大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和55年(う)1155号 判決 1981年1月30日

主文

原判決を破棄する。

被告人を無期懲役に処する。

原審の未決勾留日数中九〇〇日を右刑に算入する。

押収してある女物腕時計一個を被害者Aの相続人に還付する。

理由

(控訴趣意及び答弁)

本件各控訴の趣意は、弁護人柳瀬宏作成の控訴趣意書、弁護人富阪毅、同東畠敏明共同作成の控訴趣意及び検察官山本喜昭作成の控訴趣意書にそれぞれ記載のとおりであり、検察官の控訴趣意に対する答弁は、弁護人柳瀬宏及び被告人作成の各答弁書に記載のとおりであるから、これらを引用する。

(控訴趣意に対する判断)

(一)  弁護人富阪毅、同東畠敏明の控訴趣意第一点及び第二点について

論旨は、原判決には審判の請求を受けない事件について判決をした違法及び理由のくいちがいの違法がある旨の主張であって、(イ)原判決が、罪となるべき事実において、被告人は被害者から小切手を詐取しようとしたがそれが不可能となった旨を判示したのは、詐欺未遂罪を認定したものであるから、公訴の提起がない事件について判決をしたものである、(ロ)原判決が、右のように詐欺未遂罪を認定しながら、その法条を適用していないのは、右の罪を処罰しない趣旨なのかそれとも法令の適用を遺脱したに過ぎないものか不明であるから、理由相互間にくいちがいがあるというのである。

しかしながら、原判決の認定した罪となるべき事実によると、所論指摘の原判示部分は、被告人が本件犯行に至った動機を摘示したものであることが判文上明らかであるから、論旨はいずれも前提を欠き、採用することができない。

(二)  弁護人柳瀬宏の控訴趣意第一の一について

論旨は、法令適用の誤りを主張するが、実質は事実誤認の主張であって、本件犯行当時原判示の小切手は被害者が現にこれを所持していたものではないから、強盗の目的物となりえないものであったのに、原判決が被告人の本件所為を強盗殺人に問擬したのは誤りである、というのである。

しかしながら、原判示の小切手は被告人が売買予約代金の支払保証として被害者に交付したものであって、本件犯行当時被害者がこれを所持している可能性はあったのであるから、被害者が現にこれを所持していなかったとしても、後記のとおり、被告人がその強取を目的として被害者の殺害行為に出たことが証拠上明らかである以上、被告人に強盗殺人が成立するのは当然である。したがって、原判決には所論のような事実誤認はなく、論旨は理由がない。

(三)  弁護人柳瀬宏の控訴趣意第一の二について

論旨は、法令適用の誤りを主張するが、実質は事実誤認の主張であって、被告人は原判示の女物腕時計についてはこれを領得する意思がなかったのに、原判決がこれにつき強盗の成立を認めたのは誤りである、というのである。

しかしながら、《証拠省略》によると、被告人は、未だ本件の殺害事実を否認していた捜査初期の段階で、しかも何人も盗取の事実を知り得ていない状況下において、原判示の女物腕時計を盗取したことにつきその動機、目的をも含めて自供し、その後、盗取場所についても具体的かつ詳細に供述していること、盗取の動機も裏付けられていることなどが認められるのであって、こうした証拠関係に徴すると、被告人に右時計を盗取する意思があったことは疑問の余地がなく、しかも、右領得行為が強盗殺人の機会継続中に行われている点からみて、右所為につき原判決が強盗の成立を認めたのは正当である。所論の援用する原審証人Bの鑑定書はそのまま直ちに採用することができず、他に右認定を誤りとすべき証拠は存しない。したがって、原判決には所論のような事実誤認はなく、論旨は理由がない。

(四)  弁護人富阪毅、同東畠敏明の控訴趣意第三点及び検察官の控訴趣意第一点について

弁護人富阪毅、同東畠敏明の論旨は、事実誤認の主張であって、被告人は被害者にパイプ椅子で突かれた時点では小切手を強取する犯意も殺害の犯意もなかったのに、原判決がそのように認定したばかりでなく、被害者方店舗へ赴く時点で被告人に成行きによっては小切手を強取しようとの犯意があったと認定したのは誤りである、というのである。

