大判例

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最高裁判所大法廷 昭和27年(マ)23号 判決 1952年10月08日

原告 鈴木茂三郎

被告 国

一、主  文

本件訴を却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

二、事  実

原告訴訟代理人は請求の趣旨として、昭和二六年四月一日以降被告がなした警察予備隊の設置並びに維持に関する一切の行為(行政行為は勿論事実行為私法上の行為の外予備隊の設置維持に関する法令規則の一切を含む。別紙目録の記載は例示に過ぎない)の無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする旨の判決を求めその請求原因として別添訴状中請求の原因及び昭和二七年七月一六日附準備書面記載のとおり述べた。

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め別添答弁書中の理由記載のとおり述べた。

三、理  由

原告は、最高裁判所が一方司法裁判所の性格を有するとともに、他方具体的な争訟事件に関する判断を離れて抽象的に又一審にして終審として法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するや否やを判断する権限を有する点において、司法権、以外のそして立法権及び行政権のいずれの範疇にも属しない特殊の権限を行う性格を兼有するものと主張する。

この点に関する諸外国の制度を見るに、司法裁判所に違憲審査権を行使せしめるもの以外に、司法裁判所にこの権限を行使せしめないでそのために特別の機関を設け、具体的争訟事件と関係なく法律命令等の合憲性に関しての一般的抽象的な宣言をなし、それ等を破棄し以てその効力を失わしめる権限を行わしめるものがないではない。しかしながらわが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異るところはないのである(憲法七六条一項参照)。原告は憲法八一条を以て主張の根拠とするが、同条は最高裁判所が憲法に関する事件について終審的性格を有することを規定したものであり、従つて最高裁判所が固有の権限として抽象的な意味の違憲審査権を有すること並びにそれがこの種の事件について排他的なすなわち第一審にして終審としての裁判権を有するものと推論することを得ない。原告が最高裁判所裁判官としての特別の資格について述べている点は、とくに裁判所法四一条一項の趣旨に関すると認められるがこれ最高裁判所が合憲性の審査のごとき重要な事項について終審として判断する重大な責任を負うていることからして十分説明し得られるのである。

なお最高裁判所が原告の主張するがごとき法律命令等の抽象的な無効宣言をなす権限を有するものとするならば、何人も違憲訴訟を最高裁判所に提起することにより法律命令等の効力を争うことが頻発し、かくして最高裁判所はすべての国権の上に位する機関たる観を呈し三権独立し、その間に均衡を保ち、相互に侵さざる民主政治の根本原理に背馳するにいたる恐れなしとしないのである。

要するにわが現行の制度の下においては、特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所がかような具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何等の根拠も存しない。そして弁論の趣旨よりすれば、原告の請求は右に述べたような具体的な法律関係についての紛争に関するものでないことは明白である。従つて本訴訟は不適法であつて、かかる訴訟については最高裁判所のみならず如何なる下級裁判所も裁判権を有しない。この故に本訴訟はこれを下級裁判所に移送すべきものでもない。

以上の理由により、本件訴訟は不適法として却下すべく、訴訟費用の負担につき民訴八九条を適用し主文のとおり判決する。

この判決は裁判官全員の一致の意見によるものである。

(裁判官 田中耕太郎 霜山精一 井上登 栗木茂 真野毅 小谷勝重 島保 斎藤悠輔 藤田八郎 岩松三郎 河村又介 谷村唯一郎 本村善太郎 裁判官沢田竹治郎は退官につき、署名捺印することができない。裁判官 田中耕太郎)

訴状

世田谷区弦巻町一ノ一九

原告 日本社会党中央執行委員長 鈴木茂三郎

港区芝車町六十二番地

右訴訟代理人 弁護士 猪俣浩三

新宿区三光町一番地

同 武藤運十郎

千代田区神田神保町二ノ二

同 萩元隼人

目黒区上目黒三ノ一七七二

同 佐々木正泰

新宿区三光町一番地

同 高橋正雄

被告 国

右代表者法務総裁 木村篤太郎

訴訟物価格

民事訴訟用印紙法第三条

貼用印紙 三百十円

日本国憲法に違反する行政処分取消の訴

請求の趣旨

昭和二十六年四月一日以降被告のなした警察予備隊設置に関する別紙目録記載の行政行為は之を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。

請求の原因

(一) 実体論

昭和二十六年度予算措置に基き政府は警察予備隊の名の下に警察と称して軍備即ち戦力を保持している。戦力を保持することは憲法第九条第二項に違反する。従つて戦力保持のための政府の凡ての行政行為は無効であるから其の取消を求めるためこの訴訟を提起する。

1、戦力抛棄の規定

日本国は憲法第九条によつていかなる場合にも戦争をせず、国際平和を保つことを宣言し、その目的を達するために陸海空三軍は勿論その他一切の戦力を保持しないこととしている。日本国に自衛権があるか否か、従つて自衛のための戦争が出来るか否かについては本条の解釈をめぐつて争いがあろう。しかし本条が戦力即ち軍備を廃止したことについては何人にも争いのない所である。

2、戦力の意義

では一体戦力とは何を指すのか。陸海空の三軍が直接これに該当することは明らかであるが、そのような組織としての軍隊のみならず、これに類似のものも又戦力のうちに含まれるとするのは通説である。軍隊に類似のものといえば直ちに警察が考えられるが、警察は必ずしも戦力ではない。とすれば戦力と考えられるべき実体と警察をも含めて戦力以外のものとの区別はどこにあると考えるべきであろうか。一般に戦力の標識として考えられるものは次の三点である。

第一は、組織である。これは第二、第三の標識の基礎ともなるべきもので、戦力は戦争をするためのものであり戦争は兵器の使用によつて遂行される。従つて戦力かどうかを判断されるべき対象が戦争のための兵器を保有するような又同時にその兵器を使用して戦争をすることができるような組織乃至制度を持つているかどうかということが重要である。一言にしていえば所謂軍隊組織をもつているかどうかである。強力な上下の指揮命令系統、兵器保持のための装備、戦闘用の訓練、徴兵制度、自由な退営の不許又は予備役等の身分的束縛など、直ちに兵器をとつて戦争をなしうるような組織がこれである。

第二は、兵器の性質である。戦力と呼ばれうるためには相当程度の兵器を備えねばならない。勿論勢力の概念も歴史的に変化する相対的なものであり時所を超越した絶対的な意味における戦力というものはあり得ない。大昔に於ては又現在でもある部族の間では弓矢や鎧兜は立派な戦力であろうが、今日の近代国家でこれを戦力と考える者はあるまい。そうかといつて、木村法務総裁のように原子爆弾や、ジエツト機を持たなければ戦力と云い得ないといえば、世界に軍備を持つ国はほんの二、三に過ぎないことになろう。又大橋国務相は、外国を侵略する目的がなければ軍隊ではないと云つたそうだが、世界の何処の国でも外国を侵略する目的で軍備をするというものはないのだから、それでは世界中軍備を持つている国は一つもないということになろう。又或る者は軽装備二十万位の地上部隊は到底外敵の収入を防ぐに足らないから、軍備といえないというが、しかしこれは結局木村説と同一に帰するし、又近代戦は一国と一国が戦うというよりも、数ケ国が共同して、又は一国の軍隊が他国の軍隊の一部に編入されて戦うということもあり得るのだから、単独では外敵を防ぐに足りないから軍備でないというようなことは全く理由にならない。又日本国のように四囲の状勢からたとえ軍備をもつとしても、主として地上軍以外はもち得ない場合には空軍がないから戦力ではないなどということはできない。結局何が戦力に値する兵器の程度かということは、広く世界各国の警察力と軍備(戦力)の実体を見究めて、これを比較検討して日本国に相応する戦力を考え又近代戦争殊に世界戦争の規模と日本国がこの場合果すことあるべき役割を考慮して実証的且実質的に決定すべきものである。

第三は、(使用)目的である。警察は国内の治安を保つこと、つまり社会公共の秩序を維持することを目的とするから国内でのみ活動する。これに反し戦力は国外に対して作用し、自己を防衛し或は他国を制裁し、又は侵略することを目的とするから国外で活動する。尤も軍隊は国外で働くと限られたものではなく国内でも活動することがある。それは警察の補充として或はそれ以外の例えば反対派の弾圧のためにも用いられることがある。従つて国内で活動すれば警察であり国外で活動すれば軍隊であるとは必ずしも言い切れない訳であるが、一般には活動の場所の差によつて区別されている。

以上の三点の特長を備えるならば、又一点でも著しい時は、これを戦力と呼ぶことができよう。更にもう一つ戦力乃至軍備であるかどうかを判断する資料として、その対象に対する自国民及び他国民の判断がある。以上三点は客観的なものであるが、これは以上三点の客観的標識を観察して得た人間の主観的認識である。実はこの判断、この認識こそが戦力か否かを決する最大の規準ということができよう。自国民の大半が戦力であると考えており、又世界の各国民がこれ又戦力とみなしているような実体は即ち戦力でなければならない。

マーク・ゲインのニツポン日記を待つまでもなく、日本国憲法の原文は英文であつた、この英文では戦力を、ウオアポテンシヤルとしてある。ポテンシヤルとは存在又は行動に転化し得る能力のあるものという意義である。されば戦力とは相当広い意味であり、学者の説明もまた潜在的戦力を意味するという風になつている。佐々木惣一博士は「それは陸海空軍の如く戦争をなすの力を供給するのは任務を有するものではないが、戦争をなす力を供給する可能性を有するものをいう、人たると物たるとはこれを問わない。例えば、何等かの体制を有する人の集団をつくり、必要に応じ軍事行動をなさしめるよう計画的に訓練しておく等は、憲法第九条第二項にいう戦力である」と。国際連盟で軍縮問題がはなやかであつた頃、世界軍縮会議準備会で軍備とは何ぞやの意見を発表したが、それによると警察官は勿論、森林看守、税関吏までが含まれており動員令によらないでいつでも戦いにはいれる組織的集団を意味するようになつている。

