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広島高等裁判所松江支部 平成6年(ネ)17号 判決 1995年7月28日

控訴人

鳥取市

右代表者知事

西尾迢富

右訴訟代理人弁護士

森脇正

小堺堅吾

被控訴人(兼亡山本常政承継人)

山本喜彦

今西洋子

前田史子

前田康仁

被控訴人ら訴訟代理人弁護士

寺垣琢生

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

被控訴人らの請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人らの負担とする。

事実及び理由

一  申立て

控訴人は、主文と同旨の判決を求め、被控訴人らは、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

なお、被控訴人らは、原審口頭弁論終結後の一審原告山本常政(以下「常政」という。)の死亡により、本件訴訟における同人の地位を承継したとして、当審において、請求の趣旨を、「控訴人は被控訴人山本喜彦及び同今西洋子に対し各金九四九万三四〇六円、同前田史子及び同前田康仁に対し各金四七四万六七〇三円並びに右各金員に対する昭和六三年七月二五日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。」と改めた。

二  事案の概要

本件は、控訴人の開設する鳥取市立病院(以下「本件病院」という。)においてマムシ咬傷の治療を受けた山本節子(以下「節子」という。)が昭和六三年七月二五日に死亡したのは、節子の主治医として診療に当たった本件病院の勤務医である小寺正人(以下「小寺医師」という。)が適時にマムシ抗毒素血清(以下「血清」という。)を投与しなかったためで、同医師には診療上の過失があったとして、節子の相続人であり、その相続人の一人であった常政の相続人でもある被控訴人らが、同医師の使用者である控訴人に対し、民法七一五条に基づき、損害賠償を請求する訴訟である。

〔請求の前提となる事実関係〕

1  当事者等

争いのない事実及び甲第一号証の一、二、第二九、第三一、第三二、第三六号証、証人小寺正人の証言によって認められる事実は、次のとおりである。

(一) 節子は、大正九年一月一日生まれの女性であり、昭和六三年七月二一日から同月二五日にかけて本件病院においてマムシ咬傷について診療を受けた(以下「本件診療」という。)が、同月二五日に本件病院において死亡した。

常政は節子の夫であり、被控訴人山本喜彦及び同今西洋子は常政・節子夫婦の子であり、被控訴人前田史子及び同前田康仁は右常政・節子夫婦の子である前田和子の子(すなわち、節子の孫)であるが、前田和子は節子の死亡に先立つ昭和五四年七月二日に死亡した。

そして、常政は、原審の口頭弁論終結後の平成六年三月一九日に死亡したが、その相続人は被控訴人ら四名である。

(二) 控訴人は、鳥取市幸町七一番地において、本件病院を開設して、その経営をしている。

小寺医師は、昭和六二年三月に岡山大学医学部を卒業した後、同年四月同大学第一外科に入局し、同年六月から同研修医となったが、同年七月に研修医を辞職して、同年八月から本件病院の医師となり、平成元年七月まで本件病院の外科医師として勤務した。

なお、本件病院でマムシ咬傷のために入院治療を受けていた太田尚が昭和五九年九月二日に死亡したこと(以下「太田マムシ咬傷死亡事件」という。)に関して、同人の遺族が控訴人に対し、本件病院の主治医について適時に血清を投与して治療しなかった過失があったとして、鳥取地方裁判所に損害賠償請求訴訟を提起し、同訴訟は、節子が本件病院でマムシ咬傷の治療を受けていた当時、同裁判所に係属中であった。

2  節子の受傷と本件病院での診療の経過

甲第三、第四、第二七、第二八号証、乙第一ないし第一三、第六四号証、証人小寺正人、同小谷穰治、同竹内いずみの各証言、承継前原告常政の供述並びに弁論の全趣旨によって認められる事実は、次のとおりである。

(一) 受傷と本件病院での初期治療

節子は、昭和六三年七月二一日(以下、昭和六三年七月中の日時については、原則として、年月の記載をしない。)午後一時四〇分頃、自宅近くの畑で農作業に従事していてマムシに右手甲を咬まれたため、近くの民家に駆け込み、右手関節部を紐で緊縛してもらうとともに、救急車を呼んでもらい、同日午後一時五八分頃救急車で本件病院に搬入された。なお、節子は、救急車内で、前腕及び上腕の二か所で駆血処置を受けた。

節子は、直ちに、本件病院の外来において、担当医師の仁科拓也(以下「仁科医師」という。)の診察を受けた。

仁科医師は、節子を診察して、同女の右手甲に二個の牙痕を認め、かつ、右手首から先が、牙痕部周辺でやや暗赤色を呈して腫れていたため、マムシ咬傷と診断し、初期治療として、牙痕部付近を三か所切開して脱血してマムシ毒の排毒を試みた後、セファランチン一〇ミリグラムを牙痕部付近に注射するとともに、セファランチン二〇ミリグラムと糖液二〇CCの混合液を静脈注射し、次いでセファランチン二〇ミリグラムを加えた糖液五〇〇CCの静脈への点滴処置をとった。

節子は、意識が清明で、血圧等の一般状態も良好で、腫れは右手首から末梢だけであった。なお、①右前腕の手首関節と肘関節の中間辺り、②右肘関節部、③右肘関節と肩関節との中間辺りの各周囲の計測値(以下、計測部位は、右番号だけで示すこともある。)は、それぞれ21.5センチメートル、20.0センチメートル、22.7センチメートルであった。

そして、本件病院では、昭和五九年に発生した太田マムシ咬傷死亡事件を契機として、マムシ咬傷患者に対しては、原則として、入院措置をとって集中治療室に収容して十分な経過観察と治療をすることが治療方針となっていたため、仁科医師は、直ちに入院措置をとり、節子は二一日午後二時二〇分集中治療室に収容され、以後死亡するまで医師又は看護婦によって継続的に経過観察がなされた。

(二) 受傷当日(七月二一日)の入院後の症状と診療の経過

(1) 午後二時二〇分頃から午後五時頃まで

〔午後二時二〇分〕 節子は、集中治療室に入室したが、当時、患部に鈍痛を訴え、腫脹は右前腕の中間辺りまで広がっていた。

〔午後三時頃〕 小寺医師は主治医として節子を診察したが、腫脹は、右前腕の中間辺りまでで、①、②及び③(但し、このときは、③として右肩の付け根付近を計測)の部位の各周囲の計測値は、それぞれ22.9センチメートル、20.0センチメートル、24.8センチメートルであり、なお上行性(肘関節の側)に徐々に広がりつつあった。しかし、複視・霧視などの神経症状の訴えはなく、血圧等も正常であって、一般状態に変化はなかった。節子は、患部の鈍痛を訴えたため、小寺医師の指示で、インダシン座薬(鎮痛剤)五〇ミリグラムが施用された。

〔午後三時三〇分頃〕 小寺医師が患部のガーゼ交換をしたが、その際には、腫脹は右肘関節部辺りまで進行していて、前腕外側が薄紫色を呈し、内側には発赤があって、所々に点状出血斑が認められた。節子は、患肢の痺れ感や鈍痛を訴えていた。患肢を氷枕や氷のうで冷却する処置がとられた。

〔午後四時頃〕 節子の右腕の①、②及び③の部位の各周囲を計測した結果は、それぞれ二二センチメートル、2.45センチメートル、二四センチメートルであって、患肢の状態に特別な変化はなかった。この頃、自尿四五〇ミリリットルがあり、血圧等も正常で、複視の訴えもなく、一般状態に変化はなかった。

この間、節子には、抗生物質(セフメタゾン)、抗破傷風薬(テタノブリン)、抗アレルギー剤(ネオファーゲン)の注射のほか、継続的にビタミン剤を加えた輸液の点滴静注の処置がとられた。そして、節子には、マムシ毒によると認められる全身症状は発現していなかった。

なお、入院直前に採取された血液及び尿についての一般血液検査、検尿、血液生化学検査の結果には、特に異常な点はなかった。

(2) 午後五時頃から午後七時頃まで

〔午後五時三〇分頃〕 節子は、その少し前から全粥の夕食をし、牛乳を飲んだが、食事中に嘔吐した。節子が嘔吐したことは、看護婦から小寺医師に報告された。

〔午後五時四五分頃〕 本件病院副院長である小谷穰治(以下「小谷副院長」という。)が小寺医師とともに回診したが、その時点では、腫脹は、右肘関節と右肩関節の中間辺りまで進行していて、紫色を呈し、肘の辺りまで出血斑も観察された。小寺医師は、腫脹の進行速度が速く、直前に嘔吐があったことから、小谷副院長からの助言もあって、節子のマムシ毒による病状は重症化する恐れがあると判断し、節子に対し血清の投与を考え、血清投与に伴う過敏性反応の有無を調べる目的で、右過敏性反応テストの一方法である皮内テストの実施を看護婦に指示した。

〔午後六時頃〕 右指示を受けた看護婦竹内いずみ(以下「竹内看護婦」という。)は、本件病院内の薬局に赴いて血清(日本薬局方「乾燥まむし抗毒素『タケダ』―抗致死価、抗出血価それぞれ六〇〇〇単位―と溶剤―注射用蒸留水二〇ミリリットル―)を受領し、添付された説明文書(甲第三号証参照。以下「本件能書」という。)の記載に従って、乾燥製剤全量を溶剤全量で溶解した後、生理食塩液で約一〇倍に希釈して試薬をつくり、この試薬0.1ミリリットルを節子の左前腕の内側の皮内に注射し、節子の血圧を計測しながら経過観察をした。

〔午後六時三〇分過ぎ頃―注射後三〇分程度経過―〕 小寺医師は、竹内看護婦とともに、注射部位を観察したところ、一九ミリメートル×二一ミリメートルの大きさの発赤が認められた。小寺医師は、本件能書に「直径一〇ミリメートル程度の紅斑ならば軽度の過敏性とみなせる」と記載されていたため、これに従って、「陽性」の判定をし、既に帰宅した小谷副院長に電話して、右皮内テストの結果を報告して助言を求めたところ、同副院長からもう少し腫脹の進行状況等の様子をみるよう助言されたため、血清の投与を見合わせることとした。

午後六時頃から午後七時一五分頃までの間、節子は、四回にわたって嘔吐した(当初三回の嘔吐物の内容は明らかでないが、第四回目の嘔吐物の内容は胆汁と胃液の混じったものであった。吐血は認められていない。)。

