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大阪高等裁判所 昭和37年(ネ)376号 判決 1962年10月19日

控訴人(原告) 孫斗八

被控訴人(被告) 国・大阪拘置所長

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人は、「原判決を取消す。本件を大阪地方裁判所に差戻す。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人ら指定代理人は、主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上及び法律上の主張並びに証拠の提出、援用、認否は、左に記載する外は、原判決事実らん摘示のとおりであるから、これを引用する(但し、原判決六枚目表一一行目の「個人教誨堂」とあるは「個人教誨室」、同一三枚目表一〇行目の「布告六五条」とあるは「布告六五号」、同一八枚目表八行目の「頃になつており」とあるのは「頃になつておこり」、同二〇枚目裏一〇行目の「主張するであり」とあるは「主張するものであり」、の各誤記であることが明かであるから、訂正する。)。

第一、控訴人の主張

(一)  請求の趣旨第三ないし第五項の各訴の適法性について。

右各訴は、左記各項の理由により、適法である。

(1)  右各訴が適法であるかどうかは困難な問題である。しかし、

(イ)当事者間に死刑執行をめぐる公法上の権利関係の存否について裁判によつて確定するに適する法律的紛争が存在していること、(ロ)その紛争が裁判によつて解決するに足る状態で現存していること、(ハ)その状態は、権利侵害の危険がさし迫つていること、(ニ)他に訴訟上救済方法がなく、控訴人の生命を守るため、真に右各訴による外ないのであるから、右各訴は、いずれも適法であるというべきである。原判決は、被控訴人らの公法上の義務確認訴訟は許されないとの主張を排斥して「他に訴訟上救済方法がなく、国民の権利の救済上真にこの訴訟によるほかないものについては、これを認めることが許されるものと解する。」と判示しながら、最高裁第三小法廷昭和三六年一二月五日判決に同調し、右各訴を不適法として却下したのは失当である。右最高裁判決が不当であることは後述する。

(2)  右最高裁第三小法廷昭和三六年一二月五日判決は「およそ死刑を言渡す判決は、裁判所が法律に従い当該事件につき国が具体的に現行法所定の執行機関及び死刑執行方法により当該被告人に対し死刑を執行すべき権利を有し、被告人は、これを甘受すべき義務(ないし受けるほかない法律関係)あることを当然予定し、肯定した上死刑に処すべきことを命ずる趣旨のものである。」と判示し、右見解を基礎理論として死刑受執行義務不存在確認の訴を不適法として却下しており、原判決もまた右判決の右見解を基礎理論として控訴人の前記各訴を不適法として却下した。

しかし、右最高裁判決の右見解は正当ではない。裁判所が合憲な右法律関係の存在を予定することは、まさしく当然のことであり、異論のあるはずはない。けれども、裁判所は、果して現行法所定の具体的な死刑執行方法の存在を具体的に肯定したうえで死刑を言渡しているのであろうか。思うに、裁判所は、死刑が監獄内において合憲な執行方法によつて、執行されるものとの前提に立つて、それ故に、具体的な死刑執行方法については関知することなく死刑判決を言渡しているものというべきである。このことは、最高裁大法廷昭和二三年三月一二日判決の「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条(憲法第三六条)にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三六条に違反するものというべきである。」との判文が明白に証明している。すなわち、死刑につき残虐な執行方法を論じながら、なお、明治六年太政官布告第六五号については一言半句も言及しておらないのである(右判決における島裁判官らの補足意見及び最高裁大法廷昭和三六年七月一九日判決における藤田裁判官らの補足意見参照)。

要するに、憲法第三一条の適法手続の要請は、判決言渡の段階においては、正当な刑事実体法、合理的な訴訟手続の存在と適用とをもつて充足されるものであると解するを相当とする。

しかし、刑罰としての死刑が生命剥奪を目的とする観念であるところから、裁判所が死刑を言渡すとき、その判決の内容は、死刑執行方法につき現行法所定の具体的方法の存在を肯定し、かつ、それを包含するのではないかとの疑問が生じないでもない。けれども、刑罰請求権実現の手続が、起訴、判決、執行の三段階に分れている点から考察すると、死刑の具体的な執行方法に関しては、判決確定後その執行の段階において問議せらるべきである。現行法によれば、裁判の執行に関し検察官のした不当処分については、刑事訴訟法第五〇二条により言渡をした裁判所に異議申立ができるが、この申立は、刑執行の着手があつた後においてのみ許されるものであることは判例の示すところである。そうすると、本件のように、死刑判決確定後執行の段階に入つた控訴人につき、その主張の理由に基づく被控訴人らに対する前記各訴を許容し得ないとすると、他に控訴人を救済する途は阻止せられる。

以上説示に照して考察すると、最高裁第三小法廷昭和三六年一二月五日判決の前記見解は不当であり、従つて、これを基礎理論とする同判決及び原判決は、いずれも失当であるというべきである。

(3)(A)  原判決は、「判決において言渡された死刑にしてその執行方法を包含するものである以上、法令に基いて執行機関が採用している現行の死刑の執行方法を違法として争うには、死刑そのものを、すなわち、死刑を言渡す判決そのものを違法として争うべきものであることは理論上当然のことである。」と判示している。