3、警察予備隊の実体

では現在警察予備隊と呼ばれているものは右の戦力の意義と照らし合わせた場合これに該当するものであろうか。

(1) 警察予備隊の組織は明らかに軍隊のそれである。七万五千名と称する全隊員(その中堅幹部は旧陸海空軍の将校である。)が総監の下に旧日本陸軍類似の階級に分れて統率され、全国数十ケ所の兵営類似のキヤンプに収容されて外出は自由でなく、訓練内容は白兵戦、渡河作戦、架橋工事、敵前上陸に備えるバリケード、トーチカ等の障害物構築、敵施設探索及び爆破、道路建設など全く戦争のためのものであり、更に政府は現在隊員の自由な退官を許さず、予後備役をつくる等を立案中であるという。以上の事実は予備隊が国内治安のための警察の目的としてではなく、戦争に備えて設置されたものであり、これに適合するような組織を有していることが分る。

(2) 予備隊の有する兵器はカービン銃、ライフル銃、その他の十五連発自動小銃、迫撃砲、バズーカ砲、車輛三千輛であると公表されている。訓練の程度から察するに重砲戦車等の配備も予想又は予定されている。なるほどジエツト機も原子爆弾もないのは事実のようであるが、日本軍が地上軍の役割を果すことを期待されて居り、又日本の国家財政が十分でない現在、以上の装備は既に戦力と呼ぶに十分である。世界のどの国の警察が国内治安のために迫撃砲やバズーカ砲(対戦車砲)をもつているのであろうか。

(3) 予備隊の目的については内閣の説明はあいまいである。又海外に出すことはないと称している。しかしすでに吉田首相は一月三十一日に予備隊は十一月以後は防衛隊に切換えると言明している。このことは予備隊が万一国外へ出ないとしても少くとも国外からの勢力と闘うことを意味している。このような吉田首相の言葉や、(1)(2)に述べたような組織及び意見を綜合して考えるとき、予備隊の目的は外国と戦争することにあると認めることができる。

(4) 以上三点の凡てにおいて予備隊は戦力であると考えられるが、更に一般日本国民及び世界の他国民はこれをどのように考えているであろうか、先づ日本国民は例えば朝日新聞による世論調査などによれば軍隊であると思う者は軍隊でないと思う者の三倍近い。世界を代表する新聞は有力三紙を始め各紙がその社説において予備隊が一種の軍隊であることを主張し、内閣のこれに関する欺瞞を攻撃している。キヤンプ附近の住民は全くこれを兵隊さんと信じて疑わない有様である。次に他国民はどうかというに、ソヴイエツト、中国及びその衛星国は勿論であるが、米国自体がUP或はAPによれば予備隊は当然軍隊であるとみなして議論を進めている。かくして予備隊を軍隊でないと考え否称しているのは吉田内閣だけである。

(5) 以上によつて警察予備隊が戦力に該当することは明らかである。この戦力なる予備隊を設置したのは吉田内閣である。内閣は最初昭和二十五年七月八日のマ書簡に基きポツダム政令として警察予備隊令を制定し、総理府の機関として警察予備隊を置いた。政府はこの政令に従つて警察予備隊を設置し、急速にその人員と装備の程度を高くしつつある。しかしいかにポツダム政令とはいえ、その定められた一定の趣旨があり警察予備隊令は、それ自身としてみると、その原因となつた書簡の文字によつてみるも、厳に国内治安に関して国警自警を補助すべき警察の任務に限られるべきであり、従つてその人員装備もこれに必要にして十分な程度に止められるべきは当然である。然るに最近の実状は国会の各主管大臣の答弁に徴しても、遙かに警察本来の任務に必要な程度を超えている。このこと自体甚だ違法な行為であるが、しかし我々が問題とするのはこのような歴史的時間的経過ではない。現在の警察予備隊の実状は、単に警察予備隊令の趣旨とする所を超えたという程度のものではない。警察予備隊令乃至警察予備隊に名をかりて、その実、明らかに再軍備を行つている。警察予備隊はほんの口実で主目的は戦力の保持にあるものといわねばならない。警察予備隊機構の設置、隊員の募集、宿舎の敷地の買収、宿舎の建設、隊員への武器の賦与等、政府の一連の行為は明かに再軍備を目的とするものであり、何等の法律命令に基かない行政処分である。無根拠の点においてまずそれは違法であるが何よりもそれは憲法に違反する。前文や第九条に表わされた平和主義は、基本的人権尊重主義と共に、新憲法の二大支柱をなす根本原理である。政府のこれら一連の行為は、全く前者を犯し更に後者をも犯そうとしているといわねばならぬ。ここに我々が憲法の番人である最高裁判所を促して、政府の行為の取消判決を求めようとする理由があるのである。

(二) 手続論

この訴訟を最高裁判所に提起するに当つて或は考えられるかもしれない手続上の疑義について原告の解釈を次に述べる。

1、違憲審査権

旧憲法下の大審院は、裁判所の中で最高の機関であつたが、その有する権限は普通の民事刑事の訴訟事件に対して最終的判断を与えることにのみ限られて居り、法令そのものが憲法に適合するか否かを審査する権限を有しないものとされていた。従つて大審院判事は、法律技術における最高のエキスパートということで事は足り、検事局とともに行政官としての司法大臣によつて人事、予算を掌握され、待遇などについても他の官吏と比べてよりよい訳ではなかつた。ところが新憲法下においては事情は一変し、最高裁判所は、政府から完全に独立した機関として、人事、予算ともに自ら掌握するところとなつた、而して憲法第八十一条は最高裁判所に対して所謂違憲審査権を賦与し、憲法保障機関としての憲法裁判所の性格をも与えたのである。これによつて最高裁判所は司法権の作用としての法律及び行政権の作用としての命令規則処分をそれぞれ一応憲法に適合するとして制定されたにも拘らず、独自の立場で実質的に之等の内容を審査し、違憲と認める場合にはその無効であることを宣言しなければならなくなつたのである。これは立法権行政権に対する重大な制約であり、いわば立法、司法、行政三権以外の第四権的な作用とも考えられる性格のものである。しかし国民から直接選挙された国会の立法を、地位の保障を受けた任命制の裁判所裁判官が否認し得ることは、民主々義の原理上、仲々重大な問題である。しかも一方憲法問題の判断は法律技術的なものでなく、より以上に政治的な問題であり、他方裁判官がとかく化石化し世間知らずに陥る傾向があるに於ては尚更である。ただこのような特殊な権力は、新憲法の基本原理である平和主義と基本的人権尊重主義とを保障する作用を持つということによつて、始めて是認せられ得るのであり、それ故に又この権力を行使する最高裁判所の裁判官には、単に法律技術における最高のエキスパートであるばかりでなく、その外に政治経済社会のあらゆる問題に対して、視野の広い、見識の高い第一級の人物が要求せられるのである。幸に現在の最高裁判所はこの要求を充分に満しているように見受けられる。このように新憲法下の最高裁判所が一般の司法裁判所としての性格と憲法裁判所としての性格を併せ有することについては何れも異存があるまいと思う。

2、管轄

或は裁判所法第七条が憲法裁判について特に規定していないことを根拠に違憲事件について最高裁判所は第一審としての裁判権を有しないという説があるようであるが、それは新憲法八十一条及び裁判所法の誤解に基く説である。最高裁判所は既に述べたように二重の性格を有している。裁判所法は、その中民事刑事の訴訟事件についての上告司法裁判所としての最高裁の手続きを規定しているに過ぎない。この裁判所法が一般司法裁判所についてのみ規定していることはこれ旧裁判所構成法の変身であることからも明らかである。最高裁判所の憲法裁判所としての性格については憲法八十一条そのものが規定しており、管轄についても本条から直接導き出されねばならない。裁判所法もその第八条によつて最高裁判所が裁判所法以外の法律によつて特に定める権限を有することを規定している。然して、この法律とゆうのは、法とゆう意味で憲法を含めたものである、又最高裁判所が始審にして終審であることは決して珍らしいことではない。旧大審院も大逆罪についても第一審にして終審の裁判権を有していたが、新憲法下違憲問題殊に第九条違反の如きは旧憲法下のこれらの罪以上の重大性をもつている。その他の審理裁判についての細かい手続については最高裁判所は自ら憲法第七十七条によつて規則を定立すれば足り、その規則が未だ制定されていないなどというのは枝葉末節である。

3、当事者能力(訴権)

法令が憲法に違反し無効であるか否かは、その法令が直接又は間接に違法に人民の権力を侵害する場合にそれに対する訴訟に関連してはじめて裁判上の問題とされるのであつて具体的な権利義務に関する争訟に当つての法の適用の問題を離れて、直接に法令自体の効力又は解釈を争うことはできないという説がある。しばらくこの説に従うとするも原告は訴権を有している。内閣の戦力保持のための凡ての処分は既に具体的なものであつて、それには常に資金の裏附けを必要とする。結局においてその費用は全部国民の税金によつて賄われざるを得ず、又賄われているのである。従つて二五、二六、二七年度納税している国民は何人と雖も財産権に対して侵害を蒙つたものということができる。更にこれらの政府の諸行為により風紀のたい廃、物価の騰貴、国際不信の醸成による危険感等有形無形の権利の侵害を全国民は蒙つている。原告は全国民殊に右の権利の侵害を最も多く蒙つた全勤労階級の代表者として違法な内閣の諸処分の取消を求めるものなのである。

