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広島地方裁判所 昭和53年(ワ)205号 判決 1981年1月27日

原告

石口春夫こと

李炳玉

右訴訟代理人

恵木尚

被告

右代表者法務大臣

奥野誠亮

被告

広島県

右代表者知事

宮澤弘

右被告両名指定代理人

原伸太郎

外七名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1、2、4項の事実及び原告が道路交通法違反(右1項記載のごとき右側部分通行)の公訴事実につき昭和五三年一月一三日竹原簡易裁判所で無罪判決の言渡しを受け、同判決は確定している事実は当事者間に争いがない。

二原告は、右無罪判決を受けたことから、本件検挙ならびに公訴提起及びその維持には担当警察官及び検察官らに過失があつた旨主張しているので、以下検討する。

1  本件検挙ならびに公訴提起及び無罪判決言渡に至る経過と無罪判決の理由

<証拠>によると、次の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(一)  昭和四九年四月二一日午后四時三〇分すぎころ、竹原警察署に所属し、交通取締に従事していた司法巡査大谷亮太、同萩原利明の両名が、竹原市西野町マルカツガソリンスタンド(以下単にマルカツという)において、たまたま洗車に来ていた有川正春及びマルカツの従業員(アルバイト)塔野岡和政らと雑談中、三原方面から広島方面(西方)に向つて国道二号線上を通行して来た普通乗用自動車(タクシー)が、他車を追抜くため、右マルカツ前路上が右側はみ出し禁止となつているのに、道路中央のセンターラインを越えて右側通行しているのを発見した。そこで大谷巡査らは右違反車両を検挙するため、直ちにそばに止めていたパトカーに乗車し、サイレンを鳴らしながら時速約八〇キロメートルで追跡を開始した。追跡開始当初前方約五〇〇メートルの地点に違反車両を認めたが、その後はカーブなどで見え隠れしながら追跡を続け、約三キロメートル進んで再びその前方約一キロメートルの地点に右違反車両と思える車両を発見したものの、間もなくこれも見失つた。そして、マルカツから約4.6キロメートル進んだ登坂車線にかかつた附近で追跡困難と判断し、萩原巡査がパトカー備付の無線で約4.1キロメートル先の広島県交通機動隊西条分駐所(竹原簡易裁判所での検証の結果によるとマルカツから分駐所までの距離は8.7キロメートルとされているので一応これに従つて右距離関係を示しておく)に対し、「そちらに向けて白色のタクシーが進行しているのでこれを停車願いたい」旨連絡した。手配を受けた西条分駐所では、三宅巡査らが道路上に出て手配車に注意していたところ、間もなく白色のタクシー(原告運転の芸陽タクシー、三菱ギャラン)が来たのでこれに停車を命じ、同分駐所前の空地に停車させ、それからさらに一分も経たないくらいの間に同じような白色タクシー(前垣貢児夫運転の府中タクシー、マツダカペラ)が来たのでこれにも停車を命じ、原告車両の前方(西方)に停車させた。次いで間もなくパトカーも現場に到着し、原告車両の後方に停車し、パトカーから降りて来た大谷巡査らは、原告車両を見るなり直ちに違反車両だと認定し、前方に停車中の府中タクシーはそのまま行かせた。原告は、違反事実についてやつていない旨否認したので、大谷巡査らは、原告を伴つてその車両とともにマルカツまで引返し、そこで前記有川、塔野岡両人に引合わせて違反車両及びその運転手であることを確認させたうえ、検挙するに至つたものである。

(二)  その後、右事件は昭和四九年五月一三日竹原区検察庁に送致され、所要の捜査取調べを経て、昭和五〇年八月二八日竹原区検察庁検察官において右公訴提起に至つたものであるが、その裁判提出証拠として当初用意された主要なものは次のとおりである。

