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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)1900号 判決 1977年6月27日

被告 東京信用金庫

理由

一(当事者の略称及び書証の成立)

1  第一九〇〇号事件原告・第九五三二号事件被告の金昌源こと森田政儀(ちなみに、本件書証文書上の署名も印影もすべて「森田政義」であり、「政儀」とあるのは、本件訴状、訴訟委任状等最近作成された文書に限ることを付記しておく。)を以下単に「森田」と、第一九〇〇号事件被告・第九五二三号事件原告の米原五郎を以下単に「米原」と、表示する。なお被告金庫については、同金庫淀橋支店と一々断らないことがある。

2(省略)

3  書証文書の作成については以上省略述したところに尽きるので、以下では、特に問題の文書の作成について言及するのは格別、成立に関して一々判示することは省略する。

二(年次的に見た三当事者の関係)

1  森田は本名を金昌源という韓国人で不動産取引や金融を事業としており、昭和三六年頃、米原の娘との縁談があつたことから、米原と親しくなつた。また、森田は昭和三四、五年頃から取引銀行の一つとして被告金庫の淀橋支店を利用し、手形貸付を受けたりしていたが、当時の支店長は若山正之であつた。〔米原証言、若山証言、森田供述、甲第八号証各証〕

2  米原は当時品川区小山三丁目一一一番ノ二の宅地及び右地上の建物(本件不動産)を所有していた。右建物は武蔵小山の商店街に近いアパートで、その家賃が米原家の収入であつたが、三〇世帯に上る入居者との交渉が既に七十歳を超えていた米原には荷が重かつたので、その処分を考えていた。森田は相談を受けて自分が買い受けると申し出、代金額の交渉に入つた。当時、米原の息子で既に独立して大阪に勤めていた年治は本件不動産の処分に反対したが、米原・森田間では昭和三七年三月一五日代金一〇一〇万円で売買されることに合意が成立し、同日付で不動産売買契約書(乙第四号証)が作成され、同日(森田供述による。米原証言が四月一五日というのは採用しない。)内金一一〇万円が授受され、更に四月二一日登記手続と引換に六〇〇万円が授受された。米原年治は残額未払のまま登記に及んだことに危惧を感じ、父に代つて交渉して四月末頃、残三〇〇万円の支払を誓約し、また右完済まではアパート家賃の収受を米原に認める旨の書面(乙第三号証)を森田に差し入れさせた上、更に五月七日頃に、右三〇〇万円を準消費貸借に切替え、分割支払を約する書面(乙第二号証)を作成させた。そこで同年九月、米原は、右三〇〇万円は売買代金債務としては支払われたものと同視できるとして、先の六〇〇万円と合わせて、代金残額九〇〇万円を領収した旨の書面(甲第三号証)を森田に交付した。〔掲記の書証のほか、米原証言。〕(本件不動産買受の事実自体は森田・米原間では争いがない。)―右認定事実に関し、森田本人の供述するところは著しく異なり、代金は実は八〇〇万円であつて、乙第四号証の一〇一〇万円とか乙第二、第三号証の三〇〇万円とかは、訴外星野忠雄が共同買受人になる場合には更に代金額を増すことも可能だつたので、好意的に上乗せした額を記したものであり、甲第三号証の九〇〇万円は一旦貰つた領収書をなくしたので改めて書いて貰う時に経費の税申告の便宜上九〇〇万円としたものである、というのであるが、事実欄に摘示した森田の主張と齟齬していること、星野忠雄云々は森田供述以外に裏付けとなる文書のないところであること、また甲第三号証の九〇〇万円の説明も「残額」と明記されているのに反することなどに徴してほとんど心証を惹かず、米原証言が伝聞に属する供述を多く含みながらも書証文書の説明において一貫し合理的であるのに及ばない。

3  さて森田は、昭和三七年四月二一日被告金庫から一二〇〇万円を借り、米原への前記六〇〇万円はその中から支払つた。被告金庫に対しては中野区相生町の土地建物及び本件不動産を担保として差し入れるほか、当時森田の有した数口の定期預金・定期積金が引当となつていた。《証拠》

