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最高裁判所第二小法廷 昭和55年(オ)1188号 判決 1987年4月24日

上告人

日本共産党

右代表者中央委員会議長

宮本顕治

右訴訟代理人弁護士

上田誠吉

植木敬夫

寺本勤

渡辺脩

橋本紀徳

中田直人

岡部保男

斎藤鳩彦

坂本修

松井繁明

青柳盛雄

諫山博

正森成二

被上告人

株式会社

産業経済新聞社

右代表者代表取締役

植田新也

右訴訟代理人弁護士

稲川龍雄

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人上田誠吉、同植木敬夫、同寺本勤、同渡辺脩、同橋本紀徳、同中田直人、同岡部保男、同斎藤鳩彦、同坂本修、同松井繁明、同青柳盛雄、同諫山博、同正森成二の上告理由第一点について

憲法二一条等のいわゆる自由権的基本権の保障規定は、国又は地方公共団体の統治行動に対して基本的な個人の自由と平等を保障することを目的としたものであつて、私人相互の関係については、たとえ相互の力関係の相違から一方が他方に優越し事実上後者が前者の意思に服従せざるをえないようなときであつても、適用ないし類推適用されるものでないことは、当裁判所の判例(昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁、昭和四二年(行ツ)第五九号同四九年七月一九日第三小法廷判決・民集二八巻五号七九〇頁)とするところであり、その趣旨とするところに徴すると、私人間において、当事者の一方が情報の収集、管理、処理につき強い影響力をもつ日刊新聞紙を全国的に発行・発売する者である場合でも、憲法二一条の規定から直接に、所論のような反論文掲載の請求権が他方の当事者に生ずるものでないことは明らかというべきである。これと同旨の原審の判断は正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に基づくものであつて、採用することができない。

同第二点及び第三点について

原審における上告人の主張によれば、(一) 昭和四八年一二月二日付サンケイ新聞紙上に掲載された第一審判決別紙第一目録掲載の広告(以下「本件広告」という。)は、上告人主張のいわゆる「八要件」(第一審判決四〇頁一四行目から四二頁三行目まで)が備わつている場合には、仮に憲法二一条に基づいては上告人の反論文掲載請求権が認められないとしても、条理に基づいて上告人の反論文掲載請求権が認められるべきであり、また、(二) 上告人主張のいわゆる「三要件」(原判決八枚目裏八行目から九枚目表五行目まで)が整えば、人格権に基づいて上告人が反論文掲載請求権を取得するというのであり、いずれの場合も不法行為の成立を前提とするものではないというのである。

しかしながら、所論のような反論文掲載請求権は、これを認める法の明文の規定は存在しない。民法七二三条は、名誉を毀損した者に対しては、裁判所は、「被害者ノ請求ニ因リ損害賠償ニ代ヘ又ハ損害賠償ト共ニ名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分ヲ命スルコト」ができるものとしており、また、人格権としての名誉権に基づいて、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため侵害行為の差止を請求することができる場合のあることは、当裁判所の判例(昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)とするところであるが、右の名誉回復処分又は差止の請求権も、単に表現行為が名誉侵害を来しているというだけでは足りず、人格権としての名誉の毀損による不法行為の成立を前提としてはじめて認められるものであつて、この前提なくして条理又は人格権に基づき所論のような反論文掲載請求権を認めることは到底できないものというべきである。さらに、所論のような反論文掲載請求権は、相手方に対して、自己の請求する一定の作為を求めるものであつて、単なる不作為を求めるものではなく、不作為請求を実効あらしめるために必要な限度での作為請求の範囲をも超えるものであり、民法七二三条により名誉回復処分又は差止の請求権の認められる場合があることをもつて、所論のような反論文掲載請求権を認めるべき実定法上の根拠とすることはできない。所論にいう「人格の同一性」も、法の明文の規定をまつまでもなく当然に所論のような反論文掲載請求権が認められるような法的利益であるとは到底解されない。

ところで、新聞の記事により名誉が侵害された場合でも、その記事による名誉毀損の不法行為が成立するとは限らず、これが成立しない場合には不法行為責任を問うことができないのである。新聞の記事に取り上げられた者が、その記事の掲載によつて名誉毀損の不法行為が成立するかどうかとは無関係に、自己が記事に取り上げられたというだけの理由によつて、新聞を発行・販売する者に対し、当該記事に対する自己の反論文を無修正で、しかも無料で掲載することを求めることができるものとするいわゆる反論権の制度は、記事により自己の名誉を傷つけられあるいはそのプライバシーに属する事項等について誤つた報道をされたとする者にとつては、機を失せず、同じ新聞紙上に自己の反論文の掲載を受けることができ、これによつて原記事に対する自己の主張を読者に訴える途が開かれることになるのであつて、かかる制度により名誉あるいはプライバシーの保護に資するものがあることも否定し難いところである。しかしながら、この制度が認められるときは、新聞を発行・販売する者にとつては、原記事が正しく、反論文は誤りであると確信している場合でも、あるいは反論文の内容がその編集方針によれば掲載すべきでないものであつても、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられるのであつて、これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゆうちよさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存するのである。このように、反論権の制度は、民主主義社会において極めて重要な意味をもつ新聞等の表現の自由(前掲昭和六一年六月一一日大法廷判決参照)に対し重大な影響を及ぼすものであつて、たとえ被上告人の発行するサンケイ新聞などの日刊全国紙による情報の提供が一般国民に対し強い影響力をもち、その記事が特定の者の名誉ないしプライバシーに重大な影響を及ぼすことがあるとしても、不法行為が成立する場合にその者の保護を図ることは別論として、反論権の制度について具体的な成文法がないのに、反論権を認めるに等しい上告人主張のような反論文掲載請求権をたやすく認めることはできないものといわなければならない。なお、放送法四条は訂正放送の制度を設けているが、放送事業者は、限られた電波の使用の免許を受けた者であつて、公的な性格を有するものであり(同法四四条三項ないし五項、五一条等参照)、その訂正放送は、放送により権利の侵害があつたこと及び放送された事項が真実でないことが判明した場合に限られるのであり、また、放送事業者が同等の放送設備により相当の方法で訂正又は取消の放送をすべきものとしているにすぎないなど、その要件、内容等において、いわゆる反論権の制度ないし上告人主張の反論文掲載請求権とは著しく異なるものであつて、同法四条の規定も、所論のような反論文掲載請求権が認められる根拠とすることはできない。

上告人主張のような反論文掲載請求権を認めることはできないとした原審の判断は、結論において正当として是認することができ、原判決に所論の違法があるとはいえない。論旨は、ひつきよう、独自の見解に基づいて原判決を論難するものであつて、採用することができない。

同第四点について

言論、出版等の表現行為により名誉が侵害された場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法一三条)と表現の自由の保障(同二一条)とが衝突し、その調整を要することとなるのであり、この点については被害者が個人である場合と法人ないし権利能力のない社団、財団である場合とによつて特に差異を設けるべきものではないと考えられるところ、民主制国家にあつては、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであることにかんがみ、当該表現行為が公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該事実が真実であることの証明があれば、右行為による不法行為は成立せず、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実であると信じたことについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がないと解すべきものであつて、これによつて個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和が図られているものというべきである(前掲昭和六一年六月一一日大法廷判決)。そして、政党はそれぞれの党綱領に基づき、言論をもつて自党の主義主張を国民に訴えかけ、支持者の獲得に努めて、これを国又は地方の政治に反映させようとするものであり、そのためには互いに他党を批判しあうことも当然のことがらであつて、政党間の批判・論評は、公共性の極めて強い事項に当たり、表現の自由の濫用にわたると認められる事情のない限り、専ら公益を図る目的に出たものというべきである。

これを本件についてみるに、本件広告は、自由民主党が上告人を批判・論評する意見広告であつて、その内容は、上告人の「日本共産党綱領」(以下「党綱領」という。)と「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」以下「政府綱領提案」という。)における国会、自衛隊、日米安保条約、企業の国有化、天皇の各項目をそれぞれ要約して比較対照させ、その間に矛盾があり、上告人の行動には疑問、不安があることを強く訴え、歪んだ福笑いを象つたイラストとあいまつて、上告人の社会的評価を低下させることを狙つたものであるが、党綱領及び政府綱領提案の要約及び比較対照の仕方において、一部には必ずしも妥当又は正確とはいえないものがあるものの、引用されている文言自体はそれぞれの原文の中の文言そのままであり、また要点を外したといえるほどのものではないなど、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいては、本件広告は、政党間の批判・論評として、読者である一般国民に訴えかけ、その判断をまつ性格を有するものであつて、公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合に当たり、本件広告を全体として考察すると、それが上告人の社会的評価に影響を与えないものとはいえないが、未だ政党間の批判・論評の域を逸脱したものであるとまではいえず、その論評としての性格にかんがみると、前記の要約した部分は、主要な点において真実であることの証明があつたものとみて差し支えがないというべきであつて、本件広告によつて政党としての上告人の名誉が毀損され不法行為が成立するものとすることはできない。名誉毀損の成立を否定した原審の判断は、その結論において正当として是認することができる。論旨は、以上と異なる見解を前提とするか、又は結論に影響を及ぼさない判示部分について原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官香川保一 裁判官牧圭次 裁判官島谷六郎 裁判官藤島昭 裁判官林藤之輔)

上告代理人上田誠吉、同植木敬夫、同寺本勤、同渡辺脩、同橋本紀徳、同中田直人、同岡部保男、同斎藤鳩彦、同坂本修、同松井繁明、同青柳盛雄、同諫山博、同正森成二の上告理由

第一点 原判決には憲法第二一条の解釈に誤りがあるから、破棄すべきである。

一、原判決の憲法第二一条論と上告人の主張

原判決は、憲法第二一条の保障する表現の自由を、もつぱら「公権力によつてこれらの自由を侵害することを禁止するという意味」における「消極的自由権」としてとらえ、憲法のうえで、国民の側に、新聞の「報道が不完全であるとき一層完全な報道を求める具体的権利」はなく、また新聞の側にもこれに相応する義務はない、つまり国民の側に反論権をみとめる憲法上の権利はなく、新聞の側に反論文掲載をみとめる憲法上の義務はないとして、上告人の請求を棄却した第一審判決を支持したのである。上告人は、原判決のいう憲法第二一条に関する右のような解釈は、本件に特有な次のような諸事実がある場合に、明らかに誤つていると考える。それらの諸事実は、上告人が第一審以来主張しきたつたところであつて、これらが憲法上反論文掲載の権利・義務を本件当事者間に発生せしめる事実上の前提をなすものである。

あらためて、その「八つの事実」を掲記すれば次のとおりである。

本件広告は(1)、二百万人の固定読者を有する一般新聞の広告という手段で、(2)、上告人を名指し、(3)、上告人の重要な基本的政策について、ことさらに歪曲した表現を用いて攻撃し、(4)、上告人に対して社会通念上同一紙上での回答を求めるものとみなされる体裁をとり、(5)、もし上告人がこの攻撃に反論しないならば、その攻撃にかかる内容が真実であるという印象をあたえるという構成をとり、(6)、それらによつて、上告人に対する国民の政治的信頼をきずつけ、上告人の政治活動を妨害した。被上告人は(7)、上告人が反論することを余儀なくされる地位にたつことを知りながら、あえて前記諸特徴をもつ本件広告を掲載頒布した。(8)、そして被上告人は新聞事業を営むもので、みずから本件反論をその紙上に掲載することにより、上告人のこうむつた政治的信頼の毀損並びに政治活動の妨害を回復、排除することのできる地位にある。

このような諸事実のもとで、本件当事者間に、憲法上、反論文掲載の権利・義務を生ぜしめる根拠は以下のとおりである。

二、憲法第二一条の現代的理解

(一) 憲法第二一条は「……出版その他一切の表現の自由はこれを保障する」と定める。

この表現の自由が、表現を求める者の思想、見解、知見の発表の自由を意味することはいうまでもない。

そして、この自由の保障が「公権力によつてこれらの自由を侵害することを禁止するという意味」(原判決)をもつていることは、ひろく認められたとおりである。しかしながら、同時に、「基本的人権なる観念の成立および発展の歴史的沿革」(最高裁大法廷、昭和四八年一二月一二日判決)によるならば、むしろ、自由権的基本権の保障は「もつぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」(前同)とする見解は、一八世紀の末にいくつかの人権宣言をつくつた先人たちが、基本権を侵害するおそれのあるものとして、もつぱら国家権力を対象として考えていたことの反映であつて、また国民の資本主義的階級分化が今日とくらべてまつたくすすんでいなかつたことのあらわれでもある。

その後の歴史は、国家権力と並んで、ときには国家権力にもまして、基本権を侵害するおそれのあるものが続出したことを示している。とりわけ巨大な社会的勢力や営利企業の活動は、国家の政策に対して絶大な支配力をもつばかりでなく、国民の基本的人権やその生活の全般に対して強力な影響を及ぼし、たとえば公害の排出による環境破壊は、国民の生命と健康に対する危険をも発生せしめており、これが国民の基本権を侵害するものとして広く批判をうけていることは公知のところといつてもよい。

憲法第二一条をめぐる今日の状況もまた、この保障を破るおそれのあるものとして決して国家権力だけを考えていてすまされるようなものではない。

一九六九年から七〇年にかけて顕在化し、ひろく国民の批判を受けた創価学会による出版妨害事件を考えてみるだけでも、そのことは十分に首肯されるところであろう。つまり、表現の自由の保障は、国民と公権力との関係においてはもちろんのこと、国民相互の間にも直接に適用あるものと解すべきである。本件は、被上告人が前記の「八つの事実」のもとで、上告人に攻撃を加えた場合における上告人の受けるべき憲法第二一条の保障の問題である。

(二) 憲法第二一条の保障は前記(一)にとどまらない。

国民の知る権利、つまり他者の思想、見解、知見などの発表を享受することの権利もまたこの保障にふくまれる。享受には、それが権利である以上は、与えられたものを受けとめるだけではなく、すすんで、かくされたものをつかみとる権利がふくまれる。

このことは二つの面から支持される。その一つは、マス・メディアの発達にともない、国民が情報の送り手と受け手に分離し、しかもその分裂が固定化するにおよんで、大多数の国民は事実上、情報の受け手の地位におしとどめられ、しかも他方で一部の者は情報を掌握、独占、支配することによつて、伝達する情報の質と量を左右できることになつた現実にてらして、むしろ情報の受け手である大多数の国民の「知る権利」を憲法上の保障のうえに確保することが緊切なものになつたからである。

新聞に限つていえば、わが国の新聞は、第二次世界大戦中に言論統制の一環としておこなわれた新聞統合をへて、戦後においていつそう集中の度をつよめ、こんにちでは、世界的にも有数の発行部数の集中度を示している。一九七三年当時日本新聞協会に加盟する一般日刊新聞は全国で九六紙であつたが、一九七四年下期の状況をみると、「朝日」、「読売」、「毎日」の三大紙で43.9パーセント(スポーツ紙以外の三紙の系列一般日刊紙をいれると四五パーセントをうわまわる)、「サンケイ」、「日経」二紙が8.5パーセント、準全国紙の域に達した「中日」、「北海道」、「西日本」のブロック紙で10.3パーセントであり、上位八紙だけで実に約六三パーセントを占めるにいたつている。

