大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 平成6年(オ)1848号 判決 1997年9月04日

上告人

株式会社日本教育社

右代表者代表取締役

森岡和彦

右訴訟代理人弁護士

河合弘之

青木秀茂

吉野正三郎

千原曜

久保田理子

清水三七雄

原口健

河野弘香

野間自子

本山信二郎

船橋茂紀

木下直樹

松井清隆

被上告人

ケネス・J・フェルド

右訴訟代理人弁護士

本林徹

相原亮介

米正剛

増田晋

古曳正夫

久保利英明

末吉亙

品川知久

棚橋元

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人河合弘之、同青木秀茂、同吉野正三郎、同千原曜、同久保田理子、同清水三七雄、同原口健、同河野弘香、同野間自子の上告理由について

一  記録によって認められる事実関係の概要は、次のとおりである。

1  上告人は、教育関係の催事のプロデュース、外国アーティストの招へい及び一般興行等を目的とする日本法人(株式会社)であり、被上告人は、アメリカ合衆国においてサーカス興行を行う同国法人リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・コンバインドショウズ・インク(以下「リングリング社」という。)の代表者である。

2  上告人とリングリング社は、昭和六二年一〇月二日、上告人が、昭和六三年度及び平成元年度の二年間、リングリング社のサーカス団を日本に招へいして興行する権利を取得し、同社に対してその対価を支払うとともに、リングリング社が、右二年間、日本において、同社のサーカス団が昭和六二年八月一五日にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴのスポーツアリーナにおいて行った公演と規模、質共に同等のサーカスを構成して興行する義務を負う旨の契約(以下「本件興行契約」という。)を締結した。

3  上告人とリングリング社は、本件興行契約締結の際、「本件興行契約の条項の解釈又は適用を含む紛争が解決できない場合は、その紛争は、当事者の書面による請求に基づき、商事紛争の仲裁に関する国際商業会議所の規則及び手続に従って仲裁に付される。リングリング社の申し立てるすべての仲裁手続は東京で行われ、上告人の申し立てるすべての仲裁手続はニューヨーク市で行われる。各当事者は、仲裁に関する自己の費用を負担する。ただし、両当事者は仲裁人の報酬と経費は等分に負担する。」旨の合意(以下「本件仲裁契約」という。)をした。

4  本件訴訟は、上告人が、本件興行契約締結に際し、リングリング社の代表者である被上告人がキャラクター商品等の販売利益の分配及び動物テント設営費用等の負担義務の履行について上告人を欺罔して上告人に損害を被らせたと主張して、被上告人に対して不法行為に基づく損害賠償を求めるものである。これに対して、被上告人は、上告人とリングリング社との間の本件仲裁契約の効力が上告人と被上告人との間の本件訴訟にも及ぶと主張して、本件訴えの却下を求めた。

二  仲裁は、当事者がその間の紛争の解決を第三者である仲裁人の仲裁判断にゆだねることを合意し、右合意に基づいて仲裁判断に当事者が拘束されることにより、訴訟によることなく紛争を解決する手続であるところ、このような当事者間の合意を基礎とする紛争解決手段としての仲裁の本質にかんがみれば、いわゆる国際仲裁における仲裁契約の成立及び効力については、法例七条一項により、第一次的には当事者の意思に従ってその準拠法が定められるべきものと解するのが相当である。そして、仲裁契約中で右準拠法について明示の合意がされていない場合であっても、仲裁地に関する合意の有無やその内容、主たる契約の内容その他諸般の事情に照らし、当事者による黙示の準拠法の合意があると認められるときには、これによるべきである。

これを本件についてみるに、前記事実関係によれば、本件仲裁契約においては、仲裁契約の準拠法についての明示の合意はないけれども、「リングリング社の申し立てるすべての仲裁手続は東京で行われ、上告人の申し立てるすべての仲裁手続はニューヨーク市で行われる。」旨の仲裁地についての合意がされていることなどからすれば、上告人が申し立てる仲裁に関しては、その仲裁地であるニューヨーク市において適用される法律をもって仲裁契約の準拠法とする旨の黙示の合意がされたものと認めるのが相当である。