検察官の論旨も、事実誤認の主張であって、被告人は被害者方店舗へ赴く時点ですでに同人を殺害して小切手を強取しようとの犯意があったのに、原判決が被害者にパイプ椅子で突かれた時点で初めて被告人に右の犯意が生じたと認定したのは誤りである、というのである。

そこで、記録を調査し、当審の事実取調の結果をも参酌して検討すると、本件犯行の客観的な事実経過は概ね次のとおりであると認められる。

(1)  被告人は、昭和五〇年一〇月ころから神戸市内に事務所を設け母名義で「Eローン」と称する金融業を始めたが、その後不良貸付などを行ったため、貸付金の回収不能が増加し、昭和五二年四月ころからは貸付資金の捻出にも行き詰って営業不振に陥り、同年八月ころからは右営業収入により生計を維持していた母、実兄夫婦ら家族六人の生活費にも事欠く状態となった。

(2)  ところで、被害者は神戸市内で古物商を営んでいたものであるが、被告人は、同人とは昭和五〇年春ころからその店舗に出入りするようになって知合い、以後同人の取扱っている腕時計を自ら買受けたり、あるいは売却の斡旋をするなどしていたものの、売却斡旋のために同人から預かった腕時計を代金支払の見込みもないまま質入れするなどしたことから、本件犯行があった昭和五二年一〇月当時、同人に対して三二万円余の債務を負っていたほか、同年九月末か一〇月初めころに借金を当てにしていた知人に贈物をするなどの目的で買受けを予約し他に売却することを差止めて貰っていた外国製腕時計二個の買受けを迫られ、その代金一〇〇万円の支払をも催促されていたところ、前記のような経営状態からこれらの支払をなす目途も立たず、ために居留守を使うなどその場限りの虚言を弄して支払を一日延ばしに延ばしていた。

(3)  ところが、同年一〇月二〇日過ぎころ、被害者から売買予約のあった前記腕時計二個はブローカーCから販売を委託された物で金を急いでいると言われてその代金の支払をまた強く催促されるに及び、被告人としては、何とかして支払うということでその場を取り繕ったものの、金策の当ては全くなく、いよいよ支払延期の口実に窮し、同月二四日、手元にあった額面一一〇万円余の不渡小切手(振出人D子)の振出日昭和五一年一〇月二五日を昭和五二年一〇月二五日に改ざんしたうえ、これを右支払の保証として被害者に交付し、一時その催促を免れたが、翌二五日にはこの不正も同人の知るところとなり、同人からこれ以上支払がなければ右小切手の不正を明るみに出すと言われ、その対策に苦慮した結果、同月二六日、一時逃れの口実として、同人に対し翌二七日午前一〇時に被告人方事務所で前記Cの立会のもとに支払をなす旨約束するに至った。

(4)  被告人は、右の約束をしたものの、実際には金を支払う手立てもないところから、約束どおり被害者に被告人方事務所へ来られても困ると思い悩み、最早支払を延ばすことも期待できないし、そうかといって小切手を改ざんしたことを明るみに出されては自己の金融業も廃業せざるを得なくなると同時に、その収入に依存している家族の生活も脅かされてしまうと思い詰め、このうえはどうしてでも改ざん小切手だけは被害者から取り返さなければいけないと考える一方、友人のFに金策を頼もうと思い、翌二七日午前零時過ぎころ同人方へ赴いたものの、話を切り出せないまま当夜は同人方に泊めてもらい、同日午前五時三〇分ころ目覚めた。そして、被告人は、自分の事務所へ帰ったうえ、同日午前六時ころ、なお一縷の望みを託して被害者方店舗へ電話で「急用ができて都合が悪くなったので支払を一日延ばしてもらえないか」と申入れたが、これを断わられたうえ、なお被告人方へ行くといわれたので家へ来られては困ると思い、被告人の方から同人方店舗へ出向きたい旨答え、同人から「立会人のCが午前九時ころ来ることになっているからそのとき来てくれ」と言われるや、「九時ころやったらこっちが金を貸しとる相手がちょっと危ないということを聞いたんで大阪の方へ行かなあかん」、「今日朝早くから魚釣りに行くために夕べから友達の家へ泊っとるのや。待合せまでにまだ時間があるから今から手持の金を持っていく」と嘘を言い、結局自らがすぐに出向いて行くことを同人に承知させた。