このような寡占化の進行のもとで、情報の一方的受け手である国民を、憲法第二一条によつて保障される「知る権利」の主体としてとらえることの緊切さは、いつそう重要なものとなつている。新聞とその読者とを、ともに憲法第二一条の権利の主体としてとらえ、その緊張関係のもとで、憲法第二一条の保障を多元的に構成する必要がある。

二つには、表現の自由を国民主権にもとづく民主主義政治の基礎としてとらえ、国民が公的な問題についての情報をマス・コミに対しても、あるいは国家機関に対しても、正しく知らされうる地位にあることを保障し、その保障のうえに国民の政治的選択がおこなわれることの重要性の再認識である。

憲法第二一条の保障を、伝統的な個人権のわくにしばりこめてはならないのであつて、公共的な争点を、ひろく国民的な規模で討論することを促進するために、国民の「知る権利」の保障としてとらえなくてはならないのである。近時、ひろく論ぜられている情報公開を求める権利もまたここにその基礎がある。

(三) このようにして憲法第二一条の保障する表現の自由は、国民主権と議会制民主主義のもとにおいて、とりわけ重大な政治的権利としての性格をもつことに着目する必要がある。

主権者である国民は一方において、みずからの意思を政治に反映させるために「表現する自由」を保障される必要のあることはいうまでもないが、同時に、他方において、みずからの意思を形成するためにあらゆる情報・知識をうけとる権利(「知る権利」)をも十分に保障される必要がある。これら両面の権利がたんに国家権力による侵害からまもられるだけではなくて、国民の社会生活のうえで、ひろく、かつゆたかに保障されていることは、憲法の予定する政治的民主主義の不可欠の前提である。

その意味では表現の自由は、必ずしも国民主権下の国政参加と直接に関連しない他の自由権的基本権とは異なる性質をもつのである。そこで憲法第二一条が直接に国民相互の間にも適用があると考えることは憲法の予定する政治的民主主義にとつて、必要でありかつ合理的である。

(四) 西ドイツ基本法第五条第一項は「知る権利」の保障をうたい、世界人権宣言第一九条は表現の自由には、「あらゆる手段により……情報および思想を求め、受けとり、かつ伝える自由を含む」とし、さらに国際人権規約(B規約)第一九条は、同じく表現の自由には「……すべての種類の情報を求め、受け、かつ伝える自由が含まれる」と規定したが、日本国憲法の解釈として「一切の表現の自由」のなかに国民の知る権利がひろく含まれることについて、こんにち疑義はないのである。

すでに「悪徳の栄え」事件において、最高裁の色川裁判官は「憲法二一条にいう表現の自由が、言論、出版の自由のみならず、知る自由をも含むことについては恐らく異論がないであろう……。けだし、表現の自由は他者への伝達を前提とするのであつて、読み、聴き、そして見る自由を抜きにした表現の自由は無意味となるからである。情報及び思想を求め、これを入手する自由は、出版、頒布等の自由と表裏一体、相互補完の関係にあると考えなければならない」(最高裁大法廷昭和四四年一〇月一五日判決)としていたが、さらに博多駅テレビフィルム提出命令事件で最高裁大法廷は「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである」(昭和四四年一二月二六日決定)とし、西山記者事件(最高裁第一小法廷昭和五三年五月三一日判決)ではあらためてこの決定を引用したうえで同旨の判示をおこなつたのである。

(五) さらに憲法第二一条は、「……一切の表現の自由は、これを保障する」として、学問の自由(第二三条)、団結権・団体行動権(第二八条)とともに保障方式をとつている点に大きな特色がある。

すなわち、この「保障する」のことばの主語は、日本国であつて、国が享有主体である国民の自由を積極的に保障する趣旨を合意している。立法その他国家の行為による自由の侵害を禁止することはもとより、さらにすすんで、国民の表現の自由を侵害する行為があれば、たとえそれが私人のものであつても、すすんでその侵害を防止し、あるいは回復するという積極的保障の意味をふくんでいる。

もちろん私人間の法律関係は私的自治にゆだねられる部分が多く、私的自治のゆたかな発展は国政のうえでも望ましいものであるが、しかし私的自治によつてはどうにも解決できない基本権の侵害があつた場合には、国が憲法にもとづいて司法的救済をふくむ積極的保障をはかることをみとめているものと解せられる。この場合、同じ保障形式をとる憲法第二八条の団結権・団体行動権について、私人間の行為を直接に規律するという理解が一般的であることも参照されてよい。

その意味ではアメリカ合衆国憲法修正第一条が連邦議会による言論、出版の自由を減縮する立法を禁止する方法をとつていることとは区別されるのである。

以上によつて、憲法第二一条の保障は、消極的自由権のわくにとどまるものではなく、社会的基本権のそれと必ずしも同一ではないが、私人間にも直接に適用のある積極的自由権として、一定の場合に司法による積極的保護をうける。つまり、一定の場合に司法権の発動を求めてその私人間における実現を積極的に求めることができる自由権である、と考える。

三、上告人日本共産党と憲法第二一条

上告人は、わが国の進歩と変革の伝統をうけついで、一九二二年七月一五日に創立された政党であつて、平和と国民主権にたつ民主政治をめざし、さらに勤労人民を搾取と抑圧から解放し、日本に社会主義社会を建設することを目的として活動をおこなつている。そのために、上告人をふくむ民族民主統一戦線勢力が積極的に国会に進出し、国会で安定した過半数をしめることをめざしている。上告人はそのようなものとして、憲法第二一条の保障する一切の表現の自由を享有する。上告人はこの自由の積極的な行使を通じて国民の政治的信頼をかちえ、新しい政治勢力の結集のために努力している。上告人の享有する一切の表現の自由は、国民主権にもとつくこの国の民主主義的政治体制の根本に根ざすものである。

上告人は、憲法第二一条にもとづいて反論権をもつ。自分に対する中傷的攻撃に対しては、言論によつて有効な反撃をおこなう権利をもつ。本件広告による中傷的攻撃の場合、それへの有効な反撃は、前述の「八つの事実」からいつて、「サンケイ」紙上でおこなわれることが不可欠である。そして、「サンケイ」は、この反論掲載を甘受すべき義務を負う。

四、「サンケイ」新聞と憲法第二一条

(一) 被上告人もまた新聞の発行者として憲法第二一条の保障のもとにある。意見広告の掲載は、これにふくまれる。

しかし、被上告人が意見広告によつて出稿者の意見を伝達する自由を、憲法第二一条のもとにあると理解するにあたつては、次の二点に留意しなくてはならない。

(二) まず、この自由は、国民の「知る権利」に奉仕するものである。国民が国政に関する判断をおこなうにあたつて、必要かつ有益な資料を提供することによつて、国民の「知る権利」に奉仕しているのである。ある判決は、報道記事についてではあるが、次のようにのべている。

「民主社会においてはすべての国民に思想ならびに言論の自由が保障されなければならないことは当然であるが、その前提として各人がそれぞれの思想を形成するための多様な意見や資料がすべての人に提供され、いわゆる知る権利が確保されることが不可欠というべきところ、現代のような情報化社会にあつては右は新聞による意見や資料の提供にまつところが大きいといわざるを得ず、従つて新聞はその報道記事内容の充実により右要請に応えるべきであるとされることはもとより、新聞が寡占化すれば国民は幅広く多様な意見や資料に接することができず思想ならびに表現はその面からも制約され健全な世論の形成にも影響を生ずるおそれがある」(東京地裁昭和四九年六月二七日判決、刑事裁判月報六巻六号七二四頁)。

マス・メディアが巨大化し、その社会的な影響力が巨大になればなるほど、この巨大企業の享有する表現の自由がその根本において国民の「知る権利」に奉仕するものであることがみなおされなくてはならない。

この、国民の「知る権利」に奉仕する新聞の自由は、むしろ新聞の国民に対する義務としてとらえることが可能である。

博多駅事件について、テレビ・フィルムの提出命令が確定したのち、福岡地裁は昭和四五年三月四日、NHK福岡放送局ほか三局に対し、捜索・差押令状を発してこれを執行し、フィルムを押収したのであつたが、この強制力行使に対し、テレビ四局は声明を発して抗議した。その声明は次のようにのべていた。「民主主義のもとでは国民は常に、知る権利の自由を持つことが基本原則であり、報道取材の自由は、この知る権利にこたえるわれわれの義務であると考える。したがつて報道取材の自由が侵されることは、われわれ報道機関が国民の知る権利に十分こたえられなくなる結果を招来するものであつて、かかる意味において今回の処置は、われわれとしてきわめて遺憾とするものである。」ここでは、取材の自由が、国民の「知る権利」に対応する義務として理解されている。

あらためていうならば、被上告人には、国民の「知る権利」、つまり国民の享有する表現の自由に奉仕するために、その表現の自由が保障されているのである。そこで、被上告人はその自由を行使するにあたつては、この根本義に対する誠実が要求されるのは当然である。この誠実を軽んじ、国民が国政をになううえで必要な判断資料を提供せず、あるいは一方が他方を中傷的に攻撃する見解を提供するのみで、他方の立場をまつたく無視するなど、国民の「知る権利」に奉仕すべき憲法上の義務をまつたくなげすててかえりみないときには、国民の「知る権利」がこれに優先して、憲法上一定の作為義務を課せられることがある。これが被上告人の負う本件反論文掲載義務の根拠である。

(三) 被上告人の享有する表現の自由の行使は、同時に利潤追求を目的とする企業活動としておこなわれている。被上告人にとつて、表現の自由というメダルの裏面は同時に営業の自由である。とくにそれは広告活動である場合にいつそう顕著である。被上告人は自らの思想の表現としてではなく、もつばら出稿者の思想の表現の媒体となることによつて、広告料収入をえている。

反論文無料掲載の義務をみとめることは、被上告人に対して一定の広告スペースの無料提供を強制することになるが、この負担は被上告人にとつてもつばら営業活動にかかわることで、直接に表現の自由の制約にかかわるものではない。もとより、一定の広告スペースの提供は、その紙面の部分について他の報道、評論、広告などの掲載ができないという限りで、被上告人の享有する表現の自由と無関係ではないが、しかし、有料であれば被上告人は本件反論文の掲載に少しも異議をのべず、かえつて本件広告掲載直後に、その有料掲載方の勧誘をこころみたのであるから、もともと一定の広告スペースが本件反論文で埋められることに異存はなく、ただその広告料収入がえられないことに反対していたのである。そこで、所詮は本件反論文掲載によつて一定の広告スペースの無料提供を強いられることの不利益は、広告料収入という被上告人の営業活動にかかわるものであることにかわりはないのである。つまりそれは被上告人の財産権上の負担であつて、表現の自由に対する制約ではないから、これをみとめることを妨げる憲法上の制限はないのである。

まして被上告人は、出稿者たる自由民主党からその契約上の権利にもとづいて、のちにその負担分を徴収できる立場にあるから、事実上の損害はないのであつて、表現の自由という、より優越的な憲法上の価値の前には、この程度の一時的負担は許容されるものと考える。

五、憲法第二一条と本訴請求

上告人は、被上告人が前記諸特徴をもつ本件広告を先行的に掲載したことによつて、憲法第二一条にもとづいて、反論文掲載を求める権利をえ、これを主張する適格をえた。被上告人は同じく憲法第二一条にもとづいて、攻撃をうけた上告人の側の反論文を掲載し、これをひろめて国民の「知る権利」を充足すべき義務を負担した。この、権利と義務を結びつけることによつて、憲法第二一条の保障を回復する接点は、上告人のおこなつた反論文掲載要求の権利主張そのものである。

本件は、憲法第二一条の多元的な保障体系のもとで、その享有主体相互間の憲法上の権利、義務をどのように調整することによつて、この保障の実を得るか、という問題をふくんでおり、そのことは誰が誰を相手にしていかなる請求をおこなうか、という問題とも不可分である。上告人は、前記八つの事実関係のもとで、上告人が権利主張の適格を有し、この権利主張をおこなうこと自体が憲法第二一条にもとづく権利、義務を当事者間において結びつけるものと考える。

第二点 原判決は、人格権にもとづく反論権の成立を否定した点において、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違背をおかしている。

一、原判決の判断

(一) 人格権侵害にもとつく差止請求権について

原判決は、人格権と条理にもとづく反論文掲載請求権を差止請求権の一つとして承認することができるかどうかについて、第一審判決の判断部分をそのまま維持しつつ、それに自らの若干の判断を追加している。

右の第一審判断部分は、「……元来妨害排除請求権というものは現に継続する違法な侵害行為の排除・停止を求めるものであつて、本件広告のように過去の一回きりの行為に対して『差止』を求めるというのは不可解と言わなくてはならない。……およそあらゆる不法行為の被害はそれが回復されるまでは続いているのであるから、原告主張の理路を辿れば、すべての過去の侵害行為に対して事後の『差止』が可能であることにもなり、事後の金銭賠償を原則としたわが不法行為法の体系が崩壊しかねない」というのである。

それに対して、原判決が付加した判断は、上告人が原審において右の第一審判断部分を批判して、差止命令には、予防的ないし禁止的差止命令のほかに、命令的ないし強制的差止命令があり、後者は事後の被害回復処分をふくむことがあると主張したのに対する応答であつて、一般の物権的請求権や工業所有権にもとづく差止請求権に関する諸規定を参照しながら、次のようにいう。すなわち、「人格権の侵害に対しては、不法行為に基づく金銭賠償・回復処分とは別に、人格権保護のために、人格権侵害の効果として、一定の要件のもとに被害者の救済が認められる場合があるとしても、その場合に請求することができる内容は、当該侵害行為について、妨害予防の請求または妨害停止・排除の請求の範囲にとどまると解するのが相当であり、損害回復の処分として、右の範囲を越えて、相手方に何らかの作為を請求するがごときは、実定法に明文がなく、法の解釈上または条理上も、これを許容する理由はないというべきであり、このことは、本訴請求にかかる反論文掲載請求権についても同様である」(傍線は上告人)というのである。

(二) 人格の同一性にもとつく反論権について

次に、原判決は、現代マスコミ状況のもとにおける人格権の不可欠の内容である人格の同一性にもとづく反論請求権の成否について判断し、まず、人格の同一性の保持は、「人格の尊厳という普遍的な原理から出発し、したがつて法的保護に親しみ易い面を持つ」ことを承認し、さらに、「控訴人の主張する人格の同一性という概念は、その内容の分析はともかく、それはそれなりにその意味を理解することができないわけではない」と一定の理解をもしめす。しかし、その内容に即した法理的究明はおこなわずに「他に例のない要件」「わが国の既存の制度とかけ離れた性格のもの」であるという面から接近し、「この点」、「所有権に基づく妨害排除請求権或いは相隣関係などの類推」は、「法律効果の点において、なお大きな距りがあるのであつて、類推の域を越えているといわざるを得ない」とし、そこから、人格の同一性にもとづく反論権を「かなり特殊的技術的な色彩の濃いもの」「むしろ新しい概念」などと特徴づけ、判例、学説上も熟していないので、「いまにわかにこの人格の同一性なる概念を採用し、これが侵害された場合に(他の要件を加えて)反論権が生ずるという法律効果を認めることは困難である」と結論する。

そしてなお、原判決は、「外国に類似の制度があるからといつて、直ちに右の結論が左右されるものではない」とか、「控訴人は、高度に発達した巨大なマス・メディアから人格の同一性に対し重大な攻撃を受けた者にとつて、反論権は、最も有効適切な救済方法であるというが、それがいかに緊要なものであつても、そのことから直ちに権利が生ずるものではない」とかの付言をし、上告人の主張は「立法論に帰着する」としている。

