の実家から松戸市役所常盤平支所までの所要時間は同原告の供述によっても徒歩約一〇分で、同支所の執務開始時間は午前八時三〇分であり、住民票抄本交付に要する時間は約五分程度であり、同支所から新京成電鉄常盤平駅までは徒歩約八分であるから、原告前林が午前八時三〇分から午前九時ころまでの間に住民票抄本の交付を受ければ、右常盤平駅発午前九時一一分又は午前九時一九分の電車に乗車でき、同駅から松戸、日暮里を経て新橋駅に到着するのは、午前一〇時〇三分又は午前一〇時一九分ということになる。

同駅から日石本館ビル前までの所要時間は徒歩で約七分であるから、日石本館ビル前には午前一〇時一〇分ないし遅くとも午前一〇時二六分ころに到着することができる。さらに、日石本館ビル付近から陸運事務所まで自動車での所要時間は一時間一一分である。

(イ) したがって、原告前林が当日午前九時少し前に実家を出れば、松戸市役所常盤平支所で住民票抄本の交付を受けた後、午前一〇時三〇分ころ日石郵便局で小包爆弾を差し出し、正午前に陸運事務所に到着して午後から登録手続をすることは、時間的に十分可能だった。

<5> 増渕は、昭和四八年四月九日以降、日石事件当日、原告前林が習志野の陸運事務所へ赴き、ホンダN三六〇の登録手続を行っていることはアリバイ工作であると供述していた。

<6> 原告榎下は、昭和四八年四月八日、原告前林のホンダN三六〇登録手続がアリバイ工作にすぎない旨供述していた。

(4)  判断

右認定のアリバイを否定する事実関係等に照らすと、前記アリバイを肯定する事実関係等から、原告前林に日石事件に関してアリバイが成立すると認めることは困難であり、同様の結論に達した検察官の公訴提起段階の判断が合理的でなかったとは認められない。したがって、原告前林の日石事件に関するアリバイの成立を前提に、原告らに対する右事件の嫌疑が否定されると認めることもできない。

なお、原告らは、原告前林の右アリバイがアリバイ工作によるものであるとの検察官の判断に対し、

<1> アリバイは犯罪行為の時に犯罪現場以外の場所に居たという事実の証明であるから、犯行の日時と場所が特定されて初めて意味を持つところ、日石事件が犯人の当初計画通りに宛先で爆発すれば証拠が散逸し、爆弾差出し郵便局や日時を特定することはおよそ不可能となってしまうのであるからそもそもアリバイ工作をする必要がない、

<2> 事前に周到なアリバイ工作が行われていたのであれば、自己に犯人としての嫌疑が向けられた場合には直ちにアリバイを主張するはずなのに、原告前林の取調べに対する態度は明らかにそれに反している、

<3> 事前に周到なアリバイ工作が行われていたのであれば、他の共犯者らもそのアリバイを主張して自己に対する追及をのがれようとするのが自然であるが、原告榎下、増渕らの取調べに対する態度は明らかにそれに反している、

などと主張しているが、これらの主張を考慮しても、公訴提起の投階で、検察官が、原告前林の日石事件に関するアリバイは成立しないと判断したことが合理的でなかったとは認められないとの前記判断に変わりはない。

(八)  原告江口のアリバイ

原告らは、原告江口に日石事件に関してアリバイが成立しており、右アリバイについての捜査官らの捜査が不十分であった旨主張する。これに対して、被告国は、原告江口には日石事件に関してアリバイは成立せず、そう結論づけた検察官の判断は合理的であったと主張する。

そこで、公訴提起段階において、原告江口の日石事件に関するアリバイが成立するか及びこれによって原告らの右事件に関する嫌疑が否定されるかを検討する。

(1)  原告江口のアリバイ主張の要旨

<証拠略>によれば、原告江口の日石事件当日である昭和四六年一〇月一八日のアリバイ主張の要旨は、次のとおりであったことが認められる。

私は、大阪市内で開かれる全国衛生化学技術協議会に出席するため、昭和四六年一〇月一八日午前九時過ぎころ、埼玉県鳩ヶ谷市内の実家から出発した。バスかタクシーを使って駅に出て、京浜東北線を利用して東京駅へ赴き、午前一一時ころ東京駅発の新幹線ひかり号で新大阪駅へ行って、そこから電車、地下鉄を利用し、地下鉄谷町九丁目駅から徒歩で右協議会の会場である「なにわ会館」(大阪市天王寺区石が辻所在の公立学校共済組合大阪宿泊所、通称「なにわ会館」)に行った。同駅から「なにわ会館」に向かう途中、同僚の安田和男に会った。「なにわ会館」到着時刻は午後二時三〇分ころであり、自分の出席する予定の右協議会の第二分科会開始予定時刻(午後二時四五分)まで、まだかなり余裕のある時間であった。

(2)  アリバイを肯定する証拠及び事実関係

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

原告江口は、昭和四六年一〇月一八日、大阪のなにわ会館で行われた第八回全国衛生化学技術会議総会の第二分科会に出席していた。

(3)  アリバイを否定する証拠及び事実関係

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 捜査段階での報告書等によれば、日石事件当日の昭和四六年一〇月一八日、原告江口が午前一〇時三〇分ころ日石郵便局において小包爆弾を差し出したとすれば、その後、約二キロメートル離れた東京駅へ赴いて、同日午前一一時発の新幹線ひかり号(約三時間で新大阪駅に到着)に乗車することは、自動車あるいは国電のいずれを利用しても時間的に十分可能であった。

<2> 原告江口の都立衛生研究所の同僚であり、右協議会に出席した前記安田和男は、当日、分科会の始まる約一時間前に「なにわ会館」へ到着したが、その途中原告江口と出会ったことはないし、会場に着いてからも、第二分科会が始まってからも同人に会ったことはない旨供述していた。

<3> 増渕は、日石事件当日、原告江口が、大阪に出張しなにわ会館で開催された協議会に出席したのは、アリバイ工作として行ったものであると供述していた。

(4)  判断

右認定のアリバイに関する肯定と否定の事実関係を総合すると、公訴提起段階において、原告江口に日石事件に関してアリバイが成立すると認めることはできず、同様の結論に達した検察官の判断が合理的でなかったとは認められない。したがって、原告江口の日石事件に関するアリバイの成立を前提に、原告らに対する右事件の嫌疑が否定されると認めることもできない。

なお、原告らは、原告江口の右アリバイがアリバイ工作によるものであるとの検察官の判断に対し、前記原告前林のアリバイについて述べたのと同様の主張をするとともに、日石郵便局に爆弾を差し出したのち大阪の会合に出席することは、時間的に極めて窮屈で綱渡り的きわどさを有している旨主張するが、これらの主張を考慮しても、原告江口のアリバイが成立しないとした検察官の判断が合理的でないとはいえないとの前記判断に変わりはない。

4 検察官が通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

原告らは、検察官が通常要求される捜査を遂行していれば、中村(隆)の自動車運転免許取得のための学科試験受験日が何日であったかの証拠を収集し得たのに、この捜査を怠った旨主張する。

そこで、原告らに対する日石事件の嫌疑の有無を判断する上で、検察官が、右受験日に関し、通常要求される捜査を尽くさなかった違法があるか否かを検討する。

(一)  中村(隆)の日石リレー搬送に関するアリバイ

<証拠略>によれば、中村(隆)の日石リレー搬送に関するアリバイについて、次の事実が認められる。

中村(隆)は、捜査段階では、自らが日石リレー搬送の第二搬送者として、日石爆弾を所持した原告江口及び増渕を日石本館ビル近くまで運んだ旨供述していたが、公判段階になると、右第二搬送者となった点を否認し、日石事件当日は、警視庁府中運転免許試験場において、運転免許学科試験を受験していたというアリバイを主張した。そして、弁護人が弁護士会を通じて警視庁府中運転免許試験場に対する照会を行ったところ、その回答は、中村(隆)が、日石事件当日の昭和四六年一〇月一八日に右試験場において右学科試験を受験していたというものであった。

(二)  アリバイ捜査に関する事実関係等

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  前記のように、中村(隆)は、捜査段階において、アリバイを主張しておらず、同人の自動車運転免許証が昭和四六年一〇月二七日に東京都公安委員会から交付されていた事実が判明していたものの、同人自身は、学科試験の受験日について、日石事件の後の同月二〇日ころであると述べていた。

(2)  増渕は、検察官に対し、中村(隆)が日石事件当時無免許であった事実を告げられた際、「中村(隆)が無免許とは全く知らなかった。中村(隆)は自動車を持っており、運転しているのも知っていたので、当然免許を持っているものと思っていた。」旨供述した。

(3)  中村(隆)自身は、無免許ゆえに無免許の自分が運転するはずがないと言い張れるという意味でアリバイ作りに有利と考えて引き受けた旨供述した。

(4)  捜査官は、日石事件当日の中村(隆)の行動状況及びアリバイの有無について、同人の稼働先であり、実家の家業でもある中村隆博製作所の伝票等をも踏まえて、家族や取引先等の取調べを行ったが、家族には、当日の中村(隆)の行動についての具体的な記憶がなく、また、当日の午前中に中村(隆)と面接した取引先も見出されず、当日の同人のアリバイは確認されなかった。

(5)  捜査官は、日石事件当日の中村(隆)による自動車の使用の事実又はその可能性について捜査したが、右自動車を使用することが考えられる弟博幸など家族らは当日右自動車を使用したとの記憶がなく、他方、給油状況を捜査した結果、当日に相当量の給油の事実が確認され、当日の中村(隆)による右自動車の使用の可能性のあることが認められた。

(三)  判断

右の認定事実によれば、中村(隆)の学科試験受験日の裏付捜査が行われれば、同人のアリバイが成立していることが判明し、これによって同人が日石事件で公訴提起されることがなかったとも考えられ、この点で捜査官の捜査が十分とはいえないものであったことが認められるものの、前記のような中村(隆)の供述状況やアリバイ捜査の状況等に照らすと、右受験日についての裏付捜査を行わなかったからといって、検察官が通常要求される捜査を怠ったとまではいえない。

なお、原告らは、原告前林、同江口のアリバイについても、検察官が通常要求される捜査の遂行を怠ったかのような主張をするが、これを認めるに足りる的確な証拠はなく、理由がない。

5 判断

以上の認定、判断によれば原告らに対する日石事件の公訴提起時において、検察官が現に収集した証拠資料を合理的に総合勘案すれば、右事件に関して原告らに有罪と認められる嫌疑があったことが認められる。本件全証拠を検討してみても、検察官が、右嫌疑の存在を判断する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて右公訴を提起したと認定し得るような事情の存在を認めることはできない。

なお、<証拠略>によれば、日石事件で小包を差し出した女性が支払った五〇〇〇円札や日石爆弾の容器である菓子箱に遺留された指紋は、原告らのそれと一致しなかったことが認められるが、この事実を考慮に入れても、右判断に変わりはない。

よって、検察官の右公訴提起は違法とはいえず、この点の原告らの主張は理由がない。

一五 原告堀及び同江口の土田邸事件の公訴提起

1  公訴提起の違法性判断基準

前記のように、刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の提起が違法となることはなく、公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である。

そこで、原告堀及び同江口に対する土田邸事件の公訴提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、右原告らに対し、右事件に関して有罪と認められる嫌疑が存在したかを検討する。

2  土田邸事件の公訴事実

<証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年四月四日、増渕、原告堀及び同江口を土田邸事件の正犯として東京地裁に起訴したが、右三名に対する土田邸事件についての各昭和四八年四月四日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも次のとおりであったことが認められる。

被告人は、ほか数名と共謀のうえ、治安を妨げ、かつ、警視庁警務部長土田國保およびその家族らを殺害する目的をもって、弁当箱に塩素酸ナトリウム・砂糖を充填し、これに手製雷管・乾電池・マイクロスイッチなどを用いた起爆装置を結合させ、これらを収納する木箱の蓋を開くことにより爆発する装置を施した爆発物一個を、昭和四六年一二月一七日東京都千代田区神田神保町一丁目二五番四号神田南神保町郵便局に小包郵便物として差し出し、同都豊島区雑司が谷一丁目五〇番一八号前記土田國保宛郵送し、翌一八日午前一一時二四分ころ右土田方においてこれを爆発させ、もって、爆発物を使用するとともに、右爆発により同人の妻土田民子(当四七年)を即時爆死させて殺害したほか、同人の四男土田恭四郎(当一三年)に対しては加療約一か月を要する顔面・両手第二度熱傷などの傷害を負わせたにとどまり同人の殺害の目的を遂げなかったものである。

3  検察官が現に収集していた証拠資料

(一)  証拠資料の存在

(1)  <証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年四月四日、増渕、原告堀及び同江口を土田邸事件の正犯として起訴するに当たり、それまでの捜査によって、右三名が右事件を敢行したことを立証する証拠として、

<1> 土田邸事件についての自白をした増渕の供述、

<2> 「六月爆弾」に関する佐古、村松及び原告江口の供述、

<3> 増渕が爆弾闘争志向を有していたことに関する石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び中村勉の供述並びに前林メモ、

<4> 増渕の爆弾闘争志向に協力したことに関する原告江口の供述、

<5> キティ方での口裏合わせに関する原告榎下の供述、

<6> 増渕からの都心下見依頼に関する原告榎下の供述、

<7> 原告堀に対する荷札渡しなどに関する金本の供述、

<8> 宛名書等に関する原告堀及び中村(泰)の供述、

<9> 増渕方への爆弾運搬に関する原告堀の供述、

<10> 金本への小包預けと郵送依頼に関する原告堀の供述、

<11> 土田邸爆弾の保管に関する中村(泰)の供述及び土田邸爆弾の寄託とその返還に関する原告堀の供述、

<12> 犯行後の増渕の言動に関する長倉の供述、

<13> 原告堀の土田邸事件告白に関する原告榎下の供述、

<14> 大晦日口止めに関する原告榎下及び坂本の供述、

<15> プランタン会談に関する佐古の供述、

などの各証拠を現に収集していたところ、これらの証拠関係を慎重に検討した結果、いずれも右各供述の任意性に疑いはなく、また右供述過程における捜査、取調べが違法なものではなく、いわゆる違法収集証拠ではないから、右供述を録取した各供述調書は、いずれも、証拠能力を有し、基本的部分については信用性があると判断し、右各証拠を中心とするそれまでの捜査で得られた証拠を総合勘案して、増渕、原告堀及び同江口の三名は、土田邸事件について殺人、同未遂、爆発物取締罰則違反の罪で有罪判決を得るに足りる犯罪の嫌疑があると判断したものであることが認められる。

そこで、右各供述証拠について、その信用性を検討するとともに、原告堀、同江口に対する右嫌疑を肯定するに足り得る証拠であったかを検討する。

(二)  土田邸事件についての自白をした増渕の供述

(1)  <証拠略>によれば、増渕の土田邸事件についての供述の経過及び内容等は、次のとおりであったことが認められる。

<1> 増渕は、昭和四八年三月七日からの警察官の取調べで、日石・土田邸事件の追及を受けたものの、これを否認していたが、同月一三日、検察官に対して、初めて土田邸事件について自己が犯行を行った旨の自白をし、さらに、同日、検察官に対する右供述の後、警察官に対しても土田邸事件について自白をした。その各自白の要旨は、前記第四、一〇、3、(二)、(4)の<2>、<3>に認定したとおりであった。

<2> 増渕は、昭和四八年三月一五日、検察官からの弁解録取時には、被疑事実を概ね認めていたが、同月一六日、裁判官から勾留質問を受けた際には黙秘した。その後は、昭和四八年四月四日まで、前記三月一三日に警察官に対して供述した内容とほぼ同様の自白を維持した。その供述の要旨は、前記第四、一二、3、(二)、(3)、<1>ないし<3>に認定したとおりであった。

<3> 増渕は、昭和四八年三月一九日に警察官に述べた供述を明確にするため、同月二四日、模造雷管三種類を製造してみせたが、これは、増渕が「口で説明するよりも作った方が分かり易い。材料をそろえてもらえば同じ物を作る。」と言ったことを受けて、警察官が器具、材料を用意し、再度増渕の意向を確認した上で実施されたものであった。

同人は、同日の製造実演において材料、器具を与えられるや、鉛筆サックとガスヒーター、鉛筆サックと石油ヒーター、アルミホイルとガスヒーターをそれぞれ利用した三種類の雷管をわずか約四〇分の間に、順次作り上げた。

(2)  原告らは、増渕の昭和四八年三月一三日の自白内容は、抽象的で、その内容も他の証拠によって裏付けられていない旨主張し、右認定事実によれば、増渕は、同年四月四日の土田邸事件の公訴提起に至るまでの間、自己に全責任のあることは認めながらも、各犯行の具体的状況をほとんど供述せず、主として日石・土田邸事件の両爆弾に用いた雷管の製造などを供述するにとどまっていたことが認められる。また、右認定事実によれば、増渕の供述には、日石爆弾の個数を一個と供述するなど客観的事実と一致しない点があり、爆弾の製造日時及び場所並びに爆弾の預け先等に関して供述の変遷があることもそれぞれ認められる。

このような点を考えれば、増渕の右供述は、高度の信用性を有するとまでは認められないものの、雷管作りに関する供述の具体性や、同人が実際に雷管作りを実演している点等もあわせ考慮すると、原告堀及び同江口に対する土田邸事件の公訴提起段階で、増渕の右供述が信用性のないものであったとまでは認められない。そして、増渕の右供述によって、同人、原告堀及び同江口について、土田邸事件を敢行した嫌疑が認められ、同様の判断を下した検察官の判断が不合理であったとは認められない。

なお、原告らは、増渕の昭和四八年三月一三日の津村検事に対する自白は、警察の違法な取調状況をチェックせず、むしろこれに乗じて獲得されたものであって任意性がない旨主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

(三)  「六月爆弾」に関する佐古、村松及び原告江口の供述

(1)  「六月爆弾」の概要

<証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年四月四日の起訴時までに収集された関係証拠により、いわゆる「六月爆弾」に関して次の事実が認定できると判断していたことが認められる。

<1> 増渕は、赤軍派の指示により爆弾闘争の準備を始め、佐古に対し、爆弾の製造方法に関する記事が掲載された「世界革命運動情報」を渡して研究を命じたりした。

<2> 増渕、坂東、佐古、村松、原告前林及び同江口らは、世田谷区桜上水の梅津方において、硝化綿、雷汞、雷管を製造したが、右雷管は基本的に日石・土田邸事件に使用された手製雷管と同種のものであった。

<3> そのころ、増渕は、爆弾を製造してトリック装置付きの偽装段ボール箱に納めて郵送することを企図し、佐古、坂東らに対し、手製雷管、起爆装置、手製爆弾の製造方法等を図示して説明した上、佐古に対し、右トリック装置の研究を命じ、佐古が日石爆弾のスイッチと同種のスイッチを考案した。

<4> 昭和四五年六月下旬ころ、増渕、佐古、村松、梅津、森、坂東及び原告江口らは、増渕らが製造した実験用爆弾を持って千葉県の興津海岸へ赴き、爆発実験を行い、これに成功した。

<5> 増渕、佐古、村松、坂東、森及び原告前林らは、梅津方において缶入りの手製爆弾四個を製造した。

(2)  佐古の供述

<1> <証拠略>によれば、佐古は、昭和四八年三月二〇日、同月二六日、同月三〇日に、それぞれ検察官に対し、昭和四五年の「六月爆弾」に関する供述をしたことが認められる。その要旨は、次のとおりであった。

(ア) 昭和四五年五月下旬ころ、増渕が、烏山アジトで、私と原告前林に、赤軍幹部会議で、六月闘争には爆弾闘争の方針が決まったことや赤軍の幹部が増渕に爆弾の作り方を教えてくれと頼んできたこと等を話してくれた。増渕は、同会議の席上で梅内からもらったという鉄パイプ爆弾用の鉄パイプを私に見せながらその仕組みを説明し、「イカも爆弾の作り方を覚えろ。この本にのっている爆弾の作り方を読んで勉強しろ。六月になったら梅津のところで赤軍の幹部に爆弾の作り方を教え、そのとき作るからお前にも少し手伝わせる。」と言って、「世界革命情報」という爆弾の製造方法を書いたパンフレットをくれた。

(イ) 同年六月一七日ころ、増渕と一緒に梅津の借家まで行くと、坂東、村松がおり、東大医学部の実験室から爆弾を製造する器具を盗み出すことになり、同日、私、坂東、村松の三人で同実験室から天秤、試験管等を盗み出した。

翌一八日ころの正午ころ、私、増渕、原告前林の三人で梅津の家に行くと、坂東、村松がおり、午後一時ころ原告江口が来て、同人が増渕や坂東に爆弾の製造材料を説明した。

増渕の指示で、私と村松が、点火ヒーター五、六個、リード線、電池、電池ボックス、鉛筆キャップ等を買ってきた。

その後、原告江口の指導で、丼に薬品を入れ、その中に水洗いした脱脂綿をつけて発火綿を作った。

翌一九日ころ、梅津の部屋に行くと、増渕と板東が爆弾の製造方法を話し合っていた。増渕は、ルーズリーフに書かれた爆弾本体や起爆装置の図面等に基づいて、必要な薬品、扱い方、威力、起爆装置などについて坂東に説明していた。そして、段ボール箱の蓋を開けると通電して爆発する偽装段ボールについて話してくれた。増渕は、私に爆弾の起爆装置の接点の部分を考案するよう指示し、銅板や輪ゴムを渡してきたのでこれらを使って実験していたが、原告前林に訳を話すと一緒に考えてくれた。結局、銅板の間に絶縁体を入れておき、それを縫い糸で段ボール箱の蓋に接続させておき、蓋を開けると引っ張られて絶縁体がはずれ通電するというものを考案した。

同月二二日ころ、梅津の部屋へ行くと、増渕、坂東、森恒夫が爆弾の起爆装置の実験をしていた。ヒーターの上に発火綿を置き、電流を流すとヒーターが加熱して発火綿が燃え上がるもので、何回も繰り返していた。

翌二三日ころの夜、烏山アジトに戻ると、増渕と原告前林がいて、増渕が「明日会社を休め。興津の海岸へ実験に行くから。」と言ったので、実験用の爆弾を増渕が製造したことを知った。

翌二四日ころの夕方、ブルーバードに増渕を乗せて梅津の家に行くと、森、板東、村松、梅津、赤軍の者が一、二名いた。原告江口もいたように思う。テーブルの上にクッキーかカステラのようなものを入れるブリキ缶があり、その中に爆弾が入れてあるのを見た。缶の横から八センチメートルくらいのリード線が二本出ていた。

午後七時ころ、二台の車で興津海岸に向けて出発し、午後一〇時ころ興津海岸に着いた。現場は人家から一二〇から一三〇メートルくらい離れている崖渕で、赤軍の者一、二名が見張りをし、他の全員が実験現場に行き、増渕が爆弾を高い岩陰に置き、コードを七、八メートル引き、私達は爆弾から一〇メートルくらい離れた岩の陰に隠れていると、増渕がコードの両端を電池に接続させ、爆弾を爆発させた。ドカンという大きな音がしたあと、爆弾を置いた場所に行くと、岩の側面が削られていた。

現場には二〇分ないし三〇分いて、翌二五日午前二時か三時ころ、梅津の家に戻った。

(ウ) 同月二五日ころの正午ころ、私、増渕、原告前林の三人がブルーバードで梅津の家に行き、増渕だけを降ろし、私と原告前林は、あらかじめ増渕から「今日爆弾を作るから、お前ら空き缶を探してこい。」と指示されていたので、爆弾の本体を入れる空き缶を探しに出かけた。同月一〇日ころから梅津の部屋に偽装爆弾用の段ボール箱が二個用意されていたので、その段ボール箱に入るくらいの大きさの空き缶を探し、団地の焼却炉から弁当箱大の空き缶三個を見つけて梅津の部屋に戻った。

部屋には、増渕、森、坂東、村松、赤軍の者二、三名がおり、ダイナマイト、手製雷管、薬品等の材料や爆弾製造器具が準備されていた。

午後二時ころ、原告江口が加わると、増渕の指示で爆弾を作り始めた。縦二六センチメートルくらい、横一八センチメートルくらい、高さ、一〇センチメートルくらいの段ボール箱に入れた爆弾二個と菓子缶に爆弾を詰めただけのもの二個の計四個の爆弾を製造した。

爆弾四個と残りの材料や器具を大きな段ボール箱に入れ、八畳間の押入れにしまった。

この爆弾製造直前の同月中旬ころ、梅津の部屋で、私、増渕、森、坂東、村松らが、同月下旬に爆弾を国家公安委員長、警察庁長官、警視総監、佐藤首相のもとに段ボール箱に入れて郵送して爆発させて殺そうという話をしていたので、その目的のためにこの爆弾を製造したものと思う。

(エ) 同月二八日ころの日曜日の昼間、増渕から「例の物を堀の家に運び出すから来い。」と指示され、増渕を車に乗せて梅津の家に爆弾を取りに行くと、森、坂東、村松らがいたが、同人らは原告堀の家に爆弾を移し変えることを承知している様子だった。

増渕が方南町の原告堀に今から行く旨電話をかけてから、爆弾や残りの材料、器具の入った段ボールを車に積んで全員で原告堀の家の前まで行き、増渕と坂東の二人が段ボールに入った爆弾を原告堀の家に運びこんだ。

同年七月中旬ころ、烏山アジトで、原告堀、増渕、原告前林、私が相談して、原告堀方に置いてあった爆弾をビニール袋に入れてセロテープで密閉し、更にナイロン製ゴミ袋に入れて、烏山アジトから二五〇ないし三〇〇メートル離れた所にある神社近くの竹やぶに穴を掘って埋めた。

同年九月下旬ころ、増渕から、この爆弾が使えるかどうか確認するためと、一〇・二一闘争に使用する目的で赤軍の大西に渡すために、爆弾一個を埋めてある場所から持ってくるよう指示され、自分一人で掘り出しに行き、爆弾一個だけ取り出して烏山アジトに持ち帰り増渕に渡した。増渕は、爆弾を点検した後、新聞紙に包んでしまっておくよう指示したので、新聞紙に包み、その部屋の押入れの下段に隠しておいた。

<2> なお、<証拠略>によれば、佐古は、昭和四八年二月一四日以降の、いわゆる「プランタン会談」についての供述の中で、原告江口が、「六月の爆弾が出ればどうなるのよ。それで日石が出ればみんなやられるのよ。それが出れば、土田邸が出ることははっきりしているじゃないの。」、「六月の爆弾が出来上がっていることが警察に判っていないでしょうね。」などと述べた旨供述した。

(3)  村松の供述

<1> <証拠略>によれば、村松は、昭和四八年三月二一日、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受け、検察官に対し、昭和四五年の「六月爆弾」に関する供述をしたことが認められる。その要旨は、次のとおりであった。

<2> 昭和四五年六月二〇日ころから梅津の部屋に同居するようになった。当時、梅津の部屋に坂東、増渕、佐古、原告前林らの活動家が出入りし、この部屋を爆弾作りの拠点として利用しようとしていた。

同月下旬ころ、部屋に出入りしていた坂東が、私と佐古に「東大あたりに行けばあるから天秤計りを取ってきてくれないか。」と言ったので、佐古と二人で東大の実験室から天秤計りを盗み出してきた。

同年七月上旬ころの午後四時か五時ころ、部屋に坂東、神田勉、城崎が入ってきて、ちょっと部屋を借りると言い、八畳間で爆弾作りをしていた。垣間見ると、神田と城崎が銀色の粉をふるいにかけ、城崎は針と布を借りにきて「ピクリン酸を入れる。」などと言っていたので、爆弾を作っていることが判った。

その二、三日後の夕方、増渕、坂東、佐古、原告前林、同江口の五人が一緒に部屋に入ってきて、増渕と坂東が「硝化綿を作るんだ。」と言って丼に薬品を入れ、そこに脱脂綿をひたしていた。原告江口は、増渕、坂東に硝化綿の作り方を説明して先に帰った。

その翌日の昼ころ、増渕が、私と佐古に指示して、ヒーター、単一電池、鉛筆サック、消しゴム、セメダインスーパーなどを買ってこさせた。

その後、坂東と増渕が中心になって雷汞作りを始めた。それは、鉛筆のサックに硝化綿を入れ、更にヒーターを入れて消しゴムで蓋をし、ヒーターに通じるコードの両端に電池を接続すると電流が流れるものだっだ。これが出来上がってから坂東か増渕が通電実験をしていた。

その二、三日後、烏山アジトに行くと、増渕、佐古、原告前林がおり、増渕は「この部屋はヤバイから堀の家に預かってもらうんだ。」と言って、部屋から段ボール箱を持ち出し、一緒に方南町まで行った。増渕が原告堀の家に段ボール箱を運びこんだと思う。

興津海岸で爆弾の実験をやった際、自分が加わったかどうかはしばらく保留する。

(4)  原告江口の供述

<証拠略>によれば、原告江口は、昭和四八年四月三日、昭和四五年六月ころ梅津方において、増渕、梅津らが雷汞を製造したが、その際自分も立ち会い水銀等を計量するなどし雷汞の作り方を指導した旨供述したことが認められる。

(5)  判断

右認定事実によれば、増渕らのグループが、昭和四四年に引き続いて昭和四五年の段階においても爆弾闘争を志向していたこと、同爆弾闘争は、箱の蓋を開けるなどすることにより爆発するような爆弾、すなわち日石・土田邸爆弾と同種の構造をした爆弾を使用したものであったこと、製造された手製雷管の構造は基本的に日石・土田邸事件に使用されたものと同種であったこと、これらの事実や右各供述は、前記土田邸事件についての自白をした増渕の供述を裏付けるものであることがそれぞれ認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理とはいえない。

(四)  増渕が爆弾闘争志向を有していたことに関する石田茂、森口信隆、金沢盛雄及び中村勉の供述並びに前林メモ

(1)  石田の供述

<証拠略>によれば、石田は、牛乳屋グループの一員であり、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けていたものであるが、昭和四八年三月二六日、検察官に対し、増渕に昭和四六年以降も爆弾闘争志向があったことに関し、次のとおりの要旨の供述をしたことが認められる。

私は、世田谷区千歳台六丁目一―四田辺牛乳店の店員をしていたが、同店の労働争議が機縁で昭和四六年四月ごろ増渕と知り合い、その後、同人は、当時私が住んでいた同区祖師谷六丁目の横山荘に出入りするようになった。昭和四六年一〇月から田辺牛乳店の店員達が毎週一回読書会をしていたが、その際にはたいてい増渕が来て解説していた。増渕は、その際の雑談や、遊びに来たときなどに「自分は爆弾を作ったことがある。革命のためには人を殺してもやむをえない。」などと話していた。また、当時各所で発生した爆弾事件について、増渕が「よくやった。」という意味のことを言っていた。

同年一〇月下旬ころ、横山荘で、私、中村勉、金沢のいるところで、増渕が鞄から缶を出して見せ、「ピース缶だ。これで爆弾を作ったことがある。」などと言ったことがある。

同年一一月ころ、増渕からコタツの下に敷くカーペットをもらったが、それには薬品で焦がした跡がいくつもついており、増渕から「この上で爆弾を作ったのだ。」と聞かされた。

どんな機会であったかははっきりしないが、増渕が「自分には特別のことをやっている秘密のグループがある。」などと言っているのを聞いたことがある。

同年一二月二八日ころ、増渕と一緒に秋葉原の電気器具店へ行き、増渕が電気掃除機を買ったことがあるが、その帰りの車中で、増渕は「これは部屋の掃除にも使うが、火薬などをこぼしたときに吸い取るのに必要なんだ。」と言っていた。

(2)  森口信隆の供述

<証拠略>によれば、森口信隆は、増渕らの供述から増渕に硝酸を手渡したとして、昭和四八年三月一九日、毒物及び劇物取締法違反の容疑により逮捕されたものであるが、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受け、同月二八日及び同年四月三日、増渕に昭和四六年以降も爆弾闘争志向があったことに関し、次のとおりの要旨の供述をしたことが認められる。

昭和四四年四月に日大農獣医学部に入学し、学内で先輩の原告堀と知り合い、同人が私の下宿に増渕を連れて来たことから、同年一一月ころ増渕とも知り合った。増渕は、その後、ときどき私の下宿に来るようになったが、その際、鉄パイプ爆弾の仕組みやその他の爆弾の作り方、材料について話し、「これからの闘争は武器による闘争だ。」と言っていた。

昭和四六年六月ころまでの間に増渕と原告堀らが下宿に遊びに来たが、その際、増渕が「爆弾を作るのに硫酸や硝酸が必要だ。」と言っていた。そこで、同年七月上旬ころ、大学の実験室で実験をした際、硝酸等を増渕や原告堀に渡してやったら喜ぶだろうと思い、使い残りの硝酸一本と水酸化ナトリウム一本を無断で部屋に持ち帰り、同月中旬ころ、増渕、原告堀の二人が来たので、その硝酸一本を増渕に渡したが、その硝酸は五〇〇グラム入りのビンに二〇〇グラムくらい入っていた。

(3)  金沢盛雄の供述

<証拠略>によれば、金沢盛雄は、牛乳屋グループの一員であり、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けていたものであるが、昭和四八年三月二六日、増渕に昭和四六年以降も爆弾闘争志向があったことに関し、次のとおりの要旨の供述をしたことが認められる。

昭和四六年一二月ころ、横山荘の石田の部屋に、石田、中村勉、私がいると、増渕が来て、鞄の中から紙袋に入っている薬のビンを取り出し、「これ預かってくれ。危険なので取扱いには気をつけてくれ。」と言って中村勉に渡した。この薬品のビンは中村勉が保管していたが、昭和四七年三月下旬に引っ越す際、私に預かってくれるよう頼まれたのでこれを預かり、紙袋の中を見ると高さ一五から二〇センチメートル、直径一〇センチメートルくらいのガラス製のビンで、ラベルに硝酸Nitro Asidoと書かれており、透明の液が六分目くらい入っていた。私は、この硝酸を田辺牛乳店二階の自室に保管していたが、昭和四七年八月一二日、祖師谷二―七―三松本方へ引っ越した際、この硝酸も持って行き、自室の押入れの中に保管しておいた。

同年八月二八日ころ、新聞で石田が逮捕されたことを知り、増渕から預かっている硝酸を持っていてはまずいと思い、その夜、二階共同便所に流して捨て、ビンはゴミ集積所に捨てた。

(4)  中村勉の供述

<証拠略>によれば、中村勉は、牛乳屋グループの一員であり、日石・土田邸事件の参考人として取調べを受けたものであるが、昭和四八年三月一四日、増渕に昭和四六年以降も爆弾闘争志向があったことに関し、次のとおりの要旨の供述をしたことが認められる。

昭和四六年九月ころだったと思うが、横山荘に、私、金沢、石田がいると、増渕が来て、私に資生堂の紙袋を差し出し、預かってくれと言って渡した。中を確かめようとすると、これをさえぎって「見るなよ。」と言ったので、その場では見なかった。増渕が帰った後、取り出して見ると薬のビンだった。中身はわからなかったが、爆弾の材料になるものだなと思い、どきっとした。私の感じでは硫酸か硝酸のように思う。この品物は、昭和四七年四月、山村荘に引っ越す際、金沢に預けた。石田が捕まった後、金沢がどこかに捨てたと聞いている。

(5)  各供述についての判断

右各認定事実によれば、増渕は、「六月爆弾」事件の後の昭和四六年に至っても、依然として爆弾闘争を志向し、爆弾の材料等を入手しようとし、あるいは周辺人物に対して爆弾闘争の必要性を説き、日石・土田邸事件と同時期において爆弾闘争志向を有していたこと、右各供述は前記土田邸事件についての自白をした増渕の供述を裏付けるものであることがそれぞれ認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理なものとはいえない。

なお、<証拠略>によれば、原告前林から押収した同女が日誌様に記載していたノートには、「私は市民社会の仮面を被ったおばけ。誰もそのことには気づいていない。私をごくあたり前の人間として扱ってくれる。だけど私はおばけ。」との記載があり、これは、昭和四八年に入ってから二月二〇日までに記載されたものであることが認められるが、この記載だけをもって、原告前林が土田邸事件に関与していたことや、昭和四六年以降における増渕らの爆弾闘争志向等を推認することはできない。

(五)  増渕の爆弾闘争志向に協力したことに関する原告江口の供述

(1)  <証拠略>によれば、原告江口は、昭和四八年三月一七日、同月二三日、同年四月二日、同月三日、増渕に昭和四六年以降も爆弾闘争志向があったことに関し、次のとおりの要旨の供述をしたことが認められる。

昭和四四年一〇月末か一一月ころ、「火薬技術者必携」という火薬の種類、成分、製法、取扱いや爆発の際の計算式が載っている本を買った。昭和四四年暮れか昭和四五年初めころ、増渕からその本を貸してくれと言われたので、その本をやってしまった。

昭和四五年六月ころ、八重洲の「シャム猫」で増渕、梅津、堀傑と会って新宿へ飲みに行ったことがあるが、それから一週間くらいしてまた増渕と会った時、増渕が「火薬技術者必携」を持っていて、私に雷汞を作りたいんだが自分ではわからないから作って欲しいと言うので、承知した。それから数日経った同年六月ころの土曜日、梅津の借家に行くと、既に増渕と梅津、それに名前を忘れた二人くらいがいた。増渕がビーカー、上皿天秤、ろ紙、水銀、濃硝酸を用意し、私が用意した無水エタノールを出し、増渕が本(パンフレットと思う。)を開いて「これを作りたいから教えてくれ。」と言うので、指示通り雷汞を作ってやった。出来上がった雷汞は角砂糖一個分くらいで、増渕はこれを押入れにしまった。

昭和四五年一二月の日曜日に、増渕から「世界革命情報」一五から二〇冊を渡され、別の機会に「構造」の本をもらったことがある。

昭和四六年春に、増渕から「国会図書館にある火薬とロケットの文献をリストアップして欲しい。」と頼まれ、ロケットの文献を五、六冊リストアップして渡した。

その年の秋、増渕から試験管が五、六本手に入らないかと言われたが、薬局で買えばいいと言って渡さなかった。

その年の暮れか昭和四七年一月ころ、増渕からニトログリセリンかニトロセルロースがどういうものか聞かれたので、ブルースターの本からこれに関する部分を抜粋して渡してやったことがある。

(2)  右認定事実によれば、増渕は、昭和四六年以降も爆弾闘争志向を有していたこと、原告江口の右供述は、増渕の前記自白を裏付けるものであったことがそれぞれ認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理であったとはいえない。

(六)  キティ方での口裏合わせに関する原告榎下の供述

(1)  <証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年三月二三日の取調べで、昭和四七年九月ころ、原告前林からの電話で増渕が逮捕されたことを知り、原告堀の婚約者キティー方に原告堀、松本、原告榎下が集まり、口裏合わせをし、さらにその後、原告榎下が中村(隆)及び坂本とも電話で口裏合わせをした旨の次のとおりの要旨の供述をしたことが認められる。

昭和四七年九月ころ、昼間、私が会社にいると、原告前林から電話があり、増渕が警察に捕まったと教えてくれた。私はその晩、増渕が逮捕されたことを小平の原告堀の家に知らせにいった。原告堀は、そのことを知らず、私の車で一緒に松本の家に行き、同人を誘って原告堀の家の隣の外国人婚約者キティのところに行った。その家で、原告堀が、増渕逮捕に対する対策を指示した。その内容は、警察が調べに来たら、原告榎下は、以前刑事に調べられたとき増渕という男は知らないと供述したので、それで押し通すこと、自動車は名前を知らない女に偶然に販売した、松本という男は知らない、と言うこと、松本については、増渕が手配されていることは知らない、また、名前も知らない、増渕ということは全然知らないでつきあっていたと言うことなどというものであった。

(2)  右認定事実によれば、原告榎下らがキティ方で口裏合わせをしたことが認められ、このことだけで原告堀に対する土田邸事件の嫌疑を直ちに肯定することはできないものの、原告榎下らが右のような詳細な口裏合わせを行ったことを考えれば、増渕、原告堀、同榎下及び松本が、増渕逮捕にかかる東薬大事件以外の重大な事件に関与し、自動車が重要な意味を有しているのではないかという疑いが認められ、同様に判断した検察官の判断が不合理とまではいえない。

(七)  増渕からの都心下見依頼に関する原告榎下の供述

(1)  <証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年三月二八日の取調べで、昭和四六年四月ころ、増渕から赤軍の理論や爆弾闘争の必要性についての話を聞かされ、その後、昭和四六年五月ころ、増渕から二回にわたって都心方面への運転を頼まれたが、自分は従前増渕から爆弾闘争の必要性についての話を聞かされていたために、都心へ赴くのは爆弾闘争の下見ではないかと察知して断った旨の供述をしたことが認められる。

(2)  右認定事実によれば、増渕が昭和四六年四月及び五月ころに爆弾闘争志向を有していたことのみならず、原告榎下が察する程に爆弾闘争のための下見まで行おうとしていたことが推認され、さらに右供述は、増渕が原告堀、同江口らと共に日石・土田邸事件を敢行したとする増渕自白を裏付けるものであることが認められる。

なお、原告らは、原告榎下の右供述は、以前から都心に行ったことがあるだろうとの執拗な追及、誘導を受け、睡眠不足による疲労のため投げやりな気持ちからなされたものであり、右供述には任意性、信用性がない旨主張するが、本件全証拠をもってしても、これを認めることはできない。

(八)  原告堀に対する荷札渡しなどに関する金本の供述

(1)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 金本は、昭和四八年三月三〇日及び同年四月一日の取調べにおいて、昭和四六年九月三〇日に原告堀に荷札を渡したことがあり、同原告は荷札を受け取るとすぐにテーブルで荷札に何か書き始めた旨の供述をした。

<2> 金本は、昭和四八年四月一日、在宅取調べにおいて、任意出頭し、自ら雑誌「服装」を持参して提出した上で、昭和四六年一一月または一二月初めころ、原告堀に包装紙を渡したり、同人から包装の巧拙を尋ねられたので、服装という雑誌の一二月号の「クリスマスプレゼントの包み方」の記事を見せたことがある旨の供述をした。なお、雑誌「服装」に記載された包装方法は、土田邸事件で使用された爆弾の包装方法と一致した。