しかし、右見解は、左記(イ)、(ロ)の理由により、不当である。

(イ) 刑事訴訟法によれば、裁判所は、被告事件について、犯罪の証明があつたときは判決で刑の言渡をしなければならないし(同法第三三三条第一項)、有罪の言渡をするには、法令の適用を示さねばならぬ(同法第三三五条第一項)が、刑罰権の存否を審査し、その範囲を確定することを職責とする刑事裁判所の権限から考えて、右にいう「法令」とは、刑法所定の罰条、犯罪の成立及び刑の加重規定のみを指称する。従つて、刑事裁判所において言渡される死刑判決には、刑法所定の構成要件に該当する行為に適用される罰条、犯罪の成立及び刑の加重の根拠規定を示して、死刑が選択される過程を明らかにするだけでよく、それ以上に死刑の具体的な執行方法まで包含しないし、刑事訴訟法上判決に死刑の執行方法の特定は要請せられていない。控訴人に対する神戸地方裁判所の死刑判決も右限度において判示せられ、死刑の執行方法につきなんら判示していない。もちろん、法令の適用自体と適用を示すことは別であるから、当然に適用される規定、たとえば、自由刑の執行を定めた刑法第一二条第二項、第一三条第二項、死刑の執行に関する同法第一一条第一項のような規定は、刑を言渡す判決の到底等閑に付し得ないところであろうけれども、それ以上に、刑の具体的な執行方法に関する法令については、刑を言渡す判決の関知しない事項に属する。換言すれば、死刑を言渡す裁判所は、死刑の具体的な執行方法について心を煩わすことなく、ただ、刑法、刑事訴訟法に従つて死刑を言渡しているのである。

かくて、判決が確定すれば、執行力を生じ、刑の執行手続が開始せられる。刑事訴訟法は、「この法律は……刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」(同法第一条)と規定し、第四七一条以下で「裁判の執行」に関する準則を規定している。ここにいう「裁判の執行」とは、裁判所で言渡された刑を具体的に実施することを意味し、それは、広義の刑事訴訟手続に属する故、刑事訴訟法の規制を受けるけれども、刑事裁判所は、裁判の執行に対する救済の申立を介して執行の適正確保に関与する(同法第五〇一条、第五〇二条)外は、裁判の執行の段階では最早、登場することはない。あとは、刑の執行を担当する行政機関と刑の執行を受ける者との法律関係となるのである。

以上の説示により、原判決の前記見解が誤つた前提に立つた不当のものであることは明白である。

(ロ) もし、仮に残虐な執行方法を規定した監獄法が制定されたとするならば、原判決の右見解に従えば、同法所定の当該規定のみが違憲であるばかりでなく、残虐な執行方法を規定したがために死刑そのものが違憲となるものであると解するの外ないであろう。しかし、これは非理である。なぜならば、前記最高裁大法廷昭和二三年三月一二日判決は、そのように解しないで、「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに、同条(憲法第三六条)にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。……将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三六条に違反するものというべきである。」と判示しているからである。

(B)  なお、原判決は、「死刑を言渡す判決は、その内容として死刑執行方法をも包含しているものと解するが相当である。」と判示しているが、この見解は、正確さを欠いている。

上記(A)の(イ)の説示に従つて、考えると、右は、「死刑を言渡す判決は、当然の事理として監獄法等に死刑執行方法の特定あることを予定し、刑法第一一条を肯定したうえで死刑に処すべきことを命ずるものである、と解すべきが正当である。」とすべきである。

(4)  前記最高裁第三小法廷昭和三六年一二月五日判決は、「行政事件訴訟特例法によつて死刑執行方法を争うのは、行政訴訟をもつて刑事判決の取消変更を求めることに帰するから、かかる訴訟は許されない。」旨判示し、原判決もまた右見解に同調している。 しかし、控訴人は、本訴で死刑判決の取消変更を求めているのではない。控訴人に対する死刑判決は、既に確定し、その執行の段階に入つており、法律上右判決の取消変更はできないのである。ところで、裁判の執行は、検察官がこれを指揮し、刑の執行手続については、刑事訴訟法第四七一条以下にその規定が存する。しかし、刑執行の実質面を担当する行刑は、監獄法によつて規律される点に注目すべきである。そこでは、行政的合目的性の理念により、確定裁判によつて定立された具体的な法の執行過程がはじまるのである。この点で自由刑と死刑とは区別せられることはない。形式は異つても、その実質は変らない。そして裁判所は、執行の段階においては、前述のように、刑事訴訟法第五〇一条及び第五〇二条による申立を介してのみ関与できるにすぎない。

しかし、この段階においても、適法な判決であれば、それをどのように執行してもよいのではなくて、憲法の保障する人権は、不当に侵害されてはならず、適法、適正な手続は、この段階においても、貫かれなければならない。死刑執行の段階にある当該上告人の死刑受執行義務不存在確認の訴を前記見解に基き不適法として却下した右最高裁判決は不当であり、これに同調した原判決も失当である。