二、原判決の判断にある法令違背

(一) 差止請求権について

(1) 判決理由のくいちがい

第一審と原審のこの点についての判断には重要な相違がある。第一審判決は、事後的な被害回復としての差止命令に対して、「差止」という国語的な字義にとらわれた誤解をし、かつ不当な一般化を前提としてわが国の不法行為法の金銭賠償の原則との矛盾衝突を危惧した。これに対して原判決は、差止命令には字義を越えて被害回復命令もあること、およびここで問題なのは、人格権侵害の被害回復であつて、不法行為一般の被害回復ではないことを言外に認めている。したがつて、原判決が第一審判決を維持する一方で、これと異なる自己の判断との関係を説明することもなく、上告人の主張を排斥したことは、すでに整合性に欠け、理由にくいちがいがある。

(2) 発生根拠と形態の混同

原判決は、一般の物権的請求権と工業所有権にもとづく差止請求権に関する諸規定を挙げ、これらにおいて認められている請求権の形態が「妨害の予防の請求または妨害停止の排除の請求の範囲にとどまる」がゆえに、人格権侵害の効果としての被害者救済のために、右の範囲を越えて、相手方に作為を請求することは「実定法に明文がなく、法の解釈上または条理上も」許容できないと判示する。

しかし、ここで問題なのは、新聞紙上に掲載された特定政党に対する中傷意見広告について、差止請求権の一形態として反論文掲載請求権を承認すべきかどうかである。その保護法益は、「人格の同一性」をもその一つの内容とする人格権である。いまやわが国の学説・判例も、明文の規定なしに、人格権を具体的な権利として承認する点で異論はない。しかも、名誉、貞操、肖像など人格価値の個々の側面を保護する個別的人格権の承認からはじまつて、生命、身体、健康までをふくむすべての人格的利益の総合として、包括性をもつ人格権=一般的人格権の承認へとすすんできている。そして、個別的であれ包括的であれ、この人格権が絶対権的性格をもち、それゆえ物権的請求権に準ずる妨害排除請求権をともなうことについてもおそらく異論はあるまい。

すなわち、人格権にもとづく差止請求権は、その発生根拠において、同じ絶対権である所有権にもとづく物権的請求権からの類推に負うところが大きい。原判決が、所有権や無体財産権における差止請求権の類推として、金銭賠償・被害回復処分とは別に、人格権侵害に対する被害者救済のための妨害の予防、停止・排除請求権を認めたのは、その発生根拠の論定として、もちろん正しいといえる。

しかしここではさらに、「人格権の同一性」を保護法益とする差止請求権としては、新聞に反する反論文掲載請求権という形態がありうるかどうか、が問題とされているのである。

名誉毀損に対する損害回復の処分としては、古くから取消・謝罪などの方法が認められ、わが民法第七二三条も損害賠償とは別に「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分」を規定し、この処分のなかには反論文掲載命令もありうることが近時認められるようになつてきている。第一審判決は傍論としてではあるが、わが国の判例ではじめてこの理を認めた。名誉毀損に対するこのような救済方法は、理路をたどれば、もともと絶対権としての人格権の発現形態であり、しかも人格権のなかでも、公衆による人物評価ないしその評価によつて満足される人格感情を内容とする、名誉という特殊な人格価値を保護するために、必要かつ適切な方法として認められているのである。

「人格の同一性」は、多岐にわたる個別的人格権のなかでも、この名誉にもつとも近接した人格価値である。このような人格価値保護のためには、名誉毀損の場合に準じて、反論文掲載という救済方法がゆうに認められうるのである。そして、それを差止命令の一形態と考えることに、なんの不都合もない。もともと名誉毀損の回復処分自体が、そのような意味での差止命令の一つであるといってもよいのである。

「人格の同一性」の侵害に対する差止請求権としての反論文掲載請求が、名誉毀損に対する回復処分としての謝罪ないし反論広告に準じて可能である以上、原判決も否定できなかつた現代マスコミ状況のもとにおける反論権の緊要性にかんがみ、学説・判例のひとしく認める人格権の条理にてらして、これを許容すべきことは当然であるといわなければならない。

(3) 「実定法」の理解の誤り

原判決は、人格権が侵害された場合に、その損害回復処分として、妨害の予防、停止・排除以外に相手方に作為を請求することは、「実定法に明文がなく、法の解釈上または条理上も、これを許容する理由はない」という。

しかし、実定法とは、制定法だけでなく、判例法、慣習法、条理法など、超経験的な自然法と対比される意味でのすべての経験的な法、つまり実証される法のことを指称するのであるから、封例法や条理法を「実定法の明文」と別個の非実定的な法であるかのようにみるのは誤りである。

すでにみたように、「人格の同一性」の侵害にもとづく差止請求権としての反論請求権の承認のためには、昭和五〇年一一月二七日大阪高裁の大阪国際空港公害訴訟判決をはじめとして、昭和五五年九月一一日名古屋地裁の東海道新幹線公害訴訟判決にいたるまで、多くの判例によつて形成されてきた人格権にもとづく差止請求権の判例法や、人格権の法理にてらして解釈された民法第七二三条の名誉回復処分という制定法が重要な根拠となるのである。

以上はことばの問題という側面もあるが、原判決をして条理法の解釈を誤らしめた一つの要因として、看過できない法令違背である。

(二) 人格の同一性にもとづく反論権について

(1) 「わが国の既存の制度」の看過

わが国の裁判所で「人格の同一性」を保護法益として権利の存否が争われたのは、本件がはじめてであつたにかかわらず、原判決がそれに一定の理解ある態度を示したことは、すでにのべたとおりである。

しかし、原判決は、「いまにわかに」条理として採用することに種々の難点があるとし、その一つとして、「人格の同一性」が名誉毀損とも違う「他に例のない要件」であり、「我が国の既存の制度とかけ離れた性格のもの」であることを強調する。しかし、過去、現在のわが国の立法例は、客観的にみて「人格の同一性」にもとづくと考えられるものが存在しており、上告人はすでに訴状の請求の原因第二の四の(四)で簡略ながらその旨主張していたのである。

原判決は、この点をまつたくみおとしている。

① 旧新聞紙法第一七条

わが国で、本格的な反論権立法がなされたのは、明治四二年五月制定の新聞紙法第一七条においてであつた。すなわち、

第十七条 新聞紙ニ掲載シタル事項ノ錯誤ニ付其ノ事項ニ関スル本人又ハ直接関係者ヨリ正誤又ハ正誤書、弁駁書ノ掲載ヲ請求シタルトキハ其ノ請求ヲ受ケタル後次回又ハ第三回ノ発行ニ於テ正誤ヲ為シ又ハ正誤書、弁駁書ノ全文ヲ掲載スヘシ

正誤、弁駁ハ原文ト同号ノ活字ヲ用フヘシ

〔第三項省略〕

正誤書、弁駁書ノ字数原文ノ字数ヲ超過シタルトキハ其ノ超過ノ字数ニ付キ発行人ノ定メタル普通広告料ト同一ノ掲載料ヲ請求スルコトヲ得

この規定は第二次大戦後新聞紙法が廃止されるまで約三五年の歴史をもつたが、もとをただすと、原文の二倍の字数の正誤書、弁駁書の掲載請求権が明治二〇年一二月制定の新聞紙条例第一三条に規定されており、これをあわせるとわが国の新聞における反論権の歴史は半世紀を越えていたのである。

旧新聞紙法において掲載拒否に刑罰が科せられた点は、西欧諸国の反論権と同様であるが、民事的訴求と執行については規定がない。しかし、旧新聞紙法の提案趣旨説明に「一体新聞に〔正誤書等を〕掲載することは当業者にとつては迷惑な事柄であります。寧ろ当業者としては無くしたいのでありますが、併しながら書かれた方の身に取つては間違つたことを記載されては気の毒でありますから斯うしました」(第二五回帝国議会衆議院新聞紙法委員会議録第二回三ページ)とあるようにその考え方は民事的反論請求権であり、客観的には「人格の同一性」の保護の機能をもつていたということができる。

② 放送法第四条第一項

さらに、現行の放送法第四条第一項は、「放送事業者が真実でない放送をしたという理由によつて、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」に対して、訂正又は取消放送の請求権を与えている。この請求権は放送事業者がみずから「その放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したとき」にだけ満足されるが、放送事項が真実であるかないかだけが要件である点からいつて、保護法益は本人らの名誉ではなく、疑いもなく「人格の同一性」である。

この条項の政府提出原案は「放送事業者は、……その選択するところにより、訂正若しくは取消の放送をし、又は本人若しくは直接関係人に弁明の放送をさせなければならない。」(『官報号外』昭和二五年四月二五日参議院会議録第四五号八八三ページ)となつていた。衆議院で現行法のように修正されたものの、原案には明らかに反論放送請求権の実体が存したのである。これによつても、「人格の同一性」の保護のための反論請求権という制度が、わが国になじみがないとはいえないことがわかる。

③ 新聞倫理綱領

日本新聞協会の新聞倫理綱領は、その第四に「非難されたものには弁明の機会を与え……なければならない」と規定している。名誉毀損に該当しない場合でも、非難された者は「人格の同一性」を害されるおそれが大きいので、それを未然に防止するために本人に弁明させることを業界の自主規範としたものにほかならない。

このように、原判決が、「人格の同一性」の侵害を「我が国の既存の制度とかけ離れた性格のもの」とみたのは、「人格の同一性」ということばをもちいていないにしても、客観的には「人格の同一性」の保護を目的としている、いくつかの重要な「我が国の既存の制度」を看過したためである。これは、原判決が人格権にもとづく反論権を条理としてとらえることができなかつたことの重要な原因の一つである。

(2) 「人格の同一性」概念の意義の誤解

① 「特殊的技術的な色彩」論の誤り

原判決は、人格権にもとづく反論権の成否について判断した判示部分において、前述の「既存の制度」論を補強するかのように、上告人がこの論点について「所有権に基づく妨害排除請求権或は相隣関係などの類推」をおこなつたものとし、「これらの法律関係と控訴人主張の反論権との間には、法律効果の点において大きな距りがあるのであつて、類推の域を越えているといわざるを得ない」から、「ここで主張されている反論権は、かなり特殊的技術的な色彩の濃いものであり、したがつて、特段の立法を待たないで、かかる権利の存在を認めることはできない」という。

しかし、この論述によつて補強しようとしたとみえる原判決の「既存の制度」論自体がすでに前述のとおり、信じがたいみおとしによつて、上告人主張の反論権をきわめて特殊なもののように色づけようとする偏見であつた。いままた右の説示は、上告人主張の反論権についての著しい曲解・誤解以外のなにものでもない。

第一に、上告人が第一審以来主張してきた所有権にもとづく妨害排除請求権の条理の適用は、人格権にもとづく差止請求権の発生根拠を論証したものにすぎない。反論文掲載という差止命令の形態、すなわち原判決のいう「法律効果の点」については、上告人は第一審以来、本訴で問題なのは人格権一般でなく、「現代マスコミの言論による非難攻撃にさらされた場面における人格権」であり、したがつて「わが国の民法自体が不法行為法体系の中で金銭賠償の原則に対する例外として」いる「名誉毀損およびその隣接言論法領域における原状回復の必要性と相当性」(準備書面(九)一四、一五ページ)であることを力説していたのである。すなわち名誉回復処分としての謝罪等広告命令の条理性をその隣接法領域たる本件差止請求権に導入することを主張したのである。

第二に、相隣関係の条理の適用は、人格権一般でも現代マスコミの言論一般でもなく、意見広告に対する人格権にもとづく反論権ですらなく、ほかならぬ意見広告における政党に対する名誉毀損の成否をめぐる人格権と言論の自由との利害相剋の解決のための調整の法理として主張したものである。そして上告人は、意見広告においては新聞事業者の言論の自由は後退し、公衆のために「平等に開かれた表現媒体、“フォーラム”」(準備書面(十一)七ページ)となること、それは必然的に「言論のフォーラムであると同時に、人格権のフォーラム」(前同ページ)ともなることを指摘しながら、注意深く、その限りではまだ相隣関係の条理の適用はおこなわず、いぜんとして反論広告の無料性を「反論者の人格権のプレスにたいする原状回復請求権の効果」(前同ページ)に帰していた。すなわち、さきにのべた所有権にもとづく妨害排除請求権と不法行為にもとづく名誉回復処分の条理に依存していたのである。上告人が相隣関係の条理に依拠したのは、人格権にもとづく反論権のためではなく、不法行為にもとづく名誉回復処分の要件に関連して、第一審判決が採用した政党に対する名誉毀損の「三基準」を意見広告による名誉毀損に関する限り補正する必要があるとして、「適法行為による『不法行為』の理論」を援用した限度においてである(準備書面(十一)八〜一二ページ)。

上告人主張のこのような法域ごとの区別と区分けは、準備書面(十一)においてきわめて整然となされているのであつて、本来誤解の余地はないはずである。このような法域ごとの必要で明白な区別すら怠り、しかも重大なみおとしまでおかしつつ「これらの法律関係」などといい加減にひつくくつておきながら、それらと「控訴人主張の反論権との間〔の〕法律効果の点にお〔ける〕大きな距り」などを論ずる資格自体が、原判決にもともとないといわざるをえない。

このようにみてくると、原判決が上告人主張の反論権を「かなり特殊的技術的色彩の濃いもの」といつているのは、裁判所の本来の任務である的確な法的思考を放棄して、印象的漫罵に陥つた結果であると考えられる。もちろん、反論権なるものは、そもそも近代法体系中のある特殊な制度であり、それに固有な法的技術をともなつているものである。したがつてその意味では、反論権制度を「かなり特殊的技術的色彩の濃いもの」といつてもあながち間違いとはいいきれず、かえつてその特殊的技術的なものを近代法の諸原理のなかに位置づけて正しく理解するためには、詳細かつ厳密な法理的考察を必要とするのである。しかし、反論権がその意味で特殊的技術的であるからといつて、反論権が近代法の基本的原理に基礎を置き、民族と国境を越えた普遍的妥当性をもつことをいささかもそこなうものではない。上告人が原審でおこなつた詳細かつ厳密な法理的考察は、まさにその基本的原理性と普遍妥当性を論証するためであつた。原判決は、このような論証に内在する原理性と普遍性にまつたく眼をつむつたのである。

原判決が粗雑きわまる論難をもつて、上告人の主張した近代法諸原理の的確な把握を「類推の域を越えている」と断じたことは、反論権の条理の存在を見誤まる法令違背をおかしたものといわざるをえない。

② その普遍性の看過・無視

原判決は、右の「特殊的技術的な色彩」論のほかに、「人格の同一性」概念が「わが国の判例、学説のうえで熟したものであるということはできず、控訴人自身も認めているように、むしろ新しい概念」であることを理由として、その法律効果を「いまにわかに……認めることは困難である」と結論づける。

上告人は「人格の同一性という概念は、従来日本では認められていなかつた新しい法益……を示す」(準備書面(十六)三ページ)とのべたことがある。そのように法益として理論的に承認されたことばとしては、たしかに新しい概念である。しかし(一)でのべたわが国の既存の制度が客観的にみて「人格の同一性」の保護に任じていたことは否定できないのであるから、わが国でもこの概念が示す法益そのものが新しいということはできない。