〔午後七時一五分頃〕 小寺医師は、節子を診察したが、その当時、腫脹は右肩辺りまで及んでいて、青紫色を呈し、依然として患肢のしびれを訴え、全身色は不良であった。また、節子は腹痛を訴え、その頃黄緑色の便を中等量排泄した。しかし、マムシ毒によると認められる複視等の神経症状は認められず、血圧等の一般状態にも異常は認められなかった。小寺医師は、嘔吐に対する対症療法として制吐剤プリンペラン一〇ミリグラムの静脈注射を看護婦にさせるとともに、節子の嘔吐が点滴液に入れているビタミン剤(ネオラミン3B)のためではないかと考え、点滴静注中の右ビタミン剤入りの点滴液を右制吐剤入りの点滴液に取り替えさせた。

(3) 午後八時頃から午後一〇時頃まで

〔午後八時頃〕 節子の右腕の①、②及び③の部位の各周囲を計測した結果は、それぞれ二三センチメートル、二六センチメートル、三〇センチメートルであり、依然として患肢の軽度の痛みとしびれを訴えていた。

〔午後九時頃〕 節子の吐気は持続していたが、複視等の神経症状は認められなかった。

〔午後一〇時頃〕 小寺医師が節子を診察したが、腫脹の進行は、右肩までで止まっていて、午後七時一五分の診察時と比べて変化がなく(右腕の③の部位の周囲の計測結果も、三〇センチメートルと変化がなかった。)、吐気は少し良くなっていた。なお、自尿はなかったが、尿意はあるようであった。

小寺医師は、この診察後ほどなくして(午後一〇時過ぎ)、特に看護婦に具体的な指示を与えることなく帰宅し、翌朝まで自宅で待機していた。

(4) 午後一〇時頃から午前零時頃まで

〔午後一一時頃〕 黄色透明の自尿二五〇CCがあった。

〔午前零時頃〕 腫脹は、右肩までで青紫色を呈し、節子の右腕の①、②及び③の部位の各周囲を計測した結果は、それぞれ22.5センチメートル、25.5センチメートル、29.5センチメートルであり、依然として患肢の軽度の痛みとしびれを訴えていた。抗生物質(セフメタゾン)が注射され、制吐剤入りの点滴静注が継続された。

(三) 七月二二日の症状と診療の経過

(1)午前零時頃から午前六時頃まで

〔午前一時三〇分頃〕 節子は、患肢の軽度の痛みとしびれを訴えていたが、嘔気はおさまり、看護婦に「よくなりました」と話す程であった。

〔午前四時頃〕 自尿一五〇ミリリットルがあり、血圧等に特に異常はなかった。

〔午前六時頃〕 腫脹は、右肩までで青紫色を呈し、右肘まで点状出血斑点があり、節子の右腕の①、②及び③の部位の各周囲を計測した結果は、それぞれ二三センチメートル、二六センチメートル、29.5センチメートルであり、依然として患肢の軽度の痛みとしびれを訴えていた。氷のう及び氷枕の交換をした。

この間も前記点滴静注は続けられた。

(2) 午前六時頃から午前一〇時頃まで

〔午前七時三〇分頃〕 小寺医師が節子を診察したが、右腕全体が腫れ腫脹は右肩関節を超えて右胸部にまで達し(但し、右胸部の辺りの腫脹は著明ではなかった。)、右前腕には皮下出血斑が認められた。しかし、血圧等に異常がなく、複視等の神経症状は認められなかった。

〔午前八時頃〕 食欲なく、うとうとした状態。

〔午前一〇時前〕 輸液の点滴静注に加え、セファランチン一〇ミリグラムのほか、抗生物質(セフメタゾン)、抗アレルギー剤(ネオファーゲン)などが注射された。

(3) 午前一〇時頃から午後四時頃まで

〔午前一〇時頃〕 腫脹は、躯幹にまで及び、左肩及び左肩甲骨の辺り及び右胸部まで達し、青紫色を呈し、所々に点状出血がみられ、節子の右腕の①、②及び③の部位の各周囲を計測した結果は、それぞれ23.2センチメートル、二七センチメートル、29.5センチメートルであり、依然として患肢の軽度の痛みとしびれを訴えていた。また、口渇や倦怠感を訴えるが、複視等の神経症状は認められず、血圧等に異常はなく、「今日は昨日より楽」と述べていた。

〔正午頃〕 褐色の自尿四五〇ミリリットルがあり、強度(3+)の潜血反応(血尿)を示し、尿比重は1.038であった。

〔午後二時頃〕 口渇を訴えるが、血圧等に異常はなかった。

〔午後四時頃〕 腫脹は、患肢については軽減するが、頸、左肩及び左肩甲骨の辺り及び右胸部まで広がっていた。出血傾向は認められず、節子の右腕の①、②及び③の部位の各周囲を計測した結果は、それぞれ22.7センチメートル、26.7センチメートル、29.0センチメートルであり、依然として患肢の軽度の痛みとしびれを訴えていた。自尿三〇〇ミリリットルがあった。血圧等に異常はなかった。

(4) 午後四時頃から午前零時頃まで

〔午後四時三〇分頃〕 本件病院の外科医長湯村(以下「湯村医長」という。)が節子を診察したが、呼吸困難やチアノーゼの症状はなく、胸部X線所見にも異常がなく、複視・霧視も認められなかった。経鼻カニューラにより酸素吸入(毎分二リットル)が開始され、尿量の経時観察のために持続導尿処置がとられ、サクセゾン(ステロイド剤)五〇〇ミリグラムが静注された。

〔午後六時頃〕 湯村医長の指示で、輸液管理と中心静圧(CVP)の経時的測定を目的として、左鎖骨下静脈にカニュレーションを施行し中心静脈輸液を開始。

血液検査及び血液凝固線溶系検査などの検査の結果、白血球数及び赤血球数の異常(順次、一万二五〇〇、四七八万)、血小板数の減少(一〇万六〇〇〇)、プロンプトン時間の延長(三一秒)、FDPの存在(テスト血清値一〇)、GOT五五九、LDH一二〇四、CPK一七四八、CRTN(クレアチニン)3.7と著明な上昇が認められ、DIC(播種血管内凝固症候群)発症の可能性(DIC診断基準で六点)とともに、腎臓障害の可能性があるとの診断のもとに、DICへの移行阻止と腎不全の防止を当面の治療方針として、輸液の点滴静注とともに、利尿剤(ラシックス、ソルダクトン)を注射し、FOY、ミラクリッドの投与を開始した。

〔午後七時頃から午後一〇時頃〕 腫脹は、患肢では増強はないが、頸から背部、更には右腹部腸骨上まで広がっていた。複視・霧視等はなく、血圧等も正常であった。また、尿(淡褐色)の流出は良好(一時間当たり一〇〇から一二〇ミリリットル流出)で、腎機能は維持されていた。血液ガス分析検査結果を受けて、メイロン二Aが静注された。赤沈値は一時間値及び二時間値とも〇ミリメートルで、血液凝固系の異常を示していた。

〔午後一〇時頃から午前零時頃〕 腫脹は、背部及び右腹部腸骨上まで広がっていて、右肘関節には点状出血がみられるが、血圧等は正常、尿(淡褐色)の流出も概ね良好で、節子は、気分が改善されたのか、看護婦に話しかけ、笑顔も見せた。

(四) 七月二三日の症状と診療の経過

(1) 午前零時頃から午前一〇時頃まで

腫脹の状態はほとんど変化がなく、血圧等は正常で、尿(淡褐色)の流出も概ね良好。節子は、よく眠れた旨及び大分楽になった旨看護婦に述べていた。

午前零時の血液検査等の結果では、赤血球数、白血球数、血小板数等がなお異常値を示し(順次、一万六二〇〇、五三八万、七万五〇〇〇)、血液ガス分析検査値にも異常値が認められたが、BUN(尿素窒素量)二〇ミリグラム、CRTN(クレアチニン)0.9ミリグラムとほぼ正常値あるいは正常値となり、血液凝固線溶系の検査値も、FDO(血清テスト値一〇)を除いて、正常値となった。

(2) 午前一〇時頃から午後一時頃まで

腫脹の状態はほとんど変化がなく(午前一〇時頃以降しびれ感消失)、血圧等は正常で(もっとも、午前一〇時頃から午前一一時頃には、呼吸数が毎分二四回に増加)、尿の流出も概ね良好であった。

血液検査等の結果では、白血球数、赤血球数、血小板数等がなお異常値を示し(順次、一万六〇〇〇、五〇七万、四万一〇〇〇。特に、血小板数の減少が著しい。)、GOT九一〇、LDH二五三二、CPK二万五九八〇と著明に上昇が認められ、尿蛋白2+、尿潜血反応3+を示し、主として筋肉組織の著しい破壊が推定された。しかし、BUN(尿素窒素量)一四ミリグラム、CRTN(クレアチニン)0.9ミリグラムと正常値となり、血液凝固線溶系の検査値も、FDO(血清テスト値一〇)を除いて、正常値であった。

これらの検査結果及び尿量が順調であることから、目下のところ、DICの憎悪はなく(出血傾向なし)、腎不全の様子も認められないと判断され、前日と同様に、DICへの移行阻止と腎不全防止のための治療として、輸液の点滴静注とともに、セファランチン一〇ミリグラムのほか、FOY、ミラクリッド、ヘパリン等を投与し、また、血液ガス分析検査値の異常から、軽度の代謝性アシドーシスを認め、メイロン二Aが静注された。

(3) 午後一時頃から午後六時頃まで

節子は、しばしば、口の中が狭くなったようだと言って呼吸困難を訴えた。湯村医長が診察し、異常所見を認めなかったが、酸素吸入量を三リットルに増量した。

血液検査の結果では、白血球数、赤血球数、血小板数等が異常値を示した(順次、一万八一〇〇、五〇七万、七万三〇〇〇、血小板数の減少はかなり改善された。)。

(4) 午後六時頃から午前零時頃まで

呼吸数は、午後六時頃には毎分二四回、午後八時頃には毎分二六回と増えるが、息苦しさの訴えはなかった。

(五) 七月二四日の病状と診療の経過

(1) 午前零時から午前八時頃まで

午前一時から三時にかけて時間当たりの尿量が四〇ミリリットルと減少したため、点滴の速度が上げられ、更には、担当看護婦が小寺医師に電話して、その指示で、利尿剤(ラシックス一〇ミリグラム)を投与したところ、午前三時から午前四時頃にかけて尿量が四二〇ミリリットルと顕著に増加した。しかし、午前七時頃から再び時間当たり尿量が減少傾向を示した。

