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最高裁判所第二小法廷 平成6年(行ツ)71号 判決 1995年1月27日

上告人

リース・アンデレ・ロバート

右法定代理人親権者

リース・ウィリアム・リチャード

リース・ロバタ・ローズ

右訴訟代理人弁護士

山田由紀子

中川明

大島有紀子

東澤靖

錦織明

村上典子

小林幸也

山下朝陽

小野晶子

被上告人

右代表者法務大臣

前田勲男

右指定代理人

増井和男

外一三名

主文

原判決を破棄する。

被上告人の控訴を棄却する。

控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

理由

上告代理人山田由紀子、同中川明、同大島有紀子、同東澤靖、同錦織明、同村上典子、同小林幸也、同山下朝陽、同小野晶子の上告理由第一ないし第四について

一  原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。

1  上告人の母は、平成三年一月四日、長野県厚生農業協同組合連合会小諸厚生総合病院において外来患者として初診を受け、その後二回通院した後、同月一八日に入院して上告人を出産したが、上告人の出生届をしないまま、同月二三日に退院して行方不明となった。

2(一)  上告人の母は、「セシリア・ロゼテ」と名乗っていたが、小諸厚生総合病院において受診し、同病院に入院した際、旅券、健康保険証等の身分を証する物は、何も所持しておらず、片言の英語と身振りで意思を伝えていた。

(二)  上告人の母の入院の際、小諸厚生総合病院職員がその供述に基づいて作成したカルテには、名前「セシリア M ロゼテ」、生年月日「一九六五年(昭和四〇年)一一月二一日」と記載されている。

(三) 上告人の母が入院した際に提出された入院証書の患者の氏名欄には、「Cecilee M. Rosete」又は「Cecille M. Rosete」、生年月日欄には「65年11月21日」と記載がされていたが、この記載はだれがしたのか不明である。

(四)  上告人の母に会った小諸厚生総合病院の産婦人科婦長や後に上告人の養父となったリース・ウィリアム・リチャードは、上告人の母はフィリピン人ではないかとの印象を抱いた。

3 上告人の出生届は、上告人の出産に関与した小諸厚生総合病院の杉田医師によって提出されたが、右届出に添付された「孤児養子縁組並びに移民譲渡証明書」と題する書面には、「Ma CEcilia ROSETE」が、「andrew Robert Rees」の唯一の親で、上告人の現在の養父母と養子縁組をするなどの記載がされており、その署名欄には、「Ma CEcilia ROSETE」と記載がされているが、この記載は、上告人の母に付き添っていた友人が代筆したものである。

4  被上告人による調査の結果、次の事実が明らかになった。

(一)  旅券を所持する者が本邦に上陸しようとする場合には、その者が、出入国管理及び難民認定法施行規則五条一項所定の入国記録カード(EDカード)を作成し、これを旅券と共に入国審査官に提出して、上陸の申請をすることとされているが、入国記録カードには、一九八八年二月二四日に、左記の者が、フィリピン共和国のマニラを発ち空路大阪から入国した旨の記録があり、その署名欄には「Cecillia m Rosete」と署名がされている。この者については、我が国からの出国の記録はない。

国籍 フィリピン

氏名 ROSETE, CECILIA, M

性別 女

生年月日 一九六〇年一一月二一日

旅券番号 F五三二九七六

目的 観光

(二) フィリピン共和国に対する旅券発行の有無についての照会結果によれば、一九八七年一〇月二六日、旅券番号F五三二九七六をもって、申請者CECILIA MERCADO ROSETEに対して、旅券が発行されていること、同人の生月日(誕生日)は一一月二一日(生年の記録はない。)で、出生地はTalavera, Nueva Ecijaと記録されていることが判明した。

(三) フィリピン共和国Nueva Ecija州Talavera市に提出されている出生証明書には、フィリピン国籍を有する婚姻した父母の間の子として、Cecilia Roseteが、一九六〇年一一月二一日に、Nueva Ecija州Talavera市において出生した旨の記載がされている(以下、右出生証明書に係る者を「ロゼテ本人」という)。

5  上告人の父を知る手掛かりは何もない。

二  上告人は、日本で生まれ、その父母がともに知れないから、国籍法(以下「法」という。)二条三号に基づいて日本国籍を取得したと主張して、日本国籍を有することの確認を求めて本訴を提起した。

これに対し、原審は、前記事実関係の下において、次のとおり判示して、上告人の請求を棄却すべきものとした。すなわち、(1) 法二条三号の立法趣旨が無国籍者の発生をできる限り防止しようとすることにあることからすれば、法二条三号の「父母がともに知れないとき」とは、父母についての手掛かりが全くないわけではないが、その資料が不十分であり、その結果父及び母のいずれについても特定することができない場合を含むものと解するのが相当である。(2) しかし、自己が日本国籍を有することの確認を求める訴訟においては、自己に日本国籍があると主張する者が、国籍取得の根拠となる法規に規定された要件に自己が該当する事実を主張立証しなければならないものであるから、立証責任のある上告人が「父母ともに知れない」ことをうかがわせる事情を立証しても、相手方である被上告人において、「父又は母が知れている」ことをうかがわせる事情を立証し、その結果、一応父又は母と認められる者が存在することがうかがわれるに至ったときは、「父母がともに知れない」ことについての証明がないことになるというべきである。(3) 上告人の出生時の状況からみて、上告人の母がだれであるかは、一応知れないということができるが、被上告人は、上告人の母とロゼテ本人とが同一人であることをうかがわせる事情を立証しており、ロゼテ本人と上告人の母は同一人である蓋然性が高いから、上告人の母が知れないことについて証明されたものとはいい難い。

三  しかしながら、原審の右二の(2)及び(3)の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  法は、出生の時に父又は母が日本国民であるとき、又は出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったときに、その子は日本国民とすることとしているが(二条一号、二号)、日本で生まれた子の父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないときも、その子を日本国民とするものとしている(同条三号)。これは、父母の国籍によって子の国籍の取得を認めるという原則を貫くと、右のような子は無国籍となってしまうので、できる限り無国籍者の発生を防止するため、日本で生まれた右のような子に日本国籍の取得を認めたものである。そうすると、法二条三号にいう「父母がともに知れないとき」とは、父及び母のいずれもが特定されないときをいい、ある者が父又は母である可能性が高くても、これを特定するには至らないときも、右の要件に当たるものと解すべきである。なぜなら、ある者が父又は母である可能性が高いというだけでは、なおその者の国籍を前提として子の国籍を定めることはできず、その者が特定されて初めて、その者の国籍に基づいて子の国籍を決定することができるからである。

2 法二条三号の「父母がともに知れないとき」という要件に当たる事実が存在することの立証責任は、国籍の取得を主張する者が負うと解するのが相当であるが、出生時の状況等その者の父母に関する諸般の事情により、社会通念上、父及び母がだれであるかを特定することができないと判断される状況にあることを立証すれば、「父母がともに知れない」という要件に当たると一応認定できるものと解すべきである。そして、右1に述べたとおり、ある者が父又は母である可能性は高いが、なおこれを特定するには至らないときも、法二条三号の要件に当たると解すべきであることからすると、国籍の取得を争う者が、反証によって、ある者がその子の父又は母である可能性が高いことをうかがわせる事情が存在することを立証しただけで、その者がその子の父又は母であると特定するには至らない場合には、なお右認定を覆すことはできないものというべきである。

3  原審の適法に確定した前記事実関係によれば、上告人の母親は、氏名や誕生日を述べてはいたが、それが真実であるかどうかを確認することができるような手掛かりはなく、上告人を出産した数日後に行方不明となったというのであるから、社会通念上、上告人の母がだれであるかを特定することができないような状況にあるものということができる。これに対して、被上告人は、上告人の母とロゼテ本人とが同一人である可能性がある事情を立証している。しかし、上告人の母が述べた生年とロゼテ本人の生年には五年の開きがあること、入院証書及び「孤児養子縁組並びに移民譲渡証明書」と題する書面に記載された上告人の母の氏名のつづりは、フィリピンにおいて届け出られたロゼテ本人の氏名のつづりや、入国記録カードに記載された署名のつづりと異なっていること、ロゼテ本人が我が国に入国してから上告人の母の入院までには約三年が経過しているにもかかわらず、上告人の母は、片言の英語と身振りのみで意思を伝えていたことなど、上告人の母とロゼテ本人との同一性について疑いを抱かせるような事情が存在することも、原審の適法に確定するところである。原審も、右の可能性の程度を超えて、ロゼテ本人が上告人を出産した母であると特定されるに至ったとまで判断しているわけではない。

そうすると、被上告人の立証によっては、上告人の母が知れないという認定を覆すには足りず、日本で生まれ、その父については何の手掛かりもない上告人は、法二条三号に基づき、父母がともに知れない者として日本国籍を取得したものというべきである。

四  以上によれば、上告人が日本国籍を取得したことを否定した原審の判断は、法二条三号の解釈適用を誤ったものというべきであり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、この点をいう論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく原判決は破棄を免れない。そして、前示説示によれば、これと同趣旨の理由の下に上告人の請求を認容した第一審判決は、正当として是認すべきものであるから、被上告人の控訴を棄却すべきである。

