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東京地方裁判所 昭和37年(ワ)9287号 判決 1964年2月28日

原告 浜口トシ子

被告 日本電信電話公社

訴訟代理人 河津圭一 外四名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

一  当事者の申立

原告訴訟代理人は、「被告は、原告に対し、金二〇〇万円およびこれに対する昭和三七年一〇月九日から支払ずみにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は、被告の負担とする。」との判決および仮執行宣言を求めた。

被告指定代理人は、主文と同旨の判決を求めた。

二  当事者の事実上および法律上の主張

原告訴訟代理人は、請求原因として、つぎのとおり述べた。

「(一) 藤岡謙光は、被告に約三八年間勤続し、昭和三七年五月一九日、定年で退職したものであるが、退職時に、小倉電話局市内線路宅内課監督の地位にあり、国家公務員等退職手当法により退職手当金二六〇余万円の支給を受けられる地位にあつた。

(二) これより先、藤岡は、昭和三七年四月七日、大和重紀に対し、前記退職手当債権のうち金二〇〇万円の債権(以下「本件債権」という。)を譲渡するとともに、被告に対し、同日付同月九日頃到達の書面で、その譲渡通知をした。

(三) そして、大和は、昭和三七年八月一五日、原告に対し、本件債権を譲渡するとともに、被告に対し、同年一〇月六日付同月八日到達の書面で、その譲渡通知をした。

(四) よつて、原告は、被告に対し、譲り受けた本件債権金二〇〇万円およびこれに対する支払期の後である昭和三七年一〇月九日から支払ずみにいたるまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。」

被告指定代理人は、答弁、法律上の主張および抗弁としてつぎのとおり述べた。

「(一) 原告主張の請求原因事実中、(一)、(二)のうち原告主張の債権譲渡通知が原告主張の日頃に被告に到達したことおよび(三)のうち原告主張の債権譲渡通知が被告に到達(ただし、到達の日は、昭和三七年一〇月九日である。)は認め、その他の事実は知らない。

(二) 本件債権の譲渡は、法律上無効である。

国家公務員等退職手当法に基づき支給される退職手当は、労働基準法一一条にいわゆる「賃金」に該当する。すなわち、右の退職手当は、国家公務員、公社職員等が退職した場合に、その者の勤務継続の事実に基づき、勤務成績の優劣等にかかわりなく、一律に勤務年限に応じて金額が算出され、基本的には、給与の後払的な性質のものであり、かつ、法律上の義務として支給されるものであるから、これを労働の対償、すなわち、「賃金」と解するのが相当である。もつとも、この退職手当は、特殊の場合に支給されないことがあるが、これは極めて異常な場合に限られ、かつ、その実体は特殊事由による権利剥奪的な性質の濃いものであるばかりでなく、また、このような給付制限は、この退職手当に特有なことではなく、共済組合の給付についても共通な事象である(公共企業体職員等共済組合法二〇条参照)から、このことをもつてこの退職手当を「賃金」と解することの妨げとはならない。このように、この退職手当が「賃金」である以上、それは、労働基準法第二四条一項により直接労働者に支払われるべきものである。そして、同条項の法意は、「賃金」の任意譲渡の禁止を包含するものと解すべきである(これに反する支払は、同法一二〇条により処罰の対象とされている。)。すなわち、この退職手当については国家公務員等退職手当法中には、その譲渡禁止の規定はないが、賃金一般に関する労働基準法二四条一項の適用によりその譲渡を禁止されているものといわなければならない。けだし、「賃金」は神聖な労働の対価であり、労働者およびその家族の生活を保障し、かつ、勤労意欲を保つための緊要な収入であり、それは国家公務員等について生じたものであると一般労働者について生じたものであるとの区別なく、社会政策的な見地から、これを保護する必要があるからである。

したがつて、本件債権の譲渡は、労働基準法二四条一項により無効であり、原告の請求は、それ自体失当である。

(三) かりに、そうではなく、藤岡の大和に対する本件債権の譲渡が有効であるとしても、藤岡の本件債権譲渡の意思表示は、原告の藤岡に対する後記の強迫によりされたものであるから、藤岡は、大和に対し、昭和三七年五月二九日付同月三一日到達の書面で、右債権譲渡の意思表示を取消す旨の意思表示をし、かつ、被告の職員局給与課に対し、同月二九日付同月三一日到達の書面で、右取消の意思表示をした旨の通知をした。