この間の呼吸数は、毎分二〇回から二四回とやや早いが、血圧・脈拍・体温には異常がない。

腫脹は増強傾向にあり、右前腕には点状出血が認められた。

(2) 午前八時頃から午後八時頃まで

腫脹は、午前八時頃には、頸を経て左上腕の上部及び右腹部を経て右大腿部にまで及んでいた。なお、午前一〇時三〇分頃には、両肩、右腕及び右臀部に硬結が認められ、午後四時頃の小寺医師の診察時には、腫脹部の硬結が著明であった。

尿は、午前八時頃には、褐色尿で、流出緩慢なため(一時間当たり八〇ミリリットル)、午前九時頃利尿剤(ラシックス一〇ミリグラム)を投与し、その効があって尿量が一時的に増加したが、その後は概ね一時間当たり五〇ミリリットル前後で推移した。

呼吸数は、午前中は毎分二〇回程度であったが、午後から徐々に増加し、午後四時頃以降は毎分二五回となった。血圧・脈拍・体温には異常がなかった。

血液検査等の結果では、白血球数、赤血球数、血小板数等がなお異常値を示し(順次、一万六六〇〇、四八二万、五万)、尿蛋白1+、尿潜血反応3+を示し、なお主として筋肉組織の破壊が推定されたが、BUN(尿素窒素量)一一ミリグラム、CRTN(クレアチニン)0.8ミリグラムと正常値であり、血液凝固線溶系の検査値も、FDO(血清テスト値一〇)を除いて、正常値であった。

小寺医師は、これらの検査結果及び尿量が比較的順調(利尿剤への反応良好)であることから、現在の時点では、腎不全、心不全、出血傾向が認められないと判断し、二三日と同様に、DICへの移行阻止と腎不全防止のための治療として、節子に対し、輸液の点滴静注とともに、FOY、ミラクリッド、ヘパリン等の投与を継続した。

(3) 午後八時頃から午前零時まで

〔午後八時頃〕 午後六時から午後八時の間に、節子の血圧が低下し始め、脈拍が上昇し、体温は低下し始め、CVPも三〇ミリメートルと相当に低下した。尿量は、午前零時頃まで一時間当たり五〇ミリリットル以上の流出が維持されていた。

〔午後一〇時頃〕 節子は、全身に腫脹を来し、「えらい」と言って苦痛を訴え、血圧が一三〇/九〇(前の数字が最高血圧、後の数字が最低血圧。以下同じ)、脈拍が一分間に一一〇回、呼吸数が一分間に二五回であった。

〔午後一一時頃〕 節子は、全身苦痛を訴え、血圧が一一〇/八〇、に低下し、脈拍が一分間に一〇八回、呼吸数が一分間に二三回であった。

〔午後一一時三〇分頃〕 小寺医師、節子を診察

〔午前零時頃〕 大便失禁。冷汗・四肢冷感・呼吸困難が認められたが、チアノーゼは認められなかった。血圧は九五/八〇に低下し、頻脈状態が続いた。

(六) 七月二五日の病状と診察の経過

前日に引き続いて、節子の血圧は低下し、午前一時頃には八〇/六八となり、頻脈状態が続いた。小寺医師は、午前一時頃、急性心不全と判断して、塩酸ドーパミンの投与(一五分間隔で連続投与)を開始した。

午前二時頃には、血液検査等の結果が判明し、血液凝固線溶系の検査値はPT(プロンプトン時間)23.6秒、APTT二〇〇秒以上、フィビリノーゲン一二〇ミリグラム、ATⅢ一五から二五ミリグラム、FDPの存在(テスト血清値四〇)といずれも著しく異常であり、また、白血球数一万二七〇〇、血清総蛋白3.2グラムであったが、BUN(尿素窒素量)一五ミリグラム、CRTN(クレアチニン)0.8ミリグラムと正常値であった。

小寺医師は、これらの検査結果から、節子は、DIC及び急性心不全を発症し、低蛋白血症による全身浮腫を来しているものと判断し、その対症療法として、前記塩酸ドーパミンの投与のほか、午前二時頃からアルブミン製剤、凍結人血漿の投与(三〇分間隔で連続投与)を開始するなどした。

節子の血圧は、その後も低下を続け、脈拍数及び呼吸数は増加し、呼吸困難を訴えたため、午前三時二〇分頃、気管内挿入して呼吸管理を開始した。

しかし、節子の病状は回復せず、午前七時頃、小寺医師が診察するが、意識レベルが低下し、瞳孔の散大があり、その後呼び名に反応せず、対光反射が微弱となり、全身腫脹が増強し、午前一〇時頃には、手足が冷たくなり、右上肢は腫れて硬結し、瞳孔が散大して対光反射も消失し、午前一〇時四五分にDICを原因とする急性心不全により死亡した。

(七) なお、本件診療において、節子に対し、血清が投与されたことはなかった。

3  マムシ咬傷に対する治療薬としての血清及びセファランチン

甲第二号証の一、二、乙第二九、第三七、第四〇、第五一、第五三ないし第五五、第五七号証、証人小谷穰治の証言によれば、本件診療当時において、マムシ咬傷に対する治療薬としては、通常、血清又はセファランチンが投与されていたことが認められる。

〔争点と主張〕

1  小寺医師についての血清不投与の過失の有無

(一) 被控訴人らの主張

小寺医師には、節子のマムシ咬傷の治療において血清を投与しなかった過失がある。

(1) マムシ毒には、それが人体内に入ると、人を死に至らしめる危険性があるから、マムシ咬傷の治療には、マムシ毒を中和させて無毒化させる血清を投与して治療する血清療法が最も有効な治療法である。

したがって、マムシ咬傷の治療をする医師には、患者の症状に応じて適宜血清を投与して、患者の死を回避すべき義務がある。

(2) 控訴人がマムシ咬傷の治療薬であると主張するセファランチンには、マムシ毒を中和させる作用がないから、マムシ咬傷の治療をセファランチンにのみに頼ることは、マムシ咬傷に対する最も有効な治療法を放棄することになる。そして、致死の危険のあるマムシ咬傷患者の治療にあって、最も有効な治療法を放棄することは、これを正当化する積極的な事情がなければ到底許されない。

控訴人は、血清不投与の事情として、① セファランチンが血清に代わるマムシ咬傷の治療薬であること、② 血清に関する皮内テストが陽性であって、アナフィラキシーショックの生ずる危険があったこと、③ 節子の全身状態が良好であったことを挙げるが、いずれも血清不投与を正当化する事情とはならない。すなわち、

①について。 マムシ咬傷の治療薬としてのセファランチンの薬効の有無に付いては、医学上争いがあり、このことは、本件病院では、太田マムシ咬傷死亡事件を通じて十分認識されていたものである。けだし、マムシ毒の危険性は、その毒素が人の血管を流れて毛細血管に入り込み、細胞を破って出血させることにあるから、これを防ぐには、マムシ毒が血液中にある間に中和してしまわなければならないところ、セファランチンには、マムシ毒を中和する作用はないから、この出血を抑えることができず、したがって、セファランチンには救命の効果を期待することができないのである。

②について。 本件咬傷当時のマムシ咬傷治療における医学水準は、血清に関する皮内テストが陽性であっても、マムシ咬傷の症状が中等症以上の場合には、アナフィラキシーショックに備えて蘇生の準備をしたうえで血清を投与して治療に当たらなければならない、というものであった。そして、血清がマムシ毒を中和する作用を有するのは、血清がマムシ咬傷からせいぜい六時間以内に投与された場合であるところ、本件咬傷後の腫脹の進行状況に照らして、腫脹が明らかに咬傷部位から二大関節目である肘関節を超えたと認められる七月二一日午後三時三〇分の時点で、節子の症状は、中等症の状態にあったのであり、したがって、小寺医師は、右医療水準によれば、同日午後三時三〇分の時点で血清の投与をすべきであった。なお、仮に本件咬傷当時のマムシ咬傷治療における医療水準が、軽症及び中等症の場合にはセファランチンで治療に当たってもよいが、重症化が予想される場合には血清を投与して治療に当たるべきである(甲第二九、第三〇号証の各判決例参照)、というものであったとしても(もっとも、このような見解は、セファランチンのマムシ咬傷の治療薬としての薬効に対する懐疑の存在を無視するものであり、かつ、血清の投与が有効に作用する時間がマムシ咬傷後概ね六時間以内であることからすれば、マムシ毒が亜急性に効果を発揮するために、右有効作用時間内に軽症及び中等症と重症化予想症例とを判別することが著しく困難であることを考慮しないもので、被控訴人らとしてはこの見解には到底左袒できない。)、節子の症状は、同日午後五時三〇分には、腫脹が更に増強し、かつ、全身症状としての嘔吐があったのであるから、この時点では重症化が予想できたのであり(この時点で重症化が予想できたことは、小寺医師が、この時点で、重症化を予想して血清の投与を考慮したことからも、明らかである。)、したがって、小寺医師は、右医療水準によれば、同日午後五時三〇分の時点で血清の投与をすべきであった。

③について。 節子の右腕の腫脹は、七月二一日午後七時までは進行し、かつ、同日午後七時一五分までに四回の嘔吐があったのであるから、皮内反応テストの結果が出た時点で、節子の全身状態が良好であったなどということはできない。

なお、血清に関する皮内テストは、血清投与によるアナフィラキシーショック等の副作用の発生を予知する有効な手段といえないのであり、また、血清投与によるアナフィラキシーショックの発生率は非常に低く、かつ、これによって死亡したという症例はないから、このように信頼性が低く、しかも、発生率が極端に低くて死亡例がないアナフィラキシーショックの発生を恐れて、血清の投与をしないのは、マムシ咬傷による具体的な死の危険とアナフィラキシーショックによる何万分の一かの死の可能性とを天秤にかけて、前者に目をつぶるものであって、到底合理的な選択とはいえない。

