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富山地方裁判所 昭和55年(わ)128号 判決 1988年2月09日

主文

被告人宮﨑知子を死刑に処する。

被告人北野宏は無罪。

理由

第一部  被告人宮﨑知子に対するみのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者みのしろ金要求被告事件

(被告人宮﨑知子の経歴及び犯行に至る経緯)

被告人宮﨑知子(以下、単に「被告人」と言う。)は、昭和二一年二月一四日、内縁関係にあつた父○○○○、母宮﨑ハナ間の長女として富山県内で出生し、同三九年三月富山県立○×高等学校を卒業後、親元を離れて生活したいとの希望から東京の大学を受験し合格したが、両親に反対されたため進学を断念し、富山県内で生命保険会社の事務員として勤務した後、単身埼玉県上尾市に転居し、同市内の化粧品会社の美容部員として稼働するうち、同四〇年頃、自動車のセールスマンであつた丁山梅夫と知り合つて懇意になり、同棲生活を経て同四四年八月六日に同人と婚姻し、同年一二月七日長男松夫を出産した。

その後、夫の転職、転勤に伴つて、富山、金沢、上尾に移り住む日々を送つたが、丁山が他の女性と親密になつたことから、別居して富山市<住所省略>の両親方に松夫と共に身を寄せる一方、家庭裁判所の調停を経て、昭和四九年八月一四日、松夫の養育費として毎月五万円を右丁山が支払うことを約して同人と協議離婚した。そして、同五〇年に父○○が死亡した後は、前夫丁山からの送金と母ハナの収入に頼つてハナ、松夫及び被告人の三人で暮していた。

被告人は、昭和五二年九月一五日、知人△×△×の紹介で、同女の売春の客になつたことのある相被告人北野宏(以下、単に「北野」と言う。)と知り合つてその翌日には性交渉を結び、その後も同様の交際を続ける仲となつた。間もなく北野には妻風子(同年一月に婚姻。)がいることを知つたものの、逢瀬を重ねて情交を深める一方、同五三年二月からは、被告人及び北野がそれぞれ一〇〇万円ずつ出資し、富山市<住所省略>に事務所を借りて、「北陸企画」の名称で贈答品販売業の共同経営を開始し、当初は収益も上げていたが、次第に事業に対する意欲が薄れ始め、同五四年に入ると著しい不振に陥つた。

このように北陸企画の経営が悪化しつつあつた昭和五三年一〇月、被告人は、同店の顧客であつた保険外交員に懇請され、結婚相談所を介して交際していたことのあるC山一男を説得し、同人を被保険者とする災害死亡時四、〇〇〇万円の生命保険に同人を加入させたが、受取人が被告人になつていたことから、やがて保険金欲しさの念が高じ、遂には、自らC山を殺害して多額の保険金を入手しようと考えるに至つた。

そこで、被告人は、一方でC山が加入していた保険が、同人の掛け金不払いのために無効となつているのではないかとの不安から、昭和五四年三月、更に同人に懇願し、受取人を前と同様に被告人として災害死亡時五、〇〇〇万円の生命保険に別途加入させた上で同人を殺害する機会を窺い、同年五月頃、二度にわたつて山菜採り名下に富山県中新川郡上市町地域の山中に誘い出すことに成功し、崖から転落死させることをもくろんだが、殺害に適当な場所をその際に見付けることができず計画を実行することはできなかつた。

続いて、同年八月、被告人は、右C山殺害の方法を変更し、知人○△△○の協力を取り付けた上で、乱交パーティーの練習をするとの口実を設けて富山市岩瀬浜付近の海岸にC山を誘い出した。そして、用意してきたクロロホルムを同人に吸引させた上、海中に引き入れて溺死させようとしたが、クロロホルムによる麻酔効果が生じなかつたため、またしても右目的を実現できなかつた。もつとも、右挫折により保険金に対する欲望が完全に消えたわけではなく、同年一〇月には前記、五、〇〇〇万円の保険について、更に半年分の掛け金一二万八、六〇〇円を払い込む方途を講じたが、その後適当な機会を見いだすことはなかつた。

ところで、被告人は、同年七月北野と自動車展示会に出掛けたことに端を発して、スポーツカータイプの普通乗用車日産フェアレディZ(富三三な二八三二号、以下、単に「Z」と言う。)を代金二三〇万八、〇〇〇円で購入したが、これが主たる原因となつてその後自己名義の借入れを重ねるところとなり、同年一一月には国民金融公庫から一五〇万円、またその頃結婚相談所で知り合つた×○○○から同年末に四二万円を借り受けたほか、昭和五五年に入つても、返済の資金調達のために、×○のほか、母ハナの実弟で金融業を営んでいた△×○×やサラリーマン金融からも次々と融資を受けることを余儀なくされ、同年二月二三日の時点では、被告人名義の借金は合計約三〇〇万円に達していたが、その返済の目途は一向につかない状況にあつた。

被告人は、このように累積した借金を一挙に弁済するとともに、富山を離れて東京周辺に移り住みたいという年来の希望を実現するため、その後進展をみない保険金殺人以外にも大金を獲得する方法を思案し、昭和五五年一月頃までには、みのしろ金目的の誘拐を思い付くに至つた。そして、金沢、富山市内等で下見を重ねながら計画を具体化してゆき、その結果、幼児は対象としないこととし、したがつて、誘拐した以上は顔を覚えられてしまうので、相手を殺害するとの決意を固め、このような意図の下に、同年二月初旬には、四日間連続して、情を知らない北野に金沢まで車を運転させて誘拐の実行に赴いたものの果たせず、更に、単身でZを運転中の同月一一日には金沢でD川二郎(当時二四歳)を、同月一九日には富山でE谷三郎(当時二一歳)をドライブ等に誘い出すことに成功したが、完遂の決断がつかず、これを断念した。

しかし、被告人は、みのしろ金目的の誘拐殺人計画自体を放棄したわけではなく、また、前記借金の一部につき返済期限が既に徒過し、その余についても切迫している分があるなど、大金獲得の必要性はむしろ強まる状況にあつたことから、若い女性を対象として右計画を早急に実現しなければならないと決意するに至つた。

(罪となるべき事実)

被告人は、若い女性を誘拐して殺害した上、その近親者らの憂慮に乗じてみのしろ金を交付させようと企て、

第一

一  昭和五五年二月二三日午後七時一五分過ぎ頃、富山市明輪町一番二二七号富山ステーションデパート二階アクセサリー売場において、帰宅のためのバスの発車時刻を待つ間同所で時間をつぶしていた乙野A子(昭和三六年一二月一七日生、当歳一八歳)を認め、「暇そうですね。私も時間があるんだけれど、お茶でも飲もうか。」「遅くなつたら送つてあげる。」「せつかく出たんだから食事に行こう。」などと言葉巧みに持ち掛けて、前記Zで同市<住所省略>レストラン「銀鱗」豊田店に赴き、食事を取りながら氏名、住居地、家族関係等みのしろ金要求に必要な事項を聞き出したり、アルバイト先に紹介する旨偽つて同女の気を引いたりした後、同店をあとにし、その上で、富山市内を走行中のZ車内において、同女を自宅に送り届けることを装いつつ「どうせ通り道だからちよつと寄つてみようか。」などと申し向け、その旨誤信した同女に対して同市<住所省略>所在の前記北陸企画事務所に立ち寄ることを承諾させ、同日午後九時三〇分頃、共同経営者の北野が帰宅不在中のため他には誰もいない同事務所に同女を連行して自己の支配下に置き、もつて、安否を憂慮する近親者らの憂慮に乗じてみのしろ金を交付させる目的で同女を誘拐し、

二  右のとおり乙野A子を欺罔して同月二五日夕刻まで自己の下に引き留めていたが、計画の続行を決意し、同女を眠らせて絞殺する意図の下に睡眠薬と腰紐を携帯した上で、自宅に送り届ける旨偽つて同女を誤信させたままZに乗車させ、口実や甘言を弄して、国道四一号線を岐阜県高山市方面に向けて走行し、途中、飲食店や喫茶店で同女と飲食を共にしたり、あるいは、Zの運転に興味を示した同女にこれを運転させるなどして時間を稼ぐうち、遂に、同女に睡眠薬を服用させることに成功し、同日深夜、同県吉城郡古川町大字数河付近に停車中のZ助手席上において、睡眠中の同女の頸部に、あらかじめ用意してきた前記腰紐を二重に巻き付けて緊縛し、よつて、同女をその場で絞頸による窒息により死亡させて殺害し、

三  右殺害の直後頃、同町大字戸市くずれ洞一六番地の一付近の町道戸市線に停車中のZから、右乙野A子の死体を、右町道南東約1.8メートルの戸市川縁に投棄してこれを遺棄し、

第二

一  前記第一記載のとおり、乙野A子をみのしろ金目的で誘拐した上、殺害、死体遺棄したものの、みのしろ金を獲得するには至らなかつたため、計画の成功を期して長野に赴き、同年三月五日午後六時三〇分頃、長野市大字南長野石堂町一、四一九番地先の「千石前」バス停留所付近において、帰宅のためバスを待つていた甲野B子(昭和三四年六月三日生、当時二〇歳)に対し、「ちよつとの時間でいいから付き合つてくれませんか。」などと声を掛け、<住所省略>所在喫茶店「イタリアンクウォーター'78」店内に誘つて、同女の氏名、家族構成、自宅の電話番号、同女の父の勤務先の電話番号等みのしろ金要求に必要な事項を聞き出した後、更に、「郊外のレストランで食事をしませんか。」などと言葉巧みに持ち掛けて同女を欺き、食事後は自宅まで送つてもらえるものと疑わない同女を同行して同市<住所省略>所在のホテル「日興」まで赴き、同日午後七時頃、同所に駐車中の前記Zの助手席に乗車させた上で松本市方面に向け走行して同女を自己の支配下に置き、もつて、安否を憂慮する近親者らの憂慮に乗じてみのしろ金を交付させる目的で同女を誘拐し、

二  右のとおり欺罔した甲野B子を伴つて同日午後九時頃、松本市<住所省略>所在のレストラン「新橋元庄屋」に入り、食事をした後、「遅くなつたので、翌朝出勤までには必ず送る。」との口実の下に情を知らない同女に車中泊を承諾させ、用意してあつた睡眠薬ネルボンを与えて缶ジュースと共に服用させた上、同月六日午前三時頃から同日午前九時頃までの間に、同県小県郡青木村所在の林道弘法線付近に停車させたZ車内において、助手席上で睡眠中の同女の頸部に、あらかじめ用意してきた腰紐を二重に巻き付けて緊縛し、よつて、同女をその場で絞頸による窒息により死亡させて殺害し、

三  右殺害の直後頃、同村大字田沢字横入一、二六九番地六先付近に停車中のZから、右甲野B子の死体を、前記林道西側崖下約2.35メートルの山林に投棄してこれを遺棄し、

四  別紙一みのしろ金要求の架電状況一覧表記載のとおり、同月六日午後七時一六分頃から翌七日午後九時五八分頃までの間、前後七回にわたり、埼玉県児玉郡上里町金久保三二五番地一先の公衆電話ほか六箇所から、長野市<住所省略>所在の甲野B子の父太郎方ほか四箇所に電話を掛け、同人及びB子の姉でみのしろ金を持参した甲野春子に対し、「B子さんを預つている。明日の午前一〇時に長野駅の待合室に三、〇〇〇万円持つて来い。」などと申し向け、もつて、右B子の安否を憂慮する近親者らの憂慮に乗じて財物を要求する行為をなしたものである。

(証拠の標目)<省略>

(事実認定についての説明)

注 説明の便宜上、以下の記述においては、事件名、関係者名、関係場所等について別紙二の「略語例」により、証拠の引用についても別紙三の「証拠の引用例」に従うこととし、年月日を示す場合、「昭和五五年」については原則としてその記載を省略した。

第一概括的説明

一 本件の争点の概要等

本件公訴事実に関する検察官の主張の要旨は、「宮﨑は、北野と共謀の上、(罪となるべき事実として判示した)みのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄及び拐取者みのしろ金要求の各犯行を行つたもので、いずれの犯行についても、宮崎が実行正犯であり、北野は共謀共同正犯である。」というものである。

これに対して、当公判廷において宮﨑は、判示第一の各事実(略語例により、以下「富山事件」と言う。)についての関与を全面的に否定する一方、判示第二の各事実(同様に「長野事件」と略称する。)については、北野との共謀を認めた上で、誘拐及びみのしろ金要求は自ら実行したが、殺人は北野が実行し、死体遺棄は共同実行した旨主張する。

そこで、右の争点に対する当裁判所の判断を加えることとするが、本件は、(1) 富山、長野両事件が時間的に接着して発生し、両県の捜査機関における各捜査活動が時期をほぼ同じくして並行的に開始されたが、密接関連した一連の犯行であるとの心証にもかかわらず、その後も基本的には別個に捜査が進められたこと、(2) 事実の究明に当たつて、被疑者であつた宮﨑及び北野に対する取調べに重点が置かれたが、両人の供述は捜査段階を通じていずれも相当程度の変遷を遂げていること、(3) 公判開始後四年半を経た段階で検察官が訴因変更を請求し、殺人等の実行者についての従前の主張を全面的に変更するに至つたこと、(4) 特に宮﨑については、被害者との面識の有無、アリバイ工作の存在等の重要事実に関して、公判において従来の主張を覆す新たな供述を行つたこと等、捜査、公判を通じてやや特異な経過をたどつた事案であると言うことができる。こうした事情が宮﨑及び第二部で論述する北野の刑事責任の有無を判断する際にどのような意味を有するかについては、後に個別的な検討を加えることとするが、これに先立ち、事件の発生、捜査の進展、公判の経過を時系列に従つて摘示し、右のような本件の特殊性を含め、両事件の全体をあらかじめ鳥瞰しておくことが、右の争点に関する適正な解明のために有用であると解されるので、以下、二及び三において概説することとし(なお、同所で指摘される事実の存在については、当事者間にも争いがない。)、最後に四において、当裁判所の事実認定の過程につきその概略を明確にしておくこととする。

二 公訴提起に至る経緯

1 A子の失踪及び死体発見状況

富山事件の被害者A子は、富山県<住所省略>に居住し、三月には同県立○△高等学校家政科を卒業し、四月からは私立××専門学校に入学することとなつていた。

A子は、二月二三日午前一〇時頃、友人×○△△と共に、前記××専門学校入寮手続きのために、父四郎の運転する乗用車で金沢に赴き、右手続き終了後父と別れ、金沢市内で買物をするなどした後列車で帰途に就き、午後七時頃、国鉄富山駅に到着した。A子は、駅から自宅に電話して父に車で迎えに来てくれるように依頼したが、同人の都合が悪かつたことから、同駅前午後七時五〇分発のバスで帰宅することとなり、前記×○からバス代三〇〇円を借りて同女と別れた(<証拠>)。

A子は、その晩は連絡することなく外泊し、翌二四日午前七時四〇分頃、自宅の母夏子に電話して前日帰宅できなかつたいきさつを説明した上で、同日午前八時四〇分に富山赤十字病院前で落ち合うことを約したが、待ち合わせ場所に現れず、翌二五日正午頃、母の勤務先に、「今日は必ず帰る。」と電話してきたのを最後に家族との連絡を絶つた(<証拠>)。

一方、A子の自宅には、同月二五日及び二七日に、女性の声で不審な電話が掛かり、特に二七日午前一〇時頃の電話は、大事な話があるので、A子の父に同日午前一一時に富山市内のレストランに来るようにとの内容であつた。そこで、A子の失踪と関係があると判断した父四郎らが急遽指定された場所に赴いたが、呼び出した人物と接触できないままに終わつた(<証拠>)。

その後も、A子の所在は不明のままに時間が経過したが、三月六日になつて、岐阜県内数河高原山中の町道戸市線脇の戸市川右岸において、たまたま魚釣りに出向いた澤之向光及び重田裕之によりA子の死体が発見され、その際、同女の頸部には布製の腰紐が二重に強く巻き付けられていたことが確認された(<証拠>)。

2 B子の失踪及びみのしろ金要求電話受信状況

長野事件の被害者B子は、長野市内に居住し、○信用金庫△△支店に勤務していたが、三月五日は、勤務終了後同僚の○○と喫茶店で雑談し、同日午後六時頃、帰宅するため店を出て同女と別れて以後一切の連絡を絶つた。

翌三月六日午後四時三〇分頃、父甲野太郎の勤務先に女性からの不審な電話が入り、それ以降、同月七日午後一〇時頃までの間に、B子方等に合計七回にわたつて、同女の身柄と引き換えにみのしろ金を要求する女性からの一連の電話が掛かつてきたため、姉春子が二、〇〇〇万円のみのしろ金を持参して高崎市まで赴いたものの、同市所在の喫茶店に掛かつてきた電話を最後にみのしろ金要求も途絶えた(<証拠>)。

3 三月八日から同月二八日までの富山事件の捜査状況

前記のとおり、A子は、三月六日遺体となつて発見され、翌七日その同一性が確認されたが、二月二五日におけるA子からの電話では、富山市内の「北陸企画」なる場所に宿泊したとされていたことから、三月八日から一〇日までの間、岐阜県警察は、右の名称で贈答品販売業を営んでいた宮﨑及び北野に対し任意出頭を求め事情聴取を行つたところ、右両名はA子との面識を全面的に否定した。そこで、同月一〇日、富山警察署に「女子高校生殺害死体遺棄事件富山岐阜合同捜査本部」を設置し、広範な捜査を実施したところ、同月二八日頃までには、宮﨑とA子らしき人物が二月二五日夜死体遺棄現場からさほど遠くない場所で行動を共にしていたとする目撃証言が得られたほか、北陸企画の事務所の玄関ガラス戸からA子の指紋が検出され、更には、宮崎と北野が使用していたZ車内からA子の毛髪が発見されるなどの進展をみた(<証拠>)。

4 三月一〇日から同月二八日までの長野事件の捜査状況

右のような富山、岐阜両県警察による富山事件の捜査と並行して、長野県警察の方も、三月六日以降長野事件の捜査を継続していたが、同月一〇日、関東管区警察局を介して、富山事件の捜査状況についての情報を入手し、宮﨑及び北野が同月三日から八日にかけてZで旅行に出ており、長野、埼玉、東京方面を回つていた事実を掌握したことから、その旅行中の足取り捜査を開始した。この結果、右両名と思われる二人連れの長野での宿泊先等が判明したことに加えて、更に、富山県警察から宮﨑の音声を録音したテープを入手することができ、これとB子方に掛かつてきたみのしろ金要求電話の音声との同一性について鑑定を嘱託したところ、同月一九日には、両音声は同一のものである可能性が大きいという鑑定中間報告を受けた。他方、B子の消息については依然として不明であり、同女の生命尊重の立場から報道も自粛されていたが、同月二六日、週刊誌により事件が公けにされたため、翌二七日、長野県警察は公開捜査に踏み切つた(<証拠>)。

5 三月二九日及び三〇日の宮﨑及び北野に対する事情聴取の状況

以上のとおり、富山県警察は富山事件、長野県警察は長野事件について並行してそれぞれの捜査を進めた結果、いずれも宮﨑及び北野に対する誘拐等の容疑を深めることとなつた。

そして、まず、富山県警察については、三月二九日、三〇日の両日、両名に対する事情聴取を再開した。取調べに対し宮﨑は、二九日はうつむいて黙秘していたが、三〇日にはA子を誘拐して絞殺したことを認めるに至つた。これに対し、北野は、富山、長野両事件について犯行関与を否定する供述を続けると同時に、宮﨑に対する疑念を捜査官に対して指摘していた。

一方、長野県警察の、両名共謀によるみのしろ金目的拐取を被疑事件とする逮捕状の各発付を受けて直ちに捜査官を富山に派遣し、三〇日に同所において両名に対する取調べを行つた結果、宮﨑については、右の被疑事実のほか北野との共謀によるB子の殺害及び死体遺棄に関しても、これを認める供述をなした。

このように、三月三〇日については富山、長野両県警察の取調べが競合する事態となり、更に、宮﨑に対しては、富山県警察の側でも、富山事件につき未成年者拐取及び死体遺棄を被疑事実とする逮捕状の発付を得ていたが、結局、同日夜に、長野県警察の捜査官が宮﨑及び北野に対する逮捕状を執行することとなつた(<証拠>)。

6 三月三一日から四月二〇日までの捜査状況

(一) B子の死体発見状況

三月五日以来消息の途絶えたB子は、四月二日になつて、長野県小県郡青木村修那羅峠付近の林道弘法線の崖下において、たまたま同所を通りかかつた西原範次により死体となつて発見されたが、その際、B子の頸部には、二つ折りにされた布製腰紐が二重に強く巻き付けられていたことが確認された(<証拠>)。

(二) 宮﨑の取調べ状況等

宮﨑は、三月三〇日富山での逮捕後、長野南警察署に留置されて取調べを受けた。当初から自己の長野事件関与は一貫して認めていたが(死体発見以前にB子殺害を供述していた。)、北野との共謀については、同月三〇日には一旦これを肯定したものの、四月一日から一一日までは否認し、同月一二日になつて再度認めるに至つた。そして同月一八日頃になると、B子殺害は北野が単独で実行し、死体遺棄は北野と自己が共同で行つた旨供述を変更し、以後これを維持する供述調書が重ねて作成された後、同月二〇日長野事件について公訴が提起された(<証拠>)。

(三) 北野の取調べ状況等

北野は、逮捕後四月五日まで長野事件について自己の犯行関与を否定し、宮﨑に頼まれた大金の受け取りに同道したのに過ぎないという趣旨の弁解を繰り返していたが、同月六日以降一一日までは、自己がB子を絞殺したとの自供書を作成したり、宮﨑が誘拐した後になつて初めてその話を聞いて事後的にみのしろ金要求に加担したとの供述に転じたりした後、同月一三日になつて宮﨑との事前共謀を認める内容の調書に署名するに至つた。しかし、B子殺害、遺棄実行への関与は一貫してこれを否定する供述態度を崩さないまま、同月二〇日、長野事件について宮﨑と共に起訴された(<証拠>)。

7 四月二一日から五月一三日までの捜査状況

(一) 宮﨑及び北野の富山事件による逮捕

宮崎及び北野は、四月二一日、それぞれ勾留されていた警察署において、富山事件について富山県警察により逮捕され、同日中に同県内の警察署に分離して留置されることとなり、以後、富山事件について本格的に取調べを受けるに至つた(<証拠>)。

(二) 宮﨑の取調べ状況等

宮崎は、逮捕後、北野との共謀を認めたという限度ではその供述に変遷はみられなかつたが、逮捕から同月二四日までの間、A子の殺害、死体遺棄は自己の単独実行であるとしていた供述を、翌二五日以降になつて撤回して、北野が殺害した後、死体遺棄は北野と自己が共同で行つた旨変更し、五月一三日富山事件について起訴されるまでこの供述を維持した(<証拠>)。

(三) 北野の取調べ状況等

北野は、前記逮捕後四月二六日までは、長野事件の自白を翻すとともに富山事件についても全面的に否認していたが、同月二七日から三〇日にかけては富山事件の事前共謀を認める調書が作成された。

しかし、五月一日から再度否認に転じ、同月六日には事前共謀の自白調書が作成されたものの、八日から否認の態度に復してこれを通し、同月一三日富山事件についての起訴を迎えた(<証拠>)。

三 本件公判審理の概要

1 審判の併合及び変更前の訴因に対する認否

(一) 第一回公判まで

昭和五五年四月二〇日

長野地方検察庁は、長野事件について、宮﨑、北野を共同正犯として長野地方裁判所に起訴。

同年五月一三日

富山地方検察庁は、富山事件について、右両名を共同正犯として富山地方裁判所に起訴。

同年七月一七日

最高裁判所は、両事件を富山地方裁判所において併合審理する旨決定。

同年九月一一日(第一回公判)

検察官は、両事件について、殺害実行は北野、死体遺棄は宮﨑と北野の共同実行であるとの釈明及びこれを前提とした冒頭陳述を行つた。

これに対し、宮﨑は、長野事件については、概ね検察官主張どおりの事実を認めたが、富山事件については無罪を主張し、北野は、両事件とも無罪であるとの認否をなした。

(二) 両名の具体的主張

宮﨑及び北野の右の無罪主張を基礎付ける具体的な主張は、その後、より詳細に開陳されたが、その要旨は、次のようなものであつた。

(1) 宮﨑

富山事件当時北野との間でみのしろ金目的の誘拐殺人を計画したことはあつたが、二月二三日は北野の依頼を受けてA子を迎えに駅に赴いたものであり、以後同月二五日までA子を預かる形になつたけれども、その間も同女を誘拐の対象と考えたことはなく、同日の夜になつて北野にA子を引き渡して自分は帰宅したのであるから、その後の殺害、死体遺棄についても全く関知しないところであり、これらは北野の単独犯行である。

(2) 北野

宮﨑との間でみのしろ金目的の誘拐を謀議したことはなく、各被害者との面識はないし、その殺害、死体遺棄に関与したこともない。本件は、すべて宮﨑の単独犯行であり、これに反する宮﨑の供述は北野に責任を転嫁するものであるし、北野の捜査官に対する自白調書は任意性がない。

2 訴因変更後の審理

(一) 訴因変更

昭和六〇年三月五日(第一二五回公判)

検察官は、第一回公判における釈明及び冒頭陳述の内容を変更し、両事件とも北野は共謀共同正犯であり、殺害、死体遺棄は宮﨑が単独でこれを実行したと主張するに至つた。

同年四月一五日(第一二七回公判)

そして、右の新主張に沿う訴因変更を請求し、裁判所はこれを許可した。

(二) 変更後の訴因に対する認否等

両名とも、従来の主張を維持する旨の認否を行つたが、宮﨑は、特に長野事件に関し、ポータブルテレビを使用して北野のアリバイを工作する相談が交わされ実行された旨の新たな事実主張を陳述し、殺害、死体遺棄の時刻頃現場を遠く離れたホテルでテレビを視聴していたとする北野の主張は虚偽であつて、長野事件の殺害等の実行者が北野であることを再度強調した。

四 判断の順序及び結論の要旨

1 当裁判所は、宮﨑及び北野の刑事責任を判断するに当たつては、原則に従い、まず、検察官が実行正犯であるとする宮﨑について有罪立証が尽くされているかの検討を行うこととしたが、この場合、宮﨑が公判で信用性を争う捜査段階における供述(主として、富山事件関係)はもとより、宮﨑の主張と相反する北野の捜査、公判供述を原則として除外し、その余の客観的証拠及び公判段階で宮﨑が自認する不利益事実を基礎に検討を加えた結果、北野との共謀の有無はさておき、富山、長野両事件においてみのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄等を宮﨑が単独で実行したことについては合理的な疑いを容れる余地がなく、これに反する宮﨑の供述は不自然不合理で採用できないとの結論に達した。

2 次に北野との共謀の有無については第二部で詳論するとおりであるが、ここでその概略を述べる。

(1) まず、宮﨑の捜査段階及び公判廷での供述(特に、北野との共犯関係を認める部分)の信用性に関し、富山、長野両事件の実行行為は宮﨑が単独でこれをなしたとの前記認定を前提に検討した。

その結果、宮﨑の供述は、捜査段階から公判を通じて全体的に作為された疑いが濃厚であり、北野の刑事責任を根拠付けるための証拠価置を有するとは到底言えないことが認められた。

(2) そこで、次に、客観的証拠により共謀の存在を推認することができないかについて考察を進めたが、犯行当時の状況はもとより、検察官の主張に従つてそれ以前の二人の交際関係等に遡つてみても、共謀を推認させるのに十分な証拠は存在しないばかりか、かえつて、自分を宮﨑が利用していたとする北野主張を裏付ける事情が見いだされた。

(3) 最後に、北野の捜査官に対する自白の信用性について関係証拠を精査したが、これを共謀認定の決め手と目するには問題点、疑問点が余りに多いと言うほかはなく、結局、本件で提出された全証拠を総合的に検討すると、宮﨑と北野との事前の謀議の存在が否定されるとの結論に達したものである。

第二具体的判断

右第一の四で触れたとおりの認定方法により、以下においては、本件各犯行の実行行為者は宮﨑であるとする検察官の主張の正当化について、宮﨑側の反駁に関しても逐次検討しながら論述することとする。

一 本件犯行に至る経緯

本件犯行の動機形成に係わる重要な事情として、以下の諸事実が認められ(基本的には、判示「犯行に至る経緯」と異なるところはないが、説明の便宜上、重複をいとわずに摘示する。)、その際北野が共謀に加わつていたかの点を別にすれば、該事実の存在について当事者間においてもほぼ争いはない。

1 保険金殺人計画(C山事件)

(一) 企図するに至つた経緯

宮﨑は、昭和五三年二月から北野と共同で贈答品販売業「北野企画」を営んでいたが、顧客である日本生命の外交員太田俊子から保険加入者の紹介方を強く求められていた。そこで、同年一〇月、かねて結婚紹介所を通して知り合つた自動車運転手C山一男を太田に引き合わせ、被保険者をC山、受取人を宮﨑とする普通死亡時二、〇〇〇万円、災害死亡時四、〇〇〇万円の生命保険に加入させた(<証拠>)。

その後宮﨑は、高額の保険金欲しさの思いが強固となつて、自らC山を殺害して保険金を入手することを決意するに至つたが、前記の保険契約が、掛け金不払いで失効しているのではないかとの不安が生じたことから、昭和五四年三月、掛け金の支払いは心配しなくてもよい旨C山を説得した上で、同じく北陸企画に出入りしていた住友生命の外交員中村敦子を介して、被保険者をC山、受取人を宮﨑とする普通死亡時三、〇〇〇万円、災害死亡時五、〇〇〇万円の保険に加入させることに成功した(<証拠>)。

(二) 宮﨑が実行に着手した事実

宮﨑は、同年五月頃、保険金殺人計画を実行に移すべく、山菜採り名下に、富山県中新川郡上市町の山中にC山を誘い出し、崖から突き落として殺害しようと考え、情を知らない同人と二度にわたつて出掛けたが、殺害に適当な場所が見当たらなかつたことから実行するに至らなかつた。そこで、次には、C山を海水浴場に連れ出して溺死させることを思い付き、同年八月四日には友人の○○××に、同月六日には知人○△△○に協力方を持ち掛け、これを承諾した右○△の協力を得てC山を殺害する計画がまとまり、同月九日、乱交パーティーの練習をするとの口実を設けて○△とC山方に赴き、富山市岩瀬浜付近の海岸に同人を連れ出した。そして、クロロホルムを同人に吸引させて、意識を喪失させた上海中に引き入れようとしたが、効験なく、これも失敗に終わつた(<証拠>)。

(三) 宮﨑が保険金殺人計画を放棄していなかつた事実

右のように、宮﨑はC山殺害を果たすことができなかつたが、高額の保険金に対する執着は強く、同年一〇月二六日には、前記住友生命の保険掛け金半年分一二万八、六〇〇円を払い込んで、なおC山殺害の機会を窺つていた(<証拠>)。

2 宮﨑が借金返済等のため多額の金員を必要としていた事情

(一) 宮﨑の収入状態

前記北陸企画は、昭和五四年になると、主たる仕入先である北陸ガルダからの取引額が一〇万円にも満たない月が多く、その経営不振ぶりは顕著となつたが、宮﨑には他に定職がなく、母の収入や前夫からの養育料の送金に頼るほかなかつた(<証拠>)。

(二) Zの購入

宮﨑は、昭和五四年七月自動車展示会に立ち寄つたのが契機となつて、北野とも相談の上、スポーツカータイプのZを同年九月に購入したが、その価格は二三〇万円余りであり、宮﨑所有のセドリックを下取りに出したものの、価格の差額、右セドリック購入代金の残債務及び自動車登録費用等の諸経費を合算すると、約二〇〇万円もの金が現実に必要となつた。宮﨑及び北野は、当時そのような大金を持ち合わせておらず、また、企画の経営状態は前記のとおりであつたから、借財に頼らざるを得ず、北野が妻風子とその母から現金各五〇万円を借用し、更に、知人である××××から額面合計一五〇万円の手形の融通を受けて、その支払いに充てた(<証拠>)。

(三) 昭和五四年一一月以降の宮﨑の借金状況

このようにしてZの代金支払いは一応済ませたものの、北陸企画からの収入は期待できず、宮﨑は、更に金策を余儀なくされることとなつた。すなわち、同年一一月には国民金融公庫から宮﨑名義で一五〇万円、同年一二月には、結婚相談所の紹介で知り合い当時交際を継続していた○×××から四〇万円余りの金員を借用し、翌五五年になつてからも、金融業者や右○×からの借金を重ね、これらにより前記の××に対する借入金全部と義母からの五〇万円のうちの二五万円を返済したものの、借金により借金を補てんする方法では債務総額はかえつて増えるばかりで、同年二月二三日現在、宮﨑名義の借金は、前記国民金融公庫及び○×からの借入分合計二三〇万円余りにサラリーマン金融二社からの合計六五万円を加えて総額三〇〇万円近い金額に達した。しかし、宮﨑には返済のあてはなかつた上に、○×や金融機関からの分について既に一部は期限を徒過しており、その余も返済期日が迫つている状況にあつた。しかも、宮﨑は、富山を離れて東京周辺に移り住むというかねてからの希望を実現するための資金も必要としており、これらの問題を一挙に解決するためには一度に大金を手にする必要があつた(<証拠>)。

3 宮﨑がみのしろ金目的の誘拐殺人を計画していた事実

(一) 誘拐の下見及び実行のため何度も金沢に赴いた事実

宮崎は、一月中旬頃までには、それまで一向に機会を見いだせないでいた保険金殺人計画とは別に、やはり大金を獲得する手段としてみのしろ金目的の誘拐を考え付き、金沢、富山市内を回つて下見を行い具体的方法等を検討した結果、同月末頃には、誘拐の対象は大人とし、したがつて相手に顔を覚えられてしまうので、被誘拐者は殺害せざるを得ないとの結論に達し、こうした計画を実現する意図の下に、二月六日頃から九日頃にかけての、夜ごと北野に運転をさせて金沢まで出掛けたが、機会がなく、実行には至らなかつた(<証拠>)。

(二) 富山事件直前の誘拐の試み

その後宮﨑は、二月一一日、誘拐を実行すべく一人で金沢に赴いた際に、通りすがつたD川二郎(当時二四歳)に声を掛けてドライブに誘つたところこれに応じたので二人で走行するうち、誘拐の対象としてはとの念にかられたが、時間の経過につれて殺害する気が萎え、そのまま別れた。更に、同月一九日には、富山市内で富山大学学生E谷三郎(当時二一歳)をドライブに誘つてZに乗車させ、翌二〇日夕方まで行動を共にした際、同人を対象とすることを考え、その氏名、家族構成、出身地等を聞き出した上、学生寮に電話して帰省先の電話番号を調べるまでに及んだが、成人の男性を殺害する難しさに躊躇を感じ、実行に移さないままに終わつた(<証拠>)。

4 まとめ

以上の諸事情を通覧、整理すると、北野との共謀はさておき、宮﨑自身に関する事情として、昭和五四年に入つてからは特段の収入の途もなかつたところ、一かく千金を夢見て保険金殺人を企図し、契約の仲介、殺害のための相手の連れ出し、殺害実行(未遂)といつた行為に現実に及んだこと、右計画の失敗後Zの購入による借金返済等により資金状況が悪化する中で、大金入手への思いは一層強まつて、今度はみのしろ金目的の誘拐、殺人を思い付くに至り、昭和五五年二月下旬までの間に誘拐場所の下見、誘拐対象の物色、誘惑行為等を実際に試み、その中で右計画を更に具体化していつたという一連の流れが明確に看取できるのである。そして、右の過程をたどつて形成された誘拐殺人計画が富山事件直前の時点まで断念されていなかつたことは、宮﨑自身が当公判廷で認めるところである(例えば、二六回供述。なお、宮﨑の最終意見陳述書(一五三頁以下)でも、当時逡巡の情がなお強かつたことに力点が置かれているとは言え、計画断念といつた事態が生じたとの主張は全く見当たらない。)。

二 富山事件

1 誘拐罪の成否について

前述のとおり、公判廷において宮﨑は、A子を誘拐した事実自体を否認しているので、まず、この点から関係事実を挙示して判断することとする。

(一) 宮﨑が二月二三日A子と接触し、以後同月二五日夜まで行動を共にした事実及びその理由

(1) 二月二三日から二五日夜までの間のA子と宮﨑の行動

この点に関し以下の事実が認められることについては、宮﨑の側でも基本的に争いはない。

ア 宮﨑が接触するまでの二月二三日のA子の行動

二月二三日A子は、第一(概括的説明)の二の1に記載したとおり、四月に入学予定の××専門学校の入寮手続きのために友人×○△△と金沢に行つていたものであるが、右手続き終了後も×○と同地において買い物などをした後午後七時頃列車で国鉄富山駅に帰り着き、父に迎え方を依頼したが断られたため、やむなく同駅からバスで帰宅することとし、バス代として三〇〇円を借りて×○と別れ、同日午後七時一五分頃からバスの発車時刻である同七時五〇分まで富山駅周辺で時間をつぶすことになつた(第一の二の1に記載の各証拠を引用する。)。

イ A子と接触した後の二月二三日の両名の行動

その後、宮﨑とA子は富山駅構内で話を交わすこととなり、午後七時三〇分頃には、同駅北口駐車場からZに乗つて「銀鱗」に向かい、同店で食事を共にした後、午後九時三〇分頃には北陸企画に着き、その晩両名は同所に宿泊した(<証拠>)。

ウ 二月二四日の両名の行動

翌二四日、A子は、午前七時四〇分頃、自宅の母に電話し、前夜帰宅しなかつた理由を説明した上で、かねて同行を約束していた「母と子の集い」には架電先から送つてもらつて出席すると明言し、午前八時四〇分に富山赤十字病院前で母と落ち合う旨を確約した。

しかし、A子は、待ち合わせ場所に赴くことなく、午前一〇時過ぎ頃、宮﨑とZに乗つて外出し、富山市<住所省略>の喫茶店「ドング」に入つて食事をした後北陸企画に帰つた。そして、宮﨑は、A子を事務所に残して、長男松夫の授業参観に出席するために一旦帰宅することとし、松夫の通学する富山市××小学校に赴いたが、既に授業参観は終了しており、仕方なく松夫と母ハナと連れ立つて買い物をした後、午後四時頃A子のいる北陸企画事務所に一人戻つた。

午後七時頃、両名はZに乗車して事務所を出発し、午後八時頃、富山県婦負郡<住所省略>所在のドライブイン「キャニオン」に立ち寄つて夕食を取つたが、その際、宮﨑が財布を忘れ、A子も金の持ち合わせがなかつたことから飲食代金を借りることとし、丁山知子名義の借用書を書いて同店の経営者に渡し、午後一〇時前に再度北陸企画に戻つた。そして、その夜宮﨑は、A子一人を事務所に残して帰宅した(<証拠>)。

エ 二月二五日の両名の行動

二月二五日午前中、宮﨑は、母ハナと松夫を連れて自宅からZで出発し、富山市内で用事を足した後、ハナらと別れ、昼過ぎ頃に北陸企画に着いた。なお、A子は、正午頃北陸企画から母夏子の勤務先に架電し、前日帰宅できなかつた理由、現在「北陸企画」という場所にいること、今日は必ず帰ること等を伝えている。

事務所に帰つた宮﨑は、食事をしていないA子に手巻き寿司を買い与えてから、一旦外出して松夫とハナを自宅に送り届け、その後、富山市内でZに52.4リットル給油した上で、夕刻A子を乗せて事務所を出発した。

宮﨑とA子は、富山市内を走行後、午後六時から七時の間に富士県上新川郡<住所省略>国道四一号線沿いにあるレストラン「まる三」に入つて両名ともラーメンを食べ、更に、前日飲食代金を借用してきた「キャニオン」に代金を支払いに行つたり、Zの運転に興味を示したA子に運転を交替するなどしながら高山市方面に向けて南進し、午後八時過ぎ頃岐阜県吉城郡<住所省略>所在通称数河高原にある喫茶店「エコー」に立ち寄り、午後九時三〇分頃同店を出たが、これ以後のA子の生存を確認した目撃者はいない(<証拠>)。

オ まとめ

以上により、二月二三日A子と宮﨑が接触して以来二五日夜まで、A子は一度も帰宅することなく、宮﨑の管理する北陸企画にとどまるか、宮﨑が運転する車で出掛けていたことが認められる。

(2) A子が宮﨑と行動を共にしていた理由

そこで、次に、A子が帰宅せずに北陸企画又は宮﨑の下にとどまつていた理由を検討する。

ア 二月二四日及び二五日のA子の母への電話

右両日にA子が母に電話連絡を取つたのは前述したとおりであるが、右電話内容のうち、A子が帰宅せずに宮﨑と行動を共にしていた理由として説明する部分を摘示すると、以下のとおりである。

二月二三日夜富山駅で宮崎から声を掛けられ、アルバイトに誘われてその話をしているうちにバスの時間を過ごしてしまい、その晩は宮﨑の勧めに従つてその事務所に泊まつた(以上、二四日の電話)。二四日朝の電話で約束した「母と子の集い」に行かなかつたのは、宮﨑が送つてやると言つていながら忙しそうにしていて、待つているうちに間に合わなくなつたためであり、二四日に帰宅しなかつたのも、送つてやる送つてやると一時間延ばしにされ、最後は社長が酒を飲んで送れなくなつた、明日必ず送つてやるからもう一晩泊まるようにと宮﨑から言われたためである。宮﨑は引つ越しに忙しそうでなかなか送つてもらえなかつたが、今日は一緒に家まで行つて話をしてくれると言われた(以上、二五日の電話)。

(1)で述べたA子の富山駅までの行動状況等及び右の説明内容、その際の応答状況を総合すると、一向に帰宅しない理由について具体的かつ一貫した説明がされていることに加え、① かねて約束していた集会の開始時間前に電話をしてきた上でその件を話題にし、直ちに待ち合わせ場所まで送つてもらつて母のもとに赴く旨をA子の側から申し出ていること、② 再度の電話の際には、町名こそ不正確とは言え、「北陸企画」なる場所から連絡していることを明らかにしていること、③ その電話の際母夏子が泣きながら帰宅を懇願するとA子もめそめそ泣き出して応答していたこと(前記乙野夏子証言)といつた事情が認められ、これらは、A子が帰宅あるいは待ち合わせの約束について真実これを履行する意思を有していたこと、換言すれば、A子が母に説明したとおりの宮﨑の言動により引き留められていたことを指し示すものと評価できる。一方、無断外泊の単なる弁解として虚偽の説明をA子が行つたことを疑わせる事情は、証拠上見いだし難い。

なお、A子の二五日の電話内容には、何時頃送つて行けばよいか家人の都合を聞いておくよう宮﨑から言われた旨を述べている部分があるが、右電話は宮﨑の不在時に掛けられ、しかも、宮﨑が右事務所に立ち戻るや唐突に通話が切られたことが推認されるのであつて(前記乙野夏子証言)、A子の架電について宮﨑が真実これを是認していたものとは解されない。

イ 宮﨑の公判廷での弁解について

a 弁解内容の要旨

宮﨑は、長野事件で逮捕される直前から、A子を誘拐した事実を一貫して認めていたが、第一において略述したとおり、公判段階になつて全面的に否認し、次のような弁解をしている。

二月二三日以前(二月一二日頃)に「銀鱗」において、A子を北野から初めて紹介された。二月二三日午後「小枝」で、北野から「午後六時にこの前の女の子を富山駅に迎えに行つてくれ。」と頼まれ、その依頼に従つてA子を同駅に迎えに行き、事務所に連れて行つた。その後二五日までの間にA子と行動を共にしたことがあるのは、A子と北野との用事(北野が他の男性を紹介する売春アルバイトだと思つていた。)が終わるまで相手をしていたに過ぎず、事務所に引き留めたことも、自宅に送つてやると言つたこともない(<証拠>)。すなわち、宮﨑はA子を誘拐したものではなく、A子は帰宅しようと思えばいつでも可能な状態だつた。

b 弁解内容の不合理性

① A子が北野と待ち合わせをしていたとは認められないこと

宮﨑の右弁解によれば、二月二三日午後六時に、北野とA子は富山駅で落ち合う約束をしていたことになる。

しかし、当時のA子の行動は(1)のアで述べたとおりであり、×○△△証言によれば、同女と金沢で買い物をしていた際に時間を気にしていた素振りはなく、富山駅で人と待ち合わせをしている話が出た形跡も窺われない。加えて、富山駅に到着するなり自宅に電話し、直ちに帰宅したい旨伝えていること、金沢で買い物に金を使い果たし、帰りのバス代さえも所持していなかつたことを併せ考慮するときは、待ち合わせの約束に基づいてA子が富山駅で降車したとは到底考えられない。なお、当日のように富山駅に赴くことがA子の当時の行動状況からみて例外的であつたことは関係証拠上明らかであり、その富山駅で別の約束があつたのなら(しかも、宮﨑の供述に従つても、一週間程度前に交わしたばかりである。)、これを夕刻駅に着いてもなお失念していたとは通常考えられない。

② 宮﨑が富山駅にいた時間の不合理性

宮崎が富山駅駐車場にZを入れたのは午後四時二三分であり(駐車整理票発行時刻表甲一五二)、また、A子と富山駅で接触したのは午後七時一五分過ぎである(前記×○△△証言等)から、宮﨑は予定の時間である午後六時の一時間半以上も前に駅に行き、一度しか会つたことがないというA子を、予定の時間を一時間以上過ぎても待つていたことになるが、これは不自然さを免れないところ、この点についての宮﨑の弁解(<証拠>)は曖昧で疑問を解消させるものとは言い難い。

③ 誘拐実行とA子の出迎えという二つの目的の矛盾

宮﨑は、富山駅に赴くに当たつては、誘拐の相手を捜す目的もあり、仮に適当な相手が見つかつたときは、A子のことは放置していたと思う旨供述する(<証拠>)が、この両者の目的を兼ねて富山駅に向かつたとする供述が著しく不自然であることについては多言を要しない。

④ 「銀鱗」で宮﨑、北野及びA子が会つたとする主張とは矛盾する証拠が存すること等

宮﨑は、二月一二日頃の午後五時過ぎ頃、「銀鱗」のC2又はC3番テーブルで、三名がそれぞれホットコーヒーのみを注文したと供述し、その後この点について再三確認されたが、右供述を維持している(<証拠>)。ところが、<証拠>によれば、二月一〇日から二二日までの間の午後五時台に右テーブルに着席した三人連れで、ホットコーヒー三杯を注文した客は存在しない(もつとも、二二日等にホットコーヒーとケーキを各三人分注文した客の存在は認められる。そして、宮﨑の公判審理の最終段階の一八二回、一八五回において、コーヒーとケーキを注文した旨の発問及び供述をしているが、それまでの供述の一貫性(例えば、八〇回公判では、右の引田証言を引用して尋問されているにもかかわらず、ケーキも注文した旨の事実はないと明言する。)からすると、客観的な証拠の提出の後になつてつじつまを合わせようとした疑いが濃厚であると結論せざるを得ない。)。