三  本件仲裁契約に基づき上告人が申し立てる仲裁について適用される法律は、アメリカ合衆国の連邦仲裁法と解されるところ、同法及びこれに関する合衆国連邦裁判所の判例の示す仲裁契約の効力の物的及び人的範囲についての解釈等に照らせば、上告人の被上告人に対する本件損害賠償請求についても本件仲裁契約の効力が及ぶものと解するのが相当である。そして、当事者の申立てにより仲裁に付されるべき紛争の範囲と当事者の一方が訴訟を提起した場合に相手方が仲裁契約の存在を理由として妨訴抗弁を提出することができる紛争の範囲とは表裏一体の関係に立つべきものであるから、本件仲裁契約に基づく被上告人の本案前の抗弁は理由があり、本件訴えは、訴えの利益を欠く不適法なものとして却下を免れない。

四  以上と同旨の見解に立って、本件訴えを却下すべきものとした原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、右と異なる見解に立って原判決の法令違背をいうものであって、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官高橋久子 裁判官小野幹雄 裁判官遠藤光男 裁判官井嶋一友 裁判官藤井正雄)

上告代理人河合弘之、同青木秀茂、同吉野正三郎、同千原曜、同久保田理子、同清水三七雄、同原口健、同河野弘香、同野間自子の上告理由

○ 上告理由書(その一)記載の上告理由

東京高等裁判所が平成六年五月三〇日に言い渡した判決(以下「控訴審判決」という)は、法令の解釈を誤り、かつ憲法第三二条で保障された「裁判を受ける権利」を侵害するものであり、破棄されるべきものである。

以下詳述する。

第一 本件事件での法律上の争点について

一、被上告人は、本件事件での法律上の争点を、「仲裁契約の人的・物的範囲」の問題であるとした上、仲裁契約の準拠法についてその主張を展開している。そして、平成五年三月二五日に東京地方裁判所で言い渡された第一審判決(以下「原審判決」という)もまた控訴審判決も右の被上告人の問題提起に沿ってその理由を述べ判断を下している。

しかしながら本件事件で判断されなければならない問題は、「仲裁契約の人的・物的範囲」なのではなく、仲裁契約が妨訴抗弁となる人的・物的範囲、つまり「妨訴抗弁の人的・物的範囲」である。仲裁契約が有効に成立していることを前提としてどの範囲で妨訴抗弁となるかの問題である。

二1.本件事件に即していえば、上告人であるAが、日本国(東京)において被上告人てあるCに対して、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟を提起し、そのA・C間の訴訟が係属している東京の法廷において、別途Aが訴外リングリング社(B)と仲裁契約を締結していることが、妨訴抗弁となるか否かの問題なのである。

AB間においての仲裁契約が、その準拠法上有効に成立していなければそもそも妨訴抗弁の問題は起こり得ないのであるから、以下の議論では仲裁契約がその準拠法上有効に成立していることを前提とする。

2.ところで、右の場合、その条項の内容の当否は別として、日本国の民事訴訟法に『日本国内の仲裁裁判所で仲裁を行うとの内容の仲裁契約が成立していれば、妨訴抗弁となるが、外国に存在する仲裁裁判所で仲裁を行うとの内容の仲裁契約の場合には妨訴抗弁とはならない』旨の条項が存在したとすれば、本件の場合A・C間の法廷において妨訴抗弁は成立するであろうか。答は否である。A・C間の訴訟は日本国の裁判所に係属しており、日本国の民事訴訟法が適用されるからである。つまり法廷地法が適用されるのである。