(5)  原判決は、「死刑の執行方法が違法であるとの主張を刑事判決に対する刑事訴訟法所定の方法によりすることができるとの理論は、つとに最高裁判所の採用して来たところである(例えば、昭和二三年六月三〇日、同三〇年四月六日、同三六年七月一九日各判決)。」と判示している。しかし、右例示の各判決は、いずれも死刑執行の段階における法律関係をとらえたものではなく、裁判所が死刑を言渡すことが違法であるか否かの争につきなされたものである。このことは、「従つて、絞首刑は、憲法第三六条に違反するとの論旨は理由がない」、または「論旨は、死刑の執行方法について法律の定めがないに拘わらず、その方法を特定することなく敢えて絞首刑たる死刑を宣告したことは、憲法第三一条、第三六条に違反すると主張する。しかし………。」という判文自体がそれを明かにしている。従つて、右各判決は、結局のところ、実体法違反を審理したものと解すべきである。以上の次第であるから、原判決の前記判示は不当である。

(二)  原判決事実摘示請求原因三及び四の補充

(A)  明治三年一二月二〇日発布された新律綱領首巻の「図」の中の「獄具図」で、「絞柱」式絞首方法について図解いりの詳細な規定を設けたが、それは、絞柱の前に被処刑者を立たせ、その首に巻いた絞縄を柱の穴から背後にまわし、その縄尻に分銅をつるして首をしめる方式である。ところが、この絞柱式は、同五年一〇月鹿児島県伺いも「臨刑ノ状ヲ聞クニ囚人空ニ懸ラレ命未タ絶セサル際腹肚起張血耳鼻ヨリ出テ其苦痛言フ可ラス」といつているように、被処刑者の苦痛がはげしく、そのうえ三件の蘇生事件を起すほど稚拙な刑具であつた。かくて、翌六年二月二〇日太政官布告第六五号をもつて、「絞罪器械図式ヲ頒ツ」布告が発せられたのである。

この「絞架」は、その図解によると、八尺四寸に一丈の広さの台を地上九尺の高さに設け、その台上に更に高さ八尺の梁を作り、そこに二本の絞縄をつるし、台の中央部に八尺に六尺の踏板を仕掛けてハンドルでこれを落すようにできている。そして、「凡絞刑ヲ行フニハ先ツ両手ヲ背ニ縛シ紙ニテ面ヲ掩ヒ引テ絞架ニ登セ踏板上ニ立シメ次ニ両足ヲ縛シ次ニ絞縄ヲ首領ニ施シ其咽喉ニ当ラシメ縄ヲ穿ツトコロノ鉄環ヲ項後ニ及ホシ之ヲ緊縮ス次ニ機車ノ柄ヲ挽ケハ踏板忽チ開落シテ囚身地ヲ離ル凡一尺空ニ懸ル凡二分時死相ヲ験シテ解下ス」。これが太政官布告第六五号所定の死刑の執行方法である。

この絞架式絞首方法は、同年六月一三日太政官布告第二〇六号改定律例首巻の図の中の「改正獄具図」にそのまま承継されたけれども、結局明治一五年一月旧刑法の実施にともない失効したのである。いつどのような経過で現行の地下垂下式絞首方法が登場したのか全く不明であるが、絞架から刑壇に進化する途上の一変型として広島刑務所の半地下式絞首台が世に知られている。

新律綱領首巻中の「獄具図」は、笞杖、訊杖及び絞のための絞柱、絞縄、懸錘、踏石、踏板の図とその製作方法並びに絞刑の執行方法を規定しており、太政官布告第六五号は、右規定中の絞のための絞柱以下の規定の一部を改正している。また、改定律例首巻の「改正獄具図」は右「獄具図」中の訊杖の寸法と絞に関する部分のみ改正している。これら三者の関係を理解する手がかりとして手塚豊教授の所論が参考になると思う。それによると、「新律綱領は、恒久的な立法ではなく、『綱領』の名称が示すように暫定的な応急処置法であつた。したがつて、その施行後、政府が個別的に新しい条例を発布し、或は条文の部分的改正をしばしば行つたことは当然の結果であつた。このような改正条項を集成し、補正し、補足法の形式で判定したのが明治七年の改定律例である。」というのである(同教授「明治初期刑法史の研究」八二頁)。右所論からみても、右三者の関係についての控訴人の主張は正当であるというべきである。

(B)  太政官布告第六五号公布三日後の明治六年二月二三日司法省達第二一号は「今般絞罪器械改正図式御頒布相成候ニ付テハ右図式中製作方法詳細之儀ハ当省ヘ可伺出此段相達候也但図式ハ監獄図式ニ加フ」といつているので右太政官布告第六五号中の絞罪器械図式が旧旧旧監獄則の附表である「監獄図式」に編入されたことがうかがい知られる。しかし、右監獄則は、明治一四年九月一九日太政官達第八一号旧旧監獄則の制定実施にともない失効した。その後はこれに類似の規定はない。

「死刑場ハ監獄ノ一隅ニ設ケ墻壁ヲ以テ外見ヲ防クヘシ」(旧旧監獄則第四一条、旧監獄則施行細則第三六条)という規定があるだけである。

(C)  新律綱領と改定律例とを近代的な法律に改めたのが旧刑法(明治一三年太政官布告第三六号)であるが、同法は、同法附則(明治一四年太政官布告第六七号)、治罪法(同一三年太政官布告第三七号)及び旧旧監獄則(旧旧旧監獄則を改正したもの)と共に同一五年一月一日より施行せられた。

