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東京地方裁判所 昭和58年(ワ)4792号 判決 1996年10月30日

原告

木下孝子

右訴訟代理人弁護士

福田徹

加藤晋介

被告

日本電信電話株式会社

右代表者代表取締役

宮津純一郎

右訴訟代理人弁護士

安西愈

右訴訟復代理人弁護士

込田昌代

被告訴訟代理人弁護士

井上克樹

外井浩志

被告指定代理人

坂本昌弘

(ほか七名)

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  原告が被告の東京電気通信局西新井電話局に勤務する雇用契約上の権利を有することを確認する。

二  被告は原告に対し、金三五八万九八五〇円及び昭和五八年五月以降復職に至るまで毎月二〇日限り金一五万一五二五円を支払え。

第二事案の概要

原告は、被告の前身である日本電信電話公社(以下「公社」という。)の職員であったところ、公社から免職処分を受けたので、右免職処分は、原告が業務上疾病にかかり療養のために休業する期間中になされたので労働基準法一九条一項本文に違反したとか、あるいは、公社の裁量権を逸脱・濫用してなされたから、無効であるとして、公社に対し、雇用契約上の権利の存在確認と免職処分以降の賃金及び療養補償費の支払いを請求した事案である。

一  争いのない事実(但し、一部証拠により認定した事実を含む。)

1  当事者

(一) 被告

被告は、昭和六〇年四月一日、日本電信電話株式会社法(昭和五九年法第八五号)に基づき、日本電信電話公社法(昭和二七年法第二五〇号)に基づいて設立された公法人である公社から、公社の職員その他本件訴訟を含む一切の権利義務を承継して設立された株式会社であり(日本電信電話株式会社法六条一項、四条一項)、被告肩書地に本店をおいている。

(二) 原告

原告は、昭和四五年一一月、公社に見習職員として採用され、二か月間の訓練を受けた後の昭和四六年一月二日から、東京都千代田区(以下、略)所在の公社東京電話番号案内局(以下「案内局」という。)第一運用部第一〇番号案内課に電話交換取扱者(以下「交換手」という。)として勤務するようになり、同年三月二日、公社職員として採用された。

2  原告の就労状況

(一) 原告は、昭和四六年一月から同年五月一七日までの約四か月間、案内局第一運用部第一〇番号案内課において、日勤交替勤務(始業時間午前八時三〇分、終業時間午後四時四五分の勤務と始業時間午前八時四五分、終業時間午後五時の勤務を一週間交替で繰り返す形態の勤務)に従い、その後、同年五月一八日からは、同部第三番号案内課に配置換えとなり、同課において、八輪番勤務に従い、交換手として電話番号案内業務に従事した。

なお、八輪番勤務とは、左記の勤務を順次繰り返す勤務形態であり、このうち、宿直・宿明勤務の際は、仮眠時間が各五時間付与されていた。

<1> 週休(第一服務)

<2> 週休又は日勤(第二服務)

午前九時から午後五時一五分(一周期ごと週休及び日曜日週休、その間の休憩・休息時間は一二〇分)

<3> 日勤(第三服務)

午前八時二五分から午後四時(休憩・休息時間は前同様)

<4> 日勤(第四服務)

午前九時から午後五時五分(休憩・休息時間は前同様)

<5> 日勤(第五服務)

午前一〇時から午後六時(日曜日週休、休憩・休息時間は前同様)

<6> 夜勤(第六服務)

午後二時二〇分から午後一一時(但し、実際の勤務は午後九時まで、その間の休憩・休息時間は二〇五分)

<7> 宿直(第七服務)

午後三時五五分から午後一二時(休憩・休息時間は、第七服務、第八服務合わせて四〇五分)

<8> 宿明(第八服務)

午前〇時から午前八時三〇分

(二) 原告の業務内容は、東京二三区内からの電話番号の照会に対し、二三区内の加入者の電話番号を案内することであった(一〇四番案内業務)。

交換手の仕事は、案内台に着台し、重量約三一〇グラムのヘッドホンを着用し、電話番号の照会に応じて、平均約一キログラムの重量のある電話番号案内簿(以下、「案内簿)という。)を案内台上部前面の簿冊棚から取り出した上、該当の電話番号を捜し出し、照会者に回答することにあった。

案内簿は、昭和四八年一月二〇日以後は、それまで三一分冊が簿冊棚に収納されていたのを、案内簿の隔台配備実施となった。隔台配備とは、企業名と個人名が混在していた案内簿を企業名と個人名とを別冊にした上で企業名案内簿を一案内台(二席)に一組(一三分冊)、個人名案内簿を二案内台(四席)に一組(三二分冊)、それぞれ配備することであった。

また、特に照会の多い加入者(官公庁、学校、鉄道、金融機関等)については抜すい簿が作成されており、これは簿冊棚に収納されずに各交換手の机上に配備されていた。

原告らが使用していた案内台は、一回の案内作業が終了すると、約二秒ないし四秒の間隔をおいて自動的に次の案内呼が入ってくる構造になっていた。

3  公社の健康管理体制及び業務災害の認定手続

(一) 公社における職員の健康管理について定める諸規程

公社においては、職員の健康管理一般について、公社職員就業規則(以下「就業規則」という、<証拠略>)や健康管理規程(昭和四三年九月二四日、総裁達第八四号、<証拠略>)を定めており、まず、職員の健康管理にあたっては職員の疾病状況に対応した有効な施策を講ずることとされ(健康管理規程二条一項)、また、職員は、常に自己の健康の保持増進に努めなければならず(同条二項)、健康診断その他健康管理上必要な措置等について、健康管理医等健康管理従事者の指示に従わなければならないと定められている(就業規則一六二条二項、健康管理規程四条)。

(二) 公社が行う職員に対する健康管理の具体的措置

(1) 公社の昭和四八年当時の健康管理体制は、東京都内は東京健康管理所を中心として一元的管理を行うこととされ、東京都内を一五の地域に分割し、各地域に一ヶ所ずつ医務室を置いていたが、その後昭和五〇年に組織が変更され、東京健康管理所は東京中央健康管理所に、医務室は健康管理所に名称が変更された。案内局の所轄の医務室は東京市外電話局医務室であり、公社西新井電話局(以下「西新井電話局」という。)の所轄の健康管理所(前記組織変更後のもの)は東京台東地区管理部健康管理所(以下「台東健管」という。)であった。

そして、公社は、健康管理所や医務室に労働安全衛生法一三条所定の産業医としての健康管理医等を配置しており、さらに、高度な医療技術のもとに早期治療等を行う病院として、東京では関東逓信病院を設置している。