そしてそのようにいう限りで、「人格の同一性」の概念が新しいのは、わが国においてだけではなく、西欧諸国にとつても同様なのである。このことばを法学用語としてはじめてもちいたのは、一九六〇年イタリアの民法学者デ・クーピスの論文(Vittorio Italia, Riv. ditind. 1960, I392)であるといわれる。これが翌一九六一年同人著『人格権』第二巻に収められた。原語は diritto all' identitpersonaleで、その独訳はRecht an der Identitt であるが、これを一九六二年Recht auf Identitt としてドイツに紹介したのがH・フープマンである(ACP 161,475 なお、同人の Das Recht auf Identit, in Gedchtnis fr Rudolf Schmidt,1966, S. 161ff.参照)。デ・クーピスが「人格の同一性」の概念をねりあげたのは、キツインガーの場合に似てほかならぬ新聞に対する反論権の研究からであり、それは発表するやいなや大きな反響を呼び、上告人が原審で紹介したH・ケーブルのすぐれた理論化の作業(H. Kbl; Das Presserechtliche Ent-gegnungsrecht und seine Verallgemeine-rung, 1966.なお、その概要は準備書面(十)一五〜二一ページにのべた)を経てひろく急速な承認をかちとつたのである。

それから今日までまだ一五年そこそこであるが、プレス法学の権威であるM・レフラーも、一九七八年には、反論権の基礎づけとして、「基本法第五条第一項によつて保障され、その第三者効力を通じて私法的請求権の中にその現れを見る自由な意見発表の権利」とともに、この人格の同一性の権利を承認している(M. Lffler & R. Ricker; Handbuch des Presserecht, 1978, S. 110.傍点部分の原文はイタリックス体である)。すなわち、

「……反論制度は第一に関係人の保護を目的とする。反論権は、基本法第一条及び第二条から発展した一般的人格権の一形態(eine Ausgestaltung)である(同旨、連邦裁判所 in NJW 1965, S. 1230; NJW 1963, S. 151, 1155;なおまた、ハンブルグ上級地方裁判所in JZ 1956, S. 344;ミュンヘン上級地方裁判所in NJW 1965, S. 2161;ケーブル一〇七頁以下、ケーブル in NJW S. 1137;ドイツ新聞雑誌評議会 in AfP 1973, S. 372;反対は、たとえば、B・グライフin NJW 1965, S. 1137;グロース S. 104;同人 in AfP, S. 521)。

(a) 〔省略〕

(b) 一般的人格権が(正しくないかまたは不完全な)プレス掲載物にふれる領域は、ケーブル(一〇九頁)とともに、『同一性の権利』、すなわち不適切な同一性標識ないし事実の不適切な帰属による『生活像の変造』に対する権利と特徴づけられる。

(c) もちろんこの領域での一般的人格権は、プレスに対する取消請求権(第二九章欄外番号1)によつても保護されている。しかし反論権による保護は迅速な効果という理由から、プレス掲載物による危険の領域へ前方移行している。このことが正当化されるのは、一方では世論形成に対するプレスの影響があとをひくものだからであるが、他方ではたかだか第二の事情説明が公表されなければならないのにとどまることによつてである」(欄外番号6および7)。

このように、ドイツの判例・学説は、原判決のように「新しい概念」であるからといつて、正しい問題の解決を回避したりせず、事実と道理に忠実に、この「新しい概念」とその普遍性・原理性を採用している。

問題は、「外国に類似の制度がある」かないかではなく、それが普遍的な原理に立ち、普遍的な必要にこたえるものであるということにある。そのことが、原審における上告人の諸主張によつてこのうえなく明らかになつているのに、原判決は、「人格の同一性」が「新しい概念」であるからといつてその採用を拒み、そのうえで「外国に類似の制度があるからといつて、直ちに右の結論が左右されるものではない」などといつている。これはただおさえこめばよいといつたものいいであつて、原理と論理に忠実な司法のもちいるべきことばではない。

③ 外国の学説の不正確な摘示

以下の点に関連してみのがせないのは、外国の学説についての原判決の理解の著しい不正確さである。そしてその原因の多くは被上告人の紹介の不公正さに帰せられるであろう。

たとえば、レフラーやフープマン(Heinrich Hubmann)の説について、被上告人は「不法行為・故意過失・権利侵害・不真実等の存在も証明も要しない先行の掲載記事に対し、何ゆえに、反論(それ自体もまた真実であることを証明することは法律上要求されていない)の掲載が許されるのか、人間の尊厳を理由とするだけでは極めて不可解・不明確である。人間の尊厳を人格権あるいは人格の同一性を主張する権利とする学説に置き換えても――控訴人の主張はまさにこの類に属する――結果的には全く同様である」などと主張し(準備書面《高裁五》三二〜三三ページ)、原判決も事実摘示中でほぼそのまま記述し、「人間の尊厳」と「を理由とする」との間に「(レフラー)」を、「主張する権利」と「とする学説」の間に「(フブマン)」をそれぞれ挿入さえしている。しかし、それはまつたくの誤解である。すなわち、レフラーについては、前引の論述にてらして明らかであるばかりか、そもそも被上告人の準備書面(高裁三)に、レフラーの学説として、「……州新聞紙法第一一条の請求権は、その請求権の側からいえば、人間の尊厳(基本法第一条)、人格の自由な発展(同法第二条)および思想の形成に参加する自由(同法第五条)等の憲法上保障されている基本権に基づくからである。諸々の異なる基本権の衝突に鑑み、憲法に一致する調整(den verfassungskonformen Ausgleich)を発見すること、これが州新聞紙法第一一条の使命である」(一一ページ)と引用されていることからも明らかであろう。レフラーを「人格権説の有力な代表者」(準備書面《高裁五》三三ページ)とだけみるのも誤りである。かれは同時に、audiatur et altera pars を「正義の根本原理」とし、基本法第五条の自由な意見発表の権利の第三者効力を認めて反論権の基礎としている有力な論客でもある。

またフープマンについて、被上告人は右の準備書面において、「反論請求権立法を『人格(像)の同一を主張する権利』の保護として説明するフブマン自身が、この請求権は(1)一般的人格権の侵害からは生じないとし、その理由として、この請求権は権利侵害を発生要件としないからだと……する」(三三〜三四ページ)とし、フープマン著『人格権』第二版(一九六七年)の三七二ページを指示する。そして原判決も事実摘示中で「この請求権は、権利侵害を要件としないから、一般的人格権の侵害からは生じないと言われている(フブマン)」と、ほぼそのまま記載している。しかしその個所は正確には次のとおりである。

「それ〔反論請求権〕は一般的人格権の侵害からも生じない。なぜなら、それは侵害の証明を要求しないからである。それゆえそれは損害賠償請求権としては説明されない。むしろそれは不作為訴訟にも似て、人格権の侵害ではなく危険を要件とする予防的な権利の保護を加えている。ある人に関するプレスの通信によつて危険にさらされるのは、おそらくまず最初に想像されるように絶対に名誉だというわけではなく――実際のところ報道がほめたものをふくんでいることさえある――、かえつて同一性の権利なのである」(H. Hubmann; Das Persnlich-keitsrecht; 2. Aufl. 1967, S. 372−373)。

これを正しく要約すれば、「反論請求権は一般的人格権(その要素としての同一性の権利)が危険にさらされることによつて発生するから、権利侵害の証明は不必要である」とならなければならない。これなら被上告人主張や判決の事実摘示と違つて、誤解の余地がない。

また反論が「それ自体もまた真実であることを証明することは、法律上要求されていない」という主張も誤解のもとである。なぜならフープマンはすぐそのあとで「さて反論請求権はたしかにプレス掲載物の不真実の証明を要件としないが、明らかに不真実な反論を目的とすることは許されない。だからそれは関係人に対して少なくとも掲載物が不真実であるという主張を要求する」(三七三ページ)とのべているからである。

(3) 意見広告のフォーラム性の看過

本件で上告人が訴求しているのは、被上告人の「サンケイ新聞」紙上に掲載された自由民主党の政治意見広告に対する上告人の反論文を、意見広告として、同紙上に掲載する命令である。そして、その意見広告は、被上告人が本件当時「全面開放」していたものである。したがつて、本訴請求の成否は、反論権一般の法理にとどまらず、意見広告、しかも「全面開放」された意見広告上の反論権の法理を具体化しなければ、最終的に結論づけることができない。

そこで上告人は、原審において次のように主張した。

「意見広告は、プレス掲載物の一つであるが、その利害関係人として広告主が登場し、プレス自身の報道または評論としてではなく、広告主の『意見』としてプレス上に現れ、プレスによつて伝播される。プレスはこの意見広告にただその紙面を提供し、広告掲載料(被控訴人のばあいは基本料金のほぼ半額だというが)を取得するだけである。

すなわち、人格権と対抗関係に立つ表現の自由としては、ここではプレスの自由だけではなく、広告主の表現の自由もまた登場する。そればかりではない。意見広告においては、プレスの立場はまさにメディア、すなわち他人の言論のための媒介物に後退し、一定の合理的基準に適合するあらゆる意見広告のための“フォーラム”と化する強い傾向を帯びざるをえない。なぜなら、意見広告が言論の自由の民主的機能に新しい分野を開き、それを増進することを目指すものだとすると、言論の自由の民主的機能は自由にして公正な討論を適当に醸成することにあるので、単に特定人のまたは特定傾向の意見のためではなく、あらゆるひとのあらゆる傾向の意見のために平等な基準で門戸を開くことがいつそう合目的的であると言わざるをえないからである。

……(中略)……

しかし、意見広告も、プレス掲載物の一つであるかぎり、人格の同一性を害する旨の反論の対象となつたばあいには、人格権の発現として、同じ意見広告の方法で相対的な原状回復を主張する無料の反論文掲載に道を開かなければならない。そのばあい、先行の意見広告は名誉毀損を構成するという意味で違法である必要はない(逆に名誉毀損であつても、公表事実が真実であることを認めるかぎり、反論権は発生しない。そのばあいには民法七二三条の救済によるべきである。)ばかりでなく、人格の同一性の侵害を構成するという意味で違法である必要もない。ただ人格の同一性を害する旨主張する相当の反論文の掲載を申し出れば足るのである。その点は意見広告も他の一般のプレス掲載物と少しも異るところはない。

異るのは、意見広告においては、人格権がプレスに対する相対的な原状回復請求権としてばかりではなく、広告主の表現の自由にたいする相対的な反論の自由としても発現することである。ここでは、プレスの意見広告面は、両者に平等に開かれた表現の媒体、“フォーラム”となつている。それは、言論フォーラムであると同時に、人格権のフォーラムでもある。広告主と反論者のそれぞれの人格権は、言論のフォーラムであるプレスの意見広告欄を『境界』として、言論によつて同一性の権利に関する利害調節をとげる必要がある。

このように、控訴人が主張する意味での反論権が成立するかぎり、先行の広告が有料でなされているにかかわらず反論の広告が無料とされることは、反論者の人格権のプレスにたいする原状回復請求権の効果であるから、別段広告主との間の問題を生じない。

しかしまた、意見広告がもつ右の本来的フォーラム性に加えて、被控訴人が実施したような意見広告の全面開放方針があるばあいには、被控訴人はおのずからプレスと人格権をめぐる厳しい緊張関係の調整機能を全面的にみずからかつて出たことになるのであるから、厳密な意味での反論権の働きをまつまでもなく、先行の広告にたいする反論広告を必要とする者の掲載請求を受けたばあいに、掲載料不払を理由としてその掲載を拒否することは、権利の乱用として許されないと考えるべきである。

すなわち、他人の意見はプレスがその真偽や妥当性について自己の報道・評論ほどには責任を負いがたいものであるから(新聞報道の真実確認義務の程度はきわめて高い。最高裁判所昭和四七年一一月一六日判決参照)、有償でその掲載を引受けるプレスの広告事業は、不正確・不真実な印象という害毒を社会にまきちらすより大きな危険を伴う営業である。ましてその意見が特定人を名指しで非難攻撃する内容のものであれば、それによつて利益をあげる広告事業が、打撃を受けた者のしかるべき反論文にまで掲載料を請求して、その不払を理由として掲載を拒否することを認めるとするならば著しく不当な結果を招来することが明らかである。反面においてこうした反論を無料で掲載することは一つの危険責任とも考えることができ、またそうした危険な事業に当然帰せられるべきコストと考えることもでき、そう考えることが、その事業のしかるべき努力によつてもなお避けられない困難を強いることにはならない。

ことに、本件自由民主党意見広告は、控訴人が本訴の冒頭から掲示している八要件に集約された事実によつて示されているように、反論を必要とし、かつ反論になじむきわだつた性質をもつているから、意見広告のフォーラム性を根拠として本件反論文の掲載拒否を実質的に違法なものとして許さず、無料掲載を命ずることは、十分に肯認することができるのである」(準備書面(十一)五〜八ページ)。

ところが、原判決は、この主張を事実摘示から脱落させ、判断の対象としなかつた。これは判例遺脱・理由不備の違法をおかすものであり、この点においても原判決は破棄を免れない。

(4) 救済の緊要性と条理との関係の軽視

最後に原判決は、「控訴人は、高度に発達した巨大なマス・メディアから人格の同一性に対し重大な攻撃を受けた者にとつて、反論権は、最も有効適切な救済方法であるというが、それがいかに緊要なものであつても、そのことから直ちに権利が生ずるものではない」とし、結局上告人主張の反論権は、「従来の実定法上の制度とはかなり性格を異にする特殊な制度であるから」、立法論に帰着すると説示する。

原判決も、条理解釈においては事物の本性が法規範の導きの糸であること、巨大なマス・メディアの発達によつて一般化した重大な人格権侵害に対する有効適切な救済方法は、すなわち緊要なものであることを承認せざるをえない。そこで、そのことから「直ちに」権利が生ずるものではないと断言しながら、なおそれでは権利の発生を否定しきれないために、「既存の制度」論と「特殊な制度」論の助けをかりてはじめて上告人主張の反論権を立法論であると結論づけることができたのである。しかし、「既存の制度」論も「特殊な制度」論も、すでに(1)および(2)の①においてその誤れるがゆえんが十分に論証されている。そして、現代マスコミ状況は、高度に発達した巨大なマス・メディアによる関係人の被害の重大化ばかりでなく、金権勢力による意見広告の買い占めとそれに便乗する新聞の悪徳商法のおそれをも重大化しており、本件はそうした「全面開放」下の意見広告による中傷攻撃に対する反論文広告掲載請求権の成否を問うものであるから、原判決がいう「緊要性」、すなわち社会生活の事物の本性にしたがうほかに、したがうべき道理はありようがない。そのほかに、さいわいにして、わが国にはすでに判例法として確立している人格権救済の法理がある。そして西欧ことにドイツの反論権理論の主流は同じくその法理的基礎を一般的人格権とその個別的人格価値としての同一性の権利に置いている。

反論権制度を条理としているのは、反論権立法を欠いているわが国だけではない。西ドイツは、プレス法的反論権法をもつているが、ラジオ・テレビについては一部の州で反論権規定を欠き、また一部の州では反論権を先行主張の不真実にかからせており、映画についてはまつたく反論権立法を欠いている。

