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最高裁判所第二小法廷 昭和57年(あ)1504号 決定 1984年12月21日

右被告人Y1、同Y2、同Y3、同Y4、同Y5に対する騒擾指揮、威力業務妨害、被告人Y7に対する騒擾助勢、威力業務妨害、被告人Y8、同Y6に対する騒擾助勢、威力業務妨害、公務執行妨害各被告事件について、昭和五七年九月七日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、各被告人から上告の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

被告人Y1外三名の上告趣意について

上告趣意一は、単なる法令違反の主張であり、同二は、刑法一〇六条の騒擾罪の規定自体があいまい、不明確であるとして憲法三一条、二一条違反をいうが、右規定が所論のようにあいまい、不明確であるとはいえないから、所論違憲の主張は前提を欠き、同三のうち、現場写真の証拠採用に関して違憲をいう点は、記録によれば、右写真のフィルム押収手続等に所論の違法はなく、右写真の証拠能力を認めた原判断は正当であるから、所論違憲の主張は前提を欠き、その余は、違憲をいうかのごとき点を含め、実質は単なる法令違反の主張であり、同四は、憲法二一条違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

なお、犯行の状況等を撮影したいわゆる現場写真は、非供述証拠に属し、当該写真自体又はその他の証拠により事件との関連性を認めうる限り証拠能力を具備するものであつて、これを証拠として採用するためには、必ずしも撮影者らに現場写真の作成過程ないし事件との関連性を証言させることを要するものではない。

弁護人小泉征一郎、同木内俊夫、同庄司宏の上告趣意について

上告趣意第一は、憲法前文、九八条一項、九九条違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反の主張であり、同第二は、憲法三一条、二一条違反をいうが、騒擾罪を規定した刑法一〇六条は、所論のようにその構成要件が無内容、あいまい、不明確であるとはいえないから、所論違憲の主張は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第三のうち、所論ビラ等の証拠採用に関して憲法三七条二項違反をいう点は、記録によれば、第一審が「右ビラ等の存在」を立証趣旨としてこれを非供述証拠として採用したことに刑訴法三二〇条一項違反を容れる余地はないとした原判断は正当であるから、所論違憲の主張は前提を欠き、その余は、憲法三一条、三七条二項、二一条違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

なお、同一地域内において、構成を異にする複数の集団により時間・場所を異にしてそれぞれ暴行・脅迫が行われた場合であつても、先行の集団による暴行・脅迫に触発、刺激され、右暴行・脅迫の事実を認識認容しつつこれを承継する形態において、その集団による暴行・脅迫に時間的、場所的に近接して、後の集団による暴行・脅迫が順次継続的に行われたときには、各集団による暴行・脅迫は全体として同一の共同意思によるものというべきであつて、これと同旨の見解に立ち、昭和四三年一〇月二一日午後八時四五分ころから同月二二日午前一時ころまでの間に国鉄新宿駅の構内及びその周辺で発生した所論各集団暴行等につき、これらの暴行等は全体として同一の共同意思によるものと認められるから包括して一個の騒擾罪が成立するとした原判断は、記録及び証拠物に徴し正当として是認することができる。

同第四は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

なお、騒擾罪を規定した刑法一〇六条にいう暴行・脅迫は一地方における公共の平和、静謐を害するに足りるものでなければならないところ(最高裁昭和三三年(あ)第二〇八二号同三五年一二月八日第一小法廷判決・刑集一四巻一三号一八一八頁参照)、右にいう「一地方」に該当するか否かについては、単に暴行・脅迫が行われた地域の広狭や居住者の多寡などといつた静的、固定的要素のみによつてこれを決めるべきものではなく、右地域(同所にある建物・諸施設、事業所などをも含む。)が社会生活において占める重要性や同所を利用する一般市民の動き、同所を職域として勤務する者らの活動状況などといつた動的、機能的要素をも総合し、さらに、当該騒動の様相が右地域にとどまらず、その周辺地域の人心にまで不安、動揺を与えるに足りる程度のものであつたか否かといつた観点からの考察も併せて行うべきであつて、これと同旨の見解に立ち、交通の一大要衝である国鉄新宿駅の構内及びその周辺で敢行された被告人らを含む学生・群衆らによる本件集団暴力行動が「一地方」における公共の平和、静謐を害するに足りるものであるとした原判断は、記録及び証拠物に徴し正当として是認することができる。

同第五のうち、アマチュアカメラマン撮影の現場写真の証拠採用に関して憲法三一条、三五条違反をいう点は、記録によれば、右写真のフィルムの押収手続及びその現像・焼付の過程等に所論の違法はなく、右写真の証拠能力を認めた原判断は正当であるから、所論違憲の主張は前提を欠き、判例違反をいう点は、所論引用の判例は事案を異にし本件に適切でなく、その余は、憲法三一条、三七条二項違反をいう点を含め、実質は事実誤認、単なる法令違反の主張であり、同第六は、事実誤認の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(牧圭次 木下忠良 鹽野宜慶 大橋進 島谷六郎)

被告人の上告趣意<省略>

弁護人小泉征一郎、同木内俊夫、同庄司宏の上告趣意

目次、

第一、正当行為論<省略>

憲法前文、同九八条一項・九九条違反

一、ベトナム戦争の悲惨な歴史

二、ベトナム戦争のエスカレートとその残虐性

三、ベトナム侵略戦争の違法性

四、日本政府のベトナム戦争への加担

(一) 政治的加担

(二) 軍事的加担

(三) 経済的加担

五、日本国有鉄道のベトナム戦争への加担

六、国際的ベトナム反戦運動

七、我国におけるベトナム反戦運動

八、ベトナム反戦斗争勝利の歴史的意義

九、被告人らの行為の正当性

一〇、原判決の判断

一一、原判決の違憲性

第二、原判決には、刑法一〇六条につき、憲法の解釈を誤つた違法がある。<省略>

一、原審の判断

二、構成要件の明確性の法理

三、騒擾罪の構成要件の不明確性

(一) 騒擾罪の構成要件は何か

(二) 多衆

(三) 聚合

(四) 暴行・脅迫

(五) 共同意思

(六) 一地方における公共の平和

(七) 結論

四、原判決の違憲性

第三、共同意思認定の誤り

憲法三一条、三七条二項、二一条一項違反

一、事前の経過

(一) 事前の方針確立について

1 事実の偏頗な抽出

2 証拠によらない事実認定

3 ビラ等の証拠能力

(二) 新宿駅に集結するまで

二、東口広場における事実経過

(一) 合同集会及びデモ行進

(二) 午後八時以降の集会

(三) 午後八時四五分ころの状況

三、共同意思の認定について

(一) 認定内容

1 判決の論理

2 共同意思の認定

(二) 共同意思の事前確定

(三) 共同意思の展開

四、集団の同一性

五、騒擾の始期及び終期

六、結語

第四、「一地方の公共の平和・静謐」について

第五、現場写真の証拠能力について

一、判決に影響を及ぼすべき法令違反

二、現場写真は供述証拠と解すべきであるのに原判決はこの解釈を誤つている。

三、アマチュアカメラマン撮影の写真について

(一) フィルム収集の違法性

1 警察官による証拠収集の状況

2 各証拠の収集手続の実態とその違法性

3 任意提出、領置手続の違法性

4 裁判所の捜索、差押令状による押収の違法性

(二) 現像及び焼付の承諾の実情

(三) 違法に収集された証拠写真の証拠能力

四、警察官入手の撮影者不明の写真について

(一) 刑事訴訟法一四四条の証言拒否と被告人の防禦権

(二) 適正手続の立証責任について

(三) 原判決は、憲法三一条、三七条二項の解釈を誤り、ないしは憲法三一条に違反する。

第六、被告人Y5の「騒擾指揮」について<省略>

一、原判決は、刑訴法四一一条三号の事実誤認があり、破棄を免れない。

(一) 原判決の認定

(二) 二〇日夕刻会議の持たれた具体的状況

(三) 検面調書の信憑性

二、Y5の二一日の行動について

(一) 大宮校舎におけるアジ演説

(二) 中大学生会館における行動

第一、<省略>

第二、<省略>

第三、共同意思認定の誤り

憲法三一条、三七条二項、二一条一項違反

一 事前の経過

(一) 事前の方針確立について

1 事実の偏頗な抽出

本件の事実認定において、まず問題とされなければならないのは、昭和四三年一〇月二一日国際反戦デー当日、新宿駅周辺に集結した人々は数万人に達していたにもかかわらず、何故ことさらに、その数万人の中から中核派、ML派等の学生団体のみを抽出し、その事前の行動を問題にしているのかとの点である。それは原判決が肯定したところの第一審判決が騒擾罪成立へと結びつけた論理展開と密接不可分な理由に基づくものである。

本件当時、米軍によるベトナム侵略がますますエスカレートし、その残虐性を強めていたことは先に述べたとおりであるが、さらに、日本政府や国鉄、その他の政府機関、民間企業がこの米軍の殺戮行為に積極的に加担してその度合いをますます深めていつていたのである。多くの良心的な日本人は、そのような日本政府による侵略加担を座視することができなかつたのであり、さらに、そのような日本政府の加担行為を許していることは自分自身を含めた日本人自身の責任である。それを阻止することは自らがベトナム人民に対して負つている責務である、と考えてきたのである。かかる趣旨のもとに学生達はもとより労働者や市民もそれぞれの立場で広範なベトナム反戦闘争を日本国中で展開していたことは公知の事実である。本件一〇・二一反戦闘争は、このような一連の全国的ベトナム反戦闘争の一環として闘われたものであり、国際的にも連帯し、国内的にも種々の階層、異なる立場の人達が、ベトナム反戦の一点に賛同し、合流して闘われたものである。

従つて、当日の行動に参加した集団の意思というものは、きわめてまちまちであり、これを単純に一個のものと速断することは許されない。例えば、学生のグループだけを見ても、社学同は防衛庁に対するデモを企画してこれを実行しているし、社青同解放派は、国会に対する抗議デモを行なつており、また革マル派、フロント派は国会に向けてのデモを企画し、四谷駅から半蔵門に向けてデモを行なつている。また被告人Y4、Y6が所属したb大学グループや、被告人Y5、第一審相被告人Aが所属したa大グループ等、あるいは、多くの職場の労働者の集団がそれぞれ独自の立場から参加しており、これらの各グループによつて本件闘争に参加する目的、意図は全く異つていたのである。

このような状況下にもかかわらず第一審判決はことさら学生諸団体のみを抽出し、その事前の方針を問題にしているが、その意図するところは明らかである。仮りに、大学別のグループあるいは職場の労働者のグループ等についてもその事前の取り組みや方針を問題にするならば、それらが各自きわめてまちまちであることが明白となり、第一審判決が後に認定しているごとく、新宿駅東口広場における集会においてシュプレヒコールに唱和したというようなことだけで、簡単に共同意思の成立を認定することは事実誤認であることが明白となるからである。

