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最高裁判所第二小法廷 平成6年(オ)43号 判決 1996年10月14日

東京都文京区本郷一丁目二〇番九号

上告人

有限会社協映

右代表者取締役

書間完

右訴訟代理人弁護士

和久井四郎

東京都杉並区高井戸西二丁目一番一八号

佃荘一〇五号

被上告人

森弘太

右訴訟代理人弁護士

岡邦俊

右当事者間の東京高等裁判所平成四年(ネ)第一四二一号損害賠償等請求事件について、同裁判所が平成五年九月九日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人和久井四郎の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大西勝也 裁判官 根岸重治 裁判官 河合伸一 裁判官 福田博)

(平成六年(オ)第四三号 上告人 有限会社協映)

上告代理人和久井四郎の上告理由

第一点 第二審判決は、「著作物」(著作権法第二条第一項一号)「録画」(同法同条同項一四号)、「映画の著作物」(同法同条第三項)・(同法第十条第一項七号)及び「映画の著作物の著作権の帰属」(同法第二十九条第一項)の各条項の解釈・適用を誤っており、且つ、理由に齟齬があり、結論において、上告人が保有するところの、第二審判決末尾記載の別紙フィルム目録に記載のフィルムに撮影収録された「映画の著作物」の「著作権」を否定する誤った判断をしており、破棄されるべきである。

一、第二審判決は、先ず、「本件フィルムに関する限り著作物と認めるに足りる映画は未だ存在しないものというべきである」と判示している。(第二審判決第一三葉第一五行目~一六行目)

一方、『それは単なる風景の描写とは異なるものと認められ、かつ前記のようなテーマを持った映画「歴史・文化編」に使用されることを意図したものであることを勘案すれば、本件フィルムに撮影収録された映像は、それ自体で創作性、したがって著作物性を備えたたものというべきである』と判示している。(第二審判決第一三葉第一八行目~二二行目)

そこで、第二審判決の前記判示の部分を検討して見ると、同一の対象を、前段では、「著作物と認めるに足りる映画は存在しない」、即ち、「映画の著作物」(著作権法第十條第一項七号)ではないと判示し、後段では、『映画「歴史・文化編」に使用されることを意図したもので・・・それ自体で創作性、したがって著作物性を備えたもの」、即ち、「・・・映画に使用されることを意図したもの・・・それ自体で創作性、したがって著作物性を備えたもの」、つまりは、「映画に使用されることを意図した・・・・著作物」と判示し、同一の対象を、一方では、「映画の著作物」ではないと判示し、他方では、「映画に使用されることを意図した・・・著作物」[上告人に言わせれば、これは正しく「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)ということである]と判示し、前後矛盾した判示をしている。正に、理由に齟齬がある。

二、そもそも、映画の製作会社(著作権法第二条第一項十号)(本件の場合上告人)が、或る映画を製作することを意図して、人員機材・資材・資金を投入・提供して、参加人(本件の場合被上告人を含め多数)の(本件の場合無条件で)参加約束を得て、撮影隊或はロケ隊を編成して、その撮影業務を開始すれば、それは、「映画の著作物の製作」(著作権法第十条第一項七号・第二十九条第一項)を開始したことであり、撮影されつつある映画は、即ち「製作されつつある映画の著作物」であって、その撮影されたフィルムの長さ・短さ、編集・未編集、音づけの有無、その映画の完成・未完成を問わず、たとえ、一日に撮影された部分が、ワンショット、ワンカットであっても、それは、「映画の著作物」を製作していることであり、撮影されつつあるものは、正しく、「映画の著作物」(論理的には固定されることを前提とするが)である。

念のために言うが、右の場合、勿論、単なる「写真の著作物」(著作権法第十条第一項八号)を製作しているのではない。

第二審判決の末尾の別紙フィルム目録記載の『映画「新みさわ風土記・歴史編」の製作のために撮影された未編集一六ミリカラーフィルム約一万フィートに収録された映像』は、「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)である。これは、正しく「映画の著作物」であって、これを「映画の著作物」でないとして、何を「映画の著作物」と言うのであろうか。

