大判例

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最高裁判所大法廷 昭和29年(オ)898号 判決 1958年9月10日

上告人 帆足計

被上告人 国

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人森川金寿、同猪俣浩三、同大野正男の上告理由第一点について。

論旨は、旅券法一三条一項五号は憲法二二条二項に違反し無効と解すべきであるにかかわらず、原判決が右旅券法の規定に基き本件旅券発給申請を拒否した外務大臣の処分を有効と判断したのは右憲法の規定に違反するものであると主張する。

しかし憲法二二条二項の「外国に移住する自由」には外国へ一時旅行する自由をも含むものと解すべきであるが、外国旅行の自由といえども無制限のままに許されるものではなく、公共の福祉のために合理的な制限に服するものと解すべきである。そして旅券発給を拒否することができる場合として、旅券法一三条一項五号が「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」と規定したのは、外国旅行の自由に対し、公共の福祉のために合理的な制限を定めたものとみることができ、所論のごとく右規定が漠然たる基準を示す無効のものであるということはできない。されば右旅券法の規定に関する所論違憲の主張は採用できない。

同第二点について。

論旨は、旅券法一三条一項五号が仮りに違憲でないとしても、本件の旅券発給申請は、同条に該らないに拘らず、原判決が同条を適用してその発給を拒否した外務大臣の処分を適法であると認めたのは同条の解釈適用を誤つた違法がある。又本件拒否処分は国家賠償法一条一項にいう故意過失があつたものとはいえない旨の判示も同条の解釈を誤つた違法があると主張する。

しかし、旅券法一三条一項五号は、公共の福祉のために外国旅行の自由を合理的に制限したものと解すべきであることは、既に述べたとおりであつて、日本国の利益又は公安を害する行為を将来行う虞れある場合においても、なおかつその自由を制限する必要のある場合のありうることは明らかであるから、同条をことさら所論のごとく「明白かつ現在の危険がある」場合に限ると解すべき理由はない。

そして、原判決の認定した事実関係、とくに占領治下我国の当面する国際情勢の下においては、上告人等がモスコー国際経済会議に参加することは、著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する虞れがあるものと判断して、旅券の発給を拒否した外務大臣の処分は、これを違法ということはできない旨判示した原判決の判断は当裁判所においてもこれを肯認することができる。なお所論中、会議参加は個人の資格で、しかも旅券の発給は単なる公証行為に過ぎず、政府がそのことによつて旅行目的を支持支援するものではなく、かつ政治的責任を負うものではないから、日本国の利益公安を害することはあり得ない旨るる主張するところであるが、たとえ個人の資格において参加するものであつても、当時その参加が国際関係に影響を及ぼす虞れのあるものであつたことは原判決の趣旨とするところであつて、その判断も正当である。その他所論は、原判決の事実認定を非難し、かつ原判決の判断と反対の見地に立つて原判決を非難するに帰し、いずれも採るを得ない。次に原判決が、本件拒否処分につき外務大臣の判断の結果が、かりに誤りであつたとしても国家賠償法一条一項にいう故意又は過失はない旨を判示したのは、本来必要のない仮定的理由を附加したにとどまるものであつて、その判断の当否は判決の結果に影響を及ぼすものではない。この点の所論も採用することはできない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官田中耕太郎、同下飯坂潤夫の補足意見があるほか、全裁判官一致の意見によるものである。

本件に関する裁判官田中耕太郎、同下飯坂潤夫の補足意見は次のとおりである。

上告代理人森川金寿、同猪俣浩三、同大野正男の上告理由第一点について。

多数意見は憲法二二条二項の「外国に移住する自由」の中に外国へ一時旅行する自由をも含むものと解している。しかし、この解釈には承服できない。この条項が規定しているのは外国に移住することと国籍を離脱することの自由である。それは国家と法的に絶縁するか、または相当長期にわたつて国をはなれ外国に永住するというような、その個人や国家にとつて重大な事柄に関係している。移住は所在をかえる点では一時的に国をはなれて旅行することと同じであるが、事柄のもつている意味は大にちがつているのである。

のみならず如何に文理的解釈を拡張しても旅行を移住の中に含ませるこどは無理である。というのは移住は結局ある場所に定住することであるが、旅行は動きまわる観念だからである。この意味で旅行は同条一項の「移転」に含ませることが考え得られないではない。しかしこの場合の移転も、正確には「居住を変更する」(英文ではChange his residence)ことなのである。それは追放されないことの保障を内容としている。従つてその中にはこれと性質を異にするところの、旅行することを含むものとは解せられない。この規定は第二項が外国へ行く場合の規定であることに対応して国内における自由を定めたものと認められている。そうだとすればこれは外国旅行の場合に適用がないのは当然である。しかしこの規定は内国旅行の場合をも含んでいないものと解すべきである。