旧刑法施行時における死刑関係規定は、旧刑法第七条、第一一条、第一二条、同法附則第一条ないし第六条、治罪法第四六〇条、第四六三条、旧旧監獄則第三二条、第四一条がそのすべてである。そのうち、死刑執行の方法に関する規定は次のとおりである。

「刑執行ノ細目ハ別ニ規則ヲ以テ定ム」(旧刑法第一一条)、「死刑ハ其執行ヲ為ス裁判所ノ検察官書記及典獄刑場ニ立会典獄ヨリ囚人ニ死刑ヲ執行ス可キ事ヲ告示シタル後押丁ヲシテ之ヲ決行セシム但其時限ハ午前十時前トス」(同法附則第一条)、「死刑ノ執行ニ付テハ書記其始末書ヲ作リ刑ノ執行規則ニ従ヒ立会ヲ為シタル官吏ト共ニ署名捺印ス可シ其他刑ノ執行ニ関スル方法細目ハ別ニ規則ヲ以テ之ヲ定ム」(治罪法第四六三条)、「死刑ノ執行ハ午前十時ヲ過ルヲ得ス其執行中ハ看守ヲシテ厳ニ刑場ノ門戸ヲ護ラシムヘシ其遺骸ハ死相ヲ験シタル後仍ホ二分時ヲ過サレハ埋葬若クハ下付スルコトヲ得ス」(旧旧監獄則第三二条)、「死刑場ハ監獄ノ一隅ニ設ケ墻壁ヲ以テ外見ヲ防クヘシ」(同第四一条)。

旧刑法制定をもつて、近代的刑事法制の整備に乗り出したと同時に、このとき死刑の密行主義を採用した点に注目を要する。ここにおいて、それまでの混乱した規定を整理し、死刑執行方法の具体的な事項、すなわち、その事実行為は「監獄の典獄の考想に委ねられた」(向江璋悦、「死刑廃止論の研究」四〇三頁)と解すべきである。その後死刑執行の方法細目に関する規定は、旧憲法下において、更に幾変遷して現行法規に至つたのであるが、その事情もこまかく考察する必要がある。

(D)  最高裁大法廷昭和三六年七月一九日判決は、「新律綱領の絞柱式は、その後、太政官布告第六五号により絞架式に改められ、この方法は、更に改定律例に引継がれたまま今日に及んでいるわけであるが、太政官布告第六五号及び改定律例は、昭和二二年法律第七二号によつて失効したものである。」旨の上告論旨に対し、「死刑執行方法に関する事項を定めた所論明治六年太政官布告第六五号は同布告の制定後今日に至るまで廃止され、または失効したと認むべき法的根拠は何ら存在しない」。「それ故、右布告は、右法律によつて、昭和二二年一二月三一日限り効力を失つたものであると解する余地はなく、新憲法下においても、法律と同一の効力を有するものとして存続しているのである。」と判示しているが、右説示は失当である。

なお、右判決を解説された栗田正最高裁調査官は、その解説において改定律例首巻の「改正獄具図」を太政官布告第六五号の補充規定にすぎないとの前提に立つて、「たとえ、新律綱領及び改定律例が廃止されても、太政官布告第六五号は、当然にはこれに附随して失効することなく、依然旧刑法所定の死刑(絞首刑)の執行方法を定めた法規として効力を保有していたものと解すべき余地がある。」と述べておられる。

しかし、新律綱領は、明治政府が初めて全国的に施行した刑法典ではあつたけれども、その名が示すとおり、それは、暫定的な応急処置法であつた。それ故、その施行後条文を改廃し、また、別個の新しい布告をしばしば発している。太政官布告第六五号もその一つである。これらを集成し、補正して制定されたのが改定律例である。かくて、右布告第六五号を新律綱領の補充規定とみ(絞罪器械改正のための伺いには、「新律綱領獄具図中絞罪器械ノ儀ハ」となつていて、布告第六五号の冒頭には「絞罪器械別紙ノ通改正相成候」といつている。)、改定律例を新律綱領の補足法と解するのはともかく、「改正獄具図」を布告第六五号の補充規定であるというのは妥当でない。

(E)  死刑執行に関する前述の旧刑法、同法附則、治罪法及び旧旧監獄則施行後、死刑執行の方法細目に関する規定に変更があつたが、現行の死刑執行の方法についての法規は、刑法第一一条第一項、監獄法第七一条第一項、第七二条のみである。

日本国憲法は、死刑そのものを禁止しているのではなくて、残虐な方法により生命を剥奪することのみを違憲と解するのが、従来の判例の態度である。ひとしく、死刑であつても、その執行方法は、人類文化の進歩発展に従い漸次残虐性ないし苦痛を軽減する方向に向つていることは顕著な歴史的事実である。故に、判例に従うとするも、憲法第一三条、第三一条、第三六条及び第九七条をふまえれば、死刑の執行方法につき最良の方法を探求し、残虐性の最少な方法を選択すべきことを要請している、と解すべきである。さらにいえば、憲法第三一条の保障する適正手続の原則は、立法、行政、司法に対して憲法の精神と今日の文化に合致する具体的正義を実現すべきことを要請しているのである。