よって、原判決を破棄し、被上告人の控訴を棄却することとし、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中島敏次郎 裁判官大西勝也 裁判官根岸重治 裁判官河合伸一)

上告代理人山田由紀子、同中川明、同大島有紀子、同東澤靖、同錦織明、同村上典子、同小林幸也、同山下朝陽、同小野晶子の上告理由

《目次》

第一、憲法違背――基本的人権としての「国籍取得の権利」

一、国籍法とその解釈の憲法適合性

二、国籍法についての国際法上の基準・指針

三、国籍取得の権利の憲法上の地位と意味

四、国籍法二条三号の解釈に関する憲法上の要請

第二、国籍法二条三号の立法趣旨

一、原判決の判示

二、国籍法二条三号の今日的意義

三、原判決の問題点

第三、本件要件の意義(原判決の争点1について)

一、理由齟齬……争点1(本件要件の意義)に対する判示と争点2(本件要件の立証責任)に対する判示および争点3(本件要件の該当性)に対する判示の矛盾

1、争点1(本件要件の意義)で原判決が示した『本件要件』

2、争点2(本件要件の立証責任)で原判決が立証命題とした『本件要件』

3、争点3(本件要件の該当性)で原判決が該当性判断の対象とした『本件要件』

4、争点1、2、3、の理由齟齬

5、原判決の理由齟齬の原因

二、法令違背……国籍法二条三号の統一的解釈から見た原判決の誤り

1、二条三号の三つの要件

2、「父母がともに国籍を有しない」という要件の意義

3、「日本で生まれた場合」という要件の意義

4、二つの要件に見る取り扱いの共通性

5、「父母がともに知れないとき」という要件の意義――一審判決の正当性

6、本件要件のあるべき意義

7、三つの要件の統一的解釈から見た原判決の法令違背

第四、本件要件の立証責任(原判決の争点2について)

一、法令違背……立証責任分配法則適用の誤り

二、被控訴人が伊方原発訴訟上告審判決を引用した趣旨を誤解した原判決

三、本件要件のあるべき立証責任の分配(立証責任分配の基準)

四、国籍法二条三号の統一的解釈から見た立証責任

1、二条三号の三つの要件

2、「日本で生まれた場合」という要件の立証責任

3、「父母がともに国籍を有しない」という要件の立証責任

4、二つの要件に見る立証責任の共通性

5、「父母がともに知れない」という要件の立証責任――一審判決の正当性

6、国籍取得の効果の面から見た三つの要件の共通性

7、立証責任と国籍取得の効果の両面から見た三つの要件の統一的解釈

8、三つの要件の統一的解釈から見た原判決の法令違背

第五、本件要件の該当性(原判決の争点3について)

一、経験則違反……原判決の強引な認定

二、ロゼテ本人と番号F五三二九七六の旅券を所持して入国した者の同一性

三、母親と番号F五三二九七六の旅券を所持して入国した者の同一性

四、まとめ

第六、釈明義務違反

第七、結論

第一、憲法違背――基本的人権としての「国籍取得の権利」

原判決は、憲法一〇条、一三条、九八条二項及び国籍法二条三号の解釈を誤り、判決に影響を及ぼすことが明らかな違法がある。

一、国籍法とその解釈の憲法適合性

憲法一〇条は、「日本国民たる要件は法律でこれを定める」としている。憲法が「日本国民たる要件」は法律で定めると規定するのみで、国籍保有の要件内容について直接明示するところがないということは、直ちに国籍について憲法が何らの基準・指針も示していないことを意味するものではない。なぜならば、国籍を定めることは、国家の構成員たる国民の範囲を決定することであるだけでなく、人権享有能力をもつ主体の範囲を決め、主権をもつ者の範囲を決定することであり、国家の基本にかかわる事項であるからである。憲法が国家構成の基本法としての性格をもち、あらゆる権利保障の基本法としての性格が認められている今日、人権享有能力と主権をもつ国家の構成員の範囲を定める国籍法の内容とその解釈は憲法上の問題であり、違憲審査権の対象となるのである。

日本の国籍法とその解釈は、条約及び国際的に認められた法規に則り(憲法九八条二項)、憲法の趣旨・内容に合致するものでなければならない。

二、国籍法についての国際法上の基準・指針

1、元来、国籍の得喪につきどのように定めるかは、それぞれの国のおかれている歴史的事情や環境によって左右されるところが大きく、国際法上、国籍の得喪に関する事項は国内管轄事項とされている。一九三〇年のハーグ国籍抵触防止条約は、「何人が自国民であるかを自国の法令によって決定することは、各国の権限に属する……」(一条)、「個人がある国の国籍を有するかどうかに関するすべての問題は、その国の法令によって決定する」(二条)とし、かかる国際法上の原則を明示している。

2、国籍が各国の管轄事項であるとすると、場合によっては、一人が同時に複数の国籍をもち(重国籍)、またはいずれももたない(無国籍)場合が、発生することになる。特に無国籍となると、ある国において国内法上自国民に認められている権利を、いずれの国においても享有することができないことになる。

国籍制度は、人権を保障された自由な人々による共同社会の創出という機能をもつから、無国籍であることは、このような共同社会から排除されていることを意味する。また、国際法上、国家は自国民を受け入れる義務を負っているところから、国民はいつでも本国に入国できるとされているが、無国籍者はこのように自己を保護してくれる国を持たない。個人がどの国家に向けて権利を主張できるのか、また、自らの保護をどの国家に対して求めることができるのかの指標として、国籍を個人の権利として捉えると、これらの権利を保障してくれる国家がないという「無国籍」は、人間の尊厳という原点、人権という視点から見て、何よりもまず防止しなければならないことになる。その意味で、個人が国籍を取得する権利は、「人権を享有するための人権」ともいうべき基本的・根源的な性格を有することになる。

3(一) 「現時における世界機構のもとでは、個人の権利も義務もいずれかの国家の法的保障のもとに実現されるところが極めて大きいので、人は、必ずいずれかの国籍をもつべきであるということが、基本的人権の一つとされるべきである」とされている(国籍法〔新版〕江川英文・山田鐐一・早田芳郎著 有斐閣法律学全集五九―2一八頁)。世界人権宣言の第一五条が「すべて人は一つの国籍を有する権利がある」と規定しているのは、国籍が国家による付与の対象ではなく、その取得が個人の権利であることの端的な表現である。

(二) 「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下「B規約」という)二四条三項は「すべての児童は、国籍を取得する権利を有する」と定め、世界人権宣言においては、なお権利宣言でしかなかったものを、子どもについては国際条約上の権利に高め、締約国による法律上の保障を約束した。これにより子どもが生まれたときに国籍を取得することが、子どもの人権であることが明らかになった。

(三) さらに、子どもの国籍取得の権利は、一九八九年一一月二〇日第四四回国連総会で採択された「児童の権利に関する条約」(以下、「子どもの権利条約」という。甲第一五号証)においてはより具体化され、権利保障を現実のものとすることを用意するまでに至った。その七条一項は、「子どもは、出生の時から名前を持つ権利及び国籍を取得する権利を有する」と定めた後、その二項で「締約国は、特に何らかの措置をとらなければ子どもが無国籍になる場合には、国内法及びこの分野に関連する国際文書に基づく自国の義務に従い、これらの権利(国籍を取得する権利)の実施を確保する。」として、子どもが無国籍となることがないようにすべき具体的な措置義務を締約国に課している。

(四) 憲法九八条二項の定める国際協調主義により、国籍立法の各条項を解釈するにあたっても、以上に述べた、国籍取得を「人権を享有するための人権」ととらえる国際的な合意に則り解釈することが必要である。

ところが、原判決は、争点1「本件要件の意義について」において、「B規約は、締約国にすべての児童にその国籍を付与すべき義務まで課したものではないので、父母の国籍が特定できる場合でも、当該国の法律上子が当該国の国籍を取得できないとの事情があっても、本件要件の該当性についての判断に影響を及ぼすものでないことはいうまでもない」とする。

しかし、B規約の同条項が「国籍権」ではなく「国籍を取得する権利」と規定されたのは、無国籍者の発生をくい止めるには、あらゆる国においてこの規定が実現されることが必要であることから、あらゆる国の法体系にこの条項が適用されることを可能にするという趣旨である(B規約コメンタリー/マンフレッド・ノヴァック著 エヌ・ピー・エンゲル出版四四三頁参照 資料二)。また、B規約は「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)と異なり、締約国は即時に、規約で認められた人権を尊重、確保する義務を負い、必要な立法措置をとらなければならず(同二条二項)、裁判所によってもB規約上の人権を救済し、その執行を確保しなければならないとする(同条三項(b)・(c))。個人はB規約の権利に基づいて裁判所へ救済を求めることができ、B規約は実定法としての効力を有するに至ったと解釈されている(同コメンタリー四四四頁参照 資料二)。わが国がB規約を批准したことによって、B規約二四条三項は国内法上の効力をもち(憲法九八条二項)、裁判所によってその執行を確保されなければならないのである(松岡博「日本人母の子は日本国籍を取得できるか」判例タイムズ四四六号一三頁)。