本件騒擾罪においては暴行脅迫の現場における集団の単一性並びにその前後における同一性が最も重要な問題である。この単一性並に同一性が認められない限り、ある暴行脅迫が、集団自体による暴行脅迫とは認められないからである。しかるに第一審判決は、このような集団性につき厳密な認定を放棄している。そして、集団全体のごく一部を占めるにすぎない学生政治団体のみを抽出し、そこに暴行脅迫の事実を認め、他の大多数の人々については、シュプレヒコールを唱和した程度で、共同意思を認定するというきわめて恣意的な認定の仕方をしている。そしてこのような学生政治団体の積極的意思を引き出して、それが全体の集団を引つぱつていつた、という論理構成(原判決が起爆剤的役割と称するもの)をとるための前提として、この事前の方針の段階において、多くの職場労働者グループ、大学別学生グループ等についての事前の準備や方針については一切目をつむつて言及せず、あたかも、学生政治団体が全てであるかのごとく、そこにおける事前の方針について問題としているのである。このように全体的事実の中で、後の論理展開に都合の良い一部のみを恣意的に取り上げ、あたかもそれが全体であるかのごとく論述すること自体、歴史的事実の歪曲であると言わなければならない。

原判決は、右のごとき第一審判決の論理を肯定し、「右学生各派集団が事件の当初に果たした起爆剤的役割及びその後の広範かつ強力な集団暴力行動における中心的な活動状況等に徴すれば、右事件の主要な原動力・推進力となつた学生運動諸組織における新宿闘争への事前の取組み及び事件に至るまでの経緯についても適法な証拠に基づいて調査し、事件全体の真相解明に資する客観的な状況事実を把握することはむしろ当然のことといえる。逆にいえば、当夜国鉄新宿駅に集結しベトナム反戦等の同旨のスローガンの許に集団示威運動を展開しながらも原判示の集団暴力行動には加担しなかつた多くの職場労働者グループないし平和運動諸組織に関しては、原判示の学生各派集団らによる騒擾事件とはかかわりがない以上、右のグループ等につき事前の運動方針や右現場への集結に至る経緯などといつた状況を詮索する必要は全くないのである」と擁護している。しかし、この擁護論は、先ず偏頗な事実の抽出によつて犯罪を認定しておき、次に最初にもどり、犯罪が成立しているのだから事実の抽出は偏頗ではない、と言つているのであるから、論理の逆転、論理のすりかえ以外の何ものでもない。このような認定方法は、理由そごから経験則違反であり、ひいては、憲法三一条の適正手続の保障にも違反するものである。

2 証拠によらない事実認定

(1) 第一審判決は、罪となるべき事実の冒頭において、「中核派、革マル派、ML派、国際主義派、フロント派、プロレタリア軍団などと呼称する学生運動諸組織においては、(中略)遅くとも同月二〇日頃までには、いずれもいわゆるベトナム戦争反対運動の一環として当時国鉄新宿駅を経由して行なわれている米軍用ジェット燃料の輸送阻止を標榜し、夜間同駅周辺で集団示威運動を行なつた上、駅構内を占拠し、列車等の運行を妨害するなどして同駅内外を混乱に陥れるとの方針を確立し(た)」(七丁)とし、学生諸団体の事前の方針確立をいとも簡単に認定している。

しかし、学生諸団体が、駅構内を占拠し、列車等の運行を妨害する等して同駅内外を混乱に陥れるとの方針を、事前に、遅くとも前日までに確立していた、との事実を認定するに足る証拠は全く存在しない。右のごとき事実を認定するには、少なくとも、当該団体の構成員の証言程度の証拠は必要なはずである。しかし、そのような証拠は存在していない。右の事実認定は刑事裁判における証拠に基づく認定ではなく、商業新聞の報道に基づいて認定したのではないか、とすら疑われるものである。

(2) 第一審判決の前記認定は、右方針確立に到る過程は一切触れられておらず、単に結論だけが示されているものである。このような認定には、左のような疑問がある。

(イ) 当日の方針を確立したとされている「学生運動諸組織」とは、第一審判決に示されている中核派、革マル派等の団体のみを指すのか、それ以外の当日新宿駅に集結した他の学生団体をも指すのか明確でない。

(ロ) 「駅構内を占拠」するとの方針が確立されていたというが、占拠の対象とされていた駅構内の範囲はどこまでであつたのか、占拠とは具体的にいかなる態様によることが意図されていたのか、占拠するための具体的な手段方法はいかに立てられていたのか、占拠の行動に出れば当然警察部隊による規制が予想されるところであるが、それに対してはいかなる対策がとられていたのか、これらの全体を含めて各団体内における任務分担はいかになされていたのか、等々の点については全く触れられていない。右のような具体的方針の内容を一切捨象して、一個の団体において、駅構内を占拠するとの「方針を確立」していた等と認定することは、論理の飛躍もはなはだしいと言わなければならない。

(ハ) 「列車等の運行を妨害する」との方針が確立されていたというが、いかなる手段で運行を妨害するのか。駅構内の占拠だけか、他の手段も予定されていたのか、具体的に示されていない。

(ニ) 「同駅内外を混乱に陥れる」との方針が確立されていたとされているが、「混乱」とはきわめて情緒的な表現であり、一体どの程度の事態を指すのか不明確である。たとえば、デモ行進した場合でも、一定の混乱は生ずるし、あるいは駅前で集会をしただけでも、混乱が生ずるといえばいえないことはない。団体の方針として確立されていたという以上、この「混乱」とはどの程度の具体的内容を指すのか明示されなければならない。

(ホ) 「方針を確立」したとされているが、各団体において、「何時」、「いかなる手続」でこれらの方針が確立されたのか。判示の中核派、革マル派、ML派、国際主義派、フロント派、プロレタリア軍団など、いずれもれつきとした団体であり、代表者の規定、議決機関の規定等を有した組織である。そのようなれつきとした組織において、「方針を確立した」という以上は、少なくとも、いつ頃、いかなる機関において、団体の意思決定がなされたのかを明示されなければならない。

以上述べたごとく、学生団体において事前に方針が確立されていたと認定していながら、その方針決定に至る手続、その具体的内容等については、一切触れられていない。しかるにこれら団体の意思が決定され、「方針が確立されていた」という第一審判決の認定は、著しく理由不備であるとのそしりを免れないものである。

(3) 原判決は、右のごとき第一審判決の瑕疵を全て容認した。

(イ) まず、弁護人主張にかかる第一審判決の理由不備の点は、本来刑訴法三三五条一項により必要とされる有罪判決に示すべき理由に当然含まれるものではない、として弁護人の主張を排斥した。しかし、この「事前の方針確立」に関する認定は、第一審判決が構成要件該当性を認定するについての重要な布石、誘導路となつているのであるから、この部分の理由は正しく摘示されなければならないものである(刑訴法四四条一項)。

(ロ) また原判決は、「事前の方針確立」は、関係各証拠を統合することにより推認可能である、とする。しかし、問題は直接影響する重大な事実について推認による認定を肯定した原判決は、証拠裁判主義を定めた刑訴法三一七条に違反している。

(ハ) また原判決は、「事前の方針確立」について、「現に後刻これに沿つた騒擾事件が発生しているのであるから、論旨指摘の学生運動諸組織内の方針決定に至る具体的手続過程等が欠けていることなどはいまだ前述の基本方針の存在を肯定した原判断を誤りとする根拠になるものではない」としている。要するに、後刻、推認したところと符合する結果が発生すれば、溯つてその推認も許されるとするものであり、刑訴法三一七条の証拠裁判主義を否定する論理に外ならない。

(ニ) 以上のごとく、学生諸団体の事前の方針の確立を認定した第一審判決を是認する原判決の論理は、刑訴法四四条一項、三一七条に違反しており、ひいては適正手続を保障した憲法三一条ならびに証人尋問権を保障した憲法三七条二項に違反する。

3 ビラ等の証拠能力

(1) 第一審判決が右のごとく学生諸団体の事前の方針を認定したのは、検察官が証拠物として(甲三の一、番号二一以下)請求した書記局通達、ビラ、機関紙等(以下、これらを「ビラ等」という)に基づくものと思われる。このビラ等が取調べられた経過は次のとおりである。

○検察官請求(一九回公判)

○弁護人の違憲「立証事項との関連からして、これらは書証として取調べ請求されるべきものである。書証としての請求ならば不同意」(第三回準備手続)

○検察官「証拠申請書目録記載のビラが配付され存在する事実」に立証趣旨を減縮(八八回公判)

○右請求の趣旨につき弁護人の求釈明(九二回公判)

○検察官「証拠申請書目録記載のビラが存在する事実」に立証趣旨再減縮(九二回公判)

○弁護人の補充意見(昭和四九年二月九日)

○採用決定(一〇六回公判)

○弁護人異議申立(昭和四九年一一月二八日)

○棄却決定(昭和四九年一二月二日)

○証拠調(一〇八回公判)

(2) 右のとおり本件ビラ等の採否は、第一審における一つの重要な争点として、弁護人と検察官の間で論争が展開されたものである。検察官はこれらのビラ等を、証拠物として取り調べ請求するにあたつて、当初はその立証趣旨として「全学連中核派の企図」「四トロ派の企図」「プロレタリア軍団の企図」「全学連革マル派の企図」「ML派の企図」等を立証趣旨として掲げ、学生諸団体の事前の企図を立証しようとしていたのであるが、最終的には前述のごとく、「証拠申請書目録記載のビラが存在する事実」として立証趣旨を減縮し、その上で弁護人の反対にもかかわらず裁判所はそれを採用したものである。そして現実には、弁護人が恐れたごとく、検察官の立証趣旨の減縮にもかかわらず、減縮される以前の立証趣旨に従つて、裁判所は事実認定の証拠としてこれらの証拠物を用いている。検察官の証拠請求を採用した第一審の決定は刑訴法三二〇条一項に違反するものである。

(イ) 検察官は本件証拠を証拠物として取り調べ請求をした。証拠物に関しては、公訴事実との関連性(自然的関連性)さえ認められれば比較的容易に証拠能力が認められるのが通例である。しかしながら本件証拠は、検察官の当初の立証趣旨に明らかなとおり、その文章の形状等が問題ではなく、そこに記載されている文言内容から、中核派等学生諸団体の企図、計画等を立証せんがために取り調べ請求されたものである。そこで弁護人は、本件証拠は書証として取り調べ請求されなければならないとの意見を述べたところ、検察官が二度にわたつて立証趣旨の減縮を行ない、一見純粋なる証拠物として請求するかのごとく外形を整えたのである。しかしこれらの、検察官による立証趣旨減縮の操作は、伝聞法則の適用を回避するための脱法行為にほかならないのである。

(ロ) 伝聞供述となるかどうかは要証事実と当該供述者の知覚との関係により決せられる。そこで伝聞証拠とは、要証事実を直接知覚した者の供述(原供述)を内容とする供述証拠であり、かつその原供述内容によつて要証事実を証明しようとするものであるとされている(安村・杉山証拠法大系三巻二一頁)。本件の場合検察官が主張する要証事実は何であるか。これは減縮前の立証趣旨によれば、学生諸団体の企図、計画を立証しようとするものであることは明らかである。これらの立証のためには、右当該文書に対しては伝聞法則が適用されることは多言を要しないであろう。たとえば請求番号二一、全学連書記局通達No.1についてみるならば、それを作成した特定の個人と全学連書記局とは別個の人格であり、したがつて文書の作成者(それが書記局のメンバーであろうとなかろうと)が書記局の決定(通達の内容)をいかに知覚したのか、その理解に間違いはなかつたか、さらに具体的に本件文書としてその内容を叙述するについて表現は正確であつたか、妥当であつたか等々の点について作成者に対して反対尋問によつて吟味されなければならない。これらビラ等に関して「特定団体が犯罪の企図を有していたこと」を要証事実とする限り、伝聞法則を回避して採用されることは許されないものである。