(2) 職員の健康管理の具体的措置としては、健康診断の他、健康診断等の結果により健康管理医が必要と認めたときは、その旨を当該職員の所属する機関の長に連絡し、機関の長は当該職員に精密検診を受診するよう指示することとしており、右指示を受けた職員はこれに服さなければならない(健康管理規程二四条、四条、就業規則一六二条二項)。

健康管理医は、検診の結果又は健康管理医以外の医師の診断書の送付を受けたときはその診断書を参考に、管理が必要であると認められる者を要管理者として、それぞれ病状の重い者から順に以下の四段階の指導区分を決定する(健康管理規程二六条)。

<1> 療養(A)

勤務を休む必要があるもの(入院又は自宅で療養させるもの。以下「A療養」という。)。

<2> 勤務軽減(B)

勤務を軽減する必要があるもの(具体的には常日勤、日勤、中勤服務以外の服務には原則就かせず、また過激な運動を伴う業務、時間外労働、宿泊出張をさせず、健康状態に応じて、勤務時間中に休養時間を与えるか又は作業環境、労働負荷を考慮して、勤務の軽減を図るもの。このうち一日の所定労働時間から休養時間を除いた拘束時間が四時間の場合を「B4勤務」、拘束時間が六時間の場合を「B6勤務」という。)。

<3> 要注意(C)

ほぼ通常の勤務でよいもの(原則として、常日勤、日勤、中勤、夜勤以外の服務に就かせず、また、過激な運動を伴う業務、時間外労働、宿泊出張をさせない。以下「C勤務」という。)。

<4> 準健康(D)

平常勤務でよいもの(平常勤務でよいが、その中で健康状態の観察を行う。)。

健康管理医が右の指導区分の決定をしたときは、当該職員の所属する機関の長に通知し(同規程二七条一項)、機関の長は、これに基づき当該職員に対し、健康管理指示書により決定された内容等を指示する(同条二項)。そして、要管理者は、健康管理従事者の指示に従い、自己の健康の回復に努めなければならない(同規程三一条、就業規則一六五条)。

(三) 公社における業務災害の認定手続

公社は、業務災害に関しては、事業者補償を行うこととされており、また、災害補償に関する事項は、訴外全国電気通信労働組合(以下「全電通」という。)との間で業務災害補償に関する協約を締結し、これを受けて、公社は、公社職員業務災害補償規則等を定め、認定並びに補償を実施している。さらに、公社は、頸肩腕症候群の業務災害認定に関し、全電通との間で、認定基準及び具体的運用に関する協約を締結している。

公社における認定において業務外と認定され、その認定について異議のある場合は、決定後六か月以内に限り、前記補償規則の定めに従い、業務災害補償審査委員会に審査の請求ができ、同委員会は、公社の認定の適否を審査することとされている(<証拠略>)。

4  頸肩腕障害

(一) 定義

日本産業衛生学会頸肩腕障害研究会によると、頸肩腕障害とは、「業務による障害を対象とする。すなわち、上肢を同一肢位に保持、又は反復使用する作業により神経・筋疲労を生じる結果おこる機能的あるいは器質的障害である。」と定義されている。

(二) 頸肩腕障害の症像(<証拠略>)

前記研究会によると、頸肩腕障害の症像、特にその進展は次の五段階に分類することができる。

Ⅰ度 必ずしも頸肩腕に限定されない自覚症状が主で顕著な他覚的所見が認められない。

Ⅱ度 筋硬結、筋圧痛などの所見が加わる。

Ⅲ度 Ⅱ度の症状に加え、下記の所見の幾つかが加わる。

イ 筋硬結、筋圧痛などの増強または範囲拡大

ロ 神経テストの陽性

ハ 知覚異常

ニ 筋力低下

ホ 脊椎棘突起の叩打痛

へ 傍脊椎筋の圧痛

ト 神経の圧痛

チ 手指の振せん

リ 頸、肩、手指などの運動障害

ヌ 末梢循環機能の低下

ル 訴が極端に強くなる。

Ⅳ度

イ Ⅲ度の所見の多数が認められる。知覚障害の範囲の拡大、筋力低下の増強なども同様である。

ロ 特異な病像が認められる(必ずしもⅢ度の経過を通ってこない。)。

<1> 器質障害(腱鞘炎、腱周囲炎、関節炎、書痙の発生)

<2> 頸肩腕症候群の症状がそろう。

<3> 自律神経失調症(レイノー現象、うっ血、歩行不調、平衡障害、心臓神経症、低血圧症)

<4> 精神神経症状(情緒不安定、集中力困難、睡眠障害、思考判断力低下、うつ状態、ヒステリー症状)

Ⅴ度 Ⅳ度の所見が強くなり、作業だけでなく、日常生活にも著名な障害を及ぼす。

5  公社における頸肩腕障害の発生の状況

案内局において、頸肩腕症候群の診断書を提出した職員数は、昭和四七年度、四八年度において顕著に増加し、それぞれ一九〇名、二三四名に達した。全国的にも、昭和四八年度、四九年度において、それぞれ二二六〇名、三三四九名と発生し、激増している。

案内局における交換手全体に対する罹病者の千分比率は昭和四六年度八、昭和四七年度九四、昭和四八年度一一七、昭和四九年度八四と推移し、昭和四八年度において、罹病者発生比率は急速に増加してピークに達していた。

6  原告の頸肩腕症候群罹病及び診察の経過等

(一) 原告は、昭和四八年三月一〇日、東京市外電話局医務室において、同室の健康管理医佐藤文一(以下「佐藤健康管理医」という。)の診察を受けて頸腕症候群の疑と診断され、その後、急性虫垂炎の手術等もあって同年四月一四日までA療養との指示を受け、そして、同月一五日から同月二四日までB4勤務との指示を受け、同月二三日から同年五月七日までA療養との指示を受けた。

原告は、同月八日からB4勤務となったが、公社は、原告に対し、同日以降、電話番号案内業務には就かせないこととし、案内局第一運用部サービス管理課への作業応援を命じ、原告は、同課において、書類のコピー等の軽作業に従事することとなり、同月一五日から同年六月一一日までC勤務となった。

原告は、同月九日、都立豊島病院において受診し、頸腕症候群との診断を受け、同月一三日、公社に対し、同病院作成の「頸腕症候群により一か月の安静加療を要する。」との診断書を提出した。右診断書の提出を受けた佐藤健康管理医は、原告に対し、同月一二日から一か月間のA療養を指示するとともに、原告の病名を「頸腕症候群の疑」から「頸腕症候群」と改めた。