(1) 違反現認(目撃)の状況を示す証拠として

(イ) 司法巡査大谷亮太作成の報告書及び検察官に対する供述調書

(ロ) 司法巡査萩原利明の検察官に対する供述調書

(ハ) 有川正春の司法巡査及び検察官に対する供述調書

(ニ) 塔野岡和政の司法巡査に対する供述調書

(2) 原告車両を停止させたときの状況を示す証拠として

(イ) 安部正二郎(西条分駐所勤務警察官)の検察官に対する供述調書

(ロ) 三宅邦雄(右同)の検察官に対する供述調書

(ハ) 尾杉武文(右同)の検察官に対する供述調書

(3) 原告車両の屋根上につけられたアンドンの状況を示す証拠として

住田憲治の検察官に対する供述調書

なお、原告は、当初から本件違反事実を犯していない旨、また府中タクシーを調べてくれ、府中タクシーに疑いがあるなどと主張し、芸陽タクシーの人事課長桧山を介し府中タクシーの当時の運転手が前垣であることを調査して検察官に連絡又その取調べを求め、検察官も、右府中タクシーの関係を明確にするため昭和四九年一一月ころ府中タクシーに電話で、その車種、車体の色、車上のアンドンの状況、運転手の服装等について問い合わせ右前垣なる運転手の照会もしたりして調査していたが、昭和五〇年七月ころ府中タクシーから電話で、右照会の運転手につき該当者なしとの回答を得(もつとも、この点は「前垣」を「前坂」と間違つて照会した結果かどうかはつきりせず、いずれにしても余り十分な照会あるいは調査がなされた形跡はうかがえない)、そのころさらに、検察官として府中タクシーの運転日報、タコグラフの領置、同タクシーと芸陽タクシーとの比較写真の撮影なども考慮したものの、結局、右も、原告車両のタコグラフはない状況では両者の比較ができず、余り意味がないと考えられたこと、府中タクシーと芸陽タクシーの車種、運転手の服装等の違いははつきりしているとみられたこと、原告車両が分駐所に先着していても府中タクシーを追越したなどの可能性が考えられることなどから、目撃者の供述が十分信用できるものと判断して、さらにそれ以上の取調べはしないまま同年八月本件公訴提起に至つたものである。

(三)  公訴提起後は、右検察官が書証として提出予定であつた証拠は大方不同意で、住田憲治を除き証人として取調べられ、現場の検証もなされたが、右府中タクシーの関係については、当該運転手前垣貢児夫を証人として取調べ、そのタコグラフチャート及び運転日報の検証もなされ、かつその鑑定(走行状況につき)もなされた。

そして、昭和五二年一二月一五日までの間竹原簡易裁判所で一〇回の公判の後昭和五三年一月一三日本件無罪判決言渡に至つたものである。

(四)  右無罪判決が、問題点として指摘し、かつ無罪とした理由の骨子はつぎのとおりである。

(1) 本件で検察官が有罪立証の決め手とする最重要証拠はいうまでもなく違反現場を目撃したとする前記大谷、萩原、有川及び塔野岡の各証言であるが、しかし、これらはいずれも時速7.80キロメートルで走行する車両をわずか二、三秒間目撃したというものであつて、違反車両の車名等を特定できる程には細かな特徴はつかめなかつたのではなかろうかとの疑問がまず提起される。

そして、大谷、萩原は違反現場と分駐所及びマルカツで、また有川、塔野岡は違反現場とマルカツでそれぞれ二回問題の車両を見ているが(後者の場合は静止しているのを目の前で意識して観察しているので鮮明に知覚されたものと思われる)、このような場合、「証人らの脳裏には、最初に目撃した不鮮明な知覚像と、二回目に目撃した鮮明な知覚像とが二重写し(オーバーラップ)となり、鮮明な像が不鮮明な像を補充・加工し、もはや最初に目撃したままの不鮮明な知覚像ではなくなつているという事態も十分考えられる。そのうえ、分駐所に停車していた二台のタクシーは、その停車位置が前垣車両が西方(前方)で原告車両が東方(後方)であつたことから、大谷巡査らには、後ろに止まつている車こそパトカーの直前を走つていた違反車両であるという予断があつたのではないか、そのため十分な確認もしないまま、直ちに後ろに止まつている原告車両を違反車両と特定したのではないか、そしてその後に、マルカツで有川、塔野岡の両人に対し、原告車両のみを見せていわゆる「面通し」的方法で、違反車両を確認したもので、このような確認方法では、あらかじめ「判断暗示」を受けた精神状態下でなされて、肯定の自己暗示に陥つていた危険性がなかつたともいえないのではなかろうか、とされる。

結局、これらのことから、本件の目撃証人四名の供述をもつてしても、なお違反車両が原告車両(三菱ギャラン)であるとする心証を得るにまでは至らない、とされる。

(2) そのうえさらに、本件違反車両は、以下の事実からして、むしろ府中タクシー(前垣車両)ではないかという疑いがあり、これを払拭し切れない限り、原告車両を違反車両と認めることは到底できない。