(ハ) 自然的関連性なし

検察官は、本件証拠に伝聞法則の適用を回避するために立証趣旨を「ビラが存在する事実」と減縮した。しかしながらこれでは、本件の主要事実のどの部分を立証しようとするのか、あるいはそのためのいかなる間接事実を立証しようとしているのか、全く不明である。一般に証拠物の取り調べ請求においては、立証趣旨が「物の存在」というように述べられることが多いが、それは犯罪事実との関連性が明白な場合についてである。しかしながら本件ビラ等に関しては、そのビラ等の存在というだけでは、いかなる間接事実の積み重ねによつて、いかように主要事実と結びつけんとしているのか全く明らかでない。弁護人はその点について検察官に釈明を求めたが(第一審第九二回公判における求釈明書第三項)、検察官は釈明をしていない。またこのことは、他方からいうならば証拠調べ請求における立証趣旨明示義務(刑訴規則一八九条1項)違反でもある。したがつて検察官の本件取り調べ請求は関連性なし、あるいは立証趣旨明示義務違反で却下されるべきであつたのである。

(ニ) 法律的関連性なし、

何らかの判断により、前述の自然的関連性が存在すると仮定しても、そこから直ちに検察官による立証趣旨減縮という操作を容認し、証拠能力を肯定するわけにはいかない。自然的関連性が認められた場合の問題は「本来伝聞証拠として証拠能力の制限される供述を、立証趣旨をかえることによつて、その制限をくぐり法廷に提出する、いわば脱法的な方法をいかにして防止するかということである」(小野他ポケット注釈刑事訴訟法七〇八頁)。その防止法としては法律的関連性によつてチェックする方法と、そのような立証趣旨の限定を認めない方法と二通り考えられる。

証拠として必要最小限度の証明力はあるが、他方その証明力の評価を誤らせる恐れのあるときは、法律的関連性がないとされている(平野刑事訴訟法一九二頁)。本件の場合、文章の内容の真実性について何らの吟味もなされていないにもかかわらず、文章の存在自体を立証するとの趣旨で法廷に出され、しかも検察官の真のねらいは、その文章の存在ではなく、文章の内容にあつたのであり、それによつて現実に裁判所は、その証明力の評価を誤つてしまつたのであるから、その危険性が現実化したといわなければならない。本件請求は、法律的関連性なしとして却下されるべきものであつたのである。

(ホ) 立証趣旨の減縮

本件のごとく本来は伝聞証拠であるにもかかわらず、立証趣旨をかえることによつて非供述証拠として取り調べ請求がなされた場合には、その限定された立証趣旨にのみとらわれて判断すべきではない。「注意を要するのは、言葉を、その述べる事実が真実であることを証明するために使用するのではない、と言いさえすれば、常に「伝聞供述」でなくなるというわけではないことである。(中略)その言葉が、実質的には、その述べる事実が真実であることを証明するための資料として用いられざるを得ないような事情がある場合には、立証事実のそのような限定は許されないのであり、その言葉は立証者が何といおうと、伝聞供述として取り扱わなければならないのである」(戸田刑事実務ノート一巻三八頁、同旨神田・川波刑事法演習Ⅰ、二九八頁)。

従つて本件ビラ等には伝聞法則が適用されなければならなかつたのであり、それを看過して採用した第一審決定には刑事訴訟法三二〇条一項の解釈適用を誤つた違法がある。

(3) 本件ビラ等は「当該ビラが存在する事実」のみを立証趣旨として証拠採用なつたものである。しかるに第一審判決では、右ビラ等の存在ではなく、そのビラ等に記載されてある内容の真偽を立証する証拠としてこれらのビラ等を用いている。これは立証趣旨の制限を潜脱するものであり、弁護人の当該内容の真偽に対する反対尋問権を剥脱するものであり、また証拠に基づかない事実認定でもある。第一審の右事実認定は、証拠の評価を誤つたものであり、反対尋問権を保証した憲法三七条二項に違反し、伝聞証拠の排除を定めた刑訴法三二〇条一項に違反している。

(4) 以上の論点について原判決は、「前述のビラ等は、その存在自体(異なつた複数の場所から押収されているという事実をも含む)でも間接証拠としての価値を有し、学生運動諸組織において事前に本件当日の新宿闘争に向けた取組みの基本方針を検討・総括しこれを外部に発表したという状況事実を推認させるものであることは否定できず」として、第一審判決には違法な点はないと断じている。

この原判決の論理に対する批判は、前記(1)ないし(3)で述べたことが全てあてはまるものである。結局原判決は、刑訴法三二〇条一項の伝聞法則を誤つて解釈した結果、憲法三七条二項が保証する被告人の証人尋問権を侵害した違法があるものである。

(二) 新宿駅に集結するまで

一〇月二一日当日、各派学生らが新宿駅に集結するまでの行動に関しても第一審判決は、たとえば中核派、ML派、プロレタリア軍団などに所属ないしは同調する学生らの行動については「騒擾罪が発生するおそれがあるとして出動する警察部隊を打ち破り、新宿駅内外を混乱に陥れ、同駅を経由して行なわれている米軍用ジェット燃料の輸送を阻止するため徹底的に闘争を展開すべき旨演説し、あるいは米タンを実力で阻止するぞ、騒乱剤をはねのけて闘うぞ等とシュプレヒコールの音頭を取るなどして前記各派の運動方針を一層徹底せしめた」と述べ、すでに確立している方針を徹底周知せしめる過程としてとらえている。しかしながらこれは、警察部隊による弾圧を恐れず断固として抗議行動を展開しようとの決意表明ないしは呼びかけの言葉の端々を断片的にとらえて、前記各派の方針、すなわち新宿駅内外を混乱に陥れるとの方針を学生らに周知徹底せしめる行為であると、事実を歪曲して認定しているものである。また新宿駅に至る過程についても、学生政治団体のみを取り上げて事実認定していることは、先に述べたと同様に、きわめて偏頗な事実の抽出である。学生達を中核派、ML派、国際主義派、革マル派、フロント派、プロレタリア軍団などに分類し、その行動を一括して認定することは、事実に反している。被告人Y6、同Y4らは、b大学全共闘グループとして行動していたことは明らかであり、また被告人Y5並びに元相被告人Aなどは、a大グループとして行動していたものである(ただし被告人Y5は新宿には行つていないが)。

大学単位のグループが、当日いかなる行動をとつたか、ということも、それぞれ大学によつて異なつている。法政大学や横浜国立大学の学生達、その中核系の学生らは、それぞれ学内で集会を行なつた後、バスまたは電車などで当日午後三時ないし四時頃の間にお茶水駅近くの明治大学旧学生会館付近に集結した。ML系の学生達も比較的早くから右の場所に集結して集会などを開いており、その後お茶水駅前に向つている。a大学のグループ並びに国際主義系の学生らは中央大学学生会館内に集結し、同会館前で集会を行なつた後、同時刻頃お茶水駅に集結した。プロレタリア軍団グループの学生らは、法政大学からお茶水駅前に集結している。b大学学生グループは大学内で集会を開いた後バスでお茶水駅付近に行き集結した。その他多くの大学別グループもそれぞれ独自の経路をたどつて新宿駅に行つており、また多くの職場労働者グループも同様である。新宿駅に集結した多数の人々の中で、その中のごく一部にすぎない学生政治団体所属のグループについてのみ、ことさらに新宿駅に至る経過を認定し、その他の大多数の人々についてはそれをすべて捨象してしまつている。この事実認定のやり方は共同意思の成立を安易に認定せんがためにとられている手法である。

第一審判決の右の偏頗な抽出による事実認定を、原判決は全て容認している。よつて、この原判決に対する批判は、先きの「一事実の偏頗な抽出」で述べたことが全てあてはまるものであり、原判決の論理には、理由そご、験則違反、ひいては憲法三一条違反の違法がある。

二 東口広場における事実経過

(一) 合同集会及びデモ行進

新宿駅東口広場には、当日午後六時過ぎからデモ隊員が続々と詰めかけた。また同時に彼らの行動を支援する市民や、あるいは彼らの行動に関心を持つて見にきた市民もどんどんふえていき、午後八時頃にはデモ隊員数千名を含め、東口広場は数万人の人々でぎつしりと埋まつた。こうした中において午後七時過ぎから中核派系のデモ隊とML派系のデモ隊を中心として合同の集会が同広場地下道入り口前付近を中心として開催され、それは午後八時近くまで継続した。この二つの集団は当初は別々に集会を持つていたのであるが、その付近に適当な他の集会場所が見当たらなかつたこと、ことに地下道出入口屋根上が演台として格好の位置であつたことから、たまたま両集団が合同して集会を持つたのである。その集会を開く前には両派の間にはささいないざこざなども発生している。右集会は午後八時前にほぼ終了し、それからこの集会に参加していた者は各派別、大学別、地区反戦別等の組織ごとにまとまつてそれぞれデモ行進を展開した。東口広場内においてのみデモ行進をしていた組織もあるが、主な集団は東口広場から伊勢丹方向に向つてデモ行進をした。これらのデモ行進は初めは前記集会に参加していたヘルメットをかぶつた人達を中心として展開されていたが、次第に同駅東口広場に集つていた一般市民も多数参加するようになつていつた。当日のデモ行進は警察部隊の規制を受けることは全くなく、自由に、大いに解放感を味わいながらデモを展開したのであつた。東口広場にぎつしり集まつた人々とその中をジグザグデモを展開していくデモ隊との間には、一種の信頼感が生じ、両者の間に何らのトラブルも発生していない。こうして東口広場は一種の解放広場、自由広場の観を呈し、いうならば警察部隊による、警棒による取り締まりではなく、人民相互の信頼感に基づく一種の秩序がそこに保たれていたのであつて、そこは一種のお祭り的雰囲気に満ちていたのである。

(二) 午後八時以降の集会

右のごとくデモ行進を展開していた各集団は午後八時前後にそれぞれ再び東口広場に戻つてきて再び集会(第二回目の集会)を持つた。しかしながらこの集会は、各派、各大学、各地区反戦等々の各組織別にそれぞれ独自に集会が開かれたのであつて、先の中核派とML派の合同集会のような形態はとられてはいない。したがつてこの第二回目の集会において、全体としての意思確認等も行われ得ない状況であつた。こうしてこの第二回目の集会については相当長時間集会を続けていたグループもあれば、途中で打ち切つてデモ行進に移り、再びまた戻つてきて集会を行うグループもあり、それぞれバラバラの行動をとつたのである。