その後、原告が、同年七月一〇日に、都立豊島病院作成の「交換以外の業務は差し支えない。」との診断書を提出したため、佐藤健康管理医は、原告に対し、同月一一日から同年八月二三日までB4勤務を指示した。そして、原告は、同月二四日以降案内局在勤中約一年半にわたりB6勤務を継続した。

(二) 右の間の昭和五〇年一月二七日、公社は、原告に対し、西新井電話局第二営業課運用係への配転を命じ、原告は、同課において、電話の設置・変更関係の伝票処理等の作業に従事し、同年七月八日から同年八月六日までの間はA療養となり、さらに、翌七日以降昭和五四年七月一六日まで約四年間にわたりB4勤務を継続した。

なお、原告は、右配転後もしばらくは市外電話局医務室で治療を受けていたが、昭和五〇年四月二五日、東京医科歯科大学医学部付属病院で受診し、同年五月二一日からは日本医科大学付属病院へ通院するようになり、さらに、その後は、東京保健生活協同組合根津診療所(以下「根津診療所」という。)へ通院するようになった。

7  公社における原告の頸肩腕症候群の業務起因性に関する認定経緯

(一) 原告は、昭和五〇年一月一三日、公社に対し、業務災害補償に関する協約に基づき、頸肩腕症候群罹病についての業務上災害の認定申請をしたが、公社は、昭和五一年一二月二七日付けで、医学的見地から病的他覚的所見が認められないとの理由で業務外の認定をした。

(二) 原告は、右認定を不服として、昭和五二年六月二三日付けで、業務災害補償審査委員会に対し、審査請求をしたが、同委員会は、昭和五五年九月二四日付けで前同様の理由により業務外の認定をした(<証拠略>)。

(三) 公社においては、電話交換等に相当期間従事していた職員が頸肩腕症候群と診断されて要管理者となった場合は、業務起因性が認められなくても、医療費の支給等の特別措置がとられることとなっており(<証拠略>)、原告にもこの制度が適用され、昭和五三年一二月二二日以降治療費は公社が負担しており、これに先立つ昭和四八年六月一二日以降は通院のため勤務できなかった時間を勤務したものとみなす扱いがなされるなどの措置がとられていた。

8  本件免職処分に至る経緯

(一) 原告は、西新井電話局配転後の昭和五〇年八月五日以降、約四年間にわたりB4勤務を継続したにもかかわらず、その健康に回復の兆しは見られず、また、当時、原告が通院していた根津診療所赤沢潔医師(以下「赤沢医師」という。)の診断書も、二年間以上にわたり「頚肩腕症候群 右の病名により週二回通院加療を要す。約三か月間の予定」という同一の内容であった。そこで、昭和五四年七月一二日、台東健管所長天野良治(以下「天野健康管理医」という。)は、原告に対し、同月一七日以降三か月間のA療養を指示し、以降三回にわたりA療養を指示し、原告は、昭和五五年七月一六日までA療養を継続した。

(二) 右の間の同月一〇日、原告は、公社に対し、赤沢医師作成の「軽労につき週二回通院加療を要す。」という内容の診断書を提出した。

これを受けて、公社は、原告に対し、同月一七日から同年一〇月一六日までB4勤務を指示し、同月一七日から同年一一月六日までB6勤務を指示し、原告の婦人科の手術のためのA療養期間はあったが、昭和五六年一月二一日以降三か月間は再度B6勤務を指示した。

(三) 原告は、右の間の昭和五四年八月一日から同月三日までの三日間にわたり、A療養指示を受けていたにもかかわらず、右各日に管内電話局等の局前でそれぞれ約一時間にわたり、公社及び健康管理医に関するビラを配布し、そのため、同年九月三日、公社より、療養専念義務違反で文書注意を受け、昭和五五年一月九日には、要管理者検診のため台東健管に来所した際、同伴者を診療室内に同行して約一時間滞留し、そのため、同年二月七日付けで公社より、他患者の診療を妨害したことによる診療妨害行為で文書注意を受けた。

(四) 昭和五六年四月一四日、公社は、原告に対し、同月一七日以降C勤務の指示をし、これに対し、原告は、同月一五日、赤沢医師作成の「軽労につき半日勤務程度とし、週二回通院加療を要します。」と記載された診断書を公社に提出した。

このようなことから、同月一六日、天野健康管理医は、公社台東地区管理部鈴木労務厚生課長を同伴の上、赤沢医師を訪問したが、同月二三日、公社は、原告に対し、C勤務指示を変更しない旨伝え、その後、同年六月一八日までC勤務指示は継続された。

(五) しかし、原告は、所属課長らから連日全日勤務である旨の就労確認が行われていたにもかかわらず、同年四月一七日には午前八時三〇分に出勤したものの、同月二三日以降は、主治医の診断に従うと主張して、午前二時間、午後二時間の遅刻早退を繰り返し、同年六月一八日までの間に、無断遅刻二七回、無断早退一四回、無断欠勤一回、計四二回延べ九〇時間に及び就労しなかった。

(六) また、原告は、同年五月中に、公社から、三度にわたって、関東逓信病院において精密検診を受診するように指示されたにもかかわらず、一度も受診しなかった。

9  本件免職処分

以上のことから、公社は、原告に対し、昭和五六年六月一九日付け辞令書をもって、左記理由により、日本電信電話公社法三一条により免職を発令し(以下「本件免職処分」という。)、同月分以降の原告の賃金を支払っていない。

理由 別紙記載の事項は公社職員就業規則五五条一項六号に該当するので日本電信電話公社法三一条により免職する。

(別紙)

1 所属長の連日の就労命令にもかかわらず、これを全く無視し、昭和五六年四月二三日から同年六月一八日まで五七日間にわたり無断遅刻・無断早退等を繰り返したこと。

2 また、過去においても

(1) 昭和五四年八月一日から同月三日にかけて、療養(指導区分A)指示中にもかかわらず、それぞれ約一時間にわたり、公社及び健康管理医を誹謗するビラを配布し、療養専念義務違反で文書注意を受けたこと。

(2) 昭和五五年一月九日には、健康管理所に来所した際、健康管理医の指示を無視し、再三の退去命令にもかかわらず、約一時間にわたって居座り、他患者の診療を妨害し、診療妨害行為で文書注意を受けたこと。

(3) 昭和五五年七月以降、所属長が健康管理の必要上再三にわたり公社指定病院で精密検診を受けるよう指示したにもかかわらず、これを拒否したこと。

10  公社の就業規則

公社の就業規則には、以下の規定がある。

五五条 職員は、次の各号の一に該当する場合は、その意に反して免職されることがある。

((1)ないし(5)省略)

