大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和57年(オ)219号 判決 1984年10月09日

上告人

井上誠之助

上告人

富田通明

上告人

井上光紀

上告人

井上昭弘

右四名訴訟代理人

神矢三郎

被上告人

大杖恭司

右補助参加人

興亜火災海上保険株式会社

右代表者

前谷重夫

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人神矢三郎の上告理由一について

公務員であつた者が支給を受ける普通恩給は、当該恩給権者に対して損失補償ないし生活保障を与えることを目的とするものであるとともに、その者の収入に生計を依存している家族に対する関係においても、同一の機能を営むものと認められるから(最高裁昭和三八年(オ)第九八七号同四一年四月七日第一小法廷判決・民集二〇巻四号四九九頁参照)、他人の不法行為により死亡した者の得べかりし普通恩給は、その逸失利益として相続人が相続によりこれを取得するものと解するのが相当である。したがつて、原審が、右と異なる見解のもとに、上告人ら主張の恩給受給権喪失による損害を認めなかつた点には、法令の解釈適用を誤つた違法があるというべきである。しかしながら、原審は、亡井上操の逸失利益を算定するにあたり、生活費の控除につき、同人が恩給受給権を有していたものであり、右恩給を受けた場合にこれを生活費にあてることが予測しうることを考えると、控除すべき生活費は、必要経費控除後の収入額の二割程度であるとみるのが相当であると判断しているのであるから、恩給受給権喪失による損害は生活費の控除の割合を算定するにあたつて斟酌し尽くされているものとみることができ、それゆえ、原審の前記違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるとは認められないものというべきである。論旨は、採用することができない。

同二について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいて、本件事故による慰藉料額が、亡井上操につき七〇〇万円、上告人井上誠之助、同井上昭弘につき各二〇〇万円をもつて相当であるとした原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、九八条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(安岡滿彦 伊藤正巳 木戸口久治 長島敦)

上告代理人神矢三郎の上告理由

一、原判決は恩給受給権の逸失利益性および相続性に関し、最高裁判所昭和四一年四月七日第一小法廷判決に違反し、法令の解釈適用を誤まつた違法がある。

原判決が引用する第一審判決理由は「……不法行為に基づく損害の一種としての逸失利益とは、被害者の稼働能力が毀損されたため、もしもそのような事態が発生しなかつたならば本人において本来取得しうべかりし収益を喪失したことによる損害をいうもの(東京高裁昭和四八年七月二三日判決、判例時報七一八号五五頁以下参照)と解するのが相当であるところ……恩給受給権は本人の稼働能力の毀損とは直接的なむすびつきはないものとして、右の逸失利益にあたらないというべきである。また、仮に前記逸失利益を、侵害がなかつたならば、被害者が得たであろう所得の喪失とみ、或いは、右恩給受給権が従前の稼働上の地位と無関係ではなく、さらに給与の後払い的性格を有するものとしてその逸失利益性を肯定するとしても……恩給受給権は一身専属性を有し民法八九六条但書の規定により相続の対象となりえないものであるから、将来受けるべき恩給受給権を侵害されたことにより本人が取得すべき損害賠償請求権を相続人において相続することもありえないものというべきである。……」と判示する(第一審判決一八丁表一行目以下)。

しかし、右参照の東京高裁判決は被害者が死亡当時恩給法による遺族扶助料の支給を受けていたものであり、その死亡によつて右支給が受けられなくなつたことをもつて、逸失利益による損害が認められるかの問題を生じた事案である。

