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最高裁判所第三小法廷 平成9年(オ)411号 判決 1999年10月26日

上告人

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

鈴木裕文

小長井雅晴

被上告人

乙川一郎

右訴訟代理人弁護士兼被上告人

五十嵐二葉

主文

原判決中、上告人に対し、SAPIOの記事に基づく損害賠償である五〇万円及びこれに対する平成五年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を超えて支払を命じた部分を破棄する。

前項の部分につき本件を東京高等裁判所に差し戻す。

上告人の被上告人乙川一郎に対するその余の上告及び被上告人五十嵐二葉に対する上告を棄却する。

前項に関する上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人鈴木裕文、同小長井雅晴の上告理由第一、第二の一、第二の二のうちSAPIOの記事及び中公新書の文章(1)に関する部分について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、SAPIOの記事及び中公新書の文章(1)について名誉毀損による不法行為の成立を認めた原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決の法令違反をいうものにすぎず、採用することができない。

同第二の二のうち中公新書の文章(2)に関する部分について

一  本件は、上告人が執筆した「賄賂の話」と題する出版物中の文章が、被上告人乙川一郎(以下「被上告人乙川」という。)の名誉を毀損するものであるとして、被上告人乙川が上告人に対して損害賠償を請求するものであり、原審の確定した事実関係等は次のとおりである。

1  上告人は日本大学法学部の刑法学の教授であり、被上告人乙川は国際電信電話株式会社の代表取締役社長であった者である。

2  被上告人乙川は、会社業務と関係のない買物に係る領収書(レシート)と引換えに現金を受領するなどの方法によって会社資金を着服横領し、かつ、会社の所有する美術品等を自宅に持ち帰って横領したとして、昭和五五年四月二六日に業務上横領罪で起訴され、昭和六〇年四月二六日に第一審で一部有罪、一部無罪の言渡しを受けたが、平成三年三月一二日に言渡しを受けた控訴審判決では、第一審判決が一部有罪とした会社資金の横領についてはすべて無罪となり、会社所有の美術品等を自宅に持ち帰った事実の一部のみが有罪とされ、その後、控訴審判決は確定した。

3  上告人は、右刑事事件の第一審判決言渡し後である昭和六一年二月二五日に株式会社中央公論社が発行した「賄賂の話」と題する書籍(中公新書)を執筆し、その中において、右刑事事件を取り上げ、同書の二六頁から二八頁まで及び一一三頁に五箇所にわたって被上告人乙川に関する記述をしたが、そのうち二七頁には、被上告人乙川が、「ネグリジェ、ハンドバッグ、紳士靴、時計のバンド、牛肉、洋酒、冷蔵庫と手当たり次第、会社業務と全く関係のないレシートを会社に持ち込んで現金化したり、会社のハイヤーを妻の買物などにも自由に使わせ、一流レストランから社費で昼食を自宅に運ばせたり、妻との海外旅行の仕度金、家族とのゴルフ代まで会社に負担させるといったように、公私混同のかぎりをつくした。」との記載(以下「中公新書の文章(2)」という。)がある。

4  中公新書の文章(2)のうち、ネグリジェなど会社業務と全く関係のない買物のレシートを会社に持ち込んで現金化したとの記載(以下「①の部分」という。)に係る事実は、第一審判決が業務上横領に該当するとして有罪とした事実である。しかし、控訴審判決は、被上告人乙川がこれらのレシートを会社に提出したこと自体は否定しなかったものの、そのうち「ネグリジェ、紳士靴、時計のバンド、牛肉」に関しては、会社の業務に関する贈答品として購入されたものでないとは言い切れないとし、その他のレシートに関しては、被上告人乙川において妻から小封筒に入れて交付されていたレシート類をそのまま会社に持ち込んで現金を受け取っていたもので不法領得の意思を認め難いとして、いずれも無罪とした。

5  中公新書の文章(2)のうち、妻との海外旅行の支度金を会社に負担させたとの記載(以下「②の部分」という。)に係る事実は、被上告人乙川が妻を同伴して海外に出張した際、正規の支度金の外に支度金名目で会社から金員を受領したとして業務上横領として起訴されたが、第一審判決が、その外形的事実の存在と右金員の受領は会社の内規に違反する交際費資金の不当な流用であることを認めたものの、会社のためにする出費という側面のあることを否定し難いとの理由から、会社資金を不法に領得したものと断ずることはできないとして無罪とした事実である。

なお、上告人は、中公新書の文章(2)に続いて、第一審判決で有罪とされた事実と無罪とされた事実について、右判決を要約してやや詳しい説明を加える記述(以下「中公新書の文章(3)」という。)をしており、右文章中において、妻との海外旅行の支度金を会社に負担させた行為は、会社と無関係と断定できないとして無罪になったと紹介している。

6  中公新書の文章(2)のその余の記載(以下「③の部分」という。)に係る事実(会社で費用を負担するハイヤーを妻に自由に使用させたり、会社の費用でレストランから食事を自宅に運ばせたほか、家族と行ったゴルフの費用も会社に負担させるといった甚だしい公私混同の行為を行ったこと)は、第一審判決の量刑の理由中に記載された事実である。

7  上告人は、第一審判決を資料として中公新書の文章(2)を執筆したものであり、摘示した事実を真実であると信じていたが、執筆当時右判決に対して被上告人乙川が控訴をしたことを知っていた。

二  原審は、右事実関係の下において、SAPIOの記事に基づく損害賠償である五〇万円及びこれに対する平成五年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員に加えて、次のように判示して、中公新書の文章(2)の記述について上告人の被上告人乙川に対する名誉毀損による不法行為責任を認め、同じく不法行為責任を認めた同一書籍中の他の記述(中公新書の文章(1))と併せて、被上告人乙川の請求を、三〇万円及びこれに対する平成五年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員の支払を命ずる限度で認容した。

1  中公新書の文章(2)の記述は、被上告人乙川の社会的評価を低下させる事実の摘示に当たるが、公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的に出たものと認められる。

2  しかし、摘示された事実いずれも真実であることの証明があったと認めることはできない。

3  また、②の部分に摘示された事実は、第一審で無罪となった事実であり、③の部分に摘示された事実は、第一審判決の量刑の理由の中で述べられたにすぎない事実であるから、上告人において真実と信ずるについて相当の理由があると認めることができないことは明らかである。

①の部分に摘示された事実は、第一審で有罪となった事実であるが、上告人は刑法学者で、第一審判決に対して控訴がされ、これが争われていることを知っていたのであるから、右事実を真実と信ずるについて相当の理由があるとはいえない。

三  しかしながら、原審の右3の判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

1  民事上の不法行為たる名誉毀損については、その行為が公共の利害に関する事実に係り、その目的が専ら公益を図るものである場合には、摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があれば、右行為は違法性がなく、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がなく、不法行為は成立しない(最高裁昭和三七年(オ)第八一五号同四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁、最高裁昭和五六年(オ)第二五号同五八年一〇月二〇日第一小法廷判決・裁判集民事一四〇号一七七頁参照)。そして、刑事第一審の判決において罪となるべき事実として示された犯罪事実、量刑の理由として示された量刑に関する事実その他判決理由中において認定された事実について、行為者が右判決を資料として右認定事実と同一性のある事実を真実と信じて摘示した場合には、右判決の認定に疑いを入れるべき特段の事情がない限り、後に控訴審においてこれと異なる認定判断がされたとしても、摘示した事実を真実と信ずるについて相当の理由があるというべきである。けだし、刑事判決の理由中に認定された事実は、刑事裁判における慎重な手続に基づき、裁判官が証拠によって心証を得た事実であるから、行為者が右事実には確実な資料、根拠があるものと受け止め、摘示した事実を真実と信じたとしても無理からぬものがあるといえるからである。

2  これを本件についてみるに、上告人は、刑事第一審判決の言渡後、控訴審においてこれが覆される前に、右判決を資料として、摘示された事実を真実と信じて中公新書の文章(2)を執筆したものである。そして、①の部分に摘示された事実は、第一審判決が業務上横領に該当するとして有罪とした事実、③の部分に摘示された事実は、右判決の量刑の理由の中に記載された事実である。また、②の部分は、中公新書の文章(3)には、妻との海外旅行の支度金を会社に負担させた行為は第一審において無罪とされたことがおおむね正確に記述されているという前後の文脈やその記載内容を考慮すると、被上告人乙川が刑事裁判では無罪とされたものの公私混同と非難されるような態様で、妻との海外旅行の支度金を会社に負担させたとの事実を摘示するものと解するのが相当である。そして、第一審判決が、被上告人乙川が妻を同伴して海外に出張した際、正規の支度金の外に支度金名目で会社から金員を受領したとの外形的事実の存在とこれが会社の内規に反する交際費資金の不当な流用であると認定していることからすると、判決の認定した右事実と②の部分に摘示された事実との間に同一性があるとみて差し支えはないというべきである。右のとおり、中公新書の文章(2)に摘示された事実と刑事判決の認定事実との間には、同一性があると解され、前記特段の事情の存在がうかがわれない本件においては、上告人が摘示された事実を真実と信ずるについて相当の理由があるというべきであり、このことは、上告人が刑法学者で、第一審判決に対して控訴がされたことを知っていたとしても異なるところはない。なお、摘示した事実が第一審判決にのっとったものであることを読者が容易に知ることができるよう記載しておくことが望ましかったとはいえようが、そのことは右の結論を左右するものではない。

3  右のとおり、中公新書の文章(2)については、上告人に故意又は過失が認められないから、名誉毀損による不法行為は成立しないというべきである。右文章につき不法行為の成立を認めた原判決の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、この違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。

同第二の三、四について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、被上告人らにつき不法行為は成立しないとした原審の判断は、前記中公新書の文章(2)に関する判断を考慮しても、なお、肯認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は採用することができない。

以上のとおり、原判決のうち、中公新書の文章(1)及び(2)について併せて損害賠償請求を認容した部分(SAPIOの記事に基づく損害賠償である五〇万円及びこれに対する平成五年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を超えて上告人に対して支払を命じた部分)は破棄を免れない。そして、右の部分については、中公新書の文章(1)の記載による慰謝料の額について更に審理を尽くさせる必要があるから、これを原審に差し戻すこととし、右破棄部分以外の原判決は正当であるから、その余の上告を棄却することとする。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官千種秀夫 裁判官元原利文 裁判官金谷利廣 裁判官奥田昌道)