(6) その他その職務に必要な適格性を欠くとき

11  原告の賃金

原告の昭和五六年五月当時の賃金は、基本給一四万二三二五円、暫定手当九二〇〇円で、支給日は、毎月二〇日の定めであった。

二  争点

本件免職処分の適法性にある。

三  当事者の主張

1  本件免職処分事由該当事実の存否

(被告の主張)

原告には、<1>昭和五四年八月一日から三日にかけてのビラ配布行為による療養専念義務違反、<2>昭和五五年一月九日の診療妨害行為、<3>同年七月以降の精密検診受検指示違反、<4>昭和五六年四月二三日から同年六月一八日までの五七日間延べ九〇時間に及ぶ欠務等の職務不適格性を示す事由、すなわち、本件免職処分事由が存した。

(原告の答弁)

原告には本件免職処分事由は存しない。

2  本件免職処分の有効性

(一) 解雇権濫用の有無

(原告の主張)

原告に対する公社の勤務指示は、原告の健康状態を無視した違法・不当なものであり、とりわけ昭和五六年四月一四日付け同月一七日からのC勤務指示は、主治医の診断書において「半日勤務程度」と明記され、その後も変更されてなかったから、不当であり、したがって、本件免職処分は、公社が解雇権を濫用してなしたのであるから無効である。原告に対する公社のその他の指示も違法・不当であり、各指示違反及び診療妨害行為を本件免職処分の理由としたことも解雇権の濫用であり無効である。

(被告の主張)

本件免職処分は合理的かつ相当な処分であって有効である。

(二) 労基法一九条違反(症状固定時)について

(原告の主張)

本件免職処分当時、原告の症状は固定していなかった。

(被告の答弁)

原告の症状は固定していた。

3  業務起因性について

(原告の主張)

原告の本件疾病は業務起因性を有する。

(一) 本症の発症要因

原告は、公社に入社する以前はきわめて健康体であったが、公社の電話交換職場で頸肩腕症候群が大量に発生した昭和四六年ころから体の変調が生じ、その後、肩や腕等の痛みやしびれ等が生じ、悪化していった。

これは、案内業務における案内簿等の取り出し作業において要求される腕の動作が質・量ともに負担過重であったこと、勤務中着用しなければならないヘッドホンや案内台が疲労を促進する構造であったこと、八輪番勤務に従事すると生活が不規則にならざるを得なかったこと、案内業務自体が複雑化する(誘導案内・事業所集団電話)とともに、労務管理による圧迫(数値管理・背面管理・応対調査・取扱事故調査)を受け、強度の精神的緊張をも強いられたこと、案内室の作業環境は悪く、また、休憩時間は短く、休憩室や仮眠室は十分に休養・仮眠をとれる環境になかったこと、さらに、原告が居住していた寮からの通勤時間は長く、また、共同生活であったため、落ち着いた生活ができなかったこと等が原因であると考えられる。

(二) 本症の増悪ないし回復阻害要因

原告が電話交換業務を離れて西新井電話局に配転された後も本症は軽快せず、むしろ増悪した。これは、忙しい同局に配転された原告に課せられた作業は負担の重いもので、同局の健康管理体制や空調等作業環境が劣悪であったこと、さらに、同局の職制らは、原告が配転された事情についての理解がなかったため適切な配慮をしなかっただけでなく、特に松田労厚係長においては、原告の診断書代、通院交通費代の支給を拒否したり、原告の休暇等の取得の申し出を不当に拒絶したりし、山崎運用係長においては、原告の作業変更の申し出を拒絶したり、原告が通話中の電話を突然切ったりし、職場同僚も原告を疎外するようになり、加えて、天野健康管理医は、本症に関する原告の訴えに全く耳を貸さず、主治医の診断書を無視して勤務指示を出すなどことあるごとに原告に対し、精神的な圧迫を加えたことが原因であると考えられる。

(三) 本件免職処分後の軽快

本件免職処分以降、本症は顕著に軽快した。

(被告の主張)

本件疾病と業務との間には業務起因性はない。

第三争点に対する判断

一  本件免職処分事由の存否

前記争いのない事実に記載の外に、証拠(<証拠略>、原告本人尋問の結果―以下「原告本人」という。<人証略>―以下「赤沢証言」という。<人証略>―以下「天野証言」という。)及び弁論の全趣旨によると、次の事実を認めることができる。

1  本件ビラ配布行為について

原告が配布した本件ビラには、公社が首切りにより合理化をはかっているとか、頸腕で病休になった人は一年六か月経ると休職に追い込まれ、その後、必然的に退職になるといった内容が記載されていたが、そのようにして退職に追い込まれた者は実際には存在しなかったという点で事実に反する内容であった。

2  本件診療妨害行為について

原告は、昭和五五年一月九日、付添人と称する同伴者とともに台東健管に赴いて診察室に入室し、天野健康管理医から同伴者に対して再三退室するよう求められたにもかかわらず、これに従わず、このため、天野健康管理医は、原告に対し、やむなく当日の要管理者検診は実施できないので、後日あらためて行うから退室するようにと指示したが、原告は、これにも従わず、このため、原告自身の要管理者検診と診療を待っていた約一〇名の患者の診療を妨害した。

なお、原告は、右の日に代えて実施することになった同月一一日の要管理者検診の際にも、天野健康管理医からの原告本人の診療であり、診察室には付添人の入室は認められないとの注意を無視して付添人と称する同伴者を同行させ、前回と同様に要管理者検診を実施させず、再び診療行為を妨げた。

3  本件精密検診受診拒否について

原告は、昭和五五年七月以降、西新井電話局長の公社指定病院で精密検診を受けるべき旨の指示を受けていたにもかかわらず、これを拒否した。右の経緯を布衍すると以下の通りである。

(一) 公社は、原告に対し、昭和五五年七月から健康管理指示書において、同月一六日付け、同年一〇月一四日付け、昭和五六年一月二〇日付け、同年四月一四日付けの各指示事項としてそれぞれ精密検診の受診を指示した。また、天野健康管理医も診察・面談等において、原告に対し、根津診療所以外の病院での診察や精密検診を受けるよう指示した。しかし、原告は、受診しなかった。

(二) 公社は、原告に対し、昭和五六年五月一二日付けで同月一四日に、同月二二日付けで同月二五日に、同月二六日付けで同月二八日に、それぞれ関東逓信病院で精密検診を受診するよう指示したが、原告は、正当な理由なく精密検診受診の指示に従わなかった。

4  本件欠務について

(一) 天野健康管理医は、昭和五六年二月一八日の要管理者検診の結果及び過去の診療経過等も総合的に勘案し、原告の全日勤務は可能と判断して、同年四月一三日、西新井電話局長へその旨通知し、これを受けた同局長は、同月一四日、原告に対し、同月一七日以降C勤務とする旨の指示をした。