それ故、大和はこれにより本件債権者たる地位を失い、したがってまた、原告は本件債権者たる地位を取得しえないものである。

右強迫の事実は、つぎのとおりである。

藤岡は、小倉電話局に電話工事の現場職員として勤務中、小倉電報局に勤務していた原告と相識り、交際を重ねるうちに、互に人に秘した関係をもつにいたつた。しかし、藤岡は、原告の剛毅で、執念深く、打算的な性格を知るに及んで、原告を避けようとしたが、原告は藤岡に強引に迫り、藤岡の退職時の切迫とともにその度合はますます激しくなつた。こうして、原告は、昭和三七年四月四日、藤岡が所用で外出したところを待ち伏せして、藤岡につきまとい、人前も構わず、「おかげで子供ができたので、役所をやめなければならない。どうしてくれる。私から逃れるというなら、金を出せ。」と叫び、暴行を続けて藤岡を強迫し、よつて、藤岡をして、もし、自分が原告の要求に応じないならば、いかなる不名誉や危害が加えられるかわからないとの恐怖の念を起させ、前記退職手当のうちから金二〇〇万円を原告に贈与する旨の誓約書を原告に差し入れさせた。そして、その後、原告は、昭和三七年四月七日、右金二〇〇万円を確保するため、身を隠していた藤岡を呼び出してさらに面罵し、暴行を加え、弁護士大和重紀方に同行し、藤岡をして、叙上の原告の強迫によりやむをえず、大和に対し、本件債権を譲渡する旨の意思表示をするにいたらしめたのであるが、本件債権の譲受人を大和にしたのも、原告において藤岡との右関係が勤務先に知れることをおそれたためであつて、原告の発意によるものである。

(四) かりに、そうではないとしても、藤岡は、本件債権の準占有者であり、被告は、昭和三七年六月七日、藤岡に対し、藤岡を真実の債権者と信じ、かつ、信ずるにつき、何らの過失なくして、前記退職手当の支払をすませているから、本件債権は、これによりすでに消滅しているものである。

(1) 被告は、学説、判例の多数説に従い、かつ、労働基準法の励行をつかさどる労働省の解釈例規(すなわち、昭和二二、九、一三労働省発基第一七号)に則り、本件債権の譲受人にこれを支払うことは、同法二四条一項に違反して無効であり、本件債権は、原債権者である藤岡に支払うべきものであると考えて、藤岡の請求により藤岡に支払つたのである。したがつて、かりに、それが法律の解釈として失当であり、本件債権はこれを譲受人に支払うことが正当であるとしても、右のように、使用者は退職手当債権の譲渡の有無にかかわりなく、これを直接労働者に支払わなければならないものとするのが、一般取引観念として支配的である状況下においては、藤岡は本件債権の準占有者に該当するものということができ、また、被告が藤岡を本件債権の真実の債権者と信じて藤岡にその支払をしたことに過失がないことも自ら明らかであり、その支払は有効である。

(2) かりに、叙上(1)の理由によつては、藤岡が本件債権の準占有者であると認められないとしても、本件債権の譲渡は、前記のとおり強迫を理由とする藤岡の取消の意思表示によつて失効し、その結果、藤岡が再び本件債権の債権者の地位を回復し、本件債権の主体たる外形をも具えるにいたつたのである。したがつて、かりに、強迫の事実が認められず、右取消の意思表示が無効であるとしても、藤岡は本件債権の準占有者であるということができ、また叙上の状況によれば、被告が当時藤岡を本件債権の真実の債権者と信じてその支払をしたことに過失はないから、この関係によつても、その支払は有効である。」