したがって、わが国の裁判所が国籍法二条三号の要件を解釈するにあたっても、原判決のようにB規約を軽視して解釈することは許されず、原判決の解釈は、憲法九八条二項による国際法規の遵守義務に違反するといわなければならない。

三、国籍取得の権利の憲法上の地位と意味

1、国籍は憲法典がその存立基盤とする国家の同一性の基本にかかわる事項であり、その部分範囲を定めることは、個人の日本国籍を取得する権利として捉えることができる(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂著「注釈日本国憲法」上巻、二一六頁)。

現在の世界にあっては、国際社会は国家を単位として構成されているが、個人の権利義務の実現は、当該個人の属する国家を通してなされるのを基本とし、かつ個人はいずれかの国の国籍を取得することにより国際的に法的な存在を有しているとして、法的な保護を求めることができるのである。個人はいずれかの国の国籍を取得することによりはじめて、人権を保障され、かつ国際的に法的な存在を認められることになる。これに対し、個人がいずれの国の国籍も有していない時、国内法上自国民に認められている権利をいずれの国においても享有することができず、また自己を保護する国をどこにももたないことになる、これは個人にとって著しく不利益であり、人間の尊厳を損ない、憲法一三条が保障する個人の尊重や幸福追求権にも反する。その意味で、国籍の取得はすぐれて基本的人権としての性格をもつものとして把握されるのである。

2、東京地方裁判所判決(昭和五六年三月三〇日判例時報九九六号二三頁)も、「憲法は『日本国民たる要件は、法律でこれを定める。』と規定するのみで、他に特段の定めをしていない。しかし、国籍の得喪すなわち国民たる資格の決定の問題は、国家構成の基本に関するものとして、本来、国の最上位法たる憲法をもって規定するべき事項である。また、国籍は、国と個人との間の個々の権利義務の集合体のごときものではないにしても、具体的内容をともなわない単なる抽象的記号のごときものではなく、国籍の有無によって基本的人権の保障が直接左右されることもあり得るという意味で国民の憲法的利益に必然的に関わりを有するものであり、恣意的な国籍得喪の定め故に本来受けられるはずの右基本的人権の保障を受けられないという事態を招くことは、もとより憲法の許容するところではないと考えられる。このような見地からすると、憲法一〇条の前記規定は、国籍の得喪についていかなる基準も法律で自由に定めることができるとしているものではなく、国籍の得喪に関する事項が憲法事項であるとの前提に立ったうえで、その内容の具体化を法律に委任したものであり、右立法による具体化にあたっては、憲法の各条項及びそれらを支える基本原理に従いこれらに調和するように解釈するべきことを要求しているものと理解すべきである。」とし、「国籍法の規定が右の趣旨に違反するときは違憲の問題を生じうることは当然というべきである。」と判示し、国籍の取得を憲法上の権利として位置付けている。

日本で生まれたこと明らかな上告人は、憲法一〇条、一三条に基づく基本的人権として、右の日本国籍を取得する権利を有しているのである。

四、国籍法二条三号の解釈に関する憲法上の要請

右東京地方裁判所判決は、憲法一〇条の規定は「国籍の得喪についていかなる基準も法律で自由に定めることができるとしているものではなく、国籍の得喪に関する事項が憲法事項で」あり、「(国籍)立法による具体化にあたっては、憲法の各条項及びそれらを支える基本原理に従いこれらに調和するように解釈するべきことを要求しているものと理解すべき」とするが、これは国籍法の各条項を解釈するにあたっても当てはまることである。したがって、国籍法二条三号の「父母がともに知れない」との要件も、国籍取得が「人権を享有するための人権」と捉えられ、国籍の取得が憲法上の権利とされていることに合致するように解釈されなければならない。これらの趣旨に反して国籍法を解釈し、上告人が国籍を取得することができない結果が生じるときは、違憲の問題が生じるのである。

この点、原判決は、「自己が日本国籍を有することの確認を求める訴訟においては、自己に日本国籍があると主張する者が、国籍取得の根拠となる法規に規定された要件に自己が該当する事実を主張立証しなければならない」とし、さらに、「『知れない』ことの立証に困難がともなうことは別異に解すべき理由にならない。」として、「父母がともに知れない」という立証の困難な事実の立証責任を被控訴人に負わせた。このような解釈は、無国籍の発生を防止し、国籍取得を「人権を享有するための人権」と捉える国際法上の義務に違反し、国籍取得の権利を基本的人権とする憲法の要請に違反するものである。この違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄されなければならない。

第二、国籍法二条三号の立法趣旨

一、原判決の判示

国籍法二条三号の立法趣旨は、原判決は「血統主義を厳格に貫くときは、三号に該当するような子は無国籍者となってしまうことから、できる限り無国籍者の発生を防止するため、血統主義の例外として生地主義を採用したもの」(二三頁)と判示している。そして、原判決はかような立法趣旨に照らして、控訴人の主張を退けて、「無国籍者の発生をできる限り防止しようとする同号の趣旨に照らせば、同号の適用を右のような場合(=父または母の存在が関係者に全く不明でかつその手掛りさえも得られない場合――代理人注)に限定して解釈するのは相当でない。右の趣旨からすれば、本件要件は、父母についての手掛りが全くないわけではないが、その資料が不十分であり、その結果父及び母のいずれについても特定することができない場合を含むものと解するのが相当である。」と判示した(二四頁)。

二、国籍法二条三号の今日的意義

現行国籍法二条三号は、一九五〇(昭和二五)年に制定された旧国籍法二条四号に由来する規定である。旧法の制定当時も無国籍防止に対する社会的要請はあったが、現在は当時と比べてはるかにその要請が強まっていることは疑いがない。その大きな要因の一つは、上告人が一審で指摘したB規約の存在である。そして、B規約が全ての子どもの国籍取得の権利を定める背景には、国際的な人的移動が頻繁になったため、上告人のように本人に何ら責任がないにもかかわらず、無国籍者にされてしまう子どもが多く発生しているという現実がある。

一九八四(昭和五九)年の国籍法改正時に、当時の国籍法二条四号の適用範囲を拡大して「日本で出生し、日本国籍を付与されなければ無国籍となるべき子の全てに当然に日本国籍を付与するものとするかどうかが検討された」(法務省民事局内法務研究会編「改正国籍法・戸籍法の解説」一三頁、甲第七号証)としたのも、無国籍防止の理想徹底への社会的要請が高まっていたからである。また、現行の国籍法八条四号が新設され、日本で生まれた無国籍児についての簡易帰化の制度を設けたのも、同様に無国籍防止の要請を受けたからである。

しかし、同号が制定されたために二条三号を狭く解した上、八条四号によって不都合な結果を事後に回避するというのは、生まれながらに国籍を取得する意義及びその権利を定めたB規約を軽視するもので、妥当な解釈とはいえない。

以上の国籍法二条三号の本来的意義及び今日的意義によれば

① 国籍法二条三号は本来的に血統主義による不都合な結果を防止するための一種の救済規定であること、

② 同じ体裁の条文でありながら先のB規約、国籍法改正時の検討の経緯、そして何よりも現実の社会事情を背景に旧法制定時よりはるかに無国籍防止の現実的要請が強まっていること

が明らかである。そして、国籍法二条三号が持つこのような意義に鑑みれば、同号の解釈にあたっては他の法規以上に、立法趣旨を十分理解してその趣旨を「できる限り」実現する方向で解釈することが肝要である。

三、原判決の問題点

ところで、原判決は国籍法二条三号の立法趣旨を冒頭のように理解し、同号の適用範囲については「父母についての手掛りが全くないわけではないが、その資料が不十分であり、その結果父及び母のいずれについても特定することができない場合を含む」として、「できる限り無国籍者の発生を防止する」ため適用範囲を厳格に狭めないようにしている。しかし、その要件の解釈にあたっては、一審と比べてはるかに被控訴人の立証責任を厳格に解し、「知れないこと」の立証に困難が伴うことも立証責任の所在判断にあたり別異に解すべき理由にはならないと断定した。このような解釈態度は、原判決自ら「できる限り無国籍者の発生を防止する」ことが国籍法二条三号の立法趣旨であると述べている前提と明らかに矛盾している。

同号の立法趣旨に基づく上告人の統一的解釈は別項(第三、二及び第四、四)で詳述するが、同号の立法趣旨及びその現実的意義に十分配慮することない解釈に終わった原判決は、同号の解釈を誤ったものと断ずるほかはない。

第三、本件要件の意義(原判決の争点1について)

