大判例

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東京地方裁判所 昭和54年(ワ)799号 判決 1981年5月25日

原告

畠貞蔵

右訴訟代理人

輿石睦

外三名

被告

小渋雅亮

右訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一被告が医師であり、赤坂病院を経営し、同時に会員組織の医療機関東京ニューセンター診療所を設立・主宰して、その所属会員の定期健康診断等を行い、会員の健康管理を行つていたこと、原告が昭和三九年六月三日以降毎年二回宛被告から健康診断を受け、被告に自己の健康管理を委ねていたこと、原告が昭和四五年九月二九日に赤坂病院に入院し、被告から睾丸炎・尿道炎と診断されたこと、原告の尿から枯草菌が検出されたこと及び原告が現在難聴であることは、いずれも当事者間に争いがない。

二原告は自己の現在の難聴は赤坂病院入院中に被告が注射したカナマイシンが原因であると主張し、被告はこれを否認して、原告に注射したのはテトラサイクリンとクロロマイセチンと推測され、原告の現在の難聴は被告が初めて原告を診察した昭和三八年ころすでに存在し、その後徐々に進行していた難聴が赤坂病院入院の原因となつた副睾丸炎の合併症によつて増悪をきたしたものと考えられると主張している。

したがつて、本件においては、赤坂病院入院中に被告が原告にカナマイシンを注射したか否かということ及び原告の難聴の原因がカナマイシンの注射に在るか否かが、まず問題となる。

被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告が赤坂病院入院中のカルテは五年間の保存期間の経過によりすでに破棄処分されてしまつていることが認められる上に、以下に検討するように、右カナマイシンの注射の有無について決め手となる証拠が存在していない。

1  原告は、被告が「病原菌は枯草菌であり、この菌にはカナマイシンが効くからカナマイシンを注射する。」旨言つたと供述し、証人畠豊子もこれに副つた供述をしているが、原告入院中の同証人のメモ書である甲第一三号証には、「枯草菌」の記載はあるが、「カナマイシン」の記載はない(単に「注射」の記載があるのみである。)こと、被告本人尋問の結果により枯草菌にはほとんど病原性がない、すなわち、高熱を出したり、炎症を起こす菌ではないと認められること等に照らして、原告及び前記証人の右各供述部分は直ちに採用し難い。

2  また、原告が被告によつて睾丸炎・尿道炎と診断されたことは当事者間に争いがなく、証人畠豊子の証言並びに原告及び被告の各本人尋問の結果によれば、原告は、入院当時、血尿及び発熱があり、睾丸が腫れていたことが認められ、<証拠>によれば、右症状にはカナマイシンが効用あることが認められる。しかしながら、<証拠>によれば、カナマイシンは、特に結核菌に対して強力な作用を持つことから、主として耐性結核菌に対して使用され始めた広範囲抗生物質であることが認められ、<証拠>によれば、テトラサイクリンとクロロマイセチンは、カナマイシンよりも広範囲の抗生スペクトルを持つ抗生物質であつて、第一次選択の薬剤とされていることが認められるから、原告の症状に対する効用の点から考えると、原告に注射されたのは、被告が主張するようにテトラサイクリンとクロロマイセチンではないかと考えられないでもないが、他方で、証人畠豊子及び原告本人は、被告が原告にした筋肉注射は無色透明であつたと供述し、<証拠>によれば、カナマイシンは無色透明であるのに対して、クロロマイセチンは白色不透明であることが認められるから、注射液の色の点から考えると、原告に注射されたのはカナマイシンであつた可能性もないとはいえない。

3  さらに、<証拠>によれば、注射後に注射部位が発熱して赤く腫れあがり、非常に痛くて、アルコール湿布をしても注射部位を一日毎に変更しなければならないほどであつたことが認められる。そして、<証拠>によれば、カナマイシンの場合、筋肉注射後の局所疼痛がしばしば観察されることが認められるが、原告に認められたような非常に激しい局所症状がカナマイシンの筋肉注射の場合に観察されるか否かについては、これを認めるに足りる証拠がない。

4  したがつて、以上に検討した中で、注射液の色と注射液の局所症状という観点から、カナマイシンを注射した可能性も存するが、いまだ、直ちに、被告が原告にカナマイシンを注射したと認定することはできない。

三そこで、次に、原告の難聴がカナマイシンによる難聴と考えられるかどうかを検討し、それがもし肯定されるのであれば、そのことから被告によるカナマイシンの注射を推認することができるかどうかについて考察を進めていくこととする。