しかし原告は右の説をとらない。第一次的には違憲な法令処分に対しては之を直接に訴の対象として争い、宣告的な取消判決を求めることができるという説をとる。蓋し前述の如く重大な違憲問題が発生するような場合は、それは又多分に政治問題である。

立法府乃至行政府或いは其の両者の間に当該法令処分の合憲性について大きな意見の対立があつてこれを調整し難いとき権威ある最高裁にその判断を求めようというのが憲法第八一条の趣旨である。単に従来も認められていた一般訴訟事件における命令以下の裁判所の違憲審査権を法律にまで拡げたものであり、従つて具体的訴訟においてでなければならぬというのであれば、あまりにも細かい訴訟法的議論に捉われたものであり、わざわざ新憲法が八一条を設けた趣旨を没却してしまう。具体的事件が起り個人的権利が侵害されてからおもむろに訴訟を提起したのでは時の政治には間に合わない。この訴訟的議論は又管轄問題における最高裁の第一審の否定論に通ずるものであるが、かくては最高裁において事件が確定するまでに数年を要し、全くの後の祭りとなつて、憲法の番人の役割を全く果し得ないこととなる。憲法裁判所としての性格を与えた以上、違憲法令処分の効力を直接争いうるとするのは理の当然といわねばならない。勿論実際問題として出訴条件を設けることは差支えないであろう。その条件として西独の如く議員総数の三分の一の署名をうることなど、するのは合目的である。なぜなら、主として政治問題的な違憲事件が起るのは立法府の多数党とこれを基盤とする内閣が数をたのんで、法律又は命令処分の名において実質的に憲法を改正してしまおうという時に、これに反対する少数野党が、これを阻止しようとする場合であり、違憲審査権はこの少数党の提訴に基いて発動され、その結果として憲法の正しい解釈によつて憲法を守り憲法の下に民主政治が行われることを担保する趣旨に出でたものだからである。

この意味において立法府における少数野党の代表的立場にある原告がこの訴訟を起すのは当を得たものであり、未だ最高裁判所規則又は法律によつて具体的な出訴条件が定められていないことをもつて原告に訴権なしとするのは本末顛倒である。 以上

証拠書類

一、口頭弁論の際適宜提出する

添付書類

一、代理委任状 一通

昭和二十七年三月十五日

右原告訴訟代理人

猪俣浩三

武藤運十郎

萩元隼人

佐々木正泰

高橋正雄

目録

一、物品購入(約一四九億円)

内訳

被服 六億六、〇〇〇万円

車輛 四八億八八、八〇万円

此内訳 車輛六、二九二台 内ヱンジン

車輛二、三四五台

通信機材 三五億(野外無線器二、八八四台)

衛生資材 四億五、〇〇〇万円

需品工具 三〇億七、〇〇〇万円

一、施設(約五七億円)

内訳

既設営舎整備補修費 二〇億円

昭和二十五年度新営舎の継続及久留米等の新設 五億円

補給廠

固定通信施設

学校

準備書面(第一)

原告鈴木茂三郎

被告国

右当事者間昭和二十七年(マ)第二三号事件の準備書面

一、憲法擁護の必要

(一) 憲法の本質、役割。立憲国家として憲法擁護の必要なことは云うまでもない。普通、憲法の本質は、国の根本方針(基本原則、基本構造)を定めたものであるなどと説明されているが、要するに、それは一国の政治を、これを中心としてやつて行こう、時に左右に揺れることはあつても、やはり憲法の予定している枠内で政治を行い、国民生活を営んで行こうという、一種の骨格的な約束である。しかも近代国家に於ては、この約束には国民全部が参加しているから、国民の凡てはこの約束を尊重する義務を負い、この約束自身即ち憲法の定める手続によらなければ、その内容を合法的に変えることは出来ない。ここが近代国家以前の封建的専制君主制に於て、等しくこれを中心として政治を行うという一応の約束はありながらも、それを尊重しなければならぬのは被治者だけで治者の側は、必ずしもそれに縛られることなく、いわば勝手に政治を行い得たのと根本的に異なる点である。この国民全部が憲法尊重の義務を負い、憲法の厳として擁護されている事が、近代民主々義国家に於ける政治の根本前提となつていることは、見易い道理であろう。

(二) 憲法の被侵害性。では現実的には憲法はどのような方面からの侵害に対して、護られねばならないのであろうか。私人の行為は、それがいかほど重大なものであつても、憲法を侵す程度にまで至る可能性は少い。憲法を侵す可能性は立法権及び行政権が有している。両者は夫々違憲の法律又は違憲の処分を定立する事によつて、憲法を侵害する事が出来る。殊にブルジヨアー民主々義革命の不徹底の故に行政権の権力の極めて強い後進国日本に於ては、違憲の行政処分のなされる可能性が甚だ多く、又多かつたのである。旧憲法下に於ては、何等の憲法保障機関がなかつたために、いかに立法権が憲法に違反する処分をしても、それを是正して憲法を護る道が全くなかつた。憲法改正の手続を経ることなく、しかも実質的にはそれと等しい結果が生じたのである。そのため国民のわずかに認められた基本的人権は奪われ、国会は軽視され、結局は戦争、そして敗戦という誠に苦い経験をなめざるを得なかつたのである。そこで我々国民にとつて必要なことは、単に抽象的に、国民全部が憲法尊重の義務を負う、ということを宣言するだけではなく、具体的に、その方法を考えることである。新憲法は理想的憲法だといわれる。しかしいかに理想的憲法であろうとも、これを護る手段がないならば、それは只画餠に等しい。それ故新憲法は自らを護るため、最高裁判所に憲法裁判所としての性格を与えたのである。しかしこの点については異論もあることは、次に一般的に憲法を護る方法として、どのような制度があるかを考察してみよう。

二、憲法擁護の方法

(一) 司法裁判所による憲法の擁護。三権分立制度の下に於て、司法裁判所は、私権保護の為、具体的争訟に於て、法を適用することを職権とし、職務とする。従つて、一般に憲法も亦裁判所に於て強制される実質的な法であり、且それは法律命令等に対して、上位の法であるとされている国に於ては、司法裁判所は必ず法令が憲法に違反するか否かの所謂法令の違憲審査の問題に当面することになる。従つて司法権が、忠実にその職分を果すならば、その限りに於て、憲法は擁護される。しかし、憲法上特に立法権又は行政権の司法権に対する優位を認めて、立法権が合憲と認めて制定した法律、或は行政権が合憲と認めてなした処分について、司法権はそのままその解釈を認容して、裁判をしなければならないと規定することは可能である。この場合には本質的に違憲な法律、違憲な命令も、裁判所は有効なものとして取扱わねばならず、憲法は裁判上は単に法令の空隙を埋める役割を果すに過ぎず、結局司法権によつては、全然憲法は護られないことになる。大陸法系諸国は曾つてこのような建前をとつて居り、旧憲法下の日本もその例に洩れなかつた。これは十九世紀の国民主権強調の不当な解釈による立法権優位の思想の反映であつて、司法の職分を正当に理解しないことによるものであつた。しかし、このような制度の下で現実に生ずる法令処分による憲法違反という不都合な問題に対処する為、判例法国であるアメリカ合衆国に於ては、司法権は当然最上位の法である憲法にのみ従い、これを争訟に適用すべきであるという本来的な考え方が、勢を占めるようになつて来たのは当然である。これは司法権も立法権行政権と同様憲法の下に、憲法の対等の解釈権を有し、且つこれを適用すべきであるという、三権分立制度に於ける司法権の地位及び職能の正当な理解によるものである。この制度の下に於ては、司法裁判所は法律の合憲性を審査し、違憲の法令の適用を拒否することができ、又そうしなければならない。これによつて、始めて憲法は立法権又は行政権の侵害から免れることができることになる。しかし、それはあくまでも、個別的な具体的争訟という私権保護の為の過程に於て、司法権が司法作用を行うに際し、偶々法令の違憲性が問題となつた時にのみに限られる。この場合憲法は直接に憲法を護ろうとする目的及び制度によつて護られるのではない。間接に私権保護の制度のいわば副産物として、憲法保護もなされるというにすぎない。従つて、この制度によつて、憲法を護ろうと試みるならば、司法制度上の、就中訴訟法による種々の制約を受けねばならない。例えば法律の違憲性は直接争い得ないから、わざわざ無理に所謂テストケースを作らねばならぬ。又たとえ成功しても、その効果も司法権の性質上違憲判決の既判力は当該事件にのみしか及ばぬ以上、十分なものということはできない。被告がこの制度によつて憲法保障の目的は充分に達せられるというのは、研究の不足に基づくものでないとすれば、過去に於ける行政権専制の、反民主々義的思想を払拭し切れないものといわねばならない。

