大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和62年(オ)888号 判決 1991年11月19日

上告人

株式会社富士銀行

右代表者代表取締役

端田泰三

右訴訟代理人弁護士

佐治良三

建守徹

藤井成俊

被上告人

水野一明

右訴訟代理人弁護士

中村正典

主文

一  原判決中、予備的請求に関する上告人の敗訴部分を破棄し、右部分に関する第一審判決を取り消す。

二  被上告人は上告人に対して、一〇〇〇万円及びこれに対する昭和五九年五月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  上告人のその余の上告を棄却する。

四  訴訟の総費用は、被上告人の負担とする。

理由

一上告代理人佐治良三の上告理由第一点について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当して是認することができ、その過程に所論の違法はない。所論引用の判例は、事案を異にし本件に適切でない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

二同第二点について

1  原審は、(一) 被上告人は、上告人との間で普通預金契約を締結していたが、昭和五九年二月二一日、被裏書人として所持していた額面一七〇〇万円の本件約束手形に取立委任裏書をしてこれを上告人に交付し、その取立てを委任するとともに、本件約束手形が支払われたときは、その金額相当額を被上告人の右普通預金の口座に寄託する旨を約した、(二) 本件約束手形は不渡りとなったが、上告人は、確認手続における過誤により、本件約束手形が決済されて右普通預金口座に本件約束手形金相当額の入金があったものと誤解し、被上告人の普通預金払戻請求に応じて、同月二七日午後一時五〇分ころ一七〇〇万円を支払った、(三) 上告人は、同日午後二時五〇分ころ右過誤に気付き、同日午後四時三〇分ころ被上告人に対し、右事実を告げて払戻金の返還を請求した、(四) 本件約束手形に順次裏書をした訴外井上路生、同石川兼雄らと被上告人とは、当時、経済的に密接な一体の関係にあった、(五) 井上が営んでいた事業は同年一〇月ころ倒産し、そのころ同人は所在不明となった、との事実を適法に確定した。

2  原審は、右事実関係の下において、(一) 上告人の被上告人に対する払戻しは法律上の原因を欠くものであり、被上告人は上告人の損失によって利益を得た、(二) 被上告人は、本件払戻しを受けた時においては、これが法律上の原因を欠くことを知らなかった、(三) 被上告人は井上から本件約束手形の取立てを依頼されてその裏書を受けたものであって本件払戻金は被上告人が受領後直ちに井上に交付した、との被上告人の主張事実は、これを認めることができず、仮に右払戻金が受領後直ちに井上に交付されたとしても、金銭の利得による利益は現存することが推定されるのであって、経済的に密接な一体者間の内部的授受によっては、いまだ授与者の価値支配は失われないとみるべきであるから、井上への金銭交付をもって利益が現存しないものということはできない、(四) 右によれば、利益が現存しないとの被上告人の主張事実は認められないから被上告人に対して払戻しを受けたと同額の一七〇〇万円の返還を命ずべきところ、現存利益の範囲は不当利得制度における公平の理念に照らして物理的な利益のほか、当該不当利得関係発生の態様、受益の不当性及び原因欠缺に対する注意義務の懈怠等について、利得者及び損失者双方の関与の大小・責任の度合い等の事情をかれこれ勘案考量し、具体的公平を図るべきものであり、これを本件についてみるのに、本件紛争の端緒は本件手形の決済の確認に際して上告人が誤って処理済みであるとしたことにあり、これは大手都市銀行としてはまことに杜撰な措置であったというべきものであるから、本件払戻し前後の経緯においては被上告人側に多分に不審又は不誠実な言動が見られるものの、これらの事情をかれこれ比較考量すると、被上告人が上告人に返還すべき現存利益は、前記一七〇〇万円の約四割に当たる七〇〇万円と認定するのが相当であり、これを越える一〇〇〇万円及びこれに対する遅延損害金の支払を求める上告人の請求は失当である、と判断した。

