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東京地方裁判所 平成6年(行ウ)314号 判決 1996年9月26日

東京都板橋区成増一丁目一三番九号

原告

安田榮一

東京都板橋区成増二丁目一〇番五号

原告

安田静枝

東京都板橋区成増三丁目五一番二一号

原告

木村嘉代子

東京都板橋区大山東町一七番九号

原告

有田喜代子

東京都世田谷区奥沢三丁目三五番二〇号

原告

鈴木登代子

東京都練馬区土支田四丁目九番一八号

原告

安田良二

右原告ら訴訟代理人弁護士

佐藤義行

後藤正幸

東京都板橋区大山東町三五番一号

被告

板橋税務署長 松田良行

右指定代理人

竹村彰

田部井敏雄

市川幸次

菊池由美子

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が原告らに対し平成三年三月八日付けでした安田敬一郎の平成元年分所得税の更正(審査裁決により一部取り消された後のもの)のうち総所得金額一五五七万三二九三円を超える部分及び過少申告加算税賦課決定(審査裁決により一部取り消された後のもの)を取り消す。

第二事案の概要

一  本件は、個人病院の経営者(平成元年九月死亡)の平成元年分所得税について、相続人である原告らが、右病院に勤務していた相続人の一人とその妻に対する退職金を事業所得の金額の計算上必要経費に算入して準確定申告(所得税法一二五条に基づく確定申告をいう。)をしたところ、被告から、右退職金の必要経費算入は認められないとして、更正及び過少申告加算税賦課決定(後に審査裁決により一部取り消された。)をされたため、その取消しを求めた事案である。

二  争いのない事実

1  安田敬一郎(明治三四年三月五日生・以下「敬一郎」という。)は、昭和四二年一二月一六日付けで東京都知事から東京都板橋区成増一丁目一三番九号において病院を開設することの許可を受け、同所で安田病院を営んでいたが、平成元年九月一一日に死亡し、原告ら六名が敬一郎を相続した(以下「本件相続」という。)。

2  敬一郎の子である原告安田榮一(以下「榮一」という。)は、安田病院において医師として勤務していたが、敬一郎の死亡後、東京都知事に対し、平成元年九月一九日付けで安田病院の開設の許可を申請し、同月二八日付けで、同月一二日(敬一郎の死亡日の翌日)に遡って医療法七条一項に基づく許可を受け、安田病院の事業を引き継いで、同病院を営んでいる。

3  榮一の妻安田由子(以下「由子」という。)は、敬一郎の生前から、安田病院において技術員薬剤師として勤務していたところ、病院長の交替につき退職する旨の平成元年九月一一日付け安田病院長宛ての退職届を作成したが、実際には、その後も同病院において従来どおり勤務を続けている。

また、榮一、由子以外の安田病院に勤務していた従業員は、敬一郎死亡後も引き続き安田病院に勤務しており、敬一郎の死亡の前後において、勤務内容、勤務条件等に何の変更もなく、これらの従業員で敬一郎の死亡に起因して退職金の支払を受けた者はいない。

4  安田病院就業規則(昭和四四年七月一日より実施。以下「本件就業規則」という。)二八条二項は、従業員の退職金については別に定める退職金規程により支給する旨定め、安田病院退職金規程(昭和四八年一月一日より実施。以下「本件退職金規程」という。)は、退職金の支給範囲として、<1>定年退職(満六〇歳)、<2>業務上又は業務外の事由による死亡、<3>業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難となったとき、<4>自己の都合による場合、のいずれかに該当するときに支給すると規定し(一条)、その算出方法は、退職時の基本給に支給率表による支給率(「自己都合」、「定年・死亡」、「業務上死亡」ごとに支給率が定められている。)を乗じた金額とし(二条)、また、在職中特に功労のあった者については退職金のほか相当の額を加算することができる(以下「功労加算」という。)と定めている(四条)。

そして、榮一及び由子については、敬一郎の死亡に伴い平成元年九月一一日安田病院を退職したものとして、右支給率表に定める「定年・死亡」の支給率を適用し、別紙「退職金計算書」のとおり、榮一の退職金支給額は七六五七万四五〇〇円、由子の退職金支給額は一八九〇万五六六六円とそれぞれ計算された(以下「本件退職金」という。)。