4  米原は、被告金庫に預金してやつて欲しいと森田に頼まれて、昭和三七年四月二一日、同人から同日支払を受けた六〇〇万円に手持の一〇〇万円を加えた七〇〇万円を、五〇〇万円(A一三)、二〇〇万円(A一九〇九)の二口に分け、期間は各六箇月として定期預金をしたが、当座の入費にあてる必要から、同年五月九日右預金を担保にして五〇万円を借り受けて別に普通預金口座を作つた。従つて、米原の定期預金による担保力は合計六五〇万円になつたわけである。〔米原証言、丙第一号証、丙第一〇、一一号証〕(預金の点は被告金庫、米原間では争いがない)

5  米原は森田に頼まれて、昭和三七年五月二六日、森田を保証人とし、前記定期預金を担保に六五〇万円の手形貸付を受け、森田の自家用車で往復して、都下福生町の武陽信金(現在は西武信用金庫)に預金し、三箇月後の八月二九日、同じく森田の車で送迎されて同信金の預金を解約し、払い戻された金を即日被告金庫に持参して先の手形貸付にかかる債務を弁済した。これは森田が武陽信金の並木専務から預金額増大のため協力を頼まれたことから米原を利用したのであつたが、森田はこれに対して米原に三、四十万円の謝礼をしたので、米原側はむしろ森田を徳とした。《証拠》

6  同年九月初め、米原は再び森田から頼まれて、定期預金を担保に手形貸付を受けることにし、同月三日被告金庫に本件手形(甲第二号証=丙五号証)を差し入れて預金小切手(丙六号証の二)を受け取り、武陽信金に振り込んで普通預金として預け入れたが、この度は僅か数日で森田から連絡を受け、前同様武陽信金から払戻しを受けて被告金庫からの手形貸付債務を弁済することになり、九月八日、森田の車で武陽信金に赴き、解約し、同信金から六五〇万円の預金小切手(乙第七号証の一)を受領し、右の車で送られて帰京した。《証拠》

7  誰が持参したかはここでは措くとして、同日中、即ち、九月八日、被告金庫に本件預手が振り込まれたが、どういうわけか裏面(乙第七号証の二)には「森田政義」と記載され、同月一〇日付の入金伝票(丙第七号証の二)の処理も森田名義の定期預金取立分としての別段預金とされ、同月一二日付の森田名義での定期預金申込書(丙第九号証の二)に見合つて、同日付で森田名義の定期預金(A二三九八)(以下「本件定期預金」という。)に振り替えられた。〔上掲書証のほか、丙第八号証の二〕

8  ところで先の一二〇〇万円借受の後、森田は更に被告金庫から一七〇〇万円を借り受けようとしたが、事前の被告金庫との折衝の段階で、前記中野の不動産と本件不動産とを担保に入れ、また借入金中三〇〇万円はいわゆる歩積みの定期預金としても、なお担保が不足することを支店長若山から指摘されていた。そこで森田は米原の定期預金を担保に提供して貰う旨を答え、米原に頼んでその承諾を得、本件担保提供の約定が成立した。そして同月二七日、森田は若山同席のところで、六五〇万円の定期預金を借用する旨の誓約書(乙第一号証)を作成して米原に交付し、被告金庫には抵当権設定金員借用証書(丙第一八号証)を差し入れて、同月二九日一七〇〇万円を借り受けた。《証拠》(担保提供の事実は森田・米原間では争いがない。)―森田供述及び米原証言によると、米原の定期預金を担保に提供して貰うように若山が積極的に示唆したというのであるが、虚構と断ずるわけにはゆかぬとしても、必ずしも心証を惹かない。後節認定のような森田の行動からは、むしろ森田がこれを考え付き、若山に話したものと考えるのが自然である。他方、若山は、両者間の約定についても乙第一号証の作成についても全く関与せず、単に米原に森田から領収書を貰つておくよう示唆したのみである旨供述しているが、後判示のように、六五〇万円の定期預金が森田名義で作成される経過につき若山が無関係とは考えられない以上、右供述も措信できない。また、米原証人は同号証を同人の姉の筆跡と供述しているが、確信ある供述ではないし、同女の筆跡という乙第四号証と同じ字体とも認められないので、採用できない。

