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東京地方裁判所 昭和52年(タ)191号 判決 1980年11月14日

原告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 吉岡寛

同 大嶋芳樹

同 曽田淳夫

同 曽田多賀

被告 甲野太郎

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 末政憲一

同 叶幸夫

同 丸尾武良

主文

一  昭和四九年七月二五日××町長に対する届出によりなされた原告及び被告甲野太郎と被告甲野一郎との間の養子縁組が無効であることを確認する。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告と被告甲野太郎(以下、「被告太郎」という。)は、大正一二年一〇月二〇日、婚姻の届出をなして夫婦となった。

2  戸籍には、原告及び被告太郎と被告甲野一郎(以下、「被告一郎」という。)とが、昭和四九年七月二五日、××町長に対し、養子縁組の届出をなした旨の記載がある。

3  しかし、右届出による縁組(以下、「本件縁組」という。)は、次の理由により無効である。

(一) 原告は、被告一郎と養子縁組をなすにつき、同意したことはない。

(二) 仮に、原告が、昭和四一年ころ、被告一郎と養子縁組をなすにつき、一旦同意したとしても、昭和四九年七月二五日の届出時には、原告は同意していない。

4  よって、原告は、本訴において、本件縁組が民法七九五条、八〇二条に基づき無効であることの確認を求める。

二  請求原因に対する認否

請求原因1、2、3(二)の各事実は認め、同3(一)の事実は否認する。同4の主張は争う。

三  被告らの主張

1  原告は、被告太郎とともに、被告一郎を養子とすることを承諾していた。

被告太郎は、昭和四〇年ころから、原告に対し、戸籍上右両名間の長女となっている春子(昭和一七年四月二一日生。被告太郎と訴外乙山春代との間の子。)に被告一郎を婿として迎えるにあたり、被告一郎を原告及び被告太郎の養子となすことをしばしば相談し、原告もこれに賛意を表した。さらに、二男春夫が□□荘に退院したのに伴い、昭和三八年三月から同四一年六月までときどき原告も□□荘に滞在したが、その際被告一郎が原告に今度甲野家の養子になりますからよろしくねと挨拶したのに対し、原告は、「それはよかったですね」と答え、その後、被告一郎と春子が、東京都目黒の原告と被告太郎間の長男夏夫方に赴き、被告一郎が原告に対し、原告の養子となり、春子と結婚することを報告した際も、原告は、「それはよかったね」と答えている。

そして、被告一郎と春子は昭和四一年三月七日付で妻の姓(甲野)を称する旨の婚姻届を了し、法律知識の不備から右届出により原告及び被告太郎と被告一郎との養子縁組届の効力をも生ずるものと誤信したまま無事に推移したが、昭和四九年右縁組届出未了の事実を指摘され、同年七月二五日その旨の縁組届出をして補完した。もっとも、右縁組届における原告の署名押印は被告太郎が代行したものであるけれども、原告に縁組意思がある以上、署名押印が代行された縁組届であっても、一旦受理されれば有効であることは明らかである。

2  仮に、原告が養子縁組を了承する意思表示をしていなかったとしても、原告は、本件縁組がなされた当時、その意思を表示することができない状態にあった。

原告は、元来遺伝性の精神分裂病であったところ、昭和一〇年ころからその病状は悪化し、病床に伏す毎日が続き、昭和一五、六年ころには、今日ならば直ちに精神病院に入院させなければならないような状態にまでなったのであり、本件縁組がなされた昭和四九年七月二五日当時も、原告は、精神障害のため、その意思を表示することができなかった。

よって、民法七九六条により、残された他の一方である被告太郎が双方の名義でした本件縁組は有効である。

3  仮に、原告に縁組意思がなく、しかも右2の主張が認められないとしても、本件縁組には、縁組意思を有した被告太郎と被告一郎との間の養子縁組に限り、有効に成立したものと認むべき特段の事情がある。

