大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和63年(ワ)13961号 判決 1989年8月29日

原告

奈良義雄

被告

川元龍夫

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、三〇二〇万二一四九円及びこれに対する昭和六一年五月五日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  交通事故の発生

日時 昭和六一年五月五日午後七時三〇分ころ

場所 東京都文京区後楽一丁目三番先道路(以下「本件道路」という。)上

加害車 普通乗用自動車(品川三三ひ八八四〇)

右運転者 被告

被害車 普通乗用自動車(足立五五か四八二六)

右運転者 原告

事故の態様 被害車が本件道路に停車していたところ、対向車線上を時速一二〇キロメートルで進行してきた加害車が、被害車を認めて急制動を掛けたが、ハンドル操作がきかなくなつたため、避け切れず被害車と衝突した。

原告は、右交通事故(以下「本件事故」という。)により、頸部捻挫、耳鳴、頭部・右項部・右背及び腰部各打撲、右膝関節打撲関節症、右上肢神経筋麻痺の各傷害(以下「本件傷害」という。)を負つた。

2  責任原因

被告は、加害車を所有し、自己のために運行の用に供していた者であるから、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)三条本文に基づき、原告が本件事故により被つた後記損害を賠償する責任がある。

3  損害

(一)(1) 原告は本件傷害につき別表のとおり治療を受けた。

(2) 原告は、右治療にもかかわらず、手足のしびれ、耳鳴、難聴等の後遺障害(以下「本件後遺障害」という。)が残るに至り、昭和六三年六月二七日には本件後遺障害につき、労働者災害補償保険法施行規則別表第一(以下「労災補償法障害等級表」という。)第一〇級の認定を受けた。

(二)(1) 休業損害

原告は、本件事故当時、タクシー運転手として一日当たり一万二六六七円の収入を得ていたところ、本件事故により昭和六一年五月五日から同六三年六月二七日まで休業の止むなきに至り、被告から弁済を受けていない昭和六一年九月一六日以降の六五一日分の収入に相当する八二四万六二一七円の損害を被つた。

(2) 逸失利益

原告は、本件後遺障害のうち特に耳鳴の症状がひどく、働くことができず、睡眠も充分にとれない状況にあるから、本件後遺障害により労働能力の六〇パーセント喪失したものというべきであり、原告の就労可能期間は八年であるから、原告の前記収入を基礎に年別のライプニッツ方式(係数六・四六三二)により年五分の中間利息を控除して、原告の本件後遺障害による逸失利益の本件事故時における現価を算定すると一七九二万九三八八円となる(円未満切捨て。)。

(3) 慰藉料

イ 傷害に基づくもの

原告は、本件傷害の治療のために三六日間入院し、通院期間も二年に及んだのであるから、その間に原告が受けた精神的苦痛を慰藉するためには二二〇万円の慰藉料をもつてするのが相当である。

ロ 後遺障害に基づくもの

原告が本件後遺障害について労災補償法障害等級表第一〇級の認定を受けたこと、本件事故が被告の一方的過失に基づくものであること、被告の事故後の対応等諸般の事情に鑑みれば、原告が本件後遺障害により被つた精神的苦痛を慰藉するためには六〇〇万円の慰藉料をもつてするのが相当である。

4  損害の填補

原告は、労働者災害補償保険法による給付金として、四一七万三四五六円の支払いを受けた。

5  よつて、原告は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償金として右填補額を控除した残額三〇二〇万二一四九円及びこれに対する本件事故の日である昭和六一年五月五日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する答弁

1  請求原因1の事実のうち、事故の態様及び本件事故に基づく受傷の事実については否認し、その余は認めるる

2  請求原因2の事実のうち、原告が加害車を所有している事実は認めるが、その余は争う。

本件事故により被害車は右側前方に損傷が生じたにとどまり、その修理費用も一二万四一二〇円にすぎず、加害車の損傷も右フエンダー部分の凹損を主に前部にとどまつていること、また、原告は、本件事故以前の昭和五七年二月一四日、交通事故に遭い頭部・頸部・背部右腕打撲傷、頸椎捻挫の各傷害を被り、その後昭和五七年七月一六日を症状固定日とする後遺障害について自動車損害賠償補障法施行令第二条に定める別表(以下「自賠責等級表」という。)第一二級の認定を受けていることの各事実からすれば、原告が主張する多岐にわたる本件傷害が本件事故によつて生じたとはいえない。