第二審判決は、この一点のみにても、誤った判断をしている。

三、第二審判決は、『控訴人が参加約束をした「歴史・文化編」については、映像を撮影収録した本件フィルムがNGフィルム選別シナリオに従った粗編集、細編集、音づけ等の映画製作過程を経ないまま未編集の状態で現在に及んでいることは 前記一(四)に認定したとおりであるから、結局本件フィルムに関する限り著作物と認めるに足りる映画は未だ存在しないものというべきである』と判示している。(第二審判決第一三葉第一一行目~一六行目)

右の判示の点は、後に、上告人が述べるように、第二審判決は被上告人の主張を、吟味・検討することなく、そのまま鵜呑みのような状態で採用している。

著作権法上「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)とは、単なる「録画」(著作権法第二条第一項一四号)ではないが「録画」であって、且つ、「著作物」(著作権法第二条第一項一号)に該当するものを言うのである。

更に、「映画の効果に類似する視覚的又は視聴覚的効果を生じさせる方法で表現され、かつ、物に固定されている著作物」(著作権法第二条第三項)を言うのである。

第二審判決は、「NGフィルムの選別」というが、著作権法上NGフィルムは選別を俟たず、NGフィルムそのものも「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)である。

右のことは、著作権法第二条第一項一号に言う、「文芸・学術・美術又は音楽等の著作物」について、推敲中の草稿にも、著作権が成立することが当然であることの論理と同一である。

本件のNGフィルムそのものも、単なる「録画」、単なる流し撮りのフィルムではなく、判示の言うように、「意図」をもって撮影された映画の一部、即ち、「映画の著作物」である。

粗編集とか細編集とか言うが、そのような過程を経れば、それは完成映画に近づく過程であり、それは製作された「映画の著作物」を、更に編集することを言っているに過ぎない。

又、音づけというが、無声映画も、そのままで「映画の著作物」であって、音づけをしないからと言って、「映画の著作物」とならない訳ではない。

未編集というが、映画の撮影と言うことは、又は、それを連続し継続していることは、撮影それ自身が編集行為をしていることであり、それが、ワンショット・ワンカットであっても、更に、その連続・継続は、「映画の著作物」を「製作」し「編集」していることでもある。

第二審判決は、前記のように、「映画製作過程を経ないまま未編集の状態」という説明をしているが、映画ということについてまことに意味不明瞭な判示であって、「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)の本旨を理解しない誤った判示である。

四、映画を撮影することを意図して、フィルムに映像を撮影する行為をすれば(論理的に固定されることを前提とするか)[「写真の著作物」(著作権法第十条第一項八号)を製作することであれば、それは別として]、それが「映画の著作物」を製作していることである。

「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)と言う概念は撮影されたフィルムの長さ・短さ、編集・未編集、音づけの有無映画の完成・未完成とか言う概念とは、全く別な、著作権法上の概念である。

第二審判決は、又、「本件フィルムに撮影収録された映像は、それ自体で創作性、したがって著作物性を備えたものというべきである」(第二審判決第一三葉第二一行目~二二行目)と判示しているが、「それ自体」とは何を言うのであろうか、「それ自体」と言う著作権法上の著作物は存在しない。「それ自体」は如何なる著作物に該当するのであろうか。

第二審判決は、「本件フィルムに撮影収録された映像著作物」(第二審判決第一四葉第二行目)とも言っているが、「映像著作物」とは如何なる著作物であるか、そのような漠然とした表現では、著作物が特定しない。