この点についてかの国の学者がどう説いているかは、右の諸状況にてらして、本訴請求の成否に重要な意味をもつている。

最初に、反論権について「人格の同一性」理論を完成した一九六六年におけるH・ケーブルの所説を問うことにする。「プレス法と放送法のなかに反論請求権が規定されていない限りで、プレス法の諸規定の類推適用が可能でないかどうかという問題が起こる。文献中ではこれは圧倒的に肯定されている。判例は態度を示す機会がなかつた。すべての放送施設に対する反論請求権の承認は、人格権および個人にとつてのマス・メディア放送の特別な危険性という見地から正当化される。その限りで、その利害状態はプレスのそれとまつたく同じである」(Kbl, a.a.O., S. 122)。「そこに登場する利害衝突がプレスのそれと照応し、ただ反論権の承認によつてのみそれが解決されうる場合には、映画への〔プレス法的反論権〕の類進適用を妨げるものはない」(Kbl, a.a.O., S. 126)

次に、翌一九六七年におけるフープマンの考えを確かめよう。「人格に包括的な保護を与えるという基本法第一条および第二条にふくまれた憲法的任務にもとづいて、反論権が放送法中で〔先行〕放送が正確であるか不正確であるかにかかわりなく認められているのでない限り、プレス法的反論権が放送に類推適用されなければならない。なぜならば、放送による通信は、プレスによるのと同様に、個人にとつて同じ危険をひき起こすからである」(Hubmann, a.a.O., S. 374)。「映画の場合には、すでに上映された劇場における反論は、もはや同じ観客に語りかけることができないから、たしかに本来の意味をもたないが、しかしその後の上映が――たとえば字幕に――関係人の反論を掲げることは、反論権によつて達成される」(Hubmann, a.a.O., S. 374)。

最後に、一九七八年のレフラーに聞いてみよう。「しかしそれだからといつて、反論権の法的性質を問うことが無意味になつたのではない。今日においてもその法的性質は規定の解釈に重要な影響を与えている(〔文献省略〕)。また、反論請求権が一つの一般的な法原理を表現し、そのために具体的な法規を欠いているところで――部分的に放送の領域と映画の領域においてのように――かりに、規定があるときにだけ請求権の基礎が問題となるような場合にくらべて、反論権をいつそう早期に肯定することができるかどうかに重要な影響を与えている(一方でケーブル in NJW 1963, S. 791;他方グライフ in NJW 1963, S. 1137;およびケーブル S. 78;グロース S. 103;レフラー Bd. Ⅱ, §11 Rdz.25 m.w.N.)」(Lffler=Ricker, a.a.O., S. 109)。

(三) 人格権にもとづく反論権の法理構造

原判決が多くの点で、人格権とその不可欠の内容である同一性の権利について解釈を誤る法令違背をおかしていることは、以上によつて明らかとなつたと考える。その結果として、原判決は、人格権にもとづく差止請求権が新聞に対する反論請求権としてはたらく法理構造をまつたく看過し、したがつて上告人が「人格の同一性」の権利に依拠して構成した反論権成立のための三要件の意義についても、なんらふれるところがなかつた。

しかし、原判決の法令違背を論証することは、裏を返せば、右の法理構造と三要件の正しさを論証することでもある。そこで上告人は前者の結論をのべるにかえて、ここで後者を略述することとする。

(1) 反論権の人格権的法理構造

人格権にもとづく差止請求権――それは広い意味での妨害排除請求権の別名ともいえる――は、名誉にあつては謝罪広告等の回復処分請求権としてあらわれるが、いつそう一般性のある「人格の同一性」にあつては取消請求権としてあらわれる。この取消請求権は先行のプレス掲載物が真実に反することだけによつて成立する。ところが、反論請求権は反論の対象となる掲載物の不真実を要件としない。

取消請求権と反論請求権とは一見したところ、このようにあい異る原理に立つているようにみえる。しかしそうではなく、両者はいずれも、人格の同一性という共通の法益を基礎としており、ただそのあらわれかたが違つているだけである。この関係をはじめて理論的に明らかにしたのは、上告人が原審でくわしく紹介したH・ケーブルである。念のために、ここで同人の論証のあとをくわしくたどつてみることにしよう。

「さて、真実性の審査の放棄、したがつて反論権の形式的性質は、その同一性の権利からの演繹と矛盾しないかどうかが検討課題として残されている。それに加えて法律の基礎にある利益の綿密な分析が必要である。反論権を関係人の眼で見る限り、同一性の権利との関連は否定できない。誰でもプレス通信の対象にされたことを経験している。かれは自分に関係のある掲載物を正しくないと考え、それゆえ公衆のなかで変造してのべられたと信じ、そしてそれに反対したいとおもうだろう。かれは同一性を侵害されたと主張し、そして法律は単なる権利侵害の主張にこたえて反論印刷請求権を与える。立法者のこの取り扱い方は実際独特であり、一見したところでは不可解である。関係人に対して、〔原〕主張の取消を請求するために権利侵害を証明し終わるまで待つことを、どうして期待すべきでないのであろうか。

反論権の形式的性質を正当化するものは、関係人にとつてのプレスの大きな危険のなかにある。プレス通信は広い読者界に到達し、ほとんど無批判に受けいれられる。一人ひとりの読者は、その正しさを再吟味する可能性をもつていない。関係人が取消請求権を実現するために執行可能な判決をかちとつたときには、もとのプレス公表物は現時制を失つてすでに久しい。だから取消しは、もとの掲載物がもたらした間違つた印象が読者の潜在意識のなかではたらきつづけているのに、はるか虚空に矢を放つことになる。それゆえ、プレス通信がまだ現時的な時期にそのはたらきを阻止するところに、関係人の完全に正当な利益がある。だがそのことは、法的保護の時を、客観的違法性の確認以前に移さなければならないことを意味する。それに対して、当然のことながら、プレスの権利侵害の事実が証明された場合にだけ、プレスは被害を甘受しなければならない。双方の利益はそれ自身ひとしく保護に値するが、二つとも同時に実現されうるものではない。それゆえ立法者はその一方の利益をはかることを決定しなければならなかつた。そして立法者は関係人の保護をはかることを決定した。このことがおこなわれた仕様は、利害の衝突の解決策の一つの傑作といいあらわすことができる。立法者は一つの利益をもう一つの利益のための犠牲に供することをよぎなくされたのであるから、『もつとも思いやりのある手段の原則』にしたがつて、他方に対する侵害を可能な最少限度に限定しなければならないわけであるが、立法者はそれに抜群の成功をおさめている。

証拠によるとプレスが関係人に関する不真実を流布したのである限り、権利侵害のすべての構成要件はみたされているから、関係人の全面的な復権が法律上の結果として認められなければならない。そのことはプレスによる主張の取消しによつて生ずる。さて単なる不真実の主張だけで十分だとする限り、構成要件の面でより少ない要件を要求するのであれば、そのことは法律上の結果の面で考慮されなければならない。その法律上の結果はプレスに対する取消請求権以上のものではありえない。それゆえ立法者は、プレスに対して関係人の反論を印刷する義務だけを課した。プレスは自己の主張を撤回することを強制されない。しかし関係人は、少くともその通信が事情によつて真実でないという可能性を、読者に示さなければならない。

だから反論請求権は、訴訟法における仮処分に似て、実体法の領域での暫定的な利益調節として、取消請求権への一種『前段』と理解されるべきである。取消請求権が同一性の権利の侵害を要件とするのに対して、反論請求権のためには、この人格権が危険にさらされるだけで十分である。人格権保護のこの前段への移転を正当化するものは、一人ひとりの人間にとつてのマス・メディア・プレスの危険性である」(Kbl, a.a.O., S. 113-115)

そこで、反論請求権は、同一性の権利が侵害されたことを相当程度客観的に主張すれば足りるところの、取消請求権の前段的で、しかも部分的な要件によつて成立する権利であるから、その実現方法も、関係人自身の反論の掲載という部分的で相対的な差止請求権にとどまるのである。

原判決がこのような人格権にもとづく反論権の法理構造に立ち入つたとすれば、その条理性を「理解できないわけ」がなかつたはずである。

(2) 三要件の正しさ

上告人は、原判決も言及しているように、以上にのべた「人格の同一性」にもとづく反論権に「他の要件を加え」た反論権の成立を主張している。それを再録すれば、次のとおりである。

「第一に、新聞の報道・評論、広告などによつて、人格の同一性が害され、その内容、程度または態様が人格の尊厳の見地から社会通念に照らして耐え難いと認められること。

第二に、新聞によつて人格の同一性を害された者から、その新聞に対して、前記のような同一性の侵害があつたことを記載し、かつ節度をそなえた反論文を提出してその掲載を請求すること。

第三に、その新聞による前記反論文掲載の拒否」(準備書面(十五)一ページ)。

右の第一要件は、人格の同一性が危険にさらされることによつて成立する西欧の反論権と異なつて、人格の同一性の侵害、それもかなり重い程度の侵害を要求する上告人の慎重な態度を示したものである。したがつて、わが国の裁判所が、かりに反論制度になじみうすであるとしても、いつそう受けいれやすいものである。と同時に、この第一要件は、反論掲載の迅速性をそこなう欠点をもつているが、上告人はこの欠点の克服を、国民と司法の将来にゆだね、かつ願うものである。しかし、それにもかかわらず、「人格の同一性」を基礎とする反論制度のもつとも本質的な部分は、この第一要件によつて保持されており、司法をつうじてわが国に反論権を導入する試みの正しさをそこなうものではないと考える。

第二要件と第三要件は、一見したところ権利行使の過程にすぎないかのようであるが、そうではなく、反論権の本質に根ざしている。欧米諸国の反論権規定も、みな裁判所への訴求に先だつて一定期間内にプレスに反論文を提出することを要求している。それは、人格の尊厳と新聞の自由との利害調節という困難な課題の解決方法にもつともふさわしく(準備書面(十六)三〜四ページ)、また反論文掲載請求権の発生の契機としての新聞側の違法行為を先行掲載物に求めず、反論掲載の拒否そのものに求める法的思想にも合致する(準備書面(十)一三〜一六ページ、同(十一)三〜五ページ参照)。

この三要件のもとで反論権を成立させる本件の事実関係は、上告人が「八つの事実」として第一審以来主張し、原審で「人格の同一性」の侵害の主張に即して整理して主張したとおりである(準備書面(十六)二〜三ページ)。

三、結論

人格権にもとづく差止請求権によつて、本件に特有な事実関係のもとで、本件広告に対する反論文掲載請求権を認めるべきであつたにもかかわらず、上告人の主張はわが国の実定法上の制度と性格を異にする特殊な制度で、法の解釈や条理によつてこれを認めることは困難であつて、結局立法論に帰着するとしてこれを否定した原判決は、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令解釈の誤りがあつて、破棄を免れないものである。

第三点 原判決には、現代マスコミの状況につき、審理をつくさなかつた違法があり、これが憲法第二一条の解釈ならびに人格権にもとづく反論権の成立について、法令解釈の誤りをおかした原因をなしたものである。

一、本件訴訟の意義と原判決

(一) 本件訴訟の提起したもの

本件訴訟がわが国の言論法の発展のうえに画期的な問題を投げかけたことは、立場のちがいをこえてひろく認められているところである。

本件訴訟の提起した問題点は、主としてつぎの二点である。

第一点 従来主として、国家権力(および今日では権力にも匹敵する巨大な力をもつにいたつた独占資本)からマスコミのそれをふくめた言論の自由をいかに有効に保護するかに力点のおかれていた言論法の分野に、かつては主権者たる国民と一体のもの(むしろその代弁者)として認識されていたマスコミが、その巨大化、情報独占化および圧倒的影響力によつて国民と対立し、その自由や人権を侵害する存在としてたちあらわれうること――言論の三極化構造――を、はじめて具体的に明らかにしたことである。

第二点 本来、マスコミによる情報独占化を是正しうる方策のひとつとして積極的意義をもちうる意見広告が、もつぱらマスコミの利益獲得方法としく悪用されうること(悪徳商法)を明確にしたことである。

しかも、上告人がその法的根拠の一つを、言論の自由(憲法第二一条)そのもの、もしくはそれと同旨の条理――言論の自由を規制するなんらかの他の原理もしくは法的価値ではなく――に求めたことによつて、本件はまさに言論の自由の現代的発展の問題として提起されたのであつた。

それは、レッドライオン事件に関するアメリカ合衆国最高裁の判決でのホワイト判事の発言――「至上なのは視聴者の権利であつて放送事業者の権利ではない。政府自体によるかあるいは私的免許人によるかを問わず、思想の市場の独占化を奨励することではなく、むしろ究極的には真理が優先するであろうところの、思想の妨げられない市場を維持することこそ修正第一条の目的なのである」――が、わが憲法第二一条の源であり、かつ基本精神を同じくする「修正第一条の目的」から反論の自由の実質的保障を導きだしていることと、正確に対応しているのであつた。

以上の結果、本件の正しい解決を求める者にとつて、現代におけるマスコミの状況を全面的に解明すること、そしてこれに深い洞察を加えることは不可欠の作業とならざるをえなかつた。もし、現代のマスコミ状況を正しく、全面的にとらえることがなかつたら、言論の自由の現代的発展を正確に認識することはおろか、上告人の主張が、言論の自由に対し外部からのなんらかの規制を要求するものではなく、まさに言論の自由の自律的発展を求めたものであること自体が理解できないであろう。

本件の争点が「純粋に憲法をふくむ法律上の問題であつて、事実に関する問題ではない」とする被上告人の主張に対し、上告人が、言論の自由(憲法第二一条)を根拠として反論文掲載の権利・義務が発生するか否かの判断をおこなうためには、憲法第二一条の保障する基本権の性格と、言論の自由、とりわけ新聞をめぐる現代的状況に関する考察および本件広告のもつ特殊な性格の検討などをさけることができないこと、また、条理を法源とする反論文掲載請求権についても、客観的にある範囲での社会の人びとの思想のなかに存在している(川島武宜)条理は、社会の現実――本件の場合にあてはめればマスコミをめぐる現代の言論状況――を正確に認識することをつうじて探知されるべきものであることを主張してきたのは、まさにそれゆえだつたのである。

(二) 第一審裁判所の根本的誤り

こうした重大な意義をもつ本件裁判において、第一審裁判所が、根本的誤りをおかしていることに、上告人は、つよい不満を表明せざるをえなかつたのである。原審判決は、第一審判決をほぼそのまま受けいれたものなので、まず第一審判決から批判するのが順当であるが、その批判は当然に原審判決にも及ぶものである。

上告人は、本件訴訟において、現代のマスコミをめぐる状況の特徴を、①マスコミ、とくに新聞の集中・独占化状況、②新聞に対する統制・操作および国民の権利侵害の状況、ならびに、③新聞の責任をまつとうする諸方策と反論権の必要性など多角的な角度から、かつ具体的な諸事実を摘示して分析し、その立証の必要性をつよく主張したのであつた。これに対し被上告人は、これらの主張をすべて争い、新聞の集中・独占化状況を否定し、国民への影響力を相対的に低いものと主張した。したがつて当然、第一審裁判所が、こうして浮かびあがつた争点に関し十分な立証をさせることは、たんに本件の正しい解決に必要かつ適切であつたというにとどまらず、その法的な義務であつたはずである。ところが第一審裁判所は、この点に関して上告人が請求した証人調べをいつさいおこなわないままに結審してしまつた。そのことのいわば必然的結果として、第一審判決には、現代マスコミの状況を包括的に認定した判示部分がまつたく存在しない。これは、第一審判決の決定的かつ根本的な誤りにほかならず、第一審裁判所が、「現代マスコミ状況を深く洞察すればその範囲で言論・表現の自由を実質的に保障することこそ憲法第二一条の正しい解釈というべきなのではないか」とする上告人の問題提起に、一つも答えられず、憲法第二一条の「古典的解釈」の範囲のなかに閉じこもらざるをえなくなつた、最大の要因をなしているのである。

