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最高裁判所第一小法廷 平成7年(行ツ)65号 判決 1996年11月28日

上告人

鈴鹿雪人

右訴訟代理人弁護士

荒井新二

森和雄

鮎京眞知子

横松昌典

被上告人

横浜南労働基準監督署長

平田伸

右指定代理人

中嶋武彦

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人荒井新二、同森和雄、同鮎京眞知子、同横松昌典の上告理由第一について

所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。

その余の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、首肯するに足り、その過程に所論の違法はない。

原審の適法に確定した事実関係によれば、上告人は、自己の所有するトラックを旭紙業株式会社の横浜工場に持ち込み、同社の運送係の指示に従い、同社の製品の運送業務に従事していた者であるが、(1) 同社の上告人に対する業務の遂行に関する指示は、原則として、運送物品、運送先及び納入時刻に限られ、運転経路、出発時刻、運転方法等には及ばず、また、一回の運送業務を終えて次の運送業務の指示があるまでは、運送以外の別の仕事が指示されるということはなかった、(2) 勤務時間については、同社の一般の従業員のように始業時刻及び終業時刻が定められていたわけではなく、当日の運送業務を終えた後は、翌日の最初の運送業務の指示を受け、その荷積みを終えたならば帰宅することができ、翌日は出社することなく、直接最初の運送先に対する運送業務を行うこととされていた、(3) 報酬は、トラックの積載可能量と運送距離によって定まる運賃表により出来高が支払われていた、(4) 上告人の所有するトラックの購入代金はもとより、ガソリン代、修理費、運送の際の高速道路料金等も、すべて上告人が負担していた、(5) 上告人に対する報酬の支払に当たっては、所得税の源泉徴収並びに社会保険及び雇用保険の保険料の控除はされておらず、上告人は、右報酬を事業所得として確定申告をしたというのである。

右事実関係の下においては、上告人は、業務用機材であるトラックを所有し、自己の危険と計算の下に運送業務に従事していたものである上、旭紙業は、運送という業務の性質上当然に必要とされる運送物品、運送先及び納入時刻の指示をしていた以外には、上告人の業務の遂行に関し、特段の指揮監督を行っていたとはいえず、時間的、場所的な拘束の程度も、一般の従業員と比較してはるかに緩やかであり、上告人が旭紙業の指揮監督の下で労務を提供していたと評価するには足りないものといわざるを得ない。そして、報酬の支払方法、公租公課の負担等についてみても、上告人が労働基準法上の労働者に該当すると解するのを相当とする事情はない。そうであれば、上告人は、専属的に旭紙業の製品の運送業務に携わっており、同社の運送係の指示を拒否する自由はなかったこと、毎日の始業時刻及び終業時刻は、右運送係の指示内容のいかんによって事実上決定されることになること、右運賃表に定められた運賃は、トラック協会が定める運賃表による運送料よりも一割五分低い額とされていたことなど原審が適法に確定したその余の事実関係を考慮しても、上告人は、労働基準法上の労働者ということはできず、労働者災害補償保険法上の労働者にも該当しないものというべきである。この点に関する原審の判断は、その結論において是認することができる。

論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、原判決の結論に影響しない説示部分を論難するに帰し、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官井嶋一友 裁判官小野幹雄 裁判官高橋久子 裁判官遠藤光男 裁判官藤井正雄)

上告代理人荒井新二、同森和雄、同鮎京眞知子、同横松昌典の上告理由

原審判決には、以下論じるように多くの誤りがあり、直ちに破棄されるべきである。

第一 原審判決における労災保険法の労働者概念の解釈適用は誤りであり、かつ、このことが判決に影響を及ぼすのは明らかであるから、原審判決の破棄を求める。

一、労基法上の労働者と労災保険法上の労働者

1、労災保険法は、労基法上の使用者の災害補償責任を前提として、その迅速確実な実施を確保するために、昭和二二年(一九四七年)労基法と同時に制定された。労基法は、その八四条第一項で同一の事由に基づいて労災保険法により労基法の災害補償に相当する保険給付が行われる場合、使用者はその限度において補償の責任を免れることを明らかにしている。

制定当時、労災保険法は、このように零細事業を除く災害率の比較的高い事業を強制適用事業とし、国が保険者となって労基法の災害補償と同一内容の保険給付を行う責任保険的役割を担うものとしてスタートした。