つまり、右事実とは、原告車両が前垣車両を追越す可能性につき検討してみるに、まずその前提事実としてつぎのような事実を想定する。すなわち、パトカーは前方を見え隠れしながら走行する違反車両を追跡中、これを見失つて分駐所に無線連絡したものであり、かつ、大谷巡査の供述によれば、「違反車両を追跡中違反車両とパトカーとの間に他の車が入つたということは、私の見た限りではありません」と述べていることから、追越したとすれば無線連絡した地点付近から西条分駐所までの間(4.1キロメートル)と考えざるを得ないとし、しかも、その追越しは、見透しの可能性という点から、パトカーの前方少くとも五〇〇ないし一〇〇〇メートル先(同地点から分駐所まで3.6ないし3.1キロメートル)を走つている違反車両が、そのさらに前方五〇〇メートル先(同地点から分駐所まで3.1ないし2.6キロメートル)を走つている府中タクシーを追越したものと仮定する。

そしてさらに、パトカーは時速八〇キロメートルとすると右無線連絡後分駐所まで三分を要し、関係者の証言、府中タクシーのタクグラフ等からして原告車両は府中タクシーより三〇秒ないし一分早く分駐所に到着し、かつ府中タクシーの当時の速度は平均的に時速七五キロメートル(秒速20.82メートル)とみられる。そこで、これらからして、おそらくは次のような算式で、もし原告車両が府中タクシーを追越したとした場合の原告車両の速度を算出してみることとする。

(イ) 原告車両がパトカーの前方五〇〇メートルを走つていて追越すとした場合府中タクシーの分駐所までの所要時間一四九秒(パトカーより三一秒早く到着したことになる)

3100m÷20.82m=149秒

(A)原告車両の所要時間(府中タクシーより一分早く到着する場合) 八九秒

149秒−60秒=89秒

原告車両の右の間の平均時速 一四五キロメートル

3600m÷89秒=40m/秒……145Km/時

(B)原告車両の所要時間(府中タクシーより三〇秒早く到着する場合) 一一九秒

149秒−30秒=119秒

原告車両の右の間の平均時速 一〇八キロメートル

3600m÷119秒=30m/秒……108Km/時

(ロ) 原告車両がパトカーの前方一〇〇〇メートルを走つていて追越すとした場合

府中タクシーの分駐所までの所要時間

一二五秒(パトカーより五五秒早く到着したことになる)

2600m÷20.82m=125秒

(A)原告車両の所要時間(府中タクシーより一分早く到着する場合) 六五秒

125秒−60秒=65秒

原告車両の右の間の平均時速 一七二キロメートル

3100m÷65=47m/秒……172Km/時

(B)原告車両の所要時間(府中タクシーより三〇秒早く到着する場合) 九五秒

原告車両の右の間の平均時速 一一七キロメートル

3100m÷96秒=33m/秒……117Km/時

そこで、右速度からしてみるに、これを右追越したとする間の道路状況(<証拠>によると、登坂車線付近の田万里隨道あたりは、交通の難所といわれ登坂となつているうえにカーブがあるなどとされている)に照らすと、追越しは数字的にまず不可能に近く、そのうえ前垣車両のタコグラフチャートに基づく鑑定書のグラフによると、却つて府中タクシーを違反車両と見る方が、その速度の推移等がよく符合するものとみられ、結局、以上のことなどから府中タクシーが違反車両であるとする仮定も十分成立つものといえる。したがつて、原告車両を違反車両と認めることはきわめて困難で、本件は、所詮犯罪の証明がないに帰する、とされる。

2  本件検挙及び公訴提起、同維持等の過失の有無について

(一)  一般に、犯罪の捜査に従事する警察官は、罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があれば、その者を検挙して所定の手続に従い取調べも可能であり、又、検察官は、起訴時に存在する及び起訴後に提出の予想される各種の証拠資料の総合的判断により、犯罪の嫌疑が客観的に十分で、合理的判断過程により有罪判決を期待し得る状況にあれば、公訴を提起し得るのであつて、刑事判決において無罪の判決が確定したからといつて、当然に右検挙、公訴提起等が違法となるものではない。

そして、右の場合、捜査官が犯行を目撃後直ちに検挙取調べをなすような場合(現行犯、準現行犯)のほかは、通常関係各証拠資料のうちには積極、消極の両種があり、このような場合は、これら両証拠の証拠資料としての態様・軽重・信用性の程度等の総合的比較考量の下に判断されるべきで、消極的証拠については、これが有罪判決を期待し得る合理的判断過程の支障となるようなものかどうかにつき慎重な検討がなされるべきであるが、積極的証拠との比較考量で右支障とみられる程でなければ、予想される消極的証拠をすべて必ず取調べかつ検討しなければ公訴提起できないというものでもない。