1  まず、カナマイシンによる難聴について検討するに、<証拠>によれば、次の事実を認めることができ<る。>

(一)  難聴(器質性)は、伝音性難聴(伝音系、特に外耳・中耳・前庭窓・蝸牛窓の障害によつて起こる難聴)と感音性難聴(感音系、すなわち内耳から大脳皮質に至る部位のどこかに器質的障害があると考えられる難聴)とに分類されるが、カナマイシンによる難聴は、内耳の毛細胞の障害であつて、感音性難聴の一つであること、

(二)  聴力検査は、検査音の伝導方法によつて、気導検査(日常生活で我々が聴いている音の伝わり方、すなわち外耳道・鼓膜・耳小骨を経て内耳に伝わる音の伝わり方で音を与えてする聴力検査)と骨導検査(振動体を頭蓋に当て、その振動を直接頭蓋に伝えることにより、鼓膜・耳小骨を介さないで直接内耳に音を与えてする聴力検査)とに分類されること、

(三)  気導検査による聴力損失値を結んでできた曲線、すなわち気導オージオグラム曲線には種々の形があるが、この曲線の形はいくつかの型(聴力型)に整理することができ、ある疾患については特定の聴力型を示す場合があるので、聴力型から疾患を識別することができること、カナマイシンによる難聴は常に高音域から始まり、漸次低音域へ拡大するが、一〇〇〇Hz(ヘルツ)以下に障害の広がることは少なく、その聴力型はほとんどすべて高音急墜型であること、

(四)  骨導検査では検査音が直接内耳に伝わるので、この検査による聴力損失値はほぼ感音系の障害の有無及び程度を示していて、これによつて難聴の原因が伝音系にあるのか感音系にあるのかを識別することができること、すなわち、気導検査で聴力の低下が認められるのに骨導測定値が正常又は正常耳よりむしろ良くなつている場合は、純粋の伝音性難聴であり、これに対し、骨導の域値曲線と気導のそれとがほぼ同一レベルである場合は、純粋の感音性難聴であること、また、気導・骨導の両測定値がともに正常値よりも悪いが、気導の測定値に比べて骨導のそれの方が良いというような場合は、伝音性と感音性の混合した、いわゆる混合性難聴であること、

(五)  カナマイシンによる難聴は、他の薬剤中毒による難聴の場合と同様、その多くの例で両耳が同時に同等障害されて(両側性・両耳対称性)、一側性の例や両耳非対称の例は少ないこと、

(六)  カナマイシンによる聴覚障害は、まず、耳鳴から始まり、投与を続ける限り徐々に進行するが、投与を中止すれば進行は停止するものであつて、その後長期にわたつて進行することもほとんどなく、また、投与中止後に障害が発生することは極めて少ないこと、その上、初めての耳鳴又は類似の症状が起こつた時に治療を中止すれば、障害は大抵可逆的であること、

(七)  なお、カナマイシンによる難聴の中には、比較的短時日のうちに高度の難聴となる、いわゆる急性カナマイシン難聴があるが、これは、腎機能障害のある者がカナマイシンを連日大量に投与されたような場合に出現するものであつて、多くの例では前庭機能も障害されること、

以上の事実を認めることができる。

2  そこで、右各認定事実を下にして原告の難聴を検討してみる。

(一)  まず、原告の難聴の種類・特徴・程度について考える。

<証拠>によると、原告は、昭和五三年八月二八日に両側感音性難聴と認定されて訴外東京都から身体障害者手帳の交付を受けたこと及びそのときの聴力損失値は右耳が六〇dB(デシベル)、左耳が九五dBであり、これは身体障害者等級表による六級に該当する聴覚障害であることを認めることができるが、<証拠>によると、原告は、数回にわたつて訴外慈恵医大病院で受診して、聴力検査を受けたこと及び右甲第一七号証の一ないし三がその時の検査成績であることが認められるので、これらに前掲甲第二四号証を考え併せて原告の難聴をさらに分析してみる。そうすると、次の事実を認めることができる。

(1) 気導オージオゲラム曲線をみてみると、聴力型は皿型(谷型)であり、一〇〇〇Hz以下にも障害が広がつていること、

(2) 骨導測定値をみてみると、右耳は気導測定値とほぼ同一レベルであるのに、左耳は気導測定値より良いこと、したがつて、右耳は純粋の感音性難聴であるが、左耳はいわゆる混合性難聴であること、