原告訴訟代理人は、法律上の主張および被告の抗弁に対する答弁として、つぎのとおり述べた。

「(一) 本件債権は、国家公務員等退職手当法に基づく退職手当であるが、これについては、同法中には、その譲渡、差押等の禁止規定がない。ところが、同種の法律である恩給法、国家公務員共済組合法および公共企業体職員等共済組合法には、それに基づく給付の譲渡、差押等の禁止規定があることから、反対解釈上当然右の退職手当は譲渡を許されるべきものである。しかもこの退職手当の性質は、国家公務員等退職手当法八条により退職の理由が特殊な場合にはそれが支給されないことおよび国家公務員、公社職員等にはそれぞれ国家公務員共済組合法、公共企業体職員等共済組合法等に基づく長期給付が支給され、それにより最少限度の生活が十分維持できることにかんがみれば、在職中の功労に対する報償的なものと解すべきであり、特にこれをもつて老後の生計の変動を緩和し、その余生を安楽にする趣旨で支給されるものとは考えられない。したがつて、明文の禁止規定がない以上、本件債権の譲渡は有効である。なお、被告は、労働基準法二四条一項はこの退職手当の任意譲渡を禁止する法意であると主張するが、この退職手当が同法一一条にいわゆる「賃金」に該当するか否かは疑問であるのみならず、同法二四条一項が労働者の承継人に対しても「賃金」を支払うことを禁止した趣旨であると解することは極めて困難である。

(二) 被告主張の(三)の抗弁事実のうち、被告主張の強迫による取消の意思表示が被告主張の日大和に到達したことは認め、その他の事実は否認する。原告は、昭和一九年一月一九日、被告に入社して以来、職務に忠実で、昭和二九年一〇月には業務成績優秀で個人表彰を受け、さらに、昭和三〇年には、総裁表彰の候補にもなつたほどのまじめな女性である。ところが、同年頃から藤岡と面識をえて、交際しているうちに、昭和三七年三月一五日頃、藤岡のため身体の自由を奪われたうえ、暴行されるにいたつた。原告にとつては全く不覚の出来事であつたところ、藤岡は、同月三〇日頃、その償いのため、自分が近く受くべき退職手当のうち金二〇〇万円を贈与する旨を申し出て、さらにこれを確実にするため、原告と同行して同年四月七日、原告の知合いである弁護士大和重紀方に赴き、本件債権の譲渡手続をとつたのであつて、右贈与および本件債権の譲渡は、すべて藤岡の自発的意思によつてされたものであり、その譲受人を大和にしたのは、この関係が勤務先に知れることをおそれたためであるが、このことは原告のためばかりでなく、藤岡のためでもある。

(三) 被告主張の抗弁事実は、否認する。被告主張の前記(四)の(1)の場合において、被告が原債権者藤岡を真実の債権者と考えること自体が一般取引の観念から不可解であり、また、特別の法律知識を有する被告は、前記退職手当の譲渡性について、判例上も解釈が統一されていないことを知つていたはずである。また、被告主張の前記の(四)の(2)の場合においても、被告の一方的な調査に基づいて原債権者が再び債権者の地位を回復したものと判断したのは、余りにも軽卒である。したがつて、いずれの場合においても、被告には、悪意または重大な過失があつたといわなければならないから、被告主張の支払は、無効である。」

三  証拠関係<省略>

理由

一、本件の主要な争点は、国家公務員等退職手当法に基づいて支給される退職手当の譲渡性の有無についてである。同法には、これを禁止する規定はない。しかし、この一事をもつて、右の退職手当は譲渡することができると即断すべきではない。よつて、被告の指摘する労働基準法二四条一項について判断する。

まず、退職手当は、使用者が労働者に対し、退職時にその永年の勤続に対する報償として支給するものであつて、その支給の趣旨、目的が労働の対償としてである点において、扶養手当等他の福祉上の手当と異なるが、その基本的な性格は、一種の贈与である。しかし、その支給が慣行として確立し、法律、労働協約、就業規則、労働契約等においてあらかじめその支給条件が明確にされ、その権利性が付与されるに及んで、本来の賃金同様に法によつて保護されるようになり、退職者の退職後の生活を保障するための賃金の後払的な性質を帯びるようになつたものであり(したがつて、この支給を制限することができるのは、右の基本的な性格からみて当然であるが、その制限は極めて特殊な場合に限る必要がある。)、労働基準法一一条は、かような退職手当をも「賃金」として予定していると解するのが相当である。したがつて、国家公務員等退職手当法に基づき支給される退職手当も右法条にいわゆる「賃金」に該当するというべきである。