ところが、本件では被害者が死亡当時、恩給法による普通恩給の支払を受けていたもので、冒頭掲記の最高裁判所判決に依拠すべきである。右判決は「……公務員であつた者が一定期間勤務した後退職したことを要件として支給を受ける普通恩給は、当該恩給権者に対して損失補償ないし生活保障を与えることを目的とするものであるとともに、その者の収入に生計を依存している家庭に対する関係においても、同一の機能を営むものと認められる。そして、恩給を受けていた者が死亡したときには、これにより生計を維持し、または、これと生計を共にしていた一定の遺族に扶助料が支給されるが、右扶助料は右遺族に対する損失補償ないし生活保障の目的をもつて給付されるものであることは明らかである。このように恩給権者固有の恩給と遺族の扶助料の両者が、当該遺族について、その目的あるいは機能を同じくすることを考えると、恩給を受けている者が、他人の不法行為によつて死亡し、これによつて被つた財産的損害の中に、その者がなお生存すべかりし期間内に取得すべき恩給受給利益を喪失した損害が計上されており、右財産的損害賠償債権の全部もしくは一部が、相続により、一相続人に承継された場合において、右相続人が、他方において、前記恩給受給者の死亡により、扶助料の支給を受ける権利を取得したときは、右相続人の請求できる財産的損害賠償額の算定にあたり、右損害賠償債権の中の恩給受給の利益に関する部分は、右扶助料額の限度において、当然、減縮しなければならないと解するのが相当である。……」と判示する(最高裁判所判例集二〇巻四号五〇〇頁以下)。

右最高裁判決はうべかりし恩給につき逸失利益となることを前提としたと解され、この場合の恩給は過去に提供した労務の対価の繰延払ないしは掛金の払戻とも見られる。本件の場合、第一審において(1)恩給から夫生存中の扶助料を差引いた額(昭和五一年七月〜六五年一一月)(2)夫死亡後の得べかりし恩給(昭和六五年一二月〜七二年二月)を併せ請求していたが、第二審において、右(2)の請求を取下げたのである。原判決は「恩給受給権者固有の恩給」と「遺族の扶助料」とを混同し、本件に前記東京高裁判決を参照したのは恩給法の解釈適用を誤つたものである。

上告人らは第一審において、冒頭掲記の最高裁判決に依拠し恩給から遺族扶助料を差引いた額を請求したが、第一審判決はこれを全面的に認めなかつた、そこで、上告人らは第二審においても右請求を維持し、その合法性、合理性を主張(昭和五六年五月二九日付控訴人ら準備書面第二項で第一審主張を引用)したが、第二審判決は無批判的に第一審判決を踏襲した。

二、原判決は第一審判決と同じく亡井上操につき慰謝料七〇〇万円、井上誠之助、同昭弘につき固有の慰謝料各二〇〇万円をもつて相当と認めたが、右は交通事故損害賠償額算定基準に強く影響されたものである。

民法および自動車損害賠償法のいずれの規定をみても損害額をどのように認定すべきかということを定めた条文はない。実定法上は損害額についての基準は設けられていないし、基準に従つて定額的に認定すべきものと定めたものは存在しない。裁判所の定額化の基準は単に裁判官が損害認定にあたり行使すべき自由裁量の目安として設定したものに過ぎないのであり、基準自体に拘束性はない。

しかし、これを現実の運用面からみると、様相は一変する。大都市の交通専門部の裁判官が一旦基準として公表すると、その意見を表明した裁判官も、この裁判官と同一庁に所属する裁判官も公表基準に従うようになる。また、交通専門部のない裁判所の裁判官も大都市専門部の裁判官の公表基準に大きく影響される。特に定額化の長所として裁判官の個人差をなくし、被害者間の公平をはかるということがあげられているので、基準の事実上の拘束力は高まつてくる。本来、事実認定の自由裁量権の行使にあたつての単なる目安に過ぎない基準が事実上の拘束力を持つようになつてきている。

定額化の最大の短所は基準の低額化という点にある。基準自体がその設定の当初から控え目に行われており、これが低額化を招く原因となつている。そして何故基準を控え目にするかといえば、賠償金を支払う側の立場を考慮した結果とみられる。加害者としては被害者の要求が実際の損害を超過したものであれば超過分は拒否しなければならない。そして超過しているか否かは審理判決の結果始めて判定できることである。そこで裁判所が当事者双方に和解を勧告した場合加害者側としては被害者側の超過請求を支払わされる危険を考慮して、裁判所の説得に応じない場合が多い。

