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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)2143号 判決 1980年12月18日

原告 小川信次郎

右訴訟代理人弁護士 増淵實

被告 和田正勝

<ほか五名>

右六名訴訟代理人弁護士 渡邊隆

右同 櫛田泰彦

右訴訟復代理人弁護士 桜井健夫

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告和田正勝、同和田雪子は、原告に対し、別紙物件目録(六)記載の建物を収去して同目録(一)記載の土地を明渡せ。

2  被告仲野彰は、原告に対し、同目録(七)記載の建物を収去して同目録(二)記載の土地を明渡せ。

3  被告染谷和雄は、原告に対し、同目録(八)記載の建物を収去して同目録(三)記載の土地を明渡せ。

4  被告夘沢栄は、原告に対し、同目録(九)記載の建物を収去して同目録(四)記載の土地を明渡せ。

5  被告関本賀竹は、原告に対し、同目録(一〇)記載の建物を収去して同目録(五)記載の土地を明渡せ。

6  訴訟費用は被告らの負担とする。

7  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、登記簿上「千葉県八千代市勝田字仲山八四四番三」と表示される土地(以下、八四四番三の土地という。なお、後出の千葉県八千代市勝田字仲山所在の各土地については、いずれも、単に地番のみで表示する。)を所有しているが、別紙物件目録(一)ないし(五)記載の各土地(以下、総称するときは、本件係争地という。)は、いずれも右八四四番三の土地の一部であって原告の所有である。

2(一)  被告和田正勝、同和田雪子は、別紙物件目録(一)記載の土地上に同目録(六)記載の建物を所有して右土地を占有し、

(二) 被告仲野彰は、同目録(二)記載の土地上に同目録(七)記載の建物を所有して右土地を占有し、

(三) 被告染谷和雄は、同目録(三)記載の土地上に同目録(八)記載の建物を所有して右土地を占有し、

(四) 被告夘沢栄は、同目録(四)記載の土地上に同目録(九)記載の建物を所有して右土地を占有し、

(五) 被告関本賀竹は、同目録(五)記載の土地上に同目録(一〇)記載の建物を所有して右土地を占有している。

よって、原告は、被告らに対し、八四四番三の土地の所有権に基づき、請求の趣旨記載のとおり、それぞれ、被告らの所有する各建物の収去及びその占有する各土地の明渡を求める。

二  請求原因に対する被告らの認否

1  請求原因1のうち、原告が登記簿上「千葉県八千代市勝田字仲山八四四番三、山林三七二平方メートル」と表示される土地を所有していることは認めるが、その余の事実は否認する。物件目録(一)ないし(五)の各土地はいずれも旧八四四番四の土地から分筆された土地であって、原告の所有地ではない。

2  請求原因2の事実はいずれも認める。

三  抗弁

訴外高島高市は、昭和二三年七月三一日、自作農創設特別措置法により八四四番四の土地の売渡を受けた際、本件係争地が右土地に含まれるものと過失なく信じ、以後、本件係争地を占有してきたものであり、昭和三三年七月三一日の経過をもって、本件係争地を時効により取得した。

本件係争地は、右時効完成後である昭和三六年六月七日、訴外高島高市が相続によりその所有権を承継取得し、その後分筆されて一部は訴外宇野喜重から同宇野重雄、同浅井英一へと譲渡され、一部が同宇野喜三枝へと譲渡されたが、昭和四八年四月に訴外志田興産株式会社が全部を買い受けて更に分筆した。被告らはいずれも志田興産から本件係争地の一部を買い受けたものであって、被告らは、本訴において右時効を援用する。

四  抗弁に対する認否

訴外高島高市が、被告主張のとおり、八四四番四の土地の売渡を受けたことは知らない。右高島が本件係争地を占有したこと、占有するについて過失がなかったことはいずれも否認する。本件係争地は公図上八四四番三の土地の一部であることが明らかであったから、仮に同人が被告主張のとおり占有したとしても、右占有には公簿を看過した過失がある。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1のうち、原告が登記簿上、八四四番三と表示される土地を所有していること及び請求原因2の事実(本件係争地の占有関係)はいずれも当事者間に争いがない。

原告は、本件係争地は「八四四番三」の土地(登記簿上八四四番三と表示される土地を意味する。「 」をもって記す他地番の土地についても同じ。)の一部であり、原告の所有である旨主張し、被告らはこれを争い、本件係争地はもと「八四四番四」の土地の一部であって、これから分筆されたものと主張するので、右各主張の当否について判断する。