3  しかし、原審の右判断は是認することができない。その理由は次のとおりである。

すなわち、前記事実関係によれば、本件約束手形は不渡りとなりその取立金相当額の普通預金口座への寄託はなかったのであるから、右取立金に相当する金額の払戻しを受けたことにより、被上告人は上告人の損失において法律上の原因なしに同額の利得をしたものである。そして、金銭の交付によって生じた不当利得につきその利益が存しないことについては、不当利得返還請求権の消滅を主張する者において主張・立証すべきところ、本件においては、被上告人が利得した本件払戻金を井上に交付したとの事実は認めることができず、他に被上告人が利得した利益を喪失した旨の事実の主張はないのである。そうすると、右利益は被上告人に現に帰属していることになるのであるから、原審の認定した諸事情を考慮しても、被上告人が現に保持する利益の返還義務を軽減する理由はないと解すべきである。

なお、原審が仮定的に判断するように、被上告人が本件払戻金を直ちに井上に交付し、当該金銭を喪失したとの被上告人の主張事実が真実である場合においても、このことによって被上告人が利得した利益の全部又は一部を失ったということはできない。すなわち、善意で不当利得をした者の返還義務の範囲が利益の存する限度に減縮されるのは、利得に法律上の原因があると信じて利益を失った者に不当利得がなかった場合以上の不利益を与えるべきでないとする趣旨に出たものであるから、利得者が利得に法律上の原因がないことを認識した後の利益の消滅は、返還義務の範囲を減少させる理由とはならないと解すべきところ、本件においては、被上告人は本件払戻しの約三時間後に上告人から払戻金の返還請求を受け右払戻しに法律上の原因がないことを認識したのであるから、この時点での利益の存否を検討すべきこととなる。ところで、被上告人の主張によれば、井上に対する本件払戻金の交付は本件約束手形の取立委任を原因とするものであったというのであるから、本件約束手形の不渡りという事実によって、被上告人は井上に対して交付金相当額の不当利得返還請求債権を取得し、被上告人は右債権の価値に相当する利益を有していることになる。そして、債権の価値は債務者の資力等に左右されるものであるが、特段の事情のない限り、その額面金額に相当する価値を有するものと推定すべきところ、本件においては、井上に対する本件払戻金の交付の時に右特段の事情があったとの事実、さらに、被上告人が本件払戻しに法律上の原因がないことを認識するまでの約三時間の間に井上が受領した金銭を喪失し、又は右金銭返還債務を履行するに足る資力を失った等の事実の主張はない。したがって、被上告人は本件利得に法律上の原因がないことを知った時になお本件払戻金と同額の利益を有していたというべきである。

そうすると、前記事実関係の下において、被上告人の利得した一七〇〇万円のうち一〇〇〇万円について、同金額及びこれに対する遅延損害金の支払請求を棄却した原審の判断には、民法七〇三条の解釈適用を誤った違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。したがって、論旨はこの趣旨をいうものとして理由があり、原判決中上告人の敗訴部分は破棄を免れない。そして、前記説示に照らせば、右部分の請求を棄却した第一審判決を取り消し、一〇〇〇万円及びこれに対する履行の請求を受けた日の後である昭和五九年五月一二日から支払済みまでの年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分についても上告人の請求を認容すべきものである。

三よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、三八四条、九六条、八九条に従い裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤庄市郎 裁判官坂上壽夫 裁判官貞家克己 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄)

上告代理人佐治良三の上告理由

第一点<省略>

第二点 原判決には、当事者の申し立てない事項について判決し、又は判決に影響を及ぼすことが明らかな釈明権行使義務違反及び法令の解釈を誤った違法がある。

一 原判決は、「利益現存せず」との被上告人の抗弁事実(以下、右抗弁を「抗弁1」という。)は認められない、としながら(原審の右認定・判断は、もとより正当である。)、

「本件弁論の全趣旨によれば、被控訴人の主張中には、「みずから手形は決済ずみとして手形相当金を支払いながら、右金員の返還を求める控訴人の請求には背理がある。」との主張を包含するとみられるので、以下この点について検討する。