5  平成二年一月一七日、第一勧業銀行成増支店の「安田病院 安田榮一」名義の普通預金口座(平成元年九月二五日に「安田病院 安田敬一郎」名義から名義変更されたもの)において九八六二万円の借入れが行われ、同月一九日、右口座から、同銀行同支店の安田榮一名義の普通預金口座に対し六〇〇九万二六〇〇円(榮一の本件退職金七六五七万四五〇〇円から所得税・住民税の源泉徴収分一六四八万一九〇〇円を控除した残額)が、同じく安田由子名義の普通預金口座に対し一八〇八万四五六六円(由子の本件退職金一八九〇万五六六六円から所得税・住民税の源泉徴収分八二万一一〇〇円を控除した残額)がそれぞれ振替入金され、さらに同日、右安田由子名義の口座から右安田榮一名義の口座へ一八〇〇万円が振り替えられ、安田榮一名義の口座から、共同相続人である原告木村嘉代子、同有田喜代子、同鈴木登代子及び同安田良二名義の第一勧業銀行成増支店の各預金口座に、それぞれ二〇〇〇万円ずつが振替入金された。

6  敬一郎の共同相続人(原告ら六名)は、敬一郎の遺産について、平成二年一月二〇日付けで、<1> 原告安田静枝は、家庭用財産を取得する、<2> 榮一は、右家庭用財産を除く全財産を取得する、<3> 敬一郎の債務は全て榮一が承継する、<4> 榮一は、他の五名の相続人に対して代償金を支払う、との内容の遺産分割協議書を作成した。

なお、右<3>の債務の中に未払金として本件退職金の金額が計上されている。

7  原告らは、平成二年一月二二日、別紙「課税処分等の経緯」記載のとおり、敬一郎の平成元年分所得税の準確定申告を行い、その後、平成二年三月五日、修正申告をした。原告らは、右準確定申告及び修正申告において、敬一郎の死亡を理由として榮一及び由子にそれぞれ支払われた本件退職金の金額(榮一につき七六五七万四五〇〇円、由子につき一八九〇万五六六六円)を敬一郎の事業所得の計算上必要経費に算入していたが、被告は、右金額の必要経費算入を否認して、平成三年三月八日付けで、別紙「課税処分等の経緯」記載のとおり、更正及び過少申告加算税賦課決定をした。

右更正等に対する不服申立ての経過は、別紙「課税処分等の経緯」記載のとおりである(審査裁決により一部取り消された後の更正、過少申告加算税賦課決定を、以下、「本件更正」、「本件決定」という。)。

三  本件更正及び決定の適法性に関する被告の主張

1  事業所得の金額((一)+(二)-(三)) 一億〇一五六万三七〇二円

(一) 修正申告に係る事業所得の金額 一九七九万二四一二円

右は、当事者間に争いがない。

(二) 必要経費否認退職金の額 九五四八万〇一六六円

右は、本件退職金として計上された合計九五四八万〇一六六円について、必要経費への算入を否認した金額である。

(三) 退職給与引当金取崩益の過大計上 一三七〇万八八七六円

右は、事業所得の計算上、総収入金額に算入すべき退職給与引当金について過大に計上されていた金額であり、当事者間に争いがない。

2  総所得金額((一)+(二)+(三)) 六一四二万七七七七円

敬一郎は、租税特別措置法(平成四年法律第一四号による改正前のもの。以下「措置法」という。)二五条の二に基づくみなし法人課税選択者であったので、敬一郎の総所得金額は同条に基づいて算定されることとなる(当事者間に争いがない。)。

(一) 配当所得の金額 五〇九四万一五六四円

右は、前記1の事業所得の金額一億〇一五六万三七〇二円から、後記(二)の<1>の事業主報酬の額一二三一万〇九〇九円を控除して得られるみなし法人所得額八九二五万二七九三円について、措置法二五条の二第三項一号ロに基づいて計算した金額である。

(二) 給与所得の金額 一〇二五万五二一三円

右は、<1> 措置法二五条の二第三項一号イの規定に基づいて、給与所得に係る収入金額とみなされるべき敬一郎に対する事業主報酬の額一二三一万〇九〇九円と、<2> 敬一郎が株式会社サンリッツから得た給与収入一六万三〇〇〇円との合計額に係る給与所得の金額であり、当事者間に争いがない。