上告代理人鈴木裕文、同小長井雅晴の上告理由

はじめに

一 本件の上告人は私立大学の一教授である。

教授は、ある日、ライターから、「最近のサラリーマン犯罪の特色」について聞きたいとのインタビューを申し込まれ、これに応じた。話を聞いたライターは、記事をまとめた。この記事は雑誌に掲載された。

ところが、しばらくして弁護士から教授の下に内容証明郵便が届いた。それには、つぎのように書かれていた。

「…通知人は一九八〇年四月二六日、KDD関係者の政官界への贈収賄事件が捜査当局によって途中で解明を中止されたさい、その身代わりのごとく、社長の会社交際費乱用による業務上横領事件として無理な立件をされて起訴されましたが、八五年四月二六日、東京地裁、九一年三月一二日、東京高裁において各判決を受けて、ほとんどの公訴事実について無罪宣告を得た結果、高裁における有罪認定は僅か六物品のみとなり、現在残るこの有罪部分について、上告審をたたかっております。

通知人に関して、『交際費が58億円』『家族のショッピングにまで会社のハイヤー』『自分の下着まで会社の交際費で』に該当する認定は、既に一審判決から、存在せず、すなわち虚偽の事実であります。

貴殿は、大学において刑法を講じておられる身でありながら、自ら刑法を侵され、貴殿に対して何らの過失も犯していない他人に対して、かかる誹謗を行って、その人権に対し重大な侵害を加えられることは、由々しきことであり、大きな社会問題となりましょう。」

出版社の編集部は、雑誌に〔訂正とお詫び〕の広告を出した。教授も名を連ねた。弁護士の言うことを全面的に信用したのである。広告には、「実際には、乙川氏は、…公訴事実のほとんどすべてについて無罪判決を受け、右のような事実は、裁判所において、公式に否定されております。」と書かれた。広告を起案した編集部において、内容証明の内容をそのまま受け入れたのである。

だが、告発者は教授への請求をやめなかった。朝日、毎日、読売、の各新聞全国版に謝罪広告を出し、「慰謝料として金六〇〇万円の支払」をなせというのである。教授の他の著書(新書)にも「類似の、事実に反する名誉毀損記述」があるという。出版後ほぼ七年、何らクレームをつけられることなく世にうけいれられた新書である。出版社は出庫を停止し、新書は書店の店頭から消えた。

さらに、告発者は民事訴訟提起、刑事告訴に踏み切った。訴状にはつぎのように記されていた。

「……刑事法学者として当然に承知しているはずである『無罪推定』、大学において刑法を講じている身として当然に承知しているはずである刑法名誉毀損罪の構成要件をも無視して、否、一般市民として他人の名誉を不必要に傷つけてはならないという良識をすら忘れて、被疑者、被告人と呼ばれる人々を、みずからが断罪することが許される地位にあると誤信するに至っているのではないか。

そう考えなければ、本件のような不必要な、刑法牴触行為を二回(他にもあるかは今のところ不明)にもわたって繰り返すことの説明がつかない。」

教授は、このような者であるとして告発されたのである。

教授は争った。しかし、高裁判決段階で、つぎの部分が名誉毀損として(真実性も真実と信じるについての相当な理由もないとして)損害賠償を基礎づけるとされた。

雑誌の記事では、

「これは3年間で58億円にものぼる巨額の交際費が発覚。家族のショッピングにまで会社のハイヤーを使ったり、ひいては自分の下着まで会社の交際費で落としていた。」という部分。

新書については、

「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎は」の部分と

「KDDでは、社長その他の役員の訪問者に対し、外国人・日本人を問わず、身の回りの品などを部外贈答品(社長贈答費)として贈ることが慣習化していた。そこで乙川元社長は、ネグリジェ、ハンドバッグ、紳士靴、時計のバンド、牛肉、洋酒、冷蔵庫と手当たり次第、会社業務と全く関係のないレシートを会社に持ち込んで現金化したり、会社のハイヤーを妻の買物などにも自由に使わせ、一流レストランから社費で昼食を自宅に運ばせたり、妻との海外旅行の仕度金、家族とのゴルフ代まで会社に負担させるといったように、公私混同の限りをつくした」という部分。

二 雑誌の記事はライターが書いたものである。新書の記述は、KDD事件の第一審刑事判決をはじめとする資料を下に書かれたものである。いずれにしても、こうした“公費天国”“公私混同”に対する批判的記述が許されないとすることは、恐ろしいことである。このようなことになったのでは、現に生起する杜会現象について発言することはできなくなってしまう。

オウム真理教関連事件もそうである。

厚生省汚職についてもそうである。

例えば、厚生省汚職について、一九九六年一二月二六日付朝日新聞朝刊にはつぎのような記事がある(もとより、元の記事には××部分に個人名が入っている)。

「調べでは、××代表は病院経営で十七億円の借金を作って困っていた九二年四月、特別養護老人ホーム建設について、××前課長から『補助金があるので、自己資金がいらない。これからの事業だ』などと勧められた。旧知の仲の××前次官からも『全面的に応援してやる』と言われ、その後、わずか数年の間に、八つの社会福祉法人を設立。」(1面)「次々と特養ホームを建設し、工事を自分の関連会社を通じて下請け会社に請け負わせ、総額で二十七億円近い利ざやを稼いでいた彩(あや)福祉グループ代表・××容疑者の手口は、福祉関係者の想像を超えるものだったようだ。」(25面)「『上意下達』の官僚社会で、将来が約束されていた前事務次官は、自らの威光を十分心得ていた。」(27面)

現在、“公費天国”“公私混同”は、まさに批判されなければならないのである。

右の厚生省汚職について、起訴された被告人が有罪判決を受け確定するまではコメントすることが許されないというのでは、専門家の責任は果たされない。

三 現在、犯罪についての表現活動とプライバシー、名誉毀損の問題は混沌とした状況にある。一部マスコミの興味本位の報道が弊害を生み、「犯罪報道と人権」が重大なテーマとして学界でも取り上げられた。「ロス疑惑」報道に関し、民事訴訟もたびたび提起され、請求を認容する判決も多く出た。その後も、名誉棄損訴訟は相次いでいる。また、提訴に至らなくても、弁護士会を通じて人権救済の申立をする例もある(例えば、一九九六年五月二三日付朝日新聞によれば、法学書『日本近代法論』について毎日新聞の書評に「全体として根本にある国家観が(中略)幼稚であるため、成果が見えにくい」などと書かれたため、執筆者が大阪弁護士会に人権救済の申立をなし、弁護士会は「人権侵害の疑いが強い」として、毎日新聞社に改善を求める要望書を提出したという)。

このような状況下で、出版社側に萎縮効果も生じている(例えば、一九九六年一〇月一五日付朝日新聞によれば、講談社は週刊ヤングマガジンの内容に「個人、団体の名誉にかかわる誤解を与えかねない表現があった」として回収措置をとったという。同報道では、「問題になったと見られるマンガ」には自民党の元首相を連想させる似顔絵が載せられて「こんな男を総理にしては日本の拝金主義に拍車がかかるばかりだ」などのやりとりがあるという)。

坂本弁護士一家事件について描いた漫画ゴーマニズム宣言(「拉致――最低最悪の抗議手段」)の作者が、オウム真理教側から名誉毀損で提訴された事件も、まだ記憶に新しい。

さすがに、最近は、請求を棄却する判決もあらわれている。一九九六年一二月二一日付朝日新聞によれば、講談社発行の週刊フライデーに掲載された某宗教法人に関する記事について教団側が「うその記事で名誉を傷つけられた」として損害賠償を求めた訴訟において東京地方裁判所は請求棄却の判決を言い渡しているという。また、かつてオウム真理教代表者の弁護人であった者が「ボケ」弁護士であるなどと書かれたことについて損害賠償を請求した事件で、三省堂の『弁護士という人びと』に対する件では請求が認容され、この書物の新聞の書評に対する件では「弁護士の職責は極めて重大であり、国民が公正な批判を加えることには高度の公益性がある」として請求が棄却された(一九九六年一二月一二日付朝日新聞、同月一九日付朝日新聞の報道による)。

名誉毀損訴訟は今まさに揺れ動いている。請求棄却と認容を分ける基準は未だ確立されていない。

本件は、このような状況下にあって生起した事件である。新書はもとより雑誌記事も、“公費天国”“公私混同”を批判するシリアスなものであり、これらの批判、表現が許されないとすることはできない。こうした表現が名誉毀損罪になりあるいは不法行為となるというのであれば、かつて啓蒙思想家がそうしたように、匿名を用いて著作活動をするしかなくなる。それは暗黒の時代への逆行である。「人権救済」に名をかりた人権侵害を許してはならないのである。

第一 憲法論

一 原判決は、刑法の研究者である上告人の正当な表現活動、学問的著作の発表に関して、上告人に不法行為責任を認め、さらに「良識」を忘れた「刑法牴触行為」を繰り返す人間よばわりされたことについて救済を拒んだものであり、憲法二一条、二三条、一三条に違背する。

二 表現の自由(憲法二一条)、学問の自由(二三条)、人格権(一三条)は、たんに大学で研究・教授する自由のみならず、研究の成果を発表する自由も保障している。さらに、自ら執筆した著作を発表する自由に加えて、新聞、テレビ等の取材に応じ、インタビューに応える自由も、憲法の保障の下にあると解される。

三 周知のように、表現の自由は、近代的な人権思想の展開の中でも中心的な存在であった。それは、人間が人間として認められ、その人格を発展させるために不可欠であるうえに、民主主義過程の根幹をなす重要な権利であるともいわれる。

とくに、国民が国政について決定し、政府の行為を批判し、国政に自ら参加するためには、政府、公人、制度に対する批判的な表現活動は不可欠である。とりわけ複雑化した現代社会においては、国民に理解できるような「わかりやすい」表現をなす知的専門家が必要である。官僚制度のどこに問題があるのか、選挙制度のどこに問題があるのか、司法制度の問題は何か、政治家や官僚のどのような点が改善されなければならないのか――こういった問題に、「啓蒙」的活動をなす専門家の助けなくして、的確な判断をなすことは不可能である。