上告人は右の問題も妨訴抗弁の成立範囲の問題であると考えるが、被上告人は、右の点について、それは妨訴抗弁になるか否かの問題、つまり妨訴抗弁の成立の問題であるから、法廷地法が適用されるのは当然であると主張するのかも知れない。何故なら被上告人は、「有効な仲裁契約が存在している場合に、妨訴抗弁になるか、なるとしたらどういう妨訴抗弁になるか(停止事由か却下事由か)という限度で法廷地法が適用されるに留まる」としばしば主張しているからである。

3.そうであるならば、仮に日本国の民事訴訟法に『契約の債務不履行責任に関して仲裁裁判所で仲裁を行うという内容の仲裁契約であれば妨訴抗弁となるが、不法行為責任について仲裁裁判所で仲裁を行うという内容の仲裁契約であれば妨訴抗弁とはならない』旨の規定が存在した場合はどうであろうか。右の場合A・C間の法廷において、A・B間の仲裁契約の存在は妨訴抗弁にはならないと言わざるを得ない。右の問題は明らかに「妨訴抗弁の物的範囲」の問題であるが、A・C間の法廷において問題とされる限りやはりA・C間の法廷の問題であり法廷地法が適用されなければならないからである。

右の問題は仲裁契約がその準拠法上成立を認められる人的・物的範囲の問題ではない。仲裁契約が、その準拠法上、どの範囲で成立していようが、それとは全く別の問題であり、現に訴訟が係属している法廷においてどの範囲で妨訴抗弁の成立が認められるかと言う「妨訴抗弁の人的・物的範囲の問題」なのである。そしてこれは法廷地法によって決定されるべき問題なのである。

4.妨訴抗弁の人的範囲の例を考えても同様である。

仮に、日本国の民事訴訟法に、『法人間において、仲裁裁判所の仲裁に付する旨を定めた仲裁契約は、法人間においてのみ妨訴抗弁となる』旨の規定が存在したとすれば、本件事件で妨訴抗弁は成立するのであろうか。答は否である。

被上告人は、右に述べた例はいずれも仮定であって現に存在する規定ではないし、その内容において存在し得ない規定であると主張するのかも知れない。確かに右に掲げた例は、その内容を見ると、妥当でないものがあるのかも知れない。しかしながら法廷地において「妨訴抗弁の人的・物的範囲」を定めた規定が存する場合には、「妨訴抗弁の人的・物的範囲」については間違いなく、法廷地法が適用されるし、また適用されなければならないのである。

「妨訴抗弁の人的・物的範囲」について法廷地法を適用せずに、あえて仲裁契約の準拠法に従って「妨訴抗弁の人的・物的範囲」を解釈するなどと言う解釈論を展開すればそれが如何に不当であるかは一目瞭然であると言わなければならない。

5.しかも右3.4に述べた趣旨と同一の結果をもたらす規定は、現に日本国民事訴訟法第七八六条に存在するのである。原審判決は、同条項を掲げ、

「民訴法第七八六条によると、仲裁契約は、対象となっている係争物について当事者が和解する権利を有しない場合には、有効に成立しないと規定されているところ、我国では法人の代表者と法人とは別個の法人格とされており、法人は法人の代表者に関する紛争について和解する権利を有しないから、法人が締結した仲裁契約が、法人の代表者に関する紛争についても当然に適用されると言うような解釈が一般的に妥当であるとは解されない。また、我国においては、一般に法律的な根拠ごとに個々の請求を区別し、不法行為に基づく請求と契約関係に基づく請求は別個の請求と考えられていることに照らすと、契約関係から生じる紛争を仲裁に付する旨の合意が契約締結段階の詐欺をも当然に対象に含むと解釈することが一般的に妥当するということもできない。」

と我国の民事訴訟法に基づく解釈を正当に指摘しているのであり、我国の民事訴訟法の解釈について、これと別途に解する見解(乙第六号証・澤本意見書、乙第一九号証・小島意見書)は、間違いなく少数説にすぎない。