(二) 控訴人の主張

小寺医師が、節子のマムシ咬傷の治療において血清を投与しなかったことに過失はない。

(1) セファランチンがマムシ咬傷の治療薬として有効であることは、既に多くの治療経験の報告から明らかであり、最近では、セファランチンによるマムシ咬傷治療は急速に一般化してきている。また、セファランチンの作用機序の解析も進められ、蛇毒による赤血球からカリウムの遊出が起こり、ついで溶血が起こるが、この反応がセファランチン添加によって阻止されることが実験的に確かめられているところ、この阻止作用は、セファランチンが細胞膜を安定化させてカリウムの遊出を阻止するためであると説明され、更には、動物実験で、セファランチンが致死量近辺のマムシ毒に対して極めて有効なことが証明された。

(2) マムシ咬傷患者に対する治療法は、その症状の発現内容、程度と臨床上の推移によりセファランチンのみの投与、血清のみの投与、更にはセファランチンと血清の併用投与等があるが、血清には、前記のような副作用もあるので、全てのマムシ咬傷患者に対して、その症状の程度と関係なく一律に血清を投与すべきものではなく、血清を投与するか否かの判断は、治療に当たる医師の医学的裁量の範囲の問題である。

そして、本件病院では、マムシ咬傷患者の症状と病状の進行状況に応じて投与薬剤を選択し、弾力的に対応するとの治療方針、すなわち軽症例であればセファランチンを中心とした治療を行うこととし、重症例では血清を併用するとの治療方針を立てていたもので、本件診療も、右治療方針に従って投与薬剤が選択され投与されたのである。

ところで、節子の初診時の症状は、概ね、前記〔請求の前提となる事実関係〕の2の(一)のとおりであったので、軽症と診断されてセファランチン投与による治療を開始するとともに、入院を指示して、十分な経過観察と治療のために集中治療室に収容した。そして、咬傷後約四時間を経過した七月二一日午後五時四五分頃になって、腫脹が肘部にまで達し、前腕に点状出血が認められたので、全身状態は良好であり、苦痛も少なく、視神経症状もなかったけれども、節子の症状が中等度あるいはそれ以上に進展する可能性も疑われたため、右治療方針のもとに血清の併用も考慮し、血清投与に伴うアナフィラキシーショック等のアレルギー反応の発生を予知するために、血清による過敏性テスト(皮内テスト)を実施したところ、右皮内テストの結果は陽性であった。

過敏性テスト陽性の場合は、血清病の発現はもとより、アナフィラキシーショック発生の危険も予想されるので、血清の投与は一般的には否定的に解される(本件能書には、過敏性テスト陽性の場合は、血清の投与は禁忌とされているところ、日本薬局方に掲載された薬品の使用基準は、厚生省の承認を受けたものとして広く普及している基準であり、臨床上は能書記載の注意を守るしかとるべき方法がない。)。もっとも、それでもなお、血清投与の適応がある重症例であるか否か検討したが、午後五時四五分頃の節子の症状は前記のとおりであって、全身状態が良好で、血圧等も正常であり、腫脹の進行ももう少し待てば停止するかもしれないとの期待感もあったため、小寺医師は、右のような状態と血清投与による不利益(アナフィラキシーショック発生により節子を危険に陥れること及び血清病の発症)を考慮して、血清を投与しない方が適切であると判断し、血清を投与することなく、セファランチンによる治療を継続したのであって、右のような小寺医師の裁量には過失はない。

(3) 被控訴人らは、本件診療当時の臨床医学の実践における医療水準につき、マムシ咬傷患者の症状が中等症以上であるときは血清を投与すべきものとして確立していたと主張するが、被控訴人らの右主張は失当である。

すなわち、本件診療当時、重症例に対するセファランチン投与が積極的に無効である旨の臨床経験に基づく報告はなく、かえって、重症例に対するセファランチン投与が有効である旨の報告が存在していたのであって、当時はもちろん、現在でもマムシ咬傷患者に対する治療法が必ずしも血清を投与すべきものとして確立しているわけではないから、重症例ないしその予想例に対しセファランチンのみを投与して治療に当たったとしても、医師に許される治療上の裁量を逸脱したことにはならない。

2  血清不投与と節子の死亡との因果関係の有無

(一) 被控訴人らの主張

節子は、マムシ咬傷によって時間とともに腫脹が広がっていき、最終的には大腿部にまで達して死亡したもので、マムシ咬傷と節子の死亡との間に因果関係があることは明らかであるところ、小寺医師が、前記1の(一)で主張した時期までに血清を投与しておれば、血清のマムシ毒の中和作用からして、節子は死亡を免れていた。

したがって、節子は、小寺医師の血清不投与の過失によって死亡したものである。

(二) 控訴人の主張

血清が投与されても死亡する症例や、重症症状を呈しながらセファランチンのみで治癒した症例が報告されていることがらすると、仮に本件診療の過程において血清が投与されていたとしても、節子が救命されたと断定することはできない。

3  節子の死亡による損害の発生とその額

右の点についての被控訴人らの主張は、原判決一〇枚目裏五行目から同一一枚目表九行目までのとおりである(但し、原判決一〇枚目裏八行目の「相続した。」を「相続したが、常政がその後死亡し、その相続人は被控訴人ら四名であるので、結局、被控訴人ら四名が、右損害賠償請求権を被控訴人喜彦及び同洋子が各三分の一、同史子及び同康仁が各六分の一の割合で相続した。」と改める。)から、これを引用する。

三  当裁判所の判断

1  争点1(血清不投与の過失の有無)について

前記二の〔請求の前提となる事実関係〕として認定した事実によると、本件病院は、七月二一日午後二時頃、医療機関として、節子に対し、そのマムシ咬傷の診療を引き受け、小寺医師がその担当医師として治療に当たったが、節子は、同月二四日午後一〇時頃から容態が急変し、翌二五日午前一〇時四五分にマムシ咬傷によって発症したDICによる急性心不全で死亡したものであり、小寺医師は、右治療において、節子に対し血清の投与をしなかったものである。

被控訴人らは、小寺医師には本件咬傷の治療に当たって血清を投与しなかった過失があると主張し、これに対し、控訴人は、小寺医師は血清を投与しなかったが、血清に代わる治療薬であるセファランチンを投与して本件咬傷の治療に当たったもので、このような治療方法も、本件診療当時の医療水準に照らして、医師に許された裁量の範囲内の治療方法であり、小寺医師に過失はないと主張する。

ところで、疾病の診療に当たる医師は、人の生命健康を管理する業務に従事するものであるから、危険防止のため、実験上必要とされる最善の注意をする義務があるが、右注意義務の基準となるべきものは、診療当時の臨床医学の実践における医療水準であると解され、したがって、疾病の診療に当たった医師が、右医療水準に適合する診療方法で診療をした場合には、仮に結果として患者に死亡等の損害が生じたとしても、過失があるものということはできず、反面、その診療方法が右医療水準から逸脱するものであった場合には、過失あるものとして、これによって生じた損害の賠償責任を免れないものというべきである。

そうすると、小寺医師に血清不投与の過失があったか否かを判断するためには、マムシ咬傷治療における治療薬としての血清の投与もしくは不投与に関する本件診療当時の医療水準を確定する必要があるので、まず、右医療水準確定の前提となる諸点、すなわち、マムシ毒の作用とマムシ咬傷の症状((一))、治療薬としての血清又はセファランチンを中心としてのマムシ咬傷に対する治療方法とその動向((二))につき考察したうえ、この考察の結果を踏まえて、本件診療当時における右医療水準を確定し((三))、最後に、右医療水準に照らして、小寺医師に血清不投与の過失があったか否か((四))につき検討することとする。

(一)  マムシ毒の作用とマムシ咬傷の症状

甲第二号証の一、二、第五、第七、第八号証、第一一、第二四、第二五、第三五号証、乙第一四、第一八、第二三、第二五、第三〇、第三二、第三六、第三八、第三九、第四一、第四八、第五一、第五二、第五七、第五九、第六〇、第六八、第六九号証、第七三号証によれば、次の事実が認められる。

(1) マムシ毒の作用

マムシ毒は、種々の酵素から成り、未だその成分及び作用は完全には解明されていないが、その主な作用は出血作用であり、咬傷部の毛細血管を破壊して出血を起こし、ときには組織を壊死させることもある。骨格筋との親和性が高く、心筋、外眼筋との親和性もあるとされている。また、血管透過性を亢進させる作用、血圧降下作用、赤血球を破壊する溶血作用、更には血液抗凝固作用が認められている。

(2) マムシ咬傷の症状

マムシ咬傷の症状は、局所症状と全身症状に区分でき、局所症状としては、咬傷部位に普通二個の牙痕があり、咬傷後三〇分もすると咬傷部位を中心とした腫脹と痛みが必発症状であり(この腫脹と痛みの症状がない場合は、たまたま毒が注入されなかったことになる。)、腫脹は時間の経過とともに体の中枢側に広がる傾向がある。そして、全身症状としては、複視・霧視等の眼症状、悪心、吐き気、嘔吐、発熱、頭痛、腹痛、下痢、眩暈、瀕脈、瀕呼吸、呼吸困難、胸内苦悶、意識混濁、血圧低下、血尿等があるとされているが、必ずしも一定せず、また、腫脹が高度となるほど全身症状の発現が高率である一方、軽症例では全身症状を全くみないことが多いとされている。

症状の軽重は、注入された毒素の量によって左右されるが、マムシ咬傷では、一般的に一回の咬傷で注入される毒量が少ないため、ほとんどの場合軽症で治癒し、重症化する例は少なく、死亡率は、マムシ咬傷患者一〇〇〇人ないし一五〇〇人に一人、あるいは同一万人ないし一万五〇〇〇人に一人ともいわれているが、定かではない。

また、マムシ毒による症状は亜急性に進行するため、初診時もしくは早期に重症化する症例か否かを診断することには相当に困難があるとされていて、死亡の結果も咬傷後数日経過して起こり、その死因は、急性腎不全とする報告例がほとんどであるが、DICや急性心不全などによる死亡例も報告されている。