右指示を自己の健康状態を無視した違法・不当なものと考えた原告は、同月一五日、赤沢医師作成の「半日勤務程度」と記載された診断書を公社に提出するとともに、天野健康管理医に対し、C勤務指示の撤回・変更を求めた。そこで、天野健康管理医は、同月一六日、赤沢医師を訪問し、同医師に前記診断書の内容・作成経過について意見聴取をしたが、その結果、C勤務指示の撤回・変更の必要なしと判断し、同月二三日、公社は、原告に対し、C勤務指示を変更しない旨伝え、その後、同年六月一八日までC勤務指示は継続された。この間、原告は、たびたび天野健康管理医等にC勤務指示の撤回・変更を求めて抗議するとともに、所属課長らから連日全日勤務である旨の就労確認が行われていたにもかかわらず、主治医の診断に従うと主張して、午前二時間、午後二時間の遅刻早退を繰り返した。その具体的な態様は以下の通りである。

(二) 原告は、同年四月二三日午前八時三〇分に運用課長に電話で、「私は診断書の通り一〇時半に出勤します。」と述べ、同課長から午前八時三〇分に出勤していないと欠勤になる旨の注意を受けながらこれを無視し、同日午前一〇時三〇分に出勤した。そして、原告は、同課長からの重ねての注意に対して、大声で反発し、「主治医の診断書どおりやります。」と述べ、反省した様子はなかった。さらに、同日、引き続き同課長、庶務課長、労厚係長らから、原告に対して、勤務時間を遵守しない場合には就業規則に違反することも伝えられた。

(三) しかし、原告は、同月二四日も午前八時三〇分に、運用課長に電話で、「一〇時三〇分に行きます。」と述べ、この時刻に出勤し、しかも同日は勤務終了時刻をも無視して午後三時に無断早退した。

(四) これ以降、原告は、たび重なる運用課長らの注意を全く無視し、頑なに、午前一〇時三〇分に出勤すると宣言し、現実に同時刻の出勤という遅刻を続け、勤務時間内の通院が認められている日を除き、いずれも無断早退した。

(五) 同年五月一日、天野健康管理医は、原告に対し、C勤務の指示をしたことについて、同年四月六日付けの診断書とそれまでの経過、要管理者検診、原告の申し立てなどを総合的・医学的に検討した結果から決定したこと、同月一五日付けの診断書についても主治医の意見聴取を行うなど十分検討した結果、C勤務の変更の必要性がないと決定したことを伝えたが、原告は全日勤務はできないこと、業務災害の申請を受け付けてもらえなかったこと等の不満を述べ、天野健康管理医の説明に納得せず、そして、同日、天野健康管理医との面談後、運用課長に電話で、「主治医の診断書どおり三時一〇分ということで。」と述べ、運用課長の注意を無視して無断早退した。

(六) 原告は、同年六月一日には、一方的に「病休をとる」と述べて欠勤した。

2(ママ) 公社就業規則五五条一項六号にいう職務適格性の欠如について

(一) 本件ビラ配布行為について

前述した本件配布にかかるビラの内容及びその行為態様は原告の職務適格性の欠如を示すものということができる。

原告は、本件ビラ配布行為は、勤務時間前のわずか三〇分間、三日間に限ったものに過ぎない上、ビラの内容は単に昭和五四年七月一二日付けA療養指示に至るまでの公社や健康管理医の対応を事実として記載したに過ぎず、頸肩腕症候群罹病者であった原告が、憲法の保障する「言論の自由」を行使したに過ぎない旨主張する。

なるほど、原告がA療養指示を受けているからといって、市民的自由が制限されるわけでないことはもちろんであるが、A療養指示はとりわけ病状が重く、全く就労できない者に対して療養に専念させるために出されるものであるところ、本件ビラ配布行為が療養専念義務ひいてはA療養指示に違反することは明らかであり、また、原告が配布したビラの中には実際には該当する事実が存在しない公社に不利益な内容が含まれていたのであるから、原告の右主張は理由がない。

(二) 本件診療妨害行為について

当日は、要管理者検診の実施が予定されていたのであるから、原告が友人を同伴する必要はなく、少なくとも、天野健康管理医から同伴者の退室を求められた後もこれに従わずに同人を室内にとどまらせる必要はなく、また、同医師から同日の検診は実施できないから退室するようにとの指示にも従わずに同伴者とともに室内にとどまる必要は全くなかったというべきである。

この点、原告は、天野健康管理医に他局における罹病者の取り扱いについての理解を求めるためであったなどと主張するが、そもそも診察室への入室許可等については、一般に同室を管理する医師の合理的裁量に委ねられているというべきであるし、仮に原告の主張するような事情が存したとしても、この目的を達するには他に相当な方法が考えられるのであって、要管理者検診と指定された日に予約もなく、また、同医師の意思に反してまで行う必要は認められないから、原告の右主張は採用できない。

さらに、原告は、職制らが原告らを診察室から排除したなどと非難するが、その原因は、原告らが天野健康管理医の指示に従わなかったことにあるのであるから、全く当を得ないものといわざるを得ない。

以上のとおりであるから、本件診療妨害行為は原告の職務適格性の欠如を示すものということができる。

(三) 本件精密検診受診拒否について

公社から精密検診受診指示を受けていながら、原告が精密検診を受診しなかったことが就業規則一六二条二項、健康管理規程三一条(同規程二四条二項)に違反することは明らかであり、本件精密検診受診拒否行為は原告の職務適格性の欠如を示すものということができる。

この点、原告は、公社側が検査項目・検査内容を明らかにしなかったことにその原因があるなどと主張するが、仮にこのとおりであったとしても、本件精密検診受診を拒否する理由とはならないから、理由がない。とりわけ、昭和五六年五月当時、主治医の診断書と勤務指示との間に齟齬があり、原告は、勤務指示に不服があったというのであるから、むしろ、自発的・積極的に受診して自己の正確な健康状態を明らかにしようとするのが通常であると考えられるのであるから、同月中の三回の受診指示に従わなかった理由にはならない。

(四) 本件欠務について

本件欠務は、あらかじめ所属長の承認を受けておらず、就業規則一四条に違反することが明らかであるから、原告の職務適格性の欠如を示すものということができる。

二  本件免職処分の有効性について

1  本件免職処分の合理性・相当性(解雇権濫用の有無)