五、第二審判決は、前記前段で、「映画は未だ存在しない」と判示し、結局、「映画の著作物」であることを否定している。

しかしながら、『控訴人が参加約束をした「歴史・文化編」については映像を撮影収録した本件フィルム』(第二審判決第一三葉第一一行目~一三行目)・「それ自体」・本件訴訟の対象は、「著作物」(著作権法第二条第一項一号)、「録画」(同法同条同項一四号)、「映画の著作物」(同法同条第三項・同法第十条第一項七号)、「映画の著作物の著作権の帰属」(同法第二九条第一項)の用語と条文を、正確に且つ仔細に検討すれば、正しく「映画の著作物」に該当し、この点に於て、第二審判決は、前記各条文の解釈・適用を誤っており、且つ、理由に齟齬があり、そのことが右判決の結論を誤りに導いている。

上告人は、第二審判決の末尾記載のフィルム目録記載の撮影済みフィルムに収録された映像、即ち、本件「映画の著作物」の製作会社(著作権法第二条第一項十号)であり、被上告人は、上告人に対し、右「映画の著作物」の製作に、無条件で参加することを約束しているのであるから、本件「映画の著作物」の「著作権」は、上告人に帰属する。(著作権法第二九条第一項)

第二審判決は、右上告人の著作権を否定した誤った判決であり破棄されるべきである。

第二点、第二審判決は、「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)、「写真の著作物」(同法同条同項八号)及び「映画の著作物の著作権の帰属」(同法第二九条第一項)の解釈・適用を誤っており、且つ、理由不備であり、その結果、第二審判決の末尾記載の別紙フィルム目録記載のフィルムに撮影収録された「映画の著作物」ついて、上告人が有する「著作権」を否定する誤った判断をしており、破棄されるべきである。

一、第二審判決は、『映画「新みさわ風土記歴史編」の製作のために撮影された未編集一六ミリカラーフィルム約一万フィートに収録された映像』(第二審判決の末尾に記載のフィルム目録に記載)は、「NGフィルム選別、シナリオに従った粗編集、細編集、音づけ等の映画製作過程を経ないまま未編集の状態」(第二審判決第一三葉第一三行目~一四行目)であるから、「本件フィルムに関する限り著作物と認めるに足りる映画は未だ存在しない」(第二審判決第一三葉第一五行目~一六行目)と判示している。

要するに、「映像を撮影収録した本件フィルム」は、著作権法上「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)に該当しないと判示している。

一方、『本件フィルムが撮影収録した内容は・・・それは単なる風景の描写とは異なるものと認められ、・・・映画「歴史・文化編」に使用されることを意図したもので・・・それ自体で創作性、したがって著作物性を備えたもの』(第二審判決第一三葉第一七行目~二二行目)と判示している。

そして、特段の理由づけもなく、突然、右「著作物の著作権」が、被上告人に帰属すると判示している。(第二審判決第一四葉第二行目~三行目)

被上告人は、右著作者の一人ではあるが、他にも大勢の著作者が存在する。それらを差置いて、何故、被上告人が独り著作権者であり得るのであるか。まことに奇妙な論理である。第二審判決は、この点理由不備である。

上告人は、右の判示・説明は、「本件フィルムに撮影収録した映像の内容」は「映画の著作物」であることを説明しているものであることを信じて疑わないものであり、従って、著作権法第二九条第一項により、上告人は、被上告人の無条件の参加約束を得ている上で製作された右「映画の著作物」の「製作者」(著作権法第二条第一項十号)であるから、右「映画の著作物」の「著作権者」であることを信じて疑わないものであるが、第二審判決はこれを否定している。

二、それでは、右の「それ自体」とか「映像著作物」とかは、何を言うのであろうか。著作権法上、第二章の「第一節著作物」(第十条~一三条)の各条文に鑑み、「それ自体」とか「映像著作物とかと言う漠然とした著作物は存在しない。

上告人は、本件訴訟の対象は、そのフィルムの長さ・短さ、編集・未編集、音づけの有無、完成・未完成とか言う観念は別として、「著作物」(著作権法第二条第一項一号)、「録画」(同法第二条第一項一四号)、「視覚的又は視聴覚的効果を生じさせる方法で表現されている著作物」(同法第二条第三項)であって、それは「映画の著作物」(同法第十条第一項七号)と考えているものであるが、これに反し、第二審判決のように、「それ自体」は、「映画ではない」「映画の著作物」でないとすれば、本件のようにフィルムに撮影収録された映像については、著作権法上、他には、「写真の著作物」(同法第十条第一項八号)と考えざるを得ない。