(三) 午後八時四五分ころの状況

障壁破壊行為が始まる以前の東口広場における事実関係は右に述べたとおりである。

以下第一審判決が共同意思の成立を認定した午後八時四五分頃の同広場における状況について特徴的な点を述べる。

(1) 同広場に集まつた学生諸組織、大学別グループ、地区別、職場別反戦グループ等等の諸団体はそれぞれ独自に集会を開いたりデモ行進をしたりしていたこと。この場合中核派系デモ隊とか、国際主義派デモ隊というように単純に分類出来ないという点を注意しなければならない。当日東口広場に集結した集団の中には各大学別にグループをつくつて集まつてきた者も相当多い。そして彼らはヘルメットは、たとえML派系のヘルメットをかぶつていても、ML派集団として一つの集団を構成したのではなく、その大学のグループで独自に行動をしているのである。当日このような集団がきわめて多かつたことに注意しなければならない。とりわけML派系の集団(ML派のヘルメットをかぶつた者が相当多数含まれている集団)や国際主義派(前同様)反戦系集団においてはそのような傾向が強かつたのである。

(2) デモ参加者の十数倍に及ぶ一般市民が同広場に結集したこと、そしてこの一般市民はその大部分が勤め帰りの者達であり、その他付近周辺の店員らも相当数いたこと。

(3) 角材等の所持は、きわめて少数の者に限られていたこと。

(4) 同広場に集まつた数万の人々は、国際反戦デーの米タン輸送阻止闘争に共感を持つている者、あるいは好意をもつている者等がその大部分であつたと考えられること。すなわちデモ学生らに反感を持つて広場に集まつてきたという人々はほとんどみられなかつたという点である。したがつてその広場における状況はきわめてなごやかなものであり、学生らと一般市民との衝突、紛争は一切発生していないこと。

(5) 同広場においてジグザグデモや渦巻きデモ等が相当長時間展開されたがこれらはいずれも純粋に示威運動にとどまるものであたママこと。このジグザグデモや渦巻きデモそれ自体について、暴行脅迫に該当するような事実は存在しなかつたこと。

(6) 同広場に集まつた人々に対して警察部隊による規制、介入が全く行われなかつたこと。

(7) 同広場は数万の人々でぎつしり埋まり、身動きもできない過密状態となつていたこと、したがつて地下道出入口屋根上からなされている演説の内容等も、大多数の同広場にいた人々にとつてはほとんど聞き取れなかつたこと。原判決は右屋根上からの演説の内容あるいはシュプレヒコールの内容等を具体的に指摘しているが、これはもつぱら同演台のすぐ近くにいて聞き耳を立てていた私服警官の証言に基づくものであり、一般大多数の人々にとつては、そのように内容を聞きわけることは不可能であつたこと。

(8) 右のような状況を一言でいうなら、解放広場、自由広場という雰囲気であつたこと、警官隊の警棒を気にする必要もなく自由に歩き、自由にデモに参加し、インターナショナルを斉唱し、また自由に討論し、権力に拘束されない自由な人間としての解放感をみんなが満喫していたものであること。これらの雰囲気は第一審判決が認定するような「同広場における興奮と熱気はいよいよ高まり、ここに(中略)多衆共同して警備の警察部隊を暴力で排除してでも同駅構内を占拠して列車等の運行を妨害すべきとの意図が確定的に形成された」というような状況ではなかつたこと。そもそも右に述べたごとく午後八時四五分頃の時点において警備の警察官の姿は全く見当たらなかつたのである。

(9) 右のようななごやかな、自由な東口広場の雰囲気であつたことは、ビデオテープ(甲三の一、請求番号1の第二巻)が映し出している左の情景に明らかである。

ML派隊列が整然と整列している(八時三分)、デモ隊がのんびりと行進している(八時六分)、スクラムを組んでインターナショナルを整然と斉唱している(八時九分から八時一一分)、新しいデモ隊が続々到着してくる(八時一三分及び八時二一分から以降)、新たなデモ隊が到着し、後ろを市民がブラブラ歩いているのんびりした情景が見える(八時二七分)、白ヘルメットのデモ隊が群衆の中を整然と行進している(八時二九分)、集会を続行している(八時三一分以降)。このビデオに映し出されている状況は第一審判決が認定するような暴行脅迫の共同意思の成立している状況などとは程遠い平和な解放された状況である。

三 共同意思の認定について

(一) 認定内容

1 判決の論理

(1) 第一審判決は次のごとき事実認定に基づいて共同意思の成立を肯定している。午後七時過ぎ頃から東口広場に続々到着し始めた各派学生のうち、中核派及びML派の学生が同広場中央の地下道出入口前において、合同の集会を開き、指揮者が演説し、あるいはシュプレヒコール等を行い、さらに各派学生らが同広場から新宿通りにかけて示威行進を行ない、右学生らが再び地下道出入口前に集結した後「指揮者において、こもごも、『本日の米タン阻止闘争を最後まで貫徹しよう』『機動隊の壁を実力で突破することによつて米タン輸送阻止を貫徹しよう』などと演説し、右各派学生らを激励してその気勢を高揚するとともに、群衆に対しても闘争への参加、支援を訴え、かくして、指揮者の音頭でシュプレヒコールや闘争歌の合唱などを繰り返すうち、これら各派学生らの行動に刺激を受けた群衆もシュプレヒコールに加わり、喚声をあげて呼応するなどし、同広場における興奮と熱気はいよいよ高まり、ここに当時東口広場に所在していた右各派学生らの間に多衆共同して警備の警察官を暴力で排除してでも同駅構内を占拠して列車等の運行を妨害すべきとの意図が確定的に形成され、さらに蝟集した群衆間には広く右意図が浸透するに至つた」(一〇、一一丁、一〇八、一〇九丁)として共同意思の成立を認定している。即ち、第一審判決は、先ず各派学生らにおいて暴行脅迫の積極的な意思を認定し、次にその周辺に蝟集した多数の群衆について、学生らの前記意図が浸透したとなし、全体について、共同意思の成立を認めるとの論法をとつている。

(2) 原判決も以下のように述べて第一審判決を支持している。原判示のようなアジ演説の内容、これに呼応する多数学生ら及び群衆の一部による大喚声など、とくに原判決の証拠標目挙示のビデオテープ、一六ミリフィルム中の同日午後六時ごろから同八時四五分ごろまでの同広場における各判示学生ら及び群衆の動き、集団の一部の者らが先行した同所西側の線路に接する間組作業事務所の塀への破壊行為などに徴すれば、前記時点における同広場の状況は、……多数の合同力をたのみとする国鉄新宿駅構内への侵入・占拠などに向けた違法な実力行使の呼びかけ及びこれへの同感・同調の意思固めといつた多衆による集団暴行への興奮と熱気の頂点を示すものであつたことが明らかで(ある)。」

(3) このような判決の論理は、先ず社会的事象としての集団の単一性、同一性を問題にすべきであるにもかかわらず、それを無視し、そのことによつて暗黙のうちに集団の単一性、同一性を前提としてしまつているのであり、騒擾罪の事実認定の方法を誤つており、結局刑法一〇六条の解釈適用を誤つているものである。

2 共同意思の認定

共同意思には多衆の合同力をたのんで自ら暴行または脅迫をなす(ないしは多衆をしてこれをなさしめる)主動的な意思と、かかる暴行ないしは脅迫に同意を表し、その合同力に加わる受動的な意思とがあるとされている。

(1) まず主動的意思であるが、これは合同集会において指揮者が「米タン阻止闘争は弾圧をはねのけて闘わなければならない」などと演説し、あるいはシュプレヒコールの音頭を取って各派学生らの気勢を高揚したこと、指揮者の指示のもとに各派学生らが同広場から新宿通りにかけて示威行進を行なつたこと、各派学生らが再び地下道出入口前に集結するや指揮者が「本日の米タン阻止闘争を最後まで貫徹しよう」などと演説し、各派学生らを激励してその気勢を高揚したこと、シュプレヒコールや闘争歌の合唱などを繰り返したこと(以上は第一審判決一〇・一一丁)、指揮者が警備の警察官を暴力をもつて排除してでも駅構内に進入してこれを占拠した上、ぜひとも米軍用ジェット燃料輸送車の運行を阻止すべきである旨繰り返し演説し、各派集団の気勢を高揚させたこと、多数の学生が盛んに喚声をあげたこと(以上は前同一〇八、一〇九丁)が指摘されている。

(2) 次に共同意思の受動的意思がいかなる事実に基づいて認定されたかをみる。

これは第一審判示によれば、学生らの集会の周囲に蝟集していた群衆が学生らの集会で行なわれた『シュプレヒコールの加わり』『喚声をあげて呼応したこと』、また学生らの『集団示威行進に追従』してそれに参加する者も出たことをもつて認定している。「浸透する」とは何を意味するのか必ずしも明白ではないが、これは前記共同意思の中の受動的な意思を意味すると思われる。

(3) 以上の主動的意思ならびに受動的意思の認定は、原判決もほぼ同様のごとくである。

これらの認定は、要するに集会に参加した学生達が「機動隊の壁を実力で突破することによつて米タン輸送阻止を貫徹しよう」などといつた趣旨の『演説を聞いたこと』、『同旨のシュプレヒコールに唱和したこと』、『闘争歌の合唱をしたこと』、『喚声をあげたこと』をもつて「多数共同して警備の警察部隊を暴力で排除してでも同駅構内を占拠して列車等の運行を妨害すべきとの意図が確定的に形成され、蝟集した群衆間にも広く右意図が浸透するに至つた」と認定したものであり、事実認定にあまりにも飛躍がありすぎる。また当該意思が形成されたとする集団の範囲も広く不明確である。このような集会における演説を聞いたりシュプレヒコールを唱和する等のきわめて一般的な事態をもつて前記のごとき犯罪行為の意思が形成されたと認定することは、集会の権利、言論表現の権利をじゆうりんするものであり、原判決の右のような認定は、単なる事実誤認にとどまらず、憲法二一条一項に違反するものである。

(二) 共同意思の事前確定

共同意思とは、多衆による暴行脅迫が行なわれている正にその時に、それが存在したか存在していないかが問われる性質のものである。

即ち共同意思とは、ある者が暴行脅迫行為を行なつている場合にその行為が、当該行為者だけの行為と認められるか、それとも、当該行為者を含めた集団全体の行為、集団自体の行為と認めることができるか否か、その点を判定するための基準に他ならない。換言するならば共同意思とは「自分達が群集の力のもとに暴行脅迫をしているのだという意識」のことである。したがつて、現実の暴行脅迫を前にして、はじめてその存在が問題となる概念である。(この問題は共同意思の内容がどの程度確定的なものでなければならないかという問題、いわゆる未必的意思で足りるか否かの問題とは別箇のことである。共同意思の内容として必ずしも確定的に具体的な個々の暴行脅迫の認識を要するものではないとされているが、このことは、共同意思の内容自体の具体性の問題であつて今論じている暴行脅迫以前の共同意思の存在を肯定しているものではない)

