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札幌高等裁判所 昭和50年(う)267号 判決 1977年6月23日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年二月に処する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人渡辺敏郎、同富樫基彦、同渡辺裕哉が連名で提出した控訴趣意書及び札幌高等検察庁検察官平井令法が提出した控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用し、当裁判所はこれに対し次のように判断する。

一  弁護人らの控訴趣意について

所論は要するに、原判決は、被告人が、自己の運転する普通乗用自動車のボンネット上に乗り上ってしまった川村幹夫を、路上に振り落とし、同人が自車の車体下に入り込んだことに気づくや、そのまま自車の運転を継続すれば同人を車体底部と地面との間にはさんで同人に衝撃を与えることになるのを知りながら、自車を時速一五ないし二〇キロメートルで進行させて、車体下にある同人を約八〇メートルの間引きずる暴行を加え、加療約一〇日間を要する見込みの顔面・右肘部・右膝下部打撲擦過傷及び右の間に自覚症状があらわれてその後も引き続き加療を要した頸椎捻挫の傷害を負わせた旨の事実を認定した。しかしながら、(あ)被告人車の車体下には大人が無傷で一瞬の間に滑り込むだけの空間は存在しない。(い)被告人車の車体下の構造上、八〇メートル引きずられる間、人間がつかまっていられる形状の部分はない。(う)被告人車の下部のどこにも被害者がつかまった跡はない。(え)かりに被害者が被告人車の車体下に入って引きずられたのだとすると、凹凸のある凍結した路面上であるから、原判示程度の軽い傷害ではすまず、相当重い傷害を受けることが明らかである。したがって、被害者が被告人車の車体下に入って引きずられた事実はないのであって、原判決には事実の誤認がある、というのである。

そこで、所論にかんがみ、記録を精査し当審における事実取調の結果を合わせて、検討を加える。なお、可法警察員樋口洋作成の昭和五〇年一月八日付実況見分調書によると、本仲の出来事が発生した場所である北海道恵庭市栄恵町三二番地食堂「伝助」付近から、同町五四番地スナック「もん」にかけての道路・店舗・住宅の位置関係は、別紙(一)の図面のとおりであると認められる。

1  関係者の各供述

被害者川村幹夫の原審証言は、右実況見分調書中の同人の指示説明と総合すると、概要次のとおりである。すなわち、被告人が、普通乗用自動車(司法警察員片岡武作成の昭和五〇年一月一二日付実況見分調書によると、自動車登録番号「札五五す九五」、昭和四六年式トヨペットコロナ四ドア、デラックス仕様、エンジン総排気量一、五八〇cc。以下「被告人車」という。)を別紙(一)図面の②点(食堂「伝助」前路上)に停車させて、同所で川村の連れである大沢彰、西田新一らと口論しているとき、川村は、その横を通り抜け被告人車の前方に出て、別紙(一)図面の点付近に立ったが、振り返りざまくらいに被告人車が発進して来たために、逃げられずに同車のボンネットに手をかけた。ところが、被告人車は停止せずになお進行を続けたので、別紙(一)図面の④点(点)付近で、川村は、被告人車のボンネット上に乗り上がり、腹ばいになって、おそらくワイパーをつかんだが、被告人が自車を左右にゆさぶり、またブレーキをかけたために、ボンネット上から同車の前方―同図面点付近の路上(スナック「古都」前)―に落ちた。そのとき、被告人車のデフが見えた。被告人車は、路上に横たわっている川村の身体の上に足元から進行して来たので、川村は、危険を感じとっさに腹ばいになって、左手で被告人車底部前面のトーションバー、スタビライザー又はローアームをつかみ、右手で顔をかばって、やゝ斜め腹ばいの状態で被告人車に引きずられて行った。どのくらい引きずられたかわからないが、手がはずれて車体下からころがるようにして放り出された。どうして出たか自分ではわからない。あとから、自分が別紙図面(一)の点付近(スナック「もん」前)にいたとわかった、というのである。