そこで、右「それ自体」が「写真の著作物」であるとして、そのような著作物として判示しておるものとすれば、本件の場合、その訴訟の対象である『映画「新みさわ風土記・歴史編」の製作のために撮影された未編集一六ミリカラーフィルム』なるものは静的に固定された一コマ一コマの「写真の著作物」として分解しこれを、何拾コマ、何百コマ、何千コマ、何万コマの、それぞれ一個の「写真の著作物」に、個々別々に分解し、それぞれについて、「写真の著作物」として確定し特定し、「写真の著作物」としてその創作性を評価し、且つ、確定して行かねばならない。

第二審では、右の点について、「本件フィルムに撮影収録した映像の内容」について、一コマ・一コマの「写真の著作物」として、特定し、確定し、評価するための証拠調べをしていないし、現在、何ら特定し確定もしていない。

三、仮に、「本件フィルムに撮影収録された映像」が「写真の著作物」としても、その「著作者」は多数存在する。

先ず、プロデューサー(制作者)書間完、カメラマン加藤正義他にも共同著作者が多数存在し、それに加えて被上告人は、右著作者の一人に過ぎない。

更に、人的・物的関係者としては、本件「写真の著作物」の製作に際し、人員・機材・資材・資金を投入・提供した製作会社である上告人が存在する。

右に述べるとおり、本件「写真の著作物」は、「共同著作物」(著作権法第二条第一項一二号)であり、共同著作者が大勢存在するのであるから、右共同著作物の著作権は、「共有著作権」(著作権法第六五条第一項)であり、被上告人が単独で所有する単独の著作権ではない。

右「共有著作権」の行使も、被上告人が単独行使することは出来ないところである。(同法同条同項)

四、結局、第二審判決は、本件フィルムに撮影収録された映像について、仮に「写真の著作物」としても、何らこれを確定・特定するための証拠調べもしないで、しかも、何ら合理的な理由づけも無く、権利の特定しない空虚な、しかし、被上告人に単独の著作権を付与するような、間違った結論を導き出した違法な判決である。

第二審判決は、上告人の本件フィルムに撮影収録された「映画の著作物」の「著作権」を否定する誤った結論に導く違法な判決であり、破棄されるべきである。

第三点 第二審判決は、事実誤認の結果、理由に齟齬があり、理由不備であり、更に、釈明権不行使の義務違反があり、その結果、第二審判決末尾記載の別紙フィルム目録に記載のフィルムに撮影収録された「映画の著作物」について、上告人の「著作権」を否定した違法な判決であり、破棄されるべきである。

一、「乙第一号証業務委託契約書」の『(仮題)「青い海のまちみさわ」映画製作業務委託 特記仕様書』の第一条に記載の「青い海のまち みさわ」映画製作業務に関する第四条(目的)『・・・三沢市勢全般を映像記録として残すため・・・「市勢編」と「歴史・文化編」の映画製作を行うものである・・・』と記載されてあるところの、所謂、「市勢編」と「歴史・文化編」は、前記「青い海のまち みさわ」-完成映画「蒼い空と碧い海のまち-三沢市の軌跡」と言う一つの映画の一部と二部である。

被上告人(控訴人・原告)も、当初の訴状に於て、そのフィルム目録に、『映画「三沢市の軌跡」の製作に関連して撮影された末編集一六ミリカラーフィルム約一万二千フィート』、つまり、『映画「三沢市の軌跡」の製作に関連して・・・』と、完成納品(上告人註)したところの『映画「三沢市の軌跡」』との関連を容認して記述している。