旧憲法による絶対主義天皇制国家体制は、第二次世界大戦の結果、本質的かつ全面的に変革せられ、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として、現行憲法が制定されたのである。かくて、国の法秩序に根本的な変革がもたらされ、刑事訴訟法等が改正されたことは周知のとおりである。こうした新しいヴイジヨンと人類の文化遺産のうえに立つて、新しい時代に即応した正義と秩序との調和が求められなければならなくなつたのに、旧憲法的意識と旧憲法的状況は克服されず、「憲法の空洞化」は、今や憲法改悪に向わんとしている。

以上述べた結論として、憲法は、死刑の執行につき、最良の方法ないし苦痛を最少限度に止めるための、すなわち死刑の執行方法の基本的事項である刑具の構造、絶命の手段及び被処刑者の取扱方法は、法律事項に該当すると宣明しているとみるべきである。従つて、少くともその大綱は法律をもつて規定すべきである、というべきである。しかるに、死刑執行の方法に関する現行法規は旧態依然たる前記三カ条に過ぎぬ。従つて、現行死刑執行制度は死刑執行方法についての法律事項につき、その法律を欠き、この点において、憲法第三一条に違反するものである。

(三)  原判決理由の刑事訴訟法第五〇二条の異議申立に関する判示について。

原判決は理由において「死刑の執行に関しても刑事訴訟法第五〇二条に基いて異議の申立ができる。」旨及び「事前において右異議の申立を認める必要はない。」旨判示している。

ところで、裁判例によれば、同法第五〇二条の法意は、刑を言渡した裁判確定後、検察官が右裁判に基ずき刑の執行指揮をなし、執行の着手があつた後において、その執行の方法に関する処分の内容が裁判の趣旨に反し、違法または不当な刑の執行を受けることを避止し、これを是正せしめる目的をもつて異議の申立を許容したものと解されている(甲第二七号証、神戸地方裁判所昭和三五年(ム)第七五五〇号決定参照)。しかし、死刑の場合にはここに問題点がある。

右にいう「検察官の処分」とは、刑事訴訟法の規定に基いて検察官のする裁判の執行に関する処分を指称するものと解するのほかないが、現行法規の中には、旧刑法附則第一条所定の「典獄ヨリ囚人ニ死刑ヲ執行ス可キ事ヲ告示シタル後押丁ヲシテ之ヲ決行セシム」というような規定が何もない。そこで、慣行として実務上は一般に死刑執行の着手直前、刑場の仏間において死刑執行の告知がなされているが、かような状況、段階においては、被処刑者は、刑事訴訟法第五〇二条所定の異議の申立(刑事訴訟規則第二九五条第一項により、右申立は書面でしなければならぬ。)をすることはできない。大阪拘置所に拘禁されている控訴人についても右異議申立の機会は与えられず、従つて、これをなすことは全くできない。自由刑の執行であれば、裁判の執行中においても右異議の申立はできるし、また救済も可能である。しかし、死刑の場合は、裁判の執行の着手がそのまま絶命手段の着手であることにかんがみ、特殊なケースとして特別な救済の途を考えないでは著しく正義の要請に反する。

右の次第であるから、原判決の前記判示は不当である。

(四)  被控訴人らの主張に対する反ばく。

(A)  被控訴人らは、「死刑の実体法として刑法第一一条第一項があり、その執行手続法として同法第一一条第二項、刑事訴訟法第四七五条ないし第四七九条及び監獄法第七一条等があり、これらの規定をもつて、憲法第三一条の要請は、みたされている」旨及び「憲法第三六条は、拷問及び残虐な刑罰が立法上及び事実上行われることを禁止している。しかし、同条は、公務員が拷問によらないで取調等をする具体的方法まで法律(刑事訴訟法等)をもつて規定することを要請するものではないのと同様に、絞首刑が残虐な刑罰にならないように、みぎに述べた具体的な執行方法まで法律で規定することを要請するものではない。」旨を主張する。

しかし、死刑執行の手続及び方法に関する基本的事項が法律事項に該当することは、最高裁大法廷昭和三六年七月一九日判決がこれを認めている。元来拷問とは、被疑者、被告人の身体に暴行を加えて自白を強いるための手段に用いられる取調方法であつて、刑罰の執行方法ではない。しかし、憲法には拷問禁止の規定(第三六条、第三八条)が存し、更に、刑事訴訟法第三一一条、第三一九条の規定を設けて、万全の保障態勢をとつている。刑事訴訟において、自白を証拠とするためには、検察官は、その任意性につき合理的な疑を容れない程度に証明することを要する。この故に、憲法に拷問禁止規定があるのであるから、法律でその注意規定などをおけば、それで人権は、充分保障されると思う。しかし、残虐性禁止については、これと著しく事情が異る。すなわち、「公務員による残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」との立法事項を実質的に全うするためには、死刑の場合、事実上残虐な執行方法が行われないように、その保障規定を設けなければならない。なぜなら、死刑執行を執行者の恣意や残虐行為から保障するためには、被控訴人らが主張するような死刑についての実体法及び執行手続法のみでは不充分であつて、更に、執行方法の基本的事項である刑具の構造、絶命の手段及び被処刑者の取扱方法の大綱は、法律をもつて規定しなけば、実質的保障は、全うせられないからである。現行法にはかような規定は存しない。