川村幹夫は、さらに当審証人として、右とほぼ同旨の供述をするほか、気がついたときは、被告人車から離れてスナック「もん」の前で横になっていたが、つかまっていた手を離したのは覚えていない、被告人車に引きずられてカーブ(別紙(一)図面の長山隆明方前T字型交差点を指す。)を曲がったのも自分ではわからない、カーブを曲がるときに車体から横へ出たのだと思うが、車から離れてから誰かに「もん」の前まで運ばれたという感じはない。車体下でつかまっていたことは何十年たっても忘れない、と供述する。

次に目撃者の供述をみると、当夜川村幹夫は五名の者と連れ立って飲み歩いていたのであるが、その一人であり川村幹夫の弟である川村作蔵は、原審証人として、被告人車がボンネットを押えている川村幹夫を押しているところを、別紙(一)図面の②点付近で見て、すぐに食堂「伝助」前の交差点を右に入り被告人車を追った、被告人車が長山隆明方前で再び右折する手前で、一〇ないし一五メートルくらい後から、被告人車の車体下に川村幹夫の足があるのを見た、それは後から見てデフと右側のタイヤの真ん中あたりだった、さらに右折して被告人車を追うと、スナック「もん」の前で川村幹夫が仰向けに横たわっていた、同人が被告人車から離れるところは見ていない、と供述する。

また、同じく川村幹夫の連れの一人である今野正美は、原審証人として、被告人車が川村幹夫を押すので走りながらそのハンドルを握ったが、速度が出たので転んでしまった、走って行く被告人車を三、四〇メートル以上後方から見たが、その車体下に足が二本見えたような感じがした、追って行って右へ曲がると川村幹夫が道路端で仰向けに寝ていた、と供述する。

さらに、同じく川村幹夫の連れの一人である西田新一は、当審証人として、川村幹夫が被告人車のボンネット上に乗ってから、被告人が急ブレーキをかけたので、川村は路上にすべり落ちて被告人車の下に入ってしまった、ところが被告人車がエンジンをふかしてまた走り出したので、さらに被告人車を追ったが、左右両輪の間に川村の両足が引きずられて伸びているのが見えた、被告人車が長山隆明方前を右折するとき、自分は「ふじや食堂」の前あたりにいたが、川村は放り出されるようにして被告人車の左前輪と左後輪の間から出て来た、車体下から出るところは直接見ていないが、前後の状況や川村が倒れていた状態などからそう考える、そのあとで自分が川村をスナック「もん」の前まで抱きかかえて運んだ、と供述する。

そのほか、食堂「伝助」の経営者である鶴飼倉吉は、原審証人として、遠距離で薄暗かったのでよく見えなかったが、バー「エンゼル」の前あたりで、誰かが被告人車の横から放り出されて右折するまでそのまま引っ張られたようだった、という趣旨の供述をしている。なお、川村幹夫の連れの一人である大沢彰及び被告人車の同乗者である長崎修の各供述証拠も存在するが、この両名は、川村幹夫が被告人車の車体下に入って引きずられたか否かを知らない。

以上、被告人を除く関係者らの供述によると、細かい部分に相違する点がないではないが、川村幹夫、川村作蔵、今野正美、西田新一の各供述は、川村幹夫がスナック「古都」前(別紙(一)図面の点)付近で被告人車の車体下に入ってしまって、同所から長山隆明方前のT字型交差点まで被告人車に引きずられて行ったという点で一致しており、被告人の供述を除いてはこれを否定する供述証拠は存在しない。なお、当審において取調べた司法巡査作成の昭和五二年四月七日付報告書によると、別紙(一)図面の点から右T字型交差点入口までの距離は六二・八メートルであると認められる。

