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大阪地方裁判所 昭和50年(わ)3073号 判決 1980年3月07日

被告人 田中四郎

昭二四・一二・七生 郵便局員(休職中)

枡田祐三

昭一八・九・一二生 大阪市会事務局職員(休職中)

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人両名は革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)に所属するものであるが、ほか十数名と共謀のうえ、昭和四九年二月二六日の午後八時ころ、大阪市都島区東野田町二丁目六番地所在の京橋公園(通称三角公園)において、かねて対立関係にあつた日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)構成員の生命、身体に対し共同して危害を加える目的をもつて、ほか十数名とともに、兇器である鉄パイプ約一〇本を準備して集合したものである。」というのである。

二  武智文和及び檜政昭の検察官に対する各供述調書、右両名の公判廷における供述記載、被告人両名の公判廷における供述その他関係証拠を総合すると、被告人田中は昭和四五年ころから、被告人枡田はそれ以前から中核派に所属し、同派の組織である東部地区反戦青年委員会(以下「東部地区反戦」という。)の構成員として活動してきたものであること、昭和四八年暮ごろから同四九年春ごろにかけての東部地区反戦の構成員は、指導者的立場にあるものとして木村靖二、秋保親次及び被告人枡田らが居り、その他に被告人田中、平岡常男、三宅次郎、唐住日出夫、赤沢こと左近竹一、越智文和、檜政昭、鎌倉義之、秋保親次の妻ススキダこと秋保澄子等全部で約二〇名近くの者がいたこと、昭和四七年暮に秋保親次が本件犯行現場とされている京橋公園(通称三角公園)近くの都島区東野田町二丁目所在の東野田マンシヨン三階一八号室をススキダ澄子の名義で借受けて家族三名で居住していたが、昭和四八年四月末には同マンシヨン二階一〇号室を吉村ヨシロウ名義で、ついで同年六月末ころには同マンシヨン三階一一号室を赤沢敏夫名義で借受け、右一〇号室は東部地区反戦の事務所、集会所、構成員の臨時の宿泊所として使用し、一一号室は前記左近及び唐住が住居として使用するかたわら、他の構成員の臨時の宿泊所、集会所としても使用するところとなり、以来、東部地区反戦の構成員は東野田マンシヨンを「ロンシエンアジト」と呼称して、ひんぱんに出入りし、五・六名単位で毎週定期的に開かれる班会議や、ビラ貼りの準備、相互の連絡場所その他東部地区反戦の活動のために使用し、ビラ貼りや各種集会の直前には構成員のほぼ全員が東野田マンシヨンに集合することもしばしばあつたこと、前記一〇号室は昭和四八年一二月一九日、同一八号室は同月二八日をもつて解約明渡したが、前記一一号室だけは東部地区反戦の事務所として使用する趣旨でひきつづき賃借し、昭和五〇年一月にいたるまで左近らの世帯道具や東部地区反戦の備品等の荷物を置き、東部地区反戦の構成員がときたま出入りして使用していたこと、昭和四八年以後とくに同年九月以降中核派と革マル派の対立抗争事件が頻発激化の度を強め、被告人らを含む東部地区反戦の構成員の間では「革マル解体」「革マルせん滅」等のスローガンのもとに革マル派との対立抗争に対処するための話合がしばしばなされ、その対策の一環として、昭和四八年一〇月以後数回にわけて多数の鉄パイプを購入して東野田マンシヨンに搬入し、これらが前記一〇号室又は一一号室に保管されていたこと、昭和四九年二月二二日には東野田マンシヨン近くの、当時秋保親次の居宅のあつた大和ビル内において、木村靖二、平岡常男、秋保親次の三名が革マル派構成員に襲撃されて負傷するという事件(以下「大和マンシヨン襲撃事件」という。)が発生したこと等の事実が認められる。

三  ところで、本件公訴事実(以下本件犯行という。)を立証する直接の証拠としては、本件犯行に共犯者として加わつたとする檜政昭及び越智文和の各検察官に対する供述調書並びに檜政昭の公判廷における供述記載がある。