6.以上、妨訴抗弁の成立及びその人的・物的範囲について、明文の規定がある場合を仮定して述べたとおり、妨訴抗弁が存在するか否か、またどの範囲で存在するのかは、現にその妨訴抗弁が提出された法廷における訴訟法上の問題であって、「手続は法廷地法による」の原則に従わなければ、適切且つ円滑な裁判権の行使は行えないのである。そしてこの「妨訴抗弁の人的・物的範囲」と「仲裁契約の人的・物的範囲」とはまったく次元の異なる問題であって、これを混同する被上告人の主張は失当である。また右の点を看過した原審判決及び控訴審判決は、憲法第三二条に保障された「裁判を受ける権利」を侵害するものと言わざるを得ない。

三1.被上告人は、右の主張に対し、仲裁裁判における「仲裁契約の人的・物的範囲」と訴訟手続における「妨訴抗弁の人的・物的範囲」について、異なる準拠法にのっとるとすれば「当事者の合理的意思に反する」だけでなく、「仲裁の手続において仲裁の申立が受け入れられないにもかかわらず、妨訴抗弁が認められて訴えが却下され、原告が何等の救済も受け入れられない場合や、逆に、仲裁の申立が受け入れられるにもかかわらず、妨訴抗弁が認められず、被告が仲裁契約がありながら応訴を余儀なくされる場合が生じ」その結果深刻な問題を引き起こすことになると主張する。

2.まず「当事者の合理的意思に反する」との主張であるが、当事者の意思を離れて、世界連邦を想定するような「合理性を追究した理想論」ということであれば、当事者の意思ではない。そうではなくまさに「当事者の意思」ということであれば、本件の場合「ケネス・J・フェルド個人に対する」、しかも「不法行為にもとづく請求」が、「リングリング社に対する」「債務不履行の処理について定めた契約」に含まれるなどということを、当事者の誰が了解し意図したというのであろうか。少なくとも上告人会社代表者は、全く想定していない(従って当事者の一方の意思とはほど遠い)解釈である。むしろ上告人会社代表者は、個人と法人は異なる、不法行為と債務不履行とは別物であると考えていたのである。

従って、仮に、仲裁契約の準拠法について、被上告人の主張を前提とするならば、逆に、「仲裁契約の人的・物的範囲」についての準拠法と「妨訴抗弁の人的・物的範囲」についての準拠法とを異なる準拠法と解することこそ、当事者意思に合致するものであると言わざるを得ない。

3.被上告人は①「仲裁の手続において仲裁の申立が受け入れられずかつ、妨訴抗弁が認められて訴が却下される場合」②「仲裁の申立が受け入れられるにもかかわらず、妨訴抗弁が認められずに訴訟手続が応訴を余儀なくされる場合」を、深刻な問題であると主張する。

しかし、この問題は「仲裁契約の人的・物的範囲」と「妨訴抗弁の人的・物的範囲」がイコールであるという被上告人の誤った解釈を前提として初めて提起される問題にすぎない。「仲裁契約の人的・物的範囲」と「妨訴抗弁の人的・物的範囲」はそれぞれ、別個のものとして捉えれば何等問題となるものではない。

①の場合は、仲裁契約は締結したものの、仲裁契約に瑕疵があるか、仲裁地の法律により仲裁の申立が出来ない等の場合である。それならば仲裁地において訴訟を提起することができる。また申立人の国において独自に訴訟を提起することができる。また申立人の国において独自に訴訟を提起することも可能である。なぜなら仲裁地の準拠法に基づき有効に仲裁契約が成立していない場合だからである(仲裁契約の不存在)。つまり①の場合として被上告人が述べるような事例はそもそもどの国の裁判所へ訴え、申立を行っても要件が欠如していて認められない事例以外には考え難く、逆に言えば救済すべき権利が適法に存しない場合である。