2、しかし、戦後しばらくして始まったわが国の高度経済成長にともない産業社会の複雑化と多元化は急速に進展し、これを背景として労働力を提供する側(働く側)の労働形態・業務形態も複雑化かつ多様化を余儀なくされるようになった。このような事態は、働く側が求めてのものではなく、使用者側がその利潤の増大を図る目的で働く側に強いる形により現実化してきたものであった。上告人のような車持ち込み運転手もこのような過程で生まれてきた労働形態の一つである。

また、高度経済成長・産業社会が進む一方、この進展を支える働く側に数多くの、かつ、新しい形の労働災害が発生し、これを単にこれまでの労基法の規定の適用だけでは十分に補償出来ない事態が発生するようにもなってきた。労基法の規定の適用だけでは、保護しえない働く人々が現実に現れてきた。すなわち、労災保険法がその制定に当たってその目的としていた労基法の災害補償に対応することに限定された責任保険的役割だけでは、労災保険法が社会の進展に応えることが出来なくなったのである。

3、こうして労災保険法は、働く側の保護を全面に押し出す形で、労基法とは別に、制定後一三年ほどした昭和三五年(一九六〇年)以降、労基法の改正を伴うことなしに数度の改正を独自に行ってきた。具体的には、当初零細事業を除く形で適用されていた労災保険法が全ての事業に強制適用されるようになった他、次のような労基法にはない制度が労災保険法に導入されてきた。

(一) 給付の年金化

労基法上の障害補償は、一時金とされている。これに対して、労災保険法では、障害等級表に定める障害等級に応じて年金または一時金が支給されることになっている(同法一五条)。すなわち、障害等級表の一級から七級までの重い障害については年金が、それよりも程度の比較的軽い障害については一時金がそれぞれ支給されることになっている。

また、労基法の遺族補償は、一時金とされているが、労災保険法では年金と一時金の二種類が定められ(同法一六条)、一時金は年金の受給資格がないときに支給されるとされていることから、労災保険法では年金による支給が原則とされるようになった。

(二) 通勤途上災害に対する保険給付の実施

労基法上、通勤途上の災害は保護されるべき災害ではないとされている。しかし、都市生活の過密化やモータリゼーションの進展・通勤距離の拡大などのため、通勤途上災害は増加の一途をたどり、働く者の生活に深刻な影響を及ぼすようになった。そこで、働く者を保護する見地から、昭和四八年(一九七三年)労災保険法が改正され、同法の中に通勤災害に対する給付制度がもうけられ、業務上災害に準じた保険給付が行われることになった。

このようなことに加え、自営業者や家族従業者などの労基法非適用者の特別加入制度の新設もあり、労災保険法における労基法に対応する責任保険的役割の後退が顕著になり、労災保険法の労基法からの独立化が著しくなった。

4、ところで、労働者という概念を同じく用いている労基法と労災保険法であるが、この両者における労働者の意味するところが同一である必要は必ずしもない。むしろ、それぞれの法の目的を考え、その目的に応じた概念を与えることが必要であり、そのように概念を構築することがそれぞれの法を生かすことにも通じるのである。この点、労組法三条の労働者と労基法九条の労働者とは異なる意味を有しているが、このことは当然なことなのである。

さて、労基法は、働く者を保護することを前提としつつ、個々の働く者とその使用者との権利義務関係を規制する法律である。したがって、労基法の労働者概念を考えるに当たっては、常に働く者と使用者との対立の構図を前提にすることになる。就業規則を考えるに当たっても、賃金を考えるに当たっても、労働時間を考えるに当たっても、これは妥当する。労基法九条は、「この法律で労働者とは、職業の種類を問わず、前条の事業または事務所(以下、事業という)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう」と規定し、使用する者・使用される者、賃金を支払う者、賃金を支払われる者という対立構造を前提に概念を定めている。

一方これに対し、労災保険法は、働く者の災害補償について使用者の過失を要件としていないことから使用者との対立構造を考える必要はない。また、前記したように、労災保険法は姿を変えつつあり、現在ではいわゆる生存権原理に立脚した働く者の生活補償制度として機能しており、かつ制度化が進められている。このような両者間に存する違いを考えるならば、法令適用の中心概念である労働者概念の意味を考えるに当たって、労基法の労働者概念の意味をそのまま当然に適用することはむしろ誤りというべきことになる。