(一) 原告と被告太郎は、婚姻後、大正一三年二月二四日に長男夏夫を、大正一四年五月一五日に二男春夫をそれぞれもうけたが、原告は、元来病弱であり、しかも遺伝性の精神分裂病であって、昭和一〇年ころから、その病状が悪化し、病床に伏す毎日が続いて、家事全般を行うことができなくなった。そのため、被告太郎は、住込女中として訴外乙山春代(以下、「春代」という。)を雇い入れたが、昭和一五年ころから、同女を事実上の妻として肉体関係をもつようになり、同女との間に、昭和一七年四月二一日には春子を、昭和一九年四月一二日には夏子をそれぞれもうけた(もっとも、戸籍上は、原告の承諾を得て、いずれも原告と被告太郎との間の嫡出子としてその出生届出をした。)。従って、本件縁組がなされた昭和四九年当時、既に三〇年余の期間、原告と被告太郎との間には、実質的な夫婦関係はなかった。特に、原告は、昭和二五年ころから、治療のため、河津町の被告太郎方を離れ、原告の前記肩書住所の夏夫方に身を寄せて別居状態となった(但し、春夫が精神病院から退院して××町に戻っていた期間中は、原告も××町に戻って、春夫と起居を共にしていた。)。

また、原告は、その精神障害のため、被告太郎の妻としての、夏夫及び春夫の母親としての役割を果たすことができず、甲野家の主婦たり得なかったため、実質的に、甲野家の重大事に意見を述べるということは全くなく、甲野家の冠婚葬祭にも一切出席したことはなかった。事実、春子と被告一郎との結婚披露宴はおろか、夏夫の結婚式にすら出席したことがない。

(二) 被告一郎を甲野家の養子に迎えた経緯は次の通りである。

被告太郎は、××町において、昭和一六年七月六日□□△△△を創立し、禊の会を主宰したが、長男夏夫が同一九年九月○○医学専門学校を卒業して軍医として従事していたところ、同二〇年八月復員したため、被告太郎は社団法人×○×○(□□△△△の後身。理事長は被告太郎。)の事業に病院経営を加え、東京都目黒区の前記原告肩書住所地に土地を購入して◎◎病院を開設し、夏夫に仕事の場を提供した。被告太郎は、右社団法人×○×○の事業として◎◎病院の外、国民宿舎□□荘をも経営していたが、他方、昭和三四年五月二九日には、旅館□□荘及び浴場の経営を主たる営業目的とする□□自然公園株式会社を設立した。

ところで、被告太郎と原告との間に生れた長男夏夫は前記の通り東京の◎◎病院で医師をしており、また、二男春夫は、日本医科大学を卒業して医師の資格を取得したものの、昭和二四年以来精神分裂病を患い、今日では前記国民宿舎□□荘の売店の売子をしている有様であるため、被告太郎と春代との間の長女春子は、いずれは自分が国民宿舎□□荘及び旅館□□荘の日常業務を主宰すべき運命にあるものと考えていた。そこで、春子は、高等学校を卒業するや昭和三六年四月から同三七年三月にかけ、ホテル、旅館業の教育機関である東京YMCA国際ホテル学校に通って旅館、ホテル業を学んだが、その在学中、同級生の被告一郎(旧姓丙川)と知り合い、以後交際するようになった。被告一郎は、同三七年二月から□□荘でアルバイトとして働くようになり、同三九年二月からは▽▽温泉ホテルに二年契約で勤めホテル経営の修業を積んでいたが、昭和四〇年四月一日春代が死亡したためその法事に出席し、同年六月からは再び□□荘に勤めるようになった。右法事に春代の親族が集まったところ、その際春子の夫として被告一郎が適当だという話が出て、丁原秋夫夫妻及び丙川家の親族である○×市長月山海夫の尽力により、被告一郎の父丙川太一、母花代、祖母ハナを説得のうえ、被告一郎を甲野家の養子に迎えるにつきその了解をうることができた。そして、同四一年二月七日結婚並びに養子縁組の披露宴が行なわれたところ、長男夏夫も出席し、祝辞を述べた。