要するに憲法二二条は一項にしろ二項にしろ旅行の自由を保障しているものではない。しからばこれについて規定がないから保障はないかというとそうではない。憲法の人権と自由の保障リストは歴史的に認められた重要性のあるものだけを拾つたもので、網羅的ではない。従つてその以外に権利や自由が存せず、またそれらが保障されていないというわけではない。我々が日常生活において享有している権利や自由は数かぎりなく存在している。それらはとくに名称が附されていないだけである。それらは一般的な自由または幸福追求の権利の一部分をなしている。本件の問題である旅行の自由のごときもその一なのである。

この旅行の自由が公共の福祉のための合理的制限に服するという結論においては、多数意見と異るところはない。

(裁判官 田中耕太郎 小谷勝重 島保 藤田八郎 河村又介 入江俊郎 垂水克己 河村大助 下飯坂潤夫 奥野健一)

上告代理人森川金寿、同猪俣浩三、同大野正男の上告理由

第一点原判決は憲法第二十二条第二項の規定の解釈を誤つたものであるから破棄されるべきである。

日本国民の海外渡航の自由は、日本国憲法が、第二十二条第二項において「侵すことのできない永久の権利」たる基本的人権の一として、これを保障していることは、第一審並原判決をまつまでもなく、明らかなことである。

右海外渡航の自由は、本来無制限的に保障され、公共の福祉による制約をも受けないものであるが(法学協会・註解日本国憲法上巻四四五頁)仮りに原判決のいう如く、公共の福祉による制約をうけるものであるとしてもその基準は明白かつ現在の危険を防止するために具体的に明示されねばならない。しかるに旅券法第十三条第一項第五号は「外務大臣において著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」については旅券発給の申請があつてもこれを発給しないことができる旨を定めている。また旅券の発給を受けなければ日本国外に渡航することができないことは出入国管理令第六十条、同第七十一条の規定に明らかである。

このことは外務大臣の認定に国民の基本的人権たる海外渡航の自由の禁止制限が一切委ねられていることを意味する。この場合外務大臣は「日本国の利益又は公安」を害する行為を行う虞ありと認めるに足りる相当の理由がある者という場合の、日本国の利益公安か何であるかについて判断をするわけであるが、凡そ憲法上自由を制限する場合に、このような漠然広義な標準に基き抱括的に判断を行政庁に委任するようなことは許さるべきものではない。この点は立法の過程に於ても論議されたところで当時の法務総裁もこの規定が「きわめて漠然といたしておりますのでこれを具体的に運用いたします際において濫用を戒める必要があるということは全く同感でございます」と述べている(甲第九号証の三第十二回国会衆議院外務委員会議録第九号)。「日本国の利益又は公安」という字句は特に政党政治の場合においては時の政府(多数党)の目する利益公安というに等しい結果となり、言論、出版、集会等表現の自由と共に海外渡航の自由を保障し、できるだけ見聞を広め議論を尽して合理的な結論に到達せしめようとする憲法の趣旨に合致しない。

右の日本国の利益又は公安の認定解釈の如何によつては、外務大臣が一切の渡航を禁止することができると等しい結果となるのである。憲法における基本的人権の保障は国家権力に対してなされているのに、この保障を制限する基準が国家権力の行使者である外務大臣の認定によることになれば憲法の保障は全く有名無実なものと化することは明白である。従つてそもそもこのような規定の仕方自体が憲法第二十二条第二項の規定に違反しており、少くとも右「日本国の利益又は公安」を発給許可の標準とする旅券法の条項は違憲無効である。

然るに原判決は、旅券法の同条項は憲法第二十二条第二項の規定に違反せず違憲無効でないとの解釈をとつているのであるから、これは当然破棄さるべきである。

第二点原判決は憲法第二十二条第二項に違背し旅券法第十三条第一項第五号の解釈適用を誤つたものであり右は判決に影響を及ぼすことが明白であるから破棄さるべきである。

仮に旅券法第一三条第一項第五号が違憲の法律でないとしても、右基本的人権は出来うる限り強く保証され、又これを制約することは出来うる限り制限されねばならないことは、憲法第十三条及び日本国憲法を最高法規として規定する憲法第九七条よりして当然のことである。従つて原審の右旅券法の条項を違憲でないとする見解をかりに是認するとしても憲法上の基本的人権を公共の福祉によつて制約するためには「明白かつ現在の危険」の存在する場合に限られるべきであり、旅券法の右法条も特に「著しく且つ直接に」云々と規定してこの趣旨を明らかにしている。(佐藤達夫証言第二五参照)