被上告人自身も、第二審判決の末尾記載の本件訴訟の対象であるフィルム目録記載の撮影済フィルムに収録された映像は、上告人が三沢市に対し完成納品した映画「三沢市の軌跡」と一体のものと考えていたのである。それが正しいのである。

「市勢編」と「歴史・文化編」は、一本の映画の一部と二部であり、全体は、「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)であり、右完成映画と共に、本件訴訟の対象のフィルム(編集残りフィルム)に撮影収録された映像も、勿論「映画の著作物」であり、被上告人は、右「映画の著作物」の「製作者」(著作権法第二条第一項十号)である上告人に対し、右「映画の著作物」の製作に無条件で参加することを約束しているのであるから、右「映画の著作物」の「著作権」は、上告人に帰属するのである。(著作権法第二九条第一項)

この点については、第一審判決は、著作権法第二九条第一項を正しく解釈・適用して、次のように判示している。即ち、

「三沢市の市勢映画は、当初市勢編と歴史・文化編との二編からなる予定であったところ、その後、三沢市の注文により、市勢編のために撮影されたフィルムを中心として、これに歴史・文化編のために撮影されたフィルムの一部を加えて、右両編を区別しない形の本件映画として完成されたものであって、当初の歴史・文化編のために撮影されたフィルムである本件フィルムは、完成作品である本件映画と別個のものではなく、すべて本件映画のために撮影されたものというべきであって、著作権法二九条一項の映画の著作物に当たるといわなければならない。」

(第一審判決第八葉第一四行目~二一行目参照)

第一審判決は、右のように明快に判示し、この点、正鵠を得ている次第である。

二、このことを、常識的に分かり易く説明すると、次のとおりである。

或るまちを描写する映画を製作する場合、普通、そのまちの成り立ちと現況を映画に作る。成り立ちはそのまちの歴史であり、現況は現在の姿である。歴史と現在の姿、経と緯とを作って、そのまちの内容を分かり易く描写することは、ごく当前の遣り方であって、成り立ちの部分と現況の部分は、第二審判決の言うように、別々である、全く別個の映画であると強調する必要があるのであろうか。それは或るまちを描写する一つの映画の一部と二部である。

また、例えば、或る人物を描写する映画を製作する場合、その人物の生い立ちと現在の活躍する姿を映画に製作する。生い立ちはその人物の歴史であり、現在の活躍する姿は現況である。

このように、経と緯を作って、或る人物を分かり易く描写することは、当前の遣り方である。生い立ちの部分と現在の活躍の部分とは、全く別々である、別個の映画であると強調することは全く意味がない。それは、その人物を描写する一つの映画の一部と二部であるに過ぎない。

右の映画を観覧する一般の者は、右の映画は一の映画であってその内容が、一部と二部に別れている映画を観覧すると思っているに過ぎない。まさか二本立ての別個の映画を観覧するのであると思う者は居らない筈である。

三、第二審判決は、「市勢編」と「歴史・文化編」について、次のように判示している。

先ず、「テーマ、時代区分、撮影対象を異にしており・・・別途に見積書が提出されている」(第二審判決第一一葉第一三行目~一五行目)

「別個独立の映画として企画されたものと認めるのが相当である」(第二審判決第一一葉第二〇行目~二一行目)

『「歴史・文化編」については・・・遺跡の発掘が地権者の反対でできなくなったため、当初の予定の五割程度の撮影しかできなかった』(第八葉第二一行目~第九葉第二行目)(上告人註・五割も撮影が出来ている)

『「歴史・文化偏」は、映画として製作されないことが確定した』(第二審判決第九葉第一六行目~一七行目)

右のように、判示している。

第二審判決は、テーマ ・時代区分・撮影対象が別であるとか見積書が別であるとか、特に強調しているが、それは大したことではない。

特に、テーマ、時代区分、撮影対象が別であることは、当前のことであって、一方は三沢市の現況を、他方は三沢市の歴史を、描写することを目的としているのであるから、そもそも、同じである筈がなく、むしろ、同じであったら全くおかしなことである。