2  被告人の供述

被告人の司法警察員(事件の翌日である昭和五〇年一月八日)及び検察官(同月二二日及び二三日)に対する各供述は、前記の関係者らの供述と一致している。すなわち、大沢彰らから逃げるために被告人車を発進させようとしたところ、川村幹夫が両手でボンネットを押さえたが、そのまま押しつけるようにして前進すると、同人はボンネット上に腹ばいに乗ってしまった。そこで、同人を振り落とそうとして、ハンドルを左右に切りブレーキを踏むと、同人は被告人車の前にすべり落ちたが、そのまま前進し、同人が車体下に入ったことを知りながら走行した。何か引きずっているような感じがして、アクセルを踏んでも速度が上がらなかった。同人を轢いたと思った。T字型交差点を右折してから、急に車が軽くなった、というのである。

ところが、被告人は原審公判廷において、川村がボンネット上に乗っているとき、誰かが窓から手を入れてハンドルをつかんだので夢中で走ったが、その手が離れたときは、川村の姿はボンネット上に見えなかった、同人が車の下に入ったとは思わなかったし、ものを轢いたとか乗り上げたとかの異常は全く感じなかった、警察の取調では、そう言っても聞き入れてもらえないのでやむをえず認めた、検察庁の取調の際にも早く釈放されたい一心で自供した、という趣旨の供述をし、当審公判廷においてもほぼ同旨の供述をしている(なお、当審においては、川村がボンネット上に完全に乗ったかどうかわからない、とさらに供述の後退をみせている。)。

3  所論の検討

(一)  以上の各供述証拠によると、被告人が原審・当審各公判廷において否認するにもかかわらず、川村幹夫が被告人車の車体下に入って約六五メートルを被告人車に引きずられたことは明らかであると思われる。もっとも、川村幹夫が被害者本人であり、川村作蔵がその弟、今野正美及び西田新一がその友人であることから、その各供述の信用性は十分に吟味されなければならないが、これらの各供述を仔細に検討しても、川村幹夫らが右の点について虚偽の供述をしていると疑うべき積極的な根拠を見出だすことはできない。もっとも、弁護人が指摘するように、川村幹夫の供述中、同人が被告人車のボンネットから路上に落ちたときに同車のデフを見たという点は、合理性を欠くように思われるが、たとえそれが客観的な事実に反するとしても、動転した状態にあった川村が何らかの錯覚によってそのように感じることはありうることであって、そのことから被告人車の車体下に入って引きずられたという点についてまで、同人の供述が信用しえないとはいえない。

また、被告人車のボンネット上に乗っていて、その後ボンネット上から姿を消した川村幹夫が、けんめいに被告人車を追った同人の仲間達の誰よりも先に数十メートル遠方に到達していたことは、証拠上疑いのないところであるが、川村が被告人車の車体下に入り込んで同車に引きずられて行ったとすること以外には、本件の証拠関係のもとにおいて、その原因として現実的な可能性のあるものを想定することは困難である。

(二)  しかし、所論がいうように、川村幹夫が被告人車の狭い車体下に入り込んで数十メートルも引きずられながら、走行中の同車の車体下から脱出し、原判示の程度の比較的軽い傷害を負うにとどまるということの可能性には、一見して疑問を生じるところである。そこで、その可能性について物理的・医学的側面からの検討を加える。

(1) 川村幹夫の体格と車体下の構造

司法警察員作成の昭和五〇年一月一一日付報告書及び当裁判所の実施した検証の結果を総合すると、本件当時の川村幹夫の体格はおおむね別紙(二)に記載する程度であったと認められる。

一方、当審において取調べた北海道自動車短期大学助教授今田美明作成の鑑定書、同補充書及び当審証人今田美明の供述を総合すると(以下「今田鑑定」という。)、被告人車の底部の構造及び各部の名称は別紙(三)のとおりであり、同車を平地に停車させた場合の底部の各構造物から地表までの垂直距離は別紙(四)の1ないし3のとおりであると認められる。

すなわち、被告人車の底部には、川村幹夫の腰の厚さである二四・〇センチメートルよりも低い構造物として、フロントクロスメンバー、フライホイールアンダーカバー低部など多数のものが存在する。そこで今田鑑定は、川村幹夫と同じ体格の男子が被告人車の車体下に入った場合、右の各構造物が身体にくい込み、相当量の車両荷重を受けることにより、身体にかなりの損傷を生じるという。しかし、今田証言によると、今田鑑定は、人体の伸縮を考慮に入れず、身体については所与の数値を固定的に取扱ったものであることが明らかである。

