大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和57年(オ)1385号 判決 1984年12月18日

上告人

出山桂吉

上告人

出山治子

上告人

出山静香

右法定代理人親権者

出山桂吉

出山治子

右三名訴訟代理人

長谷川正浩

打田正俊

村松貞夫

村松ちづ子

被上告人

髙照寺

右代表者

山田純正

被上告人

山田純正

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人長谷川正浩、同打田正俊、同村松貞夫、同村松ちづ子の上告理由書(一)記載の上告理由第一及び第二について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして肯認することができ、その過程に所論の違法はない。右事実関係のもとにおいて、本件契約は三年連続の保育を内容とするものとはいえず、また、天道幼稚園の設置者である被上告人髙照寺が本件研究会児を募集するにあたつてその募集要綱に昭和四九年度天道幼稚園四歳児組入園については所論の選考をする旨記載しなかつたことは明らかであるが、上告人出山静香の右四歳児組入園について同桂吉及び同治子がした入園申込を承諾しなかつたことに信義則に違背する違法があるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、いずれも採用することができない。

同第三について

所論は、原審において主張、判断を経ていない事項について原判決の違法をいうものにすぎない。論旨は、採用することができない。

同上告理由書(二)記載の上告理由について

私立幼稚園が、その教育方針に従つて幼児を教育するために、当該幼児の親権者又は監護教育にあたる者が幼稚園の教育、経営方針に対して理解と信頼を示し幼稚園との信頼関係を保ちうることは重要なことであるとして、これを入園申込に対し承諾を与えるための要件とし、この要件を充足していない申込に対しては承諾を与えないこととしても、右の信頼関係が客観的に存在しないと認められる限り、公序良俗に反するものとはいえないと解するのが相当である。本件において、原審の確定したところによれば、私立の天道幼稚園の設置者である被上告人髙照寺の代表役員であり、かつ、同幼稚園の園長である被上告人山田は、同幼稚園が昭和四八年四月から設けていた本件研究会に入会していた幼児についての昭和四九年度天道幼稚園四歳児組への入園申込を承諾するためには、当該幼児の親権者又は監護教育にあたる者が同幼稚園の教育、経営方針に対して理解と信頼を示し幼稚園との信頼関係を保ちうることが必須であるとしたうえ、本件研究会に入会していた上告人出山静香について同桂吉及び同治子のした右四歳児組への入園申込に対し、同桂吉の言動等から同上告人には天道幼稚園の教育、経営方針に対する理解と信頼がなく、同幼稚園としては同上告人と信頼関係を保てないと判断した結果、承諾を拒否したというものであり、また、右承諾拒否に至るまでの被上告人山田と上告人出山桂吉及び同治子との折衝について原審が確定した事実関係のもとにおいては、同幼稚園と右上告人らとの間の信頼関係が全く失われ、その間に意思疎通の生ずる余地がないとした原審の判断は是認することができるから、右承諾拒否をもつて公序良俗に反するものとはいえない。所論は、幼稚園教育においては幼稚園と幼児の両親等その監護教育にあたる者との間に信頼関係の存することは、重視すべきものではなく、または少なくとも必要不可欠なものではないことを前提として、原判決の違憲、違法をいうものであるが、前述のとおり、幼稚園が、当該幼児の家庭との連絡を密にし、家庭における教育と相まつて幼稚園教育を行うことが必要であり、したがつて、幼稚園と幼児の両親等その監護教育にあたる者との間に信頼関係の存することは、重要なことであつてこれを重視すべきものといえるから、所論は前提を欠くものというべきである。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(伊藤正己 木戸口久治 安岡滿彦 長島敦)

上告代理人長谷川正浩、同打田正俊、同村松貞夫、同村松ちづ子の上告理由

(上告理由書(一)記載の上告理由)

原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の違背及び審理不尽ないし理由不備の違法がある。

第一、法令解釈の誤り――その一

一、上告人らは、被上告人高照寺との間で上告人静香を天道幼稚園に三年間(昭和四八年度ないし同五〇年度)通園させる契約を締結した、仮に三ケ年の通園契約が成立していないとしても、三才保育研究会に通園させると共に昭和四九年度に入園料を納入することを停止条件として(または納入しないことを解除条件として)、同四九年度・同五〇年度に静香を教育する旨の条件付通園契約を締結したと主張して来た。

そこで、以下、まず通園契約締結の経緯及び三才保育研究会の実態を述べる。

(一) 昭和四七年一二月一日付、被上告人高照寺が三才児の保育を目的とした三才保育研究会入会児を募集するため配付した「三才保育研究会について」と題する書面(甲第二号証)は要旨を次のように記載していた。

(1) 園には従来三才保育のクラスが存在したこと。

(2) 昭和四八年度は学級増で園児が増加する為、主として施設の関係よりやむなく全日制の三才保育クラスを設けることが出来ないこと。

(3) しかし、園が地域社会に役立てばということで三才保育研究会をつくること。

(4) 三才児の小グループで自由に遊ぶ機会を作つて少しでも社会性発達の助長をしたり、大切な生活習慣を築く基礎を養うために小集団で経験ある教育者によつて教育効果をあげていきたいと考えていること。

(5) 「入会申込書に必要な事項を記入して入会金一〇〇〇円をそえて申込み下さい。(ただし次年度に四才児組への進級の折は四八年度の規定により入園料を申し受けます。)」