したがつて、本件債権も労働基準法の規制を受くべきところ、被告は、同法二四条一項は「賃金」の譲渡禁止の趣旨を包含すると主張し、その趣旨とするところが、同条項により「賃金」の譲渡そのものが禁止されているというのか、それとも使用者が譲受人に「賃金」を支払うのは同条項に違反することになるから、使用者に対する関係においては譲渡の効果がないというにあるのか必ずしも明らかでないけれども、その点はともかく、同条項は、労働者の「賃金」が確実にその労働者の支配内に引き渡され、労働者の自由な処分にゆだねられるよう、使用者と労働者との間の直接的法律関係を規制したものであつて、労働者がその「賃金」債権を第三者に任意譲渡することまで、したがつてまた、右の譲受人に対し使用者が支払をすることまでも禁止した趣旨とは解せられない。このことは、従来労働者の「賃金」が親方や職業仲介者等第三者あるいは親権者や後見人の代理受領により横奪されたり、使用者により一方的に相殺もしくは控除されたりしていた弊害を除去せんとする同条項の沿革的趣旨に照らし、かつ、また、文理上からも明らかである。すなわち、同条項に定める諸原則は、いずれも使用者と労働者との間に法律関係があることを前提として、使用者に対し、労働者以外の者に支払うという事実上の行為を禁止するものであつて、その法律関係を離れて使用者と第三者との法律関係を律するものとしての意味をもたないことが文言上明らかである。

もつとも、被告の主張するように、労働者の「賃金」は、労働者の生活を支える重要な財源である。したがつてもし、その任意譲渡が許されるとするならば、労働者およびその家族の生活は保障されない場合も考えられるのであるが、しかし、この場合における保護を民法上の規定による保護にのみゆだねるのでは十分でなく、弊害の方が大きいというのであれば、やはり、当該法律の明文をもつて、その譲渡を禁止すべきであり、かような規定がないのに右条項をもつて「賃金」の譲渡を禁止する趣旨を包含すると解するのは、その社会政策的意義を考慮してもなお、諸法の調和を旨とする法解釈として行きすぎであるというべきである。のみならず、国家公務員等退職手当法に右のように禁止規定を設けなかつた理由が、そもそも同法による退職手当が国家公務員共済組合法、公共企業体職員等共済組合法による長期給付金と相補関係にあり、その長期給付金について譲渡禁止の規定(前者法四九条、後者法二九条)を置くことによつて国家公務員等の最少限度の生活が保障されるとしたものであることを合わせ考えれば、なおさらそうであるといわなければならない。その他譲渡禁止の明文の規定がなくても、性質上当然にその譲渡性を奪わなければならない実質的な理由は、見出せない。

したがつて、この点に関する被告の主張は、採用することができない。

二、よつて、本件債権は、法律上譲渡することができるものであるから、進んで審究すべきところ、原告主張の請求原因事実中、(一)、(二)のうち原告主張の債権譲渡通知が原告主張の日頃被告に到達したことおよび(三)のうち原告主張の債権譲渡通知が被告に到達(ただし、到達の日を除く。)したことは、当事者間に争いがなく、証人藤岡謙光および証人大和重紀の証言によつて真正に成立したものと認める甲第一号証および右各証言(ただし、証人藤岡謙光の証言のうち、後記の採用しない部分を除く。)によれば、藤岡が昭和三七年四月七日、大和に対し、本件債権を譲渡したことが認められ、証人大和重紀の証言によつて真正に成立したものと認める甲第三号証および右証言によれば、さらに、大和が同年八月一五日、原告に対し、本件債権を譲渡したことが認められ、右認定に反する証拠はない。

三、そこで、本件債権の譲渡が強迫を理由として取り消された旨の抗弁について判断する。

成立に争いのない甲第六、七号証、証人藤岡謙光および証人大和重紀の証言(ただし、証人藤岡謙光の証言のうち、後記の採用しない部分を除く。)ならびに原告本人尋問の結果を総合すれば、藤岡は多年小倉電話局に電話工事の現場職員として勤務し、原告は独身で小倉電話局に勤務していたところ、昭和三〇年頃から両者は互に相識り、交際を重ねているうちに、昭和三七年三月一五日、飲食店「魚道楽」で藤岡が飲酒のうえ、原告に薬を服用させて身体の自由を奪い、暴行を加えたこと、その後原告が藤岡にその非を詰り、その償いを求めたため、藤岡は原告を避けようとするにいたつたが、結局、同月三〇日頃原告方で原告に対し、金二〇〇万円を贈与する、右金員を他から金融できない場合には、近く支給される退職手当のうちから金二〇〇万円を贈与する旨を約したこと、そして、藤岡において結局右金員を他から借り入れることができなかつたので、これを確保するため原告は同年四月七日、藤岡を弁護士大和重紀方に同行し、本件債権の譲渡手続をふんだことならびに右手続に際し、原告と藤岡とは、両者の関係が勤務先に知れることをおそれて、本件債権を一応藤岡から大和に譲渡する形式をとつたことが認められ、右認定に反する証人藤岡謙光の証言部分は採用することができない。しかし、この認定事実をもつて、藤岡の大和に対する本件債権譲渡の意思表示が原告の強迫によりされたものであるとは認めがたい。証人藤岡謙光の証言のうち、被告主張の強迫の事実に合う部分は、証人大和重紀の証言および原告本人尋問の結果に照らして、たやすく採用することができず、他に右強迫の事実を認めるに足る証拠がない。