5、このような考えは、上告人の独自のものではなく、昭和六三年(一九八八年)に公表された労働大臣の私的諮問機関である労働基準法研究会においても、労基法と労災保険法とは給付の体系及び水準において大きな開きが生じていること、労災に対する必要かつ十分な補償は使用者の集団による保険システムを用いるしかなく労基法が前提としている個別使用者の補償責任では対応しきれなくなっていることなどを挙げて、労基法と労災保険法との関係の根本的再検討の必要性を提言しているが、このことからもうかがえるように、社会の進展に即した必然的な潮流になっている。

二、本件における適用

1、以上のように労災保険法を生存権原理に立脚した働く者の生活保障制度と考えるならば、そこで保護の対象となるべき者(労災保険法で「労働者」とされる者)は、特定の使用者に労働力を提供し、その提供によって生活を支える必要資金を得ている個人ないしはこれと同視し得るもの(例えば、法人組織を取っていても法人格が否認できる場合など)を意味することになる。もちろん、労働という概念自体、「従属性」はその基本的なメルクマールとなる。使用者とは独立した社会的存在となって、自己の責任と計算において収入をあげ、生存している者は「従属性」という労働の基本的属性を欠き、もはや労災保険法においても労働者と見られることはなく、保護の対象とはならない。

2、原審判決は、本件において「この就労形態は、労基法上の労働者のそれとみることは困難であるから、旭紙業の車持ち込み運転手である被控訴人(上告人)は、労基法上の労働者とはいえず、したがって、労災保険法上の労働者とはいえないことになる。本件のような災害について、それを救済する必要があることを否定するものではないが、それを労災保険法によりこれを求めることは、解釈論としては無理であるといわざるを得ないのである」(原審判決二五頁)という。労災保険法の適用に当たって、あくまで労基法の労働者概念に頼ろうとしているため、労災保険法の依って立つ生活保障制度としての機能を理解しようとしないのである。労災保険法が昭和二二年(一九四七年)の制定以来、幾度となく改正を加え、労働者保護法として生存権の拡大につとめてきたのは明かである。そうした流れの中にあっては、労働者概念の内容も変化し、今や労基法を離れて生存権原理を取り入れた前記のような労働者概念の解釈を行うのは十分に可能であり、かつ、必要なことである。

上告人(原告)の労働者性を肯定した一審判決も、労働者性を否定した原審判決も、いずれも上告人の労働の従属性を認めているのは明かである。結論を分けたのは、実質的には労災保険法の労働者を考えるに当たり、労災保険法の生活保障機能を重視する立場に立ったか否かである。原審判決の解釈・判断は、上告人の労働者性を労基法の定める労働者概念そのものから判断し、否定の結論を導きだしたものであり、これまで築かれてきた労災保険法の生活保障機能からみた解釈を理解しないものであり、誤りである。

本件において、上告人は、旭紙業を唯一の労働の場とし、かつ、そこからの収入を唯一の生活の糧としてきた。そして、社会的存在という点からみても、旭紙業の一員としてしか見ることの出来ない者である。そのような者が旭紙業の業務を行うに当たり、労働災害にあい、収入の道が閉ざされたのである。上告人が労災保険法で保護されるべき労働者に含まれるのは当然であり、それが正しい労災保険法の適用である。

三、以上の通りであるから、原審判決における労災保険法の労働者概念の解釈適用は誤りであり、かつ、このことが判決に影響を及ぼすのは明らかであるから、原審判決は直ちに破棄されるべきである。

第二 仮に、労災保険法の労働者が労基法の労働者と同一であると解するとしても、上告人を「労基法上の労働者とはいえず、したがって労災法上の労働者とはいえない」とした原審判決の判断には、以下のとおり、判決に影響を及ぼすことの明らかな法令違反があるから、直ちに破棄されるべきである。

一、自己の地位に関する車持ち込み運転手の主観的認識を、労働者性の存否を決する場合の判断基準として採用したことの違法

1、原審判決は、労基法上の労働者とは、「使用者の指揮監督の下に労務を提供し、使用者から労務に対する対価として報酬が支払われる者であって、一般に使用従属性を有する者あるいは使用従属関係にあるものと呼称されている」と説示している。そして、この使用従属性判断の存否は、業務従事の指示に対する諾否の自由、業務内容及び遂行方法についての具体的指示、勤務場所及び勤務時間の指定、代替性、報酬の労務対価性、高価な業務用器材の所有と危険負担、専属性、給与所得としての源泉徴収、労働保険、厚生年金、健康保険の適用対象となっているか否か、など「諸般の事情を総合考慮して判断されなくてはならない」とする(原審判決七、八頁)。