しかるに、原審並に第一審の判断は、右の「明白かつ現在の危険」の原則を蹂躪し、旅券法の右法条を不当に広く解釈し憲法第二二条第二項の規定に反しているものである。

本件において、その判断の核心は次の一事につきる。

即ち、上告人らのモスコー国際経済会議への参加が、憲法第二十二条第二項で保障する海外渡航の自由を制限する旅券法第十三条第一項第五号にいう「著しくかつ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があるもの」に該当するや否やである。そしてこれが判断は「明白かつ現在の危険」の原則による憲法上の自由の制限の問題であること論を俟たない。然してこの判断は外務大臣の認定に拘束されるべきではなく、憲法上、法律上の見地からその適用解釈について専権を有する裁判所がなすべきことである。

右のような観点から第一審並に原審の判決理由を検討するに、

先ず第一審は、(一)昭和二十七年三月当時の国際情勢として

(1)  日本国政府は、英米その他諸国と平和条約を締結していたがソ連政府とは未だ国交が回復されていなかつた。

(2)  多数同胞がソ連に抑留され、又漁船、漁夫が拿捕されるが如き非友好的関係にあつた。

と、判断し、次に、(二)モスコー国際会議の性格として、その目的が、諸国間の平和的経済協力促進発展等の純経済的問題に限定され何ら政治的性格は有しないとされているが、一方AFLなどが、この会議の目的は、ソ連が所謂民主々義諸国と正常かつ友好的商業関係を行わんとしているという幻影を拡めようとするものだという批判をしている事実もあつた、と認定している。

右事実認定は、原審もほぼ同様であつて、ただ、外務大臣の判断について、当時まだ占領下にあつて米国の意向を尊重するのやむなき状態にあつた日本国として、総司令部の意向に反して、自主的に旅券を発給するのはちゆうちよせざるをえない状況にあつた。という認定を追加したにとどまる。(これは原判決でも否定できなかつたように総司令部の明示の回答に反するものであつて、基本的人権の制約が問題となつている場合に、このようなあいまいな理由を以てすることは絶対に許さるべきことではない。)

右認定は極めて主観的認定であるけれども、それは暫くおき(一)(二)の基礎的認定から、次の如く裁判所は「判断」したのである。

第一審判決は、「前示のような社会的に重要な地位を占める原告等において、平和条約発効前たる旅券発給申請当時、主として米国の多大な援助を受け、且つ全面的協力を要請されていた日本国の立場を無視し、ソ連の平和攻勢の一環として米国内に厳しい批判を浴びているモスコー国際会議に参加することそれ自体が、日本国が共産陣営との連繋と友好とを希望しているかの感を与え、英米その他民主々義諸国との友好関係に好ましくない事態を生じ、前記のように国家の針路として右諸国と提携し、自由世界の一員として独立国としての新に発足せんことを決意した日本国の利益を著しく且つ直接に害する虞があると認定することは判断の筋道としては一応首肯し得る」とし又原審は右判断を全面的に支持して、「前段認定にかかる拒否の理由とその基礎となつた外務大臣の判断並びに右判断に供せられた事実の認識と推理の過程を仔細に検討するときは、当時我が国の当面した国際情勢の認識についてさしたる誤りなく、占領下かかる情勢の下において控訴人(上告人)らがとかく批判あるモスコー国際経済会議に参加することは著しく且つ直接に日本国の利益または公益を害する虞があるものと判断したことはまことに無理からぬところである」と「判断」している。

しかしながら、右判断の基礎となつた前記(一)(二)の前提事実をかりに認めるとしても、右判断は違法かつ違憲である。

なんとなれば、第一にそもそも被上告人の主張並第一審及原判決は、旅券発給の法的性格について根本的に誤つた見解に基いて判断している。即ち、旅券を発給することが、政府の行政行為として、形成的行為としての法的性格をもつているとの見解を前提としない限り、モスコー行旅券の発給が日本国を代表する政府として「米国への全面的協力を要請された日本国の立場を無視」することになつたり、「日本国が共産陣営との連繋と友好とを希望しているかの感を与え(誰に?)」たりするとの認定はできよう筈がないのである。