(二) 憲法裁判所による憲法の擁護。前述の如く、大陸法系諸国は、司法裁判所に三権分立理論上は当然有すべき、違憲法律審査権を否認する建前をとつて来たが、第一次大戦後度重なる法令による憲法違反に対し、憲法保障機関の要求が高まり、その結果、アメリカ合衆国とは異なる直接憲法の擁護を目的とする憲法裁判所制度を設ける国が現れて来た。これは名は裁判所といえ、司法裁判所とは全くその性格を異にし、司法権の作用として個別的具体的事件について、憲法の有権的解釈を下すというのではなく、司法権以外のいわば三権分立説による立法司法行政三権以外の、第四権的作用をもつものである。この権力によつて憲法裁判所は立法権の作用としての法律も、行政権の作用としての処分も、独自の立場から実質的に内容を審査し違憲と認める場合には、その旨の決定を下すことができ、又しなければならない訳である。而うして、この場合、依然として司法裁判所による違憲法令審査権は否定され、憲法裁判所のみがこの権力を独占するとされるのが普通である。このような権力は憲法を護る為には極めて合目的的であるがその行使如何によつては立法権乃至行政権の存在を否認し得ることになり、殊に憲法裁判所の構成員が、地位の保障を受けた任命制の少数の裁判官であるとき、これは民主々義の原理上、仲々重大な問題である。憲法を擁護しようとして、憲法の基本原理の一である三権分立主義を骨抜きにして終うかも知れぬというジレンマを持つことになる。ただこのような原理は、憲法の他の重要な原理である基本的人権尊重主義更には平和主義を保障する作用を持つということによつて、始めて是認せられ得、又結局は他の凡ての制度と同様その裁判官に人を得ることによつて、良き運用を担保する以外に途はない。ともあれ、憲法裁判所制度によつてのみ、司法裁判所に於けるような、種々の制約を受けることなく、十分に憲法を護ることができる。

(三) 憲法裁判所及び司法裁判所による憲法の擁護。直接に憲法を護つて行こうという慎重な態度である。これこそが、現代世界に於て考え得られる憲法擁護の最も完全な方法である。第一のアメリカ合衆国に於けるような、司法裁判所のみによる方法の不十分なのは云うまでもないが、第二の方法をとる大陸法系諸国に於て、司法裁判所に違憲法令審査権を否定するのは既に述べたように全く歴史的沿革に基くものであり、三権分立に於ける司法権の地位及び職能の正しい理解からは、是認し得ない制度といわねばならない。従つて、この第三の途によつてのみ、憲法は十分に護られ得る。成程この方法を明らかに採用した国は少いかも知れない。しかし憲法保障制度は極めて最近になつて発達したものであり、各国は最も実効的な制度を求めて研究途上にある。未熟な世界の現行制度中に、第一又は第二の方法のみを採用するものが多い故をもつて、第三の方法を特異であるとして、否認しようとする態度は、誠に本末顛倒といわねばならない。そうして第三の方法をとる場合に於て、憲法裁判所を独立して設けるか、又は司法裁判所の上告審としての最高裁判所に、憲法裁判所を兼ねざるかは、単に技術的な制度手続上の便宜の問題にすぎない。

三、日本国憲法に於ける憲法擁護の方法

それでは、日本国憲法は、以上に述べた三つの方法のうちどの方法を採用しているものと解釈すべきであろうか。何等の憲法保障を持たなかつた旧憲法の失敗に鑑み、又旧憲法より遙かに進歩的理想的性格を持ち、それ故にこそ一層擁護されねばならない新憲法は、自らを護るに周到な方法を講じた筈である。然るに、憲法の中には憲法裁判所という語を直接発見することはできない。そこで、新しく設けられた最高裁判所の憲法上の性格の検討がなされねばならないこととなる。従来最高裁判所と所謂違憲法令審査権との関係を規定した憲法第八十一条「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」の解釈をめぐつて、違憲法令審査権は、最高裁判所がこれを独占すべきものか、又は下級裁判所にも亦この権限が与えられているのか、即ち、日本国憲法は前述の第一及び第二の方法のいづれを採つているのか、という形で幾多の論争がなされて来ている。しかし原告は第八十一条は単に最高裁判所のみに違憲法令審査権を与えて、これを司法権の上告裁判所であると同時に、憲法裁判所たらしめた規定であると解し、下級裁判所は憲法裁判所ではないという意味では所謂独占説(第二の方法)と同一の解釈に帰するが、しかし下級裁判所も司法権の本来の作用として所謂違憲法令審査権を持つものであると解釈する。従つて新憲法は、憲法擁護の方法として、最も丁寧な第三の方法を採つているものと考えるのである。詳論すれば、