(5)  右電話が済んだ後、被告人は、事務所内にあったボックスレンチ一丁と金を持って行くと言った手前札束に見せかけるために広告用チラシを切って厚さ一センチメートル位に束ねたものを新聞紙に包んで用意するとともに、魚釣りに行くと言ったことを信用させるため前記F方から魚釣り竿入りビニールケースを持ち出し、これらを携えて単車で出掛け、被害者方店舗の裏口通りを一往復したうえ、同裏口からかなり離れたところにある駐車場のフェンス前路上に単車を止め、ボックスレンチをズボン後ポケットに隠し入れて同店舗内に入った。

(6)  こうして、被告人は、被害者方店舗に入ってから、同人に小切手のどこがどうおかしいのか問いただしたところ、同人からとくにかく現金を先に見せてくれと要求されたので、DAYバッグ(小型リュック)の中から前記ニセ札の入った新聞紙包みを取り出そうとしたが、その際、ズボン後ポケットからボックレスレンチが床の上に落ち、これを見た同人から「お前やっぱりあれやったんか」ととがめられたうえ、折りたたみ式パイプ椅子を手に持って前へ突き出して来られたので、瞬間的に右椅子を振り払いボックスレンチを拾い上げるなり同人の頭部を続け様に力一杯二、三回殴打し、さらに右椅子を投出し階段を昇って二階へ逃げようとした同人を追いかけて階段下に引きずりおろし、ボックスレンチで同人の頭部を数回殴打し、同人が動かなくなったのを見て死んだものと思い、二階へ手を洗いに行こうとしたところ、仰向けに倒れた同人がうめき声をあげたので、被告人は、同人の右脇辺りに膝をつけたうえ左手を同人ののどに当てのしかかるようにして押えつけ、なおもボックスレンチで同人の頭部を一、二回殴打した後、同人の胸部付近を革靴履きの足で何回か踏みつけ、そのころ同人を心臓破裂により失血死させた。その後、被告人は、ショーケースの小引出しを開けて小切手を探したが見つからず、次に書類ケースの中を探そうとしたが壊れていて引出しがあかず、目的の小切手は発見することができなかったが、その前後ころショーウィンドーの中から女物腕時計一個を取り出してこれをズボンのポケットに入れ、その場から逃走した。

以上の客観的な事実経過を基礎として、被告人の犯意について検討するのに、被告人は、捜査段階において、被害者方店舗へ赴く時点ですでに同人を殺害して小切手を強取しようとの犯意があった旨検察官所論にそう供述をしているところ、原審公判廷においては、これを否認し、被害者がパイプ椅子で突いてきたのでボックスレンチで殴りつけたに過ぎず、その後転倒した被害者がうめき声をあげたのを聞き早く死んで欲しいと思って殺害行為に出たが、それは小切手を強取するためのものではなかった旨弁護人所論にそう供述をしている。しかしながら、右の原審供述は、以下に述べるように、種々の点で極めて不自然であって、とうてい措信することができない。