9  昭和三七年一〇月二二日、米原の前記二口の定期預金(A一三、A一九〇九)が満期となつたが、前記4の五〇万円の内貸しを受けた分の弁済に二〇〇万円の解約分から充当し、結局、五〇〇万円(B二〇)、一五〇万円(B五二九)、期間各六箇月の二口の定期預金に書き換えられた。《証拠》(右書換の事実は三当事者間に争いがない。)

10  この頃から、即ち昭和三七年一〇月一六日の一〇万円を第一回として別紙第一表記載の通り総計五八回総額六七一万円余に達する森田から米原への支払が始まる。(この事実は、森田・米原間では争いがない。)

11  ところで、本件定期預金(A二三九八)は、昭和三八年九月一一日が期日となつていたが、同年一二月一六日満期で払い戻され、但し即日森田の一二〇〇万円の証書貸付口に四五〇万円、一七〇〇万円の証書貸付口に二〇〇万円各弁済充当のため振替決済された。その結果、森田の一二〇〇万円の債務は同日全額返済となつた。同じく一七〇〇万円の方は、同日前記8の歩積み定期預金(A二四三三)の満期支払分三〇〇万円をも弁済したがなお元本債務一〇八〇万円を残し、その後本件土地の一部を品川区に売却して得た約一〇〇〇万円中からの三〇〇万円の弁済等を経由して昭和四〇年七月当時元本三二一万円及び相当損害金債務が存する計算となつた。〔森田供述、甲第一五号各証、丙第一四号各証、丙第一六、第一七号証〕―ちなみに、森田が丙第一六、第一七号証即ち被告金庫の証書貸付元帳の記載の正確性を争う意味で提出したことが森田供述から判明する甲第九・第一〇号各証のうち、甲第九号証の一は、丙第一七号証の昭和三八年三月二五日の元利支払分と省略一致し、同号証の二も同じく昭和三九年五月二〇日の元本支払の記載と一致し、同号証の三も同じく昭和三九年五月二九日の利息計算の記載と省略一致する。甲第一〇号証の一・二は、昭和三八年一二月一二日の五〇万円、同年九月三〇日の二〇万円にそのまま対応する記載は甲第一六、第一七号証中に見出し難いけれども、いずれも利息分と付記された仮領収証であり、丙第一六、第一七号証の利息計算の記載にはその前後のものがある以上、直ちに不正確を云々するのは早計であるし、また甲第一〇号証の三は、「証書貸付金内入と昭和三九年三月三一日までの利息分」との付記ある昭和三九年三月二六日付の三〇〇万円の仮領収書であつて、預手云々の記載はその内訳を示すものと考えられるところ、丙第一七号証の昭和三九年三月二六日の元利支払分は省略三〇〇万円であるので、むしろ正確性を示すものと評価される。

12  被告金庫の淀橋支店の支店長若山は昭和三九年一月から浅草支店に転勤し、同年一二月三一日被告金庫を退職して、系列会社である東信企業株式会社に就職した。〔若山証言、若松証言〕

13  昭和三九年七月一三日、被告金庫は、米原に対し、前記9の二口の定期預金債務(B二〇、B五二九)をその満期の日、即ち本件手形による米原への貸付金債務と相殺適状になつた昭和三八年四月二二日、に遡らせて相殺する旨の意思表示をした。〔甲第一号証、丙第五号証裏、丙第一五号の二、三の各裏〕(右相殺については三当事者間に争いがない。)

14  米原方では右意思表示を受けて驚愕し、被告金庫や森田に交渉したが、要領を得ないうち、森田は被告金庫に対して、中野区の不動産に対する抵当権登記抹消の訴を起し、一二〇〇万円及び一七〇〇万円の債務は既に消滅している旨主張したが、その中には一七〇〇万円の借受けに際し米原から五〇〇万円及び一五〇万円の定期預金債権を譲り受けたことを前提として、これを自働債権として相殺する旨の主張が含まれていた。米原方では右訴訟の成行きを注目したが、裁判所は、一二〇〇万円の債務の消滅のみ認め、一七〇〇万円の債務については消滅を認めなかつた。〔米原証言・甲第四号証〕