暴行脅迫行為以前の段階の共同意思を肯定している原判決は刑法一〇六条の解釈適用を誤つたものである。

(三) 共同意思の展開

共同意思が存在したか否か、それは集団による個々の暴行脅迫行為ごとに認定されなければならない。一定の個ママ定した場所において一個の集団によつて暴行脅迫行為が連続して行なわれた場合であるならば、当初認定された共同意思の存続が推定されるであろう。しかしながら本件の場合は、東口広場における集会、駅構内における警察部隊との衝突、南口階段附近における放火、南口陸橋上における警察部隊との衝突、中央口における警察庁テレビ車の放火等々に場所的時間的に別個の時点で暴行が発生しており、しかも当該行為を行なつた集団は、社会的事象としては別個の集団によるものである。このような場合に騒擾の成立を認定するためには、右の個々の暴行ごとに共同意思が存在したか否かを判断されなくてはならない。

すなわち、当該暴行行為、たとえば、南口階段附近における放火に参加していない者、たとえば東口広場で集会をしていた者が、階段附近での放火に対しても刑責を問うことができるか否かを認定するためには、当該階段附近での放火に参加した集団について、共同意思が存在したか否か、その共同意思の存在した範囲を確定しなければならないのである。

共同意思はあくまでも具体的暴行の場面において、当該暴行を集団自体の暴行と認定できるか否かの時点で判断を要する要素であり、事前の謀議などとは別個のものである。一たび共同意思が成立したとしても、その集団を構成する個々人が個人としての意思を喪失するわけではない。したがつて、その集団を構成している一個人が行なつた暴行脅迫の行為のすべてが、当然に騒擾行為になり、行為者以外の集団全員がその責任を負わなくてはならなくなるものではない。

騒擾罪にいう暴行脅迫は、あくまで、たとえ実行行為者は一人であつても集団自体の暴行脅迫と認められるような形で展開されなければならないのである。そのためには、当該暴行脅迫に関し、そのつど、共同意思のもとに実行されることが不可欠なのである。第一審判決は、共同意思をあたかも事前の謀議と同様に把握しており、一方原判決は第一審判決を擁護して本件全体を同一の共同意思の範囲内にあるものと判断し、いずれも、個別的暴行脅迫の場面ごとにおける共同意思の存在を吟味していない。この点において原判決には、刑法一〇六条の解釈適用を誤つた違法がある。

四 集団の同一性

騒擾罪は群衆犯罪であるとされており、集団そのものによつて暴行脅迫が行なわれることがその要件である。すなわち、現実の暴行脅迫行為自体は、一部の人によつて行なわれるが、当該行為を実行していない多衆に対して、その集団に属していたということを根拠として、刑責を問おうとするものである。したがつてここでまず何よりも先に問題とされなければならないのは、当該暴行脅迫行為を遂行したとされるところの集団の範囲の確定である。そして本件の如く場所的時間的に異なる時点で暴行が行なわれた場合に、その間の集団の同一性が認定されなければならない。新宿駅周辺の場合、場所的にいくつかに分けて考えなくてはならない。東口広場、駅構内路線上、駅構内ホーム上、南口、同駅西口等に場所的に区分されるのであり、その場所の相互間においては、互に他の場所で発生している事象について認識することは物理的に不可能である。たとえば東口広場にいる人々は南口の陸橋上で何が行なわれているのかを認識することはできない。

このように場所的に異なる所で、しかも時間的にも相異して暴行事象が発生していたのであるから、当該行為のそれぞれの主体たる集団の間に同一性があるか否かが厳格に認定されなければならない。そのような同一性を認定するための要件としては、たとえばそれら暴行脅迫が、あらかじめ定められた騒擾計画にもとづくものであるとか、あるいは特定の主謀者により画策され支配されたものであるとか、あるいは各場面における当該集団の構成員の異同にもかかわらず、その集団の主たる構成員を共通にしていたとか、あるいはそれらの各集団員が同一の統制集団に属していたとか、等々の特別な事由が認定されないかぎり、右の種々の集団を同一の集団であると認定することはできないはずである。

本件の場合でいえば、東口広場で集会をしていた集団、線路内で警察部隊と衝突した集団、南口階段附近で火を放つた集団、南口陸橋上で警察部隊と衝突した集団、中央口において警察庁無線テレビ中継車に火を放つた集団等々の種々の集団が存在しており、明らかにそれら集団は別個の構成にもとづくものである。これらの集団間においてはたして同一性が認定できるのか否かが問題である。この問題について原判決は次のように論じている。「同一地域内における複数の集団による暴行・脅迫が社会的事象として時間的・場所的に互いに密接的関連を有しつつ流動的に推移した場合、換言すれば、構成を異にする各種規模の団体構成員及び群衆についても、他の集団による暴行・脅迫に触発・刺激され、右の事実を認識・認容しつつ、これを順次承継する形態において、当初の集団による暴行・脅迫と時間的・場所的に繋がりを有する状況のもとに、後の集団による暴行・脅迫が継続的に展開された場合には、各集団による暴行・脅迫は全体として同一の共同意思によるものと認められるべきであつて、これらを包括して一個の騒擾罪の成立を肯定するのが、相当である」。このように論じながら、本件の具体的内容に関しては、各場面ごとの集団相互間に右の触発・刺激、認識・認容、順次継承等が認められるか否か、換言すれば集団相互間の平面的ならびに経時的関連性の存否について吟味がなされていない。これは理由不備ないしは重大な事実誤認である。

五 騒擾の始期及び終期

原判決は、一〇月二一日午後八時四五分ころを騒擾の始期とし、新宿駅周辺が警察部隊により完全に制圧された二二日午前一時ころをその終期とし、その間騒擾は継続したものと認定している。しかし一たび集団によつて暴行脅迫がなされた場合にも、ただちに騒擾罪が成立するのではなく、当該暴行脅迫が「一地方における公共の平和を害するに足りる程度のもの」に達した場合に、その時点で始めて騒擾は既遂になるのであり、また、集団による暴行脅迫が継続されていたとしてもその程度が「一地方における公共の平和を害するに足りる程度のもの」以下の程度の暴行脅迫にすぎなくなつた場合には、その時点で騒擾は集結するのである。したがつて騒擾が集結した後になつて参加し暴行をはたらいた者は、それ以前の騒擾について責任を問われないのはもとよりである。騒擾罪終結後の混乱状態と騒擾状態とは明確に区別されなければならない。

原判示の如く新宿駅一帯が警察本部により完全に制圧され、平穏を取戻すまでの間は、終始騒擾が継続したとする認定は騒擾罪規定の解釈適用を誤まっているものである。

六 結語

詳述したとおり原判決には多くの違法点がある。即ち、「一、事前の経過」で指摘した刑訴法四四条一項・三二〇条一項・三一七条違反、憲法三一条・三七条二項違反、理由そご、経験則違反、「三、共同意思の認定について」で指摘した刑法一〇六条解釈適用の誤り、重大な事実誤認、憲法二一条一項違反、「四、集団の同一性」で指摘した理由不備、重大な事実誤認、「五、騒擾の始期及び終期」で指摘した刑法一〇六条解釈適用の誤り等である。

以上のごとく共同意思を認定した個々的な部分において多くの違法点を含んでおり、それらの積み重ねの上に事実認定をしている場合には、全体として、刑事手続の公平・公正の要請という被告人の基本的権利保障に反しているものと解すべきであり、従つて全体が憲法三一条違反となるものである。

第四、「一地方の公共の平和・静謐」について

原審判決は、新宿駅構内を本件騒擾の認定要件としての「一、地方の公共の平和・静謐の阻害」に関する「一地方」に該当するとの判示しているが、これは刑訴法四一一条一号の法令違反に該当すると考える。

以下右につき検討する。

本件の場合、学生を中心とする多衆の「集団的暴行」があつたとされるのは、殆んど新宿駅構内に限られていたことは、あらゆる証拠から見て明白であり、被害発生の点から見ても、それは新宿駅構内に集中されている。

新宿駅構外では、東口広場周辺を除けば、南口の甲州街道にかゝる陸橋を新宿三丁目方向に下りた辺で、東口広場から廻つて来た群衆の一部とこれと対峙した機動隊との間で同日午後九時三〇分ころから翌日午前〇時ごろにかけて、一進一退の小さな衝突があり、その付近の甲州街道沿いの民家数軒に多少の被害が出たが、これはこの地域全体の住民に対し恐怖・不安を与えるほどのものではなかつたことについては、弁護人控訴趣意書第四「一地方の公共の平和」について、の項で詳しく検討したとおりである。

そして、本件「騒擾」の中心舞台は、新宿駅構内であつたこと、この新宿駅構内という区域は、明確に他の市街地と画された一地域であることについては、何人も否定し得ないところであろう。

新宿駅を一歩出た東口広場では、同日夕刻から数時間に亘つて、数千の学生集団を中心とし、これを取り巻く数万の群衆は、ベトナム戦争反対、米ジェット輸送車阻止を呼号し、あるいは集会し、あるいはデモ行進する学生の各派集団に呼応して熱気あふれる情景を現しているが、ここでは付近に密集している商店の人々を始め周辺の住民には、――大通りに面した商店は、事前の警察の指導や商店連合会の申合せによつて店扉をとざしたが――学生集団やこれらに呼応する一般市民大衆から「集団的暴行・脅迫」を受けるであろうというような不安感らしいものが見られなかつたことは、法廷に顕出された当夜のビデオ等からも直接観取されるところである。

従つて、「騒擾」主体とされている各派学生集団及び随行の群衆の行動によつて、「一地方の平和」が脅かされたか否かの判定に当つて、「新宿駅構内」という地域を判断の対象外におくとすれば、本件「騒擾罪」は全く成立しないことは自明である。

本弁護人は、控訴趣意書等において、本件騒擾罪の構成要件「多衆の暴行脅迫」について、判例によつて認められて来た限定要件としての「一地方の平和・静謐を害する」程度という場合の「一地方」の意味については、騒擾罪の保護法益の観点から見て、「新宿駅構内」は「一般住民の生命・身体・財産に対し直接危害の及ぶ虞れの少ない場所であり」、そこでの暴行脅迫も「専ら集団員に対する警官隊の規制措置に対抗するためになされたものであつて、一般住民を対象とするものではなかつた」(メーデー事件控訴審判決)ことから学生集団による同地域内の集団的「暴行・脅迫」をもつて「一地方の静謐を害するに足る程度」とはいい難いと主張して来た。

これに対し原審判決は、まず「一地方」について、「騒擾罪の保護法益である「一地方の公共の平和・静謐」にいわゆる「一地方」に該当するか否かは、当該地域の広狭などの地理的条件や居住者との多寡などといつた静的・固定的要素のみによつて決めるべきものではなく、当該地域(同所にある建物・諸施設、事業所などをも含む)が社会生活において占める重要性や同所を利用する一般市民の動き、同所を職域とする勤務者らの活動状況などといつた動的・機能的要素をも総合し、さらに、当該騒動の様相が個人的法益ないし狭い範囲内の社会的法益侵害の域を超え、右地域及び周辺地域の人心に強い不安、動揺を与えるに足りる程度のものであつたか否かといつた観点からの考察も併せて行うべきである」と規定した上、「これを本件に則してみるに、原判決が詳細に説示するとおり、交通の一大要衝である国鉄新宿駅が社会生活上営んでいる重要な機能及び同所における学生・群衆らの集団暴力行動の規模・態様などを総合考察すれば、同駅構内が右の「一地方」に該当することは明らかというべきである。」としている。