右両名の公判廷における供述及び右両名の取調に当つた警察官斉藤昭七の証言等を総合すれば、檜及び越智の両名とも、少なくとも右各供述当時の時点においては、いずれも出来る限り往時の記憶をたどる努力をしつつ、その記憶に基づいて任意に供述しているものであることが認められ、本件犯行の経緯、状況に関する供述内容も、共犯者として自らこれに加わつたとする者の供述にふさわしく詳細かつ具体的である。本件犯行における集合の目的が何んであつたかの点については、檜の検察官に対する供述と越智のそれとの間は、後述のとおりかなりの懸隔、齟齬があるものの、革マル派に対する加害目的を有していたとする点では一致しており、その余の点については細部にいたるまで両者がおおむね一致している。さらに、東部地区反戦の主要メンバーが革マル派に襲撃された大和マンシヨン襲撃事件は、ことの性質上本件犯行の動機、契機となるのに十分であると認められるのみならず、当時組織の構成員でかつ右事件現場近辺に居住していた両名にとつては忘れ難い印象を残したシヨツキングな出来事であつたはずのところ、両名はいずれも、本件犯行を右襲撃事件に直接関連附随する出来事として想起、供述している。加えて、檜は、本件犯行当夜その犯行現場である京橋公園前路上において警察官から免許証の提示を求められたことを本件犯行に結びつくとくに印象的な出来事として挙げ、越智も同趣旨の供述をしているところ、本件犯行当夜京橋派出所勤務のパトカー乗務員であつた稲谷厚己は、本件犯行当夜である四九年二月二六日の午後八時ころ京橋公園において学生風の男女四、五名同乗のグロリア様のライトバンについて職務質問のため免許証の提示を求めたことがある事実を証言しており、同人の証言及び小川博の証言によつて認められるその記憶喚起にいたるまでの経緯、記憶の根拠についての説明等に鑑みると、右証言の確度はかなり高いと認められ、前記檜及び越智の供述の有力な裏付証拠ともなつている。

これらのことから考えると、本件犯行の存在を供述する檜及び越智の前記各供述の信ぴよう性には、かなり高いものがあるように思われる。

しかし、一方、関係各証拠を対比総合して仔細に検討すると右両名の前記供述には、以下に述べるとおり、重要な点についてなお多くの疑問が存している。

四  集合の時期の点について、

その日時及び集合の目的の点はしばらく措くとして、本件犯行当夜の出来事であるとして、檜及び越智の両名がそろつて検察官に供述し、また検察官が冒頭陳述及び論告において主張する次のような事実、すなわち、

被告人両名を含む東部地区反戦所属のメンバー一四、五名の者が、そのメンバーの運転する三台の自動車とともに午後八時ころ、本件犯行現場とされる京橋公園に集合し、その際、檜が同公園前路上に自己の運転するニツサングロリアライトバンを停車中、警察官の職務質問に遇つて免許証の提示を求められ、また、メンバーのうち少なくとも左近及び前野某女の二名が同公園そばの京橋派出所内において警察官の職務質問を受けたこと、その後本件犯行現場近くの深夜喫茶店「オールナイト」にメンバーのほぼ全員が集まつたのち、午後一一時ころリーダーの指示によつて解散し、一部の者は東野田マンシヨンのロンシエンアジトに帰り宿泊したこと、当日京橋公園集合前にメンバーのうち多数の者がいつたん東野田マンシヨンのロンシエンアジトに集まり、同アジトから右公園に赴いたものであること、その際メンバーのうち少なくとも幾名かの者は鉄パイプを携行所持していたこと以上のごとき事実(右一連の事実を以下「本件集合」という。)があつたこと自体は、被告人両名自身も当公判廷においてほぼ認めているところであり、檜、越智のほか右集合に参加したとされる左近竹一、越智妙子、三宅次郎の各証人も、ほぼ一致して証言するところであり、右のような事実があつたこと自体は間違いないと認められる。

本件集合のあつた時期について、檜及び越智の検察官に対する供述調書は、いずれも大和マンシヨン襲撃事件のあつた昭和四九年二月二二日の直後であるとし、檜は公判廷においてもその旨強調しているところ、越智は、公判廷においては、捜査段階では時期について大巾な思いちがいをしていたとし、本件集合の時期は昭和四八年秋ごろであつたとして、被告人両名及び前記左近、越智妙子、三宅の各証人もその旨証言している。