なお、宮﨑及びその弁護人は、期日外奥野弘証言甲八九七[四五回同]を取り上げて、弁解の裏付けがあると主張しており、なるほど「銀鱗」の調理主任である奥野の右証言中には、宮﨑が北野及び若い女性一名とC2番テーブルに座つているのを目撃したとの内容が含まれているので、この点について付言する。

奥野は、北野とは高校時代親しく交遊した同級生であり、その意味からは、右証言を軽視し得ない面があることは否定できない。

しかしながら、右証言は、三人を目撃した日におけるその他の記憶として、職場でリーダー会があつた日であることのほか、得意先の仕出し屋からの洋食の注文があり材料を調理場まで運搬する際のことであつた点を挙げ、後日の確認で二月二二日の午後四時過ぎ(又は二時)頃であつたと断定する。ところが、<証拠>によれば、二月二二日A子は、午後一時三〇分頃から午後四時四〇分頃まで△△方で過ごし、その後、自動車学校に行くと言つて同女方を辞したこと、事実午後五時四五分から教習所で指導を受けていることが認定できるのであり、A子の言動や時間の関係からすれば、二月二二日午後四時過ぎ(あるいは二時)頃に「銀鱗」に来店していた可能性は考えられない。

目撃状況が特定の日付けて密接不可分な関係にある奥野証言においては、右の矛盾を単に日付けのみの誤りと解することは困難であり、更に、奥野自身、問題の三人を見たと言うのは記憶違いだつたという趣旨を昭和五五年に警察官に対して供述し、調書も作成されている事実を証言している点をも勘案するときは、前記証言内容全体に対して疑問を抱かざるを得ない。

以上に加えて、「銀鱗」では北野が席を立つて奥野(当時の姓は、金山)と話をしていたとする宮﨑の供述(二六回、八〇回)に対し、奥野は三人を目撃した際には北野と言葉を交わしていない旨断言する点の食い違いも存し、結局、奥野証言は宮﨑の弁解を補強する裏付けとなるには程遠い証拠と言わなければならない。

c 弁解内容の変遷

① 二月二三日以前にA子と会つたとする日の特定について

第一回公判直前の九月三日付けで宮﨑が弁護人に宛てて差し出した手紙(弁四三五[弁四五〇])には、A子を北野から事前に紹介されたことがある旨の記載があるが、それは事件の一週間位前(計算上は、二月一六日頃となる。)であつたとされている。

この点に関して、証人として尋問された宮﨑は、当初、自分の誕生日である二月一四日の二日前だと思う、誕生日当日とその前日である一三日ではない、また、二月一一日以前ではないと明言していた(二六回、三四回、三五回供述)。なお、九日午後から一一日にかけて宮﨑が富山にはいなかつたことに争いはない。

ところが四〇回公判において、北野の弁護人から、当日夕刻A子を紹介されるまでの宮﨑や北野の行動を尋ねられこれに答えた後、二月一二日、一三日は金融業者のもとに金策のため赴いていることが客観証拠上明らかであり、その時刻等と宮﨑の右の説明に齟齬があることを指摘、追及されるや、日付けの特定はできないと供述するに至つた。

自己の無罪主張との関係で果たす役割について十分認識した上で、手紙あるいは公判において、以前にA子と面識を有していた旨宮﨑が叙述したことに疑いを容れる余地はなく、その中心的要素の一つである日付けの特定に関し、以上のような経緯で供述を翻した場合、供述全体の信用性が大きく減殺される結果となつてもやむを得ないであろう。

② 富山駅でA子と会つたときの状況について

前記の弁護人宛ての手紙では、北野から、当日午後五時三〇分から六時の間にA子と会うことになつているから迎えに行つて欲しいと頼まれたので、富山駅に行つて待つていると、A子と友人が駅正面に来たので、駅入口の近くまで赴いたところ、A子は友人と別れた後宮﨑に気付いて、「遅くなつたのでいないと思い高岡で遊んできた。ごめん。」と謝つたというのであるが、公判廷では、北野から指定された時刻は午後六時であるとし、出会つた状況に関しては、A子が駅待ち合い室の前を通り過ぎ、横の階段の上がり口付近に至つたとき、宮﨑の方から、「随分遅かったのね。」などと声を掛けたとする。また、約束の時間に遅れたことについても、「銀鱗」で食事をした際に、A子が、金沢に父と友人と寮を見に行つたためであるとの説明をした旨供述している(二六回)。

これらの説明を対比すると、A子と出会つた状況という核心的場面につき、看過できない明白な変遷が認められるのである。この点に関して宮﨑は、それほど正確に書かなければならないという頭で手紙を記載したわけではない旨弁解するが(一五八回)、目前に迫つた公判での無罪主張を意識しつつ右の手紙を記したとの一貫した公判供述(六四回、一五八回)に照らすと説得力に欠け、結局二三日夜に関する公判供述についても信用性は著しく低いものと評価せざるを得ない。

d A子との事前の面識についての捜査段階における供述状況等

二三日以前にA子と面識があつたとの点に関し、宮﨑は捜査機関に対して全く供述していない(この点に争いはない。)。

この理由について、前記の弁護人宛ての手紙の中では、警察で言つても信用されないと思つた、A子のアルバイトが売春的なものであるからA子の友人の証言を得られない、北野がA子との面識を否定している、A子に紹介した相手の男の名前を北野から聞いていないので証明できない等の事情を挙げている。これに対して、公判廷では、A子と面識があつたと言うと更に詳しく説明しなければならず煩わしいし、北野がA子を殺した事実は変わらないから自分にとつてどちらでも同じことと思つていた、北野がA子を誘拐の対象にしようと言い出したときに強く反対しなかつたので自分にも責任があると思つていた、富山に来てからの捜査は誘拐という前提で始まつていたので宮﨑はそれに逆らう積もりはなかつた、北野に多少とも不利になることは隠したかつた等弁明する(三四回)。

逆に、供述するに至つた動機については、前記手紙において、他人のことばかり考える必要もないし、証言が得られるかもしれないと思つたからと記載しているのに対し、公判廷では、公判が始まつてからつじつまが合わなくなつたら困ると思い真実を話すことにした(六四回)とか、法廷は真実を明らかにするところと弁護人に説得されて納得したから(一五八回)などと説明している。

これらを検討すると、事実の秘匿及び暴露の理由についていずれも、時期を異にする説明の間に軽視できない相違が認められるが、前記cでも触れたように、公判廷で無罪主張をしようと決意した以後のものであることには変わりないのであり、こうした相違が生じること自体理解に苦しまざるを得ない。

更に、挙示された理由の内容についてみても、特に北野との共謀及び北野によるA子殺害を捜査官に供述した段階においてもなお、事前の面識について秘匿しなければならなかつた必要性は遂に窺われないのであつて、宮﨑の前記弁明は、この点の疑問を解消するに足る根拠を提示したものとは到底解されない。

(3) まとめ

以上要するに、母に対する電話におけるA子の説明に不自然な点は認められない一方、宮﨑の公判廷での主張は、動揺や他の証拠との矛盾を少なからずはらんでいて到底信用できない。

したがつて、宮﨑は、二月二三日、それまで一面識もなかつたA子に対して富山駅で声を掛け、「銀鱗」に誘つて食事を共にした上、「アルバイトがある。後で自宅まで送る。」旨欺き、これを信じた同女を北陸企画に伴い、その後再三にわたつて「必ず送り届ける。」と約束したものの履行せず、その結果、二五日までの間、宮﨑の言を信じたA子を自己の管理する北陸企画事務所内に引き留め、又は、同所から外出する際に同女を同行させたことが認定できるのである。

(二) 宮﨑がみのしろ金を要求するためにA子宅へ電話した事実

(1) 二月二五日のA子宅への電話

宮﨑は、二月二五日午後四時頃、富山市内の公衆電話からA子宅へ連絡したが、両親が不在で祖父△△が応対に出たため、次に、父の勤務先へ電話を試みたものの、番号を聞き誤つたため果たせなかった(<証拠>)。

なお、宮﨑は、公判廷において、この時点で初めて北野から誘拐計画を打ち明けられ、その指示に従つた行為であると供述しており(二七回、三四回)、右の電話が、A子の誘拐を前提にして、みのしろ金を要求する準備的な行為の意味を有していたこと自体は自認している。

(2) 二月二七日のA子宅への電話

宮﨑は、二月二七日午前一〇時過ぎ頃、再度富山市内の公衆電話からA子宅へ架電し、みのしろ金を要求する意図の下に、父四郎を午前一一時に富山市内のレストランに呼び出した。なお、四郎らは、指定場所に赴いたにもかかわらず、宮﨑との接触を果たせなかつたが、その理由について、宮﨑は、この電話のときも応対に出たのが祖父だつたため、右呼び出しの件がA子の父に伝わることはないと考え、指定した場所へは足を運ばなかつたと説明している(<証拠>)。

(三) 総括

宮﨑に対する誘拐罪の成否についての以上の検討により、次の結論を導くことができる。

(一)の(3)で指摘したように、宮﨑はA子に対して詐言を弄し、これにより誤信した同女を北陸企画に宿泊させるなどしていたのであるが、前記一で認定した犯行までの経緯及び右の(二)で挙示した宮﨑の架電状況をも勘案するときは、二月下旬までの間に漸次具体化していたみのしろ金目的の誘拐計画に基づいて、A子を欺罔する所為に宮﨑が及んだことは疑問の余地がない。そして、その後A子は、騙されていることに気付かないまま宮﨑らの経営する北陸企画(当時北野は帰宅中で不在)にとどまることになつたのであつて、宮﨑の支配下に置かれていたと評価できることも明らかである。

なお、宮﨑及び弁護人は、当初の計画に基づいて誘拐が敢行されたにしては、二五日まで殺害行為がされず、しかもその間北陸企画にA子一人を放置していた時間帯もあるほか、二人で外出したときも人目につく行動に出ており、特に「キャニオン」で自己の氏名を借用書に記載しているのは不自然であると主張する。確かに右のような諸事実が存在し、計画的犯罪の側面とそぐわないかのごとき印象を与える面のあることは否定できないが、本件直前のD川二郎、E谷三郎に対する対応をみても誘拐計画に相当杜撰な一面があつたことは明らかであり(みのしろ金の受交付手段についても具体的な成算があつたとは到底考え難い。)、また、宮﨑において計画の更なる遂行を逡巡していた可能性も考えられるから、前記認定を左右するものとは言えない。更に、第二部で詳述するように、共同経営者であつた北野との共謀は証拠上肯定できない(二三日以降に北野とA子とが出会つたことも認められない。)が、A子の滞在した間宮﨑は北野を北陸企画から遠ざける工作を施していたと考えられるので、やはり前記結論には影響を与えない。

最後に、以上の結論は、宮﨑が信用性を争つている捜査段階での同女の供述を認定の用に供することなく導かれるものであるが、捜査段階の供述も、右の結論の限度では、長野事件による逮捕の直前の取調べ時点からこれを一貫して認める内容となつており、他方真実を述べなかつた理由として宮﨑が公判で供述する事情は、(一)((2)イd)において掲げたような内容に過ぎず、到底説得力あるものとは解されない。したがつて右の結論に合致する限度で捜査段階の供述に信用性を付与することができる。

2 殺人、死体遺棄罪に関する正犯性について

宮﨑がみのしろ金目的の誘拐殺人計画を二月下旬の時点で計画し、同月二三日A子を同目的で誘拐した上、以後二五日まで自己の支配下に置いた事実を前提に、この項では、その後A子が殺害、遺棄された事実との関連性、すなわち、殺人、死体遺棄が宮﨑の当初の計画の実現として行われたものであるかについて論じることとする。

この点に関し考慮すべき事情は、次のとおりである。

(一) A子と一緒に「エコー」を出てから、時間的、場所的に近接した状況で同女が殺害されたと考えられること

A子の死因が絞頸による窒息死であることについては、1で認定した同女の二五日までの行動に加え、死体の状況(<証拠>)及び宮﨑の主張を総合すれば疑いの余地がない。

そこで、その死亡時刻について関係証拠を検討すると、A子がしな竹入りのめん類を食べてから二ないし五時間のうちに死亡したものと推測する旨の専門的知見が示されており(右勾坂馨3.26鑑、同証言)、これを疑わせる証拠はない(宮﨑は、最終陳述において、右証言を引いて食事後少なくとも六時間は経過してから殺害されたと主張する(最終意見陳述書二五八頁)が、証言の内容を誤解ないし曲解した議論であることが明白であり、採用できない。)。

一方、二月二五日午後六時から七時の間に、宮﨑とA子が「まる三」でラーメン」を食し、午後九時三〇分頃に「エコー」を出てZに乗車した事実が証拠上動かし難いことは既述のとおりであり(1の(一)(1)エ参照)、A子の体内から検出されためん類等が「まる三」のラーメンであることも前記勾坂証言等を待つまでもなく争いのない点であるから、「エコー」を離れた午後九時三〇分頃から翌二六日午前零時頃までの間に殺害行為が行われたと推定することが可能になる。

もつとも、Z助手席上及び助手席床面フエルトには一定量のA子の失禁が認められ(<証拠>)、これらは絞殺された際に排出されたものと推定されるところ、A子が「エコー」店内で便所に入つていること(<証拠>)をも考慮すれば、「エコー」を出た午後九時三〇分直後ではないと考えるのが自然であり、また、午前零時という終期も絶対のものとまでは断定できないが、以上を勘案するときは、いずれにせよ同時刻を中心とした深夜の犯行であることは確実であり、宮﨑と二人連れでいるところを目撃されてから時間的に近接して殺害が行われたと評価することが可能である。

次に、殺害場所を一地点として限定することは本件では困難であるが、殺害の後に一連の所為として敢行されたことには争いのない遺棄行為がされた場所は、「エコー」と約四キロメートルしか離れておらず、自動車での所要時間は八分足らずであつて、極めて近接した場所であると言える(<証拠>)。

(二) A子の死体遺棄現場を正確に指示できたこと

宮﨑は、五月五日の現場引き当たり捜査の際、戸市川寄り(南東側)に林立する杉林等を注視しつつ町道戸市線を歩行し、死体遺棄現場から約一〇メートル離れた北東の地点に花が供えられていたため惑わされやすい状況にあつたのに、死体遺棄現場を正確に指示したことが認められる(<証拠>)。

宮﨑は、公判廷等において、死体遺棄現場を指示できた理由に関し、二月二七日北野と国道四一号線をZで走行中、現場を教えてもらつたからであるとし、その状況について以下のように供述している。「北野は、国道四一号線の崖側に停車し、下方の町道越しに見える戸市川岸の杉並木の一番左端の方にA子の死体を捨てたというので、崖側に位置している助手席から下を見ると、林の切れ目が見え、また、雪の所に死体らしき黒い物が見えた(<証拠>)。」

しかし、58.2.25施行検証(甲九六五)の結果によれば、町道との間に林立する杉林があるため、四一号線上から戸市川岸の杉林の切れ目の存在が判然としているとは到底言い難い状況であり、また、遺棄現場に死体に擬した物体を置いた場合にこれを四一号線上から視認することもできなかつたことが認められるのであるから、町道上に降り立たない限り、前記のように正確な指示をなし得たはずはない。更に、後述するように、そもそも北野が死体遺棄に及ぶため現場に赴いた可能性もないのであるから、宮﨑の右弁解は到底措信できず、前記指示状況は、遺棄の際宮﨑が臨場していたことを指し示す一事情と解することができる。

(三) 二月二六日A子の遺留品を処分していること

宮﨑は、二月二六日にA子のハイヒールやバッグ等をZで運搬し、富山市内の呉羽公園内に投棄しており、四月二九日遺留品の捜索に同行して投棄場所を指示したところ、A子の遺留品が現実に発見されている(<証拠>)。

(四) 二月二七日A子宅へみのしろ金を要求するための電話をしていること

前記1の(二)の(2)で検討したとおりである。

(五) 宮﨑の公判廷での弁解について

(1) 弁解内容の要旨

宮﨑は、公判廷において、二月二五日午後一一時三〇分頃、事務所で北野にA子を託し自己は帰宅したところ、翌二六日午前四時前に北野から電話で北陸企画に呼び出され、同所で、予想もしていなかつた殺害、死体遺棄の事実を告げられたと弁解している(三〇回等)。

(2) 弁解の虚構性

右の弁解は、宮﨑はA子を誘拐していないとの前提と不可分一体のものとして主張されているところ、この前提が到底受け入れ難い内容である以上、そもそも脆弱なものであるとの評価を免れ難い上に、次のように不合理、不自然な点を抱えている。

ア 二月二五日から二六日までのZの走行距離について

宮﨑は、二月二五日から翌日にかけての給油状況及び燃費によつてZの走行距離を計算すれば、二月二五日深夜一度北陸企画に帰つてきた後、北野がZに乗車して数河高原に出掛けたとの弁解が裏付けられると主張する(最終意見陳述書二五一頁)。

すなわち、関連する証拠を検討すると、まず次の各事実が認められる。

① 二月二五日Zにいわゆる満タン状態まで給油が行われ、翌二六日にも同様にして四五リットルの給油がされた(<証拠>)。

② Zと同型車(初度登録はZの前年)に本件当時と同様の冬期用滑り止め特殊タイヤを着装した状態でされた走行実験の結果、実験車の燃費は約8.31キロメートル毎リットルであつた(員58.1.28報甲九七二。なお、右書証に8.53キロメートル毎リットルとあるのは誤記と認める。)。

次に、①に記載した二回の給油の間の走行過程がすべて客観証拠によつて明らかにされているわけではないが、宮﨑の公判供述に基づいて走行実験したと思われる員57.6.3報甲九七〇を基準にして(実測三五八キロメートル)、これを四五リットルで除すると、計算上の燃費は約7.8キロメートル毎リットルとなる。

宮﨑は、右の計算の結果の燃費(富山市内をA子とドライブした距離を加算すると、数値はより高いものが得られるとする。)と、②の実験結果のそれとが近似しているから、一旦北陸企画に戻つたことは間違いないと主張するのである。

しかしながら、右の立論には次のような疑問が生じる。

すなわち、上村浅次郎(当時富山日産自動車株式会社サービス部次長)58.2.18検面甲九七五によれば、Zの型式であるHS一三〇型の車が通常の市街地運転をした場合の燃費(いわゆる一〇モード燃費)は一リットル当たり八キロメートルであり、スノータイヤ着装の場合は六ないし七キロメートルに低下する、前記走行実験において特殊タイヤを着装しながら一リットル当たり八キロメートルも走行しているのは運転技術が良好な結果であるとされている。したがつて、右の実験結果については、これを行つた運転手の技量が優れている上に、実験であることを意識して慎重な運転をしたことが原因となつている可能性が高く、その数値を絶対視し、本件Zにそのまま適用するのは多分に問題がある。

そこで、Zを日常使用していた北野及び宮﨑自身の供述を検討すると、まず、北野は、普通タイヤで市街地走行の場合は一リットル当たり約七キロメートル、長距離走行の場合7.5ないし9キロメートル、スノータイヤで市街地走行の場合は五キロメートル以下であると供述している(一〇五回北野供述一一、一九六丁以下)。一方、宮﨑も、Zの燃費が通常で約七キロメートル毎リットルであることは自認しており(期日外57.9.21宮﨑供述五、二〇五丁)、これらの供述に前記上村58.2.18検面を加味して考えると、スノータイヤの場合の燃費に関する北野の供述に著しい誇張があるとは解されないのであつて、少なくとも、北野又は宮﨑が本件当時のようにスノータイヤを着装した状態で運転した場合のZの燃費が、一リットル当たり七キロメートル以上になる可能性を否定することはできよう。

これに加えて、二五日には運転仮免許を取得しているに過ぎないA子も一部の区間を運転していること(この点は宮﨑が自認する事実である。)をも考慮するときは、前記7.8キロメートル毎リットル(以上)という計算値は非現実的であり、したがつて、その基礎になつている総走行距離に関する宮﨑の前記公判供述も極めて疑わしいものと断ぜざるを得ない。

更に付言すれば、宮﨑が北陸企画に戻り北野が数河高原に赴くために要する距離(約一二五キロメートル)を右の総走行距離から減じて、その間の燃費を算出すると、約5.1キロメートル毎リットルとなり、これに当初数河方面に向かう前の富山市内でのドライブ等の分を走行距離中に含めた場合の伸び分を加えると、本件Zの燃費としては極めて無理のない数値を得られることが明らかであり、燃費に関する証拠は、宮﨑の主張に反し、二五日の給油から二六日の給油までの間に、Zが北陸企画から死体遺棄現場まで一度しか走行していない事実をむしろ指し示していると理解されるのである。

イ 二月二六日早朝北野からA子殺害を打ち明けられたとの点について

宮﨑の弁解(三〇回、六八回宮﨑供述)によれば、二月二六日午前四時前、北野から宮﨑宅に電話があり北陸企画に呼び出されたのでバンで急行すると、一五分程して北野がZで同所に到着し、そこで北野からA子殺害の事実を告げられ、三〇分ないし四〇分の会話の後宮﨑がA子の遺留品の始末を引き受けると、北野はバンで帰宅し、その後の午前五時頃に宮﨑は、路上駐車してあつたZを事務所内に入れたというのである。

しかし、北陸企画の隣家の住人である渡辺義男4.19検面甲七七八は、二月二六日午前四時一〇分頃に同事務所の高窓に灯りが見えたものの物音一つせず、その後午前六時五〇分頃に同人が家を出るまで引き続いて事務所内は点灯していたが、物音はこの間も聞こえなかつたとしており、しかも、当日は出張を控えていて事務所の灯りで目覚めて時刻を確認したこと、その後も灯りが気になつて寝つかれなかつたこと、通常事務所内に電灯がついている際には物音や話し声が聞こえるのに、このときに限つて全く静寂だつたので不気味に感じたこと等が具体的に述べられていて、その信用性は高いものと考えられるのであつて、事務所と同人の家屋の位置関係等をも併せ考慮すると、その頃弁解にかかるような頻繁な出入りが宮﨑らによつて行われたというのは不自然であると言わざるを得ない。

ウ 宮﨑ハナ証言の信用性

宮﨑の母ハナは、宮﨑が、二月二五日午後一〇時頃帰宅し、二六日の早朝北野からの電話で、あわてて事務所に出掛けて行つた旨供述し(期日外同証言弁二〇七[弁一九五])、これがすべて真実ならば、ア及びイの検討結果を揺るがし、宮﨑の公判での弁解全体にわたつての有力な裏付けとなることは明らかである。

そこで、右ハナ証言の信用性を検討するに、まず、二月二五日の宮﨑の帰宅時刻については、翌二六日富山県警察の村上補導員がA子の件で事情を聴こうと宮﨑宅に電話した際にも、不在の宮﨑に代わつて応待したハナは、二五日午後一〇時頃に帰宅したと答えており(一〇回及び一一回村上幸子証言甲三八六)、ハナがこの時点でA子殺害の件を知つていた可能性は考えられないから、宮﨑をかばうために虚偽の事実を述べたものと言うことはできない。

しかし、ハナの前記証言内容を予細に検討すると、同女は当夜宮﨑が帰宅する以前に就寝したものの、その後宮﨑の帰つて来た物音に気付いたことから、帰宅時刻は眠りがまだ浅い午後一〇時頃だろうと思つたというのに過ぎないのであり、時計による確認等の客観的な根拠があるわけではなく、右証言を宮﨑の弁解の具体的な裏付けとなる証拠と解することはできない。

次に、二月二六日早朝北野から宮﨑宅に電話があり、終了後宮﨑が急いで事務所に行つたとする点については、北野の口調、宮﨑を起こした際の状況等について相当具体的に供述している点で、その証明力について慎重な検討を要する。

しかしながら、ハナは捜査段階における警察官及び検察官の取調べに対して右事実を全く供述せず、公訴を提起された後相当期間を経て、弁護人や捜査官にこれを開陳するに至つたことが明らかである。

そして、この点に関する公判での尋問及び応答の経過をたどると、理由を明確にしようとする姿勢に欠けたまま弁疎に努めていることが容易に看取され、しかも、挙示された理由(宮﨑をかばう意味で言わなかつた、はつきり分からないことは言わなかつた、取調べ時間を短くしてもらいたかつたので言わなかつた等)も、全体的な一貫性を欠如していることが明白である。

ハナ証言に対して以上のような吟味を加えるときは、単に供述が詳細であるとの一点をもつて、これに信用性を付与することはできない。

なお、宮﨑の前夫である丁山梅夫の証言(期日外弁二〇八[弁二〇六])の中に、ハナの証言に符合するかにも思われる内容を同女から聞いたとする部分がないわけではないが(六、七二八丁)、その内容は余りに抽象的で、日時、宮﨑の電話の相手についてさえ明らかでないのであり、これをもつてハナ証言を補強しその信用性を肯定することは困難である。

エ 捜査段階における供述状況

捜査段階において(1)のような弁解を一切していないことは、宮﨑自身が認めるところであるが(三四回宮﨑供述)、少なくとも二五日の深夜北陸企画に立ち寄つた点についてことさら捜査官に秘匿しなければならなかつた理由は何ら見いだすことができず、この点についての宮﨑の説明(三四回)も曖昧なままに終始していて措信するには値しない。

(六) まとめ

以上を総合すると次のとおりの結論に達する。

まず、当初の誘拐殺人計画に従つて既に誘拐に成功し、いつでも次の段階に進むことが可能な状況下にあつたことが証拠上認定できる時点から間もなくA子が殺害、遺棄されており(前記(一))、計画に特段の障害事由が発生した形跡は全くない上、引き続いての遂行を裏付ける宮﨑の行動も認められる((三)、(四))のであるから、宮﨑の描いた計画の一環として殺人等が犯されたことは優にこれを認定できる。

更に、犯行の際宮﨑が臨場していたことも確実である((一)、(二)、(五)の(2)ア)。

次に、公判における宮﨑の弁解は、明らかに虚偽であるとの認定に既に達している主張(A子を誘拐していない)を前提に組み立てられている点でそもそも首肯し難いばかりでなく、(五)(1)に記載した部分に限定してみても不自然、不合理な点があつて、到底信用できない。

なお、宮﨑の捜査段階での供述中右の結論に沿う部分については、1(誘拐罪の成否について)の(三)で指摘したのと同様の理由により信用性を肯定することができる。

3 殺人、死体遺棄罪に関する実行正犯性について

富山事件における宮﨑の刑事責任を判断するに当たつての最後の論点は、右の各罪に関する実行者の特定であるが、この点に関する間接事実を以下で検討することとする。

(一) 宮﨑が単独でA子の殺害、死体遺棄を実行できること

(1) 単独でA子を殺害できること

A子が絞殺された際の具体的状況については、ニトラゼパム系の睡眠薬を服用して熟睡中に、腰紐を二重に頸部にあてがわれて強く緊縛されたものと推認することができる(<証拠>)。

そして、右のような方法による殺害は、睡眠薬と凶器の腰紐さえ所持していれば、幼児のようにごく非力な場合を除き、性別に関係なく何人にでも可能である(右期日外勾坂馨証言)。

ところで、宮﨑が、二月二五日当時、ニトラゼパム系の睡眠薬であるネルボン及びカルスミンを所持していた点に争いはない(<証拠>)。

また、腰紐については、岐阜県下呂温泉「別館よし乃」の新館三階で以前から使用されていたものと同種であること、宮﨑は北野と共に昭和五三年七月に同旅館の新館三階に投宿していること、同所か下呂温泉のもう一軒かは明確でないが室内から紐を持ち出し、事件当時まで北陸企画内に所持していた旨宮﨑自身が公判で自認していること、捜査段階では一貫して下呂温泉から盗み出した紐が殺害に使われたことを認めており、公判に入つても、北野から事後に聞いた話として同旨を供述していること(<証拠>)を総合すると、北陸企画に保管されていた紐が凶器として使用されたことに疑いの余地はない。

したがつて、死亡時までA子に同伴していた宮﨑において、前記の態様による本件絞殺行為を実行することが容易な状況にあつたことは明らかである。

(2) 単独でA子の死体を遺棄できること

体重四五キログラム前後の宮﨑が、ほぼ同程度の体重であるA子の死体を単独で車外に搬出し遺棄することは、当時の現場に堆積した雪の状況を考慮しても十分可能である(<証拠>)。

(二) 宮﨑以外の人間がA子の殺害及び死体遺棄を実行した可能性がないこと

殺害等には一切加担しておらず北野が実行したとする宮﨑の公判廷での弁解が、顧慮するに足りる信用性を有しないことは、2において詳述したとおりであるが、宮﨑は捜査段階における最終供述として、バンに乗った北野が自宅から深夜数河高原に赴いて宮﨑と合流し、熟睡中のA子を殺害した後、二人で遺棄した旨主張しているので、この点を中心に、第三者が実行した可能性についての検討を行うこととする。

(1) 北野が実行したとの宮﨑の供述について

ア バンの走行距離

まず、当時のガソリン使用量及び燃費に関する証拠を検討した上で、北野がバンを運転して右各現場に行くことができたかを判断する。

① ガソリン使用量

二月二〇日と二七日に各一回バンに対して満タン状態までの給油がされており、二七日の給油量は21.5リットルであつたことが認められ、この間これ以外に給油が行われた形跡はない(<証拠>)。

もつとも、宮﨑は、この間に現金で一、〇〇〇円分のガソリンをバンに給油したと公判廷で供述する(一五九回)が、右各証拠からみて、北野と宮﨑は、富山市近辺においては小杉石油及び中川善三郎商店から付け買いが可能であり、事実頻繁に給油を受けていたことが認められるし、その他両名がそれぞれ一枚ずつ所持していた出光ファミリーカードで給油するのも可能だつた(三月の長野事件当時もすべてこのカードにより給油を受けている。五〇回北野供述、五六回宮﨑供述、出光ファミリーカードセンター4.10回答甲二三六等)のであるから、宮﨑が供述するようにそのときだけ現金で、しかも一、〇〇〇円分という給油の仕方をするのは不自然であり、その他、宮﨑自身当該給油日について日時を具体的には明確にできないこと、この期間のバンの給油状況に関し特に作成された供述調書(乙一一九〔宮﨑関係のみ〕)においても、現金買いの点は全く触れられていないことをも併せて考察するときは、右宮﨑供述は信用できない。

② バンの燃費

本件バンを用いて行われた走行実験の結果によれば、その燃費は一リットル当たり一七キロメートルであつたとされる(<証拠>)。しかし、これは、六月という時期で、しかも晴天の日の路面乾燥時における実験結果であり、二月二〇日から二七日という降雪期の走行の場合にそのまま妥当しないと考えられる上、Zの燃費の検討の際記したように(2の(五)(2)ア)、警察官による走行実験の場合は、実際に北野や宮﨑が市街地等を運転する場合よりも相当程度良好な燃費が得られるものと認められるから、前記の数値は問題の期間のバンの燃費としては非現実的なものと考えるべきであり、実際はこれより相当低い値であったことが推認され、バンの冬場の燃費は一リットル当たり一〇キロメートルにも満たないとする北野の供述(一一一回、一一、九五四丁)の方がむしろ実態に合致している蓋然性が高いと解される。

③ 二月二〇日から同月二七日までのバンの走行距離との関係

検察官は、論告において、前記走行実験の際のバンの燃費と二〇日から二七日の間のガソリン使用量を前提にすると、二五日に北野が自宅と数河高原を往復することはできないとして、宮﨑の捜査段階の供述を弾劾している(論告要旨九二頁)。

この論法の思考過程それ自体は正当であるが、第一に、本件バンの燃費を前記走行実験の結果と同一視していることに加え、第二に、第二部の北野の責任を判断する際に詳述するとおり(第四の四2参照)、証拠上は認め難い事実の存在(二月二五日早朝に北野が自宅と北陸企画を往復したとの主張)を当然の前提としている点で問題が残るので、以下その点に修正を加えて検討する。

すなわち、前記走行実験結果は、二月二〇日から二七日までのバンの走行状況を宮﨑、北野の捜査時の供述を基に再現したものと思われるが、その合計約四一一キロメートルに含まれる走行のうち、二五日朝の北野宅と北陸企画との往復分については証拠上その事実を肯定することはできないのでこれを差し引いた場合、残りは三八〇キロメートルとなる。そして、これだけの距離を、①で述べた21.5リットルのガソリンで走行したとすると、その燃費として17.7キロメートル毎リットルという価を導くことができるが、②で結論したとおりこれは非現実的な数値と言わざるを得ず、これを逆に言えば、バンがそれだけの距離を走行したものとは到底解されないことになる。

そこで、前記走行実験結果によつて、三八〇キロメートルという数値の内訳をみると、争点となつている数河高原との往復分を除けば、その余は富山周辺の走行であり、客観的証拠や両名の主張からみてこれらの中から燃費計算に当たつて大きな影響を及ぼすような走行の不存在事実を見いだすことは困難であつて、結局、矛盾の根源は数河高原との往復分にあると推断することができるのである。

事実、三八〇キロメートルから、右の往復分を更に差し引くと、約二二〇キロメートル分の走行が残り、これを基礎に燃費を算出すると、約一〇キロメートル毎リットルという合理的な数値が初めて得られることが分かる。

以上の検討を経るとき、北野がバンでA子の殺害、死体遺棄現場に赴いた可能性は、バンの燃費という観点から事実上否定することが可能である。

なお、死体遺棄現場付近からは、Zのものと考えられるタイヤ痕だけしか検出されていないこと(<証拠>)も、右の結論と合致し、これを補強するという限度において意味を有するものと評価できる。

イ 宮﨑の供述調書における全体的整合性

宮﨑は、北野と数河高原近くで合流した後、同人が殺害を実行したこと等を捜査官に供述する一方で、直前までの謀議では、宮﨑が若い女を誘拐して北陸企画に連れ込んだ後北野に連絡を取ると同時に、機会を見つけて相手に睡眠薬を飲ませておき、北野が事務所内で絞殺するという手順が整つていた旨明言している(5.8検面乙二等)。

ところが、宮﨑がA子を北陸企画に誘い込むことに成功し、二月二三日、二四日と同所に宿泊させているにもかかわらず、謀議に沿つた形でその後の犯行が実行されなかつたことは証拠上明らかである。

したがつて、この点について当然合理的な説明がされるべきところ、宮﨑の供述調書は曖昧なままに終わつているばかりか、二五日夕刻まで北野に連絡を取ろうとはしなかつたこと、その後宮﨑の独断で、事前の謀議に反して数河高原までA子を連れ出したことが録取されているのである。北野が犯行現場に至るまでの経緯に関するこのような叙述が全体の流れに徴して極めて不自然であることは多言を要しないところであり、こうした記載自体からも、北野の実行正犯性については強い疑念が生じるのである。

ウ 北野の供述

北野は、宮﨑の捜査、公判供述を全面的に争い、捜査段階以来、A子が殺害、遺棄された時間帯は自宅で妻風子とテレビを視聴していたと主張し、特に公判においては、その番組の内容を詳細に供述している(一〇九回一一、六六九丁以下)。また、当時北野の妻であった風子も右の供述に沿う証言(期日外弁二一一〔弁一八〇〕)をしているほか、夜一時的に外出した可能性を示唆する同女の供述調書(4.17検面甲一〇六二)によつても、北野が自宅から数河高原まで出掛けて行つてA子を殺害し、死体を遺棄するのに要するだけの長時間にわたつて外出していた可能性は否定されている。

これらの事実のみから北野にアリバイを認定することがいまだ困難であることは言うまでもないが、少なくとも、宮﨑の主張の根拠付けとなる事実が何ら見いだせないことはもとより、北野の弁解に証拠上破綻が見いだし難いことも否定できず、その限度においては、宮﨑の供述の信用性に疑問を投げ掛ける事情の一つとしてとらえることができよう。

エ まとめ

これらの検討を総合するときは、北野が殺害等を実行しなかつたことに疑いはない。

(2) 北野以外の第三者が関与している可能性もないこと

殺害、死体遺棄の実行者として宮﨑が名指しするのは北野以外にいないが、念のためその余の第三者が実行した可能性についても、以下で付言しておくこととする。

このような可能性の有無を判断するために検討を要する証拠として、二月二四日と二五日の夜に宮﨑とA子が立ち寄つたドライブイン「キャニオン」の経営者秋葉明美の証言(一四回、甲三八二)、及び岐阜県古川町上町で「大樹」食堂を経営する小原ふみ子の証言(期日外、弁四八五〔弁一七八〕)の存在を挙げることができる。

まず、秋葉明美証言の要旨は、二月二五日の朝A子らしき女性が男女の二人連れとともに「キャニオン」で食事をしたが、男は北野に似ていないというのである。しかし、既に明らかになつているように、宮﨑及びA子は二月二四日夜「キャニオン」で食事をし、その際、宮﨑が財布を忘れたことから同証人に飲食代金の借用書を書いて渡しているのであり、翌朝もし宮崎が再度来店し、しかもA子を伴つていたとすれば、同証人がこれに気付くのが通常であると思われるが、その場で認知した形跡はなく、警察官の事情聴取を受けた際に写真を示されて宮﨑と似ていると思つたという程度であること、女性の側からも返済の申し出はなかつたところ、当日(二五日)の夜再度宮﨑が来店した際には、宮﨑が申し出て前日の飲食代金を支払つたこと、A子らしい人物についても、警察官から示された写真と似ていると指摘したことはあるものの、二四日来店したA子とは同一人物という印象は持たなかつたと証言していることに照らすと、結局、二五日朝「キャニオン」に来店した二人の女性は宮﨑とA子ではなかつたものと認められる。

次に、小原ふみ子証言について検討すると、同証言によれば、二月二五日と推測される日に女性二人と男性一人の三人連れが、午後九時三〇分から一〇時にかけて来店し、三人ともラーメンを食べて赤色か茶色様の車に乗つて高山方向に立ち去つたとされ、富山事件の報道がなされた頃から、右三人連れのうちの年上の女性が宮﨑であると確信し、警察で面通しをした際も宮﨑と似ていると思つたとされる。そして、証言時(61.5.27)においても年上の女性は宮﨑である旨述べる一方、連れのもう一人の女性がA子であるかどうかははつきりしないが、男は北野と似ていない旨供述している。

しかし、同一の三人連れを小原とともに店内で目撃したと認められる森下宗一の証言(期日外〔一六八回〕甲一三一三)は、三人連れが来店したのは二月二七日とし、これを裏付ける物証も存在すること(員3.22写報甲一三一五)、小原自身三月における警察官からの事情聴取の際には民謡教室の翌日である二七日だつたと供述していること、証言時における日付けの特定は民謡教室の前日だったと思うとするだけで確たる根拠はないこと、更に、小原証言では、三人連れの年下の女性について、運動靴を履いており中学生かと思つたと述べているが、二月二五日午後九時三〇分頃に「エコー」を出たときにはA子は赤いハイヒールを履いていたことが明らかになつており(<証拠>)、また、A子は高校卒業を控えた一八歳であり中学生と見られる可能性は乏しいこと(A子について、一三回高島久雄証言甲三八〇は一八、一九歳とし、一四回秋葉明美証言甲三八二〔弁二四〕では大柄で二〇歳前後の女性と表現している。)に照らすと、二月二五日夜に宮﨑がA子や男性と共に「大樹」食堂へ立ち寄つたものとは認め難く、秋葉証言ともども、第三者の関与・実行を窺わせる証拠とは言えない。

これらのほか、一応問題となるものとして、二月二五日の夜宮﨑が数河高原の喫茶店「エコー」から何者かに架電している事実(第二部第四の四4参照)及び二月二七日午後に富山県上新川郡大沢野町所在の富山県勤労者保養センター「越中」に宮﨑と男性一名が立ち寄つた事実(期日外林秋雄証言弁四八七〔弁一九〇〕)を挙げることができるが、第三者による殺害等の実行の疑いを現実的に生じさせるものでないことは明らかである上、(特に本件公判において訴因変更がなされ検察官の主張が認められれば極刑も十分に予想される段階に至つた後においても)自らが身代わりとなつて助けなければならないほど親密な交際が宮﨑にあつた状況は全く窺われず、宮﨑以外に真の実行行為者が存在する可能性はない。

(三) 殺害場所の認定について

宮﨑は、捜査段階において、一旦は自らが単独でA子を殺害したと供述した後、合流後に北野が殺害した旨供述を変更しているが、これと対応して、殺害場所についても供述を変遷させ、数河高原スキー場無料駐車場と特定したことが認められる(一四二回岡本新治証言甲一二〇五)。

宮﨑が調書において叙述する右駐車場内の情景は具体的であり、実際に同所に立ち入り犯行が行われた疑いも強いが、右のような供述の経緯に加え、殺害当時の駐車場内の状況として宮﨑の描いた図面(5.4付けのもので、5.6員面乙三八に添付のもの等)と右駐車場の管理をしていた証人和田靖樹(期日外甲三九七)が描いた図面とはやや相違している点(和田の描いた図面には二階建ての案内所があるのに宮﨑のものには描かれていない。)に鑑みると、殺害場所を右地点であると断定することにはなお疑問が残るので、判示のとおり古川町大字数河付近と認定した次第である。

(四) 総括

宮﨑の実行正犯性をめぐる以上の議論を踏まえると、次の結論が導き出される。

宮﨑がA子の殺害、死体遺棄を計画し、その現場にも居合わせたことを前提に推論を進めた場合、殺害、遺棄行為の具体的態様に鑑みれば、これを宮﨑単独で実行することは十分に可能であること、他方、実行行為者であると宮﨑が捜査段階で名指しした北野において現場に赴いた可能性はなく、その他の第三者が宮﨑のもとに赴いて実行した形跡も全くないことに照らせば、殺害、死体遺棄の実行行為者は宮﨑であると断定するについて合理的な疑いを容れる余地はない。

なお、宮﨑及び弁護人は、客観証拠上認められるA子に対する睡眠薬の使用につき、宮﨑は捜査段階において死体遺棄の共同実行等を自白していた際にも否定しており、これは殺害に関与していない証左であると主張するが、当裁判所が宮﨑の責任を判断するに当たつては、捜査段階での自白に何ら依拠することなく上記の結論に至つたのであるから、前記の結論を左右する事情とは解されない。

また、宮﨑の捜査官に対する供述調書中には、A子の殺害、死体遺棄を単独で実行した旨述べるものが存在するが、この点での供述はその後変遷を遂げており、右の部分が客観的事実に合致するからといつて、関係する調書の全体(例えば、共犯者の有無)についての信用性を直ちに獲得するものでないことは言うまでもない。

4 富山事件に関する結論

以上検討してきたとおり、宮﨑は、事前の誘拐殺人計画に基づいて二月二三日富山駅でA子を誘拐し、同月二五日の深夜、数河峠付近に駐車中のZ車内において睡眠薬によつて熟睡させた同女を絞殺し、更に、戸市川右岸にその死体を遺棄したこと、右各実行行為のいずれについても宮﨑が単独でこれをなしたことが証拠上優に認定でき、これに反する宮﨑及び弁護人の主張は採用することができない。

三 長野事件

1 宮﨑が公判廷において自認し、客観的証拠によつても裏付けられる事実

富山事件の場合と同様に、長野事件における宮﨑の刑責を判断するに当たつても、まず第一に、客観的証拠及びこれによつて信用性が裏付けられる宮﨑の公判供述を用いて、認定可能な関係事実を掲記することとする。

(一) 宮﨑が三月四日国鉄長野駅周辺で若い女性を誘拐しようとしたが失敗に終わつたこと

宮﨑は、富山事件以前から犯行を計画していたみのしろ金目的の誘拐殺人を敢行する意図の下に、三月四日午後五時三〇分頃、長野駅前株式会社ナガノ東急百貨店(長野市大字鶴賀八二七番地)二階婦人用便所内において、通りすがりのF川秋子(当時一八歳、高校生)を喫茶店に誘つたが断られ、更に同日午後九時三〇分頃、長野市大字南長野末広町所在の長野駅待合室において、迎えの者を待つていたG野冬子(当時一八歳、短大生)を喫茶店に誘つたり、車で送つてやるなどと申し向けたがこれも拒絶され、三月四日はその目的を達することができなかった(<証拠>)。

(二) 宮﨑が三月五日B子を誘拐し、同女を殺害するまで自己の支配下に置いたこと

宮﨑は、三月五日のみのしろ金目的の誘拐殺人の対象とする相手を長野市内で捜していたが、第一(概括的説明)の二の2で示したとおり、帰宅途上にあつたB子を対象と定めて、同日午後六時三〇分頃長野市大字南長野一、四一九番地先路上の「千石前」バス停留所付近で声を掛け、言葉巧みに近くの喫茶店「イタリアンクウォーター'78」に誘つて、その身上関係や自宅の電話番号等を聞き出した後、郊外のレストランで食事をすることを承諾させた。そして、北野と宿泊していたホテル「日興」まで同女を同行してZを取りに行つた後、同日午後七時頃、宮﨑を信用し、その意図には全く気付いていないB子をZに同乗させた上で、更に松本市のレストラン「元庄屋」に赴いて共に食事をし、同日午後一〇時頃、この後は自宅に送り届けてもらえるものと誤信している同女を再度Zに乗車させた(<証拠>)。

その後、宮﨑は、疲れたので休みたいと申し出て、午後一〇時三〇分頃には長野県東筑摩郡明科町所在の長野県道二八号更埴明科線矢越隧道付近にZを駐車させ、翌朝の出勤には必ず間に合うように送るからと欺いて同所で車中泊することをB子に承認させた上で、宮﨑自身も飲むように見せかけてあらかじめ準備してあつた睡眠薬ネルボンをジュースと共に手渡し、これを服用させて眠らせた(<証拠>)。

以上のように、宮﨑は三月五日行きずりのB子に声を掛けた後、巧言により同女をZ内に誘い込んで誘拐に成功し、更に睡眠薬を服用させて眠らせるなどして、その後も同女を自己の支配下に置き続けたものである。

(三) B子が殺害、遺棄された現場に宮﨑がいたこと

(1) B子は殺害、遺棄されたこと

B子の死因については、宮﨑から受領した睡眠薬を服用して熟睡中、腰紐(宮﨑が殺害用にホテル「志賀」から持ち出し、自己のバッグに入れて所持していたもの。)によつて絞殺されたこと、その後長野県小県郡青木村所在の林道弘法線の崖下に遺棄されたことについては、当事者の間で争いがないし、これを裏付ける客観的証拠も存在する(<証拠>)。

(2) 殺害、死体遺棄の現場に宮﨑が臨場していたこと

宮﨑とB子が乗つたZは、三月五日午後一〇時四〇分頃宮下智治によつて目撃され、その時点ではB子はまだ生存していた(期日外同証言甲六四九、三二回宮﨑供述。なお、後記2の(二)(1)ア参照)。