なお、マムシ咬傷による症状の軽重の分類については、数多くの臨床例を集めて、これをセファランチンの効用の観点から分析、検討を加えた医学文献において、局所症状である腫脹の程度と全身症状の有無を基準として次のような分類が発表されている。すなわち、①腫脹が牙痕部より二大関節以内の症状のものを軽症、腫脹が二大関節を超えた症状のものを中等症、霧視、複視、眼瞼下垂、ショック、腎不全などの全身症状を伴うものを重症とする分類(乙第三七号証)、②咬まれた局所のみの発赤・腫脹をⅠ度、手関節又は足関節までの発赤・腫脹をⅡ度、肘関節又は膝関節での発赤・腫脹をⅢ度、一肢全体に及ぶ発赤・腫脹をⅣ度、それ以上の発赤・腫脹又は全身症状を伴うものをⅤ度とする分類(乙第五一号証。なお、この文献では、Ⅴ度の症例として、手背を咬まれて前胸部まで腫脹が及んだもの一例と第一指を咬まれて上腕まで腫脹が及び、全身症状として複視を訴えたもの一例があったとしているが、「幸い当院においては重症例ないし死亡例が一例もなく、すべて中等〜軽症であった。」と総括しているので、Ⅴ度に属する症例が当然に重症例であるとの趣旨ではないことが窺われる。)、③腫脹が牙痕部より一大関節以内の症状のものをⅠ度、腫脹が牙痕部より二大関節以内の症状のものをⅡ度、腫脹が牙痕部より三大関節以内の症状のものをⅢ度、腫脹が牙痕部より三大関節以上の症状のものをⅣ度、複視などの全身症状を伴うものをⅤ度とする分類(乙第五七号証。なお、この文献では、Ⅴ度に属する症例を重症例とするもののようである。)、④咬まれた局所のみの腫脹をⅠ度、手関節又は足関節までの腫脹をⅡ度、肘関節又は膝関節での腫脹をⅢ度、一肢全体に及ぶ腫脹をⅣ度、一肢を超える腫脹をⅤ度とする分類(乙第六九号証。なお、この文献は、本件診療後の平成三年に発表されたものであるが、その中で、Ⅰ度からⅢ度までを軽症と呼び、Ⅴ度に属する六症例のうち、「高度の腫脹、骨格筋の破壊、急性腎不全、肝機能障害、呼吸不全を来した重症例は二例みられた。」(右重症例二例のうち一例は死亡例)としているので、Ⅴ度に属する症例全部を当然に重症例とする趣旨ではないことが窺われる。)などである。また、セファランチンの効用のための臨床例の分析検討を目的としない他の医学文献において重症例として紹介されている症例は、そのほとんどが、腫脹が高度であるとともに、血尿、急性腎不全や呼吸不全などの強い全身症状を伴うものであった(乙第三九、第五九号証など)―以上のような医学文献からすると、マムシ咬傷の重症とは、一般には、腫脹が高度であるとともに、急性腎不全や呼吸不全などの強い全身症状を伴った場合を指すものとして理解されているものと解される―。

(二)  マムシ咬傷に対する治療方法とその動向

本件診療当時において、マムシ咬傷に対する治療薬としては、通常、血清又はセファランチンが投与されていたことは前記のとおりであるが、甲第三ないし第五号証、第六号証の一、二、第七ないし第一二号証、第一三号証の一ないし五、第一四、第一五号証の各一ないし四、第一七ないし第一九号証、第二〇ないし第二二号証の各一、二、第二三、第二四、第三五号証、乙第一四ないし第一六、第一八ないし第二五、第二七ないし第四二、第四四号証の一、二、第四五ないし第五七、第五九ないし第六一、第六三ないし第六九、第七二ないし第七五、第七八、第八一、第八二号証、証人小寺正人、同小谷穰治の各証言によれば、次の事実が認められる。

(1) 血清とこれを投与しての治療法について

血清は、馬の血清中に出来た抗体を取り出して精製濃縮したものであって、生体内のマムシ毒素と特異的に結合してこれを中和する作用があるため、我が国においては、マムシ咬傷に対する最も根本的な治療薬として戦前から使用されてきており、本件診療当時はもとより、現在においても、血清の右薬理作用とこれを投与しての治療法(血清療法)の有効性は肯定されていて、これに疑問を呈する見解は皆無に等しく、本件診療当時においてマムシ咬傷に対する治療薬として広く使用されていた。

しかし、血清には、マムシ毒素が生体組織に作用して発生させた症状(障害)を治癒する作用がなく、かつ、血清の有する前記薬理作用は、マムシ毒素が血管内にある間に投与されなければほとんど期待できないため、血清は、咬傷後できるだけ早く投与する方が効果が大きいとされ、血清投与の効果を期待できる時間的な限界は、咬傷から概ね六時間程度(以下「血清投与時間」という。)であるとされ(なお、血清投与時間については、これまで発表された諸見解にはかなり差異があり、①咬傷後六時間以内であれば効果があるとする文献(甲第五号証、乙第五三号証、乙第六九号証がその注8及び注9で引用する文献―乙第六九号証は、本件診療後に発表された文献であるが、右引用文献は、本件診療前に発表された―)、②咬傷後一時間以内でないと著効が期待できないとする文献(甲第六号証の二及び同第一二号証並びに同第二三号証―いずれも同一執筆者・沢井芳男の論文―、乙第五二号証)、③咬傷後数時間以内に投与すれば十分効果があるとする文献(甲第三四号証―沢井芳男の論文で、「血清は血中に遊離している毒素をできるだけ早く中和して毒作用の進展をくいとめるのが目標であるから、受傷後一時間以内に用いるのが理想であるが、少なくとも数時間以内に行われる必要がある。」とするので、同一執筆者の甲第六号証の二等の文献もこの趣旨であると解される―、乙第三九号証)があり、④咬傷後七時間後に血清を投与して効果があったとする文献(乙第四六号証)もあるが、右①、③及び④の文献に甲第二号証の一、二を総合して、血清投与時間を概ね六時間以内であると認定するのが相当である。)、そのような認識が臨床医の間で一般的であった。

ところで、血清は、人体にとって異種蛋白であるため、人体に投与した場合には、副作用として、アナフィラキシーショックの発生や血清病の発病がある。そして、そのうち、血清病は、その発症率が一〇パーセント前後とされていて相当に高率であるが、ステロイド剤や抗ヒスタミン剤等の投与で格別の後遺障害を残さずに治癒させることができるとされている。また、アナフィラキシーショックは、血清投与後二、三分ないし三〇分位で発症する急性の全身ショックで、血圧低下、呼吸困難、不安感、顔面蒼白、冷汗、頻脈、意識障害等の症状を来し、その発生率は0.1パーセント以下とするものから、約五パーセントとするものまで種々あるが、即時に適切な治療を施さないと死亡することもある重篤な副作用であるため、一般の医療機関の医師の間では、その発症の有無につき重大な関心がもたれ、その発症を強く警戒している状態にある。アナフィラキシーショックの発症の有無を確実に予知する方法は、現在まで開発されておらず、血清投与前に過敏性テストをしてその発症をある程度予知することが可能であるとされ(もっとも、過敏性テストは、その結果が陽性であってもアナフィラキシーショックが発生しないことがある反面、陰性であってもアナフィラキシーショックの発生することがあって、確実なものとはいえないが、他にアナフィラキシーショック発生の有無を予知するための適切な方法がないため、血清の能書には、血清投与前に、所定の過敏性テストをすることを指示する記載がされている。)、アナフィラキシーショックが発生した場合は、アドレナリンやステロイド剤等の投与が有効であるとされている。なお、マムシ血清の投与によるアナフィラキシーショックの発症による死亡例の報告は見当たらないとされているが、一般に薬物等のアナフィラキシーショックの発症による死亡率は五パーセント程度であるとされている。

ところが、血清には、これを人体に投与した場合において、前記のとおりアナフィラキシーショック等の副作用があることに加えて、価格が高く、また、保管が困難であり、しかも血清投与時間内の入手が必ずしも容易でないことなどから、血清を投与しない治療方法が種々模索されるようになった。

(2) セファランチンとこれを投与しての治療法について

セファランチンは、台湾で毒蛇咬傷患者に対する民間療法として用いられていた植物・タマサキツヅラフジの根茎から抽出されたビスコクラウリン型アルカロイドであるところ、昭和一三年及び昭和一六年には、セファランチンがハブ毒の溶血作用を阻止することを明らかにする基礎実験の結果が発表され、次いで昭和二七年には、セファランチンがハブ咬傷及びマムシ咬傷の治療薬として有効であった旨の臨床報告がそれぞれ発表され(乙第一八号証)、その後、セファランチンは、徐々にマムシ咬傷の治療薬として、臨床医の間で、血清に代わるものとして単独で又は血清との併用で投与されるようになり、昭和二九年以降、血清の代わりにセファランチンを投与してマムシ咬傷の治癒に成功した旨の臨床報告が臨床医向けの医学雑誌に発表されるようになり(昭和二九年発表の乙第一九号証、昭和三〇年発表の乙第二一号証、昭和五八年発表の乙第四八号証)、特に昭和四〇年代後半以降、多数の臨床例に基づいて、マムシ咬傷患者に対する血清投与による治療例と血清非投与・セファランチン投与による治療例との症状経過を比較検討したうえで、両者の治療経過には決定的な差異はなく、血清がマムシ咬傷患者に対する治療に不可欠ではなく、セファランチンの投与で十分であった旨の臨床報告が、臨床医によって、相次いで、臨床医を対象とした医学雑誌に発表されるようになり(昭和四六年発表の大橋忠敏らによる乙第二九号証を嚆矢として、昭和五三年頃発表の中安清らによる乙第三五号証、昭和五四年発表の山森積雄らによる乙第三七号証、昭和五六年発表の都築靖らによる乙第四〇号証、昭和六〇年発表の崎尾秀彦らによる乙第五一号証及び前田長生らによる乙第五四号証、昭和六一年発表の左野千秋による乙第五七号証)、本件診療当時においては、一般の医療機関の医師によって、マムシ咬傷に対する治療薬としては、セファランチンも、相当に広く使用されていた。