四 報道機関の報道が国民が国政に関与するについて重要な判断の資料を提供し、国民の「知る権利」に奉仕するものであることは、つとに一九六九年一一月二六日の最高裁決定(博多駅テレビフィルム提出命令事件、刑集二三巻一一号一四九〇頁)において認められたところである。だが、現代の報道は、知的専門家の援助なくしては的確になしえない。報道記者だけでは国民に適正な判断資料を提供することはできないのである。新聞記事に専門家のコメントが付され、テレビのニュース報道の際にも、専門家へのインタビューが放映されたりコメンテーターがキャスターと同席し発言することは、重要な意味をもつ。

ちなみに、専門家の一部にも、マスコミの報道に専門家がコメントを寄せることについて、消極的・批判的な考えをもつ者がいないではない。しかし、そのような考えは、良かれ悪しかれマスメディアが現代社会で重大な役割を果たしていることを看過するものである。優れた良心的な知的専門家がマスメディアを通じて発言せず研究室に閉じこもるようになり、曲学阿世の徒が知的専門家の皮を被って発言するようになったのなら、どのようなことになるであろうか。専門家の一部にある考え方は、現実を見失った「我関せず」の姿勢を容認するものであり妥当ではない。国政について判断するための適正な資料を国民に提供するのに貢献することは、むしろ専門家の責任であるといえる。

上告人は、「最近のサラリーマン犯罪の特色」についてライターからインタビューを受けてこれに応じたものである。新書『賄賂の話』は、「まいない」と呼ばれた上古の例から最近の身近な贈収賄事件まで、贈答文化と結びついた賄賂の実態とその法的性格を紹介し、ロッキード事件をはじめとするさまざまな疑獄事件を通じて「構造汚職」を生み出す日本的体質について考察すべく執筆したものである。いずれについても、まさしく、知的専門家の職責を果たすべく行ったものといえる。

このような上告人の活動は、憲法の手厚い保護を受けてしかるべきである。

五 知的専門家の表現内容について、もし批判すべきと思われる点があるなら、自らも表現活動をなして、公開の討論により決着をつけるべきである。論争は表現の自由を活性化する。本来、司法の威を借りて、不法行為にあたるか否かで決着をつけるべきものではない。裁判所法三条が審判の対象を法律上の争訟に限定しているのもこの故である。表現の自由、学問の自由の重要性、性格に鑑みるならば、司法は表現活動を軽々に犯罪にあたるとか不法行為にあたるとすべきではない。

そのような観点から刑法二三〇条の二は公共の利害に関する場合の特例として名誉毀損罪としての処罰を否定している。民法七〇九条の解釈においても、すでに最高裁昭和四一年六月二三日判決(民集二〇巻五号一一一八頁)において「その行為が公共の利害に関する事実に係りもっぱら公益を図る目的に出た場合には、摘示された事実が真実であると証明されたときは、右行為には違法性がなく不法行為は成立しないものと解するのが相当であり、……その行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があるときには右行為には故意もしくは過失がなく、結局、不法行為は成立しないものと解するのが相当である」とされている。

六 本件上告人の活動のような、知的専門家の公益的な表現活動については、それを不法行為とするについては、厳格な審査がなされなければならない。この点、参酌されるべきは、「現実的悪意(actual malice)」の法理である。合衆国連邦最高裁は、「公人」の名誉毀損について損害賠償を得るためには表現者が虚偽であることを知っていたか虚偽であるかどうかに全く不注意であったこと(現実的悪意)を持っていたことを原告において証明しなければならないとしている。公益的な表現活動が手厚く保護されてしかるべきだとする考えが背景にある。この法理は、わが国の民法七〇九条の解釈適用においてしかるべきだとする考えが背景にある、この法理は、わが国の民法七〇九条の解釈適用においても重視されてしかるべきである。

七 本件の上告人の活動は憲法によって保護されなければならない。これを、僅かといえども不法行為と認めた原判決は破棄されなければならない。

第二 判決に影響を及ぼすことの明らかな法令の違背

原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな経験則違反、民法七〇九条の解釈、適用についての誤りがある。

一 SAPIOの記事について上告人の不法行為責任を認めた点

1. 上告人は、フリーライター田村建雄による最近のサラリーマン犯罪の特色についてのインタビューに応じただけであるから、SAPIOの記事については、仮にその内容が真実でなく真実であると信じるにつき相当の理由がないとしても、不法行為責任を負うものではない。

2. 情報提供者に過ぎないものが不法行為責任を負うには、情報提供行為が民法七〇九条不法行為の要件を充たしていなければならない。とくに、マス・メディアとの共同不法行為でなく、本件のように独自の不法行為責任が問題にされる場合は、この理があてはまる。

判例上、情報提供者の不法行為責任が問題になった事件として、ユーザーユニオン事件に関する週刊誌報道が問題になった事件がある。この事件では、週刊誌に情報提供した別の新聞社の記者の不法行為責任が問われた。東京地裁昭和五九年六月一四日判決(判例時報一一二〇号九頁)は、被告の記者が原告に対する悪意から記事が公表され原告の名誉を毀損することをあえて容認して情報提供をしたとして、共同不法行為者としての責任を認めた。

また、市政批判が名誉毀損に問われた大阪地裁昭和五九年七月二三日判決(判例時報一一六五号一四二頁)では、情報提供者は市民団体の代表であったが、新聞社がそれをそのまま報道せず、独自の調査を加えて掲載したので、情報提供者は共同不法行為責任を負わないとされた。

最近の福岡地裁平成五年九月一六日判決(判例タイムズ八四〇号一五二頁)は情報提供者が弁護士に情報を提供し新聞記者が弁護士らに取材して記事を書いた事案につき「記事の材料を提供する者が、当初から故意に当該事項が事実に反し虚偽であることを知りまたは過失によって知らずに、自己の情報提供によりその内容に従った記事が掲載される蓋然性が高いことを予測し、これを容認しながら、あえて情報提供をし、かつ右記事が掲載、頒布されれば、記事の内容から当然にある者の名誉が毀損されるに至ることを認識できるような場合には、情報提供行為と記事掲載との間には直接的な因果関係があるというべきであるから、提供者は不法行為責任を負うものと解される」と述べた(前掲一五七頁)。

総合するに、判例は、情報提供者が、①当該提供情報の内容が虚偽であることを知りまたは過失によって知らずに、②当該提供情報の内容が名誉を毀損するものであることを認識しうべきであり、③当該提供情報の内容がそのまま記事として掲載されることを認識できたのに、あえて情報を提供した場合に、不法行為をなしたものとしているといえる。情報提供行為自体が不法「行為」となるのでなければ、不法行為責任は認められないのである。

3. そこで、本件を見ると、上告人は、田村建雄の「最近のビジネスマン犯罪の特色」といったことについてのインタビューに答えたに過ぎない。KDD事件とか乙川一郎の業務上横領、公私混同などについては、質問されていない。上告人は、「その典型が79年に発覚し、業務上横領罪で東京地検に逮捕されたKDDの乙川一郎社長のケースだ。これは3年間で58億円にものぼる巨額の交際費が発覚。家族のショッピングにまで…」といった記事になることを亳も予測していない。KDD事件についてインタビューされたわけではないのだから予測しなかったのは当然であり、予測可能性もない。

つぎのような関係者(上告人本人、SAPIO編集部の泰野、楠田両証人、南部篤)の各供述を総合すれば、問題のKDD事件ないし乙川一郎についての質問は、上告人に対するインタビューの際にはなされていず、これらの事項は、田村建雄において、当時の新聞記事等の資料を参考に記述したものであることが明らかである。このように、上告人がKDD事件等について発言せず、出版社のライターにおいて資料を調査して記事を作成、掲載した場合は、従来の判例の基準に照らしても、上告人が不法行為責任を負う余地はない。

【上告人の供述】

被告代理人 そのとき田村氏は、どのようなことについて教授に質問いたしましたか。

上告人 写真を撮りましたもんですから、写真を何回も何回も撮るんで、私ほんとはいらいらしてたんですけれども、写真を撮った時間も含めてわずかな時間なもんですから、最近のサラリーマン犯罪の特色といったことが中心でしたね。

KDD事件とか乙川氏についての具体的な話はその際質問の内容になっておりましたか。

それはなっておりません。サラリーマン犯罪の特色ということで取材を受けたわけです。

取材の内容はサラリーマンの犯しやすい犯罪、そういったものであると。

はい。そうした場合に、どういうときにお縄になるかとか、処罰はどの程度とか、そんな話でした。

(第一審第六回口頭弁論被告本人調書速記録二〇頁以下)

【泰野の供述】

原告代理人(五十嵐二葉) 田村さんは話を聞いてきて、それを田村さんがまとめたんでしょうか。

泰野篤行 そうですね。

田村さんは甲野さんにどういうスタイルの記事になるんだということを説明したかしないかについて聞いていますか。

聞いていません。

(第一審第八回口頭弁論泰野証人調書速記録一四頁)

被告代理人 あなたがもしこういう記事とか構成されるときは、当然インタビューを受けた者に原稿を送ってチェックしてもらうと。

泰野篤行 ええ。

田村さんがどういうふうにしておられるかは分かりますか。

記事を書いてて途中で分からなくなると、よく電話して聞いていることは確かですけど、この件に関しては分からないです。

何が分からないと。

法律の場合は難しい単語がありますね、これはどういう意味ですかということを聞く場合があると思います。

(第一審第八回口頭弁論泰野証人調書速記録三一頁)

被告代理人 田村さんはインタビューに行くときに録音テープはとられていますか。

泰野篤行 とってません。

(第一審第八回口頭弁論泰野証人調書速記録三四頁)

【楠田の供述】

原告代理人(五十嵐二葉) この場合には、テープは取らなかったと。

楠田武治 田村から聞いた限りでは、取らなかったと聞いております。田村さんはそのようにして記事をお書きになるということですが、そのために筆者というか、名前を出される例えばこの件では甲野さんの言わなかったことを、自分の意見を差し挟んで書くとか、ほかから資料を見て自分で原稿を書くとか、そういうふうなことはあるんでしょうか。

自分の意見を差し挟むということは余り基本的にはないと思いますけれども。後は具体的なその史実とか事実なんかというのは、資料を見る場合もあります。例えばもう歴史上の例えば何年に何が起こったとかですね、そういったものに関しては、資料なんかを参考にするとは思います。

(第一審第一二回口頭弁論楠田証人調書速記録七頁以下)