二  まずはじめに、本件係争地付近の現況についてみると、《証拠省略》によれば、本件係争地の西側は、ほぼ南北に走る公道(以下西側公道という)に接しており、本件係争地の南側は、右公道から東に向って延びている幅員四メートルの私道(以下本件私道という)に接していること、右私道の南側には訴外市原清の建物があり、私道に接して右市原宅の生け垣(ひばの垣根)があること、本件係争地の東側には、訴外有限会社青木商事が昭和四八年五月ころ取得した「八四七番二」の土地(当時の表示。現在はこれが更にいくつかに分筆され、所有者も変っている。)が本件係争地に接してあること、本件係争地の北側は、訴外浅井英一の建物がある土地(「八四四番一五」の土地)に接していること、これらの位置関係はおおよそ別紙図面のとおりであることが認められ、右認定に反する証拠はない。

三  次に、《証拠省略》を総合すると次の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

1  分筆前の「八四四番二」の土地は当初から地目山林で、もと松戸治助の所有であったが、明治三五年五月一七日斉藤初太郎がこれを買受け、昭和四年一一月一三日家督相続により斉藤勇蔵が所有権を取得し、昭和二二年三月二五日大野木和男がこれを買受け、それぞれ所有権移転登記が経由された。また分筆前の「八四四番三」の土地は当初から地目山林で、もと松戸五郎右衛門の所有であったが、明治三〇年三月四日、斉藤初太郎がこれを買受け、昭和四年一一月一三日、家督相続により斉藤勇蔵がこれを取得して、それぞれ所有権移転登記が経由された。分筆前の「八四四番四」と「八四四番五」の土地はいずれも、当初地目畑で、もと松戸浅右衛門の所有であったが、明治二一年三月三一日、松戸喜助が買受け、明治四一年九月一六日、家督相続により松戸政吉が所有権を取得し、大正六年一二月二七日同人より松戸金五郎が買受け、それぞれ所有権移転登記を経由した。以上四筆の土地の公簿面積は、いずれも分筆前は、「八四四番二」が四一六平方メートル、「八四四番三」が三八六平方メートル、「八四四番四」が六七三平方メートル、「八四四番五」が五八七平方メートルであった。

2  原告は、もと東京都荒川区に居住していたが、戦災に会い、昭和二一年九月ころ、「八四四番二」の土地を大野木和男から賃借し、ここに家屋を新築して居住するようになり、当時は市川市の玩具工場に通勤していた。当時右「八四四番二」の土地は、前記のように斉藤勇蔵の所有であったが、昭和二二年三月二五日、大野木がこれを買受け、更に同年六月一〇日、原告が買受けて、それぞれ所有権移転登記を経由した。また右「八四四番二」の北側に隣接する「八四四番三」の土地も斉藤勇蔵の所有であったが、同年三月二五日原告がこれを買受けて所有権移転登記を経由した。

3  他方、「八四四番三」の北側に隣接する「八四四番四」の土地とこれの北側に隣接する「八四四番五」の土地は、いずれも前記のように松戸金五郎所有の畑であったが、昭和二三年七月三一日自作農創設特別措置法による売渡により高島高市が所有権を取得した。

4  右高島は、戦前から松戸金五郎の小作人として「八四四番四」と「八四四番五」の土地を耕作してきたものであるが、その耕作にかかる土地は、現在被告らが占有する本件係争地をすべて含み、その南端は、本件私道のほぼ中央付近までであった。昭和二五年以前から本件私道のほぼ南側半分の位置に、幅員約一・五メートル程の農道が西側公道より東に向って延びていたが、高島は右農道までを自分の小作地として耕作し、昭和二三年七月以降は自分の所有地として耕作した。原告は、高島が耕作していた当時高島が右農道までを耕作することについて何ら異議を唱えたことはなく、原告と高島との間で右耕作地の占有をめぐる紛争が生じたことはなかった。

5  宇野喜重は、昭和三四年三月、右高島から「八四四番四」「八四四番五」の二筆の土地を買受け(当時農地のため、所有権移転には農地法による知事の許可が条件となっていた。)、仮登記を経由するとともにその引渡を受け、当時宇野の使用人であった浅井英一にその管理をさせた。右浅井は、そのころから本件係争地の北側に隣接する土地に建物を建て、本件係争地を「八四四番四」に含まれるものとして、自ら耕作したり、高島の家族に耕作を手伝って貰ったりした。