(2)  右認定事実によれば、右金本の供述によって、原告堀の土田邸事件に関する嫌疑を直接認めることはできないものの、同供述は、原告堀が土田邸爆弾の包装及び郵送にかかわっている疑いがあることを裏付け、また、土田邸爆弾の郵送担当は原告堀であるとする増渕の供述を裏付ける一つの証拠資料であることが認められ、同様の認定をした検察官の判断が不合理とまではいえない。

なお、原告らは、金本の荷札渡しなどに関する供述は、金本が宛名書きや包装に関与したのではないかとの嫌疑を向けて取り調べたものであり、任意性、信用性がない旨主張し、<証拠略>によれば、金本は、刑事審において、昭和四八年三月二九日に犯人隠避罪で逮捕された際、否認すれば勾留されるのではないかと心配になり、同月三〇日の取調べで、荷札なら原告堀に渡したことがあるかもしれないと想像して供述し、同月三一日釈放後に自宅を探してみると、包装紙がなくなっていたので、原告堀に渡したのではないかという幻覚を生じて供述した旨述べていることが認められるが、同人の刑事審における右供述はにわかに信用しがたく、他に、原告堀及び同江口に対する土田邸事件の公訴提起の段階で、金本の右供述の任意性、信用性を否定すべきほどの事情を認めるに足りる証拠はない。

(九)  宛名書きなどに関する原告堀及び中村(泰)の供述

(1)  原告堀の供述

<1> <証拠略>によれば、原告堀は、昭和四八年三月二八日警察官に対し、同月二九日検察官に対し、それぞれ、昭和四六年一二月の午後一〇時ころ、高橋荘に中村(泰)と金本を連れて行った際、四畳半のコタツの上で女の人が小包にあて名を書いているのを見た、原告前林か金本だったように思う旨供述したことが認められる。

<2> 右供述によっても、増渕及びその交友する女性が土田邸爆弾の郵送準備をしていたことが窺えるとまではいえず、増渕らが土田邸事件を敢行したとする増渕の供述が裏付けられたとも認められないが、右認定事実によれば、原告堀の右供述は、増渕らが土田邸事件に関与しているのではないかとの疑いを生じさせる一つの証拠資料であることが認められる。

原告らは、右供述は、取調官から決めつけの追及がなされてこれに抗しきれず供述をさせられたものであり、任意性、信用性がない旨の主張をするが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

(1)  中村(泰)の供述

<1> <証拠略>によれば、中村(泰)は、昭和四八年四月三日及び同月四日、昭和四六年一〇月八、九日ころから同月一七日ころまでの間に増渕方に増渕、原告前林、同堀、松本及び自分が集まり、各自がメモ用紙に墨筆で宛名書きの練習をした旨の前記第四、一四、3、(六)、(1)、<1>に認定したとおりの内容の供述をしたことが認められる。

<2> 右認定事実によれば、右中村(泰)の供述は、増渕らが土田邸事件を行ったとする増渕の供述を直接裏付けるものとまでは認められないものの、増渕らが右事件に関与したことを推認させる一つの証拠資料であることが認められ、同様の判断に至った検察官の判断が不合理とまではいえない。

(一〇)  増渕方への爆弾運搬に関する原告堀の供述

(1)  <証拠略>によれば、原告堀は、昭和四八年三月二六日警察官に対し、同月二九日検察官に対し、それぞれ、自己が日石・土田邸事件に関与したことは否定しつつ、昭和四六年秋、増渕と原告堀の両名が、白山自動車から高橋荘へ行った際、増渕が爆弾らしき物を持っていた旨を供述し、その要旨は次のとおりであったことが認められる。

昭和四六年秋の土曜日の午後二時三〇分ころ、増渕と白山自動車へ行き、近くの喫茶店に入ったが、原告江口が来るから席をはずせと言われ、白山自動車で待っていると、午後五時ころ、増渕が手提袋を持って原告江口と歩いてきた。

その後、増渕をカローラに乗せて高橋荘に向かったが、途中増渕は、「爆発するから気をつけてていねいに走れよ。」と言ったので、増渕が車に積み込んだ荷物が爆弾か作りかけの爆発物であることを知った。土田邸か日石の爆弾事件に時期的に関連していたと思う。

(2)  右認定事実によれば、原告堀の右供述は、原告江口が爆弾の製造関係を担当し、原告堀が爆弾の搬送関係を担当したとする昭和四八年三月一三日以来の増渕の前記自白と符合するものであることが認められ、原告堀の右供述が増渕自白の信用性を担保するものとして重要な意義を有するとした検察官の判断が不合理とまではいえない。

原告らは、原告堀の右供述は、警察官の決めつけの追及を受けた結果、「幻覚というか思いこみとかそういうもので」供述させられたものであり、任意性、信用性がない旨主張するが、本件全証拠によっても、これを認めることはできない。

(一一)  金本への小包預けと郵送依頼に関する原告堀の供述

(1)  <証拠略>によれば、原告堀は、昭和四八年三月二七日及び同月二八日警察官に対し、同月二九日及び同月三一日検察官に対し、それぞれ、昭和四六年一二月ころ、増渕から小包郵便物の郵送を頼まれ、金本に「都内の郵便局から出して下さいね。」と小包の発送を頼んだ記憶があり、今考えると、その小包が土田邸の爆弾ではないかと思う旨供述したことが認められる。

(2)  右認定事実によれば、原告堀の右供述は、原告堀を郵送担当者として土田邸事件を敢行したとする増渕の自白を直接に裏付けるものとまでは認められないものの、同自白を補強するものであるとは認められ、同様の判断に至った検察官の判断が不合理とまではいえない。

原告らは、原告堀が金本に小包の郵送を依頼した旨の右供述は、小包の一般的な話から具体的に爆弾事件に結びつける取調べが行われてそのように思いこんでしまって供述させられたものである旨主張し、<証拠略>によれば、原告堀は刑事審において、右主張にそう供述をしていることが認められるが、捜査官に対する右供述は、<証拠略>により認められる、同原告の取調べにあたった警察官である岩間拓生の刑事審での反対趣旨の供述に照らして、にわかに採用できない。他に原告らの右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

(一二)  土田邸爆弾の保管に関する中村(泰)の供述及び土田邸爆弾の寄託とその返還に関する原告堀の供述

(1)  中村(泰)の供述

<1> <証拠略>によれば、中村(泰)は、昭和四八年四月二日及び同月三日警察官に対し、同月三日検察官に対し、それぞれ、土田邸爆弾の保管に関し、要旨次のとおりの供述をしたことが認められる。

昭和四六年一二月七日か同月一一日午後八時ころ、八王子保健所で宿直をしていると、増渕と原告堀が尋ねてきて「貴重品だから大事にしてくれ。」と言って、原告堀が紙に包んだ荷物を渡したので、私は自分のロッカーにしまった。

同年一二月一一日か同月一五日の宿直中の午後七時か八時ころ、原告堀が八王子保健所に来て「例の荷物を出してくれ。」と言うので、私はロッカーから荷物を出して原告堀に返した。このとき、爆弾をやるんだったらどんなところでやるのかと聞くと、原告堀は「警察なんかでもしようがない。結局、下っぱをやってもしようがないんだよ。」と言うので、上の方をやるのかと聞くと、「そうだよ。」と言っていた。

<2> 右認定事実によれば、中村(泰)の右供述は、自ら製造した雷管を原告江口に渡して爆弾製造を依頼した後、同女から爆弾を受け取りその日の内に原告堀に同爆弾を渡したとする増渕の供述とは食い違っているものの、原告堀を郵送担当者として土田邸事件を敢行したとする増渕の供述の基本的部分とは一致し、この増渕の供述を補強するものと認めることができ、同様の認定をした検察官の判断が不合理とまではいえない。

なお、前記各証拠によれば、中村(泰)は、土田邸爆弾を保管した期間につき、当初昭和四八年四月二日には、「昭和四六年一二月一一日に預かり、同月一五日に返した」と供述していたが、昭和四八年四月三日の神崎検事の取調べでは、「昭和四六年一二月七日か一一日に預かり、同月一一日か一五日に返した。」とし、同じ日に引き続き行われた古賀警部の取調べでは、「同年一二月七日に預かり、同月一五日に返した。」と特定したことが認められ、この点で、供述に変遷が認められる。しかしながら、中村(泰)は、預かった日時、場所について、初めから「自分の宿直の日」「八王子保健所」とし、かつ、相手方として「預かった時は増渕と堀、返したときは堀一人」と一貫して述べていること、中村(泰)と原告堀の会話内容も具体的かつ詳細であることなどを考えれば、中村(泰)の右供述の信用性が、公訴提起段階において否定されるとまでは認められない。

(2)  原告堀の供述

<1> <証拠略>によれば、原告堀は、昭和四八年四月四日、警察官及び検察官に対し、それぞれ、昭和四六年一二月、聖蹟桜ヶ丘の喫茶店で増渕と会い、爆弾と思われる小包を載せて八王子保健所に行き、宿直の中村(泰)に持って行った小包を渡したこと、同人はそれをロッカーに入れたこと、その数日後、増渕にいわれて八王子保健所に行き、中村(泰)から小包を受け取って増渕方に届けた旨の供述をしたことが認められる。

<2> 右認定事実によれば、原告堀の右供述は、増渕及び原告堀の依頼による土田邸爆弾の保管に関する中村(泰)の供述と同様、自ら製造した雷管を原告江口に渡して爆弾製造を依頼した後、同女から爆弾を受け取りその日の内に原告堀に同爆弾を渡したと供述する増渕の供述とは食い違っているものの、前記の中村(泰)の供述と一致するものであり、また、原告堀の右供述は、中村(泰)に爆弾と思われる小包を届けに行った際、八王子保健所の近くの工事現場で怒鳴られた旨供述するなど具体的なものであって、なおかつ、原告堀を郵送担当者として土田邸事件を敢行したとする増渕の自白の基本的部分とは一致していることが認められる。これらに照らすと、原告堀の右供述は、増渕の前記自白を補強するものと認められ、同様の認定をした検察官の判断が不合理とはいえない。

なお、原告らは、原告堀の右供述は、先行する中村(泰)の供述を前提とした誘導、押付けがなされ、原告堀が断片的記憶を供述したところ、取調官によって右記憶がつなぎ合わせられて供述させられたものであり、任意性、信用性がない旨主張するが、本件全証拠によっても、これを認めることはできない。

(一三)  犯行後の増渕の言動に関する長倉の供述

(1)  <証拠略>によれば、長倉は、昭和四八年三月三日犯人隠避罪により逮捕されたが、同月一七日検察官に対し、昭和四七年一月二三日ころ、増渕と会った際の状況について要旨次のとおり供述したことが認められる。

私は、千代田区神田神保町一―三九にある有精堂出版株式会社に勤務しているが、同社の斜め前に南神保町郵便局がある。

昭和四六年一二月初めころの午後二時ころ、勤務先の有精堂に増渕から電話があり、同社の近くに来たので電話をしたということであった。

昭和四七年一月二三日ころ、増渕が百武荘の私の部屋に来た際、私が増渕に「土田邸事件の爆弾小包を出したのは俺のところの会社の前の南神保町郵便局なんだってよ。」と言うと、増渕は「うん、そうなんだよ。知らなかったのか。」と言い、当然知っているという言い方であった。

私は、増渕に「俺は郵便局にアルバイトに行ったことがあるが、小包等の扱いは乱暴だよ。あんな取扱いでよく途中で爆発しなかったもんだね。」と言うと、増渕は、「いや精巧にできているからね。」と言い、爆弾の構造を知っているような言い方だった。それ以上に土田邸事件のことを話そうとしても、増渕はそれを避けているという態度であった。

(2)  右認定事実によれば、長倉の右供述によって、増渕が土田邸爆弾の製造及び差出しに関与した疑いのあることが推認され、右供述は前記増渕の土田邸事件に関する自白を裏付けるものであると認められ、同様の判断に至った検察官の判断が不合理であるとは認められない。

(一四)  原告堀の土田邸事件告白に関する原告榎下の供述

(1)  <証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年三月三〇日及び同月三一日警察官に対し、同月三一日検察官に対し、それぞれ、昭和四七年一〇月ころ、キティー方において原告堀から土田邸事件(供述調書上は目白事件)の告白を受けた旨の供述をしたこと、その要旨は、昭和四七年一〇月一五日ころの夜、原告堀の婚約者であるキティーが住んでいた家に行くと、原告堀が沈み込んでいるので、どうしたんだと聞くと、「実は目白の事件は俺が手伝って増渕がやったんだ。」と打ち明けられたので、びっくりして「本当か。」と聞き返すと、「本当だ。」と言ったというものであったことがそれぞれ認められる。

(2)  右認定事実によれば、原告榎下の右供述によって、増渕及び原告堀が土田邸事件に深く関与していることが認められ、また、右供述は前記増渕の自白を裏付けるものであることが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理とまでは認められない。

これに対し、原告らは、原告堀や同榎下が土田邸事件の共犯者であるとすれば、昭和四七年一〇月になって、原告堀が、同榎下に対し、「土田邸事件を堀が手伝い、増渕がやった。」と告白するはずはなく、右供述は虚偽供述であり信用性がない旨主張する。しかしながら、前記第四、九、3及び同4に認定した各事実並びに<証拠略>によれば、原告堀及び同江口が土田邸事件で公訴提起された昭和四八年四月四日の段階までは、原告榎下は、日石・土田邸事件への関与を否定しており、両事件で公訴提起もされておらず、嫌疑をかけられていなかったことが認められ、これに照らすと、右公訴提起において原告榎下の右供述の信用性がなかったとは認められない。

(一五)  大晦日口止めに関する原告榎下及び坂本の供述

(1)  坂本の供述

<1> <証拠略>によれば、坂本は、昭和四八年三月二九日、同年四月二日及び同月三日警察官に対し、同月一日及び同月三日検察官に対し、それぞれ、大晦日口止めの事実、すなわち、昭和四七年一二月三一日、原告堀は、日大二高において、松村、坂本、原告榎下に対し、自己や増渕が土田邸事件に関与したことは絶対に口外しないことを約束させ、かつ、その旨の誓約書(いわゆる連判状)に署名させたことなど、要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四七年一二月三一日、スキーに行くため日大二高に集まった際、職員室で、原告堀がナイフのようなものを手に持ち、松村と何かやりとりをしていた。松村は「痛いからそんなことやめようよ。」と言い、原告堀は「おまえが一番口が軽いんだ。」と言っていた。その際、原告堀からワラ半紙に名前を書けと言われて書き、スタンプインキを指につけて押した記憶がある。「目白爆弾は彼らがやったんだ。我々も危ないんだから黙っていてくれ。」、職員室のはす向かいの部屋で、原告堀は私と原告榎下に、「俺たちは目白の事件に関係しているんだ。今、父ちゃんが調べられているが、事件のことをしゃべったらしい。我々は絶対にこのことを黙っていよう。絶対にしゃべらないでくれ。」と口止めした。昭和四五年ころから、原告堀や同榎下が何かどえらいことを計画しているような話し振りになってきた。それが爆弾闘争のことだとははっきり言わなかったが、原告榎下が「奴らは今、大変なことをやろうとしている。」と話してくれたことがある。話の端々から爆弾のことではないかと薄々感じるようになった。

昭和四七年一二月三一日午後六時ころ、日大二高からの帰り道、中村(隆)方の近くのスナックで、中村(隆)、原告榎下、私の三人が話し合った時に、「目白の爆弾は父ちゃんがやり、堀もやっている。このことは俺達も知っているので、署名して誰にも言わないという約束をしてきた。」と中村(隆)に話したが、その際、中村(隆)、原告榎下は車を使ってどこかへ行ったような話をしていた。

<2> 右認定事実によれば、坂本の右供述からは、増渕及び原告堀が土田邸事件(右供述中で、目白の事件とされているもの)に深く関与していることが推認され、また、右供述は、増渕の土田邸事件に関する自白を裏付けるものであることが認められ、同様の判断に至った検察官の判断が不合理とはいえない。

なお、坂本の右供述中の原告堀の発言は、<証拠略>から認められる客観的事実、すなわち、昭和四七年一二月三一日の段階において、増渕に対して土田邸事件の取調べはなされておらず、また、当時増渕は身柄を拘束されていなかったなどの事実と相違するものであるが、この点を考慮に入れても、増渕が昭和四七年一〇月二五日から同年一二月四日まで法政大学図書窃盗事件などで逮捕・勾留されて取調べを受けていたことなどに照らすと、公訴提起の段階において、大晦日口止めに関する坂本の右供述の信用性が否定されるとは認められない。

(2)  原告榎下の供述

<1> <証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年三月三〇日及び同月三一日警察官に対し、同月三一日検察官に対し、それぞれ、大晦日口止めに関し、要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四七年一二月三一日の夕方、日大二高の職員室で、松村、坂本、私の三人が、原告堀から「この前話した目白事件のことだけど、俺達がやったということだけは絶対に黙っていろ。目白事件のことは増渕は絶対に話さないだろうから俺達さえ言わなければ判らない。絶対に言わないと約束してくれ。」と真剣に口止めされ、誓約書の意味で全員罫紙に名前を連記させられた。

<2> 右認定事実によれば、原告榎下の右供述からは、原告堀が土田邸事件に深く関与していたことが推認され、また、右供述は増渕の土田邸事件に関する自白を裏付けるものであることが認められ、同様の認定をした検察官の判断が不合理とまではいえない。

なお、前記各証拠によれば、原告榎下の右供述中には、校庭でマイクロバスを調整した際、同校の大塚教諭がその模様を見ていたこと、日大二高職員室の電話を使って原告榎下が中村(隆)に電話をかけたこと、連判状の作成に使ったのは縦線の罫紙で半紙の半分位の大きさであったことなどの点が初めて供述されており、その反面、前記大晦日口止めに関する坂本の供述に現れている、原告堀ら四名がそば屋で食事をしたこど、原告堀が松村に切り出しナイフを突き付け、脅迫したことなどがいずれも触れられていないという相違が認められるが、こうした点を考慮しても、原告榎下の右供述の信用性が、公訴提起段階において否定されるとまでは認められない。

(一六)  プランタン会談に関する佐古の供述

(1)  <証拠略>によれば、佐古は、昭和四八年一月一九日以降、いわゆるプランタン会談に関し、前記第四、一〇、3、(二)、(1)に認定したとおりの供述をしたことが認められる。

(2)  判断

右認定事実によれば、佐古の右供述により、増渕、原告江口及び同堀が日石・土田邸事件に関与した疑いがあることが認められる。

なお、佐古の右プランタン会談供述の信用性等については、前記第四、一一、3、(二)、(2)に説示したとおりであり、右公訴提起の段階で信用性がないとまでは認められない。

4 判断

以上の認定、判断によれば、原告堀及び同江口に対する土田邸事件の公訴提起時において、検察官が現に収集した証拠資料を合理的に総合勘案すれば、右事件に関して、同原告らに有罪と認められる嫌疑があったことが認められる。本件全証拠を検討してみても、検察官が右嫌疑を認定する上において、合理的根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて右公訴を提起したと認め得るような事情を認めることはできない。

したがって、検察官の右公訴提起は違法とはいえず、この点の原告らの主張は理由がない。

一六 原告前林及び同榎下の土田邸事件の公訴提起

1 公訴提起の違法性判断基準

前記のように、刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の提起が違法となることはなく、公訴の提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の提起は違法性を欠くものと解するのが相当である。

そこで、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起時において、検察官が現に収集した証拠資料及び通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、右原告らにつき、右事件について有罪と認められる嫌疑が存在したかを検討する。

2 土田邸事件の公訴事実

<証拠略>によれば、検察官は、昭和四八年五月二日、原告前林及び同榎下に対し土田邸事件について公訴を提起したが、右両名に対する各同日付起訴状記載の公訴事実は、いずれも、前記の増渕、原告堀及び同江口に対する各同年四月四日付起訴状記載の公訴事実と同一であったことが認められる。

3 検察官が現に収集していた証拠資料

(一)  証拠資料の存在

前記認定事実並びに<証拠略>によれば、検察官は、原告前林及び同榎下を土田邸事件の正犯として公訴提起した昭和四八年五月二日当時、増渕、原告堀及び同江口を右事件で起訴した同年四月四日当時にすでに収集していた前記の各証拠資料のほかに、さらに次の各証拠を現に収集しており、これらについて、いずれも任意性に疑いのない供述であるだけでなく、その供述獲得のための捜査、取調べに違法がなく、いわゆる違法収集証拠でないから、いずれも、証拠能力があり、その基本的部分については信用性があると判断したものであることが認められる。

<1>  日石総括に関する原告榎下、松村、原告堀、中村(隆)、増渕の供述

<2>  土田二高謀議に関する原告榎下、松村、坂本、増渕の供述

<3>  下見に関する松本、原告榎下、増渕の供述

<4>  土田邸爆弾の製造等に関する増渕、中村(隆)、金本、原告榎下、同堀、松本、坂本の供述

<5>  中村(隆)に対する土田邸爆弾の保管依頼に関する中村(隆)、原告堀、増渕の供述及び原告榎下のメモ

<6>  土田邸爆弾の松本保管の依頼に関する松本、増渕の供述及び原告榎下のメモ

<7>  土田邸爆弾の搬送及び郵便局への差出しに関する原告榎下、増渕、松本の供述

<8>  土田邸事件当日の総括に関する原告榎下、増渕の供述

そして、前記各証拠によれば、検察官は、右各証拠を中心とするそれまでの捜査で得られた多数の関係証拠を総合判断することにより、原告前林及び同榎下は、増渕を中心として、昭和四六年一〇月二三日ころ、日石事件についての総括を行い、今後も更に爆弾闘争を継続する話をし、同年一一月一三日ころ、土田國保方に小包爆弾を送付することを決め、同月下旬から同年一二月一〇日ころにかけて下見をする一方で、同月八日ころに土田邸爆弾を製造し、同月一一日ころにこれを中村(泰)に預け、同月一五日に返還を受けてさらに松本に預け、同月一七日朝、増渕、原告前林、松本の三名が南神保町郵便局に赴き、同局から原告前林が土田邸爆弾を差し出した事実等を認定し、原告前林及び同榎下について、いずれも土田邸事件につき、殺人、同未遂、爆発物取締罰則違反の罪で有罪判決を得るに足りる嫌疑があると判断したものであることが認められる。

そこで、右公訴提起時において、検察官が現に収集していた証拠資料である右各供述証拠等について、原告前林及び同榎下の右嫌疑を肯定するに足り得る証拠であったかを検討する。

(二)  日石総括

前記認定事実並びに<証拠略>によれば、検察官は、原告榎下、松村、原告堀、中村(隆)及び増渕の供述により、増渕らが日石事件の次の爆弾闘争に向けての謀議である日石総括、すなわち、日石事件後間もない昭和四六年一〇月二三日ころの松村の宿直の夜、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)及び松村が、杉並区天沼一丁目所在の日大二高に集合し、日石事件について反省、検討を加えて、いわゆる総括を行い、増渕が「もっと精巧な爆弾を造り、権力機関へ郵送し、闘争を継続しよう。」と提言して今後の爆弾闘争につき賛同を求めたところ、他の者もこれに同調したとの事実を認定できると判断したことが認められる。

そこで、日石総括に関する右各供述につき、その信用性等を検討する。

(1)  原告榎下の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、日石総括に関し、要旨次のとおり供述した。

日石事件直後の松村が宿直の夜、日大二高の職員室に増渕、原告堀、松村、原告江口、私の五人が集まって総括をした。増渕は「失敗の原因は爆弾のトリックだ。もっと精巧なものを作り、あらためて権力に郵送する準備をする。任務分担はこのままでいこう。」と指示した。

(イ) 原告榎下は、昭和四八年四月一二日及び同月一三日、検察官に対し、日石総括に関し、前記第四、一三、3、(二)、(5)、<3>に認定したとおりの要旨の供述をした。

<2> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同江口、同榎下及び松村が日石事件以後も爆弾闘争志向を有していたことが認められる。

原告らは、多数の虚偽供述を含む原告榎下の供述の中で、何故右日石総括に関する供述が信用できるのか理解できない旨主張するが、原告榎下の右供述内容の具体性等を考えれば、原告前林及び同榎下に対する公訴提起の段階において、原告榎下の供述が全面的に信用性のないものであるとまでは認められない。

(2)  松村の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 松村は、昭和四八年四月九日、警察官に対し、日石総括に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月二三日の宿直の夜、増倒、原告堀、同江口、同榎下、私の五人が日大二高の職員室に集まり、増渕が「日石は失敗した。爆弾のトリック部分が失敗だった。完全な爆弾を作って権力に郵送する。」などと総括し、原告堀も、失敗にこりず大いにやろうと闘争心をあおり立てた。

(イ) 松村は、昭和四八年四月一〇日、同月一一日、同月一二日、警察官に対し、それぞれ日石総括に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月二三日ころ、日大二高に増渕、原告堀、同榎下、同江口、中村(隆)、私が集まった際、増渕が「日石郵便局での爆弾事件は俺達がやったんだが、あれは失敗だった。失敗の原因はスイッチにあり、包装の仕方もまずい。」と話していた。増渕と原告江口は、日石爆弾を郵便局に差し出した者についてはアリバイ工作をやってあるので大丈夫だと言い、さらに「改良した新しいビックリ爆弾を作る。そしてこの闘争を続けで行く。皆、協力してくれ。任務は今までどおりだが、今後は車を持っている松本を入れ、運転をしてもらう。」と話した。

さらに、この日石事件の総括の席上、増渕か原告堀のどちらかが「日石事件で小包にした爆弾を前林と江口が郵便局に届けた後、その日のアリバイ工作をしたのは良かった。これからも二人に小包爆弾を届けてもらうが、同じようにアリバイ工作をする。」と話していた。

<2> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)及び松村が日石事件以後も爆弾闘争志向を有していたことが認められる。

原告らは、松村が昭和四八年四月九日に日石総括に関する供述をしたのが同人の母親との接見の後であったことをとらえ、母親思いの松村に対して母親に会わせて昼食をともにさせるという利益供与をし自白に追い込んだ旨主張する。

この点、<証拠略>によれば、松村は、右同日午後零時二〇分から午後一時一五分まで同人の母親と接見していた事実が認められるが、このことを考慮に入れても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、松村の右供述の任意性及び信用性が否定されるとは認められない。

(4)  原告堀の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

原告堀は、昭和四八年四月一四日及び同月一五日警察官に対し、日石総括についての概況を説明し、その後、同月二四日警察官に対し、同月二七日検察官に対し、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月下旬の午後八時三〇分ころから一一時ころまで、日大二高に増渕、原告榎下、同江口、中村(隆)、松村、私の六人が集まり、日石事件の反省検討と土田邸事件に向けての話し合いをした。話の内容は、「爆弾が失敗したのはスイッチが不安定であったためで、入れ物は金属製のほうがいい。」ということで、終わりに、増渕が「失敗を恐れず爆弾闘争を続けよう。」と言い、役割については前と同じで、増渕と原告江口は爆弾作り、私は連絡役と資料収集、原告榎下は化学方面担当、中村(隆)は電気とか部品作り、松村は爆弾の化学に関することとすることを確認したように思う。

<2> 右認定事実によれば、増渕、原告榎下、同江口、同堀、中村(隆)及び松村が日石事件以後も爆弾闘争志向を有していたことが認められる。

なお、原告堀の右供述は、前記原告榎下及び松村等の供述と対比すると、参加者、役割及び会話内容等で相違点があるが、これらの点を考えても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、原告堀の右供述の信用性が否定されるとは認められない。

(4)  その他

<1> 中村(隆)の供述

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 中村(隆)は、昭和四八年四月一一日、警察官に対し、日石総括に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月二二、二三日ころ、日大二高に増渕、原告堀、同江口、松村、原告榎下、私が集まり、日石事件の総括をした。話の内容は、「スイッチが悪かったので改良し、次の闘争を続ける。任務は従前どおり。」というものだった。

増渕からし私が渡したマイクロスイッチはだめだ、秋葉原で買ってこいと言われたので、同年一一月初めころ、原告榎下と一緒に秋葉原へ行き、マイクロスイッチ二個を購入し、会社にあったバネ付きマイクロスイッチ一個と一緒に増渕にそれを渡した。バネ付きマイクロスイッチは大きすぎるのでその場で返され、増渕は、「これを使ってみよう。」と言って秋葉原で買ってきた二個を受け取った。

(イ) 中村(隆)は、昭和四八年四月二四日検察官に対し、同月二八日警察官に対し、それぞれ日石総括に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月二三日、日大二高で日石事件の総括をした。その際、増渕は、私の教えたスイッチを作ろうとしたができなかったため、銅板の間にマッチ棒か、つま楊枝のようなものを何本か入れゴムでとめた洗濯ばさみ式のスイッチを作ったと言っていたが、それではちょっとした振動で絶縁体が外れるのでスイッチを改良することになり、私は、増渕からスイッチの研究をするように言われた。

同月三〇日か三一日ころ、日大二高で第二回目の総括があり、その席で私から増渕にマイクロスイッチの話をした。

<2> 増渕の供述

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年四月二四日ないし同月二六日、検察官に対し、日石総括に関して要旨次のとおり供述した事実が認められる。

昭和四六年一〇月下旬ころの夜、日大二高に私、原告堀、同江口、同榎下、中村(隆)、松村が集まり、日石事件の総括を行った。私は、トリック装置と包装が不十分であると総括し、「完全なトリック装置をつけた小包爆弾を権力機関に郵送したいから協力してもらいたい。」と話すと、全員が賛成し、闘争を継続することになった。

(5)  判断

右の認定、判断によれば、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、原告榎下が日石事件の次の爆弾闘争に向けて謀議(日石総括)を行った疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理とは認められない。

(三)  土田二高謀議

<証拠略>によれば、検察官は、原告榎下らの供述により、土田二高謀議、すなわち、昭和四六年一一月一三日ころの松村の宿直の夜、増渕、原告堀、同江口、同榎下、同前林及び中村(隆)らは、日大二高に集まり、これに松村も加わって、今後の爆弾闘争について謀議を行い、増渕は、昭和四五年一二月一八日発生の上赤塚交番事件につき、警視庁警務部長土田國保が警察官の行為は正当行為である旨の発言をしたことに対する報復として、小包爆弾の送り先を同人とすることなどを提唱し、その他の者もこれに賛成したとの謀議があったものと判断したことが認められる。

そこで、土田二高謀議に関する供述の信用性を検討する。

(1)  原告榎下の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年四月一三日、警察官及び検察官に対し、土田二高謀議に関して前記第四、一三、3、(二)、(5)、<4>に認定したとおりの要旨の供述をした。

(イ) 原告榎下は、昭和四八年四月一五日、警察官に対し、土田二高謀議に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一一月二四日ころの夜、日大二高職員室に、増渕、原告江口、同堀、松村、松本、中村(隆)、私の七人が集まり、二回目の爆弾闘争を行う相談をした。増渕は「二回目に作るビックリ爆弾の送り先は、堀の調査から、警視庁の土田警務部長を狙うことに決まった。土田警務部長は、上赤塚交番で警察官が革命の闘士を射殺したことを正当化した発言をマスコミに発表しているからだ。郵便局は神田あたりを使う予定でいる。それは差出人にする久保卓也の住所が九段になっているからだ。」などと説明した。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月一八日、警察官に対し、土田二高謀議に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一一月二四日ころ、日大二高に増渕、原告堀、同江口、松村、松本、中村(隆)、坂本、私の八人が集まり爆弾闘争の相談をした際、増渕は、私が従前供述したことのほか、全員に「爆弾は二個作り、送り先は防衛庁長官と土田警務部長とする。」、「土田邸へ送る分については、郵便局は神田あたりを使う予定でいる。それは差出人にする久保卓也という人物の住所が九段になっているからだ。」と言い、原告江口に対して「爆発があの程度じゃ人は殺せないぞ。雷管も作らなければならないが、今度はその回りを硝化綿で包んでみたらどうだろう。」と言っていた。

<2> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同江口、同榎下、松村、松本、中村(隆)及び坂本が、土田二高謀議に関与したとの疑いが認められる。

なお、原告榎下の右供述は、土田二高謀議の参加者の点で変遷が認められ、また、謀議の日時及び参加者の点で、後記の他の共犯者の供述と相違が認められるものの、その供述の具体性、詳細さなどを考えれば、原告前林及び同榎下の公訴提起段階で、原告榎下の右供述の信用性が否定されるとは認められない。

(2)  松村の供述

<1> <証拠略>によれば、松村は、昭和四八年四月二三日警察官に対し、同月二四日及び同年五月二日検察官に対し、それぞれ土田二高謀議に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一一月一三日に、増渕、原告堀、同江口、同前林、同榎下及び中村(隆)が日大二高に集って、爆弾の相談をした。松本と坂本に関しては記憶がはっきりしない。昭和四六年度の日大二高の当直日誌の一一月一三日欄に「八名」の記載があることから、土田邸事件の謀議をしたのは一一月一三日に間違いないと思う。増渕から、日石事件の失敗の原因は電気系統やスイッチにあるので、新しいものを考えて改良したビックリ爆弾を増渕のアパートで作り、防衛庁首脳部や土田警務部長に郵送するとの説明があり、その後任務分担が指示された。

<2> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同江口、同前林、同榎下、中村(隆)、松本、松村及び坂本が、土田二高謀議に関与したとの疑いが認められる。

(3)  坂本の供述

<1> <証拠略>によれば、坂本は、昭和四八年四月二二日及び同月二六日、警察官に対し(ただし、同月二二日はメモを作成したのみ。)、同月二三日、検察官に対し、要旨次のとおり供述したことが認められる。

昭和四六年一一月二六日ころの夜、日大二高の職員室で増渕達と爆弾を送る相談をした。職員室には、私の他に増渕、原告堀、同榎下、中村(隆)及び松村がいた。松本もいたかもしれない。女の人がいたかははっきりしない。私は、増渕から日石事件のときと同じように爆弾を運ぶため運転をするように頼まれ、これを承諾した。

<2> 右認定事実によれば、増渕、原告堀、同榎下、中村(隆)、松本及び松村が、土田二高謀議に関与したとの疑いが認められる。

なお、右各証拠によれば、坂本の右供述は、土田二高謀議の日付及び参加者の点で変遷ないし前記の他の共犯者とされた者の供述との相違が認められるが、坂本の右供述の具体性等を考えれば、原告前林及び同榎下の公訴提起段階で、右供述の信用性が否定されるとは認められない。

(4)  増渕の供述

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年四月二四日、検察官に対し、土田二高謀議に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一一月下旬ころの夜、日大二高に原告堀、同江口、同榎下、同前林、中村(隆)及び松村を集めた。私は、警視庁幹部の土田邸にトリック装置付爆弾を送るため協力を依頼したら、全員協力を約束してくれた。話し合いの結果、マイクロスイッチを使うことになった。私は、原告堀、同榎下及び中村(隆)に、土田邸や南神保町郵便局付近の下見を依頼し、同人らはこれを了解してくれた。

(5)  土田二高謀議に対する判断

以上の認定、判断によれば、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、原告榎下及び同前林が土田二高謀議を行った疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理とは認められない。

(四)  下見

前記認定事実、<証拠略>によれば、検察官は、増渕、原告榎下及び松本の各供述により、増渕、原告堀、同前林らは、昭和四六年一一月下旬から同年一二月一〇日ころにかけて、数回にわたり、松本又は原告榎下の運転する自動車を利用して、土田邸爆弾の送り先である豊島区<以下略>土田國保方付近及び差出郵便局である千代田区神田神保町一丁目所在の南神保町郵便局付近を下見したことが認定できると判断したことが認められる。

そこで、下見の点について右各供述の信用性を検討する。

(1)  松本の供述

<証拠略>によれば、次の事実がそれぞれ認められる。

<1> 松本は、昭和四八年四月一一日警察官に対し、同月一二日検察官に対し、土田邸事件に関する下見について、それぞれ要旨次のとおり供述した。

増渕と一緒に南神保町郵便局を二回下見した。一回目は、昭和四六年一一月下旬の正午過ぎのことで、給田の増渕のアパートから私運転のローレルに増渕を乗せ、御茶ノ水駅、駿河台下交差点、郵便局のコースで下見した。増渕は、出発と同時に時計を見ながら途中の所要時間を手帳に記入していた。二回目は、同年一二月上旬、私運転の車に増渕を乗せ、増渕のアパートから同じコースで南神保町郵便局まで行った。

<2> 松本は、昭和四八年四月一四日、警察官に対し、土田邸事件に関する下見について、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一二月ころに行った南神保町郵便局下見の二日後の午後九時五〇分ころから翌日の午前一時ころまでの間、増渕と原告堀をローレルに乗せて雑司が谷へ行った。これは、郵便局を下見した後、高橋荘で増渕から「あさって雑司が谷に行くから、夜来てくれ。」と指示され、当日、増渕方へ行くと、増渕、原告堀、同前林がおり、増渕が地図を広げて雑司が谷二丁目付近を指し、同人から「この辺へ行ってくれ。」と言われたためである。原告堀は地図と懐中電灯を持っていた。目白駅を過ぎ、護国寺方面へ行く通りに出て、雑司が谷二丁目付近の表示板付近で車を停めたが、増渕と原告堀は車から降りて下見に行った。三〇分くらいして二人が帰ってきたが、原告堀は「なかなか分からなかったが、やっと見つけた。」と言っていた。

<3> 松本は、昭和四八年四月一五日、警察官に対し、土田邸事件に関する下見について、昭和四六年一一月下旬から同年一二月上旬にかけ、駿河台下交差点付近の郵便局や雑司が谷周辺を下見したことを供述した。

<4> 右認定事実によれば、松本、増渕及び原告堀が、南神保町郵便局や雑司が谷等の下見をしていた疑いが認められる。

原告らは、松本が自白と否認を繰り返していることから、その自白は信用できない旨主張し、前記各証拠によれば、同人が自白と否認を繰り返していたことが認められるものの、同人の供述の具体性等を考えれば、原告前林及び同榎下の公訴提起の段階で、松本の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  原告榎下の供述

<証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、土田邸事件に関する下見について、要旨次のとおり供述し、以後も同様の供述を維持した事実がそれぞれ認められる。

昭和四六年一二月一日午後九時ころ、白山自動車に増渕、原告前林、同堀、私が集まり、皆で私が運転するスバルサンバーで神保町交差点近くの郵便局を下見した。その途中の車中で、増渕から、ビックリ爆弾は土田警務部長の自宅に送ると聞かされた。同月一〇日ころの午後八時過ぎころにも、白山自動車に増渕、原告堀、同前林の三人が来て、私の運転する車で再度神保町の郵便局を下見した。その際、原告前林が小包を郵便局に差し出す任務であることを知った。

(3)  増渕の供述

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 増渕は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、土田邸事件に関する下見について、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一〇月下旬か一一月初めころ、原告堀から「防衛庁の幹部の家が神田付近なので、神田付近の郵便局を当たっておく必要があるのではないか。」と言われ、長倉からそれとなく神保町付近の郵便局を聞き出した。しばらくしてから、原告榎下に「神田方面に行ってくれ。」と頼み、同人の車で神保町付近をレポし、神保町の郵便局を確認してきた。

<2> 増渕は、昭和四八年四月二八日、検察官に対し、昭和四六年一二月初めころの夜、松本に頼んで同人が運転する車で雑司が谷の土田邸付近を下見した旨供述した。

(4)  判断

右認定、判断によれば、増渕、原告前林、同堀、同榎下及び松本が、土田邸事件に関し、前記のような下見を行っていた疑いが認められる。

なお、右各供述には、土田邸事件のように、小包に偽装した爆弾を郵送して送り先で爆発させることを目的とする場合、その送り先や差出郵便局の付近の下見をすることは、必ずしも不可欠のこととはいい難いという疑問点があり、また、下見の回数、日時及び参加者等の点で各供述者間に不一致が認められ、前記各供述が何ら疑問を残さないほどの高度の信用性を有するとまでは認められないが、右各供述の具体性及び道路状況等客観的状況との一致等を考えれば、原告前林及び同榎下の公訴提起段階で、前記各供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(五)  土田邸爆弾の製造

前記認定事実、<証拠略>によれば、検察官は、増渕、原告堀、中村(隆)、金本、原告榎下、松本、坂本らの供述等から、昭和四六年一二月八日ころ、高橋荘の増渕方居室において、増渕、原告前林、同堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本、松本、坂本らが集まり、それぞれ分担を決めた上、土田邸へ送るトリック式小包爆弾一個を製造した事実が認定できると判断したことが認められる。

そこで、右爆弾製造についての各供述の信用性について判断する。

(1)  増渕の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

増渕は、土田邸爆弾の製造に関し、前記第四、一〇、3、(二)、(4)、<2>、<3>及び第四、一二、3、(二)、(3)、<1>ないし<3>に認定したとおりの各供述をしたほか、昭和四八年四月二四日、従前の供述を変更し、検察官に対し、土田邸爆弾製造に関して、昭和四六年一二月上旬、高橋荘で土田邸に送る爆弾を製造したこと、雷管にはアルミホイルを用いたことを供述し、以後はこの供述を維持した。同供述の要旨は次のとおりであった。

昭和四六年一二月上旬ころの夜、高橋荘の私の部屋に私、原告堀、同江口、同榎下、同前林、中村(隆)の六名が集まり、土田邸爆弾を作った。

トリック装置には、中村(隆)に買ってこさせたマイクロスイッチを使った。爆薬を入れる容器は、原告榎下に持ってこさせたドカ弁当箱を使い、爆薬の混合と充てんは原告江口がやった。結線は包装段階で行うため、容器の底に穴を開けて線を出しておいた。雷管は、アルミホイルを円筒にしたものを使った。

<2> 右認定事実によれば、増渕の供述は多くの点で変遷しており、起爆装置である手製雷管を自ら製造した点が一貫しているだけであるものの、増渕の右供述中、最終的に維持したものについては、後記のように他の共犯者とされた者の供述と基本的に一致していることが認められ、このことを考えれば、原告前林及び同榎下の公訴提起段階で、増渕の最終段階の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  中村(隆)の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 中村(隆)は、昭和四八年四月一六日から同月一八日にかけて、土田邸爆弾の製造に関して、要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一一月初旬ころ、秋葉原に行って、原告堀から頼まれた作動線の長いマイクロスイッチ二個を買い、その二、三日後、会社にあったそれより大きいマイクロスイッチ一個と一緒に原告榎下の車で増渕に届けた。増渕がマイクロスイッチの使い方について説明を求めたので、図解して説明すると、増渕は、会社にあったマイクロスイッチは大きいからだめだということで私に返し、秋葉原で買ったマイクロスイッチ二個を受け取った。