(二)  右のような観点から、刑事判決で指摘されかつ原告の主張する本件各問題点につき以下順次検討してみる。

(1) 目撃証人の信用性について

刑事判決においては、前記のとおり、目撃証人の知覚の二重写し(オーバーラップ)、予断、いわゆる面通しにおける自己暗示等の危険などが強く指摘され、証言の信用性に多くの疑いが提起されている。たしかに、一般には、目撃証人の知覚、認識、供述には右指摘のごとき危険のあることは否定しがたいし、とくに刑事判決ではこのような配慮が重視されるべきことも否めない。

しかし、具体的な場合の右適用には、目撃証人の性格、目撃状況、目撃対象物件の性状等により、かなり異なつたあるいは幅のある判断が予想され、画一的適用は却つて適正を欠く結果となる一面も看過できない。

そこで、本件目撃証人らの性格、目撃時の状況及びその対象物件の差異、特徴、ならびに目撃証人の供述内容等につき以下検討してみる。

(イ) <証拠>によると、次の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(A)原告は、当時芸陽タクシーの運転手で、マルカツ前を通り国道二号線上を西方に向い、空車で、普通乗用自動車(車種三菱ギャラン、車体白つぽいクリーム色、車上に「芸陽」と書いた後記形状のアンドンをつけている)を運転していたものであり、そして、当時の服装は、無帽で、茶色のセーターを着用し、二重かけの茶褐色のサングラスをかけていた。

(B)前垣貢児夫は当時府中タクシーの運転手で、福山に行つての帰りマルカツ前を通り国道二号線上を西方に向い、普通乗用自動車(車種マツダカペラ、車体白色、車上に「府中」「協」と書いたアンドンをつけ、運転席横ドアに「府中」と書いてある)を運転していたものであり、その当時の服装は、無帽で(もつとも、本来の服装は制服、制帽であり、大谷、萩原巡査は帽子を着用していたと述べていて、証拠上必ずしも明確でない)、紺色の背広、ネクタイ、白ワイシャツ(証人前垣の証言によるとサングラスはかけるが当時記憶がないとされる)であつた。

(C)右各車上のアンドンの形状は次のようなものであつた。

(D)そして、当時の「三菱ギャラン」と「マツダカペラ」及び大谷巡査が府中タクシーを当初そう思つていた「トヨタコロナ」との各形状の差異及び特徴は、三菱ギャランが概略的にいつて、「横からみると、車両のフロントフェンダー前側及びリヤフェンダー後側が少し下り、くさび型のシルエットをなし、他社の車両に比し全体的に角型をなしており、また角型のため直線を主として構成され、鋭角的なフォルムが象徴される。そして後部は前部とともに同様角型を象徴し、ストップランプ、バックランプも角型で縦に配列されている」とされているのに対し、トヨタコロナは全体的にみて丸みを帯び重量感をもつたものであり、又マツダカペラも丸みを帯びた感じであり、その他部分的には、右いずれも、その大きさ(高さ、長さ、幅)及びそれに付属するヘッドライト、サイドミラー、バンパー、ホイール等の位置、形状またデザインなど多くの面でそれぞれ異なつていて、これらが、全体的に見てそれぞれ各メーカーの特徴的形状を構成している。

(ロ) <証拠>によると、目撃証人らが目撃した時間は二秒ないし多くて三秒程度であり、しかも、その目撃した距離は、証人らの前方一五ないし四〇メートルくらいのところを約四〇ないし七〇メートル走行する間であつたと認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ハ) 大谷亮太の目撃状況等

<証拠>によると、大谷亮太(二八才)は、当時すでに約九年間交通取締に従事した経験のある警察官で、昭和四三年に自動車普通免許を取得していたものであるところ、本件違反車両及びその運転手の目撃状況につき、

(A)昭和四九年四月二一日大谷巡査作成の捜査報告書によると、普通乗用車(タクシー)で三菱ギャラン、白色、屋根に黄色の車名をつけた車両であり、運転手はうす茶色のスポーツセーターに、黒つぽいサングラスをかけた男であつた、