さらに悪いことに第一審裁判所は、十分な証拠調べもしないまま、自己の皮相・浅薄な「マスコミ観」にもとづいて、あれこれの論評をし、それが第一審判決をかくも重大な誤りに導くもう一つの要因となつたのである。

上告人は、これに対し詳細かつ具体的な批判をおこない(準備書面(十四)、二ページ以下)、さらにそこからうかがえる第一審判決の描く現代マスコミ像について、その誤謬を大略次のように批判してきた。

第一に、第一審判決が、一方で国民は、情報選択の自由を行使し、たとえ誤つた一方的な情報であれ、それに触発されて正しい情報を探知しようとすればマスコミの悪影響から逃れられ、他方、金権勢力に支配されたり、「悪徳商法」をおこなう新聞は企業間競争のなかで自然陶汰されるであろうとする、いわば「思想の自由市場」を想定していることに対し、現代のわが国のマスコミ状況、とくに新聞の状況は、国際的にも屈指の独占・集中傾向を示しており、それは、第一審判決が安易に想定するような「思想の自由市場」の物質的基盤を失わせている。

そして、第二に、第一審判決の現代マスコミ状況についての認識は皮相なものにすぎず、マスコミの独占・集中によつてその影響力がどのように圧倒的な強さをもつものであるか、それによつて国民がどのように甚大な被害=権利の侵害をうけざるをえないか、また、現状のままではその被害の回復はほとんど不可能な状況にあること、などについての第一審裁判所の認識はきわめて浅薄なものである。

第三に、第一審裁判所の判断の底流には「しよせん新聞というものはこの程度のものであり、これの改善を新聞自体に期待するのは過大な要求である」とする諦念がひそんでいることに対しては、こうしたマスコミ状況、とりわけ新聞の現状に危機意識をもち、「国民の知る権利」の拡大とそれによる国民の信頼の回復の方向でこの危機を克服しようとする精力的な試み――読者の紙上参加の拡大、オンバツマン制度の日本に適合した形での導入、追跡記事の重視、「客観記事」からの脱却の努力等々――が新聞の内外でおこなわれ、こうした試みのいくつかは、すでに一定の成果をあげつつあり、反論権の定着の方向もまた、こうした多様の試みのなかの、重要な一環としての位置をしめている。

――以上のような第一審判決の根本的誤りについての批判に対し、被上告人はこれを争い、重大な争点の一つとなつたのであるから、控訴審たる原審裁判所は、これに対する明確かつ全面的な判断を示すべき義務を負つていたことは明らかである。

(三) 原判決に対する批判

ところが原審裁判所もまた、現代マスコミ状況についてなんらの判断も認定も示さず、ふたたび本件訴訟を言論の自由に対する「古典的解釈」のわくに押しこめてしまつたのである。

原判決は第一に、「当裁判所も、控訴人の本訴請求は理由がないものと判断するが、その理由は、〔一部を〕削除し、附加する他、原判決の理由中の説示と同一である」として、第一審判決をそのまま認容し、したがつてまた第一審判決の誤謬をそのままひきつぐものとなつている。

第二に、原判決の理由中、あらたに現代マスコミ状況にふれるのは、次の部分のみである。

「控訴人の右主張の骨子は……マスコミの現代的状況を踏まえれば、新聞に対する国民参加のシステムが法的に考慮されるべきで……というにある」(二九丁裏)

「控訴人は、右のような新聞の情報、報道内容の形成に参加する国民の権利が認められてしかるべきマスコミの現代的状況を前提とし、その一環として、いわゆる反論権を主張するものと解されるが……」(三〇丁裏)

「控訴人は、高度に発達した巨大マス・メディアから人格の同一性に対し重大な攻撃を受けた者にとつて、反論権は、最も有効適切な救済方法であるというが……」(三三丁表)

――以上は、要するに上告人の主張を要約した(しかもかなり粗雑に)ものにすぎず、なんら控訴審裁判所の判断なり認定なりをおこなつたものでないことは、一見して明らかである。

こうして、原判決もまた、現代マスコミ状況についてなんら総括的な判断をおこなわず、その結果、第一審判決と同様、重大な誤りを重ねることとなつたのである。

二、現代マスコミ状況の概観

現代マスコミ、とくに新聞の状況を、本件訴訟に関連する範囲で概観すれば、次のとおりである。

(一) マスコミ、とくに新聞の集中・独占化傾向

わが国の新聞は、欧米諸国にくらべても例をみないほどの独占・集中化傾向を示している。

一九七三年当時日本新聞協会に加盟する一般日刊新聞は全国で九六紙であつたが、一九七四年下期の状況をみると、「朝日」、「読売」、「毎日」の三大紙で43.9パーセント(スポーツ紙以外の三紙の系列一般日刊紙をいれると四五パーセントをうわまわる)、「サンケイ」、「日経」二紙が8.5パーセント、準全国紙の域に達した「中日」、「北海道」、「西日本」のブロック三紙で10.3パーセントであり、上位八紙だけでじつに約六三パーセントを占めるにいたつている。

この独占・集中の傾向は、その後もいつそう強まつており、一九七六年下期の上位十社の新聞発行部数はつぎのとおりである(ABCレポートによる。単位・万部)。

① 「読売」  714.6

② 「朝日」  710.3

③ 「毎日」  446.9

④ 「サンケイ」  185.1

⑤ 「日経」  178.8

⑥ 「中日」  170.9

⑦ 「北海道」   89.9

⑧ 「東京」   87.1

⑨ 「西日本」   62.3

⑩ 「静岡」   50.2

また、『ジャーナリズム講座』(時事通信刊)によれば、わが国では上位二〇紙が総発行部数の約九割を占め、全国紙五紙をのぞく地方紙で地域の主読紙としての地位を保つているのは三〇紙にすぎない(三〇道府県が主読紙をもつのみ)という。

しかも、こうした表面にあらわれた数字は、新聞が他の新聞を系列支配下におさめる傾向(新聞のグループ経営)が拡大している――たとえば、「毎日」が「福島民報」、「下野新聞」、「新関西」「スポーツニッポン」を、「中日」が「東京」、「北陸中日」、「名古屋タイムス」、「中日スポーツ」、「東京中日スポーツ」を、「サンケイ」が「夕刊フジ」、「サンケイスポーツ」、「日本工業新聞」を、それぞれグループ下におさめている――ことを考慮していない。これを考慮すれば、一九七三年一月現在新聞協会加盟の一般日刊新聞は九六紙(発行所別)あるが、そのうち四六紙は一二グループが発行しており、かりに一グループを一紙と数えれば、一般日刊紙の数は六二紙に圧縮されることになる。

さらに、こうした新聞の独占・集中状況がもたらす弊害は、新聞読者の固定化傾向によつて、事実上いつそう助長されている。わが国の新聞は、そのおおくの部分が宅配制によつているためもあつて、読者の固定化傾向がきわめてつよい。各種の新聞購読調査によると、読者のうち三ないし四割が「昔からとつている」ことを講読紙選択の理由として挙げ、約二割が「販売店のすすめ」、同じく約二割が「なんとなく」を挙げるという。つまり約七、八割の読者が紙面内容にかかわりなく講読紙を選択していることになる。このことを本件に即してみれば、不当に中傷・非難を受けた者は、同じ紙面をもつて反論しないかぎりその影響力を打ち消すことができないことを示すものである。さらにこうした現状は、紙面内容を基準とする新聞の自然陶汰機能をかなり低下させざるをえず、その結果、新聞企業間の競争の不正常化を促進することになるのである。

しかも、――アメリカなどとはまったく異なり――それ自体独占・集中化している新聞が、さらに他のもつとも有力なメディアであるテレビ・ラジオをも、おもに情報面で系列支配下におさめつつある。その結果、在京キー局についていえば、「読売」が日本テレビを、「朝日」がテレビ朝日を、「毎日」がTBSを、「サンケイ」がフジテレビを、「日経」が東京12チャンネルを、すくなくとも情報面では、それぞれ系列下におさめ、各放送局は独自の言論機関としての機能を著しく低下させている。こうした系列支配競争の激しさを示すものとして、最近のプロ野球界のさまざまな紛糾が、じつは大手新聞資本の販売政策と系列テレビ局の視聴率競争などに起因していることなどを挙げることもできよう。

こうした新聞の独占・集中の状況は、こんにち、激烈な企業間競争をつうじていつそう進行し、とりわけ、一九七五年、「朝日」、「読売」、「毎日」、「日経」があいついで、弘前、青森での発行にふみきつたこと「読売」が「中部読売」の発行をはじめたことなどは、市場占有率をめぐる新聞各企業間の激烈な独占化競争を誘発し、全国紙だけでなく、ブロック紙、県紙、大規模紙をもまきこんだ争いが展開されている。

このなかで、三大紙のひとつである「毎日」が一九七七年重大な経営危機にみまわれたほか、地方紙でも、ここ数年来経営危機をむかえている例があいついでいた。「和歌山」、「山梨時事」、<いずれも小規模地方紙>の廃刊、「北海タイムス」、「伊勢」(三重)、「名古屋タイムス」(愛知)、「フクニチ」(福岡)、「鹿児島新報」(鹿児島)、「奈良新聞」(奈良)、などの経営危機および一九七五年六月の「日本海」(鳥取)<以上、いずれも県紙規模>の停刊(ただし「日本海」はそのご復刊)などがそれである。最近でも、「防長新聞」、「新関西」の廃刊、「滋賀日日」の「京都新聞」への吸収、などがつづいている。

新聞の経営危機は、直接に「国民の知る権利」をおびやかすものである。

第一にそれは、新聞のいつそうの独占・集中化(弱内強食)をもたらし、激烈な企業間競争にうちかつために不正常な拡販競争が横行し、それが紙面を荒廃せざるをえないからである。

第二にそれは、わが国の新聞の経営基盤の脆弱さを示し、新聞が銀行資本の従属下にはいる傾向および新聞経営をますます広告収入に頼らざるをえない方向に駆りたてるものである。かつては三〇パーセント代であつた広告収入の占める割合が一九六二年を境に購読料収入を上まわり、今日では六〇パーセント前後にのぼつている。これは新聞がまた、おもな広告主である独占的な資本への従属の度合いを深めるものであつた。そして、「サンケイ」による「意見広告全面開放」の方針はこれを極端に押しすすめたものといえよう。

新聞の独占・集中化傾向が直接に「国民の知る権利」をおびやかしているばかりでなく、それとは裏腹の関係にある新聞の経営基盤の脆弱さが、時の政治権力や独占資本からの圧力を受けいれやすくし、その面でも「国民の知る権利」がおびやかされているのである。

(二) 言論統制、世論操作の危険性とマスコミ

わが国の新聞が、アメリカ政府による内政干渉、自由民主党政府による、刑事弾圧をもふくむ言論弾圧、大独占資本や右翼勢力などの圧迫によつて、その言論の自由をおびやかされているのは、まぎれもない事実である。

ベトナム侵略戦争の報道に対するアメリカ国務省、ライシャワー駐日大使による不当な非難攻撃は内政干渉の典型である。佐藤栄作元首相が引退記者会見で新聞記者の退席を強要した事例や、田中角栄元首相の「その気になればコレ(首に手を当てる)だつてできる」「あれ(西山事件)も私が爆弾を、落したほうがよいと言つた」との軽井沢発言、そして石原慎太郎元環境庁長官による環境庁記者クラブへの中傷攻撃などは、歴代自民党政府が言論の自由、新聞の自由に対し、つねにかわらぬ強圧的な姿勢をもつて臨んでいることを示している。それが最も陰険な、前近代的なかたちであらわれたのが、沖縄協定についての密約を職務上取材し暴露した「毎日新聞」の西山記者が国家公務員法第一一一条の「そそのかし」にあたるとして起訴された外務省機密文書漏洩事件である。

また、新聞には数多くのタブーがあつたし、いまもあるとされている。

天皇または皇室にたいするタブー、右翼勢力にたいするタブー、言論の自由抑圧問題以前の創価学会・公明党にたいするタブー、「部落解放同盟」にたいするタブー等々。

こうした「権力に弱い」新聞の体質が国民のまえに劇的なかたちで明らかにされたのは、いわゆる田中金脈事件であつた。一九七二年七月の田中内閣の成立以後、新聞をふくむマスコミは、「決断力と実行力に富む庶民政治家」としての田中角栄像を国民に売り込むうえにひとかたならぬ役割をはたしてきたが、七四年一一月、『文芸春秋』が田中金脈の疑惑を突くまで、ただの一紙もこの点についての疑問を提起したものはなかつた。『文芸春秋』の発売後も、これが在日外人記者の集まりである日本記者クラブで問題にされるまで、一般の新聞はほとんどこれをまともに報道しようとしなかつたのである。田中の身近にもつとも密着している新聞がこの疑惑の一部でも知らなかつたのは不自然ではないか、とする国民の疑問は当然であつた。

さらに重大なのは、新聞が時の政治権力や支配的勢力に操作されて、あるいはその意をむかえておこなう世論操作、誘導である。

新聞がおこなつた世論操作として有名なものに、六〇年安保条約反対闘争当時のいわゆる「七社共同宣言」がある。これは、闘争の高揚が保守政権の危機を導いた時点で、マスコミ各社が共同して闘争の鎮静の方向へ世論を誘導したものであつた。

最近の典型的な世論操作のひとつに、しつような「反ソキャンペーン」がある。

その手口をよく示すものに、次のような事例がある。

一九七九年二月に、「サンケイ」を先頭におこなつた「国後島に大滑走路」の誤報問題である。

最初に報じたのは「サンケイ」二月五日付朝刊で、一面に「これが国後島のソ連基地緊迫下、本社が撮影成功3500メートル級の大滑走路」という大見出しの署名入り記事を、総合面にも「舞い上がるソ連機『スクランブルだ』国後上空機上ルボ」の、ものものしい記事を載せたのである。それによると「①あらゆる機種の航空機の離着陸が可能な三五〇〇メートル級の滑走路をもつ大飛行場が整備されつつある ②極めて大きなレーダー基地が建設された……など、注目される新事実が明らかになつた」「滑走路がこれまでの二〇〇〇メートル級から三五〇〇メートル前後にまで延びていることが判明した」とあり、読むものに、いかにも一大事が勃発したという印象を与えるものとなつていた。

これを翌六日付朝刊に「朝日」、「読売」が追つかけ、「朝日」は一面に「空から見た国後のソ連基地長さ四キロの飛行場」、「読売」も一面に「国後のソ連基地を見た 要さい化着々と 四千メートル級滑走路、レーダー」の見出しであつた。「毎日」は五日おくれて一一日付朝刊一面に、やはり「緊張……『あれが、国後基地』ソ連機目前で緊急発進」の見出しのもとに、記事のなかで、「(滑走路)は二千五百―三千メートルはある」と書いた。

最初に記事と写真をものにした「サンケイ」の政治部・午場昭彦記者と写真報道室・菊本寛カメラマンは、鹿内社長賞を授賞されたという。

ところが、実は、この「国後基地増強」は誤報であつた。同年二月二一日の衆院予算委で山下防衛庁長官は「国後島の滑走路は一九六〇年当時から変わつておらず、二千メートル級のものが最近拡大された跡形はない」「ミサイル施設の設置、港湾改修などの情報には接していない」とのべた。つまりこの二〇年間滑走路はすこしも拡張されておらず、その他の軍事施設も増強されていなかつたのである。