(B)  なお、被控訴人らは「死刑の執行は、法務大臣の命令により検察官が死刑執行指揮書を発して監獄の長が行うのであり(刑事訴訟法第四七二条、第四七三条)、死刑の執行方法の違法を主張する者は、監獄の長から死刑を執行する旨の告知を受けたときは、検察官の右執行指揮処分につき、裁判を言渡した裁判所に異議の申立をすることができるのである(同法第五〇二条)。」と主張する。

しかし、この主張については次のように考察することができる。まず第一に、検察官の右死刑執行指揮書には、「いついつか死刑執行されたい」という趣旨の記載があるのみで、その執行方法については何らの指揮もなく、その他のことについては、いついつか確定したどこどこの判決についてというように事件及び被執行者を特定する程度に記載してあるとのことである(原審証人西垣活応第二回証言)。これでは検察官の死刑執行指揮に対し異議の申立をすることはできない。なぜなら、検察官の処分には死刑執行方法が包含されておらず、しかし、控訴人は死刑執行方法の違法を主張しているからである。第二に、被控訴人らは、被処刑者において監獄の長から死刑を執行する旨の告知を受けたときは、異議の申立ができるというが、この告知は何ら法規に基いてなされるのではなく、いわば、慣行にすぎない。従つて、右のような告知をしないで死刑の執行をしても、違法の問題は生じないといえるし、告知をするとしても、いつそれをするかは監獄の長の恣意にゆだねられている。第三に、検察官による死刑執行指揮の内容が右のとおりであるにもかかわらず、被処刑者の絶命時間は、大阪拘置所では一二分ないし一九分(平均一四分二〇秒)、広島拘置所では一二、三分、宮城刑務所では一二分ないし二五分(平均一六分一七秒)となつている。これは、原審における証拠調の結果明かなように、三者の刑具、処刑方法がそれぞれ異ることによる。ところで、自由刑の執行についての検察官の執行指揮は、形式的な刑の執行面に限られ、実質的な行政の面にまで及ばないものと解され、それは、「裁判の確認と執行実施機関へのそれの送致」のことなのである。この確認のために、「裁判書又は裁判を記載した調書の謄本又は抄本を添えなければならない。」が、それ以上は、行刑の分野に入る。死刑の執行といえども、本質的にこれと異ならないが、ことがらの性質上便宜をかねて、刑事訴訟法第四七七条第一項は「死刑は検察官……の立会の上、これを執行しなければならない。」と規定しているだけで、死刑の執行方法については、検察官の指揮監督は及ばないと解すべきである。

以上の次第であるから、被控訴人らの前記主張は失当であり、また右説示からみても原判決の前記(三)の見解の不当であることが明かである。

第二、被控訴人らの主張

控訴人の当審における新な主張中、被控訴人らの従前の主張に反する部分は、いずれも否認する。

控訴人は、刑事訴訟法第五〇二条の異議申立は、死刑執行の場合被処刑者において事実上これをなし得る機会はなく、これをなすことはできない旨主張するが、被処刑者は、検察官の処分を知つたとき、これをなし得る機会はある。しかし、従来右異議の申立がなされた例はない。

第三、証拠<省略>

理由

一、被控訴人大阪拘置所長に対する請求の趣旨第一項及び第二項の各訴の適否について。

右被控訴人は、右各訴は、訴の対象を欠き不適法であると主張するので、その適否について判断する。

右請求の趣旨第一項の訴は、右被控訴人の控訴人に対する、神戸地方裁判所が昭和二六年一二月一九日控訴人に対し言渡し、昭和三〇年一二月二七日確定した「被告人(控訴人)を死刑に処する。」との刑事判決の執行につき、現行死刑執行制度にしたがつて執行する死刑執行言渡処分の取消を求め、同第二項の訴は、右死刑執行言渡処分の無効確認を求めるものであるところ、控訴人主張のように控訴人を死刑に処する旨の判決が確定し、控訴人が大阪拘置所に拘置されていることは当事者間に争いがないが、右被控訴人の控訴人に対する死刑執行言渡処分のなされたことは、これを認めるに足る証拠はなく、弁論の全趣旨によると、右言渡処分は、未だなされていないことが明かである。そうすると、該処分の存在を前提とする控訴人の右各訴は、訴の対象を欠くものであつて不適法であるから、却下を免れない。