すなわち、被告人は、前記のとおり、ニセ札束入りの新聞紙包みを取り出そうとしてボックスレンチを落とした際、被害者が「お前やっぱりあれやったんか」と言いながらパイプ椅子を被告人の方へ突き出したのを機に被害者の頭をボックスレンチで殴りつけていったものであるが、被告人の原審供述によると、被害者の右行動につき間隔をあけるためにパイプ椅子を前に突出したというのであるから、被害者は床に落ちたボックスレンチを見てとっさに身に危険を感じ被告人との間にパイプ椅子を突き出したものと見るべきで、被告人の攻撃行為を誘発するような行動ではなかったことが認められるのである。それにもかかわらず、被告人が被害者の右行動に誘発されて本件犯行に出たというのは、動機の点ですでに納得しがたいことといわなければならず、また、ボックスレンチで被害者の頭を執拗に殴りつけておきながら、その後転倒した被害者がうめき声をあげたのを聞き初めて殺意が生じたというのも、まことに不自然である。このように被告人が被害者の右行動に応じ間髪を入れない行為に出たのは、むしろ本件犯行が当初から計画されていたもので、それが被害者の右行動を契機に実行に移されたものとみるべきであって、そのことは、被害者がCを伴って被告人方事務所へ来るといっていたのを変更させ、かつ、Cが来るといわれていた時刻よりも著しく早い時刻に自ら被害者方店舗へ出向いたばかりか、出向くに当り予めニセの札束ばかりかボックスレンチをも携行して行ったことなど一連の行動からみても、十分に理解が可能である。もっとも、被告人の原審供述によると、ボックスレンチを携行したのは被害者から右Cのほか二、三人の者が来ると聞いていたから、彼らが先に来ていた場合のことを考えて自分の身を守るためであったというのであるが、もしそれだけの理由であればなお一層のこと、前記のような状況下で直ちに被害者の殺害行為に出るまでの必要性はなかったものというべきである。しかも、Cの原審証言によると、同人は被害者に同道して当初の予定どおり被告人方事務所へ行くつもりで、午前九時四五分ころ被害者店舗を訪れて本件惨事を発見したというのであるから、同人が本件犯行時刻に被害者方店舗へ来る予定ないし可能性はなかったものというべきである。さらに、被告人の原審供述によると、札束に見せかけるための新聞紙包みを携行したのはこれと交換に小切手を渡してもらうためであったというのであるが、一方では被害者を殴るためのすきを作るつもりであったとも述べているのであって、その供述には首尾一貫しないものがあるばかりでなく、仮に被告人が被害者から右のような手段で小切手を騙し取ることができたとしても、そのことは違法行為に結びつくものであるから、従前にも増して苦境に立たざるを得なくなることは当然予想できるところであると思われるのに、単に小切手を騙し取ることのみを考えたというのは、とうてい納得しがたい。のみならず、現金と引換えに小切手を返そうとする場合まず現金を確認したうえでなされるのが通例であり、ましてや被告人は被害者が眼の前で金を勘定する人柄であることを知っていたというのであるから、被害者が前記ニセ札束入りの新聞紙包みと引換えに直ちに小切手を返してくれないであろうことは十分に承知していたとみるべきであり、現に被害者は被告人が小切手のことを質したのに対しとにかく金を先に見せてくれと要求しているのであって、被告人が姑息な手段で小切手を騙し取ることができると考えていたとは思われない。そうだとすると、被告人が札束に見せかけた新聞紙包みを携行して行ったのは、被告人が原審でも供述しているように、少なくともそれを被害者に見せて油断をさせそのすきに同人を殴るためにあったものとみるほかなく、この点からみても、本件犯行が当初から小切手の強取を目的としたものというべく、これを否定する被告人の原審供述は、納得しがたいものがある。

このようにして、被告人の原審供述には幾多の不自然な点があり納得しがたいものであるのに対し、被告人の捜査段階における自白は客観的事態の推移とよく合致してその信用性を損なうべき事情は認められない。すなわち、右自白は、本件当日午前六時ころ、被害者方店舗に電話をかけ自分の方から出向きたいと述べたが、被害者はCが立ち寄ることになっている午前九時ころに来てほしいと言ったので、右Cが午前九時に来るのであればそれまでに被害者方店舗へ行ってどんな手段を使ってでも小切手を取り返そうと思い、とっさに嘘を言ってすぐに出向くことを被害者に承知させたこと、右電話が済んだ後、金を持って行くと言った手前前述の札束に見せかけた新聞紙包みを被害者に見せて油断させ、そのすきに同人の頭をボックスレンチで殴って同人を殺害し小切手を取り返そうと考え、右犯行に使用するボックスレンチと右の新聞紙包みのほか、魚釣りに行くと言ったことを信用させるため魚釣り竿入りビニールケースを持って単車で被害者方店舗へ赴いたこと、被害者方店舗に誰かが来ていないか様子をうかがうためその裏口の通りを一往復した後、裏口に単車を止めると通行人らに被告人の犯行であると思われるおそれがあるため、被害者方店舗から離れた場所に単車を止めたこと、被害者方店舗に入ってから、とにかく金を見せてくれとの被害者からの要求に応じて前記新聞紙包みを取り出そうとした際、ズボン後ポケットに隠し入れていたボックスレンチが床に落ち、被害者が「お前やっぱりあれやったんか」と言いながらパイプ椅子を突き出したのを機に、初めからの決心どおり、被害者を殺して小切手を取り返すため、ボックスレンチで頭を殴っていったこと、そして、その後前認定のとおりの殺害行為を実行したことを具体的、詳細かつ自然に述べており、その内容は原審供述に比してはるかによく前記の客観的な事実経過と合致していることを認めざるを得ないのである。加えて、《証拠省略》によると、被告人は、捜査官に取調べを受けていた段階で、兄の選任した弁護人と接見した際、同弁護人から特に殺意については法廷技術上必要だから絶対否認するようにと言われたが、殺意を否認すると次から次へと事実を曲げ嘘の供述をしなければならなくなるので弁護人を解任して欲しい旨の兄宛の書面を作成した事実が認められるほか、《証拠省略》によると、被告人は右弁護人から捜査官の取調に対し変な妥協をしないようにとの助言も受けたというのであって、これらのことは、右自白の信用性を高める所以というべきである。