被告代理人 先程主尋問で歴史上の資料という言葉が出ましたね。

ええ。

それはどういうものですか。

ですから例えば、クリントンが村山に会ったと、どういった話をしたとか、日米交渉が決裂したとか、そういった具体的な事実に関しては、それは何時あったとかいうことは別に見ているわけではないですから、そういったことを資料を探すこと、確認したりする作業はしています。

例えば、新聞記事とか、ほかの雑誌とかそういうものでしょうか。

特に新聞なんかは確認としては、これは田村個人というわけでなくて、一般的に認められているものに関しては、もちろん目を通していると思いますけど。

それで具体的に伺いますが、問題のこの先程お見せした「SAPIO」の記事、これ田村さんは甲野先生のところにインタビューに行ったことは間違いないんですけど、そのほかに、何かほかのものを見てこの原稿を書かれたというふうにおっしゃておりましたか。

特にあれでしょうけれど、多分その中に具体的な事実というか、新聞報道なんかがあったものがありましたので、それは参考にはしていると思います。

(第一審第一二回口頭弁論楠田証人調書速記録二八頁)

さらに、インタビューに立ち会った南部篤の供述(乙第三二号証)も、右の事実を裏づける。

インタビューされた内容は、「会社の備品の私的費消や私用電話、私用コピーなどが罪になるか否か、会社の交際費等での飲み食いはどうか、財産犯罪や文書犯罪の構成要件について、刑事事件となった場合の量刑の相場についてなどでした。」「記者からとくに詳しく説明を求められた点は、犯罪の構成要件の内容、『併合罪』や『法定刑』、『処断刑』といったテクニカルタームの意味についてでした。」というのである。

また、「取材の終わった後、記者の方から、いつ頃の雑誌に載るとか、どんな内容の記事にするとかいった話は何もありませんでした。もちろん、原稿の校正を依頼するような話は一切ありません。」

原判決は、このような証拠関係を無視して、SAPIOの記事について上告人の不法行為責任を認めたものであり、破棄されるべきである。

4. それでは、原判決は、いったいいかなる理由で、SAPIOの記事につき、上告人の不法行為責任を認めたのであろうか。

原判決は、①フリーライター田村建雄が、上告人にインタビューを行ってSAPIOの記事の原稿を作成し、上告人宅にファックスで送ったこと、②編集担当者楠田武治が上告人に電話して「原稿に関して不明な点について確認」したこと(電話により校正したのではない)、③手直しした原稿を杉本健次郎に日本大学の上告人のところに持って行かせたが、その際楠田が電話で上告人に確認していること、④上告人に対し掲載されたものを送ったが、上告人から何の異議も述べられていないことを認定し、さらに⑤「訂正とお詫び」の広告の掲載に上告人が同意している事実を加えて、SAPIOの記事の原稿を直接書いたのは田村で、同記事には「取材・構成/田村建雄」と記載されているが、上告人にも「訂正等の機会が十分与えられており、かつ、その後SAPIOの記事について責任あるものとして行動しており」、したがって、SAPIOの記事は上告人が「執筆したものと同等に評価することができる」とした第一審判決を追認し、さらに付言して「いわゆるゴーストライターの執筆による著作であっても、これについて自らを執筆者として表示することを許諾した者がその内容について責任を負うべきことは論をまたない」としている。

5. 原判決の右の論理は混乱と誤認に満ち、理由不備ないし真理不尽の典型であるといえる。上告人が不法行為責任を負うためには、前述したように、上告人自身がSAPIOの記事を発表して名誉を毀損した(不法行為を行った)といえる場合でなければならない。そのためには、SAPIOの記事の内容が上告人の述べた内容と一致しており、同記事の掲載が上告人の意思に基づくといえることが、まずもって必要である(不法行為法においても有意行為論が支持されており、行為者の意思に基づかないものは、不法か否かという前に「行為」ではない)。もし上告人自身が執筆したのなら問題はないが、本件では上告人はインタビューを(具体的事件についてではなく一般的な問題について)受けた者としか認められないことは、前述したとおりである。このような場合、不法行為責任を問うことはできない。

6. すなわち、執筆者となる場合にはつぎのような図のような類型があると考えられる。

(1)の類型は、まさに自らペンを取って原稿を書いたりワープロを打ったりする場合である。文章には、自らペンを取った者の意思・観念が当然そのままあらわされる。(2)の類型は、口述筆記やテープ起こし、肉筆原稿のワープロによる清書などの場合である。この場合も、執筆者となる者の意思・観念がそのまま文章にあらわされる。(3)の類型は、素材集めや文章作成はライターに任されているものである。この場合、文章にあらわれる意思・観念はライターのものであるが、執筆者はその効果が自分に及ぶことを承認する。

これら(1)ないし(3)のいずれの類型であっても、執筆者は著作物についての責任を免れない(もっとも、(3)の類型の場合、ライターが、執筆者の予想できないような背信行為をなした場合〔執筆者に名誉毀損の責任を負わせてやろうと画策して、わざと名誉を害するような内容のものを公にするなど〕は別論であろう)。

他方、執筆者とならない場合には、つぎの図のような類型が考えられる。このうち、(4)(5)は「素材(情報)提供者となっている場合」、すなわち、提供した情報が、そのまま記事になっている場合である。

7. 本件が(1)の類型でないことは証拠関係上明らかであり、第一審、第二審判決とも認めるところである。また、インタビューした田村建雄がテープを録っていないことは、前述の秦野、楠田証言から明らかである。したがって、(2)の類型にあたるとすることもできない。そこで、原判決は、本件を(3)類似のものと促え、「いわゆるゴーストライターの執筆による著作であっても…」と付言したのである。

しかし、SAPIOないし小学館の関係者は、前述の秦野、楠田の供述あるいは南部陳述書からも明らかなように、上告人に、ゴーストライターによるものであれ何であれ、執筆者となることを依頼してはいない。したがって、本件を(3)類似のケースと捉らえることはできない(後述するように本件は(7)の類型にあたる)。

また、原判決は、「これについて自らを執筆者として表示することを許諾した者がその内容について責任を負うべきことは論をまたない」と述べている。しかし、上告人が「執筆者として表示することを許諾した」事実は証拠関係上全く認められないし、現実にも存在しなかったものである。

そもそも、SAPIOの記事の完成されたものを見ても、上告人は執筆者として表示されていない。確かに、「日本大学教授甲野太郎」の名は掲げられているが、冒頭に「企業とビジネス犯罪に詳しい甲野太郎氏に最近のサラリーマン犯罪の傾向と量刑について解説してもらった。」とあり、「取材・構成/田村建雄」と明記されていることからも、田村建雄を執筆者とする記事であることは明白である。そして、実際にも、執筆した者は田村なのであっる(もっとも、雑誌社の商業主義的発想――有名人の名を冠しておいた方が雑誌が売れる――ということから、記事の体裁が、甲野太郎が執筆したものとの誤解を与えかねない表示になっている感はあるが、それは出版社の不誠実というものであって、上告人が執筆者となることを許諾したことの証左となるものではない)。

また、SAPIO編集部ないし小学館は、上告人に対し、原稿料は支払っていず、僅かな「インタビューを受けた謝礼」しか払っていない。金額も、執筆した田村に八万円程度の費用が支払われているのに対し、上告人には三万円から五万円程度である。商業雑誌に「有名大学教授」が記事を執筆するのに、このような扱いは考えられない。これはまさしく、SAPIO編集部ないし小学館において上告人に「執筆」を依頼していなかったことの証左である。

【秦野の供述】

被告代理人 問題のSAPIOの記事について原稿料と言いますか、そういうものは払っておられますか。

秦野篤行 原稿料と言いますか、インタビューを受けた謝礼ですね。

田村さんにも謝礼を払っておられますか。

そうですね。

田村さんには幾らぐらい、この記事に関して。

ちょっと調べてみないと分かりませんけれども。

この法廷前にお伺いしたところだと、八万円ぐらいは行ってるんじゃないかと。

大体その程度だと思いますけれども。

甲野先生がインタビューに応じてくれたということについては幾らぐらいと。

三万から五万ぐらいじゃないですか。

もし直接大学教授なり作家の人とかそういった人の、先程五十嵐先生が言われた第三類型の署名入りの記事の場合ですと、原稿料という形で筆者にお支払いすることになるんですね。

はい。

仮にライターというような人がいたとしても、著者の原稿料のほうが多いんですね。

著者に払う場合は、著者が全部最初から自分で書くわけですから、ほかの人は介在しませんので、著者だけに原稿料を払います。

(前掲秦野証人調書速記録三三頁以下)

本件が(3)類型ならば、「原稿料」が上告人に、少なくともライターの田村より高い額、支払われたはずである。

8. では、①田村が原稿を上告人宅にファックスで送ったこと、②楠田が「原稿に関して不明な点について確認」したこと、③手直しした原稿を杉本健次郎に日本大学の上告人のところに持って行かせたが、その際楠田が電話で上告人に確認していること、④上告人に対し掲載されたものを送ったが、上告人から異議が述べられていないこと、といった事実によって、上告人に不法行為責任を認めることはできるであろうか。

もし、上告人に原稿の内容のチェックや校正をなす義務があり、内容の問題点をチェックできたにもかかわらずあえて放置したとすれば、過失責任を肯定する余地が全くないではないかも知れない(犯罪論でいう不真正不作為犯的構成である)。この場合には、前掲の(4)または(6)の類型にあたる。

しかし、上告人は、内容チェックや校正を依頼されたことはなく、条理上、これらのことをなす作為義務があるとも考えられないから、右のように考えることはできない。実際、上告人は内容のチェックも校正もしていず、第一、二審判決とも、上告人が内容をチェックしたとも、校正したとも、こうしたことを依頼されたとも認定していない。ただ「甲野にも訂正等の機会が十分与えられており」としているだけである。しかし、訂正義務のない者にいくら訂正の機会が与えられようと、不法行為責任を負わせることはできない。それは、子供が川で溺れているのを水泳の達人である赤の他人が発見して容易に助けられるのに放置して溺死させたとしても、作為義務がない以上、刑事責任を負わせることができないのと同様である。