6  「八四四番四」の土地は、その後別紙分筆経過表記載のとおり順次分筆されたが(分筆後の各土地の公簿面積は同表中「現在の公簿面積」欄記載のとおりである。)、一部(「八四四番九」の土地)が昭和四二年二月に建設省によって買収されたほかは、昭和四三年中にいずれも宇野喜三枝、宇野重雄、前野三枝の三名に贈与された。右贈与後も「八四四番九」の土地を除き引き続いて浅井英一が従前と同じように管理していた。

7  昭和四二年一〇月ころ、原告所有地の西側公道について付近住民から右公道が狭くなっているのは原告が公道の一部をとり込んでいるためではないかとの苦情が八千代市に寄せられたことがあったが、原告は、その際自分の所有する「八四四番二」と「八四四番三」の二筆の土地を、土地家屋調査士であって測量士でもある土田重夫に依頼して測量した。右測量には、原告の妻、八千代市職員、付近住民が立会ったが、原告の妻は、「八四四番三」の北側境界を現在市原宅の生け垣がある地点までと指示し、この指示に従って実測したところ、「八四四番二」の土地は六五四・九二平方メートル、「八四四番三」の土地は五七〇・五八平方メートルあった。その際、土田調査士が「八四四番三」の土地の北側境界を確認するため調査したところ、市原宅の生け垣より約一メートル南側で公道寄りの地点から古い境界石が発見された。

8  昭和四五年当時、本件係争地の東側に土地を所有していた矢崎嗣延、野村武雄、新田敏則、会泉洋策、廣田梁治らは、西側公道に出る通路として、本件私道部分に従前からあった前記農道を使用していたが、原告が市原宅の生け垣より北側一メートルまでが「八四四番三」の土地であると主張していたため、同年七月二五日、右矢崎らは、原告の右主張を容認するとともに、原告と契約して、生け垣に沿った線から北側一メートルの幅の土地を通行並びに上下水道管布設の目的で使用することの承諾を得た。その際浅井英一は、「八四四番四」の土地からも原告承諾部分に接する通路部分を提供する必要があったため、同地の管理者として右契約に立会った。このようにして設置されたのが、本件係争地南側の本件私道である。

9  本件係争地は、昭和四八年三月ころ、「八四四番四」とこれから分筆された「八四四番一二」、「八四四番一六」に該当するものとして、宇野喜三枝、宇野重雄の両名から志田興産株式会社に売渡された。同社はこれを分譲販売するため分筆測量したが、その際「八四四番三」と「八四四番四」の両土地の境界確認のため原告の妻に立会って貰ったところ、同女は、市原宅の生け垣よりも南側に入った地点に土田調査士が発見した前記境界石が存在していたにもかかわらず、このときも右生け垣までが「八四四番三」であると主張したため、志田興産側もこれを了承し、右生け垣を境界として「八四四番四」の土地を実測し、右実測結果に基づいて同年三月一八日分筆が行われた(別紙分筆経過表参照)。

10  原告は、昭和四八年五月ころ、娘婿の市原清に建物を建てさせる目的で、その敷地となる土地を原告所有地から分筆したが、このときは「八四四番三」から「八四四番三二」を分筆して、これを市原の敷地部分とし、同年九月二七日同番地所在の家屋として、現存する市原宅が建てられ、保存登記がなされた(右敷地部分の地番は後記の経緯で「八四四番三五」と変更された。)。

11  志田興産はそのころ、本件係争地に五棟の建売住宅を建て、その敷地とともに売りに出し、被告らはそれぞれ同社から昭和四八年四月から同年一一月にかけてこれらの建物とその敷地を買い受け、本件係争地を占有することになった。この間、原告から志田興産や被告らに対し何の異議もなかった。

12  ところで本件係争地の東側に隣接する分筆前の「八四七番二」は、昭和四八年五月ころ、有限会社青木商事において分譲販売の目的で前所有者から買受けたが、同社は、当時本件私道から東方に延び、「八四七番一」と「八四七番二」の間を通っている通路が、登記簿上道路とされていなかったため、分筆したうえ通路部分地目を変更することとし、昭和五一年ころ、この手続を土地家屋調査士兼測量士内山一郎に依頼した。右内山は、同年一〇月、公図の写(乙第一七号証)をとったうえ現地を調査したところ、「八四七番二」の南側を通る通路は、現地の状況では「八四四番三」から分筆された「八四四番三二」の北側を通って西側公道に通じているが、公図上では「八四四番三」の北側境界線よりずっと南側にあって、むしろ同番の土地と「八四四番二」の土地との間あたりを通って西側公道に出なければならない形となっており、現況と公図との間に著しい齟齬があることを発見し、その旨を青木商事の青木宏允と原告に伝えるとともに、原告には、前記のように市原宅の敷地を「八四四番三」から分筆したのは誤りで「八四四番二」から分筆すべきものであり、本件係争地は「八四四番三」である旨進言した(そこで原告は、昭和五二年五月、内山に依頼して「八四四番三二」の分筆を錯誤により抹消したうえ、改めて市原宅敷地にあてるため「八四四番二」から「八四四番三五」を分筆した。)。ここにおいて原告は、本件係争地が「八四四番三」の土地の一部であると考えるに至り、以後原告の親戚でもある前記青木宏允を通じ、被告らに対し本件係争地の明渡を求めるようになったが、被告らが応じなかったため本訴が提起されるに至った。