前述のとおり、檜及び越智の検察官に対する供述並びに檜の公判廷における証言は、両名にとつて忘れ難い記憶となつているはずの大和マンシヨン襲撃事件を中心にして、これに関連附随する出来事として本件集合のあつた時期を特定しており、しかもその供述する同時期同時刻ころ同場所において同種自動車に対する職務質問をしたことがある旨の稲谷巡査の有力な裏付証言もある等のことに鑑みると本件集合が昭和四九年二月の大和マンシヨン襲撃事件直後であつたとする檜及び越智の前記供述には高い信ぴよう性を認めなければならない筋合ではあるが、以下に述べるような点に鑑みると、両名の右各供述は、本件集合のあつた時期の点について重大な思いちがいをしているのではないかと疑われるふしが多分に存在する。すなわち、

(一)  檜は、公判廷においても捜査段階におけると同様、本件集合のあつた日時を大和マンシヨン襲撃事件のあつた直後であることをくりかえし強調し、その根拠を当時の記憶に関連させて説明しようと真摯に努力していることが認められるところ、同人がその時期に関する記憶の最も大きな根拠としてあげる理由は、大和マンシヨン襲撃事件があつて、東部地区反戦に対する革マル派からの攻撃の危険が現実化した緊迫感の中で、その襲撃にそなえるためにロンシエンアジトの入口ドアに補強工事を施し、また、同アジトの廊下側炊事場窓口に鉄格子を取付けることを依頼され、二部屋分について、自らその寸法を計つて図面を作成したうえ、同業者の友人浜田に注文して二部屋分の鉄格子を製作してもらい、自らこれを同アジトに運んだ記憶があるが、その補強工事をしたちようどそのころに本件集合があつたという記憶がある。大和マンシヨン襲撃事件という緊迫した状態でなかつたら、頼まれても足の出るような補強工事を請負うはづがない。というものであり、また、同人の記憶によると、右補強工事の当時ススキダこと秋保澄子はまだ同アジトに居住しており、鉄格子の製作取付は同女からも頼まれたというのである。

ところで、ロンシエンアジトの三室の炊事場窓口にはいずれも鉄格子が取付けられていたことは、昭和五〇年七月二八日付司法警察員作成の写真撮影報告書、秋保澄子、左近竹一の各証言等により明らかであり、被告人枡田の供述及び左近の証言によると一一号室については入居時すでに先住者によつてとりつけられていたというのであるから、一八号室及び一〇号室に取付けられた鉄格子が、檜の供述するその注文製作にかかるものであつたことは間違いないものと認められるところ、前述のとおり、秋保澄子の居住した一八号室は昭和四八年一二月二八日、一〇号室が同月一九日にすでに解約明渡となつており、明渡後に補強工事を施すことはないと考えられるので、右二室の鉄格子の注文製作がなされたのは、少なくとも右解約明渡前の昭和四八年一二月以前であつたことは明らかである。

当時鉄工所を営んでいた檜がその専門分野に属することとして自ら行なつた補強工事の記憶と結びつけて過去の事実を記憶、想起することは極く自然なことであつて、補強工事の時期と本件集合の時期が同時期であつたとする同人の証言そのものは説得力を有するところであるが、もし、檜が強調するとおり、本件集合が右補強工事の時期と一致するのだとすれば、本件集合のあつた時期は、少なくとも昭和四八年一二月以前であつたことになり、大和マンシヨン襲撃事件による危険の切迫が契機になつて前記補強工事をしたのだとの同人の記憶には明らかに誤りがあることになる。

右の事実に、秋保澄子、左近竹一の証言、被告人両名の供述等を綜合すると、檜が供述する補強工事は、同人が主張するよりもかなり以前、昭和四八年九月以後報復戦と称して革マル派対中核派の内ゲバ事件が頻発激化してきたころ、その内ゲバの危険に対処するためになされたものであると認められる。これらの点に照らすと、檜は、昭和四八年秋頃当時の右内ゲバ事件頻発激化による危険切迫の記憶と、大和マンシヨン襲撃事件による危険切迫の記憶を混同し、その混同した記憶に基づいて供述、証言しているのではないかとうかがわれる面が多分にある。

(二)  檜及び越智の検察官に対する供述調書並びに檜の公判廷における証言は、いずれも、本件犯行のあつた当日の午後七時すぎころからメンバーの者が東野田マンシヨンのロンシエンアジトに集合し、同所において本件犯行の謀議ないしは鉄パイプ所持についての指示がなされたとし、検察官もその旨主張している。