(三) 雑所得の金額 二三万一〇〇〇円

右は、当事者間に争いがない。

3  納付すべき税額((一)-(二)+(三)-(四)) 三五五四万〇六〇〇円

(一) 課税総所得金額に対する税額 二六五七万六五〇〇円

右は、前記2の総所得金額から所定の所得控除の額四七万四〇〇〇円を控除した課税総所得金額六〇九五万三〇〇〇円(一〇〇〇円未満切捨て)に、所得税法八九条一項(平成六年法律第一〇九号による改正前のもの。)の税率を乗じて算出したものである。

(二) 配当控除の額 二五四万七〇七八円

右は、前記2(一)の配当所得の金額に一〇〇分の五を乗じて算出したもの(所得税法九二条一項三号イ、措置法施行令一七条の三第七項)である。

(三) みなし法人所得税額 三二六五万三七九七円

右は、みなし法人所得額八九二五万二七九三円について、措置法二五条の二第二項一号に基づいて計算した額である。

(四) 源泉徴収税額 二一一四万二五八六円

右は、当事者間に争いがない。

4  本件更正及び決定の適法性

敬一郎の平成元年分所得税の納付すべき税額は右3のとおり三五五四万〇六〇〇円であるところ、この金額は本件更正における納付すべき税額と同額であるから、本件更正は適法である。

また、本件決定は、本件更正により新たに納付すべきこととなった税額五〇七五万円(一万円未満切捨て)に、国税通則法六五条一項に基づき一〇〇分の一〇の割合を乗じて算出した金額五〇七万五〇〇〇円と、同条二項に基づき右五〇七五万円のうち期限内申告税額に相当する金額二三六万六三六八円(源泉徴収税額二一一四万二五八六円から準確定申告書記載の還付税額一八七七万六二一八円を控除した金額)を超える部分に相当する金額四八三八万円(一万円未満切捨て)に一〇〇分の五の割合を乗じて算出した金額二四一万九〇〇〇円との合計額七四九万四〇〇〇円を過少申告加算税として賦課決定したものであって、適法である。

四  争点

所得税法三七条一項によれば、償却費以外の費用でその年において債務の確定していないものは、その年分の事業所得の計算上必要経費に算入されないものとされているから、年の中途で死亡した者の事業所得の金額の計算に当たっては、その者の死亡時までに債務が確定していないものは必要経費に算入されないことになるところ、本件退職金について、被告は、敬一郎死亡時に、敬一郎と榮一、由子との間の雇用契約(以下「本件雇傭契約」という。)は終了しておらず、その金額も合理的に算定できるものでないなど、債務が確定していなかったから、敬一郎の事業所得の計算上必要経費に算入することはできないと主張するのに対し、原告らは、本件雇用契約は敬一郎死亡時に終了し、その時点で債務として成立、確定したものであり、また、仮にその終了が敬一郎の死亡後であったとしても、所得税法六三条(事業を廃止した場合の必要経費の特例)に基づき、やはり必要経費に算入されるべきであると主張するものであり、その具体的な争点は、次の三点である。

1  敬一郎の死亡時に本件雇用契約が終了したかどうか。

2  仮に右1が認められないとすれば、本件退職金は、敬一郎の事業の廃止後に生じたものとして、所得税法六三条による特例が認められるかどうか。

3  本件退職金の支給債務が発生したかどうか。

五  争点に関する当事者の主張

1  争点1(敬一郎死亡時に本件雇用契約が終了したか)について

(被告の主張)

(一) 雇用契約は、その目的とする労務の内容が使用者の一身に専属するものである場合や、労務の実現を使用者が指図する仕方や内容に重要な差異がある場合など、契約内容が人的色彩の特に濃厚なものであって、使用者の死亡により契約の目的を達成することが不可能若しくは著しく困難となる例外的な場合を除き、使用者の死亡によって当然に終了するものではないと解されるところ、本件雇用契約が右の例外に当たらないことは明らかであるから、敬一郎の死亡により本件雇用契約は当然に終了することなく、その使用者たる地位は共同相続人に承継されたものである。

また、医療法においては、病院開設の許可を開設者の死亡により失効させる法形式を採用しているが、もともと病院開設の許可は申請者の人的要件よりも施設等の物的要件に着目して与えられるものであり、しかも、病院開設の許可と第三者を雇用する行為の私法上の効力とは別問題であるから、病院開設者が死亡し開設許可が失効したからといって、開設者と病院に勤務していた従業員との間の雇傭契約までが消滅ないし終了することになるわけではない。