当審において取調べた札幌医科大学教授八十島信之助作成の鑑定書並びに同人の証人及び鑑定人として各供述を総合すると(以下「八十島鑑定」という。)、腰部の厚さは測定の際の姿勢によって大きく変化し、仰臥位で計測した場合には立位の場合よりも二センチメートル程度薄くなること、腰椎部の屈曲の程度と腰仙連接の角度の変化によって前後径は著しく変動しうること、したがって、被害者の腰の厚さは圧迫により負傷することなしに二〇センチメートル内外になりうること、人体の体幹部の横断面は長方形ではなくむしろ長円形に近いことが認められる。そこで八十島鑑定は、これらの点を考慮して、被告人車底部の後輪より前方にある高さ二〇センチメートル以下の各構造物―すなわち、フロントクロスメンバー、フロントショックアブソーバ下部取付部、フライホイールアンダーカバー低部、サブフレーム補強フレーム低部、エグゾーストパイプ前部、センタークロスメンバー低部、サブフレーム前方低部、サイドステップスカート低部、サブマフラー低部、サブフレーム後方低部、リアステップフロアボード低部―を個別に検討し、その各構造物の位置からして、被告人車底部のより高い部分の下を被害者の身体が通過すること(被害者の身体からみればその上を被告人車が通過すること)が可能であり、その場合、軽い擦過傷か圧迫傷を負うにとどまることもありうる、としている。別紙(三)の被告人車低部の構造及び別紙(四)の各数値をつぶさに検討すると、八十島鑑定のこの部分は十分にこれを首肯することができる(なお、本件においては、川村幹夫が被告人車の前輪と後輪の間から横に脱出するまでの可能性を検討すれば足りるから、被告人車底部の低い構造物のうち、後輪のすぐ前方ないしこれより後方にあるリーフスプリングフロント取付ブラケット低部、エグゾーストパイプ後部、エグゾーストパイプ接合ブラケット、デフアレンシャルケース中央低部、デファレンシャルドレンオイルコック及びリアショックアブソーバー下部取付低部については考慮する必要がない。)。

しかも、前記八十島鑑定書に添付された検察資料一二〇号『交通医学に関する諸問題』二二頁以下(写)によると、一般に自動車の車体は、走行時には停止時より浮き上がり、制動時には逆に沈むことが認められるので(今田鑑定のうちこれに反する部分は採用しない。)、被告人車が被害者の身体の上を通過することは、別紙(四)の各数値による場合とくらべてより容易になると考えられる。したがって、川村幹夫の身体が被告人車の車体下に入り込み、被告人車がその上を通過しても、川村の負う傷害が原判示程度の比較的軽いものにとどまることは十分に可能性のある事態であると認められる。したがって、上記の車体下の空間に関する所論の(あ)は理由がない(所論(え)の傷害の点については、なお後記(3)においても検討する。)。

(2) 走行中の車体下における身体の保持

前記1の川村幹夫らの各供述によれば、同人は約六五メートルの間、走行する被告人車の車体下で自己の身体を支えていたことになるのであるが、そのようなことが可能であろうか。

司法警察員片岡武作成の昭和五〇年一月一二日付、同年三月二九日付各実況見分調書に添付された写真によると、被告人車の底部前面には別紙(三)の位置に、トーションバー(スタビライザーバー)及びローアームがあり、その形状からみて、路面に腹ばいになり左手を上げて、とっさにそのいずれかを握持することは、たやすくはないにしても不可能ではないと認められる。なお、右の各写真によると、トーションバーの車両中央よりやゝ右側(左右の関係は、車両の前方に向かった場合。以下同じ)の部分及び右側ローアームの下面に、乾燥付着した泥が剥離した痕跡を明らかに看取することができる。したがって、これに反する上記所論の(い)及び(う)は理由がない。