昭和五〇年頃には、セファランチンのマムシ毒による溶血(赤血球の破壊)作用の阻止が、セファランチンの細胞膜の安定化作用によるものであることが明らかにされ(乙第三一、第三三号証)、なお、本件診療後の平成三年には、セファランチンの作用機序が血清と異なり致死量近辺のマムシ毒に対して動物実験で極めて有効なことを確認した旨の報告が発表された(乙第七八号証)が、未だ、マムシ毒素の出血作用に対する有効性を裏付ける薬理学的、病理学的解明は十分になされていない(沢井芳男は、自らもその一員として実施したセファランチン及び血清のマムシ毒に対する抗毒作用についての試験管内中和実験及びマウスを使っての生体内中和実験において、血清はマムシ毒の局所出血作用を抑えたが、セファランチンには抗毒作用が全く認められなかったとして―右実験結果は、昭和六三年に甲第一九号証として発表された―、この実験の結果も踏まえて、血清を投与することなく、セファランチン投与だけで、マムシ咬傷を治療しようとするセファランチン療法には疑問があって左袒できないとする見解を表明している(甲第三四、第三五号証。同第一八号証・海老沢功(京浜急行診療所医師)執筆分も同旨。)が、乙第七八号証及びセファランチンをマムシ咬傷の治療薬として有効であったとする多数の前記した臨床報告に照らして、セファランチンに、マムシ毒の中毒作用を抑制する効果が全くないとは断定し難い。)。

なお、セファランチンにはマムシ毒素を中和して無効化する作用はなく、また、セファランチンの単独投与及び血清との併用による副作用は特にないとされている。

(3) このような経緯を経て、本件診療当時においては、マムシ咬傷患者に対する治療法としては、血清の投与(血清療法)のほか、血清を投与せずにセファランチンのみの投与(セファランチン療法)も相当広く行われていた状態にあった(マムシ咬傷の治療薬としては血清が唯一有効なものであって、セファランチンは無効である旨精力的に説いている沢井芳男(日本蛇族学術研究所)も、昭和六三年に発表した論文「セファランチン及び抗毒素血清のマムシ毒に対する抗毒作用について」(甲第三三号証)において、「最近になり、タマサキツヅラフジから抽出された『セファランチン』がマムシ咬症の治療に有効であり、血清療法は不要であるという考え方が医師の間に広がりつつある。」との認識を表明している。)。

そして、血清が投与されたマムシ咬傷患者にも急性腎不全等の重篤な症状を併発し、場合によっては死亡する例があることから、マムシ咬傷患者については、セファランチンのみが投与された場合はもとより、血清が投与された場合でも、十分な経過観察をし、急性腎不全等を発症した場合には、人工透析などの適切な対症療法を講ずる必要があるものとされている。

(三)  本件診療当時における医療水準

前記(一)及び(二)の事実関係を前提として、マムシ咬傷治療における治療薬としての血清の投与もしくは不投与に関する本件診療当時の医療水準について、具体的に考察する。

(1) 前記(一)及び(二)の事実によると、次のことが指摘できる。

① マムシ咬傷患者の症状は、軽症もしくは中等症のものが圧倒的多数であって、重症化するものは少数であること

② そして、マムシ毒による症状の進行は、亜急性であるため、咬傷後あまり時間が経過していない初診時はもとより、血清投与時間内において、その症状が軽症もしくは中等症の程度で止まるものか、重症に移行するものかの診断にはかなりの困難があること

③ 本件診療当時、血清については、マムシ毒を中和して無毒化する作用があって、その有効性は既に多くの文献によって明確にされ、その投与がマムシ咬傷に対する根本的な治療法であることが承認されていたこと

④ しかし、血清には、咬傷後概ね六時間以内に投与されなければ、マムシ咬傷に対する治療薬としての効果が期待できないという時間的制約(血清投与時間)があること

⑤ また、血清を投与した場合には、副作用として血清病やアナフィラキシーショックの発症の危険があり、しかも、本件診療当時、右副作用の発生予知の目的で行われていた過敏性試験の信頼度は低く、副作用の発生を予知するための確実な方法はなかったこと

⑥ 本件診療当時、セファランチンについては、マムシ毒による溶血作用を阻止する作用が有り、マムシ咬傷の治療薬として一定の薬理的効果があるものと認められていたこと

⑦ そして、本件診療当時までには、血清の代わりにセファランチンを投与してマムシ咬傷の治癒に成功した旨の臨床報告を内容とする医学文献が相当多数発表されていたこと

⑧ 血清とセファランチンとは、マムシ毒の人体に対する中毒作用を抑制する作用機序を異にし、かつ、両者を併用投与しても、特別な副作用の恐れはないこと

⑨ しかし、セファランチンについては、マムシ毒を中和する作用の存在が否定されているうえ、マムシ毒の人体に対する中毒作用を抑制する作用機序の解明が十分されておらず、そのため、本件診療当時はもとより、現在でも、セファランチンは、マムシ咬傷の治療薬として無効であるとする見解が一部で有力に主張されていること

⑩ 本件診療当時においては、マムシ咬傷患者に対する治療法として、血清療法のみならず、セファランチン療法も相当広く行われていたこと

⑪ マムシ咬傷に対する治療法として血清療法もしくはセファランチン療法(血清及びセファランチンの両方を投与する場合もある。)が行われても、腎不全を発症するなどして重症化することもあるので、経過観察を十分にして、重症化した場合には、救命のために人工透析などの適切な対症療法を行う必要があること

(2) ところで、マムシ咬傷に対する血清療法又はセファランチン療法についての本件診療当時における専門家の見解等は、甲第五号証、第六号証の一、第七、第一二、第二三号証、乙第一四、第二一、第二四、第二七ないし第二九、第三四、第三五、第三八、第三九ないし第四二号証、第四四号証の一、第四五、第四七、第五〇ないし第五三、第五五、第五七、第六一、第六八、第七三号証、証人小寺正人、同小谷穰治の各証言によると、血清の投与の必要性に関する相違を中心として、次のとおり三つに大きく分類されるものと認められる。

ⅰ マムシ咬傷によるマムシ毒の注入が確認されたら、できるだけ早い時期に血清を投与すべきであるとする見解

この見解は、研究者や臨床医を執筆者とする甲第六号証の一及び第一二、第二三号証・いずれも沢井芳男(日本蛇族学術研究所長)執筆、同第七号証・丸山征郎(鹿児島大学医学部教授)ほか執筆、同第五号証・真喜屋実佑(沖縄県立那覇病院)執筆、乙第一四号証・小菅隆夫(群馬大学医学部第一病理学教室)執筆、同第二七号証・舘野功(東大伝研内科)執筆、同第三四号証・小中和一(小中病院外科)執筆などの医学文献(このほか、同第四一、第四二、第四五、第五二号証も同旨。第三八号証はほぼ同旨か。)に発表された見解であって、(1)の②、③、④を主な根拠とし、⑤で指摘されている血清投与による副作用の点については、その発生の予防又は発生した副作用を治癒させるための有効な治療法の存在を挙げて、血清投与の支障とはならないとする。

ⅱ マムシ咬傷患者に対する治療には、血清の投与は不可欠ではなく、セファランチンの投与で十分であるとする見解

この見解は、臨床医を執筆者とする乙第二一号証・小池脩(公立豊岡病院)執筆、同第二九号証・大橋忠敏(青梅市立総合病院外科)ほか執筆、同第五一号証・崎尾秀彦((茨城)県西総合病院外科)ほか執筆、同第五七号証・左野千秋(壱岐公立病院外科)執筆などの医学文献(このほかに同第二四号証は同旨、同第三五号証は同旨か。)に発表された見解であって、(1)の①、④ないし⑦を主な根拠とする。

ⅲ マムシ咬傷患者に対する治療には、原則としてセファランチンの投与などによる治療で十分であって、血清の投与は必要ではないが、重症の場合等一定の要件(血清投与要件)が備わった場合には、血清投与の必要があるとする見解

この見解は、別紙「血清投与要件に関する一覧表」記載の研究者や臨床医によって執筆された医学文献に発表された見解であって、ⅱの見解が根拠とする(1)の①、④ないし⑦に加えて、(1)の③及び⑧の点も根拠とする。

そして、右医学文献において表明されている血清投与要件は、別紙「血清投与要件に関する一覧表」記載のとおり様々であるが、実質的には、血清投与要件について具体的に言及していないもの(bの見解)を除いて、概ね、マムシ咬傷の症状が重症もしくは重症化が予想されるものである場合には血清を投与して治療に当たるべきである、と要約できるものと解される。

以上のとおりであるが、右ⅱの見解は、これを表明する医学文献の数がⅰ及びⅲの見解を表明する医学文献に比べて少ないうえ、そこに紹介あるいは報告されている臨床例中には重症マムシ咬傷例の数も多くなく、しかも、ⅱの見解を表明している前記各医学文献中、重症の場合でも明瞭に血清投与の必要性を否定するのは乙第五七号証のみであり、他は、その内容からしてマムシ咬傷患者の症状が重症の場合であっても、何らの留保もなく、セファランチンの投与等だけで十分であって血清の投与を必要としないとする趣旨まで表明しているものであるかについて疑問の余地がある(例えば、乙第二九号証は、五〇の臨床報告を検討した結果に基づくものであるが、検討された臨床例中には重篤な症状を呈したものはなかった旨述べられているし、乙第五一号証も、一応ⅱの見解を結論としているが、「実際問題として、症状に応じた治療法の選択が必要なのか否か、すなわち重症なものは血清を投与し、中等もしくは軽症なものは、その他の一般的な治療法でよいのか、果たして前述した血清非投与の場合の各種治療法が果たしてどの程度有効なのか等、今後の検討課題であろう。」と述べているのである。)から、ⅱの見解が、ⅲの見解が問題としているような血清投与要件のある場合にも血清の投与の必要を否定する趣旨のものとして、一般の医療機関の医師の支持を得ていて、一般の医療機関の医師がこの見解に基づいてマムシ咬傷患者の治療に当たっていることを推認させるほどの医学文献の発表や症例の蓄積があるものとは認められない。

これに反して、ⅰの見解は、これを表明する医学文献の数も多数に上るうえ、何よりも、血清のマムシ毒に対する中和作用の理論的明確さとそれに基づく長年の投与実績等の前記(二)の(1)の事実によって、この見解が、本件診療当時においても、一般の医療機関の医師の多くの支持を得ていて、この見解に基づいてマムシ咬傷の治療がなされていたことは明らかである。