前述のとおり、東部地区反戦では、昭和四七年暮に東野田マンシヨン三階一八号室を、昭和四八年四月末に二階一〇号室を、同年六月末ころには三階一一号室を賃借し、これらをロンシエンアジトと呼称して、メンバーの集合場所、宿泊場所、連絡場所等として使用しており、同年末には一〇号室と一八号室を解約明渡したが、一一号室のみはひきつづきアジトとして使用する趣旨で昭和五〇年一月にいたるまで賃借して使用していたものであり、右一一号室は、本件犯行当時、集合場所、謀議の場所として使用しうる状況にあつたことは確かである。

しかし、被告人両名の当公判廷における供述、証人越智文和、秋保澄子、越智妙子、左近竹一、三宅次郎の証言によると、東部地区反戦においては、革マル派の攻撃や、警察当局による探知の危険が強まつたことから、昭和四九年正月ころ以後においては、アジトを片町の保育所裏の熊田文化住宅に移し、そのころからは東野田マンシヨンをアジトとして使用せず、一一号室は単なる荷物置場として使用し、荷物の取出や家賃納入の折に二、三の者がときたま出入りしていたにすぎず、とくに大和マンシヨン襲撃事件が発生した当日からは、熊田文化住宅を含め、それまで東野田マンシヨン周辺に居住していた者全員に対し、住居変更の指示を出し、それ以後、本件犯行日を含む当分の間は、東野田マンシヨンには全く近寄らず、メンバー間の接触、連絡も、喫茶店等を利用しマンツウマン方式でするようになつていたというのである。

たしかに、日本電信電話公社梅ヶ枝営業所長の回答書によつて認められる一一号室の電話の使用状況(同室の電話はススキダ澄子名義で、同女一家が一八号室居住当時同室に設置されていたものであるが、昭和四八年一二月末同室の明渡とともに一一号室に移設されたものである。)をみると、昭和四八年一一月一六日から一二月一五日までの通話料金が一七一五円(それ以前の各月分もほぼその程度)であり、一二月一六日から昭和四九年一月一五日までの分が三六六二円であるのに対し、昭和四九年一月一六日から二月一四日までの分がわずか三五円と激減し、二月一四日以後は通話停止処分のままとなつている。また、大阪瓦斯株式会社北支社料金課長の回答書、同支社作成の使用履歴一覧表及び証人水林義弘の証言によつて認められる一一号室のガス使用状況についてみると、昭和四八年一一月の検針日から次の検針日である昭和四九年一月四日までの使用量が九二立方メートルであるのに対し、同月五日から次の検針日である三月一日までの分が一三立方メートルと激減し、同日以後は全く使用されていない。さらに、関西電力株式会社扇町営業所料金課長の回答書及び証人佐藤健の証言によつて認められる同室の電気使用量についてみると、昭和四八年一〇月一〇日から一一月九日までの分が三三キロワツト、一一月一〇日から一二月一〇日までの分が七六キロワツト、一二月一一日から昭和四九年一月九日までの分は三一キロワツトであるのに対し、昭和四九年一月一〇日から二月一〇日までの分はわずかに五キロワツト、二月一一日から三月二日までの分はゼロキロワツト、三月二日から三月一〇日までの間は供給停止のままとなつており、これら電話、ガス、電気の使用状況、とくに昭和四九年正月以後いずれもその使用が激減している事実は、同時期以後の一一号室の使用形態のいちじるしい変化を物語るものであつて、このことは一一号室の使用状況に関する被告人両名、証人越智、秋保、左近、三宅らの前記供述の有力な裏付証拠となつている。

いずれにしても、昭和四九年正月以降における一一号室の使用形態には、それまでとは異る急激な変化(使用度の激減)があつたことは明らかであり、特に、本件犯行日を含む昭和四九年二月一四日から三月一〇日までの間の使用電力量がゼロキロワツトと表示されており、また電話も二月一四日以後通話停止となつている状況が注目される。