司法裁判所は下級裁判所と雖も個別的訴訟事件を解決する前提としては、これに適用すべき法令について、自ら合憲か違憲かの判断を下すことができる。何となれば第一に憲法の前文第一段後半「これは人類普遍の原理であり。この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」及び第九十八条第一項「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」はともに憲法の最高法規性を規定し、これに反する法令の効力を否認している。第二に第七十六条第一項「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」は無条件に司法権を裁判所に属せしめている。第三に司法権の作用は事実に対する法の解釈適用であるが、この場合憲法こそ、裁判所によつて第一に強制されるべき法であることは、前掲前文、第九十八条第一項及び特に第七十六条第三項「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。」によつて明白である。従つて憲法及び法律の二種の法が相抵触するならば、下位の法で、ある法律を無効とし、上位の法である憲法を適用するのは当然である。即ち司法裁判所は下級裁判所と雖も、司法権そのものの性質から所謂違憲立法審査権を持つものである。むしろ理論上は司法権の違憲立法審査権などというものは無意味である。それにも拘らずこの点が問題とされることがあるのは、政策上の理由から憲法自身が司法裁判所に対して、この種の当然の権限を否認することが可能であるからである。しかし、新憲法は全然この種の特別制限規定を持たぬのみならず、又旧憲法と異り、遙かに権力分立理論を徹底させて憲法の下に三権は平等であるとの建前をとり特に司法権をその構成及び権限に於て著しく強化した新憲法に於ては、このような特別規定があるように解釈する余地もない。しかも新憲法は、前掲の諸規定の外、以上の当然の論理を裏付ける規定を持つている。即ち第九十九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」は他の公務員と共に下級裁判所の裁判官を含めた裁判所全体に対し、憲法を尊重し擁護する義務を定めている。これは直接に憲法の運用に当る公務員に対して、その職務を執行するに当つては、自ら特に憲法を遵守し、これに違反しないようにするのみならず、進んで憲法の目的を実現するよう努力し、更に他の憲法を侵す行為に対しては、これを防圧せよということを命じているものと解さねばならない。裁判官は、裁判官の職務を行うに当つて、この義務を遂行しなければならない。前掲の第七十六条第三項は裁判官に対して特にこの義務を強制したものである。裁判官がもし所謂違憲立法審査権を待たず、事案に法律を適用して、職務を遂行しようとするに際し、当該法律が違憲であることを知りつつ、尚この違憲の法律を適用しなければならないとするならば、裁判官はどうして憲法を擁護することができるであろうか。裁判官の憲法擁護の義務は事案に対し、憲法及び合憲の法令のみを適用し、違憲の法令を適用しないことによつてのみ遂行されうるのである。かくして原告は憲法上、下級裁判所も所謂法令違憲審査権を持つているものと解釈するものであるが、それはあくまでも司法権の行使に当つて必要とされる限度に限られ、その法令の違憲性の判断も、当該事件についてのみ効力を有すべきものであり、又かかる意味に於ける違憲訴訟は、一般訴訟法の審級制度に服すべきものであると考える。最高裁判所の判例が、従来下級裁判所にも違憲法令審査権があるとしたのは、この当然の事理を明らかにしたにすぎないものと思う。然るに、憲法は特に第八十一条を設けて「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と規定している。既に述べたように、下級裁判所も違憲法令審査権を持つとすれば、この特別規定は、全く最高裁判所に憲法裁判所の性格を与えたものであると解する外はない。特に本条が司法権一般の規定として、第六章司法の冒頭に置かれず、終りに至つて新に一条を設け、且つその規定の中に於て、司法権一般を裁判所一般に賦与した第七十六条と異つて、最高裁判所及び下級裁判所とせず、ただ最高裁判所のみを挙示した事を考え合せる時、新憲法が憲法保障機関の正道である憲法裁判所制度を採用し、その任務を最高裁判所に託したものと考えざるを得ないのである。憲法問題は、法律問題であると同時に、より一層政治問題である。従つて憲法裁判所は、単に有能な法律専門家のみでなく、高い政治家的見識ある人を要求する。又国民の為の憲法を直接護ることを職務とし、且そのためとはいえ、第四権的な強大な権力を行使するのであるから、憲法裁判所の裁判官は、民主性が保障されていなければならない。更に憲法裁判所は法律を審査する時は、立法権に対立する訳であるから、その訴訟に必要な手続は、自ら定立する権能をもたなくてはならない。新憲法が以上のいづれの要求をも満していることは、憲法が第八十一条によつて、最高裁判所を憲法裁判所たらしめるという解釈を愈々支持するものである。反対説の第一は、第八十一条は司法裁判所に、司法権の一部として、本来否定されていた違憲法令審査権を与えたものに過ぎないと主張している。即ち憲法は憲法擁護の第一の方法を採つたものとするのである。しかしこの説は、以上の説明に照らすとき、その誤りであることは明白である。反対説の第二の如く、司法裁判所に違憲法令審査権のあることを確認した規定とするのであるならば、それはあまりにも本条文に価値を認めない説とある反対説の第三は前説と同一の解釈の下に、ただ違憲訴訟に於ては、最高裁判所が終審でなければならぬことを本条が定めたものであると解する。しかしそれでは、やはり憲法が本条を特に設けた意味は殆んどなくなつてしまう。蓋し凡そ審級制度をとる以上最高裁判所が、終審となることは通例であるからである。更に、新憲法が制定された第九十回帝国議会に於ける審議の経過を仔細に検討する時、憲法が憲法擁護の方法としてどれをとつたかは別として、ともかく本条が最高裁判所に下級裁判所とは異つた憲法裁判所的性格を賦与する為に立案制定されたものであることは明瞭である。即ち(1)先ず帝国憲法第七十三条によつて、第九十回帝国議会に附議された改革草案第七十七条では、第一項において「最高裁判所は終審裁判所である。」と定め、第二項において「最高裁判所は一切の法律、命令規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。」と定めていた。(衆議院議事速記録(以下単に速記録という)第五号第六六頁)即ち最高裁判所は、凡ての争訟における終審裁判所であると共に、一切の法律、命令、規則又は処分の違憲の審査権を有する特別権限を有する憲法裁判所であることが明らかにされていたのである。(2) 吉田国務大臣は衆議院における昭和二十一年六月二十五日の本会議で同条の提案の理由を、「司法権については、総て司法権は最高裁判所及び法律の定むる所に依り設置する下級裁判に属するものとし、行政裁判は之を司法権の作用に抱括せしむることと致しました。特別裁判所の設置は之を認めておりませぬ。又最高裁判所をして憲法裁判所的機能を併有せしめ、一切の法令処分の憲法に適するや否やの裁判をなし得るものと致しております。」と説明し、(速記録同号六八頁)最高裁判所が憲法裁判所としての性格を有することを明らかにしたのである。(3) 金森国務大臣は同年同月二十七日の同院の本会議で吉田安氏の質問に対して「国会は明らかに最高の機関であると致しまして、而もその国会の働きでありましても、若しも憲法違反の法律を定めまするならば、他に厳然として之を批判するものがあり得るのだ、それは何かといえば最高裁判所が之を批判するのだ、というのが改正草案の趣旨であります。・・・そこで今回の憲法改正案におきましては、仮令国会が誤つたる憲法違反の法律を設くると致しましても、之は最高裁判所において批判し、その無効なることを結論し得るという制度に致しました。人権擁護を的確にしたのであります。・・・そこで最高裁判所は国会の行為を能く批判を致しまして、或は規定が果して憲法上許し得る限度の制限を設けているかどうかということを、ハツキリ見定める所の、実に重大な権能を有するのであります。恐らく今までの裁判所とは又違つた角度において考えなければならないのであります。」と答えて、(速記録第七号九八、九九頁)最高裁判所の憲法裁判所としての性格を明らかにしたのである。(4) 金森国務大臣は更に同年七月一日の衆議院における帝国憲法改正委員会において、本条の提案の理由を「併しながら今回の改正案におきましては、若しも憲法違反の法律があるならば、最高裁判所はこれを明らかに判断して、裁判の適用上斯くの如き法律が起れば、それを無効なものとして処置し得るという機能を有することにしております。」と説いて(速記録第二回五頁)、最高裁判所の性格を明らかにした。このような経過によつて衆議院で現行憲法第八十一条の「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」という字句修正については、同年八月二十一日の委員会において、芦田委員長の小委員会の共同修正案に付ての報告及び説明によると「第七十七条ノ最高裁判所ノ権限ニ関スル規定ノ修正ハ単ナル字句ノ修正デアリマシテ其ノ内容ニ於テハ変更ハナイ。」のであり(速記録二一回三九二頁)、従つて、最高裁判所の権限に関する第八十一条の趣旨は、草案第七十七条に定められた「最高裁判所は終審裁判所である。最高裁判所は一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する。」と同一で、最高裁判所をして、憲法裁判所の機能を併せ有する、世界にその類を見ない、最も権威ある裁判所とするにあつたことは明らかである。(5) 衆議院における修正の後吉田国務大臣が同年八月二十六日の貴族院の会議において、草案第七十七条の修正された第八十一条の提案の理由を、同年六月二十五日衆議院の会議において為したると同様の字句を用いて説明した一事によつても(貴族院議事速記録(以下単に速記録という)二三号二二七頁)、草案第七十七条と本条の趣旨とは同一であることが窺い知られるのである。(6) 九月二十三日の委員会議で霜山精一氏は「今回ノ憲法草案ニ於キマスル司法規定ハ、現憲法ニ比ベマシテ、非常ニ進ンデ居ルモノデアリマシテ、私ハ結論ニ於キマシテハ、此ノ新シイ憲法ニ於テハ司法制度ニ関スル規定ニ付キマシテハ全幅ノ賛意ヲ表シテイルノデアリマス。・・・最高裁判所ガ憲法裁判所ニナル話ハ法律ガ憲法ニ違反シテ居ルカドウカト云ウコトヲ審査決定スル機関トナツタト云ウヨウナコトハ、非常ナ著シイ特色デアリマシテ、裁判所ノ地位ヲ向上致シマスコトガ、現行憲法ニ比ベマシテ数段ト高マツテ居ルノデアリマシテ、非常ニ喜ンデ居ル次第デアリマス。先ズソウユウ関係デアリマスカラシテ、此ノ度ハ最高裁判所ト云ウモノガ非常ナ力ヲ持ツコトニナツテ参ルノデアリマシテ、ソノ点ニ於キマシテハ現行制度ト著シキ差ヲ示シテ来ルコトニナルノデアリマス。」(速記録二〇号五頁)即ちわが最高裁判所の性格を憲法裁判所であると断言して本条の制定を大いにたたえたのである。(7) なお同日の会議で沢田仲麿氏が本条は、三権分立の思想を破壊する最も酷しいものである。と非難したのに対し、金森国務大臣は「若シモ従前ノ日本ノ裁判所ノ解釈ニ従ツテ、現行制度ヲ理解致シマスルナラバ、憲法ニ違反シタル法律ガ出来マシテモ、ソレハ国民ニ対シテ規範力ヲ持ツテ来ルコトニナリマス。ソレハ本当カラ云ツテ憲法ノ精神ニハ合ハナイノデアリマス。従ツテ今回ノ草案ニ於キマシテハ法律ト憲法ト二ツガ相背馳スルナラバ、憲法ニ拠スルトイウ原則ヲ最高裁判所ヲ通ジテハツキリサセルヨウニシナケレバナラヌ、ト云ウコトデアリマシテ、是ハ憲法尊重ノ結果已ムニ已マレヌ必然ノ道行キデアロウト思イマス。」と答えて(速記録二〇号一三頁)最高裁判所をして憲法裁判所とした時の社会の要請を明らかにしたのである。以上の第九十回帝国議会に提出された草案、提案の理由説明、これに対する質疑応答を綜合すれば一層最高裁判所の二重性格が立証されるのである。かくして原告は、新憲法は憲法擁護の方法として最善の、憲法裁判所及び司法裁判所の両者による、第三の方法をとつたものと考えざるを得ないのである。

四、憲法裁判所の特質

憲法裁判所とゆう制度は、未だ、誕生してから日が浅く、世界的にも定型ができたとゆうことはできない現状である。日本国憲法に於ても、これに関する直接の規定は、第八十一条のみであつて、他に特別の法律又は規則も制定されていない有様である。しかし訴訟の形式をとるのであるから、基本的事項について、一般訴訟法の規定を継承すべきは当然であるが、憲法擁護の必要が痛切に感ぜられ、しかも司法裁判所によつては不十分であるとされて、憲法裁判所制度が成立したものである以上、憲法裁判所は国によつて多少の差はあるとしても、共通の諸特質を具えている訳である。従つて日本に於ても、既にこの制度が認められる以上、一旦違憲問題が生じたからには、それらの諸特質に従つて、憲法裁判所に於て判断が下され憲法擁護の目的が達せられねばならない。現在まで重大な違憲問題が生ぜず、その必要を感じなかつたことによる手続上の不備によつて、又それを理由とする一般訴訟法の単なる準用によつて、第八十一条の趣旨を没却して、最高裁判所の憲法裁判所としての機能を阻むようなことは、許さるべきではない。そこで次に憲法裁判所が、憲法擁護の目的から具えねばならぬ、諸特質を日本国憲法に即して、考えてみよう。

(一) 公益性。憲法裁判所は司法権に属するものではない。私権の保護を主目的とする司法裁判所とは目的を異にする。それは出訴者の個人的利益保護を考えず、憲法という根本的原則を護るという、国民全体の利益を考える。出訴者はこの目的達成の為に端緒を提供するという以上の意味はもち得ない。即ち公益に奉仕し、私益に奉仕しない。ここに憲法裁判所の、司法裁判所から区別されるべき、最も大きな特質が存し、以下の諸特質の根拠をなし、憲法裁判所の手続を特色づけている。

(二) 職権主義又は協力主義。憲法裁判の公益性は当然に手続に於ける強い職権主義をもたらす。それは同じく公益性を帯びる人事訴訟或は刑事訴訟に於けるよりも遙かに強い。裁判所は当事者の全く主張しない事実及び提出しない証拠をも判断の資料とすることができ、又しなければならない。私権の保護を目的とし、両当事者の利益が対立する民事訴訟に於ては、当然に処分権主義が行われ、事実及び証拠の両面に亘つて、主張責任及び立証責任の法則が厳格に行われる。しかし憲法裁判に於ては、真の意味の当事者の利害の対立は全くない。憲法を護ることは、裁判所、原告、被告の三者共通の義務であり目的である。