要するに「当該地域」が「一地方」に該当するか否かは、……(集団的暴行脅迫が)「右地域(=当該地域)及び周辺の地域の人心に強い不安・動揺を与えるにたるものであつたか否かといつた観点からも考察すべし」というにあるようであるが、これは当然のことをもつともらしくのべているに過ぎず、あまり意味のない説明である。

「当該地域」の人心に「強い不安・動揺を与えられた」とすれば、その「当該地域」は、騒擾罪における「一地方」に該当することは当然である。

弁護人の主張は、新宿駅構内には騒擾状態が発生したとされた時点で、一般市民もいなかつたし、一般市民の財産もなかつたのだから、「当該地域」=新宿駅構内の一般市民に不安・動揺を与えたとすることはないと言つているのである。(勿論この場合、機動隊員や国鉄職員を一般市民とはしていないが、この点については後に論ずる)

だが、原審判決は、新宿駅構内を、右「一地方」即ち「当該地域」に該当するか否かを決めるに当つては、「当該地域」のもつ社会的機能をも考慮すべきであると主張していると解される。この主張は、具体的に何を言わんとしているのか把みかねるが、それは集団的暴行が、直接そこにいる一般市民の生命・財産を脅かすものではなくとも、その機能の一時停止によつて、「当該地域」以外の一般市民に対する市民的権利を脅かし、それによつて彼らに不安・動揺を与える場合も「当該地域」での集団的暴行脅迫は、「一地方の公共の平和」を害したことになり、騒擾に当るとするのであろうか。しかし、これは全く「一地方」という地域的限定を取りはずすことになり、不当な拡張解釈である。

また、「当該地域」での集団的暴行脅迫が「当該地域」内(そこに一般市民の不存在)では一般市民の不安動揺を呼び起こすほどではなかつたが、その周辺の地域の一般市民の不安・動揺を起したとすれば、勿論かゝる集団的暴行が騒擾罪に該当する程度の暴行とされ得るであろう。しかし、この場合は、この「一地方」は、正にこの「周辺地域」のみを意味することになる。

本弁護人は要するに、新宿駅構内は騒擾罪の要件としての「一地方」に該当する地域と観念して、その地域即ち周辺地域の住民の不安・動揺は、一地方の平和・静謐を害しているというほどのものではなく、被害は全く軽微であるから本件騒擾は成立しないと主張しているのである。

なお、原審判決は、周辺地域を新宿駅東口周辺、同西口周辺及び南口周辺と分けて、その地域につき夫々市民の「平和・静謐を害した」といえる程度の精神的・物質的被害の有無につき検討したことをもつて周辺地域を恣意的に分断しているかの如く論難するが、これは全く的はずれの論難である。何故なら新宿周辺地域は現実にかなり位置的に独立した三地域に分かれており、そこにある建物・店舗・構成員等も夫々に異つているので、この現実に従つて周辺を三地域に分けて、夫々の地域につき一般市民への本件集団行動の影響を検討しただけのことで周辺地域を三つに分けたことには何ら意味なく、またそれによつて判断の当否には何ら影響がないからである。

なお、「一地方の公共の平和・静謐」の概念においてこの「一地方」に在る一般市民を考える場合に、その中に、集団的暴行を規制するために出動している警察官が含まれるとする原審判決の立場は、全く市民的感覚・社会通念に反するものである。

メーデー事件の控訴審判決においても、皇居前広場で、デモ集団の規制に当つた警官隊は、一般市民に含まれていないことは明白である。

次に、新宿駅に勤務していた国鉄職員についてであるが、これは国の行政的機能を代行している国鉄という公社の従業員であり、法的にも公務員と同様の性格を持つている面もある。特に国鉄業務遂行中の職員について、これを単純に一般市民と同一視することは、社会通念上抵抗がある。

彼らも職務遂行上では、構内においては一般乗客の行動を規制する権限を有しているのであるから、本件の場合には、新宿駅構内に勤務中の国鉄職員をも一般市民に包括することは妥当ではないと考える。

なお、「周辺地域」の情況については、控訴趣意書で詳しくのべているので、これを採用するに止めて、ここに詳論することを省く。

第五、現場写真の証拠能力について

一、判決に影響を及ぼすべき法令違反

原判決には、いわゆる現場写真の証拠としての性格について、判決に影響を及ぼすべき法令の違反があつて破棄されなければ著しく正義に反する。

すなわち原判決は、弁護人らが犯行状況等の現場写真の性格は供述証拠とみるべきであると主張したのに対し、写真は、科学的な正確性の点において証言などの供述証拠と対比し、質的に格段の相違があるという科学的特性からして非供述証拠であると判示しているが、これは以下に述べるとおり、刑事訴訟法の解釈適用を誤つたものであり、しかも右法令違反は、被告人らの犯罪事実の成否についての判断に重大な影響を与えるものであるから破棄されなければ著しく正義に反する。

二、現場写真は供述証拠と解すべきであるのに原判決はこの解釈を誤つている。

本件で問題とする写真は、例えば、交通事故や、殺傷事件等の事件直後における現場の状況を撮影した写真(これも現場写真と呼ばれる)とは異つて単なる場所というよりは、犯人の行動に重点をおき、人の犯行の状況そのもの及びこれと接着した前後の状況を撮影した写真である。犯行の状況写真といつても、犯行は人間の時間的な連鎖的行動であるのに、写真は、ただその行動中の一瞬間をとらえうるにすぎないから、この点で人が事件を目撃する場合と異なるのは勿論、同じく写真といつても時間的連続性をもつ映画フィルムとも異なる。このことはその証拠能力を考えるについては、写真がそのものとしての性質の外に、このような現場写真の限界を考慮に入れねばならない。

かかる現場写真の証拠能力については、現行刑事訴訟法が施行されて間もない頃から実務上の問題とされていたが(刑事裁判資料「昭和二七年二月開催刑事手続に関する全国刑事裁判官合ママ同議事要録」八一〜九五頁参照)いまだ最高裁の判例もなく学説も分かれており、下級審の取扱は必ずしも一定していない。

現場写真の証拠能力については、おおむね次の三説に分かれる。

(1) 第一説――検証調書(刑訴三二一条三項)類推説

横川判事、同判事を含む刑事判決研究会など実務家の主唱にかかり(横川敏雄、刑事裁判の研究一六五頁、刑事判決研究会「新刑事訴訟研究室」判例タイムズ一一号四七頁、藤井一雄=小野慶二「最近における刑事手続上の諸問題」判例タイムズ一八号一四頁、B五六一・六八七頁)、学説として高田教授の説くところである(高田二四八頁、同「現場写真の証拠能力」判例評論七四号四三頁)。すなわち写真は、単なる供述調書や記述録取書以上に犯罪事実を雄弁に物語るものである(横川)が、一定の場所からある出来事を報告するという機能の点からいえば、人間が言語によつてその情況を報告するのと本質的に異なるところはなく、まさに「記録された伝聞 (RECORDED.HEARSAY)である(高田・前掲論文)。写真が科学的正確さをもつといつても、それは撮影者がいつ、どこで、どのようにして撮影したかが明らかにされることを前提とし、このような前提をぬきにして抽象的に正確だなどというのは、危険この上もない(高田・前掲書)

写真は、容易にさまざまのトリックを施しうるもので、その成立過程において偽造も変造もなされなかつたことが明らかにされなければならない(藤井=小野・前掲論文)。それゆえ、写真は、報告文書に代わるものとして「検証の結果を記載した書面」に準じ、撮影者を「公判期日において証人として尋問」し、それが「真正に作成されたもの」であることを明らかにした後でなければ証拠能力を認められない。そうでないと被告人の保護に欠けるし、写真が調書の添付写真として利用される場合の証拠能力との均衝ママを失するとする。

東京地裁昭和三六・四・二六(下刑集三巻三・四号三九三頁参照)は、映画フィルムに関するものではあるが、結論として、第一説と同旨の見解をとる理由として、写真の供述証拠的一面を説明とし、「犯罪事実をそのまま記録したフィルムは事実→観察→記憶→記憶の再生→表現という形をとることにおいて、いわゆる目撃証人の供述と非常に類似した性格を持つている」と判示している。

なお、鴨教授は、「写真は機械の力によつて事実を再現するといつても、原本資料そのものとは異なり、写す人の主観と技術が多分に作用し、その事実の再現は必らずしも事実を表示するものではない〔から〕かような点では供述証拠におけると同様な危険がある」とし、「信用性の保障と必要性の保障とは伝聞例外の法理にとつて重要な条件であるが……必らずしも伝聞証拠についてのみ適用されるものではなく、広く証拠能力を考える場合に適用されるべき法理である」から、写真が検証の代用として用いられるときにも同様であり、その際、信用性の担保としては「写真のメーカーを証人として喚問し、その写真撮影の状況の立証をすることが必要であろう」と述べている(鴨三二二・三二七頁)。

この点について、原判決も「たしかに、写真の撮影・現像・焼付・仕上げといつた作成過程にはそれぞれ人間の意識的・技術的な関与があり、芸術写真に限らず報道・記録等を目的とする実用写真の分野に属する現場写真についても、合成・トリック・修正などといつた写真技法を利用して現実の犯行状況等と異なる情景を印画紙に映像させることは可能であるし、その危険性が全くないというわけではない。したがつてその種の行為が加えられた疑いのある写真については、現場の情景をありのまま映像するという現場写真の本質を損うものであるから、非供述証拠としての証拠能力はこれを否定すべきである。」と判示している。

(2) 第二説――刑訴三二三条三号の準用説

この説は、写真といえども撮影者の体験を録取したものであるから、供述証拠として伝聞法則の適用を受けるとする点においては第一説と同じであるが、機械力による自動的な録取であるという点において作為や誤謬の入る余地はなく、特に信用すべき情況下に作成されたものといえるとして、刑訴三二三条三号により証拠能力を有するとする(平場安治「写真の証拠能力」演習講座刑訴法二六五頁参照)が、これは少数説である。

(3) 第三説――非供述証拠説

証拠物説ないし同類推説とも呼ばれ、多数説である。

原判決は、現場写真について、「これらの写真は、検証調書等の脱ママ明的供述部分を補完する趣旨の添付写真とは異なり、独立の証拠としてまさに、写真の映像自体が見る人に過去の犯行状況等の一場面を写実的に感得させる機能を営むものであり、被写体を印画紙に映像するまでの全過程の基本部分は、通常、精度の高い光学器械、感光材料、化学薬品などの自動的作用により行われるものであつて、その科学的正確性の点においては、証言などの供述証拠と対比し、質的に格段の相違があり、右のような写真の科学的特性にかんがみれば、現場写真は非供述証拠に属し、事件との関連性を認め得る限り、証拠能力を具備するもの」であると判示する。

この点は弁護人らも否定するものではないが、人間の行為は、一定の状況の全体のなかでの時間的連続性を有するものであるのに、写真は、ある目的をもつて人間が連続して行動した場合のある瞬間を前後関係から切り離して映像するものであつて、写真そのものから当該人間の行動の意味を正当に評価・判断することはできない。