同年一二月一六日午後七時三〇分ころ、原告榎下の車に乗せてもらって増渕のアパートへ行くと、増渕、原告前林、同堀、同江口、坂本、金本がいた。

増渕が「土田に送る爆弾を製造する。役割は、私が総指揮、堀は私の補助とみんなの統率、中村(隆)はマイクロスイッチの取り付けと配線、榎下は中村(隆)の手伝い、前林は土田の宛名書き、江口は爆弾の関係、金本は包装と荷札の宛名書きと結びつけ、坂本は車とアパートの間の見張り。」と一応の任務分担を言い渡した。

爆弾の部品として、カステラの木箱(三〇×二〇×八センチ)、アルマイト製弁当箱(一七×一一×六センチ)、マイクロスイッチ(作動線がスイッチの上ではなく脇についているもの)、積層乾電池(九ボルトのもの)、バッテリースナップ、ガスヒーター、二液性スーパーセメダイン、豆ラッカー、爆薬等が増渕のアパートに準備されていた。

私は、木箱の蓋が開いた時に爆発するように乾電池と豆電球を使ってマイクロスイッチの端子を選定した。さらにマイクロスイッチの作動線をクランク型に曲げた。選定した端子には赤印をつけておき、これにビニール被覆線を結線し、原告榎下が混合したスーパーセメダインで本箱内側にマイクロスイッチを接着し、さらに動かないように黒ビニールテープで固定したほか、必要な配線をした。最後の結線のために木箱の底に穴を開けた。作業は原告榎下にも手伝ってもらった。

マイクロスイッチの端子にラッカーをつけたのは、三本の端子の組み合わせで作動線が上にある時オンになるものを探し、間違えないようにするために印をつけたものである。マイクロスイッチを増渕方に届け、端子の選別方法を説明した時、選別された端子にラッカーか何かで印をつけておけばよいと言ったことがあるので、ラッカーが用意されていたものと思う。

原告江口は、ビニール袋に爆薬を詰め込み、それを弁当箱に入れ、ガスヒーターを弁当箱の真ん中にセットし、弁当箱に蓋をし、さらにその上からガムテープとビニールテープをぐるぐる巻き付け、スーパーセメダインで弁当箱の底を木箱の底に固定していた。

最後に増渕が木箱の蓋をし、底から出ている線を結んだ。木箱と蓋はガムテープか何かで固定したと思う。

包装は増渕と原告前林がやり、その後、原告前林が爆弾をコタツの上に置き、毛筆で宛名と差出人を書き、麻ひもで十文字に結んだ。

荷札は、原告前林と金本が細い毛筆で書き、それを原告江口か同前林がひものところに二枚結び付けた。

(イ) 中村(隆)は、昭和四八年四月一八日、警察官に対し、土田邸爆弾を作るのに用いた道具等について、「土田邸爆弾を作るのに用いた道具は、ボンナイフ、切り出し、プラスチック棒と板、ラジオペンチ、ハサミ、毛筆などであり、材料は、木箱、弁当箱、マイクロスイッチ、乾電池、バッテリースナップ、ガスヒーター、豆球ソケット、スーパーセメダイン、豆ラッカー、爆薬、アルミホイルなどである。」、「土田邸爆弾を製造した日は、堀がボーナスをもらってブルジョアになったと言っていたことから、昭和四六年一二月初旬だった。」旨の供述をした。

(ウ) 中村(隆)は、昭和四八年四月二〇日、警察官に対し、土田邸事件の爆弾製造状況について説明し、同爆弾を製造した際、松本が見張りをしたことを供述し、翌同月二一日午前中には、土田邸爆弾に使用したマイクロスイッチの構造や購入場所について供述した。また、同人は、同月二四日にも土田邸爆弾製造について供述し、さらに、同年五月一日には、土田邸爆弾の製造現場で見た状況等について供述した。その要旨は次のとおりであった。

昭和四六年一二月五日ころ、土田邸爆弾を製造した際、増渕、原告堀、同前林、同江口、同榎下、塚本、金本、私のほか、松本もいて、坂本と二人で外で見張りをしていた。

土田邸爆弾にマイクロスイッチを取り付ける際は、まず、マイクロスイッチの端子の選別テストをし、選別した二つの端子にはマッチ棒の先で赤のラッカーを付けた。次いで、作動線をクランク型に曲げた。

その際、初めて起爆装置の実物を見た。原告江口が爆薬を八分目くらい詰めたドカ弁を増渕が受け取って、豆ソケットにアルミホイルで作った円筒形のキャップをねじこみ、これを弁当箱の中央部に押し込んだ。私は、これまでの増渕らの話から、このキャップの中に起爆薬の雷汞と硝化綿が入れられ、ガスヒーターに取り付けられていることを知った。増渕は、起爆装置をセットした後、アルミホイルを六〇センチくらい引き出し、弁当箱の大きさに折って爆薬の上にかぶせた。増渕と原告榎下が最後の結線をした後、原告前林が縦八〇センチくらい、横七〇センチくらいのレンガ色の包装紙をひろげ、爆弾本体を包装紙の線と平行に置き、金本が紙の一方をかぶせるようにした。そして増渕の指示で何かで留めていた。

この包装が終わると、さらに前より大きめのレンガ色の紙をひろげ、原告前林と金本とでさらに包装した。包装後、コタツの上に爆弾を置き、前林が墨汁と毛筆を使ってあて名を書いた。「土田」という字を書いたのは覚えている。差出人については覚えていない。

<2>(ア) 右認定事実によれば、昭和四六年一二月初旬ころ、高橋荘の増渕方居室において、増渕、原告前林、同堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本、松本、坂本らが土田邸爆弾を製造した疑いが認められる。

中村(隆)の右供述は、土田邸爆弾の製造日が他の共犯者とされた者と食い違っていることが認められるものの、その供述内容は詳細かつ具体的なものであり、製造場所、参加メンバー、各人の役割等の大筋においてその供述が一貫しており、また、<証拠略>によれば、土田邸爆弾で使用されたMLVIIと構造的にほぼ一致するマイクロスイッチを図示説明し、その製造状況を実演していること、マイクロスイッチの購入先である秋葉原の電気部品店の所在地も図面に図示していること、中村(隆)の供述どおりの場所に、実際に昭和四六年当時から、マイクロスイッチ、しかもMLVIIを販売している「第二パール無線」なる部品店が存在していたことなども認められ、これらの点からすれば、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、中村(隆)の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(イ) 原告らは、中村(隆)の右供述は信用性がないなどとして、いくつかの点を指摘するので、検討する。

(あ) マイクロスイッチの赤色塗料

原告らは、中村(隆)の右供述に関して、高校時代からマイクロスイッチの扱いに慣れていた中村(隆)が端子に赤色のラッカーを塗る必要はなく、わざわざラッカーを用意するというのは不自然である旨主張するが、必ずしもそのようにいえるものではなく、にわかに採用できない。

(い) マイクロスイッチの作動線のクランク型

原告らは、中村(隆)の右供述では作動線がクランク型に曲げられたとあるものの、これは現場遺留物の形状と一致しているわけではないので、右供述は信用できないと主張する。しかしながら、このような点を考えても、右供述の信用性がすべて否定されるものではなく、前記判断に変わりはない。

(う) 二液性スーパーセメダイン

さらに、原告らは、マイクロスイッチを爆弾に接着させるのに二液性スーパーセメダインを使用したという中村(隆)供述は不自然であり、信用できない旨主張するが、乙第六九号証、第二五六号証及び弁論の全趣旨によれば、中村(隆)は単に二液性スーパーセメダインのみを用いてマイクロスイッチを接着させたわけではなく、ビニールテープも用いて固定させたこと、現実に製造状況実演を録画したビデオテープでも実際に固定させることは可能だったことがそれぞれ認められ、これらのことも考慮すると、やはり中村(隆)の右供述の信用性についての前記判断に変わりはない。

(え) マイクロスイッチ購入日時についての変遷

原告らは、マイクロスイッチ購入日時についての中村(隆)の供述が変遷していることをとらえ、同人の供述がこのように変遷しているのは、取調官がそのつど誘導ないし勝手な作文をしたためであり、右供述は信用性がない旨主張する。

この点、前記認定事実及び前記各証拠によれば、中村(隆)のマイクロスイッチの購入に関する供述は、昭和四六年一一月初旬ころ(昭和四八年四月一二日付員面(以下、員面、検面の作成日付は、すべて昭和四八年であるので、これを省略し、月日のみを記す。))、昭和四六年九月下旬または一〇月初めころ(四月一四日付検面)、同年九月中旬の日石二高謀議後日石事件発生までの間(四月四日付員面)、同年一〇月三〇日または三一日の土田二高謀議より後(四月一六日付員面)、同年一一月初旬(四月一七日付員面)、同年一一月一六日の原告榎下と新宿のバー「コクテール」での飲食より後(四月二三日付員面添付手記)、「コクテール」での飲酒の数日後(四月二六日付員面)、同年一一月二二日または二三日(四月二七日付検面)と変遷していることが認められる。

しかしながら、右の変遷を考慮しても、やはり中村(隆)の右供述に対する前記判断に変わりはない。

(お) マイクロスイッチの購入個数

原告らは、中村(隆)は四月一二日以降一貫して自己が購入したマイクロスイッチは二個であると供述しているが、土田邸爆弾が一個しか製造されていない以上、購入したマイクロスイッチが二個というのは辻褄があわず不合理であり、その供述には、任意性、信用性がない旨主張するが、実際に製造、使用された爆弾が一個であるからといって、用意したマイクロスイッチが一個に限られるわけではないから、原告らの右主張は理由がない。

(か) マイクロスイッチの形態

(a) 原告らは、マイクロスイッチの形態に関する中村(隆)の供述が変遷していることをとらえ、同人の供述がこのように変遷するのは、取調官の誘導によるものである旨主張する。

この点、前記認定事実及び前記各証拠によれば、土田邸爆弾に使用されたマイクロスイッチの形態に関する中村(隆)の供述は、次のとおりであったことが認められる。

<イ> 作動線式マイクロスイッチでケースの横に端子三個の取付け、ケースの上辺に作動線の取付け(四月一四日付員面添付図面)

<ロ> 作動線式マイクロスイッチでケースの正面(調書上の表現は脇となっているが、前後の状況から、ここでは正面を意味するものと解される。四月一六日付員面訂正図面)に作動線の取付け(同日付員面)

<ハ> 作動線式マイクロスイッチでケースの左横に端子三個の取付け、ケースの正面右上部に作動線の取付け、作動線は図の右上方に伸びる(四月一七日付員面添付図面二枚目)

<ニ> 作動線式マイクロスイッチでケースの右横に端子三個の取付け、ケースの正面左上部に作動線の取付け、作動線は図の左上方に伸びる(四月二一日付員面添付図面二枚目)

(b) 右認定事実によれば、マイクロスイッチの形態に関する中村(隆)の供述は、作動線の取付位置や作動線と端子の取付位置関係に関して変遷していることが認められるものの、これを考慮に入れても、マイクロスイッチの形態に関する供述全体の中で右変遷部分が占める割合、重要性及び土田邸事件発生から右供述まで約一年半の年月が経過していることなどを考えれば、中村(隆)の供述の信用性に関する前記判断に変わりはない。

(き) 取調官の誘導

この他、原告らは、中村(隆)が昭和四八年四月八日にマイクロスイッチに関する供述をしたのは、取調官の誘導によるものであると主張するが、本件全証拠によっても、これを認めることはできない。

(く) 人数の多さ

さらに、原告らは、中村(隆)の供述によると、土田邸爆弾の製造は、増渕、原告前林、同堀、同江口、中村(隆)、金本、原告榎下、松本及び坂本の九名によってなされたのであるが、四畳半一間の増渕方に合計九名もの多数が集まり爆弾製造をすることは不自然であり、また、増渕方はアパート二階にあり、多数の者が鉄製階段を昇降すれば、近隣の人に異常を察知される危険が大きいから、そのような危険を冒してまでも多数の者を集めるはずがなく、さらに、昭和四六年当時のアパートローラー作戦の実施状況にかんがみ、夜間、多数の者が車を乗りつけて駐車しておけば、警察の目にとまらないはずがない等種々主張するが、これらのことを考慮にいれても、中村(隆)の供述の信用性に関する前記判断を覆すことはできない。

(け) 右のとおりであり、中村(隆)の前記供述はすべて信用性がない旨の原告らの主張は、いずれも理由がない。

(3)  金本の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 金本は、昭和四八年四月二〇日警察官に対し、昭和四六年一二月上旬、原告堀や中村(泰)と共に高橋荘に行った際、手製爆弾を包装結束した旨供述し、昭和四八年四月二七日には、警察官に対し、昭和四六年一二月初めころの夜、原告堀と高橋荘に行き、原告前林と共に爆弾の包装を担当し、毛筆であて名を書いた状況を、昭和四八年四月二九日には、警察官に対し、土田邸事件の爆弾を製造した際、原告江口、中村(隆)、坂本も加わっていたことなどを供述した。

(イ) 右供述内容の要旨は、次のとおりであった。

爆弾を作った日時は、昭和四六年一二月初めころの午後七時ころからで、原告堀と一緒に給田の増渕のアパートへ行った。集まったメンバーは、増渕、原告前林、同堀、同榎下、私のほか、原告江口、中村(隆)、坂本がいた。

私と原告前林は荷札書きをした。荷札書きに使ったのは部屋にあった墨汁と毛筆、それに私が持ってきた荷札であった。私は、原告堀から渡された紙切れを見て、土田國保という人の住所氏名を荷札二枚に書き、また差出人の住所氏名も荷札二枚に書いた。坂本は、皆が作業をしている間、外で見張りをしていた。増渕と原告江口は、アルマイト製の大きめの弁当箱に火薬を注ぎ込むようにして入れ、どちらかが手でならしていた。

原告榎下と中村(隆)は、ベンチやねじまわしなどを使って木箱に電池など電気関係のものを取り付けていたが、私は、電気関係については全く素人なので、どういう風に取り付けていたのかは分からない。増渕達がその木箱に火薬の入った弁当箱を入れ、蓋をして爆弾一個が出来上がった。私と原告前林が爆弾の包装をしたが、その時、増渕から「箱の蓋をずらすと危険だ。」と言われ、箱を動かさないようにして包装した。爆弾の入っていた木箱は、幅二〇センチメートルくらい、長さ三〇センチメートルくらい、厚さ八センチメートルくらいのカステラの箱のようなものだった。包装紙は市販の茶色っぽいもので、半分に切って使った。包装が終わると、増渕が原告前林から出来上がった爆弾を受け取り、コタツの上に置いた。それから、増渕は、私に字体を変えてあて先を書くよう指示し、私は先に原告堀から渡されていた紙を見てあて先を書いたが、憶えているのは「豊島区雑司ヶ谷 土田國保」という字だけである。原告前林も字を書いていたので、おそらく差出人の住所、氏名ではなかったかと思う。私は、差出人の住所氏名は書いていない。あて名書きが終わると、増渕と原告堀が爆弾を麻ひもで縛っていたが、どのように縛ったかは思い出せない。また、麻ひもで縛ったのは、ひょっとすると原告前林であったかもしれない。爆弾作りの作業が終わってから、だれが爆弾を郵便局に持っていくかを皆で話し合い、女の人が持っていったほうがよいということになった。

<2> 右認定事実によれば、昭和四六年一二月初めころ、増渕のアパートで、増渕、原告前林、同堀、同榎下、同江口らが土田邸爆弾を製造した疑いが認められる。

(4)  原告榎下の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官に対し、土田邸爆弾製造に関して要旨次のとおり供述した。

土田邸事件発生当日の夜、原告堀と一緒に給田の増渕のアパートへ行ったが、その途中、原告堀から「ビックリ爆弾の製造は、江口のアパートで江口が中心となり増渕が手伝って行い、出来上がったものを金本が包装して、前林が松本運転の車で神保町の郵便局から土田邸に郵送した。」旨聞かされた。

(イ) 原告榎下は、昭和四八年四月一四日、警察官に対し、土田邸爆弾製造に関して要旨次のとおり供述した。

二回目の爆弾製造は、昭和四六年一二月八日ころの午後八時ころから原告江口の家で同じメンバーでやった。外箱には文明堂のカステラの箱を使い、弁当箱は私が買ったもので前よりも大きいものを用意し、爆薬も日石爆弾より多く使った。製造作業の分担及び材料、用具の準備状況等は日石爆弾を作った時と同じであった。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月一五日、警察官に対し、土田邸爆弾製造に関して要旨次のとおり供述した。

昭和四六年一二月六日ころ、中村(隆)に誘われて増渕方へ行くと、中村(隆)は、増渕に「頼まれたものは全部そろえたですよ。」と言ってマイクロスイッチ、ガスヒーター、ソケットなどを渡していた。

同月八日ころ、原告江口方に、増渕、原告江口、同堀、金本、中村(隆)、私の六人が集まり、土田邸爆弾を製造した。爆弾材料のうち、包装紙、荷札、麻ひもは、増渕から頼まれていたので、母がやっている「うの丸商店」で母からもらったものを同年一〇月初旬に増渕に届けていた。土田邸爆弾に使ったドカ弁当箱も、私が「うの丸商店」に行って母からボール箱に入っていた弁当箱をもらい、爆弾作りの当日、原告江口方に持って行ったものである。弁当箱の中にはおかず入れが入っていた。爆薬については、原告堀から金本らが持ってきたと聞いていたが、爆弾作りの当日、金本自身が「塩素酸ナトリウムを持ち出すのは大変なのよ。私は持ってきてしまったけれど、ばれたら大変だわ。」と言っていたので、原告堀が言っていたのは本当なんだなと思った。

任務分担は、増渕と原告江口が薬びん三本を出して茶わんで混合し、塩化ナトリウムと砂糖を混ぜ終わった後、カステラの木箱に、私が電池を、中村(隆)がスイッチをセットした。

(エ) 原告榎下は、昭和四八年四月一八日及び同月一九日、警察官に対し、土田邸爆弾製造に関して要旨次のとおりそれぞれ供述した。

昭和四六年一一月二四日ころ、日大二高に増渕、原告堀、同江口、松村、松本、中村(隆)、坂本、私の八人が集まり爆弾闘争の相談をした際、増渕は、私が従前供述したことのほか、全員に「爆弾は二個作り、送り先は防衛庁長官と土田警務部長とする。」「土田邸へ送る分については、郵便局は神田あたりを使う予定でいる。それは差出人にする久保卓也という人物の住所が九段になっているからだ。」と言い、原告江口に対して「爆発があの程度じゃ人は殺せないぞ。雷管も作らなければならないが、今度はその回りを硝化綿で包んでみたらどうだろう。」と言っていた。

そして、同年一一月二七日ころと一二月四日ころの夜の二回にわたって硝化綿作りをした。同年一一月二七日ころの夜、原告江口方に、増渕、原告江口、同堀、金本、私の五人が集まり、私が持っていった脱脂綿を原告江口が用意したドンブリに入れ、その中に金本が持参した硝酸を注ぎ入れ、その日はそのまま帰った。同年一二月四日ころの夜、原告江口方で、その脱脂綿を見たら茶黄色で野球のボールくらいの大きさになっていた。その日、原告江口方で、増渕、原告江口、同堀、私の四人で二回目の硝化綿作りをした。

同年一二月三日ころの夜、増渕方で、増渕は、原告堀、同前林、中村(隆)や私の前で、アルミホイルは点火の際雷管全体から熱が出るので爆発力が強くなると言い、万年筆の先にアルミホイルを巻き付け、一方をねじって折り曲げ、直径一・五センチ前後の筒を作り、底の三分の一が埋まる程度に雷汞を詰め、その上に硝化綿を詰めて押さえて雷管を二本作った。この雷管は、日石爆弾のセロファン雷管よりわずかに大きかった。この雷管は土田邸爆弾と防衛庁長官用の爆弾に使っている。

同月六日ころ、中村(隆)と増渕方に行った際、中村(隆)は秋葉原から買ってきたと言って、マイクロスイッチ二個、ガスヒーター二個、ガスヒーターソケット二個を増渕に渡していた。

同月八日ころ、増渕方に増渕、原告江口、同堀、同前林、中村(隆)、坂本、松本、金本、私の九人が集まり、爆弾二個を作った。任務分担は、増渕が指揮のほかに薬品混合と弁当箱の工作、原告堀がその手伝い、原告江口が薬品混合と包装手伝い、原告前林が薬品混合の手伝い、中村(隆)がマイクロスイッチの取付け、坂本と松本は見張り、金本は薬品混合の手伝いと包装、私は配線、電池取付けだった。

私は電池を四か所釘で止め、その上をガムテープで巻いた。増渕、原告江口、同前林、金本は、塩化ナトリウムと砂糖を混ぜて、弁当箱に詰めていた。また、この四名は、弁当箱のおかず入れに、アルミホイルで作った雷管を更に硝化綿で包んで入れた。そして、硝化綿を雷管ごと詰めたおかず入れを弁当箱の中央に押し込むように入れた。私はカステラの空箱の木箱に電池を取り付けて配線し、中村(隆)はスイッチをセットしていた。木箱の電気セットが終り、その木箱を増渕に渡すと、増渕はその木箱に爆薬の入った弁当箱をとりつけ、増渕、原告江口、金本が包装し、外部を縛った。

(オ) 原告榎下は、昭和四八年四月二八日、警察官に対し、土田邸事件で製造した爆弾は二個ではなく一個であると供述し、従来の供述を変更した理由に関して要旨次のとおり供述した。

二回目に爆弾を作った際、爆弾を二個作ったというのは嘘である。警察の取調べで、日石では二個作ったのに土田では一個しか作らなかったのはなぜかと問われ、二個作ったと嘘を言ってしまった。二個作ったと嘘を言ってしまったため、他の一個を妻良海岸で実験したと嘘を言ってしまった。このような嘘を重ねたのは、原告堀が捕まった時、私が中村(隆)と坂本に事件のことは絶対話すなと口止めしてあったのに、自分だけ真実を話して仲間を裏切っている気がしたからである。

<2> 右認定事実によれば、昭和四六年一二月八日ころ、高橋荘の増渕方居室において、増渕、原告前林、同堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本、松本、坂本らが土田邸爆弾を製造した疑いが認められる。

原告榎下の右供述は、土田邸爆弾の個数の点で変遷が認められるものの、原告榎下が変遷の理由を前記のように説明していることのほか、同人の右供述の具体性、詳細さなどを考慮に入れれば、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、原告榎下の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(5)  その他

<1> 原告堀の供述

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

原告堀は、昭和四八年四月二七日、検察官に対し、昭和四六年一二月初旬ころの夜、金本を誘って高橋荘へ行き、畳の上に新聞紙のようなものを敷き、その上で爆弾製造作業をし、坂本と松本が外で見張りをした旨供述し、昭和四八年四月二九日には、警察官に対し、右同旨の供述をしたほか、金本が爆弾を包装した旨供述した。その要旨は、次のとおりであった

昭和四六年一二月上旬ころの午後八時ころから、増渕方に増渕、原告前林、同江口、同榎下、中村(隆)、松本、坂本、私の九人が集まって、土田邸爆弾を製造した。原告榎下が、その日時に郵送爆弾作りをするから金本も連れて来るようにとの増渕の伝言を伝えてきた。そこで、当日、金本を誘って増渕方へ行った。増渕を中心に爆弾作りの技術的打合せをし、部屋の外には松本と坂本を見張りに置き、懐中電灯で合図することにした。部屋の中では、増渕、原告榎下、同江口、中村(隆)が金属製の箱に白っぽい薬品を入れ、棒のようなものを使ってかきまわすか、ならすような作業をしていた。机の上には、金属製か木製の蓋のようなものに単一くらいの電池二本くらいが並列に取り付けてあった。金本は、押入れの前あたりで、出来上がった爆弾の入った箱を紙で包んでいた。

<2> 松本の供述

<証拠略>によれば、松本は、昭和四八年四月二一日、警察官に対し、昭和四六年一二月初旬の夜、土田邸爆弾の製造に関与した状況を供述したこと、その要旨は次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四六年一二月初旬の午後九時四〇分ころ、原告堀からの呼び出しで増渕方へ行くと、爆弾製造の準備ができており、増渕、原告堀、同前林、同榎下、同江口、金本、中村(隆)、坂本がいて、原告江口が薬びんを横に置いて調合しでいた。増渕と原告榎下は、同江口の手伝いをしていた。増渕の指示で、私は、アパート前の道路付近の見張り、坂本は、アパート周辺や階段付近の見張りをした。一時間くらいして部屋に入ると、机の上に菓子箱のようなものが置かれていた。

<3> 坂本の供述

<証拠略>によれば、坂本は、昭和四八年四月二一日及び同月二三日、警察官及び検察官に対し、土田邸事件の爆弾を製造した際、戸外で見張りをしたことをそれぞれ供述したこと、その要旨は、次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

同年一二月初めころの夜、原告榎下の誘いで増渕のアパートへ行った。途中、原告榎下から「爆弾を作っている。見張りをやってくれ。」と言われた。増渕方には、増渕、原告堀、同前林、その他女性二人くらいと眼鏡をかけた太った男がいた。この眼鏡の太った男と外で見張りをした。

(6)  判断

右認定、判断によれば、昭和四六年一二月八日ころ、高橋荘の増渕方居室において、増渕、原告前林、同堀、同江口、同榎下、中村(隆)、金本、松本、坂本らが前記検察官認定のような土田邸爆弾の製造を行っていた疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理であったとは認められない。

(六)  中村(泰)への土田邸爆弾の保管依頼

<証拠略>によれば、検察官は、中村(泰)、原告堀及び増渕の各供述並びに原告榎下のメモ書きなどによって、昭和四六年一二月一一日、増渕、原告堀の両名は、中村(泰)をその勤務先である八王子保健所に訪ね、同人に対し土田邸爆弾の保管を依頼し、同人はこれを承諾して右爆弾を受領し、同保健所内のロッカーにこれを保管し、次いで同月一五日、原告堀は同保健所へ赴いて中村(泰)から右爆弾を受け取り、これを高橋荘へ搬入したとの事実を認定できると判断したことが認められる。

そこで、右各供述等から右事実が認められるかを検討する。

(1)  中村(泰)の供述

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

中村(泰)は、昭和四八年四月一一日検察官に対し、昭和四六年一二月一一日に預かった箱様の品物が爆弾である旨供述し、昭和四八年四月一二日警察官に対しても、同様の供述を繰り返すとともに、昭和四六年九月中旬ころ増渕、原告堀から爆弾郵送の相手方を教えられたこと、同年一〇月高橋荘で宛名書きの練習をした時、原告堀から爆弾はでき上がっていると聞いたことなどを供述した。その供述の要旨は次のとおりであった。

昭和四六年一二月一一日、八王子保健所で宿直をした夜、増渕と原告堀から紙包みを預かって自分のロッカーに保管したが、以前増渕や原告堀から「今は爆弾闘争の時代だ。社会を変えるには、国の上層部に爆弾を送って殺すしかない。」という話を聞いていたし、紙包みを私に渡す時の二人の様子がおかしく、また、夜、保健所に二人が箱に入った包みを持ち込んでロッカーにしまっておいてくれというのも不自然だったので、それが爆弾だろうと思い、二人に「これは爆弾みたいな物か。」と聞くと、二人は「まあそんなものだ。」と言ったので、やはりそれが爆弾だと分かった。

これまで、同年一二月一一日に爆弾らしい物を預かったと言っていたが、本当は、原告堀から預かった時にすぐ爆弾だということが分かった。

同年九月中旬ころ、増渕、原告前林、同堀、私の四人が高橋荘に集まった時、増渕と原告堀が爆弾闘争の話を始め、増渕が「今の社会を変えるには国家権力を倒さねば駄目だ。そのためには国家の上層部をやらなければいけない。」と言い、原告堀は「国家の上層部の首のすげかえだけでは駄目だ。上層部に爆弾を送り込んでぶっとばさなければいけない。」と言い、増渕は「そうだ。警視総監、総裁などをやらなければいけない。」と爆弾を郵送する相手の名前を言っていた。何人かの名前を挙げていたが、はっきり覚えていない。

同年一〇月、増渕のアパートで宛名書きをしたことは前に話したとおりだが、その際、原告堀が増渕に「爆弾の方はどうなっている。」と小声で聞いていた。増渕は「もう小包になってあっちにできているよ。」と答えた。すると、原告堀は「じゃあ、これをあっちに持って行けばいいんだな。」と言っていた。

このようないきさつや、同年一二月一一日夜、宿直中の私に「この品物を預かってくれ。貴重品だから大事に扱ってくれ。」と言われたことなどから、その品物が国家権力の上層部をやっつけるための爆弾だと直感した。

(2)  原告堀の供述

原告堀が、昭和四八年四月四日警察官及び検察官に対し、それぞれ、昭和四六年一二月、増渕と八王子保健所に行き、宿直の中村(泰)に持って行った小包を渡したことなどを供述したことは前記(第四、一五、3、(三)、(2)、<1>)のとおりであるが、<証拠略>によれば、原告堀は、以後も同様の供述をしたことが認められる。

(3)  増渕の供述

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年四月八日警察官に対し、同月九日検察官に対し、中村(泰)に土田邸爆弾の保管を依頼したことについてそれぞれ供述したこと、その供述の要旨は次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四六年一二月一一日、荻窪の喫茶店金沢で、原告江口から爆弾を受け取り、これを聖蹟桜ヶ丘へ運んで原告堀に渡した。同原告が「中村(泰)が宿直なので遊びに行こう。」と言うので八王子保健所に向かった。その車中、原告堀が「爆弾の保管は中村(泰)に頼もうと思う。公務所なのでガサ入れ等でバレることもなく一番安全じゃないかと思うのだが。」と言うので、賛成した。午後七時ころ保健所に着き、中村(泰)に「これしばらく預かってくれ。」と言って紙袋入りの爆弾を渡し、ロッカーに保管してもらった。

(4)  原告榎下のメモ

<証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官の取調べにおいて、「一二月一二日ころ、中村泰章の勤め先へ持って行った。堀が持って行った」、「堀から聞いた。」というメモ書きをしたことが認められる。

(5)  判断

右認定事実によれば、昭和四六年一二月一一日、増渕、原告堀の両名は、中村(泰)をその勤務先である八王子保健所に訪ね、同人に土田邸爆弾の保管を依頼し、同人はこれを承諾して右爆弾を受領し、同保健所内のロッカーにこれを保管していたが、その後同月一五日、原告堀は同保健所へ赴いて中村(泰)から右爆弾を受け取り、これを高橋荘へ搬入したという疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理であったとは認められない。

(七)  松本への土田邸爆弾保管依頼

前記認定事実、<証拠略>によれば、検察官は、松本及び増渕の各供述並びに原告榎下のメモ書きなどによって、増渕は、昭和四六年一二月一五日夜、原告前林と共に、阿佐谷南一丁目所在の松本方を訪問し、同人に対し、八王子保健所の中村(泰)のもとから持ち帰った土田邸爆弾一個の保管を依頼し、松本はこれを承知して預かり、松本方別宅の荷物置場にしていた空部屋に隠匿したとの事実を認定できると判断したことが認められる。

そこで、右各供述等から右事実が認められるかを検討する。

(1)  松本の供述

<1> <証拠略>よれば、松本は、昭和四八年四月二一日警察官に対し、同月二五日検察官に対し、増渕及び原告前林から土田邸爆弾を預かった際の状況についてそれぞれ供述したこと、その供述の要旨は次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四六年一二月一五日午後八時ころ、増渕と原告前林が私方に来て、増渕から「大事なものだから預かってくれ。」と言われて、白っぽい模様の入ったデパートの紙袋のような手提袋に入った爆弾を受け取り、家から二〇〇メートルくらい離れた倉庫に隠し、同日午後九時一〇分ころ、増渕らを給田のアパートまで送った。給田のアパートで、増渕から「一七日の昼ころ阿佐ヶ谷駅で待っているので、荷物を持ってきて神田まで行ってくれ。」と指示された。

<2> 右認定事実によれば、松本が、昭和四六年一二月一五日、増渕及び原告前林から土田邸爆弾を預かった疑いが認められる。

原告らは、松本が自白と否認を繰り返したことから、同人の供述は信用できない旨主張し、前記各証拠によれば、松本は、昭和四八年四月一〇日、土田邸事件の幇助で逮捕された当日は同事件への関与を否認したものの、翌一一日には自白し、同月一二日の検察官の取調べを経て、同月一三日の裁判官の勾留質問においても被疑事実を認め、同月一八日までその態度を維持していたところ、同月一八日に再度否認の態度に転じ、同月二〇日に再び自白するに至ったことが認められる。しかしながら、右各証拠及び<証拠略>によれば、松本は、同月二〇日以降捜査終結に至るまで、終始一貫して嫌疑を認める供述を維持したこと、爆弾隠匿場所の状況も司法警察員による検証によって松本の供述どおりであることが確認されたこと及び松本の右供述は、後記の増渕供述とも符合していたことがそれぞれ認められ、これらの事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、松本の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  増渕の供述

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年四月二九日、検察官に対し、昭和四六年一二月一五日ころ、松本に爆弾の保管と同月一七日に神保町へ車を運転して行くことを依頼し、手提げ袋に入った爆弾を預け、同月一七日、松本運転の車で原告前林と共に神保町へ行った状況を供述したこと、その供述の要旨は次のとおりであったことがそれぞれ認められる。

昭和四六年一二月一五、六日ころの午後八時ころ、原告堀と金本が爆弾を高橋荘の私のところに持参したので、爆弾を受け取るとすぐ原告堀の車で松本方へ行き、私だけが車から降りて松本に会い、「一七日にこれを神保町の郵便局から発送するから、当日車で送ってくれないか。」と言って搬送を依頼し、「これを預かっておいてくれ。一七日午前一一時ころ来るから。」と言って爆弾を預けた。このことは、松本をかばうためこれまで隠していた。

同月一七日、バスで阿佐ヶ谷駅に行き、原告前林と待ち合わせて松本の家に行った。松本から爆弾を受け取り、同人が運転するローレルで、青梅街道、新宿、神保町を経由し、三省堂前の交差点付近で車を停めさせ、原告前林に爆弾を発送させに行かせた。帰りは松本に阿佐ヶ谷駅まで送ってもらった。

(3)  原告榎下のメモ

<証拠略>によれば、原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官の取調べにおいて、「一二月一五日、堀が松本へ持って行った。」、「堀から聞いた。」というメモ書きをしたことが認められる。

(4)  判断

右認定、判断によれば、松本が、昭和四六年一二月一五日、増渕及び原告前林から土田邸爆弾を預かった疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理であったとは認められない。

(八)  土田邸爆弾の搬送及び郵便局への差出し

前記認定事実、<証拠略>によれば、検察官は、原告榎下、増渕及び松本の供述などによって、昭和四六年一二月一七日、増渕及び原告前林は、松本の運転する自動車に乗って南神保町郵便局付近に赴き、原告前林が、あて先を土田國保、差出人を久保卓也とする小包に偽装したトリック爆弾(土田邸爆弾)を同局局員に普通小包として差し出し、郵送に付したとの事実が認められると判断したことが認められる。

そこで、右各供述等から右事実が認められるかを検討する。

(1)  原告榎下の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官の取調べにおいて、「一二月一六日、前林と増渕が松本の運転する車で神田神保町のゆうびん局へ持って行った。」、「堀から聞いた。」、「一二月一七日、阿佐谷で朝待ち合せて、神保町へ行った。こわかった。小包を差し出したのは前林。増渕は車で待っていた。」というメモ書きを作成提出した。

(イ) また、原告榎下は、右メモ書きと同じ日である昭和四八年四月八日、警察官に対し、土田邸爆弾の搬送等に関して、要旨次のとおり供述した。

土田邸事件発生当日の夜、原告堀と一緒に給田の増渕のアパートへ行ったが、その途中、原告堀から「ビックリ爆弾の製造は、江口のアパートで江口が中心となり増渕が手伝って行い、出来上がったものを金本が包装して、前林が松本運転の車で神保町の郵便局から土田邸に郵送した。」旨聞かされた。

(ウ) 原告榎下は、昭和四八年四月二一日、警察官に対し、土田邸爆弾搬送についても喫茶店「サン」で謀議が行われ、原告榎下、中村(隆)、松本及び坂本によるリレー搬送が決まり、原告榎下は、搬送当日、増渕及び原告前林を乗せて新宿まで搬送したと供述した。

(エ) 原告榎下は、昭和四八年四月二五日、警察官の取調べで、右リレー搬送の供述を撤回し、再び松本による搬送と聞いた旨供述し、以後は同様の供述を維持した。

なお、原告榎下は、右供述の再変更に際して始末書を作成し、さらに昭和四八年四月二八日、警察官に対し、右のようなリレー搬送の供述をした理由について説明したが、その始末書及び供述の要旨は、私が前に「松本が神田まで爆弾と二人を連んだ」と言ってしまったので松本に悪かったと思った、松本が気の毒になり自分も当日増渕、原告前林を途中まで運んだと言ってしまった、いつかはわかってしまうことはもちろん解かっていたが、一度言ってしまったので、なかなか本当のことを言えなくなってしまった、取調官が信じているようだったので、そう通ると思ってしまった、作り事を述べれば、仲間は「榎下は本当のことを言っていない」と思ってくれるだろうし、仲間に対する気休めになると思った、などというものであった。

<2> 右認定事実によれば、増渕及び原告前林が、昭和四六年一二月一七日ころ、松本の運転する自動車に乗って南神保町郵便局付近に赴き、原告前林が、小包に偽装したトリック爆弾を郵送に付した疑いが認められる。

なお、原告榎下の右供述には、変遷が認められるものの、原告榎下が供述を変更した理由を右のように述べていることなども考えると、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起投階で、原告榎下の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(2)  増渕の供述

<1> <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 増渕は、昭和四八年三月一三日に検察官に対して、「自己が爆弾を郵便局に差し出して土田邸へ送った。」として自ら土田邸爆弾の差出しに直接関与したことを認める供述をしたものの、その後は、右供述を変更して、自らは土田邸爆弾差出の計画、指示をしたのみで、原告堀が同爆弾の差出関係を担当した旨供述し、同年四月九日に至るまで右に関する具体的供述を避けていた。

(イ) 増渕は、昭和四八年四月九日、検察官に対し、従前の供述を変更し、自己の土田邸爆弾搬送への直接の関与を認めるとともに、松本が爆弾搬送用の自動車を運転した事実を供述し、その要旨は次のとおりであった。

原告前林をかばうため、これまで一部嘘を言っていた。

原告堀に爆弾を土田邸に郵送してくれるよう頼んであったが、昭和四六年一二月一五日ころの午後八時か九時ころ、同人と金本が高橋荘へ来て、原告堀が私に「時間的に都合が悪いのでおやじさんの方でやってくれ。」と言って、手提袋入りの爆弾を渡してきた。

神田の南神保町郵便局から爆弾小包を郵送しようと考えていたが、女に持って行かせた方が安全だと考え、原告前林に行かせることにし、同原告に、一二月一六日はアリバイ工作のため、いったん会社へ出動し、タイムレコーダーを押してから阿佐谷の「華厳」に来るよう指示した。

松本に南神保町郵便局まで乗せていってもらうことを依頼し、同年一二月一六日ころの午前一一時ころ「華厳」で原告前林と待ち合わせて松本方へ行き、松本運転のローレルで神保町へ行き、三省堂の裏あたりに車を止め、爆弾小包を原告前林に渡し、南神保町郵便局に出しに行かせた。

(ウ) 増渕は、その後も概ね同様の供述をし、昭和四八年四月二九日検察官に対し、土田邸爆弾の搬送及び郵便局への差出しについて供述したが、その要旨は、前記第四、一六、3、(七)、(2)に認定したとおりである。

<2> 右認定事実によれば、増渕及び原告前林が、昭和四六年一二月一七日、松本の運転する自動車に乗って南神保町郵便局付近に赴き、原告前林が、小包に偽装したトリック爆弾を郵送に付した疑いが認められる。

増渕の右供述には、変遷が認められるが、その供述の具体性、原告榎下の供述の基本的部分との一致等も考えると、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、増渕の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(3)  松本の供述

<1> 供述経過及び供述内容

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(ア) 松本は、昭和四八年四月八日及び同月九日、警察官の取調べに際して、土田邸事件への関与を認める趣旨のメモを作成し、同月一〇日の取調べ及び弁解録取の機会においてはいったん容疑を否認したものの、同月一一日に至り、警察官に対し、「昨夜反省した結果、これから本当のことを申し上げる。」と前置きして、土田邸事件への関与を認め、昭和四六年一二月一七日に増渕、原告前林、同堀を自己所有の乗用自動車(ニッサンローレル)に乗車させて神田へ向かい、駿河台下交差点付近に停車して、そこから、増渕らが徒歩で爆弾を差出しに赴いた旨詳細に供述し、昭和四八年四月一二日検察官に対し、同月一三日勾留質問の裁判官に対し、それぞれ同旨の供述をした。同月一一日及び同月一二日の供述の要旨は次のとおりであった。

昭和四六年一二月一六日午後九時ころ、増渕が私の家に訪ねてきたので裏の道路で立ち話をしていると、間もなくして原告前杯が翌一七日に御茶ノ水方面に持って行った小包と同じ小包を阿佐ヶ谷駅の方から持って来た。増渕から遊びに来いと言われて、増渕と小包を持った原告前林を乗せて高橋荘まで行った。増渕と原告前林を高橋荘に送っていった時、増渕から「明日運ぶことになったので一二時に来てくれ。」と言われた。

翌一七日午後一二時半ころ、ローレルで高橋荘に行き、増渕、原告前林、同堀を乗せ、南神保町郵便局に向かった。原告前林の右側に小包爆弾があった。下見の時と同じコースで明大の、門前付近に来た時、増渕の指示で車を停め、増渕、原告堀、同前林の三人が車から降りて郵便局の方へ歩いて行った。車を停めた時刻は午後二時か二時半ころだった。原告前林は、小包爆弾にショールをかぶせて右脇に抱えて歩いて行った。一五から二〇分すると増渕らが戻ってきたので、車で高橋荘に送り届けた。