又、見積書が別であることも、一方は現況を、他方は歴史を、それぞれ描写撮影するのであるから、二つに区分して計算する方が、積算を容易に出来るからである。

上告人は、「市勢編」と「歴史・文化編」が別の映画であることを否定している訳ではないが、それは一つの映画の内の一部と二部であると言っているのである。

上告人は、第二審判決の言うように、殊更、右は全く別の映画全く「別個独立の映画」(第二審判決第一一葉第二〇行目)とは考えていない。考えるべきでもない。そのように考えることは、常識的に見てもおかしな考え方である。

第二審判決は、又、前記のように『「歴史・文化編」は、映画として製作されないことが確定した』と判示しているが、それは「遺跡の発掘が地権者の反対でできなくなったため」であり、且つ、映画完成の約定期限の時間的制約があり、委託者三沢市と受託者上告人(本件映画製作会社)との話し合いの結果、撮影は、その限度までとの合意により、右の確定がなされたのである。

(甲第七号証昭和六十年三沢市議会第二回定例会会議録第二-三七頁下欄~三八頁上欄及び第二-四三頁上欄の教育長の答弁並びに第一審平成三年四月一二日・被告代表者書間完本人調書第五〇~五三項参照)

四、「市勢編」と「歴史・文化編」は「青い海のまち みさわ」と言う映画の一部と二部であり、委託者三沢市と受託者上告人との合意により、これを総合して一本の映画に完成する際、被上告人もこれを認容しているように、(第一審・平成三年一月一八日・原告森弘太本人調書第一四六項~一五三項参照)、右一部と二部は、総合編集の対象となり、たとえ、何れかの部分の採用画面が短くとも、或は、長くとも、結局、右総合編集の対象となったものであるから、その際、編集採用されなかった残余の部分、即ち編集残り部分も、完成映画と共に、「著作権」の対象となり、被上告人は、無条件で右「映画の著作物の製作」に参加することを右「映画の著作物の製作者」(著作権法第二条第一項十号)である上告人に対し約束しているのであるから、著作権法第二九条第一項により、右「映画の著作物の著作権」は上告人に帰属するのである。

右法条には、右「著作物」に、短いとか・長いとか、編集・未編集とか、音づけの有無とか、完成・未完成とか、その他の限定事項が付されていないことからも明らかである。

この点については、第一審判決は、著作権法第二九条第一項を正しく解釈・適用して、次のとおり判示している。即ち、

『当初予定されていた市勢編と歴史・文化編とがまとめられて本件映画として完成したものであり、歴史・文化編が未完成の状態にあるものではないことは、前記のとおりであるし、また、著作権法二九条一項は、「その著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは」、当該映画についての著作権は、著作者に原始的に発生すると同時に、何らの行為又は処分を必要とすることなく、当然に映画製作者に移転する趣旨と解されるから、(上告人註、この点、上告人は、著作権は、直接、映画製作者に、原始的に発生するものと考える)著作者が映画製作者に対し当該映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、当該映画の製作のために撮影されたフィルムの著作物は、映画製作のいかなる段階にあるか、当該映画のいかなる部分であるかを問わず、映画製作者に帰属するものであって、この意味において、映画製作のための未編集フィルムであっても、映画完成後の編集残フィルムであっても、同条項にいう「映画の著作物」に当たるというべきである。』

(第一審判決第九葉第五行目~一七行目参照)

第一審判決は、右のように明快に判決し、著作権法第二九条第一項を正しく解釈し適用している。

しかるに、第二審判決は、「歴史・文化編」は、別個の映画であり、五割方撮影されたが完成されなかった、したがって、「著作物と認めるるに足りる映画は未だ存在しない」と判示している。(第二審判決第一三葉第一五行目~一六行目)