だが、この山下防衛庁長官の「国後基地増強」否定の発言は、その直後には各紙とも一行も報道しなかつた。そのご「朝日」が二月二六日付夕刊で右の内容を伝えるまで国民は――正確にいえば、「朝日」の諸読者以外はいまにいたるまで――「国後基地増強」が嘘であることを知ることができなかつたのである。

しかも重要なことは、防衛庁がかなり意識的にこの報道を、E2C予算成立のための道具として利用した点である。

ここに、権力の世論操作に安易に利用されて虚偽の報道をし、その誤りを容易には訂正しようとしない今日のマスコミの姿勢があらわれているのである。

こうした世論操作に「意見広告」が利用されやすいことはすでに指摘した(準備書面(六)、第一、二、(三))のとおりであるが、本件広告はそのもつとも悪質なもののひとつであることは論をまたないであろう。

(三) マスコミによる人権侵害

現代マスコミに対する熱心で系統的な観察者である新井直之は、一九七九年の新聞報道の問題点として「人権無視の報道が行われたこと」を挙げている(『新聞・放送批判――「マスコミ日誌」'79年版』<みき書房刊>五ページ以下)。

この問題は、もとより一九七九年に限つたことではなく、すでに上告人が指摘してきた「銀行員幼女殺害報道」、の例や小学生が少女を殺害した事件の第一報で各紙が「性に異常な関心をもつ少年の犯行」と報じたのは誤りで、その後の調べでは、とくに早熟、性への異常な関心などは認められず、むしろ在日朝鮮人家庭の被差別体験などが重視されるべきものとされた事例(一九七七年一月)や、群馬県太田市の病院長夫人が誘拐された事件で、新聞各紙が狂言説に添つた報道をおこない、夫婦間のプライバシーまでことこまかく明らかにしたが、実際は完全な営利誘拐事件であつた事例(一九七七年二月)など、問題事例も少なくなかつた。

最近でも、次のような事例がある。

東京・赤羽 住宅公団赤羽台団地の共同便所で、戸田史彦(五歳)が殺されていた事件について、「朝日」、「NHK」をのぞく各紙、各局が二四歳の青年を実名で容疑者扱いにした記事を掲載しながら、そののちアリバイが証明されて完全に容疑が晴れたにもかかわらず、おわびもなく、「別件手配の男はシロ」(「サンケイ」)など普通の続報として処理してしまつた例(一九七九年一月)。千葉県木更津市内で小学六年生藤原明美が白骨死体となつてみつかつた事件の容疑者として逮捕された男性につき、「少女殺しを逮捕、母親の知人、冷たくされ」(「朝日」)、「犯人は母の知人」(「サンケイ」)など、顔写真いりで大々的に報道しながら、物的証拠がなく釈放されても、新聞の責任をすこしもみとめようとしなかつた事例(同年四月)。

前記新井直之がこれらの事例をひきながら「こうした人権無視に鈍感になつてきているジャーナリズムの危険な傾向を表わしている」「さんざん容疑者として実名入りで書き立てられ、そのために人生を狂わせられる格好となつた三億円事件のKさんの記憶は、まだわれわれに新しいはずである。それなのにその後も相変わらずの人権無視のケースが目立つのは、何としたことだろう。報道関係者はぜひ、もう一度人権について考えてほしい」と訴えている(前掲書六ページ、三〇ページ)のはもつともである。

以上のようなマスコミの現代的状況、とりわけ巨大マスコミによる人権侵害が多発している状況のもとで、国民の側に反論権を認めることは、ひとつの積極的意義をもちうることは明らかである。たとえば無実の身でありながら「犯人」として大々的に報道され、容疑が晴れてもまともなおわびも訂正もなく結局は人生を狂わされてしまつた非運な人びとに対しても、原判決は、反論権のような「国民の権利を認めるべき憲法上の規定もなく、立法もない以上」泣き寝入りをせよ、というのであろう。しかし、上告人の主張はなにも憲法にも法律にもない権利を認めようというのではない。憲法第二一条の現代的発展そのもののなかに、それと同様の内容の条理のなかに、反論権を認めるべき根拠があり、かつ、そうすることによつてなんらの支障も生じない、というにすぎないのである。この主張を検討するにあたつて、マスコミの現代的状況の全面的把握が不可欠であること、繰り返しのべてきたとおりである。この不可欠の手続と判断を欠く原判決(およびその基礎となつている第一審判決)は、そのことによつて、重大な誤りをおかさざるをえなかつたのであり、その誤りはすみやかに是正されなければならない。

第四点 原判決には名誉毀損に関する法令の解釈適用に誤りがあるから破棄すべきである。

原審における名誉毀損に関する上告人の主張について、原判決は「原判決の理由中の説示と同一である」とのべるのみで、なんら積極的に問題点を解明することなく、上告人の主張をしりぞけている。

しかしながら、本件広告は、公然と事実を摘示して上告人を中傷するものであり、明らかに上告人の名誉を傷つけるものである。第一審判決および原判決は本件広告が上告人の名誉を違法に傷つけるものであることについて事実の認定を誤り、また、名誉毀損に関する民法第七〇九条、第七一〇条、第七二三条の解釈適用について、判決に影響を及ぼすべき法令違背がある。

一、名誉毀損の成立

第一審判決および原判決は、いずれも、本件広告が上告人の名誉を傷つけるものではないとして、本件広告による名誉毀損の成立を否定した。

しかし、本件広告は、上告人をほめたたえるものでもなく、称揚するものでもない。一見して明らかなとおり、まさに、上告人を非難攻撃するものであつて、上告人に対する国民一般の、本件広告に即していえば、サンケイ読者一般の上告人に対する政治的評価を傷つけ、これを低下せしめる内容体裁をもつものである。

本件広告は、まず全七段ぬきというきわめて宣伝効果の強力な大型広告である。しかも、その冒頭には、「前略日本共産党殿はつきりさせてください。」との大見出しが大書され、異様にセンセーショナルな印象を与えている。前段の「前略日本共産党殿」には五〇級の大型写植文字がもちいられ、「はつきりさせてください。」にはさらにそれより大型の書き文字がもちいられ、双方あいまつて人の耳目を驚かすに足る異常な大型見出しとなつているのである。

そして、そのわきには目鼻立ちのバラバラな人の顔のイラストが配置されており、この広告の煽情性を一層強めている。この人の顔のイラストは直径一五センチメートルもあり、ゆうに本件広告紙面の三分の一をしめるほどの大きさである。

ついで、上告人の「綱領」および「政府綱領提案」から、国会、自衛隊、安保、国有化、天皇についての各政策をぬきだし、これを上下の表で対照する一覧表とし、その下に「多くの国民は不安の目で見ています」の表題のもとに、上告人の綱領と政府綱領提案との間に多くの「矛盾」があると指摘している。また、政府綱領提案は上告人の本来の主張であるプロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりとして提案されたものではないかと疑問を投げかけ、「国民の多くが、その点をはつきりしてほしいと望んでいるのです。」と結んで、この投げかけた疑問に上告人が明確に回答するよう呼びかけているのである。

意見広告と銘打ちながら、自民党自らの積極的な意見はなにひとつのべず、ただ、上告人を攻撃するのみである。一見資料に忠実に、そして公平らしく疑問を提起しているかのような粉飾をこらしてはいるが、実体は上告人を中傷するだけの広告である。

攻撃の要点は二つあり、第一点は、上告人の二つの基本文書、綱領と政府綱領提案との間に、多くの「矛盾」があると指摘するところであり、第二点は、政府綱領提案はプロレタリア独裁への単なる踏み台、足がかりとして提案されたと指摘するところである。

前者についていえば、両綱領間にありもしない「矛盾」があると虚偽の事実をのべ、ひいては上告人に首尾一貫した政策および政策立案能力のないことを示し、後者についていえば、政府綱領提案は「プロレタリア独裁」への単なる踏み台、足がかりとして提案されたものにすぎないもの、つまり、「プロレタリア独裁」実現のためのカムフラージュとして提案されたにすぎないものとのべ、ひいては上告人が嘘つきの政党であり、偽りのある政党であることを示しているのである。

しかし、政府綱領提案は、現在の対米従属と独占資本本位の社会から独立と民主主義の日本を経て社会主義、共産主義社会にいたるまでの日本社会の変革に関する上告人の綱領の規定にもとづいて当面の国政革新にかんする政府綱領を、矛盾なく、体系化し、整理したうえ、ひろく国民の前に提案したものであつて、綱領と政府綱領提案の間にはなんら「矛盾」といわれるようなものは存在しない。本件広告が指摘し、印象づける「矛盾」というのは、本件広告が自説にあわせて、両綱領から勝手な引用をしたうえ無理につくりあげたものである。両綱領から正確に引用し、かつ、通常の読み方をすれば「矛盾」など見出せるはずはないのである。

したがつて、これを「矛盾」というのは、虚偽の事実もしくは虚偽の事実構成を前提にした誤つた意見をのべるものである。しかも重大なのは、本件広告は「矛盾」という表現をもつて、単に上告人の両綱領間に、曖味、首尾一貫せず、といつた印象を与えているばかりでなく、上告人の政策立案能力に、ひいては上告人の政党としての資質に疑問があるということをあらわしているのである。

元来、政党が自己のまわりに多数の国民を結集し、政権獲得へと前進するには、その政党のもつ政策が多数の国民により支持されることが必要である。したがつて、政党はつねにその時どきの国民の欲求や生活に密着し、たえず国民の支持をうることのできる政策を立案し、これを内外に公表する能力を保持しなければならない。国民の支持をうることのできる政策および政策立案能力こそ、その政党による国民の信頼の基礎であり、その政党の政治的評価の定まるところである。

本件広告は、まさに、その肝心かなめのところ、上告人の政策および政策立案能力、つまり、政党としてのもつとも基本的資質について攻撃を加えるものであつて、これが上告人の政治的評価にいかに深刻な打撃を与えるものかは、多言を要するまでもなかろう。

さらに、政府綱領提案を、「プロレタリア独裁」実現のためのカムフラージュとして提案したものというにいたつては、上告人がこの提案を真剣に提案しているのではなく、その提案は嘘であり、その裏には隠しごとがあるというのであるから、結局、上告人は嘘つきの政党であるとのべているのと同然であつて、これが上告人に対する誹謗中傷であることはみやすい道理である。

いうまでもなく、上告人は、この政府綱領提案を、提案にうたわれたとおり、真実、これを実行することを念願しつつ提案したものであり、誠心誠意これの実現のため奮闘するものである。提案の裏に隠しごとがあり、嘘があるというのは、ことさら上告人をおとしめるためのデマゴギー以外のなにものでもない。

誠実であるか、嘘つきであるかは、個人のモラルによつて重要であるばかりでなく、政党にとつても、その政策および政策能力と同様、重要な資質である。したがつて、これに対する根拠のない非難もまた上告人の政治的評価を深く傷つけるものであることはいうまでもない。

要するに、この広告は、現代広告技術の最新の手法をとりいれて、一見、単純に疑問を提起するかのようにみせかけつつ、その実、巧妙に、偽りの事実をのべ(もしくは偽りの論評をし)上告人の政治的評価を傷つけるとともに、上告人を揶揄、誹謗して、上告人を侮辱するものである。とりわけ、広告紙面の三分の一をしめる目鼻立ちバラバラの人の顔の大きなイラストは、単に、人目をひくためのアイキャッチャーにとどまらず、上告人の主張が支離滅裂、曖味、矛盾にみちていることを訴え、加えて上告人を嘲笑し、侮辱するものであつて、この広告の目的をあますことなく示している。

自由民主党と被上告人のサンケイ新聞が、本件広告を、一九七四年七月の参議院選挙の直前である一九七三年一二月二日に、上告人の抗議にもかかわらず、あえて掲載したのは、まさに、本件広告の攻撃により上告人に打撃を与え、参議院選挙において上告人が進出することをはばもうとしたからにほかならない。本件広告は、自由民主党および被上告人サンケイ新聞の期待にこたえるに足るだけの誹謗、中傷の広告であつたのである。

第一審判決も、次のようにのべて本件広告が上告人を攻撃する中傷広告であることを認めている。

「しかしながら本件広告は全体としてこれをみた場合、中傷的言辞を用いて、原告を攻撃したものと言つて差し支えない。本件広告の冒頭に大きく『前略日本共産党殿』と対立当事者である原告を名指して特定した点からして意見広告としては異例であるが、『はつきりさせてください』という表現は原告には不明確な点があるということを前提にしたものであるから政党である原告が国民に対して何かを隠していて不明朗であるという印象を与えかねないものであり、『(政府綱領提案は)プロレタリア独裁……へ移行するためのたんなる踏み台……に過ぎないのではないか?』『多くの国民は不安の目で見ています』という表現と併せれば、要するに政府綱領提案は党綱領と矛盾し、これを偽るものであるとして、政府綱領提案の目的に嘘があると主張しているものと言えよう。更に党綱領及び政府綱領提案の内容をそれぞれ要約して表にした部分は、前記の通り、一部を除いて必ずしもそれらの内容を当該箇所の文脈に即して正確に要約・摘示したものとは言えないし、本件広告中の歪んだ福笑いを象つたイラストに至つては、被告の主張するような単なるアイキャッチャーたる(アイキャッチャーとしての効果は勿論あるが)にとどまらず、本件広告内の文章の部分と結びついて、原告ないしその主張に対して『バラバラ、支離滅裂、矛盾』という印象を喚起する効果を狙つたものであることは一目瞭然と言つてよい」(第一審判決一三七〜一三八ページ)

また、次のようにものべている。

「本件広告は出稿者である自民党が原告の党綱領と政府綱領提案との間には矛盾があると難じたものであり、更に本件広告中の『多くの国民は不安の目で見ています。』、政府綱領提案は『プロレタリア独裁(執権)へ移行するためのたんなる踏み台、革命への足がかりに過ぎないのではないか?』との文言があること、出稿者名が『自由社会を守る』自由民主党となつていること、本件広告の右半分に歪んだ顔の大きなイラストが配されていることからすると、本件広告の狙いは党綱領と政府綱領提案との間に矛盾があるということの指摘だけではなく、これによつて原告の政府綱領提案は『たんなる足がかり、革命への踏み台』に過ぎないというアピールを行なうものであり、その趣旨は、何故多くの国民が『不安の目』で見ているのかというと、原告が党綱領と政府綱領提案との関係について国民に嘘をついているから、また原告が政府綱領提案を『踏み台』に『革命』を達成した後には国民の自由は失なわれるからである、というに帰する。要するに本件広告の訴求テーマは『国民は政府綱領提案という原告の甘言にだまされてはならない』ということに尽きるであろう。本件広告の原案にあつた『ギマン者、羊の皮をかぶつたオオカミ』という表現は端的にこれを示したものと言える。

かくして本件広告はサンケイ紙の読者に対し、原告の党綱領と政府綱領提案との間には矛盾があり、原告の行動には『疑問』、『不安』があることを強く訴えて原告の社会的評価を低下させることを狙つたものであることが明らかである」(第一審判決一七七〜一七八ページ)。

一般に、名誉毀損は人の名誉を傷つける事実を公然と摘示し、その人の社会的評価を低下せしめることにより成立するとされている。

また、人のもつ正当な名誉感情をも保護法益にふくめるべきであると解されている。

本件広告は、ことさら事実を曲げて上告人を中傷し、あるいは誤つた事実に立つて論評し、故意に偽りの宣伝を流布すると同時に、また上告人の政治的姿勢を嘲笑揶揄し、上告人の名誉感情を傷つけるものである。本件広告が名誉毀損を成立せしめるものであることはあまりにも明らかであろう。