さらに、原告主張の本件傷害のうち耳鳴は、原告が順天堂大学医学部付属順天堂浦安病院(以下「順天堂浦安病院」という。)で受けた治療結果によると、梅毒に起因するというのであるから、本件事故と因果関係がない。

3  請求原因3(一)の事実は否認し、同(二)の事実はいずれも知らない。

4  請求原因4の事実は知らない。但し、原告は、後述のとおり被告から本件事故に基づく損害賠償債務の弁済及び示談金として四四一万一六八四円の支払いを受けている。

三  抗弁

1  示談の成立

被告は、原告との間で、昭和六一年九月九日、本件事故によつて生じた損害のうち傷害に関する部分(休業損害、治療費、通院交通費等)について、同日までに本件事故に基づく損害賠償金として支払われた二五一万〇五九三円に加えて、同月一五日までの治療費及び通院交通費の残額並びに一〇五万六一五〇円の支払いを受けた場合には右受領額を超えて損害賠償請求をしない旨の示談が成立し、被告は右治療費及び通院交通費の残額に相当する八四万四九四一円を含む一九〇万一〇九一円を支払つた。

2  過失相殺

原告は、本件道路が転回禁止になつているにもかかわらず、右規制に違反して本件事故現場で転回するために停車していたのであり、被告の右違反が本件事故発生の一因となつているのであるから、本件事故に基づく損害額の算定にあたつては応分の過失相殺がなされるべきである。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1の事実は認める。

2  抗弁2の事実は否認する。

五  再抗弁(示談の錯誤に基づく無効)

原告は、昭和六一年九月九日、住友海上火災保険株式会社の自動車損害調査部自動車第一課所属の松井謙二から「本件事故に関する損害賠償は既払額以上支払えない。免責示談するのであれば、未払い分についても支払う。但し、今後生じた損害に対する賠償は、後遺症の認定が出てから支払う。」旨の申し出を受け、暫定的な示談であつて右同日までの被告の損害賠償債務全てを免除するものではないと誤信して示談に応じたのであるから、右示談は錯誤により無効である。

六  再抗弁に対する認否

再抗弁事実は全て否認する。

第三証拠

本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これをここに引用する。

理由

一  請求原因1の事実は、事故の態様及び受傷の事実を除き、当事者間に争いがない。

1  事故の態様について

右争いのない事実並びにいずれも成立に争いのない乙第二号証の二、同第三号証の一及び二、同第四号証、同第五号証の一及び二、原告本人尋問(但し、後記認定に反する部分を除く。)及び被告本人尋問の結果を総合すれば、本件道路は、上野から大塚に通ずる片側二車線の道路であり、上野方面から大塚方面に向かつて本件事故現場の手前で少し右に曲線を描いていること、本件事故発生当時小雨が降つており本件道路面も濡れていたこと、原告は、当時日月東交通株式会社に勤務し、タクシーである被害車を運転して大塚方面から上野方面に向かつて進行し、本件事故現場付近に差し掛かつたが、後楽園から本件道路に通じている道路に歩行者を認め、乗車してもらえることを期待して被害車の右半分程を対向車線にはみ出す形で本件道路の中央線辺りに停車させたこと、他方、被告は、妹を同乗させて加害車を運転し、本件道路の中央線寄りの車線上を上野方面から大塚方面に向かつて進行していたが、本件事故現場手前において、左を向いて一時前方から目を離し、あらためて前方を見直したところ、被害車が中央線上に停車しているのを認め制動措置を講じたが、路面が濡れていたためにタイヤが滑りハンドル操作も充分に行えなくなつたことから、加害車の右側面前部を被害車の右前端部に衝突させたことの各事実が認められる。

原告は、本人尋問において、被害車を中央線から対向車線にはみ出して停車させていない旨供述するが、前述のとおり原告の停車した目的が客の乗車を期待したためであること、また、前記乙第三号証の一及び二、同第四号証、同第五号証の一及び二並びに成立に争いがない乙第六号証によつて認められる本件事故により被害車の右前端部、加害車の右フエンダー部分が主として破損し、その破損程度も軽微であること等の事実に照らせば、右供述はにわかに信用することができず、他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