第二審判決は、「著作物」(著作権法第二条第一項一号)「映画の著作物」(著作権法第十条第一項七号)と言う著作権法上の用語を正解していない。

第二審判決は、「市勢編」と「歴史・文化編」の映画は、別個独立した、全く別々の映画であると殊更強調しながら、「市勢編」は、それを主体として、「蒼い空と碧い海のまち-三沢市の軌跡」が映画として完成しているから、映画であるとし、他方、「歴史文化編」は五割方撮影済であるにもかかわらず、「著作物と認めるに足りる映画」ではないから、要するに映画ではないと判示し上告人は、右「歴史・文化編」に関しても、右「映画の著作物」の「製作者」であり、被上告人は、右「映画の著作物の製作」に無条件で参加することを約束しているにも拘らず、上告人の右「映画の著作物の著作権」を否定している。(著作権法第二九条第一項参照)

右第二審判決は、上告人の正しい主張に対し、これをはぐらかした誤った論法である。理由に齟齬があり、理由不備である。

五、第二審判決は、「本件フィルムに撮影収録された映像は、それ自体で創作性、したがって著作物性を備えたもの」(第二審判決第一三葉第二一行目~二二行目)であると判示しているが、一体「それ自体」とは、著作権法上如何なる著作物であるかを、十分に検討することもなく、又、「著作者」が誰であるか、それは一人であるか、二人であるか、又はそれ以上であるか等の点を検討することもなく、更に、確たる理由づけもなく、突然、右「映像著作物」の「著作権」が上告人に帰属すると判示している.(第二審判決第一四葉第二行目~三行目)

右「映像著作物」とは、著作権法上如何なる著作物であるか、第二審判決はこのような漠然とした用語を使用して、その著作物を特定していない。

更に、第二審判決の判示のように、映画でない、「映画の著作物」でないもの、「それ自体」、著作権法上何だか分からない「それ自体」が、突然「映像著作物」となり、又、突然、被上告人が右「著作権者」となり、甚だ短絡的にして奇矯な立論となり上告人は、これを理解するに苦しむ次第である。この点、第二審判決は、理由不備である。

一体、「それ自体」は、著作権法上如何なる著作物なのであるか。又、何故「それ自体」の「著作者」は、独り上告人のみであるか。本件の場合、「著作者」は、制作者(プロデューサー)書間完、カメラマン加藤正義、その他著作関係者は多数存在する。

更に、人的・物的関係者としては、人員・機材・資材・資金を投入・提供した本件「映画の著作物」の製作会社である上告人も存在する。(「映画の著作物の著作者」著作権法第一六条)

何故「それ自体」の「著作権」は、独り被上告人のみに帰属するのであろうか。

本件の場合、右の多数の「著作者」は「共同著作者」であり、右「それ自体」なる「映画の著作物」(上告人の主張)は、「共同著作物」(著作権法第二条第一項一二号)であり、仮に、著作権法第二九条の条項が無いものとすれば、その「著作権」は、「共有著作権」(著作権法第六五条第一・二項)であり、その権利の行使は、共有者全員の合意によるのである。

第二審判決は、右の点について釈明権不行使であり、その義務違反は、結局、本件誤った判決を招くこととなり、違法である.

六、第二審判決は、右に述べたとおり、事実誤認の上に、釈明権不行使の義務違反があり、理由に齟齬があり、理由不備であり、その結果、「第二審判決末尾に記載の別紙フィルム目録に記載のフィルムに撮影収録された映像」(上告人註・これは「映画の著作物」である-著作権法第十条第一項七号)の「著作権」は、著作権法第二九条第一項により、上告人に帰属するのであるのに、これを否定した違法な判決であり、破棄されるべきである.

「付言」

なお付言すれば、本件映画(映画の著作物)は、製作中から事件に巻き込まれ、出来上がってからも事件に巻き込まれ、更に、本件映画(映画の著作物)の発注者で、且つ、本件映画(映画の著作物)の画面に、映像として登場する前市長には、その刑責を問われる事件が発生し、それらのことにより、以来、現在、三沢市当局も、三沢市民も、本件映画に思いを致すことを、極力、拒否しているような事情にあると思料される次第である。

以上

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