しかるところ、檜及び越智の検察官に対する供述は、右使用形態の変化については何ら触れられておらず、むしろ、他の記載からあわせ考えると、本件犯行当時も従前と同様の状況、同様の形態のもとでの使用を継続していたことを前提にして当時の状況を供述していることがうかがわれる。ことに檜は、検察官に対しても、また公判廷においても、大和マンシヨン襲撃事件発生の以前はもちろん、その以後においても、ひきつづきロンシエンアジトで従前どおりの毎週一回の定例の班会議が継続されていたとの供述をしているが、前記の事実に照らし、その記憶には明らかな誤りがあるように思われる。また、檜は、本件犯行当夜喫茶店「オールナイト」等からロンシエンアジトに電話してアジトに待機していた者と連絡をとつた旨を検察官に対しても、公判廷においても供述しているのであるが、前述のとおり、昭和四九年二月一四日以後ロンシエンアジトの電話は通話停止になつており、同アジトへの電話連絡が不能であつたことは明らかである。

さらに、注目されるのは、檜及び越智が供述するところによれば、本件犯行当夜は、七時すぎころからロンシエンアジトに集合し、その後も同アジトに残留者が待機し、深夜にいたり一部のメンバーが同アジトに帰つて宿泊したというのであるから、当夜だけでもかなりの電力が消費されたはづであるのに、その日を含む昭和四九年二月一一日から三月二日までの電力使用量が「ゼロ」と測定されていることである。前記関西電力の回答書及び佐藤健の証言によれば、検針測定の際には一キロワツト未満の端数は読みとらないから、使用量の測定が「ゼロ」だからといつて、必ずしもその間の使用が皆無であつたとは断定できない(一キロ未満の電力が使用された可能性がある。)ことが認められるけれども、前回の検針日である二月一〇日の測定の際にも一キロワツト未満の相当数の端数が存在していたとみるのが合理的であり、その端数を加えても三月二日の時点でなお「ゼロ」と測定されたというのであるから、右の事実は、やはり右期間内における電気の使用が全くなかつた事実、すなわち、本件集合の際におけるロンシエンアジトでの集まりが右期間内のものでなかつたことを物語るきわめて有力な事実であるというべきである。

(三)  檜は、公判廷においても基本的には自己の捜査段階における供述の正しいことを説明しようとの証言態度をとりつづけているのであるが、その檜自身証言の随所において断片的にではあるが、たとえば、「昭和四八年末か、昭和四九年初めからぼくらはロンシエンに出入しなくなつた。(第九回公判速記録二〇丁裏)」と言い、大和マンシヨン襲撃事件直後にロンシエンアジトで班会議を開いたとの証言との矛盾を衝かれるや「ちよつと何か記憶違いしているように思います(同二二丁裏)」といつて考え込んだり、あるいは、「東野田マンシヨンは寒くなつてからは使つた記憶がない。勘違いであつた。大和マンシヨン襲撃事件後に東野田マンシヨンで班会議や打合せをしたことはない。思い違いをしていた(第一一回公判速記録六一丁から六二丁)」などと、本件集合の時期について思い違いをしていたことを自認するような証言もしている。

(四)  後述のとおり、本件集合の主要目的は、革マル派に対抗してビラ貼りを実施するということにあり、鉄パイプ所持に革マル派攻撃の加害目的が存していたとしても、その加害の態様は、ビラ貼りの現場で万一革マル派から襲撃をうけた場合に備えるという、偶然的かつ受動的なものであつた可能性が強いと認められるところ、檜、越智、左近、三宅の証言及び被告人両名の当公判廷における供述を総合すると、右のごとき目的、規模、形態をもつたビラ貼りは昭和四八年以後何回もくりかえされ、檜及び越智の両名もしばしばこれに参加していることが認められる。したがつて両名にとつて、本件集合は、その目的、規模、形態の点においては、それまで何度かくり返されて来たビラ貼りのための集合と格別異なるところのないいわば日常的な出来事であり、しかも心配していた革マル派との衝突もなく、警察官の職務質問も無事に切り抜け、結局において平穏裡に終始した出来事であつてみれば、もともと、長期間にわたり、その時期をも忘れ難いものとするほどの格別の印象を残すような大きな出来事としての記憶にはなつていなかつたと思われる。本件集合の際における公園内での職務質問及び同志の交番への連行、喫茶店オールナイトへの集合、ビラ貼りの目的を果さずの解散等の出来事は、特異なものではあるが、右のごとき事情に鑑みると、これらの記憶とても、長期間経過後になつてその時期を明確に特定させるよすがとしての記憶とはなかなかなりにくいものと思われる。