およそ不当利得制度は、利得者の財産的利得が法律上の原因を欠く場合に法律が公平の理念に基づいて、利得者に対しその利得の返還義務を負わせるものであるところ、善意の利得者については、その返還は「利益の存する限度」に限られていることは叙上のとおりであるが、右現存利益の範囲を決定するについては、単に物理的なそれのみならず、右制度の主旨たる公平の理念に照らしてもこれを決するのが相当である。しかるときは、物理的なもののほか、当該不当利得関係発生の態様、受益の不当性及び原因欠缺に対する注意義務の解怠等について利得者及び損失者双方の関与の大小・責任の度合い等の事情をかれこれ勘案考量し、もって具体的公平を図るべきことが前記不当利得制度の主旨に合することであり、また信義則上もかく解するのが相当である。」

と説示したうえで、本件においては、被上告人が上告人に返還すべき現存利益は金七〇〇万円と認めるのが相当であると述べ、上告人の予備的請求を右の限度で認容した。

二 ところで、原判決の右説示は、不当利得の趣旨である公平の理念に照らすことにより、現存利益そのものが金七〇〇万円の限度においてしか認められない、とするものではなく(けだし、このように解した場合には、原判決が一方において被上告人の抗弁1を全面的に排斥していることと矛盾するからである)、現存利益そのものは金一、七〇〇万円であるが、そのうち被上告人において返還義務を負う金額は、公平の理念により金七〇〇万円に減額される、とするものである。

そうであるとすれば、原審が採用した「公平の理念による要返還現存利益の縮限」という主張(以下これを「抗弁2」という)が、単に現存利益の不存在を主張する抗弁1とは、別個の防禦方法に属することは明白であり、それだからこそ原判決も、弁論の全趣旨によれば、被上告人の主張のなかには、「みずから手形は決済ずみとして手形相当金を支払いながら、右金員の返還を求める控訴人の請求には背理がある。」との主張を包含するとみられる旨、わざわざ説示したものと解される。

三 ところが、原判決の事実摘示及び被上告人が原審において提出した準備書面その他一件記録によるも、被上告人の主張のなかに、原判決が説示しているように解し得る部分がある、とすることは到底不可能である。すなわち、被上告人は防禦方法として抗弁1(現存利益の不存在)を主張したのみであって、抗弁2(公平の理念による要返還現存利益の縮限)を主張しなかったものというべきであるから、原判決が、あたかも被上告人が抗弁2を主張したものの如く理解したうえで、右抗弁2を採用し、公平の理念により被上告人が返還を要する現存利益は金七〇〇万円と認めるのが相当であるとしたのは、明らかに当事者の申し立てない事項について判決したものである。

四 その上、仮に原審が被上告人の主張のなかに抗弁2が含まれているものと解した場合には、被上告人の主張を右のように解することには相当無理が存するのであるから、釈明権を行使して、被上告人において抗弁2を主張することを明確にさせたうえで、上告人に対し、これに反論する機会を与えるべきである。

現実にも、上告人は、被上告人が抗弁2を主張しているものとは夢想だにしなかったため、抗弁2に対する反論を全くなさないままの状態で原判決の言い渡しがあったのであるから、上告人は文字どおり不意打ちを受けたものであり、原判決には釈明権行使義務違反の違法があるものといわざるを得ない。