ところで、原審判決は、その「理由」の四の7の七行目以降で、本件において源泉徴収、労働保険、社会保険の適用を除外するシステムがとられていた点を取り上げ、このようなシステムは車持ち込み運転手が敢えて求めたものであると認定している。すなわち、

「車持ち込み運転手の側でも、将来の退職金がなく、現在の福利厚生に欠けることがあっても、少しでも多額の報酬を得ようとして敢えて従業員でない地位にあることを望み、旭紙業と運送請負契約を結んだということがあることも否定できず、このような形で働いて、社会保険(健康保険、厚生年金保険)、労働保険(雇用保険)の保険料を負担せず(国民健康保険の保険料、国民年金の掛金を負担し、場合によっては一般の生命保険に加入した)、また、報酬からこれを給与所得として源泉徴収所得税を控除されることを避けることにも利益をもとめていたものといえる。」

という認定である。そして、原審判決は二二頁で、右認定事実を根拠に、本件車持ち込み運転手には「自らも従業員ではないとの認識」があったものと推認し、運転手にこのような主観的認識があるということは、「いわゆる専属的下請業者に近いとみられる側面」であると評価して、上告人につき「労基法上の典型的な労働者と異なることは明らかである。」との結論を導き出している。

2、そもそも原審判決のように、本件において車持ち込み運転手に、社会保険等の適用を敢えて避け利益を得たいという積極的意図があったものと認定すること自体、相当ではない。旭紙業に、社会保険等を適用される運転手とそうでない運転手があり、車持ち込み運転者たちがそれでも社会保険等の適用を避けたというのであれば原審判決の指摘にも理由があるが、旭紙業には、会社設立当初から社会保険等の適用を受けられる運転手がいたことはなく、運転手として旭紙業において働こうとする以上、社会保険等の適用は受けられない状態にあったのである。車持ち込み運転手に社会保険等の適用について「選択の余地」は、全くなかったのである。

ところで、その点はおくとしても、上告人がここで指摘したい点は、原審判決が右の認定事実(車持ち込み運転手に、社会保険等の適用をあえて避行利益を得たいという積極的意図があったという事実認定)から「運転手側には自らも従業員ではないとの認識があった」ものと推認し、このような自らの地位に関する当事者の主観的認識を、労働者性の存否を決めるにあたっての判断基準として採用したという判断手法の点である。

上告人は、第一審段階から一貫して、当事者の認識は労働者性判断の基準とはならない、と主張してきた。本件一審判決でも、本件と類似した新潟地裁判決でも、労働者性の判断において、当事者の意思をことさら問題にしていない。これは、当該運転手の労働の実態が会社の「使用従属関係」の下における労働力の提供と評価されるかどうかという問題は、客観的な法律判断の範疇に属するものであって、この判断を、運転手自身が自らの地位についてどのような認識をもっているかといった主観的事情に委ねるべきではないからである。また、公正な労災給付を全国画一的になしていく上でも、同一の条件下に働いている者が、本人の主観的意思次第で、労働者となったり、ならなかったりするような不安定な取扱いは、できるだけ避けることが必要であり、そのためには、個別具体的な判断基準もできるだけ客観的なものにしておくことが必要だからである。

もっとも乙第三一号証には、社会保険、労働保険、源泉徴収などの適用がなされている場合に、この事実から、「使用者」がその者を自らの労働者として認識しているものと推認して、労働者性を「肯定する」判断の補強事由とした、過去の例が紹介されている。しかし、その趣旨は、上述の社会保険等の適用が、通常の正式な雇用契約において、ごく一般的に見られる法的な雇用システムの典型的要素をなすものであることから、使用者側がこのような社会保険等の制度を積極的に採用している場合は、雇用契約の形式をとっていなくても、使用者側としては雇用関係を設定する意思があったものと推認するのが自然であり、それが労働性を肯定する判断の補強事由になる、ということを補足的に指摘しているにすぎないのである。つまり、社会保険等の適用の有無は、このような側面でのみ、限定的に(使用者側の雇用意思を肯定する場合の補強事由として)考慮されることがあるにすぎないのであって、乙第三一号証も過去の判例も、このような保険適用の有無から一般的に当事者の認識を推認し、これを労働者性判定の独立した基準として機能させているわけではないのである。

ところが、原審判決の立場は、具体的就労形態において社会保険等の制度が採用されているかどうかという点から直ちに、当事者、特に車持ち込み運転手側の「労働者としての認識」の有無を強引に推認し、その上でかような主観的事情の有無を根拠に、本来客観的であるべき「労働者性」の判定をしようとするものであるから、法理論としての誤りは明らかである。そして、本件車持ち込み運転手につき、労働者性を否定した原審判決の判断は、かような違法な判断基準に従ってなされたものであるから、この違法性が判決に影響を与えることは明らかである。