さらに、被告人車が約六五メートル走行する間、トーションバー又はローアームを握持し続けることが可能であるか否かを判断するには、川村幹夫の体力、着依の性状、路面の状況などを検討しなければならない。川村幹夫は当時二九歳の筋骨の発育した健康な男子であり、司法警察員撮影の写真によると、同人は本件当時冬物の厚手のブレザーコート及びズボンを身につけていたことが認められる。また、司法巡査佐藤紘作成の昭和五〇年一月八日付実況見分調書によると、別紙(一)図面のスナック「古都」前から長山隆明方前に至る道路の状況は、本件の出来事の約二時間半後である右同日午前一時五〇分から午前二時二〇分までの間において、アスファルト舗装上の降雪が圧雪状態となり、凍結に近く滑りやすい状況であり、路面に大きな凹凸やわだちもなく比較的平坦であったこと、人が歩いても足跡が残らず車両のタイヤ痕も明らかに印象されるような状態ではなかったことが認められるので、本件の出来事が起きた同月七日午後一一時三〇分ころも、これと似通った道路状況であったと推定することができる。したがって、アスファルト乾燥路面の場合などにくらべて、路面の摩擦係数ははるかに低かったことになる。

そして、被告人車が六五メートル走行するのに要する時間は、時速一五キロメートルとして約一六秒(小数点以下を四捨五入。以下同じ)、時速二〇キロメートルとして約一二秒である。

右の各事情を総合し、さらに生命の危険に直面した人間がいわゆる「火事場の馬鹿力」によって通常以上の力を発揮しうることをも考慮すれば、被告人車の車体が身体に加える圧力が、前記(1)のように被告人車が身体の上を通過することを可能とする程度のものである以上、一六秒間程度トーションバー又はローアームを握持し続けることは、決して不可能なことではないと考えられる。

この点について八十島鑑定は、右の握持によりおそらくその人の体重より大きい力が加わると考えられ、握持しやすい形状の構造物がないことや、進行に伴なう振動があることからも、一五ないし二〇秒間把握を継続することはきわめて困難と考えられる(鑑定書一五頁)、としている。しかし、右の体重より大きい力が加わるとの点については、とくに科学的な根拠があるわけでないことは同鑑定人の自認するところであり、前記のように路面の摩擦係数が低いことを考慮すると、同鑑定人の専門外の事項に関する右の鑑定意見は採用しがたい。また、車両底部構造物の形状や進行に伴なう振動を考慮しても、一六秒程度の握持の継続は、容易なことではないにしても、前記のように、不可能なことではないと認められる。今田鑑定も、この点の結論は八十島鑑定とほぼ同旨であるが、同様にこれも採用しがたい。

さらに、八十島鑑定は、鑑定書においては、素手で摂氏零度以下の金属製の構造物を持続して把握することは困難であるばかりでなく、そのようなことをすれば手の指に表皮剥脱などの損傷ができたはずである、という。しかし、同鑑定人は当審公判廷においては、治療を要しない程度の損傷にとどまる可能性もあり、目につくほどの凍傷が生じるのは摂氏マイナス五度あるいはマイナス一〇度以下の場合であると供述する。札幌管区気象台長作成の昭和五二年五月一八日付回答書によると、昭和五〇年一月七日午後一一時三〇分ころの恵庭市の気温は摂氏〇・五度ないし一・五度であったと推定されるから、素手で一六秒程度トーションバー又はローアームを握持し続けることは、生命の危険に直面した人間にとって不可能なことではなく、その場合に手指に大きな損傷を受けないですむ蓋然性があると認められる。

(3) 右折時の車体下からの脱出

川村幹夫が、別紙(一)図面の点付近で被告人車の車体下に入り込んでしまい、トーションバーかローアームを握持して同車に引きずられて行ったものだとすれば、同人が車体下から脱出した経緯としては、前記の各供述証拠を総合すると、西田新一の当審証言のとおり、被告人車が同図面の長山隆明方前を右折する際に、被告人車の左前輪と左後輪との間から放り出されるようにして脱出したということしか考えられない。はたして、そのようなことが可能であろうか。