9. のみならず、原判決の事実認定、事実の評価は誤っている。

まず、②の楠田が「原稿に関して不明な点について確認」したというのは、あくまで楠田が、田村の執筆した原稿について「不明な点」があったので、上告人に電話して補充的なインタビューをしたというものに過ぎない。原稿の訂正を依頼したのでもなければ、まして校正を依頼したのでもない。これをもって、上告人に訂正義務を認め「訂正等の機会が十分与えられ」たから「執筆したものと同等に評価する」ことはできない。

【楠田の供述】

被告代理人 それで言葉が具体的に間違っていると、漢字が間違っているとか、用語の言葉が専門用語が間違っているからそれを直してくれと、そんな感じですか。その辺は分かりませんか。

楠田武治 何か電話のことをちゃんとゆっくリメモにして書き入れたのは覚えていますけれども、具体的に何を直すとか、法律用語だったのか、てにをはなのか、ちょっとどれがどれというのもちょっと思い出せません。

もう一つ確認ですけど、電話のときに、それは楠田さんが例えばまず甲野教授に、これはこれこれでどうですかと聞いて、甲野教授が、そこはこういうことなんですというふうに答えられたわけですね。

そうですね。

そうすると、甲野教授のほうから、じゃあ今からこの原稿でおかしいところを申し上げますから何行目と何行目を直してくれと、そういった指示がきたということはないわけですね。

ちょっとそこはですね、覚えていません。

(前掲楠田証人調書速記録二四頁以下)

被告代理人 ファックスを送った〔あ〕と甲野先生と電話で話したとき、どんなことがあったのか、本当に覚えておられることはどういうことですか。それをちょっともう一回最後に。

楠田武治 ちょっと余り本当に期日がたっていますので、何かその…。

だからその問題の「SAPIO」の記事のことについて、本当に何か分からないところが何箇所かあったようなんで、それを聞いたという程度なのか、先程言ったように更にそういうことくらいしか覚えていないのか、それとも甲野先生からもこういうとこを直してくれと、具体的なことがあったというのを覚えているのか、どの辺まで本当は覚えているんですか。

私が聞いたことに関して、説明を口頭でされますね。それを自分でちょっとメモに。そこに原稿のコピーを見ながら電話していますから、見ながらそこに。

メモを取られて。

メモを取りながらというふうに覚えています。

(前掲速記録三七頁以下)

右の楠田供述から明らかなように、楠田は、上告人に電話で補充的インタビューをなし、単に原稿のコピーの端をメモ用紙にして、法律用語等の解説をメモしたに過ぎない。

また、③の事実(手直しした原稿を杉本健次郎に日本大学の上告人のところに持って行かせたが、その際楠田が電話で上告人に確認していること)は証拠上認められない。

まず、手直しした原稿を杉本健次郎が日本大学の上告人のところに持って行ったかどうか、そもそも不明であるが、上告人らは、「手直しした原稿」の受領を否定しており、上告人に到達したという証拠はない。かえって、南部陳述書(乙第三二号証)にはつぎのように述べられている。

「右の取材の後、校正や問い合わせなどが研究室にあったことはありません。甲野教授は、すでに述べたように、週のうち講義のある月曜日と土曜日と、隔週の定例教授会のある木曜日以外は研究室に来ることはなく、それ以外の曜日で特に必要がある時は、私に電話等で出てくるように連絡がありましたので、そのころ教授の出校していない日に誰かが――教授自身か私かが――校正原稿を受け取ったり、連絡を受けたりしたことはないということは断言できます。」

さらに、「その際楠田が電話で上告人に確認している」ことは、楠田の供述をはじめ、証拠関係に見当たらない(もっとも、後述する秦野供述があることはあるが、電話で確認したとされる楠田当人の供述にこれがない以上、とうてい措信できない)。楠田は、かえって、つぎのように否定的供述をしている。

【楠田の供述】

被告代理人 甲野教授から〔「最終的なもの」を〕受け取ったという連絡は、文書でも口頭でも電話でも何でもいいですが、それは「SAPIO」の方にありましたか。

楠田武治 特にないと思います。

その最終的なもの、今楠田さんがおっしゃった日大の法学部のほうに届けて以来、その後、甲野先生と電話なり何なりでこの記事のことについて話をしていますか。

特にその後、いつも出来上がった装本のお話と、後はちょっと若干薄謝でありますけれども、薄謝をどういう風な形でお送りするんでしょうかというようなお話くらいだと思いますけれど。

(前掲楠田証人調書速記録二七頁以下)

楠田供述によるならば、SAPIOの記事の「手直しした原稿」または「最終的なもの」についての「確認」の会話は、なされていないと見るしかない。原判決は、あたかも手直しした原稿が上告人に下に到達し、さらに楠田がそれを電話で確認したというような存在しない事実を認定して、上告人の責任を認めようとしたとしかいいようがない。

もっとも、秦野篤行には「楠田のほうから電話をして確認してもらったというふうに聞いています」という供述もある(前掲秦野証人調書速記録二〇頁)。だが、これは言うまでもなく伝聞で、肝心の楠田が、右のようにこれを否定する供述をしている以上、全く措信できない。

秦野自身、事情がわからないことを認めている。

被告代理人 甲野教授が受け取ったとか、そういうことは連絡受けてないですね。

秦野篤行 そのときぼくは担当じゃないから、その辺は全然分かりません。

(前掲秦野証人調書速記録三二頁)

10 以上要するに、上告人は、SAPIOの記事について、執筆はもちろんのこと、訂正、校正、内容のチェックなど、いずれについても依頼されていない。どのような形でインタビューの内容が記事になるのか知らされてもいない。これでは、上告人には、訂正の義務はなく、「訂正の機会」も与えられているとはいえない。前記類型では、内容チェック等を依頼されていない点で(5)か(7)にあたることになるが、上告人は、提供情報の内容がどのような形の記事になるか知らず、提供情報(サラリーマン犯罪の特色)がそのままSAPIOの記事になっているわけではないことからして、素材提供者となっていず内容チェックも依頼されていない(7)の類型にあたるといえる。

なお、「手直しした原稿」ないし「最終的なもの」は結局上告人の下に届かなかったと認められる(届いたという事実は証拠関係に一切あらわれていない。これを持って行ったという杉本健次郎の供述でもあれば別だが、そのようなものはないから、結局、到達したことの証明はないというしかない)。そのうえ、それには写真が入っているかどうかも怪しいものであるというのだから(前掲楠田証人調書速記録二六頁)、これを日本大学の方に持って行かせたことをもって、上告人に訂正の機会が与えられたとは評価できない。

そもそも、訂正、校正、内容のチェックなどを依頼したのでなければ、訂正等はしようがない。SAPIO関係者は訂正等を依頼したとは誰も述べていない。ただ、「原稿を送った」というだけである。たんに原稿が送られてきても、訂正、校正、内容のチェックなどの依頼があり、これを受けたのでなければ、訂正等をする義務が生じるわけはない。例えば、流行作家の所に無名の作家志望の青年が原稿を送りつけて来たとして、その作家に原稿を直してやる義務が生じるであろうか。

もとより、上告人が以前SAPIOからインタビューを受けたり、記事を掲載したことがあるなら、あらためて校閲等を依頼しなくても、校閲等をなす義務が条理上生じるといえなくはない。だが、原告がSAPIOからインタビューを受けたのは本件が初めてであり、以前、同雑誌に関与したこともないのであるから、やはり上告人に訂正・校閲等をなす義務は認められない。かような義務を認めるためには、SAPIOから訂正・校閲等について明確な依頼があり、上告人がこれを了承したといえる場合でなければならない。

本件で、SAPIO編集部が、SAPIOの記事の掲載についてとっている行動は確かに明確ではない。執筆や内容のチェック、監修などを依頼するなら、文書を持って依頼するのが出版界では当然であるのにそれをしていない。「インタビューを受けた謝礼」は支払っているが、原稿の校閲をしてもらったことの謝礼は、当然ながら支払っていない。非常に曖昧な態度に終始し、その結果、乙川一郎が東京地検に逮捕された(実際は警視庁に逮捕された)とか、イラストで架空の預金証書作成が「公文書偽造」とされているなど、上告人が執筆ないし内容チェックをしていれば見落とすはずがないような誤りを含んだ記事が、上告人の名を掲げて掲載されることになった。この点は、SAPIO編集部関係者の落ち度とされてもやむをえまい。事実、本件について五十嵐弁護士から請求がなされたときは、もっぱらSAPIO編集部の関係者が全面に出て対応している。そうであればなおさら、本件の責任を上告人に転嫁することはできないというべきである。

11 では、〔上告人に対し「掲載されたもの」(日本大学教授甲野太郎執筆にかかるものであることの表示がされ、その顔写真、経歴等も記載されている。)を送ったが上告人から何の異議も述べられていないこと〕は、上告人が同記事を「執筆したものと同等に評価する」ことにつながるであろうか。

掲載されたもの(掲載誌)は、完成品として、関係者に郵送されるのである。手元に掲載誌が来た段階では、たとえ誤りに気づいたとしてももはや訂正のしようはない。これは自明のことである。どうしても訂正を要する箇所があれば、次号以後に訂正記事を載せてもらうしかない。

それとも、出版を差し止めるように小学館に要請せよとでもいうのであろうか。いずれにしても、掲載誌が送られて異議を述べなかったことをもって訂正等の機会が与えられたなどということは、甚だしい経験則違背である。まして、上告人は、訂正も校閲も何も依頼されていない者である。SAPIOの発刊について云々できる立場にはない。

12 また、SAPIOの記事が掲載された後の上告人の行動(「訂正とお詫び」の広告を掲載することを上告人が同意していること)をもって「責任ある者として行動して」いるから「執筆したものと同等に評価できる」としているのは、どうであろうか。

まず、原判決のこの記述は、行為がなされた後の行為によって不法行為責任を認めるという理解不可能な理屈によるものである。不法行為について、無権代理の追認のような法理を認めることはできない。不法行為責任は、あくまで、故意・過失により自ら不法行為(いうまでもなく損害発生と相当因果関係のある違法な行為)をなした者についてのみ認められる。これは、共同不法行為の場合でも同様である。原判決の理屈は、不法行為法の法理に真っ向から反するものであり、行為責任の原則を否定するものである。