(イ) 松本は、昭和四八年四月一八日から否認の態度をとったものの、同月二〇日には再自白し、以後起訴に至るまで一貫して右自白を維持した。右再自白した後の供述の要旨は次のとおりであった。

土田邸爆弾の搬送を増渕、原告前林、同堀が行ったと供述していたのは嘘で、原告堀は行っておらず、増渕と同前林の二人を車に乗せて行ったというのが真実である。原告堀に対する憎しみから、同人も一緒だったと嘘をついた。

昭和四六年一二月一六日、増渕と原告前林を、爆弾と一緒に給田のアパートまで運び、翌一七日、給田から神田の郵便局近くまで爆弾搬送を手伝ったと述べたのは嘘である。

同月一五日午後八時ころ、増渕と原告前林が私方に来て、増渕から「大事なものだから預かってくれ。」と言われて、白っぽい模様の入ったデパートの紙袋のような手提袋に入った爆弾を受け取り、家から二〇〇メートルくらい離れた倉庫に隠し、同日午後九時一〇分ころ、増渕らを給田のアパートまで送った。給田のアパートで、増渕から「一七日の昼ころ阿佐ヶ谷駅で待っているので、荷物を持ってきて神田まで行ってくれ。」と指示された。

同月一七日午前一一時過ぎに起床後、店を抜け出し、爆弾を持って阿佐ヶ谷駅南口へ行き、午前一一時四〇分ころ、増渕、原告前林と合流し、車の助手席に置いていた爆弾を原告前林に手渡し、神田へ向かった。同日午後一時過ぎ、駿河台下交差点に着いた。増渕と原告前林は、爆弾の発送に行き、一五分から二〇分して戻ってきたので、車に乗せて、阿佐ヶ谷駅南口に行き、そこで解散した。原告前林はそれから会社へ行った。

同月一八日夜、増渕方に集まった者は、増渕、原告堀、同前林、同榎下、同江口、中村(隆)、私の七人である。

(ウ) なお、松本は、再自白するにあたって、「私を除く連中がアリバイ工作をやったらしいが、それにもれた私だけが一人でベラベラしゃべってしまっては、他人の罪まで自分一人で背負っていくことになりはしないかと心配になった。」などと述べ、また、原告堀が参加した旨の虚偽の供述をした理由として、自分が土田邸事件に関与していることが発覚して逮捕されたのは、原告堀が供述したためであると思い込み、これを恨む個人的感情から原告堀を巻き込む虚偽の供述をしたものであると述べた。

<2> 右認定事実によれば、増渕及び原告前林が、昭和四六年一二月一七日、松本の運転する自動車に乗って南神保町郵便局付近に赴き、原告前林が、小包に偽装したトリック爆弾を郵送に付した疑いが認められる。

この点、松本は否認と自白を繰り返しており、また、同人の右供述には、原告堀の搬送行為への参加及び爆弾搬送の依頼日時等について変遷が認められるものの、その供述の具体性、土田邸爆弾搬送の際の停車(増渕らの降車)地点についての供述がほぼ終始一貫していること(前記各証拠により認められる。)、原告榎下及び増渕らの供述の基本的部分との一致等も考えると、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階で、松本の右供述の信用性が否定されるとまでは認められない。

(4)  判断

右の認定、判断を総合すれば、増渕及び原告前林が、昭和四六年一二月一七日、松本の運転する自動車に乗って南神保町郵便局付近に赴き、原告前林が、小包に偽装したトリック爆弾を郵送に付した疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理であったとは認められない。

(九)  土田邸事件の当日の総括

(1)  原告榎下の供述

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 原告榎下は、昭和四八年四月七日、警察官に対し、土田邸事件が報道された当夜、原告堀と共に増渕のアパートへ行ったことを供述した。その要旨は次のとおりであった。

土田邸事件が発生した日の午後五時ころ、夕刊で事件を知った。午後七時ころ原告堀が訪ねて来て、増渕のところへ行こうと誘われた。車中で、原告堀に「今日の事件誰がやったんだ。」と聞くと、増渕や原告堀が計画していたとおりのことをやったんだという趣旨の返事だった。増渕は、ウイスキーを飯んでゴロ寝していた。原告堀が増渕を起こし、二人で二〇分間くらい外に出た。

<2> 原告榎下は、昭和四八年四月八日、警察官及び検察官に対し、要旨次のとおり供述し、以後も同様の供述を維持した。

土田邸事件発生当日の夜、原告堀と一緒に給田の増渕のアパートへ行ったが、その途中、原告堀から「ビックリ爆弾の製造は、江口のアパートで江口が中心となり増渕が手伝って行い、出来上がったものを金本が包装して、前林が松本運転の車で神保町の郵便局から土田邸に郵送した。」旨聞かされた。

(2)  増剖の供述

<証拠略>によれば、増渕は、昭和四八年四月二八日、警察官に対し、土田邸事件当日の夜、高橋荘に原告堀、同榎下、同江口、中村(隆)、松本らが集まり、同事件について「半分成功、半分失敗」と総括し、闘争は一旦中止と指示した旨の供述をしたことが認められる。

(3)  判断

右認定事実によれば、増渕、原告堀、同榎下、同江口、中村(隆)及び松本が、土田邸事件当日、同事件について総括をした疑いが認められ、同様の結論に至った検察官の判断が不合理であったとは認められない。

(一〇)  判断

以上の認定、判断を総合すれば、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起時において、同原告らに有罪と認められる嫌疑があったことが認められる。

なお、原告らは、前記各供述は、違法な別件逮捕・勾留中の取調べ、違法な起訴後の取調べ、違法な手段、方法による取調べなどによって収集されたものであり、いずれも証拠能力、任意性がない旨主張するが、後記(第四、一七)のとおりであり、いずれも理由がなく採用できない。

4 通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料

(一)  原告前林のアリバイ

原告らは、原告前林は、昭和四六年一二月一七日勤務先である岡田香料において、上司に対して冬のボーナスについての不満を話したり、また、同日の昼休みに勤務先近くの銀行で預金を引き出したりしており、同原告が同日に会社を抜け出して土田邸爆弾を差し出すことは不可能であることが明らかであったにもかかわらず、捜査官は、当日の原告前林の行動等についての詳しい捜査を行わず、通常要求される捜査を怠り、これを遂行していれば収集し得た証拠資料を収集しなかった旨主張するので、この点について検討する。

(二)  アリバイ捜査等

(1)  <証拠略>によれば、実査の結果、東京都武蔵野市吉祥寺所在の岡田香料から東京都千代田区神田神保町所在の土田邸爆弾差出郵便局(南神保町郵便局)までの所要時間は、約二時間二八分ないし約二時間五八分であったこと、原告前林の勤務する岡田香料は、社長以下一四名という小規模の会社であり、従業員の勤務管理を厳格に行っておらず、私用外出の手続についても特段の定めを決めていなかったこと、そのため、従業員は、私用で外出したい時や仕事を怠けたい時は、中庭から外へ出て怠業することができ、原告前林も時々この方法で外出していたことがそれぞれ認められる。

右認定事実に照らすと、原告前林が、昭和四六年一二月一七日、勤務先である岡田香料で上司に対して冬のボーナスについての不満を話していたとしても、この事実のみをもって、同原告のアリバイを認めることはできず、検察官が、右アリバイについて、通常要求される捜査と証拠の収集を怠ったとは認められない。

(2)  また、<証拠略>によれば、原告前林は、捜査段階では、土田邸事件当日の昼休みに勤務先近くの銀行に行き預金を引き出した旨のアリバイ主張をしていなかったことが認められ、この点からすれば、右事実に関する証拠資料が、通常要求される捜査を遂行すれば収集し得た証拠資料であるとは認められない。

(3)  したがって、原告らの右主張は理由がない。

5 判断

以上の認定、判断によれば原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起時において、検察官が現に収集していた各種の証拠資料を総合勘案して合理的に判断すると、右事件につき同原告らに有罪と認められる嫌疑があったものと認めることができる。

本件全証拠を検討してみても、検察官が右嫌疑を認定する上において、合理的な根拠が客観的に欠如していることが明らかであるにもかかわらず、あえて右公訴を提起したと認め得るような事情があることを認めることはできない。

よって、検察官の右公訴提起は違法とはいえず、この点の原告らの主張は理由がない。

一七 違法取調べと供述の任意性等

原告らは、前記のように、警察官、検察官が、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件について、原告らにつき、逮捕状請求、勾留請求、公訴提起、公訴追行等を行った際に、それぞれその根拠資料とした原告らを含む関係者の各供述は、次のとおり、いずれも、違法な取調べなどによって取得されたものであり、また、任意性に欠けるものであって、右の根拠資料となり得ないものであるから、結局、右の公訴提起、公訴追行等は違法である旨主張するので、ここでまとめて検討する。

1 原告堀

(一)  起訴後の取調べ

(1)  原告らは、土田邸事件の起訴をした昭和四八年四月四日以降における原告堀に対する右事件についての取調べは、起訴後の取調べとして、身柄不拘束の被疑者の取調べに準じるべきであるから、任意取調べとしての限度で許されるにすぎず、かつ、右事件の補充的事項に限られなければならないものであるにもかかわらず、実際には起訴前と同様ないしそれ以上の状況における取調べであって、任意取調べの限界を超えた違法取調べであり、その供述の任意性がない旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 取調時間

原告堀に対する取調時間は、昭和四八年四月五日以降、連日長時間に及び、取調べを終えて監房へ帰る帰房時間は、連日午後一一時以後であり、同月二〇日以降いくぶんそれが早まったものの、同月末ころまで連日午後九時半以後の状態が続き、時には午後一一時半に達し、同年五月になってようやくほぼ午後九時ころになった。

<2> 原告堀の取調べに臨む態度

原告堀の昭和四八年四月五日付け員面の冒頭には、「私は本年三月一四日現在の罪名で逮捕され四月四日起訴され勾留中です。弁護士から聞いて起訴後の取調べに応じなくても良いということは知っていますが、私の関係していると思われる現在の事件を早く解決したいと思いますのでお話しいたします。」との記載がある。

<3> 接見状況

原告堀は、土田邸事件で起訴された昭和四八年四月四日以降、弁譲人とほぼ一日おきに毎回平均約一時間の接見をしており、同月五日に六〇分、七日に五七分間、九日に三九分間、一二日に六四分間、一三日に四〇分間、一六日に四五分間、一八日に五四分間、二〇日に三六分間、二三日に四七分間、二五日に四八分間、二八日に四五分間、同年五月四日に六三分間の接見をしていた。

<4> 捜査の進展状況

昭和四八年四月以降は、逮捕・勾留された被疑者から日石・土田邸事件に関する重要な供述が次々と出ていた。

(3)  右認定事実及び日石事件と土田邸事件は密接な関連を有し一方の事件に関する取調べが他方の事件に関する取調べの一環とも評価され得ることなどに照らすと、本件全証拠によっても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階や、原告らに対する日石事件の公訴提起段階において、原告堀に対する右取調べがその供述の証拠能力が否定されるほどに違法なものであったとは認められないし、またその供述の任意性が否定されるとまでは認められない。

(二)  取調方法等

(1)  原告らは、原告堀に対する警察官及び検察官の取調べについて次のように主張する。

<1> 警察官による取調べは、長期間かつ長時間にわたるものであり、大声による怒号、誘導、誤導、切り違え、脅迫、甘言、弁譲人への不信感の煽り等の様々なありとあらゆる違法な手段を用いた、自白を得るためだけのものであって、極めて違法性の大きいものである。

<2> 検察官による取調べは、警察官による取調べと時間的に密着し、内容的にも一体となったものであり、警察官による取調べによって現出した原告堀の意識状況を利用してなされたものであり、違法である。

<3> 身柄を拘束されていた当時の原告堀は、長期間にわたる長時間の取調べによって疲労が極限に達し、意識も混濁状態となり、「幻覚というか思いこみとかそういうもので」供述をさせられたものであって、右供述は、任意性がなく、虚偽のものである。

<4> 警察官は、原告堀の母親や姉を逮捕すると告げたり、家に爆弾を郵送したり放火する者が出てくると言って原告堀を脅迫した。また、警察官は、原告堀を動揺させ自白を得るために、同原告の義兄である弓削某が勤務先の自衛隊を辞職せざるを得なくなったと申し向けた。

<5> 警察官は、原告堀に対し、「供述調書を多数作ってもらって反省の情を示せば、裁判で情状を酌量される。」、「供述をするなら情状意見書を書いてやる。」等の甘言を弄し、利益誘導をして自白を迫った。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 逮捕・勾留及び起訴の経過

原告堀の逮捕・勾留及び起訴の経過は、次のとおりであった。

昭和四八年一月二二日 火取法違反事件により逮捕

同月二四日      同事件により勾留

同年二月一二日    同事件につき処分保留で釈放されるとともに、即日八・九機事件で逮捕

同月一五日      同事件により勾留(同年三月六日まで)

同年三月六日     同事件により勾留中起訴

同月一三日      ピース缶爆弾製造事件で逮捕

同月一四日      日石・土田邸事件で逮捕

同月一六日      ピース缶爆弾製造事件及び日石・土田邸事件で勾留(同年四月四日まで)

同年四月四日     ピース缶爆弾製造事件及び土田邸事件で勾留中起訴

同年五月五日     日石事件で起訴(求令状起訴により勾留)

<2> 取調時間等

(ア) 原告堀は、昭和四八年一月二二日の逮捕以来連日長時間の取調べを受け、その取調時間は、同年二月一三日から二六日までの一四日間のうち、午後九時すぎになったのが四日間、そのうち最も遅いのが午後一〇時で、同月二七日以降ほぼ連日午後一〇時すぎであった。取調べを受ける在室時間についても、押送の往復等に合計一時間を要するとしても(以降も同じ計算による。)、同月一三日から二六日までの間が平均八時間弱、同月二七日及び二八日が各約八時間半であって、同年三月一日以後一〇時間を超えることが多くなっていた。

(イ) 同年三月一日から六月までの間は、帰房時間がいずれも午後一〇時過ぎであり、取調時間が同月四日を除き、一〇時間ないし一三時間に及んだ。

同年三月七日以後、連日平均約一〇時間に及ぶ取調べが行われ、帰房時間も連日午後一〇時から同一一時近くに及んだ。

(ウ) 同年三月一四日に日石・土田邸事件で逮捕されて以降同年四月一八日ころまでの間、帰房時間は、ほとんど連日午後一一時を過ぎており(ただし、同年三月二二日、同年四月六日、同月一一日、同月一五日の四日間は、いずれも午後一〇時半すぎであった。)、しかもほぼ二日に一回の割合で午後一一時半を過ぎ、同年三月二四日及び同年四月三日は午前零時を過ぎていた。そして、同月後半は、午後一一時過ぎの帰房が五日間あり、同月三〇日を除き、すべて午後九時半以後の帰房であった。取調時間は、同年三月一四日以降、当初一〇時間前後の日もあったが、同月一九日以降連日一二時間を超え、一四時間に及ぶことがあり、同年四月五日以降一三時間前後にわたる日が同月一五日ころまで続き、その後やや短くなり、同月末ころまで一二時間前後であった。

<3> 取調状況と原告堀の態度

(ア) 原告堀は、昭和四八年三月七日、一旦取調べを拒否する旨述べていた。

(イ) 同月一五日以降、岩間警部補が取調官となり、原告堀に対し、日石・土田邸事件等を自分の意思で清算し、人間性に立ち帰るよう説得し、「自分を反省する気持ちになれないか」、「まともな人間なら罪のおそろしさを考えろ」、「君がそんな(反省のない)態度でいたら大変だぞ。早く人間に戻るのだ」などと説得した。

これに対し、原告堀は、「やっていない」、「やっていない以上反省のしようがない」、「反省しようにもやっていないのだから何を反省すればよいか」などと否認を繰り返し、さらに、「どっちが殺し屋かわかりやしない。やってないのをやってるというなんて脅迫ですね」、「こんなに険悪な場所で人間性ある話なんてできない」、「こんなに言われては考える余裕もないではないか」、「人間性に触れた話をしろと言っても、あなたのほうが人間性がおかしい。いくら怒鳴っても真実は曲がらない」、「自白の強要だ」、「お前達こそ鬼だ。自分達の顔でも見たらどうです。この事件はデッチ上げだ。俺は何もやっていないのに」、「今日は取調べに応ずる必要がない。どんどんデッチ上げて行くのだ。自白の強要だ。友達までも逮捕するなんてあなた達の方がひどいじゃないか」、(親子、兄弟の愛情を説かれて)「こうして頭を混乱させて、私の母親を出して自供させようとしているのでしょう。脅迫ですよ」、「やっていないのに反省するにもしようがないじゃないか。あんた達の方がふざけているでしょう。話す必要がない。おふくろを脅しに使うのですか。そして自白を強要するのですか」などと強く反発した。

他方、原告堀は、しばしば気弱な態度をし、たとえば、親の子供に対する愛情等を説かれて、「自分はもっと親を大切にしてあげればよかった。外にいたらこれ程親を思わなかっただろう」等と涙声で述べ、取調官が「悲しい時には思い切り泣くのだよ」と原告堀の手を握り訴えると、「ありがとうございます。僕は殺人に問われている人間なのだ。爆弾であろうと、鉄砲であろうと人を殺すことはいけないよ」と大粒の涙を流して机の上に顔を伏せた。取調官からそれに引き続いて土田邸事件の被害者土田民子夫人の爆死の現場写真を示され、一枚ずつ見た後で、「まったくひどいですね。その片棒を僕はおった(かついだ)というのですね」、「(増渕は)全く危険な人だったのですね」、「ひどすぎる」、「私は嘘は言わんよ。どうなっているかわからないんだ」、「あの写真じゃうなされちゃうよ。あれに僕が加担しているなら極刑でもいいよ」、「あんな事件をやる人間が僕の友達だなんて、僕は極刑でいいですよ。こんなことまでして生きたいというのならそれは嘘だよ。あの奥さんのためにも頑張るよ」、「増渕に会わせてくれ。俺が何をやったか聞いてみたい。増渕が教えてくれなかったことを恨む」、「僕のやったくだりをちょっと話して下さい。ああ増渕とは縁を切ったぞ。(取調官に対し)今一生懸命考えているから、それまで(思い出すまで)付き合ってね」などと涙声で述べ、あるいはうつろな態度をとっていた。

(ウ) 原告堀は、取調べの際、「江口さんまで僕と一緒にやったと言うなら間違いはない」、「増渕と江口が話しているのなら俺は極刑だよ。……主犯が何も知らないなんて」とも供述していた。

また、原告堀は、昭和四八年四月一日の取調べに際し、「あと一年聞か。罪となるのは二つだけと思っていたのに」と答えた。

(エ) 取調官は、原告堀に対し、「君の将来はどうなるのか。君の意志で自分を表現できないか。自分を犠牲にしてまでも納得が行くか。この世に未練はないのか」などと説得した。

(オ) 取調官は、原告堀に対し、自分の意志で清算しなければ、周囲の多くの人に迷惑がかかる旨説得したところ、原告堀が、「親や兄弟までも逮捕するのですか」と答えたので、取調官が警務要鑑中の爆発物取締罰則の条文(告知義務に関する八条)を示した。

(カ) 原告堀は、昭和四八年三月一七日以降、「体中がかったるくて何も考えられない」とつぶやき、その後記憶に自信をなくしたとか、このような重大な事件を起こしながら、記憶がないのは自分の記憶や性格が異常なのだとの趣旨の発言を繰り返すようになり、同月二八日の勾留理由開示法廷においては、長期間の深夜に及ぶ取調時間の短縮を訴え、できることなら取調時間を短縮して判然とした記憶の下で供述できるようにしてほしい旨述べた。同原告は、同年四月三日の夜には、頭が混乱してわからなくなった、今日は疲れて混乱した、放心状態であるなどとも述べていた。

(キ) 原告堀は、取調べに際し、「弁護人と相談してみる」との発言を何度も述べ、同原告は、弁護人から、いいかげんな調書は作るなどの指導を受けていた。

<4> 接見状況

原告堀は、弁護人と、昭和四八年三月七日に七〇分間、一三日に五五分間、一四日に二九分間、一六日に二〇分間、一七日に二〇分間、一九日に二五分間、二四日に一五分間、二七日に二五分間、二八日(勾留理由開示で出廷の際)に一五分間、同年四月二日に二〇分間、四日に二〇分間それぞれ面接して打ち合わせをしており、取調べに対し供述拒否権のあること等をあらためて助言されていた。

<5> 健康状態

原告堀は、昭和四八年三月二七日、医師の健康診断を受けたが、その結果異常はなく、同原告も、身体の具合の悪いところはない旨医師に申し向けていた。

(3)  右認定事実によれば、原告堀に対する取調べは、長期間にわたり、かつ長時間に及ぶなど必ずしも適切なものではなかったことが認められる。しかし、右認定の取調状況、接見状況、健康状態等に照らすと、本件全証拠によっても、原告らに対する各公訴提起等の段階で、原告堀に対する右取調べがその供述の証拠能力が否定されるほどに違法な取調べであったとは認められないし、また、その供述の任意性が否定されるとまでは認められない。

他に、原告ら主張の右取調べの違法及び任意性の欠如を認めるに足りる証拠はない。

(三)  その他

原告らは、原告掘らの弁護人らが地刑九部に提出した八・九機事件に関する同原告の供述調書の証拠能力についての昭和五五年九月三日付意見書(原告ら準備書面(一)別冊九)を引用して、原告堀が右事件でレポをしたことを前提にした取調べによって得られた供述調書は任意性がないかの如く主張するが、本件全証拠を検討してみても、これを認めるに足りる証拠はない。

2 原告江口について

(一)  取調方法等

原告らは、原告江口らの弁護人らが地刑九部に提出した昭和五五年四月一五日付「江口良子の供述の任意性・特信性に関する意見要旨」を引用して、捜査官らは、一貫して、原告江口を犯人として極めつけて発問し共犯者の自白をあることないこと取り混ぜて押し付け、脅迫して黙秘権を侵害し、健康のすぐれない同女に多人数で長期間かつ長時間の取調べを継続し、その結果、肉体的、精神的に疲労しきった同女が神経症的状況で浮かんだ幻覚を供述として録取しており、これらの供述には、もとより任意性、特信性がない旨主張する。

(二)  認定事実

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  原告江口は、昭和四七年一〇月三〇日に犯人隠避罪で逮捕・勾留され、同年一一月一七日に処分保留により釈放されたが(後に、犯人隠避罪は不起訴処分となっている。)、昭和四八年二月二〇日アメ文事件で逮捕・勾留され、同年三月一三日処分保留で釈放されたのち、直ちに、ピース缶爆弾製造事件で逮捕され、翌一四日日石・土田邸事件でも逮捕された上、同月一六日ピース缶爆弾製造事件及び日石・土田邸事件で勾留され、同年四月四日ピース缶爆弾製造事件及び土田邸事件で公訴提起された。その後、原告江口は、起訴後の取調べを拒否したため、同月七日東京拘置所へ移監されたが、同年五月五日日石事件で追起訴された。

(2)  原告江口の取調べは、昭和四八年二月二〇日以降連日にわたり、また一日一〇時間を越えることもあった。そして、追及的な取調べが行われたこともあった。

(3)  原告江口は、時に体調の悪いことがあり、特に昭和四八年三月三一日には、目まいを覚えて机にうつぶせになるような状態となったため、医師の診断を受けた結果、自律神経失調症及び貧血と診断された。しかしながら、取調官は、無理な取調べをしなければよいとの医師の言により、原告江口に対し、その晩は午後一〇時ころまで取調べを行い、翌日の四月一日は午後一〇時五〇分、その翌日の同月二日は午後一一時二五分まで、一一時間ないし一二時間にわたり取調べを行った。

なお、原告江口が身体の不調で取調べを受けるのが嫌だと主張しているのに、取調官において無理に取調べを行ったことはなかったし、また、右疾病の程度も決して重いものではなかった。

(4)  原告江口は、供述拒否権のあることを十分に知悉していた。

(5)  原告江口は、昭和四八年四月七日に東京拘置所へ移監されるまで、三名の弁譲士と交互に合計一四回(一回二〇分前後)にわたり接見した。

(6)  原告江口は、遅くともピース缶爆弾製造事件、日石・土田邸事件の三件で勾留された以後の段階では、取調官に対し、自己に不利益な事実について、認める事実と認めない事実を明らかにし、日石・土田邸事件はデッチあげ事件であると強調し、事件発生の前後の状況についての自己の主張を明確にしながら、他方でピース缶爆弾事件及び昭和四五年六月ころのいわゆる六月爆弾の製造については基本的にこれを認める供述をしていた。

(7)  原告江口自身、刑事審で、検察官の取調状況は警察におけるそれと異なっており、検察官の取調態度に対して抗議しなかったと述べていた。

(三)  判断

右認定事実によれば、原告江口の取調べは、必ずしも全てが適切であったとまではいえないものの、右認定の取調べ状況等に照らすと、本件全証拠によっても、原告らに対する各公訴提起等の段階で、原告江口のピース缶爆弾事件に関する供述の任意性が否定されるとまでは認められず、同様の判断に至った検察官の判断が不合理であるとは認められない。

3 原告榎下

(一)  別件逮捕・勾留、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返し

(1)  原告らは、昭和四八年三月一九日からの犯人隠避事件を理由とする原告榎下の逮捕・勾留は、その基礎となった被疑事実について捜査の意思も必要性もなかったのに、専ら日石・土田邸事件に関する自供を獲得するために、身柄拘束状態を利用することを目的としてした違法な別件逮捕・勾留であり、したがって、同年四月一〇日以降の土田邸事件、同月一二日以降の日石事件を理由とする各逮捕・勾留は、実質的に同一事件による逮捕・勾留の蒸し返しに他ならず、いずれも令状主義に違反する違法な身柄拘束であり、故に、右身柄拘束を利用した取調べはそもそも許されない違法なものであるから、右取調べによって得られた原告榎下の供述は任意性を欠き証拠能力がない旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 犯人隠避事件による逮捕・勾留

原告榎下は、昭和四八年三月一九日、犯人隠避事件により逮捕され、同月二二日勾留されて、同年四月一〇日まで勾留を延長されたが、結局、右事件について起訴されなかった。右勾留状記載の被疑事実は要旨次のとおりであった。

被疑者は、共産同赤軍派構成員増渕利行が罰金以上の刑にかかわる罪を犯し警視庁から指名手配されていることを知りながら、昭和四五年三月ころから同人と交友を続け、同人が逃走生活を継続し組識あるいは友人との連絡をとるなどに使用するため自動車を必要としたところ、

(ア) 同年六月ころから同年一〇月ころまでの間十数回にわたり白山自動車等において、増渕らの使用する自動車を無償で修理点検し、

(イ) 同年九月一三日ころ、東京都世田谷区上用賀六丁目三番一号南急モーターズにおいて、増渕が使用する普通乗用車(セドリック中古車)を購入するに際し、その品定めをした上、自己名義で購入契約を締結して便宜を与え、

(ウ) 同四六年一〇月ころ、白山自動車において、増渕の移動のためその内妻の前林則子が自動車を購入するに際し、同女に対し、熊谷博文所有の軽自動車(ホンダN三六〇中古車)の売却の仲介をし、

もって増渕の逃走を容易ならしめて犯人を隠避したものである。

<2> 犯人隠避事件の本犯

犯人隠避事件の本犯は、増渕その他の者によって敢行された東薬大事件であり、その内容の一つは、<1>増渕が、法定の除外事由がないのに、昭和四四年一〇月二〇日ころ、東京薬科大学(東薬大)において、平野博之に対し、瓶入りの劇物である塩素酸カリウム及び硫酸各一本を手渡して授与したという、毒物及び劇物取締法違反罪であり、他の一つは、<2>増渕らが、同月二〇日、二一日ころ、東薬大において、兇器を準備して人を集合させたという兇器準備結集罪であったが、増渕は、右<1>の毒物及び劇物取締法違反罪について、昭和四七年九月以降、逮捕、勾留、起訴され、同年一二月一八日東京地裁において、懲役一年、執行猶予三年の有罪判決を受けて、これが確定し、また、右<2>の兇器準備結集罪について、右毒物及び劇物取締法違反事件と併せて逮捕・勾留されて取調べを受けたが、結局、不起訴処分に終わった。

<3> 日石・土田邸事件による逮捕・勾留

原告榎下は、犯人隠避事件による勾留が終了した日である昭和四八年四月一〇日土田邸事件により、同月一二日日石事件により、それぞれ逮捕され、同月一四日右両事件により勾留されて、同年五月二日まで勾留を延長された後、同日土田邸事件につき、同月五日日石事件につき、それぞれ起訴された。その各被疑事実及び公訴事実は前記のとおりであった。

<4> 犯人隠避事件に関する捜査状況等

(ア) 捜査当局は、昭和四七年九月及び一〇月ころ、増渕の供述から、犯人隠避事件に関し、原告榎下が、自動車(ホンダN三六〇)の売却仲介をしたとの事実及び増渕と交友関係にあったとの事実をすでに把握し、そのころ、捜査員を原告榎下のもとに派遣して、右自動車の購入経路等について事情を聴取するなどしたが、当時は、それ以上に原告榎下の犯人隠避罪についての関連捜査をしなかった。

(イ) 犯人隠避事件により原告榎下を逮捕した後、捜査当局は、当初、犯人隠避事件に関する取調べを行っていたが、その後日石・土田邸事件に関する取調べを増やし、昭和四八年三月二八日以降、専ら日石・土田邸事件に関する取調べを行うようになった。

(ウ) なお、捜査当局は、昭和四七年九月以降、増渕に対する犯人隠避の容疑で佐藤、原告江口、藤田、長倉、森谷義弘らを逮捕・勾留して取り調べ、そのうち、佐藤、藤田の両名に対し略式命令請求を、森谷に対し公判請求をそれぞれ行い、これらについて、いずれも罰金刑(罰金一万円又は八〇〇〇円)の有罪裁判がなされた(長倉らは不起訴処分とされた。)。さらに、捜査当局は、増渕らの日石・土田邸事件による逮捕(昭和四八年三月一四日)・勾留の後、原告榎下及び松本ばかりでなく、村松及び中村(泰)も昭和四八年三月二九日犯人隠避事件の嫌疑で逮捕したが、いずれも同月三一日勾留請求が却下された。また、捜査官らは、同月三〇日、松村を同様の嫌疑で逮捕し、同年四月二日以降勾留して取り調べた。

(3)  右認定事実によれば、犯人隠避事件の本犯である増渕が犯した本犯事件は、いずれも原告榎下の右逮捕・勾留より約三年五か月も前の事件であり、その内の一つはすでに執行猶予付きの有罪判決が確定し、また他の一つは不起訴となって、いずれも処分が済んでいること、原告榎下の犯人隠避事件は、罰金刑程度が予想される軽微な事案であること、原告榎下の犯人隠避事件による逮捕・勾留期間のうち、少なくとも約半分は、専ら日石・土田邸事件の取調べに費やされたことが認められるが、しかし、前記証拠によれば、犯人隠避事件による原告榎下の逮捕・勾留当時、増渕が日石・土田邸事件で逮捕・勾留されてその後起訴されるような状況にあったので、原告榎下の犯情を判断するために、同原告の隠避行為と日石・土田邸事件との関連性等にまで範囲を広げて取調べを行う必要が生じ、原告榎下につき、犯人隠避事件についての処分を決定する上で、日石・土田邸事件についても取調べを行う必要があったことが認められ、これに照らすと、前記認定事実によっても、犯人隠避事件を理由とする原告榎下の逮捕・勾留が、専ら、いまだ証拠の揃っていない日石・土田邸事件の取調べを行うために、証拠の揃っている犯人隠避事件による逮捕・勾留を利用した違法な別件逮捕・勾留であるとまで認定することはできず、また、この間の原告榎下の供述が、任意性のない証拠能力のないものであったとまで認めることはできない。他に、原告らの右主張事実を認めるに足りる証拠はない。したがって、公訴提起の段階における右供述の任意性等に関する検察官の判断が不合理であったとは認められない。

なお、原告らは、原告榎下の右逮捕・勾留が違法な別件逮捕・勾留であることを前提として、日石・土田邸事件を理由とする逮捕・勾留が、同一事件による逮捕・勾留の蒸し返しである旨主張するが、前記のように、犯人隠避事件による逮捕・勾留が違法な別件逮捕・勾留とは認められないから、原告らの主張は、その前提を欠き理由がない。

(二)  取調方法

(1)  原告らは、原告榎下に対する警察官及び検察官の取調べについて次のように主張する。

<1> 警察官は、原告榎下の弁解録取に当たって、弁護人選任権を告知せず、弁護人選任権を否定する発言をし、また、供述拒否権を告知説明しなかった上、同原告に対する取調べにおいて、警察官の見込みや他の被疑者の供述に基づく誘導、押付け、弁解や否認を全く取り上げようとしない断定的な取調べ、脅迫と利益誘導、連日の長時間にわたる取調べ、謎かけや「宿題」による睡眠の妨害、記憶、精神状態の混乱を利用した取調べ、出鱈目な読み聞きなど原告榎下の人権を侵害する違法な取調べをした。

<2> 警察官は、原告榎下に対し、昭和四八年三月一九日の逮捕当初から、増渕が日石・土田邸事件の犯人であることを前提に、原告榎下もこれに関与したとの断定的な追及を加え、恫喝的な取調べや「今認めれば保釈になる。」「認めたってどうせ執行猶予だ。」などと甘言を弄して供述を強制した。

<3> 神崎検事は、昭和四八年四月四日の取調べにおいて、原告榎下が泣きじゃくりながら取調室に入ってきて押送の警察官を外に出して欲しいと申し出たのに、原告榎下にも押送警察官にも何ら確認を行わず、最初に警察官に供述した事項であるから警察官に調べさせるのがよいとしてすぐに原告榎下を警察に帰したが、右行為は検察官の措置として相当性を欠いたものである。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 逮捕・勾留及び起訴の経過

原告榎下は、昭和四八年三月一九日、犯人隠避事件で逮捕され、同月二二日同事件で勾留され(同年四月一〇日まで勾留が延長された。)、同年四月一〇日土田邸事件(幇助)で逮捕され、同月一二日日石事件で逮捕され、同月一四日、両事件で勾留された(同年五月二日まで勾留が延長された。)。そして原告榎下は、同年五月二日右土田邸事件で、同月五日日石事件でそれぞれ起訴された。

<2> 取調時間

原告榎下に対する取調時間(ここでは出房していた時間)は、逮捕当初の昭和四八年三月二〇日から九時間前後(ただし、同月二二日は四時間四六分、同月二三日は五時間二一分であった。)であり、同年四月に入ってからは、一二ないし一四時間に及ぶことも何日かあった。

(3)  右認定事実によれば、原告榎下に対する取調べは、連日長時間のものであって、必ずしも適切なものであったとまではいえない。しかし、この点を考慮に入れ、本件全証拠を検討してみても、原告らに対する各公訴提起等の段階で、原告榎下に対する右取調べがその供述の証拠能力が否定されるほどに違法な取調べであったとは認められないし、また、その供述の任意性が否定されるとまでは認められない。したがって、右と同様の判断をした検察官の判断が不合理であるとは認められない。

他に、原告ら主張の右取調べの違法等を認めるに足りる証拠はない。

4 原告前林について

(一)  法政大学生協窃盗事件の取調べ

原告らは、原告前林の法政大学生協窃監事件による逮捕・勾留は、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件の追及を目的とした違法な別件逮捕・勾留である旨主張するが、本件全証拠によっても、右法政大学生協窃盗事件による逮捕・勾留中にピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件に関する供述調書が作成されたことが認められず、原告らの右主張事実を認めることはできない。

(二)  その他

原告らは、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件の取調べ並びに起訴後の取調べについても違法を主張し、右取調べによって得られた供述の任意性がない旨主張するが、<証拠略>によれば、原告前林は、右取調べにおいて黙秘ないし否認を貫いていることが認められ、その他、同原告の供述の任意性を否定するような事情は、本件全証拠をもってしても認められない。

5 増渕

(一)  犯人との断定、被害者の死体の写真

原告らは、増渕の昭和四八年三月一三日自白に至るまでの取調状況につき、増渕は、同年二月一二日の八・九機事件逮捕の少し前から未解決爆弾事件の取調べを受け、同月下旬ころから日石・土田邸事件の本格的追及を受け、その際高橋警部補から「お前を犯人として断定する」と宣言され、更に被害者の死体等の写真を見せられたりして取調べを受けたなどと主張し、右取調べによって得られた増渕の供述の任意性を否定するかのような主張をする。

そして、<証拠略>によれば、増渕は、刑事審において、警察による取調べが同人を日石・土田邸事件の犯人だと決めつける厳しいものであった旨供述していることが認められ、また、<証拠略>によれば、取調べにあたった右高橋警部補は、増渕に対し、昭和四八年三月七日、取調中に、土田邸事件の被害者である土田民子の死体の写真を一回見せたことが認められる。

しかしながら、右各事実をもってしても、原告らに対する各公訴提起段階において、増渕に対する右取調べが違法でありその供述の任意性が否定されるとまで認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(二)  取調承諾の不存在、出頭拒否及び退去の自由の不告知

原告らは、取調官は、昭和四八年二月下旬ころから日石・土田邸事件について増渕を取り調べるに当たり、増渕から承諾を得ておらず、増渕に対し、出頭拒否及び退去の自由があることを告知していなかったし、増渕もそのことを知らなかった旨主張(八・九機事件等による別件勾留中の余罪取調べとしても違法である旨の主張も同様の趣旨を含んでいると考えられる。)し、右取調べによって得られた増渕の供述に証拠能力、任意性がないかの如く主張する。

しかしながら、<証拠略>によれば、取調官は、右事件の取調べを開始した同年三月七日からの取調べにおいて、増渕から、殊更に明示的な取調べについての承諾を得ていなかったものの、増渕は、右事件の取調べ以前から、取調官に対し、どんどん聞いて下さいよなどと言っていたことが認められる。

これによれば、勾留の被疑事実と異なる日石・土田邸事件の取調べにあたって、増渕から明示の承諾を得ていないとしても、これが増渕の供述の任意性等を否定することになるとは認められない。

そして、<証拠略>によれば、増渕は捜査段階から弁護士を選任していたこと、取調べの過程においても、昭和四八年二月二三日の警察での取調べで、八・九機事件及びアメ文事件について供述をしながら、調書作成については、「でも調書は、指示しました、やりましたと言うのを認めるだけで、今日のは調書を拒否します。弁譲士を呼んで下さい。救対の弁護士を選任し、村田弁護士を解任して個人の問題として反権力闘争の一環として闘争の姿勢を保ってゆき、救対と連結をとりながらやってゆきたい。」などと申し立てていること、現実に同日付けの員面調書は作成されていないことなどがそれぞれ認められる。

これらによれば、取調官が、勾留の被疑事実と異なる事実の取調べに際し、増渕に対して出頭拒否及び退去の自由を告知しなかったとしても、右取調べによる供述の任意性が直ちに否定されるとは認められない。

(三)  取調官による押付け

原告らは、増渕の取調べにおいて、取調官が考えた筋書きを断定的に押し付ける取調べをした旨、また、原告江口及び同堀が既に自供していて細かいところまでわかっていると誤導した旨それぞれ主張し、右取調べによって得られた増渕の供述の任意性がないかの如く主張する。そして<証拠略>によれば、増渕は刑事審において右主張にそう供述をしていることが認められる。

しかし、右各証拠及び<証拠略>によれば、増渕の取調べにあたった前記高橋警部補は、刑事審においてこれを否定する供述をしていることも認められ、増渕の刑事審における右供述は、高橋警部補の刑事審における右供述に照らし容易に採用し難く、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

(四)  増渕の健康状態

原告らは、増渕の健康状態が、昭和四八年一月二二日の逮捕以前からむしばまれていて、その後連日連夜の取調べの中で悪化していき、ぜん息も治らず、腰痛を起こしたり夜も眠れない日が続いて、最悪の状態になっていった旨主張し、右取調べによって得られた増渕の供述に任意性がないかの如く主張する。この点、<証拠略>によれば、増渕は刑事審で原告らの右主張にそう趣旨の供述をしていること、増渕は、逮捕当初から幾分風邪気味であり、完全には治りきらない状態にあったこと、持病としての喘息の発作があったことがそれぞれ認められる。

しかしながら、右各証拠及び<証拠略>によれば、右風邪及び喘息の発作はいずれも軽度なものにとどまっており、取調べに支障をきたすものではなかったこと、高橋警部補及び津村検察官による取調中、増渕の健康状態は普通で食欲もあったこと、取調中に喘息の発作を起こしたこともなかったこと、取調期間中、増渕が風邪気味や下痢気味のこともあったが、その場合は薬を与えていたこと、増渕の母親は、たびたび煙草の差し入れを行っていたことがそれぞれ認められ、これらの事実に照らすと、増渕の刑事審における右供述は、容易に採用することができないし、また、当時、幾分風邪気味であって喘息の持病があったとの事実から最悪の健康状態になっていたとの事実を推認することも困難であり、他に原告らの右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

したがって、原告らの右主張は理由がなく、原告らの各公訴提起等の段階において、増渕の右供述の任意性が否定されるとは認められない。

(五)  取調べの態様

原告らは、増渕は、昭和四八年一月二二日から一日の休みもなく朝から深夜まで休憩時間も与えられずに取調べを受け、日石・土田邸事件の取調べに入ってからも、大きい声で追及され続け、増渕が犯人であると断定した取調べを受け、また、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで取り調べられた旨主張し、これらの取調べによって得られた増渕の供述に証拠能力、任意性がないかの如く主張する。そして、<証拠略>によれば、増渕は、刑事審の公判廷で原告らの右主張にそう趣旨の供述をしていること、増渕は、日石・土田邸事件の取調べが始まった同年三月七日以降、厳しい追及的な取調べを長時間にわたって受けていたことが認められる。

しかしながら、他方、右各証拠及び<証拠略>よれば、日石・土田邸事件の重大性、捜査の困難性及び共犯者の供述状況等から右時期に捜査当局が増渕の当時の行動等を詳しく取り調べる必要性があったこと、増渕は右のような取調べを明示的に拒否することなくこれに応じていたこと、取調べにあたった高橋警部補は、雑談等を交えながら取調べを行っていたことがそれぞれ認められ、これらの事実に照らすと、原告らの各公訴提起等の段階において、増渕の右供述の任意性が否定されるとは認められない。