(B)昭和四九年一一月一日付大谷巡査の検察官に対する供述調書によると、マルカツで雑談中の有川正春が「やつちよる、やつちよる」というので振り向いて現認したところ、三菱ギャラン、白色車体で、運転手の服装は茶色セーターであつた、

(C)昭和五〇年一一月一八日の第二回公判(刑事)での大谷巡査の証言によると、右経緯で現認したが、白色三菱ギャランで黄色のアンドンをつけ、「芸」という字は見えた、運転手は茶色セーターで黒色サングラスをかけていた、

(D)昭和五二年一二月一五日の第一〇回公判(刑事)での大谷巡査の証言によると、運転手は茶色つぽいカーディガンようのものを着ていた、

とされていること、なお、当裁判所の証言では区別の特徴として、「ギャランとコロナは車が違うこと、府中タクシーの運転手はネクタイを締めていたが芸陽タクシーの運転手は茶色のセーターを着ていたこと、それに車のアンドンから直感してギャランの方だと思いました」と述べていることが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ニ) 萩原利明の目撃状況等

<証拠>によると、萩原利明(二七才、視力1.5以上)は交通取締に約七年間従事し、運転経験約一〇年の警察官であるところ、

(A)昭和四九年一一月一日付萩原巡査の検察官に対する供述調書によると、ギャラン(この点は分駐所で見た結果と思われる)、白色車体、車上にタクシーのアンドンをつけた車で、運転手は茶色セーターを着用し、サングラスをかけていた、

(B)昭和五〇年一一月一八日付第二回公判(刑事)での萩原巡査の証言によると、マルカツで雑談中の有川正春が「やつとるやつとる」というので、振り向いて見たところ、白色タクシーで、屋根にアンドンがあり、茶色又はオード色のスポーツシャツを着用し、サングラスをかけた運転手であつた、

とされていること、なお、当裁判所の証言では区別の特徴として、「上のアンドンを見て大体こちらではなかろうかという気持だつたのですが、次に運転手を見てスポーツシャツの色が茶色であつたこととサングラスをかけていたことで、はつきりギャランの方が違反車両だと確信したわけです」と述べていることが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ホ) 有川正春の目撃状況等

<証拠>によると、有川正春(二二才)は当時消防署職員で、昭和四四年に自動二輪、昭和四六年に普通自動車免許を各取得しているもので、当時運転経験三年程度を有するものであるところ、

(A)昭和四九年四月二一日付有川の司法巡査に対する供述調書によると、マルカツの椅子にかけて警察官と話していたところ、車上に黄色のアンドンをつけた白色三菱ギャランで、サングラスをかけた運転手の運転する車が追越すのを見た、後に警察官に連れて来られて見たときは「運転手はよく似た人でしたがはつきり判りませんが、車はギャランでしたので間違いありません」、

(B)昭和四九年一一月一日付有川の検察官に対する供述調書によると、マルカツの椅子にかけて警察官と話していたところ、違反車両を現認し、「あ、やりよる、やりよる」、と言つて見た、白色車体、三菱ギャランで、運転手は茶色セーター、黒つぽいサングラスをかけていた、

(C)昭和五一年一月一六日第三回公判(刑事)での有川の証言によると、右同様の経緯で目撃したが、白色の三菱ギャランで黄色のアンドンをつけ、運転手は茶色のジャンバーか毛糸のシャツでサングラスをかけていた、二度目に見たときも一致していた、

とされていることが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ヘ) 塔野岡和政の目撃状況等

<証拠>によると塔野岡和政(一八才、視力左右とも1.2)は当時西条農業高校二年生でアルバイトでマルカツに働いていたものであるところ、

(A)昭和四九年四月二一日付塔野岡の司法巡査に対する供述調書によると、マルカツでアルバイトをしていたところ普通乗用者(タクシー)が追越すのを見たが、それは、天井に黄色のアンドンをつけそれに会社の名「芸陽」と書いてあつた三菱ギャランで、運転手はサングラスをかけていた、そして後に警察官が連れてこられて見たときの車は、右「タクシーに間違いありませんでした」、

(B)昭和五一年一月一六日付第三回公判(刑事)における塔野岡の証言によると、白色の三菱ギャランで黄色のアンドンをつけ、アンドンに「芸陽」もしくは「芸」と書いてあつた記憶がある、服装は記憶がないがサングラスをかけていた、車種は大体わかる、後に警察官と一緒に戻つて来た車は三菱ギャランで、追越した車に間違いないと思う、