(6) 三才児も園入園者規定の制服制帽と同じものを着用すること。

(7) 「次年度、四才児組への入園進級のときは、入園料の納入があれば優先的に入園でき」ること。

上告人桂吉、同治子は右申込の誘引に従つて申込をし、被上告人高照寺はこれを承諾した。その際右申込の誘引の内容は撤回されてはいないのであるから、右はそのまゝ契約の内容となつた。

(二) かくて入園を迎えたのであるが入園当時の状況は次のようなものであつた。

(1) 入園式(入会式ではない)は昭和四八年四月五日園の幼稚園ホールで行われ、三才保育研究会児組はチューリップ組と名付けられて発足した。園長、主任から「入園おめでとう」との祝辞が述べられ、又年長、年中組の担任教員も紹介され教員は三才児の園児一人一人とその父兄に対し話しかけ挨拶した。在来園児は新入園児(三才児)の一人一人に対しその首にお祝いのレイをかけ、園は在来園児に「入園おめでとうございました。僕たち私たちと仲よく遊びましよう。わからないことや困つたことがあつたら、何でもきいて下さい。」と述べさせている。入園式に出席した母親たちはこの入園式に晴れ着を着てのぞみ、式終了後には園児と共に記念撮影をした。これらは続いて同年同月八日に行われた四才児組の入園式と全く同じであつた。

(2) 入園式当日、園は三才児の母親たちから私立幼稚園協会費(一ケ年分)二五〇円、学校安全幼稚園保険料(一ケ年分)二五〇円を徴集した。

(3) 同時にPTAに相当する母の会が四才児組五才児組と同様に三才児組にも組織された。保育日数が三才児組は週一回の定時制であるのでその経済的負担を公平ならしめる為一応別組織とされたが、活動面においては協同協調関係にあつた。

(4) 上告人らが入園に際し園から購入したものは次に述べるとおりであり、これらは四才児組と同一であつた。

1冬服 2制服用ワッペン 3女児スカート 4ブラウス 5園内服 6帽子 7園児名札 8ランドセル 9道具箱 10はさみ 11クレパス 12自由画帳 13ねんど板、同ケース、ヘラ一組、ねんど 14ヒップ組木 15通園バック 16ファイル(家庭通信綴) 17けんこうのきろく 18ゴム印 19上ぐつ 20体育着(ショーツ)

又上告人らは園から、希望図書として次のような書物の申込の勧誘をうけた。これらも又、四才児組と同様であつた。

1フレンドシリーズ絵本 2子供の友、年少普及版 3イギリスオックスフォードえほん七巻 4かがくのとも5カメラ観察

その後又次のようなものを園の指示により購入させられた。

1夏の制服(上、下) 2夏の帽子 3体育着 4赤白帽 5冬体育ズボン

(5) 園が毎月発行する「チューリップ組だより」四月号NO.1は冒頭で

「ご入園おめでとうございます。週一回という研究会の形式ではありますが、ご家庭の協力を得ましてできる限り教育の効果をあげたいと考えます」と述べていた。

(三) 三才児組の日案は文部省の幼稚園教育要領と天道幼稚園のカリキュラムにもとずいて作成された。これにもとずいて教員の手により三才児保育日案がつくられ、この日案は主任により添削指導をうけた。全日制の四才児、五才児組においては、保育日案にかわり、保育週案が作成されていたが、その作成過程は三才児組の保育日案と全く同一であつた。

又、三才児組は定時制であるとはいえ、遠足、七夕、運動会、感謝祭、作品展、誕生会等の行事を四才児組、五才児組と共に行つており、又、これらの行事をめざしてカリキュラムが組まれたのも全日制の四才児、五才児組と全く同様であつた。

(四) そして更に、被上告人高照寺は対外的にはこの三才児組園児も、四、五才児組同様正規の園児として取り扱つた。即ち、三才児組をも園の在園児数に加えて愛知県に届出し(甲第五八号証、従つて、公費補助は三才児組園児をも対象として支給された)、学校安全会や保険会社との間においても、三才児組の園児を「園児」としてそれぞれ保険契約を締結し、又、私立幼稚園協会にも「園児」として加入させ、更に、園の経理上の処理においても、三才児組園児の入園料、保育料はすべて四、五才児のそれと同質のものとして取扱つた(乙第九号証予算書収入の部。もし異質なものであれば特別収益事業欄に記載されている筈である。例えばラボと同一科目欄とか)。

二、以上が契約締結の経緯及び三才保育研究会の実態であるが、原判決は、本件研究会について、その「運営の実態が一部では同園における正規の幼稚園教育と類似の側面を有していたとはいえ、本件研究会といわゆる三年保育における三才児組に対する幼稚園教育とは別個のものであり、学校教育法の適用を受ける右の正規の幼稚園教育と同法の適用を受けない本件研究会における保育活動が本質的に異なるものであることは多言を要しないところである(なお、……特別事情の認められない本件においては、右保育日数の差を無下に無視することはできない。)」とし、このことから「本件研究会の入会者たる幼児が正規の幼稚園教育の一部たる四才児組へ『進級』するなどという観念を容れる余地はないものといわねばならない。」とし、

更に、上告人らが予備的に次年度に入園料を納入することを停止条件とする(または納入しないことを解除条件とする)通園契約が成立した旨主張した点についても、「入園契約は私的契約であるから、入園の申込を承諾するか否かは幼稚園設置者の自由裁量に属することであり、本件についていえば『優先的』という用語も単に定員上の制約において述べたものに過ぎず、右自由裁量権を奪うものと解することはできない。つまり、募集要綱の『優先的に入園できます。』との言辞について、園が自由裁量権を放棄したものとは考えられず、次年度に改めて選考が行われることは当然である」と結論した。