一、理由齟齬……争点1(本件要件の意義)に対する判示と争点2(本件要件の立証責任)に対する判示および争点3(本件要件の該当性)に対する判示の矛盾

1、争点1(本件要件の意義)で原判決が示した『本件要件』

原判決は、争点1(本件要件の意義)について、『本件要件』は次のようなものであると判示している。

「実際上の問題としては、同号が適用されるのは、子を分娩した母及び事実上の父の存在が関係者に全く不明であり、かつ、その手掛かりさえも得られない場合が大多数であろうが、無国籍者の発生をできる限り防止しようとする同号の趣旨に照らせば、同号の適用を右のような場合に限定して解釈するのは相当でない。右の趣旨からすれば、本件要件は、父母についての手掛かりが全くないわけではないが、その資料が不十分であり、その結果父及び母のいずれについても特定できない場合を含むものと解釈するのが相当である。」(二四頁、原審は、自ら報道関係者向けに発行した判決要旨(資料一)において、1、法二条三号の要件(本件要件)の意義と題して、棒線の部分のみを記載している)

右判示からすれば、本件要件には、

Ⅰ、「父母についての手掛かりが全くないために父及び母のいずれについても特定できない場合」と

Ⅱ、「父母についての手掛かりが全くないわけではないが、その資料が不十分であるために父及び母のいずれについても特定できない場合」

の二つがあることになるが、手掛かりが全くないか不十分かはどちらでもよいのであるから、要するに本件要件の意義は「父母が特定できないこと」ということになる。

さらに、本件で「父が特定できないこと」については争いはないから、本件において、立証の対象となり、その該当性の有無が判断されるべき『本件要件』とは、

「母が特定できないこと」

との要件ということになる。

2、争点2(本件要件の立証責任)で原判決が立証命題とした『本件要件』

(一) 争点1に対する判示から導かれる争点2の立証命題

原判決は、争点2(本件要件の立証責任)において、本件要件についての立証責任は被控訴人にあると判断している。

この判断が不当であることについては後述するが、いまここで、仮に原判決の立証責任に関する判断を前提とし、被控訴人に立証責任があるとしても、被控訴人が立証するべき「立証命題」すなわち『本件要件』は、争点1(本件要件の意義)についての原判決の判示から、

「母が特定できないこと」

のはずである。

被控訴人の「立証命題」が右のようなものである以上、被控訴人において「母が特定できないこと」を立証し得たときには、本件要件が証明されたものとして、被控訴人に日本国籍が認められなければならない。

(二) 争点2で原判決が示した立証命題としての『本件要件』

ところが、原判決は、争点1で右のような『本件要件』を判示しておきながら、争点2においては、この『本件要件』にまったく触れることなく、むしろこれとは無関係に、次のように判示しているのである。

すなわち、

「自己が日本国籍を有することの確認を求める訴訟においては、自己に日本国籍があると主張する者が、国籍取得の根拠となる法規に規定された要件に自己が該当する事実を主張立証しなければならない(中略)。したがって、挙証責任のある被控訴人が『父母がともに知れない』ことを窺わせる事情を立証しても、相手方である控訴人において『父又は母が知れている』ことを窺わせる事情を立証し、一応父又は母と認められる者が存在することを窺わせる事実を立証したときは、『父母がともに知れない』ことについての証明がないことになるというべきである。『知れない』ことの立証に困難が伴うことは別異に解すべき理由にはならない。」(二五頁)

右判示によれば、最終的に裁判所が認定した事実が「一応父又は母と認められる者が存在することを窺わせる事実があること」にとどまる場合でも、本件要件該当性はなく、被控訴人の請求が棄却されることになるのである。

しかし、「一応母と認められる者が存在することを窺わせる事実があること」と「母が特定できること」とでは雲泥の差がある。「特定できる」という事実が明白な事実であるのに対し、「特定できない」場合には、全く特定できない場合からかなりの資料があるにはあるが特定までには至らない場合まで様々な場合が含まれているからである。「一応」「窺わせる事実」がある場合は、この「特定できない」場合の一例にすぎない。

原判決は、争点1において、わざわざ本件で問題となる『要件』の意義を自ら設定しておきながら、争点2においては、この『要件』と無関係に、あるいはこの『要件』を度外視して、再び「母が知れないこと」そのもの(むしろ、被控訴人が「一応母と認められる者が存在することを窺わせる事実」すら否定しなければならない点では、「母がまったく知れないこと」)を被控訴人に課すべき立証命題として立証責任のあり方を論じていると言うほかない。

結局、原判決が、争点1で示した『本件要件』と争点2で示した被控訴人の立証命題としての『本件要件』はまったく矛盾するものと言わざるを得ず、原判決には、この点で重大な理由齟齬の法令違背がある。

3、争点3(本件要件の該当性)で、原判決が該当性判断の対象とした『本件要件』

(一) 争点3で原判決が示した『本件要件』

原判決の争点3(本件要件の該当性)に関する論旨を要約すると次のようなものとなる。

① 三の3(三五頁〜)において、「空路で大阪へ上陸した者とロゼテ本人とが同一人か否か」について検討し、この点について「若干の疑念がないではないが、未だ合理的な疑いを差し挾む程度には至らないというべきである。」と判示し、

② 三の4(三九頁〜)において、「母親がロゼテ本人と同一人か否か」について検討し、

その(一)で、母親と病院・養父の接触に関わる事実を挙げて、「結局、母親が右病院において供述したところが真実であるか否かを確定することができず、右の事実関係だけでは、被控訴人の母親が誰であるかは一応知れないということができる。」と判示して、「母が知れない」ことを窺わせる事情があることを認め、

その(二)で、五つの事実を指摘し、「これらの事実は母親とロゼテ本人とが同一人であることを窺わせる事情である。」と判示して、「母が知れている」ことを窺わせる事情があることを認め、

他方、これと矛盾する事実をあげつつも、これらの事実も「母親とロゼテ本人とが同一人であることに合理的な疑いを生じさせることはできない」と判示し、

その(三)で、最終的に「以上に述べた事実を総合勘案すると、ロゼテ本人と母親とは同一人である蓋然性が高く、被控訴人の母が知れないことについて証明されたものとは言い難いので、法二条三号の母が知れないときには該当しない」と結論づけている。

右論旨は、結局のところ、原判決が争点2(本件の立証責任)で判示した本件要件の立証責任は被控訴人にあり、「挙証責任のある被控訴人が『父母がともに知れない』ことを窺わせる事情を立証しても、相手方である控訴人において『父母がともに知れない』ことを窺わせる事情を立証し、一応父又は母と認められる者が存在することを窺わせる事実を立証したときは、『父母がともに知れない』ことについての証明がないことになるというべきである。」との立証責任論に立脚し、この流れに沿って事実認定をしたものである。

そして、最終的に原審が認定し得たのは、「ロゼテ本人と母親とは同一人である蓋然性が高い」という事実である。

(二) 争点1の判示から導かれる該当性判断の対象たる『本件要件』

しかし、争点1の判示にしたがい、本件要件をあくまで、

「母が特定できないこと」

とするならば、「蓋然性が高い」だけでは「特定できた」ことにはならず、最終的には「母が特定できないこと」を認定して本件要件該当性を肯定しなければならないはずである。なぜなら、「特定できない場合」には、手掛かりが全くない場合のみならず、手掛かりはあってもその資料が不十分な場合も含まれることは、原審自身が争点1において認めているところであり、「蓋然性が高い」というのは、資料が不十分な場合のうちその不十分性が低い場合、つまり資料がかなりあるが特定できるには至らない場合にほかならないからである。

原判決は、争点1において、わざわざ本件で問題となる『要件』の意義を自ら設定しておきながら、争点2において、この『要件』と無関係に、あるいはこの『要件』を度外視して、再び「母が知れないこと」そのものを被控訴人に課すべき立証命題として立証責任のあり方を論じ、争点3においても、争点2で犯した誤謬に引きづられたまま、争点1で示した『要件』と全く異なる『要件』の該当性を判断したのである。

4、争点1、2、3、の理由齟齬

結局、原判決が、争点1で示した『本件要件』と、争点2で示した被控訴人の立証命題としての『本件要件』、争点3でその該当性判断の対象としたところの『本件要件』は全く矛盾するものと言わざるを得ず、原判決には、この点で判決に影響を及ぼす重大な理由齟齬の法令違背がある。

5、原判決の理由齟齬の原因

(一) 「特定できないこと」の意味

原判決は「知れないとき」の意義は「特定できないこと」であるとしながら、肝心な「特定できないこと」の意味を明らかにしていない。しかし、原判決が「特定」という文言を法律学的に特別な用語として用いているのでないことはその文脈上明らかであるから、一般的意味における「特定」を意味していることになる。一般的な意味における「特定」とは、「特に定まっていること」であり(広辞苑)、単に物事が「定まっていること」とは違うし、まして「定められる蓋然性が高いこと」とは次元の違うものである。

「特定」のこのような概念との関係で特に注意しなければならないのは、「特定できない」ことが持つ概念の広さである。

すなわち、「特定できない」とは、物事を定めることができるか否かという命題から「特定」できることを除いた全ての概念であり、初めから何もわからない場合から、蓋然性や可能性の面でかなりの程度に定めることはできるが「特定」できると断定できない場合まで含んでいるのである。