こうした点に徴すると、被告人は被害者方店舗へ赴く時点ですでに同人を殺害して小切手を強取しようとの犯意があったと認めるのが相当であり、したがって、小切手詐欺が不可能となった時点に偶発的に右犯意が生じたものと認定した原判決にはこの点で事実の誤認があり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れない。検察官の論旨は、理由があり、弁護人富阪毅、同東畠敏明の論旨は、理由がない。

(五)  検察官の控訴趣意第二点について

論旨は、事実誤認の主張であって、本件犯行当時における被告人の精神状態は正常であったのに、原判決が被告人は著しい情動状態に陥り心神耗弱の状態にあったと認定したのは誤りである、というのである。

調査するのに、原判決が所論のような理由により被告人が本件犯行当時心神耗弱の状態にあったことを認定したことは所論のとおりである。そして、原判決が右のように認定したのは、主として鑑定人Bの鑑定書に依拠したものであることは原判文上明らかなところである。そこで、その当否を当審の事実取調の結果をも参酌して検討するのに、右鑑定書によると、本件犯行は被告人が著しい情動状態に陥って為されたものであると判断したうえ、この情動状態と被告人の責任能力との関係を考えるには被告人の人格には素質的にかなりの偏倚があることを考慮すべきであるとし、そのうえにおいて右情動行為の異常性すなわちそれが発現するときに一種の解放感があったこと、情動下における行為が被告人にとって予期しがたいものであったこと、その行為が被告人の通常時の人格には異質的であること、かなり著しい健忘が存在することなど情動そのものに異常性を示唆する特徴があることを考慮すると、被告人は本件犯行当時著しい情動状態にあってその責任能力に障害があり、限定責任能力の状態にあったと判断されても不当でない、というのである。

しかしながら、この鑑定に対しては、その基礎とした資料の点で疑問があるといわざるを得ない。すなわち、右鑑定は、犯行時及びその前後に関する被告人の鑑定人に対する供述をその主たる資料としているのであるが、この供述は、すでに前段において認定した被告人の捜査段階における自白及び関係証拠により認められる本件犯行時の客観的状況と相応しないものであるのに、この点を全く考慮せず、右供述をもって真相に合致するものと判断し前記の結論を導いたのは主観に過ぎるものであって、相当でない。特に、被告人の本件犯行につき、当初小切手を騙し取ることのみを考えていたにもかかわらず、ボックスレンチを落として被害者の反撃にあい計画が挫折したと感じた途端に、絶望とともに気分の昂揚、一種の爽快感さえ伴うような異常な興奮状態に陥り、衝動的な激しい暴力行為を示したと説く点は、右鑑定が基礎とした被告人の前記供述を矛盾なく説明しえたとしても、小切手の騙取のみを被告人の当初の目的と解している限り、本件犯行の客観的状況に合致した合理的な説明とはとうてい認めがたく、採用することはできない。また、右鑑定は、被告人にかなり著しい健忘が存在するとして、被告人が鑑定人に供述する時計の盗取及び絞首についての記憶の欠損をもってその重要な根拠としている点も、時計の盗取及び絞首の点についての被告人の捜査段階の自白が具体的、詳細かつ自然なものであることに照らし、左袒しがたいものがある(なお、原判決は、記憶欠損の理由として、被告人が本件犯行の翌日である昭和五二年一〇月二八日付司法警察員に対する供述調書の作成段階において、本件犯行の全般にわたってまでその行動を想起できなかったことを挙げているが、それが逮捕された当日のもので右のようなことは通例ありうることと考えられるし、また、被告人の他の供述調書の内容と対比、検討することなくそのことのみをとらえて記憶欠損があるとするのは相当でない)、さらに、右鑑定が被告人の人格の異常性をいう点も、被告人の身体的な障害条件を云々するものでないことは明らかである。