また、上告人は、五十嵐弁護士から内容証明郵便を受けとると直ちに「記事は、SAPIO誌記者の取材に口頭で応じたものであり、私が執筆した著述ではありません」(甲第一二号証)と通知し、その後の直接面会しての交渉は専らSAPIOの関係者が行っている。問題の「訂正とお詫び」の記事もSAPIO編集部で起案して掲載を決定し、上告人はこれに同意を与えたのみである。さらに、この同意は、五十嵐弁護士の内容証明郵便の内容を信じたため、記事の内容が「裁判所において公式に否定されて」いる旨誤信してなした錯誤によるものであって無効である。

以上、いずれの点からしても、上告人に「執筆したものと同等に評価できる」事由は存在しない。上告人はSAPIOの記事について全く責任を負うものではない。これを認めた原判決は経験則に反し、民法七〇九条の解釈・適用を誤ったものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

二 本件各記事等の真実性等について

1. 中公新書『賄賂の話』について

(1) 中公新書『賄賂の話』の記述中、請求原因において名誉毀損と主張された部分はつぎのとおりである(原判決の「事実及び理由」第二項)。

「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎は、役員交際費を私的に流用したとして、一七九〇万円余の業務上横領罪で起訴された(本件ともいうべき政治家への贈賄は不発に終り、社長の個人犯罪に矮小化された)が、昭和六〇年四月二六日、東京地裁でほぼ半額について有罪となり、懲役一年六月、執行猶予三年を言い渡された。」(文章(1))

「KDDでは、社長その他の役員の訪問客に対し、外国人・日本人を問わず、身の回りの品などを部外贈答品(社長贈答費)として贈ることが慣習化していた。そこで乙川元社長は、ネグリジェ、ハンドバッグ、紳士靴、時計のバンド、牛肉、洋酒、冷蔵庫と手当たり次第、会社業務と全く関係のないレシートを会社に持ち込んで現金化したり、会社のハイヤーを妻の買物などにも自由に使わせ、一流レストランから社費で昼食を自宅に運ばせたり、妻との海外旅行の仕度金、家族とのゴルフ代まで会社に負担させるといったように、公私混同のかぎりをつくした。」(文章(2))

「乙川被告が郵政官僚時代の同僚の子息の結婚祝におくった一万八〇〇〇円の保温がまとか、前任社長夫人の病気見舞の薬品代とか、子息の卒業の内祝として副社長に贈った洋陶器といったものは無罪となったりするなど、法廷に提出された買物のレシート五七八枚のうち、なんと五一四枚が無罪になった。また米国や韓国、ヨーロッパなどに妻を同行した際の仕度金も、『会社と無関係と断言できない』といったことで無罪になり、学生時代の先生や同級生、郷里の友人、病気で世話になった医者や看護婦、娘や息子の縁談を持って来てくれた人、子供たちの大学の先生などに贈った分や、夫人肌着やバーゲンセールで買った靴、牛肉、佃煮、折り詰め、洋酒などの私的用品、自宅に持ち帰った美術品などが有罪となった」(文章(3))

「それでも乙川被告は控訴した。『会社創立以来の社長の交際費の使い方をしたまでで、この有罪が前例となれば、日本の企業活動を阻害される』というのだ。まさに昭和社用族の論理で、元禄社用族、文左衛門もうらやむであろう。」(文章(4))

「KDD社長乙川被告も社長交際費の私的流用(業務上横領)という社長の個人犯罪に問われたが、政治家への贈賄罪には問われなかった。」(文章(5))

(2) 右各文章のうち、文章(4)は乙川一郎の社会的評価を低下させるものではなく、名誉を毀損するものではないとされた。

そして、文章(1)ないし(3)、(5)のうち、文章(1)の「乙川が三年半で約五八億円の交際費を使用していた事実」を除く部分と文章(3)(5)については真実であると認められた。

結局、文章(1)から(5)のうち、名誉毀損となり、かつ真実性の証明もないとされたのは、つぎの箇所に過ぎない。

① 文章(1)中の「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎」の部分

② 文章(2)

ところで、真実の証明の対象が何であるかは、記事全体について判断されるべきであり、「右事実の一部につき右の証明を欠く場合にあつては、その証明を欠く部分が極く一部であり、右部分の存在により記事全体の認識が誤らしめることがなく、しかも右過誤が悪意に出たものでないときに、前記原則の例外として、事実の一部につき真実の証明の欠缺が存しても、記事に掲載された事実のすべてにつき免責を受けることができる」とするのが、判例である(東京高裁昭和四七年三月二四日判決判例タイムズ二七八号三〇五頁など)。

そうすると、文章(1)ないし(5)が表そうとしていることは、「KDD事件においては、乙川被告が社長交際費の私的流用ということで業務上横領罪で起訴されたが、東京地裁で一部有罪となり控訴した」といったことである。

なお、『賄賂の話』の原文(甲第二号証)を見ればわかるように、文章(1)ないし(4)の小見出しは「KDD事件」であり、文章(5)の含まれる部分の小見出しは「KDD事件ほか」である。「KDD事件がどのようなものであったか」ということがこれらの文章の表現しようとしている事項なのである。

したがって、本件においては、文章(1)の極く一部、文章(2)について真実の証明がないとしても、その余の重要部分(とくに文章(1)の「乙川一郎は…」以後と文章(3))について真実性の証明がある以上、上告人は、記述の全てにつき不法行為責任を負うことはないとされなければならない。主要部分につき真実の証明のあることを認めながら上告人の不法行為責任を肯定した原判決には、理由齟齬があり、高裁判例に反して民法七〇九条の解釈・適用を行った違法がある。

(3) 文章(1)中の「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎」の部分は、乙川一郎が五八億円の交際費を乱費していたと主張するものではない。

名誉毀損の成否については、記事の正確な意味内容のみならず、読者に与える印象も判断基準に加えられるが、後者の判断にあたっては、一般の読者が通常その記事を読むときの読み方を前提として、本文の内容の外、見出しの内容、配置、活字の大きさ、写真の有無、本文の長さ、掲載場所などを総合的に勘案し、かつ、同種ないし関連記事がその前後の時期に掲載されていれば、その記事との関連性も考慮の上、判断すべきであると解されている(東京地裁昭和五〇年五月二二日判決判例時報七九四号八二頁。他に千葉地裁昭和三六年五月一七日下民集一二巻五号一一五六頁、東京地裁昭和四五年三月四日判例タイムズ二四八号二六二頁など)。

そこで、文章(1)の「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた」というのが「国際電信電話会社(KDD)」なのか「社長乙川一郎」なのかについてはどちらに読み取れるであろうか。原判決は「文脈上不明確であって、いずれにも読み取れるものの、一般読者において、交際費を乱費した主体が原告乙川であるとの印象を抱く可能性が相当程度存在する」としている。

しかし、文章(1)に続く文章(2)の冒頭に「KDDでは、社長その他の役員の訪問客に対し、外国人・日本人を問わず、身の回りの品などを部外贈答品(社用贈答費)として贈ることが慣習化していた。」とあり、文章(5)の含まれている一一三頁目の冒頭に「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費し『郵政省版公費天国』といわれたKDD(国際電信電話会社)事件では、KDDからプレゼント・商品券・パーティー券・接待などで一九〇名の政治家に一億二〇〇〇万円が流れた(昭和五五年五月一四日、衆院逓信委員会での警察庁発表)」と記述されていることからしても(甲第二号証)、『賄賂の話』を読む一般読者が「五八億円もの交際費を乙川一郎個人が乱費した」と読むことはありえない。

さらに、乙第二号証をはじめとする新聞等(とくに乙第七号証、乙第八号証)には、KDDにおいて五八億円が乱費されたことが報道されており、乙川一郎の最高裁判決について報道する新聞記事にさえ「政官界への巨額な交際費が明るみに出た一九七九年の国際電信電話会社(KDD)事件で」(乙第二五号証)とか「巨額の交際費を使った官界工作が発覚した国際電信電話株式会社(KDD)事件で」(乙第二六号証)などと報道されている。

文章(1)の「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎」だけをとりだせば原判決のいうように、「文脈上不明確であって、いずれにも読み取れる」といえるかもしれないが、そのような異常な読み方は一般読者の読み方ではない。『賄賂の話』の記述全体、他の新聞記事等の内容を総合的に勘案すれば、誰であっても「五八億円の交際費を乱費していたといわれたのはKDDである」と読める。そうであるなら、この部分は乙川一郎の名誉を毀損するものではない。

原判決は、記述が名誉を毀損するか否かについてについて「一般読者」を基準にして判断すべきと述べておきながら、基準へのあてはめを誤ったものである。これは判例の傾向に反するものである。原判決は、理由齟齬を生じ、民法七〇九条の解釈・適用を誤ったのである。

(4) 文章(1)の「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎」の内容は、真実である。

原判決は、SAPIOの記事中「3年間で58億円にものぼる交際費が発覚」という部分について、乙川一郎が五八億円の交際費を使用した事実が真実の証明の対象となるとし、乙第二号証の「58億円こうして乱費」と見出しの付された朝日新聞新聞記事は、「KDDが約五八億円の交際費を乱費していたことについての」新聞記事に過ぎず「およそ新聞記事の内容が真実に合致するとの経験則は存在せず、このような不正確な情報源による記述をする際には、そのニュースソースを明らかにすべきものである」ので真実の証明があるとは認められないとしている。

そして、この理屈を「前記のとおりである」と援用して、中公新書の文章(1)中「昭和五〇年七月から三年半で約五八億円の交際費を乱費していたといわれた国際電信電話会社(KDD)の社長乙川一郎」についても真実性は証明されていないとする。

しかし、右文章(1)の部分は、KDDが五八億円を乱費していたと表示するものであるから(SAPIOの記事についてもそのように読めることは後述する)、乙第二号証を初めとする新聞記事等によって、真実性は証明されているというべきである。

この点につき、原判決は、「およそ新聞記事の内容が真実に合致するとの経験則は存在せず、このような不正確な情報源による記述をする際には、そのニュースソースを明らかにすべきものである」と述べている。

しかし、朝日新聞をはじめとする「四大紙」の内容がおよそ真実に合致しないなどということは、常識に反する。原判決に従うなら、新聞は毎日虚偽の報道をしているということになってしまう。

真実を報道することが新聞の使命であり、悪質な業界紙などはともかくとして、通常の新聞が真実を報道していることは国民の常識である。だからこそ、誤報があったとき新聞社の責任が問われ、名誉毀損などの問題にもなるのである。「およそ新聞記事の内容が真実に合致するとの経験則は存在せず」というのであれば、誰も新聞を買ったりはしない。