このことは原審自身、「特定できない場合」には、「子を分娩した母及び事実上の父の存在が関係者に全く不明であり、かつ、その手掛かりさえも得られない場合」から「父母についての手掛かりが全くないわけではないが、その資料が不十分」な場合まであることを自認しているとおりである(二四頁)。

ところが、原審は、このように判示しながら「特定できない」ことの意味、特にその概念の広さを十分理解しているとはいえず、そのために論理矛盾を来しているのである。

(二) 「特定できないこと」の立証

争点1に対する原判決の判示からすれば、争点2で、被控訴人が立証すべき立証命題も「母が特定できないこと」でなければならないはずである。

にもかかわらず、何故原判決は、争点2では、「特定できないこと」という文言を一切用いず、条文上の要件そのものである「知れない」ことのほかに、「窺わせる事情」などという争点1でも全く触れず条文そのものからも出てこない概念を登場させたのであろうか。

それは、「特定できないこと」そのものを立証する直接事実も直接証拠もないからにほかならない。たとえば、法二条三号前段の典型例であり、通説・判例・行政解釈によっても、「父母ともに知れない」という要件に該当することに何ら問題がないとされている『棄児』の場合においても、『棄児』が立証し得るのは、「どこどこの道端に捨てられていた」とか「父母を知る手掛かりとなるような手紙や名札などを何も身につけていなかった」とかいう『捨てられていたときの状況』すなわち間接事実であって、「父母が特定できないこと」そのものではない。つまり、典型例たる『棄児』の場合ですら、原判決の言う「知れないことを窺わせる事情」しか立証できないし、『棄児』は、この「窺わせる事情」が非常に強い場合の一例にすぎないのである。

これに対して、「特定できること」ならば、このこと自体を直接立証する事実も証拠も十分あり得る。例えば、上告人が一審準備書面(二)一の3で述べた①②③の各事実全てを被上告人が立証することは、一般論として十分可能なことである。ただ、本件においては、被上告人において、現実にこれらを立証することができなかっただけなのである。典型例である『棄児』の場合でも、後日母と称する者が現れてきたとき、その者が、自己が分娩した母であることを立証するのは容易なことである。

原判決は、一方で「知れないことの立証責任は、被控訴人にある」、「『知れない』ことの立証に困難が伴うことは別異に解すべき理由にはならない」と言いながら、結局は「『知れない』ことの立証の困難性」の故に、自ら、争点1で意義づけた『本件要件』からも『知れない』ことそのものからも直接は導かれない「窺わせる事情」なる概念を持ち込まざるを得なかったのである。

ところで、「窺わせる事情」という概念は、一審判決が

「人の身元がわからないことを証明することは困難であるから、右要件の立証については、その者の出生当時の状況などにより、そのような事情の下においては、通常は父母をともに知ることができないであろうと考えられる程度に事実を立証すれば足り、そのような事実が立証されたときは、その相手方において、父又は母のいずれかの身元が判明していることを立証しない限り、右要件該当の事実につき証明があったものとして取り扱うのが相当である。」

と判示して、「知ることができないであろう状況事実」という間接事実を被控訴人の立証命題としているのを想起させる。「窺わせる事情」も「状況事実」もほとんど同意義であり、どちらも「知れないこと」を立証するための間接事実なのである。

このことは、まさに、原判決の論理が自ら破錠を来していること、原判決自体一審判決の正当性を認めざるを得ないことを露呈しているものと言わなければならない。

(三) 「特定できないこと」の要件該当性

同様に、「特定できないこと」という要件に直接該当する具体的事実はない(このことは、例えば「日本で生まれた場合」という要件については、日本国内のどこどこの病院で出生したという具体的事実が認定できれば、ただちにその要件該当性を肯定できるのと比較してみると理解しやすい。本件でも、分娩に立会った医師の「出生証明書」(乙第一号証の二)によって、「日本で生まれた場合」という要件は簡単に立証できる。)。

そこで原判決は、要件該当性の判断にあたっても、「窺わせる事情」なる概念を持ち出し、まず「知れないことを窺わせる事情」があることを認め、次に「母親とロゼテ本人とが同一人であることを窺わせる事情」があることを認めるという過程をたどらざるを得なくなったのである。

しかも、原判決は、最終的に「ロゼテ本人と母親とは同一人である蓋然性が高く、被控訴人の母が知れないことについて証明されたものとはいい難い」と判示して、争点1でも争点2でも全く用いなかった「蓋然性」なる概念を持ち出している。

何故原判決は、このような新たな概念を持ち出さなければならなかったのであろうか。争点2に対する原判決の判示からすれば、要件該当性判断の結果、「知れていることを窺わせる事情」や「一応母と認められる者が存在することを窺わせる事実」さえ認定できれば、要件該当性を否定して、被控訴人の請求を棄却してもよいはずである。

ところが、先にも述べたとおり、「特定できないこと」という要件が直接証明することの不可能な要件であるのに対して、「特定できること」という概念は直接証明することが可能な概念である。現に、控訴人は、一審段階の当初から、「原告の母は、セシリア・ロゼテという一九六〇年生まれのフィリピン国籍の女性」と特定できる旨主張立証してきた。

そこで、原判決は、争点2では先のように判示しながらも、いざ争点3において実際にその要件該当性を判断してみると、単に「知れていることを窺わせる事情」や「一応母と認められる者が存在することを窺わせる事実」を認定するのみで被控訴人の請求を棄却することに躊躇を覚え、さりとて、空路で大阪へ上陸した者とロゼテ本人との同一性にも母親とロゼテ本人との同一性にも疑念があるため(三七頁六行目「もっとも」から三九頁二行目まで。及び四一頁八行目「もっとも」から四二頁六行目まで。)、「特定できる」とも認定できず、やむなく「蓋然性」というような新たな概念を持ち出さざるを得なくなったと考えられるのである。原判決の躊躇とは、原判決が本件要件の意義について「特定できない場合」とした以上、本来「母が特定できる」場合でなければ要件該当性を否定できない(「特定できる」といえる場合以外は「特定できない」場合である)のに、否定することへの躊躇であり、この躊躇の故に「母が特定できる」という認定に少しでも近づけるために「蓋然性」なる概念をもち出したのである。

二、法令違背……国籍法二条三号の統一的解釈から見た原判決の誤り

1、二条三号の三つの要件

二条三号に基づいて国籍を取得できる場合には、前段の「日本で生まれた場合において」「父母がともに知れない」ときと、後段の「日本で生まれた場合において」「父母がともに国籍を有しない」ときとの二種類がある。

「日本で生まれた場合」という要件は、両者に共通するから、結局二条三号には、

① 「日本で生まれた場合」

② 「父母がともに知れない」

③ 「父母がともに国籍を有しない」という三つの要件が含まれている。

そこで、これらを統一して見た場合に、本件の争点となっている「父母がともに知れない」の意義はどう解釈されるべきかを検討する。

2、「父母がともに国籍を有しない」という要件の意義

右について、通説・行政解釈は、「父母がともに無国籍者である場合」と解している。しかし、現実には「無国籍」と断定することはできないが、さりとて、どこの国籍を有しているとも断定できず、そもそも「国籍を有しているのか否かがわからない場合」というのが出てくる。

そのような場合について、通説・行政解釈は「父母の国籍が不明な場合」も「父母が無国籍である場合に準じて取り扱う」としている(有斐閣法律学全集「国籍法」七五頁、甲第五号証三〇頁、東京法務局長照会昭和四四年一〇月八日付戸甲第一〇四三号、法務省民事局長回答昭和四四年一二月一〇日付民事甲第二六四四号)。

つまり、「父母がともに国籍を有しない」の意義を

「父母が明確に国籍を有しない場合」のほかに、

「父母が国籍を有するか否かが不明の場合」を含む

と解釈するのと同様の取り扱いをするのである。

逆に言うと、

「父又は母が国籍を有していることが明確な場合」

にのみ、本件要件該当性を否定することになる。

3、「日本で生まれた場合」という要件の意義

右について、通説・行政解釈・判例は、「日本で発見された棄児は反証のあるまで、日本で生まれた者と推定するとする推定規定のあるのと同様に解すべきものとしている」(有斐閣、法律学全集「国籍法」七三頁、甲第五号二九頁、大分家裁豊後高田支部昭和五〇年一月三一日就籍許可審判)。

その結果、実際には、右要件の意義を、

「日本で生まれたことが明確な場合」のほかに、

「日本で生まれたか否かが不明の場合」を含む

と解釈するのと同様の取り扱いをするのである。

逆に言うと、

「日本で生まれたのでないことが明確な場合」

にのみ、本件要件該当性を否定することになる。

4、二つの要件に見る取り扱いの共通性

以上のように、二つの要件は、いずれもその「要件該当性が明確な場合」のほかに「要件該当性が不明な場合」にもその該当性を肯定し、「要件非該当性が明確な場合」にのみ、その該当性を否定することが、確立した解釈となっている。