二、原審判決が採用する「労働者と事業主の中間形態」に関する判断方法の違法

1、原審判決は、二二頁において、「業務に就いている者を、労基法上の労働者であるか、そうでないかという区分をすることが相当に困難な事例」に対しては、「できるだけ当事者の意図を尊重する方向で判断するのが相当である」とする。

確かに、原審判決が二二頁七行目以下で述べるとおり、産業構造、就業構造の変化等に従い、就業形態、雇用形態が複雑多様化しており、労働者的側面と、請負的側面を同時に持つ就労形態が現れてきている点は、社会現象として否定できないところであろう。しかし、特定の就労形態におけるこのような二面性は、社会的実態としての二面性であって、このような就労形態の実態を認識することと、このような就労形態の下で働いている就業者の事故について労災保険法を適用して救済すべきかどうかという判断とは別問題である。即ち、労災保険法の適用の可否の判断は、あくまでも法的な価値判断であるから、その判断において採用されるべき基本的メルクマールは、あくまで、当該就労関係の本質的、客観的な側面において「使用従属関係」が認められるかどうか、それが労災保険法の立法趣旨に照らして同法による救済を必要とする程度のものであるかどうか、という客観的な考察であるべきである。そして、このような客観的考察において「使用従属性」が認められる場合には、例え就労実態に請負的要素が混在していたとしても、労災保険法による救済を行うのが法の趣旨であって、このような場合に、当事者間で労災保険法の適用を排除する合意をしていたからといって、労災保険法による救済を否定するのは、公平ではない。

2、ところが、原審判決は、請負的要素の混在している「中間形態」の事例では、労災保険法等の適用の有無を、基本的に「当事者の意図」という主観的要素に従って判断すべしとするのである。つまり、原審判決の論理によれば、当該就労形態が「典型的な雇用関係」であれば、社会保険、労働保険等の適用は法律上当然要請されるところであるが、ひとたび「典型的な雇用関係」にあたらないと認定された場合には、それらの法制度の適用いかんは、もっぱら、「当事者の意図」という主観的事情によって決定されることになり、前述したような客観的な法的価値判断の余地はなくなるのである。しかし、このような考え方は、現実の労働実態に照らし、労働者の生存権的社会権を保証するために不可欠な制度として立法が認められるに至った労働保険、社会保険等の制度趣旨を忘れた、極めて安易な自由契約論というほかない。また、この考え方は、「当事者の意図尊重」という名目のもとに、裁判所としてなすべき法的判断の義務を放棄する方向につながるものであり、その結果として、現実の就労関係における経済的力量の優劣がそのまま反映した判決を安易に導く危険があり、かような考え方を裁判規範として採用することは到底認められない。現に、原審判決は、この論理に従って、雇主側にとっての強制的加入制度である労災保険についてさえ、本件のように「典型的な雇用関係」でない場合には、これを適用しないという「当事者の意図」がある限り、排除できるとしているのである。しかし、労災保険の保険料は全額雇主負担で、労働者側の負担はなく、労働者としては、この保険加入につき、これを希望しない理由は全くないはずである。つまり労災保険加入を排除することは、保険料支払いの回避という意味で、もっぱら雇主側の利益でしかない。従って、当事者間に「適用排除の合意」なるものがあっても、労働者にとっては、これは経済的地位の劣性から強制された外見上のものにすぎないというべきであって、かような「合意」を根拠に労災保険の適用排除の結論を導くことは、かかる意味においても、不合理である。

3、このように、本件において、原審判決は、本件就労形態を「労働者と事業主の中間形態」とした上で、かかる場合には当事者の意図に従うべしとする誤った法解釈論に従って、労災保険法による救済を拒否したのであるから、この法的判断の誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

第三 判決に影響を及ぼすことが明らかな事実認定の違法<省略>

第四 原審判決の理由齟齬

一、報酬の性格

1、原審判決一七頁二行目以下は、(報酬は)「生活給的な面や時間給的な面はなかった」とするが、一方で、同頁七行目以下は、(旭紙業としては)「できるだけ平均的に運送業務の配分をし、報酬額も、毎月それほど大きな差異はなく、」とし、二一頁七行目以下も「報酬も業務の履行に対し払われ、毎月さほど大きな差のない額が支払われ(て)いたことなどから、労働者としての側面を有するといえる」として、「労働者」に対する「生活給的な面」があったこと、を明確に肯定しており、矛盾している。