五 さらに、公平の理念による要返還現存利益の縮限を肯定する法解釈は、支持さるべきものであろうか。これを否定するのが正当であり、その理由は、次のとおりである。

確かに、不当利得は、均衡的正義の実現を目的とするものであり、その理念を公平に求めることは、正当というべきであろう。しかしながら、不当利得が「何人も法律上の原因なくして他人の損失において利得してはならない」という具体的な制度として確立されている以上、不当利得の成立要件及びその効果等は、まず第一に実定法の解釈によって決定さるべきものであり、「公平の理念」の名のもとに、実定法を無視してその成立要件や効果を論じることは、許されないところである(四宮和夫「事務管理・不当利得・不法行為(上巻)」五〇頁は不当利得の成立要件につき同旨のものと解される)。換言すれば、わが民法は、善意の受益者には、損失者の損失額を限度として現存利益の全部を損失者に返還させ、悪意の受益者には、その受けた利益の全部及びこれに対する利息を返還させ、なお損失者に損害あるときはその賠償の責に任じさせることが公平の理念に合致するものと解しているのであるから、原審のように重ねて公平の理念を援用することにより、善意の受益者の要返還範囲を現存利益の一部に縮限することは、明らかに誤りである、というべきである。このことは、右のような見解に従う限り、不当利得の効果が現物返還を原則としていることと矛盾するうえ、受益者が他人(損失者)の損失において法律上の原因なき利益を終局的に保有することを容認することとなり、かえって公平の理念に反する結果となることに想起すれば、容易に理解できるところである。

したがって、原判決が金一、七〇〇万円の利益の現存を肯定しながら、公平の理念により、被上告人の返還を要する現存利益はそのうち金七〇〇万円と認めるのが相当である、と解したのは、善意の受益者の返還義務の範囲を定めた民法七〇三条の解釈を誤ったものというべきである。

原審は、高松高判昭和三七年六月二一日(高民集一五巻四号二九六頁)を先例として、右のような解釈をなしたものかもしれない。しかしながら、右判決は、受益者が利得を得るために第三者に交付した対価は、現存利益の確定上、これを控除することを相当としたもの、すなわち、現存利益それ自体の範囲に係る裁判例であって、原審が問題とした、現存利益のうち受益者の返還を要するものの範囲に係るものではないから、右判決は本件と事案を異にするものであって、本件に適切なものではない。したがって、原審が仮に右判決を先例として念頭に置いていたとすれば、右は全く前記判決を正解しないものである。なお、右判決の説示するところは、必ずしも確定的な裁判例となっているわけではなく、これと反対の見解(不控除説)を採用している裁判例(大判昭和一二年七月三日民集一六巻一六号一〇八九頁)も存在することを付言する。

六 そのうえ、仮に一般論としては、原判決が述べているように、善意の利得者の返還義務の範囲を公平の理念により現存利益の一部に縮限することができるものとしても、前述したように、不当利得の効果が現物返還を原則としていることと矛盾すること、及び受益者に法律上の原因なき利益の終局的保有を容認する結果となることからみて、現実に右縮限が許容されるのは、不当利得の発生が損失者の重大な過失のみに起因するとともに、受益者はこれと全く無関係である、というような特殊な事例に限定さるべきものである。

ところが、本件においては、原審の確定したところによれば、本件不当利得の発生につき、上告人内部の事務処理に杜撰な点があったことがその一因となっているとしても、上告人が右のように事務処理を誤ったことの原因が、被上告人が当日二回にわたって電話照会をなしたうえ、午後一時四〇分頃には、上告人名古屋支店に出向き、払戻可能時刻である午後二時までに二〇分もあることを知りながら、「取立済との連絡を受けたから」と事実に反することまで申し向けて、上告人に払戻の請求をした、という被上告人の言動にあることは、極めて明らかである。したがって、本件不当利得は、もっぱら上告人の過失のみによって生じたものではなく、その発生責任の一端は前述した被上告人の不可能な言動に存するのであり、しかも、本件不当利得発生の発端となったものは、被上告人の右言動であることが明らかであるというべきである。

そうであるとすれば、本件不当利得につき、受益者である被上告人の返還を要する現存利益の範囲を公平の理念によって約四割に縮限することは、明らかに誤りであるというほかはなく、原判決はやはり法令の解釈を誤ったものというべきである。

七 上来詳述したように、原判決が公平の理念を援用して被上告人の返還を要する現存利益の範囲を縮限したことは、当事者の申し立てない事項について判決した違法を犯すものか、又は判決に影響を及ぼすことが明らかな釈明権行使義務違反及び法令の解釈を誤った違法を犯すものであるから、原判決は、この点においても破棄を免れ難いものである。

別紙<省略>

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