とされていることが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(ト) そしてさらに、<証拠>によると、丁度本件目撃当時の天候は、とくに日照という状況でもなかつたが、晴で、雨とか曇でもなかつたこと、又当日の日没は午后六時四六分であつたこと、したがつてこれらから天候上は本件目撃になんらの支障もない状況にあつたとみられることが認められ、さらにまた、<証拠>によると、大谷巡査が西条分駐所に来て二台のタクシーを見たときは両タクシーを選択するような様子ではなく、ほぼ即座にこの車と、原告車両を違反車両に特定したことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

そこで、右事実からしてみるに、右各目撃証人四名の各供述につき、たしかに、府中タクシーとの対比で、白色タクシー(普通乗用自動車)、車上の黄色のアンドンという点では一致しており、また、右目撃供述内容も、とくに運転手の服装につき細部においては異同変せんがあり、さらにその目撃時間等に照らすと、他の各関係証拠等から、刑事判決で指摘されるような疑問の提起もやむを得ないものであつたとみられるが、しかし他面、その目撃した違反車両の特定(車種、車体の形状、アンドン、運転手の服装、サングラス等)について、その述べるところの骨子はすべて一致しており、府中タクシーとも明らかに異なり、一般に、車両の特定は、部分的な差異よりもむしろ全体的かつ直感的な面も強く、車に日頃興味をもち、あるいはその観察に熟達した者からすると、少くとも違反車両としての明確な目的意識をもつて目撃したような場合は、二、三秒の間であつても、必ずしもさ程不確かなものでもないと考えられることなどからすると、右各供述自体は、全体的にみると、その供述者の性格、目撃状況、目撃対象物件の態様・性状等に照らし、むしろ、質量ともに、かなり高い信用性を有するものとみられなくもないものといえる。そして、このような場合は、他の証拠により原告車両を違反車両と認定することを合理的に妨げるような支障でもない限り、検察官として、一応右目撃証人らの供述で、有罪認定を期待する合理的な根拠を有するものと解することができるといえる。

そこでさらに、他の関係証拠について検討してみる。

(2) 府中タクシーの関係(追越の可能性等)について

刑事判決では、西条分駐所への到着が原告車両より府中タクシーが後であつたことから、原告車両の追越しの可能性を検討し、これがほぼ不可能であつたとして、この点を無罪判決の重要な理由の一つとしており、原告も、これらを前提に当時府中タクシーの関係の取調べが十分でなかつたと主張する。

(イ) しかし、まず問題は、刑事判決が前提とする事実関係である。たしかに<証拠>によると、府中タクシーは、当時本件国道上を進行しマルカツから西条分駐所まではノンストップで走行したであろう事実をうかがうことができ、さらに前掲各証拠等に照らすと、もし原告車両を違反車両とすると、原告車両はパトカーから追跡を開始されて後分駐所までの間のいずれかの地点で府中タクシーを追越したこととなり、その追越しの可能性が否定されるとなると、原告車両を違反車両と認めることは証拠上不合理ということになる。<証拠>によると、当時の府中タクシーの運転手前垣貢児夫は、昭和五二年三月一四日の第八回公判(刑事)の証言で、当時自分が他車を追越したことはない、西条分駐所までに追越されたことは「記憶にない」、なお自車に追従する車がいたかどうか憶えない、と述べている。

(ロ) そこでさらに右追越しの可能性について検討してみるに、刑事判決では、その前提事実を、マルカツから分駐所までの距離を8.7キロメートルとみて、パトカーが分駐所に無線連絡した(分駐所の手前約4.1キロメートルの)地点からその前方五〇〇ないし一〇〇〇メートルの地点を走行する違反車両が、さらにその前方五〇〇メートルを平均時速七五キロメートルで走行する府中タクシーを追越すものとして検討している。しかし、問題は、追越しの可能性はこのような範囲に限定されるかどうかにある。