②の場合は本件のような場合である。訴外リング・リング社を相手に米国で仲裁裁判を提起し、かつ日本でケネス・J・フェルドを相手に不法行為の責任を追究する訴訟を提起し、これが両方とも受け入れられ、二件の訴訟が係属する場合である。これが認められて一体何が深刻な問題なのであろうか。会社に対する訴訟と、取締個人に対する訴訟とが併存する場合や、手形訴訟と原因関係訴訟が併存する場合等を想起するまでもなく、当事者(法人格)が異なりまた訴訟物が異なれば訴訟が併存する事態などごく一般的である。また米国と日本において同時に同一訴訟物について裁判が併存する場合などいくらも実例は存在する。管轄について、また妨訴抗弁の成否について各々の国がそれぞれ独自に規定をもうけているのであるからむしろ当然のことだと言える。むしろ両訴訟が併存することが認められないとすれば、それは、裁判を受ける権利が侵害されている場合であると考えられるのではなかろうか。

4.本件のように米国法を準拠法として解釈する場合と日本国法を準拠法として解釈する場合とで仲裁契約の人的・物的範囲が異なる場合を想定すると、被上告人の主張するように「仲裁契約の人的・物的範囲」に関する準拠法と「妨訴抗弁の人的・物的範囲」に関する準拠法を一致させたのではかえって不平等で是認し難い事態が生ずる。

つまり原審判決及び控訴審判決が述べるとおり「日本教育社が仲裁の申立を行うとすればニューヨーク市で行うことになり、その場合、合衆国連邦裁判所の判例によれば、ケネス・J・フェルド個人に対する不法行為に基づく請求も仲裁契約の範囲に含まれる。従って日本でケネス・J・フェルド個人に対し、不法行為に基づく訴訟を提起しても妨訴抗弁が認められ訴訟は却下される」ということになる。

しかしリングリング社が、日本教育社の代表者(森岡)に対し、米国で訴訟を提起する場合には、債務不履行を理由としようが、不法行為を理由としようが、これは認められることになる。何故ならばリングリング社が仲裁の申立を行うとすれば東京で行うことになり、その場合日本国の民事訴訟及び判例では、法人と個人は法人格を異にするから、そもそも森岡個人に対する請求は理由の如何を問わず仲裁契約の範囲に含まれないことになり妨訴抗弁は認められないからである。被上告人の主張を前提とすると、右に述べたような、当事者が全く予想だにしていない不平等な結果を招来することになるのである。

*なお、右の結果は、被上告人自身が「受け入れ難い深刻な問題」と指摘している②(前記三・3・②)の事態である。つまりリングリング社は、東京で仲裁裁判を求めることができ、かつ森岡個人に対して米国で訴訟を提起できるのであり、上告人及び森岡は「応訴を余儀なくされる」のである。

5.以上、述べたとおり、被上告人の「仲裁契約の人的・物的範囲」と「妨訴抗弁の人的・物的範囲」に関する主張は誤りであると言わざるを得ない。「仲裁契約の人的・物的範囲」と「妨訴抗弁の人的・物的範囲」はその準拠法を異にし、かつ実体法上の問題と訴訟法上の問題という次元を異にする問題である。これを無理遣り、同一準拠法によって、同じ平面上で理解しようとするのは、前記のような明らかな矛盾を露呈させるだけでなく、その必要性も何等存在しない。

仲裁契約が有効に成立しているか否か、どの範囲で成立しているか(「仲裁契約の人的・物的範囲」)は、仲裁契約の準拠法に従って解釈されれば良いのである。また有効に成立した仲裁契約のうちどの範囲のものが妨訴抗弁となるか(「妨訴抗弁の人的・物的範囲」)は、妨訴抗弁が提起された法廷において、法廷地法に基づいて解釈されるべきものである。