今田鑑定は、時速一五ないし二〇キロメートルの場合、被告人車の前輪後部があった地点に後輪前部が達するまでの時間は〇・三三秒ないし〇・四五秒であるから、有効脱出時間は〇・一秒ないし〇・二秒程度であるにすぎず、前後車輪間からの脱出は不可能である、という。しかし、この鑑定意見は、右折時の外輪差と車体下の人間に加わる遠心力とを十分に考慮に入れていないと思われる。

八十島鑑定が指摘するように、自動車が右折する場合には、外輪差により、左後輪は左前輪の軌跡より内側(右側)を通過するのであるが、被告人車が回転半径五メートルで右折すると、外輪差はおよそ六〇センチメートルに達する。したがって、この場合には、別紙(二)の体格の人間が左前輪の軌跡と左後輪の軌跡との間に横たわることは、十分に可能である。

川村幹夫が被告人車の車体下に入り込んだのだとすると、同人は被告人車が右折を開始するまでの間、一二秒ないし一六秒位にわたって握りにくいトーションバー又はローアームを握持し、必死に自己の身体を支えていたのである。そこで、被告人車がさほど速度を落とさないで右折した(西田新一の当審証言)のであるから、川村の身体に左方への遠心力が加わり、同人の手を支点として同人の身体が左方へ振られた形となって、そのとき同人が力尽きてトーションバー又はローアームから手を放すということは、大いにありうる事態である。

その場合、運が良ければ、手を放して路上に横たわった状態となっている川村の身体の左側を左前輪が、右側を左後輪が通過して、いずれの車輪も身体に触れないですむことも、ありえないことではない。この場合に、今田鑑定のいう「有効脱出時間」を考慮に入れないでよいことはいうまでもないところである。

八十島鑑定によれば、右の場合にも前記(1)の場合と同様に、車体下の人間が軽い擦過傷又は圧迫傷を負うにとどまることもありうると認められる。すなわち、川村幹夫が被告人車の車体下に入り込んで約六〇メートルの間同車に引きずられ、同車が右折する際に左前輪と左後輪の間から脱出したとしても、原判示程度の傷害を負うにとどまることがありうるのであって、前記所論の(え)は採用することができない。なお、所論は、川村幹夫を治療した西部哲雄医師の、右のようなことがあれば車体下に入った人間は重傷を負うはずである旨の原審公判準備期日における証言を援用するが、この供述はとくに具体的な根拠に基づかない漠然とした臆測を述べたにすぎないものであることが、供述自体から明らかである。

弁護人らは、事実取調の結果に基づく弁論として、八十島鑑定によっても被告人車底部の左側に人間が入り込むことは不可能なのであるから、左側方へ脱出することは不可能である、と主張する。たしかに、被告人車底部の底い構造物は車両中央より左側に多く存在していることが認められるので、川村幹夫が車両底部の左側に寄った位置にあって、トーションバー又はローアームを握持し約六五メートル引きずられて行くことはほとんど不可能であると考えられ、前記の泥が剥離した痕跡の位置が右側にあることからみても、被告人車が直進している際には、川村の身体の中心線は車両底部の中央より右側にあったものと認められる。そして、川村が左側の前後両輪の間から脱出したものだとすれば、当然その前に同人の身体上を被告人車の中央部分、次いで左側部分が通過しなければならない。しかし、その通過する部分が、当初同人の身体があった部分より車両底部の後方に寄った場所であることは明らかである。被告人車底部の構造及び各構造物から地表までの垂直距離(別紙(三)及び(四))を検討すると、川村の腰の上を被告人車のセンタークロスメンバーの中央よりやゝ右の部分、右側リヤステップフロアボート、プロペラシャフト、左側リヤステップフロアボートのサブマフラーより後方の部分、サイドステップスカート後部が順次通過して行けば、大きな衝撃を受けることなく、川村が左側前後両輪の間から脱出することは、可能であると認められる。したがって、弁護人らの右主張は採用することができない。