(二) 従業員であった榮一が安田病院の事業を承継することにより、敬一郎と榮一との本件雇傭契約が終了したと見ることができるとしても、榮一は、敬一郎の死亡によって病院事業ひいては使用者としての地位を当然に承継したわけではなく、敬一郎と榮一との本件雇傭契約における使用者としての地位は、敬一郎の死亡とともに、まず共同相続人に承継されているのであって、共同相続人間の遺産分割協議の成立以前においては、共同相続人と榮一との間の雇傭契約は終了していないというべきである(仮に遺産分割協議により、従業員であった相続人以外の相続人が事業を承継した場合には、雇用契約上の使用者の地位もその相続人に引き継がれることになり、従業員であった相続人との雇傭契約は終了しない。)。

そして、遺産分割は、相続開始の時に遡って効力を生ずることとされているが(民法九〇九条)、税法においては、遡及して所得を再計算する取扱いをとっておらず、そのように税法が課税目的のために民法上の効力を離れて独自の処理を行っていることにもそれなりの合理性があるといえるから、税法上の取扱いとしては、遺産分割に遡及効を認めることはできないというべきである。

したがって、榮一が事業を承継することにより、使用者と従業員の地位が同一人に帰属し、雇傭契約が終了するとしても、それは敬一郎の死亡後に発生した事実であり、敬一郎の死亡の時点では、未だ榮一について退職の事実は発生していないことになる。

(原告らの主張)

(一) 事業主体に変更があった場合においては、少なくとも従業員が雇傭関係の承継を欲しない限り、雇傭関係の消滅が認められなければならない。本件において、榮一及び由子は、いずれも雇傭関係の承継を望まなかったのであるから、右両名と敬一郎との本件雇傭契約は、敬一郎の死亡によって終了したというべきである。

また、敬一郎に対する病院開設の許可は、敬一郎の死亡によりその効力を失い、相続人が引き続き医業を行う場合も改めて右許可を受けなければならないのであって、相続人において当然に病院業務を承継できるものではないから(被告は、共同相続人が病院事業を承継したというが、開設許可を取得していない共同相続人が病院事業を承継することはあり得ないというべきである。)、開設者の死亡により、原則として雇傭関係の消滅が認められなければならない。

(二) 仮に雇用契約上の使用者としての地位が相続により承継され得るものであるとしても、敬一郎が死亡した場合、相続人の中でただ一人医師免許を有する榮一が病院業を承継することは、遺産分割協議の成立を待つまでもなく、敬一郎の生前から相続人(原告ら)間の了解事項であって、一時的にせよ共同相続人らにおいて病院業を承継する意思は全くなく、そのことは、榮一が敬一郎死亡直後に病院開設の許可を申請していることからも明らかであるから、敬一郎の死亡により直ちに榮一が安田病院の事業主体となったものであり、榮一が使用者としての地位を承継した以上、榮一と榮一との間で雇傭契約が成立することはあり得ず(使用者と従業員の地位が混同する。)、したがって、敬一郎の死亡により、敬一郎と榮一との本件雇傭契約は終了したと解さざるを得ない。

仮に敬一郎の使用者としての地位が共同相続人全員に承継され、遺産分割協議によって榮一が使用者たる地位を承継することになったとしても、遺産分割は相続開始時に遡及するのであるから(民法九〇九条)、榮一は、敬一郎の死亡時に遡って、使用者たる地位を承継したことになり、結局、敬一郎と榮一との本件雇用契約は、敬一郎の死亡時に、使用者と従業員の地位の混同によって終了するものと解すべきである。

(三) また、外形上は勤務関係の継続が見られる場合であっても、その勤務関係に重大な変動があって、実質的には単なる従前の勤務関係の延長と見られない以上、雇傭契約が終了したものとして、退職金の損金算入が認められるべきであるところ、由子は、敬一郎の死亡により安田病院の事業主体が夫である榮一に承継されたことにより、以後、所得税法上の青色専業専従者となるなど、勤務関係に重大な変動が生じたものであるから、由子については、この点においても、敬一郎の死亡により雇用契約の終了が生じたものというべきである。

2  争点2(所得税法六三条による特例適用の有無)について

(原告らの主張)