一旦、支払者側の立場を考慮した控え目の基準による損害金の算出が行われた場合、これが単なる和解のための一応の提案であつたにしても裁判官から表明されたものであるだけに事実上は判決の認定金額に大きな影響を与える。判決額もおのずから和解呈示額に引きずられる。和解呈示額が低額化するのは和解による解決を無理に促進しようとして当事者の一方である支払者側の中核をなす損保会社を和解の場に誘導することを考慮して基準を設けることにあると考えられる。

次に低額化の一因は一旦基準が設けられた後、それが長く据え置かれ、その間に起る社会の変動についていけないことから起ることにある。裁判官が能動的に基準を設けたがために裁判官自らが自己の設けた基準に長く拘束された結果起つたことである。裁判は裁判の時点において社会の実情を出来る限り取り入れた形で行つておれば基準による自縄自縛に陥ることはない。裁判官が事実認定に何らの束縛を受けないようにするため自由心証主義がとられており、これが正しい裁判制度の根底をなしている。

しかるに、民事交通裁判では裁判官自身が基準を発表して自縄自縛に陥り、裁判所の損害認定額の固定化が生まれ、これによつて損害額の低額化が起つている。

本来、裁判官が個別事件を離れ、恰も行政官庁や企業の如くこれから担当する将来の事件についての一般的な処理基準を公表することは裁判制度からみて全く異例というべきであり、民事交通訴訟以外では全くありえないことである。

大体、基準は画一的であり、事故は千差万別である。基準の設定にあたつて予測した標準的な事故に近いものもあれば、これからかけ離れた特殊なものもある。たとえ標準的な事故であつても基準自体が低額化しているから、被害の実態に満たない。まして標準からかけ離れた事故であればある程実態からかけ離れてくる。

損保会社の査定基準による定額的処理が一般化した今日では、損害額についての争いから訴訟に持ち込む被害者が真に裁判所に判断を求めていることは損害額の結果は勿論であるが、個別的な当該被害事故にそくした具体的損害額を担当裁判所自身において認定してくれることを欲している場合が多いであろう。既存の基準の事務的適用では被害の回復がなされないので、被害の実態に合つた個別的救済を求めているのである。

被害者は従来の基準の内容と運用そのものを批判し、これに対する正しい解答を求めているのに、もし裁判所が保険会社の査定基準より二、三割高い基準であるにしろ、査定の基礎をなす基準自体を吟味せず、これと同一の思考に立つた個別事情無視の定額的基準を押しつけて判決を下すということがあると、被害者が訴訟に訴えた目的は達せられず、被害者には裁判の拒否というようにうつり、ひいては国民の司法に対する信頼の低下をもたらすことになる。

最近は裁判所の新受件数が激減しているので、審理に余裕ができた筈であるから、定額化の短所を除き、個別事情を充分に汲み取るようにすべきである。損保会社の定額化導入以前の段階と損保会社の定額化が行き届いた今日の段階とでは裁判の有り方が変化して当然である。

まさに、現在は民事交通訴訟が一つの転換期に差しかかつている。個別事件で被害者に完全なる救済をはかるという裁判本来の姿に帰るべき時期となつている。

定額化の基準は事実上の推定の原則とか標準的な事例についての経験則としてとらえるべきものであるところ、「……本件事故は被控訴人(被上告人)が速度の出し過ぎ等からその運転の加害車で歩道上を歩行中の何らの過失のない操(六〇才)を跳ね飛ばして死亡させた事故であること……井上誠之助は当時六四才、大学教授で出張中であつたこと、その精神的苦痛は甚大であつたこと、井上昭弘は心身障害者であり、母操の一層の監護が必要であつたこと……が認められる。」(原判決六丁裏一二行目以下)と判示されているとおり、本件は標準からかけ離れた事故である。他方、被上告人は財産こそないが、任意保険に一〇〇〇万円入つていた(第一審被告本人調書五丁表一二、一三行目。)

慰謝料額の算定にあたつては事故(客観的)・当事者(主観的)に存するすべての事情を考慮して決定されるべきである。しかるに、原判決は交通事故損害額算定基準に引きづられて具体的妥当性を見失つている。原判決の経験則違背は判決に影響すること極めて明瞭であるから、原判決は破毀を免れない。

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