15  昭和四五年一二月下旬、森田は米原に対して、本件一九〇〇号事件の請求原因と同旨の理由付けによる不当利得の返還を要求した。そこで既に大阪から東京に帰任していた米原年治は父に代つて調査を始め、被告金庫本店管理課の松崎利任の協力を得て調査するうち、前記7の事実を発見するに至つた。被告金庫はその後、当初の調査協力の姿勢を消極に転じてしまつた。〔米原証言〕―松崎証人の供述中、これに反する部分は採用できない。

16  年次的に眺めた事実経過は以上のように認定される。そこで、これを前提として本件最大の争点の判断に臨むこととしよう。

三(本件預手と本件定期預金成立との関係)

1  本件の一連の事実関係中謎のまま残されているのは、前節6から7にかけての経過、すなわち米原が武陽信金から貰つて来た本件預手が森田名義の本件定期預金になつた経緯如何である。これにつき、本件三当事者の見解はそれぞれに異なるのであつて、米原は、本件九五三二号請求原因に見るように、自分が本件預手を持参して若山に手交したものが、若山と森田との共謀で森田名義の本件定期預金と化したのだというのに対し、被告金庫は、本件預手を持参したのは森田であり、米原・森田間に被告金庫の知らぬ契約があつて、森田が本件預手を自己の本件定期預金の申込に利用したに過ぎないとする。他方、森田自身は、先の森田の金庫への前訴(甲第四号証参照)における主張と同様、米原から二口合計六五〇万円の定期預金債権を譲り受け、被告金庫への一七〇〇万円の債務の担保として差し入れたと主張する反面、本件預手を当日持参したことはなく、本件定期預金の成立についても関知しない旨供述しているのである。

本件預手が被告金庫淀橋支店店頭に持参されたことは乙第七号証の一・二の体裁から明らかであるが、持参したのは米原であるか、森田であるか。

2  まず、問題の乙第七号証の二(本件預手裏面)の「森田政義」の記名は、当時の被告金庫淀橋支店定期預金係金沢多美子が手記したものであることは、同人のその旨の証言から認められるところである。米原の訴訟代理人の反対尋問では、預金を持参した当の本人による手記でないこと、名下に印影がないこと自体、正当な業務処理でないとするかの口吻が窺えるが、松崎証言によれば、その後信用金庫の業務処理について規程集が作られ昭和四二年一月四日から施行された事実が認められ、金沢証言と併せ、それ以前には持参人払小切手の裏面記載について特に内規はなかつたので、持参した者に代つてサービスとして職員が記入すること自体は別段変則なことではなく、もとより捺印させる必要はないとの取扱であつたことが認められる。

3  また、金沢の証言によれば、同人は、定期預金係として窓口から離れた後方の席にいたのであつて、直接窓口で持参人と接触する立場ではなかつたと認められる。米原証言によれば、米原は普通預金口座を持たなかつたので窓口に立つことはなく大口預金者として常に支店長室に通されたことが認められるし、森田が支店長と親しかつたことは前判示の通りである。また金沢証言によれば、客から直接にでなく、支店長から「何某名義の預金に」と指定されて他行の小切手を渡されることも普通にあつたと認められる(松崎証人はこれを否定するが、措信しない。そのこと自体は少しも異常な事態ではないと考えられる)。従つて前段の考察と合せ、三人のうちの誰でも、金沢に本件預手裏面の記載を頼みうる立場にあつたと見るべきである。

4  本件預手の裏面に、森田との記名があること自体少なくとも森田が持参したとの推測を可能にするのではないか、という問題がある。案ずるに、丙第七、第八号証の各二及び金沢証言によれば、定期預金係としての金沢が持参人払式小切手の裏面にこのような記名をする趣旨は、小切手を別段預金で取り立て決済後定期預金にするという手続的順序を踏む間のメモとして別途作成する入金伝票の名と同じ名を定期預金の予定名義人として記載するものであることが認められるので、この記載から推測されるのは、本件預手を持参した者が誰であつたかではなく、金沢に対して定期預金の名義人が誰であると連絡されたかということにとどまると言うべきであり、従つて、このことから、森田が持参したとの推測はできない。また、丙第九号証の二の森田名が本人の自筆にかかるという事実も、後に示すように、同号証は丙第八号証の二(振替収入伝票)と同日である九月一二日の作成にかかり、前記乙第七号証の二の記入が丙第七号証の二(入金伝票)の領収印に示された九月一〇日であることを参照してもせいぜい九月一〇日の森田の来店が推測されるだけであつて、九月八日の来店時に九月一二日付で丙第九号証の二を作成しておいたという推測は、そこまでするならなぜ乙第七号証の二の裏面にも自分で手記しないかという反問に答ええない点からも、無理が多いと言わざるを得ない。