2、原審判決は、右の「生活給的な面や時間給的な面はなかった」との認定を根拠に「報酬も出来高払いであって」とし、やはり「いわゆる専属的下請業者に近いとみられる側面があることも否定できないのであって、労基法上の典型的な労働者と異なることは明らかである。要するに、車持ち込み運転手は、これを率直にみる限り、労働者と事業主との中間形態にあると認めざるを得ないのである。」という結論を導き出している。この報酬に関する認定の矛盾が、判決の結論に影響を及ぼすことは明白である。

二、就労形態の利益

1、原審判決二四頁九行目以下は、(このような就労形態は)「少なくとも双方に利益があると考えられており、旭紙業の側のみに利益があるとはいえない」としているが、原審判決のどこを見ても「双方に利益」の一方、すなわち、運転手の側の利益は述べられていない。二三頁以下の記述では、「旭紙業の車持ち込み運転手は、……運送に必要な経費(ガソリン代、車両修理代、高速道路料金等)及び事故の場合の損害賠償責任を負担するものとし、」とあるが、これらは運転手にとってはむしろ不利益な事項である。また、「旭紙業の従業員とされていないために、その就業規則は適用されないし、福利厚生の措置も取られず、通常の労働者であれば被保険者とされる、労災保険、雇用保険といった労働保険、健康保険、厚生年金保険といった社会保険の被保険者とされず(国民健康保険、国民年金の被保険者とされる)」とも述べているが、これらも、運転手にとっては利益どころか不利益な事項にほかならない。

また、続いて「労働者であればその賃金から源泉徴収される、源泉徴収所得税を控除されないのであるが(報酬については、事業所得として確定申告をして納税する)」と述べており、この点があたかも労働者の利益のようにとらえているようであるが、これも所得税がどのように徴収されるかという形態の違いに過ぎず、脱税や過少申告などの事実を前提としない限り(しかも旭紙業が外注費として税務申告しているはずであるから、税務署に基本的に捕捉可能であり、そのような不正を運転手が行える現実的可能性は無い)、運転手にとってなんら利益ではない。

ところが、原審判決は、その次に「旭紙業の側でも、報酬以外の労働費用やトラックを所有したときの経費等が節約されるといったことから、」と述べており、この点は旭紙業にとっては大きな利益といえるが、労働者にとっては何の利益ではない。「旭紙業の側でも」ではなく「旭紙業の側では」とすべきである。しかも、その結果旭紙業が「報酬も従業員としての運転手を雇用した場合の給与よりは多額を支払うことができる事情にあった」とする。ところが一八頁六行以下は、「車持ち込み運転手の右報酬は、ほぼ同年令の旭紙業の一般従業員の社会保険、労働保険の保険料や源泉徴収所得税を控除前の給与額と較べて必ずしも高いとはいえなかった」としている。ということは、旭紙業は、もっと多額の報酬を「支払うことができる事情にあった」のに、現実に支払われたものは、「ほぼ同年令の旭紙業の一般従業員の社会保険、労働保険の保険料や源泉徴収所得税を控除前の給与額と較べて必ずしも高いとはいえな」いものしか支払っていなかったのであり、旭紙業のみに一方的に利益をもたらす形態だったことになる。

2、結局、原審判決が二四頁九行目で「巨視的にはともかくその時点では少なくとも双方に利益があると考えられており、旭紙業の側のみに利益があるとはいえないし、」と結論づけているのは何ら証拠に基づかず、自らの事実認定とも矛盾している。認定された事実からは、明らかに旭紙業側のみに利益があることになる。

また、そうである以上、このような労働の形態が「当事者双方の真意、殊に車持ち込み運転手の側の真意にそうものである」という根拠は消滅している。つまり、むしろもっぱら旭紙業の雇用政策上の意図にそうものであっただけである。

原審判決は、「裁判所としては、そのまま一つの就労形態として認めることとするのが相当と」し、かつ、そこで発生した事故の結果は、働く側が負担するべきである(労災保険法の保護は与えない)とする。しかし、このような労働の形態がもっぱら会社側の雇用政策上の意図から発生したものである以上、発生した事故の負担を働く側にのみ負担させることはもはや許されないものと言わざるを得ない。

原審判決は誤りである。直ちに破棄されるべきである。

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