次に、三月六日正午頃、長野県東筑摩郡四賀村大字取出一、二七二番地所在の阿部商店前でZが目撃された際には、宮﨑一人しかZに乗車しておらず、その付近で宮﨑が道を尋ねた際も、その後国鉄明科駅付近でZが目撃された時点においてもB子の姿は認められなかつた(<証拠>)。

この間におけるB子の動静を明確に物語る客観的証拠は存在しないが、その時間帯にB子が絞殺され遺棄されたこと、その時点まで終始宮﨑が同女と共にいたことについては、宮﨑が一貫して自認するところである(三二回宮﨑供述等)。

(四) 宮﨑がB子の遺族に対してみのしろ金要求電話を掛けたこと

(1) 三月六日夕刻、B子の父の勤務先に対する電話

宮﨑は、三月六日午後四時三〇分頃、小諸市内の公衆電話から、B子の遺族にみのしろ金を要求するべく、父甲野太郎の勤務先である長野市内の○○商事株式会社に架電し、同人が不在であると知ると同日午後六時三〇分までに自宅に帰るように伝言を頼んだ(<証拠>)。

(2) 甲野太郎方等に対するみのしろ金要求電話の架電状況

宮﨑は、三月六日午後七時一六分頃、埼玉県児玉郡上里町の公衆電話から、長野市<住所省略>所在の甲野太郎方に架電し、応対に出た同人に、B子を誘拐し預かつていること、みのしろ金として翌日午前一〇時に長野駅待合室に現金三、〇〇〇万円を、B子の姉甲野春子(当時二五歳)に持参させるように要求したのを初めとし、その後も、別紙一(みのしろ金要求の架電状況一覧表)に記載したとおり、Zで移動するに連れて最寄りの公衆電話から、六回にわたつて執拗に金員を要求し続けた(<証拠>)。

以上のとおり、長野事件において、宮﨑が、誘拐殺人計画に基づいてB子を誘拐した上、殺害、死体遺棄に至るまで同女と行動を共にし、更にその後みのしろ金要求行為にも及んだことについては、宮﨑及び弁護人にも争いがない。

2 殺人、死体遺棄罪に関する実行正犯性について

長野事件における争いはこの点に絞られるのであつて、宮﨑は捜査の最終段階から一貫して、誘拐したB子を自ら睡眠薬で眠らせた後、県道更埴明科線上においてホテル「日興」を抜け出してきた北野と合流し、北野がB子を殺害した上、二人で死体を投棄した旨供述する。

以下、富山事件と同様の検討方法により、殺人、死体遺棄についての実行正犯の確定に関し詳述することとする。

(一) 宮﨑が単独でB子の殺害、死体遺棄を実行できること

1の結論を前提にして、物理的な可能性の面から考えれば、富山事件の場合と同様に、宮﨑が熟睡中のB子を所携のバッグ内の腰紐を用いて殺害した上、宮﨑よりはやや重いとは言え六〇キログラムにも満たないB子の遺体(村松正美5.8鑑甲六四)を崖下に投棄することが十分可能であつたことについて、これを疑問視する余地は認められない。

なお、検察官は、B子の着用していたカーディガンの後ろえりの内側と左肩付近に宮﨑の毛髪が付着していた事実(員4.5報甲六二五、瀬田季茂外三名5.20鑑甲六三二、瀬田季茂59.7.17回答甲一一九〇)を挙げて、宮﨑による単独実行の一証左とするが、経験則上両者間の結びつきの強さを肯定することは困難であつて、採用できない。

(二) 宮﨑以外の人間がB子の殺害、死体遺棄を実行した可能性のないこと

(1) 北野が実行したとの宮﨑供述について

ア 客観的に確定できる関係事実

① B子の死亡時刻

死体解剖の所見によれば、B子は食後約六時間以上経過して殺害された(前記村松鑑定書及び期日外同証言甲三六六)ものであり、「元庄屋」でB子が食事をしたのが三月五日午後九時から一〇時の間であるから(<証拠>)、殺害時刻は三月六日の午前三時以降という推定が可能になる。

この点に関して、検察官は、三月六日午前六時二〇分頃にはB子はまだ生存していたと主張する(論告要旨一〇二頁)ので、更に検討する。

なるほど、三月六日午前三時三〇分頃、午前六時頃及び午前六時二〇分頃の三回にわたつて、県道更埴明科線矢越隧道明科側出口付近に駐車していた赤色フェアレディZが、同所を走行通過した三人の運転手らによつて目撃されており(<証拠>)、右のフェアレディZが宮﨑運転にかかるものであることについては争いのないところ(一三八回宮﨑供述)、目撃者の一人塚田昌孝は、同日午前六時二〇分頃に同所を通過した際、Z内には人間が二人いたと証言しているのである。

しかし、右証言を子細に検討すると、助手席にも人間が乗つていたとする根拠としては、運転席、助手席共に座席は倒してあつて、運転席と助手席を一緒に覆うように毛布様のものが掛けられ、その形状からみて助手席が空席である感じではなかつたとしているのみで、人体の一部と目されるものを助手席上に直接確認したわけではない。しかも、徐行程度で進行し意識的に観察したとは言え、駐車していたZの内部を、通りすがりに走行中の車窓からのぞき見たに過ぎないという目撃状況にも照らすと、そもそも当時Z車内に二人の人間がいたことにつき疑いの余地なしに認定できる程の証明力はなく、いわんや、B子が生存していたと断ずることは困難であると言わなければならない。

このほか、宮﨑自身の捜査官に対する供述調書中にも、B子が明け方まで生存していた旨述べているものが存在しないわけではないが(宮﨑4.1検面乙五六、4.13員面乙一二四等)、安定した供述内容とは言えない上、公判廷ではこの点を争つているのであるから、結局検察官の主張に沿った認定をするに足りる十分な証拠は見いだすことができない。

② 北野が三月五日から六日にかけての深夜テレビ番組を視聴したこと

北野が、三月五日午後一一時三〇分から翌六日午前零時二五分まで放映されたプロレス番組の途中から終了までと、これに引き続いて午前零時五五分までのキックボクシング番組全部を視聴したことは、捜査段階から番組の内容を具体的かつ正確に述べていることからみて疑念を差しはさむ余地がない(<証拠>)。

③ 北野が三月六日午前六時三〇分頃ホテル「日興」内で目撃されたこと

北野は、右時刻頃「日興」のフロントで係員の市村二治に朝食の時間を尋ねている事実が認められ、その頃同ホテル内にとどまつていたことが裏付けられている(<証拠>)。

④ 「日興」から死体遺棄現場等までの道程及び自動車での所要時間

「日興」から死体遺棄現場に至るには、複数の行程が考えられるが、宮﨑は、捜査、公判を通じ、北野が合流するまでの道筋として、長野市内から国道一九号線を南下し、木戸交差点を左折して県道更埴明科線を更埴方面に向かい、矢越隧道付近に至るという計画を立てたと一貫して主張し、計画とは異なる事態が生じたことを窺わせる発言は一切ない。次に、合流後の行程については判然とはしない旨供述するので、最短距離と考えられる県道河鹿沢西条停車場線、国道一四三号線、県道丸子信州新線を経て林道弘法線に至る経路を想定し、以上の全道程を計算すると、約八六キロメートルとなり、降雪、凍結状態にない九月下旬にできるだけ高速でこれを走行した場合の所要時間は約一時間四〇分であつた旨の実験結果が報告されている(<証拠>)。

したがつて、北野が「日興」を抜け出して宮﨑と落ち合つた上、B子を殺害、遺棄して帰宿したとすれば、殺害、死体遺棄自体に要する時間を一〇分と少なめに見積もつても、約三時間三〇分以上は必要とすることになる(もつとも、本件と日時を同一にして行われた検証時の走行結果(59.3.6施行検証甲一〇四〇)と、右の実験結果を比較してみると、凍結等に起因する所要時間の増加を無視できないことが明白であるし、また、林道弘法線入口と遺棄現場までを往復する時間も、時期的要素を加味すると等閑視することに疑問がないではない。その意味からすると、前記三時間三〇分で往復するというのはそもそも非現実的であるとも思われるが、ここでは控えめな認定を基礎に検討を進める。)。

なお、矢越隧道までの道のりは約六四キロメートルあり、前記実験結果では約一時間一〇分を要している。

イ 北野が三月五日から六日にかけての深夜テレビ番組を視聴した場所は「日興」であること

アの②で示したように、北野が三月五日午後一一時三〇分過ぎから三月六日の午前零時五五分までテレビ番組を視聴していたことは明らかであるが、北野はこれを宿泊先の「日興」で見たとする一方、宮﨑は北野が同所から合流地点へ向う車中で見たものとし、供述が正面から食い違つている。

「日興」と死体遺棄現場とは、アの④で示したように自動車で走行しても相当の時間を要するのであるから、北野が、果たして宮﨑の言うようにB子の殺害、死体遺棄に加担できたかを判断するためには、時間的な観点からの検討が不可欠であつて、その場合、北野がテレビを視聴した場所が重要な意味を持つことは言うまでもない。

そこで、この点について先行して判断することとする。

a 北野供述の一貫性

北野は、捜査段階から公判まで一貫して、「日興」でテレビを見たと供述している(北野4.15員面乙八六、九七回及び一一三回北野供述等)。なお、テレビを見始めた時間についての北野の公判廷での説明には、その供述相互の間に、宮﨑が主張するように若干の食い違いがみられるが(最終意見陳述書二九八頁)、そのことから直ちに北野の右供述全体の一貫性が著しく損なわれるものとは解されない。

b 宮﨑供述の信用性

① 宮﨑供述の要旨

宮﨑は、北野とテレビ視聴によるアリバイ工作を事前に計画し、三月三日富山を出発する際に右計画を実現すべく北野宅からポータブルテレビをZに積み込んで持参したもので、三月五日夜、北野が長野駅周辺で路上駐車している自動車を一時盗用し、宮﨑との合流場所まで来る間に、右自動車内で前記テレビ番組を右ポータブルテレビで視聴したものと供述している(一五一回、一五二回宮﨑供述等)。

② 供述するに至つた経緯の不自然性

宮﨑は、捜査時はもちろん、公判段階になつてもアリバイ工作に関する右のような供述を一切していなかつたにもかかわらず、突如一五一回公判(61.1.13)において供述を始めたものである。

この点について、宮﨑は、北野にとつて決定的に不利益な事実であるこの部分だけは自ら供述するのを避けていた、あるいは、訴因変更前は、B子殺害実行者は北野である旨の釈明であつたので、検察官がその立証をするものと考えて敢えて触れなかつたが、訴因変更によつて真相を述べる必要が生じたなどと弁疏する。

しかし、北野が実行正犯であるとの捜査官に対する供述は、同人との合流状況を詳細に述べるほか、北野のアリバイ工作のために「日興」まで同人を送り届けた旨の告白にも及んでいるのであつて(宮﨑4.20検面乙一一)、既にこの段階において、ことさらテレビによる工作のみを秘匿しなければならなかつた理由はいささかも認められない。

更に、公判段階に及んでは、第一回以降、全面無罪を唱え、責任を押し付けようとしているとして宮﨑を非難する北野側との間で、主張面はもちろん、感情面においても鋭く対立する状況を呈するなかで、証人、被告人として長野事件に関する詳細な尋問、質問を受けながら、訴因変更前は一切この点に関して沈黙していたことを想起するときは、前記の弁明の不自然性は極めて顕著であつて、到底信用するに値しないものと断ぜざるを得ない。

③ 宮﨑の弁明内容の不合理性

②に加えて、その弁明内容に眼を向けても、事前に練られた計画にしては余りに不可解な点が散見され、この供述の作為性が露呈していると評するほかはないのである。

まず、宮﨑は、自分が睡眠薬で眠らせている間に北野は最終のテレビ番組を視聴し、その後現場近辺で下車してテレビを持つて徒歩で合流する予定だつたと明言する(一五九回宮﨑供述)。他方、合流時間については、「元庄屋」から「日興」の北野に電話をした際に三月六日午前零時から二時の間と定めたと一貫して供述するところ(三二回、一五二回宮﨑供述、宮﨑4.20検面乙一一)、これは、三月五日の朝「日興」で北野と朝食を取つた際に、キックボクシング番組をアリバイ工作に用いることを新聞によつて確認し、その放映時間(開始時間のみ記載されており、三〇分か一時間番組であろうと考えたとする。員58.8.2報甲一一八〇によれば、開始時刻は午前零時二五分である。)を含み前後に余裕を取つて設定したと説明するのである(一五二回宮﨑供述)。

しかしながら、以上の説明は矛盾に満ちていると言うほかはない。

すなわち、午前零時二五分から放映される最終番組を見終わつてから合流するのであれば、予定時間を午前零時からと定めるのは理解し難い。また、北野が下車する場所はあらかじめ定めず徒歩時間は一時間は要しないだろうという計算だつたとするそもそも曖昧な供述(一五七回宮﨑供述一七、七一八丁等)を仮に信用するとしても、キックボクシングが一時間番組であれば午前一時二五分に終了する可能性もあることを認識しつつ、これを見終わつた上で午前二時までには確実に合流できると考えたというのは、余りに常識に反している。加えて、訴因変更後の宮﨑の説明からは、犯行後にZで北野を「日興」に送り届ける計画は窺われないのであり、したがつて、わざわざ北野がテレビ(使用されたと宮﨑が主張するテレビの重さは9.2キログラムもある(一五三回公判調書宮﨑供述部分中)。)を盗難車から持ち出して合流場所まで持参する必要性も見いだしがたいのである(この点に関する宮﨑の説明(一五七回一七、七一七丁)は、右の疑問を解消させるには程遠い内容である。)。

次に、宮﨑は、アリバイ工作のために見るテレビ番組については、NHKは避けることを北野との間で確認したとし、その理由として長野でしか放映されていない番組を見る必要があつたと説明しているが(一五二回一七、一八七丁)、長野以外でも視聴できることは、「日興」における北野のアリバイを主張するための本件工作計画にとつて何ら不都合はなく、かえつて、NHKは各地方局によつて同一の番組を日時を変えて放送することのある可能性が少ない点で、アリバイ工作には適していると考えられ、この点もまた計画の存在を疑わせるものと言わざるを得ない。

④ 宮﨑供述の体験供述性について

宮﨑は、自己の供述には体験供述性が認められると主張するが(最終意見陳述書三一〇頁)、供述にかかるテレビの受像テストの際の受像状況、アンテナの長さとZ車内の高さの関係、Z車内での宮﨑の動作、テレビの持ち方及びテレビのコートによる包み方等(一五二回、一五三回等宮﨑供述)について、これを自己に有利に援用できるだけの体験の特異性が具備されていないことは明白であつて、前記主張には理由がない。

c まとめ

北野及び宮﨑の各供述内容を彼此勘案するときは、三月五日から六日の深夜、北野は「日興」においてテレビを視聴していたことを優に認定することができる。

このアリバイ工作については、この後の北野による殺害等の実行と一体のものとして供述されており、右のような結論は、北野を実行犯として名指しする部分の信用性をも大きく減殺せずにはおかないはずであるが、ここでは、宮﨑の刑責の確定に慎重を期すため、アリバイ工作についての信用性の問題を一応度外視し、北野が合流点まで赴いたとする部分につき、独立して更に検討を加えることとする。

ウ 「日興」の北野が死体遺棄等の現場に到達する時間的可能性

まず、北野が、「日興」でキックボクシングのテレビ番組(午前零時五五分終了)を見た後、直ちに同所を抜け出した上、宮﨑と合流してB子を殺害、遺棄し、再度午前六時三〇分頃までに「日興」に戻ることの時間的可能性を検討すると、B子の死亡時刻が前述したとおり三月六日午前三時頃以降であり、北野が自動車で「日興」を出発してから再び同所に戻るまでの最小時間は約三時間三〇分であることを前提とする場合には、往復するための交通手段さえ確保できる限り、不可能な行動とは言い難い。

しかしながら、三月六日B子殺害のために北野と合流した時刻に関して宮﨑は、捜査時はもとより、再三公判廷で確認された際にも午前一時以降二時より前であることに間違いないと断言し、一貫した供述をしている(宮﨑4.20検面乙一一、三二回及び一三八回宮﨑供述等)ので、これをも前提条件の中に組み入れるときは、三月六日午前零時五五分まで「日興」でテレビを見てから、合流地点として宮﨑が指示する矢越隧道より明科寄りの名九鬼部落入口(56.10.26施行検証甲四七〇、同日宮﨑供述職五四)に右時間内に到着することは極めて困難となる。

すなわち、「日興」から名九鬼部落入口まで自動車を用い、しかもできるだけ高速で走行した場合でも約一時間を要するのであり(<証拠>)、更に、北野がこの方法によるためには、「日興」を出発した後どこかで車を調達する(事前にその準備がされていた形跡は全くない。)かタクシー等に乗車しなければならず、これに要する時間をも考慮すると、午前二時頃までに右合流場所に到着することは、不可能であるとは言えないまでも、相当に非現実的であると解されるのである。

エ 宮﨑供述の内容的不自然性

時間的な観点からの以上のような不自然性に加えて、北野との合流に関する宮﨑供述には、全体的な信用性に多大の影響を与えると考えられる次のような不自然性が見いだされる。

① 合流場所に赴くまでの北野の利用した交通手段に関する供述状況

深夜北野が「日興」を抜け出して約六四キロメートルの道のりを合流場所に向かつたとすれば、そのための交通手段が当然問題になる。

この点に関し捜査時点における宮﨑は、「三月四日に下見を北野と行い、その際、交通手段についても相談した。その結果、タクシーや通りすがりのトラック等を利用して(国道一九号線と県道更埴明科線が交わる)聖高原入口(木戸交差点)まで至り、その後は徒歩とすることになつた。現実にどのようにして北野がやつて来たのかについては、確認していない。」と供述し、訴因変更前は、公判廷でも基本的には同旨の説明を繰り返していた(宮﨑4.20検面乙一一、三一回宮﨑供述)。

ところで、右の説明が種々の不自然さを内包していることは明白である。第一に、厳寒の深夜山中を走る県道で合流しようとするからには、到達までの交通手段の確保が何よりも重要になるはずのところ、右の計画は余りに杜撰と言うほかない。第二に、木戸交差点から合流予定地点として宮﨑が特定する場所までは約七キロメートル離れており(56.10.26施行検証甲四七〇)、発覚を恐れるとは言え、当時の季節的、時間的状況を考えれば、徒歩という手段は余りに現実性が希薄であるという印象を免れ難いし、少なくともその決定に至るまでにはそれなりの議論等が交わされることが予想されるのにそのような説明は一切されていない。また、この計画がそのまま実行された場合には、「日興」から合流地点まで優に二時間以上を要することになることが事前に明らかだつたはずのところ、午前二時までに赴くことを宮﨑に約した北野が午前一時近くまで「日興」でテレビを見ていたというのも理解し難い。第三に、このように時間内に北野が間に合うかについて相当に不確定な計画であつた以上、合流後この点についての話題を双方とも持ち出さなかつたというのは著しく非現実的である。このような疑問に鑑みるとき、宮﨑の訴因変更前の叙述は、これを措信するに足りるとするには程遠い内容と言わざるを得ないのである。

ところが、宮﨑は、この点についての供述を訴因変更後に撤回し、前記テレビによるアリバイ工作を物語ると同時に、「日興」を抜け出した後長野駅周辺に青空駐車してある自動車を北野が盗取してこれを用いるとの事前の計画が立てられた旨を新たに主張するに至つた。しかし、この主張についても、極めて不審な点が散見される。

第一に、公判廷において途中までは右のことを一切秘匿していた合理的な理由が何ら示されていない。この事実を明らかにしても、それだけでは北野のテレビを用いたアリバイ工作を何ら予測させるものではないから、アリバイ工作供述を秘していた理由の弁解よりも一層不自然性が顕著である。

その他、車両を使用すると述べる一方で、見つかる恐れがあつたなどという理解し難い理由を挙げて、合流予定場所の手前で北野は下車し徒歩で赴くとの計画であつたとの点は維持していること(一五九回宮﨑供述)、実際にどのようにして宮﨑のもとまでたどりついたかに関しては北野に確認していないとすること(一五三回宮﨑供述)、仮に予定どおりの方法が執られたとすると、殺害等の終了後矢越隧道から木戸交差点方向に走行し北野を下車させたとする地点(後記②参照)に盗難車が置いてあつたと解するのが自然であるが、午前一時近くに「日興」を出た北野が右の地点まで運転しその後は徒歩によつたのでは、午前二時までに前記名九鬼部落入口で合流したとする宮﨑の主張は事実上成立し得ないことになること(一五二回宮﨑供述。その際宮﨑側により援用された59.3.5施行検証弁二一四、56.10.26施行検証甲四七〇によれば、下車地点と合流地点は、2.5キロメートル以上離れていることが明白である。)といった諸点も、主張の基幹的部分に関する重大な疑問点として看過できない。

② 死体遺棄後、北野と別れた場所等に関する供述状況

宮﨑は、捜査段階及び訴因変更前の公判廷においては、殺害、遺棄の後北野を「日興」付近までZで送り届け、三月六日午前六時から七時三〇分までの間に別れてから、単身県道更埴明科線に引き返した旨明言していた(宮﨑4.29検面乙一一、三二回及び八七回宮﨑供述等)。

右の説明が、ア①で指摘した矢越隧道付近にZが停車していた事実と正面から抵触し、真実とは認め難いことについては多言を要しない。

もつとも、宮﨑は、その後供述を変更し、同日午前四時三〇分過ぎ頃、矢越隧道から木戸交差点までの途中で北野と別れた旨説明するに至つた(一五二回宮﨑供述)。

しかしながら、公判段階においても敢えてこの点に関して虚偽の叙述をしなければならなかつた理由がいささかも認められないことは①の場合と同様であるし、Zから下車した後の北野の行動は見届けていないとの弁解(一五二回宮﨑供述)の不自然性にも照らせば、この部分に関しても、宮﨑の供述を信用することは極めて困難である。

③ 具体的合流状況

宮﨑は、矢越隧道の明科側手前に合流予定場所を定めたと供述し、この点は公判を通じ一貫しているところ(三一回、八六回、一五七回等)、特に北野が遅参したという事情を述べることなく、一旦予定場所で停車したZを移動して北野を迎えに出向き、何回か県道上を行き来した後北野と出会つた旨併せて供述しているが、この説明も全体として眺めると不自然であるとの感を禁じ得ない。

オ 客観的証拠に関する宮﨑の弁護人の主張について

弁護人は、B子殺害の凶器である腰紐の結び方がいわゆるたて結びであること、北野が長野中央警察署で留置中に風呂敷を結んだ際の方法がほとんどこれと一致していることを示す証拠の存在(坂田八昭58.8.4鑑甲八九二参照)を根拠に、北野が殺害を実行した証左であると論じる。

なるほど、右の事実が存在することに加え、宮﨑が留置場で行つた風呂敷の結び目としてはこま結びが見分されていることも証拠上明らかであるが、そもそも特段特異とも言えないこの種の結節方法のいかんで犯人を特定することが一般的に認知されているものとは到底解されず(前記坂田58.8.4鑑参照。ちなみに、宮﨑は富山事件の実行者も北野であると主張するところ、A子についてはこま結びにされている。)、北野殺害実行を疑わせる証拠としては余りに証明力に乏しいものと言わざるを得ない。

カ まとめ

北野がB子殺害及び死体遺棄の実行に関与していたとする宮﨑の主張は、結局自己の供述を拠所とするほかはないところ、右供述は随所に不合理、不自然な点を内包していて全く信用できず、北野が右各実行に関与している可能性がないことに疑問はない。

(2) 北野以外の第三者が関与している可能性もないこと

宮﨑は、捜査段階において、共犯者として北野以外にも、富山県のある男(4.2員面乙一二二。その男がB子を殺害したという内容。)、宮﨑の実兄宮﨑春男(4.4員面乙一二三)及び前夫丁山梅夫(三三回供述)の名を挙げていたが、本件当時の状況からこれらの者の関与を指し示す証拠は全くなく、宮﨑自身が認めるように(三三回供述)、このような示唆は、捜査官の追及を逃れ時間稼ぎの目的からなしたものであることが明白である。その他、自らが極刑に処せられる危険を冒して、宮﨑が真の実行者をかばつている形跡はない。

(三) 殺害の時刻及び場所の認定について

B子の殺害時刻については、鑑定結果から三月六日午前三時頃以降であると推認され、かつ、B子が睡眠薬の作用で熟睡している間に殺害されたことに疑いの余地はないから、宮﨑がB子にネルボンを服用させたのが三月五日午後一一時過ぎ頃から翌六日午前零時頃までの間(三二回宮﨑供述)とすれば、ネルボンの催眠作用の発現、持続時間(期日外丹羽口徹吉証言甲四〇三)に照らし、同日午前九時頃までの間に殺害されたものと推定される。

また、B子の殺害場所は、死体が遺棄された場所から考えて、長野県小県郡青木村所在の林道弘法線付近に停車中のZ車内であると認定するのが合理的である。

(四) 総括

以上の検討を基に、長野事件の殺害、死体遺棄の実行者については、次のとおりの認定をすることができる。

宮﨑がみのしろ金獲得の一環として右の犯行を計画し、実行の現場にも居合わせたことは本人が公判廷でも自認しており、事件の前後を含む宮﨑の行動状況に関する客観的証拠もその信用性を裏付けていると解される。

そして、各犯行の態様に鑑みれば宮﨑がこれらを単独で実行することは十分に可能であると考えられる一方、北野が来場して実行した旨の宮﨑の供述は、到底措信するに足りる内容とは言えず、他にこれを窺わせる証拠もない。更に、北野以外の者を宮﨑がかばつている可能性も認められない。

したがつて、宮﨑が前記各犯行の実行行為を単独でなしたことについては、証拠上疑いの余地はなく、これに対する宮﨑及び弁護人の主張は採用できない。

なお、長野事件についても、右の結論に沿つた内容を供述する宮﨑の供述調書が存在するが、富山事件に関する判断の際に触れたのと同様の問題があるので(3の(四)参照)、右供述調書全体の信用性を直ちに肯定することはできない。

四 宮﨑の刑事責任についての結論

これまで考察してきたとおり、宮﨑が富山事件及び長野事件におけるみのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者みのしろ金要求の実行について、いずれもこれを単独で敢行したものであることを証拠上優に認定することができ、公判廷における宮﨑及び弁護人の主張はこれに合理的な疑いを差しはさむものとは解されない。

なお、検察官は、北野が共謀共同正犯として宮﨑の犯行に加功したと主張し、この点が宮﨑の刑事責任を最終的に確定する上でも重要な事実となることは言うまでもないが、本件証拠を子細に検討した結果、当裁判所は、両事件とも北野が共謀に加わつた事実はないとの結論に到達したので、前記罪となるべき事実における記載となつたものである。この点については、次の第二部において詳論することとする。

(法令の適用)

被告人宮﨑知子の判示第一の一及び第二の一の各所為はいずれも刑法二二五条の二第一項に、判示第一の二及び第二の二の各所為はいずれも同法一九九条に、判示第一の三及び第二の三の各所為はいずれも同法一九〇条に、判示第二の四の所為は同法二二五条の二第二項にそれぞれ該当するところ、判示第二の一のみのしろ金目的拐取と判示第二の四の拐取者みのしろ金要求との間には手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により一罪として犯情の重い判示第二の二のみのしろ金目的拐取の罪の刑で処断することとし、各所定刑中、判示第一の一及び第二の一の各罪につきいずれも無期懲役刑を、判示第一の二及び第二の二の各罪につきいずれも死刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるところ、同法四六条一項本文、一〇条により犯情の重い判示第二の二の罪により同被告人を死刑に処して他の刑を科さないこととし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項ただし書を適用して同被告人にこれを負担させないこととする。

(量刑の事情)

本件は、金銭欲にかられた被告人宮﨑知子が誘拐殺人を計画し、わずか二週間足らずの間に連続して二人の年若い女性を拐取してその生命を奪つた上、遺体を山中に投棄したという事案であり、その罪質、結果のみに照らしても、稀にみる凶悪、重大な事案と言わなければならない。

更に、犯行に至る経緯、動機をみると、判示のとおり、被告人は、愛人との放縦な毎日を過ごすうち、勤労意欲を次第に失う一方で、悪業を働いても大金を獲得したいとの夢に取りつかれるところとなり、所有欲の赴くままに高級自動車を購入したことに端を発して累積した借金の返済に窮する事態を迎えるや、これを一気に打開することをもくろんで各犯行に及んだものであり、いささかも酌量すべき事情は見当たらない。

また、被告人は、誘拐を企画するに当たり、捜査の追及を免れるためには相手を殺害、遺棄するほかないと決意し、幾度か誘拐を試みては失敗する日々を過ごした後、計画に従つて二人の女性に対する悪業を重ねたものであり、冷酷非情な計画性が顕著である。なお、判示富山事件の被害者A子に対しては、殺害の実行を若干逡巡するうちに時日が経過した形跡が窺われないでもないが、結局は当初の計画どおりに絞殺するに至つている上に、そのためらいが富山事件の失敗を招いたとして、長野事件においては誘拐後直ちに殺害行為に出ているのであつて、両事件を全体として眺めるときは、本件の計画性に対する前記の評価には何らの影響をも及ぼすものではない。

そして、具体的な犯行の態様をみても、若い女性を言葉巧みに誘つて自己の支配下に置き、更に睡眠薬を投与して熟睡させた上で、あらかじめ用意した腰紐を用いて頸部を緊縛して殺害し、その後遺骸を雪の山中に投棄しているのであり、加えて、長野事件の場合には、安否を気遣つて無事の生還を哀願する家族に対し、被害者の生存を装い、平然と、かつ執拗にみのしろ金を要求して二、〇〇〇万円もの現金を用意させているのであつて、そこには他人の生命に対する一片の慈しみの情も窺うことはできず、非人間的な所業に慄然とせざるを得ないのである。

被害者乙野A子は、専門学校への進学が決定していた高校三年生であり、同甲野B子は、二〇歳の真面目な事務員であつた。いずれも、家族に愛され、友人から慕われる優しい乙女であり、被告人の甘言に欺かれた結果、人生の実りの時を知ることなく絶命して果てたもので、ただ哀れと言うほかはない。また、遺族についても、ひたすら無事を祈つて手を尽くしたにもかかわらず、変わり果てた姿の被害者と対面することを余儀なくされたのであり、その衝撃、悲嘆の甚大さは察するに余りあるものがある。事実、事件後ほば七年を経た時点で証人として出頭した二人の父親は、いずれも最愛の娘を奪われ今なお癒えることのない心の傷を訴え、被告人を極刑に処することを望む旨の心情を吐露しているのである。

一方、被告人は、読経や写経にいそしみ被害者の冥福を祈る日々を送つていると公判廷では供述しているものの、捜査、公判を通じ種々の虚言を弄しては相被告人北野宏に自己の責任を転嫁しようと試みているのであつて、真しな反省、悔悟の情を読み取ることは困難である。

最後に、連続誘拐殺人事件として本件が社会に与えた不安と衝撃に眼を向けるときは、量刑に当たり、同種事件の再発を防止するという刑事政策上の目的もまた無視することができない。

以上の諸点に徴すれば、被告人の刑事責任はまことに重大と言うべきである。被告人のために有利な事情を精査しても、その生いたちや経歴に同情すべき点がないではないこと、これまでに前科がないこと等がわずかに認められるばかりであり、これらを十分に斟酌しても、被告人に対しては極刑をもつて臨むほかはない。

第二部  被告人北野宏に対するみのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者みのしろ金要求被告事件

注 「略語例」、「証拠の引用例」に従うことは第一部と同様である。

第一概括的説明

本件公訴事実の要旨、捜査、公判の経緯については、既に第一部中「事実認定についての説明」の第一(概括的説明)において述べたのと基本的には同様であるので、これを引用することとする。

北野の刑責に関する事実認定の順序及び結論の要旨についても、既に右の部分で触れたところであるが、この点のみ重複をいとわずに略述することにする。

1  北野の捜査段階における自白を別にすると、その刑責を基礎付ける事実を最も広範かつ詳細に物語る証拠として、宮﨑の捜査、公判における供述が挙げられ、検察官もこれを最も重要な拠所として、北野の加功を論じていることが明白である。

そこで、当裁判所も宮﨑供述の信用性に対する吟味を判断の出発点としたが、具体的には、富山、長野両事件の実行は宮﨑が単独でこれを行つたとの第一部における認定を動かし難い前提とし、宮﨑の供述過程をつぶさにたどつた結果、その供述は、全体的に作為された疑いが濃厚であつて、北野の有罪性を根拠付けるだけの証明力は有しないばかりか、かえつて、本件各犯行に際して情を知らない北野を利用したのではないかとの疑念を生じさせる内容であるとの結論を得た。

2  次に、宮﨑供述以外の客観的証拠や争いのない事実を分析したが、これらも宮﨑との共謀の存在を推認させるには到底不十分であると言うほかはなく、最後に、北野の自白、更に、これと正面から対立する公判廷等における弁解の信用性に関して検討を加えた。

その結果、自白については、合理性のない動揺、変遷が著しいばかりでなく、不合理、不自然な内容を多々包含し、また、真実を吐露したと解し難い供述状況も認められるなど、有罪認定の決め手とする担保的要素が欠如していると評価することが可能である一方、北野の弁解を一概に排斥できない事情も見いだすことができた。

以上の検討経過により、北野が宮﨑との共謀に加わつたことは証拠上否定されるとの結論に至つたものである。

3  以下においては、まず、当事者の主張をやや詳細に摘示した上で、右の判断過程に従つて、それぞれの段階における主要な争点に対する当裁判所の判断及びその理由を詳述することとする。

第二当事者の主張

一  検察官の主張

検察官は、北野が本件各犯行の共謀共同正犯であることは明らかであると主張し、その根拠として種々の点を列挙しているが、その主要な点を示せば以下のとおりである。

1 事実関係全般及び被告人両名の供述の信用性

総論的主張として、検察官は、

① 北野は、宮﨑と二年半にわたり愛人関係にあり、しかも、昭和五三年二月に共同で設立した北陸企画の事務所において、半ば同棲同然の生活を送つてきたものであるが、翌五四年夏にZを購入したことを契機にして、両名共同で多額の債務を抱えるところとなり、その弁済を迫られていたことに加え、宮﨑との新生活の資金や自己の入院費等に充てるためにも、多額の金員を入手することを宮﨑と共に切望していた。このように、二人の関係は、愛情面でも経済面でも文字どおり一心同体であつたのであり、また、各犯行当時における具体的な行動をみても、北野は宮﨑と形影相伴うように一体となつて行動していた。

② 本件各犯行に至る経緯として、保険金殺人計画(C山事件)、金沢方面における誘拐計画は重要な意味を持ち、両事件を経て富山事件、長野事件へと進展したことには、必然性と一貫性が認められるところ、当初の計画に関与していたことが証拠上明らかな北野については、富山、長野両事件に関する共謀もこれを肯定できる。

③ 宮﨑の自白のうち北野との共謀を認める部分は、供述するに至つた経緯が自然であり、一度北野との共謀を認めた後は全捜査段階を通じてこれを維持している点で一貫している上、内容も合理的であるから信用できる。

④ 北野の自白は、取調官の説得によつて号泣するなど反省悔悟の情を明らかにして全面的に供述されるに至つたもので、開始に至る経緯は極めて自然である上に、内容的にも合理的であり、更には、A子に睡眠薬を使用したと供述している点で秘密の暴露が認められるのであるから、十分信用できる。

⑤ 北野の公判廷での弁解(その内容は、次の弁護人の主張の箇所で明らかにする。)は、内容自体が荒唐無けいと評すべきもので、客観的に虚偽であることはもちろん、北野と一心同体の関係にあつた宮﨑がこのような架空の作り話を北野にするわけがなく、また、その必要性も存しないこと等から、北野の創作にかかる虚構であることが明白である。

と、主張し、また具体的行動状況については、次の各事実が証拠上認められるとする。

2 C山事件

宮﨑及び北野は、C山に掛けられた多額の保険金(災害死亡時四、〇〇〇万円)の受取人が宮﨑名義になつていることに目を付け、昭和五四年三月上旬頃にはC山を殺害して保険金を騙取しようとの謀議が整い、同月二九日、更に災害死亡時五、〇〇〇万円の保険に同人を加入させた。そして、北野は、自らも山へ殺害場所を探しに行つたほか、右C山を海水浴場へ誘い出して溺死させようとの新たな計画についても、宮﨑と謀議を重ね、アリバイ工作をも打ち合わせた上で、同年八月九日夜、宮﨑が乱交パーティーの練習名下にC山を岩瀬浜に連れ出し、クロロホルムの吸引により意識を喪失させた後海中に引き入れて溺死させようとしたが、失敗に終わつた。

なお、右事実について証拠上特筆すべきは、北野が、捜査段階において弁護人の接見を受けた際にも、宮﨑との間でC山を殺害して保険金を受け取る計画があつたことを明確に認めていたことである。

3 誘拐の事前謀議

昭和五四年一一月末頃から、北野は、宮﨑と大金入手の方法としてみのしろ金目的の誘拐を計画し、翌五五年二月中旬頃までの間に北陸企画や「銀鱗」等で謀議を繰り返した結果、金沢市や高山市等で行きずりの若い女性を宮﨑が言葉巧みに誘い、誘拐後は北野が相手を絞殺して死体を人目に付かない所に遺棄し、みのしろ金は宮﨑が電話で要求する旨具体的な役割も定まつた。その受け取り方法については、種々検討の結果、被拐取者の親族に何回も架電して場所を移動させ、警察に察知されていないか様子を探つた上で、女性専用のサウナ風呂等に入らせてそこで入手するなど、その時点の状況に応じて適当と思われる方法を執ることとされた。

4 金沢における誘拐計画

北野は、昭和五五年一月中旬、宮﨑と共に、誘拐のために道路状況等を金沢市まで下見に行つているほか、二月六日から九日までの間は毎日同市まで宮﨑に同行し、当初の計画どおり、北野は下車し宮﨑一人で誘拐相手を捜したが、適当な相手が見付からなかつたことから誘拐するに至らなかつた。

5 富山事件

金沢での誘拐に失敗した被告人両名は、借金返済の催促に耐えかね、二月二二日宿泊した富山市内のホテル「プラザ」等で地元の富山において誘拐を実行することを決め、翌二三日宮﨑が富山駅に赴き、A子をアルバイト名下に誘つて「銀鱗」に連れて行つた。

同店において宮﨑は、事前の打合せに従つて、誘拐に成功した旨の電話連絡を北野に対して行い、これを受けた北野は、同月二四日は昼、同月二五日は早朝に北陸企画に出向きA子と接触した。更に、同日夜、宮﨑は、A子を岐阜県まで連れ出して喫茶店「エコー」から北野に電話連絡を取り、殺害のために待ち合わせ場所まで来るようせきたてたところ、北野もこれを了解した。しかし、北野は右待ち合わせ場所まで行く決心が付かずに終わつたため、宮﨑が単独でA子を殺害、遺棄し、一方、事の成り行きを心配した北野は、事情を聞くために翌二六日早朝宮﨑宅に電話を掛けて北陸企画に呼び出し、同所で、殺害、遺棄が実行された事実を知り、A子の遺留品の処分について相談した。

同日午後、北野は、A子の身を案じて北陸企画を訪れた両親らと会見したが、その折りに、誘拐等の犯罪の発生を示唆されたわけでもないのに、一方的に興奮する態度を示したほか、妻や友人に対しても自分が誘拐犯人ではないことを強調するなど、犯行に関与したことを自ら暴露する言動に及んでいた。

更に北野と宮﨑は、同月二七日A子宅に電話して遺族をレストラン「越州」に呼び出そうとしたが、電話で応対した相手の返答が要領を得なかつたため、みのしろ金を取得することを断念したものである。

6 長野事件

富山でA子を誘拐し殺害までしたものの全く金員を手にすることのできなかつた宮﨑と北野は、三月一日、県外で新たな誘拐、殺人等を試みることを謀議し、北陸企画事務所の閉鎖に伴い敷金が返還され次第東京への旅行と称して県外に赴いて再度誘拐をする計画を立てた上で、同月三日敷金を受け取るや、直ちにZで長野に向かつた。

その夜長野市内のホテル「志賀」に投宿した際、北野は、宮﨑との間で具体的な計画を練り、その結果、宮﨑が長野駅周辺で若い女子を誘い、この間北野はビジネスホテルで待機すること、誘拐した相手は松本市方面の山中で絞殺後遺体を投棄すること、右計画遂行のために四日夕方までに松本市方面を下見することを決定し、同日朝「志賀」を出発するに際して、絞殺に用いる凶器として浴衣の腰紐を持ち出した。

同日午前一一時頃、北野の待機場所としてホテル「日興」に一人分の宿泊を予約したが、その際、合流時間を考慮し、深夜二時でも電話を取り次いでくれることをフロント係に確認した。

その後、被告人両名は、予定どおり松本市方面に殺害、遺棄場所を検分に赴き、その車中で、殺害、死体遺棄については北野に度胸がないとの理由で宮﨑が単独で実行することとし、北野はホテルで待機し、逃走の際の運転手役のみを務めることになつた。そのため、同日北野が「日興」に宿泊した際は、予約の際とは異なり、深夜三時か四時に電話がある旨をフロント係員に告げた。

一方、宮﨑は、右の謀議に従い相手を求めて外出し、同日午後五時三〇分頃長野駅前東急百貨店内で学生F川秋子(当時一八歳)に声を掛けたが断られ、次いで同駅待合室で学生G野冬子(当時一八歳)をも誘つたがやはり話に乗つてこなかつたため、「日興」で待機中の北野に対し、誘拐できなかつたので一緒に宿泊する旨を電話連絡し、その晩は両名で「日興」に泊まつた。

翌五日も前日と同様の計画の下に、宮﨑は、午後四時過ぎ頃長野駅周辺に誘拐相手を捜しに行き、午後六時三〇分頃帰宅途上のB子に声を掛け喫茶店に連れて行くなどした上、午後七時頃、誘拐に成功したことを北野に電話で伝えた。

その後宮﨑は、「日興」にZを取りに戻つたが、北野もフロントまで降りて来ており、宮﨑に同行して来たB子を目撃している。

宮﨑は、B子をZに同乗させて松本市方面に赴き、前日北野と飲食した「元庄屋」に寄つて食事をしたが、同店から「日興」の北野に電話をし、誘拐した相手を連れて来ていること、あと三時間位で帰れそうなので、その後の運転のために休養しておくこと等を伝えた。

同月六日早朝、宮﨑は、林道弘法線付近の山中でB子を殺害しその死体を遺棄したが、同日正午頃、明科町から「日興」に電話連絡して待ち合わせ場所を定め、午後二時頃北野と落ち合い、東京に向かつた。

同日夜、被告人両名は、宮﨑の姪で浦和市在住の谷川月子宅に寄つた後、東京都内のホテル「安田」で宿泊し、翌七日はみのしろ金を受け取るために高崎に赴いたが、警察官の存在を察知して、同月八日富山に逃げ帰つた。

その間宮﨑は、七日にわたり、B子方や、現金を持参し指示された場所で待つB子の姉春子に対してみのしろ金要求電話を掛けたが、その間も北野は宮﨑と行動を共にし、B子の遺族の対応等をすべて聞かされていた。

7 犯行後の宮﨑との通謀状況

北野は、三月七日夜、高崎市内からの帰途の車中で、犯行が発覚し警察の取調べを受けるに至つた場合の弁解方法を相談した。

その結果、長野へは上京の途中に寄つただけと説明し、三月四日、五日「日興」に宿泊したことは秘匿して車中泊したことにする、同月四日松本方面に下見に行つた事実も隠匿し、発覚した場合は単なるドライブであつたとする、同月七日高崎に立ち寄つた点も供述せず、露見した場合は宮﨑が東京か大宮の知人から金を受け取るため、あるいは、前夫丁山から慰謝料を受領するために寄つたことにするという弁解内容が打ち合わされた。

なお、同月八日、宮﨑と北野が富山事件について取調べを受けた後、二人で宮﨑宅に泊つた際にも、右の相談内容を確認した。

更に、同月二八日夜、両名が新聞記者から取材を受けるに当たつて再び協議し、同月四日、五日「日興」に宿泊した事実は既に判明しているので認めざるを得ないが、東京か大宮の知人若しくは前記丁山と会つて金を取る予定が狂つたと宮﨑に言われて泊まつた旨説明することを確認した。

二  弁護人の反論

弁護人は、検察官の主張に対し次のように反論し、北野が本件各犯行の共謀共同正犯でないことは明らかであるとする。

なお、富山、長野両事件当時における宮﨑の行動に対する北野の認識についての弁護人の主張の詳細は、北野の公判廷での弁解と同旨であるから、その項(第六)に譲り、ここでは概略のみを示すこととする。

1 両名の一心同体性について

北野と宮﨑との交際においては、当初から互いのプライバシーには立ち入らないとの条件があつたし、本件犯行当時、北野は、宮﨑から金をもらえば愛人関係は解消する積もりだつた。

経済的にも、北野の借金は身内からのものばかりであり、事業資金もさほど差し泊つて必要だつたわけでもなかつたのであるから、大金を獲得しなければならない必要性や欲求は、北野については存しなかつた。

2 宮﨑及び北野の各供述について

検察官の主張に沿う証拠として、宮﨑の供述、北野の自白及び若干の第三者の証言があるが、それらは、いずれも到底信用できないものである。

宮﨑の供述は、捜査、公判の全段階を通じて、客観的事実に反する不合理、不自然なものであり、自己の刑責を北野に転嫁する意図の下になされた虚偽供述である。

北野の自白は、ネフローゼという持病に加え、連日の長時間にわたる取調べと、取調官の暴行、脅迫、誤つた説得、利益誘導等によつて引き出されたもので、任意性がなく、信用性についても、客観的事実に反したり、内容的に不合理な部分や不自然な変遷が多いこと、自白の動揺が激しいこと、自白に至つた経緯も不自然であること、秘密の暴露に当たる事実は存しないこと等の理由により、全く証拠価値は認められないものである。

これに対し、北野が公判廷で弁解するところは、その内容が具体的かつ詳細で、一貫性もあり、右弁解を裏付ける第三者の証言も存在することから十分信用できる。

3 C山事件等について

北野は、昭和五四年二月頃から、宮﨑より、政治資金名下の詐欺的な金儲け話を聞かされて、事件当時まで至つていたのであり、C山事件等を謀議したことはない。

4 富山事件(金沢での計画を含む。)

北野は、昭和五五年一月中旬頃から、宮﨑が金沢在住の男と組んで、金沢の土地の詐欺まがいの取引で大金を得る話を同女より聞かされていたのであり、一月から二月にかけて数回金沢に行つたのも、宮﨑がその土地を見たり金沢の男と会うと言うので、運転手として同行しただけである。