2  原告の受傷の事実について

(一)  被告は原告が主張する受傷と本件事故との因果関係を争うので、この点について検討する。

(1) 事故後の原告の対応及び治療関係について

いずれも原本の存在及び成立に争いのない甲第三号証ないし同第六号証、同第一八号証ないし同第二二号証、同第二四号証及び同第三一号証、いずれも成立に争いのない乙第七号証の二の一、二、同第八号証及び同第九号証、原告及び被告各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば以下の事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

イ 原告は、本件事故直後身体の異常について訴えることはなく、現場に臨場した警察官の勧めもあつて、本件事故は当初物損事故として処理された。

ロ 原告は、本件事故の翌日片山クリニツク(医師片山信)で診察を受けた後、同月一六日に京葉病院においてコンピユータ断層撮影による検査を受け、同日片山病院(院長片山一彦)で診察を受けた後、翌一七日から同年六月二一日まで頸部捻挫、腰背部痛の傷病名により同病院に入院した。

ハ 京葉病院におけるコンピユータ断層撮影による検査の結果、原告の身体には著変は認められなかつたが、片山病院において、原告は自覚症状として頭重感、頭部から頸部にかけての痛みを訴え、また、胸椎及び腰椎に変形が認められたことから、二〇日間の入院を要するとの診断が下されたが、前記入院期間中、原告は延べ一〇回に及ぶ外泊、外出を繰り返しており、退院も医師の判断によることなく、原告自身の都合によつてなされた。

ニ 原告は、本件事故後一週間を経過したころに、耳鳴を訴えるようになり、片山病院の紹介により、森山病院で昭和六一年五月二〇日から同年六月一八日まで通院実日数八日、順天堂浦安病院で同年七月一七日から同六二年四月二三日まで通院実日数一四日の各治療を受けた。

ホ 順天堂浦安病院において、当初原告を診察した中井川弘毅医師は、原告が聴力喪失四〇デシベルないし八〇デシベルであることから、昭和六一年八月一四日付の回答書と題する書面においては、耳鳴、難聴については頭部外傷のみによるものとは考えられないが、本件事故による影響は濃厚である旨の回答をし、原告の頭頸部外傷性症候群及び感音性難聴について症状固定日を昭和六二年五月三〇日とする後遺障害診断書を発行したが、他方、原告には梅毒血清反応陽性の所見が認められ、中井川医師に引き続いて原告を診察した寺本和弘医師は、右所見があるため、原告の両側内耳障害を本件事故による後遺症と断定できない旨の昭和六二年四月二三日付けの診断書を発行し、また、同六三年三月一一日付けの医療要否意見書において明確に梅毒性内耳炎と診断した。なお、梅毒検査は昭和六一年七月一七日、同月二四日及び同六二年二月二四日の三回行われたが、悪化の傾向が認められる。

ヘ 原告は、右頭頸部外傷性症候群及び感音性難聴の後遺障害について労災補償法障害等級表第一〇級の認定を受け、現在は本件事故による後遺症として主として膝の障害及び耳鳴を訴えている。

(2) 既存障害について

前記乙第七号証の二の一、二、いずれも成立に争いのない乙第一〇号証の一ないし七、弁論の全趣旨によつて成立の認められる甲第三四号証及び原告本人尋問の結果を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

イ 原告は、片山クリニツクにおいて昭和六〇年一一月五日から高血圧及び項背筋痛の、同月一四日から慢性関節リウマチの各治療を受けていた。

ロ 原告は、昭和五七年二月一四日、東京都江戸川区平井二―二六先路上において追突事故に遇い、同月二二日から同年七月一六日まで一四五日間入院、同年二月一五日から同月二一日まで通院実日数三日の治療を受け、むち打ち症を後遺障害とする後遺障害診断書が作成され、自賠責等級表第一二級の認定を受け、右追突事故についての示談において損害賠償金として一九〇万円余りを受領した。