また、ⅲの見解も、これを表明する医学文献の数が相当多数に上ること及びセファランチンのマムシ毒に対する一定の薬理効果の存在とそれに基づく投与実績等の前記(二)の(2)の事実を総合すると、この見解も、本件診療当時において、一般の医療機関の医師の相当多くの支持を得ていて、この見解に基づいてマムシ咬傷の治療がなされていたことも認められる。

(3) マムシ咬傷に対する血清療法又はセファランチン療法についての専門家の見解等に関する右(2)の事実関係に加えて、マムシ咬傷の治療法ないし治療薬としての血清とセファランチンの効用上の差異とこれに対する専門的な評価について前記(1)に指摘されている諸事情(殊に、血清は、血清投与時間内に投与されれば、マムシ毒を中和して無毒化する作用があるとして、その有効性は既に多くの文献によって明確にされ、その投与がマムシ咬傷に対する根本的な治療法であることが広く承認されていたこと、他方、セファランチンは、マムシ毒に対して前記した一定の薬理効果があることは認められるものの、その作用機序が必ずしも明確でないうえ―そのために、セファランチンがマムシ咬傷の治療薬として無効であるとする見解も存在するのである。―、その効果は、マムシ毒を中和して無毒化する作用にはなく、細胞膜の安定化という防御的なものであって、血清とは作用ないし効果を異にし、しかも、セファランチンは、血清と併用しても、そのことによって格別の副作用の発生がないとされていたこと)、及び人の生命健康を管理する業務に従事する医師に対して課せられた前記「危険防止のために実験上必要とされる最善の注意をする義務」に照らして、マムシ咬傷の治療に当たる医師には、マムシ咬傷患者の症状が重症もしくは重症化を予想させる症状となった場合には、症状の改善又は悪化防止を図るための最善の努力を尽くすべきことが求められることを勘案すると、本件診療当時においては、マムシ咬傷の治療を担当した医師は、マムシ咬傷に対し、前記ⅰの見解に従って当初から血清を投与して治療に当たり、又は、前記ⅲの見解に従ってセファランチンを投与して治療に当たることを原則とするが、それにもかかわらず、重症もしくは重症化が予想される症状となったときには、症状の改善又は悪化防止を図るために、血清を投与して治療に当たるとするのが、前記した実践としての医療水準であったものと解される。

(4) そこで、前記ⅲの見解に従って治療に当たっていた場合における血清投与要件としての「重症もしくは重症化が予想される症状となったとき」とは、どのような症状を指すのかが問題となるが、前記(一)の(2)の症状分類における重症に関する一般的な考え方及び前記(二)の(2)の血清投与要件に関する医学文献の内容に加えて、ここでの「重症」とは、マムシ咬傷の治療法として有効性の承認されているセファランチン療法が施されていることを前提としてのものであることも勘案すると、腫脹が高度であるだけでなく、急性腎不全、肝機能障害、呼吸不全などの重度の全身症状があって生命の危険や治癒後に障害が残る恐れのあるような重篤な症状のものをいい、「重症化が予想される症状」とは、右のような重篤な症状に移行する恐れを推測させる症状のあるものをいうものと解される。

そして、どのような症状があった場合に、重症化が予想される症状があるものというべきかであるが、前記のとおり、重症となるかどうかの主な要因は、注入されたマムシ毒の量によるのであり、その毒量が多いほど腫脹は高度となり、また、悪心、嘔吐等の全身症状の現れる確率が高くなる関係にあること、及び前記(3)冒頭掲記の各証拠及び乙第五九号証によれば、医学文献においても、「溶血や腫脹が強く、上行性に進行し、躯幹に波及する恐れのあるものや、全身症状が発現したもの」(乙第四七号証)、臨床症状として①強い神経症状(強度の頭痛、患肢のしびれ感・局所痛の強いもの)や眼症状(霞む、見にくい、まばゆい、複視など)を訴える場合、②血圧の動揺の著しい場合、③腫脹が上行し、躯幹に及ぶ場合、④肉眼的血色素尿がみられる場合など(乙第五九号証)と、腫脹の程度及び全身症状の有無とその内容が重症化予想の判断の指標となることを指摘するものが多いことが認められるから、腫脹の程度及び全身症状の有無とその内容をもって重症化予想の判断の指標とするのが相当であると解される。

(5) ところで、血清の投与によって人体に前記のような副作用、特に場合によっては死亡の結果を招来することもありうる重篤な副作用であるアナフィラキシーショックを発症させる恐れがあるのであるが、血清投与によるアナフィラキシーショック等の副作用の発生を予知する目的で実施される血清過敏性試験が陽性反応であった場合と血清の投与の適否に関しては、甲第二号証の一、二、第三、第五号証、第六号証の一、第一五号証の一ないし四、五、第二六、第三四号証、乙第二七、第二八、第三〇、第三八、第四〇、第四一、第五一、第五七、第五九、第六八、第七三、第七五号証、証人小寺正人、同小谷穣治の証言によれば、次の事実が認められる。

① 小寺医師が節子に投与しようとした血清は日本薬局方に収められている「乾燥まむし抗毒素『タケダ』」であるが、それに添付された本件能書の「禁忌」欄には、「血清過敏症を有する患者には禁忌である。ただし、本剤の使用が必須と認められる場合には、除感作処置を行うこと。」と記載されているところ、その「血清病の予防と治療」欄には、冒頭に「本剤の使用には、特に血清病に注意して、あらかじめ血清過敏性試験を行うこと。」と記載し、同欄中の「馬血清過敏性試験」の項には、皮内試験法と点眼試験法についての記載(皮内試験法に関しては、「一〇倍希釈液の0.1ミリリットルを皮内に注射して三〇分間注射局所の紅斑の発現及び血圧降下等の全身症状の有無を観察する。直径一〇ミリメートル程度の紅斑ならば軽度の過敏性とみなせるが、著しい血圧の降下、顔面蒼白、冷汗、虚脱、四肢末端の冷感、呼吸困難などの全身症状の発現は高度の過敏性である。」と記載。)があるうえ、「いずれかの試験を行い、反応陰性あるいは軽度の場合は、原液の1.0ミリリットルを皮下に注射して三〇分間同様に反応を観察し、異常のない場合には、所要量を全量筋肉内(皮内)又は静脈内にゆっくり注射する。なお、抗毒素治療既往歴又は高度の過敏歴の者に本剤の投与は危険であるが、やむを得ず投与するときは、次のいわゆる除感作処置を行う。」と記載がある。

したがって、本件能書の右のような記載を総合すると、本件能書では、血清は、その投与前に予め血清過敏性試験を実施し、反応が陰性あるいは軽度の場合を除いては、原則として投与してはならないが、その場合(血清過敏性試験で高度の過敏性と認められた者や血清治療の既往歴者など)でも、血清の投与が必須と認められる場合には、除感作処置を行ってから投与すべきであるとしているものと解される。

② そして、マムシ咬傷患者の治療に携わっている臨床医による臨床報告を内容とする医学文献中には、過敏性試験を実施して陽性反応があった場合や血清治療の既往歴者については、血清の投与を中止した旨報告するものが相当数存在し(乙第三〇号証―強陽性反応があった場合、乙第三八号証―血清治療の既往歴者の場合、同五一号証―陽性反応があった場合及び血清治療の既往歴者の場合、同五七号証―陽性反応があった場合および血清治療の既往歴者の場合、同五九号証―陽性反応及び強陽性反応があった場合)、太田マムシ咬傷死亡事件に関連して、弁護士法に基づく報告請求を受けた鳥取生協病院からは、血清皮内テスト陽性反応のため、血清を使用しなかった症例があった旨の報告もなされていた(甲第一五号証の三)。

また、臨床医向けの医学雑誌の中には、「血清投与に際しては、感受性テストを必ず実施し、感受性テストが陰性で、かつ、血清投与適応(マムシ咬傷後二時間以上経過して、重症全身症状―口渇、悪心、嘔吐、頭痛、胸内苦悶、瀕呼吸、瀕脈、ショックなど―がある場合)があれば、血清を静注し、感受性テストが陽性で、なお血清投与適応があれば、脱感作をする必要がある。」とする文献(乙第二八号証)、血清投与前に過敏性試験を行う必要があり、もし強陽性の場合は血清投与を差し控えなければならないことを説く文献(乙第三八号証)、血清過敏性試験が陽性の場合は、血清投与について脱感作が必要であることを説く文献(乙第四一号証)も存在する。

これらは、基本的には、血清の投与に関する本件能書の前記使用基準と同一の立場に立つものと解される。

③ 他方、血清過敏性試験を実施して陽性反応があった場合や血清治療の既往歴者について、敢えて血清を投与したとの臨床医による臨床報告を内容とする医学文献は見当たらない(血清治療の既往歴者の場合に血清が投与されて、血清病を起こしたとの事例を紹介するものに甲八号証があるが、これは報告者自ら治療に当たった事例ではない。)。

もっとも、臨床医向けの医学雑誌の中には、血清過敏性試験が陽性の場合又は血清治療の既往歴者の場合であっても、アナフィラキシーショックに対す準備をしたうえで敢えて血清を投与すべきであると説くもの(甲第五号証、第六号証の一、乙第二七号証、おそらく同旨と解される乙第四〇号証)、血清過敏性試験の反応結果には信頼性がないことを指摘したうえ、陽性反応であっても血清投与を止めるべきではないと説くもの(甲第二四号証。なお、同第二五号証も同旨を説く。)も少数存在するが、これらはいずれも脱感作の必要に言及するところがないので、本件能書の前記使用基準とは異なる立場に立つものと解される。

以上のような本件能書の記載内容、血清過敏性試験において陽性反応が認められた場合に血清不投与を報告する医学文献が相当数存在することに加えて、血清を投与した場合に発生する恐れのある副作用の一つであるアナフィラキシーショックは、その発生をみた場合には、即時に迅速かつ適切な対症療法を講ずる必要があり、処置を誤ると患者の死亡の原因ともなる重篤な副作用であって、一般の臨床医としては強く警戒している副作用であることも勘案すると、日本薬局方に収載された血清の本件能書に記載された前記使用基準は、一般の臨床医に広く受け入れられ、一般の臨床医においては、右使用基準を守って血清を投与するのが当然と受け止められていたものと認められる。