その間、宮﨑との間で、みのしろ金目的の誘拐の話をしたことはなく、これ以後もそのような話は交わされていない。

A子が誘拐され殺害されるまでの二月二三日から二五日の間に、確かに宮﨑から北野宅に何度か電話連絡はあつたが、前記の金沢の土地の話に関連するものばかりで、土地の売買代金が入つた際には北野に金沢まで迎えに来て欲しいので自宅で待機するようにとの依頼を内容とするものであつた。

このような宮﨑からの依頼があつたことに加え、北野が当時風邪気味だつたこともあつて、その間はほとんど自宅から外に出ておらず、北陸企画にも行つていないし、A子と接触したこともない。

同月二五日、宮﨑が「エコー」で電話を掛けているのが目撃された時間帯には、宮﨑から電話を受けておらず、同日午後一一時頃に電話があつたが、内容は、やはり金沢の土地の件であつた。

翌二六日早朝、宮﨑宅に電話したこともなく、北陸企画に行つたこともない。その時間帯は自宅で就寝しており、二六日午前九時から一〇時の間にあつた宮﨑からの電話で起床し、その求めに従つて北陸企画に赴いたものである。

その際にも、北野は、誘拐の話をしたことはないし、宮﨑がA子を殺害したことやその死体を遺棄したことについても全く知る由もなく、翌二七日に、宮﨑がA子宅に電話した事実も知らなかつたものである。

5 長野事件

北野は、昭和五四年春頃から、宮﨑より次のような話を聞かされていた。すなわち、宮﨑が、かつて住んだことのある大宮にいる仲間と謀つて、政治資金名下に有価証券や土地の権利証のようなものを収集し、これを東京在住の男(宮﨑の前夫丁山の仲間でもある。)が換金して大金を入手するというのであり、これを信じた北野自身も、その資金として二七万円を宮﨑に渡し、やがて大金を入手できるものと期待していた。

宮﨑は、昭和五五年二月北陸企画事務所を閉鎖した後に、かねてから話題に上つていた前記の金を東京方面に受け取りに行くと言つていたので、右予定に従つて、三月三日Zで富山を出発したものであり、富山県外で誘拐をするための旅行ではなかつた。

東京へ向かう途中、宮﨑が、相手の東京の男が長野まで来ると言うので、同地で宿泊することにしたが、「志賀」や「日興」に投宿した際も誘拐計画を謀議した事実はないし、同月四日松本方面に行つたのも政治資金として取得した土地の検分目的であり、途中回り道をして山中に入つたのは、観光地だから寄つて欲しいと宮﨑から依頼されたためである。

北野は、三月四日宮﨑が誘拐に失敗したことや、同月五日B子を誘拐したことも全く知らず、この間、宮﨑は東京の男と会つているものと思つていた。同日夜、「元庄屋」から電話を掛けてきた宮﨑は、東京の男と一緒だと言つていたので、その旨信じていたのである。

同月六日午後宮﨑と合流した後も、北野は行動を共にし、浦和、東京、高崎等に立ち寄つてから、同月八日朝に富山の自宅に帰つて来たが、その間も、誘拐やみのしろ金の件を聞かされたことはないし、宮﨑が掛けていた電話についても、東京の男又はその情婦と連絡を取つているものと思つていた。なお、高崎駅へは、右情婦と会つて金を受領するものと思つて行つたものである。

6 犯行後の宮﨑との通謀状況

北野は、本件起訴事実について、罪責を免れるために宮﨑と通謀したことは一切なかつた。

検察官が主張する程度の相談内容で、北野がこれほど詳細な弁解をなし得るはずはないことからも、その主張は失当である。

第三宮﨑の供述調書及び公判供述の信用性

一  はじめに

1 既にみたように、検察官の主張によれば、北野は、富山、長野両事件とも共謀には加わつたものの、宮﨑が実行行為、特に殺害や死体遺棄行為に及んでいる間は終始自宅や宿泊中のホテルにとどまつていたとされているのであり、このことからも容易に推測されるとおり、検察官は、北野自白を除けば、宮﨑供述を最大の拠所として有罪立証を試みていると言つて差し支えない。もっとも、第四でも触れるように、これ以外にも北野の関与を推認させる証拠として検察官が請求し、公判を通じてその信用性が争われたものが存在しないわけではないが、第二の一で要約した本件に至る経緯及び犯行状況の全般にかかる検察官の主張について詳細な事実を認定するための証拠としては、宮﨑供述が唯一のものであることは多言を要しないところであり、その余の証拠に関しては、仮にその信用性が肯定されたとしても、独立して共謀を推知させる証明力は到底有するものでないこともまた明らかである。

このような宮﨑供述の重要性に鑑み、本件においては、まず、この証拠に関する信用性について検討を加えることとする。

2 共犯者供述についてその信用性を誤りなく評価するためには、多面的な角度から慎重な吟味を加える必要があることは言うまでもないところであるが、この点に関し検察官は、宮﨑は愛する北野をかばつてその犯行関与を当初否定していたものの、取調官の真しな説得によつて北野との共謀やそれに至る経緯を詳細に自白するに至り、その後は、共謀の存在という限度では一貫性が保たれていること、内容面でも、北野と一心同体の関係にあつた当時の状況に照らせば合理的な供述がされていること等を挙げて、信用性が肯定できる旨主張する。

そこで、以下においては、右のような主張が説得力を有するものかどうかにつき、北野との共犯関係をめぐる事実関係に関する宮﨑の供述経緯及び供述内容の合理性に焦点を当てて検討を加えることとするが、特に前者の検討に際して留意すべき点についてあらかじめ指摘しておきたい。すなわち、第一部で詳述したとおり、富山、長野両事件とも犯罪行為の実行を宮﨑が単独でなしたことは証拠上疑いのないところであり、検察官も同様の見地に立脚しているところ、宮﨑の捜査の最終的供述及び公判の主張は、いずれも殺害等の実行者として北野を名指しし、自らの実行正犯性は強固に否定しているのであつて、この限度で、既に北野に対し責任を押し付けようとする態度が発現していることは、検察官も自認せざるを得ない事実と考えられる。換言すれば、本件においては、つとに指摘されてきた共犯者の自白の危険性が一部現実化していることが明白であつて、以下の検討は、この点の認識を出発点にして、それにもかかわらず共謀を認める部分についてのみ宮﨑の供述を信用することができる事情が存在するか、という角度から問題点を掘り下げていくことにならざるを得ないのである。

二  宮﨑の供述過程の概観

宮崎の供述を時期的に区分して概観すると、次のようになる(主として各箇所に掲記した供述調書によつたほか、宮﨑の公判供述、捜査官の証言によつて補充した部分もあるが、供述内容自体には何ら争いがないので、引用は省略する。)。

供述時期

( )内は、当該時期に作成された調書である。

供述内容

〔 〕内は、関連事実を記載した。

三月八日~一〇日

富山事件を否認。A子との面識否定。

三月三〇日

(乙二九)

富山事件(誘拐、殺人)を自白(供述調書上、共犯者の存在ははっきりしないが、添付図面に、A子殺害実行に男性が関与しているとの疑いを抱かせる文言を宮﨑自身が記載し、これを自ら抹消している。)。

(乙一二一)

〔長野事件(みのしろ金目的拐取、拐取者みのしろ金要求)により、富山警察署で逮捕される。〕

長野事件につき、殺害、死体遺棄の点も含め北野との共謀を自白。

三月三一日

(乙一、四六、四九)

〔長野中央警察署に引致、長野南警察署に留置される。〕

長野事件での北野との共謀認める(なお、乙

四九では、右の点は不分明。)。

四月一日

(乙四七、四八、五六)

長野事件は宮﨑の単独犯。

四月二日~六日

(乙一二二、一二三)

長野事件は北野以外の男(富山の男、宮﨑の実兄等)と共謀。

四月七日~一一日

(乙五七、五八)

長野事件は宮﨑の単独犯。

四月一二日

(乙六一、五九、六〇、五〇)

長野事件、富山事件共に北野との共謀認める

(殺害実行者は、調書の記載からは不明。)。

四月一三日

(乙一二四)

長野事件は北野との共謀。宮﨑の単独実行を供述開始。

四月一四日

(乙五一)

富山事件は北野と共謀し、宮﨑が単独実行

(事前の計画では北野が殺害を実行することになっていたことを示唆。)。

四月一五日~一七日

(乙五二、五三、五四、九)

長野事件は北野と共謀し、宮﨑が単独実行

(北野が殺害する計画だったが、現場に来なかったので、宮﨑が殺害。)。

四月一八日~二〇日

(乙一二、八、一〇、一一、六二、五五、弁五〇八)

長野事件は北野と共謀し、北野が殺害実行

(ただし、乙一二の記載上は、北野の殺害実行についてはやや不明確。)。〔四月二〇日に長野事件の起訴。〕

四月二一日

〔長野南警察署において富山事件により逮捕され、富山警察署に引致、その後同署に留置。〕

四月二二日~二四日

(乙三〇、三三、四三、三二)

富山事件は北野と共謀し、宮﨑の単独実行

(北野が殺害する計画だったが、現場に来なかったので、宮﨑が殺害。)。

四月二五日~五月一三日

(乙三四、四、三、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、

四一、四二、二、五、六、七、一三、四四、四五)

富山事件は北野と共謀し、北野が殺害実行。

〔五月一三日に富山事件の起訴。〕

公判廷

富山事件は否認。A子を誘拐し、殺害、死体遺棄したのは北野である。

長野事件は北野と共謀し、北野が殺害実行。

三  四月二〇日以前の供述について

1 長野事件関係

(一) 北野実行供述開始(四月一八日)以後

右の時点以降の供述については、事件の核心的部分の一つである実行者に関しことさら虚偽を申し述べ、自己の責任を北野に転嫁しようとする宮﨑の態度が顕在化しているのであるから、この虚偽供述と密接に関連付けて述べられている謀議の形成過程、殺害、遺棄の行動状況等についても、これを北野の有罪認定の証拠として用いることは到底許されない。

(二) 四月一七日以前

(1) 最終的な供述内容との関係

したがつて、北野との共謀に関する宮﨑供述として信用に値すると検察官が主張するのは、四月一七日以前の供述状況に着目したものであると理解されるが、愛情に基づいて北野をかばおうとしたとされる宮﨑が、真しな説得によつてやむなく共謀については真実を語つた後豹変し、いわれなき実行者としての責任を北野に押し付けようとする態度に転じたというのは、供述の経緯としてそもそも理解し難いと言わざるを得ない(なお、宮﨑供述の信用性を吟味する際に右の疑問が生じることは避けられないと思われるが、これに答える特段の説明は検察官からは一切試みられていない。)。

そして、この時期の供述状況、供述内容を子細に検討すると、右の疑問が一向に解消しないばかりか、かえつて以下のとおり、信用性を付与し難い種々の事情が見いだされるのである。

(2) 供述状況、供述内容の検討

この時期の供述を前記「宮﨑の供述過程の概観」に従つて更に区分した上分析を加えると、以下に述べるとおり、供述状況が著しく不自然であるのみならず、共謀に関する供述内容自体にも看過できない不合理な点が残されており、結局、反省等の情に基づくものではなく、作為的、意図的になされたものである疑いが全体を通じて強く窺われるのである。

ア 長野事件による逮捕直後の供述(三月三〇日、三一日)

この時点で宮﨑は、捜査官に対して北野との共謀を認めたわけであるが、逮捕当時長野県警察において北野が犯行に加担したことを決定的に証明する証拠を確保していた状況になかつたことは疑いがないのであり、逮捕に際して特に説得等が試みられた形跡もないのであつて、このような状況の下において直ちに共謀を自認した宮﨑の態度には不自然さをぬぐい難いものが残る。

すなわち、一般的に言えば、逮捕による精神的な動揺等により被疑者が真実を申し述べることも少なくなかろうが、本件では、次のような事情が認められ、右の要因によつて供述がされた可能性は低いと言わざるを得ないのである。

後記2でも触れるとおり、三月二九日から三〇日まで、宮﨑は、任意とは言え富山事件についての取り調べを受けていて、逮捕直前の時刻に至つて、自らの関与は認めるが北野についてはこれを否認する旨の供述調書が作成されている。後述するとおり、このときの宮﨑の態度自体不自然さを抱えたものと言うほかはないが、それはさておき、検察官の見解によれば北野をかばおうとする姿勢と解される態度が一応は捜査官に対して示されたとみられるのに、これに引き続く長野事件の弁解に際しては急に消滅してしまつたと言うほかはなく、両事件の一体的性格に鑑みれば、態度変更の理由として逮捕の事実を挙げるだけでは不自然さを解消するだけの説得力に欠けると言わなければならない(この点に関する宮﨑の公判供述も曖昧である。)。更に、富山事件の取調官岡本新治の証言(一四二回、甲一二〇五)によれば、宮﨑は、右の供述調書作成直後に岡本に対し、長野事件での北野の関与を肯定する発言をしていたというのであるから、不自然さは一層顕著となる。

したがつて、この時点における供述について、取調べの初期段階にあつたため、作為を施すいとまもなく真実が吐露されたといつた評価を与えることは到底できないのである。

イ 北野との共謀否認時期の供述(四月一日から同月一一日まで)

① 宮﨑単独犯行供述時期(四月一日)

この日、宮﨑は、それまでの供述を変え、坂井検察官の取調べ及び勾留質問の際に、北野との共謀を否定して単独犯であるとの供述をした。その理由につき、北野をかばう積もりであつた旨説明されているが(三三回宮﨑供述等)、既に逮捕された直後に北野との共謀を認めていたこと、また、②のとおり、翌日には共犯者の存在を前提としている供述に変わつていることに照らし、直ちにそのような意図に基づく供述であると評価することはできない。

② 北野以外の共犯者の存在を認めた時期(四月二日から同月六日まで)

この時期、宮﨑は、共犯者がいることを認め、「富山の男」、実兄宮﨑春男、前夫丁山梅夫らの名前を挙げている(乙一二二、一二三、三三回宮﨑供述)。

右の供述について宮﨑は、警察官の追及によつて単独犯行であるとの主張を継続することが困難となり、やむなく協力者の存在は認めたが、北野の名前を出したくなかつたので、実兄の名前等を示して時間稼ぎをしようと思つたと説明している(三三回宮﨑供述)。

しかし、共犯者の存在を前提にしなければ説明が困難であるといつた問題は見いだし難いし、具体的にどのような内容の追及であつたかも宮﨑は明らかにしていないのであつて、供述を変更した理由に関する合理的な説明として直ちに受け入れることはできない。

更に、当時の捜査官において、三月三日以降行動を共にしていた北野に専ら疑惑の念を向けていたことは想像に難くないところであり、宮﨑が前記の人物の名を挙げることで、一時的にせよ追及をかわす効果が期待できる状況にあつたとは到底解されず、むしろ、この供述によつて、北野が共犯者ではないかとの疑いを一層強める結果を招来したと推測されるところ、宮﨑自身がこうした結果を予期していなかつたものとは考えにくい。

③ 宮﨑単独犯行供述時期(四月七日から同月一一日まで)

この時期、宮﨑は供述を三転させ、長野事件は宮﨑の単独犯行であるとするに至つた。

この際の供述内容として注目すべき第一は、北野を同行させるに当たつては、東京か大宮の男からまともとは言えない種類の金を受け取ると説明した旨述べている点である(4.7検面乙五七等)。

すなわち、この説明は逮捕当時の北野の弁解と基本的に符合しているのであり、こうした説明が北野をかばうための創作であつたとしたら、北野の弁解との一致を説明するためには、逮捕前の三月二八日深夜等の機会に、北野と口裏合わせが行われたとの宮﨑供述(三三回、七〇回、七一回等、5.13検面乙一三)を信用するほかはなかろう。ところが、逮捕以後前記①、②の時期においてこのような供述をなしていた可能性は乏しい(この点に関する明確な証拠はないが、四月一日以降同月六日までに作成された供述調書中にはそのような記載は一切見当たらないことに加え、②の時期にわざわざ「富山の男」との共謀話を申し述べていることにも照らすと、4.7検面の説明がそれ以前から明確に供述されていたとは考え難い。)。捜査官の追及を逃れるために創り出されたものであれば、なぜ逮捕直後から供述されなかつたのか理解に苦しむところである。

第二に、一四三回坂井靖証言甲一二〇六によれば、この時期に、B子の殺害方法を数十回にわたり宮﨑に実演させたところ、紐を頸に巻き付ける回数(実際は二重、宮﨑の実演では一重)、紐の結び目の位置(実際はB子の頸の左側、実演では右側)、紐の結び方(実際にはたて結び、実演ではこま結び)等重要な点で、客観的状況と明白に相違する説明をし続けたほか、B子に睡眠薬を服用させたかについてもこれを否定して、やはり客観的事実に反する供述をしていたことが認められる。

自己が殺害等を実行したとする点では真実に合致する自白をしながら、他方で、記憶違いが生じるとは考え難い右のような重要事項について虚偽の供述をしていることのみでも既に不自然性は免れ難いが、更に、(ⅰ) 絞殺方法についての右の取調べ状況からすれば、検察官がこの点に関する証拠を既に収集しており自己の供述内容がそれとは食い違つている事実を途中から察知できなかつたはずがないのに、宮﨑がなおも同一の説明を繰り返していたこと、(ⅱ) 睡眠薬についても、事柄の性質上右の供述が事実に合致しないことは捜査の進展に伴つて早晩判明することが容易に予想できることに加え、(ⅲ) その後の供述の推移をも併せ考慮するときは、宮﨑が意識的に偽りの供述をしたのではないかという強い疑念が生じることは避けられない。すなわち、殺害実行者は自己ではない旨に将来供述を変遷させ、これを捜査官に信用させるための布石としてこの時期の供述がなされたとの疑いをぬぐいさることはもはや困難と言うほかないのである。

以上の検討によれば、自己の単独犯行を自認していたこの時期の供述態度が、北野をかばう心情に由来するとの検察官の主張は、説得力に極めて乏しいものと言わざるを得ないばかりか、宮﨑において、真の殺害実行者をかばつているとの印象を捜査官に植え付けることにより、自己の責任を免れようとする意図が既にこの段階で存したことを指し示す状況が肯認される。

ウ 北野との共謀、宮﨑の単独実行供述時期(四月一二日から同月一七日まで)

長野事件において、両名の関与状況に関する検察官の主張に沿つた具体的供述を宮﨑がしているのはこの時期であり、したがつて、検察官は、この時期の供述状況が自然であつたと論じている。

しかしながら、この時期に至るまでの宮﨑の供述状況を子細に検討すると、検察官が言うように北野に対する愛情から同人をかばつていたと解するのが余りに皮相的と評するほかないことは前述したところから明らかであり、この点をとらえても既に検察官の立論には疑問がある上に、この時期の供述経過等を探究すると、次のとおり看過できない疑問点を認めるのである。

① 共謀を認めた経緯が不自然であること

宮﨑は、四月一二日に至つて、それまでの単独犯行供述を北野との共謀を認める供述に変更したが、このときのいきさつについて公判廷で弁明し、自分に説明できない箇所が出てきて第三者の存在を認めざるを得なくなつたからとする(八九回宮﨑供述)。しかし、長野事件において、第三者それも北野の名前を出さざるを得ないというような事項の存在は考えられないし、前記坂井証言によれば、四月一二日同証人が宮﨑を取り調べた際に富山事件を自白したので、同証人としては、宮﨑と富山で夫婦同然の生活をし、長野にも一緒に来ている北野が長野事件にも無関係なはずはないとの心証を強くして追及したところ、宮﨑は、黙りこくつたり、涙を流したりしながら、北野との共謀を認めたというのであるから、宮﨑の前記弁明を信用することはできず、自白を開始した動機について不自然さの存在を否定できない。

② 供述が、その後北野に責任を転嫁する内容に移行していること

この時期の宮﨑供述によれば、当初の予定では北野が殺害を担当することになつており、宮﨑が実行することになつたのは、北野が事前の約束に反して合流予定場所に来なかつたためであるとされている。

しかしながら、北野が合流するために検討された方途として示されているのは、木戸交差点まではタクシーに乗車しその後は徒歩によるというものであるところ(乙一二四)、この計画の不自然性は第一部における事実認定についての説明(以下、第一部とあるのは、すべて同箇所を指す。)で既に詳述したとおりであつて(第二の三2(二)(1)エ参照)、到底信用できるものではない。加えて、右調書によれば、三月五日B子を連れて行つた「元庄屋」から「日興」にいる北野に電話した際の会話内容として、ホテル代を支払つた上で出てくるように北野に指示したところ、分かつたと返事した旨具体的に描写をしているが、北野は三月四日に既に翌五日分のホテル代を支払つていたことが客観的に認定できるのであり(<証拠>)、このような会話が交わされたはずはない。こうした点を斟酌するときは、合流予定が存在したこと自体極めて疑わしいのである(論告内容をみるかぎり、検察官もこの点に異論はないものと解される。)。

説得に応じて真実を語ったと検察官が主張するこの時期に、虚偽である疑いの濃い説明が含まれていることの不自然さは言うまでもないし、更に注目されることとして、右のように説明は、北野の関与が謀議への参画にとどまるものではなかつたことを強調することにより、北野が実行にも関与したのではないかとの捜査官の疑念をかえつて深めさせ、その後に「計画どおり北野が来場して殺害を実行した。」との供述に移行した場合、これを自然な供述として受容させる効果を有していたと考えられる点が指摘できる。

現に、担当検察官は、宮﨑単独実行供述を信用せず(前記坂井靖証言)、更に取調べが続けられた結果、供述開始から一週間もたたないうちに、宮﨑は、右のとおりに供述を変え、北野の実行という責任転嫁の虚偽供述に転じたのである。

しかも、この供述変遷の経緯をみると、北野を合流予定場所で待つていた際の話をしていたところ、不意に北野が臨場していたことを口にしたのを検察官が聞きとがめたのが契機となつたことが認められるのであつて(三四回宮﨑供述、前記坂井靖証言)、以上を全体として考察するときは、本項の冒頭に摘示した宮﨑の説明は、将来の供述変更を念頭に置いた上でなされていた可能性が強いと断ぜざるを得ないのである。

③ その他の不自然性

以上のほか、やはり看過できない不自然性が認められるものとして、等しく宮﨑が殺害を実行したとしながら、乙一二四(4.13員面)では殺害した場所から四、五分車を夢中で走らせ、舗装していない山道に入つて一五〇メートル位の場所に死体を遺棄したとされているのに対し、二日後に作成された乙五二(4.15員面)では殺害現場で遺棄も行つたとなつている点が指摘できよう。このような点に記憶違いを生じる可能性は実際上あり得ないと言つても過言ではなく、この時期の供述の真し性に対する強い疑いを生じさせるのである。

エ まとめ

アからウに至る各段階における供述を検討すると、いずれの場合にも内容に意識的な工作が加えられて供述された跡が随所にみられ、検察官が主張するような自然性を肯定することは著しく困難である。

しかも、各検討結果を時間に従つて並べて要約すると、当初の一時期に北野との共謀を認めた後、一旦全面否認に転じているが、その最中の供述内容の不自然性によりかえつて捜査官の北野に対する疑惑を深める結果を招来し、結局北野との共謀を自白するに至つたこと、右の自白中には現在では事実に反するという疑いの濃厚な説明が含まれているところ、捜査官においてはこれがむしろ真実を示唆する供述であると信じて追及が続けられた結果、程なく、証拠上明白に虚偽であり北野に対する責任転嫁と認められる弁解に転じたことが認定でき、これらを一連の流れとして全体的に考察するときは、宮﨑が、最終的な右責任転嫁供述を捜査官に信用させる目的を持つて、当初の段階から供述を少しずつ変遷させたのではないかとの強い疑念が生じるのである(宮﨑の供述中に北野に対する責任転嫁の態度が具現していることは、検察官も争わないところであり、それにもかかわらず信用性を付与できると主張するのであれば、右の問題点は避けて通れないはずであるが、意見を精査しても具体的な論証等は見いだせない。)。

なお、北野との共謀状況に関する宮﨑の供述内容を検討してみても、右の結論は変わらない。

すなわち、一般論として言えば、北野の自白と対比して検討した結果他の者には知り得ない事情について供述が合致しているような場合には、双方の供述の信用性が高められることもあろうが、各供述調書を比較検討しても、謀議に関し捜査官にも判明していないような特異な事実について両者の供述内容が一致している例は認められないばかりか、かえつて不可解な相違点すら見いだせるのである。

具体的に言うと、誘拐場所の謀議に関して宮﨑は、三月三日に富山を出発する以前から長野で誘拐をする旨の話があつたとの供述(4.14員面乙五一)を経た後、自分では長野と決めていたが北野には単に県外でやろうと話していた旨述べるに至つている(4.17検面乙九)。ところが、北野の自白時の供述では、大宮で誘拐しようとの合意の下に富山を発つたという供述内容で一貫しているのである(4.13員面乙八四、4.18検面乙二三)。このような事項について記憶違い等が生じる可能性は実際上考え難く、共謀に関する双方の供述の信用性を低下させる事由として数えることが可能であろう。

2 富山事件関係

(一) 長野事件による逮捕直前時点の供述

宮﨑は、三月三〇日長野事件で逮捕される直前まで、富山警察署において、岡本警部から富山事件に関する取調べを受けていたが、その際、A子殺害の事実を認め、その旨の供述調書が録取された(<証拠>)。

この供述経過については、岡本警部から殺害の凶器となつた紐の出所を北野が供述したと告げられ、同人を救うためにはこれ以上北野に供述させてはいけないと思つて、反射的に富山事件は自分がやつたもので北野は関係ない旨自白したと公判廷において説明しており、検察官はこれを信頼できると解した上で、宮﨑の北野をかばおうとする心情の発露を認めるようである。しかしながら、この説明は到底信用し難い。

すなわち、第一に、宮﨑の公判供述は、自らは富山事件には無関係であるという主張をその骨子としているところ、これが事実に反するものであることは裁判所の認定であるとともに、検察官の主張でもあるのである。したがつて、そうした偽りの主張に密接に関連した説明を、北野の関係でもそのまま鵜呑みにすることが許されないことは当然であると考えられるのに、検察官は何ら特段の理由を示さずに前記の議論を提示している点で、説明不備とのそしりを免れ難いのである。

第二に注目すべき事実として、前記供述調書には、「私がA子さんを殺した場所」と題された自筆の図面が添付されているところ、この図面上に、「私とA子さんと他男性一名 男性については名前は知つているが言えません」との記載が付加され、更に、このうち「と他男性一名」以下については線を引いて抹消した跡が明瞭に残されていること、この記載及び抹消の経緯については、取調べにおいて岡本警部が「一人で殺したのか。」と質問すると、宮﨑が「そんな恐しいことを一人でできません。」と大声で答え、「他男性一名」云々と書き出したが、「名前が言えないというのはどういうことか、本当に誰かと一緒にやつたのか。」と重ねて追及されるや、「本当は私一人で殺したのです。」と答えたため、岡本が指示して抹消させたものであること(前記岡本新治証言。なお、右認定に反する宮﨑の公判供述(七七回)は、曖昧で措信できない。)を挙げることができる。

右の事実が、当初北野をかばおうとしていたとする宮﨑供述(及び検察官の主張)に強い疑問を投げ掛けるものであることについては多くの説明を要さないであろう。表面的には北野との共謀を否定する結果となつているものの、当時の状況下において宮﨑の口から男性一名も殺害に関係していることが一旦明らかにされれば、その嫌疑が北野に向けられることは火を見るより明らかであり、また、北野をかばおうとして取調べに臨んだはずの宮﨑において右のように不用意な発言に及ばなければならなかつた状況はいささかも認められないのである。

更に付言すれば、右の捜査官との会話は、殺害の実行者をめぐるものと理解するのが自然であるところ、A子殺害は宮﨑が単独で実行したものであると認定できるのであるから、宮﨑において、富山、長野両事件を通じて初めて自己の犯行関与を肯定したこの当時から、既に実行者の責任を北野に転嫁する意図を有していたことを窺わせる資料として評価することも十分に可能である。

(二) 長野事件での取調段階における供述

宮﨑は、長野事件に至るいきさつを供述するに際して、直前の富山事件についても何度か言及しているところ、四月一二日長野事件に関して北野との共謀を認める前は、富山事件も自らの単独犯である旨供述し、長野事件における北野との共謀を認めた頃から、抽象的にではあるが富山事件についても共謀を肯定するに至つている(<証拠>)。

次に、宮﨑がB子殺害の実行者は北野であると供述を変えた四月一八日当時の富山事件についての供述状況をみると、前記坂井証言ではA子殺害の実行者につき変更はなかつたとされている。しかし、それ以前の時期に作成された4.14員面乙五一では、北野が殺害する予定であつたが行動に出なかつたため宮﨑が単独で殺害したという明確な供述が録取されているにもかかわらず、4.17検面乙九及び4.19検面乙八になると、長野での犯行を思い立つに至つた原因として富山事件当時の二人の行動等が触れられている中で、殺害実行者についてのみ具体的な記載が欠落していることが認められ、この頃には、A子殺害が自己の単独実行であることを強調しなくなつたことが推測されるのである。

(三) まとめ

前述したとおり、長野事件に関する宮﨑の供述が取調時期全体を通じて不自然であると評価することができるのであるから、供述の際に前提事情として触れられた富山事件にかかわる説明もまた、軽々にこれを信用できないことは言うまでもないが、更に、右のとおり供述変遷時期が符合する事実や、(一)で指摘した逮捕前の供述内容等を総合的に考察するときは、富山に身柄が移される以前の段階での宮﨑供述の中に、富山事件についても長野事件に関して認められると同様の作為性の跡を発見することができるのである。

四  四月二一日富山警察署に引致された後の捜査段階における供述について

1 長野事件の殺害実行を北野に転嫁させた後の供述であること

遅くとも、長野南警察署に留置中の取調べの最終段階でB子殺害の実行者は北野である旨を供述するに至つた時点においては、北野に対する愛情を宮﨑が抱いていたはずのないことが明らかであり、愛情の存在を前提にして論じる検察官の主張が、その後富山に身柄を移されてからの宮﨑供述の信用性に関して全く妥当しないことは多言を要しないであろう。そして、富山、長野両事件が時期を接して敢行された一連の犯罪であることに鑑みれば、富山事件で逮捕されてからの宮﨑供述について独立してその信用性を認めることができるとすれば、この時期においては北野に不利益な虚偽供述をしている虞れはないとする特段の事情の存在が必要とされるはずであつて、その意味からすると、検察官が、右特段の事情について何ら主張しないままに、宮﨑供述を富山事件における北野の有罪立証に用いることができると論じているのには、到底左袒することができない(また、関係証拠をつぶさに検討しても、そのような事情が存在する形跡は窺われない。)。

更に、富山に引致される以前の富山事件に関する供述状況もまた不自然であることは前述したとおりであり、これらの事情だけで考えても、富山に引致された後の宮﨑供述に証明力を認めることには大いに問題があると思料されるが、更に、この時期における具体的供述状況等を検討しても、以下に述べるとおり、かえつて疑いが深まるばかりで、信用性を付与する方向を指し示す事実は認められない。

2 富山事件についての供述の変遷

この時期の宮﨑の供述も、長野における長野事件についての供述と同様に、一旦は北野と共謀し宮﨑が単独で実行した旨説明しながら、後になつて、殺害実行者は北野であるとの内容に変わつている。変更後の供述内容については、A子殺害は宮﨑が単独で実行したものであるとの動かし難い認定事実と反することが明らかであり、少なくともこの限度において、北野に対し富山事件に関しても責任を押し付ける意図が発現しているのである。したがつて、長野事件の場合と同様に、変遷後の供述については、およそ北野の有罪認定の証拠として用いることが許されないものと解される。

しかも、富山事件で逮捕されて五日後には押し付け供述に転じていることに加え、その変遷状況をみると、「計画では北野が殺害を実行することになつていたが、北野が約束に反して現場に現れなかつたために宮﨑が殺害した。」旨の供述を、「北野が計画どおり現場に来て殺害を実行した。」旨の供述に転ずるというように、長野事件に対する供述の変遷過程を再現していることが証拠上明らかであり、これらは、変遷前における宮﨑の供述の信用性を減殺する一事情と評価することができるのである。

3 北野との共謀、宮﨑の単独実行供述時期の供述内容の検討

更に、富山事件について、北野への明白な責任転嫁を示す以前の供述、すなわち、北野と共謀はしたが、殺害を含め犯罪のすべてを宮﨑が単独で実行した旨の説明をしていた時期の供述内容(検察官の見解に沿うものであり、信用性が最も高いという主張がされることになると思われる。)について掘り下げて検討を加えると、以下に述べるように軽視できない不自然な内容が含まれているのである。

(一) 宮﨑が実行をするに至つた理由

この時期に作成された4.22員面乙三三によれば、北野との事前の謀議においては、誘拐した相手を殺害するのは北野の役目と決まつていたこと、また、北野は、毎日借金の返済に追われていたため宮﨑に誘拐の早期実行を強く迫つており、誘拐当日の二月二三日も、わざわざ宮﨑を自宅に呼び出し、その日が土曜日であつたので女の子の誘拐に都合がよいのではないかと言つて催促した上、その後立ち寄つた「小枝」でも、「そろそろ行け。」と誘拐に出掛けることを命じた旨の記載がされている。しかしながら、同調書は、その後の状況について、同日宮﨑が「銀鱗」から誘拐成功の電話連絡をしたときも「分かつた。」と返事したとあるにもかかわらず、以後二五日まで北野は殺害実行に向けての行動を一向に起こさず、宮﨑が実行した旨の録取がされているのみであり、真実を供述したにしても、あまりにも曖昧かつ不自然であると言わざるを得ない。

(二) A子の絞殺方法に関する供述状況

一四二回岡本新治証言(甲一二〇五)によれば、宮﨑がA子を殺害したと供述していた際の具体的な殺害方法についての供述は、腰紐の両端を自分の腕に何回か巻いた上、腕を前で交差する形で絞め付けて窒息させ、死亡後A子の頸の後方で結んだという内容であつたことが認められるが、これは、結び目がほぼ顔の正面の頸部に位置していた(巡3.7写報甲三六八)という点で実際の状況と矛盾しているほか、絞め方についても、右のような方法の不自然さは明らかであり、事実岡本もこの点に疑問を抱いたことが認められる。

A子殺害の実行者であると認められる宮﨑が、具体的実行状況を供述するに際し、不自然な又は事実に反することが容易に判明する不審な供述をしたということは、この時期における供述の自然性を強調する検察官の主張に正面から抵触するものであり、むしろ、A子の殺害の実行者は北野であるとの心証を取調官に与えようとの周到な準備の下に、この時期における供述がなされたことを強く指し示していると解されるのである(既に長野事件での取調べに際して同様の工作が試みられること(1の(二)(2)イ③参照)も、この結論を補強する事情と考えられる。)。

五  公判段階における供述

宮﨑の公判段階における供述は、既に第一部で詳細に説明したように、富山事件については自己は全く無実であると主張することにより、A子殺害に加えて死体遺棄についても、実行行為者としての責任を北野に転嫁させようとし、長野事件については捜査の最終段階と同様の弁解を維持することによつて、少なくとも北野にB子殺害の実行責任を転嫁させようとするものであつて、全体的には、捜査段階に比してなお一層自己の刑責を北野に押し付けることでその一部を免れようとする姿勢が歴然としていると言うほかはない(検察官が、捜査段階からの一貫性のみを根拠にして、公判供述中の一部を抜き出し、これを北野に不利益な証拠として用いることは、あまりに恣意的であるとの非難を免れ難いであろう。)。

六  結論

1 以上の議論を全体的な視野に立つて整理、要約すると、次のとおりである。

まず、公判段階、捜査段階を問わず、すべての宮﨑供述について、これを北野の有罪認定のための証拠として用いるだけの信用性は認められない。

すなわち、強制捜査時において、長野事件、富山事件の順に取調べを受けた宮﨑が、殺害実行に関する自己の責任を回避する意図を持つて、実行者として北野の名前を挙げ詳細な虚偽供述を開陳したことは、ほかならぬ検察官の主張するところであり、右事実の存在にもかかわらず、その余の部分について宮﨑供述に信用性を付与するためには、虚偽供述と残余部分とを区別して評価できる特段の事情の存することが要求されると解されるところ、本件証拠を精査しても、そのような事情は一切見いだすことができない。

この点に関して、検察官は、それまでの北野との共謀否認供述からこれを肯認する内容に転じた際の状況が自然であつたとするが、その時点を全体の経過及び具体的状況の両面から検討した場合、両事件ともむしろ不自然性が顕著であつて、検察官の主張は根拠が薄弱であると言わざるを得ない。

なお、検察官は、供述内容が合理的であることを論拠の一つに掲げているようであるが、その意味するところを検討すると、自己の犯意を秘匿していたとは考えられない程度の一体性が両名の間に認められることを不動の前提として議論を展開していることが明らかである。しかしながら、本件では、そのような一体的関係があつたかどうかが事実認定上の争点となつており、しかも、第四で後述するとおり、宮﨑供述を用いなければ右の一体性を肯定できないと言えるのであるから、結局検察官の主張は、循環論法に陥つていると評するほかはないのである。

2 第二に、宮﨑供述に対する評価は、北野に対する不利益証拠としての使用を否定するだけにはとどまらない。

すなわち、その供述過程は、北野をかばおうとして真相の告白を渋つていたとする宮﨑の公判での説明に合致しているかのように一見解されないわけではない。しかし、数次の変遷過程をつぶさに眺めると、そのような理解が極めて表面的なものであると言うほかないのであつて、取調べの初期段階から、その必要もないのに曖昧で暗示的な言動に及んだり、あるいは記憶違いの可能性は考え難い事項について客観的事実に反する説明をしたりすることにより、取調官の北野に対する疑惑の念をより強固なものにし、その結果、殺害実行の責任を押し付ける偽りの供述を最終的に行つてこれを信用させることに成功するという過程がたどられており、しかもそれが二度にわたつて繰り返されたことに照らせば、捜査時点における宮﨑の供述全体について、取調官の心証を考慮しつつ自己の供述を巧みに操作し責任の転嫁、軽減を図ろうとする意図に支配されたものであつた疑いが極めて濃厚であるとの結論を導くことができるのである。

そして、このような理解に立脚するときは、宮﨑は、事件後程なく、しかも極刑も予想される犯罪に関して、その実行責任を転嫁させようと考えていたと解されることになるのであるから、犯行時点の宮﨑において、北野との間に心身の一体性を強く感じていたとする検察官の主張には多大の疑問を禁じ得ないし、他方、情を知らない北野を利用し、自己の刑事責任を免れようとの意図から、宮﨑が事前の下見や各犯行の前後に北野を伴つて行動していたとする北野の主張に対しては、現実的な可能性を帯びたものとしてこれを受け止めなければならないことになろう。したがつて、今後宮﨑供述以外の証拠を検討するに当たつても、そうした疑いを払拭するだけの事情が検察官によつて立証されているかという角度から、慎重な吟味が必要とされるのである。

第四北野の自白を除いた本件各証拠による検討

本章においては、宮﨑の供述に対する前述の評価を前提に、北野の捜査段階における自白(不利益事実の承認を含む。)を原則として除外した本件各証拠及び北野が公判で自認する不利益事実を基にして、北野の共謀共同正犯の認定に係わる間接事実について検討を加えることとする。

一  北野と宮﨑が心身共に一体の関係にあつたとする検察官の主張について

1 両名の愛情及び日常生活面での一体性

(一) 肯定的事実

心理面及び日常生活面において、強固な一体性があつたとする検察官の主張に沿うものとしては、以下のような事実が認められる。

(1) 北野と宮﨑は、昭和五二年九月に知り合つて以来、愛人関係を継続して本件各犯行に至つており、特に、同五三年二月に北陸企画を共同で経営するようになつてからは、右事務所を性交渉の場に利用するなどして、一種の同棲状態とも評し得る日々を送つていたことが明らかである。

(2) 二人の将来につき事件当時北野がどのように考えていたのかに関し、北野は、結婚する意思がなかつたとするが、その言によつても、宮﨑が大宮方面に引つ越しをした後も、贈答品の商品を仕入れに行つた際にはその新居に宿泊させてもらうことを考えていた(一〇一回供述)というのであるから、少なくとも、昭和五五年二月北陸企画事務所を閉鎖するに伴つて、宮﨑との関係を完全に清算するまでの意思を有していなかつたことは明らかである(なお、検察官は、北野が離婚の意思を明らかにしていたとする宮﨑供述を援用して、将来にわたつてむしろ一体性が強まる状況にあつたことを主張するが(論告要旨一九一頁)、右供述を補強する客観的証拠は認められず、採用できない。)。

(二) 否定的事実

両者の一体性という検察官の主張は、実行者である宮﨑が犯行の意図を北野に告知しなかつたはずはないという結論を導くための事情として指摘されているのであるから、これを検討する場合の力点は、宮﨑が北野にどれだけ愛情を寄せ、信頼し、又は依存していたかという点に置かれるべきものと解されるところ、関係証拠を検討すると、以下に述べるごとくかえつてこれに否定的な事実が認められる。

(1) 宮﨑は、前夫丁山梅夫と離婚した後、富山の結婚相談所に登録し、同所を通じて男性の紹介を受けていたが、昭和五二年九月に北野と知り合つた後も、同年一〇月頃、同五四年七月頃、同年九月頃、同年一〇月頃の四回にわたつてそれぞれ男性を紹介されている(<証拠>)。

特に、右相談所を通じて昭和五四年九月頃に知り合つた×○○○とは定期的に交際を継続し、同五五年二月二八日には、借金の返済猶予を得る代償として×○から求められたことが窺われるとは言え、結果的に同人と性交渉を結んでいたことが認められる(<証拠>)。

そこで、これらの点を宮﨑が北野に知らせていたかが問題となるが、北野はこれを否定し、×○については、宮﨑から名前を聞いたことはあるが、×○の母を通じての知り合いであるとの説明にとどまつていたと供述する(一〇一回)。これに対し、宮﨑は、×○とのいきさつは、結婚を考えたことも含めすべて北野に打ち明けていたと供述する(七七回、一八五回)が、この当時の北野との関係に格段の変化が認め難いことに加え、捜査段階において、宮﨑と×○が知り合つた経緯やその後の交際状況を捜査官から知らされた北野が驚がくの情をあらわにしている模様(マイクロカセットテープ乙一〇九)に照らせば、宮﨑は、×○との交際の詳細を北野に対して明らかにはしていなかつたものと認定することができる。

(2) 次に、宮﨑の捜査官に対する供述状況をみると、表面的な言動とは裏腹に、内実においては北野を利用しようとする意思が見え隠れしていると解されることは前述したとおりであつて、一箇月程ばかり前には北野に一途に愛情を注いでいた者の執る態度としては不可解というほかはないのである。

(三) まとめ

以上を総合すると、北野と宮﨑は、昭和五三年二月以降夫婦同然の交際を継続しており、この面にのみ着目すれば検察官の主張もうなずけないわけではないが、(二)で摘示したような事情も併せて考えるときは、一心同体と評価できるまでの一体感を宮﨑が北野に対して抱いていたものとは到底解されない。

2 両名の経済面での一体性

(一) 両名が北陸企画を共同で経営していた点について

北野及び宮﨑は、昭和五三年二月にそれぞれ一〇〇万円ずつ出資して北陸企画を開設し、以後共同経営者として贈答品販売業を営んでいたが、同五四年になると両名が仕事に対する熱意を失つたこともあつて経営は著しい不振に陥り、賃借していた事務所を同五五年二月には閉鎖することが決められ、その後再度両名で事業を行う旨の具体的計画はなかつた(<証拠>)。したがつて、北陸企画の共同経営者として北野と宮﨑が経済的利害を共通にしていたことは間違いないが、右の共通性も、北陸企画事務所の閉鎖に伴つてその基盤が大きく揺らぐことの避けられない状態にあつたことは看過できない。

(二) 両名の犯行当時の借金について

(1) 本件当時の両名の借金状況

北陸企画名義の借金はほとんど皆無であり、富山事件当時において、宮﨑名義の借金は、第一部の第二の一の2で認定したように国民金融公庫、×○○○及びサラリーマン金融から借り入れた合計約三〇〇万円に上る一方、北野名義の借金は、妻風子から五〇万円、妻の実母から二五万円、北野の実家から一〇万円の合計八五万円であつたことが認められる(<証拠>。もつとも、北野4.25自供書乙一一二によれば、北野の実家からの借金は三〇万円となつている。)。

本件当時に残存していた前記の借金が、共同経営にかかる北陸企画の経営不振自体に起因するものではなく、昭和五四年九月に購入されたZの代金支払いが発端となつていることについては証拠上疑義がない。

そこで、検察官は、前記借金は名義こそ両名別々となつているものの、実態は共同購入にかかるZの支払い債務を中心とした両名の負担すべきものであり、両名もそうした認識に立つて金策に回つていたが、本件当時には返済に窮する状態にあつたという事実認識を前提に、北野の犯行の動機を論証しようとしている。

しかしながら、以下に指摘するような事情を勘案するときには、検察官の見解が的を得ているものとは解されない。

(2) Zの購入者

なるほどZの購入契約が名義上北野と販売店との間に交わされていることは証拠上明白であるが(<証拠>)、当時北野、宮﨑のどちらがこれを欲したため購入することとなつたのかについては争いがあるところ、この点に関する宮﨑供述のみを特に措信できる特段の事情は認められない一方、宮﨑の強い要望で買い入れたとする北野の公判廷の主張<証拠>は、契約名義人のいきさつ等にもそれなりの説明を加えていて一概に排斥することはできず、結局いずれとも決し難いと言うほかない。

(3) その後の借金の推移

次に、その後の借金状況に目を向けると、北野は当初こそすべて自己名義で借り入れをしたものの、第三者からの分については宮﨑名義の借金に転化しており、身内からの借用分について返済を督促されたとの事情も窺われないのに比べ、宮﨑の方は金融機関等から借り入れた分の返済のために更にサラリーマン金融に手を出すなど困窮ぶりが歴然としている。ところが、北野が宮﨑に助力をしようとした様子は全く窺われないばかりか、かえつて、昭和五五年一月二六日頃には、宮﨑が前記×○らから都合した合計一二〇万円の一部を受領して自己の返済に充てている(妻の実母に二五万円返済)ことが認められるのである(<証拠>)。

(4) 借金に対する相互認識

更に、それぞれの名義となつている借金に関する相互の認識状況を検討すると、まず宮﨑は、北野の状況を正確に把握していたと解される(二六回宮﨑供述。ただし、その額が二一〇万円位はあつたとする点は、二月中旬には約一〇〇万円であつたという4.28員面乙三四の供述記載に照らし、信用できない。)。