原告は、本件免職処分事由は公社の違法・不当な勤務指示により惹起されたのであるから、本件免職処分は解雇権を濫用してなされた無効な措置である旨主張するので、公社の原告に対する各勤務指示の合理性・相当性につき以下検討する。

(一) 昭和五四年七月一二日付けA療養指示

(1) A療養指示に至る経緯

証拠(<証拠・人証略>)によれば、天野健康管理医は、原告が四年間もの長期間にわたり半日軽減勤務を継続していながら、一向に病状の改善が認められないことから、この際、原告を療養に服させて他の病院の受診をさせたりするなどした方がよいとの考えで、昭和五四年七月一二日付けで、原告に対し、同月一七日以降のA療養の指示をしたことを認めることができ、右指示は、四年間の軽減勤務期間において、原告の症状や治療方法に特段の変化が認められなかったのであるから(<証拠略>)、医学的・専門的立場からのみならず、一般的常識にもかなった判断といえるのであって、右指示は合理性・相当性を有するといえる。

(2) A療養指示後の経緯

証拠(<人証略>、原告本人)によれば、A療養指示後の経緯については以下のとおり認められる。

A療養指示を受けた原告は、主治医の診断書が未提出であるのに勤務指示の変更がなされたこと、それまで原告が勤務する西新井電話局において、頸肩腕症候群に理解のない職制らからいわれなき嫌がらせや締め付けをされていると感じていたこと、また、療養期間が一年六か月間継続し、その後、三年間休職処分を受けたとしたならば、原則として公社を退職することになるという規定が労働協約に存する(<証拠略>)ことから、右指示は、原告を公社から排除する意図に基づくものではないかという不安を感じた。

そこで、原告は、天野健康管理医に対し軽減勤務に戻すように執拗に抗議したが、同医師は、前同様の判断で、認定を変えることはなかった。

この間、原告は、前記のとおり、本件ビラ配布行為や本件診療妨害行為に及び、この代りに実施された同月一一日の要管理者検診の際にも、天野健康管理医の指示に従わず、結果的に検診を不能にさせたのであり、さらに、各月の給料日に、給料の支払いを受けに公社に出向いた原告と公社との間でトラブルが発生したということもあった。

以上の事実経過に鑑みると、本件ビラ配布行為や診療妨害行為等は、前記指示に対する不満の現れとしてなされたものということができる。

この点につき、原告は、前記指示は公社から原告を排除する意図に基づくものではないかとの不安を抱いていたゆえの行為であるとして、本件ビラ配布行為や診療妨害行為の正当性、すなわち、これらを処分事由とする本件免職処分は解雇権の濫用に該当するとの主張をするが、健康管理区分は原則として三か月毎に、突発的な事情が発生したときには直ちに見直しがなされるのであるから、右指示を四年六か月後の退職の布石と考えるのは、たとえ、原告が公社に対する不信感を抱いていたとしても、考えすぎの感を免れない(現実に、公社は、昭和五五年七月に、原告に対し、再び軽減勤務の指示をしているのであって、前記A療養指示の時点で天野健康管理医ら公社側にそのような意図が無かったことは明らかである)。そして、原告が右のような不安感をもっていたからといって、各処分事由該当性が否定されるものではなく、また、前記指示の合理性・相当性を揺るがせるものでもない。

(二) 昭和五六年四月一四日付けC勤務指示に至る経緯

(1) 昭和五五年七月一六日付けB4勤務指示に至る経緯

証拠(<証拠・人証略>、原告本人)によれば、以下の事実が認められる。

昭和五五年七月の段階で、原告の主治医である赤沢医師が、原告が従前、就労せずに療養していたことを知り、頸肩腕症候群の治療のためには、仕事をしながら徐々に体を慣らしていく方が良いと考えて、同月九日付けの診断書に、「軽労につき」との文言を記載した。右診断書の提出を受けた公社は、赤沢医師の真意を確認するため、同月一四日、赤沢医師を訪問・会見し、また、同月一五日には、天野健康管理医自ら赤沢医師に電話をして説明を受けた。そして、天野健康管理医は、原告を慎重に職場復帰をさせようとの配慮の下に、まずは、同月一六日、原告に対し、B4勤務の指示をした。少なくとも、この段階で、赤沢医師は、「軽労」が半日勤務を意味するものと明示したことはなかった。

(2) 昭和五五年一〇月一四日付けB6勤務指示

証拠(<証拠・人証略>、原告本人)によれば、同年一〇月一四日に、原告に対し、同月一七日からのB6勤務指示が出され、原告は、右指示に従いB6勤務に就いていたが、その後、重複子宮、原発不妊症の手術により、同年一一月六日から昭和五六年一月二〇日までA療養となり、その後、再びB6勤務となったことが認められる。

(3) 昭和五六年四月一四日付けC勤務指示に至る経緯

証拠(<証拠・人証略>、原告本人)によれば、天野健康管理医は、原告に対し、A療養後、B4勤務を三か月、B6勤務を六か月(その間に前記のとおり、A療養となった時期がある。)指示していたところ、その間、特段の病状の悪化が認められなかったことから、昭和五六年四月一四日付けで同月一七日以降のC勤務の指示をしたことが認められる。

右指示につき、原告は、そもそも、昭和五五年一〇月一四日付けB6勤務指示自体違法・不当なものであったが、さらに、昭和五六年二月ころから、日常生活に支障が生じるほどに健康状態が極めて悪化しており、右C勤務の指示は自己の健康状態を全く無視した違法・不当な指示であったと主張する。

たしかに、原告は、同月一八日の時点においては、最高血圧が一五三で、最低血圧が七六というやや高血圧の状態であった(<証拠略>)ことが認められるが、他方、証拠(<証拠略>)によると、原告は、昭和五五年一〇月二〇日以降昭和五六年四月一四日までの間、赤沢医師に対して、喉の痛み等については頻繁に訴えていたものの、頸肩腕症候群に関する症状については、全く訴えていないことが認められることからすると、原告の右主張はたやすく採用できず、証拠(<証拠・人証略>、原告本人)によると、昭和五五年一〇月二〇日の根津診療所における診断の際、原告は、右上腕痛、右肩胛骨部の痛みが出、また、左上腕鈍痛が生じていると訴えているが、さらに、証拠(<証拠略>)によると、B6勤務に就くはずであった同月一七日から二〇日までの間、実際には、原告は、休暇等により、B6勤務には就いていないことが認められるのであるから、同月二〇日の原告の訴えもたやすく信用できないし、また、右の高血圧にしても、精神的な要因による一時的な状態と考えるのが自然であり、さらに、証拠(<証拠略>)によれば、順天堂伊豆長岡病院の井上幸雄医師及び関東逓信病院の河井医師は、昭和五六年四月一五日の診察・検査結果を基に赤沢医師が作成した診察・検査結果等通知書を資料として原告の健康状態を判定した結果は、いずれも原告は通常の一般事務に就労するについては、全日勤務が可能であるとの判断をなしていることを認めることができるのであって、原告を徐々に勤務に復帰させ、最終的には全日勤務に戻そうという昭和五五年七月当時の方針を変更すべき理由は認められないから、昭和五六年四月一四日付けC勤務指示が不合理・不当なものとはいえない。