三、しかし、原判決の言う通り、本件研究会と四才児組との間に進級の観念を容れる余地がないのであろうか。

「進級」の概念規定は別として、上告人静香が本件研究会の課程を終了する昭和四九年四月に四才児組に進むことは当然予定されたことであつた。本件研究会の月四回という保育日数が、正規の四、五才組の保育日数に比べかなり少ないことは事実であるが、幼稚園が、一定の課程を終了した者でなければ上級課程に進ませないというものでなく、たとえ保育日数のほとんどを欠席した者でも留年させるということはせず、四才、五才という一定年令に達すれば必ず上級課程に進ませるというシステムをとつていることを考えると、本件研究会が正規の四才児組と本質的に異なるとしても、翌年四才児組に移行することを予定してこの両年(更には五才児組)にわたる通園契約をなすことは充分合理的なことである。このような契約は法律上可能であると共に社会的に見て全く妥当な方法であり、幼稚園にとつても父母の側にとつても極めて好都合な方法であるということができる。

四、それでは、一体契約当事者双方の契約意思はどうであつたか、であるが、原判決が別の箇所で判示している通り、「本件研究会児の保護者は一般には次年度においても同園に幼児を通園させることができるものと期待していた。」つまり、本件通園契約当時少くとも保護者の側は一般に継続通園の契約である(すなわち再度選考されることはない)と考えていた。

他方、被上告人高照寺の意思がどうであつたかを見てみると、三才保育研究会児を募集するために配付した募集要綱のどこにも次年度に選考が行なわれることをうかがわせる文言がなく(だからこそ、右要綱を読んだ保護者達は自動的に進級できるものと考えた)、三才保育研究会なる特別の名称を用いてはいるものの、その実質においては入園と同様であることを強調するもので、且つ次年度への連続性を保障して父兄の安心を誘う内容とされていたことから、ここに表示された被上告人高照寺の意思は三年間の連続保育を内容とするものと見るべきであり、少くとも次年度において入園料の支払い(後払い)さえすれば再度の選考を経ることなく進級できることを内容とするものであるというべきであつた。(被上告人高照寺の表示された意思を右のように解することは、一で述べた三才保育研究会の実態とも良く符合している。)

五、契約解釈をなすにあたり、契約当事者の表示した意思を最も重要なメルクマールとすべきことは、意思表示解釈の一般論として当然のものであるところ、当事者双方の表示した意思が継続通園であつて、継続通園契約の成立に支障をきたすべき法律上の障害の存しない本件において、原判決が本件通園契約をして通常の幼稚園教育とは本質的に異なる別個の保育活動を目的とする一年限りの契約であつたと解したことは、契約解釈を誤つたものと言わざるを得ず、その誤ちは判決に影響を及ぼすこと明らかである。

第二、法令解釈の誤り――その二

一、上告人桂吉・同治子は、被上告人高照寺が本件三才保育研究会児を募集するために発行した募集要綱に記載されているとおり、二年目に入園料を支払いさえすれば、直ちに天道幼稚園に入園できるものと信じて(右募集要綱には、優先入園につき「入園料の支払い」のことしか記載がなく、次年度に選考が行なわれることをうかがわせる文言がなかつた以上、上告人らが右の如く信じ期待することはもつともなことである)本件研究会に応募したものであり、被上告人高照寺も当然保護者のこの期待を予測し、或いは容易に予測しえたものであるのに、本件のような募集要綱を発行し、園児を募集したものであるから、被上告人高照寺は、その記載どおりのことを履行する信義則上の義務があつたと主張した。

二、上告人らのこの主張に対し、原判決は、「右募集要綱に『次年度に四才児組へ進級の折は』とか『入園料の納付があれば優先的に入園できます。』などと記載されているところから、本件三才保育研究会児の保護者が一般には(勿論上告人桂吉・同治子も)、次年度においても天道幼稚園に幼児を通園させることができると期待していた」ことを認定しつつも、信義則上の入園(進級)義務を認めなかつた。

三、しかし、前述のとおり被上告人高照寺が、三才保育研究会児に対しても四才児と同様の制服制帽等指定の学用品を購入させたこと、対外的には右三才保育研究会児をも園の在園児数に加えて愛知県に届出し、学校安全会や保険会社との間においても、右研究会児を「園児」としてそれぞれ保険契約を締結し、また、同様に私立幼稚園教ママ会にも「園児」として加入させていたこと、更には、園の経理上の処理においても、右研究会児の入園料・保育料をすべて四、五才児のそれと同質のものと取り扱つたこと等――以上いずれもすべて争いのない事実である――の事実を踏まえ、加えて、前記保護者らの次年度も通園できるという期待が、被上告人高照寺の意思表示によりもたらされたものであること、従つて、もし選考を予定していたのならば断り書きを記載すべきであつたことを考えれば、本件こそ、信義則上被上告人高照寺に上告人静香の入園(進級)を認めさせるべき事案であつた。即ち、原判決には、信義則の解釈を誤つた違法があると言うべく、この違法は判決に影響を及ぼすこと明らかである。

第三、審理不尽ないし理由不備

一、本件入園(進級)拒否の背景には、以下述べるように、教員達の組合結成に端を発した幼稚園内部の組合問題が、被上告人山田夫婦と一部保護者の策動により、園児保護者全体を巻き込む大問題となつていつた事実があつた。