これに対して、北野は、捜査段階の当初において、宮﨑が×○から多額の借金をしていたことは知らなかつた旨供述し(マイクロカセットテープ一〇九)、この点はその後も一貫しているものと認められる(<証拠>)。また、一月下旬に宮﨑が親戚の金融業者から借り入れた八〇万円についても、その入手先は知らなかつたと公判廷で主張しているところ(一〇六回)、事実捜査段階の調書も不明確なままにとどまつているし(4.17検面乙二一)、特にこれらの点についてのみ虚偽を述べる必要性にも乏しいから、右の弁解はいずれも信用でき、宮﨑の借金状況について北野はそのすべてを把握していなかつたことが肯認できることになる。

(5) まとめ

北野及び宮﨑が共通の借金の返済に苦慮していたという検察官の主張と、右の(3)及び(4)の事情が齟齬することは明らかであろう。むしろ、これらの事情を最も無理なく説明するとすれば、北野は、Zが購入された後宮﨑が返済に追われていた借金分について、そもそも自らの責任において清算すべきものとは全然考えていなかつたと理解する方がより説得力に富んでいると解される。

もつとも、このような理解に対しては、北野が捜査段階で否認していた時期に作成された供述書等において、宮﨑名義の借金についても北陸企画の債務であることを承認したかのごとき記載がみられること<証拠>をとらえてこれを論難する主張が考えられないでもない。しかし、これらの調書等は長野事件での公訴提起後身柄を富山に移されてから作成されたものであり、後記第五の二4において詳細に触れるとおり、この時期においては否認時期と言えども捜査官に迎合する虚偽供述がなされている疑いがある。更に、長野事件で逮捕された直後の否認時期に作成された供述調書(3.31員面乙一五)においては、自己名義の借入れのみを自己の借金である旨述べていることをも考慮すると、前記各記載を北野の自白に対する評価と切り離して、借金状況に関する事実認定の基礎とすることは相当と言い難い。

なお、北野の心理状態については、男性の傲慢さの現れであり、愛情に溺れた宮﨑がひとり献身的に金策に奔走する形で一体性は保たれていたという可能性が一応考えられないでもない。しかし、第三で検討した宮﨑の供述状況等からするときは、本件の両名がそのような関係にあつたとは考え難いのであつて、結局、Zの購入経緯に関する北野の前記主張が真実性を帯びたものとして評価できることになろうが、この点はさておいて本件発生当時の時点だけに限定して考察しても、宮﨑と同様に北野も借金返済にあえいでいたとする検察官の主張が客観的な裏付けに乏しいことに疑いの余地はない(もちろん、愛情関係が途切れていたわけではなかつたのであるし、また、Zを北野も使用していたことは間違いないのであるから、宮﨑の借金に北野も関心がなかつたはずはなく、日頃から早期の返済方を促す発言をしていたことも想像に難くないが、そのような程度の利害関係では、犯罪の共謀事実を高度に推認させるだけの有力な事情とは目し難い。)。

3 総括

以上検討してきたところを総括すると、北野及び宮﨑の両名が本件当時に至るまでいわゆる愛人関係を継続し、その間経済的にも一定の限度で利害関係を共通にしてきたことは認められるものの、その内情につき、これまでの諸般の分析結果も踏まえて客観的証拠を吟味すれば、検察官の主張するように強固な心身の一体性が二人を結び付けていたと解するのは極めて困難であると結論するほかはない。

そして、このような結論は、次の二点において、北野の共犯性に関する検察官の論拠を失わせることになる。

すなわち、第一に、二人の交際状況からみて宮﨑が犯行計画を北野に秘匿することなどあり得ないとする主張が採用し難いことは明らかであろう。

第二に、2でみたように、北野の側では大金を入手しなければならない差し迫つた事情は存在しなかつたことになり、借金返済が主たる犯行の動機だつたとする検察官の主張も、根拠に乏しいものと評するほかはないことになる(大金の使途について検察官が指摘するその余のもの(論告要旨一九〇頁)については、動機を推認させるだけの緊急性、重大性を肯定できず、情況証拠としての価値はさほど認められない。)。

二  C山事件

1 本件事実認定において有する意義

第二(当事者の主張)で触れたように、検察官は、C山に対する保険金殺人未遂の事実に北野が加功していたことを前提に、その後富山事件、長野事件に至る金員獲得目的の殺人計画の源流をここに見いだすことができると位置付けているのである。

確かに、宮﨑が本件犯罪計画を立案したこととC山事件との間に有機的な関連性が存在することは、第一部でも認定したところであるが、後者から論理的必然的に前者を推認することができないことは言うまでもないし、犯罪類型、実行時期等からみても、例えば富山、長野両事件のような強固な密接性は認め難いのであり、この点は、C山事件に関する検察官立証を検討するに際してあらかじめ念頭に置く必要があろう(この点は、後に北野の自白等の信用性を検討する際に再説する。)。

2 北野の加担を基礎付ける証拠の脆弱性

次に、この点に関して検察官が提示する証拠関係を一覧すると、これまでの検討結果を踏まえれば、その脆弱性は明らかであることを冒頭に指摘する必要がある。

すなわち、計画の実行部分について、被害者のほか情を打ち明けられ現場まで同行した宮﨑の友人等の供述があることは第一部で指摘したとおりであるが、これらはいずれも北野の共謀に関して何ら触れるところがないのであつて、結局、この点に関して検察官が援用する証拠は、宮﨑及び北野の供述に尽きているのである。

このうち、宮﨑供述に関しては、一方で本件実行行為者について北野に対する責任転嫁の虚偽供述をなしたと断じながら、何ら特段の事情を示すことなく、犯行の経緯として語られた部分に限つてはこれを北野に不利益な事実認定の用に供することができると即断している点で、前記一で述べたのと同様の批判を免れ難い。

次に、北野が公判廷でも自認する事実に目を転じると、昭和五四年五月頃宮﨑と連れだつて富山県内上市地区の山中に出掛けたこと、同年八月九日宮﨑が富山市岩瀬浜の海岸でC山を殺害しようと試みた晩に、富山市内のスナック「スコッチ」で飲酒し、同店のホステスに依頼して北陸企画に架電させ、応対に出た宮﨑に出迎え方を要請した事実を挙げることができる(このうち、後者については、客観的な証拠によつて裏付けられている。<証拠>)。しかしながら、右各事実が、独立して北野の共謀を推認するだけの価値を有していないことは言うまでもないであろう。

3 北野の共謀への参画につき疑問を抱かせる事情

以上のとおりで、C山事件に係わる客観的な証拠を北野の有罪認定の基礎となる事情として考慮することは到底できないと言わざるを得ないが、関係証拠を精査すると、右の結論にとどまらず、かえつて、客観的証拠だけから判断する限りでは、北野がC山事件に関与していなかつたことを窺わせる事情が散見されるので、付言することとする。

(一) 北野は、C山一男が住友生命保険に加入した事実を知らなかつたこと。

第一部の第二の一の1で認定したとおり、宮﨑は、C山を殺害して同人に掛けられていた保険金を取得しようと企てた際、既にC山が加入していた日本生命の保険(契約者及び被保険者はC山、受取人は宮﨑、災害死亡時の保険金額四、〇〇〇万円)が、C山の掛け金不払いにより失効しているのではないかとの不安を抱き、昭和五四年三月、更に、C山をして住友生命の保険(契約者及び被保険者はC山、受取人は宮﨑、災害死亡時の保険金額五、〇〇〇万円)に加入させていた。

ここで、仮に保険金殺人につき、北野が宮﨑と意思を相通じていたのであれば、新たな加入契約に関して謀議がされるのが自然であろう(宮﨑も、二四回公判等でこれを肯定する。)。ところが、関係証拠によれば、北野は右保険の存在自体を知らなかつた可能性が極めて高い。

まず、後述するとおり北野の捜査段階における供述調書中には、C山事件の事前共謀を全面的に自白しその経過を詳細に供述しているものが存在するが、住友生命分の加入事実に言及したものは見当たらず、かえつて、4.17検面乙二一では、宮﨑が、四、〇〇〇万円の保険(日本生命)以外にもう一本C山に保険を掛けようと北野に提案した際のこととして、宮﨑が受取人となつている保険が二本もあつたら怪しまれるから止めるよう返答したので、保険は一本だけだと思つていた旨の供述記載がある。右の検面調書はC山事件全般について共謀を認めた内容となつていることに照らせば、少なくとも住友生命の分についてことさらに虚偽供述をする理由は全く考えられない。

また、C山の右住友生命の契約を担当した保険外交員中村敦子の証言<証拠>によれば、昭和五四年一一月頃、掛け金の領収書を北陸企画に持つて行つた際、北野が席を外したところで、宮﨑から、保険のことは北野に言わないよう耳打ちされ、渡した領収書はその場で宮﨑が自分のバッグに収納した事実が認められる。なお、宮﨑は、前記中村に対して口止めをしたのは、C山の保険ではなく息子松夫の分についてであり、当時金に困つていたにもかかわらず松夫名義で保険に加入した事実が知れると怒られると思つたと公判廷では弁解している(七八回、八〇回、一八五回宮﨑供述)が、前記中村証言の趣旨とは明白に食い違つており、また、捜査段階において、宮﨑は、C山の保険について関係ないはずの北野が口出しをすると、中村に不自然な感じを与えると思つたとして、C山の件で口止めした旨明言していること(6.6検面乙一〇二)に照らしても、到底信用できない。

(二) 北野は、宮﨑が第三者にC山殺害の協力を依頼した事実を事前に知らなかつた可能性があること

C山を海で溺死させようとした際、宮﨑が知人の○△△○にC山殺害の助力を仰ぎ、岩瀬浜の海岸でC山にクロロホルムを吸引させ殺害を実行しようとした折りに見張りをさせていること、また、右の依頼の前にも、知人○○××に、同様の話を持ち掛けていることも、既に認定したとおりである。

ところが、○△、○○共に北野が計画に加わつていることを宮﨑から教えられた形跡が全くない。

もちろん、順次共謀の可能性もあるのであるから、その事実だけで直ちに不自然さを認めることにはならないが、他面、仮に検察官の主張するような一体性が存在したのであれば、宮﨑が北野に対してまで第三者の協力を秘匿すべき事情は本件では認められないであろう。事実、宮﨑は、この点に関し、依頼は北野の指示によるものであり、○△に決定した後で、「知人の女性に頼んだ。」旨北野に告げたと供述しており、他方、C山事件を自認する北野の捜査官に対する供述調書中には、誰かもう一人とC山殺害に行く旨宮﨑から言われたとの記載がされている(4.17検面甲二一)。

そこで、これらの証拠価値が問題となるが、後述するとおり、C山に対する宮﨑の所為について事前、事後に全く知らなかつたとの北野の弁解は、必ずしも全面的には信用できないものの、その一方で、右の両名の捜査時の供述を措信し、宮﨑が第三者に協力を要請していたことを北野も事前に承知していたと認定することもまた相当困難であると言わざるを得ない。

すなわち、右両名の供述を最大限に信用したとしても、第三者の身元については北野に判明しないままに終わつたと解するほかはないところ、誰が共犯(しかも犯行現場に同行する者)として加わるかは犯行の計画どおりの遂行にとつて重要な意義を有する問題であるはずであるから、事前にそうした可能性を了知しながら具体的な人選については宮﨑に一任し、事後にこれを聞こうともしなかつたというのは理解し難い行動と評価する以外にはなく、結局事前に北野が宮﨑の意向を知つていたとの各供述は信用することができないのである。

したがつて、本件に関しては、共犯者と目されている両名の供述に不自然さを認めることの反射的帰結として、少なくとも殺害が試みられる以前において、北野は宮﨑が第三者に計画を打ち明け助力を求めた事実を知らなかつたとの疑いを払拭することが困難となるのであつて、ひいては(一)と同様に、そもそも共謀があつたこと自体を疑わせる事情として挙示することができる。

三  金沢における誘拐計画

宮﨑が、昭和五五年一月から二月にかけて、誘拐の下見及び実行のために金沢に行つたこと、その際北野が車を運転して同道した場合もあつたことは、第一部の第二の一の3において説明したとおりである。

宮﨑に同道したこと自体については、北野も公判廷で認めているが(九四回等)、その理由については、宮﨑が土地の取引を行うために赴くものと思つていたとして、みのしろ金目的の誘拐計画の一環であつた点の知情を否定しており、誘拐目的であつたことは北野も当然知つていたとする宮﨑供述(二五回等)と対立している。

これら両名の供述以外には北野の金沢行きの理由を推測させる証拠は提出されていないところ、検察官は、北野も誘拐の共謀に加わつていたことが肯定できると主張し、自説の根拠として、第一に、これまでと同様特段の分析を加えることなく宮﨑供述を援用し、北野の加功を論じているのであるが、このような立場に左袒することができないことは、叙上の議論から明白であろう。

検察官の根拠の第二として、誘拐を計画していた宮﨑が情を知らない北野をわざわざ同行させる必要が考えられないとの主張が掲げられている(論告要旨一八五頁)。この点は一応考慮に値する見解であると思われるが、前記第三でも指摘したように、情を知らないからこそ同行を求めておけば後に利用価値が生じると宮﨑が感じていた疑いが払拭できない上に、この場合には、降雪時期に金沢まで走行しなければならなかつたため、誘拐に成功しなかつた場合のことも念頭に置いて面倒な運転を依頼したと解釈することが著しく不自然とまでは言えないであろう(共謀に加わつていたと仮定しても、誘拐成功の後北野が同乗すれば相手に警戒心を抱かせる可能性が高いから、結局北野は一人別行動で戻らなければならないわけであつて、わざわざ同行した理由がそれ程明確になるわけではないことに留意すべきである。)。

以上によれば、金沢行きにつき北野にも誘拐目的があつたことを認定するためには、客観的証拠では到底不十分であり、捜査段階での同人の自白が全面的に信用できるとの判断に到達することが不可欠の前提になると言うことができるところ、この行動についてのみ独自に供述をなした状況は一切認められないのであるから、結局、この争点は、富山、長野両事件に対する事実認定を行うに際して独自の意義を有しないと解しても差し支えないのである。

四  富山事件

1 金沢における失敗後の謀議状況、二月二三日「銀鱗」からの宮﨑の架電事実

検察官は、金沢での誘拐計画が失敗に終わつた後、「銀鱗」ほかにおいて、宮﨑と北野が富山における犯行を謀議したと主張し、これを支える証拠として、北野の自白のほか、宮﨑供述を掲げている(論告要旨一九四頁)。

しかしながら、宮﨑供述が信用できる理由として挙示されているのは、捜査の比較的初期から一貫してこの点を述べてきたという事実に尽きると解されるところ、この点をめぐる供述録取が見いだされる最も早い時期は長野における責任転嫁供述が開始される直前の四月一七日付け検面調書(乙九)であり、この時期の内容はむしろその後の責任転嫁供述と強く連関していて真実性に疑いがあることは第三において指摘したとおりである。そして、責任転嫁供述が開始されてからの供述の一貫性を強調しても、説得力に乏しいことは多言を要しないであろう。

したがつて、この点についても、北野の自白を除外すれば、検察官主張にかかる場所で北野らが会つていたという争いのない事実が認定できるだけにとどまり、共謀の事実を指し示す証拠は存しない。

次に、これとほぼ同様の問題状況があると考えられるものとして、二月二三日A子を「銀鱗」内に誘い出すことに成功した後、宮﨑が同所からその首尾を北野に電話で報告したとの検察官の主張を挙げることができる。特に、この点に関する供述が最初に録取された日付けをたどると、北野がA子殺害を実行したとして責任転嫁の虚偽事実を詳細に供述している時期であり(4.28員面乙三四)、こうした問題点に全く言及することなしに検察官が宮﨑供述の信用性を論じているのは理解し難い。

結局、この架電の問題についても、北野自白が措信できない限り、検察官の主張はその基盤を失わざるを得ないのである。

2 二月二三日から同月二五日までの間における北野とA子との接触の有無

(一) 二月二四日午後北野が北陸企画事務所に出向いた可能性

(1) 公判において宮﨑は、二月二四日午前一一時頃に北野がバンで北陸企画事務所にやつて来たので、自らは北野が乗つて来たバンで一旦自宅に帰つてから、母ハナ、息子の松夫とバンに乗車して買い物に出掛け、午後四時三〇分頃右事務所に戻ると北野とA子がいたので、北野が持参した餅で宮﨑が雑煮を作つて三人で食べたと供述する(二六回等)。そして、検察官は、この日宮﨑と買い物に行つたときに乗つた車は確かにバンだつたとする宮﨑ハナ証言(<証拠>)をも併せて考えれば、二四日において北野とA子が接触したことは間違いなく、A子との面識を否定する北野の弁解の虚構性が明らかとなり、富山事件への北野の加功を推認させると主張する(論告要旨二〇九頁)。

これに対し、北野は、二月二四日の日曜日は、近くのショッピングセンター「パスコ」に二回行つた以外はずつと自宅にいたと供述し(九五回)、妻風子もこれに沿う供述をして(<証拠>)、宮﨑側の供述と対立しているのである。

(2) そこで、検討するに、まず宮﨑の前記公判供述は、それ自体動揺が激しく、夕方北陸企画事務所に行つた際に既に北野が到着していたのかが曖昧であるほか(八一回では、A子しかおらずその後来訪したと訂正。)、餅を食べた日時の特定、餅の形状等についても軽視できない変遷がみられる(二六回、五九回、八一回等。なお、五九回の宮﨑供述は、当時の体調が不良であつたとは言え、そのことだけを根拠にして、信用性判断の際の考慮の対象外とすることはできない。)。更に、この事実について捜査段階では全く供述しておらず、むしろ、「自分の知つている限りでは二月二四日及び二五日に北野は事務所に来ていない。」旨を明言しているところ(5.13検面乙四四)、右供述は最終的にA子殺害実行の責任を北野に押し付けた後の時点でなされているだけに、この時期において同人をかばつて虚偽の供述をする可能性は考えられないことを併せ勘案するときは、宮﨑の前記公判供述には多大の疑問がある。

(3) 次に、宮﨑ハナ証言については、右のような宮﨑供述への評価を離れて別個に検討を加える必要がある。すなわち、北野は公判において、二月二三日に帰宅して以降二六日までの間、バンは自宅付近の駐車場に停めてあつたと断定しており、宮﨑がこの間わざわざ富山市内の北陸企画や自宅から△×町の北野宅まで赴いてバンに乗り換えた形跡がないことも争いがないところであるから、仮にバンに乗つて買い物に出たとのハナ証言が信用できるとすると、それは北野が北陸企画に行つたため宮﨑が運転を交替してバンを利用できたからにほかならず、したがつてその際北野とA子が北陸企画で顔を合わせなかつたはずはない、という議論もあながち無視はできないことになるのである。

そこで、ハナ証言の要旨を摘示すると、二月二四日は松夫の授業参観日であつたが、宮﨑がこれに遅刻し、既に参観は終了していたと言つて午前一一時頃帰宅したので、昼食を食べずに、宮﨑運転のバンにハナ、松夫も乗車して南富山駅近くの「サンモア」に買い物に行つたが、その途中大場書店に寄つて注文してあつた漫画本を買つたとしている。そして、このときに乗つた車がバンであつたと言えるのは、「サンモア」で買い物をした後車内でパンを食べたが、その際自合は前部座席から後部座席の松夫にパンを手渡したことを記憶しているからであり、後部座席の設けられていないZでなかつたことは間違いないと説明している。

しかし、ハナ証言中大場書店から「サンモア」に行つたとする点について関係証拠を検討すると、同書店の経営者大場瑞子(5.13検面甲七七二)によれば、宮﨑から漫画本の注文を受けたのは二月三日か四日であり、同月一三日、一四日頃に本が揃つたことを宮﨑宅に電話連絡したと思うとされているところ、ハナの方では、本を取りに行つたのは注文してから一、二週間後であつたと供述していること(六、五七二丁以下)を考慮すると、日付けの特定の正確性について疑問なしとしない。

(4) このような両名の供述に伴う問題点に加え、北野の行動の意味付けという観点からも検察官の主張には疑問が生じる。すなわち、北野が宮﨑と誘拐殺人等を共謀し、かつ真実北陸企画に出掛けてA子と会つたと解した場合、遂行途中にあつた犯罪計画においてそれがどのような意味を有していたのかが当然問われることになるはずであるが、検察官によつてこの点が一切明らかにされていない(論告要旨二一〇頁)。殺害を担当することとされていた北野(右同一九五頁参照)が、誘拐の当夜には自宅にとどまつてこれを実行することなく、翌日昼間になつて誘拐場所に現れたものの、A子と話を交わしただけで立ち去つたという筋書は、北野が実行を逡巡していたという最も常識的な説明を受け入れたとしてもなお、事態の進行として不自然さをぬぐいきれないと言わざるを得ない。

(5) これに対して、当時北野の妻であつた風子は、前述のとおり捜査時点から一貫して右の時間帯における北野の外出を否定しているところ、特に捜査官に対する供述調書中には、その余の日時における北野の行動について必ずしも一方的に夫をかばつたとも言い難い記載がみられることに徴するときは、北野への利害関係を理由にその信憑性を直ちに排斥することは相当とは言い難いと考えられる。更に、北野自身の供述を検討すると、富山事件について事前共謀を肯定していた時期においてすらこの日は自宅にいた旨述べているのであつて、このような状況を(2)ないし(4)での検討結果と対比して考えるときは、北野の弁解を退けて、二月二四日に北野が北陸企画に赴いた事実(更には、同所でA子と面会した事実)を認めることは到底困難である。

なお、当時NHK受信料の集金人であつた原弥三松の証言(<証拠>)によれば、同証人の付けていた滞納整理表には、「二月二五日午後二時に北野宅に集金に回つたところ、奥さんが応対に出てきて、主人が不在なので今日は払えないと言つた。」旨の記載があつたことが認められ、この証拠の立証趣旨をみると、検察官が次のような推論をしていることが察せられる。すなわち、二月二五日には妻風子が勤務して家を空けたはずであるから(タイムカード甲一〇八三)、右の応答があつたのは二四日の日曜であり、風子の発言は、北野が当時外出していた事実を裏付けるものと解するのである。しかし、右原証言によれば、整理表は即日記載するとは限らないので、訪問した日時を誤つて記入する例もあり、更に、家を間違つて集金したこともあると認めているのであるから、同証人の誤りが検察官主張の範囲にとどまるとの情況的保障は十分とは言えない。むしろ、北野が、三月八日に富山事件の重要参考人として初めて事情聴取を受けた際に、二月二三日昼頃風子のいない時間帯のこととして、NHKの集金人が北野宅に来訪したと供述していたこと(員3.14報甲一二八八)を考慮すると、前記原が、この日の件につき日付けを誤つて滞納整理表を付けた可能性は相当高いものと考えられる(更に言えば、同表の記載が他に正確であつたとしても、当時、北野は風子に対し、NHKの受信料は支払わなくてよいと言つていたとの北野供述(一七二回)が前記風子証言によつて一応信用に値するものと評価できる以上、支払いを拒む方便として「夫が不在である」との発言がされた可能性も否定できない。)。したがつて、原証言によつて前記結論が左右されるものとは解されない。

(二) 二月二五日早朝北野が北陸企画事務所に出向いた可能性

(1) 富山事件当時北陸企画周辺の新聞配達を担当していた武田睦子(当時一六歳)は、二月二五日午前六時過ぎ頃、北陸企画事務所前に白色ライトバンが停車しているのを目撃したと証言している(<証拠>)。本件バンであるとの断定はないものの、これと似通つた別のライトバンが偶然同所に駐車していた可能性は低いこと、前述したとおり当日バンは北野の占有の下にあつたこと、右の時刻に事務所からA子が外出した形跡は窺われないことを前提に考えると、右武田証言が信用できるとすれば、この時点において北野とA子とが接触したものと推認することにもそれなりの根拠が付与されることになろう。

(2) そこで、武田証言の信憑性について吟味するため、その内容を要約して摘示すると、以下のとおりである。「白色ライトバンを見たのが二月二五日であつたことは間違いない。その根拠として、前日の二四日が妹の誕生日でケーキを沢山もらい、翌日であるこの日新聞配達をした後にも一つ食べたこと、翌二六日に妹の小学校入学説明会が予定されていたが、母から体調が悪いことを理由に代つて欲しい旨この二五日に頼まれたこと、配達終了後自宅で姉のスカートが話題となり、姉がそのことを日記に残していたこと、ライトバンを発見した際、月曜日だから北陸企画の事務員が早朝から出勤しているのだと自分なりに納得したことが挙げられる。日付けの特定をするに至つた経緯は、事件後三月中に新聞記者の来訪を受けて事情を聞かれ、その際にはライトバンを目撃したのは二月二四日から二七日の間であつたとのみ答えたが、四月頃になつて新聞報道を読んで母と話をしたところ、母からも指摘を受けて当該日が妹の誕生日の翌日であることが分かり、更に、その後警察官に事情を尋ねられたときにスカートの件を思い出し、姉の日記に当たつたところ二月二五日と確認できた。」

右の供述は、具体的かつ詳細であり、一見すると信用性が相当高いように思えないわけでもないが、次に述べるような事情に照らせば、直ちに信用してよいかについて疑問なしとしない。

すなわち、武田証人が挙示する特定を可能ならしめた事由のうち、最後のものについてはライトバン目撃とその日時との結び付きが具体的であるが、その余についてはその日の自宅におけるエピソードと目撃事実とを介在する事情が存在しない。ところが、武田証人が特定を可能にした主たる契機として強調するのは妹の誕生日及び姉のスカートをめぐる件であり、加えて、前記のとおり、事件に最も近接した時点では特定がなされず、その後になつて、しかも、ライトバンの目撃当時にはその事実を聞いたはずもない母親からの指摘によつてこれが可能になつたということをも併せて考慮すると、一定時間の経過した後になつて記憶を甦らせようとした場合に生じる思い込み、取り違いが生じた可能性を無下に否定し去ることが難しくなるのである。

(3) 次に、武田証言を、(主として第一部の宮﨑に対する判断の中で認定された)富山事件における誘拐殺害計画の実行過程の流れの中に置き、全体的な整合性という見地から検討を加えると、(2)において生じた疑問が倍加すると言わざるを得ない。

なぜなら、仮に北野が北陸企画に赴いたとすれば、目撃時間からみてそれは宮﨑の犯罪計画に関係する行動であつた疑いが濃厚であるが、(一)でも指摘したとおり宮﨑がこの点について捜査段階で明確に否定しているのが不可解と言うほかない(早朝には宮﨑はいなかつたとしても、北野の来訪に全く関知しなかつたとは到底考えられない。)。

更に、武田証言によれば、北陸企画の戸は少し開いており、中から引き出しを開けるようなガタガタという大きな物音が聞こえていたとされているが、右事務所に宮﨑が連れ込んで睡眠薬を服用させ、北野が睡眠中の被拐取者を絞殺するとの具体的な計画が立案され(論告要旨一九六頁参照)、北野がわざわざ同所まで早朝に赴きA子を目の前にしているのに、引つ越し作業と解するのが最も自然な所為に出ていたというのは、状況的に理解し難いところである。結局、仮に武田証言にかかる事実が正しいとすると、宮﨑が行つた犯罪の全体像において、この局面だけが言わば浮き上がつてしまうことが避けられないのであつて(論告要旨二一〇頁の主張は、そうした観点からの批判を免れ難い。)、このことは、取りも直さず右証言の信憑性に大きな影響を与えないわけにはいかないのである。

(4) 以上二つの側面から検討結果に照らすときは、一見堅固にみえる武田証言は、日時の点において記憶の誤りがあるのではないかとの疑いを消し去ることができず、これに基づいて動かし難い事実を認定することは困難である(なお、付言すれば、曜日の点を度外視するときは、当初武田が指摘した二四日から二七日までの間で証言に合致する状況がみられた可能性のある別の日を見いだすことができないわけではない。すなわち、乙野夏子(<証拠>)の各証言により認められる二月二六日の夜の状況からすると、宮﨑はバンを路上に駐車したままその夜北陸企画に泊まつた可能性が高く(この点に反する宮﨑の供述(5.12検面乙七、三〇回供述等)及び前記宮﨑ハナ証言は信用できない。)、また、武田の体験がその翌朝のことであつたとすれば、事務所内から引つ越し作業の物音がしたとしても何ら不思議はない。)。

(三) 二月二五日昼におけるA子の電話での発言内容の意味

二月二五日昼に、A子から母親の乙野夏子の勤務先に電話があつたことは、第一部でも触れたところであるが、その際A子は、前日帰宅しなかつた理由として、「女の人が、社長がお酒を飲んだから今晩は送れなくなつた、明日必ず送つて行き、一緒に行つて話をしてあげるから、もう一晩泊まつていかれと言つた。」と弁解し、更に、「女の人も社長さんも送つてあげると言つている。」と述べたこと、また、母親が社長に関しその年齢を尋ねると、「三四か三五位かね。」と答えたことが認められ(前記乙野夏子証言)、A子が北陸企画の社長と称する男性と現実に会つたこと、すなわち、北野がA子と接触していたのではないかとの疑念が生じないわけでもない。

しかし、右証言によつても、A子は社長に会つたと明確に語つていたわけではなく、したがつて、A子が会つたのは女性だけで、その女性からの伝聞の話として社長のことが出ていた可能性も否定できない。

なお、社長の年齢について言及していた点についても、当時事務所には、北陸企画の宣伝記事である新聞の切り抜きが額に入れて壁に掛けられていて、右記事には北野の顔写真も載つていた(<証拠>)と認められ、前記乙野夏子証言でも、女性の年齢の際にはA子は直ぐに答えたのに対し、社長の年齢についてはだいぶ間をおいてから返答したというのであるから、右新聞切り抜きを見て北野の年齢を推測した可能性を捨象することも困難である。

更に、北野がA子と二月二五日昼以前に接触しているのなら当然宮﨑の知るところとなるはずであるが、再三指摘しているように、宮﨑は捜査段階において北野とA子の接触の事実を否定しているのであるから、この点も軽視することはできず、結局、右の発言をとらえて二月二五日A子が母に電話するまでの間に北野がA子と接触した証左とするのは性急に過ぎると評するほかない。

(四) 宮﨑が公判廷において指摘するその余の北野とA子の接触について

宮﨑は、これまで検討した以外にも、二月二五日午後二時三〇分頃北陸企画事務所に行くと北野とA子がいたこと(二七回等)及び同日午後一一時過ぎ事務所で北野にA子を引き渡したこと(三〇回等)を公判廷で供述し、右二人が接触した機会があつたことを強調している。しかし、右各事実については宮﨑供述以外にこれを裏付ける証拠はないところ、再三指摘してきた捜査時点における供述状況と対比して考察するときは、これらの事実を認めることができないことは明らかである。

3 二月二四日午前中北野が宮﨑と「キャニオン」に立ち寄つた可能性

二月二四日夜、宮﨑がA子と一緒に食事をしたドライブイン「キャニオン」の経営者秋葉明美の証言(四回、甲三八二・弁二四)には、その日の午前中にも、宮﨑、北野とおぼしき二人連れが来店したという内容が含まれており、右供述が真実だとすると、宮﨑がA子を誘拐している最中に北野と会つたことになり、他の事実と相まつて二人の共謀を推認させる間接事実ともなり得ようが、明確に同一性を肯定しているわけでもないこと(特に、北野に関しては反対尋問で供述が動揺している。)に加え、第一部第二の二で認定した二四日午前中の宮﨑の行動状況からみれば、「キャニオン」まで赴くのは時間的にほとんど不可能であること等を考慮すると、前記証人の見た二人連れは宮﨑、北野とは別人であつたと言つて差し支えないように思われる(検察官も、論告においては特にこの問題を取り上げていない。)。

4 二月二五日夜宮﨑が「エコー」等から北野に電話連絡をした可能性

捜査段階において宮﨑は、二月二五日夕刻A子をZで連れ出した後の状況について、殺害担当の北野を呼び出すべく、午後六時から七時の間にドライブイン「百果園」ほか二箇所(いずれも店外の公衆電話ボックス)から北野宅に電話を掛けたところ、北野は不在で女の人が応待に出たので後刻電話する旨の伝言を依頼し、更に、午後八時三〇分過ぎ頃、「エコー」店内の公衆電話ボックスから北野宅に電話し、ようやく連絡の取れた北野との間でA子殺害のために合流場所を打ち合わせるなどしたと供述している(<証拠>。なお、公判廷では、右に挙げた各場所から北野宅に架電したこと、「エコー」からの電話でA子を誘拐の対象とするかを北野と話し合つたことは認めるが、宮﨑がA子誘拐の件を拒否したため待ち合わせ場所の相談等はなかつたとしている。二八回、三〇回等宮﨑供述)。

しかし、まず、「百果園」ほか二箇所から宮﨑が北野宅に電話したという点については、宮﨑供述以外に証拠はなく、したがつて、これらを肯認することはできない。

次に、「エコー」からの電話の点であるが、通話していたこと自体は、同店の経営者らの証言等により明らかである(<証拠>)が、その相手が北野だつたとする証拠は宮﨑供述以外にはないことに加えて、宮﨑は、この点を、四月二五日岡本警部の取調べを受けていた際に初めて供述し、右供述に端を発してA子殺害の実行者は北野であるとの責任転嫁の虚偽供述に転換したことが認められ(一四二回岡本証言甲一二〇五)、その信用性には多大の疑問がある。その他、現実の通話時間及び宮﨑がこの電話の際に使用した一〇円玉の枚数と北野宅への通話可能時間との関係(<証拠>)を考えても、電話の相手が北野だつたと認定することはできない。

なお、北野は、公判廷において、午後一一時頃に宮﨑から電話があつたことを自認しているが、この時刻には宮﨑らが「エコー」を出発していたことが明らかであるから、右の電話の件の証拠にはなし得ない。

5 二月二六日早朝、北野が宮﨑宅に電話を掛けて北陸企画事務所に呼び出した可能性

検察官は、第二(当事者の主張)で述べたように、A子殺害後の事情中共犯性を推認させる北野の行動として、二月二六日午前三時三〇分頃宮﨑方に電話して北陸企画事務所に呼び出したとの事実が認められるものとし、これは、「エコー」からの宮﨑の電話により、殺害のため数河高原まで赴く約束をしたにもかかわらず履行しなかつた北野が、事の成り行きを心配して連絡を取り、事務所において殺害の状況等を聞いた上A子の遺留品の処分について相談したものにほかならないと主張し(論告要旨二一八頁)、宮﨑も、公判廷においては、その頃北野から自宅に電話があり右事務所に呼び出されたこと自体は認め(三〇回等)、母ハナもこれに沿う証言をしている(前記ハナ証言)。

しかし、宮﨑の公判供述は、これを措信するだけの状況的保障が見当たらないし、また、ハナ証言に対する疑問点の存在については、第一部(第二の二2(五)ウ)で検討したとおりである。

以上により、二月二六日早朝、北野が宮﨑宅に電話を掛けて宮﨑を北陸企画事務所に呼び出したと認定するに足りる客観的証拠は見いだすことができない。

6 二月二六日及び二七日において北野がA子の両親等に示した態度

北野は、二月二六日午後二時頃及び同月二七日夕方、北陸企画近くの東町派出所に赴き、A子の電話の内容を手掛かりに北陸企画を探し当てて訪れた両親や警察官と面会したが、その際、非常に興奮したり、A子が所在不明であることを相当気にしたりする態度を示したため相手方に不審の念を抱かせたこと(<証拠>)、また、翌二七日には、行きつけの喫茶店「小枝」及び妻の実家である××方で、「誘拐犯人に間違われた。」と言つて憤慨していたこと(<証拠>)が認められるところ、以上の各事実をとらえて、検察官は、この時期には犯罪の発生を誰も示唆していないのに、北野が勝手に興奮し、A子誘拐事件への自己の関与を否定する言動を示して言わば「予防線」を張つたものと主張し、北野の犯行関与を如実に示すものと位置付けている(論告要旨二二〇頁)。

しかし、A子の両親等は同女が誘拐されたのではないかとの危惧を抱いて北陸企画に赴いたのであり(乙野四郎55.4.21検面甲一三〇)、A子が言及した北陸企画の社長とおぼしき北野に対する不審、疑惑の念も浅からぬものがあつたことは想像に難くない。事実、前記堀、金田和男、村上の各証言によれば、二月二六日東町派出所で、北野とA子の父乙野四郎が口論めいた会話を交わしたことが窺われ、その一因として、右四郎が北野を疑う言動を示したことが挙げられるのである。このような状況下でA子の家族が北野の態度を誇張、曲解する印象を抱いたり、いわれなき嫌疑を突如突きつけられた北野が慣慨の情をあらわにすることも十分考えられるのであり、北野の有罪を推認させる間接事実の一つに数え上げるには余りに漠然とした事情と言うほかはない。

7 北野が自認する二月二三日から同月二五日までの宮﨑からの架電状況

宮﨑が誘拐に成功し殺害実行に及ぶまでの間毎日、同女から自宅にいた北野に対して電話連絡があつたことは、北野が公判廷で自認している事実である(九五回)。

もつとも、前記4でも一部触れたとおり、その時刻については検察官の主張に全面的に沿つた内容とは言い難いが、右の自認が不利益事実の承認に当たらないかという観点から、次の二点について触れることとする。

まず、宮﨑が計画を実行中に北野に連絡を取ること自体、両者間における共謀の存在を指し示すものではないかとの疑問が一応生じようが、A子が誘拐されていた場所が北陸企画事務所であつた事実に照らせば、北野の動静を確認し、必要があれば同人を同所に近付けないための工作をした可能性も成立するのであつて(北野の公判における弁解は、まさにそのような指示があつたとする。)、一概に北野に不利益な事情と目することはできないであろう。

次に、そのような見地からすると、前記4で示した二月二五日午後一一時頃の電話については、殺害実行直前の時点であるから、北野が関与していないなら、あえて連絡する必要性に乏しいという議論もあり得よう。しかしながら、殺害予定場所付近まで赴いた後午後一一時になつて初めて北野に連絡を取るというのは、共謀を前提にすると一層不自然な行為であり(検察官の主張を前提にすれば、この時刻頃に宮﨑は合流場所の打合せのために電話したことになるが、殺害時刻との関係からみてそのような認定は困難である。)、右の電話の存在を排斥するならともかく、北野に対する不利益事実として理解することは許されない。

8 二月二七日における宮﨑のA子宅への架電状況

二月二七日宮﨑がみのしろ金を要求するためにA子宅に電話したことは第一部で認定したとおりであるが、その際、宮﨑は、一度待ち合わせ時間を同日午前一一時三〇分と指定した後、「ちよつと待つてください。」と言つて間をおいて、指定時間を午前一一時と変更している事実が認められる(一九回〔期日外〕乙野六郎証言甲三九一)。

この点につき、宮﨑は、その場にいた北野の指示で時間を変更したものと供述し(三〇回)、相手をした乙野六郎も誰かと相談しているような感じを受けたと証言している。

しかし、宮﨑は捜査段階では一貫してこのときの電話は一人で掛けたものと供述し(<証拠>)、時間を指定し直したことについても、午前一一時三〇分というのは中途半端で間が抜けているようなので少しでも早い方が良いと思い変更した旨説明しており(<証拠>)、公判廷の供述がより信用できる事情は窺われない。一方、北野は、富山事件について自白していた時期も含め、右電話の際に同行していたことすら供述したことはなく、これら両名の供述状況からみて、電話内容を傍らで聞いていたとの認定をすることはできない。

9 三月一日Zの買替え交渉をしていることについて

検察官は、三月一日富山日産株式会社でZの買替え交渉がされている点を挙げて、北野において、A子殺害が現実にZ車内で行われたことを知つていただけでなく、A子殺害についての宮﨑との共謀をも推認させ得る状況証拠だと主張している(論告要旨二二三頁)。

なるほど、三月一日北野と宮﨑が富山日産株式会社に赴き同社販売員の中田清とZの買替えを交渉した際、専ら北野が交渉に当たつたこと、買替えの理由としては車体に傷が付いたから同じフェアレディZに乗り換えたいと北野が説明していたことが認められる(二三回中田清証言甲四四八〔同証人4.2員面甲三三七〕)。

しかし、北野は公判廷において、Zの買替え交渉は富山事件とは全く無関係に宮﨑から依頼されたものであると弁解しており(一〇五回)、右弁解自体著しく不合理であつたとは認められない。一方、宮﨑の公判供述は検察官の主張に沿つた内容となつているものの(九二回)、この部分のみが信頼できるという特段の事情はおよそ見いだし難いのであるから、これのみに依拠して、北野が富山事件の犯行に関与していたからこそ買替え交渉に熱心であつたとする検察官の前記主張が説得力を持たないことは明白である。

10 北陸企画事務所が誘拐場所として使用されていることについて

誘拐の実行過程において、それまでの二人の愛人関係を形成、維持する上で欠くことのできない場所であつた北陸企画事務所が使用されたことは争いのない事実であり、この点は、検察官の主張に沿う事情として数えることができる。

しかし、右の事実だけでは余りに漠然とした状況証拠と言うほかはなく、共謀を直接推認できないことは言うまでもないし、総合認定の一事情としてとらえる場合には、宮﨑が同所で誘拐を続けていた間における北野の来訪の有無が当然に問題になり、仮にこれを肯定する客観的状況がおよそ認められない場合には、北野は同所には近付かないとの合意が存在したといつた特段の事情によつて補完されていなければ、重要な要因にはなり得ないと解される。

ところが、以上述べてきたことから明らかなとおり、富山事件の犯行の過程で北野が北陸企画に赴いたとの検察官の主張は、ことごとく根拠が薄弱であると言わざるを得ないのであつて、結局、前記事実を犯罪立証の有力な決め手と目することはできないのである(A子を引き留めていた間北野がいつ来訪するかもしれなかつたという点はなお認められないわけではないが、宮﨑供述に信を措くことができない以上、その可能性は抽象的なものにとどまる。)。

五  長野事件

1 三月三日富山を出発した後、同月八日帰宅するまでの間、宮﨑と行動を共にしていること

北野は、宮﨑の求めに応じて、同女と共に三月三日富山を発ち、長野で三泊、東京で一泊した後、高崎を経て同月八日朝に富山に戻つたが(外形的事実は第二の一(検察官の主張)のとおりで、この点の争いはない。)、その間の少なからぬ時間を宮﨑から離れることなく行動している。特に、同月四日宮﨑は、殺害場所の下見のために木戸交差点、矢越隧道等を走行しているが、その際にもZを運転してこれに同行し、また、同月六日昼過ぎに殺害、遺棄を終えた宮﨑と合流した後は、ほとんど行動を共にし、宮﨑がみのしろ金要求電話を掛けた際にもそのすぐ近辺にいたほか、同月七日には、金員受領目的であることは了知した上で高崎駅まで同行し警察官の気配を察知して二人で逃げ出した事実が認められる(この限度では北野も公判廷において自認している。)。北野が右のとおり宮﨑と二人で移動していた間に、宮﨑による誘拐、殺害、死体遺棄、みのしろ金要求が敢行されていたわけであり、宮﨑の同行依頼及び北野の行動状況をもつて、事前に宮﨑との共謀に加わつていたことを指し示す一間接事実であるとする検察官の主張はもとより首肯できないわけではない。

しかしながら、その行動状況から直ちに共謀を認定することができないことは言うまでもないことであろうし、更に重要なこととして、宮﨑の供述を分析した結果、警察の目をくらましたり、責任を転嫁するなどの利用価値を(情を知らない)北野に見いだし同人を同行させていた可能性を否定できないことは、既に第三で指摘したとおりである。したがつて、一般的には共謀を指し示す事情として異論なく受け入れられると思われる前記事情が、本件においても同様の価値を有するかは疑問であり、その評価に当たつては、より慎重な態度で臨まざるを得ないのである。

2 北野が偽名を使つてホテル「日興」の予約をしたことについて

北野は、三月四日「日興」の宿泊を予約した際、「吉田達夫」の偽名を用いているが(<証拠>)、この点につき検察官は、北野が昭和五三年七月三〇日に宮﨑と下呂温泉に旅行した際には本名で宿泊していること(レジストレーションカード甲二二)と対比した上で、このときことさら偽名を使用したのは、これから敢行しようとしていた長野事件の嫌疑が掛からないよう事前に工作したものにほかならないと主張している(論告要旨二二九頁)。

しかし、従来富山において両名がモーテルに宿泊する場合は「名村」という偽名が使用されていたこと(<証拠>)に加え、更に、「日興」で宿泊予約をした直前の午前一〇時過ぎと数時間後の午後三時過ぎとにZに給油をした際には、かねてから北野が使用してきた出光ファミリーカードが呈示され「北野」と署名がされていること(<証拠>)に照らせば、偽名使用の事実について、検察官主張のような犯行隠蔽工作の趣旨を推認させる一事情と分類すること自体、多分に疑義が残らざるを得ない。

3 北野とB子の接触の有無

「日興」の従業員であつた川崎俊明(期日外甲四〇七)及び竹内淳(期日外甲九二八)は、三月五日夕方から夜にかけて、宮﨑、北野及び二〇歳位の女性が、「日興」のフロント付近に一緒にいるのを目撃したと証言しており、また、宮﨑は、B子を誘つた後「日興」にZを取りに行つた際、フロントで北野とB子が顔を合わせている(ただし、紹介はしていない。)と供述している(三二回)。

北野がB子と話をしていたといつた事実が認められる場合はもちろんのこと、他に宮﨑とB子が一緒にいるところを見ていたとの認定にとどまつたとしても、これにより北野の公判廷における弁解の根幹が揺らぐことになるのであつて、長野事件についての共犯性を判断する際には看過できない争点事実と言える。

そこで、右両証言を検討するに、まず、両証人の右事実についての記憶状況であるが、川崎証人は、そもそも事件発覚後間もなく警察官によつて事情を聴取された時点で既に記憶が曖昧であつたことを自認している(一、四二九丁)。また、竹内証人は、5.12検面甲二三八においては証言にかかる事実について全く言及していないため、この点の理由を証人尋問の際に尋ねられ、右調書作成時は記憶に自信がなかつたが、その後に川崎と話し合つて記憶の正しさを確認したと証言しており、このような事件直後の記憶状況、記憶喚起の経緯からすると、両名の証言を独立した二個のものとしてとらえ、確実性の度合を積み上げようとすることはできないし、信用性についても、これを肯定するには慎重な検討が必要とされる。

そこで、竹内証言と比較して記憶状況が良好であり供述内容も詳細である前記川崎証言の内容を詳しく検討していくこととする。同証言によれば、三月五日午後六時頃から八時頃までの間に、問題の三人連れが正面玄関から入つて来るのを目撃したが、北野は、ホテルの部屋の鍵を受け取つてから他の二人と一緒にエレベーターに乗つた様子で、それから三〇分と経たないうちに、今度は宮﨑一人がやつて来て鍵を受け取ると正面玄関から出て行つた、北野、宮﨑と一緒にいた若い女性は二〇歳前後で、髪の毛はそれほど長くなく、ブルーのチェックのスカート、薄茶色のブーツを着用していたというのである。