(三) C勤務指示以降本件免職処分に至る経緯

(1) C勤務指示以降本件免職処分に至る経緯

証拠(<証拠・人証略>、原告本人)によれば、以下の事実が認められる。

右C勤務指示を自己の健康状態を全く無視した違法・不当な指示であると考えた原告は、再び、主治医の赤沢医師を再度訪れ、同医師から、同月一五日付けの「半日勤務程度とし」との文言の記載された診断書(<証拠略>)を受け取り、これを公社に提出した。

右診断書の提出を受けた天野健康管理医は、赤沢医師との会談を経たが、C勤務指示を変更することはしなかった。

これに対し、原告は、その後たびたび天野健康管理医に抗議するとともに、職制らのC勤務に服さなければ欠務となる旨の警告を受けながらも、自己の健康状態ではC勤務に服することはできないとして、以後、軽減勤務の時間帯に就労したのみで、C勤務を行うことはなく、その結果として、欠務という評価を受けた。

さらに、同年五月に入り、公社側から、精密検診の受診指示が三度にわたって出されたが(<証拠略>)、原告は、いずれも受診しなかった。

(2) 昭和五六年四月一五日付け赤沢医師作成の診断書中の「半日勤務程度とし」の文言が記載された経緯

同年四月一五日付け赤沢医師作成の診断書の中に従前の診断書にはなかった「半日勤務程度とし」という文言が記載された経緯につき争いがある。

すなわち、まず、原告は、当時自己の健康状態は、相当悪化しており、B6勤務で就労するのがやっとの状態であったにもかかわらず、同月一四日、公社から突如として同月一七日以降C勤務とするとの指示が出されたため、同月一五日、主治医である赤沢医師に相談したところ、同医師は、従前から、原告には半日勤務が適当であるという趣旨で「軽労につき」という文言を記載していたにもかかわらず、公社が原告にB6勤務を指示するなど自己の診断書を無視する態度に憤りを感じていたが、こと公社が原告にC勤務を指示するに至っては、右の趣旨を明確にしておく必要があると考えて、同月一五日付け診断書には「半日勤務程度とし」と記載したのであるから、右記載は当時の原告の健康状態を主治医の立場から正確に一記載したのであって、これを無視してC勤務指示を変更しなかった公社の措置は違法・不当であると主張する。

右に対して、被告は、軽労という言葉には半日勤務という意味はなく、同月一五日付け診断書の「半日勤務程度とし」との記載は、赤沢医師が原告に強要されて記載したに過ぎず、原告の健康状態を正確に記載したのではないから、その後公社がC勤務指示を変更せず維持したことは合理的かつ相当であったと主張する。

まず、右記載が当時の原告の健康状態の悪化を反映したものであるか否かについて検討する。

証拠(<証拠・人証略>、原告本人)によると、同年四月一五日、赤沢医師が原告を診察した模様を記載したカルテには、肩部の筋肉硬結の記載がある他は他覚的所見の記載はなく(<証拠略>)、少なくとも右記載からは症状の変化は認めがたく、また、同日の診察・検査結果を基に同月二五日に赤沢医師が作成した診察・検査結果等通知書(<証拠略>)においては、「診察での所見では筋肉圧痛、硬結あるも大した苦痛ではない。頚椎X―Pでの所見はやや異常を呈しているが基質的な異常は認められない。」との評価になっていることが認められる(<証拠略>によれば、右診察・検査結果等通知書を基礎資料にして、順天堂伊豆長岡病院の井上幸雄医師及び関東逓信病院の河井医師が判定した結果は、いずれも原告は通常の一般事務に就労するについては、全日勤務可能との判断がなされている。)。

右認定事実からすると、同年四月一五日の時点において、同月六日付け診断書の内容を変更して、「半日勤務程度とし」との記載をする基礎となるべき事実の変更は認められず、右記載は、この時点における原告の健康状態の悪化を反映したものではないと考えられる。

この点、さらに、原告は、赤沢医師は、従前から、原告には半日勤務が適当であるという趣旨で「軽労につき」という文言を記載していたのであるが、こと公社が原告にC勤務を指示するに至っては、右の趣旨を明確にしておく必要があると考えて、同月一五日付け診断書には「半日勤務程度とし」と記載したと主張し、赤沢医師も同旨の供述をする。

しかしながら、証拠(<人証略>、原告本人)によると、原告に対し、昭和五五年一〇月一四日、B6勤務指示がされた後の同月二〇日の診察において、右指示がされたことを知り、かつ、原告が相当の愁訴をしているにもかかわらず、赤沢医師は、その後の昭和五六年一月九日付けの診断書(<証拠略>)、同年四月六日付けの診断書(<証拠略>)においても、従前の内容を変更していないこと、昭和五五年七月一四日に、公社側担当職員が、赤沢医師に「軽労」の意味を質問した際、少なくとも、同医師は、半日勤務との趣旨を明示していないこと(<証拠略>)を認めることができ、一般用語としての「軽労」という文言そのものが、明確かつ限定的に半日勤務を意味するものとはいえず、医学用語としてもそのような意味で確立したものではないこと(<人証略>)等の事実からすれば、赤沢医師が、昭和五五年七月当時から、明確かつ限定的に「軽労」とは半日勤務を意味するものと考えていたとの主張は容易に採用し得ない。