確かに、法律で「新聞は真実の報道をなすべし」と規定していはいない。それは、法律で報道を規制することになると、表現が真実か虚偽かを政府が判定することになって、かつての占領軍のプレスコードの下での規制のような憲法二一条に反する事態も生じかねないからである(松井茂記『「マス・メディアと法」入門』〔弘文堂、昭和六三年〕九三頁以下参照)。

末尾に添付した「新聞倫理綱領」第二項には「報道の原則は事件の真相を正確忠実に伝えることである」とされている。

第一審判決の内容(乙第二三号証)とこれについての新聞記事(乙第五号証、乙第六号証、乙第九号証ないし一二号証)を比較してみても、新聞が真実の報道をしていることはわかる。

原判決の「およそ新聞記事の内容が真実に合致するとの経験則は存在せず、このような不正確な情報源による記述をする際には、そのニュースソースを明らかにすべきものである」との判断は、およそ経験則に反するものとして否定されなければならない。中公新書の文章(1)の内容は全て真実である。

(5) 文章(2)の内容は真実である。

文章(2)は、乙川一郎が、会社業務と全く関係のないレシートを会社に持ち込むなど「公私混同」を行ったことが真実性の証明の対象と考えられる。そして、この事項が真実であることは、刑事第一審の判決書により優に証明されている。

すなわち、刑事第一審の判決書(乙第二三号証)は、その別表一記載の点については会社業務と関係のない買物レシート類を会社に提出して会社資金を横領したものであると認定した(乙第二三号証一六―一七頁)。別表一には、紳士靴、ハンドバッグ、婦人肌着、ナイテイ、クルボアジェナポレオン等の洋酒、牛肉、電気冷蔵庫、時計バンド、ネグリジェといった品が掲げられている。

また、妻との海外旅行の仕度金については「KDDにおいては、昭和五一年六月、役員の旅費内規を改正し、役員が夫人を同伴して海外に出張する場合には、夫人に対しても本人と同額の支度料を支給することとし…昭和五三年二月以降は被告人の提案により右の比率が八割に引き上げられている。従って、被告人が正規の支度金を受領しながら別途支度金を支出させて受領したことは、内規に違反する不当な行為といわなければならない。」(九五―九六頁)「被告人の行為は、交際費資金の不当な流用ではあるが、いまだ会社資金を不法に領得したものと断ずることはできず、横領罪を構成するとはいえない」(九七頁)と述べられている。

さらに、量刑の理由には「物品の横領は、約一年半、前後一〇回にわたり価額合計七〇〇万円を超える様々な物品に及んでおり、交際費資金の横領金額は約一三五万円にとどまるものの、自宅からレシート類をほとんど毎月のように会社に持ち込んで、使途を示さないまま交際費資金と引き換えていたことは厳然たる事実であって、多額の報酬を得、多額の交際費を使用できる立場にある者の行為としては良識を疑われても致仕方のないことと思われる。その他、妻花子には会社で費用を負担するハイヤーを自由に使わせ、花子が不在のときには食事を会社の費用で一流ホテル内のレストランから自宅にハイヤーで運ばせ、息子や女婿らと行ったゴルフの費用や土産代までも会社に負担させるなど公私混同も甚だしいといわざるを得ない。」(二〇三―二〇四頁)と述べられている。

刑事判決書の内容は、新聞記事等により広く報道された。例えば、乙第九号証は、「横領『公私混同甚だしい』」との見出しを掲げ「同裁判長は『被告は妻に会社のハイヤーを自由に使わせたり、一流ホテルのレストランから会社の金でハイヤーを使い食事を運ばせた。息子や女婿と行ったゴルフ代や土産代まで会社に負担させた』などと述べ、公私混同の責任を指摘した」などと記述されている。乙第一二号証には「ネグリジェ、婦人肌着、ハンドバッグ、紳士靴、時計バンド、牛肉、電気冷蔵庫、洋酒…佐藤裁判長が淡々と読み上げた横領商品は、営業収益二千億円(五十八年度)のわが国を代表する国際企業KDDのかつてのワンマン社長にふさわしいものとは、とても思えなかった」などと報道されている。

このような判決書、新聞報道によって文章(2)の真実性は証明されている。

(6) ところが、原判決は、「業務上横領罪に該当するような行為をした事実」が真実性の証明の対象になるとし、「第一審で無罪となった事実及び量刑理由で述べられた事実は、その事実が真実であるとも真実と信じるにつき相当の理由があったとも認めることができないことは明らかである」とし、第一審で有罪となった事実についても「控訴されて争われている以上、無罪の推定を受けるものであり、右記事は、その前後の記載から、その事実があたかも横領罪に該当する行為であったことを内容としているものと認められるから、真実の証明があったと認めることはできない。」とする。

しかし、原判決の右の記述は誤っている。

そもそも文章(2)は、その後に「買物レシート五七八枚のうち、なんと五一四枚が無罪になった」と判決内容が紹介されていることなどから考えて、乙川一郎が、会社業務と全く関係のないレシートを会社に持ち込むなど「公私混同」をしたことを述べているのであって、けっして「公私混同行為が業務上横領罪として有罪となり、かつ有罪判決が確定した」ということを述べているのではない。

したがって、「有罪となり確定したこと」ではなく「公私混同したこと」が真実性の証明の対象なのである。

そして、公私混同といわれるべきレシート持ち込みをしたことなどは、刑事第二審判決でも否定されていない(最高裁でも否定されていない)。刑事第二審判決は、かえって「原判決別表第一の各レシート類が被告人又はその身内のものがした買物に関するものである旨判示しているのは、記録に照らしすべて相当である」(乙第二四号証三三五頁)としている。そうであるなら「公私混同」の事実は裁判所に認定されており、新聞等で広く報道されているのだから、真実の証明としては充分である。

なお、犯罪の「疑惑」があるという記事については「容疑者が当該犯罪の犯人として起訴されていることが主張・立証された場合においては、当該犯罪につき一審又は二審で有罪判決があってこれが確定していないときはもとより、有罪判決がない段階にあったとしても、真実性の証明があったものとして違法性が阻却されるとするのが、犯罪報道の自由と容疑者の基本的人権の調和を図るゆえんである」とするのが高裁判例である(東京高裁平成四年一一月二四日判決判例時報一四四五号一四八頁)。本件の文章(2)は、「公私混同」行為が犯罪(業務上横領罪)になる疑いがあるとすら述べたものではないから、「公私混同」行為が有罪となり確定していることはもとより、起訴されていることも真実性の証明に不可欠なものではない。

原判決は、量刑理由で述べられている事実は「真実の証明があったものとは認めがたく、かつ、真実であると信ずべき相当の理由があるともいえない」としている。

しかし、量刑の基礎となる事実(情状事実)も罪となるべき事実と同様、証拠によって裁判官が認定した事実である(必ず厳格な証明によるべきか否かの問題はあるが)。これを真実と認めがたいとする原判決は経験則に違背する判断をしているというべきである。

また、原判決は、「ネグリジェ、ハンドバッグ」等の件が第一審で有罪とされ、控訴審判決でも乙川がレシートを会社に持ち込んだ事実が否定されていないことを認めつつ、「控訴されて争われている以上、無罪の推定を受けるものであり…真実の証明があったと認めることはできない。…右記事の内容を真実であると信じることに相当の理由があるということはできない」としている。

しかし、中公新書の記事は第一審判決の後、これを基礎として控訴審判決の前に書かれたものであるから、少なくとも執筆時点においては真実であったというべきである。

原判決はここで「無罪の推定」を援用している。確かに、無罪推定は刑事訴訟法の理念である。しかし、それは「公共の福祉と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」という刑事訴訟の目的達成のために認められたものである。それと、不法行為の要件とは異なって解されるべきである。刑事訴訟上、有罪判決が確定していなくても、真実の証明の要件を充たすことはありうるというべきである。

(7) 上告人には、文章(1)(2)の内容を真実と信じるについて相当の理由があった。

文章(1)の前掲部分、文章(2)が真実であることはすでに述べたが、仮に真実でないとしても、上告人は、すでに掲げた新聞記事や刑事第一審判決を資料としてこれらの文章を書いたのであるから、真実と信じるにつき相当の理由があったとされなければならない。

およそ刑事事件の研究においては、私人である研究者が、事案の真相を調査することは不可能に近い。どうしても、新聞報道や判決書などを材料として研究することになる。もし、本件のような場合、新聞記事や判決書を疑って独自に調査しなければならないとすれば、この種の研究は不可能となってくる。

原判決は、刑事第一審判決について控訴がなされており、上告人は「刑法学者である上、第一審判決に対して控訴がなされていることも知っていたのであるから」真実であると信じるにつき相当の理由があるとはいえないとする。

しかし、文章(1)(2)とも、確定的に業務上横領罪となると述べているのではなく、たんに公私混同行為(業務上横領罪に問われる可能性のある行為)があったことを述べているに過ぎないのであるから、控訴審の帰趨は、真実であると信じるについて正当な理由があったかどうか判断するについて影響するものではない。もっとも、上告人が、公私混同行為はもともとなく、第一審判決も容易に控訴審で覆る可能性が大であると思っていたような場合は別であるが、本件においてはそのような事実は認められない(ちなみに、刑事第二審の判決に対しては、撚糸工連事件元民社党代議士無罪判決――上告審で破棄差戻、差戻後、東京高裁で有罪判決〔上告〕、松戸OL逆転無罪判決などともに、異例の無罪判決ということで検察関係者からの批判が強い)。