5  本件預手が武陽信金から振り出され、即日被告金庫に振り込まれたのが九月八日であることは、先に(二節6、7参照)示した通りである。ところが、乙第七号証の二によれば、被告金庫から交換に持ち出されたのは九月一一日になつている。これにつき他の証拠を案じるに、丙第七号証の二(別段預金への入金伝票)は九月一〇日、同第八号証の二(別段預金から定期預金への振替収入伝票)、同第九号証の二(定期預金申込書)、同第一四号証の三(本件定期預金証書)はいずれも九月一二日の各作成日付(日付のゴム印。なお丙第七号証の二は九月一〇日付領収印もあること前判示の通り)となつている。そして、昭和三七年九月八日は暦日上、土曜日である。

以上を綜合すると、森田または米原が本件預手を被告金庫に持ち込んだのは福生の武陽信金まで往復しての帰途であつて、土曜日の店頭業務は既に締め切られており、そこで支店長若山に預けられたものが、九月一〇日の月曜日に若山から預金係金沢に渡されて別段預金に入金の扱いとなり、翌一一日に交換に廻され、決済されて、翌一二日に本件定期預金が成立したという順序になるであろう。

6  ところで、丙第九号証の二(本件定期預金申込書の裏面)には、「森田政義」の署名と捺印があり、その署名が自筆であることは森田本人が供述するところである。ただ、森田本人は、この署名がこの時点でなされたことを争い、これは、自分が一二〇〇万円の貸付を受けた時銀行に差し入れた定期預金申込書が流用されたものであろうというのであるが、この供述は措信することができない。というのは、森田と被告金庫との取引は、「森田政義」名義で行なわれたものもあつたが(例えば甲第七・八号各証参照)、問題の一二〇〇万円、一七〇〇万円の貸付はいずれも「金昌源」名義で行われたことが丙一六・一七号証(証書貸付元帳)の記載から明らかであるからである。丙第一四号証の二は、一七〇〇万円の貸付の際の歩積みである三〇〇万円の定期預金証書であるが、その名義は「金昌源」であり、裏面の利息受領の記名も捺印も「金昌源」名義である。森田本人はこの証書を知らないと供述し、それは、いわゆる歩積みの定期預金証書であるため、裏面に捺印だけさせて直ちに被告金庫側の保管に付されたことを物語ると言つてよく、裏面の「金昌源」の記名は、丙第一四号証の三(本件定期預金証書)丙第一五号証の三(米原の一五〇万円の定期預金証書)の裏面の「森田政義」「米原五郎」の記名と一見して同じ筆跡で、決して森田自身の筆跡ではないと認められるが、それに捺印されている印影が「金昌源」であることからは、当時森田が被告金庫に印鑑を預け放しにしていたという、その供述が仮に事実であつたとしても、それは「金昌源」の印鑑について言えることに過ぎないと言うべきである。確かに以前に「森田政義」名義の取引はあつたのであり、森田の供述するところに従えば、本件定期預金申込書(丙第九号証の二)や本件定期預金証書(丙第一四号証の二)の「森田政義」の印影は被告金庫に預け放しになつていた森田名義の印鑑によつて捺出されたことになるのであるが、それでは、乙第一号証(二節8参照)、同第三、第四号証(二節2参照)に押捺されている森田政義名下の印影につき、これらは一見して丙第九号証の二や第一四号証の二のそれと同一印鑑によつて捺出されたと認められるものであるが、その成立を森田として認めていることをどう説明するのであろうか。これらの文書は被告金庫に預けた印鑑では作成できないのであるから、その作成に争いないことから推しても、前記認定事実からも、この森田名の印鑑は当時森田が所持携帯していたものと見るべきであり、従つて丙第九号証の二や丙第一四号証の二の印影は森田が自らその印鑑を押捺して作出したと見るほかない。このことと前示した丙第九号証の二の森田政義名義の自署の事実とを加えれば、本件定期預金申込書は、当時森田自身の意図によつて作成したものとの心証を形成するに十分である。