しかし、右の証言内容については、以下のとおりの氷解し難い疑問点が認められる。

まず、北野が共謀に加わつていなかつた場合はもちろんであるが、共犯であつたと仮定しても、甘言を用い宮﨑を信用して同行してきたB子と男性の北野とを引き合わせる必要性は考えられないのであつて、三人が一緒にホテルに入つてきたというのは極めて不自然であるし、ましてやエレベーターに乗つた(それから北野の部屋に行つたと解するほかはない。)というのは、およそあり得ない事態であると断じても差し支えないように思われる。更に、しばらくして宮﨑一人が玄関から出て行つたというのも、客観的なその後の状況に矛盾していることが明らかである。

第二に、川崎証人は、若い女性のはいていたスカートの色についてブルーであつたと証言し、しかも、この記憶はB子の死体が発見される以前の時点から一貫して変わりがない旨述べているのであるが、現実のB子のスカートは灰色であり(甲四八八)、見過ごすことのできない相違点が存在する(なお、竹内証人は茶色つぽい色であるとしており、やはり食い違つている。)。

これらの疑問点に照らせば、川崎、竹内証言を根拠にして北野と宮﨑、B子との接触を認定することは許されない。

また、宮﨑の公判供述については、前記内容を捜査官に対して全く告げていないこと(かえつて、4.19検面乙一では、B子を外に待たせて一人ホテルに入つたと明言している。)に徴するだけでも、措信し難いことは明白である。

なお、検察官は、川崎証言における具体的な状況説明部分は措信せず、前述した宮﨑供述に依拠して主張を組み立てているにもかかわらず、同証言が宮﨑供述を補強すると解しているかのようであるが(論告要旨二五二頁)、両者の語る具体的内容の差異を無視することは相当ではなく、主張の脆弱性を示していると言うほかはない。

4 「元庄屋」から宮﨑が北野に掛けた電話の内容について

宮﨑がB子を誘つて松本市内のレストラン「元庄屋」にZで行き、同所で食事を共にしていることは第一部で認定したとおりであるが、その際「日興」にいた北野に電話を掛け、誘拐に成功したことを連絡するとともに、殺害のための待ち合わせについて確認をしたとの供述がなされている(<証拠>)。

右の電話連絡自体は北野も公判廷において認めているところであるが、その内容については正面から争われており、宮﨑の供述が措信し得ない以上、単に架電の時刻が殺害時刻に近接しているといつた点だけを論拠にして宮﨑供述どおりの事実を認定することができないことは、これまでの議論と変わるところがない。

5 みのしろ金要求電話の内容について

宮﨑は、三月七日午後零時二三分頃に甲野太郎方に掛けたみのしろ金要求電話において、金額の減額をめぐる会話を交わした際に、「私一人じや何とも言えないけれども、できるだけのことはしてください。」「二、〇〇〇万円だつたら私のほうから言つてあげます。それしかできないんだということを。」という発言をしており、その他の箇所でも「私達」という言葉を用いており(員3.7報甲一〇二、録音テープ甲一〇一、員4.8報甲三六〇〔北野関係のみ〕)、この言辞を額面どおり受け取れば共犯者が存在したと判断するのが自然であろう。

しかしながら、宮﨑は、この時点で警察による電話傍受が開始されていることを察知していたと供述し(三三回)、これを疑うべき事情はないのであるから、右の発言が不用意に漏らされたものと解するのははなはだ不自然であり、意図的な発言と理解するのが相当である。そしてその意図を推し測れば、宮﨑は、B子が既に死亡していることを隠蔽し、いまだ生存しており狭い場所に監禁してある旨を伝えていたことが証拠上明らかであり、金員獲得のためにはこの点を父親に信用させることが何よりも重要であつたことは想像に難くないのであるから、右の電話を利用して、B子を監禁している人物、すなわち共犯者の存在を作り上げたとしても何の不思議もないのであつて、結局、右の会話内容から真実共犯者がいたと認定することは困難である。

六  結論

宮﨑及び北野の一体性に関する検察官の主張が不当であることは既に総括して論じたが、これに引き続く検討によつても、北野の関与の証左であるとして検察官が指摘する事情のうち北野の自白を除外して認定できる事実と言えば、富山事件関係では北野も経営者として使用していた北陸企画事務所が誘拐の場所として使用されたこと、長野事件関係では北野が宮﨑と行動を共にしていたこと等に尽きるのであり、その余については、何の批判的検討を経ることなしに宮﨑の供述に依拠したり、あるいは、信用性に欠ける関係者の証言内容を根拠にしたりしている点で、検察官主張どおりの間接事実を認定することはできない。

そして、認定可能な北野に不利益な事実を総合して、北野の共謀を推認するのに程遠いものであると評するほかないことに加えて、(宮﨑供述の分析の際に論証した)北野巻き込みの現実的可能性をも勘案するときは、これから検討に入る北野自白について信用性が明確に認められないかぎり、その有罪性を根拠付けることは到底困難であると言わざるを得ないのである。

第五北野の捜査段階における自白の任意性と信用性

一  任意性

当裁判所は、既に第一八九回公判において、北野の各自白調書の任意性を肯定しこれらを取り調べた。

証拠能力を認めた理由については、昭和六二年三月三〇日付け決定書に記載したとおりであるが、これに対し弁護人は、第一九一回公判での弁論において次のように述べて、北野の自白調書の任意性は否定されるべきであると重ねて主張している。すなわち、当裁判所の判断においては、北野が弁護人と接見した際に何ら言及されなかつたことのみをもつて、取調官の暴行、脅迫はなかつたものと認定した上で自白調書の任意性を肯定しているのであつて、このような態度は、任意性についての挙証責任を被告人に負わせるもので刑事訴訟法の解釈を誤つているとするのである。

しかし、当裁判所は、弁護人が指摘する接見時の北野の発言のみによつて任意性を損う事情の有無を認定したのではなく、関係各証拠を総合的に検討した上で、検察官によつて自白調書の任意性の立証が尽くされたものと認めたのであり、この点は決定の文言上も明確であると解される。したがつて、弁護人の所論は、前提を欠くものであつて理由がない。

二  信用性

1 はじめに

北野は、三月三〇日長野事件(みのしろ金目的誘拐、拐取者みのしろ金要求)により逮捕され、翌三一日から四月二〇日まで長野中央警察署に留置されて取調べを受けた後、同月二一日に富山事件で更に逮捕され、同日から五月一三日まで上市警察署に留置されて取り調べられた(今後、それぞれの警察署に留置中の取調べ全体について、「長野における取調べ」、「富山における取調べ」と略称する。)。以下、この間になした自白の信用性に関して検討を加えるが、留意点及び検討過程の大筋について略述しておくこととする。

まず、長野、富山における取調べは、それぞれの管内で誘拐が敢行された事件の解明を目的として行われたもので、取調べ担当官、捜査資料、弁護人との接見状況等を異にしており、その意味からは、長野、富山両事件について自白の信用性を別個に判断しなければならないことは言うまでもない。しかしながら、(北野の関与の有無は別として)富山事件が失敗したため引き続いて長野事件が企図されたものであることは第一部で認定したところであり、両事件の間には連続性、一体性があることに加えて、捜査状況にもこれが反映し、長野における取調べに際しても、経緯の叙述として富山事件についての供述が散見される。また、長野での捜査終了後直ちに富山での取調べが開始されていることも併せて考慮すると、自白の検討に当たつては、これらを全体的視野に立つて吟味する姿勢も要求されるのである。

このような見地に立脚した上で、以下においては、まず基礎的考察として、北野の捜査時における供述過程と最終的な自白内容とを概観した上で、具体的な自白内容を検討対象として、秘密の暴露の有無、内容の自然性・合理性、具体的な変遷状況を吟味し、更に、取調べの経過を段階的に分析することにより、自白に至る経緯の自然性等に対する検討を加えた後、最後に、保険金殺人計画(C山事件)に関する北野供述の意義について付言することとする。

2 供述過程及び自白内容の概観

(一) 供述過程の概観と特徴

北野の供述を時期的に区分して概観すると、以下のようになる(供述時期の欄の( )内は、その時期に作成された供述調書、供述書、捜査報告書、弁護人との接見の際の録音テープ等の証拠番号を示す。また、供述内容欄の〔 〕内は、関連事実を記載してある。)。

供述時期

供述内容

三月八日~三〇日

(甲一二八八、乙九三、

九四、一〇六)

富山、長野両事件共に否認

三月三〇日

〔長野事件により逮捕され、同月三一日長野中央警察署に引致。〕

三月三一日~四月五日

(乙七六、一五、七九、

一〇九、七七、七八、八〇)

長野、富山両事件共に否認し、両事件について積極的に弁解。

四月六日

(乙一一〇)

長野事件につき、北野がB子を殺害したと自白(過剰自白)。

四月七日~一一日

(乙八一、八二、八三、九一、

一八)

長野事件につき、宮﨑からB子殺害後に犯行を打ち明けられ、その後のみのしろ金要求のみについて共謀した旨自白、その余は否認。

四月一二日~二〇日

(乙八四、八五、八六、一六、二二、八七、九二、一七、二一、八八、二三、二五、二四、八九、九〇、弁五〇七)

長野、富山両事件共に事前共謀を自白(ただし、横畠検察官の取調べ(一六日~一九日)に際しては、誘拐を事前に共謀したが、富山事件については、事後に宮﨑から打ち明けられて初めて知ったと供述する。また、四月二〇日の勾留質問の際には、長野事件の共謀について供述拒否。)

四月二一日

〔富山事件による逮捕。同日中に上市警察署に引致。〕

四月二一日~二六日

(乙六三、六六、六七、弁四八八、乙六四、六五、一一一、一一二、一二五、弁四八九)

富山、長野両事件につき否認し、富山事件につき積極的に弁解。

四月二七日~五月一日

(乙六九、六八、七〇、一一五、弁四九〇、乙一一六、七一、弁四九一)

富山事件につき事前共謀を自白(ただし、弁護人の接見の際には否認。)。

五月二日~五日

(弁四九二、乙七二、七三、一一七、一一八)

富山事件につき否認。

五月六日~七日

(乙一九、弁四九三)

富山事件につき事前共謀を認める(ただし、弁護人との接見の際には否認。)。

五月八日~一三日

(弁三六九、四九四、乙七五、一一四、一一三、二〇、

富山事件につき否認 (ただし、乙七五(五月一二日)及び乙二〇

七四、弁四九五)

(同月一三日)では、二月二五日早朝に北野が北陸企画事務所に行ったことを自認。)。

自白の信用性の判断要因の一つに数えることのできる自白状態の安定性という角度から右の供述過程を検討すると、問題点が顕在化していることに疑問の余地はなかろう。

すなわち、長野事件に関して言えば、否認、自白、供述拒否という経過をたどつている上、検察官の主張に沿う自白がなされる契機として過剰自白(自らが殺害者であるとする明白な虚偽自白)が介在しているし、富山事件については、自白と否認との動揺の跡が歴然としているのであつて、両事件に関する取調べを通じて、自白状況は著しく不安定であることが如実に看取される。

最終的な評価を下すためには、具体的供述状況等に関する詳細な分析をまたなければならないことは言うまでもないが、こうした動揺が存すること自体、信用性を減弱させる方向の要因として考えざるを得ない。

(二) 自白内容の概観と特徴

(1) 長野における取調べの際の自白(以下、単に「長野における自白」と言う。)の要旨

この時期において北野が自白した内容は、以下のとおりである。なお、変遷がみられる事項については、最終供述を示すこととする。

① 宮﨑と知り合つた経緯及びC山事件

北野は、昭和五二年九月に宮﨑と知り合い、その後継続して情交関係を結ぶ一方で、同五三年二月からは北陸企画を共同で経営するようになつたが、次第に意欲が薄れ、翌年春以降は一かく千金の夢を見るようになつた。

昭和五四年二月に宮﨑から、C山が加入している生命保険を目的とした殺人計画の実行を依頼され、このときは応じなかつたが、同年三月頃、宮﨑からC山に更に保険を掛けて入手金を増額する提案がされた際には、殺人計画自体には反対せず、ただ欲張ると怪しまれると言つて、新たな加入は思い止どまらせていた。同年五、六月頃、C山を山菜採り名下に山に誘い出して崖から突き落として殺害する計画を立て、宮﨑と上市地区の山を下見に行つたが、後に宮﨑からこの計画は失敗したと聞いた。更に、同年夏には、海で溺死させる計画を打ち明けられたが、宮﨑が誰かもう一人とC山を海水浴に誘つて試みたものの二度も失敗したと聞いて、実行を断念した。

② Zの購入と両名の借金状況

同年七月、展示会に行つたのがきつかけで、宮﨑がZを欲しがり、また、そのうち金が入るというので、北野の妻、妻の実家、北野の知人らから合計二五〇万円の借金をしてZを購入したが、宮﨑にまとまつた金が入るという様子もないため一向に返済の目途は立たず、かえつてサラリーマン金融(宮﨑名義)等からの借入れによつて負債額は増加し、昭和五五年二月末現在の借金残高は四〇〇万円から五〇〇万円だつた。

③ みのしろ金目的誘拐の事前謀議及び金沢での誘拐計画

同年一月中旬から下旬にかけて、宮﨑から、「借金を返済して大宮か横浜で一緒に住むために、金沢辺りで若い女性を誘拐してみのしろ金を取ろう。ある男に頼んで下見に行つたけれどあの男はだめだから私達でやろう。」と持ち掛けられ、北野もこれに賛成した。みのしろ金が入つたら、借金を返済し、北野はゆつくり休んで持病を治療するほか、以前から欲しかつた車を買つて、宮﨑と一緒に富山を出て新生活を始める積もりだつた。みのしろ金の額は一、〇〇〇万円から二、〇〇〇万円とし、同月末から二月中旬にかけて金沢周辺に誘拐の下見に行つた。

④ 富山事件

二月二三日午後一一時過ぎ頃、宮﨑から電話があり、富山駅から女子高校生を誘つて北陸企画事務所にいるが、相手を警戒させないために事務所に来ないよう指示があつたため、北野は、二五日まで自宅にいたところ、同月二六日朝、再度電話があつたので事務所に赴くと、誘拐した女の子を睡眠薬を使つて眠らせた上紐で絞殺し、死体は遺棄したと打ち明けられた(なお、前述したとおり、検察官に対する供述においては、事前の共謀を肯定する一方で、A子誘拐の事実自体は二月二六日朝に初めて聞いたとされている。)。

⑤ 長野事件

富山事件の被害者が所在不明になり、同女の口から「北陸企画」の名前が出ていたにもかかわらず警察からは厳しい追及を受けなかつたことで、決め手になる証拠さえ残さなければ検挙されないという変な自信を抱くところとなり、富山県外で再度誘拐をすることを三月一日に相談し、場所は大宮辺りとし、相手を誘つた後は富山の場合のように家に連絡されることのないよう直ちに殺害することとした。

三月三日計画実行のため東京方面に向けて出発し、途中で大宮は遠方過ぎるとして長野を犯行地とすることになり、その晩はホテル「志賀」で宿泊したが、その際宮﨑は、誘拐した相手の殺害に用いるために備え付けの浴衣の腰紐を持つていくと言つていた。

三月四日午前中、宮﨑が誘拐に成功し連絡するまでの間の北野の待機場所を確保するため、北野がホテル「日興」に偽名で一人分の予約を取つた後、二人で松本方面へ殺害、死体遺棄の場所の下見に出掛け、その際、時間と距離を測るため、長野で給油したときにトリップメーターをゼロにした。下見の途中で聖高原を走行中、北野も殺害実行に加わることを申し出たが、度胸がないからという理由で断られ、宮﨑一人で行うこととなつた。宮﨑は、A子の場合と同様に睡眠薬を使うと言つていたので、任せておいても大丈夫だと思つた。

同日午後四時頃、宮﨑はZで誘拐に出掛け、北野は「日興」で待機していたが、午後九時頃誰も誘えなかつた旨の連絡があり、その晩は宮﨑も「日興」に宿泊した。

翌五日、午後四時過ぎに宮﨑は誘拐のためホテルを出て行き、午後九時頃誘拐に成功し、翌六日午前零時頃にはホテルに戻れそうである旨電話連絡を受けた。北野はその積もりでテレビを見るなどして待つていたが、その後連絡がないまま夜が明けたので、警察に捕まつたのではないかと心配になつて、長野の警察に赤色のフェアレディZが事故を起こしていないか電話で問い合わせたり、富山の宮﨑の実母ハナに架電したりした。

同月六日正午頃、宮﨑から、「何もかも終わつた。」との電話連絡があり、同女の指示に従つて待ち合わせ場所まで行つて合流した。その折りの話から今度も睡眠薬を使つて絞殺したものと思つた。東京方面へ行く途中、小諸の手前でB子の父の勤務先に電話したが不在で、午後七時過ぎに甲野宅へ三、〇〇〇万円のみのしろ金要求電話を掛けたが、宮﨑の話では、長野駅に持参するよう指示したとのことであつた。もつとも、金の受け渡し場所としては上野駅を予定していたので、その足で東京に向かつたが、旅行に出た理由について弁解を求められた場合を考えて、宮﨑の姪にあたる浦和在住の谷川月子宅に寄つた上で、その晩は池袋のホテルに宿泊した。

翌七日午前中、池袋から長野駅に電話を掛けたが、由美子の姉春子は一〇万円しか持参してきていないと言うので、後刻再度電話することとした旨宮﨑から聞いた。その頃、受け渡し場所を改めて相談したが、富山に向かう道すがら金を受け取れる場所であるとの理由から高崎駅にすることが決まつた。

その後も要求電話を重ねた結果二、〇〇〇万円が用意されたことを知り、計画どおり電車で長野駅から高崎駅に移動するよう春子に指示する一方、北野と宮﨑も高崎へと向かい、その途中、受領したみのしろ金についてはティッシュペーパーの箱の中に隠して運ぶことに決めた。

高崎駅では北野が金を右春子からひつたくつて逃げることになつていたので待合室に入つて行つたが、警察官の張り込みを心配する宮﨑の提案で、春子に電話連絡して喫茶店で待つよう指示した上で、北野と宮﨑はその向かいにある喫茶店「ナポリ」に入つて様子を窺つていたところ、やがて同店に警察官らしい男四人が入つてくるのを認め、あわてて店をあとにした。

警察を釘付けにしておくため、春子に高崎で泊まるよう電話で指示し、翌八日早朝富山に逃げ帰つたが、その朝から警察の事情聴取を受け、結局計画は失敗した。

なお、みのしろ金要求電話はすべて宮﨑が掛けたものである。

(2) 富山における取調べの際の自白(以下、単に「富山における自白」と言う。)の要旨

① 宮﨑と知り合つた経緯及びC山事件

基本的には、長野における取調べの際に述べたことと異ならない。ただ、C山を二回目に海水浴に誘つたときには宮﨑からアリバイ作りを頼まれ、富山市内のスナックから指定された時間に北陸企画に電話を掛けて宮﨑に迎えに来てもらい、それまで同女がずつと右事務所にいたことを装つた。海水浴の件も失敗したので、不審に思われるから計画を中止するように言つたところ、それ以後は宮﨑もこの件の話をしなくなつた。

② Zの購入と両名の借金状況

昭和五四年八月頃から、宮﨑も北野も北陸企画の経営に熱意を失つていたのに、宮﨑が強情を張つて同年九月にZを購入したため借金がかさみ、両名及び北陸企画の借金が合計四五〇万円になつていた。

③ みのしろ金目的誘拐の事前謀議及び金沢での誘拐計画

昭和五五年一月に入つて、宮﨑からみのしろ金目的で誘拐することを持ち掛けられ、北野も賛成した。当時北野と宮﨑の借金が五〇〇万円位あり、また、北野は腎臓病の入院治療費、宮﨑は横浜か大宮に土地付きの家を購入する費用が欲しかつたのである。具体的な計画としては、みのしろ金の額は一、〇〇〇万円から三、〇〇〇万円と定めたほか、同年二月初めには、対象を娘と定め、誘拐した後は殺すこと、誘拐及びみのしろ金要求は宮﨑が、殺害実行は北野がそれぞれ分担することも合意された。また、殺害場所は別に決めていなかつたが、死体の遺棄場所は国道四一号線沿いと決定した。

同年一月中に、宮﨑と共にZに乗つて金沢方面へ誘拐の下見に行き、同年二月六日から九日までは連日バンで同所に赴いて誘拐を試みた。このときは、娘が警戒しないよう北野は車から降りて、宮﨑一人で回つたが、相手を誘えずに終わつた。

④ 富山事件

二月二二日二人でホテル「プラザ」に宿泊したが、その際、北野の方から誘拐を実行することを提案し、宮﨑もこれを承諾した。

同月二三日午後喫茶店「小枝」で別れた後、宮﨑は誘拐に出掛け、北野は自宅に帰つていたところ、同日午後九時頃、宮﨑から電話があり、若い女性を富山駅でうまく誘い出すことに成功してレストラン「銀鱗」に来ており、これから北陸企画事務所に連れて行くが、相手を警戒させないために北野は来ない方が良いと言われた(最終的な供述はここまでで中断しているので、以下は、自白開始当初の供述を記載する。)。

同月二四日、二五日と宮﨑から誘拐の件で連絡があつたが、北野は具体的な行動には出なかつた。

同月二六日午前九時三〇分頃、宮﨑から電話で、乙野という人が娘がいなくなつた件で北陸企画に来ているとの連絡を受けた。同所に出掛けたところ、宮﨑から、乙野A子という八尾の高校生を誘拐して、夜Zでドライブに出た際、助手席で眠つていた同女を下呂温泉別館「よし乃」から盗んできた帯紐で絞殺し、死体は山中に捨ててきたと言われ、当初の計画では北野が殺害するはずだつたので驚いた。

その後、A子の両親や警察官等に会うことになつたが、宮﨑と相談の上、知らぬ顔で通した。

以上、長野と富山における各自白を分けて内容の要旨を示したが、長野における自白が相当詳細に録取されているのに対し、富山における自白、特に、取調べの焦点であつたはずの富山事件についての自白は、殺害、死体遺棄の実行に北野る関与しなかつた理由、誘拐に成功した後の具体的状況等がほとんど語られていないのであつて、極めて中途半端なものにとどまつていると言わざるを得ない。

3 自白内容の検討

(一) 秘密の暴露の有無

検察官は、富山事件において睡眠薬がA子に対して用いられたことを供述している点で、北野の自白にはいわゆる秘密の暴露が認められるから、その信用性は高いと主張している(論告要旨一五七頁)。

なるほど、関係証拠によれば、北野の長野における4.15員面(乙八六)及び4.17検面(乙二一)には、二月二六日宮﨑からA子殺害の件を教えられた際に、睡眠薬を服用させたことも聞いたという内容が録取されており、他方、客観的な証拠による右事実の確認はその後に得られたことも明らかである(殺害実行者である宮﨑は睡眠薬使用の事実を一貫して否定しており(一四三回坂井靖証言甲一二〇六等)、また、科学的な解明は公判段階に至つて初めてなされた(丹羽口徹吉外二名56.5.8鑑甲六三四、員56.4.17鑑嘱甲六三三等)。)。

しかしながら、秘密の暴露とは、「あらかじめ捜査官の知り得なかつた事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたもの」を指すと解されるところ(最高裁昭和五七年一月二八日判決刑集三六巻一号六七頁)、捜査官においていまだ明確な事実確認はできていなかつたが、当該事実が存在するのではないかとの疑いを抱いていた事項について供述がされた場合は、右の基準に該当しないことが明らかである。なぜなら、そのような場合には、捜査官による誘導の危険を排除する状況的な保障が認められないから、このような状況下で得られた自白に対して高度の信用性を付与することは困難であると言わざるを得ないのである。

このような観点に立つて本件事案を検討すると、北野の前記各供述調書が作成された当時、A子に対する睡眠薬使用の事実が鑑定等によつて確認されていなかつたことは前記のとおり否定できないものの、捜査官においてその疑いも抱くことなしに尋問に臨んだとは到底解されないのである。

すなわち、問題の供述は、長野における取調べの過程において、経緯として富山事件に触れた箇所に記載されたものであるところ、その時点で長野県警察においてA子の死亡状況をどこまで把握していたかは明確ではないが、少なくとも絞殺、遺棄されていた点ではB子と全く同様の状況にあつたことを知らなかつたはずはない。次に、捜査の主眼であつた長野事件の被害者であるB子の方については、四月二日に遺体が発見され、その死因が絞頸による窒息死であると考えられるのに、いわゆる防御創が認められなかつた(村松正美5.8鑑甲六四、期日外同証言甲三六六)ことから、同月四日には同女が薬物を使用していたかどうかについての鑑定が嘱託されていること(員同日付け鑑嘱甲六九)、その後同月一三日に至つて、それまでB子に対する睡眠薬の使用を否定していた宮﨑が供述を翻し(同日付け員面乙一二四、前記坂井靖証言)、翌一四日には長野県警察の警察官が富山市内の薬局に赴いて、富山事件発生以前に宮﨑が睡眠薬を購入したことを記録した要指示薬帳面を領置していること(同日付け員領甲七〇六)がそれぞれ認定できる。

更に、この時点までにおける富山事件に関する宮﨑の供述状況をみると、A子に対しては睡眠薬の使用を否定する供述を依然として続けていたが、当初の計画に反してこれを用いなかつた理由は判然としておらず(4.14員面乙五一)、また、B子に対する投与も一三日になつて初めて認めた経緯からしても、一五日頃においては、捜査官が宮﨑の前記弁解を全面的に信用していたとは考えられない。

北野が睡眠薬に関する供述を開始した時点における捜査状況は以上のとおりであつて、捜査機関が二つの殺人の状況的類似性に思い至らなかつたはずはなく、A子も睡眠薬を使つて殺されていたと思つていたとの宮﨑警部の当時の心境(期日外同証言甲一二〇四、一六、三〇五丁)は、単なる想像の域を超えて具体的な証拠に裏付けられた疑念に高まつていたことが推認されるのである(なお、宮﨑警部は、宮﨑知子の供述状況は知らなかつたと証言する。当時そのような情報の規制が実施されていた形跡はないから(一七一回〔期日外〕目黒勲証言弁四五四〔弁四九九〕)、同証言はそもそも信用し難いが、仮に真実であつたとしても、結論に影響はない。)。

以上のような状況の下での取調べの結果なされた北野の供述について、秘密の暴露性を肯定し自白全体に高度の信用性を付与することができないことは明らかであつて、検察官の主張は採用できない。

なお、北野の右供述の証拠価値について更に付言すると、この供述は、その後身柄を富山に移された後の本格的な富山事件の取調べにおいて大きく変転し、事前に睡眠薬を使用する相談をしたが、実際にA子に投与したかを宮﨑に確認してはいないとの趣旨に訂正されているのであつて(4.27員面乙七〇)、供述の安定性に乏しく、北野の有罪性を立証するための独自の証拠価値は有しないと考えられる。

(二) 自白内容の合理性

次に、検察官は、北野の自白内容が合理的であることを強調する(論告要旨一四九頁)。そして、その根拠とするところをみると、結局は、第四で検討したような外形的事情と北野の自白が矛盾なく合致しているとの主張であると要約することができる(なお、C山事件についての見解に対する判断は、4の(五)において別途触れることとする。)。

たしかに、一見する限りにおいては検察官の主張にうなずけるところがないわけでもないが、そもそも外形的事情の評供自体、宮﨑供述を不当に重視するなどの点で検察官の見解どおりには受け入れ難いものがあることは既に述べたとおりであるし、更に言えば、本件のように共謀のみに係わつたことを認める供述については、ポイントとなる謀議状況、実行行為者の行動の意味の認識等に関して、共犯者の供述以外には客観的証拠に乏しいため、外形的な事情との破綻が認められないのがむしろ一般であり、そのことのみをもつて自白の信用性を論じるのはいささか表面的な議論であるとのそしりを免れ難い。

このように検察官の主張は説得力に不足している感が否めないのであるが、更に、自白を細かに分析すると、反対に不合理性、不自然性が以下に指摘するとおり随所に発見できるのである。

(1) 長野及び富山における各自白を通じて不合理、不自然な事項

ア みのしろ金の受け取り方法

この種の誘拐犯罪の場合、要求金員を入手することが最終目的であることは言うまでもないし、しかも、その際に検挙される危険が最も高いことも明らかであるから、金員受領の方法が犯人にとつて極めて重要かつ関心の向くところであると考えられ、計画的に誘拐が実行された場合、この点の検討が全くされないということは一般的には考えにくいであろう。

ところが、北野の自白調書を一覧すると、富山事件発生以前の事前謀議の状況について触れたものは少なくなく(<証拠>)、しかも、その際には誘拐の対象、誘拐した相手の処置、みのしろ金の額等について細かな相談が交わされたとされているのに、金の受領方法に関して謀議がされたかどうかについては一切触れるところがないのであつて、不可解と評するほかはない。

もつとも、4.30員面乙七一の作成に当たつて、受領方法についての録取が一旦はされたことが認められるが、その内容が、高速道路から下の一般道路に金を投下させて拾う、あるいは、高速道路のインターチェンジ付近で中央分離帯に投下させ反対方面から走行してきた車で拾うといつたものであつたため、取調べを担当していた広瀬警部は信用性に疑問を抱き、北野の了解を得て当該部分を調書から抜き取つたといういきさつも併せて認定できるのであつて(一三九回広瀬吉彦証言甲一二〇二)、結局、この点に関する前記疑問を解消することにはならないのである。

イ 宮﨑が北野以外の男と誘拐の下見を行つたこととの整合性

北野が宮﨑から誘拐の話を持ち掛けられた時期については、後述するとおり長野、富山の各取調べを通じて看過できない供述変遷があるのであるが、いずれにせよ昭和五五年一月下旬までには実行の合意をみていたとする点では差異がない。

ところが、その時期に宮﨑は、C山事件の被害者であるC山一男に対してみのしろ金目的の誘拐計画を持ち掛けて誘つた上、同人運転の車両に乗つて二人で富山市内を下見に回り、更に別れ際に「近々にやるまいか。」と提案していたことが認められる(一五一回C山一男証言弁一九六〔北野関係のみ〕、二五回、三九回宮﨑供述等)。

検察官の主張によれば、既にこの時期には北野と宮﨑の間に運命共同体的関係が確立していたはずであり、各自白調書も基本的にはその線に沿つて一体性を強調した内容となつているが、C山との行動につき北野がこれを了知していたとの認定ができない限り、右の供述記載には強い疑問が投げ掛けられることにならざるを得ないのである。

そこで各供述調書を検討すると、4.13員面乙八四及び4.17検面乙二一には、宮﨑が「知り合いの富山市内の男」「ある男」と誘拐の下見をしたと聞いた旨の記載がないわけではない。しかしながら、既にC山事件を二人で共謀した後(乙八四では更に誘拐共謀後)の出来事として録取されている以上、これが真実なら、話を聞いた当時の北野にとつても、また、捜査官にとつても放置できない事実であつたと推察されるのに、言及は右の程度の曖昧なものにとどまつていること、調書作成時期までにC山に対する事情聴取が実施されており(検面甲三四一は、四月一〇日に作成されている。)、右の事実を捜査官の側で既に把握していた可能性が否定できないことに加え、その後富山における取調べで北野がこの事実を述べた形跡がないことをも勘案すると、取調官の誘導による供述である疑いを払拭することができない。

したがつて、各自白調書中共謀形成過程に関する部分の信用性については、客観的事実に照らして疑問なしとしないのである。

ウ 宮﨑が男性をも誘拐の対象と考えていたこととの整合性

富山事件直前の時点において、宮﨑が二度にわたりZに同乗させた男性(D川二郎及びE谷三郎)を誘拐の対象と考えたことがあることは、第一部で認定したとおりであるが、北野の供述中では、そもそも右両名の件についての言及がないのみならず、宮﨑との謀議において誘拐の対象は若い女性とすることが決まつていたとする態度で一貫しており(<証拠>)、右の事実を北野は知らされていなかつたことが強く推認されるのであつて、このことは、取りも直さず事前謀議に関する自白の信用性にも影響を与えることになろう。

エ 富山事件の実行において共犯者として北野が果たした役割

既に長野における取調べの段階から、富山事件発生以前に誘拐計画の共謀に加わつた旨の自白調書が存在することは上述したとおりである。他方、その後の富山事件において各実行行為そのものに北野が加わらなかつたとの供述は自白時においても堅持されており、しかもそれが信用できることに現在疑いの余地はないのであるから、仮に共謀に加わつていたとの供述が真しになされたのであれば、実行には加わらなかつたとの供述に言わば橋渡しをする説明、すなわち、何故北野は実行行為に出なかつたのか、二日以上にわたつた犯行の間宮﨑からどのような連絡を受けていたのか等に関する合理的な説明が当然に期待されるところである。ところが、以下に述べるとおり、この点に関する北野の供述は、変転を重ねている上に極めて曖昧、不自然なものに終始しているのである。

① まず、長野における自白調書を検討すると、4.13員面乙八四、4.17検面乙二一はいずれも富山事件についての具体的事前謀議はなかつたとの記述となつている点で共通しており、ただ、前者が、二月二三日夜に誘拐の電話を受けた後連絡が途絶え、二六日に殺害した旨の報告を聞いたとするのに対し、後者では、富山事件についての認識を一切否定していたため(一四四回横畠裕介証言甲一二〇七)、二六日になつて初めて事態を知つたとの供述になつている。

いずれにせよこれらの調書においては、事前に宮﨑と共謀しながら、なぜ富山事件では宮﨑が独断専行した上、誘拐してから殺害まで二日以上の時間的間隔があつたのに連絡が取られていないのかに関して一切合理的な説明が加えられていないのであつて、不自然さを免れない。

特に、後者の検面調書については、その二日後に作成されたもの(4.19検面乙二五)の中で長野事件の謀議状況を説明する過程において、富山事件では北野が臆する態度を示したため実行者が変更になつたことを示唆する部分が録取されており(ほかならぬ検察官自身の解釈でもある。論告要旨二七七頁参照。)、全体的な統一性の観点からも不自然さが現れていると言わざるを得ない。

② 次に、富山に移つてからの自白状況をみると、まず、4.27員面乙六八は、金沢で誘拐が行われていると宮﨑から連絡を受けていたとしている点で、全面自白調書とは言い難いが、北野が殺害を担当する相談が事前にできていたことを前提にしながら、その後の電話でのやりとりにおいて、約束の履行を宮﨑から強く迫られたとの説明は全くなく、事後になつて殺害の事実を知つたとしているのであつて、事前謀議との関係が曖昧であることに変わりがない。

最後に、4.30員面乙七一及び5.6検面乙一九では、事前の計画においては北野が殺害を担当することになつていたことに加えて、北野が特に催促して富山で誘拐をすることが決定されたことも明言されている。そして、二三日夜「銀鱗」からの宮﨑の電話では、女の子が警戒するから今日は北陸企画事務所に来ないように言われた(乙七一では、明日来るようにとの指示だつたとされる。)と記載されているのであるが、当夜ではどのような困難があつたのかについて、直前までは実行に積極的であつた北野から確認したような叙述は一切ない。また、これらの調書はここまでの説明で記載が終了しており、その後の行動を述べた供述は得られておらず、(そのこと自体供述経緯として不自然な点があることは後述するが、その点は別にしても)北野がなぜ殺害を行わなかつたのか、宮﨑との連絡状況はどのようであつたのかが全然明らかにされていないことにより、自白としての完結性を欠くとの消極的評価は避けられないであろう。

オ 二月二六日以降の富山事件に対する関心

富山事件においては、A子が北陸企画の名前を母親に伝えたため、二月二六日には両親や警察官から既に疑いの眼を向けられる事態が発生していたのであるから、その際には何とか逃れたとは言え、A子の遺体が発見されれば北野と宮﨑は殺人犯人として厳しい追及を受けることが必定であつた。このような状況下に置かれれば、その後犯行の露見を恐れて捜査の進展に注意を払うのが犯罪者一般の心情であろう。とりわけ、北野の場合には、前述の検察官の主張によれば最終段階に至つて躊躇を感じて実行を取り止めたとされるのであるから、右の議論が一層妥当するところと考えるが、以下のとおり、北野の自白中にはこの点についての現実味のある供述が一切見当たらないのであつて、いかにも奇妙に思われるのである。

① まず、長野における自白調書を概観すると、4.13員面乙八四では、二月二八日宮﨑とホテルに宿泊した際、A子方に電話をしたところ警察がいるようだつたと聞いたとの供述が記載され、その後三月三日富山を出発するまでの経過が詳しく述べられているにもかかわらず、新たな誘拐殺人を企図、共謀するに当たつて富山事件の発覚を懸念した等の記述は全くみられない。

また、4.15員面乙八六では、三月五日「日興」において二人で新聞を読んだ事実に触れながら、富山事件の捜査状況に対する一言の言及もない。

更に、4.18検面乙二三では、再度の犯行を決意するに当たつて、「北陸企画という名前まで出ていたのに警察は何もできない様子だつたので、決め手となる証拠さえ残さなければいくら怪しまれても大丈夫だと思つた。」旨の記載が認められ、一応の説明がされた形にはなつているが、A子の遺体が発見されれば、これに同行した宮﨑の行動から新たな嫌疑を招く危険性は依然として残つていたわけであるから、その後の記載の欠如について説得力のある弁明であるとは解されない。

② 富山における取調べにおいては、前述のとおり犯行の終了時点までに関して検察官の主張に沿つた供述が得られていないので、この問題に直接触れるものは見いだし難いが、4.27員面乙七〇において、A子の殺害、死体遺棄場所については恐ろしいので国道四一号線の岐阜県の方としか聞いていないとされているのは、事件の発覚等に一切眼をつぶろうとする姿勢が過度なまでに表出していると評するほかはなく、続いて長野事件の共謀にも加わつた者の言葉としてはにわかに信じ難い内容である。

(2) 長野における自白の中で不合理、不自然な事項

ア 二月二八日宮﨑が富山事件について北野に語つた内容

4.13員面乙八四によれば、富山事件後の二月二八日北野とホテルに泊まつた際、宮﨑は、「これは、二人のためにやつたのよ。だから、絶対人に言わないでね。言えば二人とも捕まるのよ。」と北野に語つたとされている。

事件を共謀した者の間でこのような会話が交わされることの不自然さは明らかであろう。もつとも、富山事件中殺害等は事前に予期していなかつたという弁解がこの調書ではなされているので、この点の責任を逃れるためことさら北野が創作したという可能性も一応考えられないではない。しかしながら、そう解してみたところで発言内容の不自然さがすべて解消するわけではないことは明白であるから、むしろ取調べが適正になされていなかつたためにつじつまの合わない記載になつた疑いが否定できず、やはり不利益供述自体の信用性を低下させる事由と評価するしかない。

そして、この点に問題が生じると、本調書の主眼であり、前記供述部分に引き続いて記載されてある長野事件の共謀に関する自白についても、その証拠価値が問われる結果を招来することは避けられない。

イ 殺害の凶器として使用すると決めた「志賀」の紐に対する北野の認識

長野における自白では、三月四日宿泊したホテル「志賀」において、殺害の凶器として同ホテルの紐を使うことを相談したが、北野自身は紐を見ていないし、宮﨑がこれを持ち出したのも現認していないと一貫して供述されている(<証拠>)。しかし、容易に確認できる状況にあつたことは明らかであるから、共謀を遂げた者の態度としては不自然さを免れない。

ウ 三月四日聖高原方面を下見していた際の北野と宮﨑の謀議内容

4.14員面乙八五及び4.19検面乙二五によれば、三月四日殺害、遺棄場所を求めて聖高原方面を下見していた際に誰が殺害するかという話になり、北野は度胸がないとの理由で宮﨑が単独で実行することになつたとされている。前述したとおり、検察官は右の箇所につき富山事件のいきさつを踏まえたものであると解釈しているのであるが、実行者の決定の理由という重要事項に関し、なぜこのような曖昧な表現しか用いられていないのか理解に苦しむところであり、信用性を損う事由として考慮されてもやむを得ないところである。

エ 三月三日富山を発つて以降、北野名義のカードを用いて給油をしていたこととの整合性

第四の五の2でも簡単に触れたように、長野から東京、高崎を経由して富山に戻るまでの間、北野名義の出光ファミリーカードによつて給油がされていた事実が確認されている(出光興産株式会社4.10回答甲二三六等)。

「日興」で宿泊予約した際には、宮﨑と相談の上犯跡をくらます目的で偽名を用いたという供述が自白調書上では一貫してなされているのであるから、これが真実であれば、給油の方法についても当然何らかの話し合いがなされてしかるべきであろうが、「現金の持ち合わせが少なかつたことから、カードで給油しようと宮﨑と話し合つた。」という供述調書(4.16員面乙一六)がわずかに一通あるのみであり、この説明とても疑問を消す内容には程遠いのであつて、この点に対する沈黙は、前記「日興」における偽名使用の理由に関する供述についての信憑性に影響を与えると言わざるを得ない。

オ 三月六日北野が警察にZの事故の有無を問い合わせたこととの整合性

宮﨑がB子を殺害した後北野と合流するまでの間である三月六日午前九時頃、北野が長野中央警察署に電話し、富山三三ナンバーで女性が運転している赤色フェアレディZの交通事故がなかつたかを尋ねていることが証拠上明らかになつている(員4.1報甲八一〇)。

右の所為は、誘拐殺人犯人としては余りに不用意としか言いようがなく、特段の事情がない限り共謀の存在を疑わせる事情としてとらえることができよう。

もつとも、この点については、宮﨑からの連絡が途絶えたため、心配になりやむを得ず問い合わせた旨の説明が施されており(4.15員面乙八六)、一応の理由にはなつているようにもみえるが、重罪に関与している者の心理とすれば、テレビを見たり、報道機関に問い合わせるなどの方法によつてできるだけ警察との接触を回避するのが通常であろうと思料され、疑念を完全に消し去ることはできない。しかも、仮にそれだけ取り乱したのであれば、その後宮﨑から連絡を受けた際に追及的な態度に出ることが当然予想されるが、右の員面にはその種の記載は見当たらないし、この点に触れた4.19検面乙二四も、連絡できなかつた理由を尋ねたとの記載はあるものの、宮﨑のそれに対する明確な答えは欠如したままになつているのであつて、全体的な整合性からしても、前記北野の説明部分の不自然さを軽視することはできないのである(なお、右の点をめぐる宮﨑の捜査官に対する供述(4.16員面乙五四)では、かねて打ち合わせてあつたアリバイ工作の一環として北野が架電した旨説明されており、正面から食い違つている。)。

カ 三月六日「ビッグベン」におけるみのしろ金要求電話に関する宮﨑との会話

北野は、三月六日宮﨑と合流した後東京に向かう途中レストラン「ビッグベン」に立ち寄つて食事を取つているが(この点異論はない。)、その際の出来事として、店内レジ近くの公衆電話を使つてみのしろ金を要求しようと提案し、他の人に聞かれてしまうと宮﨑からたしなめられた旨繰り返し供述している(4.15員面乙八六、4.19検面乙二四)。空腹であつた、少し焦つていたといつた注釈が付記されているとは言え、これもあまりに無神経で、不自然な思い付きと言わざるを得ない(なお、宮﨑は、捜査時においてはそのような事実に言及していないし(4.18検面乙一二参照)、公判廷におけるこのときの会話内容の説明も右の趣旨とは大きく異なつている(三二回供述)。)。

キ 三月七日昼過ぎのみのしろ金要求電話

宮﨑が三月七日午後零時二三分頃、埼玉県川越市内の公衆電話からB子の自宅に電話し、その際みのしろ金を三、〇〇〇万円から二、〇〇〇万円に減額することを容認する発言をしたことは第四の五においても述べたとおりである。

仮に北野が共犯者であれば、付近にいた北野に宮﨑がこれを伝えないはずはないであろう(事実宮﨑は、4.18検面乙一二、三三回供述においてこれを肯定する。)。ところが、長野における北野の供述は、この際には宮﨑からは何も聞いておらず、約四時間後に再び電話をしたときに知つたことを明言する供述で一貫している(<証拠>)。

犯人であれば、当然のことながらみのしろ金の額が重要な関心事のはずであり、この点の食い違いを単なる記憶の誤りとして見過ごすことはできない。

(3) 富山における自白の中で不合理、不自然な事項

ア 二月二二日ホテル「プラザ」での謀議の状況

二月二二日午前零時過ぎ両名はホテル「プラザ」に入つたが、そこで謀議が行われ宮﨑が誘拐した相手を北陸企画事務所に連れて来ることになつたと、北野は自白している(4.30員面乙七一。その後の供述調書でも訂正はない。)。ところがこの際に事務所の解体の話が出ていたことは、北野(一〇九回供述)のみならず宮﨑(57.11.2供述)も一致して公判廷で認めるところである。右事務所の内部を解体してしまえば誘拐の相手を同所に連れ込むことは事実上できなくなると考えられるから、仮に北野の自白するとおりに謀議がされたとすれば、解体と誘拐実行の時期の関係等について当然話し合いがなされるはずであるが、右自白は事務所解体の件に全然触れておらず、不自然であると言わざるを得ない。

(4) まとめ

これまで検討してきた結果を総合し、北野の自白中における不合理、不自然と考えられる点を分類すると、共謀に加わつたものであれば当然に体験し、記憶していると考えられる事項について説明が欠落しているもの((1)のア、エ、オ、(2)のキ、(3)のア)、共謀を疑わせる客観的事実について疑問を解消させるに足りる説明が加えられていないもの((1)のイ、ウ、(2)のエ、オ)、共犯関係があつたにしては不自然な状況を述べるもの((2)のア、イ、ウ、カ)といつた形で整理することができよう。

これらを更に分析すれば、相対的にみて富山における自白に問題点が少ないのは、自白時間が短かつたことを考慮すれば当然である。また、長野における取調べでは、長野事件に主力が注がれたため、富山事件及びそれ以前の経緯について有効な尋問が行えなかつた可能性はある程度考慮されなければならないであろうが、(2)のイ以下の諸点だけを抽出しても不自然性は相当明確であると言わざるを得ないのである。

これらの事由を列挙、比較するとき、その影響力という点でおのずから軽重が生じることは言うまでもないところであるが、全体として考えれば、長野、富山いずれにおける自白を取り上げても、看過し難い不自然さが少なからず内在していると言うことができるのである。

(三) 自白内容の変遷

自白内容の検討の最後に、その変遷状況について検討を加えることとする。なお、以下に指摘する事項中少なくとも幾つかのものについては変遷の事実が顕著であると思われるが、これらが信用性に影響を与えないことを論証しようとする検察官からの試みはなされていない。

(1) 長野における自白調書相互間で変遷のみられるもの

ア 長野事件の謀議における殺害担当者

4.14員面乙八五では、三月四日までは殺害実行を北野と宮﨑のいずれが担当するかは決定されていなかつたが、同日殺害、死体遺棄場所の下見に出掛け、聖高原方面を走行中、宮﨑が北野に「あんたは度胸がないからだめだ。」と言つて、宮﨑単独で殺害を実行することになつたと記載されているが、4.16員面乙八七では、三月四日朝ホテル「志賀」を出発する前の話し合いにおいては北野が実行することになつていたとの供述があり、その後下見の途中聖高原付近を走行した状況に触れた部分があるのに、殺害実行者が宮﨑に変更になつた旨の記載は見当たらない。