文書の内容・形態からして真正に成立したものと認められる乙第七六、七七号証によると、まず右乙第七七号証は、本件で問題となる各地点間の距離を建設省広島国道工事事務所作成の道路図写による国道二号線上の大阪を起点とする追加距離で算出表示しているもので、これによる方が、刑事判決で示す距離(竹原簡易裁判所の検証の結果等によるもので、車の走行キロメーターによる算出とみられるが、機能上の誤差も予想される)よりも正確であると認められるので、以下これに従つて算出した距離関係に基づいて検討してみるに、右各書証等によると、マルカツから分駐所間の距離は8.2キロメートルであり、前垣車両(府中タクシー)のタコグラフではそれを六分二六秒(三八六秒)で走行しているので、右の間の平均時速は七六キロメートルということになる。そして、前認定どおりパトカーは平均時速約八〇キロメートルで追跡したというのであるから、もし府中タクシーと同時に出発しておれば約一七秒早く分駐所に到着していることになり、ただ、右タコグラフによると、府中タクシーの分駐所での停車時間は三六秒間であるから、刑事判決でも指摘のとおり、パトカーは府中タクシーよりも一〇ないし遅くとも三〇秒程度遅れて分駐所に到着したであろうと考えられ、結局両車の時間の差は二七ないし四七秒間となる。これを単純に時速八〇キロメートルで換算してみると計算上はパトカーと府中タクシーとの間隔は平均的に当初約六〇〇ないし一〇〇〇メートル程度ということになるが、ただ、パトカーのスタート時の速度は遅い反面、府中タクシーのマルカツをすぎた頃の速度は平均して時速九〇キロメートルくらいであつたから当初の間隔は実際上右よりもつと大きい距離であつたとみられるところ、なお、マルカツからの見とおし限界は五八〇メートルであつたから、マルカツからのパトカーのスタート時には、前認定のとおり約五〇〇メートル先に違反車両は見えても府中タクシーは見れなかつた可能性がある。そして、前記のとおり、パトカーはマルカツを出発した際に約五〇〇メートル先に違反車両を現認して後は、前方に違反車両が見え隠れ(見失つたり、見つけたりの状態)しながら追跡したというのであり、次いで、<証拠>によると、右違反車両らしい(後述のとおり違反車両と確定できる状態ではなかつたとみられる)車両を見つけたのは、マルカツから約三キロメートル(正確には2.87キロメートル)先の田万里小学校付近で(同所での見とおし限界は八七〇ないし一二〇〇メートルである)、その前方約一キロメートルの地点(イソベ石油店先付近)を進行するのを見つけたというのであり、その後は、右車両を見失つたので、パトカーは田万里小学校からさらに約二キロメートルばかり進行した山間部の登坂車線(片側二車線あつて追越しが可能である)にかかつて間もない付近で、無線で分駐所に連絡するに至つたものである事実が認められる。なお、<証拠>によると、右イソベ石油店付近での前方見とおし限界は五二〇ないし七二五メートルであり、また右登坂車線にかかつて後は、道路が樹木の密生する山林地帯をカーブしているなどで前方の見とおしは五〇〇メートル以下のかなり限定されたものであつたと推認される。

(ハ) 右状況からしてみると、パトカーがマルカツをスタートする際に五〇〇メートル先に違反車両を見て後は、田万里小学校付近で前方一キロメートルの地点に違反車両らしいものを見たといつても到底明確にそれと認識し得る距離ではなく、その間は見え隠れの状態であつたというのであるから、右違反車両らしい車は、すでに違反車両に追い越された後の府中タクシーであつた可能性も否定しがたく、そしてさらにその後もイソベ石油店先から登坂車線に至るまで約一キロメートルあり、その間の追越しの可能性も否定しがたく、なおさらに、登坂車線にかかつてからは、山間部とはいえ車線の性質上追越しが容易な面もあり、この場合パトカーからも丁度追越しの際を現認でもしない限り少くとも両タクシーを同時に見る可能性はきわめて乏しかつたとみられ、そして仮に、違反車両が右登坂車線にかかつてその前方五〇〇メートルを走行する府中タクシーを追越すとして、前掲乙第七七号証により、違反車両の速度を算出してみると、分駐所に府中タクシーより一分早く到着するものとしたら時速一四〇キロメートルで、まず不可能な速度といえるが、三〇秒早く到着するとしたら時速一〇〇キロメートルで必ずしも不可能ではない速度とみられる(右計算では、登坂車線始から分駐所までの距離は3.3キロメートルであり、府中タクシーは登坂車線始から約五〇〇メートル先より分駐所まで一四四秒を要していることを前提にしたものである)。そして、右の場合、刑事判決で述べられる、原告車両が府中タクシーより一分ないし三〇秒早く到着したという点は分駐所にいた警察官らの感覚的な供述に依存するもので、余り正確なものではなく、三〇秒以下の可能性もなくはない。