被告一郎及び春子は、昭和四一年三月七日妻(春子)の姓を称する旨の婚姻の届出をなし、夫婦となったが、右両名及び関係者は、被告一郎の姓が甲野に変ったことをもって養子縁組の届出も終了したものと考え、右両名は、以来××町で被告太郎と同居し、長女秋子及び次女冬子をもうけた。

(三) ところが、昭和四九年、夏夫と被告太郎とが、□□自然公園株式会社の経営権をめぐって衝突したところ、当初その間に立って両者の意見調整をしていた弁護士井上恵文が戸籍謄本をみて、未だ被告一郎と被告太郎及び原告との間の養子縁組の届出が了えていないことを知り、これを指摘したため、被告らは、同年七月二五日その届出を了えたものである。

(四) 原告が本訴を提起したのは、夏夫が被告太郎の財産を独占しようと企て、原告を唆したためである。

前記の通り、原告及び夏夫は、本件縁組に当初は賛成しており、しかもその後、何ら被告らに対し異議を唱えていなかったにもかかわらず、形式的不備にこじつけて被告一郎を推定相続人たる地位から排除し、被告太郎の財産を独占せんと図り、本訴を提起したものである。

四  被告らの主張に対する原告の認否及び反論

1  被告らの主張1は争う。

原告は、昭和四一年四月以降、××町に赴き、被告太郎と同居したことがあるものの、それ以前は、春代存命中はもとより、春代が死亡した昭和四〇年四月以後も被告太郎がまもなく月海星子なる女性と特別な関係になったことなどから、東京の夏夫方に身を寄せていた。従って、××町において、原告が、養子縁組の承諾をしたという被告らの主張は、成り立ち得ない。また、原告は、被告一郎と春子との結婚については賛成したが、被告一郎を被告太郎と原告の養子にするという話は聞いたことがなく、承諾もしていない。

2  同2は争う。原告は当時も今も養子縁組をするかしないか自ら判断して意思表示する能力を十分に有している。

3  同3は争う。本件縁組には、例外的に被告太郎と同一郎との間のみ有効とすべき特段の事情は存在しない。

(一) 原告と被告太郎との婚姻生活は破綻していない。

右両名は、別居していたけれども、互いに夫婦であると意識して日常生活を送っており、両名の年齢を考えると、こうした婚姻関係も不自然とはいえない。

(二) 被告一郎は、本件縁組がなされた当時すでに三二歳に達しており、その養育の必要性は存せず、養子の福祉という観点からの配慮は不要である。むしろ、被告一郎は、夏夫との財産争いを自己に有利に導くために本件縁組届をなした。すなわち、昭和四八年ころから被告太郎と夏夫との間で、夏夫名義になっている土地、夏夫の株式(□□自然公園株式会社)等をめぐって争いが惹起したところ、被告一郎は被告太郎に対し全面的に協力し、夏夫に対する対抗手段として本件縁組届をなしたものである。そして、これ以後甲野一族の紛争は拡大し、他に例をみないような訴訟合戦にまで発展しており、本件縁組が原告及び被告太郎の家庭の平和を甚しく害する結果を招いており、今後新たに紛争が惹起し、拡大していくおそれも存する。

(三) 原告は、本件縁組の届出がなされたことを知るや直ちに異議を述べ、自らとの間はもとより、被告太郎との間に親子関係が成立することについても反対の意思を表明している。

第三証拠《省略》

理由

一  《証拠省略》によれば、請求原因1、2の各事実が認められる。

そして、《証拠省略》によると、原告は春子と被告一郎との婚姻については了承したが(原告が被告ら主張のごとく「よかったですね」と述べたのは、右婚姻についての賛意を示すものである。)、昭和四九年七月二五日付でされた本件縁組届出についてはもとより、昭和四一年三月の前記婚姻当時ないしはそれ以後において、原告が被告一郎との養子縁組につき同意をした事実はないことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