民事訴訟に於ては、当事者の一方は裁判の結果によつて権利を失うが、憲法裁判に於ては権利を失う者は全くない。裁判の結果がどうあろうとも、それによつて正しい憲法が確立され、憲法が擁護されることになつて、三者は利益を受けるだけである。結局三者が憲法裁判に参加するのは、憲法擁護を目的とする機関に於て、憲法擁護の手続を進めることによつて、各々に課せられている憲法擁護の義務を尽すために外ならない。三者の立場が異なるのは、ただ目的達成の手段として、裁判の形式を借りるからにすぎないのである。その意味で、三者は共同の目的のために協力すべき関係にある。従つて、憲法裁判の特質は職権主義というよりも、むしろ協力主義にまで進められたものでなければならない。即ち原告側によつては、判断の対象の詳細が明らかにされないことがあるならば、裁判所は勿論、被告側も進んでその実体を明らかにするように努めねばならない。予備隊に関する行政処分が、判断の対象になつている場合、細目に亘る個々の行政処分については、その全部を原告側で挙示することは困難である。この場合被告側は、進んでどのような処分をしたかの一覧表を提出する義務があり、又裁判所はその提出を命ずる義務があると云わねばならない。何となれば被告にとつて問題は、既に明らかになされた処分を隠ぺいすることではなく、なされた処分が違憲ではないということでなければならず、裁判所にとつて全く第三者として申立てられた事項のみに限つて判定することではなくて、申立てられた事案の実体を見極めて、それが違憲かどうかを判定することでなければならぬからである。この場合特に裁判所は憲法第七十七条第一項「最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。」によつて与えられた規則制定権を行使して、必要な規則を定立し、この釈明義務の遂行に努めねばならない。

(三) 迅速性。公益性は又迅速性を要求する。違憲問題は、政府又は国会その他の有力な国家機関の行為に関連して起ることが多い。それは時の政治問題と密接に関連して生じ、その解決なくしては、政治はスムースに行われ難いという意味に於て、単なる法の解釈問題というよりもむしろ政治問題そのものである。このように時の政治問題解決の前提となる違憲問題が、憲法裁判に於て何ケ月も何年も未解決のままであつては、どうにも致し方ない。憲法裁判所は憲法の番人といわれるが、番人たるには、事件に対して即効的でなければならぬ。個人の番人が、泥棒かどうかと考えている内に、泥棒は貴重品を奪つて逃げ去つてしまい、後であれば泥棒だつたのだと騒いでみても始まらない。同様に、憲法の番人が、違憲か合憲かと考えあぐんでいる中に、事実はどんどん進行してしまい、とり返しのつかなくなつた頃、あれは違憲だつたと判決してみたのでは、到底憲法の番人たる資格はない。本件に於ても原告が予備隊は違憲であると提訴してから、僅か数ケ月しかたたないのに、予備隊は飛行機、重砲、戦車を備え、幕僚として旧軍隊の大佐を採用し、急速に軍隊的色彩を強めて行つている。これらに要する費用は、昭和二十七年度も現実に国民から税金として取り立てられつつある。これらの事実を眼の前にしながら、漫然と日を送つて居ては、決して憲法を護ることはできない。立法例によつては、提訴後一ケ月以内に判決すべきことを定めているものすらあるのである。

(四) 管轄。迅速性を確保する手段は色々考えられるが、先ず一審制度をとる事が第一である。現在の民事訴訟のように三審制度をとるならば、事件の確定までに数年を要することは、通例であり、当然である。もし三審制度をとつた場合に、違憲事件が最上級審まで争われないで、確定することなどは考えられない所であるから、特別に憲法裁判所を設けて、迅速に憲法を護ろうとした意図は、実際上没却されてしまうことになる。更に既に述べた様に、違憲事件は重大な政治問題を含む。それ故、これに判定を下し得る、資格を持つ裁判官は、極めて少数しか存在せず、又その資格を持つ裁判官にならば、一回限りは事件を任せることも不適当ではない。このような理由から、憲法裁判所について、一審且終審制度とし、その権限を最高裁判所のみに与えた新憲法第八十一条の規定は、極めて妥当である。

(五) 当事者。殊に原告について問題がある。憲法裁判所は憲法擁護を直接の目的とするものであるから、私人は是に違憲判決の結果反射的私益を受けることはあつても、積極的に私権保護の為に提訴することは許さるべきではない。従つて立法例にみる如く、国会議員の一定数又は内閣その他の重要な国家機関又は一定数の国民等に原告を制限することは公益性からみて合目的的である。ただ現在日本にこの点に関する規定がない以上一個人の出訴も認めらるべきであり、従つて本訴に於て、原告は鈴木茂三郎一人を表示しているが、勿論それは便宜の為に過ぎない。即ち日本社会党は先に党議をもつて本訴を提起することを決定したので、その趣旨を党の代表者である鈴木茂三郎を原告とすることによつて集中的に表現したものである。従つて原告は、実質的には日本社会党であり、又これに所属する衆参両院議員四十八名及び全国十万余の党員であり、更にはこれをも含めて、党外に於て再軍備に賛成反対を問わず苟も国の警察予備隊に関する行為を違憲と考え、本訴によつて迅速にこれを明確にすることを欲する国民の大部分であつて、単なる鈴木茂三郎一個人ではないのである。更に本件被告について述べればこれは国であつて、個々の行政庁ではない。諸々の行政処分が、現実的には、夫々の行政庁によつてなされることは疑を入れない所であるが、理論上は凡ての行政庁は国の機関にすぎず国のみが唯一の権利主体且行為主体と云わねばならない。内閣も、総理府も、予備隊本部乃至本部長官も、いずれも国の機関であつて、内閣の行政処分も、予備隊本部の行政処分も、結局は国のなした行為である。この意味に於て、警察予備隊の設置及び維持に関する諸々の行政処分が、憲法に適合しないことを理由として、その無効を求める本訴の被告は、これを国とすることが、最も適当と云わねばならない。ただ行政事件訴訟特例法第三条には、行政庁の違法な処分の取消を求める訴は、処分した行政庁を被告とすべきことを定めているが、本訴が直ちに一般訴訟法の適用を受けるものではないことは既述の通りであり、又元来この規定は理論的には、当事者たり得ない行政庁ではあるが、問題となつた個々の具体的事件に於ては、これを当事者と認めて、訴訟上の攻撃防禦をさせた方が、裁判の迅速正確という点などからみて、より合目的的ではないかという便宜的見地から定められたものであつて、本訴のように広汎な行政処分に関する場合を予想しているものではないと考えられるのである。

(六) 事件。(対象)。憲法裁判所が違憲審査の対象とするものは、凡ての国家機関のなす凡ての行為である。即ち立法権の法律、行政権の命令規則処分、司法権の裁判、その他事実行為をも含む一切の憲法を侵害するおそれのある行為である。この場合、理論上処分について直接には違憲の問題は起らないといわねばならないのであろう。処分は原則として常に法律に基づくべきものであるから、違法のみが問題となり、違法の結果違憲となる場合でも、それは違法の一種として取扱われるべき性質のものである。又違憲にして適法の処分の場合は、根拠法律が違憲なのであるから、これを攻撃すれば事は足りる。従つてこの理論を貫けば、処分については独立して違憲性を問題とする余地はなくなり、憲法裁判所の判断を受け得なくなることになる。しかし立法司法行政の各国家機関は国家行為を分掌して或は法律を定立し、或は処分を行つているのであつて、それらの国家行為は共に違憲であつてはならない点に於て、何等差別はない。もし処分のみ憲法裁判所の判断を受け得ぬとすれば、処分の方が法律に比べて、より直接的で重大であることが多いだけに憲法の擁護は、この点から崩れ去つて、結局不可能となるであろう。立法権に対してチエツクできて、行政権司法権に対してチエツクできぬとするのは、非実際的のそしりを免かれない。憲法裁判所の違憲性の審査の前には、法律と処分とは平等でなければならないのである。憲法第八十一条は右の実際上の必要に従つて処分の違憲性も直接争いうることを規定している。しかし、これらの対象たるべきものについても、現実的には、何らかの制限を設けることは、憲法擁護の目的に反するものではない。例えば、憲法裁判の対象たるには、既に法律に於てそうであるように、処分に於ても具体的個人的権利の侵害を必要としないと解すべきである。何となれば、既述のように私権保護は、憲法裁判の目的ではなく、法律又は処分の結果、具体的に特定個人の特定権利が侵害されるまで、待つていたのでは、憲法擁護の目的達成の為には、既に手遅れであることが多いからである。しかし、更に進んで、むしろ、個人的権利に関する鎖末な違憲処分に対する、その保護を求める訴は、提起できないものとすべきであろう。蓋しそれは、司法裁判所の民事訴訟手続に任せれば十分だからである。ただ新憲法は、一切の法律処分について、憲法裁判所の判断の対象となることを規定しているから、対象の方面から、真に憲法裁判に値せぬ事件を制限することには困難であろう。要するに、憲法裁判の対象として、最も重要なのは、本件の如く、憲法の根本原理である平和主義への侵害という重大な問題をめぐつて、国民の大部分が、その違憲性について、権威ある判断を望んでいるように、最も公益性の強い事件である。