そしてなお、仮に、前掲乙第七七号証により、違反車両がマルカツから五〇〇メートル先よりさらにその前方五六八メートルの地点を走行する府中タクシーを追越し分駐所に府中タクシーより一分ないし三〇秒早く到着するものとして、その違反車両の速度を算出してみると、一分早く到着する場合は時速九七キロメートル、三〇秒早く到着する場合は時速八八キロメートルであることがうかがわれ、いずれも十分可能な速度であるとみられる。

(ニ) 以上は、いずれも仮定の上での計算であり、又府中タクシーのタコグラフ自体の誤差の問題もあるが、いずれにしてもこれらからすると、仮に原告車両を違反車両とした場合に、その追越しの可能性を完全には否定できないのみか、むしろ右可能性を想定する余地も少くないといえる。

(ホ) なお、その他、タコグラフ等からむしろ府中タクシーを違反車両とみられる可能性も強いといつた点は、原告車両を違反車両と認められるかどうかということとの相関的証拠評価の問題であり、また、府中タクシーにも右可能性があるというに止どまり、証拠上原告車両を違反車両と認めることの支障とまではみられない。

(三)  なお、前記のとおり原告は、本件違反車両として検挙された当初から一貫して違反事実を犯していないと犯行を否定し、かつ府中タクシーの取調べを強く求めていた点は、検察官としても公訴提起に当り十分考慮すべき点であつたといえるが、しかし、この点は他面、<証拠>によると、原告は過去に交通違反、免許停止処分の前歴があるうえ昭和四八年一二月二一日に交通事故を起して昭和四九年二月一五日に罰金一万五〇〇〇円に処せられていることから、もし本件で違反が認められると免許取消等の処分を受けるかもしれない状況にあつたことがうかがわれるところ、検察官として、全体的証拠評価の過程で、右をタクシー運転手である原告の犯行否定の間接的事情として配慮したであろうことも、首肯できないことでもないとみられる。

(四)  以上各検討したところからみるに、本件につき、たしかに、府中タクシーの関係につき、当初分駐所で大谷、萩原両巡査が、いずれも白色の二台のタクシーを見たとき、なかんずく原告も当初から犯行を否定しているのであるから府中タクシーの関係についても、車両の状況、運転手の服装、走行経路、分駐所到着の先後、原告車両の追越しの可能性等につき一応の取調べ、事情聴取等がなされるべきではなかつたかとみられ、もしそうであれば本件のごとき事態の発生も回避し得たであろうとみられなくもなく、この点、捜査上より十分慎重な配慮を欠いたとの非難も否みがたい。そしてその後も、検察官は前認定のような経過で、結局、府中タクシーの運転手等の取調べも十分しないまま起訴に至つた。

しかし、他面前記のとおり本件目撃証人四名の証人としての性格、目撃状況、目撃対象物件の性状等に照らすとき、検察官としてこれを公訴提起に至る証拠として強く重視したことも十分首肯されるところであるうえ、府中タクシーとの関係につき、これを追越した可能性等についても、前記状況下では、当時前認定のごとき細かい調査検討がなされた形跡はうかがえないものの、マルカツから分駐所までの走行経路、道路状況、パトカーの追跡状況等から概観的にみて追越しの可能性も否定できないとみるなどで、結局、右目撃証人四名の供述の信用性を否定するまででもないと判断したことも、あながち不当あるいは不合理なものともいえない。このように、本件で積極消極の両証拠を全体的に比較考量したとき、公訴提起前における判断としても、たしかに消極的証拠による疑いも決して小さくはないが、積極的証拠による認定を決定的に妨げる程のものでもなく、積極的証拠の内容・程度その信用性の度合いからすると、これらにより、検察官として、合理的判断過程による有罪認定も得られるものと期待して公訴提起に至つたとしても、なお公訴権の行使として許容される範囲内のものとみられなくもなく、このような公訴提起に当り、検察官として、前記のとおり府中タクシーの関係等消極的証拠の取調べが必ずしも十分徹底してなされなかつたという点も、前記この点の一応の取調べの経緯内容のほか、他の関係各証拠の状況等に照らすとき、右をもつてその職務上過失があつたものとまでみることはできない。そうすると、検察官のその後の公訴維持については、他に格別の事情も証拠上うかがえない本件においては、これが違法ともいえないことはいうまでもない。

なお、警察官の本件検挙についても、前認定のごとき当時の状況下では、府中タクシーの関係につきより十分な慎重さを欠いたとの非難は免れないとしても、これらの点で職務上過失があつたとまではいいがたい。<以下、省略>

(渡辺伸平)

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