二  次に、本件縁組のなされた当時、原告がその意思を表明することができない程度の病状にあったものと認むべき証拠はない。よって、被告らの民法七九六条の主張は理由がない。

三  ところで、民法七九五条本文によれば、配偶者のある者は、その配偶者とともにするのでなければ、養子縁組をすることができず、夫婦が共同で縁組をする旨の届出がなされたにもかかわらず、その一方に縁組をする意思がなかった場合には、原則として縁組意思のある他方についても右縁組は無効と解されるところ、同条の趣旨に鑑みると、夫婦の一方の意思に基づかない縁組の届出がなされた場合でも、その他方と相手方との間に単独でも親子関係を成立させる意思があり、かつ、そのような単独の親子関係を成立させることが、一方の配偶者の意思にも反せず、その利益を害するものでなく、養親の家庭の平和を乱さず、養子の福祉をも害するおそれがないなどの特段の事情が存する場合には、縁組意思を欠く一方の配偶者と相手方との間の縁組のみが無効となり、縁組意思を有する他方の配偶者と相手方との間の縁組は単独で有効に成立しうるものと解するのが相当である(最高裁昭和四八年四月一二日第一小法廷判決民集二七巻三号五〇〇頁参照)。そこで、右特段の事情の有無につき判断する。

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

1  被告太郎と原告は、大正一二年一〇月二〇日、婚姻の届出をなして夫婦となり、その間に、大正一三年二月二四日長男夏夫を、大正一四年五月一五日二男春夫をそれぞれもうけたが、昭和一〇年ころから原告の精神状態に異常がみられるようになったところ、被告太郎は、住込女中として雇用していた春代(通称甲野春枝)と、昭和一五年ころから情交関係を結ぶに至り、同女との間に昭和一七年四月二一日春子を、昭和一九年四月一二日夏子をそれぞれもうけた(なお、子どもたちの幸せを慮り、春子及び夏子は、それぞれ、原告との長女、二女として戸籍上届け出た)。そして、原告の発病後今日に至るまで、被告太郎と原告との間には夫婦の性的交渉が全くないばかりか、昭和二五年ころからは、原告は、原告の前記肩書住所地の◎◎病院に医師として勤務している長男夏夫の許に身を寄せ、時折××町に二男春夫を訪ねる外は、被告太郎と別居生活を送っている。他方、被告太郎も、春代を事実上甲野家の主婦として扱い、通称甲野春枝と呼び同居生活を営み、原告の病状が軽快するに至っても、甲野家の重大事に関し、原告に相談したり、意見を求めたりすることは全くなかった。昭和四〇年四月一日に春代が死亡した後もまもなく、被告太郎は月海星子と男女関係を結び、原告との和合に努めるところがなく、原告の意思は無視され、被告一郎を春子の婿に迎える際にも、また本件縁組届をなすについても、被告太郎は原告に同意を求めようとすらしなかった。