その理由が、①無国籍の防止という二条三号の立法趣旨と、②立証の困難性への配慮(この点は第四で詳述する)にあることは、通説・判例等がつとに述べているところである。

5、「父母がともに知れないとき」という要件の意義――一審判決の正当性

一審判決は、本件要件の意義について、次のように判示している。

「国籍法二条三号が、『父母がともに知れないとき』を国籍付与の要件としたのは、父母のいずれかが特定されかつ外国籍を有しているときは、一般的に子がその父または母の有する国籍を取得できる可能性が大きいことを根拠とするものであるから、右要件の判断にあたっては、子に国籍が付与されることが可能な程度に父母のいずれかが特定されているかどうかという観点から検討することを必要とするものというべきである。」(二二頁)

「なお、反証として父又は母が知れていることを立証するについては、単に父母のいずれかにつき、その身元を探索するための何らかの手掛かりがあることを示すだけでは足りず、父母のいずれかについて、子にその親の国籍取得を可能にする程度にこれを特定して示す必要があるものというべきである。」(二四頁)

つまり、「父母がともに知れないとき」とは、

「父母の身元を探索するための手掛かりが全くないとき」のみならず、

「父母の身元を探索するための何らかの手掛かりはあっても、子に国籍が付与されることが可能な程度には、父母のいずれもが特定されていないとき」を含む

というのである。

言い換えれば、一審判決は、本件要件の意義を、

「(手掛かりが全くないために)『知れないこと』が明確な場合」のほかに、

「(特定するには足りないが何らかの手掛かりはあって)『知れないこと』が明確でない場合(不明な場合)」も含むと解釈するのと同様に取り扱う結果となり、

逆に言うと、本件要件について、

「子に国籍が付与されることが可能な程度に、父母のいずれかが特定されている場合」

にのみ本件要件該当性を否定することになる。

このような解釈は、他の二つの要件について確立されている解釈と軌を一にするものであり、一審判決の解釈により、三つの要件の意義が統一的に解釈できることになる。

6、本件要件のあるべき意義

上告人は、一審以来(一審準備書面(三))一貫して、「父母ともに知れない」の意義は、国籍法二条三号の無国籍者防止の趣旨、一九八四年国籍法改正にあたっての検討経緯、なかんずくわが国が批准し、国内法的効力を有する国際人権規約(B規約)二四条に鑑み、「父母を特定するための情報や資料の不十分なことが原因となって、日本国籍が認められなければ子が無国籍となるおそれのある場合一般を指称するもの」と解すべきであると主張してきた。

上告人の主張は、言い換えると、

「父又は母を特定するための情報や資料が、一般に父又は母の国籍を取得するに足りるものであるとき」は、

「父又は母が知れている」と言えるが、

「父母を特定するための情報や資料が、一般に父母の国籍を取得するに足りないとき」は、

「父母がともに知れない」にあたるというものであり、

一審判決が(二二頁、争点1)、

「子に国籍が付与されることが可能な程度に父母のいずれかが特定されている場合」が、

「父又は母が知れている」ことであり、

「子に国籍が付与されることが可能な程度には、父母のいずれも特定されていない場合」が、

「父母ともに知れない」ことであると判示しているのと、全く同一の主張である(なお、一審判決が争点1で上告人の本件要件の意義に関する主張を排斥しているのは、誤解に基づくものであること、控訴審準備書面[二]で述べたとおりである。)。

そして、先に述べたとおり、本件要件の意義を一審判決のように解すること、すなわち上告人主張のように解することこそが、二条三号の統一的解釈を可能にし、その立法趣旨に最も適するものなのである。

7、三つの要件の統一的解釈から見た原判決の法令違背

(一) 原判決が争点1で示した本件要件の意義

原判決は、争点1(本件要件の意義)において、本件要件は、

「子を分娩した母及び事実上の父の存在が関係者に全く不明であり、かつ、その手掛かりさえも得られない場合」のほか、

「父母についての手掛かりが全くないわけではないが、その資料が不十分であり、その結果父及び母のいずれについても特定できない場合」を含む

と判示している。

言い換えれば、原判決は、本件要件の意義を、

「(手掛かりが全くないために)『知れないこと』が明確な場合」のほかに、

「(特定するには足りないが何らかの手掛かりはあって)『知れないこと』が明確でない場合(不明な場合)」も含むと解釈しているのと同様に取り扱う結果となり、

逆に言うと、

「父母のいずれかが特定できる場合」にのみ、本件要件該当性を否定することになる。

この結論は、一審判決と同じ結論、否むしろ、一審判決が、「子に国籍が付与されることが可能な程度の特定」という概念を用いているのに比較すると、このような「程度」を問題にしていない点で、一審判決より、要件該当性が否定される場合を限定して(逆に言うと、要件該当性が肯定される場合を広く)解釈しているようにすら見える。

従って、争点1に対する判示のみを取り上げれば、原判決の解釈は、他の二つの要件の場合との統一的解釈がなされていることになる。

(二) 原判決が争点3で認定した事実

ところが、同じ原判決が、争点3(本件要件の該当性)においては、

「ロゼテ本人と母親とは同一人である蓋然性が高く、被控訴人の母が知れないことについて証明されたものとはいい難い」と判示して、本件要件該当性を否定している。

『同一人である蓋然性が高い』というのは、かなりの程度に同一人である可能性があるという意味ではあるが、同時に『同一人である』という確たる認定はできないという意味も含まれており、『同一人と特定できる』という概念とは明らかに隔絶された概念である。

他方、(一)で述べたように、原判決は争点1において、本件要件の意義を、

「(手掛かりが全くないために)『知れないこと』が明確な場合」のほかに、

「(特定するには足りないが何らかの手掛かりはあって)『知れないこと』が明確でない場合(不明な場合)」も含むと解釈し、

逆に、

「父母のいずれかが特定できる場合」にのみ、本件要件該当性を否定することを示している。

該解釈に従えば、『蓋然性が高い』ということが『特定できる』とは明らかに隔絶された概念である以上、原判決が争点3で認定した事実が、

「父母のいずれかが特定できる場合」にあたらないことは明白であり、本件要件該当性を否定するのは誤りということになる。

逆に、いかに蓋然性が高かろうとも、『特定』に至らない限り、それは、

「(特定するには足りないが何らかの手掛かりはあって)『知れないこと』が明確でない場合(不明な場合)」の一場合にすぎず、

本件要件該当性が肯定されなければならないことになる。

原判決の争点3に対する判示は、自らの争点1に対する判示と矛盾する点において理由齟齬であると同時に、他の二つの要件について、通説・行政解釈・判例が①無国籍防止と②立証の困難性への配慮から積み上げてきた統一的解釈に真っ向から背く点において、法令の解釈適用を誤ったものであり、判決に影響を及ぼす法令違背にあたると言わなければならない。

第四、本件要件の立証責任(原判決の争点2について)

一、法令違背……立証責任分配法則適用の誤り

原判決は「自己が日本国籍を有することの確認を求める訴訟においては、自己に日本国籍があると主張する者が、国籍取得の根拠となる法規に規定された要件に自己が該当する事実を主張立証しなければならないものであ」るとし、「『知れない』ことの立証に困難が伴うことは別異に解すべき理由にはならない」と断じている(原判決二五頁)。

このような原判決の態度は、「初期のいわば古典的な法律要件分類説のように、法規の文言及び形式を重視して、概念法学的な手法で立証責任の分配を図ろうとする考え方」と評価されるが、それは今日の通説的見解や実務の大勢の採るところではない(司法研修所編「増補 民事訴訟における要件事実第一巻」一〇頁以下)。

右のような、立証責任の負担の面での公平・妥当性の確保、具体的には、「無国籍の防止」という法の目的や立証の難易などを全く考慮しない原判決は、本件において国籍法二条三号の立証責任分配の法則を誤って適用するという法令違背を犯したものである。

二、被控訴人が伊方原発訴訟上告審判決を引用した趣旨を誤解した原判決

原判決は、本件要件の立証責任についての簡単な判示の中には、比較的大きな部分を最高裁判決(平成四年一〇月二九日第一小法廷判決)においてされた判断を直ちに本件に適用することは相当でないという説明に割いている。

しかしながら、右判示は、原審における被控訴人準備書面(控訴審[一])の論旨を正解しないまま、見当違いの判断を示したものでしかない。

上告人(被控訴人)は、控訴理由の一つの大きな柱であった第一審判決の論理矛盾との控訴人の主張に対し、右準備書面第一において「一 原判決を論理矛盾とする控訴人の誤り」の標題のもと、第一審判決と右最高裁判決の論理構造を詳細に比較検討した上で、第一審判決が論理矛盾を犯しているとする控訴人の主張は理由がないと論じたものであり、そこでは、第一審判決に控訴人主張の「論理的な矛盾」があるか否かが争点であったのである。本件と右最高裁判決とが事案を異にすることは誰の目からも明らかな当然の事柄であり、(立証の難易等立証責任分配基準の参考としての意味や論理構造に矛盾があるか否かの判断のための比較検討とは別に)右最高裁判決においてされた判断を「直ちに」本件に適用することは相当でないという当然の事理を述べただけで、直ちに前記のような古典的、概念法学的な手法に立ち戻る原判決の判断には合理的な理由がない。