本件においても原審被告人Cの甲八ノ一358の証拠写真が良い例である。この一枚の写真自体では、Cらしき男が燃え盛る火中にシートらしきものを投げ込もうとしているのか(原判決はそのように解している)、あるいは、火の中からシートを引きずり出して燃焼を防せごうとしているのかは明確でない。

このような写真については、撮影者の撮影したときの情況等についての証言が重要な意味をもつてくるであろう。

原判決も「写真の色彩、濃淡、遠近感などの面における客観的現実との差異や、本件のように動的かつ広範な場面における撮影位置、角度、構図などの面における限定性および連続性の欠如といつた現場写真の技術的限界の存在は、それが写真を見る人によつて異なつた印象・認識を生む可能性は否定できない」ことを認めるものの「それらのことは現場写真の要証事実との関係における証明力の問題に止まるものと解すべきである。」と述べるのみで、現場写真が包含する問題点の解決を図るための判断を避けている。

これに対し、弁護人らは現場写真の本質的な性格からしても、また前述のような各種の問題点を適正に解決するためにも供述証拠として扱うべきであり、ただ、人間の言語又は文章による供述とは異り写真の機械的即物性からして当該写真の撮影者によりその写真の撮影の状況及び現像・焼付が通常の方法により適正に行われ、その過程で対象をゆがめる如き作為が行われなかつたことを証言せしめるのが妥当であり、これは刑事訴訟法の要請するデュー・プロセスからしても当然なされるべき手続である。

三 アマチュアカメラマン撮影の写真について

原判決には、第一審において証拠として採用されたアマチュアカメラマン撮影にかかる写真について、そのフィルム収集過程及びフィルムの現像焼付の過程等の手続に関する事実に関し、判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認及び法令違反があつて、原判決を破棄しなければ著しく正義に反し、また最高裁判所の判例と相反する判断をした違法がある。

すなわち、事実は左に主張するとおりであるが、原判決は、「アマチュアカメラマンの撮影に係るフィルムの差押・領置手続及びその現像・焼付といつた現場写真の収集手続過程に憲法三五条等の所期する令状主義の精神を没却するような重大な違法があつたわけではないことは証拠上明らかであり、右手続を適法とした詳細な原判断(第一審の判断)は当審もこれを是認するものである。とくに、マスコミとは無縁の、c大学などの学生または社会人の立場にあつたDら一〇名が、当夜、新宿及びその周辺で卒業制作、記録等を目的に学生・群衆らの動きに随伴し写真撮影を続けていたことは論旨指摘のとおりであるけれども、その過程における原(一審判決の)説示のような同人らの行動状況等に徴すれば、警察官らがEを除く九名を騒擾助勢、附和随行、建造物進入等の嫌疑により現行犯人として逮捕した事実があつたからといつて、これが論旨のいうような撮影済のフィルムの獲得を意図しての違法・不当な逮捕であることを窺わせる具体的な状況は見あたらず、また右Eら四名がしたフィルムの任意提出及びその現像・焼付の承諾が実態は捜査機関の偽計・強制などに基づくものであることを疑わせる証跡も認められない。」との誤つた事実を認定し、弁護人の主張を排斥した。

(一) フィルム収集の違法性

1 警察官による証拠収集の状況

検察官が証拠申請書甲二請求番号一〇八〜一一七として取調請求した証拠は、D外九名が本件の当日、現場において撮影したフィルムを現像焼付した写真をFが写真帳として作成したというものである。

これらの写真の撮影者とされているD外九名は、本件当時、あるいはフリーのカメラマン、あるいは写真関係の大学その他の学校において写真について専門的に研究ないし勉強している者、あるいは大学のサークル活動として写真の研究をしている者であつて、当日も新宿駅及びその周辺において広い意味での報道目的のため、撮影活動を行つていたものである。

右一〇名のうち、Eを除く九名は、いずれも騒擾(助勢又は付和随行)等(人により異なるが、外に建造物侵入、公務執行妨害、威力業務妨害、鉄道営業法違反等の罪名がつく)の現行犯人として昭和四三年一〇月二二日午前零時頃から零時四〇分頃の間に逮捕された。

現行犯人として逮捕された際、G、H、I、Jの四名は、捜索差押処分により、所持していた未現像の撮影済みフィルム、又はフィルム入カメラを押収された。

逮捕された者は三日〜一二、三日間身体を拘束されたが、D、G、K、Lは、逮捕後四、五日経つた頃未現像のフィルムを任意提出の形で取調べに当つた警察官に提出させられた。

また、D、M、Nについては、身柄拘束中に、これらの者に対する前記各被疑事件捜査のためとして、いずれも留意されていた警察署を管轄する簡易裁判所裁判官の発した捜索差押令状に基づいて、強制処分としてフィルムの差押えが行われ、未現像のフィルムが押収された。

現行犯人として逮捕されなかつたEは、友人のJの供述により騒擾等被疑事件の被疑者として任意出頭を求められ、現像済のフィルムを任意提出の形で警察官に提出させられた。このような経過でフィルムを入手した捜査機関に、これらの撮影者のうちM以外の者からは現像及び焼付について承諾書を取り付け(但し、Eについては焼付のみ)、現像及び焼付(Eについては焼付のみ)を行なつて写真を作成した。

これらの写真を編綴したものが検察官の請求する前記F作成の写真帳(甲二請求番号一〇八〜一一七)であり、また、右写真につき、右撮影者らが検察官に対して撮影状況を供述したものを録取した調書が甲二請求番号一一八〜一三一、一三三〜一三五の証拠である。

2 各証拠の収集手続の実態とその違法性

右撮影者らはいずれも当日、報道のための取材その他国民の知る権利の行使として、現場における写真撮影を行なつていたものである。

従つて、騒擾の行為とは全く関係がない。彼らは何れも「報道」に携わつていることを示す腕章を巻いたり、ヘルメットを冠つていた者も少なくなかつた。また、いずれも比較的大きなカメラやその付属品等を所持し、騒擾罪の実行行為者ではないことは一見して明らかであつた。そして、同様の服装をし、同様の行動をした者であつても新聞社、雑誌社等いわゆるマスコミ関係のカメラマンは一人も逮捕されなかつたにも拘らず、右撮影者らは、Eを除き、現行犯人として逮捕されたのである。逮捕される際警察官に対し、写真撮影に来たことを示すため、身分証明書を示したにも拘らず逮捕された者もいた(N、H)。

このように、右撮影者らに対する逮捕手続は報道の自由を侵害し、国民の知る権利を蹂躙するものであり、また、現行犯逮捕の要件を具備しないのになされ、かつ暴力を行使してなされたもので違法である。

本件フィルム事件の評価のよき参考となるのは、いわゆる「国学院大学映研フィルム押収事件」である。

この事件は、報道の自由との関連から「押収」手続の違法性を認定したものであつて、本件における多くの事例は、警察が、被逮捕者より任意提出の形式をとつてフィルムを手に入れたケースと外面上異なるが、カメラマンに対して単に現場にいたという事実のみで騒擾の容疑を加え、逮捕勾留の上、被逮捕者が適法に所有するフィルムを提出させ、現像、焼付を行つたのみならず、さらに各フィルムにつき説明を強要する等、警察自身の手による典型的な脱法行為であり、実質的な言論、表現の自由、報道の自由の弾圧である。

また、民事事件ではあるが、報道写真家を被疑者としてなされたフィルムの押収差押を違法とした判例もある(那覇地裁昭和四九年五月八日判決、判例時報七五三号七五頁)。

この事案について裁判所は、新聞社の報道員の腕章をつけ、大きなカメラを持つて、撮影のため右往左往している被疑者の行動は、報道関係者であることが「一見し明らか」であるのに、警察官は同人を公務執行妨害の被疑者として逮捕し、同人の所持していたフィルムを違法であるとしている。これらのフィルムは公務執行妨害事件の多数の被疑者に対する証拠として使用することを狙つたものであることは「一見明らか」であり、この点は本件の場合と全く同様である。

本件においても前述の如く写真撮影に来たことを示すため、身分証明書を示したにも拘らず、逮捕された者のいること、また、機動隊が一般の人に乱暴している場面を撮ろうとしてカメラを向けていたところ、私服の警察官にとがめられたので学生証を示すと、向うへ行けと言われたが機動隊員に逮捕されたケース(H)のあること、その他の情況等を総合すると、逮捕警察官らは、騒擾罪の被疑事実がないにも拘ず、むしろ右写真撮影者らから撮影済みのフィルムを奪うために逮捕したと判断せざるを得ないのである。更に、現行犯逮捕に際してなされたフィルムやカメラ等の押収は、右写真撮影者らに対する騒擾被疑事件についてなされたもののようであるが、仮に何らかの被疑事実が認められたとしても、カメラやフィルム等は右被疑事実とは何らの関連性を持たず、また必要性も認められない。

以上の各点からして現場でのフィルム捜索差押手続は違法であつたと言わざるを得ない。

3 任意提出、領置手続の違法性

(1) 現行犯人として逮捕され、引きつづき身柄拘束中に、所持品として留置場に預けていたフィルムを任意提出の形で捜査官に提出させられ、領置された者が少くないが、本件の場合、右収集手続は次の理由により違法、無効である。

① 提出は前述のような違法な逮捕手続に身柄拘束を受けた者であること。

② 提出されたフィルムは、違法な逮捕を契機として発見されたものであること。

③ 任意提出の形で提出されているが、その実情は各人により多少異るとはいえ「フィルムを提出すれば釈放してやる、提出しなければ、いつまで拘禁されるか判らない」等と述べ、若しくは右のような趣旨を暗示し、あるいは、任意提出しなければ強制手段により押収すると脅すなど、偽計、利益誘導、又は脅迫的な言辞を用いて、右写真撮影者らの意志に反して提出させたものであること。

④ 写真撮影者らに対する被疑事実に関して任意提出させて領置しているが、これらの者に対する被疑事実とは関連性がないこと。

⑤ 真の狙いは、フィルムを他の者に対する証拠とし、又はその他の捜査に使用するものであつたと判断せざるを得ないこと。

4 裁判所の捜査、差押令状による押収の違法性

同じく現行犯逮捕に引き続き身柄拘束されている間に、所轄の簡易裁判所の裁判官の発した捜査差押令状により、未現像のフィルムを強制的に押収されたのは、M、N、Dである。

Dは自宅及び友人宅において捜査差押されたが、M及びNは、警察の留置場に所持品として預けたものを差押えられたものである。

右差押えは、裁判官の発した令状に基づいて行われたものであるが、これらの令状はいずれもフィルム所持者=写真撮影者に対する被疑事件の関係で発せられた。即ち、Dの場合は、同人に対する公務執行妨害被疑事件の関係で、Nの場合は、同人に対する騒擾、建造物侵入被疑事件の関係で、またMの場合は、騒擾(率先助勢)、公務執行妨害、鉄道営業法違反被疑事件で発せられたものである。

しかしながら、押収されたフィルムについて、右被疑事実の証拠とはなり得ないことは明らかである。(同人らが騒擾の現場にいたことについては、現場での逮捕であるから、その必要性はない。)他の被疑者との関係で何か捜査官にとつて都合のよい証拠が出てくるのではないかとの見込のもとに、それを目的として未現像フィルムについて令状を請求し、裁判官は、その請求どおりに、関連性、必要性について充分に検討することなく、令状を発したものである。