(六)  長時間の取調べ

(1)  原告らは、増渕は、アメ文事件による逮捕以来長期間の身柄拘束を受け、その間、連日不当に長時間厳しい取調べを受けて肉体的にも精神的にも疲労困ぱいしていた旨主張し、右取調べによって得られた増渕の供述に任意性がないかの如く主張する。

(2)  <証拠略>によれば、増渕の取調時間に関し、次の事実が認められる。

<1> 増渕は、昭和四八年一月二二日にアメ文事件により逮捕されて以来、連日取調べを受け、その取調時間(取調室在室時間をいう。以下同じ。)は、当初の一〇日間の勾留が満了する日である同年二月二日までの間は、ほぼ午前一〇時ころから夕刻まで平均七時間半であり、最も長い日でも九時間半程度であったが、勾留延長後同月一〇日までの八日間は、ほぼ午前一〇時ころから午後九時ないし一〇時すぎまで平均一一時間ないし一二時間に達し、勾留延長後取調時間が長くなり、かつ夜間に及んだ。

<2> 八・九機事件による逮捕・勾留中(昭和四八年二月一二日から同年三月六日まで)の増渕の取調時間は、午前一〇時ころから夕刻ないし午後八時半ころまでであり(最も遅い帰房時間は午後九時である。)、連日の取調時間は、一日約四時間ないし一〇時間、平均八時間弱にとどまり、アメ文事件による勾留期間のうちの後半の時期に比べればかなり短くなっていた。

<3> 増渕は、八・九機事件の二〇日間の勾留満了日である昭和四八年三月六日、同事件により起訴され、以後同事件及びすでに起訴済みのアメ文事件の二つの勾留により身柄を拘束されることとなったが、その翌日である三月七日から、新たな被疑事実である日石・土田邸事件について、令状によって逮捕・勾留されることなく、いわゆる別件起訴勾留中における余罪の捜査としての取調べが本格的に開始された。

右三月七日から日石・土田邸事件を理由としてで逮捕される同月一四日までの期間における増渕の取調時間は、午後一時半ないし二時ころから午後九時ないし一〇時までの一日七時間ないし八時間であった。前記八・九機事件の勾留中における取調べと対比すると、取調時間の点ではほとんど同じであるが、時間帯の点で取調開始時刻及び終了時刻がともに遅くなり、連日ほとんど午後九時すぎまで及んだ。

<4> 増渕は、昭和四八年三月一四日、日石・土田邸事件により逮捕され、同月一六日これらの事件で勾留請求されて同日から同年四月四日まで二〇日間勾留された。

この期間における取調べは、午後から始められたことも数日あったが、午前中から行われることが多く、その終了時刻はほとんど毎日午後九時から一〇時ころであり、一日の取調時間は平地一〇時間弱であり、帰房時刻は、午後五時から六時の間が一日、午後八時から九時の間が一日、午後九時から一〇時の間が七日、午後一〇時すぎが一三日(最も遅い時刻は午後一〇時四〇分)であった。

<5> 増渕は、日石・土田邸事件の勾留最終日の昭和四八年四月四日に土田邸事件及びピース缶爆弾製造事件について起訴され、日石事件については、処分を保留されてその勾留が終了したが、その後も日石・土田邸事件につき、従前と同様に同年五月五日に日石事件の起訴をされるまで連日取調べを受けた。

この間の取調時間については、開始時刻は従前とほとんど変わらなかったが、終了時刻は、同年四月五日から一九日まですべて午後九時半以降に及び、うち午後一〇時半すぎまで及んだ日が五日間に達し、また、帰房時刻は、その間すべて午後一〇時以降となり、午後一一時以降が五日もあり、最も遅いのが四月八日の午後一一時四五分であった。その後同月二〇日以降、帰房時刻はかなり早くなり、午後九時を過ぎたのが二日間のみとなり(最も遅いのは午後九時半)、午後四時台が二日、午後六時台が三日、午後七時台が二日、午後八時台が六日でありそれに従って取調時間も短縮された。

(3)  右認定事実によれば、増渕に対する取調べは、長期間にわたり、かつ、長時間に及ぶものであったことが認められる。

しかしながら、前記のように、取調期間中、増渕の健康状態には特に問題がなかったこと、日石・土田邸事件は重大かつ捜査の困難な事件であり関係者に対する取調べの必要性が高かったこと、増渕は右のような取調べを明示的に拒否することなくこれに応じていたこと、さらに、<証拠略>によれば、増渕は、日石・土田邸事件に関する取調べの始まった昭和四八年三月七日以後の同月九日、弁護士である村田寿男と二五分間にわたって接見していることがそれぞれ認められる。

右の認定、判断を総合考慮すれば、増渕に対してなされた右取調時間が、必ずしも適切とまでは認められないものの、原告らに対する各公訴提起等の段階において、右取調べによる増渕の供述の任意性が否定されるとまでは認められない。

(七)  起訴後の勾留中の余罪取調べ

(1)  原告らは、昭和四八年二月下旬から三月一三日までの増渕に対する日石・土田邸事件の取調べは起訴後の勾留中の余罪取調べであるから、その取調べは、任意取調べの範囲内に限られるべきであり、たとえ、被疑者が取調べを受認する義務がないことを知っており、かつ、明示的に取調べを拒否することがなかったとしても、長時間にわたり執拗な取調べをするなど、被疑者の取調拒否の自由意思を事実上抑圧するようなものであってはならないとした上で、増渕に対する右事件の取調べは、長期間にわたる逮捕・勾留中の連日の取調べにより疲労困ぱいしている状態の中で、起訴された事件よりはるかに重大な被疑事件について、連日、狭い取調室において警察官三、四名がかりで七ないし八時間、午後九時ないし午後一〇時に及ぶ取調べを行い、とりわけ同月七日から一二日までのあいだの取調方法は極めて厳しいものであって、任意の取調べとして許容される限度をはるかに越えた違法な取調べであった旨主張し、右取調べによって得られた増渕の供述に任意性がないかの如く主張する。

(2)  前記認定事実並びに<証拠略>によれば、増渕は、八・九機事件及びアメ文事件による起訴後の昭和四八年三月七日以降、日石・土田邸事件について長時間にわたる取調べを受けたものであり、地刑九部における「被告人増渕利行の供述調書及び供述書の取調請求に対する決定書」において、右取調べは任意捜査として許される限度を超えているとされたことが認められる。

しかしながら、前記のように、取調期間中における増渕の健康状態は特に悪性なものでなかったこと、日石・土田邸事件の重大さ、捜査の困難性、共犯者の供述状況等から右時期における関係者に対する取調べの必要性が高かったこと、増渕は右のような取調べを明示的に拒否することなくこれに応じていたこと、増渕は、日石・土田邸事件に関する取調べの始まった昭和四八年三月七日以降、弁護士と接見していることなどに照らすと、原告らに対する各公訴提起等の段階において、右起訴後の取調べによる増渕の供述に任意性がなかったとまで認めることはできない。

(八)  違法な別件逮捕・勾留

原告らは、原告堀に対する八・九機事件及び原告堀、同江口、同前林に対するピース缶爆弾製造事件の各勾留請求の資料とされた増渕の自白調書は、同人に対する法政大学図書窃盗事件若しくはアメ文事件の勾留中に得られたものであるところ、その勾留は日石・土田邸事件の捜査を目的とした違法な別件逮捕・勾留であるから、違法に収集された自白調書として証拠能力がない旨主張するが、本件全証拠によっても、増渕に対する法政大学図書窃盗事件及びアメ文事件の勾留が日石・土田邸事件の捜査を目的としてなされた違法な別件逮捕・勾留であるとは認められない。原告らの右主張は理由がない。

6 中村(隆)

(一)  特異な取調方法

(1)  原告らは、中村(隆)の主たる取調官であった坂本警部補は、中村(隆)の取調べに際し、自己の万能力を誇示することによって、中村(隆)の運命を一手に握っていると見せかけ同人を心理的に制圧するという特異な取調方法を採り、これによる長期間かつ長時間の連続した取調べを続け、その間、誘導、誤導、切り違え、利益誘導、強制、手記の作成等の様々な違法手段を用い、「現代の拷問」とも評価すべき違法な取調べを行ったものであり、また、庄司英義巡査部長は、爆弾と電気の専門家であって、中村(隆)の昭和四八年四月一六日付員面は庄司巡査部長が口授して作成したものであり、中村(隆)の同日付メモは庄司巡査部長の口授を三沢巡査部長が筆記したものである旨主張し、右取調べによって得られた中村(隆)の供述は任意性がないかの如く主張する。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 中村(隆)の逮捕・勾留及び起訴の経過

中村(隆)は、昭和四八年三月二六日から同年四月八日まで日石・土田邸事件の参考人として在宅取調べを受けたが、同月九日、爆発物取締罰則違反幇助(土田邸事件の爆弾製造謀議の際、製造方法について提案及び示唆をした事実)により逮捕されて、同月一二日同事件で勾留され、その後同月一五日日石事件でも逮捕されて、同月一八日勾留された。同人は、さらに、右各事件につきそれぞれ勾留期間を延長されて、同月三〇日土田邸事件につき正犯として起訴されたうえ同事件について勾留され、さらに、同年五月五日日石事件でも起訴されて引き続き同事件についても勾留され、昭和四九年三月四日、警視庁三田警察署から東京拘置所に移監された。

<2> 取調担当者及び取調状況

中村(隆)の取調べは、昭和四八年四月一一日以降、坂本警部補が担当し、日石・土田邸事件についての重要な自白を録取した多数の供述調書が作成された。

坂本警部補は、中村(隆)の取調べにあたって、被疑事実について厳しく追及するとともに、かなりの時間をかけて、捜査官としての自分の考え方、人生観、中村(隆)の更生の道等について説得、説示を行い、中村(隆)から自己の心境等を供述させるとともにそれをメモ書きさせた(強制させた事情は認められない。)。

<3> 取調時間等

中村(隆)は、昭和四八年三月二六日から同年四月八日までの間、参考人として、ほぼ連日、かなりの時間、時には夜間に及ぶ取調べを受けた。この間、中村(隆)は、任意に出頭して取調べに応じ、取調官らが出頭を強制したり、中村(隆)が取調べを拒否したにもかかわらず取調べを継続したことはなかった。

逮捕後の同月九日以降も取調べは深夜に及ぶことがあり、中村(隆)は、午前零時前後に帰房することも何日かあった。

もっとも、取調官は、取調べが遅くなった場合は、翌日の取調べを遅く開始するなどの配慮をしていた。

<4> 供述状況

中村(隆)は、捜査段階において、日石爆弾搬送及び土田邸爆弾製造については詳細に自白しながら、日石爆弾製造及び土田邸爆弾搬送については終始否認していた。

(3)  右認定事実によれば、中村(隆)に対する取調べは連日長時間に及び、同人に対して厳しい追及が行われたことが認められ、取調態様として必ずしも適切なものばかりであったとまではいえないものの、右取調状況、供述状況等に照らすと、本件全証拠によっても、原告らに対する各公訴提起等の段階で、中村(隆)の供述の任意性が否定されるとまでは認められない。

原告らは、前記のように種々取調べの違法事由を主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

(二)  起訴後の取調べ

(1)  原告らは、中村(隆)は、起訴後一〇か月以上もの間警察署の代用監獄に勾留され、連日取調べを受けたが、それは、取調べの異常性、違法性を特徴づけるものであり、また、起訴後の取調べの限界を超えるものであったとして、中村(隆)の起訴(昭和四八年四月三〇日)後の供述に任意性がないかの如く主張する。

(2)  <証拠略>によれば、中村(隆)の右起訴後の供述(同年五月一日ないし三日付)は、すでに供述された内容の訂正、補充、整理等が主となっていたこと、取調べの雰囲気も従来に比べ相当緩和されていたこと、取調時間についてもかなり短縮され、夕刻までに取調べが終了している日が多かったこと、他に供述の任意性に疑いを生じさせるような特別の事情がなかったことがそれぞれ認められる。

(3)  右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告らに対する日石事件の起訴段階で、中村(隆)に対する土田邸事件の起訴(昭和四八年四月三〇日)後の供述に任意性がなかったとまでは認められない。

(三)  検察官の取調べ

原告らは、検察官による取調べは、警察官による取調べと時間的に密着し、内容的にも一体となったものであって、違法なものであるとして、中村(隆)の検察官に対する供述の任意性がないかの如く主張する。

しかしながら、前記のとおり、中村(隆)の警察官に対する供述の任意性がないとまで認めることはできず、また、本件全証拠によっても、検察官の取調べ自体に中村(隆)の供述の任意性に疑いを生じさせるような不当な取調方法がとられた等の事情を認めることもできないから、原告らの右主張はやはり理由がない。

なお、原告らは、中村(隆)の昭和四八年四月一七日付員面と同月一九日付検面を例にとり、甲高い声で話す増渕が、どすの利いた声を出すはずはないのに、右員面がその点について誤りを犯したところ、右検面もその誤りをそのまま受け継いでいると指摘し、また、右員面及び検面中の土田邸爆弾の弁当箱に詰めた爆薬量の表現についても両者共通の誤りを犯していると指摘するが、これらを考慮に入れても、右判断に変わりはない。

7 松村について

(一)  違法な別件逮捕・勾留

(1)  原告らは、原告堀及び増渕と交友関係のあった松村について、捜査官らは、真実は犯人隠避事件に関する捜査の必要性もその意思もないのに、もっぱら日石・土田邸事件の取調べを目的として、違法な別件逮捕・勾留をし、更に日石・土田邸事件で再逮捕して取調べをしたが、この間の取調べによってなされた松村の供述は、任意性を欠き、証拠能力がない旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、松村は、日石事件や土田邸事件で逮捕される前に東薬大事件で指名手配中の増渕を隠避させたという犯人隠避事件で昭和四八年三月三〇日に逮捕され勾留されたこと、増渕その他によって敢行された東薬大事件は、右逮捕から約三年五か月も前に発生した事件であり、増渕について、右事件のうち毒物及び劇物取締法違反罪についてはすでに昭和四七年一二月一八日に執行猶予付の有罪判決が言い渡されて確定しており、兇器準備結集罪については不起訴処分となって済んでいたこと、松村は、犯人隠避事件で逮捕された時点で、増渕が本犯であることの知情の点や日大二高の施設を連絡場所として使用させた点を認めていたこと、以後の取調べでも、犯人隠避事件に関する供述は、逮捕当日のそれの範囲を大きく越えるものではなかったこと、犯人隠避事件による逮捕・勾留中の取調べは、同事件の被疑事実に関するものより、日石・土田邸事件に関するもののほうが多かった(この間の松村の司法警察員に対する供述調書一七通、検察官に対する供述調書四通、合計二一通中、犯人隠避事件に関するものは五通)ことがそれぞれ認められる。

しかしながら、前記各証拠によれば、松村に対しては、捜査官らは当初から日石・土田邸事件への関与についての嫌疑を抱いてはいなかったこと、松村の右犯人隠避行為の内容は、昭和四六年一〇月ころから同四七年四月ころまでの間、約一〇回程度、増渕に対して、松村が勤務する日大二高の職員室等の学校施設を逃避場所あるいは連絡場所として使用させたというものであり、捜査官らは、本犯である増渕及びその紹介者である原告堀との交際状況や、増渕が日大二高に来たそれぞれの場合の具体的状況や理由等を詳細に取り調べる必要があり、また、当時増渕らが日石・土田邸事件で逮捕・勾留されその後土田邸事件で起訴されたことにより、隠避行為と右事件との関連性等についてまで取調べを行う必要があって、犯人隠避事件についての処分を決定をする上で、日石・土田邸事件についての取調べをする必要があったことがそれぞれ認められる。

(3)  右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階等において、松村の供述が違法な別件逮捕・勾留中のものとして任意性がないとまで認めることはできず、同様の判定をした検察官の判断が不合理であるとは認められない。

なお、原告らは、犯人隠避事件による松村の逮捕・勾留が違法であってこれによって得られた供述調書には証拠能力がないとの主張を前提に、右供述を疎明資料とした日石・土田邸事件による同人の逮捕及びこれに続く勾留も違法であり、同事件の逮捕・勾留中に得られた供述も証拠能力を有しない旨主張するが、右のように犯人隠避事件による逮捕・勾留中の松村の供述に任意性がないとまではいえず、その前提を欠き、右主張は理由がない。

(二)  利益供与

(1)  原告らは、取調官らは、母親思いの松村に対し、母親に会わせて昼食をともにさせるという利益供与をし、それによって同人を自白に追い込んだ旨主張し、同人の供述に任意性がないかの如く主張する。

(2)  <証拠略>によれば、松村は、昭和四八年三月三〇日以降犯人隠避事件により逮捕・勾留されていたところ、同年四月九日に午後零時二〇分から同一時一五分までの間、同人の母親と接見をしたこと、松村は、その接見の直後に、取調官に対し、日石総括に関するメモを作成して提出したこと、松村は幼少時に父親を亡くしており、勾留期間中も女手一つで自分を養育してくれた母親の身を案じていたことなどがそれぞれ認められる。

(3)  右事実によれば、捜査官は、母親思いの松村に対し、勾留期間中に母親と会わせたことが認められるが、これのみをもって、松村の供述の任意性が否定されるとまでは認められず、他に、原告らの右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

(三)  執拗かつ強引な追及

(1)  原告らは、松村に対する取調方法は、虚偽の供述をせざるを得ないような程度に執拗かつ強引に追及を重ねる違法なものであったとして、その供述に任意性がないかの如く主張する。

(2)  <証拠略>によれば、捜査段階において、松村に対し、厳しい、追及的な取調べが行われたことが認められるものの、これによって、同人の供述の任意性が否定されるとまでは認められず、検察官が同様の判断をしたことが不合理であったとは認められない。

8 松本

(一)  別件逮捕・勾留

(1)  原告らは、捜査官らは、原告堀及び増渕と交友関係のあった松本について、真実は犯人隠避事件に関する捜査の必要性もその意思もないのに、もっぱら日石・土田邸事件の取調べを目的として、違法な別件逮捕・勾留をし、更に日石・土田邸事件で再逮捕をして取調べを行い、これによって自白調書を獲得したものであり、右自白調書は、任意性を欠き、証拠能力を有しない旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、松本は、土田邸事件で逮捕される前の昭和四八年三月一九日、東薬大事件で指名手配中の増渕を隠避させたという犯人隠避事件で逮捕され、その後勾留されたこと、東薬大事件は、松本の右逮捕から約三年五か月も前の昭和四四年一〇月に発生した事件であり、増渕について、右事件のうち毒物及び劇物取締法違反罪については昭和四七年一二月一八日に執行猶予付の有罪判決が言い渡されて確定しており、兇器準備結集罪については不起訴処分となって済んでいること、犯人隠避事件についての松本に対する被疑事実の要旨は、<1>昭和四五年一二月二五日ころ、増渕が高橋荘に引っ越しするに際して、荷物運搬用として貨物自動車一台を提供したほか、自ら運転した、<2>昭和四六年一月ころから昭和四七年八月ころまでの間、数回にわたり、増渕が東北、信州、山陽方面に自動車で旅行移動するに際し、右自動車を提供運転して便宜を与えたというものであったこと、捜査当局は、右<1>について、すでに昭和四七年九月か一〇月ころ、増渕に対する東薬大事件あるいは法政大学図書窃盗事件等の捜査の過程で、増渕の供述により松本の右嫌疑を把握していながら、当時は、その実質的な捜査を全く行っていなかったこと、また、捜査官は松本の右逮捕・勾留後も、右<2>について、松本による自動車の提供、運転行為が、官憲による増渕の発見、逮捕を妨げるものであったかどうか、松本にそのことの認識があったかどうかの点についての取調べを行っていないこと、犯人隠避事件の勾留延長決定後に作成された松本の供述調書は、司法警察員に対するものが三通(昭和四八年四月三日付が二通、同月八日付が一通)あったが、右事件についてのものは一通のみであって、しかもその供述内容は簡単なものであったことがそれぞれ認められる。右事実によれば、犯人隠避事件による松本の逮捕・勾留は、別件の取調べを目的とするものであったのではないかとの疑問がある。

(3)  しかしながら、前記各証拠によれば、松本に対しては、捜査官らは、当初から日石・土田邸事件への関与についての嫌疑を抱いてはいなかったこと、松本は増渕が東薬大事件の犯人であることについての知情の点を否認していたことから、捜査官らは、本犯である増渕と知り合った経緯やその後の交際状況、右<1><2>の隠避行為の具体的な経緯等を詳細に取り調べる必要があり、また、当時増渕らが日石・土田邸事件で逮捕・勾留されたことにより、隠避行為と右事件との関連性等についてまで取り調べる必要があって、犯人隠避事件についての処分の決定をする上で、日石・土田邸事件についても取り調べる必要があったこと、捜査官らは、必ずしも直截に日石・土田邸事件の取調べを行っておらず、同事件についての取調べもさほど精力的なものではなかったことがそれぞれ認められる。

(4)  右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階等において、松本の犯人隠避事件による逮捕・勾留が別件の捜査を目的とした違法な逮捕・勾留であってその間の松本の供述が任意性のないものであるとまで認めることはできず、同様の判定をした検察官の判断が不合理であるとは認められない。

なお、原告らは、犯人隠避事件による松本の逮捕・勾留が違法であってこれによって得られた供述調書には証拠能力がないとの主張を前提に、右供述を疎明資料とした土田邸事件による同人の逮捕及びこれに続く勾留も違法であり、同事件の逮捕・勾留中に得られた供述も証拠能力を有しない旨主張するが、右のようにその前提の主張に理由がなく、全体として理由がない。

(二)  取調方法

原告らは、松本に対する取調方法も、執拗かつ強引な追及を行うなどの違法なものであったとして、その供述に任意性がないかの如く主張し、<証拠略>によれば、捜査段階において、松本に対し、厳しい、追及的な取調べが行われたことが認められるが、これによっても、松本の供述の任意性が否定されるとまでは認めることができず、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。

9 金本

原告らは、金本は昭和四八年三月二九日に犯人隠避事件で逮捕されたが、捜査官らは、右事件に関する捜査の必要性がなく、その意思がないのに、日石・土田邸事件の取調べをすることを目的として違法な別件逮捕を行ったものであり、これによって得られた供述は、任意性を欠き証拠能力を有しない旨主張する。

<証拠略>によれば、金本は、土田邸事件で逮捕される前に東薬大事件で指名手配中の増渕を隠避させたという犯人隠避事件で逮捕されたが、捜査官らは、犯人隠避事件についての処分の決定をする上で日石・土田邸事件についても取り調べる必要があったこと、金本は、右逮捕に続く勾留請求が却下され、同月三一日に釈放されたことがそれぞれ認められる。

右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、金本の供述が違法な別件逮捕中のものとして任意性がないとまで認めることはできない。

10 中村(泰)

(1)  原告らは、捜査官らは、原告堀及び増渕と交友関係のあった中村(泰)について、真実は犯人隠避事件に関する捜査の必要性がなく取調べの意思がないのに、もっぱら日石・土田邸事件の取調べを目的として違法な別件逮捕をし、更に日石・土田邸事件で再逮捕をして取調べを行い、これによって自白を獲得したものであり、右自白は、任意性を欠き証拠能力がない旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、中村(泰)は、土田邸事件で逮捕される前に東薬大事件で指名手配中の増渕を隠避させたという犯人隠避事件で昭和四八年三月二九日逮捕されたが、右東薬大事件は、右逮捕から約三年五か月も前の事件であり、増渕について、右事件のうち毒物及び劇物取締法違反罪については昭和四七年一二月一八日に執行猶予付有罪判決が言い渡されて確定しており、兇器準備結集罪については不起訴処分として決裁されていたこと、中村(泰)は、右逮捕の直前の約二週間にわたって、連日長時間の任意出頭をしていること、右逮捕に引き続く勾留請求が却下された日の翌日からの取調べはもっぱら日石・土田邸事件に関するものであったことがそれぞれ認められる。

(3)  しかしながら、前記各証拠によれば、中村(泰)に対しては、捜査官らは、当初から日石・土田邸事件への関与についての嫌疑を抱いてはいなかったこと、前記のように、犯人隠避事件についての処分の決定をする上で、日石・土田邸事件についても取り調べる必要があったこと、中村(泰)は、右逮捕に続く勾留請求が却下され、同月三一日に釈放されていることがそれぞれ認められ、これらの事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告前林及び同榎下に対する土田邸事件の公訴提起段階等において、中村(泰)の供述に任意性がないとまで認めることはできず、検察官が同様の判断をしたことが不合理であるとは認められない。

11 総合判断

右のとおりであり、本件全証拠を検討してみても、原告らに対する各公訴提起等の段階において、原告らを含む関係者の各供述につき、その任意性、証拠能力等がなかったとまで認めることはできない。なお、右に説示していない関係者らの供述についても、ほぼ右と同様の理由により、当時、その任意性、証拠能力等がなかったとまでは認められない。

なお、原告らは、前記主張のような各違法取調べは、それによって得られた各供述の任意性、証拠能力等を失わせるばかりでなく、右取調べ自体が原告らに対する公務員の個々の不法行為(国家賠償法一条)となる旨主張するかの如くであるが、前記説示のとおり、本件全証拠によっても、原告らに対する右各取調べが国家賠償法上違法になるとまでは認めることができない。

一八 原告らに対する公訴の追行

1 公訴の追行の違法性判断基準

刑事事件において無罪の判決が確定したというだけで直ちに公訴の追行が違法となることはなく(最高裁昭和四九年(オ)第四一九号同五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁)、公訴追行時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、右公訴の追行は違法性を欠くものと解するのが相当である(前記第二小法廷判決及び最高裁昭和五九年(オ)第一〇三号平成元年六月二九日第一小法廷判決・民集四三巻六号六六四頁参照)。

また、公訴の提起が違法でないならば、原則としてその追行も違法でないと解すべきであるから(前記第一小法廷判決)、公訴提起後、公判において、右嫌疑を否定する明白な証拠が提出されるなど、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて公訴を追行したと認め得るような事情がある場合に限り、検察官による右公訴の追行が違法となるものと解するのが相当である。

そして、前記のとおり、原告らに関するピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件の公訴提起は違法とはいえないから、以下、右各事件の公判過程において、原告らに対する右各事件の嫌疑を否定する明白な証拠が提出され、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなっていたと認め得るような事情があったかどうかを検討する。

2 ピース缶爆弾事件の第一審における公訴追行

(一)  ピース缶爆弾事件の第一審における公判経過

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  公判係属状況

検察官は、原告堀に対し、昭和四八年三月六日、八・九機事件につき爆発物取締罰則違反の罪で、原告堀、同江口及び同前林に対し、同年四月四日、いずれもピース缶爆弾製造事件につき同罰則違反の罪で、それぞれ東京地裁に公訴の提起をし、右各事件は、最終的には、地刑九部において併合審理された。

(2)  証拠調べの状況

原告堀、同江口及び同前林は、地刑九部の審理において、いずれも各公訴事実にかかる犯行を全面的に否認した。

そこで、検察官は、右公判廷において、原告らの右嫌疑を立証するため、捜査段階で自白していた佐古、増渕らの共犯者の供述調書について、取調べ検察官及び警察官の証人尋問を行って刑訴法三二一条一項二号、三二八条の各規程に基づく証拠の取調請求に力を傾けるとともに、佐古や公判段階に至って自白した菊井らの証人尋問を行い、さらに、八・九機事件及びアメ文事件に用いられた各爆弾の構造、性能に関する鑑定結果についての証人尋問等を行って犯行の外形的事実を立証しようとした。

これに対し、原告ら被告人の弁護人は、石井ら一部の者についてアリバイを主張するとともに、捜査段階の自白は捜査官の強要によるもので任意性がないとして、被告人質問などによりその立証を図った上、アメ文事件の爆弾が収納されていた段ボール箱の鑑定結果などに照らして共犯者らの自白には証拠物と矛盾があることが明らかで信用性もないなどと主張した。また、弁護人は、本件ピース缶爆弾を製造したのは、牧田吉明(牧田)らであり、また、八・九機事件を敢行したのは若宮正則(若宮)らであって、原告らを含む被告人らはこれらに全く関与しておらず、無罪であると主張し、若宮や牧田らの証人尋問を行った。弁護人の右反証に対し、検察官は、若宮及び牧田の右各証言やアリバイに関する証拠について、その裏付けのないことを立証して信用性を弾劾するなどした。

なお、検察官は、当初、原告らがピース缶爆弾を製造した日を「昭和四四年一〇月一六日ころ」として公訴を提起していたが、地刑五部における公判で取り調べられた、村橋稔、杉本嘉男、三潴末雄及び牧田に対するいわゆる京都地方公安調査局事件の確定記録を検討した結果、原告らが右のピース缶爆弾を製造したのは「昭和四四年一〇月一六日」以前である蓋然性が高いものと判断した。そこで検察官は、地刑五部においては昭和五三年六月二日の第七五回公判期日で、地刑九部においては同年九月五日付書面により、いずれも右爆弾の製造日を「昭和四四年一〇月一六日ころ」から「昭和四四年一〇月中旬ころ」に訴因を変更するとの請求をし、右各裁判所は、それぞれ右訴因変更を許可した。

(3)  論告及び弁論

検察官は、第二八七回公判期日(昭和五七年一二月七日)において、原告掘、同江口及び同前林並びに相被告人増渕に対し、ピース缶爆弾事件に関する各公訴事実につき、いずれも公判廷で取調済みの各関係証拠により証明十分であるとして、後記の日石・土田邸事件とともに有罪の論告求刑を行った。

原告らの弁護人は、第二八八回ないし第二九一回公判期日(昭和五八年一月一八日、同月二〇日、同月二五日及び同月二七日)において、右原告らについて、ピース缶爆弾事件に関する各公訴事実につき、後記の日石・土田邸事件とともに、無罪の弁論を行った。

(4)  判決

地刑九部は、第二九一回公判期日(昭和五八年一月二七日)をもって結審し、昭和五八年五月一九日、八・九機事件については、原告堀及び相被告人増渕に対し、「増渕らのアリバイは認められないが、前原、内藤、村松及び増渕の八・九機事件に関する各自白の信用性には結局疑問が残り、増渕及び堀が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずるには至らず、犯罪の証明がないものである。」とし、ピース缶爆弾製造事件については、原告堀、同江口、同前林及び相被告人増渕に対し、「被告人らのピース缶爆弾製造事件に関する各自白及び菊井の証言の信用性には結局疑問が残り、増渕、前林、堀及び江口が同事件に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずることはできず、犯罪の証明がないものである。」として、いずれも無罪の判決を言い渡した。

(二)  八・九機事件についての若宮らの証言

(1)  原告らは、八・九機事件について、証人若宮が自分が真犯人であると証言し、同荒木久義(荒木)及び同古川経世(古川)がそれを裏付ける証言をしたのであるから、これによって、原告らが真犯人でないことが一層明白となったとして、右各証言以降の公訴追行の不合理性を主張する。

そこで、右各証言が、原告らの嫌疑を否定する明白な証拠と認められるかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 若宮の証言

(ア) 原告堀らの弁護人は、八・九機事件の真犯人であるとして、若宮の証人尋問を申請し、同人は、地刑五部において昭和五四年四月一〇日の第八八回公判期日及び同年五月一五日の第八九回公判期日の二回、また、地刑九部において昭和五四年六月六日の第一六五回公判期日から同年九月一九日の第一七一回公判期日までの間三回にわたって、弁護人の主尋問に対し、次のとおり証言した。しかし、若宮は、検察官の反対尋問には一切証言を拒否し、裁判長の証言命令にも応じず、裁判所の補充尋問にも一部答えただけでほとんどの尋問に対し証言を拒否した。

(イ) 若宮の証言内容は次のとおりであった。

私は、赤軍派に加入し、昭和四四年九月ころから同年一一月三日ころまで、国電大森駅付近のアジトに仲間と共に住んでいた。同年一〇月二一日の昼ころ、同アジトに一〇・二一闘争用のピース缶爆弾一二個(六個づつケーキ箱に入ったものが二箱)が持ち込まれ、私は、同日それを他の場所に運んだが、そのうち三個を右アジトに持ち帰って保管しておいた。私は、一〇・二一闘争が失敗したことで、当面はゲリラ戦で武装闘争を行うべきだと考え、ピース缶爆弾を用いて国家権力機関に攻撃をかけようと考えるようになったが、同月二四日夕刻、右アジトで、中核派のビラに掲載されていた新宿周辺の地図を見て、八・九機の位置を知り、これを攻撃の対象とすることとした。そこで、居合わせた二人の仲間にこの話を持ちかけたところ、一人は返事もしなかったが、一人は賛成したので、右の地図や保管していたピース缶爆弾三個、手袋、マッチなどを布鞄に入れて持ち、賛成した仲間と共にアジトを出て、国電大森駅から電車で品川、五反田を経由して新大久保駅まで行った。その後、徒歩で八・九機やその周辺の状況を一時間ほど下見した結果、八・九機内に忍び込むのは困難であり、正門に対し、道路反対側の路地からピース缶爆弾を投げるしかないと判断したが、同行した仲間が中止するよう主張したため、一人で実行することとし、仲間は、爆弾二個を持って帰ることになった。決行しようとしたころはもう暗くなっていて街灯もつき、少し離れた人の顔は見分けがつかない程度であり、当初の下見のときには、二、三人であった正門付近の機動隊員が、五、六人に増えていた。決行の際は、機動隊隊舎の正門の反対側の路地の角で、ピース缶爆弾の導火線の切り口にマッチの頭を重ね、マッチ箱のやすりの方を動かして導火線に点火し、右爆弾を正門めがけて投げ、そのまま路地を反対方向に走って逃げた。アジトに帰ると、同行しなかったほうの仲間がいて、事件のことをラジオで放送したと言った。二〇分位して、同行したほうの仲間も帰ってきた。導火線が踏み消されて爆発しなかったと報道されていた。八・九機事件のことは、右の二人の仲間以外には話しておらず、赤軍派幹部にも報告していない。本件で起訴されている被告人らは、いずれも本件と関係がない。

<2> 荒木の証言

(ア) 地刑五部の昭和五四年三月二七日の第八七回公判期日及び地刑九部の同年六月五日の第一六四回公判期日において、弁護人の申請により荒木久義に対する証人尋問が行われたが、荒木は、要旨次のとおり証言した。

(イ) 私は、昭和四四年九月の赤軍派結成以来のメンバーであるが、同年一〇月二四日ころ、同派の大森アジトにいたとき、若宮が、「前進」に掲載されていた地図を見ながら、第八・九機動隊隊舎を攻撃しようかと言った。自分は、組織の指令によらない行動をする気はなかったので同調しなかった。若宮は仲間の遠藤と出掛けたので、下見にでも行ったのかと思っていたら、夜遅く帰ってきて、「遠藤は日和って帰ってしまったので、自分一人でやった」と言っていた。その前にラジオの臨時ニュースで、三人の男が機動隊に爆弾を投げ込んだが踏み消したので事なきを得たと言っているのを聞いた。

<3> 古川の証言

(ア) 地刑五部の昭和五四年九月一八日の第九二回公判期日及び同年一〇月五日の第九三回公判期日並びに地刑九部の同年一一月七日の第一七七回公判期日において、弁護人の申請により遠藤こと古川経生に対する証人尋問が行われたが、古川は、要旨次のとおり証言した。

(イ) 私は、赤軍派に属し、昭和四四年一〇月一五、六日ころから同月二五日朝までの間、一〇日ほど大森アジトにいた。同月二一日前後ころ、右アジトには若宮、荒木の他何人かの赤軍派関係者がいた。一〇・二一闘争の一、二日前の夜、大森駅付近の喫茶店で、組織の者からピース缶爆弾一一個または一二個(紙箱二箱)を受け取り、大森アジトに持ち込んだ。そして、一〇月二一日に誰かが持ち出した。私は、一〇・二一闘争の際、東薬大付近の集合場所で、ピース缶爆弾一個を渡され、結局使えないで持って帰り、アジトの押入に隠した。一〇月二四日ころには、ピース缶爆弾がアジトに二、三個あったので、機動隊隊舎に爆弾を使うことを決めた。九月末から一〇・二一闘争まで、赤軍派の行動が全て不発に終わったことに対し、自分自身を含め、みんなの中に不満があったので、中央に知らせず、単独でやろうということになったのである。荒木もいたが、参加しないといったので自分と若宮がやることにした。一〇月二四日午後、爆弾二、三個の他、手袋やマッチを持って、若宮と二人でアジトを出た。機動隊隊舎まで行くと、隊員がいたので、「やばいからやめよう」と若宮に言ったが、若宮は、「俺一人でもやる」と言ったので、爆弾を一個渡して、残りの爆弾を持って帰った。途中、平和島アジトに寄り、大森アジトに帰ると、若宮も帰ってきた。荒木もいて、機動隊を二人組か三人組が襲撃したニュースが流れたと言った。

やったのは一人なのにおかしいと思った。若宮は、「投げたけれど音はしなかった」と言っていた。八・九機襲撃については、上部に連絡していない。

<4> 各証言に対する刑事審の評価

地刑九部判決は、若宮、荒木及び古川の各証言の信用性について、若宮証言は、赤軍派に所属する若宮が組織上層部の指令もないのに単独犯行に及んだとする点、犯行当日に現場についてから具体的攻撃方法を調査する方針であったとしながら八・九機前に到着後、攻撃地点を調査することなく逃走路の確認のために往復一時間近い時間を費やしたとする点、古川とともに隊員の立哨する八・九機正門前を三回も通過したとする点など犯行経過に不自然、不合理なところがあって、証言内容が目撃者の供述する犯人の投てき状況、犯人の員数、犯人の頭髪と齬齟していることを指摘し、また、古川証言については、古川が攻撃直前になって攻撃の中止を主張して離脱したことなどの不自然性を指摘し、さらに、荒木証言については、若宮が「前進」の地図を見ただけで突如、八・九機への攻撃を主張して攻撃に出ていったとすることなどの不自然性を指摘し、その上で、「若宮及び古川の各証言には、第八・九機動隊付近の状況その他大まかに見ると客観的状況と合致する点も認められ、したがって、両名が同機動隊付近を歩いた経験があるのではなかろうかと考えられ、さらには両名又はその一人があるいは第八・九機事件に何らかの形で関係していたのではないかと推測もなしえないではない。しかしながら証人若宮は、検察官の反対尋問に対して一切供述を拒否したものであり、その点おいてもともと信ぴょう性に欠けるものがあるといわざるを得ないのであるが、その点を度外視しても、若宮、古川及び荒木の各証言を詳しく検討すれば、以上のとおり、多数の疑問点のあることを免れないのであって、これらの各証言をもって、直ちに、弁護人のいうように、八・九機事件は若宮の単独犯行であって、被告人らの犯行でないことを示す証拠であると認めることはできないものである。」と判示した。

(3)  原告らは、若宮ら三証人の証言は、相互に内容が一致し、真相を知るもののみが語り得る具体性、迫真性を有し、周囲の客観的状況や目撃者らの証言とも一致しているから信ぴょう性が高い旨主張する。

しかしながら、右認定事実によれば、若宮らの右各証言は、いずれも、刑事審判決が指摘するようにその内容において様々の疑問点、不自然さを有していること、若宮証言には、犯人の投てき状況、犯人の人数、犯人の頭髪など重要な点で目撃者の供述内容と一致しない部分があったこと、若宮は、検察官の反対尋問に対して一切供述を拒否し、裁判所の補充尋問にも一部を除き供述を拒否したことがそれぞれ認められる。

これらの事実に照らすと、若宮ら右三証人の証言は、原告堀に対する八・九機事件の嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、したがって、右各証言が公判の過程で現れたからといって、検察官が、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて公訴を追行したと認め得るような事情があったとはいえない。

(三)  ピース缶爆弾製造事件についての牧田の証言

(1)  原告らは、ピース缶爆弾製造事件については、牧田の証言によって、同人が真犯人であることが判明したのであるから、検察官は、その公訴の追行を断念すべきであった旨主張するので、右証言が、原告らの嫌疑を否定する明白な証拠と認められるかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> 原告堀、同江口及び同前林の弁護人は、ピース缶爆弾製造事件の真犯人であるとして、牧田の証人尋問を申請し、同人は、地刑五部において、昭和五七年五月二五日の第一三七回公判期日から同年八月二五日の第一四三回公判期日までの間七回にわたり、また、地刑九部において、同年六月二三日の第二六六回公判期日、第二六七回公判期日、第二七一回公判期日及び同年七月三〇日の第二七二回公判期日の合計四回にわたって、大要次のとおり証言した。