右の認定を前段までの認定と合せると、九月一〇日若山から金沢に本件預手が渡された時から遅くとも九月一二日までの間に、森田が来店して本件定期預金申込書を作成し、本件定期預金証書裏面に捺印したと認めることができる。

7  以上の森田の行動に関する認定事実は、本件預金証書成立に関して森田が積極的に関与していたことを物語るものと言える。要するに森田は、米原が本件預手を若山に託したこと(後述)を知つてこれを自己のものにしようと企て、本件預手は森田名義の定期預金としておくことに米原と話がついたというように被告金庫を欺いたとしか考えられないのである。もつとも、森田が被告金庫に対する前訴においても本件一九〇〇号請求原因においても、本件定期預金の成立を全く無視して、全く別個に米原からの六五〇万円の定期預金借用を語つている事実は、以上の認定に対する反証的な効果を有するものであるが、前記心証を覆すには至らない。

8  さて、以上認定のような森田の行動は、もとより米原の主張に即するものであるが、被告金庫の主張とも反するところはない。そしてもし、九月八日に本件預手を持参したのが森田であり、森田が、米原との担保提供の約定によつて本件預手を自己名義の定期預金とする旨若山に話していたものとすれば、すべて被告金庫の主張する通りとなるのであり、また、仮に米原が持参したとしても、森田名義の定期預金とする旨同人が指示したとすれば、やはり被告金庫としては問題とされる余地はないことになろう。

しかしながら、先に第二節で見た一連の経過からは、そのいずれの推論も難かしい。というのは、米原は確かに当時森田に言われるとおり金を動かしていた一面はあるが、米原証言からも認められるように、それは単なる好意というより、当時本件不動産売買代金三〇〇万円の回収のためにも森田の意に添うて動く必要があるという気持からであつたと認められるからである。米原としては、森田を、決して人間的に信用していたわけではないと考えられ、到底、取引上現金と同視される銀行振出の預金小切手を渡して被告金庫への預け入れを頼んでしまうというような信頼関係にはなかつたと認められるので、森田自身が持参したと認めることはできない。そこで、米原が持参したと見るほかないが、本件相殺(二節13参照)を受けて米原一家が驚愕した(同14参照)ということがその後の米原側の行動その他弁論の全趣旨に徴して疑いえない以上、米原が若山に依頼したのは本件手形金の決済であつたと断ずるほかない。それに、もし森田名義の本件定期預金を依頼したのなら、本件手形が決済されずに残るのであるから、自己名義の定期預金の消滅を当時覚悟していたことにもなるが、前示のような両者間の関係からも、米原がそのような気持になるとは考えられない。このことの前後を通じ、米原が承諾したのはあくまでも自己名義の定期預金を森田の債務の担保に提供するというに過ぎなかつたと認められるのである。

9  このように、本件預手は九月八日に米原が本件手形の決済のために若山に預けたものと認められるのであるが、そうすると、同月一〇日に至りそれが金沢に森田政義名義の定期預金の引当として渡されたことは、何らかの不明朗な一段階がその間に存したことを推測させる。もつとも、本件預手の金員が森田の定期預金になろうが、米原のそれになろうが、被告金庫としては別段の利害得失はないわけであるし、森田が得をしたことは明らかであるが、若山が何らかの財産上の利益の分前に預つたなどという証拠は何もないのであるから、共謀云々といつた認定に軽々に走ることは許されない。

しかし、その後作成されたものではあるが、乙第一号証について若山証人が、その作成を関知せずとしながらも、森田・米原間にその種の文書を作成しておく必要を感じてその旨示唆したことを供述していることは無視できない事実である。前節8認定のように森田は若山に対して米原からの担保提供の約定あることを話していたと考えられるのであるが、森田とは従前から親しく、森田・米原間の交際については皮相的にしか知らぬながら、第一回の武陽信金への預金移転からも米原が森田に対して担保提供を辞さぬ程好意的な関係にあると信じていたに相違ない若山としては、後日米原から事後承諾の手続を徴すれば足りるとして、森田のいう通りに森田名義の定期預金を金沢に指示してしまつた、というような経過も十分に考えられるのであり、そして少なくともこのような一過程を挿まずには本件一連の経過を腑に落ちるように説明しえない以上、従前認定の諸事実から右の一過程すなわち右のような若山の心事行動を推認してよいであろう。