したがって、本件能書に記載された前記使用基準の内容も、一般の医療機関の医師にとっては、本件診療当時におけるマムシ咬傷患者に対する血清の投与もしくは血清不投与に関する基準としての医療水準をなしていたものというべきである。

そうすると、一般の医療機関の医師が、マムシ咬傷患者の治療に当たって、血清過敏性試験の結果が軽度とはいえない程度の陽性反応であった場合には、血清投与の適否を判断するに際しては、血清の投与による前記副作用が発生する危険があることを考慮しても、その症状に照らしてなお血清の投与が必要かつ相当な場合(血清投与適応の存在する場合)であるか否かを検討し、その結果、血清投与適応の存在が認められない場合には、血清を投与せずにマムシ咬傷患者の診療をしても、当該医師に過失があるということはできないと解すべきである(したがって、マムシ咬傷患者の症状が血清投与時間内に重症化が予想される状態になったとしても、なお血清投与適応が認められないとして、血清を投与しないで診療することが許される場合があることになる。)。

(6) 以上によると、本件診療当時のマムシ咬傷患者に対する治療法における治療薬としての血清又はセファランチンの投与に関する医療水準は、前記(3)に認定した医療水準を右(5)に説示した事情を加えて修正したもの、すなわち、「マムシ咬傷に対し、血清を投与して治療に当たることも、血清を投与せずにセファランチンを投与して治療に当たることも許されるが、血清を投与せずにセファランチンを投与して治療に当った場合において、マムシ咬傷による症状が悪化して重症となったとき又はその重症化が予想される症状となったときには、症状の改善及び悪化防止のために、血清を投与して治療に当たるべきである。しかし、マムシ咬傷による症状が悪化して重症となったとき又はその重症化が予想される症状となったときであっても、血清過敏性試験の結果が軽微とはいえない程度の陽性反応を示し、しかも、前記した血清投与適応の存在が認められない場合(以下、この場合を『血清の投与を相当としない特段の事情のある場合』という。これには、血清投与時間を経過しているため、血清を投与してもその効果が期待できないときも含まれることになる。)には、血清を投与しないで治療を継続することも許される。」(以下、これを「本件医療水準」という。)、というものであったと認めるのが相当である。

(四)  小寺医師の過失の有無

そこで、本件医療水準に照らして、小寺医師の血清不投与が過失に当たるか否か検討する。

(1) 節子のマムシ咬傷による症状の経過は、先に詳細に認定したとおりであって、節子のマムシ咬傷による症状は、本件病院での初診当時においては軽症と判断される程度であったが、その後症状が悪化して重症となり、ついにマムシ咬傷により発症したDICに原因する心不全によって死亡したものであったところ、前記認定にかかる症状の経過に照らして、節子が重症となったのは血清投与時間を大幅に経過した七月二二日午前六時以降であったことは明らかである。

そこで、節子の診療を担当した小寺医師において、何時の時点で、節子のマムシ咬傷の症状が重症化することを予想できたか否かについて検討するに、前記認定にかかる症状の経過によると、節子は、昭和六三年七月二一日午後一時四〇分頃にマムシに右手甲を咬まれ、同日午後一時五八分頃本件病院に搬入され、直ちに、マムシ毒の排毒及びセファランチンの静脈注射や点滴静注の処置を受けて入院したのであるが、マムシ咬傷による腫脹は、初診時には右手首から末梢だけであったのに、午後二時二〇分頃には右前腕の中間辺りまで広がり、午後三時三〇分頃には右肘関節部辺りまで、午後五時四五分頃には右肘関節と右肩関節の中間辺りまで進行し、紫色を呈し、肘の辺りまで出血斑も観察され、その間終始、患肢の痺れ感や鈍痛を訴え、しかも、午後五時三〇分頃には、節子は食事中に嘔吐し、その後、午後六時頃から午後七時一五分頃までの間、節子は、四回にわたって嘔吐し、また、患肢の腫脹は、更に体幹方向に進行し、午後七時一五分頃には、右肩辺りにまで及んでいて、青紫色を呈し、依然として患肢のしびれを訴え、全身色は不良であったこと、そのような症状経過のなかで、小谷医師は、午後五時四五分頃、腫脹がマムシ咬傷部位から体幹方向に進行するマムシ毒による腫脹の進行速度が速く、かつ、嘔吐もあったことから、節子のマムシ毒による症状は重症化する恐れがあると判断し、節子に対し血清の投与を考え、血清投与に伴う過敏性反応の有無を調べるための皮内テストの実施を看護婦に指示したことが認められるから、小寺医師が、節子につき重症化の恐れがあると判断した二一日午後五時四五分頃には、節子の症状は、前記した重症化予想のための判断指標に照らしても、重症化を予想させるものであったというべきである。

なお、小寺医師は、節子の右嘔吐が当時点滴液に入れていたビタミン剤(ネオラミン3B)のためではないかと考え、点滴静注中の右ビタミン剤入りの点滴液から右制吐剤入りの点滴液に取り替えさせたものであるところ、乙第八〇号証によると、右ビタミン剤には、副作用として、「まれに悪心・嘔吐等の症状が現れることがある」との指摘があることが認められ、また、点滴液を右ビタミン剤入りのものから右制吐剤入りのものに取り替えた後には、なるほど節子が嘔吐することは実際にはなかったのであるが、他方、点滴液を右ビタミン剤入りのものから右制吐剤入りのものに取り替えた後も二時間余りは、節子の嘔気が持続していたのであり、かつ、マムシ毒による全身症状の一つとして嘔吐や吐き気が挙げられていることも勘案すると、節子の右嘔吐は、ビタミン剤の投与による副作用及びマムシ毒の節子の身体に与えた作用が競合して引き起こされた症状であったと解され、したがって、嘔吐の副作用が指摘されているビタミン剤が節子に投与されていたことをもっては、小寺医師が節子につき重症化の予想をすることができた時期に関する右判断を左右するものではない。

そうすると、前記した本件医療水準に照らすと、小寺医師は、節子につき重症化の恐れがあると判断した七月二一日午後五時四五分頃には、節子の罹患した本件マムシ咬傷に対する治療として、血清の投与を相当としない特段の事情のない限りは、節子に対して血清を投与するべき義務があったことになる。

(2)  そこで、血清の投与を相当としない特段の事情の有無について検討するに、血清投与時間が咬傷後概ね六時間以内であることは前記のとおりであるから、七月二一日午後五時四五分頃の時点においては、血清投与に伴う過敏性テストを実施するために要する時間を考慮しても、右血清投与時間を経過することなく、血清の投与ができたことは明らかである。

しかし、小寺医師が、節子のマムシ毒による症状は重症化する恐れがあると判断して節子に対し血清の投与を考え、その直後に血清投与に伴う過敏性反応の有無を調べるために実施した皮内テストの結果は、一九ミリメートル×二一ミリメートルの大きさの発赤が認められたこと、血清に添付された本件能書の皮内試験法に関する前記記載に照らすと、右発赤は「陽性」と判定されるべきものであるが、その程度は、高度な過敏性反応というほどではないものの、軽度の過敏性反応とも言い難いもので、いわば中等度の過敏性反応であったというべきものであったから、本件医療水準の内容をなす前記使用基準によると、原則として、血清を投与してはならない場合に該当するものであった。

しかるところ、前記した節子の症状経過によると、七月二一日午後五時四五分頃の節子の症状は、腫脹は右上腕の中間辺りまで広がり、なお体幹側に進行している状態ではあったが、全身状態が良好で、血圧等も正常であったうえ、嘔吐については、当時点滴静注していたビタミン剤の副作用である可能性も否定できない事情もあったのであるから、小寺医師が、右午後五時四五分頃の節子の症状に照らして、なお症状の推移を観察することとして(すなわち、前記血清投与適応がないと判断したことになる。)、血清の投与を中止したことには相当の根拠があったものというべきであり、したがって、右時点頃においては、血清の投与を相当としない特段の事情があったものと解される。次いで、その後同日午後七時一五分には、腫脹が右肩まで進行し、嘔吐も数回あって、マムシ咬傷の症状は悪化しつつあったのであるが、なお、節子の全身状態は良好で、血圧等も正常に推移し、嘔吐の点については右と同様の可能性があって、基本的には同日午後五時四五分頃の症状と変わらなかったのであり、小寺医師が同日午後一〇時頃に同日最後の診察をした段階でもこのような状態は変わらず(新たな嘔吐はなかった。)、腫脹の進行は停止したかのように判断された(実際にも、腫脹は、翌二二日午前六時頃までほとんど変化がなかった。)のであったから、小寺医師が、節子の症状が血清投与時間の限界である同日午後八時頃までに前記血清投与適応にあると判断せず、したがって、結局、節子に対し血清投与時間内に血清を投与することがなかったことにも、やはり相当な根拠があったため、血清の投与を相当としない特段の事情があったものというべきである。

そうすると、節子に対してはマムシ咬傷の治療薬としてその効能が認められているセファランチンが投与されていたのであるから、小寺医師が、血清過敏性試験の陽性反応を承けて、節子につき血清投与時間内に血清投与適応があると認めず、結局血清の投与をしなかったことに過失はなかったというほかない。

なお、節子の前記症状経過に照らすと、腫脹が右胸部まで及んだ七月二二日午前七時三〇分頃には、血清過敏性試験の陽性反応にもかかわらず、血清投与適応状態になったものと解されないではないが、この時点では、血清投与時間を大幅に経過していたのであるから、右時刻以降については、この点で、血清の投与を相当としない特段の事情があったことになるので、右時刻以降の血清不投与をもって小寺医師の過失ということもできない。

2  以上によると、本件診療において、小寺医師が節子に対し血清を投与しなかったことに過失があったということはできず、他に小寺医師の故意又は過失についての主張立証はないから、被控訴人らの請求は、その余の争点について判断するまでもなく、理由がなく、棄却するほかはない。

四  よって、本件控訴は理由があるから、原判決を取り消して被控訴人らの請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官長谷喜仁 裁判官三島昱夫 裁判官長門栄吉)

別紙<省略>

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