(一) 昭和四八年七月一六日天道幼稚園の教員五名(全員)は組合を結成して愛知県私立学校教職員組合連合に加入し、その旨被上告人高照寺に通告するとともに、一年雇用契約制の撤廃、待遇の改善等を請求した。

(二) 同年八月一二日被上告人山田は教員全部の自宅を訪問し、教員の父母等にそれぞれ天道幼稚園(以下単に園という)の財政は赤字である、自分は無給である、組合を止めたら給料は上がるかも知れぬ等と暗に教員らの組合結成を批難し、教員の父母から娘らの組合脱退をすすめさせようとした。

(三) 同じころ、被上告人山田とその妻であり、かつ、園の主任教員である山田満理子(以下単に主任という)は、いわゆるP・T・Aに該る園の「母の会」の役員・幹事らに対し、

(1) 教員が組合に加入したこと、

(2) 右組合は民青という赤で過激派であること、

(3) 労使問題がおきたら親達を先に抱き込んだ方が勝であること、

(4) 経営者が直接組合活動を阻止すれば不法行為となるが親がすればかまわないこと、

(5) 裁判にもち込むと園が負けになること、そして、親らの手で天道幼稚園を守る会を結成してもらいたいこと、

等を告げて協力要請をした。

(四) 同月一六日午後九時三〇分頃、協力を求められた「母の会」幹事役員らは二、三名のグループにわかれて一斉に教員四名宅を訪問し、何故組合を結成したのか、ストをするのか、警察のブラック・リストに載つている、私教連は赤である、お嫁に行けなくなる、組合をやめた方が良いなどと述べて教員らに組合脱退をすゝめた。

(五) 同月二〇日、上告人治子は、園に子供を通園させている母親から(三)(1)〜(4)と同趣旨の報告をうけ、その時三才保育研究会の「母の会」役員である上告人治子は「天道幼稚園子供を守る会」結成、署名活動の協力方を求められた。

(六) 同年九月一四日、「母の会」の一部役員・幹事は、仏教の教えを基盤として、天道幼稚園において子供たちが、円満かつ健全な保育を受けられるようにすることを表向きの目的とする「子供を守る会」を「親と子の会」として発足させようとした。組合ができたからといつて、親が集つたり、会を結成することはおかしいという反対意見があつたが、「すでに署名も九八%位集まり会発足は決定している」とのことで、結局、会則・会員名簿・会費等の決定もないまま、発足させた。

(七) 三才児組「母の会」幹事である上告人治子は、「親と子の会」結成には終始批判的であつたが、内部にいてこの会が間違つた方向に進まぬよう見守りたいと考えて「親と子の会」の役員に就任した。

(八) 同年一〇月六日、「親と子の会」、第二回総会が開かれ、既に退職した園の旧教員三名から、組合結成以来の園の状態、現教員の要求について意見をきいたところ、右意見はいずれも、現教員には批判的なものであつた。

(九) 同月二七日午前「親と子の会」第三回総会では、「園長・主任の指導のもとに園の方針にそつて保育して下さい」との署名活動をすることの是非が議題にかけられようとした。上告人治子は右議題は役員会で議題とする旨決定していないことを理由に他の数名とともに反対し、結局右署名活動については決定をみなかつた。数人の母親はヒステリックに泣き、この会は大荒のまま終了したが、被上告人山田や主任に積極的に協力する司会者は署名用紙が出来ているから頼む旨最後に発言し、以後決定もみていない署名活動が「親と子の会」の名の下に強引に始められた。

(十) 同日午后、園の教員である中野真澄、長谷川律子は、上告人桂吉がアメリカから持ち帰つた絵本をみせて貰うために、上告人ら宅を訪問した。この時両教員を尾行していた「親と子の会」の役員であり、かつ、被上告人山田や主任に協力する母親らは、上告人治子、同桂吉が両教員らの組合活動に加担しているものと判断し、その旨園に通報したものと思われ、同月二九日両教員は主任から父兄宅の訪問を慎しむよう注意された。

(十一) 一〇月三〇日の親と子の会役員会において、上告人治子は右会の行動を批判し、脱会を宣した。この行動は、右会が結成以来園と教員との対立感をあおり立て、父兄を園の側に抱え込む為の成り振り構わぬ行動を採つていたことからすれば、良識ある父兄として当然の事であつたが、園や園に肩入れする一部父兄には根強い不満を植えつけたものと思われた。

(十二) このようにして上告人治子、亀倉、中野など園の不当な策謀に容易に加担しない父兄がある事を知るや、被上告人山田はこれらの父兄を排除して自らの不当労働行為を貫徹しようと考え、同年一一月六日の保護者会において入園手続日を繰り上げる事を発表した。右被上告人の意図は一部の父兄を通じて一般にも漏れ伝わつたらしく、同月中旬頃には五名の子供が落とされるとの噂が流れていた。

二、以上の事実からすれば、本件入園拒否の真の理由が、被上告人山田の組合つぶしに上告人治子が協力加担しなかつたことにあることは明白なので、上告人らは、その旨くり返し主張して来たが、原判決は、組合問題を被上告人山田が幼稚園の存続について危機意識を抱くに至つた縁由としてのみ捉え、上告人治子の行動が上告人静香の入園拒否の理由だつたのかどうかを全く判断しなかつたものであつて、判決に影響を及ぼすこと明らかな審理不尽ないし理由不備の違法があると言わざるを得ない。

(上告理由書(二)記載の上告理由)