10  このように若山が権利者である米原に問合せをしなかつたことは金融機関である信用金庫の職員に期待される当然の注意義務に違反した軽卒な行為で、過失があつたと言うべきであるが、それが更に九月二七日の乙第一号証の作成の示唆にも結びつくこととなる。若山がどの程度この作成に関与したかは明白にはしえないが、少なくともある程度関与していたに違いないことは、次のことからも言える。即ち、米原の立場からすれば、自己の定期預金の森田の債務に対する担保差入証が作成されなくてはならぬのに、それがないままで、乙第一号証を森田から差し入れさせて安心していたらしいのは不審というほかないのであるが、右の若山の関与を想定すれば、この作成について支店長若山から勧められ、若山がある程度関与していたからこそその安心が生れたと見うるからである。若山は、遅くともこの乙第一号証作成の段階で、米原が承諾したのは自己名義の定期預金の担保提供であり、定期預金の名義そのものを森田に変更することではなかつたことを察知した筈であるが、直ちに事情を明らかにしえないまま日を送つてしまつたのではあるまいか。結果的にはそれが米原に対する真相の隠蔽ととなり、同人を長く錯覚させたままにおくことになつたのである。

11  本件の事実経過で、本件手形と米原名義の定期預金との相殺が非常に遅くなつているのは銀行取引としては異常であるように思われる。手形貸付の際の単名手形(丙第五号証)の満期は昭和三七年一〇月二日であり、引当となつた当初の二口の定期預金の満期は同年一〇月二一日であつたので、米原が手形決済のため持ち込んだ本件預手が別に使われてしまつた以上、昭和三七年一〇月二一日には相殺適状が生じていたのであるにもかかわらず被告金庫は、手形債権はそのままにして、二口の定期預金の書替を認めたが、その満期は昭和三八年四月二二日であつて、以後再び相殺適状を生じたまま放置した。そして、実に当初から二年近く経過し、支店長が交替した昭和三九年七月一三日に至つて初めて相殺の意思表示をした。松崎証人は、支店としては預金額を減らさないためこの位相殺を遅らせることはなんら異常でないと供述しているが、心証を惹くに至らない。相殺の遅れが余りにも長年月だからである。むしろ、前段に見たような経緯から、相殺をしえないまま日時を経過し、交替した支店長が帳簿上の処理をしたというように考える方が納得がゆくのである。

12  本節冒頭に提示した謎に関し、当裁判所が証拠の存する限度で解明しえたと信じるのは以上のような経過である。そこで前節及び本節の認定に基づいて、本件請求原因の当否について次節以下で判断することとしよう。

四(森田の請求について)

1  森田は、米原に対する六七一万円余の金員の交付につき、まず貸金と主張しているが、これを認めるべき証拠は何もない。むしろ、当時森田の方が三〇〇万円の貸金債務を負つていたのであり(二節2、乙第二号証参照)、この金員が三〇〇万円の割賦弁済なのか、六五〇万円の担保提供の見返りなのかという問題はあつても(米原証言)、逆に米原が森田から借りた金があつたとは到底認められない。

2  そこで、森田は予備的請求として、これらの金員交付は自己が被告金庫から一七〇〇万円の融資を受ける際、米原から定期預金六五〇万円を担保に提供されることを前提としていたものであるところ、被告金庫が米原に対して相殺を行ない(二節13参照)、米原の定期預金債権が消滅してしまつて、担保として存在しなくなつた以上、交付した金員は米原の不当利得に化したと主張するのである。