四  以上の認定事実に基づき、本件係争地が「八四四番三」の土地に含まれるのか、それとも分筆前の「八四四番四」の土地に含まれるのかについて以下検討する。

1  まず前記認定した事実(就中三の4ないし11の各事実)によると、原告は、昭和二二年三月に「八四四番三」の土地を買受けてから昭和五一年一〇月に至るまでの間、本件係争地について高島高市が耕作したり、浅井英一が宇野喜重の所有地として管理したり、更に志田興産が建売住宅を建てたりするのに対し何ら異議を述べていないばかりか、かえって「八四四番三」の北側境界を市原宅の生け垣か、あるいはそれより北側一メートルの地点までであると主張し、又は主張するに等しい行動をとっていた(前記三の7ないし10の各事実)のであるから、原告自身、昭和五一年一〇月までは「八四四番三」の土地の北側は、本件私道を越えて本件係争地に至るものではないと認識していたことは明らかである。

2  前記のように、原告は昭和二二年六月大野木から「八四四番三」の土地を買受けたのであるが、当時原告はその隣地に既に建物を建てて居住していたのであり、一方本件係争地は高島高市が耕作を続けていたのであり、1に述べたところのほか、このような当時の現地の状況に鑑みるならば、「八四四番三」の土地が昭和二二年中に斎藤勇蔵から大野木へ、次いで大野木から原告へと順次売買されるに当っては、右売買の当事者はいずれも、当時農道であった本件私道の南側部分を売買の対象としたもので、本件係争地は原告が大野木から買受けた土地の範囲には含まれていなかったと推認される。右のような現地の状況にも拘らず、本件係争地をも右当事者間の売買の対象としたものとするに足る特段の事情は本件全証拠によっても認められない。

3  更に、各土地の公簿面積と実測面積の関係をみると、分筆前の「八四四番二」の公簿面積は四一六平方メートル、分筆前の「八四四番三」のそれは三八六平方メートル、分筆前の「八四四番四」のそれは六七三平方メートルであり、昭和四二年一〇月、土田重夫が原告の妻の指示により市原宅の生け垣までを分筆前の「八四四番の三」として測量したときの実測面積は、「八四四番二」が六五四・九二平方メートル、「八四四番三」が五七〇・五八平方メートルであった。また「八四四番四」の土地は前記のように昭和四二年以降に分筆され、昭和四八年三月の分筆にあたっては、市原宅の生け垣の北を「八四四番の四」として実測のうえ分筆がなされたから、右分筆後の公簿面積の合計をもって右分筆前の「八四四番四」の実測面積にほぼ等しいものとすると、その合計は九三六・六九平方メートルである。右のように市原宅の生け垣までを「八四四番三」の土地、それより以北を「八四四番四」の土地と仮定した場合、いずれの土地も公簿面積より実測面積が多くなっており、いわゆる縄延びがあるが、公簿面積に対する実測面積の割合は、「八四四番二」が約一・五七倍、「八四四番三」が約一・四八倍、「八四四番四」が約一・三九倍であって、その縄延びの割合に大差がないということができる。これに対し、市原宅の生け垣までが「八四四番二」、それより以北が「八四四番三」と仮定すると(この仮定は本訴における原告の主張にほぼ沿い、本件係争地が同地番の土地に含まれるとするものである。)、「八四四番二」の土地の実測面積は、一二二五・五〇平方メートルになる反面、「八四四番三」の土地のそれは、本件係争地の面積四四二・八二平方メートル(別紙物件目録(一)ないし(五)の土地の合計)と本件私道の面積約四〇平方メートル(幅員四メートル、奥行約一〇メートル)の合計約四八二平方メートルになり、「八四四番四」の実測面積は、前記九三六・六九平方メートルから右四八二平方メートルを控除した約四五四平方メートルということになる。これを前同様公簿面積に対する割合でみると、「八四四番二」は約二・九五倍であるのに対し、「八四四番三」は約一・二五倍、「八四四番四」は、約〇・六七倍となり、「八四四番四」は逆に公簿面積より実測面積が三割以上も少ない結果となる。このように、ほぼ同一時期に一筆の土地から分筆されたと推定される「八四四番二」、「八四四番三」、「八四四番四」の各土地の公簿面積と実測面積との間に、「八四四番二」の土地においては実測面積が公簿面積の三倍近くあるというのに、「八四四番四」の土地にあっては、かえって実測面積が公簿面積より三割以上も少くなるということは経験則に反する。したがって、市原宅の生け垣までが分筆前の「八四四番二」であるとする前提は採用できるものではない。むしろ縄延びの割合という点からみれば、市原宅の生け垣までが「八四四番三」の土地、それより以北が「八四四番四」の土地とするさきの前提の方が自然であって、妥当である。