一、原判決には、次に述べるとおり判決に影響を及ぼすことが明白な法令解釈適用の誤りおよび理由不備の違法がある。

即ち、原判決は「公立学校にくらべ、私立学校においては、その入校申込に対する学校側の裁量はより広く、その拒否が教育法令その他の公序良俗に反するような場合をのぞき、右採否及びその前提となる選考基準の設定については、原則として園設置者の自由裁量に属する」とし、「一般的には入園の許否は当該本人を中心に決すべきものであるが、しかし本件の場合、右本人は未だ四才の幼児に過ぎず、その教育が十全に行われるためには、園と保護者の相互理解及び協力が必須である」ところ、上告人ら保護者と被上告人の園との間の信頼関係は全く失われ、かつ、園側に法令の趣旨ないし社会通念上著しく非難すべき点も見出せないから、本件拒否につき、公序良俗に反する違法なものとはいえない旨判示する。

しかしながら、右原判決は、憲法二六条一項、教育基本法三条教育条理の解釈、および民法九〇条の公序良俗の解釈を誤り、また、その適用を誤つた結果、不当な結論に達し、更に理由不備の違法を侵したものである。

原判決の誤りの原因は、原判決が私学の自治を強調するあまり、教育法令の根本原則および教育条理を無視あるいは誤解したことにある。以下、これについて詳述する。

二、教育の公共性

(1) わが国では、戦前長きにわたつて、教育が天皇制国家の臣民教化の方策とされてきたことから、公教育というものが「公共の資金で設立された施設で行なわれ、国家、地方公共団体の教育行政機関によつて管理される教育」というような国家権力ないしその管理ということと不可分に把握されてきた。このことは欧米の公教育の歴史と比較するとき普遍的なものとは言えず、わが国独自の発展形態であつたと言える。(講座教育法第二巻七二頁)

しかしながら、このような古い「公教育」観が現憲法の下で認められないことは明らかで、「教育制度における教育の公共性ないしは学校その他の教育施設の公的性格なるものが正しく国民の権利の実現に仕える制度編制原理として確認されなくては、『憲法・教育基本法制』そのものが換骨奪胎される危険を避け難い」(前同所)と言わなければならない。

(2) それでは、現憲法教育法制の下における公教教ママとは何かというに、「教育を受ける権利を前提として、人格を最大限に発展させるとともに、社会の進歩に役立つような組織的教育を、公の責任において、すべての子弟に等しく提供すること」、言えかえれば「教育の自由を前提とした教育機会・教育条件の平等を国家的規模で公的に保障し、それによつて、国民各個がもつ多様な発達可能性の開花を保護・助長せしめる」ことである。(前同所)

すなわち、公教育機関はすべからく国民の「教育を受ける権利」を実現するために、国民の負託を受けているのであり、まさにそのことの故に公共性を有しているものである。

三、教育を受ける権利と教育の機会均等

(1) 国民の「教育を受ける権利」は、広く教育に対する国民の権利を総体的に把握指称した概念で、その中には「親の教育の自由」「子どもの学習の自由」「子どもの教育条件整備を要求する権利」「成人一般の社会教育権」などを含むものである。それは、憲法上の基本的人権としても、幸福追求の権利・参政権・労働に関する権利等他の基本的人権を享受するうえで、これらの実現を実質的に担保する機能を有する点で最も根源的な権利であり、最大限の尊重を要するものである。

「教育を受ける権利」は、とりわけ成長発達の最も著しい子ども・青年の権利であると言われており、それは子どもみずからの要求する権利であつて、「子どもは未来に於ける可能性をもつ存在であることを本質とするから、将来においてその人間性を十分に開化させるべく自ら学習し、事物を知り、これによつて自らを成長させることが子供の生来的権利である」(教科書裁判第一審杉本判決)とされている。また、最高裁昭和五一年五月二一日判決――いわゆる北海道学力テスト事件――は、「子どもの教育は……子どもの学習する権利に対応し……」と説示しているが、これは正に憲法二六条において、子どもの学習する権利の存在を認めたものである。

このように子どもの教育を受ける権利は、何ものにも代え難い重大な権利であつて、国や親や学校が便宜的な理由でもつてこれを阻害することは、厳に慎まなければならないものである。

(2) 次に、教育における平等の原理であるが、これは、今日機会均等の原則を中心に論じられ、ある場合には両者は同義であるかのようにさえ扱われている。「一般に教育の機会均等原則は、近代教育原則の中でも代表的なものであり、今日の教育の指導理念だと考えられている。」(講座教育法二巻一三頁)

教育基本法第三条第一項が「すべて国民は、ひとしくその能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて教育上差別されない。」と規定するのはこの教育の機会均等の原則を宣明したものである。

この原則はすべての公教育に通ずる指導理念であるが、前記の如く、子どもの教育を受ける権利は国民の教育に関する権利の中核をなすことを考えれば、とりわけ学校において、教育の機会均等は貫徹されなければならない。

学校教育の制度や内容の基本的事項を定める学校教育法を見るに、現行のそれは、従来の如く各学校種別ごとの独立した学校令とは異なり、各段階ごとに学校の種類を整理統一した一つの法律となつていて、同法の立法過程で明らかにされた如く、新しい学校制度は、従来の特権的学校と非特権的学校との区別などを撤廃してすべての学校を国民の前に開くという教育の機会等ママの実現を保障すべき制度として、かつ、子ども・青年の心身の発達に応じた相互に深く有機的に連関する一つの連続した各学校段階からなる統一した制度として定められているのである。