<2> 私は、昭和四四年夏ころから、手製爆弾を製造して新左翼諸派に配布しようと考えるようになった。同年九月中旬ころ、爆弾材料入手の可能性を探る下見のため、かねてからこのような計画についての賛同を得ていた三潴末雄、桂木行人及び氏名を明かせぬ者のほか、事情を知らない大学の後輩某と共に東京都西多摩郡方面に自動車で出掛け、五日市町内の採石場や奥多摩町小川谷、同町日原方面の林道などを見て回ったところ、日原地内で林道開設工事が行われているのを見かけ、付近にはダイナマイトなどの火薬類が保管されているとの感触を得た。そこで、私は、同月中旬か下旬の連休の終りの日、すなわち、同月一五日(月曜日で敬老の日)又は二三日(火曜日で秋分の日)の夕方にこの付近でダイナマイトを盗むことにした。このような日を選んだのは、休日には工事現場が休みになるし、連休の終わりの日の夕方ならば、登山者は引き上げてしまった後で、私達の行動が人目につきにくい等と考えたからである。当日、私は、氏名を明かしたくない者と共に天祖山登山口から山中に入った。二人とも登山靴か運動靴をはいていた。登山道をとおって途中から日原林道に降り、すこし歩くうちに谷川のほうに通じる小路を発見して、これを辿ると、犬小屋を大きくしたような火薬の貯蔵庫があった。貯蔵庫の周囲には鉄条網などの柵はなかったと思う。貯蔵庫はシリンダー錠の類で施錠してあったが、貯蔵庫を持ち上げてみると、下から鍵が出てきたのでこれで解錠し、中にあったダイナマイト一箱(二二・五キログラムと表示されたもの)、導火線一巻、工業用雷管一箱及び電気雷管ポリ袋入り一袋を盗んで持ち帰った。帰りも日原林道から同じ道を登山道の方に登った。右のダイナマイトなどは、即日、三潴らの手で所沢市こぶし団地内の一室に搬入した上、一週間ほどして小金井市内の国鉄中央線東小金井駅南口に近いアジトに移し、同年九月下旬から一〇月中旬にかけて、同所で桂木、氏名を明かしたくない二名がピース缶にダイナマイト、パチンコ玉などを充填した爆弾本体約五〇個ないし一〇〇個を製造した。自分は、一〇月上旬ころ、関西アナキストグループに配布するため、上京中の大村寿錐に右爆弾の本体四、五個を配布し、一両日後、桂木と共に京都に赴いて、大村に導火線と工業用雷管を手渡した。自分は、同月中旬ころ、赤軍派に配布する趣旨で、まず田辺繁治に対し、爆弾本体四、五個を、次いで田辺及び小俣昌道に対し、爆弾本体数十個を、それぞれ導火線、工業用雷管と一緒に交付した。また、そのころ、三潴も、その所属する共産同某派に対し、赤軍派と同数若しくはそれ以上の爆弾を配布した模様である。その後、自分は、昭和四四年末までの間に、田辺から、八・九機事件とアメ文事件は赤軍派のやったことである旨聞いたことがある。いずれにせよ京都地方公安調査局事件、琵琶湖解体事件、中野坂上事件、八・九機事件、アメ文事件、大菩薩峠(福ちゃん荘)事件、中大会館事件及び松戸岡崎アパート事件の各爆弾は、いずれも自分達の提供した爆弾本体や導火線、雷管を用いたはずであり、原告堀らピース缶爆弾製造事件で起訴されている被告人らは、これらの爆弾製造とは無関係である。窃取したダイナマイト、導火線及び雷管は、右のピース缶爆弾の製造に約二分の一から三分の二を使用したが、残りは、桂木が、昭和四五年春ころまでに降雨で増水している時を見計らって多摩川に投棄したと聞いている。

<3> 牧田証言の内容と他の証拠との関係等

(ア) 爆弾製造に使用されたダイナマイト

牧田は、窃取したダイナマイト等を利用してピース缶爆弾を製造し、これを赤軍派等に配布したので、八・九機事件、アメ文事件等の各爆弾は、自分達の提供した爆弾本体、導火線及び雷管を用いたものである旨証言しているが、仮に牧田らが証言のとおり山中の火薬貯蔵庫からダイナマイト等を窃取したとしても、そのダイナマイトは、右貯蔵庫の管理者である島崎建設工業株式会社(以下「島崎建設工業」という。)の責任者島崎恒利の供述等によれば、旭化成製の「三号桐ダイナマイト」であったはずであるが、不発のまま押収された八・九機事件のピース缶爆弾一個、アメ文事件のピース缶爆弾一個に使用されていたダイナマイトは、右「三号桐ダイナマイト」とは異なる旭化成製の「新桐ダイナマイト」であった。

(イ) ダイナマイトの窃取日

牧田は、ダイナマイトを窃取した日について、昭和四四年九月一五日(月曜日で敬老の日)又は同月二三日(火曜日で、秋分の日)の夕方を選んで窃取を敢行したと証言しているが、島崎建設工業がダイナマイト等の盗難被害にあったのは、同月九日から翌一〇日午前八時三〇分ころまでの間であった。

(ウ) 電気雷管の窃取の有無

牧田は、ポリ袋入り電気雷管を窃取して持ち帰ったと証言しているが、前記被害者の供述等によれば、窃取されたのはダイナマイト、工業用雷管及び導火線であり、電気雷管は窃取されていなかった。

(エ) 犯行時の履き物

牧田は、窃取の犯行当時靴を履いていたと証言しているが、関係証拠によれば、ダイナマイトの窃盗犯人は地下足袋を履いていたことが判明した。

(オ) 貯蔵庫の周囲の状況

牧田は、貯蔵庫の周囲には鉄条網などの柵はなかったと証言しているが、検察官の昭和五七年七月六日付実況見分調書によれば、右貯蔵庫の周囲には付近の樹木や杭を利用して有刺鉄線等が幾重にも張り巡らされている。

(カ) 窃取後の行動

牧田は、ダイナマイト等を窃取したのち日原林道から崖を登って登山道に出た旨証言しているが、現場の状況に照らすと、山側の法面は、ほぼ垂直に通常人の背丈の二倍位の高さにコンクリートブロックが積まれており、このような場所を相当な重量のダイナマイト等を背負って登ることは困難である。

(キ) 貯蔵庫の発見の困難さ

現場の状況に照らすと、日原林道から島崎建設工業の貯蔵庫に至る小路は「路」というよりも「人の踏み跡」というべきもので、右貯蔵庫は容易に発見できない状況にあった。

(ク) 証言態度の不自然さ

牧田は、自己が本件のピース缶爆弾を製造した真犯人であるとして詳細に証言したものの、事件に関与した一部の者の氏名等について証言を拒み、それらの事項について秘匿し続ける理由などについても一切説明をしなかった。

<4> 牧田証言に対する刑事審の評価

地刑九部判決は、牧田証言の中には、ダイナマイト等の窃取の点、あるいは窃取の際に貯蔵庫の下から鍵を見つけた点等において島崎恒利の供述するダイナマイト等の盗難の事実や貯蔵庫の鍵を隠した位置等と符合する箇所があることは認められるが、しかし、牧田証言には、その反面、信用し得る他の証拠から認められる事実と矛盾する点や、証言自体不合理と認められる点が少なからず存在しており、そうである以上牧田証言の信用性には大きな疑問が残ることを免れず(牧田証人は、島崎建設工業の貯蔵庫からのダイナマイト等の窃取の事実を誰かから聞いて、これをみずから行ったものと供述している疑いがある)、牧田証言をもって、直ちに弁護人の主張するように、ピース缶爆弾製造事件の真犯人の証言にほかならず、被告人の無罪を示す証拠であると認めることはできない旨判示した。

(3)  原告らは、牧田の証言は、真犯人でなければ分からない事項について詳細に述べられているものであり、極めて信ぴょう性が高い旨主張する。

しかしながら、右認定事実によれば、牧田の証言は、様々な点で、他の証拠関係から認められる客観的事実と一致しない点があったこと、その証言内容にも不合理な点があったこと、証言態度からも、信ぴょう性を疑わしめる面があったことが認められ、これらに照らすと、牧田の右証言は、原告堀、同江口及び同榎下に対するピース缶爆弾製造事件の嫌疑を否定する明白な証拠とはいえず、右証言が公判の過程で現れたからといって、検察官が、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて公訴を追行したと認めることはできない。

(四)  ピース缶爆弾製造事件に関する石井のアリバイ

(1)  原告らは、ピース缶爆弾製造事件において爆弾製造の見張りを担当したとされた石井には、製造日とされたころに、日本プラスチック玩具工業協同組合においてアルバイトをしていたというアリバイがあったのであり、これが公判の過程で明らかになったことによって、石井が右事件に関与したことが否定されたのみならず、事件そのものの存在が否定されたのであるから、検察官は、この時点で右事件全体を見直し、公訴の追行につき再検討すべきであったのに、これを怠った旨主張する。

そこで、右アリバイ主張を基礎づける証言ないし証拠が、原告堀、同江口及び同前林の右事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠といえ、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がない状態であったのかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の内容

石井のアリバイ主張は、石井は、検察官がピース缶爆弾製造日と主張する昭和四四年一〇月九日から同月一六日までのうち、同月九日は午前九時から午後五時まで、又は午後一時ごろから午後五時まで、同月一一日は午前九時から午前一二時まで、同月一三日、同月一四日、同月一五日、一六日はそれぞれ午前九時から午後五時まで、国電浅草橋駅近くにある日本プラスチック玩具工業協同組合(協同組合)にアルバイトとして勤務していたというものであった。

<2> 石井の供述経過及び同人に対する判決

(ア) 石井の供述経過

(あ) 石井は、昭和四八年三月一三日、原告堀らと共に本件ピース缶爆弾を製造したとの被疑事実により逮捕され、同月一五日の検察官による弁解録取の際に被疑事実を否認したが、自己のアリバイを主張することは一切なく、その後、昭和四八年三月二〇日以降、佐古の指示により昭和四四年一〇月一六日か一七日か一八日ころ、河田町アジトで爆弾を製造しているかも知れないと思いつつ、同アジト周辺でレポ(外周警戒)をした旨の供述をするに至った。

(い) 石井は、地刑二部において、ピース缶爆弾製造事件の共同実行犯たる被告人として審理を受けたが、その犯行日の前後である昭和四四年九月ないし一〇月ころには、前記組合にアルバイトで勤務していたことを前提としながら、ピース缶爆弾を製造した日に自分がレポしたことは間違いなく、その日は自分がアルバイトをしていない日であった旨供述した。

また、石井は、地刑五部に証人として出廷した際にも、昭和四四年一〇月一八日か一九日ころ、佐古の家のそばで見張りをしたことがあること、前日、村松から言われて行ったこと、強力な武器の準備をすると言われたこと、爆弾作りとは聞かなかったように思うこと、佐古から言われ、富山と元山とともに角の所に立って見張りをしたことなどを証言し、弁護人から一〇月一六日を含めた週は全てアルバイトに行っていたのではないかと聞かれながら、わかりませんと答えるのみであった。その後、裁判官から、レポのために佐古のアパートへ行ったことはあったのかとの質問にも、ありましたと答え、再度弁護人から、レポのために河田町のアジトに行ったことがあると言うのは本当かと質問されたのにも、間違いないと断言した。

さらに、石井は、地刑九部の証人尋問においても、日付とか村松から言われた指示内容とか詳細は忘れたが、河田町アジト近くでレポしたことがある旨証言した。

(イ) 石井に対する判決

地刑二部は、審理の結果、石井に対し、昭和四九年三月一九日、ピース缶爆弾製造事件について、懲役三年、執行猶予四年の有罪判決を言い渡し、同判決は、同年四月三日に確定した。

<3> 地刑九部の証拠調べ等

(ア) 捜査官は、石井の公訴提起前である昭和四八年三月二〇日、協同組合に赴き、同組合の専務理事である藤川高から事情を聴取したが、その際、同人が、帳簿に石井に対する給料支払の記載がなく、石井の顔や名前を知らないと述べたため、石井に対する地刑二部の公判においては協同組合の出金伝票などが提出されなかった。ところが、昭和四九年一〇月に至って地刑九部の公判において、初めて、原告堀らの弁護人から出金伝票や領収書が提出された。その後、昭和五四年六月一八日、検察事務官が協同組合から、元帳、金銭出納帳の任意提出を受けたが、協同組合の牧野伸一は、右の元帳等を任意提出した際、他に書類はない旨言明しており、警察官が昭和五四年七月二五日に協同組合で他の書類を捜した際にも、残業許可簿は発見されず、牧野も右許可簿について何も言及しなかった。

(イ) 地刑九部は、原告堀、同江口、同前林及び増渕に対するピース缶爆弾事件の公訴事実の審理において、石井の右アリバイ主張の真偽に関する証拠調べを行い、石井のアルバイト料に関する協同組合の出金伝票、領収書、残業許可簿及び平和相互銀行普通預金払戻請求書等のほか、証人として藤川高、牧野伸一、深江玲子、仁瓶五郎及び石井を取り調べた。

(ウ) 地刑九部は、判決において、右証拠調べの結果、石井及び弁護人のアリバイ主張の裏付けとなる出金伝票、領収書及び残業許可簿は、偽造又は変造されたとは認められないこと、石井が休日出勤した可能性はほとんどないこと、石井が勤務時間中協同組合の職員に気づかれることなくほぼ午後いっぱい抜け出すということは考えがたいこと、右払戻請求書の記載も石井のアルバイトの主張にそうものであることなどが認められ、これと菊井の証言や被告人らの自白、京都地方公安調査局事件発生日時等との関係を総合考慮すれば、石井のアリバイが成立する余地がある旨判示した。

<4> その後、前記石井に対する有罪の確定判決について再審の請求がなされ、地刑二部は、右確定判決において犯行日であると認定された昭和四四年一〇月一六日は石井にアリバイが成立し、右確定判決における事実認定には合理的な疑いが生じるので再審請求に理由があるとして、平成元年三月二〇日、石井に対し再審開始決定をし、これを経て同地裁は、右アリバイの成立や同人の供述の信用性に関する疑問などから、同年一二月一九日、同人に対し無罪の判決を言い渡した。

(3)  右認定事実によれば、原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の公判の過程において、前記伝票等の書類及び関係者の各証言等の石井のアリバイを裏付ける証拠が提出され、地刑九部及び前記再審裁判所は、右アリバイ成立の余地があると判示していることが認められるものの、石井は捜査段階及び公判段階で、自己のアリバイを主張していなかったこと、レポ自体を一貫して認めていたこと、同人に対し有罪の判決が言い渡されたこと、右伝票等の書類の取得経過に不自然な点があることなどがそれぞれ認められ、これらの事実に照らすと、右アリバイを裏付ける証拠が、石井のピース缶爆弾製造事件についての嫌疑を否定する明白な証拠とまでは認められず、まして、原告堀、同江口及び同前林のピース缶爆弾製造事件の嫌疑を否定する明白な証拠になるとは認められない。本件全証拠によっても、右各証拠が公訴追行の過程で提出されたからといって、右原告らの有罪判決を期待し得ない状況に至っていたとは認められない。

(五)  ピース缶爆弾製造事件に関する原告江口のアリバイ

(1)  原告らは、原告江口は、昭和四四年から一年間国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室に研究員として勤務していたものであり、ピース缶爆弾製造事件について同原告のアリバイが成立するところ、検察官は、刑事審公判において、右アリバイが明らかになったにもかかわらず、あえて公訴を追行した旨主張する。

そこで、右アリバイに関する証拠が、原告江口の右事件についての嫌疑を否定する明白な証拠といえるかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の内容

地刑九部における原告江口のアリバイ主張の要旨は、原告江口は、昭和四四年一〇月当時、日曜日を除く毎日午前一〇時から午後七時ころまで国立ガンセンター化学療法部実験化学療法研究室の研究員として勤務しており、特に同月九日と一五日については同研究室で動物実験に従事していたことが明らかであるから、河田町アジトで行われたピース缶爆弾製造に参加しているわけがないというものであった。

<2> 刑事審における審理及び判断

右刑事審においては、右アリバイを裏付ける証拠として、原告江口の大学ノートが提出されて取り調べられ、弁護人申請にかかる右研究室長川添豊の証人尋問が行われた。

地刑九部は、右大学ノートから、原告江口が昭和四四年一〇月九日及び一五日に実験作業に従事していたことが認められ、同人の昭和四四年当時の勤務状況等から、右アリバイ主張の成立する余地があると判示した。

<3> 原告江口の勤務形態

右研究室における勤務形態について、原告江口は、勤務時間はルーズで、個人の自由で帰りたいときに帰るというものであった旨述べ、右川添も、原告江口のような正式公務員でないものについては、ガンセンターとして正規の出勤簿はなく、自分に対する連絡だけで欠勤しても差し支えがなかった旨述べた。

(3)  右認定事実に照らすと、原告江口の右アリバイに関する右各証拠は、原告江口のピース缶爆弾製造事件についての嫌疑を否定する明白な証拠とまでは認められず、原告堀及び同前林の右事件についての嫌疑を否定する明白な証拠とも認められない。本件全証拠によっても、右アリバイ関連証拠が公訴追行の過程で提出されたからといって、右原告らの有罪判決を期待し得ない状況に至っていたとは認められない。

(六)  八・九機事件に関する増渕及び内藤のアリバイ

(1)  原告らは、増渕及び内藤は、八・九機事件が発生した昭和四四年一〇月二四日夕刻から午後一〇時ころにかけて、東京薬科大学社会科学研究会(社研)の者らが、同月二〇日同大学で製造し、同月二三日と同月二四日の各早朝に同大学から平野の右下宿に運び込んであった火炎びん七、八本を、町田らと共に下宿から渋谷区本町の原告江口と原告前林のアパートに運び込む作業をしていたから、八・九機事件について増渕及び内藤にはアリバイがあり、検察官が、右アリバイを検討することなく公訴を追行したことは違法である旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> 刑事審におけるアリバイ主張の内容

刑事審における増渕及び内藤の八・九機事件についてのアリバイ主張の内容は、増渕らは昭和四四年一〇月二一日のいわゆる一〇・二一闘争の際に東薬大構内で製造して隠しておいた火炎びん数十本をその後間もなく新宿区柏木所在の平野の下宿に運んでおいたところ、さらに、増渕、内藤、平野らは、同月二四日の夕方から夜にかけて、これらの火炎びんを、二回に分けて渋谷区本町所在の原告江口の下宿に運んだというものであった。

<2> 刑事審での証拠

増渕及び内藤の右アリバイに関し、刑事審の公判段階では、このアリバイを一応裏付ける同人ら及び平野の供述があったほか、昭和四四年一〇月二四日の夕方に右原告江口の下宿において増渕のほか四、五名の男と出会ったとする長谷川幸子の供述が証拠として存在していた。

<3> 地刑九部の判断

地刑九部は、その判決で、右アリバイに関し、増渕らが昭和四四年一〇月下旬ごろ、火炎びん数十本を平野の下宿から原告江口の下宿に運んだことは認めたものの、増渕、内藤及び平野の供述は、運搬日の点で不明確ないし内容の変遷があり、右長谷川幸子の供述も、増渕、内藤、平野及び原告前林の供述と重要な食違いがあるなどとして、右運搬が同月二四日の夕方から夜にかけてであったとは認められないとし、結局右アリバイを認めなかった。

(3)  右認定事実に照らすと、増渕及び内藤の右アリバイ主張にそう右各証拠は、同人らの八・九機事件の嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、まして、原告堀の同事件についての嫌疑を否定する明白な証拠とは認められない。

(七)  ピース缶爆弾製造事件に関する平野のアリバイ

(1)  原告らは、平野は、昭和四四年一〇月一四日午前中に、従前の下宿先であった杉並区天沼の八田方から新宿区柏木の糖信荘に引越しをし、同日午後その荷物整理をしていたから、少なくともこの日についてピース缶爆弾製造についての明らかなアリバイがあったところ、検察官は、平野にアリバイが成立しないことを前提に公訴を追行、維持した旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、平野は、地刑九部において、証人として出廷し、昭和四四年一〇月一四日は杉並区荻窪の下宿先から新宿区柏木のアパート糖信荘に引越しをし、終日荷物の整理をしていたものであり、同月一五日は午前中東薬大の授業に出席し、午後は社研の者らを糖信荘の自室に呼んでおり、また、同月一五日から一八日までは連日、同月二一日の国際反戦デーのために立看板やビラを作っていたと思う旨の前記原告らの主張にそう供述をしたが、地刑九部は、右供述は確かな裏付けを欠くものであって、にわかに信用し難く、右アリバイは認めることができないと判示したことが認められる。

(3)  右事実に照らすと、右アリバイに関する平野の供述が、同人のピース缶爆弾製造事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、まして、これが原告堀、同江口及び同前林の同事件についての嫌疑を否定する明白な証拠であるとは認められない。

(八)  アメ文事件に関する村松のアリバイ

(1)  原告らは、村松は、昭和四四年一一月一日未明、赤軍派による首相官邸襲撃用のトラックを調達するため、ダンプカー一台を窃取し、これを松戸近辺の江戸川の河原に隠匿した後、若松町のアジトの菊井の部屋に戻り、同アジトか風雅荘の自室のいずれかで午後一時か二時ころまで寝ていたので、アメ文事件に参加しているはずはないとして、検察官が、村松の右アリバイを検討することなくピース缶爆弾事件の公訴を追行したことは違法である旨主張する。

(2)  <証拠略>よれば、村松は、地刑九部において、昭和四四年一〇月三一日夜、仲間の者らとともに闘争に使うためのダンプカーの窃盗に出かけ、水戸街道を流山方面に向かい、同年一一月一日早朝、ダンプカー一台を窃取し、これを松戸近辺の江戸川の川原まで運転して来て置いて、若松町アジトの菊井の部屋まで戻り、そこで午後一時か二時ころまで雑魚寝をしていた旨の供述をしたが、地刑九部は、右供述は窃取後の行動について何ら裏付けがなく信用性のないものであり、右アリバイがあるということはできないと判示したことが認められる。

(3)  右認定事実に照らすと、右アリバイに関する村松の供述が、同人のアメ文事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、まして、これが原告堀、同江口及び同前林の八・九機事件及びピース缶爆弾製造事件についての嫌疑を否定する明白な証拠であるとは認められない。

(九)  アメ文事件に関する佐古及び国井のアリバイ

(1)  原告らは、佐古及び国井には、昭和四四年一〇月二一日の爆弾二個の持帰りに関してアリバイがあり、アメ文事件に関与していない旨主張する。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 佐古のアリバイ

佐古その他の被告人に対するアメ文事件等の刑事審である地刑五部において、佐古は、中野坂上事件の当日である昭和四四年一〇月二一日夜、兄の佐古靖典方に泊まっており、中野坂上から爆弾を抱えて河田町アジトあるいは若松町アジトに行きそこに泊まったという事実はないから、自分がピース缶爆弾を持ち帰ったことはありえず、したがって、自分はアメ文事件を犯していない旨のアリバイを主張した。そして、これを裏付ける証拠調べとして、佐古靖典の証人尋問が行われたが、その証言内容は具体的であり、証言態度も率直で真摯なものであった。そのため、地刑五部は、その判決で、右アリバイ主張は決定的なものとまでは認められないが、一概に否定できないと判示した。なお、靖典は実兄であり、佐古の公判闘争救援活動に対し金銭的援助をしていた。

<2> 国井のアリバイ

地刑五部において、国井は、昭和四四年一〇月二一日の夜、アメ文事件に用いられたピース缶爆弾を持ち帰った佐古とともに河田町アジトに泊まったとされていたが、真実はその夜外泊しておらず自宅に戻っていたから、右持ち帰りの事実はあり得ない旨のアリバイ主張をした。そして、これを裏付ける証拠調べとして、国井啓子の証人尋問及び同人作成の日記の取調べが行われたが、右証言は、具体的で証言態度も真摯誠実なものであった。地刑五部は、その判決で右アリバイが成立する蓋然性が高いと判示した。なお、国井啓子は国井の実母である。

(3)  右によれば、佐古及び国井の右アリバイに関する証人佐古靖典及び同国井啓子の証言並びに右日記等は、右アリバイを裏付ける有力な証拠であると認められるが、右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、右各証拠が佐古及び国井のアメ文事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とまでは認められず、まして、これが原告堀、同江口及び同前林の八・九機事件及びピース缶爆弾製造事件についての嫌疑を否定する明白な証拠であるとまでは認められない。

(一〇)  京都公安調査局事件との関係等

(1)  原告らは、検察官が、ピース缶爆弾製造事件について、京都公安調査局事件等との関連から、爆弾製造日を「昭和四四年一〇月一六日ころ」から「昭和四四年一〇月中旬ころ」と訴因変更したことは不当であるとして、京都公安調査局事件に関する証拠それ自体が、原告らのピース缶爆弾製造事件についての嫌疑を否定する明白な証拠であり、これが公判に提出されたことによって、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて検察官が右公訴を追行したものであるかの如く主張する。

(2)  <証拠略>によれば、次の事実が認められる。

<1> 検察官は、当初、原告堀、同江口及び同前林がピース缶爆弾を製造した日を「昭和四四年一〇月一六日ころ」として公訴を提起していたが、地刑五部における昭和五一年一一月二五日の第五〇回公判期日において、弁護人から、村橋稔、杉本嘉男、三潴末雄及び牧田に対するいわゆる京都地方公安調査局事件の確定記録の取寄せが申請された。

<2> 右取寄申請当時、右事件の村橋ら被告人の公判状況等は、次のとおりであった。

(ア) 村橋稔は、大村寿雄と共謀の上、昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ころ、ピース缶爆弾一個の導火線に点火して、京都地方公安調査局に投てき爆発させて爆発物を使用したとの公訴事実により、昭和四九年一一月九日起訴され、公判係属中であった。

(イ) 杉本嘉男は、昭和四四年一〇月一五日ころ、京都市東山区本町の当時の自宅において、右大村からピース缶爆弾二個を受け取って寄蔵したとの公訴事実により、昭和四九年一〇月二七日起訴され、懲役三年、執行猶予三年の刑が確定していた。

(ウ) 三潴末雄は、右大村らの右爆弾使用事件等の発覚防止のため、右杉本が保管中のピース缶爆弾一個を受け取り、昭和四四年一一月上旬ころ、滋賀県大津市所在のホテルでこれを解体して琵琶湖に投棄し、罪証を湮滅したとの公訴事実により、昭和四九年一一月九日起訴され、懲役一年、執行猶予三年の刑が確定していた。

(エ) 牧田は、右三潴を教唆して右罪証湮滅を実行させたとの公訴事実により、昭和四九年一〇月二七日起訴され、懲役一年一〇月、執行猶予三年の刑が確定していた。

(オ) 大村寿雄は、右村橋と共謀の上、昭和四四年一〇月一七日午後一一時三〇分ころ、ピース缶爆弾一個の導火線に点火して、京都地方公安調査局に投てき爆発させて爆発物を使用したとの公訴事実により、昭和五二年一月五日起訴され、公判係属中であった。

(カ) 右村橋の公判においては、前原のピース缶爆弾の製造に関する検察官調書二通が取り調べられているほか、京都地方公安調査局の爆発現場から押収されたパチンコ玉一個、アメ文事件で押収されたピース缶爆弾在中のパチンコ玉七個、新宿ゲームセンターから任意提出を受けたパチンコ玉一〇個の各刻印(SGC)は概ね合致するとの鑑定がなされていた。

<3> 弁護人は、地刑五部の昭和五三年二月二二日の第七〇回公判期日において、右取寄せにかかる京都地方公安調査局事件の確定記録中から九三点の書証を証拠申請し、検察官は同年六月二日の第七五回公判期日までに、右弁護人申請にかかる書証の取調べに同意し、地刑五部はこれを採用して取り調べた。

<4> 右取調べにかかる書証によれば、右杉本は、捜査段階から、終始「大村が京都地方公安調査局事件の一日か二日前の夕刻、当時の自宅にピース缶爆弾二個入りの紙袋を持ち込んで自分に預け、一晩か二晩預かったところ、事件当日の夕刻、大村がうち一個を取りに来たので渡した。」旨供述し、村橋の公判においてもこれを維持していたところ、杉本に対する前記有罪判決では、前記のとおり寄蔵開始が「一五日ころ」と認定されていたことなどがそれぞれ判明した。これによれば、杉本は遅くとも昭和四四年一〇月一六日にはピース缶爆弾二個を大村から受け取っていたこととなり、右のピース缶爆弾が、途中の経路までは判明しないものの、原告らが製造したピース缶爆弾のうちの一部であるとすれば、京都地方公安調査局事件の発生日時等をも考慮すると、原告堀らがピース缶爆弾を製造したのは「昭和四四年一〇月一六日」以前である蓋然性が高いものと判断された。

<5> 検察官は、地刑五部においては昭和五三年六月二日の第七五回公判期日で、地刑九部においては同年九月五日付書面により、いずれもピース缶爆弾製造事件の爆弾製造日を「昭和四四年一〇月一六日ころ」から「昭和四四年一〇月中旬ころ」に訴因を変更するとの請求をし、右各裁判所は、これらの変更を許可した。

(3)  右認定事実によれば、京都公安調査局事件に関する取寄証拠は、製造日を昭和四四年一〇月一六日とする原告堀、同江口及び同前林に対するピース缶爆弾製造事件の嫌疑を否定する証拠と一応認められるものの、前記関係証拠に照らすと、右取寄証拠が、右嫌疑をすべて否定する明白な証拠とまで認めることはできないし、まして、訴因変更後の製造日(同年一〇月中旬ころ)を前提とする右事件の嫌疑を否定する証拠であるとは到底認められない。したがって、右京都公安調査局事件に関する証拠が提出されたからといって、ピース缶爆弾製造事件についてもはや有罪判決を期待し得る合理的理由がないとは認められないから、検察官の公訴追行が違法とはいえない。

なお、原告らの前記主張は、検察官の右訴因変更請求自体を違法とするものであると解する余地があるが、前記認定、判断によれば、訴因変更の前後における事実関係には公訴事実の同一性が認められ、右訴因変更請求は許可されるべきであること、変更後の訴因によっては有罪判決を期待し得る合理的な理由がないといえるような事情があったとは認められないことなどを総合考慮すれば、右検察官の訴因変更が違法であるとは認められない。

(二) 総合判断

以上の認定、判断によれば、原告らが主張するような公訴提起後の提出にかかる証拠は、いずれも、原告堀に対する八・九機事件及び同原告、原告江口、同前林に対するピース缶爆弾製造事件の各嫌疑を否定する証拠とは認められず、また、本件全証拠を検討してみても、検察官が、右各事件につき、有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて公訴を追行したと認め得るような事情があることを認めることはできない。したがって、検察官の右公訴追行は違法とは認められない。

3 日石・土田邸事件の第一審における公訴追行

(一)  日石・土田邸事件の第一審における公判経過

前記争いのない事実、<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  公判係属状況

検察官は、原告堀及び同江口に対し昭和四八年四月四日、原告榎下及び同前林に対し同年五月二日、いずれも土田邸事件につき、殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反の罪で、原告らに対し、同月五日、いずれも日石事件につき、殺人未遂、爆発物取締罰則違反の罪で、それぞれ東京地裁に公訴の提起をし、右各事件は、最終的には、地刑九部において、日石事件で公訴提起された増渕、中村(隆)の事件及び土田邸事件で公訴提起された増渕、中村(隆)、松村、中村(泰)及び金本の事件と併合審理された。

(2)  証拠調べの状況

原告らは、地刑九部の審理において、いずれも各公訴事実にかかる犯行を全面的に否認した。

そこで、検察官は、右審理において、日石・土田邸事件の犯人と原告らを含む被告人らとの結び付きを立証するため、捜査段階で自白していた増渕、中村(隆)、坂本、中村(泰)、松村、金本及び松本ら共犯者らの自白調書などについて、取調検察官及び警察官の証人尋問を行って刑訴法三二一条一項二号、三二八条の各規定に基づく証拠となるように力を傾けるとともに、公判段階においても犯行を認めていた中村(隆)の証人尋問を行い、さらに、日石爆弾及び土田邸爆弾の各構造、性能に関する鑑定結果についての証人尋問等を行って犯行の外形的事実を立証した。

これに対し、弁護人は、中村(隆)、原告江口及び同前林らについてアリバイを主張するとともに、捜査段階の自白は捜査官の強要によるもので任意性がないとして、被告人質問などによりその立証を図った。このうち、中村(隆)については、日石事件当日、警視庁府中自動車運転免許試験場で運転免許の学科試験を受験していたことが、弁護人が弁護士会を通じて行った同試験場に対する照会の回答書により明らかとなり、検察官は、中村(隆)が日石リレー搬送の第二搬送者であるとする冒頭陳述書を、第二搬送者は不明であると変更するに至った。

検察官は、公判において、日石・土田邸事件立証上の重要な証拠として、原告榎下、同堀、増渕、中村(隆)、松村、金本、中村(泰)、松本及び板本の捜査段階における各自白調書の取調べを請求したが、地刑九部は、右自白調書の多くを、証拠能力がないとして却下した。

(3)  論告

検察官は、前記の第二八七回公判期日において、原告ら及び前記相被告人らに対し、日石・土田邸事件に関する各公訴事実につき、いずれも公判廷で取調済みの各関係証拠により証明十分であるとして、前記のピース缶爆弾事件とともに有罪の論告求刑を行った。

原告らの弁護人は、前記の第二八八回ないし第二九一回公判期日において、原告らについて、日石・土田邸事件に関する各公訴事実につき、前記のピース缶爆弾事件とともに、無罪の弁論を行った。

(4)  判決

地刑九部は、前記のとおり、第二九一回公判期日をもって結審し、昭和五八年五月一九日、原告ら及び相被告人らに対し、「本件証拠調の結果によると、増渕、前林、堀、江口が日石・土田邸事件の犯人であるとの疑いがあるが、犯罪の証明があるということはできず、また、榎下、中村(隆)、松村、中村(泰)、金本については、それぞれ証拠関係に差異はあるが、概していえば、それぞれ起訴された事件の犯行に関与しているのではないかとの疑いは残るものの、犯罪の証明があるということはできず、従って、これらの被告人ら九名に対しては、刑訴法三三六条により日石・土田邸事件の当該公訴事実につきいずれも無罪の言渡をすべきものである。」と判示して、いずれも無罪の判決を言い渡した。

(二)  供述調書の却下

(1)  原告らは、日石・土田邸事件について、原告榎下、同堀、増渕、松村、松本及び坂本などの各供述調書がそれぞれ却下され、検察官の異議申立も棄却されたため、その段階で、日石・土田邸事件は根底から崩壊したものであり、検察官は、原告らに対し、もはや有罪判決を期待し得る合理的理由がなくなったにもかかわらず、あえて公訴を追行した違法がある旨主張する。

そこで、右却下によって、右両事件について、原告らに対し、もはや有罪判決を期待し得る合理的理由がなくなったかを検討する。

(2)  前記争いのない事実、<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> 地刑九部における証拠採否決定の概要

地刑九部において、検察官は、原告ら及び増渕ら相被告人らに対するピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件の各公訴事実を立証するため、原告ら及び増渕ら相被告人らの捜査段階における自白調書の取調べを請求したが、地刑九部は、特に日石・土田邸事件に関する右自白調書の大部分について、証拠能力がないとして、検察官の右取調べ請求を却下した。

地刑九部の決定によって、却下された供述調書等は別紙第三記載のとおりである。

検察官は、右決定に対し異議を申し立てたが、地刑九部は、これを理由がないとして棄却した。

<2> 取調請求を却下された証拠以外の証拠

(ア) 証拠の概要

右取調請求を却下された証拠以外の証拠で、日石・土田邸事件の犯人と原告らを結びつける主要な証拠としては次のものがあった。

(あ) 日石爆弾及び土田邸爆弾の各荷札等の筆跡鑑定

(い) プランタン会談についての佐古の供述調書

(う) 増渕による口止め工作についての檜谷の供述

(え) 中村(隆)の公判廷における被告人供述及び証言

(お) 松村の公判廷における被告人供述

(か) 坂本の公判廷における被告人供述

(き) 鈴木の公判廷における証言

(イ) 日石爆弾及び土田邸爆弾の各荷札等の筆跡鑑定

検察官は、日石・土田邸事件の犯人と原告らを含む被告人らとの結び付きを直接証明する客観的証拠として、鑑定人黒田正典による原告ら一一名の筆跡鑑定の結果(同鑑定人作成の昭和五五年一〇月一三日付鑑定書(昭和五六年五月二七日付補充説明書を含む。))を提出し、同鑑定人は、地刑九部の第二二七回、第二三三回、第二三四回、第二三六回、第二三七回の各公判期日において、右鑑定結果について証言した。さらに、第二四一回公判期日における検証手続において採取された増渕の毛筆筆跡との異同について同鑑定人による鑑定がなされ、同鑑定人は、第二六三回公判期日で、同鑑定結果について証言した。

右各鑑定において、鑑定人は、日石爆弾の荷札七面に記載された名宛人及び差出人の住所、氏名の筆跡と原告ら一一名の筆跡とを対比、照合、検討した結果、「荷札七面中一面については増渕の筆跡である。他の六面は原始筆跡の上に『なぞり書き』されており、その原始筆跡は四面までが増渕の筆跡である。他の二面は、同人の筆跡に基づいて他の者が手書きで複製したものであると堆定される。」と結論づけ、また、土田邸爆弾の荷札、包装紙に記載された名宛人及び差出人の住所、氏名等の毛筆筆跡につき、右と同様に一一名の筆跡と照合、検討した結果、「いずれも、増渕の筆跡である。」と結論づけた。

(ウ) プランタン会談についての佐古の供述調書

前記のとおり、佐古は、昭和四八年二月一四日、同年一月五日の喫茶店「プランタン」における増渕、原告江口との会話内容に関して供述し、その内容は、原告江口が、増渕及び佐古に対し、「日石事件なんかはどうなの。」、「六月の爆弾がでれば、どうなるのよ。それで日石がでればみんなやられるのよ。それが出れば土田邸が出ることははっきりしているじゃないの。あんた達がどうなるか私は知らないけれど、私が逮捕されるようなことになれば前林さんだって危ないし助からないでしょ。私はいやよ。」などというものであった。

(エ) 増渕による口止め工作についての檜谷の供述

前記のとおり、檜谷は、昭和四八年三月六日ないし同月一一日付員面で、増渕の依頼により前原と通謀したことを認めた上、房内で増渕とアメリカ文化センターの建物の構造や八・九機付近、目白、雑司が谷方面の地理について話し合ったこと、増渕から爆弾やその点火装置等の製造方法を教えられたこと、増渕から「土田事件のことは言うな、死活問題だ。」と口止めされたことなどを述べた。

(オ) 中村(隆)の公判廷における被告人供述及び証言

(あ) 中村(隆)は、土田邸事件で起訴された昭和四八年四月三〇日以降、自己に対する公訴の審理を担当した地刑二〇部の昭和四九年五月七日の第一一回公判期日までの約一年間、自己の公判及び共犯者らの公判において、日石事件につき、日大二高謀議に参加し、爆弾製造に関する技術、知識及び材料を提供したこと、土田邸事件につき、日大二高謀議に参加し、爆弾製造に関する技術、知識を提供し、マイクロスイッチを購入、交付し、爆弾製造に関与したことを、多数回にわたり繰り返し、供述した。

(い) 罪状認否

中村(隆)は、地刑二〇部の昭和四八年七月七日の第一回公判期日における罪状認否で、自己に対する日石・土田邸事件の各公訴事実について、日石事件の爆発物の運搬及びサンにおける爆発物の運搬の謀議についてはこれを否定したものの、その他の事実は、原告らとの共謀を含めて、すべて認める旨供述した。

(う) 日石事件の日大二高謀議

(a) 中村(隆)は、地刑三部(被告人坂本の審理を担当)の第三回公判期日において、「昭和四六年九月ころ、日大二高に増渕らと集まった時に、増渕から、爆弾による要人テロをやるということを聞いた。爆弾の作り方、特に起爆装置のスイッチの作り方、配線の仕方について増渕や榎下に教えたことがある。」旨証言した。

(b) 中村(隆)は、さらに、地刑九部(当初、被告人増渕及び被告人(原告)前林などの審理を担当)の第六回公判期日において、「昭和四六年夏ころ、松村の宿直の日に日大二高で増渕や堀と会った。榎下と共に午後四時ころ日大二高に着き、ソフトボールをした後、職員室でビールを飲みながら話をした。週刊誌に載っていた赤軍派のビップ(要人)テロの話をしたと思う。坂本の第三回公判期日では、この時、爆弾による要人テロの話を聞いたと証言したが、これは今考えると週刊誌の記事の内容と思う。ただし、自分は要人テロが予定されていることは知っていた。その場でその話がでたかどうかははっきりしない。この時と思うが、増渕から金属ケースを作れるかと聞かれ、自分は秋葉原に行ってシャーシーを買ったほうが安上がりで時間的にも早いと説明した。そのシャーシーの説明のとき、増渕や堀から『それに蓋がつけられるか』、『弁当箱じゃ使えないか』、『いいスイッチはないか』などと聞かれたので、自分はアルミ板で蓋ができることや、スイッチについて基本的な形、シーメンススキーとかロータリースイッチの説明をした。増渕や榎下に起爆装置などについて教えてやったのは、それよりも後のことで、増渕のアパートへ行った時だったと思う。」旨証言した。

(c) 中村(隆)は、地刑九部の第八回公判期日において、「増渕と金属ケースの話をした時期は夏ころである。そのときは、マイクロスイッチと限定せず、スイッチ一般について説明した。そのときの状況は、増渕から『金属ケースを作れないか』と聞かれ、無線機か何か作るということだったので、自分は、『秋葉原に行って買った方が安上がりになる』と話した。増渕は、『しっかりした蓋をつけられるか』とか、『スイッチにいいのがないか』と言ってきたので、蓋はできること、シーメンスとかロータリースイッチなど切替えスイッチのことを説明した。増渕から『もうちょっと簡単なスイッチはないか』と聞かれ、スイッチの原理として、マイクロスイッチがある旨説明した。」旨証言した。

(d) 中村(隆)は、地刑二〇部の第一一回公判期日において、「日大二高で増渕に初めて会ったのは、四六年四月から五月ころと思う。松村の宿直のときで、榎下と一緒に行き、増渕、堀と会った。次に四六年の夏ころ、榎下と一緒に日大二高に行ったところ、増渕、堀が来ており、松村も含めてソフトボールをし、暗くなってから職員室でビールを飲んだ。その際、増渕から『金属ケースを作ってもらえないか』と頼まれたが、『買ったほうが安上がりで、時間的にも早い』、『秋葉原に行ったらある』旨話した。増渕から『いいスイッチはないか』と聞かれ、『無線機のスイッチだと送信、受信を切替えるスイッチがある』と話した。シャーシーについて、自分か榎下のどちらかが、弁当箱のようなものという形で話した。蓋についてネジ止めできると説明した。このとき、爆弾とかテロとかの話題が出たかどうかはっきりした記憶がない。」旨供述した。

(え) 日石爆弾に関する技術、知識及び材料の提供

(a) 中村(隆)は、地刑九部の第六回及び第七回公判期日において、「昭和四六年九月ころかはっきりしないが、初めて増渕のアパートへ行った際、増渕にスイッチの構造や配線、電気回路について、図面を書いて説明したことがある。増渕から『トリックによって爆発させるにはどういう構造があるか』と聞かれ、わら半紙か何かに図示して説明した。スイッチについては、銅板か何か曲げて作れるのではないかと説明し、ヒーターについては、最初、豆電球の中のフィラメントを使ったらいいのではないかと説明したところ、榎下が『ガスヒーターが使えるのではないか』と言っていた。雷管、雷汞、硝化綿の話はなかった。トリック爆弾の話からこのような説明をしたり、この図面を書いたりしたものである。増渕のいうトリック爆弾というのは、スイッチに何か細工をするということだが、このときは漠然と一つのトリック爆弾が製造可能か否かという内容であった。昭和四六年夏ころ、自宅で榎下に、銅板一枚を渡した。それから一週間以上たった後、榎下が自宅に来て、アルミ板が欲しいというので、アルミ板一枚を渡した。このときたしか、アルミ板は堀が使うと聞いたように思う。その後、自分が白山自動車に立ち寄った際、榎下から『簡単なスイッチの作り方はないか』と相談され、『短冊式に切った二枚の金属片の間に絶縁体を挾み、一方の箇所をテープで止めて固定し、片方を、金属片が絶縁体が外れたときに接触するように少し曲げ、その間に絶縁体を入れる』旨説明した。金属片の材料としてはアルミ板ではスイッチに適さないことがわかっているので銅板と言った。榎下にこの説明をした時期は、増渕に爆弾の説明をした後である。」旨証言した。