二、被控訴人国に対する請求の趣旨第四項、第五項及び被控訴人大阪拘置所長に対する同第三項の各訴の適否について。

(一)  被控訴人らは、右各訴は、いわゆる公法上の義務確認訴訟であるから、不適法であると主張するので考究する。

被控訴人国に対する請求の趣旨第四項の訴は、同被控訴人が控訴人主張の死刑判決の執行につき、現行死刑執行制度に従つて、執行する死刑執行権のないことの確認を求め、同第五項の訴は、控訴人が同被控訴人から右判決の執行につき、現行死刑執行制度に従つて、死刑執行を受ける義務のないことの確認を求めるものであり、被控訴人大阪拘置所長に対する同第三項の訴は、同被控訴人が被控訴人国の執行機関として右判決の執行につき、現行死刑執行制度に従つて死刑を行つてはならない義務あることの確認を求めるものであるところ、右各訴は、国の刑罰執行権に関する権利又は義務の存否の確認を求めるものであるから、被控訴人ら主張のように、いわゆる公法上の義務確認訴訟であることは、いうをまたない。ところで、公法上の義務確認訴訟が現行法上行政事件訴訟として許されるべきであるかどうかについては、学説及び下級審の判例は、積極、消極の両説に分れているが、当裁判所は、公法上の義務確認訴訟は、現行法上行政事件訴訟としては原則として許されるべきでないが、行政行為をなすべきこと又はなすべからざることが法律上き束されている場合で、しかも、裁判所による事前審査によらなければ権利保護のための救済は全く受けられないというきわめて例外の場合のみに許されるべきものであると解するのである。

しかし、当裁判所は、本件の右各訴は、以下述べる理由により、不適法のものであると判断する。

ところで、控訴人は、右各訴の請求の趣旨及び原因において「現行死刑執行制度」という文言を使用しているのであるが、その意味は、場合によつては異なつた意味にも使用されているもののようであり、また、請求原因のうちにはその内容の解釈を必要とするものもあるので、各請求原因毎に請求趣旨との関連において右文言の意味及び請求原因を後記のように、解明した上、順次判断を進めてゆくことにする。

(1)  原判決事実摘示請求原因三、四に基ずく右各訴について。

右各請求原因に基ずく右各訴は、結局現行法による死刑執行方法は、憲法第三一条及び第三六条に違反するものであり、従つて、控訴人主張の確定した死刑判決の執行につき控訴人に対し右死刑執行方法によつて、死刑を執行することは許されるべきでないから、控訴人は、被控訴人国に対しては、同被控訴人が右死刑執行方法に従つて執行する死刑執行権のないこと及び控訴人が同被控訴人から右死刑執行方法に従つて死刑執行を受ける義務のないことの各確認を求め、被控訴人大阪拘置所長に対しては、同被控訴人が執行機関として、右死刑執行方法に従つて死刑執行を行つてはならない義務あることの確認を求めるというにあるものと解せられる。

しかし、およそ死刑を言渡す判決は、裁判所が法律に従い、当該事件につき、国が具体的に現行法による執行機関及び死刑執行方法により、当該被告人に対し死刑を執行すべき権利を有し、被告人はこれを甘受すべき義務(ないし受けるほかない法律関係)あることを当然予定し、肯定した上、死刑に処すべきことを命ずる趣旨のものであることは多言を要しない。すなわち、死刑を言渡す判決は、当然現行法による執行機関及び死刑執行方法を前提とし、従つてかような執行機関及び死刑執行方法を包摂する現行法による死刑執行制度そのものを前提としていることはいうをまたない。右のように死刑を言渡す判決が現行法による死刑執行方法ないし死刑執行制度を前提とするものである点、民事訴訟・行政事件訴訟と刑事訴訟のその性格・対象・裁判・構造等における差異、殊に刑事訴訟法が確定した刑事判決に対する非常救済手続として、特に再審及び非常上告の規定を設け、その他上訴権回復の請求、検察官の不当執行処分に対する異議申立の各規定を設け、刑法が刑の時効完成による執行免除の規定を、恩赦法が大赦、特赦、減軽、刑の免除等の規定をそれぞれ特に設けている点等を彼此参酌して考察すると、現行法による死刑執行方法ないし死刑執行制度が違憲違法であると主張して争うには、かような死刑執行方法ないし死刑執行制度を前提とする刑事判決につき、刑事訴訟法所定の方法によつてこれをなすべきであり、このことなく、もしくはこのことの外に行政事件訴訟によつて、これをなすことは、現行の訴訟制度上許されないものと解するを相当とする(最高裁第三小法廷昭和三六年一二月五日判決参照)。従つて、死刑を言渡す判決の確定後においては、その言渡を受けた者は、行政事件訴訟をもつて、現行法による死刑執行方法ないし死刑執行制度が違憲違法であることを理由に、自己に対する死刑の執行が許されるべきものでない旨主張して争うことはできないものであるというべきである。

そうすると、請求原因三、四に基ずく右各訴は、右説示により、不適法である。

(2)  同請求原因五、六、八に基ずく右各訴について。

右請求原因五は、要するに、死刑には威嚇力がなく、従つて、一般予防の効果のないものであるから、現行法による死刑執行制度は、憲法第一三条に違反するものであり、また、死刑は、社会悪の根元を絶ち、もつて、社会を防衛せんことを企図するものであるところ、控訴人は、現在改悛して全く更生し、従つて、社会悪の根元ではないのにかかわらず、現行法による死刑執行制度は、かような死刑囚に対してもなお死刑を執行するものであるから、憲法第一三条に違反するものであり、従つて、右死刑執行制度によつて控訴人に対し死刑を執行することは許されるべきでないというのである。