二、免責要件解釈の誤り

第一審判決および原判決は、いずれも結論において名誉毀損の成立を否定した。

しかし、これは理由の説示にくいちがいがあるというべきである。なぜなら、右にみたとおり、第一審判決――原判決は第一審判決を是認するのであるから、第一審判決とその判断内容は同一である――は、本件広告について、

「中傷的言辞を用いて、原告を攻撃したものと言つて差し支えない」

「政府綱領提案の目的に嘘があると主張しているものと言えよう」

「原告ないしその主張に対して『バラバラ、支離滅裂、矛盾』という印象を喚起する効果を狙つたものであることは一目瞭然であると言つてよい」

「原告の行動には『疑問』、『不安』があることを強く訴えて原告の社会的評価を低下させることを狙つたものであることが明らかである」

などと認定し、本件広告が上告人の政治的評価を低下せしめる意図のもとに掲載され、かつ、低下せしめるに足る内容体裁の広告であることを十分認めているからである。このような認定をする以上、第一審裁判所および原審裁判所は当然、本件広告による名誉毀損の成立を認めなければ論旨は一貫しないというべきである。不法行為としての名誉毀損は、人の名誉を傷つけるに足る事実を公然摘示し、人の社会的評価を低下せしめることにより成立するとされている。そして、通常、一般に人の名誉を傷つけるに足る事実を公然摘示すれば、人の社会的評価は低下せしめられると解されているのである。そうとすれば本件広告による名誉毀損の成立は、あまりにも明らかであるからである。

最高裁判所第一小法廷の昭和四一年六月二三日判決は、「名誉毀損については、当該行為が公共の利害に関する事実に係り、もつぱら公益を図る目的に出た場合において、摘示された事実が直実であることが証明されたときは、その行為は、違法性を欠いて不法行為にならないものというべきである」と判断している。これにしたがえば本件広告の場合も、摘示した事実の真実性を証明すれば違法性を阻却され、名誉毀損の成立を免れる余地もありえないとはいえない。しかし、被上告人は本件広告の摘示事実(両綱領間に「矛盾」がある。政府綱領提案には嘘がある)の真実性についてなんら有効な証明をつくしていないのであつて、真実の証明をつくしたとして名誉毀損の成立を免れる余地はまつたくないというべきである。

すなわち、被上告人は、綱領と政府綱領提案との間に「矛盾」が存在することを証明しなければならず、また、政府綱領提案が上告人の真意ではなく、「プロレタリア独裁」へ移行するための単なる踏み台として提案されたものにすぎないということを証明しなければならないのである。しかし、そのような証明はまつたくなされていない。

かりに、本件広告の掲載が誤信によつたものとしても、その点に関する被上告人の具体的な主張立証はみあたらない。

したがつて、被上告人が真実の証明に関する前記最高裁判例を援用したとしても、その責を免れることはとうてい不可能であるといわなければならないのである。

もつとも、第一審判決は本件広告のような政党に対する論争・批判については、一般の場合と異なり、一見、名誉毀損が成立するとおもわれるような場合であつても、「(一) 故意に又は真偽について全く無関心な態度で虚偽の事実を公表すること」、「(二) その内容や表現が著しく下品ないし侮辱・誹謗・中傷的であつて社会通念上到底是認し得ないものである」ことの二要件に該当しなければ、名誉毀損は成立しないと判断すべきであるとのべているので、結局、本件広告は、右二要件にてらして、名誉毀損を構成しないとしたのであろう(第一審判決一八四ページ)。

政党に対する論争・批判が一般人に対する論争批判と異なる側面をもつことは是認されてよい。

しかし、だからといつてただちに、第一審判決のかかげる右の基準があらゆる主体、形式、形態の政党批判にそのまま無条件にとりいれられてよいわけではない。とりわけ、新聞による、もしくは新聞を利用した本件広告のような政党批判に、右の基準がそのままとりいれられてよいというわけにはいかない。

前述したとおり、我国の新聞事業は発展の一途をたどつている。新聞はますます集中し、巨大化し、その「権威」は日ごとにつよまつている。しかし、他方では情報の独占化が進行し、巨大新聞を支配する少数の人びとによる恣意的な情報操作の可能性もあらわれている。新聞の巨大な発達は、新聞に専制的ともいえるほどの絶大な力を与えているのである。

したがつてその反面、新聞による人権侵害、名誉毀損の被害も大きく、かつ、深刻となる。新聞の報道、評論の自由はあくまでもまもらなければならないが、新聞による攻撃から国民の人権をまもるすべもまた考慮されなければならないのである。

政党といえども、新聞の一方的な誹謗中傷によつて大きな被害を受けることは、他の人格の場合と異ならない。まして、本件広告のような内容形式により、しかも選挙直前になされたような場合、政党の受ける打撃の厳しさは多くを語る必要もあるまい(甲第八八号証社会心理調査の結果)。そうとすれば、政党に対する批判攻撃であるからといつて、本件広告のようにこれが新聞を利用してなされた場合に、これを安易に許容し加害者を免責することは許されない。

もともと民法上の名誉毀損は被害者救済の法制である。公けの秩序を維持する目的で加害者を処罰する刑事法制上の名誉毀損と異なり、加害者と被害者の利害のバランスをとりつつ、被害者の救済をはかろうとするものである。

本件についていえば、上告人の一方的な中傷攻撃により被害を受け、少なくともサンケイ読者との関係では、その被害は回復されないまま放置されているのであつて、出稿者である自由民主党との対比からすればその不公正さはおおうべくもない。もし、名誉毀損の成立が認められ、上告人主張の反論文が掲載されるならば、上告人の被害は回復し、その不公正さは解消する。これによつて被上告人の受ける損失がさまでのものにいたずらにすむことは、すでに上告人が第一、二審で詳論したとおりである。

してみれば、第一審判決および原判決のように、真実の証明の程度を越えて免責要件を拡張することは、被害者救済に欠けるものであり、にわかに賛同することはできないのである。

本件のように、その内容の真実性を吟味する十分な時間的余裕のある新聞紙上への意見広告という形態で、しかも政党がその対立政党の政策について非難攻撃をするような場合に、名誉毀損の免責要件を前記最高裁判所判例の判示する真実の証明を越えて拡張するのは、いささか安易にすぎるというべきである。これは一方では中傷攻撃により被害を受けた政党の被害救済のみちを閉ざし、他方では政党相互の下品な品位のない泥試合の歯止めをなくし、また高額な広告料金の支払能力のない弱小政党に苛酷な負担を強いることになりかねず、妥当な基準設定とはいえないのである。この点、第一審判決および原判決は民法の名誉毀損に関する各条項の解釈適用を誤つたものというべきである。

三、免責事由の不存在

かりに第一審判決のかかげる基準によつたとしても、本件広告の違法性は阻却されず、名誉毀損の責任は免れないというべきである。なぜなら、被上告人は、本件広告が偽りの内容をふくむものであることを承知しつつ、あえてこれを掲載したからである。

本件広告は、当初、「朝日」「読売」「毎日」「日経」「東京」「サンケイ」の在京六紙に掲載される予定であつた。上告人はこの計画を知り、一九七三年一一月二七日、右六紙に対して「貴社が、社会の公器としての新聞の責任と良識にたつて、新聞広告倫理綱領、広告掲載基準等を厳守する立場から、自民党の意見広告計画に対し厳正な措置をとるよう」にと、文書、口頭をもつて申し入れた。この申し入れにこたえて、「日経」と被上告人を除いた他の四紙はこの掲載をとりやめた。その理由は、

「朝日」「特定の政党を批難する内容」

「読売」「意見広告とはいえない」

「毎日」「誹謗中傷していないとは断定できない」

「東京」「若干穏当を欠く表現」であり「新聞のスペースが他を攻撃したり、また泥試合の場になる」

というものである。つまり、新聞人の良識としてこの広告に問題のあることを十分承知していたのであり、また、上告人の申し入れにより、そのことをいつそうつよく諒解したのである。

上告人は一九七三年一一月一四日より同月二一日まで開催された第一二回党大会において、政府綱領提案を採択すると同時に、「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』を発表するにあたつて」(甲第九三号証『前衛』三六三号二一九ページ以下)および「『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』について」(甲第六号証『前衛』三六三号一六〇ページ)という二つの文書を採択した。

「発表するにあたつて」(甲第九三号証)は次のようにのべている。

「わが党が提唱している民主連合政府の性格は、国政革新のため三つの共同の目標、すなわち日米軍事同盟の解消と平和・中立化、大資本本位から国民本位への経済政策の転換、軍国主義の全面復活阻止と民主主義の確立の実現をめざす、国民生活防衛と民主的改革の政府である。それは、現行憲法のもとで革新統一戦線を結成する諸政党と政治勢力が一致して作成する共同綱領の実現をめざして奮闘する統一戦線政府、連合政権である。この政府は当然、社会主義建設をおこなう社会主義政権ではない」(同二二〇ページ上段)。

右の文書は、上告人の提唱する民主連合政府が社会主義建設をおこなうところの社会主義政権ではないことを、はつきり示している。

「提案について」(甲第六号証)は、さらに詳細に、民主連合政府と民族民主統一戦線政府、および社会主義政府との異同ならびにその相互関係を説明し、民主連合政府がかくされた目的への単なる「踏み台」として提案されたものでないことを明らかにして、次のようにのべている。

「わが党の綱領は、『党は、すべての民主党派や無党派の勤労者を階級的には兄弟と考えており、これらの人びとにむかつて心から団結をよびかけ、そのために力をつくすものである』とのべています。いつたん民主連合政府ができたら、それをたんに『露払いの政府』とみなして、共産党が他党派を裏切り、一路民族民主統一戦線政府をめざして強引にひつぱつていくというような、党綱領にもそむいた不信行為は、わが党とまつたく無縁なものであります」(同一七〇ページ上段)。

これらの文書を検討するだけでも、上告人がいかなる意味で、民主連合政府の提案をしているか明らかであろう。

被上告人は、一般新聞を発行する新聞社として、上告人の党大会などを取材し、上告人の当面の方針、政策などについて、十分な知識を有していたものである。当然、上告人が政府綱領提案を決定した第一二回党大会などについても取材し、また、党大会の前後をつうじ、責任ある党幹部が各地で報告をし、記者会見において説明をし、「赤旗」紙上に質疑応答を掲載するなど、綱領と政府綱領提案について、疑問点を氷解させるための努力を重ねていることをも認識していたものである。これらをつうじて、当然、被上告人は、上告人がいかなる意味で民主連合政府の提案をしているかを、十分認識していたものといわなければならない。

また、同様に、本件広告が指摘する「矛盾」についても、それが「矛盾」といえるものでないことは、前記のような上告人の責任ある文書や党幹部の責任ある言明などにより、十分認識していたものと認めるべきである。

そうだとすれば、被上告人が、本件広告を虚偽の広告であると知りつつ、故意に、これを掲載したものであることは疑問の余地なく明らかであろう。

また、本件広告が著しく上告人を侮辱するものであり、低劣な中傷広告であることはすでにのべたとおりである。

意見広告といいながら、なに一つ自由民主党の積極な政策を示さず、ただ上告人を攻撃するのみで、政党のおこなう対立政党への政策批判として、本来要請されてしかるべき真摯さと品位がまつたく欠けているのである。

あたかも他社製品の欠陥をあげつらうのみで自社製品についてはなにものべようとしない商品広告が、広告として低劣であるように、これは意見広告として低劣である。商品広告であればこのような広告は新聞広告倫理綱領に反するものとして、当然、掲載を拒否されるが、その理由は意見広告の場合も同様であるべきであろう。

とくに、低劣さをつよめるのは、前述した、大きくしかも奇怪な形状のイラストである。その下品低劣さについて、本件広告を全体として著しく下品とはいえないとした第一審判決ですら「確かにきわどい点もある」(一九二ページ)と認めざるをえないほどのものである。

広告としては異様な呼びかけではじまる「前略日本共産党殿はつきりさせてください。」という挑戦的な大見出しとならんで、このイラストが本件広告の上告人に対する嘲笑・揶揄・侮辱を強烈に印象づけるものとなり、また、広告全体の品位を一挙におとし、本件広告をして意見広告としての体をなさしめないものとしているのである。

まさに、本件広告は上告人を中傷するばかりでなく、著しく低劣であり、侮辱的であり、社会通念上とうてい是認できない広告なのである。

したがつて、第一審判決のかかげる「基準」をもつてしても、本件広告の違法性は阻却されず、名誉毀損の責を免れることはできない。この点に関しても第一審判決および原判決は重大な誤りをおかすものであつて、是正しなければ著しく正義に反するといえよう。

四、むすび

第一審判決および原判決は、本件広告の違法性を承認しなかつた。

しかし、違法性の有無はともあれ、本件広告により上告人は被害を受け、そして、その被害は回復していない。

囲繞地通行権や無過失責任主義にみられるように、行為の違法を問うことなく、現に被害を受けた者の救済をはかる法理が存在する。したがつてかりに、本件広告の違法性が否定され、あるいはその程度が軽易なものであるとされても、上告人の被害回復のための最低の手段として本件反論文の掲載を被上告人に命ずることは可能である。従前の例と異なつて、上告人は慰藉料の支払いを求めるものでもなく、謝罪広告の掲載を求めるものでもない。被害の回復の最低の方法であり、かつ簡便でもある反論文の掲載を求めるのみである。

これは行為者の行為の自由とその自由のゆえに受けた被害者の被害の回復とのバランスをとるという立場に立つた、より現実的な紛争解決の方法である。上告人が主張した「適法行為にもとづく『不法行為』」という主張は右のようなものであつて、第一審および原判決はこれを正解せず、この点からする救済も認めなかつた。

だが、いずれにせよ、本件広告による名誉毀損の成立を認め、反論文掲載を認容しないとすれば、いまだ開幕したばかりの、わが国の意見広告の開放にあつて、これは不幸な幕明けということになろう。

意見広告と称する以上、本件広告はその公けの場にふさわしく、いつそうの品位と公正さをもつて自らの意見を表明することが望まれた。しかも内容は、わが国の将来の政治・社会の根幹にかかわる政策に関して政治的意見を表明するのであるから、国民に対する政治的義務を真摯にはたすべき責務のある政党としては、より真剣に、より建設的にこれを議論するよう努めなければならなかつた。

本件広告はこのような期待をすべて裏切り、戦後のわが国の意見広告史上、はじめて泥試合を挑発するかのような低劣な見本を残してしまつたのである。

もちろん、それが新聞人の良識によつて、「日経」「サンケイ」の二紙にとどめられたことは不幸中の幸いである。

しかし、たとえ「日経」「朝日」の二紙にとどまつたとしても、いまもし、これに歯止めをかけなければ、今後、金権にものをいわせ、このような低劣な広告を掲載して、対立当事者を攻撃する者があらわれないという保障はない。

本件広告に名誉毀損の成立を認め、上告人主張の反論文の掲載を認めることは、今後、我国の意見広告が健全に発展する一つの保証ともなるものである。

本件広告については、上告人主張の反論文掲載を認容すべきである。それを許す法理は十分に存在する。

第一審判決および原判決は、民法第七〇九条、第七一〇条、第七二三条の解釈適用を誤るものであつて、とうてい破棄を免れない。

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