(b) 中村(隆)は、地刑二〇部の第一一回公判期日において、「初めて増渕のアパートに行ったとき、増渕から、トリック爆弾の装置ができるかと聞かれて、簡単な配線図を書いて説明した。スイッチの構造については、金属片を合わせて接触させるということや、二枚の金属片の間に絶縁体を入れる程度の話はしたと思うが、あまり詳しい話はしていない。電池については、単一、単二や積層乾電池があると説明した。ヒーター部分については、初め『豆電球のフィラメントが使えるのではないか』と説明したところ、榎下が『ガスヒーターが使えるのではないか』と言っていた。スイッチ部分がトリックになるが、そのトリックの内容についてまでは具体的に話題にならなかった。増渕か榎下から『このまま組み立てていくと、最終的に蓋ができないのではないか』という質問があり、それに対して自分は、『一部を外へ出して配線すればいいのではないか』と言った気がする。この配線図の説明は、日大二高ではなく、増渕方での出来事であり、その場にいたのは増渕、前林、中村(隆)、榎下の四人である。日大二高で金属ケースの話が出た後、榎下が自宅にやって来て、銅板はないかというので、一枚を渡した。その後にも、自宅で榎下にアルミ板を渡した。このとき、榎下は、『堀が使うらしいからアルミ板をくれないか』ということであった。銅板及びアルミ坂の用途は聞いていない。日大二高で増渕に会ったよりも後で、榎下に銅板やアルミ板を渡したころ、白山自動車に立ち寄った際、榎下から簡単なスイッチの作り方を聞かれたので、教えたことがある。二枚の金属板を重ねてその間に絶縁体を入れるというような説明をした。二枚の金属板については、『銅板』と言ったと思う。その間に差し込む絶縁体についてはベークライトという説明をした。」旨供述した。

(お) 日石総括

中村(隆)は、地刑三部の第三回公判期日において、「日石事件の一週間くらい後の夜、日大二高に増渕、堀、榎下、松村らと集まったことがある。江口はいたかどうかはっきりしない。その場の話は、日石事件は郵便局で爆発して失敗であったが、いろいろと改良してもう一回やるという内容であった。そのときであるかどうかははっきりしないが、金属ケースが作れないかという話や、いいスイッチがないかというような話があった。」旨証言した。

(か) 土田邸爆弾製造に関する技術、知識及び材料の提供

(a) 中村(隆)は、地刑九部の第六回公判期日において、「昭和四六年夏ころ、日大二高で増渕と金属ケースの話をした際、増渕が『簡単なスイッチはないか』と聞くので、自分がマイクロスイッチの説明をした。その後、同年一一月中旬、新宿歌舞伎町のバー・コクテイルで、榎下から『マイクロスイッチのいいのがないか』と聞かれたので、マイクロスイッチの作動部分の位置がいろいろあること、どういう種類があるかということを説明し、秋葉原で売っていると教えた。榎下からマイクロスイッチの購入方を頼まれて引き受けた。その後、秋葉原の店でマイクロスイッチ二個を買い求めた。買った店は警察官を案内した店である。買い求めたマイクロスイッチは、一五ミリ×二〇ミリ×厚さ七、八ミリくらいの大きさの立方体のもので、色は黒で、作動部分は横についていた。作動線の長さは七、八センチであり、端子は三か所であった。購入したマイクロスイッチは、一一月下旬ころの夜、榎下と一緒に増渕のところへ届けた。その際、増渕に対しつなぎ方を図面に書いて説明した。増渕に対し、『三つの端子のうち二つをつないで豆電球を点滅させ、その作動状況をみて端子を選定する』旨説明した。」旨証言した。

(b) 中村(隆)は、地刑九部の第七回公判期日において、「土田邸事件で、自分の記憶にあり、実際にあったと言えることは、マイクロスイッチの購入、配線の教示、実際の配線作業の三つである。」旨証言した。

(c) 中村(隆)は、地刑二〇部の第一一回公判期日において、「日大二高で、金属ケースの話をした際、マイクロスイッチの話が出た。榎下からマイクロスイッチの購入を頼まれたのは、一一月中旬バー・コクテイルにおいてという記憶である。自分一人で秋葉原へ行って、ラジオセンターの中でマイクロスイッチを買った。今までの証言では、二個買ったと言っているが、個数についてははっきりしない。買ったマイクロスイッチは、二〇ミリ×一五ミリ×厚さ八ミリくらいの大きさで、作動線方式のものである。作動線は、マイクロスイッチの上部についていて、長さは五センチないし七センチくらいである。端子は三個であった。作動(の幅)が大きいものということで選んだ。買って何日か後に、榎下と一緒に増渕のところへ持って行った。その時期は一一月下旬ころと思う。買ったマイクロスイッチのほかに自宅にあったマイクロスイッチ(秋葉原で買ったものより二、三倍大きいノブ式のもの)を持って行った記憶がある。その際増渕に、電池、豆電球を用いてマイクロスイッチの端子を選定する方法を図面に書いて説明した。マイクロスイッチを増渕に渡して帰った。」旨供述した。

(き) 土田邸爆弾製造

(a) 中村(隆)は、地刑二〇部の第二回公判期日において、土田邸爆弾の破片(昭和四八年東京地裁押第一五三六号符号一ないし二〇)等を示され、「弁当箱の色はこんなものだった。自分が使った積層乾電池は、ナショナルだったと思う。黄色の絶縁線を配線に使った。マイクロスイッチの作動線は細工した記憶はあるが、現在あるような状態に曲げた覚えはない。自分はクランク型に曲げた。マイクロスイッチの端子に赤のラッカーで印をつけたように記憶している。下と真ん中の端子に赤い印をつけ、そこに配線した。蓋を開けた時、つまりこの作動線が上がっているときに通電すればよい。真ん中と下の端子に配線し、その先を乾電池と豆ソケットにつなぎ、作動線が上がると通電するようにした。マイクロスイッチの取り付け位置、乾電池の位置、配線状況等は今記入した図面のとおりである。今示されたマイクロスイッチ部品(前同号符号一七)は、自分が配線の時に使ったものに間違いないと思う。そのとき使った積層乾電池はナショナルで九ボルトのものであった。」旨供述して、爆弾配線構造図を作成した。

(b) 中村(隆)は、地刑九部の第六回公判期日において、「増渕のところへマイクロスイッチを届けたよりも後、同人のアパートでそれを使って配線をした記憶がある。榎下から電話があり、白山自動車まで行き、榎下の車で増渕のアパートへ行った。アパートには増渕、堀、前林がいた。ほかに何人かいたような気がするが、誰か覚えていない。増渕方の奥の部屋に、自分が持って行ったマイクロスイッチのほかに、九ボルトの積層乾電池、黄色ビニール線、豆ソケット、豆電球、ラジオペンチ、黒色ビニールテープ、木箱が用意されていた。薬品類や弁当箱ははっきりしない。自分の記憶は配線の方がはっきりしている。作業の手順としては、まずマイクロスイッチの端子を選定した。マイクロスイッチの作業線が上に上がっている状態のときに通電した状態になるように、乾電池、豆電球などを用いて、マイクロスイッチの端子三個のうち二個を選定し、そこに赤い印をつけたと思う。次に自分と榎下で、ラジオペンチを使ってビニール被覆線を一〇センチくらいに四本切った。このうち二本を、マイクロスイッチの選定した端子に結び付け、他の二本をバッテリースナップと豆ソケットの脚線各一本とを結び付けるなどして配線した。ハンダは使用せず、ねじって結線した。木箱には穴があったと思うが、自分が開けたか、開けてあったのかははっきりしない。マイクロスイッチの作動線は、クランク型に曲げたと思う。自分がマイクロスイッチを木箱に取り付けた。榎下に二液性のスーパーセメダインの混合を頼み、それを使ってマイクロスイッチを木箱の側面の上端に取り付けた。その上からビニールテープで固定した記憶がある。積層乾電池もスーパーセメダインで固定したと思う。自分の作業に四五分から一時間くらいかかった。部屋にいた増渕、前林、堀、榎下が何をしていたのかわからないが、増渕が、アルミホイルを三、四〇センチくらい引き出して破っていたのと、前林が中腰で何か書いていたのを記憶している。最終結線作業は、自分がしたか他の者がしたかわからない。配線作業の過程で、それが爆弾製造であるということは知っていたと思う。」旨証言した。

(c) 中村(隆)は、地刑九部の第七回公判期日において、「配線作業をやった記憶はある。配線作業を榎下、堀、増渕らと一緒にやった可能性は否定できない。増渕方で作業をした際の時間は四五分か一時間くらいと記憶している。爆弾製造の際に使った木箱に文字が書いてあったかどうかははっきりしないが、カステラの木箱のようなものという印象である。」旨証言した。

(d) 中村(隆)は、地刑九部の第八回公判期日において、「配線作業をした記憶はある。その場所は、増渕のアパートだと思う。配線作業の日は特定できないが、四六年末ころではないかと思う。マイクロスイッチを取り付けた箱は、容器の内側に山があって、上部と蓋の平面とが五ミリくらい離れていたように思う。増渕や榎下に配線図の説明をした際、爆弾に使用されるという前提で説明しているので、配線作業をしていたときも爆弾製造をしているという認識を持っていたが、爆弾の威力まではわからなかった。当時自分が、小包で郵送されるという認識をもっていたかどうかはわからない。配線の後のテストはやったと思う。作業開始前に増渕、堀、榎下、前林、自分がいたが、それ以外の人についてはっきりしない。爆弾は、普段は上に上っている作動線が、蓋をすることによって押し下げられ、オフの状態になり、蓋を取ると元に戻ってオンになる構造のものである。赤い印をつけたと思う箇所は、真ん中と下の二つの端子である。似通った配線作業は、仕事の関係で何度かしたことがあるが、爆弾のための配線という認識で行った配線はこれだけだと思う。参考人の段階で、マイクロスイッチに赤い印がついているということを警察官から聞いたが、それが豆ラッカーであるということは自分が言い出した。そのような記憶があったし、現在でも豆ラッカーという記憶である。」旨証言した。

(e) 中村(隆)は、地刑二〇部の第一一回公判期日において、「秋葉原で購入したマイクロスイッチを増渕に渡した後、同人のアパートで、そのマイクロスイッチを使って配線をしたことがある。榎下から電話があり、白山自動車へ行き、そこから榎下の車で増渕のアパートに行った。増渕、前林、堀がいたが、他に何人いたかはっきりしない。セットしたのは秋葉原で買ったマイクロスイッチと思う。それと違うものという意識はない。取り付けたのは木箱で、一緒に豆ソケット、乾電池もセットした。部屋には、木箱、マイクロスイッチ、九ボルト積層乾電池、豆電球、豆ソケット、バッテリースナップ、黄色のビニールコード(絶縁線)、黒色ビニールテープ、二液性のスーパーセメダイン等の材料のほか、ラジオペンチ、ボンナイフ、切り出しナイフ等の道具が準備されていた。木箱はカステラの容器のような箱であった。また薬品類と断定できないが、ビニール袋に入った粉末のように見えるものがあった。作業は(部屋に)行ってからすぐに始まり、こたつの台の上で作業したように思う。作業の順番は、一番最初に積層乾電池と豆電球を使い、作動線が上に上がっているときに通電した状態になるようにマイクロスイッチの端子の選定をし、次に黄色の絶縁線を切って端子に結び付けた後、バッテリースナップと豆ソケットの各脚線を端子絶縁線に結び付けたりした。その後マイクロスイッチを木箱の側面の上端に取り付けた。木箱に合わせてマイクロスイッチの作動線をクランク型に曲げた。法廷で見た証拠物は自分の頭の中にあるクランク型とは違っている。曲げるのにペンチを使ったように思う。マイクロスイッチの端子に赤印をつけた記憶はあるが、はっきりしない。榎下が混ぜあわせたスーパーセメダインを使ってマイクロスイッチを木箱に取り付けた後、固定するために、黒色のビニールテープを上から取り付けた記憶がある。工作上、一番最後に蓋をしてから結線をしなければならないため、木箱の底の端のほうに切り出しナイフで穴を開けたような記憶がある。その穴から絶縁線を外に出しておき、その先はビニールテープを巻いたように思う。作業に四五分から一時間くらいかかった。増渕が、巻いてアルミホイルを引き出していたことがある。その作業が爆弾の製造であることはわかっていたと思う。その日はバー・コクテイルの伝票の日付からすると、四六年一一月から一二月にかけてのことと思う。」旨供述した。

(く) 弁護士との接見

中村(隆)は、土田邸事件で起訴された昭和四八年四月三〇日から、東京拘置所に移監された同四九年三月四日までの間、三四回にわたり弁護人と接見し、その接見時間は、自己に対する第二回公判期日以降は一時間ないしこれを超えることが多くなった。

(カ) 松村の公判廷における被告人供述

松村は、地刑四部の自己に対する第三回公判期日で否認に転じたものの、その第一回公判期日(昭和四八年六月二二日)において、「増渕らが土田邸事件の犯行を行った際、その情を知りながら、昭和四六年一〇月二三日ころから同年一一月中旬ころまでの間、数回にわたり、増渕らに、日大二高の職員室等を連絡、謀議の場所として提供し、増渕らの右犯行を幇助した。」旨の公訴事実について、検察官の「『情を知りながら』とは、正犯である増渕、江口、榎下、中村(隆)、前林らに殺人の犯意のあることを含む。被告人の幇助行為は日大二高の職員室等を連絡、謀議の場所として提供した事実のみである。」旨の釈明を聞いた上、「増渕らの殺害の目的は聞いていなかったので知らなかった。その他の事実は起訴状記載のとおりで、間違いなく、その結果、警務部長の奥さんが亡くなり、また息子さんが、怪我をして申し訳ないと思っています。」旨述べて基本的な事実関係を認めた。

そして、松村は、検察官による冒頭陳述において、日石事件についての日大二高謀議を含め、一〇月二三日ころの日石総括、一一月一三日ころの土田邸事件についての日大二高謀議の存在と松村が右謀議に参加したことなどが明らかにされた後の証拠調手続において、自己の検面調書八通について、裁判長から「今、君の調書の内容が明らかにされたが、それらについて申し述べておくことはないか。」と質問されたのに対しても、「別にありません。」と答えた。

(キ) 坂本の公判廷における被告人供述

坂本は、地刑三部の自己に対する第三回公判期日で否認に転じたものの、その第一回公判期日(昭和四八年六月二九日)において、「増渕らが日石事件を犯した際、その情を知りながら、昭和四六年一〇月一五日ころ杉並区上荻一丁目一三番三号喫茶店『サン』において、同人らから、爆発物を郵便局から郵送した上逃走し、かつ犯跡を隠蔽するため同人らを郵便局付近第一ホテル前より千葉県船橋市習志野台方面まで搬送することを依頼され、これを承諾して同人らの右犯行を容易ならしめてこれを幇助したものである。」旨の公訴事実に対し、「本件爆発物について、どういうもので造ったか、どのように爆発する装置をしたものか、その内容は知りませんが、その他の事実は起訴状記載のとおり間違いありません。」と述べた。

また、坂本は、検察官の質問に答え、「堀、榎下から、事件以前から爆弾闘争の話を聞いていた。直接協力を求められたのは事件の少し前である。『サン』に自分のほか、榎下、中村(隆)、堀、増渕が集まり、増渕、堀から依頼された。自分の担当(新橋から習志野までの搬送)は初めから決めてあったのだと思う。自分は一度断ったが、結局引き受けた。引き受けた順序は榎下、中村(隆)、自分の順である。その際には、運ぶのは前林だけなのか増渕も一緒なのか、はっきり分からなかった。増渕、前林を乗せて習志野へ行った。コースは前林が指示した。」などと具体的に供述した上、弁護人の質問に答え、「いけないことという感じがあったが、郵送後の人の送りだからということで承諾した。『サン』で増渕が榎下、中村(隆)に対し『ばれたら死刑だ。だからやらなきゃだめだ』というように命令していた。」旨述べた。

(ク) 鈴木の公判廷における証言

鈴木は、昭和三九年五月から昭和五一年春まで東京都職員として勤務し、その間、共産主義者同盟マルクス主義戦線派に所属し、主として千代田反戦行動委員会を舞台として左翼活動を行い、かつ赤軍派のシンパ的立場にあったものであり、昭和四五年末ころ、赤軍派の神田京子を介して原告江口と知り合い、都職労の組合活動等を通じて交際が深まり、さらに同原告を介して増渕とも面識を持ったものである。

同原告は、地刑九部の第二二八回及び第二二九回公判期日において、要旨以下のとおり証言した。

(あ) 私は、昭和四六年一一月ころ、増渕から誘われて伊豆西海岸の妻良の民宿で一泊した。その際、増渕、原告江口との会話で、当時頻発していた爆弾事件が話題に上がり、爆弾闘争一般の話から郵便局で小包爆弾が爆発した事件(日石事件)に話が移り、自分が何であんなところで爆発したんだろうとの疑問を呈したところ、増渕が、「あれは失敗だった。」と述べた。原告江口は、これに対し、「あれは、あなたがミスをしたからいけないのよ。」と言い、増渕が苦笑していた。

私が、増渕に対し、爆弾の作り方や材料の入手方法等を聞いたところ、増渕は、「我々で小包を開けば爆発する爆弾を作ることは技術的に可能である。ダイナマイトは捜したが手に入らなかった。」などと言っていた。

増渕は、「爆弾づくりの技術においては、自分は梅内より上である。」と言っていた。増渕が、開けると爆発する装置の説明をしてくれ、その中に「スイッチ」という言葉があった。爆薬に用いる薬品の名前なども教えてもらった。「砂糖」という言葉も出た。

私が、開くと爆発する爆弾を郵送しても開かれなければ意味がないと質問したところ、増渕は、「小包の内容を送り先の人の興味をそそるような物に仮装したり、差出人の名前に送り先の人と深い関係を持つ人の名前を使ったりすれば、開けられる可能性が大きくなる。」と話していた。

原告江口が、「自分は学会に出席するため自動車で新橋付近から東京駅に向かったが、途中道路が混雑していて予定していた下り列車に乗り遅れそうになった。」と話していた。

増渕が、原告江口に対し、「アリバイがあるから大丈夫だ。」と言っていた。この「アリバイ」というのは、原告江口が学会に出席するという話しと関連があると受け取られた。同様に、増渕と原告江口のアリバイ関係の会話の中で、誰かが習志野の陸運局に行って、公の記録に日付を残すという話があった。

増渕、原告江口の話では、当日は新橋まで自動車で来たが、運転した人(または車)は、時間の関係で途中交替した。乗っていたのは増渕、原告江口で、この二人のほかに新橋から乗り込んだ人があり、この人は話の様子では原告前林というイメージであった。車に乗った人、運転した人、交替した人を含めて何等かの形でアリバイを作ったと聞いている。

妻良における会話全体を通じて、増渕は、爆弾闘争について肯定的な考え方をもっていると受け取られた。

最後に増渕から「今度何かあったときは連絡するから。」といわれた。この「何か」というのは爆弾闘争のことだと考えた。したがって増渕から「爆弾闘争を一緒にやろう。」と声がかかってくる可能性があると考えた。原告江口からも「八王子保健所の者が頼りにならないから一緒に手伝ってくれ。」といわれた。

私はこれらの話を聞いて、郵便局の事件(日石事件)は、多分増渕がやったのではないかと考えた。

(い) その後、新聞等で土田邸事件の発生を知り、その事件の爆弾が、妻良で増渕らから聞いた「郵便物を開くと爆発する爆弾」とよく似ていたことから、もしかしたらこの事件は増渕達がやったのではないかと思った。その直後ころ、都内で原告江口と会った際、「土田邸の事件はあんたらがやったのか。」と尋ねたが、原告江口は、「それはあとでいいから。」というように言葉を濁し、肯定も否定もしなかった。

私は、土田邸事件のことを増渕に確かめたかったので、原告江口に、「増渕に会わせてくれ。」と言い、昭和四七年一月二八日から二泊三日で千葉県飯岡町の国民宿舎に三人で泊まった。私は、増渕に対し、「何で一警察官個人なんかに爆弾を送ったんだ。」と尋ねたところ、増渕はやったともやらないとも返事はしなかったが、「東京は我々の闘争の主たる中心地である。我々の闘争を押さえつけようとするのが警視庁である。だから警視庁の警備関係の幹部に対して個人テロを行うことは無意味ではないんだ。」と言った。増渕との間で土田邸事件の位置付けや個人テロについて話をしたが、増渕は警察官に対するテロの話の中で「過剰防衛」という言葉を使っていた。自分としては、土田邸事件は九〇パーセントくらい増渕がやったと思っており、その前提で話を始めたし、増渕も自分らがやったということを前提にして話をしているように感じた。自分は誰が手伝ったかというような具体的な質問はしなかったが、それは事件にかかわりあいたくないという気持ちもあったからである。帰郷後の昭和四七年二、三月ころ、都内で原告江口に会った際、同人は土田邸事件に関し、「物的証拠がないから大丈夫だ。」と言っていた。

(3)  右認定事実によれば、原告らに対する日石・土田邸事件の公判過程において、原告らの自白調書の大部分の取調請求が却下されたものの、原告らの右事件についての嫌疑を肯定する証拠として、右事件の爆弾の荷札が増渕の筆跡であるとする黒田正典の鑑定結果、原告江口及び増渕が右事件に関与していることを推認させる佐古のプランタン会談に関する供述調書、増渕が土田邸事件に関与していることを推認させる檜谷の供述調書、増渕、原告堀、同前林、同榎下及び他の被告人が、日石・土田邸事件に関与していることを示す中村(隆)の公判廷における供述、増渕、原告江口、同前林、同榎下及び中村(隆)の土田邸事件への関与を示す松村の公判廷における供述、原告堀、同前林、同榎下、増渕、中村(隆)が日石事件に関与していることを示す坂本の公判廷における供述、増渕及び原告江口が日石・土田邸事件に関与していることを推認させる鈴木証言などの各証拠の取調べがなされたことが認められ、これらの事実に照らすと、本件全証拠によっても、右公訴追行過程において、前記供述調書取調べ請求が却下されたことにより、もはや原告らに対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したとまで認めることはできない。したがって、日石・土田邸事件における検察官の公訴の追行が違法であるとは認められない。

(三)  日石事件に関する中村(隆)のアリバイ

(1)  原告らは、検察官は、当初、日石事件当日における新宿から新橋までの爆弾搬送担当者(第二搬送者)は中村(隆)であると主張していたところ、公判開始早々、同人は、当日、府中の自動車運転免許試験場で学科試験を受験していたというアリバイが判明し、同人の右事件についての爆弾搬送自白が虚偽であることが分かったが、右自白は、同人及び他の被告人の自白において中心的部分をなすものであるから、これが虚偽であることが分かったことによって、日石・土田邸事件の構成そのものが崩壊したと主張し、右アリバイ主張を根拠づける証拠が、原告らに対する日石事件の嫌疑を否定する明白な証拠であって、これが公判に提出されたことにより、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がない状態に至っていたかの如くに主張する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> 検察官が認定した日石事件における中村(隆)の実行行為の概要

親崎検事が、捜査の終局段階において認定した日石事件における中村(隆)の実行行為は次のとおりであった。

(ア) 中村(隆)は、友人の原告榎下に誘われて、昭和四六年九月一八日ころの夜、日大二高職員室に赴き、増渕、原告堀、同江口、同榎下及び松村と会い、増渕を中心に小包爆弾郵送計画について協議したが、増渕から相談を受けて爆弾のケースの箱を開ければ爆発する装置に必要なスイッチの構造や配線に関する知識を提供して犯行に加わる意向を明らかにした。そのため、薬品入手を断った松村を除き、増渕、原告堀、同江口、同榎下及び中村(隆)の間に、小包爆弾を警察幹部など権力機関の要人に郵送して爆発させ、治安を妨げるとともに、郵送の名宛人やその家族など爆発の現場に居合わせた者を殺害する犯行についての共同謀議が成立した(日大二高謀議)。

(イ) 増渕及び原告掘は、同年一〇月中旬ころ、協議の上、後藤田正晴と今井栄文あての各小包爆弾を同月一八日を期して日石地下郵便局から郵送することを決定するとともに、同郵便局までの爆弾搬送と同郵便局への差出しの実行行為を原告江口及び同前林に担当させること、同人らを運ぶための自動車の運転者を原告堀において手配することなどを取り決め、さらに、その後、増渕及び原告堀は、協議の結果、爆弾搬送については、原告榎下、中村(隆)及び坂本の三名をして、運転区間を分けて運転を分担させることにより、仕事先から抜け出す時間帯を短くし、かつ、発覚した際の弁解(特に各人のアリバイの主張)を容易にしようと考えた(日石リレー搬送)。

(ウ) そこで、同月一五日ころの午後八時ころ、原告堀が連絡を取り、原告榎下、中村(隆)及び坂本の三名を杉並区上荻一丁目一三番三号所在の喫茶店「サン」に集め、増渕及び原告堀が、中村(隆)ら三名に対し、同月一八日午前中に日石地下郵便局から小包爆弾を郵送することを説明し、右爆弾等を搬送するため三名が自動車を用意してその運転を分担する形で加功するよう指示、説得し、中村(隆)らはこれを引き受けた(サン謀議)。

(エ) 増渕及び原告江口は、同月一八日午前九時ころ、原告榎下の勤務先である白山自動車へ到着した。第一搬送者である原告榎下は、原告堀から預かり保管していた小包爆弾二個入りの手提げ袋を原告江口に渡した上、普通乗用自動車に増渕及び原告江口を同乗させ、青梅街道を経由し、午前九時四〇分ころ、新宿中央公園の高速道路入口付近で増渕及び原告江口を下車させた。

第二搬送者である中村(隆)は、右高速道路入口付近に自動車を停めて待機していたが、増渕及び原告江口を同乗させて出発し、高速道路を経由し、午前一〇時二〇分ころ、増渕の指示で、日石本館ビル手前約五〇メートルの路上に停車した。原告前林は、同ビル前付近歩道上で待機しており、中村(隆)の車から降りた増渕、原告江口と合流し、増渕は間もなく中村(隆)の車に戻った。

(オ) 原告江口及び同前林は、小包爆弾の入った手提げ袋をさげて、日石本館ビルへ赴き、午前一〇時三〇分ころから三五分ころまでの間に同ビル内の日石地下郵便局に入り、二個の小包爆弾を普通の小包のように装って同郵便局郵便係員に差し出すなどした。

(カ) その後、原告江口及び同前林は、増渕が乗車して待機している前記中村(隆)の普通乗用自動車に乗り込んだ。中村(隆)は、増渕の指示で車を走らせ、同都港区新橋一丁目一二番一二号の通称第一ホテル前通り付近で増渕、原告江口及び同前林を下車させ、第三搬送者である坂本の運転する自動車に引き継ぐと、勤務先に戻った。

(キ) 中村(隆)は、その後、土田邸事件に関し、土田邸爆弾の製造等に加担し、土田邸事件の共同実行をも敢行するに至った。

<2> 中村(隆)のアリバイ主張の概要

(ア) 中村(隆)は、日石・土田邸事件の共同正犯として公訴提起され、地刑二〇部で審理されることとなった。

中村(隆)は、その第一回公判期日(昭和四八年七月七日)において、日石・土田邸事件の各公訴事実について、検察官が各事件の共同謀議の日時、場所、相手方及び中村(隆)の行為の具体的態様について、「日石事件については、昭和四六年九月一八日ころ、日大二高で、増渕、堀、江口、榎下と、同年一〇月一五日ころ、喫茶店『サン』で増渕、堀、榎下、坂本と謀議をし、具体的行為としては、爆発物の起爆装置について技術及び金属片の提供をし、さらに右サンにおける謀議に基づき、犯行当日サニークーペに増渕、江口を乗車させ爆発物の運搬の一部を分担した。土田邸事件については、同年一〇月二三日ころ及び一一月中旬ころ、日大二高で、増渕、堀、江口、榎下、松村と謀議をし、具体的行為としては、増渕の指示によりマイクロスイッチを購入し、一二月上旬ころ、増渕方において、本件爆発物を製造した際に、右マイクロスイッチの取り付け、調整、配線をするなど爆発物の製造についての技術を提供したものである。」旨釈明したのを聞いた上で、日石事件の爆発物の運搬及びサンにおける爆発物の運搬の謀議についてはこれを否定するとともに、その他の事実はすべて認める旨供述した。

(イ) 中村(隆)は、右否認の理由について、「日石事件当時は警視庁府中運転免許試験場において運転免許の学科試験を受験していた」旨のアリバイを主張し、同人の弁護人は、警視庁府中運転免許試験場長作成の「調査方依頼について(回答)」と題する書面を証拠として提出した。

(ウ) 中村(隆)は、自己を被告人として審理する地刑二〇部においては、第一一回公判期日(昭和四九年五月七日)までの間、坂本を審理する地刑三部の第三回公判期日(昭和四八年一一月一九日)までの間及び増渕及び原告前林を審理していた地刑九部の第六回公判期日(昭和四九年三月七日)から第八回公判期日(同月一四日)までの間において、日石事件について、日大二高での謀議に参加し、爆弾製造に関する技術、知識及び材料を提供した事実、土田邸事件について、日大二高での謀議に参加し、爆弾製造に関する技術、知識を提供し、マイクロスイッチを購入、交付し、爆弾製造に関与した事実を繰り返し、供述、証言した。

(エ) その後、中村(隆)は、日石・土田邸事件を全面否認するに至り、増渕らを被告人として審理していた地刑九部で併合審理されることになった。

<3> 検察官の冒頭陳述の変更

検察官は、前記回答書を検討した結果、中村(隆)の日石事件当日のアリバイを認め、日石リレー搬送の第二搬送者を中村(隆)とする冒頭陳述を、第二搬送者は氏名不詳者であると変更した。

<4> 刑事審の判決

地刑九部は、中村(隆)のアリバイ事実を認め、サン謀議に関する同人の供述の信用性にも疑問が生じたことなどから、同人に対し、前記のとおり、昭和五八年五月一九日、日石・土田邸事件について無罪の判決を言い渡した。

<5> 日石爆弾の第二搬送者に関する他の被告人の供述

原告堀、同榎下、坂本及び増渕は、日石爆弾リレー搬送の第二搬送者は中村(隆)であるとし、これを前提として自白ないし供述していた。

(3)  右認定事実によれば、中村(隆)の日石事件当日のアリバイを示す証拠である右回答書は、同人の右事件における爆弾搬送事実を否定する明白な証拠であると認められ、これによって同人の供述の信用性に疑問が生じることから、同人のサン謀議及び土田邸事件等に関する各嫌疑をも強く否定する証拠であるとは認められる。

しかしながら、前記のとおり、原告らに対する日石・土田邸事件の公判過程において、原告らの嫌疑を肯定する数々の証拠が取り調べられていたこと、中村(隆)自身、公判の途中まで右嫌疑を認める供述をしていたことなど前記認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、右アリバイを裏付ける回答書などの証拠が提出されたからといって、直ちに原告らに対する日石・土田邸事件の嫌疑が明白に否定されたとまでは認められず、公判の過程においてもはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したとまで認めることはできない。

(四)  日石事件における原告前林のアリバイ

(1)  原告らは、前記のように、原告前林の日石事件に関するアリバイを主張しているが、これは、公訴の追行との関係では、右アリバイに関する証拠は、原告前林の右事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠であり、これが公判過程で提出されたことによって、もはや同原告につき有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったにもかかわらず、あえて検察官が公訴を追行したとの主張であるとも解されるので、検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> 公判段階におけるアリバイ主張の概要

原告前林の日石事件についてのアリバイ主張の内容は、前記(第四、一四、3、(七))のとおりであるが、要するに、原告前林は、日石事件当日、午前九時ころ松戸市常盤平所在の実家を出発して、船橋市習志野台所在の千葉県陸運事務所習志野支所まで赴き軽自動車の登録手続を行っており、陸運事務所内で、昼休みの時間帯に同級生平山弘志が来合わせているのを見て、登録手続を済ませた後、友人の村越すみの自宅に電話して連絡をとった上、午後五時ころ国電市川駅付近の喫茶店で同女と会ったというものであった。

<2> アリバイを基礎づける証拠等

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう原告前林の公判廷における供述、原告前林が昭和四六年一〇月一八日に松戸市役所常盤平支所に出頭し、住民票抄本一通の交付を申請し、その交付を受けたことを示す「住民票閲覧、交付申請書兼台帳」綴一冊、昭和四六年一〇月一八日午後零時過ぎころ前記陸運事務所に出頭し、昼休みのため午後一時ころまで同所内で時間待ちをしたという平山弘志の供述、昭和四六年一〇月ころ、市川市付近の喫茶店で原告前林に会ったことがあるという村越すみの供述が存在した。

<3> アリバイの成立を否定する証拠等

(ア) 捜査官が、原告前林の実家から陸運事務所に至るまでの経路と所要時間等を捜査したところ、仮に、日石事件当日の昭和四六年一〇月一八日に、午前九時少し前ころ右実家を出発すれば、右常磐平支所で住民票抄本の交付を受けた後、新橋に赴いて増渕らと合流し、同日午前一〇時三〇分ころ日石郵便局に小包爆弾を差し出し、その後、同日正午前には陸運事務所に到着し、午後から軽自動車の登録手続をすることが時間的に可能であった。

(イ) 村越すみは、公判廷において昭和四六年一〇月一八日は、勤務先の美容院の休業日ではないから、原告前林と会ったのはこの日ではない旨供述した。

(ウ) 原告前林は、捜査段階では、津田沼駅から乗車したバスについて、午前一一時二〇分ころのバスに乗った、バスには男の車掌がおり、その車掌から切符を購入したと具体的に供述していたが、右供述どおりの経路を辿ったとすれば、そのバスはワンマンバスであって、客観的事実に符合しないところ、この点につき、原告前林は、公判において、自分の乗車したバスに車掌がいたかどうかははっきりしない旨供述を変更した。

<4> 地刑九部等のアリバイ評価

地刑九部は、その判決で、原告前林が、その供述する理由によって、日石事件の犯行時に、日石本館ビル内郵便局内ないしその付近にいなかった旨のアリバイがあるとは認められないと判示した。

なお、昭和五八年三月二四日に松本に対して言い渡された地刑六部の無罪判決では、右アリバイ主張を軽々しく排斥することは困難であると判断された。

(3)  右認定事実及び前記(第四、一四、3、(七)、(3))認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告前林の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠は、同原告の日石事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、公判の過程において、右事件につき、もはや同原告に対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したと認めることはできない。また、右各証拠は、同様の理由によって、同原告の土田邸事件に関する嫌疑や、他の原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とも認められない。

(五)  日石事件に関する原告江口のアリバイ

(1)  原告らは、前記のように原告江口の日石事件に関するアリバイを主張しているが、これは、公訴の追行との関係では、右アリバイに関する証拠は、原告江口の右事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠であり、これが公判過程で提出されたことによって、もはや同原告の右事件に関する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったにもかかわらず、あえて検察官が公訴を追行したとの主張であるとも解されるので、検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> 公判段階におけるアリバイ主張の概要

原告江口の日石事件についてのアリバイ主張の内容は、前記(第四、一四、3、(八))のとおりであるが、要するに、原告江口は、日石事件当日、大阪市内で開かれた全国衛生化学技術協議会に出席するため、朝九時過ぎころ埼玉県鳩ヶ谷市内の実家を出発し、午前一〇時三〇分ころ東京駅発ひかり号で大阪駅へ行って、そこから電車、地下鉄を利用し、第二分科会開始予定時刻午後二時四五分までかなり余裕のある時間に「なにわ会館」に到着したのであり、自宅から大阪のなにわ会館へ行く途中で、高森キクや同僚の安田和男に会ったというものであった。

<2> アリバイを基礎づける証拠等

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう原告江口の公判廷における供述及びこれを裏付ける書き込みの入った「講演要旨」が存在した。

また、右高森キクは、右アリバイ主張にそうように、公判廷において、自分は原告江口の家と一軒おいた隣に住んでいるものであるが、昭和四六年一〇月一八日午前九時すぎころ、近所に買い物に出かけた際、自宅から一〇〇メートルくらい行ったところで、後方から来た原告江口に追い越されたことがある旨供述した。

<3> アリバイの成立を否定する証拠等

(ア) 捜査の結果、日石事件当日、午前一〇時三〇分ころ日石郵便局において小包爆弾を差し出した後、東京駅に赴いて、午前一一時発の新幹線ひかり号に乗車することは、時間的に可能であり、また、右ひかり号は、午後二時一〇分に新大阪駅に到着するから、同列車に乗車すれば前記協議会の分科会開始までに「なにわ会館」へ到着し得ることが判明した。

(イ) 安田和男、冠政光及び広門雅子は、自分たちはいずれも都立衛生研究所の職員で、当時原告江口と顔なじみであり、昭和四六年一〇月一八日になにわ会館に赴き、第二分科会の開会前に会場に入り、開会当初から同分科会に出席していたが、開会直前まで会場で同原告を見かけたことはなく、ようやく広門雅子が第二分科会の終了直後ころ会場外の廊下で同原告と会った旨供述した。

(ウ) 高森キクは、前記のように供述する根拠として、自分が原告江口と会った時は雨がすごく降っており、自分の近所の人に確認したところ、昭和四六年一〇月一八日に雨が降っていたと教えてもらったと供述したが、気象観測簿等によれば、同月一七日夜から一八日朝にかけて、夜来の降雨があったが、一八日午前九時ころには「すごく降っていた」というような状況ではなかった。

また、高森キクは、同月一八日は長男が登校していた旨供述したが、同日は長男の学校が代休日であった。

<4> 地刑九部等における右アリバイ評価

地刑九部は、その判決で、原告江口が、日石事件当日、前記第二分科会に出席したことは認められるが、同人が主張するように、右事件当日の昭和四六年一〇月一八日午前一〇時二〇分ころ東京駅からひかり号に乗車して大阪に赴き、なにわ会館における第二分科会にその開会時から出席していたとは認められないと判示した。

なお、昭和五八年三月二四日に松本に対して言い渡された地刑六部の無罪判決では、右アリバイ主張を即座に信用できないものの、完全に否定もできないとされた。

(3)  右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、原告江口の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠は、同原告の日石事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、公判の過程において、右事件につき、もはや同原告に対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したと認めることはできない。また、右各証拠は、同様の理由によって、同原告の土田邸事件に関する嫌疑や、他の原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とも認められない。

(六)  日石事件に関する坂本のアリバイ

(1)  日石事件の爆弾リレー搬送の第三搬送者とされた坂本は、捜査段階ではアリバイ主張をしていなかったが、自己の公判段階に至ってアリバイ主張をするようになった。

そこで、右アリバイ主張を基礎づける証拠が、原告らの右事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠となり得るかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の概要

板本は、日石事件について、捜査段階においては、全くアリバイ主張をしていなかったが、自己の公判段階において、自分は、昭和四六年一〇月一八日は、終日、勤務先である月島自動車で自動車の修理等の作業をしていたので、途中三時間も外出することはできず、原告前林、増渕らを自動車に乗せて習志野の陸運事務所に赴いたことはない旨のアリバイを主張した。

そして、原告らの弁護人は、坂本の日石事件当日の月島自動車における仕事内容は、次のとおりであり、中でも(ウ)が重要であると主張した。

(ア) 午前九時ころから、同二〇分ころにかけて、取引先の佃運輸から依頼されたエルフ車四四あ八〇二号のタコメーター等の修理をした。

(イ) その後、同日午前中に月島自動車に持ち込まれた取引先である協栄運送のダイハツ車四う一五四号のミッション等の脱着作業を高田と共同で行い、これに二、三時間を要した。

(ウ) その後、同月一六日夕刻(同月一七日は日曜日)に月島自動車に持ち込まれていた協栄運送のセドリック車四う一四二九号の板金塗装等の作業を午後六時過ぎころまで行い、同月一八日中に完了した。

<2> アリバイを基礎づける証拠及び事実

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう坂本の公判廷における供述の他に、二六年間の経験を有する自分が右板金塗装作業をするとした場合六、七時間を要するとする斎藤武吉の供述、当時月島自動車において板金塗装の技術を有していたのは坂本のみであり、右セドリックが持ち込まれたのは昭和四六年一〇月一六日の夕刻ではなかったかと思う旨述べる坂本の同僚の辻道雄の供述、協栄運送のセドリックの板金塗装、ブレーキ調整、クラッチ調整、エンジン調整は一日一杯の仕事であるとの記載のある、坂本が昭和四八年四月一三日逮捕当夜作成したとされるメモ、右セドリックについて同月一六日受付、同月一八日完成との記載のある月島自動車の作業伝票などが存在した。

また、昭和五一年一月二九日、坂本に対して言い渡された地刑三部の無罪判決では、右アリバイ主張に関し、これが完全に成立したとは認められないが、その点について合理的疑いを入れる余地があるとされた。

<3> アリバイの成立を否定する証拠等

これに対し、右セドリックの修理に関し、証人小峰八郎は、同車の損傷は昭和四八年一〇月一五日であり、同日中には修理に出していないが、翌日の朝か午前中には修理に出した旨供述した。

<4> 地刑九部における右アリバイ評価

地刑九部は、その判決で、坂本は、昭和四六年一〇月一八日ほぼ終日右セドリックの修理等の作業に従事し、その合間に約二時間三〇分にわたり勤務先を抜け出すような余裕がなかったのではないかとの疑いが残り、同人のアリバイが成立する余地がないとはいえないが、これを決め手とすることはできないと判示した。