2  被告太郎は、これより先、昭和一六年七月六日、××町において□□△△△を創立して禊の会を主宰し、昭和二三年には改組して社団法人×○×○として自ら理事長となり、右町内に国民宿舎□□荘を、東京都目黒区内の前記原告肩書住所地に◎◎病院をそれぞれ経営した外、昭和三四年五月二九日には□□自然公園株式会社を設立し、右町内で旅館□□荘を経営するに至った。ところで、被告太郎には、前記の通り、長男夏夫、二男春夫、長女春子及び二女夏子という四人の子があったが、長男夏夫は、昭和一九年九月に○○医学専門学校を卒業し、軍医として従事した経歴も有する医者であるため、被告太郎は、同人を前記◎◎病院に勤務させ、次第に同病院の経営を事実上委ねるようになり、また二男春夫は、昭和二四年以来精神分裂病を患い、入退院を繰り返す状態であったため、事業を委せるにはたりなかった。そのため、被告太郎は、昭和四一年二月七日披露宴を催して、長女春子に婿丙川一郎(被告一郎)を迎え、同人を自分の養子とし、将来旅館部門の事実上の経営を長女春子夫婦に任せていく旨意図したが、前記の通り、この点に関し、何ら原告に相談するところがなかった。被告一郎と春子は、同年三月七日妻の氏を称する婚姻の届出をなして夫婦となったが、法的素養を欠いていたため、被告一郎の姓が丙川から甲野に変わったことをもって、同人と原告及び被告太郎との間に養親子関係が発生するものと誤信し、養子縁組の届出手続を怠った。

3  被告一郎は、春子との婚姻後、まもなく、事業の経営方針等をめぐって被告太郎と意見が対立し、一時春子を伴って○□温泉の××という旅館に勤務したこともあったが、一年ほどで被告太郎の許に戻り、再び旅館業を手伝うようになった。そして、その後、被告太郎が××町長に立候補するにあたり、その選挙資金の捻出方をめぐって、被告太郎と長男夏夫が衝突し、その対立が深まる中で、昭和四七年八月一日、被告一郎は、初めて□□自然公園株式会社の株式一〇〇〇株を新株発行により取得し、その立場を強化していった。昭和四九年になると、被告太郎と長男夏夫は財産関係をめぐって紛争を繰り返していたが、その折、法的には被告一郎と被告太郎及び原告との間に養子縁組が成立していないことを知った被告らは、原告に何ら相談することなく、同女の署名押印は被告太郎が勝手にこれを代行し、本件縁組届をなした。本件縁組が原告に無断でなされたことを知った原告及び長男夏夫は、強く被告らに対し抗議し、その解消を求めたが被告らが容易にこれに応じないため、この点も財産関係の問題と併行して交渉し、昭和五〇年四月二五日には、被告太郎は夏夫との間で、原告と被告一郎との間の養子縁組の解消を約束したが、右約束は現在に至るまで履行されていない。

4  その後、被告一郎は、昭和五〇年六月九日、真正な登記名義の回復という形式で、□□自然公園株式会社名義の山林(一八一四平方メートル)の贈与を受け、また、同月一九日には右会社の取締役に就任するなど着実に、その地位を強化する一方、同月、被告太郎は長男夏夫を脱税の疑いで刑事告訴するとともに、そのころ、長男夏夫に対し推定相続人廃除の申立をし、他方、原告は、被告一郎を、同年一一月一七日本件縁組の届書を偽造した疑いで刑事告訴したのをはじめ、右会社の役員の職務執行停止及び代行者選任の仮処分を申し立てるなど、両者の確執が激化し被告らと原告及び長男夏夫との間には二〇件にも及ぶ訴訟事件が係属するに至っている。

以上の通り認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定の事実によれば、被告太郎と原告との間の婚姻関係は形骸化しているものと言わざるを得ないが、原告は被告一郎との養子縁組に対しその届出がなされていることを知った後明確に反対の意思を表明しており、また、被告一郎が被告太郎の養子となり推定相続人たる地位を得ても、原告の推定相続人たる地位、特にその推定相続分率に何ら影響が及ばないものの、原告が母親として又は生活共同体として強い一体感を有する長男夏夫に対し実質的な不利益が及ぶことも無視し得ないものであるのみならず、本件縁組が、被告太郎と長男夏夫との間の衝突を惹き起し、その抗争激化の原因になっていることをも斟酌すると、到底、被告太郎との間についてのみ本件縁組を有効と認めるべき特段の事情が存在するものとは解し難いものと言わざるを得ない。

四  以上によれば、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 牧山市治 裁判官 古川行男 池田光宏)

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