(8) 以上、中公新書『賄賂の話』については、いかなる角度から検討しても不法行為責任を問われる要素はない。原判決は、民法七〇九条の解釈・適用を誤ったものである。

2. SAPIOの記事について

(1) SAPIOの記事について上告人は責任を負うべきものではないが、念のため、その真実性等について述べる。

まず、「これは3年間で58億円にものぼる巨額の交際費が発覚」の部分につき、原判決は「一般読者において交際費を利用した主体が原告乙川であるとの印象を抱かせるおそれが強い不正確な記載である。」とする。確かに、中公新書文章(1)に比べればやや不明確ではあるが、それでもなお、この部分は「KDDにおいて58億円にのぼる交際費が乱費されたことが発覚したこと」を表現していると読むのが一般読者を基準とした読み方である。KDD事件においてKDDの58億円にのぼる交際費使用が問題にされたことは、新聞、テレビ等で広く報道されている。前述したように、本文の内容の外、見出しの内容、配置、活字の大きさ、写真の有無、本文の長さ、掲載場所などを総合的に勘案し、かつ、同種ないし関連記事がその前後の時期に掲載されていれば、その記事との関連性も考慮の上、名誉毀損となるか判断すべきであるとすれば(東京地裁昭和五〇年五月二二日判決判例時報七九四号八二頁。千葉地裁昭和三六年五月一七日下民集一二巻五号一一五六頁等)、SAPIOの記事のこの部分も乙川一郎の名誉を毀損するものとはいえない。

(2) つぎに、原判決は、「これは3年間で58億円にものぼる巨額の交際費が発覚」の部分の真実性の証明の対象について、「原告乙川が『3年間で58億円にものぼる巨額の交際費』を使用した事実」であるとし、乙第二号証は「KDDが五八億円の交際費を乱費していたこと」の新聞記事に過ぎず、「新聞記事の内容が真実に合致するとの経験則は存在」しないから、真実の証明があったとは認められないとする。

しかし、右に述べたところから、真実性の証明の対象は「KDDにおいて58億円にのぼる交際費が乱費されたことが発覚したこと」であると考えられる。そして、新聞記事が真実の報道をなすものであることは既に述べたとおりであるから、原判決の判断は誤りというほかない。

SAPIOの記事の「これは3年間で58億円にものぼる巨額の交際費が発覚」の部分の真実性の証明は乙第二号証等により充分なされている。

(3) 「家族のショッピングにまで会社のハイヤーを使ったり、ひいては自分の下着まで会社の交際費で落としていた」の部分は真実である。

「家族のショッピングにまで会社のハイヤーを使った」事実は、刑事第一審判決の量刑理由で「妻花子には会社で費用を負担するハイヤーを自由に使わせ」(乙第二三号証二〇四頁)と認定されている。これが刑事第二審判決でも否定されていないことはすでに述べたとおりである。

原判決は「第一審判決の量刑理由で述べられているところ、これをもって、真実の証明があったものとは認めがたく、かつ、真実であると信ずべき相当の理由があるものともいえない」とする。

しかし、量刑理由も裁判所が証拠によって認定した事実に基づくものである点で罪となるべき事実と違いはない。さらに、「家族のショッピングにまで」云々の記事は、こうした行為が業務上横領罪として有罪となったという趣旨で書かれているものではない。そうであるなら、有罪とされ確定していないと真実の証明があったとはいえないとする理屈はあてはまらない。

「ひいては自分の下着まで会社の交際費で落としていた」事実については、刑事第一審判決において交際費資金による「婦人肌着」、「シャツ」の購入が業務上横領にあたると認定されている。刑事第二審判決でも「原判決別表一の各レシート類が被告人又はその身内のものがした買物に関するものである旨認定判示しているのは記録に照らしすべて相当」とされている(乙第二四号証三三五頁)。

また、乙第四号証等の新聞記事に「下着から家具まで」「…少額のものは下着類など細かい買い物で、結局、家族の着るもの、はくものから家の中の調度品、趣味の品まで、会社丸抱えだった」というように、下着まで交際費で落としていた事実を報じている。

原判決は、「婦人肌着の事実が『自分の下着云々』と同一性があるとはいえず、かつ、このような表現に言い換えることが許されるような事由は認められない」とする。しかし、「自分の下着」というのが乙川一郎自身が着用する下着に限らず、家族、親族等、要するに私的に使用される下着を指すことは、記事の文脈から明らかである。「自分の下着」とは乙川一郎が個人的に買った下着を指すのである。

わずかな言葉のくいちがいをもって、「自分の下着」は自分自身で着用する下着のみを指すと考えることは偏狭と非難されてもやむをえまい。

(4) 以上のようにSAPIOの記事についても、真実であると認められる。仮に真実でなかったとしても、同記事に書かれた事項は裁判所によって認められ、広く報道されているのであるから、執筆した者(田村建雄)において真実であると信じるにつき正当の理由があるといえる。

したがって、これを名誉毀損の不法行為となるとした原判決は、民法七〇九条の解釈・適用を誤っているといえる。

三 訴状、告訴状配付と名誉毀損について

1. 原判決は、訴状、告訴状配付及び記者会見が上告人の名誉を毀損するものであることを認めながら、訴状の「一般市民として他人の名誉を傷つけてはならないという良識をすら忘れて、被疑者、被告人と呼ばれる人々をみずからが断罪することが許される地位にあると誤信するに至っているのではないか」との記載は「真実の証明の対象となる事実とはいえない」としている。

そうであるなら、右記載が上告人の杜会から受ける一般的評価を低下させるもの、すなわち名誉を毀損するものであることは、原判決も認めているのであるから、五十嵐二葉らは不法行為責任を負わなければならない。たとえば、刑法二三一条の侮辱罪にあたるような行為態様で名誉を毀損した場合(「馬鹿」とか「無能」と罵倒するなどが典型)、真実の証明は問題にならないが、侮辱罪には問われ、民事上も不法行為による損害賠償責任を負うことになる。

例えば、横浜地裁昭和六四年四月一九日判決(判例タイムズ六〇一号五〇頁)は、大学教授を「テロリスト」「人種差別主義者」などと非難、中傷したことが侮辱ないし名誉毀損にあたるとして、一〇〇万円の慰謝料の請求を認めている。

本件においても「一般市民として他人の名誉を傷つけてはならないという良識をすら忘れて、被疑者、被告人と呼ばれる人々をみずからが断罪することが許される地位にあると誤信するに至っているのではないか」との記載は上告人を非難、中傷したものとして、侮辱ないし名誉毀損にあたるとされるべきである。

この点、五十嵐らの不法行為責任を認めなかった原判決には理由齟齬の違法があるというべきである。

2. また、原判決は、上告人に不法行為の認められることをもって「真実性の証明があったということができる」としている。

しかし、「本件のような不必要な刑法抵触行為を二回(他にあるかは、今のところ不明)にもわたって繰り返す」との記述や告訴状の記載は、上告人を犯罪者と断ずるものである。これについて、真実の証明の対象となるのは不法行為責任を負うかどうかではない(さらにいうなら、上告人が不法行為責任を負うということは未だ判決で確定しているわけではない)。

①民事責任

②刑事責任

③犯罪行為を繰り返す良識のない人物

これらの三つは質的に異なる。不法行為(①)が即ち犯罪(②)ではない(例えば姦通は不法行為となるが犯罪ではない)。だいいち、名誉毀損罪は故意犯であるのに対して、不法行為は過失でも成立する。両者の間に要件の違いがあることは明らかである。さらに、犯罪を犯した者が全て「犯罪行為を繰り返す良識のない人物」(③)であるわけでもない(できごころで悪に走る者や同情すべき犯罪者が存在することはいうまでもない。犯罪を犯した者なら「人非人」とか極悪人と呼ばれていいわけではない)。

上告人に対する名誉毀損行為について真実の証明の対象となるべきは右の③である(告訴状については②か)。そうだとすると、上告人については、刑事の公訴提起、有罪判決はもとより、取調さえ行われていないのであるから、②ないし③の真実の証明があったとすることはできない。

したがって、五十嵐二葉らは不法行為責任を負わなければならない。

とくに、法律の専門家である弁護士が法律事務(訴訟、告訴)を行うについては、高度の注意義務をつくすべきと考えられるが、五十嵐二葉は、実務経験豊かな弁護士であるとともに刑法学会に所属する刑事法の専門家である。五十嵐二葉は、名誉毀損罪が危険犯であり出版がなされれば犯罪は既遂となるから、『賄賂の話』については名誉毀損罪の公訴時効期間(三年)が経過していること、公訴時効期間経過により免訴となる場合であるのに告訴すれば誣告罪(虚偽告訴罪)となる恐れのあることは、承知していたはずである(この点につき、五十嵐二葉は、名誉毀損は継続犯であり公訴時効は完成していないという見解をもっているということであるが〔第一審第一〇回口頭弁論五十嵐本人調書九項〕、このように独自の見解に基づくときには責任を免れることはできない)。それにもかかわらず、同人は、「法的手段」を利用して上告人を攻撃し、その名誉を毀損して、精神的、物質的に大きな損害を与え、表現の自由、学問の自由が侵害される事態をも招いたのであって、その責任は重大である。

結局、原判決が、五十嵐二葉らの不法行為責任を否定したのは民法七〇九条の解釈・適用を誤ったものであり、理由不備の違法を犯したといわざるをえない。

四 不当訴訟にあたるか

原判決は、甲事件について不法行為として損害賠償責任が認容されるべきものであるから、「およそこのような行為について謝罪を求め、あるいは訴訟を提起することが不法行為となる余地はない」としている。しかし、上告人は、訴訟提起をしたこと自体ではなく、五十嵐二葉らが、前に述べたような記載のある訴状を用いて訴訟提起し、上告人に対して「特殊な害意」をもって攻撃的意図から訴訟を提起したことが不法行為にあたると主張しているのである。

最高裁昭和六三年一月二六日判決(民集四二巻一号一頁)は「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるとき」に訴訟提起が違法となるとしている。請求自体が一部でも認容されれば不当訴訟となる余地はないなどとはしていない。証拠関係から明らかな本件の事実経過によるなら、上告人に対する訴訟提起は不当訴訟となるといわなければならない。

したがって、これを不当訴訟ではないとした原判決は、民法七〇九条の解釈、適用を誤っている。

以上のように、原判決には多数の判決に影響を及ぼすことが明らかな法令(民法七〇九条)の違背が認められる。経験則違背、理由不備、理由齟齬(民事訴訟法三九五条一項六号)も多々認められる。

このような判決が維持されるならば、表現の自由、学問の自由は圧殺されてしまう。

近時は名誉毀損訴訟は「濫訴」といわれてもやむをえないほど頻発している。そもそも、立場の異なる者に対しては公開の討論において決着をつけるべきであり、司法制度に頼り、司法制度を利用して、他人に口封じをすることは許されるべきではない。このような傾向には、今まさに歯止めがかけられなければならない。

最高裁判所においては、速やかに原判決を破棄して上告人を救済すべきである。

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