以上の点からBの鑑定の結果は採用し難く、むしろ本件犯行はさきに認定したごとく被告人が被害者方へ赴く時点においてすでに企図していたもので、その企図どおり敢行されたものであることからみて、仮に犯行の時点において情動状態にあったとしてもその責任能力に消長を来すべきものではない。その他記録を精査しても犯行当時被告人が精神状態に異常を来していたことを疑うべき証跡は存しない。

そうしてみると、右鑑定と同趣旨の理由により犯行当時被告人が心神耗弱の状態にあったと認定した原判決は、事実を誤認したものであって、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点でも破棄を免れない。論旨は理由がある。

(結論)

弁護人柳瀬宏の控訴趣意第二、弁護人富阪毅、同東畠敏明の控訴趣意第四点及び検察官の控訴趣意第三点(いずれも量刑不当の主張)に対する判断を省略し、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従い更に次のとおり判決することとする。

(一)  罪となるべき事実

被告人は、昭和五〇年一〇月ころから、神戸市生田区△△×丁目××の×に事務所を設けて母G子名義で「Eローン」と称する金融業を営んできたが、貸付金の回収不能が重んだことなどにより、昭和五二年四月ころから営業不振に陥り、同年八月ころには右営業により面倒を見ていた家族の生活費にも事欠く有様に立ち至っていたところ、同年一〇月中旬当時、同市生田区△△×丁目官地有国鉄高架下×××号所在の店舗で古物商を営むA(当時三五歳)に対して従前から受託してきた腕時計の売買斡旋などの取引による三二万円余の債務を負担していたほか、前から同人の手もとにあった外国製男物腕時計二個を他に贈物などとして使用する目的で同人より買受けることを予約し、同人に右腕時計二個の他への売却を差し止めてもらっていたこともあって、そのころ、同人から前記負債の弁済ばかりか、右腕時計二個の売買予約の始末を迫られ、その代金一〇〇万円の支払を強く催促されて、同人に対しその支払延期を懇請するなどして過ごしてきたが、最早口頭の言いわけによる支払延期を許されず、同年一〇月二四日、当時所持していた金額一一〇万円余の不渡小切手(振出人D子)の振出日を昭和五一年一〇月二五日から昭和五二年一〇月二五日に改ざんしたうえ、これをその支払保証のために右Aに交付し一時その催促を免れたものの、やがて同人に右小切手の改ざんを察知されて、同人からこれ以上その支払を引き延ばせば右改ざん小切手を交付した一件を明るみに出すと言われ、そうなれば最早金融業も廃業せざるを得ないとその対策に苦慮した末、同月二六日、同人に対し翌二七日午前一〇時に前記被告人方事務所で、同人の友人であるC立会のもとに右代金を支払う旨を約束するに至った。

そこで、被告人は、右約束の日時に右代金を支払う当てもなく、ただ前記小切手を取り返えさねばならないと思案の末、同月二七日午前六時ころ、前記被告人方事務所から前記A方店舗に電話をかけて、同人とやりとりした後、結局、その場から直ちに右A方店舗に現金を持参する旨の虚言を申し向けて、右小切手を取り返えすため同店舗に赴くことにしたが、その手段として、札束に似せたものを右Aに見せて油断させそのすきに同人の頭部をボックスレンチで殴打し、同人を殺害してでも小切手を強取しようと企て、被告人方事務所にあった全長二五センチメートルのボックスレンチと札束に見せかけた新聞紙包み(その中には広告用チラシを札状に切ったものを入れていた)を携えて、同日午前六時二五分ころ、前記A方店舗に赴き、同所において、同人からまず現金の交付を求められたのに応じ、右新聞紙包みを側に置いた小型リュックから取り出して同人に手渡そうとしたが、その際ズボンの後ポケットに差込んでいた右ボックスレンチが床に落ちて、これを見た同人が「お前やっぱりあれやったんか。」と言いながらパイプイスを前に突き出したのを機に、右ボックスレンチで同人の頭部を二、三回殴打し、同人が二階に逃げようとするや、これを階段からひきずりおろして、さらに右ボックスレンチで同人の頭部などを数回殴打した後、床に仰向けに倒れた同人の胸部などを革靴ばきの足で数回強く踏みつけて、そのころ、同所において、同人を心臓破裂により失血死させて殺害したうえ、同店舗内で右小切手を捜すとともに、陳列棚にあった同人所有にかかる時価約二万円相当の女物腕時計一個を強取したものである。