すなわち、幼稚園も学校制度の一環として、制度的に段階性・統一性を与えられ、これによつて、教育の機会均等に資することが予定されているのであり、当然のことながら幼稚園においても、教育の機会は国民全体に向けて開放されていなければならず、思想・信条によつて、入園の許否を決するがごときは、国民の負託を裏切り、子供の教育を受ける権利を侵害するものであつて、到底許されることではない。

四、教育における正義の要請

人間は子どものときから、不当な差別や恣意的な片手落ちの扱いに反撥し、そうした不正義を憎む性情がある。民主教育が、およそ人間尊重の大原則に立脚するかぎり、すべての人々を平等に扱うべしとする正義の原則は、教育制度の基本指標となるべきものであり、差別と不平等を教場から払拭することは、人間形成にたずさわる個々の教師の第一義的な義務であるに止らず、全教育制度の隅々にまで及ばなければならないものであつて、教育の機会均等は、この教育における正義の要請に基くものである(同所七頁)。故に、教育における正義の要請は、教育法令の解釈適用その他教育のあらゆる現場で積極的に生かされねばならない。

五、私立学校の公共性と自主性

(1) 戦前の私学が国家の教育事業を補完する特許事業という色彩が濃かつたのに対し、現在の私学法制は、民主的教育行政組織を確立し、経営主体の教育的民主的運営をはかり、民主的私学助成制度を確立するところにその趣旨がある。つまり、私立学校法は私学の自主制ママの尊重と、公共性の確保を強調することにより、戦前のような国家の監督統制のもとにある補助機関としての私学を否定し、国民の教育を受ける権利を基軸とする憲法・教育基本法の原理にもとづく公教育体制の一環として私学を位置づけている。

したがつて、自主性の尊重と公共性の確保の強調は、私学特有のものと見ることはできず、私学が国公立学校と同じく、国民の「権利としての教育」を保障する公的機関として、国民の教育の憲法的自由はもとより、思想の自由・表現の自由・学問の自由にもとづく社会的・公共的責務をもつことは当然の事である(同書三〇三頁)。私立学校法第一条が「この法律は、私立学校の特性にかんがみ、その自主性を重んじ、公共性を高めることによつて、私立学校の健全な発達を図ることを目的とする」と定めるのは、右の如く私学が公教育体制の一環であることを宣明したものである。

教育基本法第六条第一項は「法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外法律に定める法人のみがこれを設置することができる」と規定している。ここにいう「公の性質」の意味について、昭和女子大事件第一審判決は、「教育の作用が社会公共のためのものとして公共の性質をもつことを前提として、私立学校もまた、国公立の学校とともに、社会公共のために教育の作用を分担すべき責務を負う点において、公共的性質をもつものであるとの見地に立つものと解すべきである」という。

すなわち、私立学校は国家教育機関の補助機関であつた戦前とは異なり、国民の教育を受ける権利保障の実現という使命を担つていることにこそ公共性の根拠があるのであり、この点において国公立の学校と私学とを区別するいわれは全く存しないのである。

(2) 私立学校法第一条は、私学の自主性を重んじるべきことを規定している。

私学の自主性とは何かを見るに、その歴史的な意味は先に見た如く、国家教育機関の代替補助機関としての地位を脱し、国民の教育を受ける権利に根ざした個有の存在意義を確立した点にある。すなわち、私学の自主性法認の現代的意義は、現代公教育が内容・方法においてともすれば確ママ一化し特色を喪失しがちな状況に対し、多様な国民の教育要求を十分にみたし、自由にして民主主義的な教育活動を保障する点に求められる。

これを担保するため、私立学校法は教育行政の面で、所轄庁の監督事項を制限したり、権限の行使に当つて、私立学校審議会の意見を聞かねばならないこととしている(法学セミナー基本法コンメンタール教育法二二一頁)。

このように、私学の自主性は国民の教育の自由に立脚し、憲法的自由として私学の自由の法理が成立するものであるが、私学の設置者の憲法的自由は、独善的自由を許すものではなく、親の教育への権利、子ども・青年の教育を受ける権利、教師の学問・思想・表現・教育の自由の制約を受けるものである(講座教育法四巻三〇四頁――前記コンメンタール二二一頁)。

以上述べた如く、私学の自主性は国民の教育を受ける権利に奉仕するためにこそ認められる原理であり、私学が国民(子ども・親)に対して自主性をふりかざして、その教育を受ける権利を制約するなどということは、およそ考えられないことである。従つて、私学が自主性を理由に思想・信条によつて、子どもやその親を差別し、教育の機会均等を奪うことが許される訳がないのである。

(3) 私学の自主性の一側面として宗教教育の自由を挙げることができる。

私学は宗教教育を行なうことは自由であるが、この自由とても無限定なものとして認められる訳ではなく、そこには公教育の担い手としての当然の制約があるのであつて、私学が生徒・学生に対し、宗教上の行為・祝典・儀式または行事に対する参加の強制をすることは許されない(同書七巻二二九頁)。

また宗教教育を行なう私学であつても、教育基本法第三条の趣旨に反することは許されないのであつて、異教徒であることを理由に入学を拒否することは許されない。

この点につき、被上告人らは、「創価学会設立の幼稚園は他の宗派の子弟は入園を許さないであろうし、赤旗新聞社のそれには自民党員の子弟の入園を許さないであろうし、逆に皇学館大学付属幼稚園には共産党員の子弟の入園を拒否するであろう。まさにこれを認めてこそ、思想、信条の自由や信教の自由を尊重するゆえんである。」などと述べているが、公教育に関する限り、被上告人らが当然視していることは、実は私学の自由をはき違えた結果の謬論である。