ところで、昭和五六年四月一五日付け診断書は、同月六日付けの三か月毎の定時の診断書の提出から一〇日も経過しないうちに作成・提出されたもので、原告は、同月一五日付け診断書を天野健康管理医に提出すると同時にC勤務指示の撤回を要求しているところからすると、右診断書を提出したのは、「半日勤務程度とし」の記載を根拠に、公社のC勤務指示を撤回させようとしたものとも考えられるが、前記のとおり、右記載は原告の健康状態の悪化を反映するものでもなく、半日勤務の趣旨を明確にしたものともいえない。むしろ、同月二八日に赤沢医師が作成した原告に関する意見書(<証拠略>)によれば、同月一五日付け診断書については、「当日患者が極めて興奮状態にあり、その愁訴が甚だしかったため作成したものです。」との記載があり、また、その後の同年五月八日、原告が両親とともに赤沢医師を訪問し、同年四月一六日に赤沢医師と天野健康管理医が会談した内容について、一時間以上にわたって、脅迫的言辞をもって詰問したことが認められ(<証拠・人証略>)、加えて、赤沢医師自身も、右診断書は、少なくとも原告の依頼によって作成したものであり、また、当時、原告が少なからず興奮状態にあったと述べていることなどからすると、少なくとも、当日、原告から赤沢医師に対し、相当の働きかけがあったため赤沢医師が原告の訴えを受け入れる形で同月一五日付け診断書が作成されたものと考えられる。そうすると、天野健康管理医ら作成の「根津診療所訪問模様について(<証拠略>)」と題する書面中の、当日の模様についての赤沢医師の発言とされる「昨日は一〇時頃に夫婦で来まして、大勢患者さんが居るのですが三〇~四〇分ねばられまして、どうしても書いてくれと泣かんばかりでしたので・・・あの様に頭に血が上った様な状態では何を話しても無駄ですし・・・仕方なしに『半日勤務程度』と入れました。」という部分は、概略において正確性を有すると考えられる。

以上説示したところからすると、同月一五日付け診断書の「半日勤務程度とし」との文言は、赤沢医師が原告に強要されてあるいはそれに準じる状況で、本意ではなくやむなく記載したものと認めることができる。

このうち、診察・検査結果等通知書及び原告に関する意見書(<証拠略>)の作成の経緯について、赤沢医師は、同月一五日付け診断書作成後、天野健康管理医から右診断書の書き替えを要請されたが、これを断ったところ、天野健康管理医が文案について準備していた診察・検査結果等通知書及び原告に関する意見書(<証拠略>)の作成を求められ、本意ではなかったが、天野健康管理医の執拗な要請にやむを得ず応じたと述べる。しかしながら、本意ではなかったが応じたとする赤沢証言は、その理由の一つとして同医師と天野健康管理医の間柄が同窓の同級生であることを考慮したとしても、同通知書及び意見書(<証拠略>)の内容までも本意ではなかったという根拠としては説得力に欠け、また、診断書の内容の変更を求めるなどということは通常考えられず、そのような要請をしたことはないとする天野証言の方が説得力があるというべきであり、前記赤沢証言は、診察・検査結果等通知書及び原告に関する意見書(<証拠略>)の内容に特段の疑義をはさむ根拠とはなり得ない。

したがって、公社が、原告に対し、同年四月一五日付けの赤沢医師作成の前記診断書の提出を受けた後もC勤務指示を変更しなかったことは合理的かつ相当であると考える。

赤沢医師は、当時の原告の健康状態からみてC勤務は当然考えられず、また、原告から右診断書の作成を要請されたことはない旨証言するが、これは前述したところから信用し難い。

以上述べたところから、昭和五六年四月一四日付けC勤務指示に違反した原告の欠務に関する原告の主張は理由がない。

(四) 本件免職処分の合理性・相当性と解雇権濫用

以上述べたように、原告に対する公社の本件各勤務指示は、いずれも合理的かつ相当であるから、右指示が不満であるからといって本件ビラ配布行為による療養専念義務違反・診療妨害行為、本件勤務指示を無視した欠務及び精密検診受診拒否を本件免職処分事由としたことをもって解雇権の濫用ということはできない。そして、本件ビラ配布行為による療養専念義務違反・診療妨害行為、精密検診受診拒否の各行為の動機、方法・態様、結果及び欠務の動機、態様、期間・程度等を総合的に勘案すると、たとえ原告が従前職制から嫌がらせや締め付けを受けたと感じ、公社に不信感を抱いていたこと、医師も自己の病状を理解してくれないと考え、医師不信の状態にあったこと、天野健康管理医との信頼関係も徐々になくなったこと等原告の主観的心情を考慮したとしても、本件免職処分は、客観的に合理的で社会通念上相当として是認される。

したがって、本件免職処分が公社による解雇権の濫用で無効であるという原告の主張は採用できない。

2  労基法一九条違反の成否

原告は、本件免職処分が、原告が療養のために休業する期間及びその後三〇日間以内になされたものであるから、本件免職処分は労基法一九条に違反して無効であると主張する。

しかし、証拠(<証拠略>)によると、原告に対しては、電話交換業務を離れた約二ヶ月後である昭和四八年七月一〇日以降昭和五六年四月一五日まで七年以上ほぼ同内容の診断がなされてきており、本症に関する診察内容にも特段の変化がなく、この間の治療内容も「電気モビ、ホットパック」が継続的に行われてきたことが認められ(<証拠略>)、原告の症状の変化を窺わせるような事実はなかった。そして、前述の通り、同日の時点で、主治医の赤沢医師が原告を診察した模様を記載したカルテには、肩部の筋肉硬結の記載が見られる他は他覚的所見の記載はなく(<証拠略>)、また、右診察・検査結果を基に同月二五日に赤沢医師が作成した診察・検査結果等通知書(<証拠略>)においては、「診察での所見では筋肉圧痛、硬結あるも大した苦痛ではない。頚椎X―Pでの所見はやや異常を呈しているが基質的な異常は認められない。」との診断内容となっており、右診察・検査結果等通知書を基礎資料にして、順天堂伊豆長岡病院の井上幸雄医師及び関東逓信病院の河井医師が判定した結果は、いずれも原告は通常の一般事務に就労するについては、全日勤務可能との判断がなされている(<証拠略>)のであり、同月一五日の時点で、原告の症状は治癒ないし少なくとも症状固定の状態にあったと認められる。

したがって、原告の症状は、遅くとも昭和五六年四月一四日には症状固定の状態にあったということができ、原告の前記主張は採用できない。

この点、原告は、本件免職処分の前後、赤沢医師の指示により、マッサージやはりの治療を受けており、同月以降本件免職処分までの間、右疾病による療養のため合計二六回八三時間の休業をしたと主張するが、右主張にいう治療や休業の事実が認められるとしても、症状固定という前記認定を揺るがすことにはならないし、また、赤沢医師は、原告は、平成二年七月二〇日の時点においても治療を継続しているが、自覚症状がかなり残ったり、増悪したりしているから完全治癒ではないと考えると述べるが、この点も前記の理由により信用し難い。

以上述べたところから、本件免職処分が、原告が療養のために休業する期間及びその後三〇日間内になされたとはいえず、本件免職処分が労基法一九条に違反して無効であるという原告の主張は採用できない。

三  結論

以上述べたとおり、原告の主張はいずれも採用することができない。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 林豊 裁判官 夏井高人 裁判官 中園浩一郎)

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