(三)  右の次第で、物理的・医学的側面からの検討を加えても、川村幹夫が被告人車の車体下に入り込んで同車に約六五メートル引きずられ、同車が右折する際に車体下から脱出することは可能であり、前記1の川村幹夫らの各供述及び前記2の被告人の自白と合致する右の事実経緯と矛盾する事実は存在しない。

そして、原審証人西部哲雄の供述及び司法警察員撮影の写真により認められる、川村幹夫が右頬、あご、右肘、右膝裏に負傷したこと、同人が当時着用していた衣服に泥が付着していたことをも合わせ考えると、原判決の認定に沿う川村幹夫らの各供述及び被告人の自白は十分にこれを信用することができ、被告人の原審・当審各供述中これに反する部分は信用することができない。

ただし、原判決の認定事実中「スナック『門』付近の路上まで約八〇メートルの間引きずる」との部分は、右に検討したところから明らかなように誤りであり、「長山隆明方前交差点路上まで約六五メートルの間引ずる」とするのが正しいが、この事実誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるとはいえない。

したがって、原判決には、所論指摘の点を含め、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認は存在しない。それゆえ、論旨は理由がない。

二  検察官の控訴趣意について

論旨は、被告人を懲役一〇月の実刑に処した原判決の量刑が軽過ぎて不当である、というのである。

本件は、先にみたように、被害者が被告人車の直前に立っているのに、これにかまわず被害者に向けて自車を発進、前進させ、同人が避け切れずにボンネット上に乗り上がるや、自車を蛇行させ、あるいは急制動措置をとって、同人を路上に落下させ、さらに、同人が進行する自車の車体下に入り込んでしまったことに気づきながら、時速一五ないし二〇キロメートルで自車を進行させ、六〇メートル以上にわたって車体下にある同人を引きずり、傷害を負わせたという事案である。被告人のこの行為がきわめて危険なものであることはいうまでもなく、被害者が比較的軽い傷害を負うにとどまったのは、先にみたところから明らかであるように、まことに稀有な幸運に恵まれたというべきなのであって、まかりまちがえば一命を失う危険も多分にあったのである。また、犯行の動機は、飲酒のうえ自動車を運転して、さらに飲酒を重ねるために恵庭市の飲食店街に赴き、狭い道路を進行中に、被害者の連れである歩行者二名ともめごとを起こし、相手方から顔面を殴打されたりしたために、このうえ暴行を加えられることを恐れて、同乗者の長崎修が事態を解決するために車外に出ているのに、これを置き去りにし、その場から逃げたい一心で、あえて被害者の立っている前方に向って自車を発進させたというものであって、恐怖心にかられたという事情はあるにしても、総合的にみると同情の余地に乏しいというほかはない。被告人の本件所為は、被告人の利己的な性格と人命尊重の精神に欠けることとを如実に示すものであって、厳しい非難が加えられるべきものである。

したがって、一方では、幸いにして被害者の受けた傷害が大事に至らなかったこと、犯行に至る経緯には被害者の連れの者にも責められるべき点のあること、被害者との間で治療費のほかに金二八万円を支払って示談が成立していること、被告人には全く前科がないことなど、被告人のため有利に斟酌すべき事情も存在するが、これらの点を十分に考慮しても、過失による交通事犯の量刑例に比照して、原判決の量刑は軽過ぎるものというほかはない。それゆえ、論旨は理由がある。

そこで、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により、原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書を適用して、当裁判所において直ちに次のように自判する。

原判決が確定した事実に法律を適用すると、被告人の原判示所為は刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で、前記諸般の情状を考慮して被告人を懲役一年二月に処し、原審及び当審における訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項本文によりその全部を被告人に負担させることとして、主文のとおり判決をする。

(裁判長裁判官 粕谷俊治 裁判官 高橋正之 近藤崇晴)

<以下省略>

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