三、本件要件のあるべき立証責任の分配(立証責任分配の基準)

上告人は、右準備書面第一、二において、第一審判決の採った実質的立証責任転換の法理が行政訴訟における立証責任独自分配説によっても、また近時の法律要件分類説によっても、十分に正当化され、右立証責任転換の法理は、国籍法二条三号の各要件の立証責任の分配についての統一的・整合的理解に適合すると述べた。

すなわち、行政訴訟独自分配説にあっては、「元来民事実体法たる私法法規が、対立する私的当事者の利害調整の規定として、また民事裁判に対する裁判規範としての性格をもっている所に、従って利害調整の見地からの立証責任の合理的分配の原理をその中に含んで立法されている」のに対して、「行政実体法としての公法法規は、そのような特質をもたない。」それは「国家の行動を規律し行政機関に対する行為規範としての性格をもっている」から、立証責任の分配は、行政法規の定め方によってよりも、「当時者の公平、事案の性質、事物に関する立証の難易等によって」決すべきであると説かれてきた(雄川一郎「行政争訴訟」法律学全集、昭和三二・二一三頁以下)。

また、近時の法律要件分類説にあっても、「ある法律効果の発生要件が何か、法文にある一定の要件を権利(又は法律関係)の発生要件又は障害要件のいずれと理解すべきかというような要件の問題は、いずれも実体法規の解釈によって決められるべき事柄である。そして、この解釈は、立証責任の分配という視点に立ったものでなければならない。この意味での実体法規の解釈に当たっては、各実体法規の文言、形式を基礎として考えると同時に立証責任の負担の面での公平、妥当性の確保を常に考慮すべきである。具体的には、法の目的、類似又は関連する法規との体系的整合性、当該要件の一般性・特別性又は原則性・例外性及びその要件によって要証事実となるべきものの事実的態様とその立証の難易などが総合的に考慮されなければならないであろう。(中略)一般に法律要件分類説が現在の通説見解であるといわれているが、初期のいわば古典的な法律要件分類説のように、法規の文言及び形式を重視して、概念法学的な手法で立証責任の分配を図ろうとする考え方は、今日の通説的見解の採るところではない。実務の大勢もまた同様であるといえよう。」とされている(司法研修所編「増補民事訴訟における要件事実」第一巻一〇頁以下)。

さらに、「公平の理念から、立証の難易が一つの基準となる。たとえば、積極的事実、外的事実は証明しやすいが、消極的事実の証明はむつかしいのがふつうであるから、積極的事実については、これを有利に主張する側がその存在につき証明責任を負うべきであると一般的にいえるし、消極的事実はこれを争う側にその事実の存在の証明責任を負わせるのが公平といえる。さらに立証の難易ということの展開として、ある事実の立証に必要な証拠に近い(必要な証拠方法をより利用しやすい地位にある)当事者がその事実の証明責任を負うのが公平であるといえる。」という見解も、立証責任の分配基準(ないしその修正要素)という観点から、同様の見地に立つものと評価することができる(新堂幸司「現代法律学全集民事訴訟法」筑摩書房三五一頁)。

右いずれの見解にあっても、「当事者の公平、事案の性質、事物に関する立証の難易等によって決すべき」、「立証責任の負担の面での公平、妥当性の確保を常に考慮すべきである。具体的には、法の目的、類似又は関連する法規との体系的整合性、当該要件の一般性・特別性又は原則性・例外性及びその要件によって要証事実となるべきものの事実的態様とその立証の難易などが総合的に考慮されなければならない」、「公平の理念から立証の難易が一つの基準となる。(中略)消極的事実はこれを争う側にその事実の存在の証明責任を負わせるのが公平といえる。(中略)ある事実の立証に必要な証拠に近い(必要な証拠方法をより利用しやすい地位にある)当事者がその事実の証明責任を負うのが公平であるといえる。」と説かれているところであり、立証責任の分配にあたり、原判決のように「立証に困難が伴うことは別異に解すべき理由にはならない」とすることが正当でないことは明らかである。

そこで、上告人(被控訴人)は右各見解と同様の見地から、右準備書面第一、二において、「『無の証明』の困難性から、『あること』を主張するものに実質的に立証責任を負わせるのが公平」であり、「子と国では、調査能力の点で格段の差が認められる」(国は必要な証拠をより利用しやすい地位にある)こと等々の理由と「無国籍の防止」という国籍法二条三号の立証趣旨から、被上告人(控訴人)が「母が知れていること」の立証責任を実質的に負担するような立証責任の分配がなされることが右法の正当な解釈であると主張してきた。

その詳細を繰り返すことは避けるが、次に法二条三号の統一的解釈から見た立証責任について考えるなかで、本件における立証責任のあり方をさらに具体的に検討することにする。

四、国籍法二条三号の統一的解釈から見た立証責任

1、二条三号の三つの要件

二条三号に次の三つの要件が含まれていることは、前述した。

① 「日本で生まれた場合」

② 「父母がともに知れない」

③ 「父母がともに国籍を有しない」

そこで、これらを統一して見た場合に、本件の争点となっている「父母がともに知れない」の立証責任はどう解されるべきかを検討する。

2、「日本で生まれた場合」という要件の立証責任

自己に権利があると主張する者が、その権利取得の要件に自己が該当する事実を主張立証しなければならないという原則に従えば、「日本で生まれた場合」であることの立証責任は、自己に日本国籍があると主張する者(以下単に国籍主張者という)にあることになり、その者は、自己が日本国内で生まれたこと(厳密には、日本領土、領海および領空内ないし公海における日本船舶上および公空における日本航空機上のどこかで生まれたこと)を立証しなければならない。

後段の「父母がともに国籍を有しない」との組合せの場合には、父母が知れているから、日本のどこどこで生まれたと積極的に立証できることが多いであろう。

しかし、前段の「父母がともに知れない」との組合せの場合には、その典型例である棄児の場合を考えれば明らかなように、「日本で生まれた」ことそのものを立証することは非常に困難である。そこで、外国の多くの立法例は、その国で発見された子はその国で生まれたものと推定するというような推定規定を置いている(有斐閣、法律学全集「国籍法」七二頁)。

これに対して、わが国の国籍法は、このような推定規定を置いていないのであるが、通説は、「日本で発見された棄児は反証のあるまで、日本で生まれた者と推定するとする推定規定のあるのと同様に解すべきものとしている」(有斐閣、法律学全集「国籍法」七三頁)。

また、行政解釈も同様に解しており(甲第五号証二九頁)、大分家裁豊後高田支部昭和五〇年一月三一日就籍許可審判も次のように判示して同様に解している。

「『日本で生まれた場合』という要件については、積極的に日本で生まれたという証拠ないしは出生の場所を公証する戸籍の記載もしくはこれを裏付ける出生届、出産証明または目撃証言という直接証拠を欠いても、その者が現に日本領土内に居住しておって、外国々籍を有するとか、または日本以外の場所で生まれ、その後日本に移住若しくは連れてこられたものと認められる明らかな消極(反対)証拠がなく、かえって価値的に日本で出生したと評価し得られるような状況事実を具えるものについては、これを『日本で生まれた場合』と認定しても、前記のような立法趣旨を有する同条の合目的々解釈として許されるものといわなければならない。」

右のような学説・行政解釈・判例を、立証責任の問題に置き換えれば、

「日本で生まれた場合」であることの立証責任は、原則的には国籍主張者にあるが、国籍主張者において「日本で生まれた場合」であることを積極的に立証し得ない場合でも、「日本で出生したと評価し得られるような状況事実」(棄児の場合であれば「日本で発見されたこと」)を立証すれば、「日本で生まれた場合」であることが推定され、国側において「日本で生まれたのでないこと(外国で生まれたこと)」を立証しない限り、「日本で生まれた場合」であることが認定される。

ということになる。

3、「父母がともに国籍を有しない」という要件の立証責任

同じように、権利主張者が、権利取得の要件該当性を立証しなければならないという原則に従えば、「父母がともに国籍を有しない」ことの立証責任は、国籍主張者にあることになり、その者は「父母がともに国籍を有しない」ことを積極的に立証しなければならない。

父母が、過去に有していた国籍を本国法によって剥奪された場合のように、公文書等の直接証拠によって積極的に父母の無国籍を立証できる場合には問題がない。

しかし、そのような積極事実がない場合には、「国籍を有しない」ことの証明は、いわゆる「不存在の証明」であり消極事実の証明であるから、これを厳密に立証しようとすれば、現存する世界の全国家に関して、その内のどの国の国籍も有しないことを証明しない限り「国籍を有しない」ことの証明ができたことにならず、非常に困難でありむしろ不可能に近い。

そこで、現実には、「父母の国籍が不明な場合」が生じるのであるが、このような場合について、通説ならびに行政解釈は、「父母が無国籍である場合に準じて取り扱う」としている(有斐閣法律学全集「国籍法」七五頁、甲第五号証三〇頁、東京法務局長照会昭和四四年一〇月八日付戸甲第一〇四三号法務省民事局長回答昭和四四年一二月一〇日付民事甲第二六四四号)。