なるほど、たとえば、政府の権限において政府の役人をモスコー会議に派遣するのであれば、或は前記の如き「感」を与えるかもしれない。又或は行政行為をもつて形成的に渡航権限を与えたりするのであれば、或は、政府が、モスコー会議を支持し、当時の政府の外交政策に疑惑を与えることになるかもしれない。

しかし国民の海外渡航の権利は、憲法上の本来的権利であり、旅券の発給は、行政行為としては単なる準法律的行為たる公証行為にすぎない。(美濃部達吉・行政法一七二頁)

かかる公証行為は、出入国管理令の形式的要件を具備させるためにのみなされるのであつて、政府がその渡航目的を支持、援助することとは全く無関係なのである。これらのことは、およそ、旅券の本質を知る者にとつては自明のことであつて現に、判決中「民主々義諸国」の中に明示されている「英国」を始め、フランス、ドイツ、イタリー、インド等の諸国からは、何れも著名な学者、実業家が多数モスコー会議に参加している。これら民主々義諸国は、右参加者に対し、何れも旅券を発給して居るが、だからといつて右諸国の政府が、その責任において参加を支持したわけでもないし、何らの政治的判断をしたわけでもない。右旅券の発給は、その法的性格からいつて、全く政治的にニユートラルであつて、政府の政策とは無関係なのである

右旅券発給の法的性質と、他の民主々義諸国の現状に鑑み何故にわが国のみ、「誤解」を恐れて旅券発給が「著しく且つ直接に国の利益又は公安を害する」、すなわち「明白かつ現在」の危険に当るといわねばならないのか、全く了解に苦しむのである。外務省、並原判決は、いずれも、旅券発給について旧来の「役所によつて与えられる国民の権利」という謬見にとらわれているものといわざるをえない。

百歩をゆずつて、仮に旅券発給が許可の性質をもつものとしても第一審、並に原判決は、「明白にして現在の危険」の原則に基く前記旅券法の法条の意味を全く誤解している。

同法条にいう「著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞がある」という規定は、余りにも抽象的でそれ自体違憲の疑があることは前述のとおりであるが、特にこの法案が、時の政府と政見を異にする者に対して殊更不利に利用されてならないことは当然である。

原判決は、被上告人たる国(外務大臣)の見解を全面的に支持しているが、およそいかなる国においても、民主々義の法則の支配する限り、政府の政策を批判し、これと政見を異にする者がいることは当然の前提であつて、これら、少数の反対者の権利は強く保護さるべきなのはいうまでもない。たとえ、政府が「対米全面的協力」という認識と政策に基いて本件国際経済会議に日本国民が参加することは好ましくないと思つているにせよ、国民の一部に自ら異つた意見をもち、これに協力しない者があることは民主々義社会の常識である。そして政府と意見を異にする上告人らが、その憲法上保障せられた個人の権利に基いて、個人の資格に於て本件会議に出席することは、何ら政府の立場と関係あるものではなく、仮に政府が旅券発給を許可したとしても政府として、その渡航に関し何人に対しても政治的責任を負う筋合のものではない。従つてこれらの者の渡航によつて日本国の国際的立場が無視され著しく利益公安が害されるなどという「判断」は憲法上及び旅券法上絶対に成立し得ない。モスコー会議参加自体が、内乱罪、外患罪、国交に関する罪、或はその予備又はそれに密接不可分の関係にある行為に該当するならば格別、かかることは、第一審並原審が認定事実前記(二)において認めないところであり、被上告人すら主張していないのである。明白かつ現在の危険を右の如く限定的に解すべきことは、アメリカ合衆国聯邦最高裁判所の判例からも当然であつて、シエンク対合衆国事件、シエフアー対合衆国事件、フローベルク対合衆国事件等の著名な判例は何れも、犯罪又はこれに密接不可分の行為にのみ基本的人権の制約を認めているのである。

凡そいかなる場合においても為政者と異なる意見をもつ者は時の政府にとつて好ましからざるものであることは当然である。しかしながら、かりにソ連が当時、日本国と正常な国交関係を有せず(通商関係はあつた)又友好関係になかつたという前提にたつたとしても私人が私人の資格に於て国際経済を議する会議に参加すること自体が「日本国が共産陣営との連繋と友好とを希望しているかの感」を与えるから「著しくかつ直接に日本国の利益公安を害する」ことになるなどということができようか。