仮に、本件雇傭契約の終了が敬一郎の死亡後であったとしても、事業主体を離れての事業はあり得ないから、事業主体の変更は、すなわち所得の帰属主体そのものの変更であり、旧事業主が行っていた事業の廃止というべきであるし、他方、退職金は、一般に賃金の後払い、功労報償としての性格を有しているものであるから、事業主体の変更直後に退職金が支払われた場合は、その退職金は、所得税法六三条により、旧事業主の所得の計算上必要経費として取り扱われることになる(このことは、個人企業が法人成りした直後に個人企業当時から引き続き在職していた使用人に対して法人から支払われた退職金は、所得税法六三条が適用されて、個人事業当時の必要経費として取り扱われていることからも明らかである。)。したがって、本件退職金は、敬一郎の事業所得の計算上必要経費に算入されるべきである。

(被告の主張)

一般に事業の廃止とは、事業活動の終了を意味するものであり、本件のように、事業を営んでいた納税者が死亡し、相続人がその事業を承継した場合には、被相続人の債権債務の清算や棚卸資産等の事業用資産の処分も行われないのであって、事業の廃止があったということはできない。しかも、所得税法は、事業主の死亡と廃業とを区分して規定し(所得税法五二条、五三条等)、事業主が年の途中で死亡しその相続人が当該事業を承継しなかった場合に限り、廃業と同様に扱うこととしているのであるから、事業主の死亡をもって直ちに廃業があったとはいえない。所得税法六三条は、廃業後に確定した費用及び廃業後に発生した費用については、必要経費に算入される機会がなくなることに鑑み、右費用を廃業前に遡って必要経費として控除することを認めた特例であり、相続によって事業が承継された場合に適用する余地はない。したがって、敬一郎の事業は同人の死亡により廃止されたと解すべきではなく、本件に所得税法六三条を適用する余地はない。

3  争点3(本件退職金支給債務の発生の有無)について

(被告の主張)

(一) 本件退職金規程によると、退職金支給事由として、<1> 定年退職、<2> 業務上又は業務外の事由による死亡、<3> 業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難となったとき、<4> 自己の都合による場合、の四つの事由が定められているだけで、使用者の死亡は退職金の支給事由とされていない。

(二) 使用者死亡の場合、支給率表のいずれの支給率を適用すべきかも、敬一郎死亡の時点で一義的に明らかであったといえないし、また、功労加算についても、過去に適用事例がなく、榮一及び由子に対して功労加算を適用するか、その金額の算定方法をどうするかについて、敬一郎死亡の時点で確定されていなかった。なお、有給休暇買上相当額については、本件退職金規程にその支給の根拠がなく、同じく確定されていたといえない。

(三) したがって、本件退職金の支給債務は、敬一郎の死亡時までに発生、確定していないというべきである。

(原告らの主張)

(一) 退職金規程が全ての退職事由を網羅して規定することはできないから、退職金規程の支給事由に規定がないことをもって、退職金支払請求権が認められないと解することはできない。被告の主張するように、使用者死亡による退職の場合に退職金が支払われないと解すると、自己都合により退職した場合には退職金支払請求権が発生するのに、使用者側に生じた事由により退職した場合には右請求権が発生しないという不合理を容認することとなり、本件退職金規程をそのように解釈することは、賃金の均等待遇を定めた労働基準法三条に反するものといわなければならない。

(二) 本件においては、敬一郎の死亡時に、退職金算定の基礎となる労働者の勤続年数、勤務内容、未消化有給休暇日数、退職事由は全て明確になっており、退職金の金額を法律上合理的に算定できたものであるから、死亡の時点において債務が確定していたものということができる。

被告は、支給率が一義的に明らかでないというが、本件は、使用者の死亡という使用者側の事情によって生じた事由による退職であるから、その支給率は、自己都合より高く、業務上死亡よりも低い「定年・死亡」の係数で算定することは当然であり(少なくとも自己都合退職の場合の支給率が認められるべきである。)、支給率表に使用者死亡の場合が記載されていないことは、退職金の金額を合理的に算定する上で何ら障害とならない。

功労加算については、退職金規程上は算定方法の規定がないが、勤務年数が長期にわたる者に対しては、自己都合退職者及び非行があった者を除いて、功労金を支給することとなっており、その支給額も基本給に勤務年数を乗じた額の二分の一を支給額の上限とする概括的な基準を定めていた。もっとも、榮一及び由子の退職まで、右要件に当てはまる退職者がなく、功労加算を加算して退職金が支給されたのは榮一及び由子が最初であったが、その後、要件に該当する退職者があり、その者に同様の支給が行われている。