次に対象の特定性について述べる。裁判一般についていいうるように、勿論憲法裁判所に於ても、対象につき判断するには、その対象が他の対象から区別されうるほどに、特定している必要がある。従つて憲法裁判に於ては、当然対象が違憲であるか否かの判断を下すために、必要な程度の特定性が要求されるのは当然である。このように裁判の対象の特定性を必要とする点に於て、憲法裁判所も、民事裁判所も差異はないが、しかし、その表示方法に於ては、本質的に異るものがある。民事裁判では、ある類型的な権利(例えば売買による代金請求権)の中の、当該の個別的特殊的権利(例えば甲の乙に対する一定の代金請求権)の存否が問題となる。しかしこの類型的権利と個別的権利とは、間接的連関を持つのみであるから類型権利をかかげただけでは、対象は特定せず、具体的に当事者、日時、場所等の表示がなされなければ裁判所は判断を下し得ない。然るに法律又は処分は常にある特定の目的に仕えるものであつて、それ自体が個別的特殊的である。特定の法律又は処分は、特定の目的と直接的連関を持つている。従つてこの特定の目的を表示しさえすれば、当該法律又は処分は、裁判所の判断を受けることができる程度に特定する。法律にあつては、その内容又は条文の多少に拘らず、一括してその目的を表示した固有の名称を持つのが普通である。そうでないとしても、制定の順序に従つて名称を持つている。所が処分にあつては特定の名称を持たないのが普通である。従つてこれを特定するには、一々その特定の目的の表示をする。それ故ただ一個の処分を表示するには、通常それは非常に特殊な場合である為、殆んど民事裁判に於ける個別的権利の表示と等しくなる。しかし、ある大きな目的があつて、その同一の目的の為に、多くの処分がなされた場合には、その共通の目的を表示することによつて、それらの多数の処分が特定されることは、丁度特定の法律の名称を表示すれば、その内容全部が特定するのと全く同様であつて、裁判所はそれらについて判断を下し得るのである。それは民事裁判に於ける単なる類型的権利の表示とは、全く趣旨を異にする。特に当該特定目的の存在について、当事者間に争なく、その結果的事実が、公知である場合、その過程をなす処分は、全く特定されて居り、その詳細は裁判所の職権調査事項にすぎない、本訴について云えば、原告による「昭和二十六年四月一日以降被告のなした警察予備隊の設置及び維持を目的とする処分」との表示は国の処分を特定するにつき必要にして十分である。

(註) 国が予備隊設置の目的を持つていること、その目的に基づき多くの処分をなしたこと、及びその結果所謂警察予備隊が成立したこと、を表示すれば、この特定目的の為になされ、且特定の結果を生じさせた処分は、どうして他の目的による処分と区別できないであろうか。警察予備隊は二個はないのである。原告は政府の発表により、又自らの経験により、予備隊の実体の一部を知り、その存在を憲法は予定していないと考え、従つてその存在を生ぜしめた行為は、違憲であると考えるが故に、本訴を提起したのであつて、架空の又は想像の問題を提出しているのではない。既に(二)に於て特に述べたように、我々三者は、この厳粛な事実をありのままに受け取つて、その違憲性について争い、協力して憲法を擁護すべき義務があるのである。予備隊設置を目的とする処分の詳細について、不明な点があるならば、裁判所は須らくこれについて最も事情をよく知つている。行為者たる国に釈明を求むべき憲法上の義務があり。国も又、直ちにその明細を発表すべき憲法上の義務がある。之を事情に比較的詳しくない、問題提起の功労者である原告に尋ねるなどは、本末顛倒である。国にとつては、既に自からがなし、最もよく知つている行為を、いんぺいすることは決して憲法に忠実な所以ではなく、速かにその詳細を発表して、その上で、その合憲性を力説することこそ、憲法擁護の義務の履行となることを知らねばならない。このように考える時、本訴に於て、被告の所謂私法行為及び事実行為も処分の中に含むかとの被告の釈明は、既に枝葉末節であるといわれねばならない。これらの行為は、予備隊設置の目的の為の処分の遂行の、手段又は過程であつて、本訴に於て、処分とはこれらをも含むこと勿論である。因みに原告が本件訴訟の対象として直接処分をとりあげ、警察予備隊令をとりあげない理由は、警察予備隊令そのものは、その成立をポツダム政令に負う点を除けば、条文自体に於ては何等の違憲性を含んでいないからである。政府は警察予備隊の設置は、警察予備隊令に基くものであると称するが、既にこれらの処分は、警察予備隊令の許容する範囲を超えた、違法な処分であり、且つその程度は違憲にまで達したものである。これが原告が、国の処分を対象として、本訴を提起した所以である。更に、次の問題がある。即ち、警察予備隊令が合憲性を持つ限り、これによる正当な限度の予備隊設置の処分も合憲である。従つて厳密に云えば現在の予備隊の中でも、一部分は合憲のものがある訳である。しかしそれは恰も所謂賄賂の不可分性のように、実際上分離することは不可能であり、既に予備隊が質的に変化して、軍隊に変質したとすれば、その凡ゆる部分は、軍隊であつて、合憲の予備隊をいうものは何等存在しないことになる。従つて原告は、予備隊設置に関する処分の一切を違憲と考えるものである。

(註) 処分の主要なものは、昭和二十六年四月一日以降政府のなした警察予備隊に関連する同年度予算の施行一切及び警察予備隊本部長官が行つた職員隊員などの任用とその保持。

(七) 判決の効果。違憲判決を受けた法令又は処分は無効である。殊に法令は確定的に、また一般的に無効となつて存在しないと同様になる。このように、凡ての公の機関に対して、一般的に無効となることが、司法裁判所の違憲判決が、法令の当該事件に於ける個別的無効を来たすのと根本的に異る点であり、憲法裁判所制度の主眼とする所である。本件について違憲判決が下されたならば国は当該処分がなされなかつたと同様の状態に回復させる義務を負う。従つて、警察予備隊は解消しなければならぬことになる。この場合国が警察予備隊用の物品を購入するための、私人と結んだ売買契約などの所謂私法行為といわれる行為も、それが警察予備隊設置という行政目的の実現に奉仕するものである限り、無効であり私人は違憲の疑ある処分に参与する時、既に自己の危険に於て行為したものであるから、損害を受けてもやむを得ないこととされねばならない。唯全くの善意者は保護さるべきであろう。又事実行為については、同じく事実行為によつて、その結果を除去し、先の行為がなかつた以前の状態に復せしむるか、或は他の適法な用途に転用しなければならなくなる。このように本訴に於て違憲判決が下された場合にはその効力は現在の警察予備隊を構成せしめた凡ての処分に及ぶが、しかし、又それに限つた判決の既判力は凡そ警察予備隊というものについて、絶対的に生ずるものではなく現在の警察予備隊の解消後、将来の合憲の警察予備隊令に基づく、適法な警察予備隊設置を目的とする処分に迄及ぶものでないことは当然である。

五、結論

最後に一言被告は最高裁判所判事諸賢に申述べたいと思う。現在の警察予備隊の実体が軍備であるかどうかについて、全国的に大きな議論が行われ、既にこれが政治問題化しているのみならず、国際的にも日本がこの問題を中心として、誠に困難な立場に立たされて居ることは事実である。この時に、この問題に対して、権威ある判断をしなければならないことは、最高裁判所にとつては誠に困難な仕事であると思う。しかしまた飜つて考えるに、本訴は最高裁判所又は最高裁判所判事に対して、再軍備に反対か、賛成かの公の意見を求めるものではない。最高裁判所は冷静にして客観的な立場から、現在の警察予備隊の実体を見究め、これが軍備乃至戦力に該当するかどうかを判断すればよいのであるから、考えようによつては、誠に簡単な事案の一つと言うことができるであろう。又最高裁判所の判断が、仮りに今の警察予備隊が軍備であるということに結論されたとしても、それによつて日本の政策が終極的に再軍備反対に結論づけられるわけではない。それどころか、実は本当の問題はここから始まるのであり、ここが最初の問題であるべきだつたのである。即ち、再軍備に反対の者は、須らく平和憲法の擁護を主張すべく、又再軍備に賛成の者は、須らく堂々と正規の手続を経て、憲法を改正すべきことを運動すればよいのであつて、これに対する国民的審判こそが、日本再軍備の最終的の判断をなすものである。これが民主政治のあり方でなければならない。誠に本件こそは、新憲法下に於て、最高裁判所が唯一の権威ある憲法裁判所として、その存在の意義を示す絶好の機会であることを附言致したい。最高裁判所は大きく腹を据えて、真剣にこの違憲問題と取組み、き然たる態度を以て本件を処理して欲しいと思う。否、既に私は最高裁判所がかかる態度を持していることを信じているというのは、最高裁判所は、憲法第八十一条以下何等憲法裁判に関する直接の手続規定がないのにも拘らず、本件提訴に対し、職権を以つて、第一回口頭弁論期日を開始し更に憲法裁判の特質に合致する合理的手続を発見して訴訟を進めようとしている。原告は、最高裁判所の、憲法裁判所としての自覚に立つ、このような憲法擁護の真剣な態度に敬意を表しつつ、共に本訴を進めて、憲法を擁護しようと決意するものである。

原告は最高裁判所が速かに鎖末の手続論議を切り上げ、早急に実体的審理に入るべきことを強く希望してこの準備書面を提出するものである。

昭和二十七年七月十六日

武藤運十郎

猪俣浩三

坂本泰良

萩本隼人

佐々木正泰

高橋正雄

最高裁判所大法廷御中

昭和二七年(マ)第二三号

答弁書

原告鈴木茂三郎

被告国

右当事者間の御庁昭和二七年(マ)第二三号日本国憲法に違反する行政処分取消事件につき、被告はつぎのように答弁する。

本案前の答弁

本件訴を却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

との判決を求める。

理由

(総括)

一、最高裁判所は、具体的争訟を審判する司法裁判所であつて、原告主張のような憲法裁判を行う裁判所ではない。従つて、かような意味における憲法裁判を求める本訴は、不適法として却下されるべきものである。