6.「手続は法廷地法による」の原則に従い、妨訴抗弁については法廷地法によって決定されるとの確立された通説(小島武司=高桑昭編『注解仲裁法』(青林書院・昭六三)二三二頁以下「澤木敬郎」、川上太郎「仲裁」国際私法講座第三巻(有斐閣・昭三九)八五七頁、小山昇・仲裁法「新版」(有斐閣・昭五八)八三頁、小林秀之「国際仲裁に関する序説的考察」上智法学論集二三巻二号五八頁「昭五五」)はすべて、前述の内容を主張しているのであり、被上告人による右の点に対する解釈は全く誤解であると言わざるを得ない。この点については判例も同様である。(東京地裁昭和二八年四月一〇日判決下民集四巻四号五〇二頁、東京地裁昭和四八年一二月二五日判例時報七四七号八〇頁・判例タイムズ三〇八号二三〇頁))。また小林教授も以上のことを述べられているのであり、被上告人の同教授の見解に対する批判は的外れである。

第二 ニューヨーク州連邦裁判所における仲裁付託判決について

一、原審判決及び控訴審判決は、訴外リングリング社と被上告人が、上告人と訴外森岡に対してニューヨークで提起した仲裁付託及び差止命令申立事件において、ニューヨーク州の連邦地方裁判所が、平成二年一一月二一日に、

「①控訴人及び森岡和彦に、本件仲裁契約の条項に基づき国際商業会議所の規則に従い仲裁申立を行うことを命ずる、②控訴人の本訴請求が本件仲裁契約の条項に含まれていることを確認する、③控訴人及び森岡和彦は、本件仲裁契約の仲裁条項により要求される仲裁手続がなされている間、本件訴訟を進行させてはならない」旨の判決を下したことをもって、あたかも被上告人の主張に沿った判決がなされたかのように解釈しているとも考えられる表現をしている。

しかし右判決は欠席判決であるのでその当否を述べることは妥当ではないと思われるが、少なくとも被上告人の主張に沿った判決ではない。

二、本件仲裁契約における仲裁条項は、乙第一号証・Ⅲ・0・2に記載されている通り次のような文言である。

「本契約の条項の解釈または適用を含む紛争が解決できない場合には、その紛争は、当事者の書面による請求に基づき、商事紛争の仲裁に関する国際商業会議所の規則および手続に従って仲裁に付される。リングリングの申し立てるすべての仲裁手続は東京で行われ、JECの申し立てる仲裁手続はニューヨーク市で行われる。各当事者は仲裁に関する自己の費用を負担する。ただし、両当事者は仲裁人の報酬と経費は等分に負担する。」

被上告人の主張に従えば、本件に関する紛争は、相手国において仲裁の申立を行わなければならない(右条項)のであり、且つその際の仲裁契約の準拠法は、仲裁地の法律であると言うことになる。そして「仲裁契約の人的・物的範囲」も「妨訴抗弁の人的・物的範囲」も仲裁地の法律で定められることになる。そうであるとすれば、右訴訟における「仲裁契約の人的・物的範囲」も「妨訴抗弁の人的・物的範囲」も日本国法に従って解釈されるのであるから、森岡やケネス・J・フェルド個人が、本件仲裁契約の当事者として認められることは一切有り得ないと言わざるを得ない。その結果ニューヨーク州連邦裁判所は、森岡個人に対しては判決をなし得ないし、ケネス・J・フェルドを原告となし得ないのである(欠席したと言う事情を除けば)。しかしながらニューヨーク州連邦裁判所は、被上告人の申立を認めているのであり、これは小林教授が指摘するように法廷地法である合衆国連邦仲裁法及びこれに関する判例を適用したとしか理解できないのである。つまりニューヨーク州連邦裁判所は上告人の主張に沿った解釈を行っているのであり、被上告人の主張を排斥したものであると言わざるを得ないのである。

右判決は、欠席判決であるとの事情を除けば、右に述べたように解釈されなければならないのである。

(青木秀茂)