更に、これに引き続く検察官の取調べの際も供述は変転を重ね、4.18検面乙二三では、「志賀」においては殺害役は決まつていなかつたことが明言されている一方、聖高原方面の下見状況が詳しく記載されているのに殺害実行者決定に関しては何ら言及していない内容となつているところ、4.19検面乙二五に至つて、右の下見の際に、北野には度胸がないと言われて宮﨑が殺害実行を分担することになつたことが付言され、当初の乙八五と同様の供述に戻つている。

殺害実行者の決定という、極めて重要であり記憶の混乱等も生じにくい事項について、わずか一週間足らずの間に、右のとおり説明が三転し、しかも、供述が訂正されるに至つた理由については一切説明が施されていないことも併せて考慮するときは、これらの調書の信用性について重大な疑念を抱かざるを得ない。

イ 誘拐の実行場所を大宮から長野に変更した理由

北野の自白によれば、富山事件に失敗した後再度誘拐を試みる謀議がされた際、当初は大宮等が候補地として決まつたが、その後、富山を出発してからの車中で、大宮は遠いからとする宮﨑の提案によつて長野に変更されたこととされている(4.13員面乙八四、4.18検面乙二三)。

宮﨑供述との対比からみたこの供述の不自然性については既に触れたとおりであるが(第三の三1(二)(2)エ参照)、右4.13員面の翌日に作成された4.14員面乙八五は、その冒頭で変更の具体的理由として、長野であれば大宮に行く距離の半分で済むこと、後で行動の説明を求められた場合に浦和在住の知子の姪の家に遊びに行く途中であつたと弁解できること、長野には殺害、死体遺棄に適した場所があることを挙げている。しかし、その後作成された前記4.18検面になると、宮﨑が付近の地理に明るいという理由が示唆されているのみで、前記の具体的理由は脱落しているのである。

この点を顕著な変遷とまで言うことは困難であろうが、目的地が途中で変更になつたものであればそれなりの会話が交わされてしかるべきであり、一旦具体的な検討事由を紹介しながら、その後にこれを撤回する(しかも、その理由は明示されていない。)というのは、供述の不自然性を問われてもやむを得ないであろう。しかも、三個の事由のうち、第一と第二については、合理的根拠があるとは到底言い難いという問題点も併せて指摘できるのである。

ウ 長野事件のみのしろ金の額及び受け取り場所について謀議した時期等

4.14員面乙八五では、三月四日聖高原方面の下見の際に、殺害実行者を決定するとともに、みのしろ金の額は一応三、〇〇〇万円、最低でも一、五〇〇万円とし、その受け取り方法としては、金を東京方面に持つて来させ警察の動き等を見計らつて適当な場所と方法を最終的に考えることが決められた旨明言されている。ところが、金額及び受領場所についてそれぞれ供述がその後に変わる上、その理由も不明である。

まず、受け取り場所に関して、二日後に作成された4.16員面乙一六では、三月六日にレストラン「小紋」から甲野宅に要求電話をした後、宮﨑と相談の上、当初予定していた長野駅から上野駅に計画を変更したとされている。更に、4.19検面乙二四をみると、いささか不明瞭な記載ではあるが、三月六日よりももつと前の段階で東京とすることが決められていたという口吻となつており、再び変遷しているのである。

次に、金額については、4.18検面乙二三によれば、三月四日の下見の記載部分には前記のような謀議状況に関する記載はなく、同日宮﨑が誘拐に失敗して「日興」に戻つて来た後の話として、北野が「三、〇〇〇万位ふつかけてやれ。へたしても一、五〇〇万位にはなるぞ。」と宮﨑に言つた旨が録取されている。

事柄の重要性に鑑みれば、アと同様に、これらの点についての変遷も理解に苦しむものであり、看過することができない。

エ 少女フレンド等の入手先についての宮﨑の説明

三月四日誘拐を試みるため出掛けて行つた宮﨑が「日興」に戻つた際、もらつたと言つて少女フレンド等の雑誌を持ち帰つたとの点で北野の供述は調書上一貫しているが、4.15員面乙八六では、入手先を尋ねたところ「まあいいでしよ。」と言つて相手を明確にしなかつた旨具体的に供述しているのに、その翌日の4.16員面乙八七になると、声を掛けた女子大生から入手した旨聞いたとし、同女とのやりとりを伝聞した内容も具体的に記されている(なお、4.18検面乙二三では、誘つた相手からもらつたという簡単な供述にとどまつている。)。

右の乙八六と八七では、わずか一日違いで作成された調書にもかかわらず、内容が実質的に相反するものとなつている上、供述変更の理由は明らかにされておらず、不自然性を示している。

オ B子殺害、遺棄についての宮﨑の説明

4.15員面乙八六では、三月六日昼に宮﨑と合流した際に同女から聞いたB子殺害、遺棄に関する説明としては、Z内で缶コーラの中に睡眠薬を入れて飲ませ、寝たところを頸を絞めて殺害した後、遺体は高原の近くの山中に捨てたとのことであつたと供述しているが、4.19検面乙二四になると、殺害方法について宮﨑は、「富山と同じよ。そんなこと聞かないで。」と言うのみで明確には返答しなかつた旨説明が変更されており、北野の推測として、A子の場合にジュースかコーラに溶かして睡眠薬を飲ませて殺したと聞いているから今回も同様の方法を用いたと思う旨付加されている。また、遺棄場所について聞いたのかどうかは触れられていない。

まず、殺害方法の点については、前記4.15員面をみると、右の供述記載部分に引き続いて、缶ジュースよりは睡眠薬をよく溶かすであろうから缶コーラを用いようとの相談が事前になされていたことが明言されているのであり、この記載をも踏まえれば、全体として極めて具体的な供述であることが明らかであつて、検面調書における右変遷は特段の事情がなければ理解が困難である(これまでと同様に調書上に変更の理由は全く見当たらない。)。そこで更に証拠関係をたどると、宮﨑は一貫して缶ジュースと一緒に飲ませたと供述していることが認められ(4.13員面乙一二四、4.20検面乙一一)、北野の自白もこれと矛盾がないように修正された疑いが濃厚となるのであつて、このような経過で供述が変遷した場合、双方の供述とも信用性が大きく揺らぐことは避けられないであろう。

更に、遺棄場所についても、前記検面調書は、合流時点で「殺害等に適当な場所がないため手間取つた。」旨宮﨑から聞いたことは記載されているのであるから、員面調書中における宮﨑の発言が真実なされたのであれば、四日後の検察官に対する取調べでも同様の説明がなされなかつたはずはないし、検察官がこれを録取し忘れることも考えにくい。したがつて、この点でも、説明が困難な供述変遷が生じていると解することができる。

カ みのしろ金持参人の見分け方についての宮﨑の説明

4.17員面乙一七によれば、三月七日夜金を受領するため高崎駅に向つて歩く途中、持参人であるB子の姉をどうやつて発見するかを北野が尋ねたところ、宮﨑の服装を教えてあるから、相手の方が識別できると宮﨑が答えたとされ、相手に伝えた自分の身なりについて宮﨑が手真似を交えて説明した状況が具体的に録取されている。そして、これを聞いた北野は、自分ならば怪しまれないと思つて、一人で高崎駅待合室の中に入り持参人を捜したことが述べられているのである。これらの供述が極めて不合理な内容であることは一見して明らかであるところ、この点について4.19検面乙二四では、検察官の質問に北野が答える形式によつて、「犯人が自分の服装など相手に教えるはずがありません。私の勘違いです。姉がどの人かは喫茶店に呼び出して、その人の動きで分かると思つていました。」旨供述が変更されている。

しかし、前記員面調書の具体的記載状況からすれば、勘違いが生じた可能性は実際上考えられないと言つても過言ではない。したがつて、前記員面調書はもとよりであるが、それを勘違いという理由で修正しようとした検面調書についても、真実を録取した証拠と評価することを妨げる方向の事由が存すると言わざるを得ない(更に付言すれば、修正を試みている検面調書自体、供述の不合理性を完全に免れているとは言い難い。すなわち、変更後の供述によれば宮﨑らが持参人を見分けることが著しく困難であることになるのに、同女から金を奪い取る意図を持つて待合室に入つたとの供述は維持されているのである。)。

(2) 長野及び富山における各自白調書全体を通じて変遷がみられるもの

ア みのしろ金目的誘拐の事前謀議をした時期及び内容

多くの調書がこの点に触れているが、その内容は以下のとおりである。

4.13員面乙八四では、みのしろ金目的の誘拐の話が二人の間で出た時期ははつきり特定されていないが、昭和五五年一月初めには金沢に誘拐のため行つたとあるから、少なくともこれ以前であることは暗黙の前提となつている。また、この調書では、二月二六日宮﨑からA子殺害の件を聞き、女の子は家に帰すものと思つていたので驚いた旨の供述が存在することからすると、この時点までの計画には誘拐した相手を殺害することまでは含まれていなかつたとの供述であつたことが分かる。

次に、4.17員面乙八八では、昭和五四年一二月頃から推理小説の好きな宮﨑がみのしろ金目的の誘拐を提案して北野もこれに賛成したこと、同五五年一月末の時点でみのしろ金の額は未定であつたことが録取されているが、同日付け検面(乙二一)には、同年一月中旬に宮﨑から金沢辺りで誘拐をする話を持ち掛けられて了承したが、みのしろ金の額は一、〇〇〇万円から二、〇〇〇万円と話し合つた旨供述している。

更に、富山における自白に移ると、4.27員面乙六九では、昭和五五年一月宮﨑の誘拐の提案に北野も賛成したが、その際の謀議内容として、場所は金沢市か富山市で、若い娘を対象とし、誘拐した後はZかバンに乗せて殺害すること、みのしろ金の額は、三、〇〇〇万円を目安に要求し、誘拐、みのしろ金の要求及び受け取りは宮﨑が、殺害は北野が分担することが決められた旨相当詳細に供述した後、4.30員面乙七一になると、昭和五五年一月中頃、富山で誘拐した場合のことを考えて殺害場所として国道四一号線の富山県から岐阜県に向けての場所を選んでおいた事実を新たに述べた上で、みのしろ金の額については直前の員面調書をほぼ踏襲した内容となつている。ところが、5.6検面乙一九になると、昭和五五年一月一〇日頃、宮﨑から初めて女の子を誘拐してみのしろ金を取る話を聞いて北野も賛成したが、みのしろ金の額については一、〇〇〇万円から三、〇〇〇万円の間で臨機応変に決めることとなつていた、当初は殺害までは明確に決まつていなかつたが、二月初めになつて宮﨑が誘拐した後北野が殺害することで合意した旨録取されている。

本項に関する限りは、対象となつている事項の性質上、供述に変遷がみられることから直ちに不自然性を云々することはできない。すなわち、時期の特定については、時間を経ることによつて記憶に混乱が生じるという一般的な可能性を無視することはできないし、謀議事項については、当初はできるだけ刑責を軽減しようとの意図から全面的な供述を避けていた被疑者が観念して次第に真相を明らかにしていくという現象も実務上決して稀とは言い難いところ、本件では長野での取調べの際には富山事件が直接の被疑事実ではなかつたために一層それが妥当する状況にあると考えられるから、その可能性をも考慮しなければいけないのである。したがつて、後者の観点からすると、富山事件発生時点では殺害する計画はなかつたとの長野における供述がその後変遷したからと言つて、不自然であるという決め付けをするのはやや尚早と言うほかはない。

しかしながら、前記の供述の推移は、そうした点を十分考慮してもなお不自然さをぬぐいさることが困難な面を示していると思料されるのである。

けだし、時日が経過したとは言つてもわずか数箇月前の行動状況の説明であり、特に、殺害が合意された時期の特定については富山での取調べでも原因不明の動揺が看取される。更に、長野、富山を通じてのみのしろ金額に関する説明の甚だしい不統一は到底理解し難いと言うほかなく、やはりこの点をめぐる変遷も、信用性を低下させる事情の一つとして数えることができよう。

なお、みのしろ金の額に関する宮﨑の供述状況について補足すると、長野、富山の両事件とも「北野との共謀、宮﨑の単独実行」を供述していた時期に作成された4.14員面乙五一においては、昭和五五年二月頃二、〇〇〇万円位取ろうと北野と相談した旨記載されている。宮﨑が実行正犯の責任のみを北野に転嫁したのに過ぎないのであれば、この部分について特に虚偽を供述するおそれは少ないと解されるが、北野の自白はいずれも合致していないのである。

イ A子殺害についての二月一六日における宮﨑の説明

北野の自白によれば、二月二六日朝、宮﨑から電話で呼び出されて北陸企画事務所に行つたところ、A子殺害の事実を打ち明けられたとする点は一貫しているが、その際の説明として、4.15員面乙八六及び4.17検面乙二一では宮﨑から睡眠薬を使用したと聞いた旨の記載が存在するのに(もつとも、4.13員面乙八四では触れられていない。)、富山における自白になると、4.27員面乙六八(全面自白調書とは言い難いがこの問題に関しては影響はないと思われる。)では、宮﨑の右発言は見当たらず、同日付け員面(乙七〇)に至つて、A子に睡眠薬を使つたかは宮﨑に確かめていないことが明らかにされている。

この問題に関係する長野における自白については秘密の暴露の項に加えて(1)のオでも指摘したところであつて、これらを併せて考察するときは、捜査官による誘導の危険性が現実化していると評するほかなく、信用性を付与することは困難である。

そのような見地からすると、富山において右のとおり供述が変遷したことについては特に不審な点は見当たらない(すなわち、北野の正しい記憶が記載されている)という逆説的な主張も考えられないではない。

しかしながら、右4.27員面では睡眠薬を使用する相談が事前に交わされたことは明言されているのであるから、事後にその点を確認しなかつたとは考えられないし、確認結果を忘れたというのもあり得ないであろう。そうした疑問に加えて、長野における供述状況に対する一切の弁解がなされていないことをも加味すると、富山における説明の真実性にも疑いが生じることを禁じ得ない。むしろ、前述したとおりA子に対する睡眠薬使用の事実は宮﨑が一貫して否定していたところ、捜査当時には鑑定等もなされておらず、更に、A子が錠剤を飲むことができないとの情報を親族から得ていたこともあつて(一四三回坂井靖証言甲一二〇六)、捜査機関において宮﨑の弁解を軽信し、その認識に沿つて供述の誘導が行われた可能性の方がはるかに現実的であると言えるのである。

ウ 二月二五日朝北野が北陸企画事務所に出向いた事実の有無

A子が誘拐された後なお北陸企画にとどまつていたと考えられる二月二五日早朝に、北野が同所に赴いたことを推認させる事実を目撃したとの証拠が提出されていること及びその証拠価値については、既に第四の四の2(二)において触れたところである。その際には、証言内容を検討した結果、右の目撃状況に関する説明を直ちに信用することはできないとの結論に達したわけであるが、北野の捜査官に対する供述中にもこれを自認する記載が認められる。右供述は犯行を否認した上でなされているので厳密には不利益事実の承認にとどまるが、その信用性が肯定されると北野の共謀を推認させる有力な間接事実になり得ることは既述したとおりであるところ、この供述もまた変遷を示しているので、不自然性の有無を以下で検討することとする。なお、後述するように、自白とは別個の経緯で認めるに至つているので、供述経緯についても併せて検討する。

まず、長野における4.13員面乙八四では、富山事件中誘拐の点について一応共謀を認めているにもかかわらず、二五日は一日家で寝ていたとするなどA子との面識を否定している。次に、富山に身柄が移された後の4.27員面乙六八でも、中途半端ではあるものの富山事件の共謀については自白する態度を示しながら、A子と接触したことはない旨の供述となつている。ところが、富山事件の関与を否認する姿勢を明確にするに至つた5.12検面乙七五及び5.13検面乙二〇においては、二月二四日午前一一時頃宮﨑から電話があつて翌朝午前六時に北陸企画に来るように言われ、これに従つて約束の時刻に赴いたが誰もおらず、五分程机の整理等をした後帰宅した旨の供述に変転している。

長野時代の供述との比較のみで変遷の不自然性を論じることがやや性急に過ぎることは、前記アにおいて指摘したところと同様であるし、右4.27員面は宮﨑が金沢で誘拐をしていると信じていたという内容であるから、その間に北陸企画に行つたことがあるということはこれにややそぐわない面が生じ、そのため北野が供述を渋つた可能性も一概には否定できない。

このように調書の記載だけをみると、変遷の不自然さをあげつらうのは困難であるが、4.27員面が作成された後共謀を全面的に自白した時期においても二五日は在宅していた旨陳述していたところ(<証拠>)、否認に転じた後に外出を承認する供述を始めたので前記検面調書が録取されたことは確実であり、この間の供述変遷については右と同一には議論できない。

すなわち、供述を変更した理由は今まで思い違いをしていたからであるとする前記5.12検面の供述が到底信用し難いことは多言を要しないところであり、白色ライトバンの目撃者証言があることが尋問に際して示された結果であると解されることについては、ほかならぬ捜査官自身が認めているのである(期日外德永勝証言甲一二〇八、一六、七五一丁)。そして、以前から記憶はあつたが不利益であるとして否認していたのであれば、これを認めるに当たつてもその余の弁解と調和するように試みるのが通常であろうが、そうした作為の形跡はないこと(前記5.13検面では、富山事件の間の宮﨑の電話は金沢の土地の件であつたと主張しながら、二四日午前一一時の呼び出し電話についてのみその趣旨が不明であつたとしている。)等に徴するとその可能性は薄いと考えられ、むしろ、証拠があるとして追及されたため、これだけを認めても犯罪を自白したことにはならないであろうという計算を前提に、記憶に反した事実をあえて承認するに至つた可能性の方が濃厚であると言うことができる。そして、北野が接見に当たつて弁護人に語つた内容(<証拠>)を検討しても、この疑念が深まりこそすれ、万策尽きて真実を申し述べたといつた形跡は窺われないのである。

以上の次第で、二月二五日早朝に北野が北陸企画に出向いた可能性は、本件証拠からは認定できないことが明らかになつた。しかも、否認に転じた時期においてすら、自己の記憶に反して捜査官の誘導に迎合した疑いが濃厚となつた点は、それ以前になされた自白の真し性に疑いを投げ掛ける一要素として分類することができると解されるのである。

(3) まとめ

捜査官に対する供述内容に変遷がみられるからと言つて直ちに供述全体の真実性が失われる結果を招来するものでないことは言うまでもない。時日の経過や取調べ時の緊張感に起因する記憶の消失・混乱、自白しつつもできるだけ責任の軽減を図ろうとする被疑者の作為、これをチェックするための証拠入手の遅延といつた可能性も念頭に置いた上で判断しなければならないからである。

しかしながら、これまでに列挙した各変遷事由を全体的に眺めると、右に掲げたような要因によつて供述が変わつたものとは到底解釈できないのである。

すなわち、殺害実行者、みのしろ金額、受け取り場所といつた本件共謀の本体的部分の決定状況に関して説明の困難な変遷がみられるし((1)のア、ウ、(2)のア)、また、共謀に加わつた者として事情を知つていることが当然と考えられる事項に関し一旦具体的、詳細な供述がされながら撤回されているものや((1)のイ、オ、(2)のイ)、極めて短期日の間に具体的説明が変転しているものもある((1)のエ)。その他、客観的証拠や内容の不自然さを指摘されて修正がなされた可能性の高い事項に関しては、当初の供述がなされた原因が捜査官の不適切な尋問に由来していることが強く疑われるもの((1)のオ、カ、(2)のイ)や、捜査官の誘導に対する北野のもろさを示すもの((2)のウ)も見受けられること、ほとんどの場合供述が修正された理由が調書上全く明らかにされていないし、例外的なものについても額面どおり受け入れることが到底できないことといつた事情も勘案するときは、本件における供述変遷状況は、自白全体の体験供述性を強く揺るがすものであると言つて差し支えないのである。

(四) 総括

以上の次第で、自白内容の合理性に関する検察官の主張はいずれも論拠に欠けているばかりでなく、かえつて供述の真し性に疑問を抱かざるを得ない事情が少なからず認められ、供述の変遷過程をたどると、この疑いは一層深まるばかりである。

4 供述過程の検討

第二部の冒頭でも記載したとおり、検察官の主張によれば、北野の全面自白は反省悔悟の情に由来するもので、真実を述べる経緯として極めて自然であり、信用に値するとされている。

そこで、以下においては、信用性の検討の項の冒頭に記載した供述過程の概観にほぼ沿つた形で供述状況を追い、否認、自白の各時期において北野の示した態度が真の犯人のそれと理解して不自然な点は生じないか、捜査官の尋問等は適切に行使されていたと言えるかといつた観点から、検討を加えていくこととする。

(一) 三月八日から同月一〇日までの供述

北野は、長野から戻つた三月八日から三日間、富山警察署において岐阜県警察等の警察官の取調べを受けたが、富山事件、長野事件とも自己及び宮﨑の犯行関与を否認し、後者に関し三月三日以降の行動は、目的のない気晴らしのための旅行であつたと説明していた(一四八回大野碩計証言甲一二八五、員3.14報甲一二八八)。第二部の冒頭に略記し後に別途考察するとおり、北野は公判廷における無罪主張の弁解として、本件当時宮﨑の言辞に欺かれて行動しており、富山事件については金沢の土地をめぐつての詐欺まがいの取引、長野事件については政治資金を換価して得られた金の受領をそれぞれ目的とした宮﨑の計画に参加しているものとばかり思つていた旨主張しているのであるが、この時期においてはそのような弁明は一切ないばかりか、三月四日及び五日は車中泊をしたと述べて「日興」宿泊の事実を秘匿しているほか、三月七日に高崎駅に赴き警察官の動きを察知して逃げ帰つたという事実も明かしてはいないことも証拠上明白である(三月八日は、長野のことは聞かれていないので嘘は述べていないとする九八回、九九回北野供述は、前掲各証拠に照らし措信できない。)。

当時自らが負つている嫌疑事実の重大さは北野も知悉していたはずであつて、直ちに前記弁解に及ばなかつたばかりか、かえつて積極的に虚偽事実を開陳していた事実は、北野の供述の真し性を判断するに当たつてはマイナス要因と解する方が自然ではあろうが、仮に弁解が真実であるとすれば、なお誤信が継続しておりしかも長野での件は警察ざたに発展したのでできるだけ伏せようとしたことから、前記のとおりの態度を示したと解する余地もなお残されているのであつて、この事情のみで断定するのは困難である。

(二) 三月二九日、三〇日の供述

三月一〇日の後しばらく取調べが中断していたが、同月二九日になつて北野は、富山県警察の広瀬吉彦警部に面会を求め、その結果、三月二九日と三〇日の両日同人の取調べを受けることとなつた。その際の供述は、富山、長野両事件に対する関与を否定する点においてはそれまでと変わりないが、二人とも無実であるとの従前の態度を変更し、宮﨑の行動上の不審点を指摘することにより、同女の事件関与を示唆する姿勢に転じている事実が注目される。

具体的にどのような不審点が挙示されたのかについては後述のとおり争いがないわけではないが、証拠上明白なものとして、まず富山事件関係では、事件発生直前における宮﨑の金沢行き(<証拠>)、二月二六日におけるZの汚れやその後の宮﨑の発言内容(3.29員面乙九三)、三月一一日における宮﨑からの虚偽事実の供述依頼(3.30員面乙九四)があり、長野事件関係では、旅行中の宮﨑の怪しげな行動数点(右乙九三)が供述されている。

これだけの事実では、北野が宮﨑との共同歩調から離脱した原因が明らかとならないことは言うまでもないが、その点の判断材料として、更に次のような問題点を指摘することができる。

第一に、第一部の説明の冒頭にも記したように、三月二七日に長野県警察は公開捜査に踏み切り、誘拐事件の概要が報道されるところとなつたが、北野もテレビニュースでこれを知つたこと、報道によれば高崎における誘拐犯人(女性)の行動状況が自分達のそれと酷似していたことは北野自身が公判廷で自認している(九八回、九九回供述等)。

ここで、仮に北野が共謀に加わつていなかつたとすれば、宮﨑に対する疑念を深めるばかりでなく、自己の立場が危ういことにも気付き、行動に関する弁解にこれ努めるのが通常であろう。ところが、この時期に作成された前記各調書には、不審点の指摘がなされているだけで、(一)に掲げたような弁解は一切記載されていないのである。

もつとも、北野の公判廷における供述によれば、特に長野事件における政治資金話や、同事件に関する宮﨑からの口止め工作等については捜査官に供述したとされており(<証拠>)、三一日の長野における取調べでは確かに政治資金の弁解を供述していることに徴すると、一概に排斥できない面もあるが、少なくとも、富山事件が発生していた二月二三日以降の宮﨑からの電話は金沢の土地の件であつたという法廷での主張事実が全く供述されなかつたことに争いはない。この点に関し北野は、四月二一日に長野から富山に身柄を移されるまでこのことを思い出さなかつたとするが(九八回供述)、前記3.30員面には北野本人の作成にかかるその当時の行動表が添付されていることに照らすとにわかに信用し難く、北野に対する疑いを抱かせる一事情と解するほかはない。

他方、第二に、この時期における宮﨑の供述状況と対比して考察すると、同女の方は三月三〇日の時点でやや不鮮明ながらも北野との共謀を認めるに至つていたのであるから(第三の記述参照)、北野は一方的に宮﨑との共同歩調から離脱したことが明らかである。ところで、三月一〇日の取調べの後も北野と宮﨑が頻繁に電話等で連絡を取りあつていたことは双方が公判廷で認めるところであり、北野が捜査官に宮﨑の不審点を供述し始めた二九日の夜にも話し合つた可能性が高い(もつとも、宮﨑は一旦三三回公判でこれを認めた後、六四回で否定する。)。そうした話合いにおいて二人が衝突し袂を分かつた形跡はないのであるから、北野が仮に共犯であつたとすると、宮﨑には何気なく振る舞う一方で、捜査官に対しては宮﨑に全責任を押し付ける責任逃れの供述を行つていたと解するほかないが、そうしたしたたかな打算に基いた行動が執られていたとの理解は、(検察官も自認する)両事件に対する北野の消極的姿勢や、逮捕直後の北野が示した宮﨑に対する両面価値的心情とはいささかそぐわないものであることが否定できない。

このような諸点を彼此勘案するときは、結局この時期の供述状況からは、北野の有罪性の有無を判定するのに有用な確たる事情は導き出せないと結論付けるほかはない(なお、検察官は、この時期にC山事件に関する供述があり、供述経緯の自然性を全体的に評価する上で問題となる旨主張しているが、この点については、後に独立した項目として触れることにする。)。

(三) 長野における供述

(1) 本件訴因に合致する自白に至るまでの経緯

ア 完全否認時期(三月三一日から四月五日まで)

長野に護送された当初のこの時期は、前同様に否認の態度が維持されていたが、その間の供述状況では、次の二点が注目される。

第一に、この時点で北野は、公判廷における弁明内容に沿つた形で、宮﨑から持ち掛けられた金儲けの話の数々を説明しようとしていたことが明らかである(マイクロカセットテープ乙一〇九、一四〇回遠藤定彦証言甲一二〇三)。

ところが、取調担当者は、「雲をつかむような話」(前記遠藤証言)、「一〇〇パーセント信用できない」(一四一回宮﨑恪夫証言甲一二〇四)といつた印象で北野の弁解を受け止め、その結果、これに十分耳を傾けてその矛盾等を逐一突くという方法で尋問が進められず(3.31員面乙七九、4.4員面乙八〇中弁解に係わる記述は驚くほど簡潔である。)、もつぱら宮﨑との従前の関係、長野への同行事実を根拠にして、共謀がなかつたはずはないという角度からの追及に終始していたことが強く推認されるのである(前記カセットテープにおける遠藤警部の「だから結局君が加担をしたということだろう。心の内に、夫婦のような間柄の人が以心伝心でさあ。」との発言は、まさにその事情を物語つていると言えよう。)。

このような尋問は、場合によつて被疑者に理屈を押し付ける結果を引き起こしかねない危険性があり(事実、3.31員面乙七九は、「この事件に私も加担したことになり」という、不適切な表現で締めくくられている。)、少なくともこうした尋問を一定期間継続した点で、真相解明のための捜査方法として不相当な面があつたとのそしりは免れ難いであろう。

第二に、三月三一日の段階で北野は、自分を巻き込んだ宮﨑を悪魔であると非難する一方で、「こんな目に遭つてもうらみ切れない、別れられない。自分が金々と責めた挙げ句に、宮﨑は私のために犯行をやつてくれたんだ。」旨捜査官に訴えていたこと(前記カセットテープ等)が認められる。

北野が共謀のみに関与したことを奇貨として自己の刑責を免れようとしていたとすると、このような言辞はいささか不自然ではないだろうか。利用されたことを知りつつなお未練の思いを告白することにより一貫性を欠くとの印象を第三者に与えることは十分予測できるであろうし、自分のために犯罪を犯したことを認めれば、知情の点で更に追及を受けることは火を見るより明らかなのである。しかも、このような言動で捜査官の追及をかわそうとしていたと仮定すると、次の段階で一転して前非を悔いる態度を示すに至る心理的過程についてもいささか説明に苦しむことが避けられない。

イ 過剰自白時期(四月六日)

北野は、四月六日に宮﨑恪夫警部の取調べを受けていた際、自分がB子を殺害したことを認める自供書を作成した(4.6自供書乙一一〇、一四一回、期日外宮﨑恪夫証言甲一二〇四)。

この自白が客観的に偽りであると認定できる刑責までを自認している点で、まさに過剰自白と表現するのが適切な内容となつていることは、訴因変更後においては検察官の側にも異論がない。そして、この供述を契機にして、その後の供述が全面自白への道をたどることになつたこともまた明白である。

このような場合、そのこと自体で既にその後の自白の真し性が動揺することは避けられないであろうが、更に、具体的なその際の状況を検討すると、「朝から被害者の家族の心情を前面にした説得を続けていたところ、北野は、歯をガリガリさせながらしやくにさわつたという態度で、「俺は責任を取つてやる。」と言つて右供述書を書き始めた。」とされているのであつて(前記宮﨑恪夫証言)、そこには反省悔悟の情などはいささかも窺われない。むしろ、心情論によりかかつて改悛を求めようとする捜査官の態度に対し、弁解が聞き入られないため自暴自棄になつた北野が突如前記行動に走つたという過程をかなり明瞭に読み取ることができるのである(ちなみに、検察官は、この供述も北野が共謀していたことの証左であると位置付けているようであるが(論告要旨一四七頁)、いささか飛躍した議論であると言うほかはない。)。

ウ 一部自白時期(四月七日から同月一一日まで)

この時期北野は、三月七日投宿した池袋のホテル「安田」で宮﨑からB子誘拐の話を聞き、みのしろ金要求に加担した旨の供述をしている(4.7員面乙八一、4.8員面乙八二、八三、4.9検面乙九一)。

富山、長野と犯行を続けた宮﨑がこの時点になつて初めて北野に事の子細を打ち明けるというのが不自然であり、このことだけとらえても、供述内容をそのまま肯定することができないことは明白であろう。

問題は、何故過剰自白に引き続いてこのような供述が現れたかにあるが、この点検察官の見解によれば、追及を受けて弁解を維持することが困難になつた結果、全面的な真実の吐露に至る中間点として部分的に自白を開始したものと位置付けていることが明らかであり、前記宮﨑恪夫証言(期日外)もそれに沿つた印象を述べている。

しかしながら、北野は、裁判で自分の刑がどの位になるのかを再三取調官に質問した上で右の供述を始めたものであり(前記宮﨑恪夫証言)、具体的な事実関係に関して弁解に窮したといつた状況は全く認められないし、現に調書中では、以前から宮﨑は詐欺による儲け話をしており、今回も長野で男と会つて大金を入手できると聞かされていた旨の従前の弁解がそのまま維持されているのである(前記乙八二)。更に、供述するに至つた心境を説明した調書部分(前記乙八三)をみても、良心が許さなくなつたなどという、一部自白にとどまる供述内容には対応しない理由が並べられている上に、否認を続けてきた理由として、宮﨑をかばう気持ちがあつたからとか宮﨑と隠し通そうとの相談をしたからといつた受け入れ難い説明((二)の項参照)が挙げられていることをも併せ考えるときは、前記自白中共謀を認めた限度でのみ真し性を見いだすことは到底困難であり、むしろ北野の心境は前記過剰自白の際の延長線上にあつたものと理解される。

(2) 本件訴因に合致する自白をした際の状況

ア 自白を開始した際の具体的状況

北野は、四月一二日に長野事件に関する事前共謀の事実を全面的に認めるに至り、同月二〇日まで同趣旨の自白調書が作成されている(前記宮﨑恪夫証言、一四四回、期日外等横畠裕介証言甲一二〇七等。なお、北野は、一一八回供述において自白開始時期は四月一三日であると主張しているが、特にこの点が以下の議論を左右するものではない。)。

自白が開始されたのは長野中央警察署における宮﨑恪夫警部の取調べの際であつたが、その具体的状況について同人の証言をみると、朝から被害者の家族の心情等を話して説得していたところ、北野が「今まで嘘を言つておりました。」と言つて号泣し始め、一旦帰房させた後の午後からの取調べにおいて、「刑はどの位になりますか。本当のことを話す。それについて弁護士を頼んでください。」などといつた発言をした後、全面自白に及んだと説明されている。

この状況を前提に、検察官は、供述に至る経緯の自然性を力説するのであるが、以下に述べる理由によつて、この見解には到底与することができない。

まず、右の証言内容に限つて言つても、反省、悔悟によつて号泣した者が、真実の告白に及ぶ前に刑期を気にする発言をするのは解せないし、弁護人を選任すると言うのも不自然である(その後の4.16検面乙二二では、事件の責任を取る覚悟をしたので弁護士はいらない旨が録取されている。)。

しかも、このときの捜査官の追及・説得の手法は、専ら北野の情緒面に訴えかけて自白を引き出そうとしていた点で、前述のイ及びウにおいて少なくとも一部に虚偽を交えた不利益供述をした際と基本的に何ら変わつていない。当初の否認段階からみると、北野の供述内容が捜査官の心証に向かつて段階的に近付いていつたことは間違いないが、それが同時に、北野において真しに胸襟を開いていつた過程でもあると解してよい状況的な保障は何もないに等しいのである。

イ 真し性を疑わせるその他の事情

① 刑罰に対する認識

前述したとおり、北野は、一部自白をしたときも全面自白に及んだ際も、自己の刑に関心を示していたことが認められるが、宮﨑恪夫警部は、一部自白供述の直前に北野が二〇年か、一五年かというしぐさをした、こちらからは何ら応答していないと証言し、一方北野は、三年以上にはならないと同警部から言われた旨述べて(一一八回)、供述が対立している。

任意性の判断でも示したように、捜査時期に関する北野の公判供述には誇張等も見受けられるので、これを全面的に信用することはできない。

しかしながら、他方、宮﨑恪夫証言についても、富山に身柄を移されてから弁護人と接見した際の北野の発言内容を検討すると、「下手したら五、六年食うかもしれない。もつと低いかもしれない。」「何十年食らうつもりはない。だけど、数年位は食らつてみたい。」「二、三年とは考えていない。五、六年になりますよ。」などとおよそ見当外れの認識を繰り返し述べているが(録音テープ弁四九〇、反訳書弁五一二〔北野関係のみ〕)、こうした認識が富山に移つてから初めて形成されたとは考え難く、長野における自白時の理解でもあつた疑いが濃厚であつて、右証言が北野の発言等の全容を伝えているとは解されない。

このような誤まつた認識を北野が抱くに至つた原因は判然としないが、その点を度外視しても、自白をした場合の自己の受けるべき刑に対してこのような著しい誤認があつた場合には、虚偽の自白が誘発される危険性を無視することはもはや許されないであろう。

② 勾留質問の際の供述

北野は、四月二〇日長野事件で公訴を提起され、同時に、殺人、死体遺棄について新たに勾留質問が実施されたが、その際には事前共謀に関する供述を拒否する態度を示している(弁五〇七〔北野関係のみ〕)。

勾留質問の直前には、共謀を認めた調書が作成されているのであつて(4.20員面乙八九)、その後に特段の事情の変化があつたという検察官の主張はなされていない。したがつて、この間の事情を説明するためには、相手が捜査官から裁判官に変わつたことにその理由を求めるほかないが、このような場合、それ以前の捜査官に対する供述の信用性が低下する結果となることは避けられないであろう(なお、一七〇回黒田勇証言弁四九七〔北野関係のみ〕等によれば、右の質問には北野の母親が選任した弁護士が立ち会つたことが認められるが、事前に北野と接見を行つた形跡はないので、特に北野に不利益に考慮すべき事情とは言い難い。)。

ウ 自白するに至つた真の原因

① はじめに

これまで述べてきた諸事情のみによつても、北野の全面自白の信用性に関する検察官の立証が尽くされていないことはほぼ明らかであると思われるが、北野及び弁護人の側からの主張として、宮﨑と夫婦同然の生活をしていた点で男としての責任を取らなければならないとの不当な追及が行われた結果、やむなく自白するに至つたものであるから、信用性は欠如している旨の指摘がされており、また、自白に至つた原因の究明は、引き続く富山事件の自白の信用性を判定する上においても少なからず意義を有していると考えられるので、反省、悔悟以外に、自己に不利益な事実をあえて承認するに至つた原因・動機があるかにつき、更に検討を加えることとする。

② 全面自白以前の供述の分析

事件発生当時における二人の関係に徴すれば、両名の共謀の有無に関する判断をさておいて考えても、宮﨑が当初の目的どおり大金を入手することに成功した場合に、北野もその利益を享受したであろうことが十分に予想されるところである。したがつて、北野が真に共犯であるか否かにかかわらず、逮捕後宮﨑に対して、愛人関係にあつた男としての心理的な負担を抱いていたことも疑いがなく、その意味からすると、(1)のアで指摘した逮捕直後における北野の発言は、自己の感情の率直な表出であつたと考えられる。また、北野は富山から長野に押送される途中見物人から罵声を浴びているが(前記遠藤証言)、このような世間の指弾に対しても、宮﨑に対する感情と密接に結び付いた負い目の念が生じたことは想像に難くない。

一方、取り調べる側においては、宮﨑との行動状況からみて嫌疑は相当濃いものの決め手となる証拠を欠いていたため(宮﨑も北野との共謀を否認していた。)、愛人の意図に気付かなかつたはずはないといつた議論にわたる追及を続けたり、被害者の家族の心情といつた多分に情緒的な面から説得するなどの尋問に依存していたことは既に(1)の中で指摘したとおりであるが、ここで見落とすことができないのは、このような追及・説得は、こと北野に関する限り、前記心理状態の弱点を突くことになる点で、無視できない効果を有していたと考えられることである。

以上の考察を前提に考えると、四月六日から一一日までの間において、六日は感情的に反発し、翌日以降は捜査官の説得をある程度受容するところとなつたという差異はあるものの、いずれも心理状態と尋問方法との間にこのような呼応関係が機能した結果として、心理的負担が増大し、これに耐えられなくなつた北野が、その重荷から逃避する目的であえて不利益供述に及んだ疑いが極めて強いと言うことができる。

したがつて、このような動機から供述がなされた場合においては、北野が共謀に加わつていたことが不可欠の前提とはなつていないため、録取された文言上では犯罪事実(共謀)を承認しているようにみえても、実体としては、愛人関係にあつた女性が利得目当てに犯罪を引き起こし、その間行動を共にしていたことに加え、利得は自分にも還元される可能性が強かつたことに対する道義的責任の承認にとどまると理解するのが穏当である(この時期北野が「道義的責任」「男の責任」という言葉を口にしていたことは、捜査官自身が認めるところである(期日外前記宮﨑恪夫証言)。)。そして、このような場合、具体的な犯罪事実(例えば、共謀形成過程)についての供述に変遷や不自然さが認められても何ら不思議はないことになろう。

③ 全面自白供述の分析

このような北野の心理状態及び尋問方法については、全面自白をしていた時期においても基本的に変化はなかつたものと言わざるを得ない。

すなわち、例えば、4.16検面乙二二の中では、「殺したのは知子の方です。もちろん私自身この誘拐殺人身代金強奪計画をあらかじめ承知しながら知子と一緒に行動していたのですから私がこのB子さん殺しについて直接手を下さなくとも知子と同じ責任がある事は判つています。B子さんはじめその家族の人達の気持ちを考えると私の胸は痛みます。」「私自身の良心にはじないように私の責任をとらなければならないと考えます。」旨が録取されている。これは、表面的には共犯者としての反省の情を明らかにしているようにも読めないわけではないが、自白内容を検討した際に詳述したように、北野の事実関係に関する調書における供述には曖味な点が少なくないことを併せて考えると、この調書で北野が強調したかつたのは、共謀の承認ではなく、前述したような心理状態に基づく責任感の表明であつたことが強く推認されるのである。

更に、各捜査官の証言によつても、この時期のみ尋問方法を変えた旨の供述は全然ないし、前記一部自白は到底信用できないものと受け止められたことに疑いの余地はないから、情緒的な面からの説得が一層強固な形で続けられていた可能性が高い。宮﨑恪夫証言によれば、長野事件とは何の関係もない男女の愛情が絡んだ殺人事件が話題にされていたことが認められたが、まさに右のような趣旨で用いられたと考えるのが最も自然である。

このような状況に照らすときは、全面自白がなされた時点において、それまでの北野の供述態度に断絶が生じたわけではなく、心理的な負い目に動機づけられた道義的責任(北野の言う、「男の責任」)を一層徹底した形で承認する趣旨から供述が行われた疑いが極めて強いと言わざるを得ず、このような理解に立つことより、前述した自白内容の不合理性や変遷が生じた理由も無理なく説明することができるのである。したがつて、②で指摘したところと同様の理由により、自白中で述べられた事実に関してその真実性を担保するに足る状況的保障が乏しいことは言うまでもないし、更に言えば、責任を認めながらそれが具体的共謀事実に対する承認を含んでいないという点で、北野が真に共犯者であつたかについて積極的な疑念が生じることももはや避け難いところである。

なお、富山における弁護人との接見に当たり、北野はしばしば長野での取調べに言及しているが、いずれも前記認定を支持こそすれ、これを左右する内容のものは見当たらない(例えば、録音テープ弁四九四、四九五、反訳書弁五一六、五一七〔北野関係のみ〕)。

(四) 富山における供述

(1) 四月二一日から同月二六日までの供述

この時期北野は、富山事件について全面的に否認し、右事件当時宮﨑からは、金沢の土地を詐取する話を聞いていたという公判廷での弁解と同旨の供述をしていた(具体的内容については、4.24自供書乙一一一が詳細である。)。

この時期の供述の特徴としては、第一に少なくとも事前に誘拐話を相談したことはあるとしていた長野における供述を全面的に翻し、「たとえ血へどを吐こうともやつていないものはやつたとはいえない。」(4.21員面乙六三)、「私の身の覚えのないことです。」(4.24質問乙六五)などと強く否認する態度を示す一方で、「全部について私が関係ないということは云えないということです。」(4.23検面乙六四)などといつた心情も吐露していることを指摘することができる。長野における供述の底流にあつた道義的責任に対する思いがなお富山においても強固に残存していたことが窺われるのである。

第二の特徴として、所詮自己の弁解を理解してはもらえないという無力感の存在が挙げられる。すなわち、北野は、否認する旨を明らかにしながら、「この事件についてわたしはなげすてでございます。私の言い分は言い分として、知子の言い分に重点をおかれて、私を知子と同罪にしていただいてけつこうです。」(前記4.21員面)などと供述したり、取調官広瀬吉彦警部に、「俺が何もやつていないことを分かつてくれれば責任を認めてやつてもよい」と語つた(一四六回同証言甲一二〇二)ことが認められるのである。長野における自白を最終的には覆す態度を示し、富山に来てからも、「長野の警察と検事には、やつてもいないことをやつたように言わされた。」(前記広瀬証言)などと長野における取調べに強い不満を表明しているにもかかわらず、右のような発言がみられるのは、北野の計算による演技と解する余地はもはやなく、文字どおり自暴自棄感の現れと理解するほかないのである。

(2) 四月二七日から五月一日までの供述

ア 四月二七日の自白

① この日北野は、富山事件について自白を始めたが、その内容は、かねて二人で誘拐を試みていたが失敗に終わつていたところ、二月二二日ホテル「プラザ」において宮﨑から金沢の男が共犯として関与していると聞いた。二月二三日午後一一時か一二時に宮﨑から電話があり、金沢で若い女の子の誘拐に成功した旨告げられた、その後も何度か連絡を受けたが、二六日朝に北陸企画に赴いたとき初めて、富山駅で誘拐した八尾の高校生を殺害したことの告白を受けた旨の記載となつている(4.27員面乙六九、六八)。

② 右の供述内容をみると、金沢が誘拐の舞台となつたという虚偽事実を宮﨑から聞かされていたとの部分が到底信用し難いことは説明を要さないであろう。そして、重要なことは、このような説明によつて、北野あるいは宮﨑の刑責に影響が生じる可能性は考えられず、北野の供述の動機自体について不自然さがつきまとつていると評するほかはないのである。しかも、金沢の男が介在している点、二三日に電話のあつた時刻等の面で、北野のそれまでの弁解と相通じるところが少なくないことが注目される。

③ 次に、供述状況の検討に入ると、この点に関する証拠の第一として、取調べに立ち会つた広瀬警部の説明を取り上げれば、概略次のとおりである。「二七日の取調べ当初北野は、「俺は、宮﨑の調書で死刑になる。」などと言つて荒々しい態度を示していたが、被害者の両親等の心情を訴え説得したところ、号泣を始め、正直に話すがその前に聞いてもらいたいことがあると言つて、妹の結婚の世話等を依頼してきた。自分は請け合わなかつたが、やがて北野は自白を始めた。」(一三九、一四六、一四七回同証言甲一二〇二)。

右の証言がいきさつをすべて明らかにしているかは北野の側に争いがあるが、今この点をさておいても、次のような指摘が直ちに可能であろう。

すなわち、右証言中号泣したとの部分を検察官は重視し、真実の吐露があつた一証左と目しているようであるが(論告要旨一四五頁)、仮にこの事実が存在したとしても、北野の場合そのことが真し性を保障する要素にはなり得ないことは、既に長野における自白の項で触れたとおりである。むしろ、右の証言では、追及の方法として被害者家族の心情が全面に出されている点で、長野における尋問がそのまま踏襲されていることを見逃すことができない。