3  しかしながら、この主張は、先に見たように(二節11参照)本件定期預金が森田の一二〇〇万円及び一七〇〇万円の弁済に充てられたという事実を看過しているか、あるいは、気付きながらその意義を曲解しているもののように思われる。森田の主張するところの米原からの定期預金借用が行き過ぎた形で実現したのが森田名義の本件定期預金なのである。森田はこの本件定期預金を本来自己に帰属するものだとは言つていないのである。ところが被告金庫の方では、森田名義である故に、それを森田の債務の弁済に充当したのである。従つて森田の言分通りとすれば森田こそそこで不当利得しているわけなのであつて、少なくとも、自己の債務の担保として米原から六五〇万円の定期預金の提供を受けるという森田の意図は十二分に実現されたわけである。被告金庫が米原の名義で残つていた二口合計六五〇万円の定期預金と相殺した本件手形債権が残つていたのは、その決済のための本件預手が、手形の決済でなく、本件定期預金を成立させるのに使われたためなのであるから、残つていた米原名義の定期預金はもはや森田の債務の担保ではなく、本件定期預金こそが担保になつていたと見なければならず、その意味で、森田の金員支払は結局法律上の原因を欠くこととはならなかつたと言うべきである。

4  以上の説示の通りであつて、森田の主位的請求は証拠がないし、予備的請求はその前提を欠くことになり、いずれにしても理由のないこと明らかである。

五(米原の被告金庫及び森田に対する請求について)

1  他方、米原は、本件預手が本件定期預金になつた経緯を森田と被告金庫の被用者としての若山との共謀による不法行為であるとし、このことがなければ米原名義の二口の定期預金は相殺されずに残つていた筈であるとし、このことを前提として定期預金の現在元利合計額を損害と主張するのである。そして、共謀は認められないにせよ、右の経過には少なくとも森田の故意と若山の過失とが関与していることは前節に詳しく判示した通りであるし、若山が被告金庫の被用者であることは三当事者間に争いがないのであるから、被告金庫及び森田はそれぞれ右の経過に因つて米原に生じた損害を支払うべき責任がある。

2  しかしながら、米原名義の二口の定期預金の元利合計額を損害と主張するのは、先の事実経過からすると、これまた米原側の独りよがりとの観を免れない。けだし米原は森田との間で定期預金六五〇万円を森田の被告金庫に対する債務の担保に提供することを承諾していたのであり(二節8、乙第一号証参照)、それを前提としてこそ(その外に売買代金を準消費貸借とした三〇〇万円のなしくずしの支払という部分も存するにせよ)六七一万円余を森田から長年月にわたつて受領しえたのである。現実には、米原名義の定期預金が担保に差し入れられるという本来の経過が辿られず、森田名義の本件定期預金が成立してしまつたため、米原としては、自己の定期預金が森田の債務の引当になる筈であつたという経緯が看過されて、とうに落ちた筈の手形貸付の際の約束手形のため相殺されるに至つた結果を不本意に感ずるのも無理ないが、仮にあるべき経過を辿つて自己名義の定期預金が森田の債務の担保に差し入れられたものとしても、森田の債務の支払が滞つて本件定期預金がその弁済に充当されたのと同じ経過で、やはり森田の債務の弁済にあてられてしまつたに違いないのである。従つて、それが元利残存することを前提として損害を云々する米原の主張は採用し難い。

3  ただ、いずれにしても定期預金は失われたであろうにせよ、事態が本来のあるべき経過を辿らず、米原に対して真実が隠蔽されたままであつたことは無視できない。残つていると思つた唯一の財産である定期預金がこのような変則的な経過で失われたという一連の経過が年令八〇才を越えた米原に非常な心労をもたらしたことは、米原証言すなわち息子の供述で明らかである。これに対する慰藉料とし原告の請求する五〇万円はむしろ少ない位であるから、全額を認容すべく、また事案の複雑さに徴して、弁護士費用は右認容額の二割にあたる一〇万円を以て相当因果関係ある損害と認められる。

4  そうすると、被告金庫及び森田は米原に対して各自金六〇万円及び不法行為後の損害金を支払うべきである。

六(結論)

以上を総合し、一九〇〇号事件の原告の請求は棄却し、九五三二号事件の原告の請求は、金六〇万円及びこれに対する昭和四六年一一月一〇日から支払済みまで民法所定の五分の割合による金員の支払を求める限度で正当としてこれを認容し、その余は失当としてこれを棄却

(裁判長裁判官 倉田卓次 裁判官 井筒宏成 西野喜一)

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