なお、退職の際の未消化有給休暇の買取りも、敬一郎と従業員との間で、長年にわたり行われてきた労使慣行であり、その金額も退職時の給与日額に未消化有給休暇を日数を乗じることにより、容易に算定できるのであるから、その金額は敬一郎死亡の時点で確定していたものということができる。

第三争点に対する判断

一  争点1について

1  使用者の死亡が雇用契約の終了原因となるかどうかについては、明文の規定はないが、相続人は、被相続人の一身に専属したものを除き、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継するのであるから(民法八九六条)、使用者個人を看護又は教育するための雇用など労務の内容自体が使用者の一身に専属するものである場合や、使用者の変更によって労務の内容に重大な差異が生ずるような場合を除いては、雇用契約上の使用者の地位は相続の対象となり、使用者の死亡によって当然に雇傭契約が終了することにはならないと解するのが相当である。

本件雇傭契約を含め敬一郎と安田病院従業員との間の雇用契約は、安田病院を運営するための労務の給付を目的とするものであり、その労務の内容自体が使用者である敬一郎の一身に専属するものでないことは明らかであるし、安田病院が継続する限り使用者の変更によってその労務の内容に重大な差異が生ずるともいえないから、敬一郎の使用者たる地位は、相続人らの承継の意思の有無に関わりなく、本件相続によって原告ら共同相続人に承継されることとなるものであり、右雇用契約は敬一郎の死亡を原因として当然に終了するものではないというべきである。

2  原告らは、事業主体に変更があったときは、従業員が雇傭関係の承継を欲しない限り、使用者の死亡による雇傭関係の消滅が認められるべきである旨主張する。しかし、使用者たる地位が任意に譲渡される場合と異なり、相続の場合は、被相続人の権利義務が包括的に承継されることになるのであり、従業員の意思いかんによって相続されるか否かが決せられると解すべきではなく、仮に従業員において使用者の死亡を理由に雇用の継続を望まないとすれば、使用者たる地位を承継した相続人に対し、雇傭契約の解消を申し出ることによって、相続人との雇傭関係を終了させることが可能であるから(この場合の雇用契約の終了は、相続による雇用関係の承継後に生ずるものである。)、雇用契約上の使用者の地位が相続の対象となると解しても何ら不都合なことはなく、雇傭契約は、従業員がその承継を欲すると否とにかかわらず、使用者の死亡によっては当然に終了しないと解すべきであって、原告らの前記主張は採用することができない。

また、原告は、敬一郎の死亡により病院開設の許可が失効するから、敬一郎と安田病院従業員との間の雇用契約も終了する旨主張する。しかし、医療法七条一項の病院開設の許可は、主として医療施設として必要な人的物的要素を具備しているか否かに着眼して行われるいわゆる禁止の解除であって、病院の開設に伴う私法上の法律関係の効力を直接左右する性質のものではないから、開設者の死亡によって許可が失効したとしても、そのことによって直ちに病院の開設者と病院従業員との間の雇傭契約が終了したり無効となったりすると解すべき理由はなく(なお、右許可がないと、共同相続人が右雇傭契約の使用者たる地位を承継することができないと解することもできない。)、原告らの右主張も失当である。

3  右のとおり、本件雇傭契約は、敬一郎の死亡によって当然に終了するということはできず、その使用者の地位は、本件相続によって、相続人である原告らに承継されたものということができるが、本件においては、前記争いのない事実のとおり、原告ら共同相続人間において、敬一郎の遺産につき、家庭用財産を除く一切の財産及び債務を榮一が取得する旨の遺産分割協議が成立しており、これによれば、敬一郎と安田病院従業員との間の雇用契約上の使用者たる地位を含め安田病院の事業は全て榮一が承継することになったものということができるから、結局、右遺産分割協議の結果、榮一は、相続開始の時(敬一郎の死亡時)に遡って(民法九〇九条)右使用者たる地位を単独承継するに至ったものというべきである(原告らは、榮一が病院業を承継することは、遺産分割協議を待つまでもなく、原告ら共同相続人間の了解事項であったと主張するが、それは単なる事実上の了解にすぎず、法的には遺産分割によって初めて事業の帰属が確定したものというべきであるから、原告らの右主張は失当である。)。