次に、北野の側の当時の心境を物語る証拠を摘示すると、前記4.27員面乙六九によれば、「私は、この事件に全く関係がないといつていました。しかし、よく考えてみますと、それでは死んだA子さんや残されたご両親の心情を考えてみますと、申し訳ない気で一ぱいで、私は、私なりに責任をとるべきだと考えて、これから私の行為について申します。」と録取されているが、これまでの検討結果を前提にした場合、そこに道義的責任の自認は容易に読み取れても、刑事責任を構成する共謀事実を承認する態度としてはいささか不自然な文脈が見いだされるように思われるのである(北野の心情に関しては、同日の夜の接見の際の同人の発言もこれを裏付けている。録音テープ弁四九〇、反訳書弁五一二〔北野関係のみ〕)。

④ このように、北野の側の道義的責任感、捜査官側からの心情論的追及という図式が認定できることに加えて、北野が自己の受けるべき刑を不当に軽く考えていた事実も窺われ(前記録音テープ等)、結局、長野における取調状況が再現されていると言つても決して誇張とは言えないのである。

もつとも、長野の自白は最終的には動揺しており、捜査官に対する不信感を抱いていたはずの北野が同じパターンで自白を繰り返したというのはいささか不自然であるとの疑問も一応生じないわけではない。しかしながら、北野の不信感が徹底した反感には直結せず、自暴自棄の感情にもつながつていたことは前述したとおりであるし、更に、本件の場合北野が供述する誘因となつた可能性のある新たな事情として、妹の結婚の世話を約束してくれたものと北野が考えていた事実を指摘することができる。自白調書の証拠決定に際して述べたとおり、取調官が確約したかははつきりしないが、少なくとも北野自身はそのような約束を得ていたと信じていたことに疑いはないのであつて(期日外德永勝証言甲一二〇八、前記録音テープ等)、このような動機に裏打ちされた供述に虚偽の不利益事実が混在する危険は軽視できないであろう。

⑤ なお、検察官は、北野が真しな反省に基づいて自白をしたことを推認させる事由として、当日自白調書を録取した後(弁護人の接見を経て)、自ら進んで被害者の遺族等に謝罪する供述書を作成した事実(前記広瀬証言、4.27自供書乙一一五)を指摘する。

しかしながら、右書面においては、具体的な犯罪事実の承認が一切ないままに謝罪に終始しているのであつて、いささか奇異な印象を免れず、自白することによつて道義的責任を認めたのに過ぎないのではないかという前記の疑念を強めこそすれ、これを解消するには程遠い内容である。また、北野が自ら申し出て作成したとの点も、同書面が刑の軽減を嘆願する趣旨で締めくくられている点に鑑みれば、直前の接見の際に弁護人から予想以上に刑が重くなる可能性を教えられ(前記録音テープ等)、不安になつたことが動機になつたと理解することが十分可能である。更に、翌二八日の北野の様子について、一日中泣いており専ら宮﨑に対する恨みの念や刑務所暮らしへの嫌悪の情を並べるばかりで、取調べにならなかつたことが明らかにされており(前記広瀬証言)、反省、悔悟した者の翌日における態度とは到底解されず、検察官の主張は根拠が希薄である。

⑥ 以上の検討結果を総合すれば、二七日における北野の自白状況に関して、供述内容の真実性を担保するに足りる事情は認められず、かえつて、長野における供述との連続性から言えば、虚偽の不利益事実が述べられた疑いが濃いとの結論を引き出すことができる。

イ 四月三〇日の自白

北野は、三〇日になつて再び態度を変え富山事件の事前共謀を認める旨の供述をしており(4.30員面乙七一)、その内容をみると、前記二七日における自白中、宮﨑が金沢の男と共謀し金沢で誘拐した旨聞いていたとしていた点及び二三日夜宮﨑から電話のあつた時刻についての記述は修正され、当初から富山で誘拐があることは分かつていた、電話は午後八時三〇分か九時頃「銀鱗」にいると言つて掛かつてきた旨の録取となつていて、これらの点で宮﨑の供述と齟齬する点は解消されている。

しかしながら、金沢の男、金沢での誘拐といつた供述がなされた理由を説明する部分は曖味で納得できるものでないことが明白である。また、電話の時刻については訂正理由が記載されていないことに加えて、この日「宮﨑がどんなことを言つているかお前知つているか。」との発言を北野に対して行つたこと自体を広瀬警部が自認していること(前記広瀬証言。ただし、具体的事項にわたるものではなかつたと言う。)に照らせば、誘導が行われた可能性も否定できない。

更に、供述状況をみても、「北野は「宮﨑の話だということで俺を責めるな。」と抗議していたが、疑問点を突いていくと、「おつしやることがよく分かりました。」と言うので、「分かつておらんよ。」と更に追及したところ、机上のわら半紙に「分かりました。」と鉛筆で書いてきゆつと丸を打ち、その後自白した。」との説明(前記広瀬証言)の中には、真しな反省の態度を窺うことは困難である。また、みのしろ金受け取り方法に関する供述が余りに信用し難いので当該部分の調書を抜き取つたというエピソードも、真し性を更に疑わせる事情に数えることができよう(前記3の(二)(1)ア参照)。

以上によれば、この日における北野の自白状況について、それ以前の不鮮明さを断ち切り、内容の信用性を肯定すべき新たな事情が発生した跡は全く窺われない。

(3) 五月二日から同月五日までの供述

この時期北野は、再度否認に転じ、公判廷におけるのと同様の弁解を供述していた(一四五回、期日外德永勝証言甲一二〇八)。

特に、五月四日の広瀬警部の取調べの際には、「無実の旗をしつかり掲げる。自分は責任があると思つて共謀だけは認めた。知子が哀れだと思つていた。今日からこの思いはすつかりふつきる。共謀だけならいいが殺しまで俺に負わせようというのか。そういう真実を見抜かん警察や検事にはもう何も言うことはない。警察、検察のやり方は汚い。」等放言して敵対的な態度をあらわにし、同警部がこれをたしなめたことに激昂して殴り付けようとするなど、単なる否認にはとどまらない感情的な姿勢が顕著であつた(前記広瀬証言)。

ここで再度否認に転じた理由を考えると、四月三〇日夜に弁護人と接見をしたことがきつかけになつていることは否定できないが、捜査機関に対する右のように強烈な敵対心が突如形成された原因はこれによつては説明できない(前記録音テープによれば、接見の際に読み上げられた母の手紙の中に、警察に対する感情的な言辞が一部見受けられるが、接見状況全体としては、北野の感情を煽つた形跡は全くない。)。その探究に深入りすることは避けるが、前記発言内容に加えて、五月三日の接見状況(録音テープ弁四九二、反訳書五一四〔北野関係のみ〕)に徴すれば、共謀まで認めた北野に対し、捜査官の方が宮﨑供述の内容を告げて殺害等の実行の点を追及した可能性が高く(右認定に反する前記広瀬証言は措信できない。)、これに北野が強く反発したと解する余地が十分にある。

(4) 五月六日、七日の供述

五月六日に至つて、北野の態度に再び変化が生じ、富山事件の事前共謀を認める調書が作成された(5.6検面乙一六)。

しかしながら、右調書は、二月二三日午後九時頃誘拐の成功を「銀鱗」から知らせる宮﨑の電話があつたところで中断しており、これに続く内容を録取した調書が作成されることはなかつたのであつて、自白調書とは言つても甚だ不十分なものに過ぎない。

しかも、自白に転じた状況を捜査官の証言によつて再現すると、「家族のために認めるわけにはいかない。」として否認していた北野に対し、被害者の親等の心情を考えてみるように言つて広瀬警部が説得したところ、「正直に話せば必ず有罪になると思う。刑務所に入るには心の支えが欲しい。母が自殺しない、妻が待つていてくれるという支えが欲しい。家族がしつかり生きるように刑事さんから言つてください。」と応答してきたので、同警部が「時間が来れば話す。」と答えると、態度が軟化し、「検事さんに会つて話したいことがある。」と言い出した。捜査本部からの連絡を受けて上市警察署を訪れた德永検事に対して、「済みませんでした。母が自殺し、妹が結婚できなくなり、妻とも離婚することになるので、これまで本当のことが言えなかつた。しかし、被害者やその家族のことを思つて自供する。」と言い、号泣した後事前共謀を認めるに至つたとされている(前記広瀬、德永証言)。

こうした状況はそれだけを切りとつてみれば著しく不自然とも言い難いが、これまでの度重なる変転の状況を前提にして考察するときは、もはや真実性が保障される経緯とは解されないことについて、多くの説明を費やす必要はなかろう。

しかも、見過ごすことのできない不審な点はやはり散見されるのであつて、例えば、二月二四日以降の事実関係については、二、三日待つて欲しいとのみ言つて供述をためらつたため、前記調書が中途半端なものに終わつたこと(翌七日も同様の態度が維持されて、その後自白が翻された。)や、警察官の取調べで意思が変わつたのに、供述は検察官に対してのみ行われたことについて合理的な説明は困難であろう。

また、反省、悔悟とは別個の観点から自白がなされた疑いを示唆する事情も認められる。すなわち、既に宮﨑によつて北野殺害実行供述がされている事実をこの時期に捜査官から北野が聞かされていたことは確実であり、これ以上不利な立場に追いやられることを懸念して従前の供述を繰り返した可能性が否定できないところ、五月六日の接見状況はまさにこの点をめぐる北野の発言を伝えており(録音テープ弁四九三、反訳書弁五一五〔北野関係のみ〕)、その疑いは濃厚になるばかりである(もちろん、真に共謀のみに関与した者であつても、右の議論が一応は妥当するが、そうであれば、自白理由にその点が当然に挙示されてしかるべきであろう。)。

更に、後に五月八日の德永検事の取調べにおいて、再度否認に転じた理由を尋ねられ、妹の結婚話等で広瀬警部にだまされた旨訴えたこと(前記德永証言)からすると、既に当日の自白に際して問題を指摘した点が、尋問の過程で再燃した疑いも消すことができない。

(5) 五月八日から同月一三日までの供述

北野の供述はこの時期に否認の態度に復し、公訴提起を迎えることとなつた(5.13検面乙二〇等)。

この時期の供述中で、二月二五日早朝に北陸企画事務所に出掛けたことを認めるに至つているが、信用性に乏しいとともに、誘導に対する北野の脆弱性が窺われることは既に指摘したとおりである(3の(三)(2)ウ)。

その他に注目される事実としては、この最終否認の時点においても、勾留理由開示手続に際して、無実を訴える一方で、無罪になろうと思わないし無罪の気持ちはないなどと述べていることが挙げられ(勾留理由開示調書弁三六九〔北野関係のみ〕)、北野の道義的責任感がいかに根強いものであつたかを窺い知ることができるのである。

(6) まとめ

これまで詳述してきたことを要約すると、北野の富山における二度にわたる自白の状況は、いずれも基本的には長野における場合と異なるところはなく、具体的な共謀事実の承認部分に真し性は認められず、誘拐殺人犯と愛人関係にあつた男としての道義的責任を引き受ける行為として供述がなされた疑いが極めて高い。ただ、長野の場合と若干の差異を認めるとすれば、富山においては、自己の家族への配慮を捜査官に期待したり、宮﨑からの実行正犯の押し付けを懸念するといつた心情が、供述の動機を形成する要因として加わつたことが考えられるが、いずれにせよ、供述状況によつて自白内容の信用性を補強しようとする検察官の主張は到底受け入れ難いと言わざるを得ないことになる。

なお、富山における取調べ期間中は、弁護人が合計八回にわたつて接見を行つており、そのことは、一般的に言えば、自白供述の信用性を高める事情として分類することが可能であろう。しかしながら、テープに録音された会話中には、北野が共謀事実を認めて反省の情を示しているものは一切見当たらず、既に各所において叙述したように、信用性を否定する当裁判所の認定を補強する意義しか有しないものと解される。

(五) C山事件に関する供述について

(1) はじめに

これまでの考察により、富山、長野両事件を判断する上で必要な北野供述の主要な論点の検討はほぼ終了したことになるが、残された問題点として、C山事件についての供述をめぐる検察官の次のような主張について付論することとする。

① 北野が長野事件を自白するに至つた経緯をながめると、当初自己及び宮﨑の犯行関与を否定していたが、取調官に不審点を追及されてまず宮﨑の犯行であることを示唆するとともに、殺人の結果が発生しなかつたC山事件への自己の関与を三月三〇日に認め、更に、反省、悔悟の念から全面的に宮﨑との共謀を認めるに至つたという一連の流れを見いだすことができ、全体としてその経緯は自然である。

② C山事件に関しては、三月三〇日以降五月一三日の富山事件の起訴まで終始一貫して自白が維持され、また、弁護人の接見の際にもこれを認める発言がなされている状況を併せ考えれば、右自白に基づいて北野の同事件への関与を肯定でき、この事実をもつて更に、富山事件、長野事件での共謀事実を推認することも可能である。

(2) 本件各公訴事実とC山事件の関連性

検察官の前記各主張は、C山事件が本件各公訴事実(富山事件、長野事件)と密接に関連し、一連の犯行との評価が可能であるとの理解に基づいた立論と考えられるので、まず、この点についてあらかじめ触れておくこととする。

C山事件に関する宮﨑の具体的な行動は第一部で既に認定したとおりであるが、同事件と本件各公訴事実とは、他人の生命を手段としこれを犠牲にすることによつて自己の財産的利欲を満足させるという凶悪性において共通性が認められるものの、犯罪類型としてみれば異なる点も少なくないし、しかも、時間的に半年以上もの隔たりがある。

したがつて、宮﨑が昭和五四年頃から大金入手のためには人間の生命さえも省みないとの決意でC山事件を実行しようとしたが不首尾に終わつたため、新たに誘拐を思い付いたという限度では、本件各犯行との間に関連性が肯定できるものの、論理的必然性がないことはもちろん、富山事件と長野事件との間のような犯罪の一連性を見いだすことも困難である。

そのような点からすると、検察官の前提自体直ちに首肯し難いものがあるため、北野のC山事件についての自白を、富山、長野両事件の自白と別個に扱うこととしたわけであるが、以下においてその供述経緯、信用性を判断した上で、それが本件各公訴事実の認定にどのような影響を与えるかを述べることとする。

(3) C山事件の供述状況

ア 四月一一日まで

前記検察官の主張中三月三〇日長野事件により逮捕される直前の任意の取調べの際に、C山事件、すなわち山中及び海水浴場における殺害計画の事前共謀を北野が全面的に自白していたとする点については、以下に述べるように、これを肯認するに足りる証拠はなく、四月一一日までは右のような供述をしていた状況を認めることはできない。

まず、三月三〇日の取調べの際の状況について、取調官広瀬警部は、当時自分の把握していなかつたC山事件の全体に北野が関与していたことを自発的に供述したので、この件を捜査本部の大澤秀策参事官に連絡したとしており、同参事官もこれに沿う供述をしている(前記広瀬証言、一四八回大澤秀策証言甲一二五四)。

しかし、前記大澤証言によれば、この時点までにC山事件に関する捜査は既に進行しており、○○××からの聞き込みを端緒として、保険外交員及びC山一男の事情聴取を経ていたほか、更に、三月二四日付けで保険会社二社に捜査照会し、住友生命保険相互会社からは既に、同月二九日に回答がなされていることが明らかになつている(員3.24捜照弁四四〇〔甲三四四〕、弁四四二〔甲三四六〕、住友生命保険相互会社3.29回答弁四四三〔甲三四七〕)。なるほど広瀬警部は、同月中旬から他の火災事件の捜査に従事していたことが認められるが、三月二四日以降は本件捜査に復帰しており(前記広瀬証言)、関係捜査資料に当たることが特に禁じられていたわけでもないから(前記大澤証言)、C山事件を全く把握していなかつた旨の前記広瀬証言を直ちに信用することはできない。しかも、同証言によれば、北野は、三月三〇日宮﨑の不審点としてC山事件に関する供述を始めたと言うのであるから、例え未遂とは言つても殺人事件を進んで自白したというのはいささか理解できないし、仮に捜査官の追及により自白に転じたのであれば、同日付けの供述調書(員面乙九四。調書作成には午後八時過ぎまで要している。)にこの件が全然記載されていないのも不自然である。特に、富山事件については否認していたわけであるから、それ以前の出来事とは言え宮﨑と殺人を共謀したことを自認する供述があれば、取調官としては、これを見逃すはずはなく当然供述調書にその旨録取するのが通常であろう(もつとも、前記広瀬証言は、時間がなかつたとするが、概要を録取するいとまもなかつたとは思われない。)。更に、次に述べるように、長野においても四月一一日まではC山事件が全面的に自白されていたわけではなく、これらの諸事由を考慮すれば、三月三〇日の供述状況に関する前記広瀬証言は信用できない。

次に、北野が長野事件により逮捕されて以降四月一一日までの供述状況をみるに、四月五日まで北野の取調べを担当した遠藤定彦警部の証言(一四〇回、甲一二〇三)によれば、北野がC山事件について積極的に言及していたこと自体は否定できないが、長野事件への関与を否定し、宮﨑の詐言に欺かれていたことを納得させようとの意図から供述されたことは明らかであり、後述するような全面的な関与を認めた内容であつた可能性は薄い。

また、四月五日以降北野の取調べを担当した宮﨑恪夫警部も、四月一一日までの長野事件の事前共謀を否認していた時期については、右と同様の供述態度であつたことを認めているのである(期日外同証言。もつとも、同証人は、その後検察官の再主尋問において、長野事件を全面自白する以前にはC山事件について供述していなかつたと実質的に右と異なる証言をしているが、記憶違いが生じる状況は窺われず、措信できない。)。

イ 四月一二日から五月一三日まで(C山事件自白時期)

北野は、四月一二日に長野事件の事前共謀を認めると同時に、C山事件も宮﨑と共謀の上実行したものでその計画等の全貌を事前に承知していた旨自白し(一四一回、期日外前記宮﨑恪夫証言)、その態度は、以後富山において富山事件を否認する供述をしていた時期にも変わることはなかつた(前記宮﨑恪夫証言、横畠証言、広瀬証言、德永証言等)。

なお、北野は、四月二二日から五月一三日まで合計八回にわたつて弁護人の接見を受けているが、その際、四月二二日には、C山事件を知らなかつたと理解できる発言をしてはいるものの、同月二六日及び五月九日には、C山に対する保険金殺人を宮﨑から持ち掛けられ、山の下見には同行したが、最終的には宮﨑が勝手に海で実行して失敗したと聞かされたので、恐しくなつてC山事件を止めさせた旨供述しているのであつて、富山、長野両事件に関し弁護人には一貫して関与を一切否認する態度を示していることと対比するときは、看過することができない(録音テープ弁四八八ないし四九五、反訳書弁五一〇ないし五一七〔北野関係のみ〕)。

ウ まとめ

以上の次第で、北野が長野事件を自白する時点以前にC山事件を全面的に認めていたとは解されないから、北野の供述経過の中に段階的な真実開示過程を見いだそうとする検察官の前記主張は、既にその論拠を失つていて採用できない。

他方、供述内容の信用性については、いささか局面を異にする。

すなわち、供述開始時期の側面から評価する限りにおいては、これが長野事件の自白開始時期と重なり合つている以上、供述の動機も共通である可能性を否定できず、その価値が疑わしいとの評価を受けることは避け難いであろうが、前記のとおり、富山事件に関する否認時期にもC山事件への関与については自白供述が捜査官に対してされている点と、弁護人との接見でも関与を一定限度で承認している点が付加して認められるため、更に検討を要すると考えられるのである。

(4) C山事件に関する自白の信用性及び富山、長野両事件の認定に与える影響

ア 右(3)の最後に指摘した点に鑑みるときは、自白した理由についての北野の公判廷での弁解(C山事件についても全く関与していないが、死亡の結果が発生していなかつたので、この事件だけでも宮﨑の罪を共に背負おうと思つて偽りの供述をした。)を信用することはいささか困難である。

イ 他方、等しく捜査時期になされたとは言え、北野の供述は捜査官に対するものと弁護人に対するものとの間で看過できない相違点を有しているので、そのいずれの方の信用性が高いかを判断する必要がある。

すなわち、長野、富山における取調べを通じて北野は、C山に対する山中及び海水浴場における殺害計画はすべて事前に了知していた旨の供述を行つているが、弁護人に対しては、前述のとおり、海水浴場での殺害実行については事後的に宮﨑から聞いたものに過ぎないことを明確に述べているのである。

そこで、信用性判断の基礎となる事由を探求すると、① 海水浴場での実行について宮﨑が第三者に殺害の手伝いを依頼した事実を北野は知らされていなかつた疑いが濃厚であること(第四の二)、② 公訴事実に対する自白に関する議論を前提にすれば、北野の捜査官に対する供述の信用性についてはそもそも高度の信用性を付与し難いところ、二月二五日早朝北陸企画に赴いたことを承認した供述に関する判断の際に触れたように(3の(三)(2)ウ)、北野については否認時期においてすら捜査官に迎合しようとした傾向が窺われること、③ 一方、状況的にみて、弁護人に対する発言が周到な計算の下に演技された可能性は乏しいことといつた事情を指摘することができ、これらに照らすときは、接見時の供述内容の方がより信用に値するものと結論付けることができる。

ウ 検察官は、捜査官に対する北野供述等を根拠にしてC山事件に関する北野の全面的な共謀が認められると主張しているのであるから(論告要旨一七二頁)、イの結論に反する限度で論旨に無理があることは否定できないが、他面、接見時の供述内容を基にした事実認定を前提にしても、殺人計画の一部について宮﨑と共に北野が関与し、事後的にせよ顛末を聞かされていたことは認定可能であるから、この点をとらえて、その後に発生した富山、長野両事件への北野の関与を指し示す間接事実として理解する余地は残されているとの主張も一応考えられないわけではない。

しかしながら、C山事件の失敗後誘拐殺人を宮﨑が企図するに至る過程を全体的な視野に立つてながめるときは、C山事件に北野が一部関与した疑いのあるとの点について、有罪立証に益する事情ではなく、むしろその後の宮﨑の犯行には参画していなかつたことを指し示す事情として分類することが十分に可能である。

エ すなわち、C山事件中北野が関与していなかつた部分の方に焦点を合わせて検討すると、海水浴場における殺害計画を事前には知らなかつた疑いが強いことに加え、同所での殺害失敗の後も宮﨑はこの計画を完全には放棄していなかつたところ(第一部第二の一(三))、北野がそうした意思に気付いていなかつたことも、接見時の発言内容、殺害未遂後における前記住友生命の保険の掛け金を宮﨑が支払つたときの状況(第二部第四の二)、四月一二日以降に作成された北野の供述調書の記載(4.13員画乙八四、4.17検面乙二一、4.22員面乙六七、5.6検面乙一九等)に照らしてほぼ動かし難い事実である。

このように、仮に二人の間で金銭目当ての犯罪計画がめぐらされたことがあつたとしても、実行行為が行われた最終段階以前の時点で両者の意思に亀裂が生じ、その後は宮﨑単独で計画が遂行され、それが失敗した後も新たな機会を宮﨑一人が窺つていたことが推認されるのであるから、これに引き続く富山、長野両事件についても宮﨑は北野を信頼するに足りる相手とはみなさず、同人に謀ることなく計画を立案しこれを実行に移したのではないかという疑念が生じることが避けられない。事実、昭和五五年一月に宮﨑は、北野以外の男と誘拐の下見を行つているのであり、しかも北野においてその事実を知らなかつた疑いが消し去れないのであつて(3の(二)(1)イ参照)、こうした事情は、右のような疑念を一層深めるものと言えよう。

オ 以上の次第で、C山事件への北野の関与状況を根拠にして富山、長野両事件を推認させる一事情として位置付けようとする検察官の見解は採用できない。

5 結論

北野自白の信用性に関するこれまでの論述を要約すると、次のとおりとなる。

信用性を担保する事由として検察官が挙示するもののうち、まず、秘密の暴露性については、問題とされる供述がこれに該当するとは解されず、その他にもその種の供述は全く見当たらない。更に、供述内容の合理性に関しても、子細に供述調書を分析すると、真に犯行に加わつた者が反省悔悟の情から述べたにしては、余りにも不自然、不合理な供述が随所に認められる。また、供述の流れをたどると、否認と自白との間の動揺や、自白直前における過剰自白の介在等不安定、不自然な状況が明白に看取される上に、自白内容相互においても、重要事項に関する理解し難い変遷が少なからず見いだされる。

次に、供述過程に眼を向けてみても、自白に至る経緯の自然性を強調する検察官の見解は、自らに有利な事情の指摘に終始しており、右にみたような内容の不自然さ、変遷等を生じた原因を解明する試みは一切行われなかつたばかりでなく、反省悔悟の情が動機となつたにしては理解に苦しむ取調べ時の諸状況を看過している点で同調することができない。かえつて、取調べ当初から丹念に北野の供述状況を追つていくときは、同人があえて虚偽の不利益事実を自認したのではないかと疑われる動機の存在を是認することができる。

このような事情を勘案するときは、北野自白の信用性を肯定することは到底困難であると言うほかはない。したがつて、第三、第四における考察の結果と総合すれば、本件で取り調べられた証拠から北野の有罪を認定することはできないとの結論に到達することになるのである。

第六北野の公判廷での弁解について

一  弁解の意義及びその要旨

富山事件で北陸企画事務所を舞台に誘拐が実行された間自宅にとどまつていたとは言え、誘拐の実行者である宮﨑から数回の電話連絡を受けていたこと、及び長野事件において宮﨑と少なからず行動を共にしていたことは、北野も自認する事実であるが、これらをもつて宮﨑との共謀を指し示す間接事実であるとする検察官の主張に対し、宮﨑の真意を知らなかつたとして北野が右の行動等に正面から弁解を加えていることは、既に各所において言及してきたとおりである。

仮に、この弁解を証拠上積極的に認定することができるならば、それ自体によつて北野が無罪であることが確定することになるし、逆に、その虚偽性を明白にすることができれば、北野に対する不利益認定の一要素として位置付けられることになることもまた避けられないところである。

そのような観点から、両当事者で右の弁解をめぐる争点が形成されるに至つているので、最後にこの点に関する判断を加えることとする。

弁解内容について、既に第二の二においてその概要を明らかにしておいたが、時間的順序に従つてやや詳しく整理すると、以下のようになる。

1 背景

北野は、昭和五二年九月に宮﨑と知り合つた当初から、冷凍機の販売計画、大宮の会社への出資、金沢の父の遺産等の話を聞かされ、宮﨑が金持ちで仕事のできる女性であると思い込み、同五三年二月に共同で始めた北陸企画の経営に同女が熱を入れなくなつてからも誤信は継続していたところ、同五四年三月には大宮にいる仲間と大金を入手する企てを聞き、その資金として二七万円を拠出した。宮﨑の説明では、この方法は以前にも一度成功したことがあるが、議員秘書であると偽つて選挙の政治資金名下に手形や土地の書類等を詐取し、これを換金して金儲けをする、大金を入手した折りには北野も何百万円という金員を手にすることができるとのことであつた。

同年六月及び七月の二度にわたり、金員を受領する積もりで宮﨑に付いて大宮に行つたが、換金にしばらく時間を要すると言われた。金額は合計一、〇〇〇万円から一、五〇〇万円になると説明されていたので、右金員を当てにしてZを注文したが、八月下旬になると、換金を担当する東京の男が警察に捕まり四箇月間刑務所に入ることになつたと告げられた上、その男が出所すれば右の金が確実に手に入るので、Z購入に要する費用を一時都合して欲しいと依頼されたため、北野は、友人の××××から合計一五〇万円の手形を、妻風子及びその母から現金合計一〇〇万円を借用してその費用を捻出した。

北野は、宮﨑の話を信じきつていたので、出所予定である昭和五五年一月に入るや直ちに、東京の男に金をもらうように催促したが、出所しても警察から眼を付けられているなどの事情でまだ金はできない、二月末に北陸企画事務所を閉めてから上京して男と相談すると言われた。同月末には前記××から借用した手形の決済資金(七五万円)が必要であつたが、宮﨑は同月下旬に現金一一〇万円を持参したので、七五万円を××に、二五万円を妻の実母への返済の一部に充てた。この一一〇万円については、亡父の貸金の返済を受けた金だと説明しており、北野もこれを疑わなかつた(九三回、九四回、一〇一回及び一〇二回等北野供述)。

2 富山事件

他方、宮﨑は、昭和五五年一月初旬東京の男からの金が遅れることを弁明した際に、これとは別に土地を売却して金儲けをする旨言い出し、同月一〇日頃には、「金沢で見たい土地があるので運転して欲しい。」と頼んできたので、北野も金沢に行つた。二月に入ると、金沢の男と組んで、金沢のいわく付きの土地を他県の不動産業者に売却する方法で大金を得る計画があることを説明され、二月六日から九月までの四日間連続で宮﨑を乗せて金沢まで運転して行つた。二月一九日頃からは、取引が間近に迫つている旨告げられた上、金沢の男が作成した土地の図面を金と引き換えに滋賀の男に渡すことになつており、受け取つた金の護衛役として金沢に迎えに来て欲しいので自宅で待機しているよう依頼されたことから、北野もこれに従つていた。みのしろ金目的の誘拐の話などは全く聞いたこともなかつた。

二月二三日午後「小枝」で別れて以来、同月二六日朝まで宮﨑と会つたことはなく、その間は同女から毎日電話連絡を受けていた。しかし、その内容は、交渉がやや遅れているので引き続き自宅で待機していて欲しいというものであつた。したがつて、北野は、この間自宅で連絡を待つていたのであつて北陸企画事務所に行つたことはないし、宮﨑が誘拐殺人を実行していることは全く知らなかつた。

同月二六日朝宮﨑から呼び出されて北陸企画事務所に行つたが、その際、金沢の土地の件については、男の家の回りに警察官がいたので金をもらわずに帰つて来たとの説明を受けた。翌二七日に宮﨑が金沢の土地の件はしばらく様子をみると言うので、北野はこれ以降この話のことは忘れてしまつた(九五回、九六回、一〇七回ないし一一〇回等北野供述)。

3 長野事件

宮﨑は、前述のとおり東京の金の方は二月末に北陸企画事務所を閉鎖してから取りに行くと言つており、当初は宮﨑一人で行く予定であつたが、三月三日になつて東京までの運転と金の護衛を頼んできたので北野もこれに応じ、同日夕方富山を発つた。北野としては、東京か大宮へ行くものと思つていたが、車中で、東京の男が長野まで出てくることになつたと言われ、その晩は長野市内のホテル「志賀」に投宿した。同所で宮﨑から、東京の男と一緒に長野の土地を売却した上で金を受領する、土地を確認するので翌日松本まで同行して欲しい、その後男と会つている間はビジネスホテルで待機していてもらいたい、と依頼された。翌四日待機場所として「日興」に予約を取つたが、その際、浮気が露見しないように偽名を用いた方が良いと宮﨑に言われ、これに従つた。その後、松本方面にZで行き、その帰途、宮﨑の希望で聖高原を回つた。

同日夕方宮﨑は東京の男に会いに出掛けたが、午後九時頃に「日興」に帰つて来て、明日もう一度会うことになつたと説明した。翌五日昼から二人でドライブに出たが、宮﨑は、男が金を持つて来なかつたので東京まで受け取りに行かなければならないと言い出し、長野での用件が済み次第、同月六日午前四時頃までには宮﨑から「日興」に電話連絡を取り、直ちに東京に向かう手はずとなつた。同日夕方、宮﨑は再度東京の男に会うために外出し、午後九時頃になつて電話が入り、同日午後一二時頃には「日興」に戻れそうである旨を連絡してきた。ところがその後朝方になつても連絡がないので、不安になつて警察にZの事故の有無を問い合わせたりしたところ、ようやく同月六日正午頃連絡があり、その後合流して長野を発ち、途中宮﨑の姪に当たる谷川月子宅に寄つた上で、その晩は、池袋のホテル「安田」に泊まつた。

同月七日は宮﨑の指示に従つてZを走らせたが、その途中、入金金額が当初の予定より五〇〇万円増えて二、〇〇〇万円になつたこと、警察に見張られているので東京の男に代わつてその情婦が高崎駅まで金を持つて来ることになつたこと等を聞いた。宮﨑の言葉を信じた北野は、一緒に高崎駅に赴いたが、同駅周辺に警察官がいるので受領できないと宮﨑に言われ、同月八日朝富山に帰つて来た。宮﨑は、この旅行期間中しばしば電話を掛けていたが、その内容については、東京の男と金の件で連絡を取つているとの説明を信じていた(九六回ないし九八回、一一一回ないし一一五回等北野供述)。

二  弁解の信用性

宮﨑から聞かされていたという右の各種の話が基本的にすべて虚偽であつたことについては、北野及び弁護人にも異論はない。したがつて、焦点は、北野の誤信の有無にあることになり、以下この点に関する諸事情を列挙、検討する(なお、富山事件に対する弁解内容を「金沢の土地の弁解」、長野事件のそれを「政治資金の弁解」と以下では略称する。)。

1 内容の不自然性等

(一) 検察官は、金沢の土地、政治資金の話共に荒唐無けいであつて、そのような話を北野が信じて宮﨑に追従したことは考えられない旨主張する。

たしかに、北野の各弁解によれば、宮﨑からの儲け話には少なからず曖味な点が残されていたことは否定できない。

具体的な例を挙げれば、他の共犯者については「金沢の男」、「東京の男」という以上には具体的な氏名等の説明は宮﨑からはなかつた、男に会うためと称して金沢や大宮に出掛ける宮﨑に同行した際も、絡介方を拒まれたなどとされている。また、金儲けの方法についても、政治資金の具体的な集め方、すなわち、どのような選挙の際にどのような議員の名前を使い、誰から手形等を入手するのかは明確に聞いていないとされているし、金沢の土地の件にしても、具体的な所在地、所有者、取得方法については不明確なまま宮﨑の説明を受け入れていたとの公判供述となつている。

次に、計画の進捗状況に関し宮﨑から聞いたとされる説明内容にも不自然さが露呈していると言わざるを得ない。すなわち、富山事件発生直前までの説明から拾い上げても、政治資金に関しては手形を現実に取得している前提でありながら、男が逮捕されたからといつて半年以上も換金が遷延するというのはいささか不自然であろうし、金沢の土地についても、買手が滋賀からわざわざやつて来た後で、図面に不備があつたので書き直しに時間が掛かつているというのも、一般人ならば理解が困難であろう。更に、(金沢の土地の件が失敗に終わつた理由を含め)富山事件発生後の二つの話に関する宮﨑の説明が一層非現実性を色濃くした内容であることは異論がないであろう。

このように問題のある話を全面的に信用したという理由について北野は、詳しい内容を尋ねても教えてくれなかつたが、宮﨑が金儲けの上手な女であると思つていたために疑いを抱かなかつたと供述している(一七九回北野供述等)。しかし、宮﨑がZ購入に伴う借金の返済に苦労し、サラリーマン金融にも手を出していたことについてある程度の認識を持たなかつたはずはないから(一〇五回、一〇六回北野供述)、右の北野の供述で疑問が解消することはない。

このような事情に照らして考察する限り、宮﨑から聞かされた儲け話を真実であると誤信し続けていたという北野の弁解にはにわかに措信し難い面があることは否定できない。

もつとも、この儲け話が仮に失敗に終わつても、北野として失うものは多くなく、言わば宮﨑の動きに便乗していたのに過ぎなかつたのであるから、その話に対して批判的に耳を傾けることはなかつた(特に、誘拐後の説明は、金員入手が目前であるとのことであつたから矛盾等が拡大しても気付かなかつた。)という弁明も一応成り立たないわけではなく、儲け話の内容だけから、北野の弁解を虚偽であると判断するわけにはいかないであろう。

(二) 検察官の指摘の第二として、宮﨑が虚偽の儲け話で北野を欺く必要は全く窺われないことが強調されている。

しかしながら、北野が一切情を知らなかつたとすると、誘拐実行場所まで同道を求め(金沢における誘拐計画、長野事件)、あるいは誘拐場所から遠ざけるために(富山事件)、何らかの虚言を弄して北野を欺かねばならなかつたと考えるのがむしろ自然であつて、弁解に対する弾効事由にはなり得ないと思料される(北野を同道させた必要性については第四参照)。

もつとも、若干更に検討の必要な問題点として、富山事件のはるか以前から政治資金の話を聞かされていたという部分に関しては、そのような架空の作り話をする必要性はないという検察官からの指摘がなされている(論告要旨二四四頁)。しかし、この点についても、北陸企画の経営状態が悪化した昭和五四年に入つた以後、宮﨑が北野との関係を継続することを望んでいたとすれば、大金が入手できる計画があると偽つていたとしても不思議はない。特にZを購入してからは、そのために生じた自己名義の借金の返済を北野が宮﨑に迫つていたことが窺われるのであるから(第四の一2参照)、北野を安心させる方便として政治資金の儲け話が使われた可能性も否定できない。したがつて、北野の弁解の虚偽性を根拠付ける事由とは解されない。

2 弁解状況

北野の捜査当時における弁解状況については、第五の項で詳述したとおりであるが、捜査当初の尋問において弁解が主張されていなかつたことは証拠上争いのない事実である。そして、このうち特に問題となるのは、右の項でも指摘したように、逮捕直前の三月二九日、三〇日、宮﨑の不審点を示す態度に出ていながら、金沢の土地の件、とりわけ二月二三日以降の宮﨑の架電内容について一切供述をしていないことであろう。もつとも、翌三一日には金沢の土地の弁解をある程度具体的に述べていたことが認められるが(マイクロカセットテープ乙一〇九)、富山事件(誘拐殺人)の嫌疑を受けていることを二九日以前から了知していたことに疑いはないのであるから、二九日当時は失念していたという説明を直ちに措信することはできない。

しかしながら、この点を除けば、公判での弁解が長野事件による逮捕時点頃から具体的に供述され始め、その後の否認時期に主張され続けたことはもちろん、自白時期においても一部残存していたこと(第五の二4(三)(1)ウ、(四)(2)参照)も争う余地のない事実であつて、全体的にこれをとらえた場合、その具体性、一貫性に照らすと、逮捕直前になつて思い付いた創作であるとして片付けるのはいささか困難であると言わざるを得ない。

別紙一

みのしろ金要求の架電状況一覧表

番号

架電年月日、

同時刻

(昭和年月日、時・分頃)

発信場所

着信場所

受信者

通話内容(要旨)

1

五五・三・六

午後七・一六

埼玉県児玉郡上里町

金久保三二五番地一付近

公衆電話

長野市<住所省略>

甲野太郎方

甲野太郎

B子さんを預かっている。明日の午前一〇時に長野駅の待合室に三、〇〇〇万円持って来い。

2

五五・三・七

午前一〇・三〇

東京都豊島区西池袋

一の二

公衆電話

長野市大字南長野末広町無番地

国鉄長野駅観光センター

甲野春子

一〇万円じゃ話にならない。妹と金とどっちが大切か。一二時まで待つ。

3

右同日

午後〇・二三

埼玉県川越市大字古谷上字沼田一、

一九三番地の一

公衆電話

番号1に同じ。

甲野太郎

午後四時までに長野駅待合室に二、〇〇〇万円持参しろ。二、〇〇〇万円なら私が話してあげる。金は春子に持たせろ。B子にはおいしいものを食べさせている。

4

右同日

午後四・二〇

埼玉県深谷市国済寺

八〇三番地

公衆電話

番号2に同じ。

甲野春子

二、〇〇〇万円持って、長野駅発一六時三八分特急あさま一六号六両目に乗車しろ。上野まで切符を買い高崎駅で下車し、待合室で待て。

5

右同日

午後七・六

群馬県高崎市八島町

二六番地

公衆電話

同町二二二番地

国鉄高崎駅鉄道案内所

右同

駅前大通りを進み、右側にある喫茶店「ポンテ」に入れ。

6

右同日

午後八・四〇

群馬県高崎市岩鼻

一八番地

公衆電話

同市<住所省略>

喫茶店「ポンテ」

右同

あなたの後を人が尾行している。一時間後に喫茶店「ナポリ」に電話する。

7

右同日

午後九・五八

群馬県前橋市荒牧町

六二六番地

公衆電話

同県高崎市<住所省略>

喫茶店「ナポリ」

右同

警察に言ってないのか。今日は宿泊し、三月八日午後零時にまた来い。明日B子の声を聞かせてやる。

3 弁解を支持するその他の証拠

北野の弁解を直接裏付ける客観的証拠はないと言わざるを得ないし、これに沿う証拠もほとんど存しない。北野の知人、友人の証言でも、金沢の土地、政治資金といつた具体的な話題を耳にした者は見当たらない(<証拠>)。

ただし、捜査段階における宮﨑の供述中には見落とすことのできない発言が発見される。既に宮﨑供述の評価に関し第三の三1(二)(2)イ③において指摘したところであるが、宮﨑は長野における取調べにおいて、東京か大宮の男からまともとは言えない種類の金を受領すると語つて北野を同行させた旨供述しているところ、この供述が開始された時期に照らせば、事前の北野との打ち合わせに従つて述べたとする宮﨑の説明が十分な説得力を有しているとはそもそも考え難い。また、同様に見逃すことのできない事情として、長野事件に関する北野の弁解は、政治資金といつた点を中心に、右の宮﨑供述より遙かに具体的であるところ、そうした点にも及ぶ口裏合わせが行われた可能性は宮﨑自身明確に否定していると(九二回宮﨑供述)、捜査時の供述状況に照らしてもこの点に疑いはないこと(一四三回坂井靖証言甲一二〇六では、検面調書に記載された以上の具体的な供述はなかつたとする。)も挙げられよう。すなわち、打ち合わせが真実存在しその内容は宮﨑の供述する範囲にとどまつたのであれば、了解範囲を逸脱してひとり北野が過剰に弁解をなしたことになるが、逮捕直後にこのように具体的な弁解内容を思い付き、しかも宮﨑供述との矛盾を生じて捜査官の疑惑を深める結果を招く危険を賭して詳細に語つたとすることには、些細とは言えない不自然さが付きまとうのであつて、この点からも、事前の口裏合わせが存在したという宮﨑供述には積極的な疑問が生じるのである。

結局以上の諸事情を勘案するときは、宮﨑の供述との間に符合がみられることを、北野側の主張にとつて有利な事情として分類することが可能となるのである。

なお、同じく長野事件関係で、三月六日両者が合流した際、北野の口から、宮﨑が他の男と一夜を共にしたのではないかとの疑念が表明されたことを宮﨑は自認しているが(八七回、八八回宮﨑供述)、これを北野との共謀を疑わせる事情としてとらえることはもとより可能であるとしても、東京の男と行動を共にしていたとの認識を北野が有していたことを推認させるには具体性に欠けていると言うほかはないであろう。

4 まとめ

これまでの考察の結果、北野の弁解は、その具体的内容を関係証拠によつて積極的に肯定することはできないものの、これを虚構であるとして一概に排斥することができない事情も窺われ、結局、前記第五の二の5で述べた結論を何ら揺るがすものではない。

第七結語

以上屡々説示してきた理由により、被告人北野宏に対する本件公訴事実については、いずれも犯罪の証明がないから、刑事訴訟法三三六条により、同被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よつて当裁判所は、第一部及び第二部の結論に従い、被告人宮﨑知子及び同北野宏に対して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大山貞雄 裁判官大谷直人 裁判官村山浩昭は、転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官大山貞雄)

別紙二 略語例

(事件名)

富山事件……罪となるべき事実第一に記載した日時、場所で発生したみのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄事件

長野事件……同じく第二に記載した日時、場所で発生したみのしろ金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者みのしろ金要求事件

C山事件……C山一男を被害者とする保険金目的の殺人未遂事件(第一部第二の一の1参照)

(被告人、関係者名)

宮﨑……被告人宮﨑知子

北野……相被告人北野宏

A子……被害者乙野A子

B子……被害者甲野B子

(関係場所等)

北陸企画……富山市<住所省略> 北陸企画事務所(宮﨑と北野が共同で経営していた贈答品販売業の名称として用いることもある。)

宮﨑宅……富山市<住所省略> 被告人宮﨑方

北野宅……富山県射水郡<住所省略> 相被告人北野方

「小枝」……富山市<住所省略> レストラン小枝

「銀鱗」……富山市<住所省略> レストラン銀鱗

「エコー」……岐阜県吉城郡<住所省略> レスト喫茶エコー

「まる三」……富山県上新川郡<住所省略> れすとらんまる三

「キャニオン」……富山県婦負郡<住所省略> 喫茶キャニオン

「元庄屋」……松本市<住所省略> レストラン新橋元庄屋

「日興」……長野市<住所省略> ホテル日興

矢越隧道……長野県東筑摩郡明科町大字東川手八、〇〇二番地の一矢越隧道

Z……日産フェアレディZ(富三三な二八三二)

バン……日産サニーライトバン(富四四の三九六九)

別紙三 証拠の引用例

一 引用する証拠(被告人両名の供述は除く。)には、証拠等関係カードにおける検察官(甲、乙)及び弁護人(弁)の各請求番号を末尾に記載する。

二 証人及び被告人の各供述については、公判廷における供述(第一六〇回公判期日以後)と公判調書中の供述部分(第一五九回公判以前)とを区別せず、例えば第一九回公判調書中の証人浅利紀代子の供述部分を「一九回浅利紀代子証言甲四〇〇」、第一六〇回公判における被告人宮﨑知子の供述を「一六〇回宮﨑供述」と表示する。なお、被告人宮﨑の証人としての供述も「宮﨑供述」とする。

三 公判準備における尋問(質問)調書は、「期日外勾坂馨証言甲三六五」と表示する例による。

四 記録の丁数を示す場合は、公判調書(供述)群の丁数をもつてする。

五 被告人両名の間で証拠方法等が共通でない場合は、第一部においては宮﨑関係の証拠を先に記載し、北野関係の証拠は〔 〕内に記載する。第二部においてはその逆とする。

六 被告人の供述調書については、職権で取り調べた分を含めて当初の請求番号(乙○○番)で表示する。

七 書証については八のとおりの略語を使用し、澤之向光の司法警察員に対する昭和五五年三月七日付け供述調書を「澤之向光3.7員面甲二」と、司法警察員作成の昭和五九年九月二九日付け実況見分調書を「員59.9.29実況甲一一八八」と表示する例による(昭和五五年に作成されたものは、「55」の表示は省略する。)。

なお、書証中の謄本、抄本及び一部不同意のあるものについては、これらの表示を省略するが、取り調べた証拠を引用する趣旨であることは言うまでもない。

八 略語

検面……検察官に対する供述調書(弁解録取書を含む。)

員面……司法警察員に対する供述調書(弁解録取書を含む。)

質問……勾留質問調書

自供書……自筆供述書

実況……実況見分調書

検証……検証調書

検視……検視調書

報  ……捜査報告書

写報……写真撮影報告書

照会……捜査関係事項照会書

回答……捜査関係事項照会回答書

電聴……電話聴取書

鑑嘱……鑑定嘱託書

鑑  ……鑑定書

任  ……任意提出書

領  ……領置調書

捜押……捜索差押調書

巡  ……司法巡査

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