(3)  右認定事実を総合考慮すれば、坂本の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠は、同人の日石事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とはいえず、本件全証拠によっても、公判の過程において、右事件につき、もはや同人に対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したと認めることはできない。

そして、右各証拠は、同様の理由によって、原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とも認められない。

(七)  土田邸事件に関する中村(泰)のアリバイ

(1)  中村(泰)は、土田邸事件に関し、昭和四六年一二月一一日夜の宿直勤務時に、八王子保健所において、原告堀及び増渕から土田邸爆弾を預かり保管したという公訴事実で公訴提起されたが、捜査段階では全くアリバイを主張していなかったのに、公判段階において、初めてアリバイを主張した。右アリバイ主張を基礎づける証拠が、原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠となり得るかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の概要

中村(泰)のアリバイ主張の内容は、要するに、同人は、昭和四六年一二月一一日夜、婚約者土屋博子と共に、同人の妹が出演した竹桐会の定期演奏会を聴きに行き、演奏会場でアンケート用紙に所要事項を記入し、土屋の分と合わせ二枚提出したのであり、同日夜は、宿直に当たっていたが、上司の庶務係長中橋辰右衛門に代わってもらったので、八王子保健所にいたことがなく、爆弾を預かっていないのであって、宿日直日誌の同日分の記載は、同月一三日の朝、中橋から言われたとおりに記載したというものであった。

<2> アリバイを基礎づける証拠等

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう中村(泰)の公判廷における供述の他に、右アンケート用紙六九枚や、昭和四六年一二月一一日の晩は、中村(泰)と一緒に竹桐会の演奏会を聴きに行き、演奏が終わった後会場で同人と一緒にアンケート用紙に記入したとする土屋博子の供述が存在した。

<3> アリバイの成立を否定する証拠等

(ア) 中村(泰)の右アリバイ主張は、同人の第一回公判期日(昭和四八年六月二九日)から八年以上経過した第二四九回公判期日(昭和五六年一二月一五日)になされたものであり、同人は、その間、証人又は被告人として供述するに際し、昭和四六年一二月一一日が八王子保健所における宿直日であったことを尋問者(質問者)から指摘されながら、何らこれを否定しなかった。

(イ) 中村(泰)は、当初、竹桐会演奏会の出演者の服装が和服であった旨述べていたが、演奏状況のスライド写真によれば、その服装は洋服であった。

(ウ) 中村(泰)のアリバイ主張にかかるアンケート用紙は、公判で提出されたものは六九枚ですべて記入済みのものであったにもかかわらず、竹桐会の会員である小林英逸他の証人らは、集計されたアンケート用紙は六八枚であり、未記入のものも含まれていたと供述した。

(エ) 八王子保健所の代直命令簿及び宿日直日誌並びに同保健所の当時の庶務係長であった中橋辰右衛門の供述及び当時同保健所に勤務していて昭和四六年一二月一二日の日直をした世良美代子の供述によれば、中村(泰)は、同月一一日宿直勤務をしたこととなっている。

<4> 地刑九部における右アリバイ評価

地刑九部は、その判決で、中村(泰)のアリバイ供述及びこれにそう土屋博子の供述はいずれも信用できないとして、右アリバイ主張を認めなかった。

(3)  右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、中村(泰)の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠が、同人の土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠であるとは認められず、公判の過程において、右事件につき、もはや同人に対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したと認めることはできない。

そして、右各証拠は、同様の理由によって、原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とも認められない。

(八)  土田邸事件に関する原告堀及び増渕のアリバイ

(1)  原告堀及び増渕は、原告堀が、昭和四六年一二月一一日夜、増渕と共に八王子保健所を訪れ、中村(泰)に土田邸爆弾を預けたとされていたところ、原告堀及び増渕は、捜査段階で全くアリバイを主張していなかったのに、公判段階においてアリバイを主張した。

そこで、右のアリバイ主張を基礎づける証拠が、原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠となり得るかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の概要

原告堀及び増渕のアリバイ主張の内容は、要するに、同人らは、昭和四六年一二月一一日か一二日の夜、同原告の実姉芳賀信子母子と共に、横浜市所在の同原告の実姉佐藤恵子方へ石油ストーブ一台を取りに行っており、これが同月一一日夜のことだとすれば、八王子保健所において、同原告及び増渕が中村(泰)に爆弾の保管を依頼することはあり得ないことになるというものであった。

<2> アリバイを基礎づける証拠等

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう原告堀及び増渕の公判廷における供述の他に、芳賀信子及び佐藤恵子の供述が存在した。

<3> 地刑九部における右アリバイ評価

地刑九部は、その判決で、右アリバイについて、そもそも原告堀及び増渕の主張は、アリバイになり得るというにとどまる主張であり、また、芳賀信子及び佐藤恵子は、いずれも原告堀の実姉であってことさら同原告に有利な証言をする可能性があり、証言内容にも不自然な点があり、さらに原告堀及び増渕は日を特定した供述をしているものではないとして、結局昭和四六年一二月一一日の夜の右アリバイが成立するとは認められないとした。

(3)  右認定事実に照らすと、原告堀及び増渕の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠は、同原告らの土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、公判の過程において、右事件につき、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったとは認められない。

そして、右各証拠は、同様の理由によって、原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とも認められない。

(九)  土田邸事件に関する原告前林のアリバイ

(1)  原告前林は、土田邸事件に関し、昭和四六年一二月一七日、土田邸爆弾を神田の南神保町郵便局に小包と装って差し出したとされていたところ、次のようなアリバイ主張をした。右アリバイ主張を基礎づける証拠が、原告らの日石・土田邸事件についての嫌疑を否定する明白な証拠となり得るかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の概要

原告前林の公判段階におけるアリバイ主張の内容は、要するに、原告前林は、昭和四六年一二月一七日、午前八時五一分に勤務先の東京都武蔵野市吉祥寺所在の岡田香料に出社し、午後六時四二分に同社を退社したものであって、その間、午後五時ころまで上司と共にアルページュ香料調合の仕事をし、その後上司とボーナス査定の問題について話合いをしており、また、昼休みである午前一二時少し過ぎころ、富士銀行吉祥寺支店において自己名義の普通預金口座より六〇〇〇円の払戻手続をしたのであるから、同日午前一一時三〇分ころ阿佐ヶ谷駅で増渕及び松本と落ち合い、自動車で駿河台下交差点に赴き、南神保町郵便局で土田邸爆弾を差し出すことは不可能であったというものであった。

<2> アリバイを基礎づける証拠等

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう原告前林の公判廷における供述の他に、同原告の昭和四六年一二月一七日の出勤を裏付ける出勤表及び同日付の預金払戻請求書並びに岡田啓、橋本義二、堂垣省三、矢萩節らの供述が存在した。

<3> アリバイの成立を否定する証拠等

これに対し、右岡田啓及び沼山廸は、岡田香料では、従業員が勤務時間中も外出することが可能であった旨供述した。また、右払戻請求書は、署名欄の記載と日付、金額欄の記載とでインクの濃淡に差異があり、その作成の経過に疑念の生ずる余地のあるものであった。

<4> 地刑九部における右アリバイ評価

地刑九部は、その判決で、原告前林が、昭和四六年一二月一七日当時、勤務時間中に長時間(約三時間余)私用で外出することが容易であった状況は窺われず、払戻手続をアリバイ工作とみるには不自然な点があるなどとして、同原告の右アリバイの成立する可能性があると判示した。

なお、昭和五八年三月二四日に松本に対して言い渡された地刑六部の無罪判決では、右アリバイの成立を肯定した。

(3)  右認定事実を総合考慮すれば、原告前林の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠は、同原告の土田邸事件についての嫌疑を否定する可能性のある証拠であるとは認められるものの、本件全証拠によっても、右各証拠が右嫌疑を否定する明白な証拠であって、公判の過程において、もはや有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したとまで認めることはできない。また、右各証拠をもってしても、同原告の日石事件及びその他の原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠とは認められない。

(一〇)  土田邸事件に関する松本のアリバイ

(1)  松本は、昭和四六年一二月一七日、原告前林が南神保町郵便局に土田邸爆弾を差し出しに行く際、同原告及び増渕を車に乗せて運んだという公訴事実で起訴され、捜査段階では全くアリバイを主張していなかったが、公判段階において、次のようなアリバイを主張した。右アリバイ主張を基礎づける証拠が、原告らの日石・土田邸事件に関する嫌疑を否定する明白な証拠となり得るかを検討する。

(2)  <証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

<1> アリバイ主張の概要

松本の公判段階におけるアリバイ主張の内容は、要するに、同人は、昭和四六年一二月一七日、植木の仕入れのため東京都練馬区所在の日観東京西部植物市場に出向いており、土田邸爆弾の小包を南神保町郵便局付近まで自動車で搬送することは不可能であったというものであった。

<2> アリバイを基礎づける証拠及び事実

右アリバイ主張を基礎づける証拠としては、右アリバイ主張にそう松本の公判廷における供述の他に、滝口修男、峰岸哲及び松本みさほの各証言があり、また、松本の実家である松本商店が右市場において鉢物等を仕入れたことを示す同商店の伝票等が存在した。

<3> 地刑九部等における右アリバイの評価

地刑九部は、その判決で、右滝口は、右日時当時松本商店にアルバイトとして働いていた者で、同商店でアルバイトをしていた女性と知り合って後に結婚した者であり、右峰岸は、右日時当時松本商店の従業員でその後松本の姉と結婚するに至った者、右松本みさほは松本の実母であるから、その供述を直ちに信用することはできないなどとして、松本の右アリバイの成立を認めなかった。

なお、昭和五八年三月二四日に松本に対して言い渡された地刑六部の無罪判決では、右アリバイ主張を虚偽とまでは断定できない旨判断された。

(3)  右認定事実に照らすと、本件全証拠によっても、松本の右アリバイ主張を基礎づける前記各証拠は、同人の土田邸事件についての嫌疑を否定する明白な証拠とは認められず、まして、右各証拠が原告らの日石・土田邸事件についての嫌疑を否定する明白な証拠であるとは認められないから、公判の過程において、日石・土田邸事件につき、もはや原告らに対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がなくなったのに、あえて検察官が公訴を追行したとまで認めることはできない。

(二) 総合判断

右の認定、判断のとおりであり、本件全証拠を検討してみても原告らに対する公訴提起後、公判において、原告らの嫌疑を否定する明白な証拠が提出されたとは認められず、検察官において、もはや原告らに対する有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて公訴を追行したといえるような事情の存在を認めることはできない。

したがって、検察官の原告らに対する公訴の追行が違法とは認められない。

一九 原告らに対する控訴提起及び控訴審における公訴追行

1 控訴の提起、追行の違法性の判断基準

検察官が、第一審の無罪判決を不当として控訴したが、控訴審裁判所も第一審裁判所と同様の判断の下に控訴を棄却し、無罪判決が確定した場合においても、その結果から直ちに右控訴の提起及び追行が違法となるものではない。

刑事訴訟法は、適正な刑事裁判の実現を目指して被告人とともに検察官にも控訴権を付与しており、また、刑事裁判における事実の認定が裁判官の自由心証に委ねられている以上、控訴審裁判所が、証拠の価値判断について第一審裁判所と同じ判断をするとは限らないのであるから、既に提出した各種の証拠資料や新たに提出する証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば、検察官が、第一審の無罪判決について控訴を提起し、これを追行することは、違法性を欠くものと解するのが相当である。

したがって、検察官による公訴の提起、追行が違法でないならば、原則として控訴の提起、追行も違法でないと解すべきであるから、第一審において、被告人のアリバイが明白に証明されたとか、あるいは他に真犯人の存在することが確認されたなど、もはや第一審判決が覆されて有罪判決がなされることを期待し得る合理的な理由がないのに、あえて検察官が控訴を提起しその追行をしたと認められるような特別の事情がある場合に限り、検察官による控訴の提起、追行が違法になるものと解するのが相当である。

原告らは、検察官による原告らに対する控訴の提起及びその追行が違法である旨主張するので右のような特別の事情が存在するかを検討する。

2 控訴提起に至る経過

(一)  地刑九部判決の要旨

前記争いのない事実、<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  地刑九部は、昭和五八年五月一九日、原告らを含む被告人ら九名に対し、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件について、いずれも犯罪の証明がないとして次のとおり無罪の判決を言い渡した。

(2)  ピース缶爆弾事件

地刑九部は、ピース缶爆弾事件について、被告人らと各犯行とを直接結びつけるような物的証拠はないものの、被告人らが各犯行の犯人であっても格別不思議でないような前記L研の活動等の状況が認められること、増渕及び原告江口を含む多数者が捜査段階において自白し、中には公判廷において自白を維持した者があり、また、捜査段階においては自白しなかったが、後に証人として出廷して自白した菊井のような者があること、これらの自白は大筋においては一致し、またその多くは具体的かつ詳細な内容のものであること等から考えると、被告人らがそれぞれ右事件の犯人であることは動かない事実であるかのように見えるとしながら、被告人、共犯者らの自白の中には、いわゆる秘密の暴露がなく、重要な点について、証拠物との不一致、内容の不自然さ、各供述相互の食違い、供述の変遷等が少なからずみられ、重要な事項について直接の供述がないなど多数の疑問点があるとして、被告人、共犯者らの各自白の信用性を否定し、菊井証言についても、内容に不自然な点があり、また、証言の経緯、動機等に疑問があるとして、その信用性を否定し、結局、増渕、原告前林、同堀、同江口がそれぞれ起訴されたピース缶爆弾関係事件の犯行に関与し、その犯人であるとの疑いは強く残るものの、これと断ずるまでには至らず、犯罪の証明がないと判示した。

(3)  日石・土田邸事件

地刑九部は、日石・土田邸事件について、証拠採否決定により捜査段階における増渕及び原告らの自白調書の大部分の証拠能力を否定しこれを有罪認定の証拠資料から除外していたことから、残りの証拠によって、原告ら及び相被告人らに対する各公訴事実が認められるかを検討し、<1>日石・土田邸事件の小包爆弾の荷札等の筆跡に関する黒田鑑定につき、同鑑定のみを拠り所にして、右鑑定資料を増渕らの筆跡と認めることはできないとして、同鑑定の結論に十分な信用性を認めず、さらに、増渕、原告江口、同前林らが昭和四五年六月ころ爆弾闘争を志向し、爆弾を製造しようとしたことが認められるし、増渕が昭和四六年当時においても爆弾闘争志向を有していたことが窺われるなどとしながら、<2>中村(隆)の捜査段階の自白は、虚偽部分や、不自然、不合理な点があり、また、同人の公判における自白は捜査段階の自白の延長であり、公判当初において自白の態度をとりつづけたのは警察官関与の影響による疑いがあるとして、いずれも信用性がないとし、さらに、<3>中村(泰)、金本の捜査段階の自白は、証拠物から推定される事実との間に齟齬があり、取調官の誘導により不本意な自白をしたとの疑いが残り、<4>坂本、松村の公判における自白は、捜査段階における信用性の乏しい自白の延長であり、早期釈放、寛大な処分を求めてのものである疑いが残るとして、いずれも信用性に乏しいとし、そして、<5>佐古のプランタンにおける原告江口の日石・土田邸事件の犯人であることを自認する発言についての供述、檜谷の増渕から土田邸事件の口止めをされた等の供述、鈴木の妻良、飯岡における増渕、原告江口の日石・土田邸事件の犯人であることを自認する発言に関する供述等の信用性にも疑問があるとし、結局、増渕、原告前林、同堀、同江口が日石・土田邸事件の犯人であるとの疑いがあるが、犯罪の証明があるということはできず、また、原告榎下、中村(隆)、松村、中村(泰)、金本については、それぞれ証拠関係に差異はあるが、概していえば、それぞれ起訴された事件の犯行に関与しているのではないかとの疑いは残るものの、犯罪の証明があるということはできず、したがって、原告らを含むこれらの被告人九名に対しては、刑訴法三三六条により日石・土田邸事件の当該公訴事実につきいずれも無罪の言渡しをすべきものであると判示した。

(二)  控訴の提起

前記争いのない事実、<証拠略>によれば、検察官は、地刑九部の前記無罪判決に対し、昭和五八年五月三一日、原告堀、同江口、同前林、同榎下、増渕及び中村(隆)の六名についてのみ、控訴を提起し、控訴理由として要旨次のとおり主張したことが認められる。

(1)  事実誤認について

地刑九部の原判決は、ピース缶爆弾事件に関し、菊井証言、佐古及び前原の自白等重要証拠について、その信用性の有無及び証拠価値の判断を誤り、その結果、事実を誤認し無罪とし、日石・土田邸事件に関しても、中村(隆)の自白調書、公判供述等の重要証拠についてその信用性の有無及び証拠価値の判断を誤り、その結果事実を誤認し無罪としたものである。

(2)  訴訟手続の法令違反について

原裁判所は、検察官が証拠調べを請求した日石・土田邸事件に関する被告人らの自白調書の相当部分について証拠能力を否定し、証拠調べ請求を却下し、あるいは中村(隆)の公判において同意、取調済みの調書を証拠として排除する決定をしたが、右決定は、捜査官の意図、取調状況、自白の経緯、被告人らの心理等についての認定を誤り、また、起訴後の適法な取調べであるのにこれを違法とし、適法な逮捕・勾留を違法な別件逮捕・勾留とするなどの誤りを犯したものであって、刑訴法三二一条、三二二条、三二六条の解釈適用を誤った違法なものである。右各自白調書については、当然証拠能力が認められるべきであり、これが取り調べられれば、既に取調済みの各証拠とあいまって、日石・土田邸事件につき公訴事実の証明がより一層明白になり有罪判決を得られたはずである。

(三)  控訴趣意書の内容

<証拠略>によれば、検察官は、控訴趣意書において原判決の誤りとして次のとおり指摘したことが認められる。

(1)  自白の信用性の判断の基本的な誤り

およそ多数の共犯者によってなされた個々の自白の真偽を判断するに当たっては、供述者の組織内における地位、供述時における心理状態、供述者の性格等を考慮し、自白した時期と内容の関係、自白の新規性、虚偽自白をするに至った動機原因、供述内容の変遷理由等を実質的かつ総合的に考察する必要があり、自白の変遷、自白相互間の齟齬、虚偽自白の影響等を形式的、表面的にとりあげて自白全体の信用性に疑いを差しはさむことは、経験則や採証法則を無視した証拠評価と言わざるを得ない。かような観点から、原判決の信用性についての判断をみると、次のような基本的な誤りがある。

<1> 本件の被告人、共犯者らの自白の信用性を判断するに当たり特に考慮すべきことは、(ア)本件が極めて重大かつ凶悪な爆弾事件であるのに、昭和四八年当時逮捕された合計一九名の被疑者のうち一五名までが程度の差はあれ口を揃えて本件に加担した事実を自白し、(イ)そのうち内藤、石井、中村(隆)、坂本、松村の五名は公判廷においても自白しており、(ウ)なかんずく中村(隆)は、起訴後一年以上も、主として土田邸事件についての捜査段階における自白を基本的に維持していること、(エ)そして右の者らの自白内容は、本件が増渕を中心とするグループによって敢行された事件であるという基本線のみならず、その犯行態様、任務分担等の大筋において合致しているということである。

しかも、自白した者らは、重大かつ凶悪な本件各犯行への加功を自白した場合の影響については十分認識、判断していたのであるから、本件各犯行に関与していない者が自白するなどということはあり得ない。とりわけ、同人らの多くは犯行当時革命思想、反権力思想を有し、取調べに黙秘することや警察等の権力機関に一切協力しないことを金科玉条としていた過激派であるから、本件各犯行につき、自己の刑責を認めて自白したこと自体、基本的にその自白の信用性が高いことを物語っているとみるべきであって、原判決は右の点についての配慮に欠けている。

<2> 原判決は、供述者のある事項についての自白が証拠物あるいは客観的証拠と齟齬するところから右自白を虚偽とし、さらに、かような自白が他の事項や他事件についての自白に影響するとしてその信用性を否定している。例えば、アメ文事件の爆弾を収納したダンボール箱が既製品であるのに、手製と述べている佐古及び前原の自白を虚偽であるとし、これが同人らの他の事項や他事件についての自白の信用性に疑問を生じさせかねないとし、また、日石事件について中村(隆)が爆弾搬送に参加した旨の虚偽自白の影響を、土田邸事件についての自白にまで及ぶものと判示している。

しかしながら、右のような客観的証拠に反する、あるいは虚偽の自白をするに至った状況をみると、それぞれ了解可能な理由があり、したがって、そのことが他の供述の信用性に影響を与えることはほとんどないのにかかわらず、原判決が他の事項あるいは他事件についての自白への影響を過大に評価しているのは不当と言わざるを得ない。

<3> 原判決は、各人の自白に齟齬が存すること、自白に変遷が多いことをもって信用性に疑いがあるとする一方で、被告人らの自白が相互に一致している場合などには、逆に、取調官が誘導、追及により供述させた疑いがあるなどとし、また、捜査官に対する迎合による自白である疑いがあるなどとして、その信用性を否定しているのである。

しかしながら、被告人らは、自白とはいっても、種々の思惑があり、これと記憶の忘失、稀薄化、混同とが絡みあって供述しているのであるから、その供述が一貫せず、変遷を繰り返したり、また、各人の供述相互間に矛盾、食違いのあるのは、むしろ当然であるといわなければならず、それは決して被告人らの自白の信用性を減殺するものではないし、また、自白内容が他の共犯者と一致していることをもってそれが誘導に基づくものと即断できないことは言うまでもない。その上、原判示中には、何ら誘導を窺うに足る証拠もないのに誘導がなされたものと推測している部分も多々存する(例えば、中野坂上からのピース缶爆弾持帰りについての前原自白、八・九機事件の爆弾投てき人数についての前原、内藤自白、土田邸爆弾の構造についての中村(隆)自白等)。

<4> 原判決の中には、自白の信用性を判断するに際し、証拠に基づかない推理、推測あるいは独断的な見解を前提としているところが多々みられる(例えば、菊井の証言動機、八・九機事件の投てき犯人の人数を一名又は四名と認定したこと、土田邸事件の爆弾製造に二液性スーパーセメダインを使用したあるいは赤色ラッカーを塗布したとの中村(隆)自白についての判示、ピース缶爆弾製造事件について喫茶店で謀議したこと、爆弾製造参加人数、爆弾製造の際のレポの方法についての判示等)。

<5> 本件公判における被告人らの自白は、厳しい反対尋問を経たものであることなどから、捜査段階における自白よりも信用性が一段と高いものであることは言うまでもない。

特に、ピース缶爆弾製造事件に関する菊井証言は、証言するに至った経緯が自然である上、長時間の執拗極まりない反対尋問にさらされたにもかかわらず、証言内容は一貫しており、しかも客観的証拠と格別矛盾する点はなく、また日石・土田邸事件についての中村(隆)の公判供述、証言は、捜査段階の自白を一部否定しながらも、事件への関与を長期間にわたり認めているのであり、しかも他の多くの被告人らが公判において本件犯行を否認していることにかんがみると、右菊井証言及び中村(隆)の公判における自白は、実質的に高度の信用性が担保されているものである。

しかるに、原判決が右両名の公判における自白の信用性を他の被告人らの捜査段階における自白と同一レベルで評価していることは採証法則に反するものと言わざるを得ない。

<6> 以上に述べたことに鑑みると、原判決が「信用性を疑わせる諸点」として指摘する自白内容の変遷、自白相互間の不一致、自白内容の不自然さ、不十分さなどは、自白の信用性を否定するに足るものではなく、原判決が「自白の信用性を窺わせる諸点」として掲げた、自白の内容が具体性に富み詳細であること、自白した際の各人の供述態度、取調状況が自然かつ無理のないものであること、自白が一貫して維持されていること、自白が共犯者相互で概ね一致していること、自白した理由についての被告人らの弁解が不自然、不合理であり措信できないこと等、信用性を判断する上で最も重要な事項をより重視すべきであり、原判決は右「信用性を窺わせる諸点」を過大視し、その反面において右「信用性を窺わせる諸点」を軽視しているものと断ぜざるを得ず、この点において原判決の信用性の判断には誤りがあるというべきである。

(2)  菊井証言の重要性とその信用性

菊井証言は、被告人らが、捜査段階の自白を翻し、ピース缶爆弾製造事実等を否認する本件公判において、多数の弁護人による厳しい反対尋問にさらされながら、なお基本的な事実については動揺がなかったものであるから、手続的及び実質的にその証言は、高度の信用性が担保されているとみるべきである。したがって、菊井証言を事実認定の中心的証拠と位置づけることには合理性があり、これに符合する他の者の自白を総合して事実を認定する手法を採るのが本件の真相解明については最も適切であると考えられる。

原判決は、菊井の個々の事項に関する証言内容の信用性を判断するに当たり、被告人らの捜査段階における自白と対比して、それぞれある事項については佐古の供述、ある事項については前原あるいは増渕ら他の被告人、共犯者らの供述と一致するとしながら、一方で佐古と前原あるいは他の被告人、共犯者らの供述がそれぞれ相互に矛盾、相異しているから、それぞれの供述の信用性に疑いが残り、ひいては菊井証言も信用性に疑いがあるとしている。しかし、前記のように事犯の性質上、被告人、共犯者らの供述が区々であることはやむを得ないのであるから、右のような信用性判断の手法は相当ではない。

また、原判決は、菊井証言につき、「内容上の疑問点」と「証言に至る経緯と証言動機についての疑問点」の二つをあげて論じているが、これに関し、次のとおり反論できる。

<1> まず、原判決が、被告人らの自白で説明されてないか、説明不十分の箇所は、菊井証言でも説明されていないとする点については、そもそも菊井自身が直接体験していなければやむを得ないことである。

また、原判決が、菊井証言は客観的事実にそうものがあるものの、被告人らの自白の矛盾をさけるため、解釈の余地を残したものとなっており、あるいは、被告人らの自白が相互に食い違う部分につき、概ね検察官の冒頭陳述にそう供述か、分からないとの供述となっている、とする点については、客観的事実に沿い、経験則上明白に不合理とはいえない以上、菊井証言に一応の裏付けがあるとみるべきであり、また検察官の冒頭陳述と一致するからといって、それを直ちに不自然とはいえない。この点について、原判決は、検察官が誘導し、あるいは菊井が冒頭陳述の一部を見て証言をこれに合わせたというが如くであるが、それは単なる推測にすぎない。

さらに、原判決は、細部の事項につき菊井証言が詳細すぎて不自然であるとする。しかし、この点については、不自然だとする根拠が必ずしも明白でない。記憶の濃淡は、記憶力の良否はもとより、印象したときの状況、関心の度合い、印象後の年月の経過など諸々の事情に左右されるところから千差万別であり、当該記憶が詳細すぎるか否かを判断すること自体不可能であって、本判決のように詳細すぎるから不自然であるというのは不当である。

原判決が、菊井の証言中に変遷があるなど不自然さが残るとする点については、原判決の指摘する事柄自体、爆弾を製造したという基本的事実についての証言全体にわたって信用性に影響を与えるような事柄ではなく、一〇年前の出来事を述べる場合、細かな事柄については、何回も同じ質問を繰り返されているうちに記憶を喚起できるところもあれば、また記憶が揺らぐこともあるのであって、これを不自然ということはできず、かえって菊井が誠実に証言している証左とみるべきである。

<2> 原判決は、菊井の証言の動機などについて、被告人らに対する反感、検事に協力して行刑上有利な扱いを得られるものとの期待、自己に不利益が及ばない安心感があり、昭和四八年当時の取調べの経験や冒頭陳述の抜粋の知識に基づいて、自己の想像を混ぜて虚偽の供述をするに至ったとの疑いを完全に否定し去り得ない旨述べている。

しかし、右判示は、菊井証言が虚偽であるとする確証に基づかない判断であって、予断と偏見があるといっても過言ではない。そのような理由で、菊井証言全体の信用性を否定することはできない。

(3)  中村(隆)の供述及び証言の信用性

<1> 中村(隆)は、起訴後約一年間にわたり、自己の裁判又は共犯者の裁判において、犯罪事実を認め、あるいは自己に不利益な事実の承認を含む詳細な供述ないし証言をしており、同人の公判供述(証言)は十分信用できる。

原判決は、たえず中村(隆)と接触してきた捜査官の説得により中村(隆)が虚偽の事実を供述した疑いを否定できないなどとしたが、これに対しては、次のとおりの反論ができる。

(ア) 中村(隆)は、公判の冒頭において、捜査段階では自白していた日石爆弾搬送及びサン謀議について否認した上で、その他の事実をすべて認めたものであり、捜査段階の供述そのまま維持したのではないことから、捜査官の影響によらない公判供述であるということができる。

(イ) 中村(隆)は、弁護人と十分な接見の機会がありながら、また、増渕らの弁護人らの執拗な反対尋問にもかかわらず、長期間にわたり、日石・土田邸爆弾製造関与の事実を認め、マイクロスイッチの増渕への交付、配線作業等の事実について、極めて具体的かつ詳細に供述している。

(ウ) 中村(隆)の供述の後退していく経過をみると、自己の刑責軽減を意図したことが明白であり、捜査官の意図に逆らい難い心情から捜査段階の自白を維持したとみることはできない。

(エ) 中村(隆)を起訴後、昭和四九年三月四日東京拘置所に移監するまでの間、三田警察署に留置したのは、中村(隆)及びその家族の要望によるものである。原判決は、これらの諸点を無視ないし著しく軽視するものであって、正当ではない。

<2> 原判決は、中村(隆)の捜査段階における自白の信用性について、中村(隆)に日石事件当日のアリバイがあり、日石リレー搬送についての供述は、虚偽であるとしたが、同人の右虚偽自白は、特異な事情によるものと考えられるのであり、かような特段の事情が全くない他の事項については虚偽の供述をなす理由はいささかも見出し得ないから、全体として自白の信用性を否定するのは失当である。

原判決は、検察官が土田邸爆弾製造について「秘密の暴露」として主張する点(マイクロスイッチの作動線をクランク型に折り曲げたこと、赤色ラッカーをマイクロスイッチの端子に塗布していたこと等)は既に捜査機関に判明していた事項であり、厳密な意味では「秘密の暴露」に当たらないとしたが、クランク型の折り曲げは経験者でなければ容易に考えつく性質のものではなく、また、塗布物がラッカーであることは裁判所の鑑定によって判明したことであるから、原判決の右認定は失当である。

(4)  鈴木証言の信用性

原判決は、鈴木茂は、その職歴、経歴に照らすと十分信用をおける人物とは言い難いこと、証言の動機が釈然としないこと、増渕らが妻良で日石事件のような重大事件の犯行を自認するような話をすることは秘密が露見する危険性が高いことから、それだけの必要性と信頼がなければならないこと、増渕らが打ち明けた日石事件の犯行状況は、オルグの手段としては不必要なほど詳細で疑問があること、秘密の暴露その他体験した者でなければ述べ得ないような内容に富むとまではいえないことなどを挙げて証言に信用性がないとした。

しかし、法政大学中退、東京都職員(民生局、地労委)、キャバレー、サーパークラブ勤務などの職歴、経歴を証言の信用性に結び付けるのは不当であり、証人出廷を国民の義務と心得て、ありのままを正直に述べる決意をしていたことに不審はない。増渕は、鈴木をオルグする必要があり、そのために妻良まで呼び出したのであるから、相互に信頼関係があったのであり、一概にオルグの手段として打ち明けた話が不必要とか詳細すぎるとの判断はできないはずである。むしろ鈴木の証言中にある、日石事件についての、増渕の「あれは失敗だった」、原告江口の「あなたがミスしたからいけないのよ」との発言のくだりには臨場感がある。

3 公訴追行の経過

(一)  控訴審における公判経過

前記争いのない事実、<証拠略>によれば、検察官が控訴した原告らに対する各被告事件は、東京高等裁判所第七刑事部(高刑七部)において審理され、峰孝一及び鈴木茂の証人尋問が実施されたことがそれぞれ認められる。

(二)  峰孝一の証人尋問

(1)  <証拠略>によれば、峰孝一は、高刑七部の第二、第三回公判期日において証言し、その要旨は、次のとおりであったことが認められる。

<1> 私は、昭和四四年四月、法政大学経済学部第二学部に入学し、同年六月ころ、L研に入った。L研のリーダーは、増渕で、サブリーダーは、村松であった。L研では、当初から火炎びん闘争を越える闘争を行うことを方針としており、爆弾闘争が既定の事実になっていた。

<2> 私は、同年九月の終わりころから一〇月はじめころの昼間、佐古に連れられて、八・九機とその周辺を一時間くらいかけて下見したことがあり、そのとき佐古との間で、「私、佐古、前原の三人が八・九機にピース缶爆弾か鉄パイプ爆弾のいずれかを投げる」という話をした。

<3> また、私は、同年九月の終わりころから一〇月はじめころ、ピース缶爆弾の材料としてピースの空き缶一、二個(または二、三個)くらいとパチンコ玉二〇個くらいを立教大学の心理学教室で村松に手交したことがある。

<4> その後の同年一〇月初旬から中旬にかけて、私は佐古から二、三回にわたり、佐古の部屋(河田町アジト)や喫茶店「エイト」などで、「いよいよ準備ができたからぜひ来てくれ」といわれてピース缶爆弾製造に参加することを強く求められた。しかし、私としては、まだ爆弾闘争を行う条件が熟していないと思っていたので、ピース缶爆弾製造参加の要請を断った。

<5> 同年一〇月二〇日午後、増渕から国電中野駅北口の喫茶店「クラシック」の二階に呼び出され、同日の夜から翌日の朝方にかけて、私、佐古、前原の三人で、八・九機にピース缶爆弾を投げるように指示された。また村松からも同じことを指示されたが、私は無意味なことだといってそれを断った。それで私は増渕、村松らとは喧嘩別れとなり、それ以降、L研から離れるに至った。

(2)  峰証言についての検察官の評価

<1> 検察官の判断

<証拠略>によれば、検察官は、次の<2>の理由から、ピース缶爆弾製造事件及び八・九機事件が原告らによって行われたものであることを推認させる峰証言が信用できると判断し、その他の関係証拠と合わせて、増渕らが昭和四四年九月終わりころから同年一〇月上旬にかけて八・九機に対する爆弾投てき及びピース缶爆弾製造を計画し、かつその準備を進めていたこと、そして同月二〇日には、八・九機に対してピース缶爆弾を実際に投てきすることにしていたこと(しかし、何らかの理由により同日の計画が変更された)を認定できると判断したことが認められる。

<2> 峰証言の信用性に関する根拠

(ア) 峰の証言に至る経緯

峰は、昭和四四年当時L研のメンバーであったが、同年の一〇・二一闘争を契機としてL研から離脱しており、本件捜査が行われた昭和四七、八年当時には、ピース缶爆弾事件の取調対象者とはされていなかった。そのため警察及び検察官の取調べを受けていなかったが、検察官の起訴後の補充捜査により、昭和五六年一〇月七日から三回にわたり任意に前記証言と同旨の供述をし、かつ控訴審での二回にわたる証人尋問において証言した。

(イ) 峰の証言態度等

峰は、控訴審法廷において、淡々と、しかも真摯に証言しており、さらに、その証言をすることによって被告人及び支援者らから非難攻撃、中傷を受けることになり、なんら益するところがないにもかかわらず、あえて証言台に立ち、原告らを含む被告人ら及び傍聴人ら多数の面前で明確に前記のような証言を行った。

(ウ) 爆弾製造の参加を求められた時期

峰は、佐古から最後に喫茶店「エイト」で爆弾製造の参加を求められた時期を昭和四四年一〇月一四、五日ころであったとし、この点は、検察官の主張にかかるピース缶爆弾製造日と符合しないが、その証言内容が一六年も前のことに関するものであることから、月日に関する部分に記憶の希薄化が生じたとみるべきで、この程度のことは、峰証言の信用性を基本的に損なうものではない。

(三)  鈴木茂の証言

(1)  <証拠略>によれば、鈴木茂は、控訴審の第四回公判期日において、原審における証言を補充する証言をしたが、その要旨は、次のとおりであったことが認められる。

<1> 私が原審で二回にわたり証言した内容は、当時自分の記憶にあったとおりのことを正直に述べたものに間違いない。

<2> 私は、昭和四五、六年当時、爆弾闘争そのものを否定しておらず、それをやる者がいても不思議ではないと思っていたし、状況が進めば自分自身が爆弾闘争に参加してもよいという考え方を持っていた。

私のそのような爆弾闘争に対する肯定的な考え方は、原告江口には以前から話しており、また、千葉の太海の「海光苑」で増渕、原告江口と会ったときに両名に話している。太海では、増渕と「爆弾」ということばを使って爆弾闘争についての話をしたが、増渕も私と同じような考え方を持っており、二人の間で考えが一致していた。

<3> 増渕、原告江口が私を妻良に呼び寄せた目的は、爆弾闘争参加をオルグするためであると感じた。それは、増渕が、「八王子保健所に仲間がいるが、頼りにならないから協力してくれ。」とか「今度何かあったら連絡する。」と言っていたからである。私には特段の技術はなかったが、勤務先の東京都地方労働委員会事務局では比較的時間のゆとりがあり、無断で外出しても上司にとがめられることもなかったので、増渕らは私のそういう点を利用しようとして私のオルグを考えたものと思った。

<4> なお、私は、赤軍派の森恒夫から同派の神田京子を紹介され、さらに同女の紹介で原告江口と知り合ったものであり、当時私も赤軍派のシンパとして同派のオルグ活動の一部をやっていたので、そのようなことから増渕、原告江口は私を信用して気を許したものと思う。

(2)  控訴審における鈴木証言についての検察官の評価弁論の全趣旨によれば、検察官は、右の控訴審における鈴木証言によって、原判決が鈴木証言に関して指摘した、増渕らが妻良で鈴木をオルグする前に爆弾闘争に対する同人の考え方についての感触をとらなかった点、また、その際、増渕らが話した日石事件の内容が、オルグ手段としては詳しすぎる点、増渕が特別の技術を有していない鈴木をオルグしている点などの疑問点が払拭されたと考え、また、右証言の内容が自然で、合理的であり、矛盾もないこと及び同人の誠実な証言態度から、その証言は信用性に富むと判断し、日石・土田邸事件についての原告らの嫌疑が一層強まったと判断したことが認められる。

(四)  控訴審判決

(1)  前記争いのない事実、<証拠略>によれば、高刑七部は、昭和六〇年一二月一三日、検察官の控訴を棄却する旨の判決を言い渡し、検察官が同判決に対して上告しなかったため、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件についての原告らの無罪判決が確定したことがそれぞれ認められる。

(2)  また、<証拠略>によれば、高刑七部は、「検察官が具体的事件について控訴をなすことは、原判決の過誤の是正のため国家機関たる検察官に対し与えられた訴訟上の権利に基づくものであるから、明白な冤罪事件につきことさら何らかの意図でなすなど当該控訴が明らかに訴訟上の権利の濫用と認められない限り、その控訴は適法であって、裁判所はこれに対し、実体的判断をしなければならないものである。しかるところ、本件においては、ピース缶爆弾事件、日石・土田邸事件とも、その最終的な証拠能力及び証明力の判断は裁判所に委ねられているとはいえ、被告人らまたは共犯者とされている者の多数の捜査段階における自白が存在し、しかもそれらの者の中には公判廷においても自白を維持していた者もあることなどからみて、検察官の控訴が前記した訴訟上の権利の濫用と認められる場合には該当しないというべきである。したがって、検察官の本件各控訴は適法である」と判示したことが認められる。

4 判断

(一)  右認定事実及び前記認定、判断によれば、ピース缶爆弾事件及び日石・土田邸事件について、原告ら及び共犯者とされたものの各アリバイの成立が確実とはいえなかったこと、ピース缶爆弾事件で真犯人と名乗り出た者達についても、これが間違いないとまでは断言できなかったこと、原判決をした地刑九部も、原告ら及び共犯者らが右各事件の犯行を行った若しくは関与したのではないかとの疑いを残しつつも、犯罪の証明がないとして、無罪判決を下したものであること、検察官が控訴趣意書で指摘した原審の誤りも、その指摘の理由がおよそ不合理で理由がないとまではいえないこと、ピース缶爆弾製造事件や八・九機事件が原告堀らによって行われたものであることを推認させる控訴審での峰の証言及び日石・土田邸事件に関する原告らの嫌疑を推認させる控訴審での鈴木の証言は、それぞれ検察官の主張を補強するものであり、直ちに信用できないとまではいえず、これらが信用できるとした検察官の判断も不合理であるとはいえないことなどが認められ、これらに照らすと、控訴審において、原告らに対する第一審の無罪判決が覆されて有罪の判決がなされる見込みがあるとした検察官の判断過程に合理性がないとまでは認められず、本件全証拠によっても、検察官が、控訴審において有罪判決を期待し得る合理的な理由がないのに、あえて控訴を提起しその追行をしたと認め得るような特別の事情の存在を認めることはできない。

(二)  原告らは、検察官が、原判決で無罪とされた原告らを含む被告人九名のうち、原告ら一部の者についてのみ控訴を提起したことや、右控訴当時すでに坂本ら一部の者について無罪判決が確定していたことなどから、検察官の右控訴提起及びその追行は違法である旨主張する。

前記争いのない事実、前記認定事実、<証拠略>によれば、検察官は、第一審判決で無罪とされた原告らを含む九名の被告人のうち、松村、中村(泰)及び金本を除く原告ら及び増渕、中村(隆)の六名についてのみ控訴を提起したこと、右控訴提起されなかった三名は、第一審の無罪判決が確定したこと、地刑三部は、坂本に対し、昭和五一年一月二九日、日石事件(幇助)につき無罪の判決を言い渡し、検察官がこれに控訴していたが、高刑一〇部は、原告らに対する右控訴提起前である昭和五三年八月一一日、控訴棄却の判決をしたこと、また、地刑六部は、松本に対し、昭和五八年三月二四日、土田邸事件につき無罪の判決を言い渡し、同判決は控訴されずにそのまま確定したことがそれぞれ認められる。

しかしながら、右事実をもってしても、検察官の原告らに対する控訴提起及びその追行が、合理的な理由のないものであったと認め得るような特別の事情は認められないとの前記判断に変わりはない。

(三)  よって、原告らに対する検察官の控訴提起及び追行が国家賠償法上違法であるとは認められない。

二〇 結論

以上のとおりであり、原告らの本訴各請求は、いずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 市川頼明 黒津英明 岩井直幸)

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