以上1ないし3でみたところを総合すると、分筆前の「八四四番三」の土地の北側隣地との境界は、市原宅の生け垣かせいぜい本件私道の中央付近であって、本件私道の北側にある本件係争地は右「八四四番三」の土地には含まれず、むしろ、分筆前の「八四四番四」の土地の一部であると一応判断できる。

五  もっとも、前掲乙第一七号証によれば、公図上、分筆前の八四四番三の土地は分筆前の八四七番二の土地の西側に接しており、分筆前の八四四番四の土地が右八四七番二の西側において接するところは全くなく、むしろ八四七番の二の北側に位置する八四三番四六、八四三番四七の各土地の西側に接しているように描かれていることが認められるところ、本件係争地の東側には現に「八四七番二」の土地が存在することは前記認定のとおりである。したがって右公図が現地の状況を正確に反映しているものとする限り、本件係争地は分筆前の「八四四番四」には含まれず、むしろ分筆前の「八四四番三」に該当するのではないかとの疑念が生ずる(前記認定によれば原告が本訴を提起した最大の理由も、右のような公図と現況の不一致にあるものと推測するに難くない。)。そこでこの点について検討するに、「八四四番二」、「八四四番三」、「八四四番四」の各土地はいずれももと「八四四番」から分筆されたものと推測できるがそれがいつ、いかなる経緯のもとでなされたかについては、本件全証拠によっても詳らかではない。しかし前認定の登記簿の記載に照らし、遅くとも明治二一年三月ころまでには、「八四四番二」から「八四四番五」までの分筆がなされたものといえる。

ところで、右公図写(乙第一七号証)は、旧土地台帳附属地図の写であると認められるところ、同地図は明治初年に租税徴収を主目的として作成された地引絵図、字限地図を基本としているという沿革上の理由や当時の測量技術等の関係から、しばしば土地の位置、形状を明らかにする程度の不完全なものが多い。のみならず、一筆の土地が分筆される場合、公図に記入される分筆線は専ら分筆申請者の提出図面の記載に依拠するために、その分筆線が分筆の結果生じる土地と隣接地との現実の位置関係を正確に示すものとは即断できない(現に、市原宅が所在する土地の公図上の記載についてみると、当初「八四四番三」から「八四四番三二」が分筆され、そのように公図上も記載され、「八四四番三二」が右建物の敷地であるとされたが、後に「八四四番二」から分筆されてそのように公図上分筆線が書き替えられた「八四四番三五」が右建物敷地であるとされている。)。

これを本件についてみれば、明治の中葉以前に「八四四番二」ないし「八四四番四」が分筆された際分筆前の「八四七番」や「八四三番」との位置関係を充分顧慮せずに分筆線が書き入れられたと推測する余地があり、とくに四、3で検討したところの公簿面積と実測面積との関係からみれば、むしろその可能性が強いとさえいえる。そうしてみれば、本件においては、現存する公図上の分筆線の位置に専ら依拠して「八四四番三」の土地と「八四四番四」の土地の境界を判断することはできないものというべきであり、四において判断したように、本件係争地が「八四四番三」の土地に含まれないとする結果隣接地との位置関係につき公図の記載と現地の状況の間に前記のような不一致が生じるとしても、そのことは右の判断を覆すに足るものではない。他に右判断を左右するに足る証拠はない。

六  以上のとおりであるから、結局本件係争地が原告の所有であることの立証がないことに帰する。よって原告の本訴請求は理由がないから棄却することにし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大石忠生 裁判官 大橋弘 裁判官千葉隆一は職務代行を解かれたため署名押印することができない。裁判長裁判官 大石忠生)

<以下省略>

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