(3) (平均)聴力損失値は、五〇〇、一〇〇〇及び二〇〇〇Hzにおける各測定値をそれぞれa、b及びcとして、で算出されるので、原告の各検査時点の聴力損失値を算出してみると、昭和五〇年二月五日の検査では、右耳が48.75dBで左耳が九〇dB、昭和五一年二月五日の検査では、右耳が五〇dBで左耳が九〇dB、昭和五三年七月一八日の検査では、右耳が53.75dBで左耳が九〇dBであつて、難聴は両側性ではあるが、両耳が非対称であること、

以上の事実を認めることができる。

右認定事実によれば、原告の難聴は、両側感音性である点はカナマイシンによる難聴と一致しているが、純粋の感音性ではなくて伝音性が混ざつている点、聴力型が皿型(谷型)である点及び両耳が非対称である点において、純粋の感音性難聴で、ほとんどすべてが高音急墜型の聴力型を示し、原則として両耳が対称であるカナマイシンによる難聴とは大部その様相を異にしているということができる。

(二)  次いで、原告の難聴の発生及び進行の状況について考える。

<証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(1) 原告は、注射を受けて三、四日目ころから、のぼせた様な感じがして、何となく耳に異常を感じたこと、

(2) 原告は、昭和四五年一〇月一〇日に退院したが、同月一一日には、何か耳にはさまつた様な感じがすると同時に耳鳴を感じたこと、

(3) その後、耳鳴はひどくなつたが、当時は、いまだ聴力に異常は感じなかつたこと、

(4) それからしばらくして耳鳴は薄れたが、原告は、昭和四五年一〇月末ごろ、会議で他人の発言がよく聴き取れなくなつたことから、聴力の低下に気がついたこと、

(5) 原告の聴力は、その後どんどん悪化して、昭和四五年の年末から昭和四六年の年始ころには、他人にもその悪化がわかるようになつたこと、

(6) 原告の聴力は、当初左耳が悪化したので、補聴器を使用してみたが、昭和四六年三月ころには、左耳は全聾に近い状態にまで悪化して補聴器も用を足さなくなり、右耳の聴力もかなり悪化したこと、

以上の事実を認めることができ、その後の聴力悪化の状況は、前記(一)において認定した聴力損失値が示すとおりである。

右認定事実によれば、原告の場合、聴覚障害がまず耳鳴から始まつた点はカナマイシンによるそれと一致しているが、その耳鳴は注射を止めてから発生し、聴覚障害がその後徐々に長期間にわたつて進行している点において、投与中止後に障害が発生することは極めて少なく、投与を中止すれば障害の進行は停止してその後も長期にわたつて進行することのないカナマイシンによる聴覚障害とは大部その様相を異にしているということができる。

(三)  最後に、原告の難聴がいわゆる急性カナマイシン難聴と考えられるかどうかについて検討する。

(1) まず、前記(二)において認定した事実によれば、原告の難聴は、長期間にわたつて徐々に進行して高度の難聴となつたことが認められる。

(2) 次に、<証拠>によれば、原告は、入院当時血尿が続いていて、昭和四五年一〇月二日には凝結状の血尿がでたこと、同年九月三〇日に血沈が六八、同年一〇月三日に白血球が一万二〇〇〇であつたことが認められるが、<証拠>によれば、血尿と血沈は腎機能障害と関係のある場合とない場合があり、右血沈と白血球の各数値は炎症の存在を示しているだけであることが認められる。ただ、<証拠>によれば、尿に円柱(尿タンパクが尿細管を鋳型にして尿細管腔で凝固し、それが尿中に排泄されるもの)が見られる場合には、内科的な腎臓病があることを意味していることが認められるが、原告に見られた凝結状の血尿が右尿円柱であるかどうかを認めるに足りる証拠はない。

(3) また、いわゆる急性カナマイシン難聴の多くの例で見られる前庭機能の障害が原告にあるかどうかを認めるに足りる証拠もない。

よつて、原告の難聴がいわゆる急性カナマイシン難聴と認めるに足りる証拠はない。

(四)  以上を総合すると、原告の難聴は、多くの点において通常のカナマイシンによる難聴とは異なつていて、カナマイシンによる難聴とは考え難く、また、いわゆる急性カナマイシン難聴とも考え難いので、原告の難聴から被告によるカナマイシンの注射を推認することができず、その他本件全証拠によるも被告によるカナマイシンの注射を認めることができない。

四したがつて、その余の点について判断するまでもなく原告の本訴請求は理由がないから、これを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(伊藤博 宮﨑公男 原優)

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