○上告理由書(その二)記載の上告理由

第一 仲裁契約の準拠法について

一 本件訴訟の中心的争点は、日本の裁判所に係属している民事訴訟につき、被告がアメリカ合衆国で締結された仲裁契約を妨訴抗弁として提出した場合に、この仲裁契約の人的範囲及び物的範囲の解釈につき、日本法が準拠法となるかアメリカ法が準拠法になるかというものである。上告人は、国際民事訴訟法の最重要基本原則である「手続は法廷地法による」(Lex Fori)原則に従い、日本法つまり日本の仲裁法たる民事訴訟法第七八六条の解釈が準拠法として本件訴訟の解釈の基準になるべきであると主張している。

二 これに対して、第一審判決は、法例第七条を適用して、本件仲裁契約の準拠法はアメリカのニューヨーク州で適用される仲裁法であると判示し、原審もこの見解を踏襲した。しかし第一審及び原審のかかる見解は、次の二点において大きな解釈上の誤りを犯している。

まず第一点は、日本で係属している訴訟の当事者とニューヨークで本件仲裁契約を締結した当事者とが、同一当事者である場合には、第一審及び原審の見解は正しいといえるが、本件訴訟の被告(被控訴人、被上告人)は、仲裁契約の当事者であったリングリング社の代表取締役個人であり、従って仲裁契約の当事者と本件訴訟の当事者は一致していない。それゆえ妨訴抗弁として主張されている仲裁契約の準拠法の決定につき、法例第七条一項を持ち出して当事者の意思を基準とすることは基本的に間違っていると言わざるを得ない。しかも、日本法の法例解釈において法人である株式会社と自然人であるその代表取締役とを同一視できるという見解は許されていないのである。

これに対して、第一審及び原審の判決は、ニューヨークの仲裁法の解釈では、当事者が違っても、株式会社とその代表取締役とが同一視できる場合があり、また仲裁契約の対象たる権利関係と民事訴訟の訴訟物たる権利関係が違っても仲裁契約の効力が及ぶと解されるから、本件訴訟の場合にニューヨークの仲裁法が準拠法とされれば、妨訴抗弁が認められて、本件訴訟は却下されるべきであるという結論になる。

しかしかかる見解は、仲裁契約と民事訴訟の当事者が一致せず、また対象たる権利関係が同一でない本件訴訟においては妥当しないものである。仲裁契約の本質的効果の一つは言うまでもなく、国家裁判所の管轄権を排除することである。その場合に、有効な仲裁契約が存在するにもかかわらず、訴えが提起された場合、それを妨訴抗弁として認めて、訴えを却下し、あるいは訴えを停止し、さらに仲裁を強制する命令を出すなど、国家裁判所の管轄権を否定するという消極的側面と、仲裁人の権限、とくに仲裁契約の有効性について判断する権限を認め、そのような紛争についても、国家裁判所が介入せず、仲裁裁判所の管轄権を肯定するという積極的側面がある。第一の消極的側面の問題については、妨訴抗弁が訴えにどのような影響を及ぼすかは、訴訟法上の問題であって、「手続は法廷地法による」原則に従って、法廷地法によるとするのがわが国の確立した通説であり、判例である(注解仲裁法(青林書院)二二二頁)。したがって仲裁契約が存在するにもかかわらず、訴えの提起をなすことは仲裁契約の債務不履行の問題として仲裁契約の準拠法によってその効果を判断すべきではなく、不法行為と性質決定して、訴えの提起された地の法によることになる。