右の如く令状により、差押処分を受けたフィルムはいずれも前述の如く、違法な逮捕により身柄拘束されている間になされ、また違法な逮捕手続を契機にして発見されたものである。

右各事情からすると、右フィルム押収手続は、違法、無効である(前記国学院大学映画研究会フィルム差押事件に関する最判昭和四四年三月一八日、参照)。

(二) 現像及び焼付の承諾の実情

前述の如く、現行犯人として逮捕されなかつたEを除いては、押収されたフィルムはいずれも未現像であつた。そこで捜査官は、なお身柄が拘束されている者に対しては、承諾しないと拘留が長期になる旨を述べ又は暗示し、また身柄が拘留されていると否に拘らず、(既に釈放された者も数名いたがいずれも処分保留であつた)、起訴をほのめかす等、利益、誘導、偽計又は脅迫的な方法で撮影者らに現像又は焼付に関する承諾書を書かせた。

右のような事情でフィルムの現像を行つた捜査当局の行為は、私権の侵害であるばかりでなく、報道の自由を侵害し、知る権利の蹂躙であるばかりか、著作権の侵害でもある。

(三) 違法に収集された証拠写真の証拠能力

(1) 以上の如く違法に収集された自由について、憲法三八条二項は、一定の要件のもとに証拠能力がないことを明らかにしているが、憲法三五条は捜査、押収について令状主義を規定するものの、違法な捜査手続によつて収集された証拠能力については何ら触れていない。しかしながら、かかる証拠が排除されなければならないことは、刑事手続における適正手続(デュープロセス)の保障を規定した憲法三一条からの当然の帰結である。

しかし、わが国の判例は、違法に収集された証拠であつても、供述証拠と非供述証拠とでは、その証拠能力の判断にかなり明確な区別をつけている。

供述証拠については、それが違法に収集されたものであれば、その証拠能力を否定する判例、学説がほぼ確立されていると言えるが、非供述証拠はその押収手続に違法があつても、そのことによつて証明力自体に影響を及ぼすことはないとして、その証拠能力を認める。

供述証拠はその収集過程に違法があれば、そのために虚偽の供述が行われたことを疑われるなど証明力に影響を及ぼすことが考えられるのに対し、非供述証拠にはそのような契機は全く見出されないし、また違法な押収物の証拠能力を否定することは、実体的真実主義の要請にも反するとする。それ故、非供述証拠は、押収手続に違法があつても犯罪事実立証のため証拠として利用できるというのが従来の伝統的な考え方であり、これが現行憲法施行後間もない頃の判例(最判二四、一二、一三、最高裁刑事判決特発二三号三七頁等)のとつて来た見解であつた。

(2) しかし、違法に収集された非供述証拠に対して判例のとる見解に対し、有力な反対説がある。例えば平野教授は、「訴訟においては、ただ実体的真実を発見しさえすればよいのではなく、公正な手続によつてのみ、真実は発見されなければならない。また、証拠収集に際して行われる違法行為は、捜査当局が訴追、処罰に熱心のあまり行われるのが通常であるから、その証拠収集を排除することによつて、最も有効に、違法行為を防止することができる。違法行為に対する刑事責任の追求は、あまり防圧の効果をあげえない。したがつて、違法に取得された証拠は、証拠能力がないと解すべきである。とくに、憲法三五条の押収捜査の規定は、その反面として、証拠能力を否定する趣旨と解される。その他刑訴法の規定に照して、押収捜査が無効であるときは、その結果として、取得された物の証拠能力を否定すべきである。その範囲は、押収された物だけではなく、これに基いて発見された物に及ぶと解されなければならない」(平野「刑事訴訟法」法学全集四三巻二四〇頁)との見解に立つことを明らかにしている。

(3) その後のわが国の判例は未だ排除法則については、何ら確定しておらず、排除法則をとることを明らかにしていない。しかし、例えば、最高裁昭和三六年六月七日判決(刑集一五巻六号九一五頁)は、捜査差押調書等につき、被告人及び弁護人が証拠とすることに同意し、異議なく証拠調を経たことを理由に、捜査、差押手続が違法であつたか否かに拘らず証拠能力を有するとして、証拠能力を否定した原判決を破棄しているが、これは前記最判昭和二四、一二、一三が押収手続の違法は証拠能力の有無に影響がないと云い切つたのとは、明らかに異なつた態度を示しており、また排除法則を肯定する少数意見又は意見を書いた裁判官が少なからずいたことも注目すべきである。下級審の裁判所には排除法則をとるものがあらわれており、徐々にではあるが、排除法則の方向に向いているのが判例の現状である(佐々木史朗「違法な押収物」証拠法大系第一巻一九二頁)。

本件証拠写真を非供述証拠と見るべきではないことは前述のとおりであるが、写真を非供述証拠とする見解も有力である。よつて、一歩譲つて写真を非供述証拠とする見解に立つても、前述のとおり本件の写真は違法に収集されたものであるから証拠能力は否定されるべきである。右写真について証拠能力を認めた原判決は憲法三一条及び三五条の解釈を誤つている。

四、警察官入手の撮影者不明の写真について

(一) 刑事訴訟法一四四条の証言拒否と被告人の防禦権

被告人の有罪を立証するために法廷に提出される証拠に関しては、その成立過程、収集過程、証明力等に関して被告人の充分な証人尋問権の行使が保障されなければならない。また、本件写真に関して言えば、それが刑事訴訟法三二一条三項の書面としてその証拠能力を認めるとするならば、作成者によつてその作成の真正が証明されなければならぬ、しかるに、本件写真は、それを入手したと称する警察官OおよびPは、撮影者の氏名はもちろんのこと、その写真を捜査当局に提供した者の氏名をも、公務上の秘密(刑訴法一四四条)を盾に秘匿している。その結果、被告弁護人は右の証人尋問権を行使し、右証拠に関する防禦活動をすることを実質上阻止され、被告人の防禦権の重大な侵害である。

刑事訴訟法一四四条は、実体的真実の発見という訴訟法的要求を公務上の秘密の保護という超訴訟法的要求によつて、制限するものである(団藤重光綱要四一二頁)が、さらにそれによつて被告人は重大な不利益を受けるから、裁判所は軽々しく証人が「公務上の秘密に藉口して証言を拒否することを認めるべきではない。そしてもし、国家機関の一員である公務員が、公務上の秘密を理由とする証人拒否権を行使した場合には、国は当該公務上の秘密保持の利益を得るのであるから、それによつて当該事件において被告人の訴訟上の不利益は同じく国家機関の一員である訴追官(検察官)において負担しなければならないとするのが公平の原則である。

従つて、もし国家公務員が公務上の秘密を理由に証言を拒否することによつて、当該証拠の証拠能力の認定要件としての必要な立証(本件の場合では作成の真正についての立証)が不可能となつた場合には、その不利益は国が負担すべきものであり、本件の場合、写真の伝聞証拠排除原則による証拠排除の不利を国=検察官が負担するのは当然であるから、裁判所はかかる証拠の証拠能力を認めて採用すべきではなく、証拠から排除すべきである。

右の原則は下級審の判例にも見られる。

昭和四七年一〇月三一日大阪地裁の更正処分取消請求事件における判決(行裁例集二三―一〇、一一、七八三頁)では、被告税務署長が原告の経営規模や事業実績を立証するために、原告と同じ地区で経営規模も近似する同業者の青色申告書を証拠として請求し、これら証拠によつて原告の事業実績を立証しようとしたが、その際被告税務署長は右青色申告書の作成名儀ママ人「○○」を塗りつぶして秘匿したのである。これにたいし、裁判所は「作成名儀ママ人「○○」が明らかにされなければ「原告」としては、これに対する反証を挙げる手段を有しないことになる――少くとも反証を挙げるについて極めて困難になる――といわねばならないのであつて、訴訟の相手方から反証を挙げる手段を封ずることに帰するような主張及び証拠を許容することは衡平の見地から見ても、また訴訟における信義則から考えても、到底これを是認出来ない」と判示した。

被告税務署長は、納税者の秘密を保持する義務があるからと言つて、他の納税者に前示のような訴訟上の不利益を甘受させることは許されないのであるから、この場合被告税務署長としては、申告者の承諾を得るよう努力すべきであり、もし、その承諾を得られないときは、「その申告書を書証として提出することは断念せざるを得ないと考える」としている。

民事事件においては、当事者間の利益のバランスが問題となる。(この場合当事者の一方は国であるが)。しかし刑事事件においては、原告の立場に立つのは常に国であり、国の利益を法廷で代表する検察官である。そして国は、当然に国民の人権を保障する義務を負う。それ故に、刑事訴訟においては、実体真実の発見とともに、人権の保護が強く要請されているのである。そして、刑事事件においては、立証責任は主として検察官が負うので、有罪を立証する証拠に関しては、厳格要件が定められているのである。

従つて前記判決に見られた衡平の原則は、刑事事件においては、民事事件より一層厳格に適用されねばならない。

以上の観点から、本件証拠は排除されねばならない。

(二) 適正手続の立証責任について

本件証拠が適正なる手続によつて捜査官の手に渡つたものであることは、言うまでもなく検察官において立証しなければならない。しかるに検察官は、それを入手したと称する証人O、同Pに対して、提供者や撮影者の氏名を特定する点に関して、極めておざなりな、通り一遍の質問を出しただけで、証人が証言を拒否すると、安んじてそれを受け入れている。しかも刑事訴訟法一四四条の規定により監督官庁の承諾を得る手続をとるべきことを、裁判所に対して要求することすらしていないのである。承諾を得る手続をとるのは裁判所であるが、承諾を必要とする当事者(検察官)が何らの催告もしないのであるから、裁判所がその手続をとらないのは実務上当然の扱いである。

検察官の右のような態度を鑑みるに、弁護人としては、検察官は本件写真の証拠調請求を実質上放棄したものと判断せざるを得ないので、裁判所はかかる証拠を排除すべきである。

(三) 原判決は、憲法三一条、三七条二項の解釈を誤り、ないしは憲法三一条に違反する。

原判決は、右弁護人の右の趣旨の主張に対し、「現場写真の撮影者を証人尋問することによつてその証明力を増強することができるし、実体的真実発見の観点からも証言と現場写真が相俟つて犯行状況等の現場の情景を浮彫りにすることがのぞましいといえるけれども、本件に見られるように、報道・出版関係者など現場写真の撮影者側が、フィルムまたは写真自体の提供以上の協力を一切拒否したため、その証人尋問を行わないということは、現場写真の証明力の点において証拠申請側にも不利益となるから、論旨のように衡平を失するということにはならない。」と判示するがこの点において原判決は、刑事訴訟法三二一条等の解釈を誤つただけではなく、刑事訴訟につき適正な手続を定めた憲法三一条及び証人審問権を保障した憲法三七条二項の解釈を誤つたものないしは憲法三一条に違反したものと云わざるを得ず、原判決は、この理由からして破棄されなければならない。

第六、<省略>

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