そうすると、敬一郎と安田病院従業員(由子を含む。)との間の雇傭契約は、敬一郎の死亡によって終了することなく、榮一がその使用者たる地位を承継したということができるが、敬一郎と榮一との本件雇傭契約は、榮一が相続開始時に遡って使用者たる地位を承継したことにより、使用者としての地位と従業員としての地位とが同一人に帰した結果、混同によって終了したものというべきである。

なお、原告らは、事業主体が榮一に承継されたことにより、由子の勤務関係に重大な変動が生じたから、敬一郎の死亡により雇用契約の終了が生じたというべきである旨主張するが、由子は、前記争いのない事実のとおり、敬一郎の死亡の前後を通じ、技術員薬剤師として変わりなく勤務を続けているものであり、その間由子が退職したとの事実は認められず(由子は退職届の作成をしているが、このことのみをもって退職したとの事実を認めることはできない。)、原告らが主張するような所得税法上の青色事業専従者になるなどの事情が生ずることをもって、その勤務条件や勤務内容に実質的な退職と同視し得る程の変更があったということもできないのであって、原告らの右主張は理由がない。

4  ところで、被告は、税法は遡及して所得を再計算する取扱いをしていないから、税法上の取扱いとしては、遺産分割に遡及効を認めることはできず、敬一郎の死亡の時点では、未だ榮一について退職の事実は発生していない旨主張する。

しかし、榮一は、遺産分割協議の成立により、安田病院の事業を承継することになったものであるから、遺産分割協議が成立するまでの間に安田病院の事業から生じた収益についてはともかく、安田病院の事業それ自体は、民法九〇九条により相続開始時から榮一に承継されたものというべきであるところ、榮一についていつの時点で本件退職金の支給原因となる雇傭契約の終了があったといえるかどうかの判断は、その使用者と従業員の地位の混同という法的評価をいつの時点でなし得るかの問題であって、所得の再計算を遡及して行うこととは別問題であり、右遺産分割の遡及効を定めた民法九〇九条の規定を無視することはできないというべきであるから、遺産分割の遡及効を否定する被告の右主張は採用することができない。

5  以上のとおりであり、敬一郎死亡時において、敬一郎と由子との本件雇用契約は終了したとはいえないが(したがって、由子に対する退職金の支給債務が発生する余地はなく、由子の本件退職金は、敬一郎の事業所得の計算上必要経費に算入することができない。)、敬一郎と榮一との本雇用契約は地位の混同により終了したものというべきである。

二  争点2について

敬一郎と榮一との本件雇用契約が敬一郎の死亡時において地位の混同により終了したことは、前示のとおりであるし、また、由子は、敬一郎の死亡の前後を通じ変わりなく勤務を続けており、安田病院を退職したことがないことも、前示のとおりであるから、右両名が敬一郎の死亡後に退職したことを前提とする争点2については、検討する必要がない(ちなみに、敬一郎の病院事業は、敬一郎死亡により相続人である榮一に承継されており、廃止されていないというべきであるから、敬一郎の事業が同人の死亡により廃止されたことを前提として所得税法六三条の適用をいう原告らの主張は失当である。)。

三  争点3について

1  使用者の従業員に対する退職金の支給債務及びこれに対応する従業員の退職金支払請求権は、雇用契約の終了、すなわち退職の事実が生じたことにより当然に発生するというものではなく、労働契約、就業規則等でそれを支給すること及びその支給基準が予め定められているか、あるいは少なくとも明確な支給条件に従った慣行がある場合に発生するものと解すべきである(なお、右のような定めや慣行がなくとも、使用者の裁量によって恩恵的に退職金の給付がされることもないではないが、それを使用者の従業員に対する債務すなわち従業員の請求権として促えることができないことはいうまでもない。)。

そこで、敬一郎と榮一との本件雇用契約の終了によって、榮一の退職金支払請求権(敬一郎の退職金支給債務)が発生したか否かについて判断するに、前記争いのない事実及び甲第三号証によれば、本件就業規則を受けて制定された本件退職金規程において、退職金は、<1> 定年退職(満六〇歳)、<2> 業務上又は業務外の事由による死亡、<3> 業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難となったとき、<4> 自己の都合による場合のいずれかに該当するときに支給するものとするが、ただし、イ 勤続三年未満の者、ロ 嘱託又は臨時職員(パートタイマーを含む)、ハ 懲戒解雇された者、ニ 禁錮以上の刑に処せられ失職した者、ホ 同盟罷業、怠業その他争議行為又は怠業的行為をした者に該当する者には支給しない旨を定めていることが認められる。