檜が逮捕されたのは昭和五〇年七月、越智が逮捕されたのは同年八月であつて、昭和四八年秋ごろから数えるとすでに二年近く、大和マンシヨン襲撃事件から数えても一年半近くもの時日を経過していたことをあわせ考えると、当時すでに中核派の組織から離れその活動から身を引いていた両名が、本件集合の状況及びその時期について果してどの程度鮮明確実な記憶を持つていたかかなり疑問である。なお、もし、本件集合が昭和四八年秋頃のことであつたとすれば、当時は前述のとおり革マル派と中核の内ゲバ事件が頻発激化していた時期であり、両名にとつて革マル派からの攻撃に対する危機感緊迫感は、大和マンシヨン襲撃事件直後のそれに勝るとも劣らない状況にあつたと推測される。

これらのことをあわせ考えると、檜及び越智の両名は、捜査官の示唆的発言を伴う追及をうけて、昭和四八年秋頃当時の緊迫した状況と大和マンシヨン襲撃事件直後の緊迫した状況とをたやすく誤認混同し、昭和四八年秋頃の本件集合を大和マンシヨン襲撃事件直後のものと誤認して想起供述することは充分あり得ることである。越智も公判廷においてその趣旨の証言をしている。

(五)  以上の諸点等に鑑みると、マンシヨン襲撃事件直後に本件集合がなされたとする檜及び越智の検察官に対する各供述並びに檜の公判廷における証言は、その時期の点において大巾な思い違いをしていた(昭和四八年秋頃にあつた本件集合を昭和四九年二月末ころのものと誤認していた)のではないかとの疑いを禁じ得ない。

前述のとおり、稲谷巡査の証言の信ぴよう性も高く、同巡査が昭和四九年二月二六日に京橋公園前路上で職務質問をしたとする自動車が、本件集合の際に檜が運転していたその自動車であつた蓋然性もきわめて強いのではあるが、同巡査自身その後一年半近く経過した昭和五〇年七月中旬にいたり本件の裏付捜査にあたる警察官からの照会があつて、あらためて想い出したというものであり、パトカー勤務員として当時もその後も無数の自動車について同様の職務質問をくりかえしてきた同証人が、格別のトラブルもなく終了して記録も何ら残していない右職務質問の際の状況を自動車の形式、同乗車者の状況等の細部にいたるまでありありと正確に想起できたのかどうか疑問なしとしない。稲谷証人がいうように、大和マンシヨン襲撃事件という異常な事件が近くで発生した直後の警戒であつたので、学生風の不審者が多数同乗していた自動車が特に印象に残つていた、そして相勤の香川巡査も同様だつたというのであれば、当日の右自動車に対する職務質問も免許証の提示を求めるだけにとどまらず、もう少し突つこんだ質問もあつてしかるべきではなかつたかとも思われる。また、右自動車が檜が運転する自動車であり、本件集合がその当日になされたものだつたとすれば、当夜同所附近において左近ら東部地区反戦の者少なくとも二名が不審者として京橋派出所に同行されて同派出所内において職務質問をうけているはづであり、加えて、当時大和マンシヨン襲撃事件直後の警戒として格別な意識を持つて警戒に当たり、前記自動車に対する職務質問のごときにいたるまで印象に残るような状況があつたのだとすれば、それよりもさらに異常な事態であつたはづである右左近らの京橋派出所への同行、職務質問の事実を記憶している警察官が一人ぐらいあつても良さそうなものであるが、証人小川博、同北野耕成の証言によると懸命な探索による裏付捜査にもかかわらず、そのような事実を記憶している警察官はついに居なかつたことが認められる。これらの点に照らすと、稲谷巡査が行なつた職務質問にかかる自動車も、本件とは無関係の他の車両であつた可能性もあり、稲谷証人の証言も、いまだ本件集合の時期についての前述の疑問を解消するに足りない。