したがつて、この点に関する被告の抗弁は、採用の限りでない。

四、つぎに、本件債権の準占有者に対する弁済について判断する。

藤岡が大和に対し、被告主張の強迫を理由として本件債権の譲渡を取り消す旨の意思表示をしたことは、当事者間に争いがなく、郵便官署作成部分については成立に争いがなく、その他の部分については証人藤岡謙光の証言によつて真正に成立したものと認める乙第二号証の一、二ならびに右証人、証人田代義明、証人高畑一正および証人十時正人の証言(ただし、証人藤岡謙光の証言のうち、前記採用しない部分を除く。)を総合すれば、被告における退職手当の支給については、本社職員局給与課がその支給に関する一般的な基準を定め、かつ、具体的な支給に関して疑問が生じた場合には、地方局から照会を受けてその処理を指示していたところ、昭和三七年四月九日、被告は藤岡から本件債権の譲渡通知を受けたので、同月一四日頃、本社職員局給与課長十時正人が小倉電話局庶務課人事係主任高畑一正に対し、右譲渡通知があつたが、退職手当は労働基準法二四条一項により藤岡本人に支払うべきものであるから、その支払を止め、至急本件債権を譲渡した事情を調査すべき旨を指示したこと、右高畑において調査の結果、藤岡の言によれば、本件債権の譲渡は原告の藤岡に対する強迫によつてされたものであり、藤岡は、これを取り消したい旨申し述べており、かつ、この申述は真実と思料される旨右十時に報告したこと、そうするうちに、藤岡は同年五月二九日付同月三一日到達の書面で、被告に対し、前記取消の意思表示をした旨の通知をしたこと、そこで、前記十時において前記調査の結果に照らしても、それが真実で、かつ、有効なものと判断し、これによつて、藤岡が本件債権の債権者たる地位を回復したものであると信じて、同年六月二日前記高畑に対し、右取消の意思表示をした旨の通知があつたから、本件債権を藤岡に支払うよう指示したことおよびこうして小倉電話局において、藤岡からの請求により同月七日、正規の手続を経て本件債権を含む退職手当金二六〇余万円を藤岡に支払つたことが認められ、他に右認定を左右すべき証拠はない。

右認定の事実によれば、藤岡は、本件債権の譲渡を取り消す旨の意思表示により、たとえそれが前示のとおり無効であるとしても、事実上債権者たる地位を回復したものであり、一般取引の通念上真実の債権者であると信じさせるような外観を有するにいたつたものであるから、本件債権の準占有者と解すべく、そして、前掲証人十時の証言によれば、労働省の解釈例規によつて、国家公務員等退職手当法に基づく退職手当は、労働基準法二四条一項によりその譲渡が禁止され、したがつて、労働者がこれを第三者に譲渡した場合にも使用者が譲受人にこれを支払うことは同条項違反になり、同法一二〇条一号により処罰されるとの見解が示され、これが一般的見解であることが認められ、このような当時の状況下においては、右の退職手当を取り扱う機関において前示調査以上の調査を期待しがたいから本件債権の支払に関与した各担当者がいずれも藤岡にその受領の権限があると信じ、かつ、そう信じたことに過失はなかつたものと認めるのが相当である。もつとも、成立に争いのない甲第八号証および前掲証人十時の証言によれば、前示十時の支払指示より少しおくれ、大和が昭和三七年六月四日付その頃到達の書面で被告に対し、本件債権の譲受人として、その支払を請求したことが認められるが、そのことは、右認定の妨げとはならない。その他右認定に反する証拠はない。

そうすると、被告が藤岡に対してした本件債権の支払は、その準占有者に対する善意、かつ、無過失の弁済として有効であり、これにより本件債権は消滅したものといわなければならない。

五、よつて、その他の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 杉本良吉 土屋一英 日高千之)

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