原告は、この訴を特に最高裁判所に提起した理由として、最高裁判所は日本国憲法第八十一条により憲法裁判所の性格を与えられ、法律命令規則処分を違憲と認める場合には、自ら始審且つ終審としてその無効を宣言する権限を有すると主張するが、それは誤りである。

単に第八十一条の字義の上だけよりこれを見るも、同条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定するから、その権限を有する裁判所は他にもあつて、最高裁判所はこれら下級裁判所に対し終審裁判所たる性格を有するに止まることは明白である。しかのみならず、被告の主張には以下述べるような実質上の根拠がある。

(司法的憲法保障制度と憲法裁判所)

二、元来、法律の違憲審査に関する諸国の制度は、これを、二大別することができる。すなわち、(イ)普通裁判所に違憲審査権を認め、特に憲法裁判所のような機関を設けない制度、及び、(ロ)普通裁判所の違憲審査権を否定し、別に特別の憲法裁判所を設けて抽象的一般的に法律の違憲無効を宣言させる制度がそれである。

およそ憲法が法律に対して優位に在ることを認めるときは、法律が憲法と牴触する場合の違憲審査が当然問題とならなければならない。しかしてこれは具体的争訟に対して法を適用することを職分とする司法裁判所が必ず当面する問題である。この場合において、立法に対する司法権の優位を認め、司法裁判所が直ちに当該適用法律の合憲性を審査し、違憲の法律はその適用を拒否できるものとするときは、これによつて憲法保障の目的は充分に達せられるのである。然るに、大陸法系諸国のように、普通裁判所に法律の違憲審査の権限を認めない制度の下においては、法律が憲法に牴触するときに後者を護るべき方途を欠くことになる。これが近年に至り、諸国相次いで特別の憲法裁判所を設けるに至つた所以であると考えられる。このように憲法裁判所設置の要否は、概していえば、普通裁判所の法令違憲審査権の有無にかゝるものであつて、司法的憲法保障制度と憲法裁判所制度とは対蹠的基盤の上に立つものといえよう。

(諸外国の憲法との比較)

三、日本国憲法を諸外国の憲法と比較すれば、日本国憲法がいわゆる憲法裁判所を設ける憲法の類型に属しないことは明らかである。

(1) 特別の憲法裁判所を設けず一般の司法裁判所が法令の違憲審査を行う周知の適例は米国である。

米国連邦憲法は憲法裁判所を規定しないことは勿論、裁判所の法令違憲審査についても少くとも明文がなく、歴史の経過において司法裁判所による法令違憲審査の権限と限界が多年の判例を経て形成、確立を見るに至つたものである。この場合には特別の憲法裁判制度に見られる後掲(2)の(イ)乃至(ヘ)に示すような特色は認められず、司法裁判所は、民事刑事の一般訴訟事件の裁判において自ら適用すべき法令の合憲性を判断する。その法令審査はあくまで司法作用であつて立法的性質を有するものではない(この種の司法審査権を最高裁判所に対し憲法上明文を以て認めているものとしては例えば一九四六年ブラジル連邦憲法第百一条)。

(2) 特別の憲法裁判機関を設けて憲法裁判を行わせる憲法の例若干を別表に掲げる。これらを通覧すれば憲法裁判所の特色として次の諸点を挙示することができる。

(イ) 普通裁判所は適用法律について違憲審査を行わないこと。

(ロ) 憲法裁判所は通常の民事刑事の具体的事件の裁判を行わないこと。

(ハ) 憲法裁判は、憲法裁判所だけがこれを行うこと。

(ニ) 憲法裁判を請求する者は政府、法令の違憲の主張を含む訴訟事件の係属する司法裁判所或は立法機関における一定数の議員等公的性格を有するものに限られていること。

(ホ) 違憲と裁判された法律はこれによつて廃止と同一の効力を生ずること。

(ヘ) 裁判官の選任方法は通常の司法裁判所と別異に扱われ、或る程度まで立法機関の関与が認められること。

これらの特色は憲法そのものに規定する所であり、それは深く憲法裁判そのものの本質につながるものであることは容易に了解できる所である。このことは換言すれば、これらの諸点のいずれもが憲法上規定されていない場合の法令審査機関は憲法裁判所の性格を有しないということができる。

(3) そこで日本国憲法を見るに、法令の違憲審査は司法の章下に規定され、民事刑事の司法裁判を行う最高裁判所が終審としてこれを行うことになつている。そして前記大陸法系諸国の憲法が憲法裁判所を設けるために、裁判所の構成、違憲審査の請求権者、違憲裁判の効力等についてしているような特別の配慮は、日本国憲法には少しも見られない。特別の規定としては、たゞ第八十一条の一ケ条が存するのみであつて、法令審査の始審についてすら憲法はこれを規定していない。

このことは、前項の記述から自から明らかなように、わが国の最高裁判所が憲法裁判所の性格を有しないことの明瞭な証左といえよう。

原告主張のように、日本国憲法が、純粋の司法権概念を以ては律し得ないところの、第四権的な、消極的立法作用を営む憲法裁判所の制度を、第八十一条のような一ケ条の規定だけで認めたものとすることは、同条の文理とも適合しないばかりでなく、それは、各国憲法にその例を見ない、まことに奇異な憲法であるといわねばならないであろう。

(旧帝国憲法との比較)

四、日本が民主国家として再出発するために、旧帝国憲法を改めて日本国憲法を制定した歴史的背景を考えるときは、日本国憲法が憲法裁判所を設ける趣旨でないことは明らかである。

日本国憲法は国民の基本的人権の保障をその根本原理の一としており、その第三章において、基本的人権の多くに、法律を以てしても侵し得ない絶対的保障を与えている。従つて、この理念を徹底せしめるためには、当然、違憲立法による国民の権利の侵害に対する、司法裁判所による救済制度の確立が計られなければならない。司法裁判所の法令違憲審査権こそ正に、三権分立の枠内で、国民の基本的人権擁護の理念を追求して発展した制度なのである。

ところが、旧憲法時代のわが国においては、大陸法系の主義にならい、司法裁判所による法律の違憲審査権が一般に否定されていたことは周知のとおりである。のみならず、命令についても、司法裁判所にその審査権ありや否やは、旧憲法の解釈上問題の存していたところである。従つて、新憲法のもとにおいて、法令の違憲審査権を司法裁判所に認めるためには、その旨の憲法の明文を設けるを優れりとする事情にあつたことは明らかである。

右のような事情に照して考えると、日本国憲法第八十一条はあらたに司法裁判所の優位を認め、適用法規の違憲審査については、最高裁判所を終審裁判所とすることを定めたものと解するのが最も自然であり、ひいては、下級裁判所も前審としては同様の法令審査権を持ち得ることを示したものと解釈するのが最も妥当である。

このことは、当初政府が帝国憲法改正案を提出した原案の第七十七条では、第一項で「最高裁判所は、終審裁判所である」とし、第二項で「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する」と定めていたため、この違憲審査権は最高裁判所に排他的に専属するとの解釈の余地があつたところ、後にそれが現行第八十一条のように修正されて、下級裁判所も同様の違憲審査権を持つことを示す字句に変更された経緯に鑑みると、一層明らかに首肯されるところであり、この第八十一条が決して最高裁判所に特殊な憲法裁判所の性格を与える趣旨でないことは疑いの余地がない。

新憲法のもとにおいては、司法裁判所が一般に適用法令の違憲審査権を有することは、原告自らも主張するところである。そうだとすれば、このような制度のもとにおいては、違憲立法による国民の権利の侵害に対しては、すべて裁判所による救済を与えられるから、その上に重ねて大陸法的憲法裁判所を設ける必要は存しないのである。いわんや、原告主張のように、司法的違憲審査権を有する最高裁判所が、同時に第四権的な憲法裁判所でもあるとすることは、むしろ奇異の例というべく、諸国の憲法にほとんどその例を見ないところである。

そのような制度を、日本国憲法が特別に採用するという意図は、日本国憲法の諸規定、前文等の何れの部分からもこれを看取することができない。却つて、新憲法制定の際の論議における提案者の説明は、この憲法第八十一条が、最高裁判所に憲法裁判所たる性格を与えた趣旨でないことを明確に言明しており、これに対する反対論もあつたが、それを採用して、その趣旨に添うような修正措置の採られた跡は全然これを認めないのである(第九十回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第二十号一三頁、一九、二〇頁、同衆議院帝国憲法改正案委員会議録(速記)第二回五頁、第十九回三六八頁)。

(結語)

五、以上の説述で明らかなように、憲法第八十一条の規定は最高裁判所に憲法裁判の特別権限を附与したものではない。従つて本件のような抽象的一般的な行為につき、違憲宣言を求める憲法裁判事件は、最高裁判所はもちろん他の何れの裁判所の裁判権にも属しない。しからば本件訴は、他の管轄裁判所に移送する余地もなく、不適法として却下されるべきである。

昭和二十七年六月十一日

被告訴訟代理人

岩田宙造

小沢文雄

山根篤

武藤英一

芦苅直已

最高裁判所大法廷 御中

別表

一、オーストリヤ憲法(一九二〇)

二、オーストリヤ聯邦憲法、一九三四・五・一)

三、イタリヤ共和国憲法(一九四七・一二・二二)

備考

一、ドイツ連邦共和国基本法(西独、ボン憲法)(一九四九・五・八)

二、大韓民国憲法(一九四八・七・一二)

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