しかし、原告は、右認定を受けてから一年半程で前記後遺障害は軽快し、本件事故時には通常どおりタクシー運転手としての業務を行つていた。

(二)  右認定の事実によれば、原告の昭和五七年の事故に基づく傷害は本件事故時には軽快し、原告は、高血圧やリウマチの治療のために片山クリニツクに通院していたほか身体に異常はなく、通常の業務に服していたというのであるから、本件事故後の原告の頭重感等を伴う頸部捻挫は本件事故と因果関係があるものと認められる。

しかし、原告本人尋問の結果によれば、原告は、加害車が対向車線を進行してくるのを約三〇メートル前方から衝突するまで見ていたことが認められるから、原告は衝突に対する防禦の体勢をとれたといえ、被害車の破損状況も軽微であることを考えると、本件事故により原告が受けた衝撃は軽度のものであつたと推認することができ、また、前示認定事実により認められる原告が、入院治療を受ていた片山病院において、その勝手な判断で十分な治療を受けていないこと、現在原告が訴えている耳鳴以外の後遺障害である膝の障害については、本件事故前からリウマチの治療を片山クリニツクで受けていたことの各事実に鑑みれば、頭頸部外傷性症候群は遅くとも本件事故の日から四月以上経過(同時に片山病院退院の日から二月以上経過)した日である昭和六一年九月一五日には後遺障害を残すことなく治癒したものと推認するのが相当である。

耳鳴及び難聴についても、原告がその症状を医師に対して訴えるようになつたのが、本件事故から一週間後であり、中井川医師作成にかかる後遺障害診断書において本件事故に基づく後遺障害として感音性難聴の診断がなされているとしても、同医師が原告を診察したのは原告が順天堂浦安病院に通院していた期間のうち昭和六一年中にとどまり、昭和六二年以降は寺本医師が担当し、同医師は原告の耳鳴及び難聴は梅毒に基づくものであると明確に診断していること、原告の梅毒の症状は本件事故後に行われた三度の検査によれば悪化の傾向にあり、三度目の検査は昭和六二年二月二四日に実施されたこと、中井川医師も本件事故以外の要因を否定している訳ではないことの各事実からすれば、耳鳴及び難聴が梅毒によつて惹起されたものであるとの疑念を払拭することができず、他に本件事故と右各障害との間の因果関係を認定するに足りる証拠はない。

二  請求原因2の事実のうち、被告が加害車を所有している事実は当事者間に争いがない。

三  抗弁1(示談の成立)の事実は当事者間に争いがない。

四  再抗弁事実(錯誤)について判断するに、原告本人尋問の結果によれば、原告は、昭和六一年九月一五日までの休業損害については被告から支払いを受けたが、同年の八月末から九月初めころにかけて、被告の代理人として本件事故に関する示談交渉を行つていた住友海上火災保険株式会社自動車損害調査部所属の松井謙二から、免責示談をしないかぎり休業補償費は支払わない旨言われ、自賠責等級表第一〇級の認定が出たときには、遡つて全額休業補償費を支払う旨の申出を受けたためにやむなく示談に応じたとの事実を認めることができる。しかし、右示談は本件事故の日から四か月以上経過した同年九月九日になされていること、被告が右示談に際して治療費及び通院交通費とは別に一〇五万六一五〇円を支払つたことの各事実は当事者間に争いがなく、成立に争いのない乙第一号証によれば、示談書中には「今回の示談金は傷害部分であり、後遺障害については別途協議する。」旨明記され、右示談の合意の及ぶ範囲が明確にされていることの各事実からすれば、原告が右示談の趣旨を理解していなかつたと認めることはできず、他に錯誤の事実を認めるに足りる証拠はない。

以上の事実によれば、被告が自賠法三条本文に基づき賠償すべき損害は、後遺障害に基づくもののみに限られるところ、前示のとおり、原告主張の本件後遺障害のうち、頭頸部外傷性症候群は症状固定の日をもつて軽快し後遺障害が残らなかつたものであり、また、耳鳴及び難聴については本件事故と因果関係がないから、結局、前記示談以後に本件事故に基づいて原告に生じた損害はないものというべきである。

七  以上のとおり、原告の本訴請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 柴田保幸 原田卓 森木田邦裕)

別紙 <省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例