以上の日本で通説・判例として流布している見解に従えば、本件の場合にも、たとえニューヨークで締結された仲裁契約が有効に存在しようと、日本の東京で提起された民事訴訟においてその仲裁契約が妨訴抗弁として主張された場合には、この抗弁が係属中の訴訟にどのような影響を及ぼすかは、当然に日本の仲裁法つまり民事訴訟法第七八六条の解釈によって決まることになる。同条の解釈は、第一審判決が的確に引用しているように、仲裁契約の人的範囲及び物的範囲については、アメリカ仲裁法のような拡張解釈は採用しておらず、当事者又は訴訟物ないし権利関係が異なれば仲裁契約は当然に及ばず、従って本件の場合には、妨訴抗弁が不適法として却下されることになるのである。

第一審及び第二審の解釈の誤りの第二点は、本件仲裁契約の特殊性を看過している点である。本件仲裁契約においては、仲裁契約を申し立てる場合には、それぞれ相手方当事者の所在地の仲裁機関に申し立てるという取り決めになっており、もし上告人が仲裁申立てをする場合には、相手方であるリングリング社の所在地のニューヨーク市において適用される法が準拠法となり、リングリング社が仲裁申立てをする場合には、東京の仲裁機関に申し立て、その場合の準拠法は日本の仲裁法ということになる。このクロス式の仲裁地の指定は、相互主義に基づいており、それ自体はきわめて意義のある規定の仕方である。もしリングリング社が、ニューヨークの地方裁判所に、上告人の会社の代表取締役である森岡和彦個人を相手どって、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟を提起した場合に、被告とされた森岡和彦が本件仲裁契約を妨訴抗弁として主張したら、ニューヨークの地方裁判所はどのように判断するであろうか。この場合には、被告森岡和彦の仲裁契約の抗弁を、ニューヨークの仲裁機関への仲裁申立てと擬制して、ニューヨークの仲裁法を準拠法とするであろうか。あるいは「手続は法廷地法による」原則を適用してニューヨークの仲裁法を適用するであろうか。これらの想定されるケースを勘案した場合、ニューヨークの地方裁判所はまちがいなく「手続は法廷地法による」原則に従うであろう。なぜなら、アメリカ合衆国においても、「手続は法廷地法による」原則が判例上確たる訴訟原則として確立されているからである。そうだとすると、相互主義を渉外民事訴訟の基本原則として承認するならば、本件の場合にも、当然に、東京地方裁判所は本件の妨訴抗弁を日本法を準拠法として処理すべきであったといえるであろう。

第二 「裁判所は法を知る」原則について

一 国内事件であれ渉外事件であれ、事件を扱う裁判所はそこで適用すべき「法」については裁判所自らが探求しなければならないことは当然のことである。これを「裁判所は法を知る」(Jura no vit curia)原則という。国際民事訴訟の場合にもこの原則が適用されることは当然のことであるが、この当然の事理を原審は尽くさなかった。第一審は、本件仲裁契約の準拠法をアメリカ法とし、連邦仲裁法及びこれに基づくアメリカ合衆国連邦裁判所の判例としていた。これに対して上告人は、原審において、ニューヨーク市で適用される仲裁法は、ニューヨーク州の仲裁法及びこれに関する判例である旨主張し、連邦仲裁法及びこれに関する判例と、ニューヨーク州の仲裁法及びこれに関する判例とは必ずしも同一でないことを指摘した。しかし原審は、自らの職権調査を尽くすことなく、ただ安易に被上告人の提出資料に基づいて、連邦法優先の原則と連邦仲裁法とニューヨークの仲裁法の同一性を認定している。かかる解釈は、法適用についての裁判所の職責を尽くしていないと断定せざるを得ない。

第三 結語

本件訴訟は、わが国の海外取引業務に従事する人々の間に大いなる関心をよんでいる事件である。第一審や原審が示したような見解は、日本の主権を放棄した、あまりにアメリカ法に隷属した解釈といわざるを得ない。現在、日本とアメリカ合衆国との間には、種々の司法摩擦が生じているが、わが国の最高裁判所が過剰な国際主義に走ることなく、毅然とした解釈態度を貫かれることを切に希望する次第である。 (吉野正三郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例