右の取り扱いを、立証責任の問題に置き換えれば、

「父母が国籍を有しない」ことの立証責任は、原則的には国籍主張者にあるが、国籍主張者において父母の無国籍を積極的に立証し得ない場合でも、「父母の国籍が不明」すなわち「国籍を有しているかいないかがわからない状況事実」を立証すれば、「父母が国籍を有しない」と推定され、国側において「父母が国籍を有していること」を立証しない限り、「父母が国籍を有しない」と認定される

ということになる。

4、二つの要件に見る立証責任の共通性

以上のように、「日本で生まれた場合」という要件も、「父母がともに国籍を有しない」という要件も、原則的には国籍主張者に立証責任があるとされつつも、実質的にはその立証責任が緩和され、実質的に国に立証責任が転換されている。

このような解釈・運用がなされている理由は、言うまでもなく、①無国籍の防止という同条の立法趣旨から合目的的に解釈しているからであり、②国籍主張者の立証の困難性に配慮しているからである。

5、「父母がともに知れない」という要件の立証責任――一審判決の正当性

本件訴訟以前に、該要件の立証責任について論じた学説・行政解釈・判例は見当たらない。

しかし、一審判決は、次のように判示している。

「自己が日本国籍を有することの確認を求める訴訟においては、自己に日本国籍があると主張する者が、国籍取得の根拠となる法規に設定された要件に自己が該当する事実を立証しなければならないものであり、国籍法二条三号の「父母がともに知れない」という要件についても、これと異なるところはないというべきである。しかしながら、人の身元がわからないことを証明することは困難であるから、右要件の立証については、その者の出生当時の状況などにより、そのような事情の下においては通常は父母をともに知ることができないであろうと考えられる程度に事実を立証すれば足り、そのような事実が立証されたときは、その相手方において、父又は母のいずれかの身元が判明していることを立証しない限り、右要件該当の事実につき証明があったものとして取り扱うのが相当である。」

これは、「通常は父母ともに知ることができないであろう状況事実」があれば、「父母がともに知れない」という要件の存在が事実上推定されるとの立場をとったものと考えられ、実質上「父母のいずれかが知れている」ことについて国側に立証責任を負担させたのと同様の結果となっている(ジュリスト一〇三〇号、一二八頁、一二九頁)。

すなわち、

「父母がともに知れない」ことの立証責任は、原則的には国籍主張者にあるが、国籍主張者において、「通常は父母ともに知ることができないであろう状況事実」を立証すれば、「父母がともに知れない」ことが推定され、国側において「父母のいずれかが知れていること」を立証しない限り、「父母がともに知れない」と認定される。

という意味である。

とすれば、一審判決の判示は、まさに、二条三号の他の二つの要件についての通説・判例・行政解釈と符合するものである。

もっとも、一審判決が本件要件の立証責任を右のように解した理由は、①無国籍の防止という立法趣旨と、②人の身元が分からないことの証明の困難性にあるのであるから、同様の理由で実質的な立証責任の転換が行われている他の二つの要件と符合する解釈をするのは当然といえば当然である。

しかも、立証困難な『消極事実』という点では、他の二つの要件においては、日本のある場所で生まれたと立証できる場合や父母がもともと有していた国籍を剥奪されて無国籍となった場合など、積極的にこれを立証できる場合もあり、法規に規定された要件そのものが『消極事実』とは言えないのに対し、「父母がともに知れない」という要件は、本来的に『消極事実』そのものを法規上の要件として規定しているものであるから、他の二つの要件にも増して、事実上の推定や実質的な立証責任の転換が必要であり、一審判決の法理はこの点を正当に解釈した結果であると言える。

6、国籍取得の効果の面から見た三つの要件の共通性

① 「日本で生まれた場合」という要件については、

Ⅰ、「日本で生まれたことが積極的に立証できる場合」はともかく、

Ⅱ、「日本で発見されたことによって、日本で生まれたと推定された場合」は、

後日「事実は日本国内で生まれたのでないことが判明した場合ときは、推定が覆されるから、(中略)出生の時に遡って日本国籍を取得しなかったことになる。」(甲第五号証、二九頁)と解されている。

② 「父母がともに知れない」という要件については、

親子関係が後にいたって判明し、子が外国人たる親の本国の国籍を取得する場合には、出生の時に遡って日本国籍を取得しなかったことになると解されている(有斐閣、法律学全集、「国籍法」七四頁)。

③ 「父母がともに国籍を有しない」という要件については、

Ⅰ、「父母が無国籍者である場合」には、

子は『確定的』に日本国籍を取得するが、

Ⅱ、「父母の国籍が不明な場合」には、

親の国籍が後にいたって判明し、子が外国人たる親の本国の国籍を取得する場合には、出生の時に遡って日本国籍を取得しなかったことになると解されている(有斐閣、法律学全集、「国籍法」七四頁)。

7、立証責任と国籍取得の効果の両面から見た三つの要件の統一的解釈

一般に二条三号の国籍取得の効果は、『不確定的』なもの(甲第六号、二三二頁)であり、『暫定的のもの』(甲第五号、二九頁)と言われている。

しかし厳密に見ると、その内、前記①のⅠと③のⅠの組み合わせの場合、すなわち

①のⅠ「日本で生まれたことが積極的に立証」でき、

かつ

③のⅠ「父母がともに国籍を有しない」ことが積極的に立証できる場合

については『確定的』に日本国籍を取得するのであるから、その効果が『不確定的』で『暫定的』なのは、これ以外の場合である。

さらにその内、

①のⅡ「日本で生まれた場合」であることを積極的に立証し得ない場合

③のⅡ「父母がともに国籍を有しない」ことを積極的に立証し得ない場合については、その立証責任の面で、事実上の推定により実質的に国側に立証責任を転換させることが確立した解釈となっており、その効果の面では、『不確定的』『暫定的』なものと解することも確立している。つまり、後に反証があって、事実上の推定が覆された場合に、その効果が出生の時に遡って否定されるわけである。

他方、

②「父母がともに知れないとき」という要件についても、その効果が『不確定的』『暫定的』なものであることは確立した解釈である。

とすれば、一審判決のように、「父母がともに知れない」ことを積極的に立証し得ない場合には、事実上の推定により実質的に国側に立証責任を転換させる解釈をしてはじめて、二条三号の三つの要件について、いずれも立証責任の面において事実上の推定をすると同時に、その効果の面では『不確定的』『暫定的』なものとするとの統一的解釈ができると言えることになる。

そもそも、典型例である「棄児」の場合であっても、父母、少なくとも母はどこかにいるのが通常であって、その父母がいつ現れるかも知れないし、父母の探索に多大な時間と労力をかければ、「父母が知れる」可能性が全くないわけではない。そういう意味では「棄児」の場合ですらも、「通常は父母をともに知ることができないであろうと考えられる状況事実」のある場合のひとつにすぎず、このような状況事実が認められて、「父母がともに知れない」ことが事実上推定され、『不確定的』『暫定的』に日本国籍を取得するものと解することもできるのである。

8、三つの要素の統一的解釈から見た原判決の法令違背

一審判決と異なり原判決は、あくまでも、「自己が日本国籍を有することの確認を求める訴訟においては、自己に日本国籍があると主張する者が、国籍取得の根拠となる法規に規定された要件に自己が該当する事実を主張立証しなければならないもの」であるとして、事実上の推定や実質的立証責任の転換を認めず、かえって「『知れないこと』の立証に困難が伴うことは別異に解すべき理由にはならない。」という(二五頁)。

しかし、「父母がともに知れない」という要件について原判決のように解するのであれば、同じ「国籍取得の根拠となる法規に規定された要件」である「日本で生まれた場合」という要件や「父母がともに国籍を有しない」という要件についても、あくまで国籍主張者に立証責任があり、事実上の推定や実質的立証責任の転換は一切認めないと解さなければ均衡を失する。

仮にそのように解すると、棄児が日本国籍を取得するためには、「日本で発見されたこと」を立証するのみでは足りず「日本で生まれたこと」自体を積極的に立証しなければならず、また、後段による国籍取得を主張する者は、「父母の国籍が不明であること」を立証するのみでは足りず「父母の無国籍」を積極的に立証しなければならないことになり、これまでに確立している二条三号の通説・判例・行政解釈に真っ向から背く結論になる。

しかも、このような解釈が、①無国籍防止という二条三号の立法趣旨を著しく損ない、②国籍主張者に困難な立証を強いることになり、その結果、二条三号に基づいて国籍を取得できる者の数を著しく狭めることになるのは明らかである。

結局、二条三号の三つの要件を統一的に解釈するためには、「父母がともに知れないとき」という要件の立証責任を一審判決のように解するのが正当なのであって、原判決には、同要件の立証責任に関する法令の解釈・適用の誤りがあり、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背があると断じざるを得ない。

第五ないし第七<省略>

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