次に、請求原因六は、要するに、処断刑又は宣告刑として死刑をふくむ刑法の規定は、憲法第一四条に違反するものであるところ、現行法による死刑執行制度は、右のような刑法の規定を適用して言渡された死刑判決の執行をするものであるから、結局、右憲法の規定に違反するものであり、また、控訴人は、控訴人に対する刑事被告事件の審理において、証人審問権が充分に保障されず、国選弁護人による弁護を受けたが充分な弁護が受けられなかつた、かように刑事被告人としての権利が害されているにもかかわらず、現行法による死刑執行制度は、かような場合における救済措置を講じていないから、憲法第三七条に違反するものであり、従つて、右死刑執行制度によつて、控訴人に対し死刑を執行することは許されるべきでない。というのである。

次に請求原因八(当審において控訴人が補充した主張を含む)は、要するに、控訴人が、その主張の刑事訴訟法第五〇二条によつてなした異議申立に対し神戸地方裁判所がなした申立却下の裁判は、控訴人より裁判を受ける権利を剥奪するものであつて、憲法第三二条に違反する。しかも、右刑事訴訟法第五〇二条による異議申立は、一般に実務上死刑囚においてこれをなすことはできず、控訴人についても右異議申立の機会は与えられず、これをなすことは全くできない。これは、右憲法の規定に反するものである、かように裁判を受ける権利を剥奪せられた死刑囚に対してもなお死刑を執行する現行法による死刑執行制度は、結局右憲法の規定に違反するものであるから、控訴人に対し右死刑執行制度によつて、死刑を執行することは許されるべきでないとうのである。

従つて、右各請求原因に基ずく右各訴の請求趣旨中にいう「現行死刑執行制度」とは、現行法による死刑執行制度を指称するものと解せられる。

そうすると、右各請求原因に基ずく右各訴もまた前同様前記説示により不適法であるというべきである。

(3)  同請求原因七、九に基ずく右各訴について。

右請求原因七は、要するに、拘置監において、死刑囚は強制的に死刑執行前の拘禁中には、宗教々誨を受け、執行直前には、宗教行事を受けるのであるが、死刑囚に対するかような措置は、憲法第一条、第二〇条に違反するものであるところ、現行法による死刑執行制度はかような措置を前置、随伴し、これにより去勢された死刑囚に対し死刑を執行するものであるから、結局憲法に違反し、従つて、控訴人に対し右死刑執行制度によつて死刑を執行することは許されるべきでないというにある。

次に、右請求原因九は、要するに、恩赦の出願が理由ない旨の通知は、死刑執行の言渡とほとんど同時になされるので、死刑囚は、恩赦の出願を理由ないとする行政処分の違法を争うことができなくなる、これは、憲法第一三条、第三一条、第三二条に違反するものであるところ、現行法による死刑執行制度はこのように人権を侵害された死刑囚に対してもなお死刑を執行するものであるから、結局憲法に違反するものであり、従つて、控訴人に対し右死刑執行制度によつて死刑を執行することは許されるべきでないというにある。

従つて、右各請求原因に基ずく右各訴の請求趣旨中にいう「現行死刑執行制度」とは、現行法による死刑執行制度を指称するものと解せられる。

そうすると、右各請求原因に基ずく右各訴も、また、前同様前記説示により不適法であるというべきである。

(二)  被控訴人大阪拘置所長に対する請求の趣旨第三項の訴は、同被控訴人において当事者適格を欠くから、この点からしても、不適法である。

前記のように、控訴人を死刑に処する旨の判決は確定し、控訴人は、大阪拘置所に拘置せられている。拘置監という営造物の管理運営を司る被控訴人大阪拘置所長とその収容者たる控訴人との間には、拘禁という特定の設定目的に必要な限度において、同被控訴人が控訴人を包括的に支配し、控訴人は、同被控訴人に包括的に服従すべきことを内容とする関係いわゆる公法上の特別権力関係が成立していることは疑いがない。しかし、控訴人に対する死刑の執行については、法務大臣の執行命令は未だ発せられず、従つて、検察官の執行指揮も未だなされていないことは、弁論の全趣旨により明かであるから、同被控訴人は、現在において、控訴人に対し前記特別権力関係にあるけれども、控訴人に対する死刑につきこれが執行をなすべき職務権限は未だ具体的には有していないものであるというべきである。そうすると、同被控訴人に対し、控訴人主張の死刑判決の執行につき、現行死刑執行制度に従つて死刑執行を行つてはならない義務あることの確認を求める右訴は、同被控訴人において当事者適格を欠く不適法のものであるというべきである。

(三)  控訴人は、請求の趣旨第三項ないし第五項の各訴がいずれも適法である理由を主張し、殊に前記最高裁第三小法廷昭和三六年一二月五日判決は、誤まつた見解にたつものであるといつて非難し、その理由を詳細に主張している。従つて、当裁判所の前記説示と相容れない見解を主張しているが、控訴人の右所論は、いずれも独自の誤まつた見解にたつものであつて、採用することはできない。

三、以上の次第であるから、控訴人の被控訴人らに対する本件各訴は、いずれも不適法として却下すべきであり、これと同旨に出た原判決は相当であつて、本件控訴は理由がない。

よつて、民事訴訟法第三八四条、第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 井関照夫 安部覚 松本保三)

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