大判例

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最高裁判所大法廷 昭和26年(れ)693号 判決 1952年5月14日

主文

原判決を破棄する。

本件を広島高等裁判所に差し戻す。

理由

弁護人博田一二上告趣意について。

原判決は、被告人に対し恐喝罪の事実を認定したほか、被告人が昭和二二年七月二七日午後六時頃居村の村立向西中学校第一校舎に原判示のように放火してこれを焼燬した放火罪の事実を認定し、右放火の犯罪事実を認定する証拠の一つとして、第一審公判調書中「被告人の供述として判示焼燬した校舎及び校長室の位置建坪及び構造を除き判示同趣旨の記載」を引用している。第一審公判調書に記載されている被告人の供述は、公判期日によってその内容に変動があり必ずしも常に同一ではないが、原判決が証拠に引用したのは、昭和二三年三月三一日の第一審公判調書に記載された被告人の供述をさすものであることは、右供述のみが原判決に判示されている事実と一致しており、従って「判示同趣旨の記載」と認められることによって明らかである。されば本件においては、昭和二三年三月三一日の第一審公判でなされた被告人の供述が所論のように不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白であるか否かが問題となるのである。

記録を調べてみると、被告人は昭和二二年八月一二日放火罪で逮捕され、同月一四日尾道警察署に勾留されたが、勾留が満期となっても放火罪については公訴の提起がなく、同月二三日恐喝罪で更に前記警察署で逮捕され、同月二五日同一罪名で勾留された。そして、同年九月三日恐喝罪につき公訴が提起され同年一一月一〇日恐喝罪の連続犯通知がなされ、同月一一日放火罪につき追公判請求がなされたが、勾留は期間満了毎に常に恐喝の罪名で更新されて昭和二三年四月七日第一審判決宣告の日に保釈により釈放されるまで継続した(保釈決定の罪名には恐喝、放火とあるが、起訴された放火については勾留状は発せられていない)。他方、被告人の供述の推移をみると、被告人は恐喝罪については逮捕された当初から争わずその事実を認めたが、放火罪についてはその供述に変動があり、当初警察官、検事に対し放火の犯行を認めていたこともあるが、その後検事の取調に対しては犯行を否認していたが後には再び自白し、第一審公判においても自白したが、保釈後控訴審の公判においては終始否認した。そして、自白の内容も一貫したものではなく取調の時期により犯行の手段方法等に関し著しい差異があった。なお、被告人は本件について勾留された当時一六歳に満たない少年であったのである。

以上の事実によって明らかなように、被告人は昭和二二年八月二五日恐喝罪の嫌疑で勾留されると直ちにその犯行を認たので間もなく起訴されたのであったが、そのまま継続して拘禁され、問題の昭和二二年三月三一日の自白当時には勾留の期間は七ケ月余に達していた。本件の恐喝罪は極めて簡単な事実であるばかりでなく、被告人は当初からその事実を認めて争わないのであるから、その審判のために被告人の身柄を拘禁する必要は認め難い。しかも、被告人は少年であるからやむを得ない場合でなければ勾留状を発することはできないのである(旧少年法六七条新少年法四八条参照)。被告人は警察署においてすでに放火の犯行を自白したこともあるが、その自白には一貫性がないばかりでなく、取調べの途中では犯行を否認したこともあって、本件においては自白と拘禁との間に因果関係の存しないことが明らかに認め得られる場合であると言うことはできない(昭和二二年(れ)二七一号同二三年六月三〇日当裁判所大法廷判決参照)。このように考察すると、原判決が証拠とした昭和二三年三月三一日の第一審公判調書記載の被告人の自白は、憲法三八条二項にいう不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白に当るものと言わざるを得ない。それゆえ、右の自白を証拠として原判示の放火の事実を認定した原判決は、前記憲法の規定に違反したものであって、この点において論旨第一は理由があり原判決は破棄を免かれないしこの違法は、事実の確定に影響を及ぼすものである。

よって、同弁護人の他の論旨及び被告人の上告趣意に対してはその判断を省略して刑訴施行法二条、三条の二、刑訴四一〇条、旧刑訴四四八条の二により主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官全員の一致した意見によるものである。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎)

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