(二)  証拠の標目《省略》

(三)  弁護人の主張に対する判断

弁護人は、被告人は本件犯行当時著しい情動状態に陥って心神耗弱の状態にあった旨主張するけれども、さきに判断したとおりこれを否定するのが相当であるから、右主張は採用しない。

(四)  法令の適用

被告人の判示所為は刑法二四〇条後段に該当するので、所定刑中無期懲役刑を選択し、同法二一条を適用し原審の未決勾留日数中九〇〇日を右刑に算入し、押収してある女物腕時計一個は本件犯行の賍物で被害者Aに還付すべき理由が明らかであるから、刑事訴訟法三四七条一項によりこれを右被害者の相続人に還付し、原審及び当審の訴訟費用は同法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。

なお、量刑について付言しておくに、被告人は、無計画にも被害者との間に高額な時計の買取りを予約し、その代金の支払に窮した末、不渡小切手の振出日を改ざんして被害者に交付し、支払の催促を一時免れるという姑息な挙に出ておきながら、被害者が支払請求の過程で右不正を明るみに出すと言ったからといって、被害者を殺害して右小切手を取り返すことを正当化する理由は全くないのに、これを企て、兇器であるボックスレンチを用意し、被害者を油断させて殴るため札束に見せかけた紙包みを作り、他人に自己の犯行と気付かれないように単車を被害者方から離れた場所に置くなどして本件犯行を敢行したものであって、極めて計画的というべく、その動機においても酌量の余地はない。また、殺害の手段、態様をみても、被告人は、予め用意したボックスレンチでいきなり被害者の頭を殴りつけ、被害者が二階へ逃げようとするや、これを引きずり降してさらに頭を右レンチで多数回殴ったうえ、その場に倒れうめき声をあげた被害者ののどに左手を当て巨体でのしかかりながら右レンチで頭を殴り、最後には立ち上がって胸を足で何回か踏みつけ、心臓破裂により即死同然に被害者を殺害したものであって、被害者の死体に頭部挫裂創七個を含む計三九個の創傷が存したことに照らしても、その犯行の執拗かつ残虐さを物語っている。また、被害者は、当時三五歳の独身男性であったが、鹿児島県の親元で高校を卒業した後、集団就職で大阪へ出て正業に従事し、昭和四五年ころから独立して店舗を持ち古物商を営んでいたものであり、その間妹三人を神戸へ呼び寄せて世話をし、それぞれが世帯を持って落ち着き、これからという時期に本件の惨事に見舞われたものであって、その無念、痛恨さは察するに余りある。被害者の母親が被告人に対し極刑を望んでいるのも、悲嘆の深さを物語るものである。加えて、本件が社会に与えた影響も大きかったことを考慮されなければならない。こうした点に徴すると、被告人を本件犯行に駆り立てた背景には金融業の営業不振などがあったこと、原判決前の昭和五三年五月四日被告人の母親、実兄と被害者の両親との間に示談金を一、〇〇〇万円とし、当初一〇〇万円を支払い、その後は毎月五万円を支払うことで話合いが成立し、当初の一〇〇万円は支払われたほか、月々の支払も現在まで三年近く滞りなく履行されていること、被告人の母親が被害者の菩提寺へ参るなどその冥福を祈っていること、被告人にはこれまで前科前歴がないこと、被告人の性格、年令、反省の程度など記録及び当審の事実取調の結果によって認められる被告人に有利な情状を十分に酌んでも、被告人に対しては無期懲役をもって臨むのが相当と判断される。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 瓦谷末雄 裁判官 香城敏麿 鈴木正義)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例