六、(一) 以上述べたとおり、私学においても、子どもの教育を受ける権利あるいは学習する権利を保障し、かつ、その権利保護の担保機能を有する教育機会均等の原則や差別禁止の原則の適用を受けるわけである。

その結果、私学への入園・入校の手続についても、本人を中心に決定しなければならない(この点については、原判決も認めるところである)。即ち、教育を受ける子どもの能力素質など子ども自身に帰属する事由をもつて、選考基準とし、かつ、採否を決定しなければならない。

ただ、子どもの能力や素質は多様であるため、それを判定するについては、私学の教育観・建学の精神などに基づき、学業の能力全般に関する評価とは別に、例えば、運動能力、音楽の能力あるいは美術に関する能力、あるいは他の子どもの素質などのある分野の能力や素質というような観点より選考基準を定めたりする場合もあろうが、とにもかくにも、その対象は子どもである。

このように、入園入校の選考基準が子どもの能力や素質を対象として定められるべきものであることは、事の性質上当然であるばかりか、前述した如く、憲法二六条一項・教育基本法三条一項に定める各原則および教育条理に基づくものである。

(一) しかるに、原判決は、「四才の幼児」の場合には、本人の保護者をして選考基準の対象とすることを是認し、その根拠として、「教育が十全に行われるためには、園と保護者の相互理解及び協力が必須」であることをあげている。即ち、例外を認めているのであるが、これは正に、前述した差別禁止の原則、子どもの学習する権利などの教育法令の根本原則を無視あるいは過少評価した結果によるものである。

私立幼稚園と言えども、それ自体、教育を司る機関であり、小学校、中学校、高等学校および大学と同様に高度な公共性を有しているのであつて、単なる私塾とは異なるのである。もし、私立幼稚園であるが故に、子どもの能力素質以外の事由である保護者の思想・信条・経済的地位あるいは行状・犯歴・職業などでもつて、その子どもの入園の採否が決定されたならば、その子どもの学習する権利・教育を受ける権利を故無く奪い去る結果になる。これこそ、憲法や教育基本法などの教育法令が最も厳しく禁止している差別行為に該当するものであつて、倒底是認されるものではないのである。

結局のところ、原判決は、私立幼稚園という高度な公共性を有する教育機関を、私塾と全く同一に評価するという大きな誤りをおかしたのである。

(三) 原判決の判示する「十全な教育」を行うために必須な要件としてあげた園と保護者との相互理解・協力関係は、結局のところ、入園した子どもの教育効果を高めるために望ましいというに過ぎず子どもの教育をなすに不可欠の要件ではない。保護者の思想・信条および行状にかかわらず、子どもは、園で教育を受けることにより、自ら経験を積んでいき、その教育効果を享受するのである。正にこれこそが教育の本質であり、かつ、公教育の目的であつて保護者は、その補助者にしか過ぎないのである。従つて、その補助者の思想・信条・行状等が子どもの教育にとつて有益でないからといつて、子供の教育の機会を奪う理由とはならないものである。

このように、この点についても、原判決は、大きな誤りをおかしているのである。

(四) 以上のとおり、私立幼稚園と言えども、その選考基準は、教育法令の原則に従つて、教育を受ける子どもの能力素質を対象としなければならず、いやしくも、子どもの保護者を対象とした選考基準はそれ自体、教育法令、教育条理に著しく反し、かつ、公序良俗に反する不当なものと言わざるを得ない。

(五) さらに、被上告人寺が本件選考基準を採用するに至つた経緯および動機(これについては別項で述べる)を考え合わせるならば、その不当性は、さらに明白となる。即ち、教員による労働組合の結成を原因とする組合と被上告人寺および同山田純正らの攻防ならびに一部父兄の策動による保護者の巻き込みという状況において、被上告人寺および同山田純正は、保護者に対し、園側の意見に賛同する様に求め、これに賛同しない一部保護者のうち、その主導的な保護者を排除する意図でもって、本件選考基準を採用したのである。このことは、その選考基準である「園の経営方針、教育方針について父兄と信頼関係が保てるか否か」という内容からも明らかである。このような非教育的観点からの意図に基づく選考基準は、前述した教育法令の定める差別禁止の原則や機会均等の原則および教育条理に著しく反する。また、教育社会において、このような恣意的観点より選定された選考基準が是認される筈がなく、公序良俗に反する選考基準であると言わざるを得ない。

(六) 以上、原判決は、前述した教育法令・教育条理の解釈を誤り、気に入らない保護者の子弟をあえて採用する必要はないという俗論を採用し、一般取引社会において適用される取引自由の原則と教育の場における私学の自由裁量権の範囲の歴然たる差を見落したため、公序良俗の解釈を誤まり、結局、不当な本件選考基準を是認するという誤りをおかしたのである。

七、(一) 仮に、百歩譲つて、私立幼稚園の入園選考基準に子どもの父兄など保護者を対象とすることができるとしても、被上告人寺が上告人静香の入園を拒否したことは、次の理由により教育法令・教育条理に著しく反し、かつ、公序良俗に反する不当なものと断ぜざるを得ない。