そうすると、本件就業規則及び本件退職金規定は、使用者の死亡による相続に伴って使用者と従業員の地位が混同したことにより雇傭契約が終了し、退職した場合について、退職金を支給する旨を定めていないことは明らかであり、また、安田病院は敬一郎が開設したものであって、過去において右のような退職の事例が生じたことはなく、使用者の死亡により退職した者に退職金を支給する旨の慣行があったと認めることもできないから、敬一郎と榮一との本件雇用契約の終了によっては、榮一は敬一郎に対する退職金支払請求権を取得し得る余地はなく、敬一郎の退職金支給債務が発生したということはできない。

2  原告らは、退職金規程は全ての退職事由を網羅して規定することはできないから、退職金規程の支給事由に規定がないことをもって、退職金支払請求権が認められないと解することはできない旨主張する。

確かに、退職金規定に退職事由として直接規定されていない場合であっても、退職金規定の合理的な解釈によって、所定の退職事由に含まれると解すべき場合がないではないと考えられるが、本件のように、使用者の死亡により相続人たる従業員が事業(使用者としての地位)を承継し、地位の混同を生じたために雇傭契約が終了したという場合には、当該事業に係る財産関係が相続人たる従業員に帰属することになるのであるから、専業承継人に対して退職金を支給しないこととしても特に不合理であるということはできないし、そのような特殊な場合に敢えて退職金を支給するというのであれば、その旨を明確に定めておくのが相当であるというべきであるから、本件退職金規程が、相続により事業を承継したことによる雇傭契約の終了を退職金の支給事由として予定していると解することは困難である。

3  また、原告らは、自己都合により退職した場合には退職金支払請求権が発生するのに、使用者の死亡という使用者側に生じた事由により退職した場合に右請求権が発生しないと解釈することは、労働基準法三条に反するとも主張する。しかし、本件退職金規程が使用者側に生じた事由による退職はおよそ退職金の支給事由とならない旨を定めていると理解すべきかどうかはさておき、従業員が相続により事業を承継したことによる雇用関係の終了を、退職金の支給事由としていないことが不合理でないことは前示のとおりであって、労働基準法三条に何ら違反するものでないことは明らかであるから、原告らの右主張も失当である。

4  以上のとおり、本件雇用契約の終了によって、榮一の敬一郎に対する退職金支払請求権は発生しないというべきところ、本件退職金規程が定める功労加算は、在職中特に功労のあった者について退職金のほかに相当の額を加算するというものであり、退職金支払請求権が発生した場合を前提として支給される性質のものと解されるから、榮一に退職金支払請求権が発生しない以上、榮一に対し功労加算金が支給される余地もないというべきである。

また、有給休暇買上相当額については、本件退職金規程(甲第三号証)中に何らこれに関する規定はないが、原告らの主張及び甲第一三ないし第一五号証(退職金計算書)によれば、これも退職金支払請求権を有していることを前提として支給されるものであることが窺われ、そうすると、退職金支払請求権を有しない榮一の場合には、右有給休暇買上相当額が支給される余地がなく、これもまた、敬一郎の死亡時において発生、確定していた債務ということはできない。

5  したがって、敬一郎の榮一及び由子(退職の事実が認められない。)に対する退職金支給債務は、功労加算及び有給休暇買上相当額を含め、発生していなかったというべきであるから、本件退職金は、敬一郎の事業所得の金額の計算上必要経費に算入することはできないといわなければならない。

第四結論

以上のとおり、敬一郎の事業所得の金額の計算に当たり、本件退職金の必要経費算入を否認した被告の判断は正当というべきところ、前記第二の三掲記の当事者間に争いのない事実によれば、敬一郎の平成元年分の事業所得の金額及び総所得金額はいずれも被告主張のとおりとなり、所得税法等に従って算出された納付すべき税額は、被告主張のとおり三五五四万〇六〇〇円となる。

したがって、本件更正は、適法であり、また、本件決定は、本件更正によって新たに納付すべきこととなる税額に基づき、国税通則法に従って適法に算出された過少申告加算税を賦課するもので適法ということができる。

よって、原告らの請求はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤久夫 裁判官 岸日出夫 裁判官 德岡治)

退職金計算書

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退職金計算書

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平成元年分 課税処分等の経緯

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