五  集合の目的の点について

検察官は、被告人両名を含む東部地区反戦の者は、当日東野田マンシヨンのロンシエンアジトにおける謀議において、革マル派による大和マンシヨン襲撃事件に対する報復として革マル派に対し先制攻撃を加えることが決定され、これを実行する目的で京橋公園に集合したものだと主張するところ、越智の検察官に対する供述調書にはその旨の記載がある。しかし、右記載は、検察官が本件犯行を立証するもうひとつの基本的証拠としているところの檜の検察官に対する供述調書のそれと大巾な対立矛盾を示しているのみならず、その謀議の内容に関する記載も「その日の会議における具体的内容についてかなり前のことで記憶が薄れている。要するに革マルをやつつけに行くという結論であつた。」というのみであり「攻撃の目標である相手方の氏名や場所は何も明らかにされていなかつた。」というものであつて、きわめて抽象的な内容にとどまつている。攻撃目標が明らかにされなかつた理由として「行動の具体的内容について事前に明らかにされないのがそれまでの東部地区反戦の普通のやり方であつた。」と、それなりに納得的な説明が加えられてはいるが、重大な危険が確実に予想される報復戦としての先制攻撃を実行するのだとしたら、これに加わる者全員について、もう少し慎重細心な準備、打合せ、事前注意等があつてしかるべきのように思われ、かかる報復戦実行直前の謀議の状況、内容に関する記述としては、あまりにも抽象的、あいまい、漠然としたものであつて、不自然にすぎるように思われる(このことは越智の検察官に対する供述調書全体の信ぴよう性を弱めている。)

これに対し、檜の検察官に対する供述調書は、「当日の集合の目的は、ビラ貼りにあつた。」とし、ビラや糊の入つた袋を持つて出発した状況も述べ、その際幾人かの者が鉄パイプを所持した理由は、「当時の状勢からみて革マル派が攻撃を加えて来るおそれがあつたので、その際にはこれを迎えうつため」であつたとしており、その記述は、越智のそれに比べ、はるかに具体的で説得力がある(檜の右供述調書中には、「私自身はその日の集りにやや遅れて出席したので、あるいは幹部の方では革マル派のアジトを襲撃する意図であつたかもしれないが、私は聞いてない。」と、あたかも越智の供述と一致するかのような記載もあるが、右はあくまでも幹部の内心をあて推量したものにすぎず、全体としては、越智の前記供述を否定する内容のものであることは明らかである。)。

檜は、公判廷においても、本件集合の目的がビラ貼りにあつたことを強調しており、越智もまた公判廷においては「捜査段階当時も本件集合はビラ貼りを目的としたものだつたという記憶が強く、報復のための革マル派アジト攻撃という印象はなかつたのだが、捜査官にそのように言われて、そのときはなんとなくそんな気がしてそれを認めた。」として検察官に対する前記供述の真実性を強く否定する証言をしている。

これらのことに照らすと、本件集合の目的が、革マル派に対する報復戦として先制攻撃をかけることにあつたとする検察官の主張を基礎づける唯一の証拠ともいうべき越智の前記供述には、たやすく信を措くことが出来ない。本件集合の目的は、檜がいうようにビラ貼りにあつたとみるべきである。

もつとも、檜自身、検察官に対し「ビラ貼りの際にもし革マル派が攻撃を加えて来たらこれを迎えうち、逆に相手に攻撃を加えるために鉄パイプを準備した。」と述べ、迎撃による能動的な加害目的の存在を認める供述をしており相手方からの攻撃の蓋然性が高い場合には、かかる迎撃による加害目的も兇器準備集合罪にいうところの加害目的を構成しうるものではあるが、本件において検察官が主張している加害目的とはその態様において大巾に懸隔するのみならず、移動しながら実施するビラ貼りの現場において革マル派の攻撃に遭遇する可能性は全く偶然的なものであつて蓋然性はむしろ低いと認められ、また檜は公判廷においては「鉄パイプを準備したのは、ビラを貼つているときに革マル派から攻撃を受けた場合に備えてその攻撃から身を守りビラ貼りを完遂するためであつた。」とむしろ受動的、防衛的な面を強調し、積極的な迎撃による加害目的の存在を否定する趣旨の証言をしており、加えて、本件集合の目的の点については、本件の基本的証拠と目される越智と檜の両供述の間に当初から根本的な対立矛盾があつて、もともと事実を確定し難い面もあること等の事情をあわせ考えると、本件集合における鉄パイプ準備の目的は、万一の場合に備えてのむしろ受動的防衛的な色彩の強いものであつたと見る余地も多分にあるといわなければならず、檜の検察官に対する前記供述をもつて、本件公訴事実記載の加害目的を認定するのは相当でないと思料される。

六  以上指摘のごとき疑問点が存する以上、本件公訴事実はいまだ証明不十分であつて、犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人両名についていずれも無罪の言渡をすることとする。

(裁判官 渡辺忠嗣)

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