(二) 前述したとおり、教育法令に定める差別禁止の原則および教育機会均等の原則、子どもの教育を受ける権利よりすれば、本来的には、本人を対象としてその入園・入校の選考基準を定めなければならないのであつて、その大原則に対する例外として認められるものである以上、保護者の要件は最少限に留めなければならない。とくに、保護者に属する事由のみをもつて、その採否を決定するということは、右の原則を全く没却してしまう結果となり、結局、子どもの教育を受ける権利あるいは学習する権利を担保するための教育法令の根本原則の一つである差別禁止の原則・機会均等の原則を根底から否定するという自滅現象を是認することになる。従つて、保護者に属する事由のみをもつて、子どもの入園の採否をなしてはならないことになる。

(三) ところで、被上告人寺は、入園選考基準として、園と保護者との間において「園の経営方針および教育方針」につき信頼関係が保てるか否かとの基準を採用し(その動機は前述のとおり)上告人桂吉がそれらの点につぎ信頼関係を保ち得る保護者でないことを理由に上告人静香の入園を拒否したのであるが、そもそも幼稚園、小学校その他の教育機関と子どもの保護者との間における教育方針が異なることは、それ自体何ら問題とされるべきものではなく、むしろ教育上重要な事柄なのである。

即ち、「子どもの教育責務は、第一次的には親にあり、親は学校に対して教育責務の一部を信託するものであり、契約者として、学校と対等の立場で契約するのであつて、『学校選択の自由』は、入学後に権利の消滅を意味するものではなく、親と子どもに対するさまざまの権利の展望を与えるものである。第一に学校当局に対する親と子どもの教育要求権がある。その権利は私学教育の自由と矛盾しない。私学のみならず、すべての学校でそれが保障される。」(前同書二巻二七三頁)

また、「もとより子どもの保育と教育の責任は、これをすべて保育所と学校にまかせるわけにはいかない。親権はその一部を専門家としての保母や教師に信託したのであつて、それを放棄したのではない。子どもは家庭において、保育所や学校において、学校外のさまざまなあそびや活動のなかで、そして社会のなかで育つ。親は教師(保母)と協同で子どもの発達を保障する責務をもつている。したがつて、もし親の期待に反する教育が行なわれていれば、親は教師に要求や批判を出し、お互いの意見を調整して協同で子どもの成長を保障するというのが、今日の公教育のとらえ方の基本にならねばならない。」(兼子仁、堀尾輝久、教育と人権、八五頁)「親は教科書や教育内容について、当然関心をもち、発言する権利をもつている。その要求に耳を貸し、その批判に学びながら、その不合理や問題点を指摘し、より質の高い合意を作り出さねばならない。」(同所九一頁)また「親たちは父母集団として学校に対し教育要求を出していく権利を持つと解され、それは教育専門的な事柄についても教師に教育専門的判断を求める権利として有りうるであろう。」(同書三五一頁)と述べられる如く、子どもの教育は、親と学校、教師が相互に批判要求を出し合い話し合うことによつて、更に高められていくものであり、親と学校の教育方針が異なるから入学(入園)させないとか、入学(入園)させた以上親は口出しできないとか言つて独善的で偏狭な考えは、公教育の場からは追放されなくてはならない。

従つて、上告人桂吉と被上告人寺との間で教育方針につき、見解の差があつても、上告人静香を教育する上での支障になると考えるのは誤りであつて、両者の見解の差につき、今後双方が話し合うということこそ、本来の教育理念にかなつているのである。

また、経営方針についても、上告人桂吉と被上告人寺との間で、その見解に差があつたとしても、それによつて、園が上告人静香の教育を施すについて何らの支障がない以上、これをもつて、上告人静香の学習する権利あるいは教育を受ける権利を奪い去るに足りる理由とはなり得ないのである。

(四) 以上のように、被上告人寺が入園の選考基準とした園の教育方針経営方針に関する保護者の信頼関係なるものも、結局は、子どもの学習する権利あるいは教育を受ける権利を奪い去るに足りる合理的な基準たり得ず、却つて、その基準選定の動機等を勘案すると、園の教育方針経営方針を無批判に受け入れる保護者のみの子弟を入園させるという、独善的かつ反教育的な目的を貫徹させる結果となり、これでは、不当な理由による差別を防止するため教育法令に定める前述した原則や子どもの学習する権利を根本的に否定することになり、倒底是認されるものではない。

(五) よつて、被上告人寺が選定した入園の選考基準は、前述した教育法令・教育条理に著しく反するとともに、公序良俗に反するものである。従つて、原判決には、その法令の解釈適用を誤つた違法があることになる。

八、最後に、原判決の理由不備について述べる。

(一) 上告人静香は、被上告人寺において、幼稚園教育を受けるにつき、何らの支障もなく、又、幼児ということから特に重要な幼稚園教育における地域性の観点および同女の友人関係などから天道幼稚園に通園することこそ、最も理にかなつた結果であつたにもかかわらず、被上告人寺・同山田純正と父上告人桂吉との間の紛争故に、そして、ただそれだけの理由で教育を受ける権利を奪い去られた。

しかるに、原判決は、上告人静香の教育を受ける権利あるいは学習する権利を奪い去るに足りる根拠があつたか否かにつき、その理論的根拠を明確にしなかつたという理由不備の違法があると断じざるを得ない。

(二) また、さらに、原判決は、被上告人が採用した選考基準につき、前述した教育法令の原則と私学の自治との関係で、何故にその選考基準が是認されるのかについての具体的検討をなすことなく、単に自由裁量権の範囲内という一言で是認しているが、本件は正に自由裁量権の範囲内や否かについて争点となつていたのであるから、より具体的な検討を加え、より具体的な理論的根拠を明確にすべきであつたにもかかわらず、それをしなかつたことは、理由不備と言わざるを得ない。

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