若しかかる判断にして、違法、合憲なりとせんか、当時わが国の国民の有力なる一部が--特に有識階級において--サンフランシスコ条約に反対し、向米一辺倒を批判する言動を公然かつ強力に行つていたことは顕著な事実であるが、これらは何れも「著しくかつ直接に日本国の利益を害する」ものとなるであろう。思想、言論、出版、集会の自由と、海外渡航の自由は、何れも等しく日本国憲法に保障される基本的人権であつて、何ら差別を設けられるべきものではない。この点において原判決及第一審判決共に、時の政府の目する利益又は公安、即公共の福祉との、極めて誤つた考え方に立つている。

原判決はいずれも、上告人に国を害する意思を認めず、かつ、本件会議に犯罪的性格を有するものであることを認めず、僅かに右会議が共産主義国の宣伝として「とかく批判がある」との外務大臣の認定を支持しているに過ぎない。

旅券法第十三条第一項第五号は明文を以て「…虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」として、その個人によつて審査判断すべきことを定めているのであるから「控訴人等の主観的意図いかんにかかわらず」右会議に参加すること自体が著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害するというが如きことは、全く旅券法の明文を蹂躪した牽強附会の立言である。政府が若し共産圏国への渡航を禁止しようとするなら新たな立法手段による以外にないのである。それが不可能であり。、又は煩に堪えぬというので苦しまぎれにひねり出した前記牽強附会的理由ずけに憲法の擁護者たるべき裁判所すら乗ぜられていることは誠に遺憾である。

憲法や基本的人権は口先の理論でごまかせるような軽いものではない。本人の主観的意図が却つて国益増進にあり、会議そのものに犯罪的性格が認められぬならば、単にその会議が平和攻勢の一環とか、宣伝に過ぎないとかいう如きそれこそ主観的な理由で旅券法の規定を曲げて適用することは、公権力の行使に当る公務員たる外務大臣の故意又は重大な過失であることは余りに明白である。仮に平和攻勢の一環であり、宣伝であつたとしても一私人が同会議に参加するための憲法上の権利を制限するに足る明白且つ直接の危険は何処にあるか、参加するのは私人であり、その私人が見聞を広めて帰国することが国益公安を害することになるとは絶対に云い得ない。「とかく批判のある」会議に参加すること自体が内外に対して疑惑を深め、日本国が共産陣営との連繋と友好を希望しているかの感を与えるというが如きは「風と桶屋」の関係すらない。何故なら渡航参加するのは私人であり、私人が憲法上の権利の行使として行くのであるから、国の意思とは無関係であるからである。以上の如く原判決並に第一審判決は憲法第二十二条に反し旅券法第十三条第一項第五号の不当な解釈の下に本件に同法の適用を認めたものであるから当然破棄さるべきである。

なお最後に附言すべきは、原判決は「外務大臣は前示のとおり自己の恣意に基いて本件拒否処分をなしたのでなく、その識見信念に基き自己の責任において拒否するのが正当と判断して拒否処分をなしたものと認められる以上、右判断の結果がかりに誤つていたとしても、国家賠償法第一条第二項にいわゆる故意過失あるものということができず云々」と述べ、その識見と信念に基き、その責任で行えばどんな誤でも責任がないかの如き口吻であるが、これは甚しい誤りである。

従つてその責任と識見たるや、一般下級公務員に比し特に重且つ大であり、事に当つて憲法上の国民の権利自由を侵害しないように注意すべき義務があるものである。然るに第一審証人渡航課長松尾隆男の証言に見られる如く「本件の様な場合は最初から政治的意味の強い問題であつた…」(十八問答)、「これは旅券法以前の問題であると考えた」(二十問答)等の如き考え方を外務大臣の下僚が有していたこと自体が物語る如く、また第一審原告本人帆足計の証人にある如く、「井口政務次官が力と力との対立たとか、社会党が政府をとつたら行けとか、国会で多数をとれ等といつて居り、岡崎大臣も同趣旨の事をいうているので私共は驚きました」という如き態度を外務大臣自らとつていたのである。

従つて原判決の考え方は甚だ甘いものといわざるを得ず、恣意がないとしても、故意があつたが、少くとも過失により上告人の憲法上の権利を侵害したものであること明白である。誤れる識見、信念に基いて行動したため他人の権利を侵害した場合に、故意少くとも過失がないとはどうして云い得るであろうか。否、外務大臣たる者が客観的に違法な行為を信念をもつて行つたとすれば、その責任は却つて増大こそすれなくなるものではない。原判決の考え方だと、下級巡査等が拳銃で人を傷けた如き場合だけ(この場合も信念と責任に基いてなすことが多いであろうが)国家賠償の対償となつて上級官僚はその対象となることは皆無という結果となるであろう。

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